アル=ファーディルのソースを表示
←
アル=ファーディル
移動先:
案内
、
検索
あなたには「このページの編集」を行う権限がありません。理由は以下の通りです:
要求した操作を行うことは許可されていません。
このページのソースの閲覧やコピーができます。
'''アル=ファーディル'''([[1135年]]-[[1200年]])は、[[ファーティマ朝]]・[[アイユーブ朝]]に仕えた[[エジプト]]の[[官僚]]で、[[サラディン|サラーフッディーン(サラディン)]]の'''カーディ'''(法官)として、宰相の任に当たった。 ファーティマ朝の領土だった[[パレスチナ]]の地に生まれたアルファーディルは、14歳の若さで[[カイロ]]に出て官吏となった。文書庁の役人から、軍務庁長官を経て宰相の秘書官となったが、当時のファーティマ朝の国教は同じ[[イスラム教]]でも[[シーア派]]であり、[[スンニ派]]の彼が重用されたのは高い行政能力があったからだと言われている。 [[1164年]]、スンニ派の信徒であるサラーフッディーンがエジプトを占領すると、彼もまたアルファーディルの才能と経験を認めてエジプトの内政・財政面を一任した。彼は大規模な土地調査を実施して新しい税制を確立するとともに、今までのシーア派の学校に代わる「ファーディリーヤ学院」を設立して蔵書10万冊ともいわれる大規模な図書館を設置した。 彼も[[十字軍]]の侵攻に対して参謀として従軍しているが、彼の基本的な考え方は国内を充実させる事を優先とするべきという立場に立っており、主としてカイロの留守を任されることのほうが多かった。十字軍との戦いを名目に本来の根拠地である[[シリア]]に留まって、エジプトの統治を疎かにし始めたサラーフッディーンに対して度々諫言をしている。<br>遠征を続ける主君に代わって内政を取り仕切って遠征費用を捻出するというアルファーディルの立場は、奇しくもサラーフッディーンの「宿命のライバル」であった[[イングランド]]の[[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード1世]]の[[大法官]]であった[[ヒューバード・ウォルター]]と同じ役回りを演じていた事になる。 [[1193年]]、サラーフッディーンが危篤となると、その長男である[[アル=アフダル]]、同僚の[[ウラマー]](イスラム法学者)[[イブン・シャッダード]]とともにその遺詔を受け取る立場に立った。だが、長男であるアフダルにアイユーブ朝を維持するだけの器量がないと見るや、カイロに戻って新領主となった次男の[[アル=アジーズ]]を次期[[スルタン]]に擁立した(イブン・シャッダードも三男の[[アル=マリク・アル=ザーヒル|アル=ザーヒル]]の元へ奔った)。その後は領土の分割で脆弱となった新スルタンの権威回復に努めた。 == 参考文献 == *佐藤次高『イスラームの「英雄」サラディン 十字軍と戦った男』(講談社選書メチエ 講談社、1996年)ISBN 978-4-06-258075-5 {{DEFAULTSORT:あるふあている}} [[Category:アイユーブ朝]] [[Category:イスラム史の人物]] [[Category:1135年生]] [[Category:1200年没]]
アル=ファーディル
に戻る。
案内メニュー
個人用ツール
ログイン
名前空間
ページ
議論
変種
表示
閲覧
ソースを表示
履歴表示
その他
検索
案内
メインページ
コミュニティ・ポータル
最近の出来事
新しいページ
最近の更新
おまかせ表示
sandbox
commonsupload
ヘルプ
ヘルプ
井戸端
notice
bugreportspage
sitesupport
ウィキペディアに関するお問い合わせ
ツール
リンク元
関連ページの更新状況
特別ページ
ページ情報