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キャサリン・パー
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{{基礎情報 皇族・貴族 |人名=キャサリン・パー |各国語表記={{lang|en|Catharine Parr}} |家名・爵位=パー家 |画像=Catherine Parr from NPG.jpg |画像サイズ= |画像説明= |続柄= |称号=[[イングランド王国|イングランド]]王妃 |全名= |身位= |敬称= |出生日=[[1512年]] |生地={{ENG927}}、[[カンブリア (イングランド)|カンブリア]]、ケンダル城 |死亡日=[[1548年]][[9月5日]] |没地={{ENG927}}、[[グロスターシャー]]、シュードリー城 |埋葬日={{ENG927}}、グロスターシャー、シュードリー城内聖メアリー礼拝堂 |埋葬地= |配偶者1=エドワード・ボロー |配偶者2=ジョン・ネヴィル |配偶者3=[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]] |配偶者4=[[トマス・シーモア]] |子女=メアリー・シーモア |父親=トマス・パー |母親=モード・グリーン |役職= }} '''キャサリン・パー'''({{lang-en|Katharine / Catharine Parr}}, [[1512年]] - [[1548年]][[9月7日]])は、[[イングランド王国|イングランド]]王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]の6人目かつ最後の王妃([[1543年]]結婚、[[1547年]]死別)。 ==生涯== 16歳で最初の結婚、21歳で2度目の結婚をしたものの、いずれの夫も病死している。2人目の夫ジョン・ネヴィルの死後、王の3人目の妃[[ジェーン・シーモア]]の次兄[[トマス・シーモア|トマス]]と交際を始めたが、51歳のヘンリー8世に見初められ、トマスは公務で海外に送られてしまい、結局1543年に31歳で王と結婚した。 キャサリンは、当時[[私生児]]の身分に落とされていたメアリー(後の[[メアリー1世 (イングランド女王)|メアリー1世]])とエリザベス(後の[[エリザベス1世]])の姉妹を王女の地位に戻すことを王に嘆願して、許された。少年時代から[[デジデリウス・エラスムス|エラスムス]]と文通するほどの教養の持ち主だったヘンリーと対等に学術談義ができるだけの知性をキャサリンは持ち、特に[[神学]]についての造詣が深かった。まだ幼いエドワード(後の[[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード6世]])とエリザベスの養育を任されたため、彼らへの教育環境を整えてやったほか、音楽などの芸術についての関心も導き出していた。王の子女たちも優しい継母を敬愛しており、メアリーも[[プロテスタント]]の義母を深く慕っていたといい、エリザベスがキャサリンを「大好きなお母様」と呼んでいる手紙も残っている。子女たちが王族としての深い教養を身に着けけられたのも、聡明な王妃が勉学環境に心を砕いていた賜物であるという。 晩年の王は肥満であった他、怪我が元でできた脚の[[腫瘍]]とひどい頭痛に苦しんで寝込むことが多く、激昂すると手の付けられない状態であった。しかし、キャサリンは王の看護にも熱心であったため王の信頼を獲得し、[[1544年]]に王が[[フランス王国|フランス]]遠征をした3ヶ月間、君主代理を任されるほどであった。また、イングランド女王・王妃として初めて著書を上梓したのもキャサリン・パーである。 [[宗教改革]]により[[カトリック教会]]と[[イングランド国教会]]の対立が止まない時代、キャサリンの身にも危険が及んだことが1度だけある。キャサリンが神学への興味から[[マルティン・ルター]]による[[福音主義]]の教義を勉強していたことから、カトリック司祭らの怒りを買い、キャサリンが[[異端]]者であるという報告が王にもたらされた。「貴族の女性が聖書を読む際は一人で読むこと。また聖書について討論してはならない」という法律が策定され、何とか危機を回避したかに見えたが、[[1546年]]に異端の追求が厳しくなった。宮廷に出入りしていた[[アン・アスキュー]]という女性が逮捕され、拷問にかけられて同志の名前を明かすよう迫られたものの、結局彼女は王妃との関係について何も述べないまま[[火刑]]に処せられた。それでもなお[[枢密院 (イギリス)|枢密院]]の調査が進み、王妃逮捕も近いと思われたが、キャサリンはすでに証拠となりうる書物を処分しており、王に対して自らの信仰の潔白を説いていた。実際、捕吏が夫妻の元へ赴いていたが、ヘンリーがそれを追い払ってキャサリンは救われた。 [[1547年]][[1月28日]]、ヘンリー8世が55歳で崩御した。キャサリンは周囲の動揺と反対を押し切るように、5月にはかつての恋人、海軍司令長官[[トマス・シーモア]]と再婚し、11月に妊娠がわかった。トマスの兄[[エドワード・シーモア (初代サマセット公)|エドワード・シーモア]]がエドワード6世の摂政となって宮廷に残り、エリザベスはキャサリンとトマスの元に引き取られた。ところが野心家のトマス・シーモアは、キャサリンの妊娠中に王女エリザベスの寝室に出入りしているところを見られ、結局エリザベスはシーモア家から出ざるを得なくなる。 [[1548年]]8月30日に女児が誕生し、メアリーと名づけられた。しかしキャサリンは産褥感染症にかかり、[[9月5日]]に世を去った。 == 外部リンク == {{Commons|Catherine Parr}} *http://englishhistory.net/tudor/monarchs/parr.html *http://tudorhistory.org/parr/gallery.html {{DEFAULTSORT:はあ きやさりん}} [[Category:ヘンリー8世の王妃|きやさりん はあ]] [[Category:イングランドの摂政|きやさりん はあ]] [[Category:女性摂政]] [[Category:1512年生]] [[Category:1548年没]] {{Link FA|sv}}
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