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ジョーダン・グランプリ
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{{旧F1コンストラクター | コンストラクター名 = ジョーダン | <!-- チームロゴ画像 = |--> 参戦年度 = 1991 - 2005 | 出走回数 = 250 | コンストラクターズタイトル = 0 | ドライバーズタイトル = 0 | 優勝回数 = 4 | 通算獲得ポイント = 291 | 表彰台回数 = 19 | ポールポジション = 2 | ファステストラップ = 2 | F1デビュー戦 = [[1991年]][[アメリカグランプリ|アメリカGP]] | 初勝利 = [[1998年]][[ベルギーグランプリ|ベルギーGP]] | 最終勝利 = [[2003年]][[ブラジルグランプリ|ブラジルGP]] | 最終戦 = [[2005年]][[中国グランプリ|中国GP]] }} '''ジョーダン・グランプリ''' ('''Jordan Grand Prix''') は、かつて存在した[[アイルランド]]<ref>1991年のF1初参戦以来、国籍登録はアイルランドだったが、1999年シーズンよりイギリスに変更した。なお、当初より本拠地はイギリス([[シルバーストン・サーキット]]の近く)に置かれている。</ref>の[[フォーミュラ1|F1]]コンストラクター。[[1991年のF1世界選手権|1991年]]から[[2005年のF1世界選手権|2005年]]までF1世界選手権に参戦し、通算4勝を記録した。コンストラクターズランキング最高成績は3位([[1999年のF1世界選手権|1999年]])。 [[1980年代]]から[[1990年代|1990年代]]にF1に参戦した新興チームの中ではもっとも成功したチームのひとつ。[[ヤマハ発動機|ヤマハ]]、[[M-TEC|無限ホンダ]]、[[ホンダF1|ホンダ]]、[[トヨタF1|トヨタ]]といった日本のエンジンサプライヤーの多くからエンジン供給を受けたチームでもある。 == 歴史 == === チーム発足 === [[アイルランド]]出身の[[エディ・ジョーダン]]が自身のレース活動のために設立した'''エディ・ジョーダン・レーシング''' ('''EJR''') が前身。[[1987年]]に[[ジョニー・ハーバート]]を擁して[[イギリス・フォーミュラ3選手権|イギリスF3選手権]]を制覇したのち[[フォーミュラ3000|国際F3000選手権]]にステップアップ。[[1989年]]には[[ジャン・アレジ]]がチャンピオンを獲得するなどF3000の強豪チームに成長する。同チームには[[マーティン・ブランドル]](F3)、[[マーティン・ドネリー]]、[[デイモン・ヒル]]、[[エディ・アーバイン]]、[[ハインツ=ハラルド・フレンツェン]]など錚々たる顔ぶれが在籍した。 国際F3000での活動を1991年一杯で終了する一方、同年にはF1チームの'''ジョーダン・グランプリ'''が誕生し、[[フォーミュラカー|フォーミュラレース]]の最高峰へ挑戦することになる。 === 1990年代 F1参戦~上位への進出 === [[File:Bertrand Gachot 1991 USA.jpg|thumb|200px|left|F1参戦初年度のマシン[[ジョーダン・191|191]]<br>([[1991年アメリカグランプリ|1991年アメリカGP]]にて)]] ==== 1991年 ==== F1処女作となる[[ジョーダン・191|191]]は元[[レイナード]]の[[ゲイリー・アンダーソン]]を中心に開発。オーソドックスながらもアンヘドラル・ウィングなどの流行を取り入れ、アイルランドの[[ナショナルカラー|レーシングカラー]]である鮮やかなグリーンにペイントされた「美しいマシン」として評判になった。また、ルーキーチームにもかかわらず[[フォード・モーター|フォード]]ワークスの[[フォード・コスワース・HBエンジン|HBエンジン]]の旧スペックを獲得した。なお、発表時は「ジョーダン911」と表記されていたが、[[ポルシェ・911|同名の車種]]を持つ[[ポルシェ]]からの抗議によって「191」に変更されるというエピソードを持っている。 メインスポンサーに[[ペプシコーラ]]社ブランドの「[[7up]]」が付き<ref>日本GPの時のみ、当時の日本ペプシコの販売戦略上の理由で7upではなく「ペプシ」のロゴに変更。</ref>、[[富士フイルム]]や[[SHOEI]]などのスポンサーも獲得した。ドライバーは力量だけではなく持込み資金の額も考慮して、[[ベルトラン・ガショー]]と[[アンドレア・デ・チェザリス]]と契約した。 シーズン開幕は[[予備予選 (F1)|予備予選]] (PQ) からの出場となったが、決して評価の高くなかった2人のドライバーがコンスタントに入賞を果たし、後半戦は本予選組に昇格。フォードのカスタマーチームながらワークス待遇の[[ベネトン・フォーミュラ|ベネトン]]を追い回し、時には上回るなど見せ場を作った。メキシコGPでは4位入賞直前でガス欠したデ・チェザリスがマシンを押しながらフィニッシュしたことも話題になった。 [[File:Jordan 191 rain.png|thumb|200px|right|デビュー早々の[[ミハエル・シューマッハ]]がジョーダン・191を駆る様子。]] ハンガリーGP後にはガショーが傷害事件で投獄されるという不祥事が発生し、代役として[[メルセデス・ベンツ]]の秘蔵っ子[[ミハエル・シューマッハ]]を起用する。シューマッハはデビュー戦の[[1991年ベルギーグランプリ|ベルギーGP]]で当時チーム最高の予選7位を記録(決勝ではクラッチを壊し0周リタイア)。このレースの後半にはチェザリスがトップを追い上げる場面もあったが、オイル不足によるエンジンブローでリタイヤした(記録上は完走扱いの13位)。<!-- これはコスワースから今まで供給していたエンジンよりオイル消費量が多くなったタイプのエンジンが供給された事実がチームへ通知されていなかったことがレース後に発覚。この事態を受けオーナーであるエディ・ジョーダンはコスワースに見切りを付け、翌年も交わすはずだったエンジン供給契約を打切った。--><!-- エンジン代を滞納するほど資金難で、ベルギーの時点ですでにヤマハと無償供給の交渉を始めています。--> ジョーダンは金の卵であるシューマッハと長期契約を結ぼうとしたが、F1界の政治力により大騒動の末ベネトンに引き抜かれてしまう<ref>ベネトンにシューマッハを奪われて気落ちしたエディ・ジョーダンに対し、[[マクラーレン]]代表の[[ロン・デニス]]は「ピラニアクラブへようこそ」と声をかけた。</ref>。次戦イタリアGPではベネトンから違約金を持ち込んだ[[ロベルト・モレノ]]がドライブしたが、わずか2戦で解雇し、[[アレッサンドロ・ザナルディ]]が最終3戦をドライブした。エンジン代金の滞納によりコスワースとの関係が悪化し、終盤戦は前半の勢いを失ってしまうが、それでも最終的に13ポイントを獲得し、デビューシーズンにコンストラクターズランキング5位という素晴らしい成績を収めた。 ==== 1992年 ==== [[File:Jordan 192 Yamaha Communication Plaza.jpg|thumb|left|200px|[[ジョーダン・192]]。<br>カウルの中には[[ヤマハ発動機|ヤマハ]]V12エンジンが搭載されている。]] 2年目のシーズンは日本の[[ヤマハ発動機|ヤマハ]]と契約し、V12エンジンの独占供給を獲得。オイルメーカー[[SASOL]]社が南アフリカ企業として初めてメインスポンサーとなり、オイルサプライヤーとしても提携した。 ドライバーは[[ステファノ・モデナ]]と[[マウリシオ・グージェルミン]]と契約。ニューマシン[[ジョーダン・192|192]]はギアボックスにF1初の前後の押し引きでギアチェンジができる「シーケンシャル」タイプを導入し<ref>後にオートマチックギアが禁止されて、シーケンシャルギアが禁止されていないカテゴリーのほとんどに採用される。</ref>。時折速さは見せるものの、V8からV12へのエンジン変更が裏目に出て、ラジエーターの容量不足やギアボックスの信頼性不足に悩まされた。モデナは予選落ちを4回も記録。最終戦のオーストラリアGPで6位入賞(1ポイント)の1回のみと2年目のジンクスに填まる。エンジンのトルク不足を訴えたことでヤマハとの関係も悪化し、長期契約はこの年限りで決裂した。両ドライバーも揃ってF1から離れる。 {{clear}} ==== 1993年 ==== 出直しとなる3年目はプライベートメーカーの[[ブライアン・ハート (企業)|ハート]]が製作したV10エンジンを搭載。新車[[ジョーダン・193|193]]には[[セミオートマチックトランスミッション|セミオートマチックギアボックス]]と[[アクティブサスペンション]]の簡易版である車高調整システムを投入した。 ドライバーは新人の[[ルーベンス・バリチェロ]]と、前年[[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]]でドライブした[[イヴァン・カペリ]]と契約。バリチェロは第3戦ヨーロッパGPでは雨の中一時2位を走行し、関係者の評価を上げる。しかし、カペリは資金的な理由と第2戦ブラジルGPでの予選落ちが響いてわずか2戦で解雇となる。後釜として起用した[[ティエリー・ブーツェン]]もバリチェロに合わせて作られたモノコックのサイズに体が合わず、成績も振るわずに母国ベルギーGPをもって引退。終盤戦は[[マルコ・アピチェラ]]→[[エマニュエル・ナスペッティ]]→[[エディ・アーバイン]]と資金持ち込みドライバーにセカンドシートを切り売りすることとなった<ref>当時のスポーティングレギュレーションではシーズン中のドライバー変更は1シート3回までとなっていたが、ブーツェンからアピチェラへの変更はドライバー引退のための不可抗力として特例で認められた。</ref>。チーム成績は[[1993年日本グランプリ (4輪)|日本GP]]での2台入賞にとどまった。 ==== 1994年 ==== この年は前年の体制を継続し、初めて2年続けて同じメーカーのエンジンを搭載する。ドライバーもバリチェロが残留し、前年の日本GPでスポット参戦ながら6位入賞を果たした[[エディ・アーバイン]]がレギュラーとなった。 バリチェロは[[1994年サンマリノグランプリ|サンマリノGP]]を大クラッシュにより欠場するも、[[パシフィックグランプリ_(4輪)|パシフィックGP]]で初表彰台、第11戦[[1994年ベルギーグランプリ|ベルギーGP]]で初ポールポジションを獲得するなど活躍。一方、アーバインは開幕戦で多重クラッシュの原因を作ったとして3戦出場停止を受けたため、パシフィックGPでは[[鈴木亜久里]]、サンマリノGPと[[1994年モナコグランプリ|モナコGP]]では[[アンドレア・デ・チェザリス]]が代わってドライブし、チェザリスはモナコで4位入賞を果たした。 [[ジョーダン・194|194]]は191を彷彿とさせるスマートなスタイルを持った車でシャシーのバランスが良く、コーナリング性能に優れており、しばしば上位チームを脅かす活躍を見せた。ただし信頼性は十分とは言えず、この年に投入したセミオートマチックのギアボックスは序盤にトラブルが頻発した。ジョーダンが開発資金の一部を負担をしていたハートV10でワークスエンジンと勝負することは難しく、エンジンの出力不足はいかんともし難かった。しかし中低速を重視したチューニングにすることで、一部の高速サーキットを除いては「プライベーター」エンジンとしては十分な成績を収めることができた。大スポンサーや自動車会社のバックアップを持たない中で年間28ポイントを獲得し、ランキングは5位に返り咲いた。 ==== 1995年 ==== {{Double image stack|right|Rubens Barrichello 1995 Britain.jpg|Eddie Irvine 1995 Britain.jpg|200|[[1995年のF1世界選手権|1995年]]のマシン[[ジョーダン・195]]。[[ルーベンス・バリチェロ]](上)[[エディ・アーバイン]](下)。}} 前年に[[マクラーレン]]から契約を解除された[[プジョー]]V10エンジンを獲得。SASOLに代わってプジョーと結びつきが強い[[トタル]]がメインスポンサーとなり、オイルサプライヤーとしても提携するなど資金面とチーム体制を強化した。ドライバーはバリチェロとアーバインのコンビを継続。 第6戦[[カナダグランプリ|カナダGP]]では2、3位でダブル表彰台を獲得。予選では度々トップ10内のグリッドを確保するが、マシン・エンジンともに信頼性に欠け、いくつかのレースで入賞を逃し21ポイント獲得(ランキング6位)にとどまる。 チームは翌年もドライバーラインナップを変更せずに戦うと発表したが、フェラーリがシューマッハのチームメイトとしてアーバインの獲得を発表。フェラーリがジョーダンから契約を買い取る形で、チームに多額の資金がもたらされた。 ==== 1996年 ==== [[File:Jordan Peugeot 196.jpg|thumb|left|200px|[[ジョーダン・196]]<br>([[1996年のF1世界選手権|1996年]])]] メインスポンサーに[[タバコ]]ブランドの[[ベンソン&ヘッジス]] (BENSON & HEDGES) を獲得し、マシンカラーはシャンパンゴールドに模様替えした。ドライバーはバリチェロに加え、ベテランの[[マーティン・ブランドル]]とセカンドドライバー契約をした。 プジョーエンジンはエキゾーストシステムの開発が進んでパワーアップし、信頼性も著しく向上したが、シャシーの開発が思うように進まなかった影響でセッティングが決まらず、22ポイントの獲得にとどまる。ランキングこそ5位に返り咲くが、一度も表彰台に上がることはなかった。 {{clear}} ==== 1997年 ==== [[File:Jordan Peugeot F1.jpg|thumb|right|200px|[[ジョーダン・197]]<br>([[1997年のF1世界選手権|1997年]])]] エースのバリチェロは[[スチュワート・グランプリ|スチュワート]]に移籍し、ブランドルはF1から引退。[[フォーミュラ・ニッポン]]の初代チャンピオンとなった[[ラルフ・シューマッハ]]と、前年[[ミナルディ]]で好走した[[ジャンカルロ・フィジケラ]]という若い2名を起用した<ref>[[ウィリアムズF1|ウィリアムズ]]から解雇された[[デイモン・ヒル]]の獲得を目指すも[[アロウズ]]にさらわれ失敗に終わっている。[[リジェ]]の[[オリビエ・パニス]]にも触手を伸ばしていたともいわれる。引退した[[ナイジェル・マンセル]]もテストドライブを行った。</ref>。 [[ジョーダン・197|197]]のカラーリングも前年度の金色から黄色主体に変更され、フロントノーズにはスポンサーのベンソン&ヘッジスからの要望でスネイク(蛇)が描かれた。円状のインダクションポットやエレクトリック・デファレンシャルを採用し、プジョーエンジンも信頼性・パワーともにさらに向上し、前年までに比べ大幅な戦力向上を果たした。予選では2台揃ってのトップ10が11回、決勝でも第3戦[[アルゼンチングランプリ|アルゼンチンGP]]で3位にラルフが入賞するなど表彰台3回を含む入賞12回を記録し、トップ集団での争いを展開した。 しかし、ラルフの初表彰台はレース途中にチームメート同士が接触した結果で、これを機に2人の関係は一気に冷え込むこととなった。フィジケラはベネトンへの移籍を決意し、チームは契約を盾にベネトンを訴えるも敗訴。また、プジョーがフランスチームの[[プロスト・グランプリ|プロスト]]と契約したため、3年目で関係を終えることになった。 ==== 1998年 ==== [[File:Dhill98es.jpg|thumb|left|200px|ジョーダン初優勝を獲得したマシン「[[ジョーダン・198]]」をドライブする[[デイモン・ヒル]]。]] エンジンはベネトンやミナルディなどとの争奪戦の末、プロストから放出された[[M-TEC|無限]]V10エンジンを獲得する。ドライバーは2年目のラルフと、[[アロウズ]]から移籍した[[デイモン・ヒル]]。チーム発足以来初のチャンピオン経験者の加入となった。 [[ジョーダン・198|198]]はカラーリングをスネイクからスズメバチに変更したが<ref>スズメバチのカラーリングはオリジナルグッズが発売されるほど好評だった。</ref>、前半戦は全く機能せず成績は低迷。デザイナーの[[ゲイリー・アンダーソン]]はチームを去ることになるが、中盤からマシンの改善に成功。立て続けに入賞を果たし、ついに第13戦[[1998年ベルギーグランプリ|ベルギーGP]]でヒルが優勝、2位にはラルフが入り、チーム初優勝を1-2フィニッシュで果たした。その後もコンスタントにポイントを稼ぎ、最終戦[[1998年日本グランプリ (4輪)|日本GP]]でベネトンを逆転し、コンストラクターズ4位を獲得。当時絶対の存在であったトップ4チーム([[マクラーレン]]、[[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]]、[[ウィリアムズF1|ウィリアムズ]]、[[ベネトン・フォーミュラ|ベネトン]])の牙城を崩す殊勲を達成した。 なお、フィジケラと不仲になったラルフと、ラルフの兄[[ミハエル・シューマッハ|ミハエル]]と数々の因縁を残したヒルとの関係も注目されたが、2人はかなりうまくいっていたという。ただし、ラルフは[[エディ・ジョーダン]]と不仲になり移籍を決意。訴えを起こしてウィリアムズに移籍する。 {{clear}} ==== 1999年 ==== [[File:Heinz-Harald Frentzen 1999 Canada.jpg|thumb|200px|right|[[ジョーダン・199]]を駆る[[ハインツ=ハラルド・フレンツェン]]<br>([[1999年のF1世界選手権|1999年]])]] ドライバーはラルフと入れ替わる形でウィリアムズから[[ハインツ=ハラルド・フレンツェン]]が加入し、ヒルとコンビを組む。前年途中に[[ティレル]]から加入した[[マイク・ガスコイン]]が手がけた[[ジョーダン・199|199]]は、パワフルな無限エンジンとバランスのいいシャシーが相まって高い戦闘力を発揮する。 フレンツェンは開幕戦から表彰台に上がるなどコンスタントにポイントを獲得。フランスGPとイタリアGPで優勝し、ドライバーズチャンピオン争いに絡む大活躍を見せた。タイトル挑戦にむけて重要なレースとなったヨーロッパGPでもポールポジションを獲得したが、トップ走行中に電気系のトラブルでリタイアして夢は断たれた。 一方のヒルは前年の活躍が嘘のように絶不振で、地元イギリスGPで引退するのではないかと騒がれた。最終戦までドライブを続けるものチームには貢献できず、ワールドチャンピオン獲得者としては淋しい形での引退となってしまった。 チームは優勝2回で61ポイントを獲得。コンストラクターズ選手権では前年からさらに1つ順位を上げ、プライベーターチームとしては大殊勲の3位を獲得した。 {{clear}} === 2000年代 成績低下~チーム売却 === ==== 2000年 ==== [[File:Jarno Trulli 2000 Monza.jpg|thumb|left|200px|[[ヤルノ・トゥルーリ]]が駆る[[ジョーダン・EJ10|EJ10]]。([[2000年のF1世界選手権|2000年]])]] F1参戦10周年さらなるステップアップを目指したチームは、マシンコンセプトを一新。チーム・オーナーの[[エディ・ジョーダン]]のイニシャルと10年目ということからニューマシンは'''[[ジョーダン・EJ10|EJ10]]'''と名づけられた。エンジンは引き続き無限ホンダを使用する。ドライバーはエースのフィレンツェンに加え、ヒルの後釜として[[プロスト・グランプリ]]から[[ヤルノ・トゥルーリ]]を獲得した。 ところが、このマシンは潜在的なポテンシャルを持つものの神経質すぎて信頼性にも問題があり、新シャシーであるEJ10Bを投入したが大きな効果は無かった。さらにガスコインがシーズン中に[[ルノーF1|ルノー]]への移籍を表明し、開発体制は弱体化した。フレンツェンは表彰台2回、完走6回にとどまり、トゥルーリは予選で速さを見せるものの、表彰台に上がる事は出来なかった。チームは17ポイントしか獲得できず、ランキング6位に後退。無限ホンダとの関係もこの年限りとなり、ここ数年間の上昇ムードに歯止めがかかった。 ==== 2001年 ==== [[Image:Jarno Trulli 2001 Canada.jpg|thumb|200px|right|[[ジョーダン・EJ11]]<br>([[2001年のF1世界選手権|2001年]])]] 無限との契約を打ち切り、多額のリース料を支払って[[ホンダF1|ホンダ]]エンジンを獲得。カスタマー契約ながら[[B・A・R]]と同格のワークス仕様を搭載する。カラーリングはスズメバチからシャーク(鮫)に変更した。ドライバーはフレンツェン、トゥルーリが残留し、前年B・A・Rのレギュラードライバーだった[[リカルド・ゾンタ]]をテストドライバーに起用した。 ところがシーズン前にエンジニアの大量離脱があり、マシンもエンジンとのマッチングに苦しんだ。ドイツGP直前には突然フレンツェンを解雇。代わりにゾンタを2戦起用した後、プロストから[[ジャン・アレジ]]が加入する。アレジは契約延長を望んだが、ホンダとの関係でチームが[[佐藤琢磨]]を起用する意向であったため、最終戦[[2001年日本グランプリ (4輪)|日本GP]]をもって現役を引退した。 この年の表彰台は無く、前年並みの19ポイントにとどまった。しかしB・A・Rの不振によりランキングは5位に浮上した。 ==== 2002年 ==== [[Image:Jordan GP 2002.jpg|thumb|200px|left|[[ジョーダン・EJ12]]<br>([[2002年のF1世界選手権|2002年]])]] 前シーズン終了後にベンソン&ベッジスが支援を大幅に縮小。[[DHL]]が新たなメインスポンサーとなるも資金繰りが悪化する。[[イギリス・フォーミュラ3選手権|イギリスF3]]チャンピオンの[[佐藤琢磨]]と契約を結ぶことで、ホンダからのエンジン使用料の大幅減額の恩恵を受けるも、資金不足の影響でテストもままならなかった。ドライバーはトゥルーリと入れ替わる形で[[ジャンカルロ・フィジケラ]]が復帰した。 フィジケラと佐藤は健闘するものの、[[エグバル・ハミディ]]が設計した[[ジョーダン・EJ12|EJ12]]の開発が進まず成績不振。年間通じてわずか9ポイントしか獲得できなかったが、最終戦[[2002年日本グランプリ (4輪)|日本GP]]で佐藤が5位初入賞したポイントで6位を確保した。しかし、資金難に伴いシーズン中には60名におよぶスタッフの解雇を実施し、チーム力はさらに低下していく。 {{clear}} ==== 2003年 ==== [[Image:Ralph Firman 2003.JPG|thumb|200px|right|[[ラルフ・ファーマン]]が駆る[[ジョーダン・EJ13]]([[2003年のF1世界選手権|2003年]])]] タイトルスポンサーだったDHLが前年限りで撤退し、これまでチーム規模を拡大してきていたことも災いして、一気に財政危機に陥る。ホンダエンジンも大幅減額が廃止されたため使用継続を断念し、使用料が安い[[フォード・コスワース・CRエンジン|フォード・コスワース・RS1]]を使用することとなった<ref>このエンジンはフォード・ヨーロッパの仲介により供給されたため、エンジン名は「コスワース」ではなく、「フォード」での登録となった。</ref>。ドライバーはフィジケラが残留し、佐藤に代わってフォーミュラ・ニッポン前年チャンピオンの[[ラルフ・ファーマン]]と契約した(イギリス人と契約することでベンソン&ヘッジス社からの支援額が若干上乗せされた)。 [[ジョーダン・EJ13|EJ13]]はバランスが良いオーソドックスなマシンだったが、資金不足と非力なカスタマーエンジンでは苦戦はやむなく、ミナルディと最下位を争う位置まで後退してしまう。その苦境の中、[[2003年ブラジルグランプリ|ブラジルGP]]では雨絡みの荒れた展開の中でフィジケラが奇跡的な初優勝を達成した(同時にこれがチーム最後の優勝となった)。この勝利以外は入賞2回で、前年を上回る13ポイントを獲得したがランキングは9位に後退した。 ==== 2004年 ==== [[Image:Nick Heidfeld 2004 Canada cropped.jpg|thumb|200px|left|[[ニック・ハイドフェルド]]が駆る[[ジョーダン・EJ14]]<br>([[2004年のF1世界選手権|2004年]])]] [[エディ・ジョーダン]]は資金難に喘ぐチームの売却を検討しながら参戦。前年同様フォード名義のエンジンをコスワースから供給を受ける。ドライバーは一新し、フィジケラと入れ替わる形でザウバーから[[ニック・ハイドフェルド]]が加入。セカンドドライバーは[[ジョルジオ・パンターノ]](1〜7,9〜15戦)と[[ティモ・グロック]](8,16〜18戦)を起用した。 マシンはミナルディを上回るのが精一杯で、入賞は3回(ハイドフェルド2回、グロック1回)、計5ポイントでランキングは9位のままだった。ハイドフェルドは走らないマシンながらも健闘し、その実力が認められ翌年からウィリアムズに移籍する。 {{clear}} ==== 2005年 ==== [[File:Jordan EJ15 italy.JPG|thumb|200px|right|[[ジョーダン・EJ15|ジョーダン・EJ15B]]<br>([[2005年のF1世界選手権|2005年]])]] 2005年[[1月24日]]に、[[アレックス・シュナイダー]]率いる[[MF1レーシング|ミッドランド]]グループへのチーム売却を発表。同時にオーナーのエディ・ジョーダンがチームを去ったが、登録上このシーズンは「ジョーダン・グランプリ」名義のまま戦うことになる。エンジンはフォードのF1撤退を受け、トヨタからカスタマー仕様の供給を受けた。ドライバーは[[ティアゴ・モンテイロ]]と[[ナレイン・カーティケヤン]]というルーキー2名。 ジョーダン最後のマシンとなった[[ジョーダン・EJ15|EJ15]]の信頼性は高く、モンテイロは19戦中18完走(開幕から16戦連続完走)という記録を残す。[[2005年アメリカグランプリ|アメリカGP]]ではタイヤトラブルの影響で[[ミシュラン]]ユーザー全てが決勝スタート前に棄権(事実上のレースボイコット)。[[ブリヂストン]]ユーザーのみで争われたレースで、[[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]]の2台に続いてモンテイロが3位初表彰台、カーティケヤンが4位という望外の好成績を収めた。このほかモンテイロがベルギーGPで8位入賞し、ランキングは9位のままながらも12ポイントを獲得した。 この年限りで14年間にわたるジョーダン・グランプリの歴史に幕を閉じ、[[2006年]]にはチームの名称が[[MF1レーシング|ミッドランドF1]] (MF1) に変更された。その後もチームの本拠地や主要スタッフは変わらないものの、2007年には[[スパイカーF1]]、2008年には[[フォース・インディア]]へと次々に売却され、オーナーを変えながらF1に参戦している。 == 新人発掘 == ジョーダンはミナルディやザウバーとともに新人ドライバーの発掘に秀でていると言われていた。 EJR時代には、F3で[[アイルトン・セナ]](テスト走行)や[[ジョニー・ハーバート]]を、国際F3000では[[ジャン・アレジ]]や[[エディ・アーバイン]]を輩出している。 F1においても、1991年に[[ベルトラン・ガショー]]がシーズン途中に逮捕された際にミハエル・シューマッハを代役にたてデビューさせ(次戦で早くも[[ベネトン・フォーミュラ|ベネトン]]に奪われることとなったが)、他にも1993年には[[ルーベンス・バリチェロ]]とエディ・アーバインをデビューさせ、1997年にはラルフ・シューマッハをデビューさせると共にジャンカルロ・フィジケラ(当時ミナルディ所属)を抜擢するなど、後の有力ドライバーを続々と輩出している。[[佐藤琢磨]]も2002年にジョーダンからデビューしている。 ==変遷表== {| bgcolor="#f7f8ff" cellpadding="3" cellspacing="0" style="font-size: 95%; padding: 5px; border-top:1px solid gray; border-right:1px solid gray; border-bottom:1px solid gray; border-left:1px solid gray;" |- bgcolor="#EFEFEF" ! 年 ! エントリー名 ! 車体型番 ! タイヤ ! エンジン ! 燃料・オイル ! ドライバー ! ランキング ! 優勝数 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#F5F5F5" ! bgcolor="#EFEFEF"| [[1991年のF1世界選手権|1991年]] | チーム・[[7up]]・ジョーダン | [[ジョーダン 191|191]] | {{Goodyear}} | [[フォード・コスワース・HBエンジン|フォードHB]]III,IV | [[BP (企業)|BP]] | [[ベルトラン・ガショー]]<br/>''[[ミハエル・シューマッハ]]''<br/>''[[ロベルト・モレノ]]''<br/>''[[アレッサンドロ・ザナルディ]]''<br/>[[アンドレア・デ・チェザリス]] | 5 | 0 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| [[1992年のF1世界選手権|1992年]] | サソル・ジョーダン・ヤマハ | [[ジョーダン 192|192]] | {{Goodyear}} | [[ヤマハ発動機|ヤマハ]]OX99 | [[サソル]] | [[ステファノ・モデナ]]<br/>[[マウリシオ・グージェルミン]] | 13 | 0 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#F5F5F5" ! bgcolor="#EFEFEF"| [[1993年のF1世界選手権|1993年]] | サソル・ジョーダン | 193 | {{Goodyear}} | [[ハート (F1)|ハート]]1035 | サソル | [[ルーベンス・バリチェロ]]<br/>''[[イヴァン・カペリ]]''<br/>''[[ティエリー・ブーツェン]]''<br/>''[[マルコ・アピチェラ]]''<br/>''[[エマニュエル・ナスペッティ]]''<br/>''[[エディ・アーバイン]]'' | 10 | 0 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| [[1994年のF1世界選手権|1994年]] | サソル・ジョーダン | 194 | {{Goodyear}} | [[ハート (F1)|ハート]]1035 | サソル | ルーベンス・バリチェロ<br/>エディ・アーバイン<br/>''[[鈴木亜久里]]''<br/>''アンドレア・デ・チェザリス'' | 5 | 0 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#F5F5F5" ! bgcolor="#EFEFEF"| [[1995年のF1世界選手権|1995年]] | トタル・ジョーダン・プジョー | 195 | {{Goodyear}} | [[プジョー]]A10V2 | [[トタル]] | ルーベンス・バリチェロ<br/>エディ・アーバイン | 6 | 0 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| [[1996年のF1世界選手権|1996年]] | [[ベンソン&ヘッジス|B&H]]・トタル・ジョーダン・プジョー | 196 | {{Goodyear}} | プジョーA12V4 | トタル | ルーベンス・バリチェロ<br/>マーティン・ブランドル | 5 | 0 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#F5F5F5" ! bgcolor="#EFEFEF"| [[1997年のF1世界選手権|1997年]] | B&H・トタル・ジョーダン・プジョー | 197 | {{Goodyear}} | プジョーA14EV5 | トタル | [[ラルフ・シューマッハ]]<br/>[[ジャンカルロ・フィジケラ]] | 5 | 0 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| [[1998年のF1世界選手権|1998年]] | B&H・ジョーダン・無限ホンダ | 198 | {{Goodyear}} | [[M-TEC|無限]]MF301HC | [[トタル|エルフ]] | [[デイモン・ヒル]]<br/>[[ラルフ・シューマッハ]] | 4 | 1 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#F5F5F5" ! bgcolor="#EFEFEF"| [[1999年のF1世界選手権|1999年]] | B&H・ジョーダン・無限ホンダ | 199 | {{Bridgestone}} | 無限MF301HD | エルフ | [[ハインツ=ハラルド・フレンツェン]]<br/>デイモン・ヒル | 3 | 2 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| [[2000年のF1世界選手権|2000年]] | B&H・ジョーダン・無限ホンダ | EJ10,EJ10B | {{Bridgestone}} | 無限MF301HE | エルフ | ハインツ=ハラルド・フレンツェン<br/>[[ヤルノ・トゥルーリ]] | 6 | 0 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#F5F5F5" ! bgcolor="#EFEFEF"| [[2001年のF1世界選手権|2001年]] | B&H・ジョーダン・[[ホンダ・レーシング・F1チーム|ホンダ]] | EJ11,EJ11B | {{Bridgestone}} | ホンダRA001E | エルフ<br>[[ペトロブラス]] | ハインツ=ハラルド・フレンツェン<br/>ヤルノ・トゥルーリ<br/>''[[リカルド・ゾンタ]]''<br/>''[[ジャン・アレジ]]'' | 5 | 0 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| [[2002年のF1世界選手権|2002年]] | [[DHL]]・ジョーダン・ホンダ | [[ジョーダン EJ12|EJ12]] | {{Bridgestone}} | ホンダRA002E | エルフ<br>[[新日本石油|エネオス]] | ジャンカルロ・フィジケラ<br/>[[佐藤琢磨]] | 6 | 0 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#F5F5F5" ! bgcolor="#EFEFEF"| [[2003年のF1世界選手権|2003年]] | ジョーダン・[[コスワース|フォード]] | EJ13 | {{Bridgestone}} | [[フォード・コスワース・CRエンジン|フォードRS1]] | エルフ | ジャンカルロ・フィジケラ<br />[[ラルフ・ファーマン]]<br/>''[[ゾルト・バウムガルトナー]]'' | 9 | 1 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| [[2004年のF1世界選手権|2004年]] | ジョーダン・フォード | EJ14 | {{Bridgestone}} | フォードRS2 | エルフ | [[ニック・ハイドフェルド]]<br />[[ジョルジオ・パンターノ]]<br/>''[[ティモ・グロック]]'' | 9 | 0 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#F5F5F5" ! bgcolor="#EFEFEF"| [[2005年のF1世界選手権|2005年]] | ジョーダン・トヨタ | EJ15,EJ15B | {{Bridgestone}} | [[トヨタF1|トヨタ]]RVX-05 | エルフ | [[ティアゴ・モンテイロ]]<br />[[ナレイン・カーティケヤン]]'' | 9 | 0 |} <nowiki>*</nowiki>斜体になっているドライバーはスポット参戦など == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == {{commons|Jordan Grand Prix}} *[[モータースポーツ]] *[[F1コンストラクターの一覧]] ==外部リンク== *[http://www.f1jordan.com/ ジョーダン・グランプリ 公式ウェブサイト]{{リンク切れ|date=2012年9月}} {{ジョーダン}} [[Category:かつて存在したF1コンストラクター|しよおたんくらんふり]] [[Category:イギリスのレーシングチーム|しよおたんくらんふり]] {{Motorsport-stub|しよおたんくらんふり}} {{link FA|lv}} {{Link FA|fi}}
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