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アッバース1世
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[[ファイル:Shah Abbas I.jpg|thumb|225px|アッバース1世]] [[ファイル:Shah Abbas I engraving by Dominicus Custos - Antwerp artist printer and engraver.jpg|thumb|right|アッバース1世]] '''アッバース1世'''([[1571年]][[1月27日]] - [[1629年]][[1月19日]])は、[[サファヴィー朝]]の第5代[[シャー]](在位:[[1588年]] - 1629年)。 ==生涯== ===即位と軍制改革=== この頃、王朝は大帝[[スレイマン1世]]のもと最盛期を迎えた[[オスマン帝国]]の侵攻({{仮リンク|オスマン・サファヴィー戦争 (1532年–1555年)|en|Ottoman–Safavid War (1532–55)|label=第一次オスマン・サファヴィー戦争}}、{{仮リンク|オスマン・サファヴィー戦争 (1578年–1590年)|en|Ottoman–Safavid War (1578–1590)|label=第二次オスマン・サファヴィー戦争}})にあって[[アゼルバイジャン]]や[[イラク]]を失い、衰退していた。そのようなとき、アッバース1世は1588年、17歳の若さで即位することとなったのである。アッバース1世は[[サファヴィー朝]]を建て直すため、まずは内政改革を行なう。王朝創建以来、権力を牛耳っていた軍事貴族(キジルバシュ)を弾圧して政治から遠ざけ、代わって奴隷身分の優れた人材を多く登用したのである。地方長官にも家柄ではなく能力が重んじられて、奴隷階級出身者が数多く地方長官に任じられている。 ===イスファハーン遷都=== [[1598年]]には[[カズヴィーン]]から[[イスファハーン]]に[[遷都]]する。新都と旧市街の中間に「王の広場」を中心に「王のモスク」(現イマーム・モスク)などのモスクが立ち並ぶ公共空間が建設され、ペルシア系、テュルク系の宮廷の人々のほか、アルメニア商人やインド商人など遠隔地交易に従事する多くの異郷出身者が住み着いたイスファハーンの人口は50万人に達した。 アッバース1世の治世のもとでイスファハーンは壮大華麗、大いなる繁栄を遂げたため、「世界の半分」(エスファハーン・ネスフェ・ジャハーン)とまで称された。 ===ウズベクの討伐=== また、1598年中央アジアの[[ブハラ・ハン国]][[シャイバーニー朝]]のアブドゥッラー2世が死ぬと、その衰退に乗じて、帝国の北西方面を脅かしていた[[ウズベク族]]を討伐し、ホラーサーン地方を奪った。これにより、北西方面の国境が安定したため、オスマン帝国との対決が可能となった。 ===オスマン帝国への勝利=== こうして内政、外政を整えたアッバース1世は、1603年以降いよいよオスマン帝国への対外遠征に臨み({{仮リンク|オスマン・サファヴィー戦争 (1603年–1618年)|en|Ottoman–Safavid War (1603–1618)|label=第三次オスマン・サファヴィー戦争}})、奪われていたアゼルバイジャンを取り戻した。さらにタブリーズなどイラクの主要都市を奪還し、オスマンとの戦いを優位に進めた後、[[1618年]]に自国有利の和睦を結び、その支配権を認めさせた。その後、1623年オスマン帝国からバグダードを奪還し、100年ぶりにサファヴィー朝の領土を取り戻した。こうして、サファヴィー朝はアッバース1世のもとで最盛期を迎えた。 ===ホルムズ島の奪還=== {{main|{{仮リンク|ペルシア・ポルトガル戦争|en|Persia–Portugal war}}}} さらに[[イングランド王国]]([[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]])と結び、{{仮リンク|ロバート・シャーリー|en|Robert Shirley}}の指導のもとで武器が近代化されると、[[1622年]]に[[ポルトガル]]と戦って[[ホルムズ島]]を奪った({{仮リンク|ホルムズ占領 (1622年)|en|Capture of Ormuz (1622)|label=ホルムズ占領}})。 ===対外同盟=== そのうえで西欧諸国の[[イギリス]]、[[オランダ]]、[[フランス]]と同盟を結び、友好関係を築いた。特にイギリスはサファヴィー朝の実力を認め、[[1616年]]から[[1617年]]にかけて何度も特使を派遣している。 西欧との同盟関係は、オスマン帝国との政治的な問題でもあった。西欧は、ヨーロッパに食い込むオスマン帝国を駆逐するために有益なアジアの同盟者として、オスマンの背後にいるサファヴィー朝との関係を重視したのである。オスマン帝国の弱体化は双方にとって有益であり、サファヴィー朝にとってもヨーロッパの先進的な軍事力は、国力強化や中央集権化など、国益に繋がるものであった。 ===死=== 1629年、アッバース1世は58歳で死去した。サファヴィー朝の黄金時代を築き上げた[[名君]]として賞賛され、「大王」の称号を与えられた。アッバース1世の軍事的成功は、西欧諸国との[[同盟]]によるところが大きいとされる。特に[[軍事革命]]の先駆者オランダの影響が最も強かったと言える。しかし名君の死は、サファヴィー朝の中興の終焉を意味した。死後10年も経ずにオスマン帝国の逆襲が開始され({{仮リンク|オスマン・サファヴィー戦争 (1623年–1639年)|en|Ottoman–Safavid War (1623–39)|label=第四次オスマン・サファヴィー戦争}})、[[1638年]]に[[イラク]]は奪還された。アッバース1世の死は、サファヴィー朝の没落を意味し、滅亡への道を緩やかに歩んで行った。 == 参考文献 == * [[永田雄三]]・[[羽田正]]『世界の歴史15 成熟のイスラーム社会』[[中央公論新社|中央公論社]]、1998年。 * 永田雄三編『新版 世界各国史9 西アジア史Ⅱ イラン・トルコ』[[山川出版社]]、2002年。 * [[フランシス・ロビンソン]]著、[[小名康之]]監修『ムガル皇帝歴代誌』[[創元社]]、2009年。 * [[デイヴィッド・ブロー]]著、[[角敦子]]訳『アッバース大王 <small>現代イランの基礎を築いた苛烈なるシャー</small>』中央公論新社、2012年。 == 関連項目 == *[[ニコロズ・コロカシヴィリ]] {{サファヴィー朝}} {{DEFAULTSORT:あつはす1せい}} [[Category:サファヴィー朝の君主]] [[Category:ヘラート出身の人物]] [[Category:1571年生]] [[Category:1629年没]]
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