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コリン・マクレー
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{{WRCドライバー | Image = Colin Mcrae crop edited.jpg | Caption = Xゲーム会場にて | 氏名 = コリン・マクレー | 国籍 = {{GBR}}<br/>{{SCO}} | 活動時期 = 1987 - 2003, 2005 - 2006 | 所属チーム = スバル、シトロエン、フォード、シュコダ | 出走回数 = 146 | チャンピオン回数 = 1 (1995) | 優勝回数 = 25 | 表彰台回数 = 42 | ステージ勝利数 = 477 | 通算獲得ポイント = 626 | 初戦 = 1987 スウェディッシュラリー | 初勝利 = 1993 ニュージーランドラリー | 最終勝利 = 2002 [[サファリラリー]] | 最終戦 = 2006 トルコラリー }} '''コリン・スティール・マクレー'''('''Colin Steele McRae, [[大英帝国勲章|MBE]]''', [[1968年]][[8月5日]] - [[2007年]][[9月15日]])は、[[イギリス]]([[スコットランド]])[[ラナーク]]出身の[[ラリー]]ドライバー。1995年の[[世界ラリー選手権]] (WRC) ドライバーズチャンピオン。父の[[ジミー・マクレー]]、弟の[[アリスター・マクレー]]もラリードライバーである。妻と2人の子供がいる。 リスクを恐れない攻めの走りと豪快な[[ドリフト走行]]で世界的な人気を誇り、「'''マクラッシュ'''('''壊し屋マクレー''')」の愛称で呼ばれた。[[富士重工業|スバル]]のラリー活動の黎明期を支え、スバル車の初優勝、3度のマニュファクチャラータイトルをもたらした立役者とされる。 == 経歴 == === 現役生活 === [[Image:LEGACY RS.jpg|thumb|right|200px|レガシィRS(1993年[[ラリー・ニュージーランド]]優勝車)]] [[Image:Colin McRae's Subaru Impreza 555 crop.jpg|thumb|right|200px|1995年のタイトルを獲得した[[スバル・インプレッサ|インプレッサ]]]] [[1986年]]からラリー参戦を開始。[[世界ラリー選手権]] (WRC) 初参戦は[[1987年]]の[[ラリー・スウェーデン|スウェディッシュ・ラリー]]。スバル・[[プロドライブ]]に才能を見出されて[[1991年]]に同チームに加入し、[[スバル・レガシィ]]を駆って1991年・[[1992年]]の英国選手権を制覇。WRC参戦をはじめたばかりのスバルの若き期待の星として、しばしば目を見張るスピードを見せるものの、派手なクラッシュも多く「マクラッシュ(壊し屋マクレー)」と称された。 [[1993年]]の[[ラリー・ニュージーランド|ニュージーランド]]で自身とスバルにとって初のWRC勝利を飾る。[[1995年]]にはイギリス人初、史上最年少(27歳109日)でのドライバーズチャンピオンを獲得し、スバルも初のマニファクチャラーズタイトルを獲得する。その功績により、1996年には[[大英帝国勲章]]第五位 (MBE) を受勲した。 [[1996年]]は3勝、[[1997年]]は5勝を上げ、スバルのマニファクチャラーズタイトル3連覇に貢献するも、ドライバー部門では三菱の[[トミ・マキネン]]に次ぐランキング2位にとどまった。 [[1999年]]シーズンから新鋭WRカー・[[フォード・フォーカスWRC]]を擁する[[フォード・モーター|フォード]]に移籍。マシン開発と並行しながらの参戦とあって、4年間に9勝を挙げるもタイトル獲得はならず。ラリー史上最高額と言われる契約金がフォードワークスの財政事情に大きな負担となり、放出の最大の原因ともなった。 [[2003年]]には[[シトロエン]]から参戦したが、精彩を欠き、シーズン終了後に同チームのシートを失った。 [[2004年]]、[[2005年]]には[[日産自動車|ニッサン]]ワークスチームから[[ダカール・ラリー]](通称パリダカ)に参戦した。時折好タイムをマークするなど健在ぶりを見せ付けるも、2004年は途中でマシントラブルに見舞われ順位を大幅に下げ、2005年は前半首位を快走していたものの突如横転しリタイア。2005年限りで日産がダカール・ラリーから撤退したため、以後は参加することはなかった。 [[Image:Colin McRae.jpg|thumb|200px|2005年のラリー・グレートブリテン、カーディフのミレニアム・スタディアムでシュコダを駆るマクレー]] 2004年以降WRCへの参戦は実現していなかったが、[[2005年]]に入り[[シュコダ]]との接触が報じられ、9月の[[ラリー・グレートブリテン|ラリーGB]]と11月の[[ラリー・オーストラリア]]で[[シュコダ・ファビア|シュコダ・ファビアWRC]]に乗りスポット参戦を果たした。オーストラリアではレグ3の午前中のサービスに入る時点まで3位を走行しており、マクレー自身はもとよりシュコダ勢では久しぶりの表彰台が期待されたが、マシントラブルでリタイアとなってしまった。 [[2006年]]10月、シトロエンの[[セバスチャン・ローブ]]がトレーニング中の骨折で欠場したため、13戦[[ラリー・オブ・ターキー|トルコ]]に代理参戦した。しかし途中6位〜7位と振るわず、最終日に電気系トラブルでリタイアし、1戦のみの参戦となった。 [[2006年]]には[[エックスゲームズ|Xゲームズ]]の新ステージ「ラリー」に出場。さすがの走りで終始トップ争いをしていたが、最終ステージのジャンプの着地に失敗し、転倒。それでもすぐに体勢を立て直し、左フロントタイヤがパンクしながらステージを走りきり、横転したにもかかわらずわずか 0.13秒差の2位でフィニッシュした(1位は[[トラビス・パストラーナ]])。[[2007年]]も引き続き出場したが、準決勝で2年連続の転倒を喫し敗退。結果的にこれがマクレーにとっての最後のラリーとなった。 === 突然の事故死 === [[2007年]][[9月15日]]、自宅のあるラナーク周辺にて自身が操縦していた自家用ヘリが墜落し、39歳の若さで死去。このヘリにはコリンの他に5歳の長男ジョニー、ジョニーの遊び友達、マクレー家の友人のフランス人も同乗していたが、地元警察により全員の死亡が確認された<ref>[http://www.subaru-msm.com/news/070916.html 訃報 コリン・マクレー、ヘリコプター事故で他界] SUBARU Motorsport.(2007年9月17日) </ref>。 その死はいち早くインターネットで報じられ、モータースポーツ関係者には広い交友関係を持っていたこともあって、WRC関係者やファンのみならず世界中のモータースポーツに関わる人間に深い衝撃と悲しみを与えた。同い年の[[マーカス・グロンホルム]]、マクレーの次代チャンピオンで、ライバル関係にあった[[トミ・マキネン]]、フォード、シトロエン時代の同僚であった[[カルロス・サインツ]]、フォード時代から親交のあった[[ペター・ソルベルグ]]をはじめとするラリードライバーや各ワークスチームなどWRC関係者を中心に、同じスコットランド出身である[[フォーミュラ1|F1]]ドライバーの[[デビッド・クルサード]]、WRC参戦の経験もある[[MotoGP]]を代表する選手、[[バレンティーノ・ロッシ]]<ref>ロッシはマクレーの死の翌日[[9月16日]]に行われたMotoGP 第14戦ポルトガルGPの勝利を故人に捧げた。</ref>)などラリー以外の多くのモータースポーツ関係者からも追悼の言葉が寄せられ、異口同音にマクレーの生前の活躍を賞賛し、早すぎる死を惜しんだ。[[国際自動車連盟]]も、9月16日付けで声明を出している<ref>[http://www.fia.com/mediacentre/Press_Releases/FIA_Sport/2007/September/160907-01.html]. 国際自動車連盟.{{リンク切れ|date=2013年12月}}</ref>。また公式ページの追悼メッセージ欄には5万件を超える書き込みが寄せられた。 葬儀はマクレー家の強い要望により親族と友人のみで静かに営まれた。[[9月30日]]夕方にはラナークの聖ニコラス教会で関係者を招いた追悼式が行われ、続いて追悼パレードがラナークのメインストリートで行われた。沿道にはラナークの人口(約8500人)を超える21000人以上のファンが詰め掛け、通りには100台を超えるスバル・インプレッサが配置された。一連の式典にはマーチ卿ことチャールズ・ゴードン=レノックス伯爵([[グッドウッド・フェスティバル・オブ・スピード]]の主催者)、工藤一郎([[スバルテクニカインターナショナル|スバルテクニカインターナショナル]] (STI) 社長)、[[デビッド・リチャーズ]]([[プロドライブ]]創設者)、[[マルコム・ウィルソン]]([[Mスポーツ]]代表)夫妻と息子の[[マシュー・ウィルソン|マシュー]]、[[ギィ・フレクラン]](シトロエン・ラリーチーム代表)、[[アンドリュー・コーワン]](元[[三菱自動車|三菱]]モータースポーツ (MMSP) 監督)、[[デレク・リンガー]]と[[ニッキー・グリスト]](それぞれコリンの[[コ・ドライバー]]を勤めた)、[[アリ・バタネン]]とマーカス・グロンホルム、[[ディディエ・オリオール]]ら歴代WRC世界王者、パニエラ・ワルフリッドソン([[ペター・ソルベルグ]]の妻で元ラリードライバー、都合により出られなくなったペターの代理として出席)、[[デイモン・ヒル]](元F1ドライバー、{{f1|1996}}世界王者、ブリティッシュ・レーシング・ドライバーズ・クラブ会長)、[[ダリオ・フランキッティ]]([[インディカー・シリーズ|IRL]]2007年王者、スコットランド出身)などイギリス国内外の多くのモータースポーツ関係者が姿を見せ、また[[2007年日本グランプリ (4輪)|日本GP]]に参戦していたデビッド・クルサードは日本からビデオでメッセージを寄せた<ref>[http://www.wrc.com/page/News/BreakingNewsDetail/0,,10111~1124977,00.html]. WRC.com.{{リンク切れ|date=2013年12月}}</ref>。 追悼式の中で、2006年までスバルのラリー活動の陣頭指揮に当たり、長年マクレーと共に戦ってきたプロドライブの[[デヴィッド・ラップワース]]は「彼は、ファンにとっては[[アイルトン・セナ]]やバレンティーノ・ロッシに匹敵する正真正銘のモータースポーツのヒーローである」と述べた。 追悼イベントでは、1000台以上のスバル車で「Colin McRae」の文字と青地に斜め白十字のスコットランドフラグが作られた。またこれに先立ち、[[ジミー・マクレー]]の先導により故郷ラナークから[[プロドライブ]]のあるバンブリーまでの300[[マイル]](約480[[キロメートル]])の距離を、30[[マイル]](約48[[キロメートル]])の長さに及ぶ車列でパレード行進した。この2つの記録は[[ギネス・ワールド・レコーズ]]の認定記録を更新するものである。 マクレーのWRC通算25勝は2013年シーズン終了時点で[[セバスチャン・ローブ]]の78勝、[[カルロス・サインツ]]の26勝に次ぐ史上3位。 [[2008年]]のアクロポリス・ラリーでは「Colin McRae Trophy」が設けられ、最も早い平均速度を出した[[ジジ・ガリ]]に賞が授与された。 ==レーシングスタイル== [[ファイル:Cm2 ford.jpg|thumb|right|200px|[[フォード・フォーカスWRC]]をドライブするマクレー(2001年フィンランド)]] マクレーといえば豪快な[[ドリフト]]が代名詞であった。コーナー直前からドリフトを開始し、コーナーの道幅を大きく使いほぼ横向きになりながらコーナーを通過し抜けていくのが彼のスタイルであった。彼は自動車番組『[[トップ・ギア]]』の中で、[[フォード・フォーカスWRC]]を用いてサーキットを走ったところ、コーナーで軽くドリフトを見せるなど「らしさ」を見せ付けた。 しかしながら、ドリフト走行は見栄えこそ良いものの、コーナリングにおいては無駄の多い走り方である。グラベルにおいては(ある程度の)ドリフトは有効であると言われているが、[[セバスティアン・ローブ]]や[[ペター・ソルベルグ]]に代表されるグリップ走行重視のドライバーの成績を見た限りでは、コリンのような過度のドリフト走行のスタイルは時代遅れとなってしまった感もあり、晩年のWRCにおける成績の低迷に繋がったと見られる。 「アクセルでも何でもペダルは床まで踏む」はマクレーの決まり文句であり、彼の走りを象徴する言葉である。 ==エピソード== {{出典の明記|section=1|date=2013年12月}} {{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2013年12月}} [[ファイル:Colin McRae 1995.PNG|thumb|right|180px|チャンピオンを獲得した1995年のマクレー]] *かつては素朴な人柄ゆえ、スピーチひとつできなかったほど。スバル時代、首脳陣を交えたパーティーで[[アリ・バタネン]]が朗々とスピーチをするのに対し、マクレーは何も喋れなかったという。若い頃はスコットランド訛りも強く、イギリス人以外の記者はイギリスの記者に通訳を頼んだほど。 *ジミー・マクレーを筆頭にマクレー家の人間は何らかの形でラリーやモータースポーツに関わっているが、三男だけは例外で地元でサンドイッチ屋を営んでいる。 *スバル初期の同僚バタネンもコリンに負けず劣らずのクラッシャーとして知られるため、隠喩を込めて「師弟コンビ」と呼ばれることも。 **毎度のごとくクラッシュしたコリンに対し、プロドライブのリーダー、[[デビッド・リチャーズ]]はこう言った。「とりあえず問題ない。スペアボディならいくらでもある」 **スバル時代、あまりにクラッシュを繰り返しチーム首脳陣から叱責されたコリンを擁護し、励ましたのは[[STI]]の創設者、[[久世隆一郎]]であった。 *頭に血が上ると、とにかく物に当たる。チームオーダーが言い渡されるとタイヤを蹴り飛ばし、車が動かなくなるとボディを蹴る。そのため「コリンは蹴ってマシンを修理しているんだ」というジョークが生まれ、「マクレーキック」なる言葉まで生まれた。 *クラッシュの数だけ怪我も増える。特にフォード時代は突き出した木の枝で頬骨は折る、肺は痛める、挙句の果てには小指が切断寸前の状態になるなど散々な目に合った。だが、マシンが半分近く潰れるほどの大クラッシュに見舞われても無傷だったことも多い。実際、初期のフォーカス WRCは「重戦車」の異名を持ち、少なくともボディの頑丈さだけは他のWRカーよりも群を抜いていたといわれ、「フォーカスでなければコリンは死んでいた」とする声も。 **コリンによって廃車寸前にされたフォーカスに、彼の愛娘ホリ-は絆創膏を貼ったことがある。 *派手なドライビングだけでなく、若い頃は女性関係も派手だった。一時はラリーイベントごとに違う女性を帯同させていたという証言すらもある。しかし現夫人のアリソンと結婚して以降は浮ついた話は出なくなった。 *[[ナビゲーター (モータースポーツ)|コ・ドライバー]](ナビ)、[[ニッキー・グリスト]]とのコンビはWRCにおける名コンビのひとつとして知られるが、コリンは自分のミスをグリストに責任転嫁することが多く、そのためかシトロエン時代以降はコンビを解消していた。[[2005年]]のWRCスポット参戦以降はコンビを復活させた。 *[[2003年]]、最終戦[[ラリー・グレート・ブリテン]]最終SS。生中継のカメラの前でコリンはパンクを修理し、その様子を長年のライバルで、同ラリーをもって引退する[[トミ・マキネン]]が見守るというシーンが生まれた。 *2005年のダカール・ラリーでナビを勤めていたのは、WRC参戦の経験もある[[ドイツツーリングカー選手権|DTM]]のドライバー、[[マティアス・エクストローム]]の夫人で、WRCではナビとしても知られる[[ティナ・トルナー]]。コリンの大ファンで、彼のナビになることは長年の夢であった。しかし彼女も、コリンのクラッシュ癖の犠牲となり負傷した。 *自分の名前を冠したラリーゲーム「[[Colin McRae Rally|コリン・マクレー・ラリー]]」シリーズは人気の高い作品。この作品のライセンス料はコリンの年収のかなりの割合を占めていた。この作品によって、ラリーファン以外にもコリン・マクレーの名前は知られていた。コリンがラリー(WRC)から疎遠になっていることから、最新作は「DiRT:Colin McRae Off-Road」と名称が変わった。 **このゲームの存在のため、[[PlayStation 2|プレイステーション2]]で発売されたWRC公式のラリーゲーム「WRC」ではコリンの名前等が一切使えず、スコットランド国籍の「Ford Driver」というキャラクターが登場した。2003年に発売された続編の「WRC2」に至っては存在すらもない。 **コリンの死に際し、「コリン・マクレー・ラリー」シリーズの開発・販売を手がけたゲームメーカー[[コードマスターズ|Codemasters]]は哀悼の意を表した。また、発売間近だった[[Mac OS]]のラリーゲーム「Colin McRae Rally Mac(Colin McRae Rally 2005の移植版)」について発売元のFeral Interactiveは急遽延期を決めた。 *同じ[[イギリス]]出身の[[リチャード・バーンズ]]をことあるたびに話のネタにしていたが、決して本心から彼を馬鹿にしていたわけではない。コリンはコリンなりにリチャードの実力を認めており、ライバルとして意識し、イギリス人ドライバーとしての連帯感も持ち、友人としても交流があった。コリンはリチャードの死に対し「ラリー界にとても大きな穴を開けてしまった」と悲しみをあらわにしている。約2年後、皮肉なことに自らの死によってさらに大きな穴をラリー界に開けてしまった。 *マクレーの事故死の翌日、デヴィッド・リチャーズの乗ったヘリコプターもメカニカルトラブルが原因でロンドン近郊に不時着した。幸いリチャーズと同乗していた夫人は無事だったが、2日続けてWRC関係者が巻き込まれたヘリコプター事故が発生したことに関係者は深い衝撃を受けた。 == 多彩なモータースポーツセンス == マクレーの特筆すべき点として、さまざまなモータースポーツに精通しているということがある。ラリーに出場する以前にはバイクとも親しんだことがあり、そのライディングもなかなかのもので、WGP(現[[MotoGP]])の取材歴があるカメラマンをして「なぜコリンはWGPで走らないんだ?」と言わしめた。また、WRCとF1のジョイントイベントでも、F1マシンを駆り好タイムをたたき出した(ちなみにライバルのマキネンはフェラーリをスピンさせた)。F1ドライバーの[[ジャック・ヴィルヌーヴ]]は「マクレーはさまざまなモータースポーツで活躍しうる才能を持つ」と彼を評した。 ==世界ラリー選手権での優勝== <center> {| border="1" cellpadding="2" cellspacing="0" |----- ! style="background:#efefef;" | 年 ! style="background:#efefef;" | ラリー ! style="background:#efefef;" | 開催国 ! style="background:#efefef;" | コ・ドライバー ! style="background:#efefef;" | 車 |----- | 1993 || Rally New Zealand || ニュージーランド || デレック・リンガー || Subaru Legacy |----- | 1994 || Rally New Zealand || ニュージーランド || デレック・リンガー || Subaru Impreza 555 |----- | 1994 || RAC Rally || イギリス || デレック・リンガー || Subaru Impreza 555 |----- | 1995 || Rally New Zealand || ニュージーランド || デレック・リンガー || Subaru Impreza 555 |----- | 1995 || RAC Rally || イギリス || デレック・リンガー || Subaru Impreza 555 |----- | 1996 || Acropolis Rally || ギリシア || デレック・リンガー || Subaru Impreza 555 |----- | 1996 || Sanremo Rally || イタリア || デレック・リンガー || Subaru Impreza 555 |----- | 1996 || Rally of Catalunya || スペイン || デレック・リンガー || Subaru Impreza 555 |----- | 1997 || Safari Rally || ケニア || [[ニッキー・グリスト]] || Subaru Impreza WRC 97 |----- | 1997 || Rally of Corsica || フランス || ニッキー・グリスト || Subaru Impreza WRC 97 |----- | 1997 || Sanremo Rally || イタリア || ニッキー・グリスト || Subaru Impreza WRC 97 |----- | 1997 || Rally of Australia || オーストラリア || ニッキー・グリスト || Subaru Impreza WRC 97 |----- | 1997 || RAC Rally || イギリス || ニッキー・グリスト || Subaru Impreza WRC 97 |----- | 1998 || Rally of Portugal || ポルトガル || ニッキー・グリスト || Subaru Impreza WRC 98 |----- | 1998 || Rally of Corscia || フランス || ニッキー・グリスト || Subaru Impreza WRC 98 |----- | 1998 || Acropolis Rally || ギリシア || ニッキー・グリスト || Subaru Impreza WRC 98 |----- | 1999 || Safari Rally || ケニア || ニッキー・グリスト || Ford Focus RS WRC 99 |----- | 1999 || Rally of Portugal || ポルトガル || ニッキー・グリスト || Ford Focus RS WRC 99 |----- | 2000 || Rally of Catalunya || スペイン || ニッキー・グリスト || Ford Focus RS WRC 2000 |----- | 2000 || Acropolis Rally || ギリシア || ニッキー・グリスト || Ford Focus RS WRC 2000 |----- | 2001 || Rally of Argentina || アルゼンチン || ニッキー・グリスト || Ford Focus RS WRC 01 |----- | 2001 || Rally of Cyprus || キプロス || ニッキー・グリスト || Ford Focus RS WRC 01 |----- | 2001 || Acropolis Rally || ギリシア || ニッキー・グリスト || Ford Focus RS WRC 01 |----- | 2002 || Acropolis Rally || ギリシア || ニッキー・グリスト || Ford Focus RS WRC 02 |----- | 2002 || Safari Rally || ケニア || ニッキー・グリスト || Ford Focus RS WRC 02 |} </center> == 脚注 == {{Reflist}} ==外部リンク== {{Commonscat|Colin McRae}} * [http://www.colinmcrae.com 公式サイト] * [http://www.colinmcraesport.com Colin McRae Official Sportswear Brand (currently blanked with black page)] * [http://www.rallybase.nl/index.php?type=profile&driverid=30 Rallybase stats page] * [http://www.juwra.com/mcrae_colin.html WRC Archive stats page] {{WRCドライバーズチャンピオン}} {{DEFAULTSORT:まくれ こりん}} [[Category:イギリスのラリードライバー]] [[Category:大英帝国勲章]] [[Category:サウス・ラナークシャー出身の人物]] [[Category:航空事故死した人物]] [[Category:1968年生]] [[Category:2007年没]]
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