ジャウハルのソースを表示
←
ジャウハル
移動先:
案内
、
検索
あなたには「このページの編集」を行う権限がありません。理由は以下の通りです:
要求した操作を行うことは許可されていません。
このページのソースの閲覧やコピーができます。
'''ジャウハル・アッ=シィキッリー'''('''جوهر الصقلي''' Jawhar al-Siqillī, ? - [[992年]])は、[[ファーティマ朝]]の将軍。現代エジプト方言ではゴーハル。第4代[[カリフ]]の[[ムイッズ]]に仕え、[[エジプト]]を征服して[[カイロ]]を建設した。 ジャウハルは[[シチリア島]]で[[正教会]]の[[キリスト教徒]]として生まれ、[[奴隷]]として[[イフリーキヤ]](現在の[[チュニジア]])に送られてこの地を支配するファーティマ朝のカリフに仕えた。やがて出世した彼は第3代カリフ、マンスールの秘書に取り立てられ、さらにマンスールの子ムイッズが即位すると、カリフの深い信任を受け、軍の指揮を委ねられた。ムイッズの即位から5年後の[[958年]]には西方への遠征を率い、[[アンダルス]]([[イベリア半島]])の[[後ウマイヤ朝]]が支配する北[[モロッコ]]を席捲して[[大西洋]]まで達した。この遠征により、後ウマイヤ朝は[[アフリカ]]側にモロッコ北海岸の[[セウタ]]と[[タンジール]]しか維持できないほどの打撃を受けた。 [[969年]]にはエジプトを支配する[[イフシード朝]]の混乱に乗じ、[[ベルベル人]]やシチリア人からなる10万の兵を率いてエジプトに向かった。ジャウハルはまずエジプト北西の港湾都市[[アレクサンドリア]]を包囲して無条件で屈服させた。ついで全軍は[[ナイル川]]に沿って南下し、首都[[フスタート]](現在のカイロ)に迫った。フスタートにいるイフシード朝の支配層はすぐに抵抗する意欲を失い、ジャウハルに無条件降伏した。969年[[8月5日]]、フスタートの手前で最後の抵抗を試みたイフシード朝軍の残党を破ったファーティマ朝軍はフスタートに入城した。ジャウハルは抵抗しなかった全ての官僚、イスラム指導者([[ウラマー]])、市民に安全と財産の保障を宣言し、[[イスマーイール派]]を奉ずるファーティマ朝の支配のもとでも[[スンナ派]]の信仰を続けることを認めた。 ジャウハルはフスタートを占領し、イフシード朝を滅ぼすとすぐに、フスタートのすぐ北東にカリフを迎えるための新都の建造を始めた。ナイル川に面した河港の政治都市フスタートに対して、そのやや内陸に四角の城壁に囲まれるようにつくられ、カリフと官僚、軍人が住んだこの計画的政治都市はカーヒラ(「勝利」)と名づけられた。これが現在のカイロの起源である。4年がかりで行われた新都の建設と平行して、[[970年]]にはカリフのための[[モスク]]となる[[アズハル・モスク]]の建設が着工した。カイロ完成後の[[973年]]、イフリーキヤからムイッズが移り、ファーティマ朝の東遷が完了する。 ジャウハルはその間にも[[歴史的シリア|シリア]]方面に進出して[[パレスチナ]]、[[エルサレム]]を征服し、[[カルマト派]]の侵攻を撃退するが、のちにムイッズの不興を買って失脚した。ムイッズの死後、ジャウハルはその子の[[アズィーズ]]によって登用されるが、シリアへの遠征に失敗して再び政治から遠ざけられ、そのまま死去した。 {{DEFAULTSORT:しやうはる}} [[Category:イスラム史の人物]] [[Category:ファーティマ朝]] [[Category:都市の建設者]] [[Category:992年没]]
ジャウハル
に戻る。
案内メニュー
個人用ツール
ログイン
名前空間
ページ
議論
変種
表示
閲覧
ソースを表示
履歴表示
その他
検索
案内
メインページ
コミュニティ・ポータル
最近の出来事
新しいページ
最近の更新
おまかせ表示
sandbox
commonsupload
ヘルプ
ヘルプ
井戸端
notice
bugreportspage
sitesupport
ウィキペディアに関するお問い合わせ
ツール
リンク元
関連ページの更新状況
特別ページ
ページ情報