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カラハン朝
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{{基礎情報 過去の国 |略名 = |日本語国名 = カラ・ハン国 |公式国名 = |建国時期 = [[840年]] |亡国時期 = [[1211年]] |先代1 = 回鶻 |先旗1 = blank.png |先代2 = カルルク |先旗2 = blank.png |次代1 = ホラズム・シャー朝 |次旗1 = blank.png |次代2 = 西遼 |次旗2 = blank.png |次代3 = ナイマン |次旗3 = blank.png |国旗画像 = |国旗リンク = |国旗説明 = |国旗幅 = |国旗縁 = |国章画像 = |国章リンク = |国章説明 = |国章幅 = |標語 = |国歌名 = |国歌 = |国歌追記 = |位置画像 = Kingdom of Kara-Khanids- 999-1212.png |位置画像説明 = カラ・ハン国の版図 |公用語 = {{仮リンク|カラハン朝トルコ語|tr|Karahanlı Türkçesi}} |首都 = {{仮リンク|スーヤーブ|zh|碎葉城|en|Suyab|label=スヤブ}}<!-- 「スーヤーブ」「スイアーブ」「スヤブ」「碎葉」等、 表記揺れが見られるので、一旦スーヤーブにひも付けしますが、後で変更可能です。--></br>[[ベラサグン]]</br>[[カシュガル]]</br>[[サマルカンド]] |元首等肩書 = [[可汗]] |元首等年代始1 = ???年 |元首等年代終1 = ???年 |元首等氏名1 = ビルゲ・キュル・カーディル・カン |元首等年代始2 = [[927年]]頃 |元首等年代終2 = [[955年]] |元首等氏名2 = {{仮リンク|サトゥク・ボグラ・ハン|en|Sultan Satuq Bughra Khan|label=サトゥク・ボグラ・カラ・カガン}} |面積測定時期1 = 1025年(想定) |面積値1 = 3.000.000km<sup>2</sup> |人口測定時期1 = |人口値1 = |変遷1 = 建国 |変遷年月日1 = [[840年]] |変遷2 = 東西に分裂 |変遷年月日2 = [[1041年]] |変遷3 = 滅亡 |変遷年月日3 = [[1211年]] |変遷4 = |変遷年月日4 = |変遷5= |変遷年月日5 = |通貨 = |時間帯 = |夏時間 = |時間帯追記 = |ccTLD = |ccTLD追記 = |国際電話番号 = |国際電話番号追記 = |注記 = }} '''カラ・ハン国'''(<!--カラ・ハンこく、-->[[ペルシア語]] : '''قراخانيان''' Qarākhānīyān)は、[[中央アジア]]にあった[[テュルク]]系[[イスラム王朝]]([[9世紀]]中頃 - [[1211年]])。[[テュルク系民族]]として最初に[[イスラム教]]へ集団的に改宗し、中央アジアのテュルク化・イスラム化に大きな役割を果たした。 ==名称== '''カラ・ハン国'''、'''イリグ・ハン朝'''、'''ハーカーニーヤ'''(カガン朝の意:この王朝が君主号のカガンを用いたことによる。)、'''アフラースィヤーブ朝'''とも呼ばれ、カラハン朝あるいはイリグ・ハン朝の名は歴史家による便宜的な呼称であり<ref>山田、1989「カラ・ハンという称号はこの国の君主の称号としてその後もよく用いられていることもあって、グリゴリエフ(B.B.Григорьев)がこの国をカラハン国(Die Karachaniden)あるいはカラハン朝(the Qara-khanids)と名付け、多くの賛同を得た。《B.B.Григорьев,1874:Караханиды в Мавераннагре по Тарихи Мунеджима-Баши в османском тексте с переводом и примечаниями,Труди Boстoчнoгo oтдeлeнияимпeракогo aрхeoлoгичeскогo oбщeствa,17.》一方、この国のものとされた貨幣に、支配者の名としてelik,ilik,iläkなどと写される語が多くみられたことから、とくに古銭学者のあいだではイレクハン国(Die Ilek-khane,the Ilek-khans)の名がよく用いられている。」</ref>、同時代の[[アラビア語]]、[[ペルシア語]]などではハーカーン朝(خاقانيه Khakānīya)として記録されていた。 == 歴史 == === 建国期 === [[840年]]に[[モンゴル高原]]を支配する[[回鶻]](ウイグル)可汗国が崩壊した後、[[天山山脈]]北方の西、[[イシク湖]]の北、[[バルハシ湖]]の南、[[チュイ川]]の東の草原地帯で自らの王国を形成したと考えられている。構成員の多くはカルルク人で、以前からこの地方で遊牧していた[[カルルク]]部を征服、もしくは連合したとする説など諸説あるが、史料が乏しく仮説にも大きな幅があるため有力とされる見解は今のところ無い<ref>他にもウイグル説、テュルクメン説、ヤグマー説、カルルク・ヤグマー説、チギル説、突厥説がある。また、カルルク説を唱えているのはプリツァク氏である。</ref>。 === イスラム化 === [[10世紀]]の前半頃、伝説的な初代ハンの孫{{仮リンク|サトゥク・ボグラ・ハン|en|Sultan Satuq Bughra Khan}}(? ~993年)が[[サーマーン朝]]の影響を受けてイスラム教に改宗し、異教徒であった伯父を倒して副都[[カシュガル]]から首都[[ベラサグン]]にかけてのイスラム王国を築いたとされる。 イスラム側の史料によればカラ・ハン国は、[[960年]]に帳幕([[ユルト]])20万帳にのぼる遊牧民たちのイスラム教への集団改宗を行ったとされる。これ以後のカラ・ハン国は[[ジハード]](聖戦)を掲げ、ボグラ・ハンの跡を継いだイリグ・ハンは西に拡大して[[999年]]に[[ブハラ]]を征服、サーマーン朝を滅ぼして[[マーワラーアンナフル]](トランスオクシアナ)を併合した。しかし、[[1008年]]には[[ホラーサーン]]の[[ガズナ朝]]に敗れ[[アム川]]以南へは進出できなかった。イリグ・ハンの跡を継いだトゥガン・ハンは、[[タリム盆地]]の仏教国[[ホータン]]や[[亀茲|クチャ]]を征服するが、軍を返す途上で死去したためアルスラン・ハンが跡を継いだ。 === テュルク化 === 現在の[[新疆ウイグル自治区]]西部から[[ウズベキスタン]]に至る広大な領域を支配するに至ったカラ・ハン国では、征服したタリム盆地やマーワラーアンナフルの[[オアシス]]都市にテュルク系[[ムスリム]](イスラム教徒)たちが入り込み、徐々に遊牧生活をやめ都市へ定住していった。同じ頃、カラ・ハン国との境となる天山山脈の東側にはウイグルの残存勢力による[[天山ウイグル王国]]が形成され、同様に定住化に向かい、この二つのテュルク系国家のもと当該地域のテュルク化が進んだ。また、ホータン、カシュガルなどタリム盆地の西部もカラ・ハン国のもとでイスラム化していき、後に「[[トルキスタン]]」(「テュルク人の土地」を意味する)と呼ばれる契機となった。 カルルク人の上にウイグル人が乗っかる形で成立したカラ・ハン国は軍事封建制が布かれ分権的性格が強かったと考えられ。可汗が2名いたことが貨幣の研究から明らかになっている。また、全土を統治する大可汗が[[ベラサグン]]にあってアルスラン・カラ・ハンを、副可汗が[[カシュガル]]にあってボグラ・カラ・ハンを名乗り、王やテギン・ヤブグなどの上に君臨した。11世紀のカラ・ハン国は幾つかの封侯国に分かれ、ハンに対して完全には服さなかった。 === 東西分裂と衰退 === [[1041年]]に至って正式に東西に分裂、[[スィル川]]と[[パミール高原]]を境として{{仮リンク|西カラ・ハン国|tr||zh|西喀喇汗}}([[1041年]] - [[1089年]]/[[1210年]])と{{仮リンク|東カラ・ハン国|tr|Doğu Karahanlılar|zh|东喀喇汗}}([[1032年]] - [[1210年]])に分かれた。その後、定住化が進んで軍事力を弱体化させていた東西のカラ・ハン国は、同じ[[11世紀]]にマーワラーアンナフルの西で興った[[セルジューク朝]]に打ち破られ、[[1089年]]に西カラ・ハン国はセルジューク朝のホラーサーン政権に服属した。 === 滅亡 === [[12世紀]]初頭には[[耶律大石]]を指導者とする集団が中央アジアにあらわれ、カラ・ハン国発祥の草原地帯に入ってカラ・キタイ([[西遼]])を建国した。東西のカラ・ハン国はカラ・キタイの流入以後、徐々に記録から消えていった。 東カラ・ハン国は[[1131年]]にカラ・キタイと戦って敗れ、カシュガルのオアシスをわずかに支配する小国となり、[[1211年]]になってカラ・キタイを乗っ取った[[ナイマン]]の[[クチュルク]]によって滅ぼされた。 西カラ・ハン国は[[1141年]]の[[カトワーンの戦い]]の後は[[サマルカンド]]を中心にマーワラーアンナフルを支配するカラ・キタイの属国として命脈を保ったが、[[13世紀]]初頭に[[ホラズム・シャー朝]]がカラ・キタイを破ってマーワラーアンナフルを占領すると、ホラズム・シャー朝にサマルカンドを追われて完全に滅ぼされた。 == 文化 == カラ・ハン国の成立は、中央アジアのテュルク化の契機として中央アジアの歴史上重要視されている。カラ・ハン国の時代以降、中央アジアの定住民の多くはもともと話していた{{仮リンク|東イラン語群|en|Eastern Iranian languages|label=東イラン諸語}}など[[インド・イラン語派]]の言語にかわって[[テュルク諸語]]に属する言葉を[[母語]]とするようになり、特に[[シルダリヤ川]]以東の地域は「[[トルキスタン]]」と呼ばれるようになった。また後の[[東トルキスタン]]([[新疆ウイグル自治区]])にあたるタリム盆地とその周辺域のイスラム化に関しても大きな役割を果たした。最初に改宗を行った伝説的な君主{{仮リンク|サトゥク・ボグラ・ハン|en|Sultan Satuq Bughra Khan}}はトルキスタンの各地で[[聖者]]とみなされ、現在にいたるまで深く尊崇されている。 イスラム化とマーワラーアンナフルの征服を通してサーマーン朝でアラブ・イスラム文化とペルシア文化が結びついて成熟したペルシア・イスラム文化が流入しすぐれた都市文化が栄え、イラン・中央アジア各地に定着した。さらに「{{仮リンク|カラハン朝トルコ語|tr|Karahanlı Türkçesi}}」と呼ばれる[[アラビア文字]]を使って記されるテュルク語の文語が生まれて、テュルク・イスラム文化と呼ぶべき独自の文化を誕生させた。その精華として広く知られるのが、[[11世紀]]にはカシュガルの宮廷に仕える[[侍従]]ユースフ([[ユースフ・ハーッス・ハージブ]])があらわしたカラハン朝トルコ語による韻文作品『{{仮リンク|クタドゥグ・ビリグ|en|Kutadgu Bilig}}』である。また、[[カシュガル]]生まれのカラ・ハン国の王族{{仮リンク|マフムード・アル・カーシュガリー|en|Mahmud al-Kashgari}}は内紛を避けて[[アッバース朝]]に逃れ、[[バグダード]]で[[セルジューク朝]]が権力を確立して間も無い時期([[1077年]]ないし[[1081年]])に[[中央ユーラシア]]各地の様々なテュルク諸語の語彙を集めた『{{仮リンク|ディーワーン・ルガート・アッ=トゥルク|tr|Divânu Lügati't-Türk}}』(トルコ語辞典)を編纂しこれをアッバース朝[[カリフ]]・{{仮リンク|ムクタディー|en|Al-Muqtadi}}に献呈したが、これは当時のテュルク系民族の言語や生活ぶりを伝える重要な資料となっている。 ==政治体制== カラ・ハン国は[[突厥]]と同様に東西2人の[[カガン]]があり、東方のアルスラン・カラ・カガンが大カガン、西方のボグラ・カラ・カガンが小カガンであった。この両カガンの下にはアルスラン・イリグ、ボグラ・イリグ、アルスラン・テギン、ボグラ・テギンという4人の下級君主がおり、順次上位の君主へと昇進した。<ref>[[小松久男]]『中央ユーラシア史』p164</ref> ==歴代君主== ===カラ・ハン国=== #ビルゲ・キュル・カーディル・カン(アルスラーン・カラ・カン)(? - [[840年]] - ?) #バズィル(アルスラーン・カラ・カン)(? - [[860年]] - ?)…キュル・カーディル長子 #オグルカク・カーディル・カン(ボグラ・カラ・カン)([[893年]] - [[904年]]頃)…キュル・カーディル次子 #(アブドゥル・カリム){{仮リンク|サトゥク・ボグラ・ハン|en|Sultan Satuq Bughra Khan|label=サトゥク・ボグラ・カラ・カン}}([[942年]] - [[955年]])…バズィル次子 #(サムス・アッダウラ)ムーサ・バイタス・アルスラン・カン([[956年]] - ?)…サトゥク長子 #スライマーン・アルスラーン・ハン([[958年]] - [[970年]]頃) #シーハーブ・アッディーン・アブー・ムーサ・ハールーン(アル=ハサン)([[982年]] - [[993年]]) #アブール・ハサン・アリー・ボグラ・カラ・カン(? - [[998年]])…ムーサの子 #アブー・ナスル・アフマド・トゥガン・カン・ビン・アリー(998年 - [[1017年]])…封号:ナースィル・アル=ハック・ワ・サイフ・アッダウラ #*アブー・ナスル・アフマド・ビン・アリー・ユースフ・カーディル・カン(998年 - [[1015年]]) #サーナ・アッダウラ・アブー・マンスール・ムハンマド・アルスラーン・イリグ(1017年 - [[1024年]]) #*マンスール・アルスラーン・カン・ビン・アリー(1015年 - [[1024年]]) #アフマド・ビン・ハサン・トゥガン・カン(1024年 - [[1026年]]) #ユースフ・ビン・ハサン・カーディル・カン(1026年 - [[1032年]]) #*ナースィル・アッディーン・ユースフ・カーディル・カン(1024年 - [[1032年]]) ===西カラ・ハン国=== #ムハンマド・アルスラーン・カラ・カガン(ムハンマド1世)([[1042年]]頃 - [[1052年]]頃) #アブー・ムザッファール・イブラーヒーム・タブガチ・ボグラ・ハン(イブラーヒーム1世)(1052年 - [[1068年]]) #サームス・アル=ムルク・ナスル・イブン・イブラーヒーム([[1068年]] - [[1080年]]) #ヒドゥル(1080年 - [[1081年]]) #アフマド・イブン・アル=ヒドゥル(アフマド1世)(1080/81年 - [[1089年]]) #ヤークーブ・カーディル・ハン(1089年 - [[1095年]]) #マスウード1世(1095年 - [[1097年]]) #スライマーン・カーディル・タムガチ(1097年) #マフムード・アルスラーン・ハン(マフムード1世)(1097年 - [[1099年]]) #ジブラーイール・アルスラーン・ハン(1099年 - [[1102年]]) #ムハンマド・アルスラーン・ハン(ムハンマド2世)([[1102年]] - [[1129年]]) #ナスル(1129年) #アフマド・カーディル・ハン(アフマド2世)(1129年 - [[1130年]]) #ハサン・ジャラール・アッドゥンヤ(1130年 - [[1132年]]) #イブラーヒーム・ルクン・アッドゥンヤ(イブラーヒーム2世)(? - 1132年) #マフムード2世(1132年 - [[1141年]]) #イブラーヒーム・タブガチ・ハン(イブラーヒーム3世)(1141年 - [[1156年]]) #アリー・チャグリ・ハン(1156年 - [[1161年]]) #マスウード・タブガチ・ハン(マスウード2世)(1161年 - [[1171年]]) #ムハンマド・タブガチ・ハン(1171年 - [[1178年]]) #イブラーヒーム・アルスラーン・ハン(イブラーヒーム4世)(1178年 - [[1204年]]) #ウスマーン・ウルグ・スルターン(1204年 - [[1212年]]) →[[ホラズム・シャー朝]]によって滅亡 ===東カラ・ハン国=== #サラーフ・アッダウラ・アブー・スーガ・スライマーン・アルスラーン・カン([[1032年|1032]]/[[1042年|42]]年 - [[1055年|1055]]/[[1056年|56]]年) #ムハンマド・ボグラ・カン(ムハンマド1世)(1056年 - [[1057年]]) #イブラーヒーム1世(1057年 - [[1059年]]) #マフムード(1059年 - [[1075年]]) #ウマル(1075年) #アブー・アリー・アル=ハサン(1075年 - [[1102年]]) #アフマド・ハン(1102年 - [[1128年]]) #イブラーヒーム2世(1128年 - [[1158年]]) #ムハンマド2世([[1158年]]以後) #ユースフ(? - [[1205年]]) #ムハンマド3世(1205年 - [[1211年]]) →[[ナイマン]]によって滅亡 ==脚注== <references /> ==参考資料== *[[山田信夫 (歴史家)|山田信夫]]『北アジア遊牧民族史研究』([[東京大学出版会]]、1989年、ISBN 4130260480) *[[小松久男]]『世界各国史4 中央ユーラシア史』([[山川出版社]]、[[2005年]]、ISBN 463441340X) *林幹「突厥与回紇史」(内蒙古人民出版社)、2007年、ISBN 9787204088904 {{ウズベキスタン関連の項目}} {{DEFAULTSORT:からはんちよう}} [[Category:中央ユーラシア史]] [[Category:テュルク]] [[Category:イスラム王朝]] [[Category:トルキスタン]] [[Category:カザフスタンの歴史]] [[Category:キルギスの歴史]] [[Category:ウズベキスタンの歴史]] [[Category:新疆ウイグル自治区の歴史]]
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