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[[Image:Bengal gazetteer 1907-9.jpg|right|thumb|400px|東ベンガル、アッサム地方の地図]] '''ベンガル分割令'''('''ベンガルぶんかつれい'''、''Act of Bengal Partition'')は、[[1905年]]に[[インドの総督|インド副王]][[ジョージ・カーゾン (初代カーゾン・オヴ・ケドルストン侯爵)|カーゾン卿]]によって出された[[法令]]。[[イギリス領インド帝国|インド]]における民族運動の激化を招き、[[1911年]]に撤回された。 == 概要 == [[1885年]]、[[イギリス]]は対英協調的な[[インド国民会議]]を諮問機関のような形で取り扱い、インドの商人、地主、知識人層などの懐柔を図った。しかし、19世紀末より反英的姿勢を示す急進派が国民会議で台頭しており、植民地政府はこうした動向に懸念を抱いていた。 こうした中、インド総督カーゾンによって制定されたのが'''ベンガル分割令'''であった。もともとは行政の効率化のためだったが、当時の民族運動の中心であったベンガル地方を、西ベンガル(現在の西ベンガル州、[[ヒンドゥー教]]信徒多住地域)を他の州に編入して地方議会選挙で[[ベンガル人]]を少数派にするとともに、東ベンガル(現在の[[バングラデシュ]]、[[ムスリム]]多住地域)にムスリム自治州を設立することで、民族運動の分断を図ったのだが、かえって反英闘争を激化させる結果となった。 このベンガル分割令をうけ、[[1906年]]の[[インド国民会議]]において、急進派の主導で'''カルカッタ大会4大綱領'''が採択された。こうした動きに対し、植民地政府は[[全インド・ムスリム連盟]]を発足させ、分割案賛成運動を推進する。これは、反英的な姿勢を強める国民会議を牽制させるための策謀でもあった。戦後、全インド・ムスリム連盟を率いた[[ムハンマド・アリー・ジンナー]]の主導で[[パキスタン]]が独立し、[[ヒンドゥー教徒]]と[[ムスリム]]の[[インド・パキスタン分離独立|分断国家が形成]]されたことを考えると、このことがインド史に与えた影響は極めて大きいといえよう。 [[1911年]]、ベンガル分割令は撤回された。しかし、同年にイギリスはインド帝国の都をカルカッタ(現・[[コルカタ]])から[[デリー]]へ移動させた。これは、カルカッタの動向がインド政治に与える影響を弱める狙いがあった。 {{DEFAULTSORT:へんかるふんかつれい}} [[Category:インドの歴史]] [[Category:バングラデシュの歴史]] [[Category:ベンガル]] [[Category:インド帝国の法]] [[Category:1905年の法]] [[Category:1911年に廃止された法]] [[Category:インドの法令]]
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