コンテンツにスキップ
メインメニュー
メインメニュー
サイドバーに移動
非表示
案内
メインページ
最近の更新
おまかせ表示
MediaWiki についてのヘルプ
特別ページ
Wikippe
検索
検索
表示
ログイン
個人用ツール
ログイン
ラズィーヤのソースを表示
ページ
議論
日本語
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
ツール
ツール
サイドバーに移動
非表示
操作
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
全般
リンク元
関連ページの更新状況
ページ情報
表示
サイドバーに移動
非表示
←
ラズィーヤ
あなたには「このページの編集」を行う権限がありません。理由は以下の通りです:
要求した操作を行うことは許可されていません。
このページのソースの閲覧やコピーができます。
'''ラズィーヤ'''([[ウルドゥ語]]風の読みでは'''ラズィヤー'''/ رضیہ , Raziya, [[1205年]] - [[1240年]])は、13世紀に[[北インド]]を支配した[[奴隷王朝]]の第5代の[[君主]](在位:1236年 - 1240年)。女性の[[スルターン]](スルターナー)である。 父王[[シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュ]]は、息子たちに王位にふさわしい者がいなかったため、娘のラズィーヤを王位につけることを決めて貴族や神学者([[ウラマー]])たちにこの指名に賛同するよう促した。しかし、ラズィーヤは、父王の指名があっても決して安泰ではなく、強力な[[チャハルガーニー]](「四十人」)と呼ばれたトルコ系の貴族や自分の兄弟たちとも戦わなければならなかった。これらの貴族たちは自分たちの意のままになる傀儡を王位につけようと望んだが、ラズィーヤには、政治的軍事的才能があったので、彼らの思い通りにはならなかった。彼女は、女性の服装を捨て、顔を覆わずに宮中会議をとりおこなったり、自ら狩りにでていったり、戦場では、自ら軍を率いた。 一方、彼女が王位に就くことに反対した[[ワズィール]](宰相)、[[ニザームル・ムルク・ジュナイディ]]は、貴族たちの反乱に味方し、反乱軍を支えたが、ラズィーヤと戦って敗れ、逃亡せざるをえなくなった。また[[ラージプート]]の勢力を抑えるため、[[ランタンボール]]に遠征軍を送り、一時的であったが王国全土を安定させるのに成功した。 ラズィーヤは、自分に忠実な貴族たちの党派をつくるため、[[アビシニア]]人貴族の[[ヤークート・ハーン]]など非トルコ系の人間を高い地位に就けようとしたが、これがトルコ系の貴族の間に反発を引き起こした。このとき、[[ラホール]]と[[スィルヒンド]]で反乱が起こったので、彼女はラホールへ向かって自ら遠征軍を率い、反乱側のその地の知事を従わせた。スィルヒンドへ向かう途中、遠征軍内部に反乱がおき、ヤークート・ハーンが殺され、ラズィーヤは[[タバルヒンダ]](バーテインダ)で捕らわれた。しかし、ラズィーヤは、自分を捕らえた{{仮リンク|マリク=アルトゥーニア|en|Malik Altunia}}を説き伏せ味方に引き入れて、結婚した。 その後、[[デリー]]に帰還しようとして、反乱側のトルコ系の貴族と勇敢に戦ったが、敗れ、逃走中に賊徒に殺された。その時男装のままだったため、当初賊徒は遺体がラズィーヤだとは気づかなかったという。ラズィーヤは、妹のサズィーヤとともにオールド・デリーの目立たない片隅に葬られている。 ==参考文献== * サティーシュ・チャンドラ/小名康之・長島弘(訳)『中世インドの歴史』,山川出版社,1999年 ISBN 463467260X == 史料 == * イブン・バットゥータ『大旅行記』[[家島彦一]]訳第4巻、平凡社〈平凡社東洋文庫,1999年,ISBN 978-4582806595 {{奴隷王朝の君主|第5代:1236年 - 1240年}} {{DEFAULTSORT:らすいや}} [[Category:奴隷王朝の君主]] [[Category:女性君主]] [[Category:1205年生]] [[Category:1240年没]]
このページで使用されているテンプレート:
テンプレート:仮リンク
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:奴隷王朝の君主
(
ソースを閲覧
)
ラズィーヤ
に戻る。
検索
検索
ラズィーヤのソースを表示
話題を追加