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[[ファイル:Genseric sacking Rome 455.jpg|300px|thumb|ヴァンダル族を率いてローマを略奪するガイセリック]] '''ガイセリック'''([[ラテン文字]]表記:Gaisericなど、[[389年]]頃 – [[477年]][[1月25日]])は、古代[[ゲルマン人]]の一支族'''[[ヴァンダル族]]の王'''。[[北アフリカ]]に[[ヴァンダル王国 (アフリカ)|ヴァンダル王国]]を築き、[[ローマ帝国]]の主に西部を攻めて、ローマを悩ました。 == 生涯 == [[432年]]、8万人を率いてヨーロッパから[[アフリカ]]に渡り、現在の[[モロッコ]]から[[アルジェリア]]に及ぶ地域で数々の戦いに勝利し、街を包囲して滅ぼした。[[カルタゴ]]を包囲の後に占領し、カルタゴ港内にあった[[西ローマ帝国]]海軍の艦船の大部分を拿捕した。ガイセリックは「'''ヴァンダルとアランの王'''」を名乗り、北アフリカにヴァンダル王国を築き、西ローマ帝国にとって深刻な脅威となった。このとき手に入れた軍船を用い、ヴァンダル王国は[[シチリア島]]、[[サルディニア島]]、[[コルシカ島]]を服従させた。[[442年]]、ローマ帝国は[[アフリカ属州]]が征服されたことを公に認め、ヴァンダル王国を承認した。 その後、約30年の間、ヴァンダル族は地中海各地を略奪する[[海賊]]として活動した。 [[451年]]'''[[フン族]]の王[[アッティラ]]'''と同盟し、[[ガリア]]に侵攻したが、[[西ローマ帝国]]の将軍[[アエティウス]]に、[[カタラウヌムの戦い]]で敗れた。[[455年]]西ローマ皇帝[[ウァレンティニアヌス3世]]が殺害され、これに危機感を抱いたウァレンティニアヌスの妃は、ガイセリックに救援を求めた。これを大義名分としたガイセリックは442年にウァレンティニアヌスと結んでいた平和条約を破棄し、イタリアへ上陸、ローマへ侵攻した。ローマ教皇[[レオ1世 (ローマ教皇)|レオ1世]]は使者を送って、ガイセリックに虐殺や市の破壊をしないように求めた。ガイセリックがこの申し出に合意したため、ローマの城門は、ヴァンダル族の軍隊を迎えるために開かれた。このときガイセリックに率いられたヴァンダル族がローマを略奪し、ヴァンダルの名はヨーロッパ諸国では現在も「略奪者」「文化の破壊者」の意味で用いられる。[[インターネット]]で荒らし行為を[[ヴァンダリズム]](vandalism)と呼び、荒らし行為を行う者を vandal(ヴァンダル人)と呼ぶのもその一端である。 ヴァンダル人による略奪をとめるため、東西ローマ帝国はともにヴァンダル王国を服属させようとしたが、ガイセリックはなかなか応じようとしなかった。[[474年]]、ガイセリックは[[東ローマ帝国]]との和平に応じた。477年、ガイセリックは87歳(他の資料では77歳)でカルタゴで死去した。 {{DEFAULTSORT:かいせりつく}} [[Category:ヴァンダル王]] [[Category:389年生]] [[Category:477年没]]
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