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'''三公'''(さんこう)とは、[[中国]]およびその影響を受けた[[東アジア]]諸国の前近代の官制において、最高位に位置する3つの官職についている[[大臣]]のこと。その起源は[[周]][[王朝]]に始まるといわれる。 周においては、[[太師]]、[[太傅]]、[[太保]]の3官職が三公と呼ばれていた。周では宮廷の庭に[[エンジュ|槐]](えんじゅ)の木が植えられ、三公は政務の際に槐に向かって座す定めであったため、三槐とも雅称される。[[秦]]や[[前漢]]では行政を司る[[丞相]]([[司徒|大司徒]])、軍事を司る[[太尉]]([[大司馬]])、監察・政策立案を司る[[御史大夫]]([[司空|大司空]])の3官が三公と呼ばれ、[[後漢]]以降は[[司徒]]、[[司空]]、太尉と名を改められた。[[魏]]の頃にはすでに実権を[[尚書]]などに奪われ長老の名誉職と化していたらしく、[[魏志]][[高柔]]伝には「三公を月二回参内させるほか天下の事件について意見を聴取するよう改めるべき」という上書が引用されている。高柔本人ものちに三公になったが、そのとき73歳であった。やがて[[三省六部]]の制が整えられるに及んで三公は名誉職となり、時代によっては再び太師、太傅、太保の3官職が三公とされることもあった。 日本では、[[律令制]]における[[太政官]]の長である[[太政大臣]]、[[左大臣]]、[[右大臣]]のことを指す。のちに右大臣の下に[[内大臣]]が置かれると、常任の官ではない太政大臣を外して、左大臣、右大臣、内大臣のことを指す例もあらわれたが、[[江戸時代]]に[[禁中並公家諸法度]]が制定されると内大臣を含まず太政大臣を含むものと定義付けられた。[[源実朝]]の歌集が『[[金槐和歌集]]』と称されるのは、彼が三公のひとつである右大臣であったことにちなむものである。 {{DEFAULTSORT:さんこう}} [[category:中国の制度史]] [[category:中国の官名]] [[Category:名数3|こう]]
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