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ラトレル・スプリーウェル
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{{バスケットボール選手 |名前=ラトレル・スプリーウェル |画像= |本名=Latrell Fontaine Sprewell |愛称= |カタカナ表記=ラトレル・フォンテイン・スプリーウェル |アルファベット表記=Latrell Sprewell |原語名= |原語表記= |国={{USA}} |誕生日={{生年月日と年齢|1970|9|8}} |出身地=[[ウィスコンシン州]][[ミルウォーキー]] |身長=196cm |体重=88kg |血液型= |足のサイズ= |所属チーム名=引退 |ポジション=[[シューティングガード|SG]]/[[スモールフォワード|SF]] |背番号=8 |ドラフト=[[1992年のNBAドラフト|1992年]] 24位 |経歴=[[ゴールデンステート・ウォリアーズ]]<br />[[ニューヨーク・ニックス]]<br/ >[[ミネソタ・ティンバーウルブズ]] |経歴年=1992-1998<br />1998-2002<br />2002-2005 }} '''ラトレル・スプリーウェル'''('''Latrell Fontaine Sprewell''', [[1970年]][[9月8日]] - )は、[[アメリカ合衆国]][[ウィスコンシン州]][[ミルウォーキー]]の[[バスケットボール]]選手。[[NBA]]の[[ゴールデンステート・ウォリアーズ]]、[[ニューヨーク・ニックス]]、[[ミネソタ・ティンバーウルブズ]]でプレイした。豪快な[[シュート (バスケットボール)#ダンクシュート|ダンクシュート]]を持ちジャンプシュートもうまい[[シューティングガード]]。オールスター戦には4度出場。高い運動能力と強気で動じない性格を備え、全盛期にはチームの得点源として活躍したが、[[1998年]]に起こした監督への暴行事件がキャリア全般に影を落としている。 == 生い立ちと学生時代 == 3人兄弟の2番目として生まれる。父は母に[[ドメスティックバイオレンス|暴行 (DV) ]]を加えることがあり、両親はスプリーウェルが6歳の時に別れている。それ以降10年近くの間、彼は祖父母のもとで暮らした。 スプリーウェルが高校4年生の時、学校のバスケットボールチームに誘われ(もともとは陸上の長距離選手)、チーム入りのテストを受けた。これに合格したのみならず、間もなくチームの中心選手として活躍しはじめた。 高校卒業後は[[ミズーリ州]]のスリーリバーズ短大に進み、2年目には26.6得点9.1リバウンドの成績をあげ、チームは短大の全国大会で4強入りした。この活躍が大学の一部リーグの目にとまり、スプリーウェルは[[アラバマ大学]]に編入した。4年生の時には平均17.8得点をマークし、[[1992年のNBAドラフト]]で[[ゴールデンステート・ウォリアーズ]]に全体24位で指名された。当時は名前の読み方も知られていないほどの無名選手で、スプリーウェルを指名した[[ドン・ネルソン]][[ゼネラルマネージャー]]を疑問視したり、嘲笑う人間が多かった。しかし、すぐに彼らは思い知らされることになった。 == ウォリアーズ時代 == スプリーウェルは1年目からチームで首位の出場時間を得(登録選手のほとんどがケガで離脱したこともあった)、平均得点15.4点でオールルーキーセカンドチーム入りを果たした。2年目のシーズン総出場時間は3,533分でリーグ1位。チームは前シーズンより16勝多い50勝32敗の成績を残した。スプリーウェルはこのシーズン平均得点21点をあげ、オールNBAファーストチームとオールNBAディフェンシブセカンドチーム入賞を同時に果たす快挙を成し遂げた。 スプリーウェルは、その高い運動能力と豊富な運動量を持ち味に、高速でゴールに切り込んで見せるダンクシュートや中距離のジャンプシュートを武器にしていた。2年目の[[1994年]]から3年連続で[[NBAオールスターゲーム|オールスター]]に選ばれ、西軍のメンバーとして活躍した。 チームはスプリーウェルをはじめ[[クリス・ウェバー]]や[[クリス・マリン]]など才能ある選手を揃えていたが、1994-95シーズン以降は26勝、36勝、30勝と低迷を続け、監督も目まぐるしく変わった。そして1997-98シーズン初めから就任したのが[[P・J・カーリシモ]]監督だった。 == 首絞め事件 == カーリシモが監督に就いて以降もチームの状況は好転せず、開幕以降1勝13敗の泥沼に陥っていた。[[1997年]][[12月1日]]のチーム練習で、カーリシモとスプリーウェルは口論になり、以降スプリーウェルのキャリアに重くのしかかる暴行事件に発展した。何度も出て行けというカーリシモに耐えかねたスプリーウェルは、「殺すぞ」と脅しながらカーリシモの首を掴んだ。チームメートに引き離され、その場を後にしたしばらくのちにスプリーウェルは再び練習場に戻り暴行を続けようとした。 この事件は大きく報道され、国中で議論を巻き起こすことになった。数日後にNBAはスプリーウェルに無期限の出場停止を言い渡した。これはやがて82試合(1シーズン分)の出場停止という扱いとなった。ウォリアーズはスプリーウェルとの契約を無効にし、スプリーウェルは[[コンバース]]との広告の契約も失った。苦境に立たされたスプリーウェルは、弁護士とともにこの処分が人種差別の側面があることを強調しようとしたが、それほど効果はなかった。繰り返される報道の中では、カーリシモに暴言癖があることも報じられた。NBA史上最も重いとされた処分の後、スプリーウェルは二度とウォリアーズでプレイすることはなかった。 == ニックス時代 == その後[[1998年]][[3月]]に契約は回復されたが、シーズンの残り全ての試合に出場停止と処分は続いた。 翌1998-99シーズンは、NBAの選手とチームのオーナー側の労使交渉が収束せず、[[ロックアウト]]が発動する事態となり、シーズン開始が[[1999年]]にずれ込んだ。この年の1月にスプリーウェルは[[ニューヨーク・ニックス]]にトレードされ1年以上公式戦から離れた後に復帰することとなった。 ニックスは[[パトリック・ユーイング]]や[[アラン・ヒューストン]]、[[マーカス・キャンビー]]、[[ラリー・ジョンソン (バスケットボール)|ラリー・ジョンソン]]を擁する中堅どころのチームだった。スプリーウェルのポジションがヒューストンと重なるためチームとしても考えて起用しなければならなかった。 50試合に短縮されたレギュラーシーズンが終わると、スプリーウェルはユーイングに次いで得点がチーム2位の平均16.4点とチームに貢献した。ニックスは27勝23敗とイースタン・カンファレンス8位、9位だった[[ニューオーリンズ・ホーネッツ|シャーロット・ホーネッツ]]とは1ゲーム差という僅差で辛うじてプレーオフに滑り込んだ。 1回戦では当時ニックスの宿敵だった[[マイアミ・ヒート]]と対戦し、3勝2敗で下した。続くカンファレンス・セミファイナルでは[[アトランタ・ホークス]]を4勝0敗で退け、カンファレンス・ファイナルではもう一つの宿敵である[[インディアナ・ペイサーズ]]を4勝2敗で倒し、[[NBAファイナル]]進出を決めた。イレギュラーなシーズンとは言え、8位シードのチームがNBAファイナルに進むのはNBA史上初めてのことだった(1回戦突破も[[デンバー・ナゲッツ]]に次いで史上2度目)。 一方のウェスタン・カンファレンスを勝ち上がって来たのは[[サンアントニオ・スパーズ]]だった。「ツインタワー」と呼ばれた[[ティム・ダンカン]]と[[デビッド・ロビンソン]]を擁するスパーズに対しニックスは機動力を活かした試合運びで快進撃を続けており、このシリーズは高さと速さの対決と言われた。結果は4勝1敗でスパーズが優勝したが、スプリーウェルは5試合平均26得点の活躍だった。あるジャーナリストは、ファイナルのMVPになったダンカンとスプリーウェルを比較し、[[ビル・ラッセル]]と[[マイケル・ジョーダン]]の対決のようだと評した。 続く1999-2000シーズン、スプリーウェルはニックスの先発メンバーとして平均18.6得点をあげた。その後2003年までニックスでプレイし、2002年にはオールスター戦出場も果たした。 == ティンバーウルブズ時代 == スプリーウェルは[[2000年]]にニックスと5年間の契約延長していたが、[[2003年]]には4チームが関係するトレードで[[ミネソタ・ティンバーウルブズ]]に移籍した。2003-04シーズンには平均得点16.8、2004-05シーズンは12.8得点の成績を残している。 ティンバーウルブズと結んでいた契約は2004-05シーズンとともに終了し、スプリーウェルは[[フリーエージェント (プロスポーツ)|フリーエージェント]]になった。2005-06シーズン開幕の時点で、どのチームとも契約を結ぶことができず、結局、そのシーズン通してFAのままだった。 == 無所属(FA)時代 == NBAに復帰することができずにオフシーズンを迎えてしまう。 [[2006年]][[8月]]、スプリーウェルは性行為中に女性の首を絞めたとして、暴行と婦女暴行の容疑で取調べを受けたことを[[ミルウォーキー]]市警が発表した。去就が注目されたが、どのチームとも契約することなく2006-07シーズンは開幕した。 == プレイスタイル == 新人時代から優れたスピードと跳躍力、運動量を生かし、ファストブレイクでの強力な得点源という位置であった。当時ラン&ガンをチームオフェンスの柱としていていたウォリアーズにはもってこいのタイプであり、独りオールスターに出場するなど、エースと呼べる存在まで台頭した。特に、ファストブレイクでトップスピードで走り回り、両手でのアリウープのフィニッシュは彼のトレードマークであった。また、身体能力や反射能力の高さを生かし、ディフェンス面でもスティールが多い選手だった。 オールスタークラスの選手にしては、キャリア初期はトランジションで今ひとつ飛び抜けたオフェンススキルがなかったが、ニックスに移籍後はジャンプシュートの精度も上がりトランジションでも得点を重ねる選手に成長した。 キャリアを通して基本的には、速攻を得意とする野性的なプレイをする選手であり、いい意味ではディフェンダーの予想外の動きをする独特のオリジナリティとテンポで守りにくい特徴があり、爆発した時にはチームの雰囲気自体を変えてしまう起爆剤のようなところがあった。 闘争心と高い身体能力とNBA屈指のスタミナに裏打ちされたディフェンスもそれなりの評価を受けている。ボールを奪うというより相手をガス欠に追い込む為のディフェンスだった。 == 外部リンク == * [http://www.nba.com/playerfile/latrell_sprewell/index.html?nav=page NBA.com ラトレル・スプリーウェル] {{DEFAULTSORT:すふりうえる らとれる}} [[Category:アメリカ合衆国の男子バスケットボール選手]] [[Category:アフリカ系アメリカ人のバスケットボール選手]] [[Category:ゴールデンステート・ウォリアーズの選手]] [[Category:ニューヨーク・ニックスの選手]] [[Category:ミネソタ・ティンバーウルブズの選手]] [[Category:アラバマ大学出身のバスケットボール選手]] [[Category:ミルウォーキー出身の人物]] [[Category:1970年生]] [[Category:存命人物]]
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