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'''ヨルダン内戦'''(ヨルダンないせん)とは、[[1970年]]に[[ヨルダン|ヨルダン・ハシミテ王国]]において発生した、ヨルダン政府と[[パレスチナ解放機構]](PLO)との[[内戦]]。[[9月]]に発生したことから'''黒い九月事件'''(ブラック・セプテンバー事件)と呼ばれることもある。 ==事件の推移== ===背景=== ヨルダンは中東において比較的穏健的現実路線を取っていた王国であったが、[[ヨルダン川西岸地区]]を占領する[[イスラエル]]と対立しており、国内に多数の[[パレスチナ]][[難民]]を抱えていた。ヨルダンにとって3日間で敗北を喫した[[第三次中東戦争]]終結後、ヨルダン政府はPLOを支援して[[ヨルダン川]]を越境攻撃したが失敗、以後ヨルダンはイスラエルに対して強硬手段をとることを諦め、現実路線に移ろうとした。 一方、[[首都]][[アンマン]]のPLO指導部は、寝返ろうとしているヨルダン政府を転覆し、新生パレスチナ国家を樹立するべく各地でヨルダン政府軍・警察と戦闘を繰り広げ始めた。さらに、資金集めと称して銀行を襲撃したり、パレスチナ難民から不当な[[税金]]を取り立てたりと、次第にヨルダン人からもパレスチナ難民からも嫌悪される存在に堕ちていた。 さらに、[[1970年]][[9月6日]]にPLOの過激派[[パレスチナ解放人民戦線|PFLP]]による連続[[ハイジャック]]事件が発生したことにより、ヨルダン国王[[フセイン1世]]が激怒し、PLO排除を決意した。 ===ハイジャック事件=== [[File:Dawsonfieldcamels.jpg|thumb|240px|PFLP旅客機同時ハイジャック事件でハイジャックされ、ヨルダン国内の「革命空港」に着陸させられた[[英国海外航空]]の[[VC-10|ヴィッカースVC-10]](左)と[[トランスワールド航空]]の[[ボーイング707]](右)]] [[9月6日]]、PFLPとPLOに賛同するアラブゲリラが5機の[[旅客機]]を2日に渡り同時に[[ハイジャック]]した。実行犯が事件直後に機内警備員により殺害された[[イスラエル]]の[[エル・アル航空]]の[[ボーイング707]]型機以外の4機の内、3機はヨルダン国内の[[ザルカ]]にある旧[[イギリス軍]]軍用基地に、同基地に着陸できなかった[[パンアメリカン航空]]の[[ボーイング747]]が[[エジプト]]の[[カイロ]]に着陸させられた。 PFLPはイギリス、[[西ドイツ]]、[[スイス]]、[[イスラエル]]に対して、投獄されたメンバーの釈放を要求した。[[9月12日]]に、西ドイツを除く3国は要求に応じて釈放、PFLPも人質を解放したが、無視したイスラエルへの不満として全ての旅客機を爆破した''(詳細は[[PFLP旅客機同時ハイジャック事件]]を参照)''。 この事件により、国内にPLO本部を置かせることを認めていた上に、国土の一部分をPFLPのなすがままにし、その末にハイジャックの目的地とされたヨルダンは世界的な批判を浴び、窮地に追いやられたフセイン国王は激怒して行動を決意した。 ===戦闘勃発=== [[9月14日]]、フセイン国王は国内に戒厳令を敷き、[[近衛兵|国王親衛隊]]の[[ベドウィン]]部隊を中心とする政府軍が[[アンマン]]に進出し、PLO部隊への攻撃を開始した。戦闘はヨルダン各地に波及し、圧倒的な軍事力を持つ政府軍にPLOは敗走を重ねる。しかし、PLO支援に積極的だった[[シリア]]は陸軍をヨルダンに侵入させ、PLOに加勢した。 このままではヨルダンとシリアの[[戦争]]に発展してしまうことは明らかであった。そこで、[[アメリカ合衆国]]は[[空母]]部隊を[[地中海]]のイスラエル沖に派遣し、ヨルダンの行動を支持すると共に、軍事介入したシリアに対する牽制とした。イスラエルは陸軍部隊を[[ゴラン高原]]に展開し、シリア軍に対して警戒を強めた。当初はこのヨルダンの混乱に乗じてイスラエルが軍事作戦を展開する動きもあったが、その計画は見送られた。 結局、[[エジプト]]の[[ガマール・アブドゥル=ナーセル]]大統領がヨルダン・シリア・PLOの仲介に入り、PLOは受け入れを表明した[[レバノン]]へ本部を移転させることとなり、ヨルダン政府軍、PLOとシリア軍は停戦した。この結果、PLOは指導部と主力部隊を[[レバノン]]に移した。 ===変革と影響=== [[File:Assad Tlass war 1973.jpg|thumb|220px|right|ハーフィズ・アル=アサド(右)]] ヨルダンはPLOを国内から追放できたことによって国内の安定を取り戻した。しかし、[[アラブ連盟]]の総意で設立されたPLOを攻撃したことで、連盟各国から強い非難を浴び、アラブ社会から追放されてしまう。 仲介の大役を果たしたナセルは、直後の[[9月28日]]に[[心臓病]]によって52歳で急死する。エジプト[[革命]]と近代化の立役者を失い、エジプト国民だけでなくアラブ全体が動揺した。代わって大統領となった[[アンワル・アッ=サーダート]]はナセルの同志であったが、就任当初からイスラエルとの講和を構想していた。 シリアでは[[11月]]に[[ハーフィズ・アル=アサド]]の指揮によって空軍[[クーデター]]が勃発する。ヨルダンへ侵攻したシリア軍は陸軍のみであったが、このとき空軍司令官であったアサドはアタシ大統領の出動命令を拒否した。アサドはPLOの姿勢に懐疑的であり、就任当初からPLOに好意的なアタシ政権に対する反発があったとされている。この後、アサドは大統領に就任して、PLOとは対立するパレスチナ政策を繰り広げていく。 レバノンは多宗教国家であったが、ここにパレスチナ難民を引き連れたPLOがやってきたことによって、それまでの宗教バランスが崩れた。調和の崩壊は対立と衝突を生み、[[1975年]]に[[キリスト教]]武装勢力がPLOを襲撃したことから[[レバノン内戦]]が勃発する。 PLFPの一部メンバーはこの事件を恨み、9月に起こった事件として「[[黒い九月]]」'''ブラックセプテンバー'''と呼び、自らのグループ名とした。彼らは[[1972年]]の[[ミュンヘンオリンピック]]において、イスラエル選手団を襲撃、多数を殺害するいわゆる「[[ミュンヘンオリンピック事件]]」を起こす。 ==関連項目== *[[パレスチナ問題]] *[[中東戦争]] **[[第四次中東戦争]] * [[国家の内部における国家]] - ヨルダン国内(や移転したレバノン国内)における PLO を指し、こう評された。 [[Category:ヨルダンの歴史|よるたんないせん]] [[Category:パレスチナ問題|よるだんないせん]]
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