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七年戦争
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{{Battlebox |battle_name = 七年戦争 | campaign = 七年戦争 | image = [[ファイル:Abend der Schlacht bei Leuthen.jpg|300px|]] | caption = ロイテンの戦いの夜のフリードリヒ大王 | conflict = [[七年戦争]] | date = [[1756年]] - [[1763年]] | place = [[ヨーロッパ]]、[[アフリカ]]、[[インド]]、[[北アメリカ]]、[[フィリピン]] | result = イギリスとスペインがフランス領北米植民地を獲得<br />プロイセンの[[シレジア]]領有が固定化 | combatant1 = {{PRU1803}}<br />{{GBR1606}}および植民地<br />{{Flagicon2|ハノーファー州|1692}}[[ハノーファー王国|ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯]]<br />{{Flag2|ポルトガル王国|1707}}<br />[[ファイル:Wappen Braunschweig.svg|25px]][[ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領|ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル]]<br />[[ファイル:Flag of Hesse.svg|25px]][[ヘッセン=カッセル方伯領|ヘッセン=カッセル]]<br />{{Flag2|イロコイ連邦}} | combatant2 = {{FRA987}}および植民地<br />{{HRR}}<br />{{RUS1883}}<br />{{SWE}}<br />{{ESP1506}}および植民地<br />[[ファイル:Flag of Electoral Saxony.svg|25px]][[ザクセン選帝侯領|ザクセン選帝侯国]]<br />{{ITA1720}} | commander1 = [[ファイル:Flag of Ducal Prussia.svg|20px]][[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]<br/>[[ファイル:Flag of Ducal Prussia.svg|20px]][[フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ザイトリッツ]]<br />[[ファイル:Union flag 1606 (Kings Colors).svg|25px]]ジョン・マナーズ<br />[[ファイル:Union flag 1606 (Kings Colors).svg|25px]]エドワード・ボスコーエン<br />[[ファイル:Union flag 1606 (Kings Colors).svg|25px]][[ロバート・クライブ]]<br />[[ファイル:Union flag 1606 (Kings Colors).svg|25px]][[ジェームズ・ウルフ]]<br />[[ファイル:Union flag 1606 (Kings Colors).svg|25px]][[ジェフリー・アマースト]]<br />[[ファイル:Union flag 1606 (Kings Colors).svg|25px]][[エドワード・ブラドック]]<br />[[ファイル:Flag of Hanover (1692).svg|20px]][[フェルディナント・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル|ブラウンシュヴァイク公フェルディナント]] | commander2 = [[ファイル:Pavillon royal de France.svg|20px]][[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]<br />[[ファイル:Pavillon royal de France.svg|20px]]ルイ=ジョゼフ・ド・モンカルム<br />[[ファイル:Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).svg|20px]][[レオポルト・フォン・ダウン]]<br />[[ファイル:Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).svg|20px]]フランツ・モーリッツ・フォン・ラシー<br />[[ファイル:Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).svg|20px]][[カール・アレクサンダー・フォン・ロートリンゲン]]<br />[[ファイル:Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).svg|20px]][[エルンスト・ギデオン・フォン・ラウドン]]<br />[[ファイル:Flag of Russia.svg|20px]][[エリザヴェータ (ロシア皇帝)|エリザヴェータ]]<br />[[ファイル:Flag of Russia.svg|20px]]ピョートル・サルトゥイコフ<br />[[ファイル:Flag of Electoral Saxony.svg|20px]][[アウグスト3世 (ポーランド王)|アウグスト3世]] | strength1 = | strength2 = |casualties1 = |casualties2 = |}} '''七年戦争'''(しちねんせんそう、{{lang-en-short|Seven Years' War}}、{{lang-de-short|Siebenjähriger Krieg}}、[[1756年]]-[[1763年]])は、[[プロイセン王国|プロイセン]]及びそれを支援する[[グレートブリテン王国]]([[イギリス]])と、[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]・[[ロシア帝国|ロシア]]・[[フランス王国|フランス]]などのヨーロッパ諸国との間で行われた戦争である。 == 概要 == 七年戦争は、[[ヨーロッパ]]においては、イギリスの[[財政]]支援を受けたプロイセンと、オーストリア・ロシア・フランス・[[スウェーデン]]・[[スペイン帝国|スペイン]]([[1762年]]参戦)及びドイツ諸侯との間で戦いが行われた。並行して、イギリスとフランスの間では[[北アメリカ]]、[[インド]]、各大洋上で陸海に渡る戦いが繰り広げられた。プロイセンとオーストリアとの戦争を第三次シュレージエン戦争<ref name="arisaka">{{cite journal|和書|author=[[有坂純]]|year=2004|month=4|title=フリードリヒ大王の七年戦争|journal=歴史群像|pages=pp. 66-80|publisher=[[学習研究社]] }}</ref>、北米での戦争を[[フレンチ・インディアン戦争]]、[[インド]]での戦争を第二次[[カーナティック戦争]]とも呼ぶ。これらの戦争を総称して七年戦争と呼ぶこともある。 オーストリアがフランスと同盟を結んだ[[外交革命]]、400万対8000万と言う圧倒的な人口格差など<ref name="arisaka"/>、当初プロイセンは敗勢を余儀なくされ、その命運も尽きるかと思われたが、[[プロイセン国王|プロイセン王]][[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)]]の適切な戦争指導と、[[エリザヴェータ (ロシア皇帝)|エリザヴェータ女帝]]の死によるロシアの離反によって戦局は打開され、幸運にも戦争はイギリス・プロイセンの側に有利に帰着した。 == 原因 == [[オーストリア継承戦争]]の結果、ハプスブルク領であった[[シレジア|シュレージエン]]はプロイセンへ帰属した。シュレージエンの奪回を意図した[[オーストリア君主一覧|オーストリア女帝]][[マリア・テレジア]]は、フランスとの長年の対立関係を解消してフランス、[[ロシア君主一覧|ロシア女帝]]と結び([[外交革命]])、プロイセンへの復讐戦を画策した。 折から、[[1755年]]9月に北アメリカでフレンチ・インディアン戦争が始まり、フランスとイギリスとの対立はヨーロッパの[[ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領|ハノーファー]]にも飛び火した。この機に乗じてオーストリアが対プロイセンの開戦に踏み切ることが確実な情勢となり、オーストリアの開戦意図を察知したフリードリヒ大王は、[[予防戦争]]として先制攻撃に打って出た。 == 経過 == === 先制攻撃 === フリードリヒ大王は農業生産力の高い[[ザクセン選帝侯領|ザクセン]]の兵站基地化を狙い、[[1756年]][[8月29日]]、開戦と同時に先制攻撃をかけた。9月9日に[[ドレスデン]]は開城され[[アウグスト3世 (ポーランド王)|アウグスト3世]]の宮廷は亡命、ザクセン軍は[[ピルナ]]に後退し包囲を受けた([[ピルナ包囲戦]])<ref name="arisaka"/>。[[10月1日]]、プロイセン軍は[[ロボジッツの戦い]]でザクセン・オーストリア軍を撃破しピルナのザクセン軍も10月14日に降伏した<ref name="arisaka"/>。 1757年、プロイセンはオーストリアの準備不足に乗じハプスブルク領の[[ベーメン]]へ侵攻、5月6日の[[プラハの戦い]]で勝利し[[プラハ]]を包囲したがこの戦いで[[クルト・クリストフ・フォン・シュヴェリーン|シュヴェリーン]]が戦死、オーストリアでもブロウネがこの戦闘の負傷がもとで[[マクシミリアン・ユリシーズ・フォン・ブラウン|ブラウン]]が亡くなった。[[プラハ]]を救援に来た[[レオポルト・フォン・ダウン|ダウン]]率いるオーストリア軍によりプロイセン軍は[[1757年]][[6月18日]]の[[コリンの戦い]]で敗れて、プラハの包囲を解いてザクセンへ敗走した<ref name="arisaka"/>。 西からはフランス軍が侵攻を開始し[[カンバーランド公]][[ウィリアム・オーガスタス (カンバーランド公)|ウィリアム・オーガスタス]]のハノーファーは7月26日に[[ハステンベックの戦い]]で敗れ9月8日に休戦協定を結び<ref name="arisaka"/>、プロイセンは苦しい状況に立たされた。オーストリア軍は[[9月7日]]の[[モイスの戦い]]、[[11月22日]]の[[ブレスラウの戦い]]で進軍していた。ここで大王は巧みな[[内線作戦]]を実施、[[11月5日]]の[[ロスバッハの戦い]]で名高い[[斜行戦術]]を駆使してフランス軍に勝利し、200km以上を機動して[[12月5日]]の[[ロイテンの戦い]]でも斜行戦術により優勢なオーストリア軍を撃破した<ref name="arisaka"/>。 ===プロイセンの同盟国イギリスの動向=== プロイセンに味方したのは、ドイツ諸侯の中では、ヘッセンとイギリスと同君連合の関係にあるハノーファーだけでその軍隊も東進するフランス軍にあっさり敗れて頼りにはならなかった。プロイセンに味方したイギリスは戦争の準備をしていなかったので初期の段階では苦戦を強いられた。地中海では[[メノルカ島|ミノルカ島]]をフランスに奪われ北米では[[オンタリオ湖]]畔のオスウェゴ要塞を失った。 しかし[[ウィリアム・キャヴェンディッシュ (第4代デヴォンシャー公爵)|デヴォンジャー公]]内閣で国王[[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]]と対立して閣内から去った[[チャタム伯ウィリアム・ピット|ウィリアム・ピット]](大ピット)がニューカッスル公[[トマス・ペラム=ホールズ (初代ニューカッスル公)|トマス・ペラム=ホールズ]]と連立内閣を組み<ref name="arisaka"/>、国務大臣として外交の指導・戦争の指揮をとり始めると徐々にイギリスに好転し始めた。大ピットはインドで財を成したトマス・ピットの孫で植民地の情勢に明るく軍事主計長官の経験もあり、戦争の指導者としては適任者であった。 大ピットは北アメリカ大陸などのフランスの植民地の攻撃に専念してプロイセンの為に大規模な援軍や艦隊を送ることはしなかったが、援助金を与えた<ref name="arisaka"/>のでプロイセンにとっては、これが戦争を続けることができる命綱となった。[[ラゴスの海戦]]と[[キブロン湾]]の海戦で勝利したイギリスは制海権を握った。フランスはイギリスに制海権を握られ、植民地に増援部隊を送ることができず北米やインドでの攻防に大きく影響を及ぼした。 === ブランデンブルクの奇跡 === 東からはロシア軍が侵攻を開始、1757年8月30日の[[グロース・イェーガースドルフの戦い]]で[[東プロイセン]]を占領し[[ケーニヒスベルク]]を占領したが[[メーメル]]に引き返し司令官は解任された<ref name="arisaka"/>。 その後、カンバーランド公の後任にフリードリヒ大王の義弟、[[フェルディナント・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル|ブラウンシュヴァイク公フェルディナント]]が任命され1758年2月18日にハノーファーに入城、[[6月23日]]には[[クレフェルトの戦い]]でフランス軍を破りフランス軍は[[ライン川]]西岸まで撤退した<ref name="arisaka"/>。 [[1758年]]、東方から再び迫るロシア軍が来る前にオーストリア軍との決着をつけようとプロイセンは4月18日に[[シュヴァイドニッツ]]を陥落させた後、[[オロモウツ|オルミュッツ]]を包囲したが補給部隊が[[エルンスト・ギデオン・フォン・ラウドン|ラウドン]]らによって壊滅させられシュレージエンまで戻った<ref name="arisaka"/>。 [[ベルリン]]へ迫るロシア軍に対して[[8月25日]]、プロイセン軍は[[キュストリン]]北東の[[ツォルンドルフの戦い]]でロシア軍を破った。しかし[[10月14日]]にザクセンで行われた[[ホッホキルヒの戦い]]では、ダウン指揮下のオーストリア軍に払暁攻撃を受け、歩兵の3分の1と砲兵の大部分を失う打撃を受ける。訓練された兵士の損失は大王の戦術展開を困難にした。そして[[1759年]][[8月12日]]、[[クネルスドルフの戦い]]で、5万3千のプロイセン軍は7万のオーストリア・ロシア連合軍に壊滅的な敗北を喫する。大王自ら敵弾にさらされ、上着を打ち抜かれ乗馬は撃ち倒されるありさまであった。ベルリンは無防備となり、プロイセンの命運も尽きるかと思われた。 ところが、オーストリア・ロシア連合軍は無防備のベルリンへ進撃せず、最大の危機は去った。連合軍内でベルリン総攻撃のために協定が結ばれたが、オーストリア軍が守らなかったために、ロシア軍が[[冬営]]に引き返してしまったためである。プロイセンとフリードリヒ2世は一命を取りとめ、このことは後に[[ブランデンブルクの奇跡]]と呼ばれた。 === 講和へ === [[1760年]]に入ってもプロイセンの苦しい状況は続いた。[[8月15日]]の[[リーグニッツの戦い (1760年)|リーグニッツの戦い]]でオーストリア軍に勝利するが、その後オーストリア・ロシア連合軍によってベルリンを一時的に占領されてしまう。[[11月3日]]に[[トルガウの戦い]]で再度オーストリア軍に勝利するものの、プロイセン軍も大きな損失を被る。もはやプロイセン軍はぎりぎりの状態まで消耗していた。だが苦しい状況は相手側も同じであった。フランスは北米やインドなどの植民地でイギリスに完敗し、プロイセンとの戦争どころではなくなっていた。フランスは植民地での劣勢を跳ね返すために同じ[[ブルボン朝|ブルボン王家]]のスペインに応援をもとめた。しかしスペインの参戦も戦況を悪化させるだけであった。イギリスは大艦隊を編成してスペインの植民地である[[キューバ]]の[[ハバナ]]や[[フィリピン]]の[[マニラ]]を占領してしまった。オーストリアも戦費の負担にあえぎ、また[[オスマン帝国]]の脅威にも対処せねばならなかった。同様の理由により、[[1761年]][[10月]]にはイギリスがプロイセンへの支援を打ち切った。 [[1762年]]1月にロシアの[[エリザヴェータ (ロシア皇帝)|エリザヴェータ女帝]]が急死。後を継いだ[[ピョートル3世]]は[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]の信奉者であったため、プロイセンとの戦争を中止した({{仮リンク|サンクトペテルブルク条約 (1762年)|en|Treaty of Saint Petersburg (1762)|label=サンクトペテルブルク条約}})。オーストリア単独での戦争継続も困難となり、停戦交渉が始められた。最初に講和したのは[[スウェーデン]]で、1762年[[5月]]にスウェーデン王妃[[ルイーゼ・ウルリーケ・フォン・プロイセン|ロヴィーサ・ウルリカ]]を介してプロイセン、スウェーデン間との[[ハンブルクの和約 (1762年)|ハンブルクの和議]]が成立した。同年11月、フランスの主導でイギリス・フランス・スペインによるフォンテーヌブロー仮条約が結ばれ、翌1763年[[2月10日]]、英仏間で[[パリ条約 (1763年)|パリ条約]]が締結された。[[2月15日]]にはプロイセン、オーストリア、[[ザクセン公国|ザクセン]]が[[フベルトゥスブルク条約]]を締結し、七年戦争は終結した。 == 戦後処理 == 講和条約により、プロイセンの[[シレジア]](シュレージエン)領有が確実なものとなった。プロイセンは強国となったが、以後フリードリヒ大王が戦争に与することは無くなった。 また、北米、[[西インド諸島]]、インドにおけるヨーロッパ各国の植民地の帰属が再編され、フランスはインドからほぼ全面的に撤退し、北アメリカの植民地のほとんどを失った。代わって北米とインドでの植民地獲得競争におけるイギリスの優位が決定的になった。しかし、イギリスは多額の負債にあえぐことになり、植民地への課税に訴えるが、これが仇となり[[アメリカ独立戦争]]を引き起こすことになる。 ロシアでは戦後処理を主導した[[ピョートル3世]]への批判が高じて{{仮リンク|宮廷クーデター (1762年)|ru|Дворцовый переворот 1762 года|label=クーデター}}が勃発し、[[エカチェリーナ2世]]が実権を握ることになった。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == *[[第2次百年戦争]] *[[世界の一体化]] *[[七年戦争史]] *『[[バリー・リンドン]]』 映画。主人公が前半に従軍する。 {{デフォルトソート:しちねんせんそう}} [[Category:七年戦争|*]] [[Category:七年戦争の戦闘]] [[Category:18世紀のヨーロッパ史]] [[Category:18世紀の戦争]] [[Category:1750年代]] [[Category:1760年代]] [[Category:フリードリヒ2世]] {{Link GA|cs}}
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