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アフリカ分割
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[[画像:ColonialAfrica.png|thumb|240px|1912年のアフリカ]] '''アフリカ分割'''(アフリカぶんかつ)とは、[[1880年代]]から[[第一次世界大戦]]前の[[1912年]]までにかけて、[[ヨーロッパ]]の[[帝国主義]]列強によって激しく争われた[[アフリカ]]諸地域の支配権争奪と[[植民地]]化の過程のこと。 [[1912年]]にイタリアがリビアを獲得した事により、[[リベリア]]と[[エチオピア]]を除くアフリカの全土がヨーロッパのわずか7か国によって分割支配された<ref>[[#宮本|宮本p.278]]</ref>。 == 背景 == ヨーロッパ勢力のアフリカ進出は、[[15世紀]]の[[ポルトガル]]・[[スペイン]]の進出以来、[[ムスリム]](イスラム教徒)やその他の様々な現地の王国との対立抗争をはらみつつ行われてきたが、いずれも[[アフリカ大陸]]の沿岸部に限られており、しかも多くの場合、沿岸の港湾を点として支配するのみであった<ref name="miyamoto_282">[[#宮本|宮本p.282]]</ref>。支配が内陸部まで及ばなかったのは、アフリカにヨーロッパ人が求めたのは[[奴隷]]や若干の物産に過ぎず、沿岸の拠点地を通じて内陸部を支配する王国から購入すれば充分事足り、支配を広げるコストに見合う利益がアフリカには見当たらなかったためである<ref name="miyamoto_282" />。 しかし[[19世紀]]に入ると[[産業革命]]が進み、それに伴って[[奴隷貿易]]が禁止された<ref name="miyamoto_283">[[#宮本|宮本p.283]]</ref>。この結果、アフリカを奴隷や[[象牙]]などの珍品の供給地としてではなく、[[工業]]のための[[原料]]の供給地とし、さらに工業製品の[[市場]]として囲い込む植民地とするほうが経済的に見合うと判断されるようになり、列強は全面的な植民地支配を目指す政策へと大きく転換する<ref name="miyamoto_284">[[#宮本|宮本p.284]]</ref>。 当時のヨーロッパの人々は、奴隷貿易の廃絶を求めるなど、アフリカの人々に人間としての権利を認めるようになっていたが、しかし一方で、アフリカの人々はヨーロッパの人々より[[人種]]的・[[文明]]的に劣等であるという意識を強烈に持つようになっていた<ref name="miyamoto_282"/>。こうした考えを抱いたヨーロッパの人々にとって、アフリカ現地の人々を支配下に組み込み、ヨーロッパ式の宗教、政治制度、言語、文化を「与える」ことは、未開な人々を文明化する行為である(''altruism'')とみなされ、植民地獲得は文明の名のもとに正当化された。 == 沿革 == === 初期の進出 === [[18世紀]]の末頃から、ヨーロッパはアフリカの内陸部に対する興味を深め、探検隊を派遣してこれまで「暗黒大陸」と呼ばれてきたアフリカの実像を明らかにしようとするようになった<ref name="miyamoto_284"/>。19世紀半ばには[[デイヴィッド・リヴィングストン]]、[[ヘンリー・モートン・スタンリー|ヘンリー・スタンリー]]ら偉大な探検家が現われ、内陸部の探検を進める<ref name="miyamoto_284"/>。これらの探検隊は、宗教的、あるいは政治的な目的を帯びており、探検の目的は奥地への[[キリスト教]]の布教や、奥地の首長との政治関係樹立を行っていった<ref name="miyamoto_285">[[#宮本|宮本p.285]]</ref>。 また、奴隷貿易の対象ではなく宗教上のライバルであった[[北アフリカ]]の[[イスラム教国|イスラム諸国]]は、19世紀には宗主国[[オスマン帝国]]の影響力が衰え、また自立した群小政権もヨーロッパ勢力の経済的・軍事的な発展に対してほとんど為す術がないほど弱体化していた。ここに入り込もうとしたのが当時の植民地大国である[[イギリス]]と[[フランス]]であり、両国は[[ナポレオン戦争]]時代から[[エジプト]]の支配権を巡って対立関係にあった。[[1869年]]、フランスはエジプトと協力して[[スエズ運河]]を完成させたが、この建設はエジプト財政に対する過大な負担に跳ね返り、[[1875年]]になって[[スエズ運河会社]]の[[株]]を購入したイギリスがかわってエジプトの支配権を手に入れた。[[1882年]]、イギリスはついにエジプトを保護国化し、さらに南の[[スーダン]]へと侵攻する。 イギリスは、エジプトとは別に、[[1815年]]の[[ウィーン議定書]]で[[オランダ]]から手に入れたアフリカ南端のケープ植民地領を拡大し、[[南アフリカ]]の内陸部に植民地を広げつつあった。イギリスはエジプトと南アフリカの南北ふたつの拠点から大陸を南北に貫くよう植民地の拡大に向かっていったので、これを'''[[大陸縦断政策]]'''という。 一方、フランスは[[モロッコ]]を影響下におくとともに、[[1830年]]に[[アルジェリア]]、[[1881年]]に[[チュニジア]]を保護国とした。フランスは北アフリカ西部の[[マグリブ]]から[[サハラ砂漠]]を越えて大陸の中央部を西は[[大西洋]]から東は[[紅海]]、[[インド洋]]にいたる東西に広がった植民地の拡大を目指す'''大陸横断政策'''を推進した。1881年には[[東アフリカ]]の[[アフリカの角]]西部に[[ジブチ]]植民地を建設して大陸横断の東の終点とする。 この2政策が交錯したため、[[1898年]]に現スーダンのファショダで[[ファショダ事件]]が勃発した。この事件においてフランスがイギリスに譲歩したため、大きな軋轢は生まれなかった。 === 新興国の進出と植民地化に対する抵抗 === 19世紀後半に入ると、ヨーロッパの新興工業国である[[イタリア]]、[[ドイツ]]、[[ベルギー]]などがアフリカへの進出を試み始め、イギリス・フランスや古くからの進出国であるポルトガル・スペインなど、列強の間で植民地の境界を巡る衝突と対立が起こった。特に、ベルギーの国王[[レオポルド2世 (ベルギー王)|レオポルド2世]]が王家の私的な領地としてアフリカに植民地を持つことを目指し、探検家スタンリーを[[中部アフリカ]]に派遣して[[コンゴ川]]流域の領有化をはかると、ベルギーの国内外を巻き込んだ大きな問題となった。また、[[西アフリカ]]の大河川[[ニジェール川]]流域には北のサハラ側からフランス、南の大西洋側からイギリスの勢力がのび、対立が明らかとなる。 これに対しドイツの[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]首相はコンゴとニジェールの問題の協議をつうじてアフリカ植民地化の列強の利害を調整する会議の開催を提唱し、[[1884年]]に[[ベルリン会議 (アフリカ分割)|ベルリン会議]]が開かれた<ref name="miyamoto_287">[[#宮本|宮本p.287]]</ref>。14か国が参加したこの会議によってコンゴ川およびニジェール川の航行の自由が定められ、ベルギー王領コンゴは[[コンゴ自由国]]として形式的に独立し、ベルギー王の領有が認められる。加えて、沿岸部を新規に領有した国は、その後背地の領有を国際的に認められること、新規に領土を得た国は他の列強にその事実を通告することなどを定めた植民地化の原則が合意された<ref name="miyamoto_288">[[#宮本|宮本p.288]]</ref>。 当然、これらの一連の協定はアフリカ現地の人々の意向はまったく考慮に入れないものであった。そのため、アフリカではヨーロッパ列強の支配が及んでくるのに対し、さまざまな抵抗運動が起こった<ref name="miyamoto_291">[[#宮本|宮本p.291]]</ref>。すなわち、スーダンにおける[[マフディー運動]]、西アフリカの{{仮リンク|トゥクロール帝国|en|Toucouleur Empire}}([[1848年]]–[[1890年]])および後継国家の{{仮リンク|サモリ帝国|en|Wassoulou Empire}}([[1878年]]–[[1898年]])の[[ジハード]]政権、[[タンザニア]]の[[マジ・マジ反乱]]などであるが、これらはいずれも圧倒的に進歩したヨーロッパ列強の軍事技術の前に敗れ去り、滅びた。 また、ヨーロッパが到来する以前から、アフリカ現地には様々な土着の王国が既に存在していたが、これらも同様に武力で鎮圧され、[[20世紀]]の初頭までに消滅したり、植民地に内包された保護領になっていった<ref name="miyamoto_288"/>。わずかな例外は、[[1896年]]に侵攻してきたイタリア軍を撃退し、独立を保ったエチオピア帝国である<ref name="miyamoto_300">[[#宮本|宮本p.300]]</ref>。もうひとつの独立を保ったリベリアは、[[1847年]]に[[アメリカ合衆国]]から送り込まれた解放奴隷たちが立てた国で、[[英語]]を話しキリスト教を信仰するアメリカ帰りの[[黒人]]たちによる土着黒人を支配したその体制は、周辺諸国の植民地支配と実のところ大差ないものであり、しかも政治的にアメリカの強い影響下にあった<ref name="miyamoto_298">[[#宮本|宮本p.298]]</ref>。 === 列強間の衝突と分割の完了 === [[ファイル:Rhodes.Africa.jpg|180px|right|thumb|[[カイロ]]から[[ケープタウン]]までの鉄道用電線を敷設する[[セシル・ローズ]]の風刺画]] ベルリン会議を成功させたドイツのビスマルクは、[[1885年]]に[[タンガニーカ]](現在の[[タンザニア]])に[[ドイツ領東アフリカ]]植民地を建設し、[[カメルーン]]、[[トーゴ|トーゴランド]]、西南アフリカ([[ナミビア]])を次々に獲得した。さらに、縦断政策により本来この地方の領有をねらっていたイギリスと東アフリカ分割協定を結び、[[ケニア]]および[[ウガンダ]]をイギリスに譲って過度な植民地拡大による外国との衝突を避けた。 しかし列強の角逐はやまず、[[1898年]]には[[マフディー戦争]]によってイギリスの勢力が後退したスーダンにフランスが進軍し、イギリスとフランスの間で武力衝突の危機となった[[ファショダ事件]]が起こった。スーダンはイギリスの縦断政策とフランスの横断政策の交点であったためであるが、結局はフランスが先にスーダンに進出していたイギリスを尊重して譲歩し、衝突は回避された。 [[1904年]]、イギリスとフランスは最終的な妥協を行い、[[英仏協商]]を結んで同盟する。このときまでに西アフリカには広大な仏領西アフリカ植民地が形成され、アルジェリア・チュニジアと仏領コンゴ、ジブチ、そして[[マダガスカル]]がフランス植民地として確定した。一方、イギリスはエジプト・スーダン・ケニア・ウガンダに加え、ニジェール川下流域の[[ナイジェリア]]を植民地化し、さらに[[ブーア戦争]]に勝利して[[南部アフリカ]]に広大な植民地を獲得していた。 一方、[[1890年]]に即位したドイツの[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]は、ビスマルクを退けて植民地獲得に積極的に取り組み、英仏と対立した。[[1905年]]には、英仏協商によって帰属未確定のモロッコがフランスの勢力圏に定められたことに対抗し、[[第一次モロッコ事件]]を起こして圧力をかける。しかし、この問題の解決のために開かれた[[アルヘシラス会議]]ではスペインとイギリスがフランスの側につき、モロッコはフランスとスペインの勢力圏と定められた。[[1911年]]、ドイツはモロッコに軍艦を派遣し、再びフランスを牽制した([[第二次モロッコ事件]])が、結局フランスに譲歩せざるを得なくなり、モロッコをフランスの保護国とすることを認めた。 同じ1912年、イタリアが[[イタリア・トルコ戦争]]に勝利してオスマン帝国から北アフリカの[[トリポリ]]・[[キレナイカ]]を獲得し、イタリア領リビアを成立させた。リビアとモロッコの帰属確定により、リベリアとエチオピアを除くアフリカの全土はヨーロッパの列強によって悉く分割し尽くされ、植民地と成っていった。 ==当時のアフリカの領有区分== ===イギリス=== {{see also|イギリス帝国}} *[[エジプト]](保護国) *[[英埃領スーダン]](エジプトと共同統治。現[[スーダン]]、[[南スーダン]]) *[[イギリス領東アフリカ]] **[[ケニア]] **[[ウガンダ]] *[[イギリス領ソマリランド]] *[[南ローデシア]](現[[ジンバブエ]]) *[[北ローデシア]](現[[ザンビア]]) *[[ベチュアナランド]](現[[ボツワナ]]) *[[オレンジ自由国]] *[[南アフリカ連邦|イギリス領南アフリカ]]({{lang-af|Unie van Suid-Afrika}}、[[1910年]]-[[1912年]]。現[[南アフリカ共和国]]) *[[ガンビア]] *[[シエラレオネ]] *[[ナイジェリア]] *[[英領ゴールド・コースト|イギリス領ゴールド・コースト]](現[[ガーナ]]) *[[ニアサランド]](現[[マラウイ]]) ===フランス=== {{See also|フランス植民地帝国}} *[[フランス領アルジェリア]] *[[チュニジア]] *[[モロッコ]] *[[フランス領ソマリランド]](現[[ジブチ]]) *[[マダガスカル]] *[[コモロ諸島]] *[[フランス領西アフリカ]] **[[モーリタニア]] **[[セネガル]] **[[フランス領スーダン]](現[[マリ共和国]]) **[[ギニア]] **[[コートジボワール]] **[[ニジェール]] **[[オートボルタ]](現[[ブルキナファソ]]) **[[ダホメ王国|ダオメ]](現[[ベナン]]) *[[フランス領赤道アフリカ]] **[[ガボン]] **[[中部コンゴ]](現[[コンゴ共和国]]) **{{仮リンク|ウバンギ・シャリ (フランス領)|en|Ubangi-Shari|label=ウバンギ・シャリ}}(現[[中央アフリカ共和国]]) **[[チャド]] ===ポルトガル=== {{See also|ポルトガル海上帝国}} *[[アンゴラ]] *ポルトガル領コンゴ(現アンゴラ領[[カビンダ]]) *[[ポルトガル領東アフリカ]](現[[モザンビーク]]) *[[ポルトガル領ギニア]](現[[ギニアビサウ]]) *[[カーボベルデ諸島]](現[[カーボベルデ]]) *[[サントメ・プリンシペ]] ===ドイツ=== {{see also|ドイツ植民地帝国}} *[[ドイツ領カメルーン]](英仏の分割統治を経て現[[カメルーン]]) *[[ドイツ領東アフリカ]] **[[ブルンジ]](ベルギー領を経て[[1962年]]独立) **[[ルワンダ]](ベルギー領を経て[[1962年]]独立) **[[タンガニーカ]](英領を経て現[[タンザニア]]) *[[ドイツ領南西アフリカ]]([[南アフリカ連邦]]の[[委任統治]]を経て現[[ナミビア]]) *{{仮リンク|トーゴランド|en|Togoland|label=ドイツ領トーゴランド}}(英仏に分割され現[[トーゴ]]) (カッコ内は特に記載が無い限り[[第一次世界大戦]]後の変遷を記す) ===イタリア=== *{{仮リンク|イタリア領北アフリカ|en|Italian North Africa}}(現[[リビア]]) **{{仮リンク|イタリア領リビア|en|Italian Libya}} *[[イタリア領東アフリカ]] **[[エリトリア]] **[[イタリア領ソマリランド]](現[[ソマリア]]) **[[エチオピア帝国]]([[1936年]] - [[1941年]]) ===ベルギー=== *[[ベルギー領コンゴ]](現[[コンゴ民主共和国]]) ===スペイン=== *[[スペイン領サハラ]](現[[西サハラ]]) **[[リオ・デ・オロ]] **[[サギア・エル・ハムラ]] **[[イフニ]] *{{仮リンク|モロッコ北部保護領|en|Spanish Protectorate of Morocco#Spanish enclaves in northern Morocco}} ([[1415年]]-[[1913年]]) **[[セウタ]]および[[メリリャ]] *[[リオムニ]](現[[赤道ギニア]]の一部) ==独立国== *[[リベリア]] *[[エチオピア]](アビシニア) - [[1935年]]の[[第二次エチオピア戦争]]後イタリアの支配下に置かれたが、第二次世界大戦後独立を取り戻した。 == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=[[宮本正興]]・[[松田素二]]編著|year=1997|title=新書アフリカ史|publisher=講談社現代新書|isbn=4-06-149366-3|ref=宮本}} == 関連項目 == * [[アジア・アフリカ諸国の独立年表]] * [[ベルリン会議 (アフリカ分割)]] ==外部リンク== *[http://ifs.nog.cc/keropero888.hp.infoseek.co.jp/ 古~い世界地図] {{DEFAULTSORT:あふりかふんかつ}} [[Category:アフリカ史]] [[Category:19世紀のヨーロッパ史]] [[Category:20世紀のヨーロッパ史]] [[Category:20世紀の世界史]] [[Category:植民地]] [[Category:帝国主義]] [[Category:政治地理学]]
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