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マクシム・リトヴィノフ
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{{政治家 |name = マクシム・リトヴィノフ |各国語表記 = {{Lang|ru|Макси́м Литви́нов}} |image = RIAN archive 409024 Soviet diplomat Maxim Litvinov.jpg |order = {{Flagicon|SSR1923}}[[ソビエト連邦]][[:en:Minister of Foreign Affairs of the Soviet Union)|外務人民委員]] |term_start = [[1930年]][[7月21日]] |term_end = [[1939年]][[5月3日]] |predecessor = [[ゲオルギー・チチェーリン]] |successor = [[ヴャチェスラフ・モロトフ]] |birth_date = {{birth date|1876|7|17|df=y}} |birth_place = {{RUS1883}}、[[ビャウィストク]] |death_date = {{death date and age|1951|12|31|1876|7|17|df=y}} |death_place = {{SSR1923}}<br>[[ファイル:Flag of Russian SFSR (1937-1954).svg|border|25x20px]] [[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]]、[[モスクワ]] |party = [[ロシア社会民主労働党]]<br />ロシア共産党([[ボリシェヴィキ]])<br />[[ソビエト連邦共産党]] |spouse = |children = |signature = }} '''マクシム・マクシモーヴィッチ・リトヴィノフ'''({{翻字併記|ru|Макси́м Макси́мович Литви́нов|Maxim Maksimovich Litvinov}}、[[1876年]][[7月17日]] - [[1951年]][[12月31日]])は、[[ソビエト連邦]]の[[政治家]]、[[外交官]]。外務人民委員([[外務大臣]])、駐米[[大使]]などを歴任した。 ==生涯== 1876年7月17日[[ロシア帝国]]の支配下にあった[[ポーランド]]の[[ビャウィストク|ビアリストク]]に[[ユダヤ人]]の銀行家の家庭に生まれる。本名は'''メイル・ゲノフ・モイシェーヴィッチ・ヴァラフ=フィンケルシュテイン'''('''{{Lang|de|Meir Genoch Mojsiejewicz Wallach-Finkelstein}}''')、略して'''マクス・ヴァラフ'''('''{{Lang|de|Max Wallach}}''', '''{{lang|ru|Макс Ва́ллах}}''')。[[1898年]][[ロシア社会民主労働党]]に入党する。[[1900年]][[キエフ]]党委員会のメンバーとなる。[[1901年]][[左翼]]運動に関係したことを問われて逮捕されるが、直後に逃亡に成功、[[スイス]]に亡命する。リトヴィノフは、[[1903年]]に[[ボリシェヴィキ]]に参加した、いわゆる[[オールド・ボリシェヴィキ]]のひとりである。革命運動でも頭角を現し、東奔西走した。ロシア本国と在外亡命者の連絡役として手腕を発揮した他、党機関紙『[[イスクラ]]』の編集から、武器の買い入れまで幅広い活動に従事した。[[1905年]]の第一次ロシア革命では、[[サンクトペテルブルク]]で党の新聞『新生活』の発行に当たった。[[1906年]][[イギリス]]に渡り、[[ロンドン]]を中心に国際社会主義ビューローで活動する。 [[1914年]][[第一次世界大戦]]が勃発すると、イギリスで国際反戦運動に参加している。[[1915年]]イギリスの歴史家[[シドニー・ロウ]]卿の娘アイビー・ロウと結婚する。[[1917年]][[ロシア革命]](二月革命)が勃発すると、一時ロシアに帰国するが、十月革命後、[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]によって、ソビエト政権の駐英代表に任命される。しかし、[[1918年]]イギリス当局に宣伝活動をしないという英国滞在条件を不履行であるとの理由で[[ゲオルギー・チチェーリン]]らと共に逮捕される。リトヴィノフらの逮捕は、当時、[[モスクワ]]で反革命工作に従事したとして逮捕された[[領事]]{{仮リンク|ブルース・ロックハート|en|R. H. Bruce Lockhart|label=ブルース・ロックハート}}の一件、いわゆる「ロックハートの陰謀({{Lang|en|Lockhart Plot}})」<ref>http://www.bbc.co.uk/news/world-12785695</ref>に対する復仇であるとされる。結局、外務人民委員(外相)に就任したトロツキーが英国政府に対しチチェーリンとリトヴィノフの釈放を要求し、イギリス駐露大使{{仮リンク|ジョージ・ブキャナン|en|George Buchanan (diplomat)|label=ジョージ・ブキャナン}}及びロックハートと交換の形で身柄をロシアに強制送還させた。帰国後、リトヴィノフは、外務人民委員部参与(参事官)に任命され、以後、駐エストニア公使、ジェノバ、ハーグ両国際会議の全権委員を歴任し、[[1921年]]以後は、[[ゲオルギー・チチェーリン]]外相の下で[[ニコライ・クレスチンスキー|クレスチンスキー]]、[[レフ・カラハン|カラハン]]とともに、外務次官(外務人民委員代理)を務め、[[ヨーロッパ]]・[[アメリカ合衆国|アメリカ]]担当やヨーロッパ諸国との通商交渉に当たった。 ===外相時代=== [[1930年]]、[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]によって、チチェーリンの後任の外相に任命される。外相に就任したリトヴィノフは、前任者のチチェーリンが遂行してきた善隣外交と革命の輸出という二元外交から、ソ連と資本主義諸国との平和的共存に方針を転換する。この方針転換には、レーニン後、[[世界革命]]を主張する[[レフ・トロツキー|トロツキー]]に対して、[[一国社会主義論]]を主張したスターリンの指示によるものであった。[[五カ年計画]]による社会主義国家建設に邁進するため、対外関係の緊張緩和が優先されたためである。1930年代のリトヴィノフの平和攻勢として、特筆すべきことは、米ソ国交回復と、国際連盟加盟が挙げられる。アメリカは、ロシア革命以来、ソビエト連邦の承認を拒否してきたが、[[1933年]][[フランクリン・ルーズベルト]]大統領就任と機を一にして、国交回復に至り<ref>1933年11月16日、米ソ国交樹立 [[ソビエト連邦の諸外国との外交関係樹立の日付]]</ref>、ソ連からは、トロヤノフスキー外務次官が駐米大使として赴任した。国際連盟に関しては従来ソ連は連盟を「資本主義列強による反社会主義同盟」と看做して敵視してきたが、スターリンは連盟を社会主義国家建設に必要な国際平和を確保する機関として認識したことにより連盟に加入する。また、「欧州のある一国」から侵略があれば国際連盟規約第10条(条約第1条)や第16条(条約第3条)を適用すべく両国が「諸手段」を講ずると書かれた仏ソ相互援助条約とチェコスロバキア=ソ連相互援助条約を締結、[[不戦条約|ケロッグ=ブリアン条約]]にも参加、[[第二次エチオピア戦争]]でのイタリアに対する[[経済制裁]]やポルトガルへの武器禁輸など[[1930年代]]を通じて、リトヴィノフは[[反ファシズム統一戦線]]のための「集団安全保障外交」を引っ提げた<ref>Gorodetsky, Gabriel, ''Soviet Foreign Policy, 1917–1991: A Retrospective'', Routledge, 1994, ISBN 0-7146-4506-0, page 55</ref><ref>Dallin, Alexander, ''The Soviet Union at the United Nations: An Inquiry into Soviet Motives and Objectives '', Greenwood Press Reprint, 1962, page 19</ref>。この他、リトヴィノフは、[[極東]]における国境紛争の沈静化などに辣腕を振るった。一方、[[第二次上海事変]]により[[日中戦争]]が本格的に勃発したことはうれしくて我慢できないほどだったことをフランスの[[レオン・ブルム]]副首相に伝えており、1938年9月30日の国際連盟による対日経済制裁については賛成している。ブルムによると、リトヴィノフは「自分自身もソ連も日本が中国を攻撃したことをこの上なく喜ばしく思っている」、さらに「ソ連は中国と日本の戦争ができるだけ長く続くことを望んでいる」と語った。ソ連は第二次上海事変直後に蒋介石の南京政府と不可侵条約を締結し、軍事援助を開始している<ref>[[ユン・チアン]]、[[ジョン・ハリデイ]]共著『[[マオ 誰も知らなかった毛沢東]](上)』土屋京子訳、講談社、2005年、344頁</ref>。 ===失脚=== しかし、[[1939年]]5月外相を突然解任される。リトヴィノフ解任劇の裏には、[[独ソ不可侵条約]]の締結があった。ドイツを[[仮想敵国]]とする外交政策を立案し、ユダヤ系でもあるリトヴィノフの存在は、独ソ条約締結の障害と看做された。リトヴィノフの後任に就任した[[ヴャチェスラフ・モロトフ]]は、ドイツ外相[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]との間で条約締結に合意し、国際社会は驚愕した([[日本]]では、1939年・[[昭和]]14年[[8月28日]][[平沼騏一郎]]内閣が「欧州情勢は複雑怪奇」と声明を出して総辞職した)。[[1941年]]リトヴィノフは、党中央委員を解任されるまでに至った。 [[1941年]][[6月22日]][[バルバロッサ作戦]]が発動され、[[独ソ戦]]が始まると、リトヴィノフは、外務次官に復帰し、スターリン、モロトフ外交を補佐し、1941年から[[1943年]]まで駐米大使も務めた。戦後は、ソ連外交では、目立たない立場ながらも西側諸国との関係改善に力を注いだ。[[1946年]]8月外務次官などの公職から退き、年金生活入りする。1951年12月31日モスクワで自動車事故により死去。[[国葬]]をもって遇された。 だが後に、[[アナスタス・ミコヤン|ミコヤン]]は、「あれは事故ではなく、スターリンがもくろんだ陰謀だった」と回想している<ref>ワレンチン・M・ベレズホフ 『私は、スターリンの通訳だった』(栗山洋児訳、同朋舎、1995年)、343-348頁</ref>。暗殺の原因は、駐米大使時代の知人高官達がリトヴィノフの別荘を訪問し、リトヴィノフが対ソ連外交のやり方をアドバイスしたことだったとされる。 ==脚注== {{reflist}} {{commonscat|Maxim Litvinov}} {{start box}} {{s-off}} {{Succession box | title = {{flagicon|SSR1923}} [[ロシアの外相|ソビエト連邦外務人民委員]] | years = 第2代:1930年 - 1939年 | before = [[ゲオルギー・チチェーリン]] | after = [[ヴャチェスラフ・モロトフ]] }} {{end box}} {{DEFAULTSORT:りとういのふ まくしむ}} [[Category:ソビエト連邦の政治家]] [[Category:ソビエト連邦の外相]] [[Category:第二次世界大戦期の政治家]] [[Category:在アメリカ合衆国ソビエト連邦大使]] [[Category:在キューバソビエト連邦大使]] [[Category:オールド・ボリシェヴィキ]] [[Category:ユダヤ系ポーランド人]] [[Category:ビャウィストク出身の人物]] [[Category:1876年生]] [[Category:1951年没]]
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