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'''ケーセギ・ヘンリク'''('''Kőszegi Henrik''', ? - [[1274年]])は[[ハンガリー王国]]の大[[貴族]]。[[1254年]] - [[1261年]]:「Iudex curiae regiae」、1261年 - [[1267年]]:ハンガリーの[[副王]](Nádor)、1267年 - 1270年:[[スラボニア]]の[[バン (称号)|バーン]]。 ハンガリーで最も有力であった貴族の1人で、[[1270年]]に[[ベーラ4世]]が亡くなり、子の[[イシュトヴァーン5世]]が後を継ぐと、ヘンリクは当時、[[ボヘミア]]や[[イタリア]]北部を支配下に置いて勢いに乗る[[オタカル2世]](大王)の庇護を受けて、イシュトヴァーン5世に対して公然と反旗を翻した。その後、オタカル2世が[[神聖ローマ皇帝]]・[[ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ1世]]と争い始めて庇護を受けられなくなると、ヘンリクは王に謝罪して和睦した。 しかし、王妃の寵臣と結託して皇太子のラースロー(後のハンガリー王・[[ラースロー4世]])を誘拐する。これに怒ったイシュトヴァーン5世はヘンリクを追討する軍を発したが、その途上の[[1272年]]に病死。イシュトヴァーン5世の死後、ヘンリクはラースローを王として擁立し、自身はその後見人としてハンガリーにおける全権力を牛耳るに至った。 しかしヘンリクと対立する大貴族の[[チャーク家]]が、彼が権力を掌握した事に不満を覚えて1274年、反対派を結集し、ヘンリクは[[暗殺]]されてしまった。 息子にミクローシュ、ヤーノシュ、ペーテル、ヘンリクがいる。 ==外部リンク == *http://genealogy.euweb.cz/hung/koszegi.html ([[ケーセギ家]]の家系図) *http://www.vendegvaro.hu/5-1431 (ヘーデル・ヘンリク Héder Henrik([[ヘーデルヴァーリ家]]の祖先)の子孫がケーセグ城を領有してケーセギ家となった事がわかる) {{DEFAULTSORT:けえせき へんりく}}<!--「ケーセギ」がファミリーネームです--> [[Category:ハンガリー王国]] [[Category:ハンガリー史の人物]] [[Category:暗殺された人物]] [[Category:1274年没]]
ケーセギ・ヘンリク
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