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マウリキウス
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'''マウリキウス'''(Mauricius, [[539年]] - [[602年]])は、[[東ローマ帝国]][[ユスティニアヌス王朝]]の第5代[[皇帝]](在位:[[582年]] - 602年)。 先帝[[ティベリウス2世]]に男児がいなかったため、その娘[[コンスタンティナ]]の婿であったマウリキウスが582年、義父の死により即位することとなった。即位後は西の[[ランゴバルド族]]の侵攻に対応するため、[[ラヴェンナ]]とアフリカの[[カルタゴ]]に[[総督]]府を設置した。また、[[サーサーン朝]]ペルシア帝国から亡命してきた{{仮リンク|ホスロー2世|en|Khosrau II}}の復位を助け、ホスロー2世が復位を果たすとサーサーン朝と和睦を結ぶなど、対外政策に尽力した。 しかし、この頃になると[[ユスティニアヌス1世]]の時代より相次いで続く戦争による戦費のため、帝国財政が悪化の一途をたどっていた。このため、マウリキウスは国費削減のため、軍隊に必要な物資を現地で調達するよう命じ、これが軍隊の反発を招いた。さらに帝国に侵入する[[スラヴ人]]や[[アヴァール|アヴァール人]]を討伐するために[[ドナウ川]]北岸での越冬作戦を命じたが、これに対してかねてから不満がたまっていた軍隊が下士官([[百人隊長]])[[フォカス]]を担ぎ出して反乱を起こした。この反乱によってマウリキウスは皇位を追われ、息子たちが殺されるのを見せられた上で処刑されてしまった。 {{東ローマ皇帝}} {{DEFAULTSORT:まうりきうす}} [[Category:東ローマ皇帝]] [[Category:ユスティニアヌス家]] [[Category:539年生]] [[Category:602年没]]
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