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ヒ水の戦い
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{{記事名の制約|title=淝水の戦い}} {{Battlebox |battle_name = 淝水の戦い | campaign = [[五胡十六国時代]] | image = | caption = | conflict = [[ヒ水の戦い|淝水の戦い]] | date = [[383年]][[10月]] | place = 淝水(現在の[[安徽省]][[寿県]]東方) | result = 東晋軍の大勝利 | combatant1 = [[東晋]]軍 | combatant2 = [[前秦]]軍 | commander1 = [[謝石]]、[[謝玄]]、[[謝琰]]、[[劉牢之]] | commander2 = [[苻堅]]、[[苻融]]、[[苻方]]、[[慕容垂]] | strength1 = 7万(もう少し加味されて10万) | strength2 = 公称100万(実数は50万程度) |casualties1 = |casualties2 = 70万から80万(実数から35万から40万<ref name="民族大移動95">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P95</ref>) |}} '''淝水の戦い'''(ひすいのたたかい)は、[[中国]]の[[五胡十六国時代]]に、[[華北]]の[[前秦]]軍と[[江南]]の[[東晋]]軍とが[[383年]]に淝水(現在の[[安徽省]][[寿県]]の東南)で激突した戦い。淝はさんずいに肥。 == 概要 == === 事前の経緯 === 華北の覇権を握っていた[[後趙]]が瓦解した後、[[テイ (民族)|氐]]族を主とする集団が建てた[[前秦]]が台頭し、第3代皇帝[[苻堅]]が漢人[[宰相]][[王猛]]の助けを借りて[[370年]]11月に[[親征]]して[[前燕]]を滅ぼし、[[371年]]4月に[[苻雅]]と[[楊安]]を派遣して[[仇池|前仇池]]を服属させ、[[376年]]8月には[[姚萇]]と[[梁煕]]らを派遣して[[前涼]]を滅ぼし、12月には[[苻洛]]と[[鄧羌]]を派遣して[[代]]を滅ぼし、遼東から中原、[[涼州]]などを獲得して華北統一を完成させた<ref name="民族大移動92">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P92</ref>。この時が前秦の全盛期であり、社会は安定・繁栄し、人口は2300万前後に達し、[[朝鮮半島]]の[[高句麗]]や[[新羅]]からは[[朝貢]]も行なわれた<ref name="民族大移動92"/>。 苻堅は非常な理想主義者で、民族的差別を行わないということで、自分達の本拠である[[関中]]に東にいた[[鮮卑]]を移し、逆に東へ氐族を移すということを行った。また王猛のように氐族以外からも人材を積極的に登用し、枢要な地位に就けていた。苻堅はこのような処置により、領内に於ける氐・鮮卑・[[匈奴]]・[[漢民族|漢族]]の民族を融和させ、来るべき南北統一のための戦い、すなわち対東晋戦への前段階にしているつもりであった。しかし、王猛はこのやり方で民族対立が収められたとは思えず、漢人の心情では東晋を本来の宗主国とあがめる者も多く、対東晋戦は危険であるとの見方を持っており、たびたび苻堅に対して東晋戦を行わないようにとの進言を行った。 華北統一の1年前の[[375年]]に王猛は「晋を攻めないように<ref name="民族大移動93">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P93</ref><ref group="注釈" name="王猛伝">『[[晋書]]』苻堅載記下附王猛伝</ref>。鮮卑・[[羌]]([[前燕]]から降った[[慕容垂]]と羌の[[姚萇]]のこと)は仇敵だからいずれ害となる。徐々に力を削って排除してしまうように」と遺言して死去した。また王猛は国家の重要事として東晋とは友好を結ぶようにも提言していた<ref name="民族大移動93"/><ref group="注釈" name="王猛伝"/>。しかし苻堅はこれに従わなかった。 === 開戦 === 前秦と東晋の戦いは王猛存命の[[373年]]9月、前秦軍が東晋領であった蜀に侵攻して併呑した事から始まった<ref name="民族大移動92"/>。 本格的な侵攻は、[[378年]]2月に苻堅は庶長子の[[苻丕]]に命じて12万の大軍で東晋領の[[襄陽市|襄陽]]を攻めさせた事から始まる<ref name="民族大移動94">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P94</ref>。当時襄陽は東晋の[[梁州]][[刺史]]で南中郎将であった[[朱序]]が守備していた。朱序はよく守ったが、[[379年]]2月に襄陽は陥落して朱序は捕虜となる。苻堅は朱序を赦して度支尚書(財政担当大臣)としている。その後、苻丕の前秦軍は更に東進して5月には現在の[[江蘇省]]に達して[[広陵]]付近にまで迫った<ref name="民族大移動94"/>。つまり東晋の首都[[建康]]にまで迫ったのであるが、これを見て東晋も[[兗州]][[刺史]]謝玄の軍勢が反撃して前秦軍はやむなく淮水の北まで押し返された<ref name="民族大移動94"/>。だがこの戦いにより、前秦は淮水の北と襄陽を手に入れた<ref name="民族大移動94"/>。 [[380年]]、前秦国内で[[苻洛]]が龍城で反乱を起こした<ref name="民族大移動99">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P99</ref>。この反乱は[[薊城]]から中山(現在の[[河北省]][[定州市]])まで拡大したため<ref name="民族大移動99"/>、前秦の南下はひとまず沈静化された。 === 前秦の内部事情 === [[382年]][[10月]]、苻堅は太極殿において東晋討伐を群臣に諮った<ref name="民族大移動94"/>。皇族では末弟で苻堅の補佐である[[苻融]]、少子の[[苻セン|苻詵]]、苻堅が信任する仏僧[[釈道安|道安]]などはいずれも反対した<ref name="民族大移動94"/>。一族群臣の多くは、「東晋には[[謝安]]らの人才が揃っているし、[[長江]]の険に守られているので攻撃はたやすくなく、中原平定の後間が無く将兵が疲れている」として時期尚早であるとして反対論を唱えたり<ref name="中華の崩壊91">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P91</ref>、「晋を討つべからずと言う者は忠臣なり」と涙を流して諫言したりした<ref name="新十八史略122">駒田『新十八史略4』、P122</ref>。これに対して苻堅は「朕は大業を継承して20年になんなんとしている。逃げる賊を平らげ、四方はほぼ平定したが、ただ東南の一隅にまだ朕に従わない者がいる」と発言した<ref name="民族大移動94"/><ref group="注釈">『晋書』苻堅載記下</ref>。 一族・家臣皆が反対する中、[[慕容垂]]のみが「弱者が強者に併合されるのは当然の理で、今や陛下の威は海外に伝わり、虎の如き軍兵100万。韓・白([[韓信]]と[[白起]]のこと)のごとき勇将が朝廷に満ちています。今主命に従わぬのは米粒のような江南のみ。何を躊躇されることがありましょう」と述べて賛意を示し、苻堅は「朕と共に天下を定める者は、ひとり卿のみ」と大変喜んだという<ref name="新十八史略123">駒田『新十八史略4』、P123</ref>。しかし内心では「主上、甚だ驕気。[[慕容部|我が族]]の中興の業をなすはこの際にあり」と喜んでいた<ref name="新十八史略124">駒田『新十八史略4』、P124</ref>。これで苻堅は南征を決心した。たまりかねた重臣は信任厚い高官を通して苻堅を思いとどまらせようとし、愛妾の張夫人ですらたまりかねて「天の聡明は我が民の聡明による」と『[[書経]]』の言葉を引用して諌めたが「軍旅は婦人の預かるべき事ではない」とはねつける有様だった<ref name="新十八史略123"/>。 これには兵力で圧倒的に優位だったことや苻堅自身の天下統一に対する野望、国境における東晋の現実的脅威などもあったためでもある<ref name="民族大移動95"/>。 === 東晋の内部事情 === 東晋では[[大司馬]][[桓温]]が[[373年]]に死去すると、兵権は謝安と桓温の末弟桓沖により委ねられていた<ref name="新十八史略121">駒田『新十八史略4』、P121</ref>。謝安は前秦の勢力拡大、並びに北方や西方に迫る脅威に対抗するため、兄の子すなわち甥の謝玄を将軍に任命し<ref name="新十八史略121"/>、この謝玄の下で[[劉牢之]]らを参謀に登用して精強な北府軍を創設した<ref name="新十八史略122"/>。 とはいえ、兵力は8万ほどであり<ref name="新十八史略124"/>、前秦軍の半分にも満たなかった。謝玄は出陣する前に謝安を訪ねて軍略を質問したが、謝安は平素と変わることなく落ち着きはらって「考えはある」とだけ述べて具体的に語ろうとはしなかった<ref name="新十八史略125">駒田『新十八史略4』、P125</ref>。そのため謝玄はやむなく引き下がったが、心配なので使者を派遣して質問しても同じ答えであり、謝安が親族や友人を集めて田舎の別荘で楽しんでいるのを聞くとたまらなくなって再び自ら訪ねたが、謝安は別荘をかけての囲碁の手合わせを所望した<ref name="新十八史略125"/>。謝安の囲碁の腕は謝玄より下だったが、この日は何故か謝玄は勝てなかったという<ref name="新十八史略125"/>。 また桓沖が都の守護のために3000人の精鋭を派遣してきたが、謝安は西の守りのほうが重要であるとして断った<ref name="新十八史略125"/>。桓沖は謝安が遊興にふけっているのを聞いて「謝安は廟堂の謀略は持っていようが、戦略にはいかにも素人。大敵が今にも来るというのに、戦の経験のない若者を駆り出して防がせ、自分は呑気に遊んでいる。我々は胡に降参する日が来たらしい」と嘆息した<ref name="新十八史略126">駒田『新十八史略4』、P126</ref>。 史書では謝安がこのような態度をとったのは周囲の朝臣を安堵させ動揺させないためであったとされ、実際に謝安に軍略があったのかどうかに関しては不明とされている<ref name="新十八史略126"/>。桓沖の援軍を断ったのは、前衛を突破されたら3000の兵力では役に立たず、あえて断ったとされている<ref name="新十八史略126"/>。 ===淝水の戦い=== 383年5月、前秦軍南下の情報を聞いた東晋は先んじて行動を起こし、車騎将軍の[[桓沖]]に襄陽を、輔国将軍の[[楊亮]]に[[蜀]]を攻撃させた<ref name="民族大移動95"/>。前秦はこれを押し留めた<ref name="民族大移動95"/>。 8月、苻堅は弟の征南将軍[[苻融]]・漂騎将軍{{Lang|zh|張蚝}}({{Lang|zh|蚝}}は虫偏に毛、ちょうし)・撫軍将軍[[苻方]]・衛軍将軍[[梁成]]・平南将軍[[慕容イ|慕容暐]]・冠軍将軍慕容垂らに25万の軍を預けて先鋒とし、自らは歩兵60万余・騎兵27万と言う大軍を引き連れて[[長安]]を出発した<ref name="民族大移動95"/>(兵数はあくまでそう称したということで、実数は半分かそれ以下と思われる)。この大軍は3つに分かれ、梁成と[[王顕]]は彭城([[江蘇省]][[徐州市]])から、一隊が蜀・漢中から長江と漢水を下って西から、苻堅と苻融の主力軍が頴水を下って項城(河南省[[沈丘県]])から建康を目指した 10月、苻融の軍は東晋の首都[[建康 (都城)|建康]]の西北西200Kmに位置する[[寿春]](現在の安徽省[[寿県]])を陥落させ、梁成の軍は洛澗(淮水の支流、寿春の東方)で駐屯した<ref name="民族大移動95"/>。東晋の[[宰相]][[謝安]]はこれに対して弟の征討大都督[[謝石]]と甥(兄の子)の[[謝玄]]に7万の水陸両軍を預けて洛澗を攻撃させ、両名は夜襲をかけて梁成を殺した<ref name="民族大移動95"/>。 その後、東晋軍は淝水に進み、前秦軍も苻堅の本隊が寿春に入った<ref name="民族大移動95"/>。両軍は河を挟んで対峙し<ref name="民族大移動95"/>、苻堅は降伏勧告の使者に朱序を送ったが、朱序は東晋の軍に入ると「前秦の100万の軍が集結してしまうと勝てません。先鋒を挫けば良いでしょう」と謝石達に対して進言した<ref name="新十八史略127">駒田『新十八史略4』、P127</ref>。謝石もこれを受け、東晋軍は勇猛で名高い劉牢之の軍勢に前秦軍の前衛部隊を攻撃させ、勝利した<ref name="新十八史略127"/>。 この敗戦で苻堅は東晋軍が予想に反して精強である事を悟り、恐れを抱いた<ref name="新十八史略127"/>。この時の苻堅は「憮然として始めて恐るる色あり」という状態だったといわれ、山の草木すら敵兵に見えたとまで言われるほどだった<ref name="新十八史略127"/>。この時、謝玄が派した使者が苻堅に対して「渡河して戦おうではないか」と誘いをかけ、苻堅もこれに乗った<ref name="新十八史略128">駒田『新十八史略4』、P128</ref>。一部の武将は兵力の優位を生かしての強硬策を主張したが聞き入れられず、苻堅はこの時に自軍を少し引かせることで相手を誘い込み、東晋軍が河を渡りかけたところでこれを撃つという、いわゆる「半渡」を狙うことにした<ref name="新十八史略128"/>。 前秦軍は予定通りわずかに後退し、それを追って東晋軍が渡河した。ここで反転するはずであったが、兵士達の後退の足は止まらない。兵士達に苻堅の考えた作戦は説明されておらず、しかも前秦軍は異民族や漢人の混成部隊で後退することが退却することと勘違いされたのである<ref name="新十八史略128"/>。しかも朱序が軍内を走り回り、「負けた、退却だ!」と喧伝して回っていた。後ろから渡河を終えた東晋軍が襲いかかり、前秦軍は総崩れになった。苻堅は流れ矢に当たって負傷するが単騎で逃げた<ref name="民族大移動95"/><ref name="新十八史略129">駒田『新十八史略4』、P129</ref>。前秦軍は大混乱になり、軍兵の7割から8割が死傷する大敗となった<ref name="民族大移動95"/>。主だった者では弟の苻融が戦死した<ref name="民族大移動95"/>。苻堅は敗走途中でただ一軍無傷であった慕容垂により保護され<ref name="民族大移動95"/>、12月に長安に帰還した<ref name="民族大移動95"/>。 この敗戦の様を史書では「前秦の兵、大いに敗れ、自ら倒れ、下敷きとなって死す者、野をおおい、川をふさぐ。その走る者、風声鶴唳を聞き、みな思えらしく、晋の兵まさに至らんとすと。草行(道の無い所を逃げ走る事)露宿し、かさぬるに飢凍をもってし、死する者十に七、八」とある<ref name="新十八史略128"/>。なお、風の音、鶴の鳴き声に敵かと驚く敗残の哀れさを風声鶴唳というのは、この戦いから出た故事である<ref name="新十八史略129"/>。 == 戦後 == === 東晋 === この戦勝の知らせが届いた時、謝安は客と[[囲碁]]を打っていた。この報を聞いた客からどうなったかを聞かれて「小僧たちが賊に勝った」と平然とした振りをしていたが、客が帰った後に部屋の中で小躍りし、[[下駄]]の歯をぶつけて折ってしまったが、それに気づかなかったという<ref name="民族大移動97">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P97</ref><ref name="新十八史略128"/>。その後の東晋はこの名声を元に、謝安がしばらくの間政権を執り東晋は安定・全盛期を迎えるが、謝安がわずか2年後に死去して安定期は短期間で終焉し、その没後に台頭した皇族の[[司馬道子]]により東晋は衰退して行く。 === 前秦 === 苻堅は長安に帰還すると、遠征を思いとどまらせようとした妻に対して、「われ、また何の面目あってか天下を治めん!」とさめざめ泣いたという<ref name="新十八史略129"/>。 敗れた前秦はこの敗戦における動揺が激しく、一気に統制力が緩み華北は再び戦乱の時代となる。 慕容垂は弟の[[慕容徳]]に苻堅を殺して自立しようと誘われるが、それは出来ないと断り、東の鎮定に出るという名目で、苻堅と途中で分かれた。そして故郷である[[ギョウ|鄴]](河南省[[臨漳県]]。旧[[前燕]]の首都)に戻り、ここにいた苻堅の庶長子の[[苻丕]]と争い、[[384年]]に自立して燕王となった。これは[[後燕]]と呼ばれる<ref name="新十八史略130">駒田『新十八史略4』、P130</ref>。同じ頃、前秦の北地長史であった[[慕容泓]]は[[華陰]]で兵を挙げた。また同時期に[[関中]]で挙兵していた弟の[[慕容沖]]は苻堅の軍に敗れて逃亡し、慕容泓と合流した。これに対して苻堅は姚萇を派遣するが、慕容泓はこれを破る。更に苻堅に捕らわれていた慕容暐を助けるために長安攻略を目指すが、途中で部下に暗殺される。その後を慕容沖が継ぎ、長安を攻めて苻堅を敗走させ、ここで即位した。これは[[西燕]]と呼ばれる。慕容泓に敗れた姚萇は、敗戦の罪で苻堅に誅殺されることを恐れて逃亡し、渭北(渭河の北)で羌族を集めて自立した。これは[[後秦]]と呼ばれる。前秦の将軍として[[西域]]に遠征していた[[呂光]]は、一旦帰ってきたところで淝水の敗戦を聞き、[[甘粛省|甘粛]]で自立して[[386年]]に涼天王を名乗った。これは[[後涼]]と呼ばれる。 長安から逃げた後の苻堅は、離反した諸国を鎮定するために派兵するが、敗戦が多くまたこの混乱で長安の経済が破壊されて深刻な食糧不足に陥った<ref name="民族大移動97"/>。385年5月、西燕の勢力を恐れて苻堅は一族と共に長安から脱出するが、[[385年]]7月に姚萇により捕らえられ[[新平]]に連行されて[[禅譲]]を強要される<ref name="民族大移動97"/>。しかしこれを断り、首を絞められて殺された(自殺したともいわれる)<ref name="民族大移動98">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P98</ref><ref name="新十八史略130"/>。その死を聞いた苻丕は河東(黄河が北流する東)で皇帝に即位するが、西燕に大敗し、逃れたところを東晋軍に攻められて殺される。その後、一族は抵抗を続けるが、[[394年]]10月に完全に滅ぼされた。 この後、更に[[西秦]]や[[夏 (五胡十六国)|夏]]などが誕生し、更に混乱は深まるが、[[386年]]に拓跋珪([[道武帝]])により復興された[[代 (五胡十六国)|代国]]が魏([[北魏]])と名前を変えて勢力を伸ばし、最終的に華北を統一することになる。 == 脚注 == === 注釈 === <references group="注釈"/> === 引用元 === <references/> == 参考文献 == * [[三崎良章]]『五胡十六国、中国史上の民族大移動』([[東方書店]]、[[2002年]]2月) *『[[資治通鑑]]』([[中華書局]]、1956年) *『[[晋書]]』(中華書局、1974年) * [[駒田信二]]ほか『新十八史略4』([[河出書房]]新社、[[1997年]][[7月]]) {{DEFAULTSORT:ひすいのたたかい}} [[Category:383年]] [[Category:1-5世紀の戦闘]] [[Category:中国の戦闘]] [[Category:魏晋南北朝]] [[Category:五胡十六国]] [[Category:安徽省の歴史]]
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