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[[Image:Ikhshidid Dynasty 935 - 969 (AD).PNG|thumb|300px|イフシード朝の版図]] '''イフシード朝'''(<!--イフシードちょう、-->[[アラビア語]] : '''الإخشيديون''' al-Ikhshīdīyūn)は、[[エジプト]]を支配した[[イスラム王朝]]([[935年]] - [[969年]])。 エジプトは[[9世紀]]に[[アッバース朝]]のエジプト総督が独立して興した[[トゥールーン朝]]が[[905年]]に滅ぼされ、アッバース朝の支配が回復していたが、その直後より[[909年]]に西の[[イフリーキヤ]](現[[チュニジア]])で興った[[ファーティマ朝]]の侵攻に悩まされることとなった。[[スンナ派]]を代表するアッバース朝はファーティマ朝の[[イスマーイール派]]勢力の東進を防ぐため、[[バグダード]]から[[テュルク]]系の[[マムルーク]]軍人を送り込み、エジプトの防衛にあたった。 イフシード朝の始祖ムハンマド・イブン=トゥグジュはアッバース朝のエジプト守備隊の軍人で、935年にエジプト総督に任命されてエジプトの実権を掌握し、アッバース朝から半独立の政権を樹立するに至った。ムハンマドはアッバース朝からイフシードの称号を授けられたので、この政権をイフシード朝と呼ぶ。イフシード朝は[[黒人]]やテュルク系マムルークからなる奴隷軍人を集めて兵力を増強し、ファーティマ朝の侵攻を退けてエジプトの支配を安定させた。さらに[[歴史的シリア|シリア]]に勢力を広げて北シリアの[[アレッポ]]を奪った[[ハムダーン朝]]と争い、[[パレスチナ]]から[[ダマスカス]]にかけての南シリアを確保した。 [[946年]]、ムハンマドが死ぬとその子孫が相次いでエジプトの支配者の地位を引き継いだが、いずれもムハンマドほどの実力を持たず、実権はその後20年以上にわたって宮廷の黒人[[宦官]]カーフールが握った。イフシード朝はエジプトと南シリアの領土を保つことはできたが、[[968年]]にカーフールが死ぬと一挙に王朝の弱体化があらわとなり、イフシード朝は内部から崩壊した。翌年、ファーティマ朝の将軍[[ジャウハル]]が大軍とともに到来すると、全エジプトは国をあげてほとんど抵抗することなく降伏し、イフシード朝は滅んだ。 [[category:エジプトの歴史|いふしとちよう]] [[Category:イスラム世界史|いふしとちよう]]
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