コンテンツにスキップ
メインメニュー
メインメニュー
サイドバーに移動
非表示
案内
メインページ
最近の更新
おまかせ表示
MediaWiki についてのヘルプ
特別ページ
Wikippe
検索
検索
表示
ログイン
個人用ツール
ログイン
トヨタ・2000GTのソースを表示
ページ
議論
日本語
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
ツール
ツール
サイドバーに移動
非表示
操作
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
全般
リンク元
関連ページの更新状況
ページ情報
表示
サイドバーに移動
非表示
←
トヨタ・2000GT
あなたには「このページの編集」を行う権限がありません。理由は以下の通りです:
要求した操作を行うことは許可されていません。
このページのソースの閲覧やコピーができます。
{{Infobox 自動車のスペック表 | 車種=普通自動車 | 車名= | 車名補=MF10型 | 1枚目画像の説明=前期型 | 1枚目画像名=TOYOTA 2000GT.jpg | 2枚目画像の説明=前期型リア | 2枚目画像名=1967 Toyota 2000GT 02.jpg | 3枚目画像の説明= | 3枚目画像名= | 販売期間=1967年 - 1970年 | デザイン=野崎喩 | ボディタイプ=2ドアクーペ | エンジン=1,988cc [[トヨタ・M型エンジン|3M型]]直列6気筒 [[DOHC|DOHC]] | 最高出力=150ps/6,600rpm(グロス値) | 最大トルク=18.0kgf·m/5,000rpm(グロス値) | トランスミッション=2000GT専用5速[[マニュアルトランスミッション|MT]](他に3速[[オートマチックトランスミッション|AT]]の設定あり) | サスペンション=4輪[[ダブルウィッシュボーン式サスペンション|ダブルウィッシュボーン]](コイルスプリング) | 駆動方式=[[後輪駆動|FR]] | 全長=4,175mm | 全幅=1,600mm | 全高=1,160mm | ホイールベース=2,330mm | 車両重量=1,120kg | 乗車定員=2名 | 自由項目1(内容)= | 自由項目2(項目名)= | 自由項目2(内容)= | 先代= | 後継= }} '''2000GT'''(にせんジーティー)は、[[トヨタ自動車]]と[[ヤマハ発動機]]が共同開発し、ヤマハへの生産委託で[[1967年]]から[[1970年]]までトヨタブランドで限定生産されたスポーツタイプの<!--高級“高級”の定義は?-->[[乗用車]]である。型式は「MF10」。 == 開発までの経緯 == === 開発時の状況 === 1960年代前半の日本における[[モータリゼーション]]勃興期、トヨタ自動車にとって最大の競合メーカーである[[日産自動車]]は[[ダットサン・フェアレディ|フェアレディ]]、また四輪車メーカーとしては新興の[[本田技研工業]]は[[ホンダ・S500|Sシリーズ]]をそれぞれ市場に送り出し、いずれも軽快なオープンボディのスポーツカーとして日本国内外で人気を集めた。これらのスポーツカーは、[[自動車レース]]などでもメーカーの技術力をアピールし、メーカーのイメージアップに大きく貢献する存在であった。 一方のトヨタ自動車は、日産自動車と並んで日本を代表する最大手自動車メーカーでありながら、1960年代前半にはスポーツカーを生産していない状態だった。社外の企業である久野自動車により、[[トヨタ・クラウン|クラウン]]のシャーシを利用して浜素紀のデザインした個性的な4座オープンボディを架装したスペシャリティ・モデルの試作などは行われていたが、そのシャーシやエンジンなどはスポーツカーと呼ぶには非常に未熟なもので世に出ることはなく、自社のイメージリーダーとなるようなスポーツモデルが存在していなかった。 トヨタ自動車のスポーツカーには、[[1962年]]から大衆車[[トヨタ・パブリカ|パブリカ]]のコンポーネンツを用いて系列会社の[[関東自動車工業]]で試作を進めていた「パブリカ・スポーツ」があり、1962年以降の原型デザイン公開を経て、[[トヨタ・スポーツ800]]の名で[[1965年]]から市販された。しかしこれは1,000cc未満のミニ・スポーツカーであり、2,000cc超の乗用車を生産する自動車メーカーであるトヨタのイメージリーダーとしては格が不足していた。 このため、輸出市場やレースフィールドで通用する性能を持った、より大型の本格的なスポーツカー開発が考えられるようになったのである。開発は1964年9月から開始され、シャーシやスタイリングの基本設計はトヨタ自社によって短期間で進められている。 === ヤマハ発動機の技術供与 === [[ファイル:YAMAHA2000GT.JPG|250px|thumb|ヤマハ本社にて展示されている2000GT、3台しか生産されなかったゴールド塗装車のうちの1台。シャシー番号10132]] 同時期、[[オートバイ]]メーカーとしてすでに日本を代表する存在となっていた[[ヤマハ発動機]]では、日産自動車と提携してクローズド・ボディの高性能スポーツカーの開発を進めていた<ref>ヤマハには四輪自動車開発への意欲もあったが、実際の四輪車に関する基礎研究・開発は、二輪業界で同業であった[[本田技研工業|ホンダ]]に比べると立ち後れており、これが日産やトヨタとの提携に繋がったと言える。ヤマハ自体は後年に至るまで自社ブランドの本格的四輪自動車は製造・販売に至っていない。</ref>。日産との協力で開発コード「A550X」と呼ばれる試作車<ref>「日産・2000GT」とも通称される。「A###X」(#はアラビア数字)と言う呼称は日産自動車のもので、後年の自動車趣味誌の記事にも、「YX」で始まるヤマハ側の開発コードは見られない。両車ともリトラクタブルヘッドランプを持つファストバッククーペというコンセプトは共通であるが、車体構造やデザインに共通性は全くない。エンジンも、A550Xはヤマハ発動機が米国の[[航空機]]メーカーから[[特許]]を購入して開発したタイスエンジン(全[[溶接]]製ブロックを持つDOHC4気筒エンジン)をヤマハ発動機が独自に改良したYX80型を搭載していたのに対して、2000GTはクラウンのM型(SOHC 6気筒)にトヨタとヤマハ発動機が共同開発したDOHC[[シリンダーヘッド|ヘッド]]を組み合わせた3M型を搭載しており、全く相違していた。</ref>も作られたが、この計画は日産側の事情により、[[1964年]](昭和39年)に開発途中で頓挫した。 そこでヤマハでは、スポーツカー開発のあらたなパートナーとして、トヨタ自動車工業にアプローチした。すでにスポーツカー開発に着手していたトヨタ側もこれに応諾し、プロジェクトリーダーの河野二郎、デザイン担当の野崎喩、エンジン担当の高木英匡、シャシーと全体レイアウト担当の山崎進一の4人を中心に1964年(昭和39年)末から共同開発が開始された。この際、同年12月末にはトヨタ側の開発メンバーがヤマハに赴き、A550X試作車を実見している。 翌[[1965年]](昭和40年)1月より、トヨタ側の開発陣、河野、野崎、高木、山崎の4名がヤマハ発動機に出向き、2000GTの開発プロジェクトを推進していった。開発の本拠をヤマハ発動機に移すことになったのは、「本社は一切タッチせず。プロジェクトは(前出の)4名とヤマハ発動機でまとめること」という異例中の異例の方針をトヨタが打ち出したためである。開発プロジェクトは順調に進み、4月末に最終設計図が完成。計画開始からわずか11か月後の8月に[[プロトタイプ|試作]]車の第1号車が完成し、トヨタ自動車に送られたのである。 当時のトヨタは実用車主力のメーカーで、高性能エンジンの開発や高級GTカーの内装デザインなどには通暁しておらず、2000GTの高性能エンジンや良質な内装には、ヤマハ発動機のエンジン開発技術や日本楽器の木工技術が大いに役立てられている。 ヤマハ発動機は戦時中に[[航空機]]用の可変ピッチ[[プロペラ]]の装置を製造していた技術・設備を活用するため、1950年代中期からモーターサイクル業界に参入して成功、高性能エンジン開発では10年近い技術蓄積を重ねていた。また[[1950年代]]後半以降のモーターサイクル業界では、四輪車に先駆けて[[SOHC]]・DOHC弁配置の高効率なエンジン導入・研究が進んでいた。このような素地から、ヤマハはトヨタ製の量産エンジンを改良して、DOHCヘッドを備えたエンジンを製作することができた<ref>ただし、それまでのヤマハ製オートバイと[[船外機]]のエンジンは全て[[2ストローク機関|2ストローク]]であり、[[4ストローク機関|4ストローク]]エンジンの製品化は1970年の[[ヤマハ・XS-1|XS-1]]が最初となる。ヤマハ公式の「[http://global.yamaha-motor.com/jp/showroom/cp/collection/xs-1/story/ XS-1 開発ストーリー]」によると、このバーチカルツインには2000GTの3M型エンジンを手がけたノウハウはほとんど役に立たず、[[トライアンフ・ボンネビル]]650を模倣できる状況にありながら、初めての4ストロークエンジン開発に難渋していた様子が記されている。</ref>。 またヤマハは楽器メーカー(日本楽器製造)が前身で、楽器の材料となる良質木材の取り扱いに長けていたことを活かし、[[ダッシュボード (自動車)|インストルメントパネル]]と[[ステアリング|ステアリングホイール]](ともに前期型は[[ウォールナット]]、後期型は[[シタン|ローズウッド]]製)の材料供給・加工までも担当した。 ==== 「開発丸投げ」の俗説 ==== 2000GTはその成立過程での2社共同開発体制という特異性に加え、実車生産についても、ヤマハおよびその系列企業に委託されたこともあり(後述)、「果たしてトヨタが開発した自動車と捉えるべきか」という疑問が、愛好者、評論家の一部によって呈されている。 自動車関係の書籍・雑誌では古くから、さらに近年では個人による[[ブログ]]上などでも(しばしば前後に、自社技術のアピールを目的として2000GTを市販したトヨタへの侮蔑的言辞を伴って)「トヨタは2000GTの自力開発ができず、ヤマハが開発・生産したスポーツカーを買い取っていたに過ぎない」「これは実際には『ヤマハ2000GT』というべきものである」とする辛辣な評、また、「日産・2000GTの試作車はトヨタ・2000GTの原型」と断じる極端な説までもがごく一部で流布されている<ref>トヨタ・2000GTのヤマハ側の開発責任者であった技術者の安川力(やすかわ ちから)は[[モノ・マガジン]] No.323(1996年8月2日号)のインタビュー(238ページ)で、日産、トヨタ両車の関連を否定している。</ref>。 トヨタ・2000GTの開発後半世紀近くが経過しているが、両社の開発分担が厳密にどのようなものであったのかについての解明は十分になされていない。ヤマハ発動機側は2000GTの開発についての公式な言及を「ヤマハの技術供与」としている。 == 生産・販売 == === 生産 === 市販車の本格生産は、ヤマハ発動機に委託された。 [[板金|鈑金]]・[[溶接]]・車体[[組立]]・エンジン組立・[[塗装]]の工程は、ヤマハ発動機が[[静岡県]][[磐田市]]に新設した3号館工場で手作業によって行われ、[[繊維強化プラスチック|FRP]]パーツ類は新居工場([[浜名郡]][[新居町 (静岡県)|新居町]])が製造し、内装パネル関係は[[ヤマハ|日本楽器製造]]、ボディの[[プレス]]関係は[[1950年代]]にバイクメーカーとして活躍し、ヤマハの傘下に入った北川自動車工業(後のヤマハ車体工業、[[1993年]]4月にヤマハ発動機に吸収合併)の他、(株)畔柳板金工業所(現・[http://www.kuroyanagi.co.jp/index.html 畔柳工業])といった、トヨタ系試作[[プレス加工|プレス]]メーカーも担当した。 === 発売価格 === 当時の2000GTの[[希望小売価格|価格]]は238万円で、トヨタ自動車の[[高級車]]であるクラウンが2台、[[大衆車]]の[[トヨタ・カローラ|カローラ]]が6台買える程に高価であった。[[1967年]](昭和42年)当時の日本における大卒者の[[初任給]]がおおむね2万6,000円前後であったから、[[21世紀]]初頭における1,500万円から2,000万円程度の感覚にも相当する、一般の人々にとっては高嶺の花の高額車であった。 それでも生産に手間がかかり過ぎてコスト面で引き合わない価格設定であり、全生産期間を通じて常に[[黒字と赤字|赤字]]計上での販売であった。トヨタ自動車にとっては「高価な広告費」とも言うべきものであった。 === マイナーチェンジ === [[ファイル:1969 Toyota 2000GT 01.jpg|thumb|250px|後期型(北米仕様・MF12L)]] 市販開始から2年後の[[1969年]]8月に、[[モデルチェンジ (自動車)|マイナーチェンジ]]が行われた。2000GTは、このマイナーチェンジより前の前期型(1967年5月から1969年7月生産)と、その後の後期型(1969年8月から[[1970年]]10月生産)に大別される。 === 2300GT ? === [[直列6気筒]][[SOHC]] 2,253 cc エンジンを搭載したモデルも生産されているが市販に至らなかったため正式通称名は発表されておらず不明である。市販された2,000 cc モデルと区別するため、雑誌やマニアなどが'''2300GT'''と称しているが正式名ではない。 現在[[トヨタ自動車]]で保有し展示されている(後述)車輌が[http://www.2000gt.net/Museum/Megaweb/megaweb05.jpg '''TOYOTA2000GT輸出仕様''']となっていることや[http://www.2000gt.net/collections/MF12L-100002/mf12l100002_07.jpg 取り付けられているエンブレム]が2000GTとなっていることなどから、2000GTという名の2,300 cc モデル、つまり「'''2000GT'''」としてDOHC2,000 cc とSOHC2,300 cc の2つのモデルでの併売を計画していたとも考えられる。 エンジンは当時北米向輸出仕様の[http://en.wikipedia.org/wiki/Toyota_Crown クラウン]と[http://en.wikipedia.org/wiki/Toyota_Mark_II コロナマークII]に搭載されていた[[トヨタ・M型エンジン|2M型]]を基本に[[ソレックス]]ツインチョークキャブレターを3連装した[http://www.2000gt.net/collections/MF12L-100002/mf12l100002_23.jpg 2M-B型エンジン]を搭載している。型式はMF12L<ref>「L」は左ハンドル(Left-hand drive)を表す。</ref>で、諸説あるがMF12L-100001からMF12L-100009までの計9台の車台番号の物が製作されたとされており、このうちMF12L-100002はトヨタ自動車で保有し東京都江東区の[[MEGAWEB]](メガウェブ)ヒストリーガレージに展示されている、またMF12L-100006は[http://www.toyota50th.com/ Toyota USA Automobile Museum]に展示されている。この開発は、ヤマハ発動機がトヨタ自動車に対して提案する形で進められ、生産された全ての車両が左ハンドル仕様で、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]市場向けの廉価版として本格生産も考えられたようであるが、結局はトヨタ自動車内部での反発に遭い市販には至らなかった。また絶版車雑誌で「アメリカに10台前後存在している」と紹介されたことがある。 === 生産台数 === 赤字生産が続き、イメージリーダーとして充分な役割を果たしたとの判断から、1970年で生産は終了した。 1967年5月から1970年8月までの3年3か月で337台が生産された。 {| class="wikitable" border="1" style=font-size:small |- ! 種類 !! 前期型 !! 後期型 !! 合計 |- | 日本向け || 110台 || 108台 || 218台 |- | 日本国外向け | colspan="2" | || 102台 |- | 特殊用途車 || 12台 || 2台 || 14台 |- | 試作・テスト用 | colspan="2" | || 2台 |- | 不明 || colspan="2" | || 1台 |} 2M型エンジン(2,253cc)搭載車は試作車が市販直前の状態まで10台前後製作されたが、生産台数の337台には含まれていない。ほかに、[[リトラクタブル・ヘッドライト]]が固定式ライトに変更されたモデルも試作されたが、市販されなかったため台数には含まれていない。 === 生産終了後 === 生産終了後希少価値もあり、2000GTの存在は日本国内外で後年まで伝説的に語られるようになった。特に1970年代末には[[スーパーカー]]ブームが生じ、当時は既に生産終了していた本車は、日本で唯一のスーパーカー扱いをされた。熱心な愛好者によるクラブも日本国内外に存在する。 日本車における[[旧車|絶版車]]の人気車種として筆頭に上げられる車種の一つになり、中古車市場では多くの場合[[プレミアム]]価格が付いて、高額で取引され、新車時に日本国外に輸出された2000GTを日本に逆輸入する例もある。 2013年にはクラシックカーを専門に取り扱うRM auctions社が行うオークションで、日本車としては最高値である1,155,000ドル(約1億1800万円)で落札された。 == 諸元 == [[DOHC]]エンジン、4輪[[独立懸架]]、5段フルシンクロメッシュ・トランスミッション、4輪[[ディスクブレーキ]]、ラック・ピニオン式[[ステアリング]]、[[リトラクタブル・ヘッドライト]]は、トヨタ自動車ではこの車から本格採用された。これらは1980年代以降、量産自動車において珍しくない装備となっているが、1960年代中期においてこれらを全て装備している自動車は、当時としては最上の高性能車と言えた。軽量化のために専用デザインの鋳造[[マグネシウム]]製[[車輪|ホイール]]を用いたことも異例である。 === ボディ === 当時のスポーツカーデザインの基本に則って長いボンネットと短い客室部を低い車高に抑えつつ全体に流麗な曲線で構成されたデザインは、先行して開発されていた[[ジャガー・Eタイプ]]([[1961年]])などの影響を指摘されることもあるが、当時の日本の5ナンバー規格の枠内でコンパクトにまとめられながら、その制約を感じさせない美しいデザインとして評価が高い。[[前照灯|ヘッドライト]]を高さ確保のため小型のリトラクタブルタイプとし、固定式[[フォグランプ]]をグリルと併せて設置したフロント・ノーズの処理も独特の魅力があった。 このデザインは発表当時トヨタ自動車の社内デザインであるとのみ公表されたが、トヨタ自動車のデザイナーであった野崎喩(のざき さとる 1929-2009)を中心にデザインされたことが21世紀に入ってから明らかにされ、晩年の野崎本人によってスケッチやデザイン過程についての談話も公表されている。野崎は2000GTのデザイン以前の[[1963年]]に、デザインを学ぶためアメリカのアートセンター・スクールへ留学した経験があり、その当時のスケッチが2000GTのモチーフになったという。 ただし特に日本国外では(ヤマハ発動機が日産自動車とのスポーツカー共同開発を目論んだ経緯から)、それ以前に[[日産・シルビア|シルビア]](初代)のデザインを監修した<ref>実際のシルビアのデザインは日産社内デザイナーの木村一男によるもので、ゲルツはデザイン顧問という立場でこれを監修した。</ref>とされるドイツ系アメリカ人デザイナー、[[アルブレヒト・フォン・ゲルツ]]が、2000GTのデザインも手がけたという説が、広く流布している。もっともゲルツ本人は晩年の1996年8月、日本の自動車雑誌『[[ノスタルジックヒーロー]]』誌によるアメリカでのインタビュー(1997年 同誌61号に掲載)で、トヨタ・2000GTへの自身の直接関与を否定している。 ゲルツ・デザイン説の正確な出所は不明だが、日産A550X開発時にゲルツと日産がアドバイザー関係であったこと、および、A550Xもトヨタ・2000GTもリトラクタブルライトのファストバック・クーペという類似性を持ち、後者が前者の改良デザインとも見なせることが風説の原因と見られる。前述の「ヤマハへの開発丸投げ・買い取り」評の存在や、当時のトヨタ自動車に自社で(もしくはさらに広い意味で、「当時の日本人のセンスでは」)このようなデザインを行えるはずがない、という先入観も、ゲルツ・デザイン説が広まる要因となっているようである<ref>自動車評論家の[[山口京一]]は、生前のゲルツから日産・A550Xのデザインに携わったという証言を得ているといい、これを引いてやはり評論家の[[福野礼一郎]]も日産経由のゲルツ・デザイン説を推しているが、ゲルツ本人の証言とは相反することになる。</ref>。 内装はヤマハ製のウッド[[ステアリング]]と[[ダッシュボード (自動車)|インストルメントパネル]]をはじめ、回転計などを追加した多眼メーター類や豊富なアクセサリーの装備で、2人の乗員に充分な居住性を確保しながら「高級スポーツカー」らしい演出を図っている。この時代の日本車としては、異例の高級感がある良質な仕上がりであった。ハンドブレーキがダッシュボード下部配置の「ステッキ型」であることが、やや古風な点と言える(このタイプのハンドブレーキレバーは、同時代には通常型乗用車やトラックで多用されていたが、スポーツカーではあまり例がない)。 ==== ボディーカラー ==== ボディーカラーは、前期型では次の3色である。 * ペガサスホワイト * ソーラーレッド * サンダーシルバーメタリック 前期型では特注色として少数台生産された次の3色が、後期型で正式採用され、計6色となった。 * ベラトリックスイエロー * アトランティスグリーン * トワイライトターコイズメタリック(ブルーメタリック) カタログにゴールドモデルはなかったが、特別にゴールドに塗装された車両が3台存在した。前期型2台と後期型1台である。 前期型2台(シャシー番号10130と10132)は[[1967年]]第14回東京モーターショー出展用として製作された。1台(10130)は同ショーにてスタンドコンパニオンを演じた人気モデル[[ツイッギー]]の所有となり、イギリスに渡った<ref>彼女が気に入り購入したとも言われるが、真相は不明。米国トヨタの資料ではモーターショーの後に贈与されたとしている。{{PDFlink|[http://www.toyota.com/about/our_business/our_history/product_history/pdf/2000gt.pdf リンク]}}</ref>その後、1980年頃に米国トヨタ販売が入手したが、レストア時にフェラーリ風レッドに塗り替えてしまった。現在はToyota USA Automobile Museum<ref>[http://www.toyota50th.com/]</ref>が所蔵しており、[[2006年]]、引火事故による塗装損傷の修復を契機に2000GT研究の第一人者である吉川信<ref>[http://www.kaiartintl.com/artist_profile]</ref>の手によりオリジナルのゴールドに復元された<ref>[http://www.studiotimecapsule.com/restoration_of_twiggys_toyota_2000gt/]</ref>。 もう1台(10132)は、同ショーで一目惚れして購入した日本のオーナーが長らく所有していたが、自分亡き後の終の住み処にふさわしい場所として[[ヤマハ発動機]]に寄贈された。その後レストアされ<ref>[http://www4.tokai.or.jp/twoseater/framepage1.htm]</ref>、現在は同社コミュニケーションプラザに展示されている。これら2台の塗色はゴールドと称しているが[[メタリック]]成分が少ないため、現代の感覚から言えば[[黄土色]]と言った方が近い<ref>現在の両車は共にレストア時にややメタリック感を増加させており、完全なオリジナルカラーの復刻にはなっていない。</ref>。 後期型1台(10232)はシャシー番号上は前期型に属する(正式な後期型は10401〜)。[[1969年]]の第16回東京モーターショー出展用として先行製作され、メタリック感を向上した「アフレアゴールド」にて塗装された。モーターショー出展後の行方は不明である。 === シャーシ・パワーユニット === 古典的スポーツカーらしくボディとは別体となるシャーシは、[[ジャガー (自動車)|ジャガー]]・Eタイプや[[ロータス (自動車)|ロータス・]][[ロータス・エラン#初代(1962年-1975年)|エラン]]などでの先行例に倣ったX型バックボーンフレームで、低重心・高剛性を実現した(2000GTのシャーシが短期間で開発できたのは、これらの著名な先行メーカー製品での手法を巧みに取り込んだという一面も否定できない)。 サスペンションについては、トヨタ車としては初めての本格的な四輪独立懸架となり、前後輪ともコイル支持による[[ダブルウィッシュボーン式サスペンション|ダブル・ウィッシュボーン]]として操縦性と乗り心地の両立に成功している<ref>トヨタではこれ以前の1947年に[[トヨペット・SA型小型乗用車|トヨペットSA型]]で前輪ウィッシュボーン、後輪[[スイングアクスル]]の四輪独立懸架を導入していたが、当時は技術が未熟で実用上耐久性不足な失敗に終わっていた。</ref>。 また、操縦性に配慮してステアリング機構は[[ラック・アンド・ピニオン]]式とし、高速域からの制動力確保を企図して日本初の4輪[[ディスクブレーキ]]仕様とした。 エンジンは、クラウン用として量産されていた当時最新鋭の[[直列6気筒]]7ベアリング[[SOHC]]エンジンである「[[トヨタ・M型エンジン|M型]]」(1,988cc・105PS)のブロックを流用し、ヤマハの開発したDOHCヘッドに載せ替えるなどして強化した「3M型」を搭載した。このクラスのエンジンとしては小型軽量であり、それゆえ2000GTは直列6気筒エンジンを使用しながらエンジンを前車軸より後方に置く、現在で言う「フロント・ミッドシップ」レイアウトが可能であった。 3M型は、[[キャブレター]]を三国工業(現・[[ミクニ]])がライセンス生産した[[ソレックス]]型ツイン・キャブレターの3連装とし、150PS/6,600rpm(グロス値)という、当時の日本製乗用車の中でも最強力クラスの性能を得た。これにフル・[[マニュアルトランスミッション#シンクロメッシュ機構|シンクロメッシュ]]の5速[[マニュアルトランスミッション|MT]]を組み合わせた2000GTは、0 - 400m15.9秒の加速力と、最高速度220km/h(最大巡航速度は205km/h)を実現、当時の2L・スポーツモデルとしては世界トップレベルに達した。 しかし、ベースが量産型実用エンジンということもあり、ノーマル状態では極限までの高性能は追求せずに、公道用のGTカーとしての実用性をも配慮したチューニングが為されている。このため3M型は、その外見的なスペックの割には低速域から扱いやすいエンジンであったという。 === 前期型と後期型の違い === 前期型と後期型では、次の点が異なる。 * フロントマスク部のデザイン変更(フォグランプのリムが小型化され、グリルとの一体感を増し、よりモダンな印象を与えるデザインとなった。) * フロントウィンカーランプカバーおよびリアサイドリフレクターの形状変更・大型化 * オイルクーラーの冷却用ルーバーパネルが凸型から凹型へ * インパネ部のデザイン変更 * ステアリングホイールのホーンボタンの形状変更・大型化 * ヘッドレストの追加 * 車内のドアハンドルの形状変更 * カークーラーの追加 * [[トヨグライド]]([[セミオートマチックトランスミッション|AT]])タイプの追加 * ボディーカラー種類の追加 トヨグライド(3速オートマティック)タイプの追加は、主に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]でのイージードライブ需要を考慮しての措置である。 == レースおよび記録 == === アメリカでのレース参戦 === アメリカのレースには、[[1968年]]にSCCAクラスCシリーズに参加。レースの[[マネジメント]]は[[キャロル・シェルビー]]に委託された参戦したが戦績が芳しくないため、シェルビーはシーズン中に、元レーサーでレーシングモデルの製作にも通じており、[[シボレー・コルベット]]の開発チーフでもあったGM幹部のゾーラ・ダントフ(''Zora Arkus Duntov'' 、1910-1996年)に極秘アドバイスを求めた。だがダントフに対する1995年のインタビューによれば、手を尽くしたものの「肝心のエンジンが駄目だった」ため、性能向上の打開策を得られず、成績挽回には至らなかった、という<ref>『[[Old-timer]]』No.59 p.79)。</ref>。 {| class="wikitable" style=font-size:small |+ アメリカでのレース参戦結果 ! !! 月日 !! 結果 |- ! 第1戦 |style="text-align:right"| 2月25日 ||style="text-align:center" | 2/4位 |- ! 第2戦 |style="text-align:right"| 3月10日 ||style="text-align:center" | 失格 |- ! 第3戦 |style="text-align:right"| 3月31日 ||style="text-align:center" | 3/4位 |- ! 第4戦 |style="text-align:right"| 4月21日 ||style="text-align:center" | 1/2位 |- ! 第5戦 |style="text-align:right"| 6月24日 ||style="text-align:center" | 2位 |- ! 第6戦 |style="text-align:right"| 7月7日 ||style="text-align:center" | 2/3位 |- ! 第7戦 |style="text-align:right"| 7月21日 ||style="text-align:center" | 3/5位 |- ! 第8戦 |style="text-align:right"| 8月4日 ||style="text-align:center" | 3位 |- ! 第9戦 |style="text-align:right"| 8月26日 ||style="text-align:center" | 失格 |- ! 第10戦 |style="text-align:right"| 8月31日 ||style="text-align:center" | 1/2位 |- ! 第11戦 |style="text-align:right"| 9月9日 ||style="text-align:center" | 1/2位 |- ! 第12戦 |style="text-align:right"| 9月15日 ||style="text-align:center" | 2/5位 |- ! 第13戦 |style="text-align:right"|10月13日 ||style="text-align:center" | 2位 |- ! 最終戦 |style="text-align:right"|11月23日 ||style="text-align:center" | 4位 |} :※最終成績は4位であった。 * ドライバー デイブ・ジョーダン(23番、シャシーNo.10001)、スクーター・パトリック(33番、シャシーNo.10005) なおシャシーNo.10006は里帰りし、スピードトライアル車のレプリカとして作り直された。この車両は現在、トヨタ博物館で見ることができる。シャシーNo.10001およびNo.10005は、米国で個人のコレクターが所有している。 === スピード・トライアル === [[ファイル:1966 Toyota 2000GT 01.jpg|thumb|250px|スピードトライアル車両(画像は記録樹立車のレプリカ)]] 市販前年の[[1966年]][[10月1日]]から[[10月4日]]には、[[茨城県]][[筑波郡]][[谷田部町]](現・[[つくば市]])の自動車高速試験場(現在の[[日本自動車研究所]])にて、国際記録樹立のためのスピード・トライアルに挑戦した。種目はスポーツ法典Eクラス(排気量1,500-2,000cc)の6時間、12時間、24時間、48時間、72時間(排気量無制限)、1,000マイル、2,000マイル、5,000マイル、10,000マイル(排気量無制限)、2,000km、5,000km、10,000km、15,000km(排気量無制限)の合計13カテゴリー。当時は[[ポルシェ]]、[[クーパー・カー・カンパニー|クーパー]]、[[トライアンフ (自動車)|トライアンフ]]など、ヨーロッパのそうそうたる一流メーカーがこれらの記録を保有していた。樹立した記録は次のとおり。 {| class="wikitable" style=font-size:small |+ スピード・トライアル記録 ! 種目 !! 平均速度 |- ! style="text-align:right" | 6時間 | style="text-align:right" | 210.42km/h |- ! style="text-align:right" | 12時間 | style="text-align:right" | 208.79km/h |- ! style="text-align:right" | 24時間 | style="text-align:right" | 206.23km/h |- ! style="text-align:right" | 48時間 | style="text-align:right" | 203.80km/h |- ! style="text-align:right" | 72時間 | style="text-align:right" | 206.02km/h |- ! style="text-align:right" | 1,000マイル | style="text-align:right" | 209.65km/h |- ! style="text-align:right" | 2,000マイル | style="text-align:right" | 207.48km/h |- ! style="text-align:right" | 5,000マイル | style="text-align:right" | 204.36km/h |- ! style="text-align:right" | 10,000マイル | style="text-align:right" | 206.18km/h |- ! style="text-align:right" | 2,000km | style="text-align:right" | 209.45km/h |- ! style="text-align:right" | 5,000km | style="text-align:right" | 206.29km/h |- ! style="text-align:right" | 10,000km | style="text-align:right" | 203.97km/h |- ! style="text-align:right" | 15,000km | style="text-align:right" | 206.04km/h |} なお、このトライアルは途中で台風に見舞われるなど、非常に過酷なものであった。トヨタはこの記録挑戦を宣伝広告に活用したが、1967年10月19日から10月30日[[モンツァ・サーキット]]における[[ポルシェ・911]]Rによるチャレンジにより大幅に破られている。 == その他 == * 発売開始1年前の1966年には、[[サントリー]][[ビール]]のキャンペーン「スコール・[[クイズ]]」の1等賞品にもなっていた。ビールのうんちくにまつわるやや難解な30問の[[マニア|マニアック]]なクイズが出題され、応募総数46万6,259通のうちの全問正解者13万2,745名の中から厳正な抽選が行われた。1等賞品(サントリービール[[博士]]賞)のトヨタ2000GTを獲得したのは、[[新潟県]]に住む女性であった。 * 印象的かつ魅力的なデザインに収められた丸型テールランプレンズは、実は当時のトヨタの[[マイクロバス]]用のパーツを流用したものであった。2000GTに限らず、多くの有名な少量生産スポーツカーには、外装パーツにも量産車からの流用品を用いるケースが見られる。 * トヨタ自動車の[[工場見学]]に行くと、おみやげとしてもらえるモデルカーは長らく2000GTであった。しかし近年、[[トヨタ・プリウス|プリウス]]のモデルカーに交代した。このモデルカーは、車軸が回転できるようになっており、内蔵するバネにより添付のカタパルトから発進させ、走らせて遊ぶことが可能。一般向けの販売はされていない、非売品である([[トヨタ博物館]]で[[2006年]]12月に開催された特別展「プラモデルとスロットカー」では、一日限定200個という数ではあるが、小中学生向けの体験工作イベント用として無料配布された。工場見学の際にもらえるものはもっともポピュラーな実車の色であるアイボリーなのだが、このイベントで配布されたものは水色だった)。 * 当時純正として装着されていた独自デザインの「[[マグネシウムホイール]]」は2000GTのアイデンティティの一つとも言えるアイテムであるが、製造から30-40年程経過し、マグネシウムに生じやすい「[[腐食]]」が発生して、オリジナルコンディション維持に努めるオーナーを悩ませている事例が多い。これを代替するため、オーナーズクラブからの要望もあり、ある有名ホイールメーカーから同一デザインで材質だけを[[アルミニウム]][[合金]]に変更した[[アルミホイール]]が限定製作されている。 *一般発売前に撮影された映画『[[007は二度死ぬ]]』(1967年)に登場した際は試作車をベースとしてオープン仕様車が撮影用と予備用の2台製作された。撮影車両は後年[[トヨタ博物館]]に収蔵された<ref>ここに至るまでの経緯は少し複雑である。映画撮影後は北米へ空輸され各地でモーターショー展示車両となった後に日本へ戻り、富士スピードウェイでマーシャルカーとして使用されたが再び日本を出て、1970年代にハワイでブルーに塗り替えられた状態で発見された。それをトヨタが引取り日本でレストアを施したが、当時のボディラインや演出用の装備品は失われている。</ref>のに対して、予備車両の行方<ref>こちらは1967年のジュネーブショーに登場し、以後ヨーロッパでの宣伝活動に使用されてから日本へ戻りトヨタ自販東京本社に展示されたようだがそれ以降の消息が分からなくなっていた。</ref>は一部の者を除いて知る機会がなかったため、その存在について長らく様々な憶測や議論<ref>よく見られたのは「ボンド仕様は1台しか製作されていない」というものである。これは予備車両が撮影スタジオで使われたことを証明する写真や、撮影車両と予備車両が同時に写っている写真が出てこないことから生まれた。</ref>を呼んできた。しかし2011年11月にある自動車雑誌の取材により予備車両が日本国内に存在し、徹底的な[[レストア]]作業中であることが報告された<ref>西川淳「映画のクルマ特別企画 幻のボンドカー、発見!」『CARZY 創刊号』株式会社コンタクト、 2011年、 63-69頁。</ref>。オープン仕様の車両はオリジナルの撮影用(及び予備)車両のほか、米国のコレクターPeter Nelsonが製作した精巧なレプリカがある。こちらに組み込まれている特殊装備は、撮影に使用された「本物」であり(保管していた映画製作会社からの提供を受けた)、イギリスのThe Bond Museum[http://www.thebondmuseum.com/pages/05youonlylivetwice.htm]に展示されている。またそれ以外にも、レプリカとしてではなくオーナーの趣味でオープントップやタルガトップに改造された数台の車両が知られている。 *愛知県の自動車修理・レストア業者である[[ロードスターガレージ有限会社]]が、2000GTのレプリカを製作している。[[2009年]]の[[東京オートサロン]]では[[日産・フェアレディZ#初代 S30型系(1969年 - 1978年)|フェアレディZ (S30型)]]ベースのレプリカを展示した。近年、[[マツダ・ロードスター#初代 NA系(1989年-1998年)|ユーノス・ロードスター]]をベースとしたレプリカが完成し<ref>クーペボディだけでなく『007は二度死ぬ』に登場したオープン仕様風のモデルも用意されている(なお、幌を閉じる事も可能となっている)ものの、ロードスターをベースとした関係によりクーペボディの方はオリジナルと異なり現状では[[タルガトップ]]となっている[http://roadstergarage.jp/model/2000gt_04.html]。</ref>、市販を開始した。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[トヨタ自動車]] * [[ヤマハ発動機]] * [[トヨタ・スープラ]]A70系 - 登場時にはテレビCMで2000GTと共演しており、キャッチコピーを「トヨタ3000GT」とするなど、2000GTをイメージしていた。 * [[トヨタ・86]]/[[スバル・BRZ]] - サイドウインドーなどのデザインの造形面で、2000GTを参考にしている。 * [[トヨタ・アルファードハイブリッド]] - 2013年放映のテレビCMに2000GTが登場する。 * [[レクサス・LFA]] - トヨタ自動車が、ヤマハとエンジン共同開発し、2010年に限定発売したスーパーカー。希少性の高さなどの共通点から、「現代版2000GT」とも呼ばれる。 * [[トヨタ博物館]]、[[日本自動車博物館]] - いずれも現車が展示されている。 == 外部リンク == {{Commons|Category:Toyota 2000GT}} * [https://gazoo.com/car/pickup/Pages/meishakan_009_005.aspx GAZOO.com トヨタ名車列伝5話 トヨタ 2000GT 1967年] * [https://gazoo.com/car/pickup/Pages/meishakan_010_002.aspx GAZOO.com トヨタ 歴代スポーツカー<1960年代>2話 トヨタ・2000GT(1967年~)] * [https://gazoo.com/car/pickup/Pages/meishakan_010_003.aspx GAZOO.com トヨタ 歴代スポーツカー<1960年代>2話後編 トヨタ・2000GT(1967年~)] *[http://roadstergarage.jp/ ロードスターガレージ有限会社] - 2000GTのレプリカを製作している会社。 {{トヨタ車種年表 (初期)}} {{自動車}} {{デフォルトソート:とよた2000GT}} [[Category:トヨタの車種|2000GT]] [[Category:クーペ]] [[Category:スポーツカー]] [[Category:日本の自動車技術180選]]
このページで使用されているテンプレート:
テンプレート:Commons
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:Infobox 自動車のスペック表
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:PDFlink
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:Reflist
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:トヨタ車種年表 (初期)
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:自動車
(
ソースを閲覧
)
トヨタ・2000GT
に戻る。
検索
検索
トヨタ・2000GTのソースを表示
話題を追加