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レコンキスタ
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{{Otheruses}} [[ファイル:SantiagoMatamoros.jpg|thumb|right|300px|'''[[ヤコブ (ゼベダイの子)|サンティアゴ・マタモーロス]]'''(モーロ人殺しの聖ヤコブ)。スペインの守護聖人、レコンキスタの象徴]] [[ファイル:Pt-Reconquista2.jpg|right|300px|thumb|'''イスラーム勢力の後退'''([[914年]]–[[1492年]]) イスラーム勢力はイベリア半島の南に押しやられていき、1492年にはすべての領土を失った]] '''レコンキスタ'''([[スペイン語]]:Reconquista)は、[[718年]]から[[1492年]]までに行われた[[キリスト教]]国による[[イベリア半島]]の再征服活動の総称である。[[ウマイヤ朝]]による[[西ゴート王国]]の征服と、それに続く[[アストゥリアス王国]]の建国から始まり、1492年の[[グラナダ]]陥落で終わる。レコンキスタは[[スペイン語]]で「再征服」(re=再び、conquista=征服すること)を意味する。[[ポルトガル語]]では同綴で'''ルコンキシュタ'''という。[[日本語]]においては意訳で'''国土回復運動'''(こくどかいふくうんどう)や、直訳で'''再征服運動'''(さいせいふくうんどう)とされる。 == ムスリム勢力のイベリア侵攻 == [[ムスリム]]勢力の[[ウマイヤ朝]]が[[711年]]にイベリア半島へと侵入した。ここでは侵入前後からレコンキスタの開始、ウマイヤ朝の後継である[[後ウマイヤ朝]]滅亡までを見る。 === ウマイヤ朝の侵攻と西ゴート王国の滅亡 === [[6世紀]]初頭、[[フランク王国]]との戦いに敗れ、国家の重心を[[イベリア半島]]へ移した[[西ゴート王国]]は、約1世紀をかけて半島全土を支配下におさめた。[[589年]]にキリスト教[[アリウス派]]から[[カトリック教会|カトリック]]に改宗していた西ゴートは、イベリアのカトリック化を推進した。 一方、[[661年]]に建国された[[イスラーム]]国家の[[ウマイヤ朝]]は、積極的な拡張政策によって急速に勢力を拡大していた。[[8世紀]]初頭までに[[北アフリカ]]の西端まで版図を広げていたウマイヤ朝は、[[710年]]、[[ジブラルタル海峡]]を越えてイベリア半島に上陸した。この時は一部の都市を襲撃しただけだったが、西ゴート側の抵抗が弱いのを知り、本格的な遠征軍を組織しはじめた。 翌[[711年]]、[[ターリク・イブン・ズィヤード]]率いる遠征軍がジブラルタル海峡を越えた。同年[[7月19日]]、ターリクは[[グアダレーテの戦い]]で西ゴート軍に壊滅的打撃を与え、国王の[[ロデリック (西ゴート王)|ロドリーゴ]]を戦死させた。王が死んだ西ゴートには後継者がおらず、その混乱に乗じてウマイヤ朝は支配領域を拡大していった。[[710年代]]の終わりまでに、ムスリム勢力はイベリア半島を北上し、[[カンタブリア]]山脈以北および[[ピレネー山脈]]以北までキリスト教勢力を追い詰めていった。この頃、イベリア半島南部はイスラムの[[アンダルス|アル・アンダルス]](ヴァンダル人の地の意、[[アンダルシア州|アンダルシア]]の語源)と名前を変えた。 征服した土地では新たな統治が始まっていた。ウマイヤ朝はイベリア半島のキリスト教化を推進した西ゴート王国に比べて、宗教に寛容だった。ムスリムは被征服者に対して[[強制改宗|改宗を強制]]しなかったが、その代わりに[[ジズヤ]]([[人頭税]])を要求した。[[セファルディム|ユダヤ教徒]]、[[モサラベ|キリスト教徒]]の区別なく、ジズヤを納めれば信仰を保持できた。ただし、ある種の社会的格差は存在しており、そのためにイスラム教に改宗するものが相次いだ。また、高額のジズヤが納められずに北部へ逃亡する者や、反乱に加わる者も少なくなかった。 <!--ベルベル、ユダヤなどの人種的格差についても加筆が必要--> === アストゥリアスの反乱と後ウマイヤ朝の建国 === [[ファイル:Don Pelayo.jpg|thumb|right|180px|アストゥリアスのペラヨ]] [[718年]]、西ゴート王国の貴族を称する[[ペラーヨ|ペラヨ]]が、[[アストゥリアス]]地方でキリスト教徒を率いて蜂起し、[[アストゥリアス王国]]を建国した。多くの史家はレコンキスタの開始をこの年に設定している。[[722年]](あるいは718年、724年とも)、ペラヨは[[コバドンガの戦い]]に勝利し、イスラム勢力に対するキリスト教国家として初めての勝利を手にした。これは実際には小規模な戦いに過ぎなかったが、イベリア半島のキリスト教徒にとっては象徴的な初勝利であった。以降、アストゥリアスはレコンキスタの拠点となった。同じ頃、[[カンタブリア]]でも豪族のペドロ公がイスラム勢力を排除していた。両国は連携し、ペドロ公の息子の[[アルフォンソ1世 (アストゥリアス王)|アルフォンソ1世]]は、ペラヨの娘と結婚した。間もなく両国は統合され、地盤を得たアストゥリアス王国は、徐々に南方への反攻を開始した。 [[732年]]、[[トゥール・ポワティエ間の戦い]]で[[フランク王国]]の[[カール・マルテル]]が勝利を収め、ムスリム勢力のピレネー以北への進出を阻止した。その後の[[751年]]に[[メロヴィング朝]]から[[カロリング朝]]へ代替わりすると、フランクは拡張政策に転換し、イベリア進出を狙い始めた。 一方、ウマイヤ朝は分裂の兆しを見せていた。広大な版図の各地で反乱が頻発していたが、[[ダマスカス]]の[[カリフ]]はなんら有効な手立てを打てなかった。[[750年]]、[[アブー・アル=アッバース]]がウマイヤ朝を滅ぼし、新たに[[アッバース朝]]を興した。ウマイヤ朝の王族[[アブド・アッラフマーン1世]]はイベリア半島へ逃亡し、[[756年]]、[[コルドバ]]で[[後ウマイヤ朝]]を建国した。ただし、アッバース朝のカリフに対する配慮から「コルドバの[[アミール]]」を称した。 === フランクの侵攻とイベリア北部の独立 === 後ウマイヤ朝の前途は多難だった。北方のキリスト教勢力、国内のアッバース朝支持者、さらに王位を狙う王族や貴族(ウマイヤ朝の遺臣)が、統治を不安定なものにしていた。このため、アブド・アッラフマーン1世は反抗的勢力を徹底的に弾圧した。しかし、この弾圧のために一部の反抗勢力がフランク王国に接近し、彼らのイベリアへの介入を招くこととなった。 [[778年]]、[[カール大帝]]率いるフランク軍は南下して[[サラゴサ]]を包囲したが、本国での反乱の知らせに撤退を余儀なくされた。この時、追撃してきた[[バスク人]]との間に[[ロンセスバージェスの戦い]]が起こり、後にこの戦いで戦死したブルターニュ公ローラン(ルオドランドゥス)をモデルに「[[ローランの歌]]」が作られた。アブド・アッラフマーン1世は、この機会に[[パンプローナ]]を攻略し、北部制圧の足がかりを作った。 [[785年]]からフランク王国は再度の攻勢に出た。[[ルートヴィヒ1世 (フランク王)|ルートヴィヒ(ルイ)1世]]に率いられたフランク軍は地中海側から侵攻し、[[ジローナ]]を攻略してスペイン攻略の橋頭堡とした。フランク軍はその後も南下を続け、[[801年]]には[[バルセロナ]]を攻略した。後ウマイヤ軍の迎撃によって間もなく侵攻は停止したが、獲得したバルセロナはその後のフランク軍の軍事拠点となった。[[865年]]、フランクは[[バルセロナ伯]]を置いて、[[カタルーニャ君主国|カタルーニャ]]を統治させた。しかし、カタルーニャはしだいにフランクと距離を置き始め、やがては完全な独立勢力となった。 一度は征服された[[パンプローナ]]だったが、地元の有力者[[イニゴ・アリスタ]]が中心となり、まもなく反旗を翻した。イニゴ・アリスタは後ウマイヤ朝の鎮圧軍を撃退し、さらに手を伸ばしてきたフランク軍も撃退した。同じ頃、[[ハカ (スペイン)|ハカ]]でも[[アスナール・ガリンド1世]]がフランクの貴族を追い出していた。この2つの反乱によって、後ウマイヤ朝、フランク王国ともにこの地方に対する影響力は低下した。[[805年]]、アスナール・ガリンド1世が[[アラゴン王国|アラゴン伯領]]を興し、次いで[[824年]]、イニゴ・アリスタが[[ナバラ王国|ナバーラ王国]](パンプローナ王国)を興した。隣接する両国は当初から親密な関係を維持し、後の[[905年]]、[[サンチョ1世 (ナバラ王)|サンチョ1世]]の代に婚姻を通じて統合した。 === レオン王国の建国とアブド・アッラフマーン3世の治世 === たび重なるキリスト教勢力の侵攻もあり、[[9世紀]]中葉から、後ウマイヤ朝の支配体制は揺らぎ始めた。各地の総督や貴族が独立を画策し、キリスト教徒の反乱と相まって、鎮圧に精力を傾けなければならなかった。最も大規模な反乱は[[トレド]]で起こったもので、鎮圧するのに20年以上もかかった。 アストゥリアス王国は、この混乱に付け込んで徐々に版図を広げていき、[[10世紀]]初頭までに[[ドゥエロ川]]以北を支配下におさめた。[[914年]]、[[ガルシア1世 (レオン王)|ガルシア1世]]の代に[[レオン (スペイン)|レオン]]へ遷都し、[[レオン王国]](レオン・アストゥリアス王国)へ改名した。 [[912年]]、[[アブド・アッラフマーン3世]]が即位すると、後ウマイヤ朝の統治能力は回復し始めた。アブド・アッラフマーン3世は、反抗的勢力やキリスト教勢力を抑えて国内の安定を図り、同時に内政にも力を注いだ。彼の統治下でアル・アンダルスの経済は飛躍的に発展した。後ウマイヤ朝の最盛期はこの時期とされている。 この頃、[[北アフリカ]]で[[ファーティマ朝]]が興り、その指導者は[[カリフ]]を自称していた。これに対抗するように、アブド・アッラフマーン3世はそれまでの[[アミール]]から、「コルドバのカリフ」を称するようになった。アブド・アッラフマーン3世は、ジブラルタル海峡を越えて[[モロッコ]]へ兵を派遣し、ファーティマ朝との戦いを開始した。 <!--アッバース朝の「東カリフ国」、ファーティマ朝の「中カリフ国」と合わせて、後ウマイヤ朝は「西カリフ国」と呼ばれ、三つのカリフ国は正統の座を争って対立した。(あまり一般的ではない?)--> [[932年]]、アブド・アッラフマーン3世は、キリスト教勢力を打倒するため、自ら軍を率いて北上した。後ウマイヤ軍は北部の諸都市を攻撃し、[[937年]]には主要都市である[[サラゴサ]]を攻略した。レオン、ナバーラ、カスティーリャを中心とするキリスト教勢力、およびムスリムの反乱勢力は、この非常事態に団結した。[[939年]]、連合軍は[[シマンカスの戦い]]で後ウマイヤ軍を破った。アブド・アッラフマーン3世はコルドバまで敗退した。 以降、アブド・アッラフマーン3世の関心は主に北アフリカに向けられるようになった。後ウマイヤ朝は、一時はモロッコの過半を制圧するが、次第にファーティマ朝が勢力を盛り返し、[[963年]]には[[セウタ]]を保持するのみとなった。遠征に失敗した後ウマイヤ朝は、再びイベリア半島に視線を戻した。 === カスティーリャ伯領の設置とマンスールの台頭 === レオン王国の最前線となる東部地域は、すでに9世紀初頭には「城」を意味する[[カスティーリャ]]の名で呼ばれていた。[[932年]]、後ウマイヤ朝の北上に対抗させるため、レオン王国はこの地域を統合してカスティーリャ伯領を設置し、[[フェルナン・ゴンサレス]]をカスティーリャ伯とした。しかし、カスティーリャは次第に独立色を強めていき、やがてレオン王国を乗っ取ろうとするようになった。 [[951年]]、フェルナン・ゴンサレスはレオンの王位を要求し、カスティーリャとレオン王国の間に戦端が開かれた。[[958年]]、レオン王の[[サンチョ1世 (レオン王)|サンチョ1世]]はカスティーリャ軍によって国を追われた。サンチョ1世は後ウマイヤ朝に通じ、王位復帰後の臣従と領土の割譲を約束して、援軍を引き出すことに成功した。[[960年]]、レオンの王位に復帰したサンチョ1世は、後ウマイヤ朝との約束を全て無視した。北アフリカ戦線が停滞していた後ウマイヤ朝は、これを機に主攻をイベリア戦線に切り替えた。キリスト教勢力は連合を結び、シマンカスの戦いの再現を狙った。しかし、北アフリカとの二正面で作戦していた前回と違い、後ウマイヤ軍は戦力を集中させていた。連合軍は大敗し、一時はバルセロナやパンプローナまで危機に陥った。劣勢となった連合は講和を願い出た。後ウマイヤ朝は貢納と引き換えに講和を了承した。 [[976年]]、[[ヒシャーム2世]]が即位した。彼は未成年だったため、筆頭大臣の[[ムハンマド・イブン・アビー・アーミル]]が後見した。すると彼の権勢に嫉妬したガーリブが謀反し、カスティーリャと連携を結んだ。ムハンマドは直ちに討伐の軍を起こし、ガーリブを破って敗死させ、その勢いでカスティーリャに侵攻した。キリスト教勢力は再び連合を組んで対抗しようとしたが、ムハンマドの巧妙な戦略にまるで抗することができなかった。ムハンマドの攻勢はイベリア半島全土におよび、[[バルセロナ]]、[[パンプローナ]]、[[ポルト]]といった主要都市まで侵攻した。キリスト教勢力は完膚なきまでに敗北し、ことごとく後ウマイヤ朝に臣従を誓った。ナバーラ王国の[[サンチョ2世 (ナバラ王)|サンチョ2世]]はムハンマドに娘を差し出した。この一連の勝利によって、ムハンマドはアル・マンスール・ビッラー(神によって勝利する者)を称した。 === 後ウマイヤ朝の滅亡とタイファ時代の開幕 === [[1002年]]にムハンマドが死亡してから10年もたたないうちに、後ウマイヤ朝は衰退を始めた。筆頭大臣となったムハンマドの子の[[サンチュエロ]](母はナバーラ王の娘)は、カリフの後継者を自称し、また被差別民だったベルベル人を優遇したために、多くの勢力から反感を買った。[[1008年]]、[[コルドバ]]でクーデターが発生し、サンチュエロは殺され、ヒシャーム2世は退位させられた。この時、[[ムハンマド2世]]と[[スライマーン (後ウマイヤ朝)|スライマーン]]という2人のカリフが擁立され、なし崩し的に内乱状態に突入した。 コルドバを中心としたイベリア南部を領有するムハンマド2世と違い、スライマーンには地盤がなかった。そこで彼はカスティーリャに支援を要請し、その兵力でコルドバを攻略することに成功した。しかし、これが先例となり、各地で勃興した反乱者は北部のキリスト教勢力を内乱に引き込み始めた。内乱はますます激化し、カリフの存在は何の意味も持たなくなった。[[1031年]]、[[ヒシャーム3世]]が廃され、ついに[[後ウマイヤ朝]]は滅亡した。イベリア半島全土は[[タイファ]]と呼ばれるイスラームの小国が並び立つこととなった。セビリャ、サラゴサ、[[トレド王国|トレード]]、グラナダ、バダホスといった主要なタイファが後ウマイヤ朝の遺領を分割し、彼らは互いに支配権をめぐって争った。 == キリスト教勢力の南進 == [[1031年]]の後ウマイヤ朝滅亡後、イスラーム勢力は分裂し、キリスト教勢力は失地回復を進めていった。グラナダのナスル朝を除いてイスラーム勢力が消滅した[[1251年]]までをみる。 === カスティーリャ王国の内紛と興隆 === [[ファイル:Taifas jp.png|thumb|right|250px|1031年のイベリア半島の状況]] [[後ウマイヤ朝]]からの圧力が減退したため、イベリア北部ではキリスト教勢力の再編が起こっていた。[[ナバラ王国|ナバーラ]]王[[サンチョ3世 (ナバラ王)|サンチョ・ガルセス3世]]は、[[レオン王国]]を攻めて一挙に勢力を拡大し、さらにカスティーリャ伯領から后を迎えた。[[1029年]]にカスティーリャ伯の[[ガルシア・サンチェス]]が暗殺されると、カスティーリャをナバーラ王国に併合した。[[1035年]]、サンチョ・ガルセス3世は死亡し、遺領は分割相続された。ナバラは長男の[[ガルシア3世 (ナバラ王)|ガルシア・サンチェス3世]]、カスティーリャは次男の[[フェルナンド1世 (カスティーリャ王)|フェルナンド1世]]、ソブラルベ伯領は三男のゴンサロ、アラゴンは庶子の[[ラミロ1世 (アラゴン王)|ラミロ1世]]に与えられた。この時、カスティーリャ、アラゴンは王号を称し、それぞれ[[カスティーリャ王国]]、[[アラゴン王国]]となった。 [[1037年]]、フェルナンド1世はレオン王国を併合し、カスティーリャ・レオン連合王国を建国した。[[1065年]]、フェルナンド1世はバレンシア遠征の途上で病死、カスティーリャ・レオン連合王国もまた分割相続され、カスティーリャは長男の[[サンチョ2世 (カスティーリャ王)|サンチョ2世]]、レオンは次男の[[アルフォンソ6世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ6世]]、ガリシアは三男のガルシアに与えられた。 しかし、間もなく兄弟は分割された遺領を独占するために争い始めた。この時、サンチョ2世の部下に[[エル・シッド]]として後に知られるロドリーゴ・ディアスがいた。アルフォンソ6世は[[1071年]]にガルシアを撃破したが、[[1072年]]にはサンチョ2世に敗れて[[トレド]]へ逃亡した。当時のトレドはタイファの[[トレド王国]]の首都であったが、国王の[[アル・マムーン]]はアルフォンソを迎え入れた。彼はトレドでイスラムの先進的な知識を学んだ。同年、サンチョ2世が暗殺(アルフォンソが黒幕とされている)されると、アルフォンソはカスティーリャに帰還し、直ちにレオンに侵攻、さらにガリシアを併合し、カスティーリャ・レオン連合王国を再統合した。[[1076年]]、ナバーラ王の[[サンチョ4世 (ナバラ王)|サンチョ・ガルセス4世]]が暗殺されると、アルフォンソはナバラへ侵攻した。しかし、機先を制したアラゴン王国によってナバーラ王国は継承された。 その後、アルフォンソ6世は南方のタイファ諸国へ攻撃をかけた。ただし征服はせず、主としてタイファ諸国から貢納を引き出す方法を選択した。[[1080年]]、[[トレド]]で国王の[[カーディル]]が追放され、[[バダホス王国]]の[[ムタワッキル]]がトレドの支配権を握った。アルフォンソはカーディルを保護し、彼を復位させるために南下した。同年4月、アルフォンソはムタワッキルを追い、カーディルを復位させた。しかし、トレド王国内の反カーディル派は、[[サラゴサ王国]]や[[セビーリャ王国]]を引き込んでアルフォンソに対抗させた。アルフォンソは戦いを優勢に進め、[[1085年]]にトレドを陥落させた。続く[[1086年]]には[[バレンシア (スペイン)|バレンシア]]を制圧し、「2つの宗教の皇帝」を自称した(キリスト・イスラムの皇帝の意。あるいはユダヤ教を加えて3つとも)。 === ムラービト朝の上陸とタイファ諸国の併合 === [[1056年]]、[[北アフリカ]]の[[モーリタニア]]で[[ムラービト朝]]が建国された。やがて北上を開始したムラービト朝は、[[1084年]]には[[モロッコ]]、[[ガーナ王国]]を支配下に置いていた。[[1086年]]、セビリャ、グラナダ、バダホスのタイファ諸国は、急速に勢力を拡大するアルフォンソ6世に対抗するため、揃ってムラービト朝に支援を要請した。ムラービト朝の君主[[ユースフ・イブン・ターシュフィーン]]はこれに応え、同年[[6月30日]]、自ら軍を率いて上陸した。ムラービト軍はタイファ諸国の軍と合流し、アルフォンソ6世の包囲下にあるサラゴサへ向かった。同年[[10月23日]]、サラカの戦い([[サグラハスの戦い]])でムラービト朝を中心とする連合軍はカスティーリャ軍に壊滅的打撃を与えた。アルフォンソ6世の威勢は失墜し、タイファ諸国はカスティーリャへの貢納を停止した。 カスティーリャを破ったムラービト軍はモロッコへ帰還した。するとカスティーリャは戦力を再編し、まもなく南方への攻勢を再開した。再びムラービト朝に救援要請が届けられた。[[1089年]]、ユースフは2度目のイベリア上陸を果たし、翌[[1090年]]にはトレドを包囲した。しかしこの時、タイファ諸国はムラービト軍を積極的に支援しなかった。彼らは[[ベルベル人|ベルベル]]系の王朝であるムラービト朝が、[[アラブ]]系であるタイファ諸国を脅かすのではないかと警戒していた。さらにタイファ諸国は密かにカスティーリャとの講和を準備していた。この不誠実な対応に激怒したユースフはイベリアから撤退した。翌[[1091年]]、ユースフはタイファ諸国を征服するため、3度目のイベリア上陸を果たした。 上陸したその年に[[コルドバ]]と[[セビーリャ]]を占領したのを皮切りに、[[1094年]]に[[リスボン]]を制圧、[[1102年]]には[[エル・シッド]]亡き後のバレンシアを獲得した。[[1107年]]、ユースフが死亡し、[[アリー・イブン・ユースフ]]が即位したが、ムラービト朝の勢いは止まらなかった。この間、アルフォンソ6世はなんら有効な手を打てなかった。それどころか、[[1108年]]にウクレスの戦いで一人息子のサンチョを失った。[[1110年]]、ムラービト朝は[[サラゴサ]]を占領し、南部イベリアを統一した。 === アラゴン王国の興隆とポルトガルの建国 === [[1035年]]に誕生した[[アラゴン王国]]だったが、西方のナバーラ、カスティーリャ、南方のサラゴサ、東方のカタルーニャという強力な勢力が周囲を取り巻いていたため、領土の拡張は困難だった。[[1076年]]、ナバーラ王[[サンチョ4世 (ナバラ王)|サンチョ・ガルセス4世]]が暗殺された。継承権を有していたアラゴンとカスティーリャはナバラへ侵攻し、先にパンプローナへ到着したアラゴンの[[サンチョ1世 (アラゴン王)|サンチョ・ラミレス]]がナバーラ王となった。強固な地盤を得たアラゴンは、南方への侵攻を開始した。[[1104年]]に[[アルフォンソ1世 (アラゴン王)|アルフォンソ1世]](武人王)が即位すると、アラゴンの攻勢はより積極的になり、[[1118年]]にはムラービト朝から[[サラゴサ]]を攻略した。これによって、エブロ川中流域はアラゴン王国の勢力圏となった。この一連のアラゴンの興隆には、フランスやドイツからやってきた十字軍騎士たちが貢献したとされている(これはカスティーリャも同様である)。 [[1134年]]、アルフォンソ1世が亡くなり、ナバーラは[[ガルシア6世 (ナバラ王)|ガルシア6世]]に、アラゴンは[[ラミロ2世 (アラゴン王)|ラミロ2世]]に分割相続された。[[1137年]]、ラミロ2世は娘の[[ペトロニラ (アラゴン女王)|ペトロニラ]]に王位を譲り、ペトロニラの夫の[[バルセロナ伯]][[ラモン・ベレンゲー4世]]にアラゴンの統治を委ねて、自身は政治から身を引いた。ここにおいてアラゴンとカタルーニャは連合し、[[アラゴン連合王国|カタルーニャ=アラゴン連合王国]]が成立した。 [[ファイル:BatalhaOurique.jpg|thumb|right|250px|1139年、オーリッケの戦い]] この頃、レコンキスタの一方の主役となる[[ポルトガル王国]]が建国された。11世紀中葉、[[コインブラ]]以北はレオン王国(カスティーリャ=レオン連合王国)の支配下にあった。[[1094年]]、アルフォンソ6世の娘婿でフランス王家[[カペー家]]支族である[[ブルゴーニュ家|ブルゴーニュ公家]]の[[エンリケ (ポルトゥカーレ伯)|アンリ・ド・ブルゴーニュ]](エンリケ・デ・ボルゴーニャ)が[[ポルトゥカーレ伯領|ポルトゥカーレ伯]]に封じられた。アンリの子アフォンソ・エンリケスは、レオン王国からの独立を画策していた。[[1139年]]、[[オーリッケの戦い]]でムラービト軍に勝利したアフォンソは、これを機に独立を宣言し、自らは[[アフォンソ1世 (ポルトガル王)|アフォンソ1世]]と称した。当初は独立に反対していたレオン王国だったが、ローマ教皇の口添えもあり、[[1143年]]にこれを承認、ポルトガル王国が誕生した。[[1147年]]、アフォンソ1世は[[リスボン]]を陥落させ、一挙に版図を拡大した。 === アルフォンソ7世の分裂策とムラービト朝の滅亡 === [[1126年]]、[[アルフォンソ7世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ7世]]がカスティーリャ王に即位した。アルフォンソは南方への侵攻を続けるとともに、イスラム勢力が分裂するように仕向けた。この頃、イベリア南部では[[ムラービト朝]]に対する反乱が続発していた。従来のようなキリスト教徒の反乱はもちろんのこと、[[アラブ]]系ムスリムの反乱も多かった。支配階級である[[ベルベル人]]およびアフリカ系ムスリムに対する反発と、厳格な統治への不満が主な原因とされている。アル・アンダルスには、旧タイファ諸国の復活を望む王族や遺臣が多数存在していたため、アルフォンソは彼らを援助し、次々とムラービト朝に対して反旗を翻させた。 一時はイベリア半島の過半を制圧したムラービト朝であったが、その全盛期は短かった。[[1121年]]、[[マフディー]]を自称する[[イブン・トゥーマルト]]が[[モロッコ]]で反乱を起こした。彼に付き従う者たちは「ムワッヒド」と称して勢力を拡大し、やがてムラービト朝へ攻撃を開始した。モロッコとイベリア半島の反乱を抑えきれなくなったムラービト朝は、内部から崩壊していった。[[1147年]]には首都[[マラケシュ]]がムワッヒドによって陥落、ムラービト朝は滅亡し、[[ムワッヒド朝]](アルモハード朝)が興った。 ムラービト朝の崩壊にともなって、イベリア南部では複数の独立勢力が誕生、タイファ時代の再来かと思われたが、分裂は長続きしなかった。北部のキリスト教勢力との国力差を理解しているイスラム諸勢力が、ムワッヒド朝に臣従を申し入れたからである。ムラービト朝の転覆までアルフォンソ7世の支援に頼っていたムスリム勢力も、一部を除いて早々にムワッヒド朝の支配下に入った。こうして、イベリア半島南部はムワッヒド朝の版図に組み込まれ、キリスト教勢力と対峙することとなった。 === 教皇の呼びかけとラス・ナバス・デ・トロサの戦い === [[12世紀]]後半まで、キリスト教諸国とムワッヒド朝の戦いはほぼ互角といえた。キリスト教諸国はそれぞれの勢力拡張に重点を置き、統一戦線を張って戦おうとはしなかった。ムワッヒド朝も、本拠地が北アフリカであることから東方への拡張を主眼としており、イベリア半島にはそれほど戦力を割いていなかった。このような両勢力の事情から、決定的な局面はなかなか訪れなかった。 しかし、[[1184年]]に[[ヤアクーブ・マンスール]]が即位すると、ムワッヒド朝は積極策に転じた。[[1195年]]、[[アラコルスの戦い]]でカスティーリャ王[[アルフォンソ8世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ8世]]の軍を破り、[[1197年]]には[[マドリード]]、[[トレド]]を攻撃し、キリスト教勢力を圧迫した。イベリア半島の状勢はムワッヒド朝に有利に傾き、キリスト教勢力は危機感を抱いた。 きっかけは、[[1198年]]に選出された[[教皇|ローマ教皇]][[インノケンティウス3世 (ローマ教皇)|インノケンティウス3世]]によってもたらされた。カトリックの威信の発揚とイスラームの撃退を目指した新教皇は、キリスト教諸国間の争いを停止し、対ムスリムで結束するように呼びかけたのである。これに応えて、ヨーロッパでは[[第4回十字軍]]が結成された。イベリア半島でも、アルフォンソ8世を中心としたキリスト教連合軍が結成されることになった。ピレネー山脈を越えて多くの十字軍騎士が来援し、アルフォンソ8世の軍勢は急速に膨れ上がった。ポルトガルやレオンから兵が派遣され、ナバーラ王[[サンチョ7世 (ナバラ王)|サンチョ7世]]、アラゴン王[[ペドロ2世 (アラゴン王)|ペドロ2世]]は自ら軍を率いて合流した。連合軍は総数6万を超えた。 [[ファイル:Battle of Las Navas de Tolosa.jpg|thumb|right|250px|1212年、ラス・ナバス・デ・トロサの戦い]] [[1212年]][[7月16日]]、現[[アンダルシア州]]北部のラス・ナバス・デ・トロサで、アルフォンソ8世率いるキリスト教連合軍約5万と、[[ムハンマド・ナースィル]]率いるムワッヒド朝軍約12万が激突した(双方の兵力は諸説ある)。[[ナバス・デ・トロサの戦い|ラス・ナバス・デ・トロサの戦い]]はキリスト教連合軍の勝利に終わり、ムワッヒド軍は6万以上(10万以上とも)の死者を出したと伝えられている。これによって、ムワッヒド朝のイベリア半島における軍事力は大きく減退した。 しかし、キリスト教勢力はこの勝利を十分に活用することができなかった。カスティーリャとアラゴンは戦いの直後に王が死去し、後継者争いで内乱の一歩手前の状態になった。レオンとポルトガルは勢力拡大に乗り出したが、単独で勝利できるほどにはムワッヒド朝軍は弱体化しておらず、目立った戦果を上げることはできなかった。結局、各国が体勢を立て直して再度の反攻に出るまでに10年が費やされた。 === ムワッヒド朝の衰退とイベリア南部の征服 === ラス・ナバス・デ・トロサの敗戦の後、ムワッヒド朝はゆるやかに衰退を始めた。[[1224年]]、[[ユースフ2世]]が死去すると、後継者争いが勃発、3人のカリフが擁立され、内乱状態に突入した。同じ頃、モロッコでもベルベル人による反乱が発生していた。これらが原因となり、間もなくムワッヒド朝はイベリアにおける支配力を喪失し、群小国が林立するようになった。キリスト教勢力はこの混乱を好機と見て、南方への侵攻を再開した。 [[1230年]]、[[レオン王国]]と[[ポルトガル王国]]は協同してイベリア南西部に侵攻し、レオンは[[メリダ (スペイン)|メリダ]]、[[バダホス]]を攻略、ポルトガルは[[エルヴァス]]を占領した。ポルトガルはさらに[[アラゴン王国]]と協同し、[[バレアレス諸島]]を攻撃、[[1235年]]までにこれを制圧し、獲得した諸島は両国で分割された。同年末、レオン王[[アルフォンソ9世 (レオン王)|アルフォンソ9世]]が没すると、その息子のカスティーリャ王[[フェルナンド3世 (カスティーリャ王)|フェルナンド3世]]がレオン王国を継承、両国は統合され、以降は単にカスティーリャ王国とのみ呼ばれるようになった。 版図を倍化させたカスティーリャ王国は攻勢を強化し、[[1233年]]に[[ウペダ]]を攻略、[[1236年]][[6月29日]]に[[コルドバ]]を占領した。[[1243年]]初頭、[[ムルシア]]がカスティーリャに降伏し、夏までに[[カルタヘナ_(スペイン)|カルタヘナ]]、[[ロルカ]]を攻略した。一方、アラゴンは[[1238年]]に[[バレンシア (スペイン)|バレンシア]]を制圧し、[[1248年]]には[[ハティバ]]を攻略した。この時点でグラナダ以東は、全てキリスト教勢力のものとなった。カスティーリャとアラゴンは征服地の分割に関する協定([[アルミスラ条約]])を結び、それぞれの分け前を受け取った。 [[1246年]]、カスティーリャは[[セビーリャ]]を攻囲した。セビーリャは2年間にわたる攻囲戦を戦い、[[1248年]][[11月23日]]に開城した。セビリャを制圧したカスティーリャはさらに南下し、[[1251年]]までに[[ジブラルタル海峡]]に達した。この時点で、グラナダのナスル朝を除き、ムスリム勢力はイベリア半島から消滅していた。そして、ナスル朝はカスティーリャに臣従を誓っていた。敵対的ムスリム勢力をイベリア半島から排除するのがレコンキスタの目的であるならば、事実上この時点でレコンキスタは終了していた。 === ナスル朝の建国とその生存戦略 === [[1230年]]頃、[[ムハンマド・イブン・ユースフ・イブン・ナスル]]が[[アルホーナ]]で蜂起し、[[ナスル朝]]を建国した。ナスル朝は[[1235年]]に[[グラナダ]]を攻略し、[[1238年]]に遷都した。このためグラナダ王国とも言う。グラナダは[[シエラネバダ山脈 (スペイン)|シエラネバダ山脈]]の天険を最大の防御としており、キリスト教勢力も容易にこれを突破することはできなかった。 [[ファイル:Reconquista4.jpg|right|200px]] 彼らの生存戦略は巧妙な外交によるもので、常に最適な同盟(あるいは臣従)の相手を選択した。[[1246年]]からの[[セビーリャ]]攻囲に、ナスル朝はカスティーリャの指揮下で参加した。[[1264年]]、カスティーリャの圧力が強まると、北アフリカの[[マリーン朝]]を引き込んでこれに対抗させた。こうした巧みな立ち回りと地理的優勢によって、ナスル朝はイベリアにおける最後のムスリム勢力として[[1492年]]まで存続した。 グラナダには、キリスト教徒に追われた多くのムスリムやユダヤ人が移り住み、彼らの貢献によって経済的にも文化的にも繁栄した。イベリア・イスラーム建築の精華ともいえる[[世界遺産]]の[[アルハンブラ宮殿]]は、ナスル朝の統治下でおおむね現在の形となった。 == レコンキスタの終焉 == 13世紀半ばにはムスリム勢力はグラナダに残るのみとなったが、キリスト教勢力の内部不一致などやグラナダの難攻不落のため、陥落するのは[[1492年]]までかかった。 === キリスト教勢力の分裂とマリーン朝との戦い === [[ナスル朝]]が約250年にわたって存続した理由は、彼ら自身の生存戦略はもちろんのこと、敵対者であるキリスト教勢力が分裂していたのも大きな原因とされている。[[アラゴン連合王国|カタルーニャ=アラゴン]]は[[バレンシア王国|バレンシア]]と[[バレアレス諸島]]を制圧したことによって、[[地中海]]への進出を狙うようになった。[[大西洋]]に開けた[[ポルトガル王国]]は、海洋立国を目指して[[アフリカ]]や[[北海]]方面へ乗り出していた。[[ナバラ王国|ナバーラ王国]]はそもそもイスラム勢力と隣接しておらず、カスティーリャとアラゴンの間で生き残りに必死だった。つまり、この時点でナスル朝と本気で対峙していたのは[[カスティーリャ王国]]だけだった。 そのカスティーリャにしたところで、決して他を圧するほど強大な存在ではなかった。[[1212年]]から[[1251年]]の間に、カスティーリャの版図はほぼ倍増していたが、このために国内の統治は困難になっていた。また、この時代の王権はそれほど強固ではなく、[[レオン王国|レオン]]や[[トレド王国|トレド]]、[[コルドバ]]といった旧王国が大きな発言力を有していたため、政治的に分裂しやすかった。つまるところ、カスティーリャ王国とは、1人の王の下に統一された王国ではなく、諸国家の連合体にすぎなかった。国内の政治的不統一は、後継者争いや権力争いと容易に結びつき、カスティーリャでは内紛が絶えなかった。 [[1260年]]、カスティーリャの視線はグラナダではなく北アフリカに向いていた。カスティーリャ王[[アルフォンソ10世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ10世]]は[[ムワッヒド朝]]の弱体化を好機と見て、[[ジブラルタル海峡]]を渡り[[モロッコ]]へ侵攻した。同じ頃、北アフリカでは[[マリーン朝]]が勢力を拡大しつつあった。両者に挟撃される形になったムワッヒド朝は急激に衰退し、[[1269年]]、マリーン朝によって首都[[マラケシュ]]を占拠されて滅亡した。これによって、カスティーリャとマリーン朝は直接対峙することとなった。[[1275年]]、マリーン朝はイベリア半島に逆侵攻し、戦線は北アフリカとイベリアの両方に広がった。両者の戦いは[[14世紀]]半ばまで慢性的に続き、最終的にはマリーン朝の内紛もあって、カスティーリャの優勢下で終わった。マリーン朝による侵攻は、ムスリム勢力による最後のイベリア侵攻となった。 === カスティーリャの内乱とスペイン王国の誕生 === [[ファイル:イベリア1474年.png|thumb|right|200px|1474年、イサベル1世が即位した当時のイベリア半島の状況]] [[1350年]]に即位した[[ペドロ1世 (カスティーリャ王)|ペドロ1世]]が、王権の強化を狙って継承権を持つ親族の排除を開始したため、カスティーリャは内乱([[第一次カスティーリャ継承戦争]])に突入した。トラスタマラ伯エンリケは、アラゴン王国の支援を得て異母弟のペドロ1世に対抗した。この頃、ヨーロッパでは[[百年戦争]]が進行中であり、両者とも支援を求めて[[フランス王国|フランス]]や[[イングランド王国|イングランド]]に接触したため、国外勢力が多数流れ込み、必然的に内乱は激化した。[[1369年]]、エンリケはペドロ1世を排除し、[[エンリケ2世 (カスティーリャ王)|エンリケ2世]]として即位した。これによって、カスティーリャ王国の王統は[[トラスタマラ家]]に交代した。 [[1474年]]、[[イサベル1世 (カスティーリャ女王)|イサベル1世]]がカスティーリャ女王に即位した。彼女の夫はアラゴン王太子ジローナ公フェルナンドで、共同統治王としてフェルナンド5世と称される。[[1479年]]、フェルナンドが[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド2世]]としてアラゴン王に即位する。これによってカスティーリャとカタルーニャ=アラゴンは実質的に統合され、[[スペイン|スペイン王国]](イスパニア王国)が誕生した。 === グラナダ陥落 === [[ファイル:La Rendición de Granada - Pradilla.jpg|thumb|right|250px|1492年、グラナダ陥落]] [[1482年]]、[[グラナダ]]で内乱が発生した。これを好機と見て、カスティーリャはグラナダへの侵攻を開始した。[[1486年]]までにグラナダの西半分を制圧、[[1489年]]までには残りの東半分も制圧した。[[1490年]]、カスティーリャはムスリム勢力最後の拠点グラナダを包囲した。グラナダは2年間にわたる攻囲戦を戦い、その間にカスティーリャは軍事拠点として[[サンタ・フェ (グラナダ県)|サンタ・フェ]]を建設した。[[1492年]][[1月6日]]、[[アルハンブラ宮殿]]が陥落し、[[ナスル朝]]は滅亡、レコンキスタはここに終結した。 == 現代 == [[ユダヤ人]]の豊かな資金を奪うため、当時の[[スペイン人]]は、ユダヤ人の財産を没収して追放した。2014年のスペインでは、当時スペインから追放された[[ユダヤ教|ユダヤ教徒]]の子孫に[[市民権]]を与えるとの法案が出されている。スペイン政府は「歴史の誤りを正す」と主張しているが、[[イスラエル]]などでは、追放した時と同様、ユダヤ人のお金に目をつけての政策だとの皮肉な論評も出ている。また、[[ムスリム|イスラム教徒]]からも、自分たちに加えられた不正も正されるべきとの声が出ている<ref>{{cite news |title=スペインは、15世紀に追放したユダヤ人の子孫に市民権を与えるのか? |newspaper=Astand|publisher=朝日新聞社 |date=2014-2-26|url=http://astand.asahi.com/magazine/wrpolitics/2014022500003.html |accessdate=2014-3-8|author = 高橋和夫}}</ref>。 == 年表 == * [[711年]] - [[ウマイヤ朝]]が[[イベリア半島]]に上陸、[[グアダレテの戦い]]に勝利し、[[西ゴート王国|西ゴート国王]]ロドリーゴは敗死、王国滅亡 * [[718年]] - [[ペラーヨ|ペラヨ]]が[[アストゥリアス王国]]を建国 * [[722年]] - [[コバドンガの戦い]]でペラヨがムスリム勢力に対して初勝利 * [[732年]] - [[トゥール・ポワティエ間の戦い]]で[[フランク王国]]がウマイヤ朝を破り、ムスリム勢力の[[ピレネー山脈|ピレネー]]以北への進出を阻止 * [[750年]] - [[ウマイヤ朝]]が滅亡し、[[アッバース朝]]が興る * [[751年]] - フランク王国が[[メロヴィング朝]]から[[カロリング朝]]へ交替 * [[756年]] - [[アブド・アッラフマーン1世]]が[[コルドバ]]で[[後ウマイヤ朝]]を建国 * [[778年]] - 後ウマイヤ朝が[[パンプローナ]]を攻略 * [[801年]] - フランク王国が[[バルセロナ]]を攻略 * [[805年]] - [[アスナール・ガリンド1世]]が[[ハカ (スペイン)|ハカ]]を中心に[[アラゴン伯領]]を建国 * [[824年]] - [[イニゴ・アリスタ]]がパンプローナを中心に[[ナバラ王国|ナバーラ王国]]を建国 * [[905年]] - [[サンチョ1世 (ナバラ王)|サンチョ1世]]がナバーラ王国とアラゴン伯領を統合 * [[914年]] - アストゥリアス王国がレオンに遷都し、[[レオン王国]]が成立 * [[929年]] - 後ウマイヤ朝の[[アブド・アッラフマーン3世]]が[[カリフ]]を自称 * [[932年]] - [[カスティーリャ伯領]]の創設 * [[939年]] - [[シマンカスの戦い]]でキリスト教国連合軍が後ウマイヤ軍を破る * [[976年]] - 後ウマイヤ朝で[[ヒシャーム2世]]が即位、[[ムハンマド・イブン・アビー・アーミル]](マンスール)が台頭 * [[1008年]] - [[コルドバ]]でクーデターが発生。ヒシャーム2世が廃され、後ウマイヤ朝は内乱に突入 * [[1029年]] - ナバーラ王[[サンチョ3世 (ナバル王)|サンチョ・ガルセス3世]]がカスティーリャ伯領を併合 * [[1031年]] - [[後ウマイヤ朝]]滅亡、[[タイファ]]時代に * [[1035年]] - サンチョ・ガルセス3世が亡くなり、遺領が分割相続される。[[カスティーリャ王国]]、[[アラゴン王国]]の建国 * [[1037年]] - カスティーリャ王[[フェルナンド2世 (カスティーリャ王)|フェルナンド2世]]がレオン王国を併合し、カスティーリャ・レオン連合王国が成立 * [[1065年]] - フェルナンド2世が亡くなる。カスティーリャ・レオン連合王国の分割相続 * [[1072年]] - カスティーリャ王[[サンチョ2世 (カスティーリャ王)|サンチョ2世]]の暗殺。[[アルフォンソ6世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ6世]]が復位し、カスティーリャ・レオン連合王国を再統合 * [[1076年]] - ナバーラ王[[サンチョ4世 (ナバラ王)|サンチョ・ガルセス4世]]の暗殺。アラゴン王[[サンチョ1世 (アラゴン王)|サンチョ・ラミレス]]がナバーラ王国を継承 * [[1085年]] - アルフォンソ6世が[[トレド]]を陥落 * [[1086年]] - [[ムラービト朝]]がイベリア半島に上陸、[[サグラハスの戦い|サラカの戦い]]でカスティーリャ王国を破る * [[1091年]] - ムラービト朝がタイファ諸国の併合を開始。[[1110年]]までに南部イベリアを統一 * [[1118年]] - アラゴン王[[アルフォンソ1世 (アラゴン王)|アルフォンソ1世]]が[[サラゴサ]]を攻略 * [[1134年]] - [[アラゴン連合王国|カタルーニャ・アラゴン連合王国]]が成立 * [[1139年]] - [[オーリッケの戦い]]でポルトゥカーレ伯アフォンソ・エンリケスがムラービト朝を破る。[[ポルトガル王国]]の独立を宣言し、[[アフォンソ1世 (ポルトガル王)|アフォンソ1世]]を称する([[1143年]]、レオン王国が承認) * [[1147年]] - ムラービト朝が滅亡し、[[ムワッヒド朝]]が興る * [[1198年]] - [[教皇|ローマ教皇]][[インノケンティウス3世 (ローマ教皇)|インノケンティウス3世]]がキリスト教諸国に交戦停止と対イスラーム統一戦線を呼びかける * [[1212年]] - [[ナバス・デ・トロサの戦い|ラス・ナバス・デ・トロサの戦い]]でキリスト教国連合軍がムワッヒド朝軍を破る * [[1224年]] - [[ユースフ2世]]が亡くなり、ムワッヒド朝は内乱に突入 * [[1230年]] - [[レオン王国]]が[[バダホス]]、[[メリダ (スペイン)|メリダ]]を攻略、[[ポルトガル王国]]は[[エルヴァス]]を攻略し、[[アラゴン連合王国|アラゴン王国]]とポルトガル王国は[[バレアレス諸島]]を攻撃([[1235年]]までに制圧) * [[1230年]] - レオン王[[アルフォンソ9世 (レオン王)|アルフォンソ9世]]が亡くなり、カスティーリャ王[[フェルナンド3世 (カスティーリャ王)|フェルナンド3世]]がレオンを継承、両国を統合 * [[1235年]] - [[ナスル朝]]が[[グラナダ]]を攻略(1238年に遷都) * [[1236年]] - カスティーリャ王国が[[コルドバ]]を攻略 * [[1238年]] - アラゴン王国が[[バレンシア (スペイン)|バレンシア]]を制圧 * [[1248年]] - カスティーリャ王国が[[セビーリャ]]を占領 * [[1251年]] - ムスリム勢力が[[ナスル朝]](グラナダ王国)のみに * [[1260年]] - カスティーリャ王国がアフリカへの侵攻を開始 * [[1269年]] - マリーン朝が[[マラケシュ]]占領。ムワッヒド朝が滅亡 * [[1275年]] - [[マリーン朝]]がイベリア半島へ侵攻を開始 * [[1350年]] - [[ペドロ1世 (カスティーリャ王)|ペドロ1世]]がカスティーリャ王に即位、[[第一次カスティーリャ継承戦争]]の勃発 * [[1369年]] - [[エンリケ2世 (カスティーリャ王)|エンリケ2世]]がペドロ1世を排除してカスティーリャ王に即位、[[トラスタマラ家|トラスタマラ朝]]に王統が交代 * [[1469年]] - アラゴン王太子[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド]]とカスティーリャ王女[[イサベル1世 (カスティーリャ女王)|イサベル]]が結婚 * [[1474年]] - [[イサベル1世 (カスティーリャ女王)|イサベル1世]]がカスティーリャ女王に即位 * [[1479年]] - [[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド2世]]がアラゴン王に即位、スペイン王国が誕生 * [[1492年]] - [[グラナダ]]陥落し[[ナスル朝]]滅亡。レコンキスタの終結 == 参考文献 == {{参照方法|date=2012年5月|section=1}} * D.W.ローマックス『レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動』林邦夫訳、[[刀水書房]]、1996年。 ISBN 4-88708-180-4 * フィリップ・コンラ『レコンキスタの歴史』有田忠郎訳、文庫クセジュ、白水社、2000年。 ISBN 4-560-05823-7 * 芝修身『真説レコンキスタ 〈イスラームVSキリスト教〉史観をこえて』書肆心水、2007年。 ISBN 978-4-902854-29-9 * 『歴史群像 No.69レコンキスタ』、学研、2006 *Riley-Smith, Jonathan, ''The Atlas of the Crusades''. 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