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上方落語
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'''上方落語'''(かみがたらくご)とは、[[大阪府|大阪]]・[[京都府|京都]]を中心とする地域で主に演じられる[[落語]]。 == 「上方落語」の語源 == 「上方落語」という言葉は、[[花月亭九里丸]]著書の『寄席楽屋事典』によると、[[1932年]](昭和7年)[[7月1日]]発行の雑誌『上方』十九号で初めて使われた。それまでは「大阪落語」、「京都落語」と呼ばれていた。現在では京都落語が系譜上は衰えてしまったので、大阪落語のことを指して上方落語と呼んでいる。 == 歴史 == === 江戸時代まで === [[江戸時代]]中期に、京都の'''[[露の五郎兵衛#初代|初代露の五郎兵衛]]'''や大阪の'''[[米沢彦八#初代|初代米沢彦八]]'''が道端に舞台を設け、自作の噺を披露して銭を稼いだ「辻咄」(つじばなし)や「[[軽口]]」(かるくち)が落語の起源といわれている。[[寛政]]から[[文化 (元号)|文化]]にかけては[[浄瑠璃]]作家から転じた芝屋芝艘や、京都から大阪へ下って御霊などの社地で噺を演じた[[松田彌助]]が台頭。彌助一門には松田彌七、2代目松田彌助や「桂一門の祖」[[桂文治 (初代)|初代桂文治]]がおり、とりわけ初代文治は大阪で初めて寄席を開き、また声色鳴物道具入りの芝居話を創始したことで知られる。文治は3代目、4代目と東西に並立するが、上方4代目の弟子である[[桂文枝#初代|桂文枝]]は文治を継がず、以来上方桂一門は文枝を止め名とした。初代文枝は「三十石」などで人気を博し、その門下の初代桂文之助(のち[[曽呂利新左衛門#二世 曽呂利 新左衛門|2代目曽呂利新左衛門]])、2代目桂文都(のち[[月亭文都 (2代目)|2代目月亭文都]])、初代桂文三(のち2代目桂文枝、晩年[[桂文左衛門]])、[[桂文團治#初代|初代桂文團治]]も人気・実力ともに高く、「四天王」と称された。 桂一門と並んで現代の上方落語の主力門派を成す[[松鶴一門|笑福亭一門]]は、始祖とされる[[松富久亭松竹]]の詳細が明らかでないが、[[天保]]~[[安永]]期には既に成立しており、この両門派に[[立川三光|立川]]、[[林家正三|林屋(林家)]]を加えた4門派が[[明治]]期までの上方落語の主流を形成していた。上方林屋一門は江戸の[[林家正蔵#初代|初代林屋正蔵]]の孫弟子に当たる[[林家正三#初代|初代林屋正三]]が故郷[[岡山]]に近い大阪に腰を据えたのが発端で、[[明治維新]]前後の時期までは最大勢力であったが、やがて桂一門に取って代わられていく。 === 明治時代 === 明治期に入ると、2代目文枝襲名をきっかけに四天王は割れ、2代目文枝らを中心に滋味で噺をじっくりと聞かせる「[[桂派]]」と、文都、2代目文團治(のち[[桂文治 (7代目)|7代目桂文治]])、[[笑福亭福松#初代|初代笑福亭福松]]、[[笑福亭松鶴#3代目|3代目笑福亭松鶴]]らを核とする派手で陽気な「[[三友派]]」が鼎立。 この他諸派がたくさん出来ては消えつつも、2代目文團治の7代目文治襲名前後に全盛期を迎えた。この間、大阪では[[桂文三 (3代目)|3代目桂文三]]、[[露の五郎#初代|初代露の五郎]]、[[桂文團治#3代目|3代目桂文團治]]、[[林家染丸#2代目|2代目林家染丸]]、[[桂枝雀#初代|初代桂枝雀]]、[[桂ざこば (初代)|初代桂ざこば]]などの名人上手を輩出。[[京都]]では2代目曾呂利新左衛門、[[桂文之助#上方|2代目桂文之助]]、[[桂枝太郎#初代|初代桂枝太郎]]が活躍した。また東京から[[橘ノ圓 (初代)|初代橘ノ圓]]、[[三遊亭圓馬#2代目|2代目三遊亭圓馬]]、[[翁家さん馬#5代目|5代目翁家さん馬]]らが移住し、寄席を盛り上げた。 === 大正から昭和初期まで === [[大正]]から[[昭和]]初期にかけては[[桂春団治|初代桂春團治]]、[[桂三木助 (2代目)|2代目桂三木助]]、[[三遊亭圓馬#3代目|3代目三遊亭圓馬]]、[[立花家花橘#2代目|2代目立花家花橘]]、[[桂小春団治#初代|初代桂小春團治]](のち舞踊に転じ[[花柳芳兵衛]])らが人気を集めたが、やがて[[横山エンタツ]]・[[花菱アチャコ]]などの新興の[[漫才]]の人気や[[吉本興業|吉本興行部]]による定席の寄席や諸派の買収、看板落語家の相次ぐ他界もあって衰亡の危機にさらされた。 この原因としては、落語家同志の内部抗争でまとまりが無かったこと、漫才がニュース性のある新しい笑いを創造(エンタツ・アチャコがラジオの大学野球の中継から『早慶戦』を作ったのが好例)したのに対し、旧態依然の古い芸に安住してファンが離れ、吉本興行部(なかんずく[[林正之助]])に商品の価値が無いと見なされたことなどがある。そのなかで、唯一、新しい笑いを提供し多くのファンを獲得したのが初代春團治であった。レコードという新しいメデイアをフルに用い、ギャグ満載のナンセンスな演出は今日の上方落語に大きな影響を与えた。だが、いかんせん孤軍奮闘の感を禁じ得ず、春團治の死によって上方落語はその王座を漫才に譲ったと見られていた。 この危機にあって[[笑福亭松鶴 (5代目)|5代目笑福亭松鶴]]、[[桂米團治 (4代目)|4代目桂米團治]]らは「楽語荘」というグループを結成し、落語会「上方はなしを聞く会」の運営や雑誌『上方はなし』の発行などを通じて上方落語の保存・継承に尽力した。 戦時中は漫才師、漫談家は[[わらわし隊]]などの慰問団で中国などに派遣される中落語家は慰問先で座って演じるのは酷なので呼ばれず、その間は比較的空襲の少なかった神戸や京都などで富裕層や芸者などの客相手に落語会を開いて人気を呼んでいた。 === 太平洋戦争後~昭和30年代 === [[太平洋戦争]]終結後の数年間、5代目松鶴、4代目米團治、2代目花橘、[[桂春団治 (2代目)|2代目桂春團治]]らは大阪[[ミナミ]]の「[[戎橋松竹]]」や京都・[[新京極]]の「[[富貴 (寄席)|富貴]]」といった新興の演芸場を拠点としつつ、関西各地でも落語会を開き、新人の育成にも力を注いだ。だがこれらの大看板は昭和20年代に相次いで亡くなり、「上方落語は滅亡した」との声があがるなど、どん底の時期を迎えた。 そんな中、[[林家染丸#3代目|3代目林家染丸]]を中心に[[笑福亭松鶴 (6代目)|6代目笑福亭松鶴]](5代目松鶴の子)、[[桂米朝 (3代目)|3代目桂米朝]]、[[桂春団治 (3代目)|3代目桂春團治]](2代目春團治の子)、<!-- 昭和30年代までに襲名していないので -->3代目桂小文枝(のち[[桂文枝 (5代目)|5代目桂文枝]])らによる復興の烽火があがる。松鶴らは「さえずり会」というサークルを結成、「[[戎松日曜会]]」「[[宝塚落語会]]」「[[落語新人会]]」などの若手勉強会への参加や、初代[[橘ノ圓都]]、[[笑福亭福松#3代目|3代目笑福亭福松]]、[[桂右之助]]、[[桂文團治#4代目|4代目桂文團治]]、初代[[桂南天]]、[[桂文蝶]]、2代目[[三升紋三郎]]ら引退同然だった古老に噺の伝授を乞うなど、精力的に活動した。古老の中でも圓都は持ちネタ数が飛びぬけて多く、上方のみならず東京の噺家にも積極的に稽古をつけるなど古典落語の継承に努め、晩年は高座に復帰し[[1972年]](昭和47年)に没するまで、明治の上方落語を最後まで残した。また、東京の[[桂文楽 (8代目)|8代目桂文楽]]、[[三遊亭金馬 (3代目)|3代目三遊亭金馬]]、[[桂小文治 (2代目)|2代目桂小文治]]、[[三遊亭百生#2代目|2代目三遊亭百生]]らの落語家もさまざまな形で上方落語の復興に助力し、中でも大阪生まれの小文治、百生は東京の観客に上方落語を紹介するなど大きな功績をあげた。 一方、[[1951年]](昭和26年)[[9月1日]]の[[毎日放送|新日本放送]]開局に始まる民間放送ブームの中で、[[日本放送協会|NHK]]を含めた各放送局は内容の充実を図って「コンテンツとしての上方落語」と「タレントとしての落語家」に着目。番組と連動した落語会の主催や、専属タレントとして落語家と契約を交わすなどした。米朝や[[森乃福郎#初代|初代森乃福郎]]らがこの流れに乗って知名度を上げたが、これは上方落語界にもプラスに働いた。とりわけNHKと[[朝日放送]]は積極的で、NHKは[[心斎橋]]の[[心斎橋筋2丁目劇場|日立ホール]]を拠点に「放送演芸会」と連携した「上方落語の会」を開催。朝日放送も「ABC[[上方落語をきく会]]」を主催し、のちには「ABCヤングリクエスト」内に「ミッドナイト寄席」というコーナーを設けて「上方落語をきく会」での演目を放送した。 そのような中で[[1959年]](昭和34年)に3代目桂春團治、[[1962年]](昭和37年)に6代目笑福亭松鶴と大名跡が相次いで復活。この二人とほぼ同時期に入門した2代目桂小春団治(のち2代目露の五郎→[[露の五郎兵衛#2代目|2代目露の五郎兵衛]])、[[笑福亭松之助|2代目笑福亭松之助]]、[[桂文我 (3代目)|3代目桂文我]]、戦前入門ながら彼らとは同世代の3代目林家染丸のほか、[[林家染語楼 (3代目)|3代目林家染語楼]]、昭和30年代前半入門組の[[桂文紅 (4代目)|4代目桂文紅]]、[[桂米紫#3代目|3代目桂米紫]]、[[月亭可朝]]などの中堅も力をつけてくるなど、落語家の人数も着実に増え始めた。そして分裂していた上方落語は[[1957年]](昭和32年)、[[上方落語協会]]を結成して一つにまとまり(初代会長3代目染丸)、奇蹟的な復興へと向かっていった。 === 昭和40年代~昭和末 === 昭和40年代に入ると、松鶴、米朝、春團治、3代目小文枝らが積極的に採り続けてきた弟子たちが、テレビ時代・深夜放送ブームを背景に台頭。可朝、[[笑福亭仁鶴 (3代目)|笑福亭仁鶴]]、桂三枝(現在の[[桂文枝 (6代目)|6代目桂文枝]])、[[笑福亭鶴光]]、[[桂春蝶 (2代目)|2代目桂春蝶]]、[[笑福亭鶴瓶]]、桂朝丸(現在の[[桂ざこば (2代目)|2代目桂ざこば]])らが注目を浴びる。とくに仁鶴は、初代桂春團治を意識した爆笑落語で人気を集め、[[1972年]](昭和45年)には、テレビラジオのレギュラー番組にひっぱりだこで、一躍スターダムにのしあがった。松鶴ら師匠連は、若手のマスコミ進出を上方落語を広く認知してもらう最良の手段として容認しており、結果入門者が増加するなどし、その意味でも仁鶴の功績は大きい。 ラジオによる寄席中継が、従来の漫才や東京落語から、上方落語中心になったのもこのころで、[[1971年]](昭和46年)10月には朝日放送が開局20周年を記念して「[[1080分落語会]]」を開催。朝7時から深夜1時まで計56席([[講談]]1席含む)が生放送で流された。ほか[[大阪放送|ラジオ大阪]]の「オンワード落語百選」、[[エフエム大阪|FM大阪]]の「上方FM寄席」などが、若者を中心に多くのファンを開拓した。 ー方では[[1966年]](昭和41年)の「米朝スポットショー」を皮切りに、大ホールでの独演会が行なわれるようになり、特に米朝は放送タレントとしての知名度のフォローもあって独演会や一門会を展開。文枝も「小文枝の会」に集うファンと一体となった独演会を東阪で開催した。当時東京では大学生を中心に上方落語ファンが増えており、やがてこのムーブメントは全国的に広がっていった。この頃から松鶴、米朝、春團治、文枝に対する評価は高まり、やがて彼らは「'''上方落語の四天王'''」と呼ばれるようになっていく。 落語人気とともに、戦前は「天狗連」と呼ばれた素人落語のサークルも次々と生まれたが、特に大学生から成る「落語研究会」が最もさかんであった。ここから多くの俊才がプロの門をくぐって、現在の上方落語界を支えている。 [[1986年]](昭和61年)、戦後の上方落語を牽引してきた6代目松鶴が他界する。前後して[[桂枝雀 (2代目)|2代目桂枝雀]]が台頭し、いわゆる「MANZAIブーム」の渦中にありながら、のちに「爆笑王」と呼ばれる程の人気を築く。ここに至って上方落語は復興期を終え、次の時代へ向かうこととなる。 === 平成期 === 平成に入っても、落語、漫才などいわゆる「お笑い(芸)」に対する世間の関心は下がらなかったが、「MANZAIブーム」以降、お笑いの主舞台は寄席から放送メディアに移る。その反面演芸番組は減少し、有力落語家のバラエティ番組への起用が相次いだ。この結果、落語家は「[[お笑い芸人]]」という抽象的名称の下に漫才師・漫談家・コント芸人と観客・視聴者レベルでボーダーレスとなり、落語の独自性を示す機会は狭まっていった。放送タレントとしてのお笑い芸人(実質上は漫才・漫談・コント。ただし彼らとて放送メディアで本来の芸を披露する機会は少ない)を希望する人材は多いものの、具体的に落語の世界に入る者は、昭和40年代に比べると少なくなっている。 これは東西とも同様の現象であるが、上方落語においては1999年(平成11年)に2代目枝雀が早世した影響も大きい。カリスマ性を持った人気者だった枝雀の穴は、容易に埋められるものではなかった。また、笑福亭松葉(追贈[[笑福亭松鶴 (7代目)|7代目笑福亭松鶴]])、[[桂歌之助 (2代目)|2代目桂歌之助]]、[[桂喜丸]]、[[林家染語楼 (4代目)|4代目林家染語楼]]、[[桂吉朝]]といった、将来を嘱望されていた戦後生まれの落語家の相次ぐ他界も痛手であった。そのような中、笑福亭鶴瓶らによる「[[六人の会]]」の活動や、[[桂文我 (4代目)|4代目桂文我]]による古典の発掘作業、[[桂小春団治 (3代目)|3代目桂小春團治]]や[[笑福亭鶴笑]]らの海外公演(マペット落語)といった新たな動きもある。 また、元来お笑い芸人ないしお笑いタレントとしてテレビ等で活躍していた芸人が、芸人の飽和状態の中で自己の新しい芸をつけようと、落語を新たに始める例がある。多くは諸芸の一つとして落語を嗜んでいる程度に過ぎないが、山崎邦正([[月亭方正]])のように協会に加盟して本格的に落語を始める者、更に一歩進み、後藤征平([[月亭太遊]])や[[桂三度|渡辺鐘]](桂三度)のように従来のキャリアを捨てて落語家の道を選ぶ者も出はじめている。 2004年以降は、東京との交流が密接になった。「六人の会」主催の「大銀座落語祭」に参加する上方落語家が2008年現在114人にまで達し、東西落語家の親睦交流が深まる一方で、[[深川江戸資料館]]、[[お江戸日本橋亭]]、[[国立演芸場]]、[[よしもと浅草花月]]などの主な演芸場における上方落語家出演も増えるなど、東京の落語愛好家にも上方落語が受け入れられている<ref>「[[読売新聞]]」夕刊2008年8月15日</ref>。さらに、[[笑福亭鶴光]]のように[[落語芸術協会]]に加盟し、東京で弟子をとり上方落語の普及を目指すものもいる。 2006年9月15日には、上方落語協会によって戦後初の上方落語専門定席「[[天満天神繁昌亭]]」(後述)が開設され、これが大阪の観光名所の一つとして全国的に紹介されるに及んで当初の予想をはるかに上回る入場人員数を得続けている。また2007年10月から翌年3月まで放送された、上方女流落語家の半生を描いた[[日本放送協会|NHK]][[連続テレビ小説]]「[[ちりとてちん (テレビドラマ)|ちりとてちん]]」は関西を中心にマニアックな人気を博し、ドラマを見て上方落語に興味を覚えたという世代も現れた。ドラマ中で主人公の兄弟子役として出演した[[桂吉弥]]の落語会は放送以降、常に大入りの人気となっている。 2007年以降は、長く途絶えていた大[[名跡]]や著名な名跡が相次いで襲名され復活。2007年には桂歌々志が師匠の名跡である[[桂歌之助 (3代目)|3代目桂歌之助]]を、[[2008年]]には3代目桂小米朝が半世紀ぶりに[[桂米團治 (5代目)|5代目米團治]]を、[[2009年]]には桂春菜が[[桂春蝶 (3代目)|3代目桂春蝶]]を、2010年には[[笑福亭小つる]]が[[笑福亭枝鶴 (6代目)|6代目]][[笑福亭枝鶴]]、[[桂つく枝]]が5代目[[桂文三]]、[[桂都丸]]が4代目[[桂塩鯛]]および都丸の弟子たちが4代目[[桂米紫]]・2代目[[桂鯛蔵]]を襲名。2011年以降も、[[桂こごろう]]が2代目[[桂南天]]を、[[月亭文都 (7代目)|月亭八天]]が7代目[[月亭文都 (7代目)|月亭文都]]を襲名、そして2012年には桂三枝が、桂一門の宗家名跡でもある6代目[[桂文枝]]を襲名した。ただし、この傾向については4代目桂文我からの批判もある<ref>『桂文紅日記 若き飢エーテルの悩み』(青蛙房)あとがきより</ref>。 == 江戸落語との違い == === 言葉 === 主に[[関西弁|上方言葉]]を用いるため、[[近畿地方|近畿圏]]外出身者がその会得に苦労する点でもある。噺の登場人物によって、[[京言葉]]や[[大阪弁|大阪言葉]]などを使い分ける。また近年は、自身の出身地に由来する方言([[紀州弁|和歌山弁]]など)で演じる落語家もいる。 江戸落語では[[上方]]の言葉を話す人物が多く出るが(例「御神酒徳利」「金明竹」「三十石」「祇園会」)、上方落語では[[江戸言葉]]はあまり出ない。「[[ざこ八]]」や「[[江戸荒物]]」くらいである。戦前までは言葉や芸風の違いで、上方落語は東京の客層には受け入れられなかったが、戦後[[マスメディア|マスコミ]]の発達で大阪の言葉が東京にも浸透し、2代目桂小文治、2代目三遊亭百生ら在京の上方落語家の努力や前述の「上方落語の四天王」の活躍で、東京でもさかんに聴ける様になった。 === 演目 === 古典落語については、[[柳家小さん (3代目)|3代目柳家小さん]]らによって多くの[[上方]]の噺が東京に移植され、逆に東京から上方に移植された噺もある。そのため、同じ内容でも上方落語と江戸(東京)落語で題名が異なる噺や、「[[まんじゅうこわい|饅頭こわい]]」のように中身まで異なる噺もある。ただし片方にしかない噺については、東西交流の進んだ太平洋戦争後はこの限りではない。 *'''江戸→上方''':「[[酢豆腐]]」(上方では「[[酢豆腐|ちりとてちん]]」)、「[[花見の仇討]]」(同「[[桜の宮]]」)、「[[反魂香 (落語)|反魂香]]」(同「[[高尾]]」)、「[[締めこみ]]」(同「[[盗人の仲裁]]」)、「[[唐茄子屋政談]]」(同「[[南京屋政談]]」または「なんきん政談」)、「[[芝浜]]」(同「[[夢の革財布]]」)など。 *'''上方→江戸''':「[[らくだ (落語)|らくだ]]」、「[[二番煎じ (落語)|二番煎じ]]」、「[[かぜうどん]]」(東京では「[[うどん屋(落語)|うどん屋]]」)、「[[猫の災難]]」、「[[二階ぞめき]]」、「[[碁どろ]]」、「[[不動坊]]」、「[[高砂や]]」、「[[青菜]]」、「[[みかん屋]]」(同「[[かぼちゃ屋]]」)、「[[時うどん]]」(同「[[時そば]]」)、「[[三十石]]」、「[[貧乏花見]]」(同「[[長屋の花見]]」)、「[[子ほめ]]」、「[[牛ほめ]]」、「[[地獄八景亡者戯]]」(同「[[地獄めぐり]]」)、「[[宿屋仇]]」(同「[[宿屋の仇討]]」)、「[[高津の富]]」(同「[[宿屋の富]]」)、「[[いらちの愛宕詣り]]」(同「[[堀の内]]」)、「[[鴻池の犬]]」(同「[[大どこの犬]]」)、「[[菊江仏壇]]」(同「[[白ざつま]]」)、「[[けんげしゃ茶屋]]」(同「[[かつぎ茶屋]]」)、「[[米揚げ笊]]」(同「[[ざる屋]]」)、「[[借家借り]]」(同「[[小言幸兵衛]]」)、「[[立ち切れ線香]]」(同「[[たちきり]]」)、「[[佐々木裁き]]」(同「[[佐々木政談]]」「[[池田大助]]」)、「[[高倉狐]]」(同「[[王子の狐]]」)、「[[百人坊主]]」(同「[[大山詣り]]」)、「[[寝床]]」、「[[近日息子]]」、「[[饅頭こわい]]」、「[[景清 (落語)|景清]]」、「[[笠碁]]」、「[[三枚起請]]」、「[[仔猫]]」、「[[百年目]]」など。 *'''上方のみ''':「[[池田の猪買い]]」、「[[冬の遊び]]」、「[[算段の平兵衛]]」、「[[莨の火]]」、「[[土橋万歳]]」、「[[有馬小便]]」、「[[日和違い]]」、「[[欲の熊鷹]]」など。 *'''江戸のみ''':「[[三軒長屋]]」、「[[黄金餅]]」、「[[大工調べ]]」、「[[佃祭り]]」、「[[よかちょろ]]」、「[[五人廻し]]」など。 {{Main|古典落語}} ==== 旅ネタ ==== 上方落語の中心をなす「旅ネタ」は、「東の旅」「西の旅」「南の旅」「北の旅」の四つに分かれる。入門したての落語家は、一門によっては口馴らしとして「発端」を教わるが、「東の旅」の「三十石」のようにかなりの技量を要するネタもある。 *'''[[東の旅]]''':本題「[[伊勢参宮神乃賑]]」。「発端」、「[[煮売屋]]」、「[[七度狐]]」、「[[軽業]]」、「[[三人旅]]」、「[[運つく酒]]」、「[[矢橋舟]]」、「[[宿屋町]]」「[[こぶ弁慶]]」、「三十石」などで構成される。[[伊勢神宮]]参詣の道中を主題とする。 *'''西の旅''':「[[明石名所]]」、「[[兵庫船]]」(「兵庫渡海鱶魅入」)。[[金刀比羅宮]]参詣が主題。 *'''南の旅''':「[[紀州飛脚]]」 *'''北の旅''':「[[池田の猪買い]]」 このほかの旅ネタには、冥土の旅に「[[地獄八景亡者戯]]」、海底の旅に「[[小倉船]]」(「竜宮界竜の都」)、天空の旅に「[[月宮殿星の都]]」、異国の旅に「[[島巡り]]」(「島巡り大人の屁」)があり、いずれも、奇想天外な内容ではめものを用いた派手な演出が見られる。 ==== 人情噺 ==== 落とし噺(狭義の落語)と並んで江戸落語の軸を成す[[人情噺]](狭義の人情噺。内容が[[講談]]に近く、[[落ち|サゲ]]がない。「[[牡丹灯籠]]」、「[[文七元結]]」、「[[真景累ヶ淵]]」など)は、上方落語には存在しないと言ってよい。広い意味での人情噺に含まれるとされる「[[立ち切れ線香]]」、「ざこ八」、「[[大丸屋騒動]]」などは落とし噺である。ただし、「鬼あざみ」のように例外的にサゲがつかないネタもある([[講釈]]から移植されたものなど)。この差異に関して「上方では浄瑠璃<!-- 人形浄瑠璃だけを指しているとは限らないので、「浄瑠璃(文楽)」とするのはあまり適切ではない -->が確固たる地位を築いていたので、落語が人情噺を受け持つ必然性が薄かったからだろう」と桂米朝は述べている。 東西交流の進む現代では、人情噺を上方風の演出で口演する落語家がいるので「上方には人情噺はない(少ない)」という原則も崩れつつあるが、総体的には上方の演目は落とし噺が中心である。 ==== 芝居噺 ==== 歌舞伎をテーマにした上方落語には 1. 歌舞伎の芝居をそのままに演じるやり方:「加賀見山」「本能寺」「自来也」「綱七」 サゲ:普通のサゲが用いられる場合と、幕切れのあと、「やあれ、日本一だっせ。日本一」「やかましなあ。あんさん。日本一って言うてんと、成駒屋、葉村屋言うて誉めなはれ」「いいえな。わたい、日本橋一丁目の薬屋の者だすねやが、ここで店の宣伝しょう思いまして。やあれ、日本一!」すると小屋の若いもんが来て「こら。日本一の薬屋ておのれかい」「へえ」「こっちへこい」「もうし、何しなはんねん!」「二三丁ほど振り出したるんじゃ」とサゲるパターンとがある。 2. 普通の落語から芝居になるやり方:「昆布巻芝居」「蛸芝居」「蔵丁稚」「質屋芝居」「足あがり」「七段目」(登場人物が芝居好きで俄で演じ出すという仕立てになっているものが殆ど) サゲ:ここでは普通のサゲである。 の2種類に分別される。 江戸の芝居噺の演出は人情噺の途中から一転、衣装を引き抜き背景に書割を設けるが、上方はそのような演出は用いない。明治期に初代桂文我、昭和に入って初代桂小春團治、東京に移った桂小文治などが得意としていたが、上方落語や上方歌舞伎の衰退などが原因で、現在ではその殆ど(特に1. のやり方)が絶滅している。ただ、初代小春團治が花柳芳兵衛として舞踊家に転じたのち、芸の伝承のためNHKに幾つかのネタを映像として収録させており、現在、桂米朝らがそれを元に「本能寺」や「そってん芝居」などの復活を試みている。 ==== 新作落語 ==== 昭和に入っていくつかの[[新作落語]]が東西の落語界で作られたが、上方では4代目桂米團治作「[[代書]]」(「代書屋」とも)、3代目桂米朝作「[[一文笛]]」、3代目[[林家染語楼]]作「[[青空散髪]]」、[[三田純市]]作「[[まめだ]]」などが古典の範疇になっており、一部の演目は東京でも演じられている。現在は、[[桂文枝 (6代目)|桂三枝(現・6代目文枝)]](「妻の旅行」、「鯛」、「[[ゴルフ夜明け前]]」などを創作)を中心に「[[創作落語]]」の名でさかんに作られている。 [[小佐田定雄]]一門のように専業の落語作家が存在するのも特徴である。[[笑福亭松之助|2代目笑福亭松之助]]は「明石光司」、4代目[[桂文紅]]は「青井竿竹」の筆名で、新作を手がけていた。 ==== 登場人物 ==== 噺の登場人物は、喜六、清八、おさき、源兵衛、家主、医者(「赤壁周庵」の名が多い)、上町のおっさんなど。 喜六(喜イ公、喜イさんとも)は、江戸の「与太郎」にあたる「アホ」役だが、生業(下駄屋がよく出る)を持ち、妻帯(妻の名は「おさき」「お松」がよく用いられる)している点が「与太郎」と異なる。性格は、与太郎が天然の馬鹿と設定されることが多いのに対し、どことなく醒めたところがみられる。(→「[[喜六と清八]]」も参照のこと) 江戸落語によく出てくる熊五郎、八五郎は、上方では喜六・清八の役どころとなる。上方で熊五郎、八五郎の名が登場するのは「[[らくだ]]」「へっつい幽霊」に「脳天の熊五郎」(「らくだ」では「弥猛(ヤタケタ)の熊五郎」とも)、「[[八五郎坊主]]」に「八五郎」があるくらいである。また江戸落語「三軒長屋」などに出てくる大工の棟梁は、上方では手伝い(テッタイ)の又兵衛として登場する。 時代設定を特に定めない、あるいは庶民にも名字を名乗ることが許された明治以降に置いた演出では、演者にゆかりのある噺家の本名に因みかつ一般的な姓が出る場合がある(例えば6代目松鶴一門なら「竹内さん」、林家一門なら「大橋さん」「岡本さん」)。 === 道具 === [[ファイル:Chiritotechin crop.jpg|thumb|上方落語で使用される見台および膝隠]] 落語では一般的に[[扇子]]や[[手拭]]を小道具として用いるが、上方落語でしか用いない小道具として以下のものがある。 ;見台(けんだい) :演者の前に置く小さな机。書き物机や湯船、布団や床といったものに見立てる。もっとも、演じる噺によって使わない場合や、滅多に使わない落語家もいる(3代目桂春団治、2代目桂枝雀、桂三枝など大きな動きのある演目をする落語家など)。 ;小拍子(こびょうし) :小さな[[拍子木]]。普段は見台の上に置かれており、鳴らすときは左手で小拍子を持ち、見台を打つ。噺の合いの手などに使ったり、雰囲気を変えるために使ったりする。また、舞台の袖でお囃子や鐘の音など効果音を出す裏方に合図を送るためにも使う。変わったところでは、[[創作落語]]でパソコンの[[マウス (コンピュータ)|マウス]]に見立てて使用した例([[桂文珍]]・「[[心中恋電脳]]」)がある。 ;膝隠(ひざかくし) :演者のひざを隠す小さな衝立。 通常、以上の3点はセットで用いられ、舞台への出し入れで持ち運ぶ際は、見台の上に膝隠しを乗せる。 今日では普通に使用されている、演者の名前を書いた'''名ビラ'''やそれを掲げておく台の'''メクリ'''は[[明治]]時代まで、'''[[出囃子 (落語)|出囃子]]'''は昭和初期まで、上方の寄席でしか使用されていなかった。 === はめもの === 口演中に演出としてお囃子を盛り込む点も江戸落語との違いである。このお囃子を'''はめもの'''と呼ぶ。 たとえば、「新町にまいります。その陽気な事」(「三枚起請」)と演者が言うと、楽屋にいるお囃子が三味線を弾き唄を唄って華やかな遊里を表現する。逆に「ふたなり」「皿屋敷」などで登場人物が寂しい夜道を歩くときは、三味線が静かに弾かれ寂しい情景を表現する。 以上のように情景描写に使われる事が多いが、「野崎詣り」などでは舟が移動するなどの擬音に用いられる。「紙屑屋」「辻占茶屋」などの「音曲噺」では演者と掛け合いの型となる。「蛸芝居」「質屋芝居」「本能寺」などの芝居噺では、歌舞伎の[[下座音楽]]となる。 桂文珍はコンピューターの機械音を用いる事があるが、これもはめものの一変形である。 お囃子奏者は「下座」あるいは「ヘタリ」とも呼ばれ、三味線奏者と太鼓・笛などの鳴物奏者で構成される。三味線奏者は専業だが、鳴物奏者は若手の落語家が務めることが多い。三味線奏者は、戦後は後継者難に直面し、[[選択無形文化財]]「上方落語下座音楽」の保持者であった[[林家とみ|林家トミ]](2代目林家染丸の妻)の没後は存亡の危機に晒されたが、3代目桂米朝が自身の番組『米朝ファミリー 和朗亭』(朝日放送テレビ)で取り上げたことや、[[林家染丸 (4代目)|4代目林家染丸]]らによる後進育成活動などにより徐々に増え、2006年12月現在、上方落語協会会員だけでも11名を数える。現代の代表的な三味線奏者としては[[内海英華]]、[[かつら枝代]](2代目枝雀の妻)、林家和女([[林家小染 (5代目)|5代目林家小染]]の妻、[[桂あやめ (3代目)|3代目桂あやめ]]の姉)らがいる。 === 制度 === [[落語家#真打制度|真打制度]]は[[大正]]時代に一旦廃止され、戦後に[[上方落語協会]]が部外秘の内規として復活させたが、昭和40年代の上方落語ブームによって有名無実化した。 天満天神繁昌亭の開設を機に、上方落語協会会長の桂三枝(現・6代桂文枝)が真打制度を復活させる計画を提案したが、反対意見が多く断念した。 現在は香盤(上方落語協会の内規)が真打制度の代替として存在し、芸歴5年以上を中座(江戸落語の二つ目に相当)、15年以上を真打と同格としており、真打相当からA、B、Cのランクに分かれている。 よって、通常上方落語で「前座」などの言葉を用いる際は、出番を表す言葉として使われることが多い。 順番は以下のとおり。 *'''前座'''(ぜんざ):勉強中の若手が出る。名ビラや座布団を返すなどの雑用もこなす。元は、[[仏教]]の高僧が説教をする際、出番前に話をする修行僧を「前座(まえざ)」と呼んだことに由来する。 *'''二つ目'''、'''三つ目'''(以降、四つ目……と適宜続く) *'''中トリ''':仲入り(休憩)直前の演者を指す。 :(仲入り) *'''カブリ''':「かぶりつき」、「ツカミ」、江戸落語では「くいつき」とも言う。 *'''シバリ''':江戸の「膝前」とも。[[色物]]など。だれ始めた客を縛り付ける、という意味から。 *'''モタレ''':「膝がわり」とも。 *'''トリ''':「主任」とも。その会の責任者。「売り上げ金をとる」、「興行の真をとる」などの意味合いから。 *'''追い出し''':「バラシ」とも。退場する客がはけるまでの間、軽い噺でつなぐ役割で出演する。現在では稀。 === 所属団体 === 東京の落語家は、概ね[[落語協会]]や[[落語芸術協会]]といった所属団体によって色分けされているが、上方の落語家は、戦後の経緯から、[[吉本興業]]<ref>組織改編により2007年10月1日以降は[[よしもとクリエイティブ・エージェンシー]]に所属変更。</ref>や[[松竹芸能]]、[[米朝事務所]]などの所属[[芸能事務所]]によって色分けされている。各事務所には、以下に示すように基本的に一門単位で加入する事が多いが、一門の多数とは異なる事務所に属したり(笑福亭仁鶴、月亭可朝、[[笑福亭笑瓶]]など)や個人事務所を構えたり([[笑福亭福笑]]、[[立花家千橘 (4代目)|4代目立花家千橘]]など)、フリーで活動する落語家もいる。関西出身で[[落語立川流]]に入門した[[立川文都]](故人)や[[立川雲水]]は上方落語を演ずる。 * 米朝事務所 - 3代目桂[[米朝一門]](月亭一門、雀々等を除く) * 松竹芸能 - 6代目笑福亭[[松鶴一門]](仁鶴一門・鶴笑師弟・笑太等を除く)、3代目桂[[春団治一門]]、森乃福郎一門 * 吉本興業(よしもとクリエイティブ・エージェンシー) - 5代目桂[[文枝一門]]、[[林家染丸一門]]、6代目松鶴一門の一部(笑福亭仁鶴一門、笑福亭鶴笑一門、笑福亭笑太)、月亭八方一門 * 露の五郎兵衛事務所 - 2代目[[露の五郎兵衛一門]] しかし、大多数の落語家は[[上方落語協会]]の会員であり、天満天神繁昌亭への出演や「[[彦八まつり]]」への参加などでは事務所の枠を超えて協力し合っている。この事もあり、漫才やコントなどの他の上方演芸ではよく見られ、テレビ番組の出演者編成でも時にネックとなる『所属芸能事務所間の壁』というものについても、落語界では決して絶無ではないがそれほど高くないとされている。 上方落語協会とは別の落語家団体としては[[関西落語文芸協会]]がある。これは四天王(特に6代目松鶴)との確執などで上方落語協会を脱退した3代目[[林家染三]]が設立したものである。染三の高齢化により活動休止状態にあり、彼の死去した2012年以降、団体は事実上消滅状態にある。 なお上方演芸全般の組織として[[関西演芸協会]]があり、落語家も多数所属する。2006年12月現在の会長は落語家の4代目[[桂福團治]]である。 == 定席 == === 歴史 === ==== 明治から昭和初期まで ==== 明治時代から昭和初期の大阪市内、特にミナミ[[法善寺]]周辺には、北側に三友派の象徴であった「[[紅梅亭]]」(旧称「今嘉の席」「泉熊の席」。後に吉本興業が買収し「西花月亭」)、南側に桂派の象徴であった「南地[[金沢亭]]」(同じく吉本の買収後「南地花月」)が存在ししのぎを削った。 他にも[[キタ]][[北新地]]の「永楽館」(同じく吉本の買収後「北新地花月倶楽部」)はじめ、[[上本町]]、[[堀江 (大阪市)|堀江]]、[[松屋町]]、[[新町 (大阪市)|新町]]、[[松島遊廓|松島]]、[[大阪天満宮]]界隈などに十数軒の落語専門定席が存在していたが、天満宮の「第二文芸館」(同じく吉本の買収後「[[天満花月吉川館]]」)を皮切りに順次吉本に買収された事により、次第に漫才中心の興行内容にシフトしていった。 太平洋戦争時は戦地への慰問や落語家の高齢化に伴い寄席も一日4時間ほどしか開演していなかった。足りない芸人などは東京吉本から、[[柳家金語楼]]、[[柳家三亀松]]等を呼び寄せ興行をなんとかつないでいた。しかし戦争の激化により一部は閉鎖され、残った寄席も[[大阪大空襲]]によって灰塵に帰した。 ==== 太平洋戦争後 ==== [[1947年]]、ミナミに「[[戎橋松竹]]」(通称「戎松」)が開場。その後も戎松の後身の「[[千日劇場]]」や、[[松竹芸能]]系の「[[道頓堀角座|角座]]」「演芸の[[浪花座]]」([[道頓堀]])「[[新花月]]」([[新世界 (大阪)|新世界]])、[[吉本興業]]系の「[[なんば花月]]」「[[うめだ花月]]」、[[東宝]]系で[[ケーエープロダクション]]の芸人が多く出演した「[[トップホットシアター]]」、京都・新京極に「[[富貴 (寄席)|富貴]]」「[[京洛劇場]]」「[[京都花月劇場|京都花月]]」、神戸・[[兵庫駅]]前に「寄席のパレス」、[[新開地]]に「神戸松竹座」などが開場したが、いずれも漫才との混成演芸場であり、落語の定席とは言い難かった。 落語専門定席の不在が上方落語の滅亡につながる事を懸念した上方落語協会は、会長・笑福亭松鶴の主導の下、[[中央区 (大阪市)|南区]]千年町の島之内教会を借りて、[[1972年]](昭和47年)[[2月]]より、月5日の「[[島之内寄席]]」を開催。芸能事務所や放送局(当時、一部の名のある落語家は放送局と専属契約を交わしていた)の枠を超えた定席として位置づけたが、会場側の都合によりわずか2年で潰えてしまう。 その後「島之内寄席」は会場を転々とし、[[1974年]](昭和49年)4月にブラザーミシンビル(心斎橋)、同年12月に船場センタービル地下のボウリング場、[[1975年]](昭和50年)6月には[[ダイエー]]京橋店へと移り、月3日興行に短縮された。この「島之内京橋ダイエー亭」は約9年続く。[[1984年]](昭和59年)4月に南区畳屋町にある料亭「暫」に移転し、「島之内」に復帰するも、3年後には「暫」がビル改装のため閉鎖、[[1987年]](昭和62年)に心斎橋のCBカレッジへ移り、ついに月1日興行となった。[[1993年]](平成5年)に天王寺の一心寺シアターへ移った後、[[1996年]](平成8年)の[[ワッハ上方]]開館に伴いレッスンルームへ移転。[[2005年]](平成17年)にワッハホールへと会場を移し、月1日興行ながら現在も続いている。 [[1999年]](平成11年)から[[2000年]](平成12年)にかけて、上方落語協会は浪曲親友協会などと共に、大阪に東京同様の国立演芸場の開設を求めて文化庁などに働きかけを行った。結果として、現在、[[国立文楽劇場]]小ホールで奇数月に開かれている「上方演芸特選会」として実を結んだが、年間6回のみの興行であり、定席と呼ぶにはほど遠かった。 その後も専門定席の構想が浮上しては消えていったが、上方落語協会が桂三枝体制に入ると具体化し、[[2006年]](平成18年)[[9月15日]]に「[[天満天神繁昌亭]]」が大阪天満宮境内北側に開席。「島之内寄席」が島之内教会を離れて32年、大阪大空襲から61年を経て落語専門定席は名実共に復活した。現在、上方落語協会ではキタの天満天神繁昌亭とミナミの島之内寄席を、協会主催寄席の両輪と位置づけている。 なお、純然たる落語専門定席ではないが、「[[なんばグランド花月]]」「[[通天閣劇場TENGEKI|通天閣劇場]]」などの[[演芸場]]でも落語のプログラムが組み込まれ、吉本興業や松竹芸能に所属する落語家が独演会や勉強会を行うことがある。千日前のトリイホールで毎月1日に開かれている「TORII寄席」は、[[米朝事務所]]所属の落語家が多く出演する。 その後、天満天神繁昌亭の成功は興行側に落語を見直す一因となり、2008年、なんばグランド花月で落語家のみの興行が定期的に行われるようになった。その他にも吉本興業は「[[うめだ花月]]」で月曜日から金曜まで昼の時間(12:30から)のみ「[[花花寄席]]」と題して吉本所属・フリーの若手中心で構成されたプログラムを行っている。「うめだ花月」の閉館後は「なんばグランド花月」内にある「[[ヨシモト∞ホール大阪]]」で毎週土曜に開催している。 2008年に2代目桂ざこばが動楽亭を開席、2009年5月には[[桂福團治|4代目桂福團治]]が会長の[[関西演芸協会]]が[[法善寺寄席]]を開席。 === 地域寄席 === 落語定席の復活がなかなか実現しない一方で、昭和40年代より地域に密着した勉強会や自主公演が盛んに行われた。これがいわゆる「地域寄席」であり、1972年(昭和47年)8月から1992年(平成4年)8月まで[[桂米之助 (3代目)|3代目桂米之助]]が主宰した「岩田寄席」(東大阪市)がその始まりとされる。 現在では、1974年(昭和49年)7月に始まった[[旭堂南陵]]主宰の「堺おたび寄席」(堺市、2005年3月に中断したが場所を代えて復活。講談と落語の会)と同年9月から続く「田辺寄席」(大阪市、[[桂文太]]と世話人会が運営)を最古参に、「もとまち寄席恋雅亭」(神戸市、世話人は[[桂春駒]])、「[[桂米朝落語研究会]]」([[京都市]][[東山区]]、桂[[米朝一門]]主宰)「[[尼崎落語研究会]]」(尼崎市、桂米朝一門主宰)、「京都市民寄席」(京都市)をはじめ数多く行われ、上方落語普及と演者の修業の場として活発な活動を行っている。 == 出典 == *『寄席楽屋事典』[[花月亭九里丸]]編(東方出版、[[2003年]](平成15年)[[11月13日]]、ISBN 4885918650) *『落語と私』桂米朝([[文藝春秋]]〈文庫〉、[[1986年]](昭和61年)、ISBN 4-16-741301-9) *『圓生古典落語』[[三遊亭圓生 (6代目)|三遊亭圓生]]、[[関山和夫]]監修([[集英社]]<文庫>、[[1979年]]) *『図説 落語の歴史』山本進([[河出書房新社]]、[[2006年]](平成18年)、ISBN 4-309-76079-1) *『上方落語家名鑑ぷらす上方噺』天満天神繁昌亭、上方落語協会編、やまだりよこ著([[出版文化社]]、2006年(平成18年)、ISBN 4-88338-351-2) *『[[桂米朝集成]]』桂米朝([[岩波書店]]、[[2004年]](平成16年)) *『あんけら荘夜話』桂文枝(青蛙房、[[1996年]](平成8年)、ISBN 4-7905-0285-6) *『六世笑福亭松鶴はなし』[[戸田学]]編(岩波書店、2004年(平成16年)、ISBN 4-00-002586-4) *『米朝・上岡が語る昭和上方漫才』桂米朝・上岡龍太郎著、戸田学企画・構成([[朝日新聞社]]、[[2000年]](平成12年)、ISBN 4-02-257522-0) *『噺の肴―らくご副読本』小佐田定雄(弘文出版、1996年(平成8年)、ISBN 4-87520-201-6) * [http://www.kamigatarakugo.jp/qa.html よくある質問] - 上方落語協会公式サイト内の記事 * [http://www.nikkei.co.jp/weekend/kat/20030606sy666000_06.html NIKKEI NET 京の噺家 桂米二でございます 第9回 上方落語協会] - [[日本経済新聞|NIKKEI NET]]内、[[2003年]][[6月7日]]の記事 == 関連項目 == * [[上方噺家]] * [[落語家一覧]] * [[彦八まつり]] * [[ちりとてちん (テレビドラマ)|ちりとてちん]] * [[:Category:落語の演目]] == 脚注 == <references /> == 外部リンク == * [http://www.kamigatarakugo.jp/ 上方落語協会] * [http://www.hanjotei.jp/ 天満天神繁昌亭] * [http://homepage3.nifty.com/rakugo/ 上方落語メモ【世紀末亭】] - 上方落語をテキストで楽しむページ * [http://eonet.jp/hanjotei/ 【ライブ繁昌亭】] - 天満天神繁昌亭の昼席公演の模様を毎日配信中 {{デフォルトソート:かみかたらくこ}} [[Category:落語]] [[Category:大阪府の文化]] [[Category:京都府の文化]]
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