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三国干渉
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[[画像:Convention of retrocession of the Liatung Peninsula 8 November 1895.jpg|サムネイル|1895年11月8日、三国干渉の結果、日本は[[遼東還付条約]]に調印した。]] '''三国干渉'''(さんごくかんしょう)は、[[1895年]](明治28年)[[4月23日]]に[[フランス]]、[[ドイツ帝国]]、[[ロシア帝国]]の三国が[[日本]]に対して行った勧告である。日本と[[清]]の間で結ばれた[[下関条約]]に基づき日本に割譲された[[遼東半島]]を清に返還することを求める内容だった。 ==勧告の主旨== 「日本による遼東半島所有は、清国の首都[[北京市|北京]]を脅かすだけでなく、[[李氏朝鮮|朝鮮]]の独立を有名無実にし、[[極東]]の平和の妨げとなる。従って、半島領有の放棄を勧告し誠実な友好の意を表する」 ==日清戦争と欧州列強== [[日清戦争]]中、日本の勝利が間近に迫ると、列強も事の重大性を認識するに至り、干渉を考え始めた。主導国はロシアであったが、ドイツの参加がなければ干渉が実現しなかったとも言われる。西にドイツの脅威を控えていたロシアは、ドイツの干渉参加により東に深入りしやすくなったからである。 更に下関条約で遼東半島の割譲を日本が要求していることを知った列強は衝撃を受けた。列強は清朝の衰退に乗じて「清国の分割」を進めてきたが、清国内の抵抗を危惧してその動きは未だ緩慢なものであり、戦争による賠償で得た[[イギリス]]領[[香港]]を例外として、露骨な領有権要求は差し控えてきた。だが、日本の要求はこの列強間の「暗黙の了解」を破棄するものであり、更に清朝が[[渤海_(海域)|渤海]]を挟んで[[直隷]](現在の[[河北省]])と向かい合った遼東半島を失う事で、その政治的権威が失墜して国内の政情が不安定になるような事態の発生は、各国の対清政策を根底から揺るがせるものであった。 そこでドイツやロシアは自国の対清政策を維持するために、この日本の要求を容認できないと考えた。 講和会議の過程で日本は清に対して、開市・開港場での製造業従事権を要求していたものの、日本にはそれを実現させるだけの資金的裏づけがなかった。そこで日本は、秘かにイギリスに対してのみ、この要求の事実を打ち明けて共同経営の誘いを行っていた。これが他の列強に知られたため、この話に与れなかったドイツやロシア、フランスの姿勢を更に硬化させることになった。 ==列強の思惑== ===ロシア=== ロシアは極東進出のために[[不凍港]]が必要であり、[[南下政策]]を取り[[満州]]における権益拡大をはかっていた。ロシアは遼東半島を日本に奪われることで南満州の海への出口を失うことを恐れ、日本の満州進出阻止を目論んだ。当初、日本が朝鮮の独立を尊重するならば、遼東半島は日本に割譲されてもよいと考えたが、[[セルゲイ・ヴィッテ]]の登場により極東に艦隊を派遣するなど干渉に乗り出した。 同じく清の分割に関心をもつイギリス、フランス、ドイツの3国に提唱し、仏・独の賛成を得て3国による勧告を行った。[[1895年]]、三国干渉により、東アジアにおける第2の不凍港となる[[旅順]][[租借地]]を獲得。 ===ドイツ=== 開戦初期は極東に対し消極的であったが、戦局の推移や列強の動向の変化により、極東に自国の拠点を得る機会が到来したと認識するようになった。[[4月6日]]の時点では講和条件に異議なしと日本に伝えたが、首相[[クロートヴィヒ・ツー・ホーエンローエ=シリングスフュルスト|ホーエンローエ]]や外相マーシャルは列強との共同行為を提案し、最終的に、元駐清公使[[マックス・フォン・ブラント]]の意見書([[4月8日]])を皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]が受け入れて、ロシアと共に干渉することになった。 意見書によると、ロシアとの共同行為は、恩を感じた清国から艦隊や貯炭所の割譲または租借ができる唯一の可能性を与えるものである、と認識されている。ドイツの参加理由は、露仏の接近を妨害すること、ロシアの注意を東に向けて欧州における脅威を減らすこと、ドイツ自身の極東への野心、また皇帝が主張した[[黄禍論]]などに基づいている。 ===フランス=== フランスは、ロシアとドイツの緊張緩和は自国にとっても安全だと考え、さらに[[1892年]]にロシアと秘密同盟([[露仏同盟]])を結んでおり、その実行のためロシアと協力した。 ===イギリス・アメリカ=== ロシアとドイツはイギリスにも共同行動を提案したが、世論を理由に干渉を拒否し、アメリカもまた、日本に好意的だったが局外中立を崩さなかった。 ==日本の反応== こうした干渉に対し、首相[[伊藤博文]]は列国会議開催による処理を提案したが、外相[[陸奥宗光]]は会議によってさらなる干渉を招く恐れを主張し、[[イギリス]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[イタリア]]など他の列強の協力で勧告を牽制し、撤回させようと目論んだ。しかし、英米が局外中立を宣言したため、[[5月4日]]、日本はやむなく勧告を受諾し、清との間に還付条約を結んで代償に3000万両(4500万円)を獲得した。 日本では勧告を受諾した政府に対して世論は激しく反発したが、政府は[[臥薪嘗胆]]をスローガンに国民反発を対ロシア敵対心に振り向けて[[六六艦隊計画]]をはじめとする軍拡を進めた。三国干渉は[[日露戦争]]のきっかけに直接・間接の影響を与えた。 ==干渉の結果== 列強はこの干渉以降、[[阿片戦争]]で香港を得た英国の様に、中国の分割支配に本格的に乗り出すことになった。列強は清に対して対日賠償金への借款供与を申し出て、その見返りに次々と租借地や鉄道敷設権などの権益や、特定範囲を他国に租借・割譲しないなどの条件を獲得していった。 *ドイツは、[[1897年]]に宣教師殺害を理由に[[膠州湾租借地|膠州湾]]を占領、翌年には租借した。 *[[1899年]]にフランスは[[広州湾]]一帯を、イギリスは[[九龍半島]]・[[威海衛]]を租借した。 *ロシアも総理大臣の[[李鴻章]]が50万ルーブル、副総理の[[張蔭桓]]が25万ルーブルの賄賂を受け取り、[[1896年]]に秘密協定である[[露清密約|李鴻章-ロバノフ協定]]を結び、[[1898年]]、遼東半島南端の[[旅順]]・[[大連市|大連]]の租借に成功する。そして、[[万里の長城]]以北と満州に勢力圏を拡大し、極東への野心を現実化していった。 *イギリスは1898年1月に[[長江]]流域から[[ビルマ]]への鉄道敷設と長江流域を他国に割譲しないことを確認し、さらに香港対岸の[[新界]]を租借させた。 *日本も防衛上最低限の要求として、新規獲得した台湾のすぐ隣にある[[福建省]]を他国に租借、割譲することがない旨の約束を取り付けた。 *朝鮮ではこの干渉の結果、日本の軍事的・政治的権威が失墜する一方、[[閔妃]]など親露派が台頭した。 *これらの動きに対し、清国内で税関業務に関わるイギリス人たちは、租借地を通じた密貿易で清の財政が傾くことを懸念し、アメリカ合衆国に働きかけて[[門戸開放宣言]]を発表させる。 ==関連項目== *[[日清戦争]] *[[下関条約]] *[[陸奥外交]] {{DEFAULTSORT:さんこくかんしよう}} [[Category:明治時代の外交]] [[Category:フランス第三共和政]] [[Category:ドイツ帝国の国際関係]] [[Category:ロシア帝国の外交]] [[Category:日露関係史]] [[Category:日仏関係]] [[Category:日独関係]] [[Category:植民地]] [[Category:1895年]] [[Category:名数3|こくかんしよう]] [[Category:遼寧省の歴史]]
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