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ビン (十国)
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{{記事名の制約|title=閩}} {{基礎情報 過去の国 |略名 = |日本語国名 = 閩 |公式国名 = 閩 |建国時期 = [[909年]] |亡国時期 = [[945年]] |先代1 = 唐 |先旗1 = blank.png |次代1 = 南唐 |次旗1 = blank.png |位置画像 = Imperial Dynasties in China 917 CE (Chinese).png |位置画像説明 = 917年の閩(黄色) |位置画像幅 = 300 |公用語 = 漢語([[中国語]]) |首都 = 長楽府([[福州]]) |元首等肩書 = [[王]](933年より[[皇帝]]を称する) |元首等年代始1 = [[909年]] |元首等年代終1 = [[925年]] |元首等氏名1 = [[王審知|太祖]] |元首等年代始2 = [[925年]] |元首等年代終2 = [[926年]] |元首等氏名2 = [[王延翰|嗣王]] |元首等年代始3 = [[926年]] |元首等年代終3 = [[935年]] |元首等氏名3 = [[王延鈞|恵宗]] |元首等年代始4 = [[935年]] |元首等年代終4 = [[939年]] |元首等氏名4 = [[王継鵬|康宗]] |元首等年代始5 = [[939年]] |元首等年代終5 = [[944年]] |元首等氏名5 = [[王延羲|景宗]] |元首等年代始6 = [[943年]] |元首等年代終6 = [[945年]] |元首等氏名6 = [[王延政|殷帝 王延政]] |変遷1 = [[後梁]]より封ぜられる |変遷年月日1 = [[909年]] |変遷2 = [[皇帝]]を称する |変遷年月日2 = [[933年]] |変遷3 = [[南唐]]によって滅亡 |変遷年月日3 = [[945年]] }} [[File:五代后唐(繁).png|thumb|300px|[[後唐]]代の閩(濃緑)]] [[File:五代后晋、后汉时形势图(繁).png|thumb|300px|[[後晋]]・[[後漢 (五代)|後漢]]代の閩(濃緑)。図中では滅亡時の様子も示されている。王延政の拠った建州・汀州は南唐へ、福州は[[呉越]]に奪われ、漳州・泉州は南唐からの清源軍[[節度使]]が置かれた。]] '''閩'''(びん [[909年]] - [[945年]])は、[[中国]][[五代十国時代]]に現在の[[福建省]]を中心に存在した国。十国の一つ。 :「閩」は [[門部|門構え]]の中に虫 である。 ==歴史== :皇帝それぞれの読み、生没年、在位年については後述の[[#閩の統治者一覧]]を参照。 開祖・[[王審知]]は光州固始(現在の[[河南省]]固始県)の人。[[字]]は信通。兄・[[王潮]]と共に[[唐]]末の混乱の中で中央の混乱を避けて、福建へと移住し、この地を占領した。[[896年]]に王潮は唐より威武軍[[節度使]]に追認され、翌年に王潮が死ぬと王審知が地位を受け継いだ。 [[907年]]に[[朱全忠]]が唐から[[禅譲]]を受けて[[後梁]]を立てると、後梁に[[朝貢|入朝]]して閩王に封ぜられた。 王審知は内政に力を入れ、当時はまったくの後進地であった福建の開発を進めて、大きく発展させた。また南海交易で利益を上げ、[[文人]]・名僧などを集め、文化を奨励した。このような善政により王審知は開閩王と称えられ、[[福州]]には閩王徳政碑(びんおうとくせいひ)が立てられており、現在でも訪問者は絶えない。 しかし[[925年]]に王審知が死んだ後は内紛が続く。まず翌年に王審知の長男の[[王延翰]]が位に就くが、弟の[[王延鈞]]に殺され、そのまま王延鈞が位に就く。閩は後梁を倒した[[後唐]]に対して引き続いて称臣していたが、後唐の明宗・[[李嗣源]]が病に倒れ、後唐が混乱しているのに乗じて、[[933年]]に独立して[[皇帝]]を名乗った。 王延鈞は[[935年]]に長男の[[王継鵬]](王昶)によって殺され、王継鵬(王昶)が帝位に就く。[[937年]]、王継鵬(王昶)は後唐を倒した[[後晋]]に再び称臣して閩王に戻った。王継鵬(王昶)は[[道教]]を狂信し、巫女の言葉を信じて一族を殺し始めたので、[[939年]]に将軍の[[クーデター]]によって殺され、王審知の末子の[[王延羲]]が擁立された。しかし王延羲も暴政を行い、恨みのある一族を殺して回った。[[943年]]、これに対して王延羲の兄・[[王延政]]は任地の[[建州]]で自立して皇帝となり、[[殷 (王延政)|殷]]と称した。 翌年に王延羲は配下により殺され、王延政が閩王の地位を継いだが、この混乱を見た一族の[[王継勲]]と[[王継成]]がそれぞれ自立し、国内は分裂状態となった。この状況を見た[[南唐]]の[[李ケイ (南唐)|李璟]]により攻め滅ぼされて、王延政ら王族は南唐の首都[[建康 (都城)|金陵]]へと連れ去られ、その地で天寿を全うした。 ==文化== 前述した王審知の文化振興により、建てられた建物で現存するものも少なくない。 *開元寺鉄仏 - 福州にある開元寺の中の高さ5.3メートルの鉄仏。王審知の建立といわれる。 *閩王祠 - 前述の閩王徳政碑が中にある。 *涌泉寺(ゆせんじ) - 福州の東南の鼓山の中腹にある寺。[[908年]]に王審知によって創建。 *開元寺 - 泉州にある寺(上記とは別)。この中の塔の一つが王審知によるもの。 ==閩の統治者一覧== #[[王潮]](おうちょう ? - [[897年]] 在位[[896年]] - [[897年]]) #太祖 昭武孝皇帝・[[王審知]](おうしんち [[862年]] - [[925年]] 在位[[897年]] - [[925年]]) #嗣王・[[王延翰]](おうえんかん ? - [[926年]] 在位[[925年]] - [[926年]]) #恵宗 斉粛明孝皇帝・[[王延鈞]](おうえんきん ? - [[935年]] 在位[[926年]] - [[935年]]) #康宗 聖神英睿文明広武応道大弘孝皇帝・[[王継鵬]](おうけいほう ? - [[939年]] 在位[[935年]] - [[939年]]) #景宗 睿文広武明聖元徳大孝皇帝・[[王延羲]](おうえんぎ ? - [[944年]] 在位[[939年]] - [[944年]]) #殷帝・[[王延政]](おうえんせい ? - [[951年]] 在位[[943年]] - [[945年]]) == 参考文献 == * 『世界歴史大系 中国史3 五代~元』([[梅原郁]]他、山川出版社 [[1997年]] ISBN 4634461706) == 外部リンク == {{DEFAULTSORT:ひん}} [[Category:五代十国]] [[Category:ビン|*]] [[Category:福建省の歴史]]
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