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'''クルップ'''(''Krupp'' )は、[[ドイツ]]の[[エッセン]]にある長い歴史を持つ[[重工業]]企業である。[[1999年]]に[[ティッセン]]社と合併し、[[ティッセンクルップ]]が誕生。巨大な工業[[コングロマリット (ビジネス)|コングロマリット]]となっている。 [[Image:Drei Ringe von Krupp.jpg|thumb|160px|right|社章]] [[Image:Alfred_Krupp.jpg|thumb|160px|right|[[アルフレート・クルップ]]]] [[Image:KRUPP, FRIEDRICH ALFRED (1854-1902) nel 1900.jpg|160px|right|thumb|[[フリードリヒ・アルフレート・クルップ]]]] == 端緒 == [[フリードリヒ・クルップ]]([[1787年]]-[[1826年]])が[[プロイセン]]の炭坑町・エッセンに、[[ライン川]]の水力を動力とする小さな工房を構えたのが大クルップの源流である。彼はその工房で当時[[イギリス]]の[[シェフィールド]]が独占していた[[鋼|鋼鉄]]の[[鋳造]]による製造を試みた。だが技術的な難関を乗り越えることができず、借金を重ねたのち39歳の若さで貧困のうちに窮死した。晩年にはすっかり気力をなくしてベッドに寝たきりであったという。彼が死んだその日、木造の小さな工場とわずかな職人は14歳だった長男の[[アルフレート・クルップ]](''Alfred Krupp''、[[1812年]]-[[1887年]])に引き継がれた。 アルフレートは数年のあいだ工場にこもって研究を重ねたのち、ついに[[鋳鋼]]の製造に成功する。彼は細々と[[工具]]や食卓[[ナイフ]]、[[スプーン]]の製造を始めた。鋳型に模様をつけることで、柄に花などの模様のあるスプーンを最初に作り出したのはクルップだった。のちには[[貨幣]]の鋳造機や[[蒸気機関車]]の[[車輪]]の製造を開始し、苦労しながらもクルップの事業は軌道に乗った。 == 鉄道事業 == [[1834年]]、[[ドイツ関税同盟]]が成立し、加盟国間での[[関税]]や通行料は廃止された。すぐにアルフレートは商用旅行に出かけ、大量の[[鉄道]]車輪の注文取り付けに成功した。この年からクルップの工場は渇水のたび停止する[[水力]]に頼ることをやめ、エッセンで最初とされる[[蒸気機関]]を工場に据えつけて動力に用いるようになった。 ドイツに最初に鉄道が敷かれたのは、後進国の割には早い[[1835年]]である。鉄道は当時まさに金のなる木であり、[[鉄鋼]]は鉄道には欠かせなかったためこのニュースにアルフレートは飛び上がって喜んだ。「新しい未来が私たちの前に開けている。今や私たちは、鋼鉄の時代に生きているのだ」また鉄道は沿線の間の交易を発達させ、[[国民経済]]の形成に大きく貢献した。クルップは有力な鉄鋼製品製造業者に成長してゆく。クルップ社の紋章の三つの輪は社業の基礎となった鉄道車輪を表すものである。 == 軍事産業への参入 == [[フランス]]では[[1830年]]には[[7月革命]]、[[1848年]]に[[1848年革命|2月革命]]がおこり、そのたびに[[ヨーロッパ]]では革命の嵐が吹き荒れたが、アルフレート・クルップは商売のことしか考えていなかった。そして、彼の発想は戦争で繁盛するなら大いに結構、というクルップ家の伝統へとつながってゆくのである。 次第にアルフレートは武器の生産に目をつけてゆく。[[1843年]]には鋼鉄製の[[銃]]、[[1847年]]には[[大砲]]をプロイセンの[[陸軍]]当局に送って売込みをかけるが、にべもなかった。それならばとアルフレートはプロイセン国王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム4世]]に大砲を献上する。この大砲は王宮の[[大理石]]の広間に置かれ、大いにPRとなった。[[1851年]]、[[ロンドン]]の[[ロンドン万国博覧会 (1851年)|第1回万国博覧会]]に6ポンドの大砲を出品した。あえて[[国際博覧会|万博]]に戦争の道具を出品したアルフレートは、見事金賞を勝ち取った。 [[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]は、アルフレートが先王に[[大砲]]を献上したことからクルップへ300門もの大砲を発注した。また、かの[[鉄血演説]]を行った[[オットー・フォン・ビスマルク]]が[[宰相]]となり、アルフレートの元を訪れた。2人は意気投合し、ドイツの近代化を強力に推し進めた。 新製鋼法を導入し、事業を順調に伸ばすアルフレートは、プロイセンだけではなく軍備強化に励む各国から手広く受注していた。その一方で、プロイセンが国内の鉄鋼業者から競争入札で大砲の発注元を決めようとしたときは「一門でもクルップ以外の鉄鋼業者が注文を取ったら、直ちに全世界に対して、彼らの欲する大砲を売り渡すであろう」と脅迫めいた内容の手紙を出している。 そんなアルフレートに対して、いつしか人々は皮肉をこめて「大砲王」と呼ぶようになった。もっとも、本人はその称号をいたく気に入っていたようである。クルップは兵器だけでなく、鉄道用品の製造に力を注いだ。特にクルップの作る継ぎ目なしの車輪は、丈夫でしかも摩擦が少ないということから年々受注が増えた。こうして建設された鉄道が[[普仏戦争]]を[[プロイセン王国]]の勝利に導いたのである。[[1867年]]、アルフレートは[[ナポレオン3世]]が主催する[[パリ万国博覧会 (1867年)|パリ万国博覧会]]には化け物のような大きさの巨砲を出品した。 当時[[オランダ]]に留学中の[[榎本武揚]]や[[赤松則良]]らはアルフレート・クルップを訪れ社長と会見している。同時に当時建造中の[[軍艦]][[開陽丸]]に搭載する大砲を注文し、最終的に18門が搭載された。[[日本]]でもクルップの火砲を元に多数の火砲が製造され、[[日露戦争]]の時には多数のクルップ式火砲を装備していた。日本語名として「克式」と呼ばれた。 [[Image:Krupp Factory WWI.jpg|thumb|160px|right|第一次世界大戦中のクルップ兵器工場]] [[image:TigerITankTunis.jpg|thumb|160px|right|ティーガー(タイガー)重戦車]] == 2つの世界大戦 == === 第一次世界大戦 === *クルップはドイツ陸軍向けに、[[1914年]]に[[ディッケ・ベルタ|420mm砲]]を、また[[1917年]]~[[1918年]]には[[パリ砲]]を製作している。 === 第二次世界大戦 === *クルップはドイツ軍向けに、[[戦車]]・[[砲]]・[[軍用トラック]]などの兵器を製造し続けた。[[連合軍]]からの占領を避けるため、ドイツ国内に工場を移転しながら終戦まで製造を続けた。[[1936年]]からの[[中独合作]]における三年計画では、[[シーメンス]]などともに[[中国]]に兵器工場を建設し、[[中国国民党]]へ兵器を販売していた。 === 第二次世界大戦後 === *第二次世界大戦後、[[グスタフ・クルップ]]前会長は[[ニュルンベルク裁判]]の被告人として起訴されたが、高齢のグスタフは公判に耐え切れないものとして起訴を取り下げられた。その後、[[ニュルンベルク継続裁判|継続裁判]]の一つである[[クルップ裁判]]においてグスタフの息子[[アルフリート・クルップ]]会長をはじめとするクルップ社幹部が裁かれた。 *[[上智大学]]内にはクルップ社からの寄付で建てたクルップ・ホールがある。 == 文献 == *『クルップの歴史 1587~1968』 上・下 フジ出版社 1982年 : ウィリアム・マンチェスター [[鈴木主税]]訳 *N.ムーレン『クルップ五代記』([[江藤淳]]訳 新潮社 1961年) *諸田実 『クルップ ドイツ兵器王国の栄光と崩壊』 [[東洋経済新報社]]、1970年 {{DEFAULTSORT:くるつふ}} [[Category:クルップ|*]] [[Category:クルップ家|*]] [[Category:ドイツの工業製品メーカー]] [[Category:ドイツの鉄道車両メーカー]] [[Category:ドイツの軍需関連企業]] [[Category:エッセンの企業]]
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