コンテンツにスキップ
メインメニュー
メインメニュー
サイドバーに移動
非表示
案内
メインページ
最近の更新
おまかせ表示
MediaWiki についてのヘルプ
特別ページ
Wikippe
検索
検索
表示
ログイン
個人用ツール
ログイン
カク昭のソースを表示
ページ
議論
日本語
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
ツール
ツール
サイドバーに移動
非表示
操作
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
全般
リンク元
関連ページの更新状況
ページ情報
表示
サイドバーに移動
非表示
←
カク昭
あなたには「このページの編集」を行う権限がありません。理由は以下の通りです:
要求した操作を行うことは許可されていません。
このページのソースの閲覧やコピーができます。
{{記事名の制約|title=郝昭}} '''郝 昭'''(かく しょう、生没年不詳)は、[[中国]][[後漢]]末期から[[三国時代 (中国)|三国時代]]にかけての人物。[[魏 (三国)|魏]]の軍人。[[字]]は'''伯道'''。[[并州]][[太原郡]]の出身。子(嫡子)は郝凱。『明帝紀』が引用する『[[魏略]]』に記述がある。 若い頃から軍人として[[曹操]]に仕えた。勇猛果敢で、各地を転戦して武功を立て、雑号将軍となった。また[[曹丕]](文帝)の時代には河西一帯の守備を任された。[[西平]]郡の麹英が反乱を起こした時は、同僚の鹿磐と協力してこれを鎮圧し、麹英を殺害している。 [[228年]]、[[蜀漢]]の[[諸葛亮]]が侵攻し陳倉を包囲した。諸葛亮は郝昭の同郷である靳詳を派遣して降伏を呼びかけたが、成果はなかった。一方、守備を任されていた郝昭は[[曹真]]の命を厳格に守り、数千程度のわずかな軍隊で諸葛亮の軍勢を寄せ付けず、頑健に防衛した。結局攻防戦が二十余日にも及んだため、諸葛亮は陳倉を落とせないまま兵糧が底をついてしまい、魏の援軍も迫ったので撤退した([[陳倉の戦い]])。陳倉の戦役は、諸葛亮自身が直接指揮を執った戦いとしては初めての敗戦となったため、寡兵で蜀の大軍を退けた郝昭の名は[[益州]]全土に広まったという。事実、彼が陳倉を防備していた間は、二度と蜀軍が陳倉城に攻め入る作戦を採ることはなかった。 [[洛陽]]に凱旋した郝昭は[[曹叡]](明帝)からその戦功を褒め称えられ、列侯の爵位を与えられた。しかし、曹叡が郝昭を要職に抜擢しようとすると、程なく病に倒れた。 彼は臨終の際、子に対し「わしは将軍であったから、将軍など大したものでないことを知っておる。また陵墓を発いて、その木を使い武器を作ったこともあるから、手厚い葬式など死者には無用のものであることも知っておる。お前は必ずわしが今着ている服のまま埋葬せよ。ただ生者にのみ居場所があるのであり、死後に居場所などあるはずがあろうか。ここは元の先祖代々の地からは遠い。東西南北お前の都合のいいところに埋葬するがよかろう」と言い遺した。 没後、子が後を継いだ。 小説『[[三国志演義]]』では「雑覇将軍」という設定になっている。また、蜀側では郝昭が重病に倒れた隙を突いた諸葛亮が、陳倉城を急襲して落としたことにしており、さらに魏側では既に郝昭が病死したため、陳倉の防備を放棄したということにされている。 ==外部リンク== *[http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/gi-mei1.html 魏志明帝紀] {{DEFAULTSORT:かく しよう}} [[Category:魏晋南北朝時代の人物]] [[Category:三国志の登場人物]]
このページで使用されているテンプレート:
テンプレート:記事名の制約
(
ソースを閲覧
)
カク昭
に戻る。
検索
検索
カク昭のソースを表示
話題を追加