アナーニ事件のソースを表示
←
アナーニ事件
移動先:
案内
、
検索
あなたには「このページの編集」を行う権限がありません。理由は以下の通りです:
要求した操作を行うことは許可されていません。
このページのソースの閲覧やコピーができます。
[[ファイル:ColonnaSlappingBoniface.jpg|250px|サムネイル|アルフォンス·マリー·アドルフ=ドヌー「教皇ボニファティウス8世の捕縛」]] '''アナーニ事件'''(アナーニじけん、Outrage of Anagni)は、[[1303年]]、[[フランス王国|フランス]]国王[[フィリップ4世 (フランス王)|フィリップ4世]]が[[教皇|ローマ教皇]][[ボニファティウス8世 (ローマ教皇)|ボニファティウス8世]]を[[イタリア]]の山間都市[[アナーニ]]で捕らえた事件。 == 国王と教皇の対立 == [[十字軍]]の遠征の失敗で、十字軍を提唱し推進したローマ教皇の権威は大きく揺らぎ始めていた。最後の十字軍の撤退から4半世紀後に即位した教皇ボニファティウス8世は、教皇こそが最高の権力を持つという[[ウルトラモンタニズム|教皇至上主義]]の考え方の持ち主であった。彼は[[1302年]]、教皇の回勅「[[ウナム・サンクタム]]」を発して、教皇が宗教上・世俗上の最高権の保持者であり、すべての君主・皇帝も、すべて教皇に服従すべきであると宣言した。 しかし、十字軍時代を通じて国王の力も着実に伸張しており、時代は大きく変わっていた。最後の十字軍の提唱者で聖王といわれた[[フランス王国|フランス]]王[[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]]の孫フィリップ4世は、王権の拡張に執念を燃やした国王であった。彼は即位したときから教会関係者を排除し、王権思想を主張する法律家をブレーンとした。 フィリップ4世は[[イギリス]]と争って豊かな[[フランドル]]の諸都市を支配下に収めようとし、その戦費捻出のため、教会財産への課税に踏み切った。ボニファティウス8世は直ちにこれに反対し、課税を禁じる回勅を出し、教皇はフランス王に対して命令することができると主張した。ここにいたってフィリップ4世は、国内の支持を得て教皇と戦おうとして、1302年、[[パリ]]の[[ノートルダム聖堂|ノートルダム寺院]]に聖職者・貴族・平民からなる[[三部会]]を召集した。三部会は一致して王の主張を支持した(これがフランスの身分制議会の始まりとなった)。これに力を得たフィリップ4世は、ボニファティウス8世に異端と買官と奢侈的生活があると非難し、教皇としての資格に欠けると断じた。これに対して教皇は、フィリップ4世の[[破門]]をもって応え、両者の関係は決定的になった。 ==絶対王政への歩み== フィリップ4世の意を受けた宰相[[ギヨーム・ド・ノガレ]]は、[[ローマ教皇庁]]から追放された教皇の反対派[[コロンナ家]]一族と共謀して、イタリアに軍を派遣した。ボニファティウス8世は生まれ故郷の山間の小都市アナーニに逃げ込んだが、フランス軍とコロンナ一族のために捕らえられた。アナーニ住民の頑強な抵抗で教皇は救出されたが、68歳の教皇はこの一連の事態に怒りと失望で傷心し、3週間後に死亡した。 一方フィリップ4世は、十字軍で活躍した[[テンプル騎士団]]を解散させてその財産を没収したり、[[ユダヤ人]]を追放してその資産を奪ったり、貨幣改鋳によって財政を賄ったりして、王権の財政的基盤を強化した。ローマ教会にも圧力をかけ、[[クレメンス5世 (ローマ教皇)|クレメンス5世]]を[[アヴィニョン]]へ移住させ、[[アヴィニョン捕囚]](教皇のバビロン捕囚)を引き起こして教皇権に対する王権の優位を確立した。 この事件・結果は教皇権力の衰退と王権の伸張を印象づけ、近世[[絶対王政]]にいたる重大な一里塚となった。 {{DEFAULTSORT:あなあにしけん}} [[Category:1303年]] [[Category:カペー朝]] [[Category:イタリアの歴史]] [[Category:カトリック]] [[Category:反ユダヤ主義]] [[en:Anagni#Outrage of Anagni]]
アナーニ事件
に戻る。
案内メニュー
個人用ツール
ログイン
名前空間
ページ
議論
変種
表示
閲覧
ソースを表示
履歴表示
その他
検索
案内
メインページ
コミュニティ・ポータル
最近の出来事
新しいページ
最近の更新
おまかせ表示
sandbox
commonsupload
ヘルプ
ヘルプ
井戸端
notice
bugreportspage
sitesupport
ウィキペディアに関するお問い合わせ
ツール
リンク元
関連ページの更新状況
特別ページ
ページ情報