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'''ルパカ (Lupaca) '''とは、おおよそ[[12世紀]]から[[13世紀]]ころにはじまり、1470年の[[インカ帝国]]による併合を経たあとも続いた、[[チチカカ湖|ティティカカ湖]]南西岸にあった、[[アイマラ語]]系民族の国家およびその住人の名称である。 ルパカ王国の統治形態は、[[双分制]]に基づく。それは、組織を大きく二つに分け、それぞれに統領をおき、全体として統領が二人いる形態をとる。実際には、二人の統領にも差があるが、形としては二人のトップをおくことが多い。 ルパカ王国では、カリ(Qari)とクシ(Qusi)という二人の統領(Mallku /スペイン語ではCabesa) がいた。その下にさらに、7人の統領(Siete cabesas)がおり、これもまた実際にはそれぞれに対になる7人の統領がいた。これらの7人は、ChuquitoやIlave、Juli、Pomataなど7つの町を抑えており、それらをまとめ上げる形でカリとクシが存在していた。 本来、[[ティティカカ湖]]沿岸はウルコスーユ (Urcosuyu) と呼ばれ、非[[アイマラ語]]系のウル-プキーナ語族が居住していたといわれており、後に[[ペルー]]あるいは[[チリ]]から[[アイマラ]]語系諸族がやってきて、ルパカ王国を築いたという説がある。しかし、やはり諸説あり、詳細ははっきりしていない。 15世紀ころ、[[アイマラ語]]系のルパカ王国 (Lupacas) は、隣接する(一説にはウル-プキーナ語系の)[[コリャ]] (Colla) 王国と激しい抗争を繰り広げていたとされる。その後、ルパカ王国は[[インカ帝国]]と手を結び、[[太陽の島]]を[[コリャ]]王国から奪う。さらに、[[ティティカカ湖]]北岸にあった(一説にはウル-プキーナ語系の)カーナ(Canas) 王国 をルパカ王国が征服したことにより、[[コリャ]]王国 (ウルコスーユ) は、[[ティティカカ湖]]の東と北西部とに分断させられたという。 最終的に、ルパカ王国の王カリ (QariあるいはCari) が、コリャ王国の王サパーナ (Zapana) をパウカローリャ (Paucarolla) で殺し、コリャ王国を征服したという。 最終的には、ルパカ王国も、[[インカ帝国]]により、1470年ころに征服されるが、その後も存続する。 ==補足 == 考古学者の多くは、現在のところ、ルパカなどのアイマラ諸王国が、インカ以前にまでさかのぼることに否定的である。 小規模の試掘や遺跡踏査の結果から、ルパカなどは、インカ帝国の元で繁栄したという見解を持つ研究者がおおい(アメリカ合衆国の研究者)。 ただし、発掘技術の未熟さ、試掘規模の小ささ、遺跡の登録の諸問題、土器編年の不確実さ、などといった問題も残されている。 ここでは、スペイン人の書き記した文献を扱うエスノヒストリー研究に基づいて記した。 ==関連項目== * [[アイリュ]] * [[ティワナク]] * [[ケチュア]] * [[アンデス文明]] * [[ボリビア]] [[Category:ペルーの歴史|るはか]]
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