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'''三月事件'''(さんがつじけん)とは、[[1931年]]([[昭和]]6年)年[[3月]]の決行を目標として日本陸軍の中堅幹部によって計画された、[[クーデター]]未遂事件である。 == 計画 == [[1930年]](昭和5年)に政治結社「[[桜会]]」を結成した[[橋本欣五郎]]中佐、[[長勇]](ちょう いさむ)少佐、[[田中清]]少佐、[[重藤千秋]]大佐らは、「我が国の前途に横たわる暗礁を除去せよ」との主張の下、軍部による国家改造を目指して国家転覆を画策した。これに杉山元陸軍次官、[[小磯國昭]]軍務局長、[[永田鉄山]]軍事課長、[[根本博]]新聞班長、[[二宮治重]]参謀次長、[[建川美次]]参謀本部第二部長、[[山脇正隆]]作戦課長、[[岡村寧次]]補任課長ら当時の陸軍上層部や社会民衆党の[[赤松克麿]]、[[亀井貫一郎]]、右翼の思想家[[大川周明]]や右翼活動家・[[清水行之助]]らも参画。永田鉄山軍事課長が計画書(建設)を作成した。一切の計画資金は軍の機密費から出されていた。また、活動資金として[[徳川義親]]が50万円を出資(戦後返還)した<ref>戦後清水行之助から返還された50万円は[[日本社会党|社会党]]創立の資金になった([[岡田益吉]]『軍閥と重臣』)</ref>。 [[1931年]](昭和6年)[[1月]]初旬、二宮次長は橋本中佐に対して、宇垣大将の乗り出しにつき、建設すべき未来社会政綱政策は上級者が作成するので政権奪取の方法を立案するように指示した。[[1月13日]]、[[宇垣一成]]陸軍大臣は陸相官邸で、杉山次官、二宮次長、小磯軍務局長、建川部長、山脇作戦課長、永田軍事課長(但し当日は代理の[[鈴木貞一]]中佐)、橋本中佐、根本中佐と国内改造のための方法手段を協議した。[[2月7日]]重藤支那課長宅で、坂田中佐、根本中佐、田中清大尉の四名が行動計画案を協議した。小磯軍務局長は永田軍事課長に軍隊の出動計画をつくらせた。計画では、3月下旬に大川、亀井らが1万人の大衆を動員して議会を包囲。また[[立憲政友会|政友会]]、[[立憲民政党|民政党]]の本部や首相官邸を爆撃する。混乱に乗じ、[[第1師団 (日本軍)|第1師団]]の軍隊を出動させて戒厳令を布き、議場に突入して[[濱口雄幸|浜口]][[濱口内閣|内閣]]の総辞職を要求。替わって宇垣一成陸相を首班とする[[軍事政権]]を樹立させるという運びであったが、直前の[[3月17日]]に撤回された。 宇垣、二宮、小磯らの首脳が決断を躊躇したことが、計画中止の原因のひとつであった。そして陸軍首脳部の決断を鈍らした原因は、中央部における中堅将校中に強い反対が起こったことと、実際に兵力を握っていた第1師団長の[[真崎甚三郎]]が反対の態度を表明したからであった。 事件を計画していた永田鉄山一派は中央部の中堅将校の同意と協力を必要としたので、[[3月11日]][[飛行会館]]に、中央部の課長級の将校を集めて、計画を打ち明けて参加を求めた。[[教育総監]]部の課長[[山岡重厚]]は「それは非常に乱暴だ。教育総監部の課長として賛成できない。いくら予算がとれぬとしても、また満洲の日本人が困っているからといっても、兵馬の大権を私して内閣をつぶし陛下に新たな軍部内閣を強要するのは軍を壊し、陛下の大権を犯す不逞行為だ。絶対に反対だ」と答えた。[[小畑敏四郎]]大佐も賛同し、直ちにやめろといったので、永田も岡村もそれではやめようと、[[土肥原賢二]]と岡村は直ちに参謀本部および陸軍省の方へ中止の手続きをとった。 また第1師団長の真崎は、[[3月15日]]に永田と士官学校同期である師団参謀長[[磯谷廉介]]から、クーデターの計画を聞き、磯谷をして永田に警告させた。さらに、警備司令官に対して、「もし左様な場合には、自分は第一師団長として、警備司令官の指揮命令を奉じない。あるいは大臣でも次官でも、逆に自分が征伐するかもしれんから、左様ご了承を」と通告した。それで計画はガタガタに崩れた。 この計画は決して綿密とはいえないものであった。1万人の大衆動員計画は実現性を欠いたものであり、また橋本、大川らの証言によると、計画の最終段階に至って宇垣がクーデターに反対(非合法的手段によらずに首相に就任する見通しが立ったためとの説がある)、小磯や徳川も計画を中止するよう動いたという。宇垣自身は事件への関与を全面否定しているが、彼が計画にどの程度関わったのかは今もって不明である。 == その後 == 本件は、本来ならば軍紀に照らして厳正な処分がなされるべき事件である。にもかかわらず、計画に関与した者の中に陸軍首脳部も含まれていたことから、事件を知った陸軍は、首謀者に対して何らの処分も行わず、緘口令を布いて事件を隠匿した。 なお、宇垣は事件後陸相を辞して、[[朝鮮総督府|朝鮮総督]]に就任。[[1937年]](昭和12年)には組閣の大命を受けるに至るが、本事件や「[[宇垣軍縮]]」が災いし、[[軍部大臣現役武官制]]を盾にとった陸軍の強硬な反対に遭い頓挫。その後たびたび首相候補として名を連ねるが、ついに首相の椅子に座ることはなかった。 この事件は、[[十月事件]]や[[陸軍士官学校事件]]、[[二・二六事件]]など、のちに頻発する軍部によるクーデター計画の嚆矢であると共に、政界上層部や右翼、国家社会主義者をも巻き込んだ大規模な策謀であった。 統制派、幕僚ファッショの陰謀計画は、三月事件を断行し、軍事政権に切り換えたうえで、満蒙問題に着手する予定であったが、[[皇道派]]の正論に圧倒されて失敗に終わると、満蒙で事を起こして国内の改革を行おうとした。 1931年(昭和6年)[[4月]]に濱口内閣が総辞職して[[若槻禮次郎|第2次若槻]][[第2次若槻内閣|内閣]]が組織され、辞任した宇垣の後任の陸軍大臣には宇垣の腹心で満蒙積極政策の信奉者の[[南次郎]]大将が就任した。南大臣は[[8月]]の定期異動において、満蒙積極政策遂行のための人事を行い、序列上当然[[関東軍司令官]]とすべき真崎甚三郎大将を[[台湾軍司令官]]にし、台湾軍司令官の順序であった[[本庄繁]]大将を関東軍司令官に任じた。 == 参考文献 == * 堀真清 編『宇垣一成とその時代 <span style="font-size:90%;">大正・昭和前期の軍部・政党・官僚</span>』(新評論、1999年) ISBN 4-7948-0435-0 ** 堀真清「三月事件」 p55~p122 * 小林道彦「三月事件再考」 ** [[吉川弘文館]]『[[日本歴史]]』2007年10月号 No.713 ISSN 0386-9164 p1~p19 * 岩淵辰雄 『軍閥の系譜』中央公論 1948年 * 山岡重厚 『予が軍閥観』 * 前田治美『昭和叛乱史』 * 『田中少佐手記』 == 脚注 == <references/> == 関連項目 == * [[桜会]] * [[十月事件]] {{DEFAULTSORT:さんかつしけん}} [[Category:昭和時代戦前の事件]] [[Category:昭和維新]] [[Category:1931年の日本]]
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