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	<title>Wikippe - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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	<updated>2026-09-04T03:01:36Z</updated>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E6%B6%BC%E9%A2%A8_(%E6%BC%AB%E7%94%BB)&amp;diff=188318</id>
		<title>涼風 (漫画)</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E6%B6%BC%E9%A2%A8_(%E6%BC%AB%E7%94%BB)&amp;diff=188318"/>
		<updated>2014-07-25T14:16:59Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;61.7.3.99: /* 主要人物 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Infobox animanga/Header&lt;br /&gt;
|タイトル=涼風&lt;br /&gt;
|ジャンル= [[ラブコメディ|ラブコメ]]、[[学園漫画|学園]]、[[陸上競技]]、[[ハーレムもの]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{Infobox animanga/Manga&lt;br /&gt;
|作者= [[瀬尾公治]]&lt;br /&gt;
|出版社= [[講談社]]&lt;br /&gt;
|他出版社= {{Flagicon|United States}}{{Flagicon|Canada}} [[デル・レイ・ブックス|Del Rey Manga]]&amp;lt;br /&amp;gt;{{Flagicon|France}} Pika Édition&amp;lt;br /&amp;gt;{{Flagicon|ROC}}{{Flagicon|Hong Kong}} [[東立出版社]]&amp;lt;br /&amp;gt;{{Flagicon|Thailand}} Vibulkij Publishing Group&amp;lt;br /&amp;gt;{{Flagicon|Singapore}} Chuang Yi&lt;br /&gt;
|掲載誌= [[週刊少年マガジン]]&lt;br /&gt;
|開始号= 2004年12号&lt;br /&gt;
|終了号= 2007年42号&lt;br /&gt;
|巻数= 全18巻+ガイドブック2巻&lt;br /&gt;
|話数= 全166話&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{Infobox animanga/TVAnime&lt;br /&gt;
|監督= [[福冨博]]&lt;br /&gt;
|シリーズ構成= [[ときたひろこ]]&lt;br /&gt;
|キャラクターデザイン= [[志田ただし]]&lt;br /&gt;
|アニメーション制作= [[スタジオコメット]]&lt;br /&gt;
|製作= [[マーベラスAQL|マーベラスエンターテイメント]]&lt;br /&gt;
|放送局= [[TXN|テレビ東京系]]&lt;br /&gt;
|放送開始= [[2005年]][[7月6日]]&lt;br /&gt;
|放送終了= [[12月28日]]&lt;br /&gt;
|話数= 全26話&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{Infobox animanga/Footer&lt;br /&gt;
|ウィキプロジェクト= [[プロジェクト:漫画|漫画]]・[[プロジェクト:アニメ|アニメ]]&lt;br /&gt;
|ウィキポータル= [[Portal:漫画|漫画]]・[[Portal:アニメ|アニメ]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{漫画}}&lt;br /&gt;
『&#039;&#039;&#039;涼風&#039;&#039;&#039;』（すずか）は、[[瀬尾公治]]による[[日本]]の[[漫画]][[作品]]、[[恋愛漫画]]。『[[週刊少年マガジン]]』にて、[[2004年]]12号から[[2007年]]42号まで連載された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
『[[週刊少年マガジン]]』[[2003年]]51号に読み切り『涼風』（コミックスには「第0話」として収録）掲載後、それを引き続く形で[[2004年]]12号より連載が開始された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
女性専用マンションに暮らす主人公とヒロインの[[陸上競技]]部での活動を交えた[[恋愛]]漫画である。『涼風』は作品名であるが、これは本作品の[[ヒロイン]]の名前でもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
原作では、涼風が留学から帰国した121話から第2部となり、[[2007年]]42号で連載を終了&amp;lt;ref&amp;gt;2007年39号の#163「就活」の末尾にて「大団円まで、あと3回」と示す予告が描かれた。&amp;lt;/ref&amp;gt;した。その後、[[2008年]]1号において、[[マガジンドラゴン]]の宣伝を兼ねた特別編を3ページ、[[2012年]]15号において、番外編「帰郷」が掲載された。[[テレビアニメ]]化されたほか、[[携帯電話]]向けの[[恋愛ゲーム (ゲームジャンル)|恋愛シミュレーション]]ゲームの配信や[[小説|ノベライズ]]の発売も行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
原作、アニメともにサブタイトルは全て漢字2文字の言葉で統一されており、物語は[[東武鉄道]][[東武東上本線|東上本線]]の[[成増駅]]周辺が舞台になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『週刊少年マガジン』2014年11号より続編にあたる『[[風夏]]』を連載中。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== あらすじ ==&lt;br /&gt;
[[広島県]]に住む少年・秋月大和は、中学卒業を機に目的もなく東京の高校への進学を決めて単身上京。叔母の営む[[銭湯]]付きの女性専用マンションの一室に住みはじめる。入学直前の学校を訪れた大和がそこで出会ったのは、高跳びをする綺麗な女の子だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 登場人物 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- 少年誌という観点から、性表現は間接的な言葉で追加・編集するようにおねがいします。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- ※構成上必要な場合は除く --&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- ※誕生日や身長、体重、スリーサイズ（女性のみ）も記入すべきかどうか… --&amp;gt;&lt;br /&gt;
=== 主要人物 ===&lt;br /&gt;
; 秋月 大和（あきつき やまと）&lt;br /&gt;
: [[声優|声]] - [[中村太亮]]&lt;br /&gt;
: [[主人公]]。[[広島県]]出身。身長176cm・体重60kg。7月30生まれ。血液型はO型。秋月良夫・琴乃夫妻の長男で3人兄妹で最年長。理恵と平和の兄。綾乃の甥で美穂の従兄。広島から東京の高校に通うため上京して来た。&lt;br /&gt;
: 精神的に幼く、幼稚な言動が目立ち、他人への配慮に欠け、優柔不断ゆえに物事に対して中途半端な面がある。口癖は「わけわかんねー」&lt;br /&gt;
: [[叔母]]の綾乃が経営する[[銭湯]]兼レディースマンション「ハイツ旭湯」に下宿する。スポーツは得意というが、入学した高校での体力測定では自慢にならなかった。しかし、中学時代に校内から適当に集めた4人でリレーに出場し最下位をとった（実際は他の3人が遅すぎたから）と言う理由で苦手としていた50m[[短距離走]]で好タイムを出す。&lt;br /&gt;
: 高校入学一週間前の春休みに、高跳びの練習をしていた涼風に一目惚れするが告白はするものの振られてしまう。だが、諦めずに涼風を追っかけるかたちで陸上部に入部する。その後、一時期は萌果に告白し付き合うが、「大和の心の中にはいつも涼風がいる」と萌果に言われ、それがきっかけで別れる。そしてついに、涼風と一波乱あって付き合うことになる。&lt;br /&gt;
: [[アメリカ合衆国|アメリカ]]留学を決意した涼風と連絡を取るための[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]を購入するため、天見結衣の実家であるカフェレストラン「天見」でバイトに勤しんでいたが、休日のほとんどをバイトに充ててしまったため、涼風と過ごす時間が無くなり、彼女とのすれ違いが起き始めた。その結果、アメリカ出発前に別れてしまうことになる。涼風と分かれた直後、夏祭りに誘いに来た結衣からも告白されるが、先述の萌果との一件を心のどこかで引きずっていたのか結局付き合うことはなく、その後気まずいからという理由で期間通りにアルバイトもやめてしまう。元・陸上部部長の衣笠を苦手としている。宮本から陸上部の部長に任命され、最初は乗り気ではなかったが、久しぶりに再会した萌果からの助言もあり結局引き受ける。&lt;br /&gt;
: その後萌果とは友達以上恋人未満の関係だったが、萌果に彼氏ができたため振られてしまう。&lt;br /&gt;
: 第1部と第2部の間の描かれなかった1年間に[[全国高等学校総合体育大会|インターハイ]]に出場し、3位になった。第2部に入り引退した直後に涼風が帰国。大和は東都大学と西常大学から推薦を受け、どちらにするか迷ったあげく、結局涼風と同じ西常大に決め、難関だったセレクションも合格した。その後、安信から「[[童貞]]を卒業しろ」という無茶なプレッシャーで、よせばいいのに涼風に対して積極的となるも拒まれてしまう。謝罪したことで許しを受け、涼風とついに&#039;&#039;&#039;結ばれる&#039;&#039;&#039;こととなる。&lt;br /&gt;
: 勉強面は酷く、赤点で落第しそうになるほどで特に数学が酷いらしい。ノートは安信に言わせると暗号である。&lt;br /&gt;
: 冬休み直前、涼風とコッソリ[[箱根]]へ旅行に行くが、涼風の父親にバレて怒りを買ってしまい、しばらく会えなくなる。献身的な態度で謝罪し、涼風との仲が許された直後、涼風の[[妊娠]]が判明（先述の「&#039;&#039;&#039;結ばれた&#039;&#039;&#039;」ことが原因）、大学への推薦入学を断念し、涼風と[[できちゃった結婚]]するとともに就職し、最終回で一児の父となった。&lt;br /&gt;
: 中学時代には浅井咲希に思いを寄せており、橋の上で告白するが、もう秋であったことと雨が降り出したため蛍が一匹もおらず、グダグダになってしまったため本人は振られたと思っていたが、本人が逃げてしまったため返事はまだだったが、彼女が旭湯に泊に来た際に振られてしまう。&lt;br /&gt;
: 名前の由来は旧日本海軍[[秋月型駆逐艦]]の一番艦[[秋月型駆逐艦|秋月]]と[[大和型戦艦]]の一番艦・[[大和 (戦艦)|大和]]。&lt;br /&gt;
: 原作者の次回作『[[君のいる町]]』の劇中、顔は出ないもののちょこちょこと登場している。&lt;br /&gt;
: 2005年に週刊少年マガジンで開催されたキャラクター人気投票では3位を獲得した（344票）。&lt;br /&gt;
: 『[[風夏]]』ではヒロインの父親として登場、オリンピックで銀メダルを取っていた事が明らかになる。&lt;br /&gt;
; 朝比奈 涼風（あさひな すずか）/秋月 涼風（あきつき すずか）&lt;br /&gt;
: 声 - [[三橋加奈子]]&lt;br /&gt;
: 本作の[[ヒロイン]]。[[神奈川県]][[横浜市]]出身。身長164cm。6月1日生まれ。血液型はB型。スリーサイズはB80/W58/H83。朝比奈家の次女（第2子）で涼音の妹。横浜から来た[[走高跳]]を得意とする少女。&lt;br /&gt;
: 気が強く、完璧主義者でいい加減なことが大嫌い。一方で怖がりな一面もあり、期待をこめられることが多くプレッシャーにも弱い（大和のおかげで克服）。&lt;br /&gt;
: 大和と同じく旭湯に下宿するが、当初はやたらと大和に冷たい態度を取る。その理由は、2年前に死んだかつての想い人の津田和輝に大和が似ており、好きになってしまうことで、また同じ気持ちを味わいたくなかったからである。だが、一途な大和の気持ちを徐々に受け入れ付き合っていたが、とある出来事で大和と別れることになる（理由は秋月大和を参照）。&lt;br /&gt;
: [[料理]]は大の苦手としており、[[爆発卵|ゆで卵を電子レンジで作ってしまった]]こともある。しかし、第2部からは料理本を見ながら作るようになったため料理の腕が上達した。いわゆる[[ツンデレ]]キャラ&amp;lt;ref&amp;gt;週刊少年マガジン『涼風』公式ガイドブック湯けむり恋愛白書卒業編では「完璧主義的ツンデレ」「プライドが高い」などと紹介している。なお、2005年9月放送の「[[TVチャンピオン]]」のアキバ王選手権において、「[[ツンデレ]]系」のサンプルとして彼女（アニメ版）が登場している。&amp;lt;/ref&amp;gt;だが、大和と付き合いだしてからは、一般的なヒロインキャラになった。&lt;br /&gt;
: 勉強を教えるときはかなりスパルタであり、大和に「地獄」と言われるほど厳しく、説教だけでなく、「お腹空いてるから頭が回んない」と無理やり大和におにぎりを食べさせていた。勉強は本人曰く私もあまりできるほうではないらしい。&lt;br /&gt;
: 高跳びの技術を習得する目的でアメリカへ留学するが、留学を決意したのは「大和に『（朝比奈は）高跳びしてる時はカッコイイ』と誉められたから」と、帰国後大和に明かしている。第2部で帰国し、再び大和の隣の部屋で暮らす。また、大和との関係も修復した。&lt;br /&gt;
: 西常大からの推薦が内定していたが、大和と&#039;&#039;&#039;結ばれた&#039;&#039;&#039;ことにより妊娠、断念を余儀なくされるとともに大和とできちゃった結婚をする。最終回で産んだ子どもは女の子で、風夏（ふうか）と命名した。また、『[[風夏]]』で大和がオリンピックで銀メダルを取った日に次女が生まれていることが明らかになっている。&lt;br /&gt;
: 名前の由来は[[朝比奈順子]]と[[涼風真世]]。&amp;lt;!--NOR : 苗字の朝比奈は戦国武将の朝比奈氏に由るものか。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
: 2005年に週刊少年マガジンで開催されたキャラクター人気投票では2位以下に大差をつけて第1位を獲得した（1351票）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 主要人物の家族 ===&lt;br /&gt;
==== 秋月家 ====&lt;br /&gt;
; 秋月 初子（あきつき はつこ）&lt;br /&gt;
: 大和と理恵と平和の祖母。大和と涼風の娘である風夏の曾祖母にあたる。&lt;br /&gt;
; 秋月 良夫（あきつき よしお）&lt;br /&gt;
: 大和と理恵と平和の父。綾乃の義兄。自営業を営んでいる。後に大和と涼風の娘である風夏の父方の祖父となる。&lt;br /&gt;
; 秋月 琴乃（あきつき ことの）&lt;br /&gt;
: 大和と理恵と平和の母。綾乃の姉で美穂の伯母。主婦でパートをしている。後に大和と涼風の娘である風夏の父方の祖母となる。&lt;br /&gt;
; 秋月 理恵（あきつき りえ）&lt;br /&gt;
: 大和の妹で平和の姉。綾乃の姪で美穂の従姉妹。3人兄妹の2番目で長女。初登場時で中学2年生。後に大和と涼風の娘である風夏の叔母となる。&lt;br /&gt;
; 秋月 平和（あきつき ひらかず）&lt;br /&gt;
: 大和と理恵の弟。3人兄妹の3番目（末子）で次男。綾乃の甥で美穂の従弟。初登場時で小学5年生。後に大和と涼風の娘である風夏の叔父となる。&lt;br /&gt;
; 秋月 風夏（あきつき ふうか）&lt;br /&gt;
: 大和と涼風の娘で理恵と平和の姪。綾乃の大姪で美穂の従姪、涼音の姪でもある。原作最終話で登場。原作者の次回作「君のいる町」でも母の涼風と共に登場している。原作者の次々回作「風夏」では高校生となった彼女が登場し、ヒロインを務めている。&lt;br /&gt;
==== 朝比奈家 ====&lt;br /&gt;
; 涼風と涼音の父&lt;br /&gt;
: 涼恵の夫で涼風と涼音の父。後に風夏の母方の祖父となる。&lt;br /&gt;
; 朝比奈 涼恵&lt;br /&gt;
: 涼風と涼音の母。後に風夏の母方の祖母となる。&lt;br /&gt;
; 朝比奈 涼音（あさひな すずね）&lt;br /&gt;
: 声 - [[冨永みーな]]&lt;br /&gt;
: 涼風の父と涼恵の長女で第1子。涼風の姉。実家で猛犬ムクを飼っている。後に大和の義姉、風夏の伯母となる。&lt;br /&gt;
: 2005年に週刊少年マガジンで開催されたキャラクター人気投票での順位は24位（1票）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 青葉高校 ===&lt;br /&gt;
; 桜井 萌果（さくらい ほのか）&lt;br /&gt;
: 声 - [[細野佑美子]]&lt;br /&gt;
: [[東京都]]出身。身長155cm。9月16日生まれ。血液型はA型。スリーサイズはB81/W59/H84。旭湯の近くにある[[神社]]の[[神主]]の娘で、5年前に初めて大和と出会う。&lt;br /&gt;
: 大和が好きで、彼を追いかけて陸上部に入部しようとするが、運動オンチなので諦めようとした時、綾乃の一言でマネージャーをすることにした。成り行きで一時は大和と付き合ったが、涼風を諦めきれない大和の様子を見て別れることを決意する。その後、陸上部を退部し、奈々に誘われ[[ファッションモデル]]活動を始める。第2部では別に付き合っている人がいる。&lt;br /&gt;
: 原作者の次回作『[[君のいる町]]』の劇中、彼女と思しきタレントがTVに出演している。&lt;br /&gt;
: 2005年に週刊少年マガジンで開催されたキャラクター人気投票では2位を獲得した（738票）。&lt;br /&gt;
; 服部 安信（はっとり やすのぶ）&lt;br /&gt;
: 声 - [[大山鎬則]]&lt;br /&gt;
: [[東京都]]出身。身長175cm・体重62kg。12月16日生まれ。血液型はO型。学力は高い。大和とは小学生時代に初めて知り合う腐れ縁。良くも悪くも大和のアドバイザー。&lt;br /&gt;
: かなりのスケベ。付き合った女性は数知れずであり、将来の目標は「[[一夫多妻制|一夫多妻]]」だという。大和に涼風との関係を発展させようと煽るが、彼自身は最後まで誰とも恋人関係にならなかった。間接的とはいえ、涼風を妊娠に追いやったにも関わらず、主人公の大和をはじめ作中の登場人物は何故か誰一人として彼を責めていない。（その他、連載開始まもなくの頃の大和の回想シーンでは、小学生時代に旭湯の女風呂の覗きを大和に手伝わせたにも関わらず、その罪を全て彼に押し付けて自分だけいい子ぶっていた事もある。）&lt;br /&gt;
: 苗字の由来は作者の友人。&lt;br /&gt;
: 2005年に週刊少年マガジンで開催されたキャラクター人気投票での順位は5位（117票）。&lt;br /&gt;
:『[[風夏]]』でも登場し、美紀と結婚する事が明らかになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 羽柴 美紀（はしば みき）&lt;br /&gt;
: 声 - [[細川聖可]]&lt;br /&gt;
: [[神奈川県]]出身。身長167cm。12月31日生まれ。血液型はO型。スリーサイズはB88/W58/H85。大和達とは別のクラスの陸上部員。大和と涼風の橋渡し役。&lt;br /&gt;
: 面倒見が良く、困った友達は放っておけない姉御肌的なところがある。元気で活発。豪放磊落な性格。大和が気になりだしたが、大和が涼風のことが好きだということを知ってからは友達関係に留まっている。序盤は安信と仲が悪かったものの、現在は良き悪友として共に大和を応援する。&lt;br /&gt;
: 陸上部なのに長髪な理由は「尊敬する選手が長髪だから伸ばしている」とのこと。&lt;br /&gt;
: 苗字の由来は戦国武将[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]。&lt;br /&gt;
: 2005年に週刊少年マガジンで開催されたキャラクター人気投票での順位は4位（285票）。&lt;br /&gt;
:『[[風夏]]』でも登場し、服部と結婚する事が明らかになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ハイツ旭湯 ===&lt;br /&gt;
; 早乙女 優花（さおとめ ゆうか）&lt;br /&gt;
: 声 - [[鈴木真仁]]&lt;br /&gt;
: [[秋田県]]出身。身長158cm・体重44kg。11月10日生まれ。血液型はB型。スリーサイズはB80/W57/H84。スーパー銭湯兼レディースマンション・旭湯の401号室に住む女子大生。&lt;br /&gt;
: 酒好きで男を道具としか思っていない遊び人である一方、大和達の相談相手にもなるなど優しさも兼ね備えた人。しかしながら、大和の部屋に恵美・安信とともに勝手に上がりこみ、萌果が彼のために作った夕食を勝手に食べ尽くすなどの行動も見られる。高校時代の先輩である佐々岡に今でも憧れる（131話の時点で15回振られている）という、乙女らしい一面もある。登場時は色黒で金髪だったが、大晦日以降は実家が厳しいという理由で髪を黒く染め、肌の色も戻し、更に眼鏡を掛けていた。しかし佐々岡にはっきりと振られ、元の姿に戻る。&lt;br /&gt;
: 2005年に週刊少年マガジンで開催されたキャラクター人気投票での順位は10位（50票）。&lt;br /&gt;
; 松本 恵美（まつもと めぐみ）&lt;br /&gt;
: 声 - [[三浦初美]]&lt;br /&gt;
: [[熊本県]]出身。身長162cm・体重47kg。5月14日生まれ。血液型はAB型。スリーサイズはB91/W59/H87。スーパー銭湯兼レディースマンション・旭湯に住む女子大生。&lt;br /&gt;
: 普段は真面目だが、酒癖が悪い。91センチもある胸を[[コンプレックス]]としている。優花とともに大和の部屋に勝手に上がり込んで酒を飲むことが多く、酔ってくると男に対する愚痴をこぼすことが多い。&lt;br /&gt;
: 名前の由来は[[松本高明]]もしくは、[[松本奉文]]（現有史）。&lt;br /&gt;
: 2005年に週刊少年マガジンで開催されたキャラクター人気投票での順位は9位（59票）。&lt;br /&gt;
==== 藤川家 ====&lt;br /&gt;
; 藤川 美穂（ふじかわ みほ）&lt;br /&gt;
: 声 - [[明坂聡美]]&lt;br /&gt;
: [[東京都]]出身。身長148cm。3月21日生まれ。血液型はB型。スリーサイズは成長中。綾乃の娘で大和の従妹。大和の母琴乃の姪。中学2年生で「お兄ちゃん」と慕う。幼少の頃から大和を慕っており好意を持つにいたるが、あくまで妹的存在として接されており気付かれない。後に大和と涼風の娘である風夏の従叔母となる。&lt;br /&gt;
: 第2部では大和と同じ高校に進学し、陸上部のマネージャーになる。部活動中は大和のことを「秋月先輩」もしくは「先輩」と呼んでいる。&lt;br /&gt;
: 『[[風夏]]』では現時点での登場はないが、風夏からは「美穂ちゃん」と呼ばれている。&lt;br /&gt;
: 2005年に週刊少年マガジンで開催されたキャラクター人気投票での順位は6位（83票）。&lt;br /&gt;
; 藤川 綾乃（ふじかわ あやの）&lt;br /&gt;
: 声 - [[甲斐田ゆき]]&lt;br /&gt;
: [[広島県]]出身。身長161cm・体重49kg。2月11日生まれ。血液型はO型。スリーサイズはB88/W58/H90。大和の叔母（母琴乃の妹）で美穂の母。初登場時で32歳。&lt;br /&gt;
: 容姿端麗で旭湯の女将さん兼マンションの管理人。夫を早く亡くして[[未亡人]]。19歳の若さで産んだ娘の美穂と二人暮らし。美穂は勿論、涼風や大和も実の子のように大切にしている。後に大和と涼風の娘である風夏の大叔母となる。&lt;br /&gt;
: 2005年に週刊少年マガジンで開催されたキャラクター人気投票での順位は11位（49票）。&lt;br /&gt;
; ゴロちゃん&lt;br /&gt;
: 声 - [[石橋美佳]]&lt;br /&gt;
: 藤川親子が飼っている[[ネコ|猫]]。マンションの住人の下着を集めて隠す癖がある。そのため、一時はマンションの住民から、大和が下着泥棒と誤解されてしまったほど。&lt;br /&gt;
: 2005年に週刊少年マガジンで開催されたキャラクター人気投票での順位は7位（70票）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 青葉高校・陸上部 ===&lt;br /&gt;
; 衣笠 鉄人（きぬがさ てつひと）&lt;br /&gt;
: 声 - [[川原慶久]]&lt;br /&gt;
: [[神奈川県]]出身。身長187cm・体重97kg。5月10日生まれ。血液型はB型。陸上部部長。[[砲丸投]]の選手。&lt;br /&gt;
: 引退後は西常大に進学し、OBとして後輩を指導したり、やる気のない大和に時々鉄拳を食らわしたりする。第2部では西常大学の陸上部に所属。&lt;br /&gt;
: 2005年に週刊少年マガジンで開催されたキャラクター人気投票での順位は20位（7票）。&lt;br /&gt;
; 宮本 総一（みやもと そういち）&lt;br /&gt;
: 声 - [[前田剛]]&lt;br /&gt;
: [[神奈川県]]出身。身長178cm・体重65kg。3月9日生まれ。血液型はA型。2年生の陸上部員。涼風の中学からの先輩で、亡き和輝とは親友だった。大和を陸上部に勧誘する。&lt;br /&gt;
: 衣笠の引退後、陸上部の部長になり卒業後は東都大の陸上部に所属。本人曰く、「根性トレーニングはやらない」。&lt;br /&gt;
: 2005年に週刊少年マガジンで開催されたキャラクター人気投票での順位は13位（32票）。&lt;br /&gt;
; 小早川 健二（こばやかわ けんじ）&lt;br /&gt;
: 声 - [[内藤玲]]&lt;br /&gt;
: 短距離の特待生として入学するも、体力測定で大和に破れ、影の薄い存在になる。&lt;br /&gt;
: 萌果には早いうちから思いを寄せていたが、結局全く相手にされることもなく玉砕。最終回では200mの日本代表に選ばれる。&lt;br /&gt;
: 2005年に週刊少年マガジンで開催されたキャラクター人気投票での順位は12位（43票）。&lt;br /&gt;
; 佐々木 一行（ささき かずゆき）&lt;br /&gt;
: 2年生の陸上部員。短距離選手。支部予選では有馬、大和に次ぐ3位の記録を持つ。&lt;br /&gt;
: 陸上に対して真剣な気持ちで臨んでいるため、不真面目な人間に冷たい。加えて、非常に気難しい性格でもあり、衣笠からも苦手意識を持たれている。&lt;br /&gt;
: 2005年に週刊少年マガジンで開催されたキャラクター人気投票での順位は22位（3票）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
; 日下部 剛（くさかべ つよし）&lt;br /&gt;
: 美穂の同級生。彼女に惚れているが、相手にされない。第2部では同じ高校に進学し、陸上部に入部する。陸上部で大和とはかつての大和と衣笠の関係に似ているようである。&lt;br /&gt;
: 2005年に週刊少年マガジンで開催されたキャラクター人気投票での順位は18位（10票）。&lt;br /&gt;
; 津田 和輝（つだ かずき）&lt;br /&gt;
: 声 - [[宮野真守]]&lt;br /&gt;
: [[神奈川県]]出身。涼風の中学時代の先輩。身長175cm・体重64kg。9月29日生まれ。血液型はB型。&lt;br /&gt;
: 実力は宮本より上だが、何事においても不真面目だったので、当初は涼風と喧嘩ばかりしていた。しかし、陸上を通して涼風との距離が徐々に縮まってきた矢先に交通事故で亡くなる。&lt;br /&gt;
: 名前の由来は[[津田恒美]]。&lt;br /&gt;
: 2005年に週刊少年マガジンで開催されたキャラクター人気投票での順位は日下部と同票18位。&lt;br /&gt;
; エメルソン・有馬（エメルソン ありま）&lt;br /&gt;
: 声 - [[平野貴裕]]&lt;br /&gt;
: [[神奈川県]]出身。身長180cm・体重72kg。7月7日生まれ。血液型はA型。東都大附属2年の陸上選手。&lt;br /&gt;
: 中学時代は和輝に次いで2番手だったが、和輝の死後トップに立った。その事を自慢し、いまだに「和輝の方が上」と主張する涼風をいじめる。かなりの高飛車。第2部では東都大の陸上部に所属。『[[風夏]]』ではオリンピックで銅メダルを取っていた事が明らかになる。&lt;br /&gt;
: 2005年に週刊少年マガジンで開催したキャラクター人気投票での順位は17位（11票）。 &lt;br /&gt;
; 白川 奈々（しらかわ なな）&lt;br /&gt;
: 声 - [[北浦実千枝]]&lt;br /&gt;
: [[東京都]]出身。身長164cm。9月1日生まれ。血液型はAB型。スリーサイズはB83/W58/H87。テレビなどでも活躍している[[アイドル]]歌手。&lt;br /&gt;
: 萌果とは中学以来の友人であり、彼女の良き相談相手でもある。大和は彼女のファン。&lt;br /&gt;
: 2005年に週刊少年マガジンが開催したキャラクター人気投票での順位は16位（12票）。&lt;br /&gt;
; 佐々岡 浩志（ささおか ひろし）&lt;br /&gt;
: スポーツ用品メーカー「アディレックス」の営業社員。高校時代は[[ラグビー]]部に所属。&lt;br /&gt;
: 優花の憧れの人だが、彼は優花を妹のような存在としか見ていない上、婚約者がいた。後に涼風の[[スポンサー]]になる。終盤では大和の就職の斡旋も行った。&lt;br /&gt;
: 名前の由来は[[佐々岡真司]]。&lt;br /&gt;
; 天見 結衣（あまみ ゆい）&lt;br /&gt;
: [[東京都]]出身。身長162cm。10月24日生まれ。血液型AB型。スリーサイズはB86/W59/H88。大和が安信に無理矢理合コンに誘われた先で出逢った少女。&lt;br /&gt;
: 母親を早く亡くし、年老いた父親とカフェ[[レストラン]]「天見」を経営する。どんな料理にでも必ず[[コンブ|昆布]]を入れる癖があり、彼女の店で[[アルバイト]]した大和は悲惨な目に遭う。&lt;br /&gt;
: 大和の存在が気になるが、涼風の存在があるので複雑な心境に陥っている。涼風の渡米後告白するが振られる。（作中での明確な大和の台詞がないため、あくまでも推測に過ぎないが、おそらく大和としては先述の萌果との一件を引きずっていたものと思われる。）&lt;br /&gt;
; 浅井 咲希（あさい さき）&lt;br /&gt;
: [[広島県]]出身。身長156cm・体重45kg。3月12日生まれ。血液型はA型。スリーサイズはB81/W56/H84。広島に住む大和の幼馴染で初恋の相手。かなり明るい性格で[[広島弁]]を話す。&lt;br /&gt;
: 東都大学デザイン学科志望で[[オープンキャンパス]]のために上京し、旭湯に泊まっていた（後に帰郷）。大和に東都大から推薦が来ていることを知り、一緒に東都大学へ進学することを約束した。多少大和のことが気になっている様子。&lt;br /&gt;
: 名前の由来は[[浅井樹]]。&lt;br /&gt;
; 江崎 倫子（えざき りんこ）&lt;br /&gt;
: [[月島]]出身。小説版オリジナルキャラクター。大和たちの教育実習生となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 書誌情報 ==&lt;br /&gt;
* [[瀬尾公治]] 『涼風』 [[講談社]]〈[[講談社コミックス]]〉、全18巻&lt;br /&gt;
# 2004年5月17日発行（同日発売）、ISBN 4-06-363376-4&lt;br /&gt;
# 2004年7月16日発行（同日発売）、ISBN 4-06-363408-6&lt;br /&gt;
# 2004年9月17日発行（同日発売）、ISBN 4-06-363429-9&lt;br /&gt;
# 2004年11月17日発行（同日発売）、ISBN 4-06-363456-6&lt;br /&gt;
# 2005年2月17日発行（同日発売）、ISBN 4-06-363489-2&lt;br /&gt;
# 2005年5月17日発行（同日発売）、ISBN 4-06-363532-5&lt;br /&gt;
# 2005年7月15日発行（同日発売）、ISBN 4-06-363556-2&lt;br /&gt;
# 2005年9月16日発行（同日発売）、ISBN 4-06-363575-9&lt;br /&gt;
# 2005年11月17日発行（同日発売）、ISBN 4-06-363597-X&lt;br /&gt;
# 2006年1月17日発行（同日発売）、ISBN 4-06-363623-2&lt;br /&gt;
# 2006年4月17日発行（同日発売）、ISBN 4-06-363657-7&lt;br /&gt;
# 2006年7月14日発行（同日発売）、ISBN 4-06-363694-1&lt;br /&gt;
# 2006年9月15日発行（同日発売）、ISBN 4-06-363719-0&lt;br /&gt;
# 2006年12月15日発行（同日発売）、ISBN 4-06-363760-3&lt;br /&gt;
# 2007年3月16日発行（同日発売）、ISBN 978-4-06-363805-9&lt;br /&gt;
# 2007年5月17日発行（同日発売）、ISBN 978-4-06-363830-1&lt;br /&gt;
# 2007年8月17日発行（同日発売）、ISBN 978-4-06-363867-7&lt;br /&gt;
# 2007年10月17日（同日発売）、ISBN 978-4-06-363899-8 &lt;br /&gt;
* 公式ガイドブック 湯けむり恋愛白書 2005年9月16日発行（同日発売）、ISBN 4-06-372073-X&lt;br /&gt;
* 公式ガイドブック 湯けむり恋愛白書 〜卒業編〜 2007年10月17日発行（同日発売）、ISBN 978-4-06-372368-7 &lt;br /&gt;
* 小説涼風 スタートラインを越えて（[[藤咲あゆな]]著）2007年5月17日発行（同日発売）、ISBN 978-4-06-373302-0&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ゲーム ==&lt;br /&gt;
;ケータイ向け配信&lt;br /&gt;
* 涼風　 (恋愛アドベンチャーゲーム、配信：講談社、リリース：[[ナツメ (ゲーム会社)|ナツメ]])&lt;br /&gt;
* 涼風　ドキドキ温泉旅行 (恋愛アドベンチャーゲーム、配信：講談社、リリース：ナツメ)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== テレビアニメ ==&lt;br /&gt;
2005年7月6日から12月28日まで[[テレビ東京]]他[[TXN]]系列6局で、同年8月から[[広島ホームテレビ]]&amp;lt;ref&amp;gt;[[主人公]]・秋月大和は[[広島県]]出身、[[広島東洋カープ]]ファンの少年であるが、これは作者[[瀬尾公治]]本人が広島出身のカープファンであることが関係しており、テレビアニメは[[TXN|テレビ東京系列]]の局がない広島県でも[[遅れネット]]で放送される事になった。作中でも大和と涼風が[[横浜スタジアム]]で[[横浜ベイスターズ|横浜]]対広島戦を観戦している。（その時は涼風の無知により横浜側の応援席に連れられている）&amp;lt;/ref&amp;gt;で、[[2006年]]9月から[[アニメシアターX|AT-X]]で放送された。全26話。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大和と涼風の部屋を繋ぐ穴は存在せず、[[パンチラ]]や乳首の露出は全くない。また、服部の下ネタもいくらか緩和されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、アニメの[[サウンドトラック|サントラ]]集にカープの応援歌のひとつである「それ行けカープ」が収録されているが、本作の登場人物に未成年者が多いことを考慮してか、3番で終わっている（この曲の4番に&#039;&#039;&#039;[[アルコール飲料|酒]]&#039;&#039;&#039;というフレーズがあるため）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== スタッフ ===&lt;br /&gt;
* 監督 - [[福冨博]]&lt;br /&gt;
* シリーズ構成 - [[ときたひろこ]]&lt;br /&gt;
* キャラクターデザイン - [[志田ただし]]&lt;br /&gt;
* 美術監督 - 河合泰利&lt;br /&gt;
* 色彩設計 - 大槻ひろ子&lt;br /&gt;
* 撮影監督 - 青木孝司&lt;br /&gt;
* 編集 - 村井秀明、三宅圭貴&lt;br /&gt;
* アフレコ演出 - [[三ツ矢雄二]]&lt;br /&gt;
* 音響演出 - ハマノカズゾウ&lt;br /&gt;
* 音楽 - [[宅見将典]]&lt;br /&gt;
* プロデューサー - 丸山創、宿利剛、吉田実、上田和成&lt;br /&gt;
* アニメーションプロデューサー - [[別府幸司]]&lt;br /&gt;
* アニメーション制作 - [[スタジオコメット]]&lt;br /&gt;
* 製作 - [[マーベラスAQL|マーベラスエンターテイメント]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 主題歌 ===&lt;br /&gt;
; オープニングテーマ&lt;br /&gt;
:; 「スタートライン」&lt;br /&gt;
:: 作詞 - TOMBOW / 作曲・編曲 - [[宅見将典]] / 歌 - [[COACH☆]]&lt;br /&gt;
; エンディングテーマ&lt;br /&gt;
:; 「青いフィールド」（第1 - 14話）&lt;br /&gt;
:: 作詞 - TAPIKO / 作曲 - POM / 編曲 - [[can/goo]]&amp;amp;時乗浩一郎 / 歌 - COACH☆&lt;br /&gt;
:; 「君のこと」（第15 - 26話）&lt;br /&gt;
:: 作詞 - TOMBOW / 作曲・編曲 - [[宅見将典]] / 歌 - COACH☆&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
※ COACH☆は、[[明坂聡美]]（藤川美穂役）、[[細野佑美子]]（桜井萌果役）、[[三浦初美]]（松本恵美役）、[[北浦実千枝]]（白川奈々役）、mana（秋月理恵役）の5人で構成された声優ユニットである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 各話リスト ===&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;font-size:small&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!話数!!サブタイトル!!脚本!!絵コンテ!!演出!!作画監督&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第1話||期待||rowspan=&amp;quot;2&amp;quot;|[[ときたひろこ]]||colspan=&amp;quot;2&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|[[福冨博]]||石田啓一 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第2話||笑顔||colspan=&amp;quot;2&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|[[木宮茂|きみやしげる]]||内原茂 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第3話||見舞||[[山田由香]]||福島一三||いしはらあゆみ||小山知洋 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第4話||春嵐||伊藤美智子||福冨博||[[石踊宏]]||平川亜喜雄 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第5話||恋患||ときたひろこ||羽原久美子||加藤顕||柳瀬雄之 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第6話||告白||山田由香||colspan=&amp;quot;2&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|[[又野弘道]]||山崎展義 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第7話||決意||伊藤美智子||石踊宏||三宅雄一郎||石田啓一 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第8話||距離||ときたひろこ||福島一三||山岡実||山口光紀 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第9話||写真||山田由香||colspan=&amp;quot;2&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|きみやしげる||内原茂 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第10話||恋敵||伊藤美智子||福島一三||いしはらあゆみ||小山知洋 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第11話||勝負||山田由香||colspan=&amp;quot;2&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|石踊宏||平川亜喜雄 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第12話||誤解||ときたひろこ||羽原久美子||加藤顕||柳瀬雄之 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第13話||口唇||山田由香||colspan=&amp;quot;2&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|又野弘道||山崎展義 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第14話||祝福||伊藤美智子||三宅雄一郎||井草かほる||石田啓一 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第15話||蛍袋||ときたひろこ||福冨博||山岡実||山口光紀 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第16話||衝動||山田由香||colspan=&amp;quot;2&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|きみやしげる||内原茂 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第17話||彼氏||ときたひろこ||石踊宏||いしはらあゆみ||小山知洋 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第18話||贈物||伊藤美智子||colspan=&amp;quot;2&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|石踊宏||平川亜喜雄 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第19話||別離（わかれ）||rowspan=&amp;quot;2&amp;quot;|ときたひろこ||福島一三||加藤顕||柳瀬雄之 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第20話||応援||colspan=&amp;quot;2&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|又野弘道||山崎展義 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第21話||後悔||山田由香||石踊宏||井草かほる||石田啓一&amp;lt;br /&amp;gt;森前和也 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第22話||覚悟||rowspan=&amp;quot;2&amp;quot;|伊藤美智子||福冨博||山岡実||アベ正己&amp;lt;br /&amp;gt;一居一平&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第23話||激励||colspan=&amp;quot;2&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|きみやしげる||小林一三&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第24話||失踪||山田由香||福島一三||いしはらあゆみ||小山知洋 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第25話||喪失||rowspan=&amp;quot;2&amp;quot;|ときたひろこ||colspan=&amp;quot;2&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|石踊宏||平川亜喜雄 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|最終話||涼風（りょうふう）||福冨博||又野弘道||山崎展義&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 放送局 ===&lt;br /&gt;
{|class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;font-size:small&amp;quot; border=&amp;quot;1&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!放送地域!!放送局!!放送期間!!放送日時!!備考&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[広域放送|関東広域圏]]||[[テレビ東京]]||rowspan=&amp;quot;3&amp;quot;|[[2005年]][[7月6日]] - [[12月28日]]||水曜 25:00 - 25:30||&#039;&#039;&#039;製作局&#039;&#039;&#039;&amp;lt;br /&amp;gt;12月28日は27:07 - 27:37に放送&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[愛知県]]||[[テレビ愛知]]||水曜 25:28 - 25:58||12月28日は25:35 - 26:05に放送&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[大阪府]]||[[テレビ大阪]]||水曜 25:30 - 26:00||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[福岡県]]||[[TVQ九州放送]]||2005年[[7月10日]] -  [[2006年]][[1月4日]]||日曜 26:45 - 27:15||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[北海道]]||[[テレビ北海道]]||2005年[[7月11日]] - 2006年[[1月2日]]||月曜 25:30 - 26:00||1月2日は27:07 - 27:37に放送&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[岡山県・香川県の放送|岡山県・香川県]]||[[テレビせとうち]]||2005年[[7月13日]] - 12月28日||水曜 25:58 - 26:28||12月28日は2話連続放送&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[広島県]]||[[広島ホームテレビ]]||2005年[[8月2日]] - ||火曜 26:16 - 26:46||&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== DVD ===&lt;br /&gt;
* 発売元:マーベラスエンターテイメント 販売元:[[東映]]、[[東映ビデオ]]（東映、東映ビデオは、レンタル版のみ販売を担当）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[スポーツ漫画]]&lt;br /&gt;
* [[日本の漫画作品一覧]]&lt;br /&gt;
* [[アニメ作品一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www.mmv.co.jp/special/suzuka-tv/ 涼風（作品公式）]&lt;br /&gt;
*[http://www.tv-tokyo.co.jp/anime/suzuka 涼風（テレビ東京公式）]&lt;br /&gt;
*[http://www.starchild.co.jp/special/suzuka/ 涼風（スターチャイルド）]&lt;br /&gt;
*[http://www.kyowakoku.jp/dandei 瀬尾ダンデイ事務所（作者・瀬尾公治公式）]&lt;br /&gt;
*[http://www.b-ch.com/ttl/index.php?ttl_c=841 バンダイチャンネル]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{前後番組&lt;br /&gt;
|放送局=[[テレビ東京]] 水曜25:00枠 /&lt;br /&gt;
|放送枠=[[テレビ大阪]] 水曜25:30枠&lt;br /&gt;
|番組名=涼風&lt;br /&gt;
|前番組=[[魔法先生ネギま! (アニメ)|魔法先生ネギま!]]&lt;br /&gt;
|次番組=[[キン肉マンII世|キン肉マンII世 ULTIMATE MUSCLE2]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:すすか}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:漫画作品 す|すか]]&lt;br /&gt;
[[Category:恋愛漫画]]&lt;br /&gt;
[[Category:週刊少年マガジンの漫画作品]]&lt;br /&gt;
[[Category:陸上競技を題材とした漫画作品]]&lt;br /&gt;
[[Category:集合住宅を舞台とした漫画作品]]&lt;br /&gt;
[[Category:高等学校を舞台とした漫画作品]]&lt;br /&gt;
[[Category:東京を舞台とした漫画作品]]&lt;br /&gt;
[[Category:城北地域を舞台とした作品]]&lt;br /&gt;
[[Category:広島県を舞台とした作品]]&lt;br /&gt;
[[Category:アニメ作品 す|すか]]&lt;br /&gt;
[[Category:2005年のテレビアニメ]]&lt;br /&gt;
[[Category:テレビ東京の深夜アニメ]]&lt;br /&gt;
[[Category:スタジオコメット]]&lt;br /&gt;
[[Category:マーベラスのアニメ作品]]&lt;br /&gt;
[[Category:高等学校を舞台としたアニメ作品]]&lt;br /&gt;
[[Category:集合住宅を舞台としたアニメ作品]]&lt;br /&gt;
[[Category:東京を舞台としたアニメ作品]]&lt;br /&gt;
[[Category:スポーツアニメ]]&lt;br /&gt;
[[Category:公衆浴場を舞台とした作品]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>61.7.3.99</name></author>
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	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%82%B93%E4%B8%96&amp;diff=128496</id>
		<title>ティベリオス3世</title>
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		<updated>2014-07-12T02:37:58Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;61.7.3.99: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[ファイル:Solidus-Tiberius III-sb1360.4.jpg|thumb|ティベリオス3世が印された[[ソリドゥス金貨|ノミスマ金貨]]]]&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;ティベリオス3世&#039;&#039;&#039;（[[ギリシア語]]：{{lang|el|&#039;&#039;&#039;Τιβέριος Γ&#039;&#039;&#039;&#039;（Tiberios III）}}, ? - [[706年]][[2月15日]]?）は、[[東ローマ帝国]]の[[皇帝]]（在位：[[698年]] - [[705年]]8月）。[[ローマ帝国]]第2代皇帝の[[ティベリウス]]を代数に数えず、「ティベリオス2世」と呼ぶ場合もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
元の名は&#039;&#039;&#039;アプシマロス&#039;&#039;&#039;（{{lang|el|Αψίμαρος （Apsimaros）}}）。[[697年]]に[[カルタゴ]]を奪回した帝国艦隊は翌698年にカルタゴから[[ウマイヤ朝]]軍によって排除された。指揮官のヨハネスは[[クレタ島]]まで撤退して援軍を待っていたが、その時反乱が起きてヨハネスは殺された。反乱軍は当時帝国艦隊配下にあったキビュライオタイ（[[レオーン3世]]時代に[[テマ]]・キビュライオタイに昇格）の指揮官であったアプシマロスを皇帝として、[[コンスタンティノープル|コンスタンティノポリス]]に戻って攻撃を行った。コンスタンティノポリス市内で[[サーカス党派]]が呼応したこともあって開城し、先代の皇帝・[[レオンティオス]]を廃位することに成功した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このような経過から即位したため、カルタゴの再奪回は成功しなかった。一方で[[ユスティニアノス2世]]時代から激化していた[[小アジア]]半島での[[ウマイヤ朝]]との戦いでは、兄弟のヘラクレイオスを東方の複数のテマの長官（モノストラテーゴス）に任じて対応させた。ヘラクレイオスはアルメニア方面では苦戦するものの、ウマイア朝の軍に対して決定的な敗北を被ることなく良く防衛することに成功した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、[[ケルソン]]を脱出したユスティニアノス2世が705年にコンスタンティノポリスに迫る。ユスティニアノス2世は秘密の抜け穴を通ってコンスタンティノポリスに入城したためティベリオス3世は逃亡し、ユスティニアノス2世が復位した。ほどなくティベリオス3世は捕らえられ、投獄されていたレオンティオスとともに処刑された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 子女 ==&lt;br /&gt;
[[ヘラクレイオス王朝]]断絶後の三皇帝最後の1人である[[テオドシオス3世]]はティベリオス3世の息子という有力な見解が提出され、テオドシオス3世が皇帝に即位できた理由と推測されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{東ローマ皇帝}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ていへりおす3}}&lt;br /&gt;
[[Category:東ローマ皇帝]]&lt;br /&gt;
[[Category:ヘラクレイオス家]]&lt;br /&gt;
[[Category:706年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>61.7.3.99</name></author>
	</entry>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E3%83%AD%E3%83%A0%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%82%B9&amp;diff=107287</id>
		<title>ロムルス・アウグストゥルス</title>
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		<updated>2014-07-12T02:17:46Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;61.7.3.99: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[画像:RomulusAugustus.jpg|250px|thumb|right|ロムルス・アウグストゥルス]]&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;ロムルス・アウグストゥルス&#039;&#039;&#039; (Romulus Augustulus, [[460年]] - [[511年]]～[[536年]]) は[[西ローマ帝国]]最後の[[皇帝]]（在位：[[475年]] - [[476年]]）。[[ホノリウス]]から数えて13人目の皇帝。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 名前 ==&lt;br /&gt;
ロムルス・アウグストゥ&#039;&#039;&#039;ル&#039;&#039;&#039;ス (Romulus Augustu&#039;&#039;&#039;lu&#039;&#039;&#039;s) という名前で知られているが、本名はロムルス・アウグストゥス (Romulus Augustus) である。アウグストゥ&#039;&#039;&#039;ル&#039;&#039;&#039;スというのは&#039;&#039;&#039;小&#039;&#039;&#039;アウグストゥス (&#039;&#039;&#039;Little&#039;&#039;&#039; Augustus) という意味の[[ニックネーム]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 即位と退位 ==&lt;br /&gt;
ロムルスが[[即位]]したのは[[475年]][[10月31日]]だが、それから一年もたたない[[476年]][[9月4日]]に[[ゲルマン人]]の将軍[[オドアケル]]によって[[退位]]に追い込まれた。歴史的にはこの出来事をもって「西ローマ帝国の滅亡」としている。しかし、既に西ローマ皇帝というのはロムルスの時代には事実上、なんの権威も持っておらず、オドアケルのようなゲルマン人の[[将軍]]たちが実権を握っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 名目上のローマ帝国統一 ==&lt;br /&gt;
なお、オドアケルは[[東ローマ皇帝]][[ゼノン (東ローマ皇帝)|ゼノン]]へ西ローマ皇帝位を返上し、ゼノンが全ローマ帝国唯一の皇帝（もちろん名目上のことである）となり、オドアケルはその代理としてイタリアを統治する、という形式を取った。名目上統一ローマ帝国となった[[東ローマ帝国]]は、その後1000年もの長い間を生き延び、[[1453年]]まで存続している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 退位後のロムルス ==&lt;br /&gt;
退位後のロムルスは概して幸運だったといえるだろう。というのもロムルスが若かったがためにオドアケルは彼の命までは奪わなかったからだ。オドアケルは実の父でロムルスを帝位につけた[[フラウィウス・オレステス|オレステス]]を殺害しているが、ロムルスとその家族は余生を過ごすために[[カンパーニャ]]に送っている。ロムルスの一家はそこで[[恩給]]をもらって過ごした。ロムルスはオドアケルが敗れたあとも、新権力者となった[[テオドリック (東ゴート王)|テオドリック大王]]に恩給をもらい続けることができた。ロムルスは何百年も続くことになる修道院を建てるなどの業績を残したが、[[536年]]に[[東ローマ帝国|（東）ローマ帝国]]がイタリアの支配権を再獲得するときまで生き延びることはできなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ロムルスに関する議論 ==&lt;br /&gt;
彼をローマ皇帝とみなしていいのかということに関してはよく議論される。東ローマ皇帝ゼノンもロムルスを皇帝とは認めていない。[[ネポス|ユリウス・ネポス]]がオレステスに475年にイタリアを追放された後も、ロムルスがオドアケルによって廃位されたあとですら、ゼノンや[[ガリア]]に残ったローマ帝国の将軍たちはネポスを正統な皇帝であると考えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{西ローマ皇帝||[[475年]]-[[476年]]}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ろむるす あうくすとうるす}}&lt;br /&gt;
[[Category:西ローマ皇帝]]&lt;br /&gt;
[[Category:幼君]]&lt;br /&gt;
[[Category:460年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:6世紀没]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Link GA|en}}&lt;br /&gt;
{{Link GA|ru}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>61.7.3.99</name></author>
	</entry>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E3%82%BF%E3%82%AD%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%B9&amp;diff=42320</id>
		<title>タキトゥス</title>
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		<updated>2014-07-12T02:01:02Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;61.7.3.99: /* 備考 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Otheruses|帝政期ローマの歴史家|ローマ皇帝|マルクス・クラウディウス・タキトゥス}}&lt;br /&gt;
[[ファイル:Gaius Cornelius Tacitus.jpg|250px|thumb|right|タキトゥスの横顔]]&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;コルネリウス・タキトゥス&#039;&#039;&#039;（Cornelius Tacitus, [[55年]]頃 - [[120年]]頃）は、[[ローマ帝国|帝政期ローマ]]の[[政治家]]、[[歴史家]]。個人名は&#039;&#039;&#039;プブリウス&#039;&#039;&#039;（Publius）とも&#039;&#039;&#039;ガイウス&#039;&#039;&#039;（Gaius）ともいわれるがどちらかは不明で、通常は個人名を除いて表記される。[[サルスティウス]]、[[リウィウス]]らとともに[[古代ローマ]]を代表する歴史家の一人であり、いわゆる[[ラテン文学]]白銀期の作家として知られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概略 ==&lt;br /&gt;
[[属州]]出身者であり、かつ[[エクィテス|騎士身分]]の出であった。[[グナエウス・ユリウス・アグリコラ|アグリコラ]]の女婿となり、[[元老院議員]]となる。[[97年]]には[[ルキウス・ウェルギニウス・ルフス]]の死を受けて補充[[執政官]]に就任している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
著作はローマ帝国の衰亡を憂い、共和制時代の気風の回復を訴えるものが多い。これはタキトゥスが「頽廃」の影響の少ない属州出身者、騎士身分の出身であったこと、[[フラウィウス朝]]下でローマの風俗の引き締めが見られたこと、[[ドミティアヌス]]治下で「暴君」を経験したことなどが考えられる。またタキトゥスの著作が[[ネルウァ]]、[[トライヤヌス]]治下で書かれており、自由な言論が許される環境であったことも考慮すべきである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
共和政時代からの伝統である元老院主導による政治を懐かしむ傾向が強い。全体的に元老院を重んじた皇帝達（特にトライヤヌス）に対する評価は高く、元老院を軽んじたり元老院に対して対決姿勢を取った皇帝（[[ティベリウス]]や[[ドミティアヌス]]）に対する評価は低い。特にティベリウス帝に関してはある程度の業績を認めつつもかなり辛辣に書かれている。そのため[[テオドール・モムゼン|モムゼン]]をはじめとする後世の歴史家達がティベリウスの再評価を進めるまではタキトゥスの言う「悪帝」との評価が一般的であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 備考 ==&lt;br /&gt;
[[3世紀]]の[[軍人皇帝]]時代の[[ローマ皇帝]]の1人[[マルクス・クラウディウス・タキトゥス]]はタキトゥスの末裔を称していたが、実際には何の関係も無かったらしい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 著作 ==&lt;br /&gt;
現代に伝わる著作は以下の5作のみであるが、主著の『同時代史』と『年代記』は、いずれも部分的にしか現存していない。&lt;br /&gt;
*『{{仮リンク|アグリコラ (本)|en|Agricola (book)|label=アグリコラ}}』&#039;&#039;Agricola&#039;&#039;（98年）&lt;br /&gt;
** タキトゥスの岳父アグリコラの伝記。属州ブリタンニア総督(任期77年-84年(78年-85年の説もある))。&lt;br /&gt;
*『[[ゲルマニア (書物)|ゲルマーニア]]』&#039;&#039;Germania&#039;&#039;（98年）&lt;br /&gt;
** ゲルマンニ諸部族とゲルマニアの地誌・民族誌。&lt;br /&gt;
*『{{仮リンク|雄弁家についての対話|en|Dialogus de oratoribus}}』&#039;&#039;Dialogus de Oratoribus&#039;&#039;（102年）&lt;br /&gt;
** 対話形式の雄弁論。3人の論者が登場し、共和制期と帝政期の弁論の文体の違い、雄弁の価値などについて語る。現存するタキトゥスの著作で唯一、日本語訳されていない。&lt;br /&gt;
*『{{仮リンク|同時代史 (タキトゥス)|en|Histories (Tacitus)|label=同時代史}}』&#039;&#039;Historiae&#039;&#039;（105年）&lt;br /&gt;
** 全12巻。「[[四皇帝の年]]」から[[ドミティアヌス]]帝暗殺([[96年]])までを扱った歴史書([[69年]]-[[96年]])といわれるが、完全に現存するのは最初の4巻分([[69年]]-[[70年]])で、第5巻は断片のみ、第6巻以降は完全に欠落している。そのため現存するのは[[ローマ内戦 (68年-70年)|四皇帝の内乱]]([[68年]]-[[70年]])と[[ユダヤ戦争]]([[66年]]-[[74年]])の部分のみである。&lt;br /&gt;
*『{{仮リンク|年代記 (タキトゥス)|en|Annals (Tacitus)|label=年代記}}』&#039;&#039;Annales&#039;&#039;（117年）&lt;br /&gt;
** 全18巻。[[ティベリウス]]帝即位([[14年]])から[[ネロ]]帝の自殺([[68年]])までを扱った歴史書([[14年]]-[[68年]])。ただし、全体の約三分の一(第5巻の大部分と第6巻の最初の数節、第7巻から第10巻、第16巻途中から最終第18巻まで)が欠落している。このため、親衛隊長[[セイヤヌス]]の失脚([[31年]])、[[クラウディウス]]帝の即位([[41年]])と{{仮リンク|ローマのブリテン島侵攻|en|Roman conquest of Britain|label=ブリテン島侵攻}}([[43年]]-[[84年]])、[[ネロ]]帝の自殺([[68年]])などの部分は現存していない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 日本語訳 ==&lt;br /&gt;
{{Wikiquote|タキトゥス}}&lt;br /&gt;
{{Commonscat|Gaius Cornelius Tacitus}}&lt;br /&gt;
*『ゲルマーニア』　[[泉井久之助]]訳、[[岩波文庫]]、1979年（改訳初版）&lt;br /&gt;
*『ゲルマニア・アグリコラ』　[[国原吉之助|國原吉之助]]訳、[[ちくま学芸文庫]]、1996年　&lt;br /&gt;
*『同時代史』　國原吉之助訳、[[筑摩書房]]、1996年 / ちくま学芸文庫、2012年　&lt;br /&gt;
*『年代記　（上・下）』　國原吉之助訳、岩波文庫、1981年（初版）&lt;br /&gt;
*『世界古典文学全集22　タキトゥス』　國原吉之助訳、筑摩書房、1965年、復刊2005年ほか　&lt;br /&gt;
: （「年代記」、「アグリコラ」、「ゲルマニア」を所収）　&lt;br /&gt;
*『年代記　前後編』　ヴァルター・ゾントハイマー独訳／岡崎邦博訳、みやび出版　前篇2007年、後編2010年&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たきとうす}}&lt;br /&gt;
{{history-stub}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:2世紀の古代ローマ人]]&lt;br /&gt;
[[Category:古代ローマの歴史家]]&lt;br /&gt;
[[Category:古代ローマの文筆家]]&lt;br /&gt;
[[Category:1世紀から5世紀の学者]]&lt;br /&gt;
[[Category:コルネリウス氏族]]&lt;br /&gt;
[[Category:50年代生]]&lt;br /&gt;
[[Category:120年代没]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Link FA|ia}}&lt;br /&gt;
{{Link GA|eo}}&lt;br /&gt;
{{Link FA|ru}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>61.7.3.99</name></author>
	</entry>
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		<title>源実朝</title>
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		<updated>2014-07-04T22:34:04Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;61.7.3.99: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{出典の明記|date=2011年9月}}&lt;br /&gt;
{{基礎情報 武士&lt;br /&gt;
| 氏名 = 源実朝&lt;br /&gt;
| 画像 = Minamoto_no_Sanetomo.jpg&lt;br /&gt;
| 画像サイズ = 250px&lt;br /&gt;
| 画像説明 = 源実朝像（『[[國文学名家肖像集]]』収録）&lt;br /&gt;
| 時代 = [[鎌倉時代]]前期&lt;br /&gt;
| 生誕 = [[建久]]3年[[8月9日 (旧暦)|8月9日]]（[[1192年]][[9月17日]]）&lt;br /&gt;
| 死没 = [[建保]]7年[[1月27日 (旧暦)|1月27日]]（[[1219年]][[2月13日]]）&lt;br /&gt;
| 改名 = 千幡（幼名）→実朝&lt;br /&gt;
| 別名 = 将軍家、羽林、右府、[[鎌倉殿]]、鎌倉右大臣&lt;br /&gt;
| 戒名 = 大慈寺殿正二位丞相公神儀&lt;br /&gt;
| 墓所 = [[寿福寺|亀谷山寿福寺]]、[[金剛三昧院]]、[[白旗神社]]&lt;br /&gt;
| 官位 = [[正二位]]、[[右大臣]]&lt;br /&gt;
| 幕府 = [[鎌倉幕府]] 3代[[征夷大将軍]]&lt;br /&gt;
| 氏族 = [[清和源氏]]（[[河内源氏]]）&lt;br /&gt;
| 父母 = 父：[[源頼朝]]、母：[[北条政子]]&lt;br /&gt;
| 兄弟 = 千鶴丸、[[大姫 (源頼朝の娘)|大姫]]、[[源頼家|頼家]]、[[貞暁]]、[[三幡|乙姫]]、&#039;&#039;&#039;実朝&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| 妻   = 正室：&#039;&#039;&#039;[[坊門信子]]&#039;&#039;&#039;（[[坊門信清]]の娘）&lt;br /&gt;
| 子   = 実子：なし、[[猶子]]：&#039;&#039;[[公暁]]&#039;&#039;、&#039;&#039;[[竹御所]]&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| 特記事項 =&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;源 実朝&#039;&#039;&#039;（みなもと の さねとも、&#039;&#039;&#039;源 實朝&#039;&#039;&#039;）は、[[鎌倉時代]]前期の[[鎌倉幕府]]第3代[[征夷大将軍]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鎌倉幕府を開いた[[源頼朝]]の四男（頼朝の子としては第6子で四男、政子の子としては第4子で次男）として生まれ、兄の[[源頼家|頼家]]が追放されると12歳で[[征夷大将軍]]に就く。政治は始め[[執権]]を務める[[北条氏]]などが主に執ったが、成長するにつれ関与を深めた。官位の昇進も早く[[武士]]として初めて[[右大臣]]に任ぜられるが、その翌年に[[鶴岡八幡宮]]で頼家の子[[公暁]]に暗殺された。これにより[[源氏将軍]]は断絶した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[歌人]]としても知られ、92首が[[勅撰和歌集]]に入集し、[[小倉百人一首]]にも選ばれている。[[家集]]として[[金槐和歌集]]がある。小倉百人一首では&#039;&#039;&#039;鎌倉右大臣&#039;&#039;&#039;とされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 将軍就任 ===&lt;br /&gt;
[[建久]]3年（[[1192年]]）8月9日[[巳]]の刻、源頼朝の次男として鎌倉[[名越 (鎌倉市)|名越]]の[[北条時政]]の屋敷・浜御所で生まれる。幼名は&#039;&#039;&#039;千幡&#039;&#039;&#039;。母は頼朝の流人時代に妻となっていた[[北条政子]]。乳母は政子の妹である[[阿波局 (北条時政の娘) |阿波局]]が選ばれ、[[大弐局 (加賀美氏)|大弐局]]ら御所女房が介添えをした。千幡は若公として誕生から多くの儀式で祝われた。12月5日、頼朝は千幡を抱いて[[御家人]]の前に現れると、「みな意を一つにして将来を守護せよ」と述べ面々に千幡を抱かせた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
建久10年（[[1199年]]）に父・頼朝が薨去し、兄の頼家が将軍職を継ぐ。[[建仁]]3年（[[1203年]]）9月、[[比企能員の変]]により頼家は将軍職を失い[[伊豆国]]に追われた。母・政子らは朝廷に対して9月1日に頼家が死去したという虚偽の報告を行い、弟の千幡への家督継承の許可を求めた。これを受けた朝廷は7日に実朝を[[従五位|従五位下]]・[[征夷大将軍]]に補任した&amp;lt;ref&amp;gt;『吾妻鏡』建仁3年9月15日条には征夷大将軍補任の宣旨が下されたと記されているが、『[[猪隈関白記]]』9月7日条には[[内大臣]][[藤原隆忠]]を[[上卿]]として従五位下征夷大将軍補任の[[除目]]が行われて後鳥羽上皇が「実朝」という名を定めたと記されており（同一の補任に対して除目と宣旨が同時に行われることはない）、両者の記事は矛盾しており同時代史料である後者が正しい可能性が高い（参照：[[北村拓]]「鎌倉幕府征夷大将軍の補任について」（所収：[[今江廣道]] 編『中世の史料と制度』（続群書類従完成会、2005年） ISBN 978-4-7971-0743-2 P137-194））。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
10月8日、[[遠江国]]において12歳で[[元服]]し、&#039;&#039;&#039;実朝&#039;&#039;&#039;と称した。儀式に参じた[[御家人]]は[[大江広元]]、[[小山朝政]]、[[安達景盛]]、[[和田義盛]]ら百余名で、理髪は祖父の北条時政、加冠は[[平賀義信]]が行った。24日にはかつて父の務めた[[兵衛府|右兵衛佐]]に任じられる。翌年、兄・頼家は北条氏の刺客により暗殺された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[元久]]元年（[[1204年]]）12月、京より[[坊門信清]]の娘・[[坊門信子|信子]]を正室に迎える。正室ははじめ[[足利義兼]]の娘が考えられていたが、実朝は許容せず使者を京に発し妻を求めた&amp;lt;ref&amp;gt;実朝の婚姻は頼家の母方の北条氏と妻方の[[比企氏]]が衝突した[[比企氏の乱]]の翌年のことであり、一概に実朝の京都・貴族志向の表れとは解することは出来ない。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
元久2年（[[1205年]]）1月5日に[[正五位|正五位下]]に叙され、29日には[[加賀国|加賀介]]を兼ね[[近衛府|右近衛権中将]]に任じられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| style=&amp;quot;float:right&amp;quot;&lt;br /&gt;
|+&#039;&#039;&#039;系譜&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|--&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
 [[源義朝]]  [[北条時政]]━[[牧の方]]&lt;br /&gt;
 　┃　　 　┃&lt;br /&gt;
 　┃　　　 ┣━━━━┓&lt;br /&gt;
 [[源頼朝]]┳[[北条政子]]  [[北条義時]] [[坊門信清]]&lt;br /&gt;
 　    ┃  　　　　　　　　　   ┃&lt;br /&gt;
 　 　 ┣━━━┓ 　    ┏━━━┛&lt;br /&gt;
 　　[[源頼家]]  &#039;&#039;&#039;源実朝&#039;&#039;&#039;━[[坊門信子]]&lt;br /&gt;
 　 　 ┃&lt;br /&gt;
 　　 [[公暁]]&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 北条政権 ===&lt;br /&gt;
6月、[[畠山重忠の乱]]が起こる。[[北条義時]]、[[北条時房|時房]]、[[和田義盛]]らが鎮めたが、乱後の論功は政子が行い、論功には年齢が達していないとされた実朝は加わらなかった。閏7月19日、時政邸に在った実朝を侵そうという[[牧の方]]の謀計が鎌倉に知れ渡る。実朝は政子の命を受けた御家人らに守られ、義時の邸宅に逃れた。牧の方の夫である時政は兵を集めるが、兵はすべて義時邸に参じた。20日、時政は伊豆国[[修禅寺]]に追われ、[[執権]]職は義時が継いだ。[[牧氏事件]]と呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月2日、『[[新古今和歌集]]』を京より運ばせる。和歌集は未だ披露されていなかったが、和歌を好む実朝は、父の歌が入集すると聞くとしきりに見る事を望んだ。[[建永]]元年（[[1206年]]）2月22日、[[従四位|従四位下]]へ昇り、10月20日には母の命により兄・頼家の次男である善哉を[[猶子]]とする。11月18日、近仕を務める[[東重胤]]が鎌倉に参る。重胤は暇を得て[[下総国]]に帰っており在国は数ヶ月に及んだ。実朝は詠歌を送って重胤を召していたが、なお遅参した為に蟄居させた。12月23日、重胤は義時の邸宅を訪れ蟄居の悲嘆を述べる。義時は「凡そこの如き災いに遭うは、官仕の習いなり。但し詠歌を献らば定めて快然たらんかと」と述べると、重胤は一首を詠んだ。義時はそれを見ると重胤を伴って実朝の邸宅に赴き、歌を実朝の前に置き重胤を庇った。実朝は重胤の歌を三回吟じると門外で待つ重胤を召し、歌の事を尋ね許した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[承元]]元年（[[1207年]]）1月5日、従四位上に叙せられる。承元2年（[[1208年]]）2月、[[天然痘|疱瘡]]を患う。実朝はこれまで幾度も[[鶴岡八幡宮]]に参拝していたが、以後3年間は病の痕を恥じて参拝を止めた。12月9日、[[正四位|正四位下]]に昇る。承元3年（[[1209年]]）4月10日、[[従三位]]に叙せられ、5月26日には右近衛中将に任ぜられる。7月5日、[[藤原定家]]に自らが詠んだ和歌三十首の評を請う。11月14日、義時が郎従の中で功のある者を侍に準ずる事を望む。実朝は許容せず、「然る如きの輩、子孫の時に及び定めて以往の由緒を忘れ、誤って幕府に参昇を企てんか。後難を招くべきの因縁なり。永く御免有るべからざる」と述べる。[[北条氏]]の家人は後に[[御内人]]と呼ばれ幕府で権勢を振るう事となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[建暦]]元年（[[1211年]]）1月5日、[[正三位]]に昇り、18日に[[美作国|美作権守]]を兼ねる。9月15日、猶子に迎えていた善哉は出家して[[公暁]]と号し、22日には[[受戒]]の為上洛した。建暦2年（[[1212年]]）6月7日、侍所の建物内で宿直の御家人同士のいざこざから刃傷事件があり死者も出た。そこで侍所の建物を破却して流血や死に伴う穢れから逃れようとした。[[千葉成胤]]は[[武家の棟梁]]が血や死を穢れとする事を諌めた。だが、結果的に7月9日に改めて侍所の建物を破却して新造する様に命じた。12月10日、[[従二位]]に昇る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 和田合戦 ===&lt;br /&gt;
[[建保]]元年（[[1213年]]）2月16日、御家人らの謀反が露顕する。頼家の遺児を将軍とし義時を討たんと企てており、加わった者が捕らえられる。その中には[[侍所]]別当を務める和田義盛の子である義直、義重らもあった。20日、囚人である[[薗田成朝]]の逃亡が明らかとなる。実朝は成朝が受領を所望していた事を聞くとかえって「早くこれを尋ね出し恩赦有るべき」と述べる。26日、死罪を命じられた[[渋河兼守]]が詠んだ和歌を見ると過を宥めた。27日に謀反人の多くは配流に処した。同日、[[正二位]]に昇る。3月8日、和田義盛が御所に参じ対面する。実朝は義盛の功労を考え義直と義重の罪を許した。9日、義盛は一族を率いて再び御所に参じ甥である胤長の許しを請うが、実朝は胤長が張本として許容せず、それを伝えた北条義時は和田一族の前に面縛した胤長を晒した（[[泉親衡の乱]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月、義盛の謀反が聞こえ始める。5月2日朝、兵を挙げる。義時はそれを聞くと幕府に参じ、政子と実朝の妻を八幡宮に逃れさせた。[[酉]]の刻、義盛の兵は幕府を囲み御所に火を放つ。ここで実朝は火災を逃れ頼朝の墓所である法華堂に入った。戦いは3日に入っても終わらず、実朝の下に「多勢の恃み有るに似たりといえども、更に凶徒の武勇を敗り難し。重ねて賢慮を廻らさるべきか」との報告が届く。驚いた実朝は[[政所]]に在った大江広元を召すと、願書を書かせそれに自筆で和歌を二首加え、八幡宮に奉じる。酉の刻に義盛は討たれ合戦は終わった。5日、実朝は御所に戻ると侍所別当の後任に義時を任じ、その他の勲功の賞も行った（[[和田合戦]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月19日、日光に住む[[畠山重忠]]の末子・[[畠山重慶|重慶]]が謀反を企てるとの報が届く。実朝は[[長沼宗政]]に生け捕りを命じるが、21日、宗政は重慶の首を斬り帰参した。実朝は「重忠は罪無く誅をこうむった。その末子が隠謀を企んで何の不思議が有ろうか。命じた通りにまずその身を生け捕り参れば、ここで沙汰を定めるのに、命を奪ってしまった。粗忽の儀が罪である」と述べると嘆息し宗政の出仕を止める。それ伝え聞いた宗政は眼を怒らし「この件は叛逆の企てに疑い無し。生け捕って参れば、女等の申し出によって必ず許しの沙汰が有ると考え、首を梟した。今後このような事があれば、忠節を軽んじて誰が困ろうか」と述べた。閏9月16日、兄・[[小山朝政]]の申請により実朝は宗政を許す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 渡宋計画 ===&lt;br /&gt;
11月23日、藤原定家より相伝の『[[万葉集]]』が届く。広元よりこれを受け取ると「これに過ぎる重宝があろうか」と述べ賞玩する。同日、仲介を行った[[飛鳥井雅経]]がかねてより訴えていた[[伊勢国]]の地頭の非儀を止めさせる。『[[金槐和歌集]]』はこの頃に纏められたと考えられている。建保2年（[[1214年]]）5月7日、[[延暦寺]]に焼かれた[[園城寺]]の再建を沙汰する。6月3日、諸国は[[旱魃]]に愁いており、実朝は降雨を祈り[[法華経]]を転読する。5日、雨が降る。13日、関東の御領の年貢を三分の二に免ずる。また同年には、[[栄西]]より『喫茶養生記』を献上される。栄西は翌年に病で亡くなるが、[[大江親広]]が実朝の使者として見舞った。建保4年（[[1216年]]）3月5日、政子の命により頼家の娘（後の[[竹御所]]）を猶子に迎える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月8日、[[東大寺]]大仏の再建を行った[[南宋|宋]]人の僧・[[陳和卿]]が鎌倉に参着し「当将軍は権化の再誕なり。恩顔を拝せんが為に参上を企てる」と述べる。15日、御所で対面すると陳和卿は実朝を三度拝み泣いた。実朝が不審を感じると陳和卿は「貴客は昔[[宋 (王朝)|宋朝]]医王山の長老たり。時に我その門弟に列す。」と述べる。実朝はかつて夢に現れた高僧が同じ事を述べ、その夢を他言していなかった事から、陳和卿の言を信じた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月20日、[[中納言|権中納言]]に任ぜられ、7月21日、左近衛中将を兼ねる。9月18日、北条義時と大江広元は密談し、実朝の昇進の早さを憂慮する。20日、広元は義時の使いと称し、御所を訪れて「御子孫の繁栄の為に、御当官等を辞しただ征夷大将軍として、しばらく御高年に及び、大将を兼ね給うべきか」と諫めた。実朝は「諌めの趣もっともといえども、源氏の正統この時に縮まり、子孫はこれを継ぐべからず。しかればあくまで官職を帯し、家名を挙げんと欲す」と答える。広元は再び是非を申せず退出し、それを義時に伝えた&amp;lt;ref&amp;gt;[[上横手雅敬]]や[[河内祥輔]]は、この会話を実朝が男子誕生を断念して然るべき家から後継者を求める意思を示し、義時にその伝言を求めたとする解釈を採る。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月24日、前世の居所と信じる宋の[[医王山]]を拝す為に渡宋を思い立ち、陳和卿に唐船の建造を命じる。義時と広元は頻りにそれを諌めたが、実朝は許容しなかった。建保5年（[[1217年]]）4月17日、完成した唐船を[[由比ヶ浜]]から海に向って曳かせるが、船は浮かばずそのまま砂浜に朽ち損じた。なお宋への関心からか、実朝は宋の能仁寺より仏舎利を請来しており、[[円覚寺]]の舎利殿に祀られている。5月20日、一首の和歌と共に恩賞の少なさを愁いた[[紀康綱]]に[[備中国]]の領地を与える。詠歌に感じた故という。6月20日、園城寺で学んでいた公暁が鎌倉に帰着し、政子の命により[[鶴岡八幡宮]]の別当に就く。また、[[葛山景倫]]にこの時渡宋を命じていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 落命 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Large ginkgo in Tsurugaoka-hachimangu Shrine.jpg|thumb|200px|鶴岡八幡宮の大銀杏（倒壊前）]]&lt;br /&gt;
建保6年（[[1218年]]）1月13日、[[大納言|権大納言]]に任ぜられる。2月10日、右大将への任官を求め使者を京に遣わすが、やはり必ず左大将を求めよと命を改める。父の源頼朝は右大将であった。3月16日、[[近衛大将|左近衛大将]]と[[馬寮|左馬寮御監]]を兼ねる。10月9日、[[内大臣]]を兼ね、12月2日、[[九条良輔]]の薨去により[[右大臣]]へ転ずる。[[武士]]としては初めての右大臣であった。21日、昇任を祝う翌年の鶴岡八幡宮拝賀のため、装束や車などが[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]より贈られる。26日、随兵の沙汰を行う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
建保7年（[[1219年]]）1月27日、雪が二尺ほど積もる日に八幡宮拝賀を迎えた。御所を発し八幡宮の楼門に至ると、北条義時は体調の不良を訴え、太刀持ちを[[源仲章]]に譲った。夜になり神拝を終え退出の最中、「親の敵はかく討つぞ」と叫ぶ公暁に襲われ落命した。[[享年]]28（満26歳没）。公暁は次に仲章を切り殺したが、これは太刀持ちであった義時と誤ったともいわれる。実朝の[[首級|首]]は持ち去られ、公暁は食事の間も手放さなかったという。同日、公暁は討手に誅された&amp;lt;ref&amp;gt;落命の件は、実朝を除こうとした「黒幕」によって実朝が父（頼家）の敵であると吹き込まれた為だとする説がある。ただし、その黒幕の正体については[[三浦義村]]、義時、後鳥羽上皇など諸説がある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
予見が有ったのか、出発の際に大江広元は涙を流し「成人後は未だ泣く事を知らず。しかるに今近くに在ると落涙禁じがたし。これ只事に非ず。御束帯の下に[[腹巻]]を着け給うべし」と述べたが、仲章は「大臣大将に昇る人に未だその例は有らず」と答え止めた。また整髪を行う者に記念と称して髪を一本与えている。庭の梅を見て詠んだ辞世となる和歌は、「出でいなば 主なき宿と 成ぬとも 軒端の梅よ 春をわするな」で、禁忌の歌と評された。落命の場は八幡宮の石段とも石橋ともいわれ、また大銀杏に公暁が隠れていたとも伝わるが、これは後世の創作と考えられ、信憑性に乏しい。『[[承久記]]』によると、一の太刀は[[笏]]に合わせたが、次の太刀で切られ、最期は「&#039;&#039;&#039;広元やある&#039;&#039;&#039;」と述べ落命したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
28日、妻は落餝し御家人百余名&amp;lt;ref&amp;gt;[[大江親広]]、[[大江時広]]、[[中原季時]]、[[安達景盛]]、[[二階堂行村]]、[[加藤景廉]]、以下百余名&amp;lt;/ref&amp;gt;が出家する。亡骸は[[勝長寿院]]に葬られたが首は見つからず、代わりに記念に与えた髪を入棺した。この時、渡宋を命じられていた葛山景倫は訃報を聞いて、高野山に菩提を弔う為に上がり、その忠心を政子に認められ、和歌山の由良に西方寺（後の興国寺。[[尺八]]伝来の地）を与えられた。実朝には子が無かったため、彼の死によって[[源氏将軍]]および[[河内源氏]]棟梁の血筋は断絶した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 年表 ==&lt;br /&gt;
* 年月日は出典が用いる暦。&lt;br /&gt;
* 西暦は元日を旧暦に変更している。&lt;br /&gt;
{| class=wikitable width=&amp;quot;100%&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!style=&amp;quot;width:5em;&amp;quot;|[[和暦]]&lt;br /&gt;
!style=&amp;quot;width:4em;&amp;quot;|西暦&lt;br /&gt;
!style=&amp;quot;width:6em;&amp;quot;|月日&lt;br /&gt;
!内容&lt;br /&gt;
!style=&amp;quot;width:11em;&amp;quot;|出典&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[建久]]3年&lt;br /&gt;
|[[1192年]]&lt;br /&gt;
|8月9日&lt;br /&gt;
|出生（[[数え年]]1歳）&lt;br /&gt;
|[[吾妻鏡]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|rowspan=3|[[建仁]]3年&lt;br /&gt;
|rowspan=3|[[1203年]]&lt;br /&gt;
|9月7日&lt;br /&gt;
|[[従五位|従五位下]]に叙し、[[征夷大将軍]]宣下（12歳）&lt;br /&gt;
|吾妻鏡&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|10月8日&lt;br /&gt;
|元服&lt;br /&gt;
|吾妻鏡&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|10月24日&lt;br /&gt;
|[[兵衛府|右兵衛佐]]に任官&lt;br /&gt;
|吾妻鏡&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|rowspan=1|[[元久]]元年&lt;br /&gt;
|rowspan=1|[[1204年]]&lt;br /&gt;
|7月18日&lt;br /&gt;
|兄・[[源頼家]]薨去（13歳）&lt;br /&gt;
|吾妻鏡等&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|rowspan=5|元久2年&lt;br /&gt;
|rowspan=5|[[1205年]]&lt;br /&gt;
|1月5日&lt;br /&gt;
|従五位上に昇叙し、右兵衛佐如元（14歳）&lt;br /&gt;
|明月記&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1月29日&lt;br /&gt;
|[[近衛府|右近衛権中将]]に転任し、[[加賀国|加賀介]]を兼任&lt;br /&gt;
|明月記&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|6月&lt;br /&gt;
|[[畠山重忠の乱]]&lt;br /&gt;
|吾妻鏡&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|閏7月&lt;br /&gt;
|[[牧氏事件]]&lt;br /&gt;
|吾妻鏡&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|9月7日&lt;br /&gt;
|披露前の[[新古今和歌集]]を京より運ばせる&lt;br /&gt;
|吾妻鏡&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|rowspan=2|[[建永]]元年&lt;br /&gt;
|rowspan=2|[[1206年]]&lt;br /&gt;
|2月22日&lt;br /&gt;
|[[従四位|従四位下]]に昇叙し、右近衛権中将・加賀介如元（15歳）&lt;br /&gt;
|吾妻鏡&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|10月20日&lt;br /&gt;
|頼家の次男・善哉（後の[[公暁]]）を[[猶子]]とする&lt;br /&gt;
|吾妻鏡&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[承元]]元年&lt;br /&gt;
|[[1207年]]&lt;br /&gt;
|1月5日&lt;br /&gt;
|従四位上に昇叙し、右近衛権中将・加賀介如元（16歳）&lt;br /&gt;
|吾妻鏡&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|rowspan=2|承元2年&lt;br /&gt;
|rowspan=2|[[1208年]]&lt;br /&gt;
|2月&lt;br /&gt;
|[[天然痘|疱瘡]]を患う（17歳）&lt;br /&gt;
|吾妻鏡&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|12月9日&lt;br /&gt;
|[[正四位|正四位下]]に昇叙し、右近衛権中将・加賀介如元&lt;br /&gt;
|吾妻鏡&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|rowspan=2|承元3年&lt;br /&gt;
|rowspan=2|[[1209年]]&lt;br /&gt;
|4月10日&lt;br /&gt;
|[[従三位]]に昇叙（18歳）&lt;br /&gt;
|吾妻鏡&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|5月26日&lt;br /&gt;
|右近衛中将に任官&lt;br /&gt;
|吾妻鏡&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|rowspan=2|[[建暦]]元年&lt;br /&gt;
|rowspan=2|[[1211年]]&lt;br /&gt;
|1月5日&lt;br /&gt;
|[[正三位]]に昇叙し、右近衛中将如元（20歳）&lt;br /&gt;
|吾妻鏡&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1月18日&lt;br /&gt;
|[[美作国|美作権守]]を兼任&lt;br /&gt;
|吾妻鏡&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|建暦2年&lt;br /&gt;
|[[1212年]]&lt;br /&gt;
|12月10日&lt;br /&gt;
|[[従二位]]に昇叙し、右近衛中将・美作権守如元（21歳）&lt;br /&gt;
|吾妻鏡&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|rowspan=3|[[建保]]元年&lt;br /&gt;
|rowspan=3|[[1213年]]&lt;br /&gt;
|2月27日&lt;br /&gt;
|[[正二位]]に昇叙し、右近衛中将・美作権守如元（22歳）&lt;br /&gt;
|吾妻鏡&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|5月&lt;br /&gt;
|[[和田合戦]]&lt;br /&gt;
|吾妻鏡&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|[[金槐和歌集]]を纏める&lt;br /&gt;
|同集定家所伝本奥書&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|rowspan=4|建保4年&lt;br /&gt;
|rowspan=4|[[1216年]]&lt;br /&gt;
|3月5日&lt;br /&gt;
|頼家の娘（後の[[竹御所]]）を猶子とする（25歳）&lt;br /&gt;
|吾妻鏡&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|6月20日&lt;br /&gt;
|[[中納言|権中納言]]に転任&lt;br /&gt;
|吾妻鏡&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|7月21日&lt;br /&gt;
|左近衛中将兼任&lt;br /&gt;
|吾妻鏡&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|9月20日&lt;br /&gt;
|[[大江広元]]より昇進を諌められる&lt;br /&gt;
|吾妻鏡&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|建保5年&lt;br /&gt;
|[[1217年]]&lt;br /&gt;
|4月17日&lt;br /&gt;
|陳和卿に造らせた船を海に出すが沈む（26歳）&lt;br /&gt;
|吾妻鏡&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|rowspan=4|建保6年&lt;br /&gt;
|rowspan=4|[[1218年]]&lt;br /&gt;
|1月13日&lt;br /&gt;
|[[大納言|権大納言]]に転任（27歳）&lt;br /&gt;
|吾妻鏡&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|3月6日&lt;br /&gt;
|[[近衛大将|左近衛大将]]と[[馬寮|左馬寮御監]]を兼任&lt;br /&gt;
|吾妻鏡&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|10月9日&lt;br /&gt;
|[[内大臣]]に転任。左近衛大将・左馬寮御監如元。&lt;br /&gt;
|吾妻鏡&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|12月2日&lt;br /&gt;
|[[右大臣]]に転任。左近衛大将・左馬寮御監如元。&lt;br /&gt;
|吾妻鏡&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|建保7年&lt;br /&gt;
|[[1219年]]&lt;br /&gt;
|1月27日&lt;br /&gt;
|[[鶴岡八幡宮]]で公暁に襲われ落命（[[享年]]28/満26歳没）&lt;br /&gt;
|吾妻鏡、[[愚管抄]]、[[承久記]]&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 祭祀 ==&lt;br /&gt;
* 胴体の墓は、[[寿福寺]]境内に掘られた[[やぐら]]の内に石層塔が設けられている。寿福寺は[[源義朝]]邸宅跡に建てられた寺院であり、実朝の墓の隣には母・政子の墓がある。&lt;br /&gt;
* 首は公暁の追っ手の武常晴が[[神奈川県]][[秦野市]]大聖山金剛寺（実朝が再興した寺）の五輪塔に葬ったといわれ、御首塚（みしるしづか）と呼ばれる。&lt;br /&gt;
* 金剛寺の阿弥陀堂には政子が実朝が生前礼拝した阿弥陀三尊を贈ったとされる。&lt;br /&gt;
* [[高野山]]には政子の発願により、実朝の菩提を弔うために創建された[[金剛三昧院]]がある。&lt;br /&gt;
* [[鶴岡八幡宮]]境内の[[白旗神社]]に頼朝と共に祀られ、[[明治]]になり白旗神社境内に改めて柳営社が建てられ祀られた。八幡宮では実朝の誕生日である8月9日に実朝祭が行われている。&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:源実朝墓所.jpg|寿福寺境内墓所&lt;br /&gt;
画像:Sanetomo kubizuka.JPG|秦野市の御首塚&lt;br /&gt;
画像:鶴岡八幡宮境内白旗神社.JPG|白旗神社&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 和歌 ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:実朝5344.jpg|thumb|240px|源実朝歌碑、鴨川畔、京都市左京区下堤町]]&lt;br /&gt;
*歌集『[[金槐和歌集]]』&lt;br /&gt;
*世の中は つねにもがもな なぎさこぐ あまの小舟の 綱手かなしも（[[小倉百人一首]]93）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 評価 ==&lt;br /&gt;
; 『[[吾妻鏡]]』&lt;br /&gt;
: [[蹴鞠]]の書が京より送られたのを受け「将軍家諸道を賞玩し給う中、殊に御意に叶うは、歌鞠の両芸なり」。&lt;br /&gt;
; 長沼宗政&lt;br /&gt;
: 畠山重慶謀反の際に「当代は歌鞠を以て業と為し、武芸は廃るるに似たり。女性を以て宗と為し、勇士これ無きが如し。また没収の地は、勲功の族に充てられず。多く以て青女等に賜う」。&lt;br /&gt;
; 大江広元&lt;br /&gt;
: 昇任を急ぐ実朝を憂慮し、「今は先君の遺跡を継ぐばかりで、当代にさせる勲功は無く、諸国を管領し中納言中将に昇られる」。&lt;br /&gt;
; [[正岡子規]]&lt;br /&gt;
: 仰の如く近来[[和歌]]は一向に振ひ不申候。正直に申し候へば[[万葉集|万葉]]以来實朝以来一向に振ひ不申候。實朝といふ人は三十にも足らで、いざこれからといふ処にてあへなき最期を遂げられ誠に残念致し候。あの人をして今十年も活かして置いたならどんなに名歌を沢山残したかも知れ不申候。とにかくに第一流の歌人と存候。強ち[[柿本人麻呂|人丸]]・[[山部赤人|赤人]]の余唾を舐るでもなく、固より[[紀貫之|貫之]]・[[藤原定家|定家]]の糟粕をしやぶるでもなく、自己の本領屹然として山岳と高きを争ひ日月と光を競ふ処、実に畏るべく尊むべく、覚えず膝を屈するの思ひ有之候。古来凡庸の人と評し来りしは必ず誤なるべく、[[北条氏]]を憚りて韜晦せし人か、さらずば大器晩成の人なりしかと覚え候。人の上に立つ人にて文学技芸に達したらん者は、人間としては下等の地にをるが通例なれども、實朝は全く例外の人に相違無之候。何故と申すに實朝の歌はただ器用といふのではなく、力量あり見識あり威勢あり、時流に染まず世間に媚びざる処、例の物数奇連中や死に歌よみの公卿たちととても同日には論じがたく、人間として立派な見識のある人間ならでは、實朝の歌の如き力ある歌は詠みいでられまじく候。[[賀茂真淵|真淵]]は力を極めて實朝をほめた人なれども、真淵のほめ方はまだ足らぬやうに存候。真淵は實朝の歌の妙味の半面を知りて、他の半面を知らざりし故に可有之候。 『[[歌よみに与ふる書]]』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 研究 ==&lt;br /&gt;
後鳥羽上皇は実朝に好意的であり、その昇進に便宜を図ったといわれている。その一方で、上皇が要求した[[地頭]]解任要求（備後国太田荘）を「故[[源頼朝|右大将]]が決めた地頭は問題がない限り解任する理由はない」と幕府の根幹を揺るがしかねないとして固辞しており、[[西園寺公経]]が右近衛大将を解任された折には上皇の非を指摘してこれを諌めている。また、[[順徳天皇]]の[[蔵人]]に任じられた[[大江時広]]が鎌倉での職務を疎かにして京都に戻ろうとするのを「御家人でありながら鎌倉を軽んじている」とたしなめている（『吾妻鏡』建保6年8月20日条）。上皇が実朝の死を好機と見て[[承久の乱]]に踏み切ったことから見ても、単に『親朝廷の将軍』と判断するのは早計である。父・頼朝は自分の娘を後鳥羽天皇（当時）の妃にしようとするなど幕府を固めるために朝廷の利用を考えていた面があり、上皇との接近はその継承とも解釈できる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、[[上横手雅敬]]以来、実朝には自らの後継として皇族将軍（宮将軍）を猶子に迎える構想があったことが指摘され、また急激な官位の昇進をそのための環境づくりの側面があった（形式上でも皇族の父親となる以上、大臣級の官位を必要とした）とする見方がある（[[河内祥輔]]説）。だが、鎌倉幕府成立以後、武士階層が次第に政治力と自信をつけてくるにつれて朝廷や貴族による支配を拒絶する態度をより明確にするようになり、その中核をなした[[御家人]]などからは極端な官位昇進などを朝廷重視の姿勢の現れであると見なされ、後の暗殺事件への伏線になったとの説もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* 史料&lt;br /&gt;
** [[吾妻鏡]]&lt;br /&gt;
** [[愚管抄]]&lt;br /&gt;
* 家集&lt;br /&gt;
** [[金槐和歌集]]&lt;br /&gt;
* 書跡&lt;br /&gt;
** [[中院切]]&lt;br /&gt;
** [[消息]]&lt;br /&gt;
* 伝記&lt;br /&gt;
** [[吉本隆明]]　『源実朝』日本詩人選12、[[筑摩書房]]、1971年（[[ちくま文庫]]、1990年、ISBN 978-4-480-02376-6）&lt;br /&gt;
** [[石川逸子]]　『われて砕けて』　文芸書房、2005年、ISBN 9784894771857&lt;br /&gt;
* 小説&lt;br /&gt;
** [[太宰治]]　『右大臣実朝』　錦城出版社、1943年（『太宰治全集6』所収、ちくま文庫、1989年、ISBN 9784480022561）&lt;br /&gt;
** [[大佛次郎]]　『源実朝』　六興出版、1978年（[[徳間書店|徳間文庫]]、1997年、ISBN 9784198907655）&lt;br /&gt;
** [[永井路子]]　『北条政子』『[[炎環]]』- 実朝暗殺について、従来の定説であった「北条氏黒幕説」に対し「三浦氏黒幕説」を打ち出し、一部の歴史学者から「有力な説」と評価された。&lt;br /&gt;
** [[佐佐木幸綱]]　『乱世に死す』　吉野教育図書〈[[吉野ろまん新書]]〉、1981年&lt;br /&gt;
** [[佐藤風人]]　『源実朝の生涯』　暁印書館、1988年（[[文芸社]]、2006年、ISBN 9784286018065）&lt;br /&gt;
** [[津田さち子]]　『源頼朝』　沖積舎、2002年、ISBN 9784806040804&lt;br /&gt;
** [[五車英男]]　『天華舞う』　文芸社、2004年、ISBN 9784835585307&lt;br /&gt;
** [[高橋直樹_(作家)|高橋直樹]]　「源太の産衣」（『霊鬼頼朝』文藝春秋、2004年 所収）、ISBN 9784163233901&lt;br /&gt;
* TVドラマ&lt;br /&gt;
** 『[[草燃える]]』（[[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]]、1979年、演：[[篠田三郎]]）&lt;br /&gt;
* その他&lt;br /&gt;
**[[名越朝時]]&lt;br /&gt;
**[[金沢実泰]]&lt;br /&gt;
**[[大仏朝直]]&lt;br /&gt;
**[[美作朝親]]&lt;br /&gt;
**[[和田朝盛]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
{{Commonscat|Minamoto no Sanetomo}}&lt;br /&gt;
{{Wikiquote|源実朝}}&lt;br /&gt;
* [http://www.tamagawa.ac.jp/SISETU/kyouken/kamakura/sanetomo/ 実朝さんの二つの供養塔が語るもの]&lt;br /&gt;
* [http://www.pianoforte.co.jp/hadanosannsaku-4.htm 実朝首塚と金剛寺]&lt;br /&gt;
* [http://www.ne.jp/asahi/kawaraban/sousyuu/page081.html 金剛寺の由緒]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{鎌倉幕府将軍}}&lt;br /&gt;
{{河内源氏棟梁|9代}}&lt;br /&gt;
{{百人一首}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:みなもと の さねとも}}&lt;br /&gt;
[[Category:河内源氏|さねとも]]&lt;br /&gt;
[[Category:鎌倉幕府の征夷大将軍]]&lt;br /&gt;
[[Category:鎌倉時代の歌人]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の能書家]]&lt;br /&gt;
[[Category:相模国の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:暗殺された人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の神 (人物神 源氏)|さねとも]]&lt;br /&gt;
[[Category:1192年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1219年没]]&lt;br /&gt;
{{リダイレクトの所属カテゴリ&lt;br /&gt;
|redirect=鎌倉右大臣&lt;br /&gt;
|1=小倉百人一首の歌人&lt;br /&gt;
}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>61.7.3.99</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E4%BD%90%E8%97%A4%E5%9F%BA%E6%B2%BB&amp;diff=170412</id>
		<title>佐藤基治</title>
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		<updated>2014-06-26T13:18:56Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;61.7.3.99: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{基礎情報 武士&lt;br /&gt;
|氏名=佐藤基治&lt;br /&gt;
|画像=&lt;br /&gt;
|画像サイズ=&lt;br /&gt;
|画像説明=&lt;br /&gt;
|時代=[[平安時代]]後期 - 末期&lt;br /&gt;
|生誕=[[永久 (元号)|永久]]元年（[[1113年]]）?&lt;br /&gt;
|死没=[[文治]]5年（[[1189年]]）?&lt;br /&gt;
|改名=元治（幼名）→基治&lt;br /&gt;
|別名=信夫庄司、湯の庄司&lt;br /&gt;
|戒名=&lt;br /&gt;
|墓所=&lt;br /&gt;
|主君=[[藤原基衡]]→[[藤原秀衡|秀衡]]→[[藤原泰衡|泰衡]]&lt;br /&gt;
|氏族=信夫[[佐藤氏]]&lt;br /&gt;
|父母=父：[[佐藤帥治]]?、母：[[藤原公景]]の娘&lt;br /&gt;
|兄弟=&lt;br /&gt;
|妻=正室：[[大窪太郎]]の娘&amp;lt;br&amp;gt;継室：&#039;&#039;&#039;乙和子姫&#039;&#039;&#039;（[[藤原清綱]]の娘）&lt;br /&gt;
|子=[[佐藤前信|前信]]、[[佐藤治清|治清]]、[[佐藤継信|継信]]、[[佐藤忠信|忠信]]、藤の江、浪の江、浪の戸（源義経側室）&lt;br /&gt;
|特記事項=&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;佐藤 基治&#039;&#039;&#039;（さとう もとはる）は、[[奥州]][[信夫郡]]（現在の[[福島県]][[福島市]]飯坂地区）に勢力を張り大鳥城（現在の[[舘の山公園]]）に居城した[[武将]]。[[源義経]]の従者[[佐藤継信]]・[[佐藤忠信|忠信]]の父である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概説==&lt;br /&gt;
奥州信夫郡の[[佐藤氏]]一族。&#039;&#039;&#039;信夫庄司&#039;&#039;&#039;と呼ばれていたが、[[飯坂温泉]]の湧く地であるため&#039;&#039;&#039;湯の庄司&#039;&#039;&#039;とも呼ばれた。奥州藤原氏2代当主[[藤原基衡]]の時代、[[康治]]元年（[[1142年]]）、[[陸奥国|陸奥]][[国司|守]][[藤原師綱]]が信夫郡の[[公田]][[検注]]を実施しようとした際に基衡の意を受けてこれを妨害し、のちに斬首された大庄司&#039;&#039;&#039;佐藤季治&#039;&#039;&#039;が父親に当たる可能性もあるが、各地の佐藤氏の家系図には見られない。『[[尊卑分脈]]』によれば[[従五位]]下左兵衛尉[[佐藤帥治]]の長男とする。佐藤一族の事跡に詳しい[[福島大学]]の客員教授[[菅野円蔵]]の著書『大鳥城記』によれば、基治の母は[[藤原公景]]の娘。妻は先に[[源頼朝]]の臣[[上野国]]の大窪太郎の娘を娶り、[[佐藤前信|前信]]及び[[佐藤治清|治清]]の二子があった。後[[藤原基衡|基衡]]の弟[[藤原清綱|清綱]]（亘理権十郎）の娘で[[藤原秀衡|秀衡]]のいとこに当たる乙和子姫を迎え奥州藤原氏と強固な関係を結んだ。さらに乙和子姫には、継信・忠信・藤の江・浪の江などの子があったが、その藤の江を秀衡の三男[[藤原忠衡|忠衡]]に娶わせ岳父として同盟関係を築いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
歴史学者の[[角田文衛]]によると、当時としては珍しい佐藤一族の義経に対する熾烈とも見える忠節は、君臣の関係だけでは説明がつきにくく、義経が平泉時代に迎えた妻は、佐藤基治の娘でなかったかとする説を唱えている&amp;lt;!--出典はノート参照--&amp;gt;。飯坂の佐藤氏系図のひとつに基治女・浪の戸（源義経側室）とある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==戦歴==&lt;br /&gt;
文治5年（[[1189年]]）8月、源頼朝が[[奥州合戦|奥州討伐]]のため奥大道（奥州街道）を北上してきた際、一族の伊賀良目七郎らと[[石那坂の戦い|石那坂]]（現在の福島市平石）に陣をはり防衛した。『[[吾妻鏡]]』文治5年8月8日条によると、この合戦で基治は鎌倉方の[[常陸入道念西]]子息である[[伊佐為宗]]らと戦って敗れ、晒し首にされたとあるが、同年10月2日条によると、赦免されて本領に戻ったとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
福島県[[白河市]]表郷中野庄司戻には、基治に由来する「庄司戻しの桜」がある。伝承によると、義経に従い鎌倉に赴く二人の子どもを見送り、別れる際に「二人の子どもがその忠節を全うするなら根付け。そうでなければ枯れよ」といって地面に杖を挿したが、立派に成長し見事な桜が咲いたという（現在は案内板のみ残る）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==死亡時期と行年==&lt;br /&gt;
石那坂で戦死したとする資料が多いが、『[[信達一統誌]]』では生け捕りの後赦免され、後「大鳥城」で卒去したとあり、『[[大木戸合戦記]]』にも捕虜となり、宇都宮の本陣に送られたとある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸期の書籍では&lt;br /&gt;
*[[佐久間洞厳]]『[[観述聞老志]]』- 文治5年8月4日：77歳。&lt;br /&gt;
*[[佐藤信要]]『[[封内名蹟志]]』 - 文治5年8月4日：75歳。&lt;br /&gt;
とあるが研究者によりまちまちで、生没年は確定されていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sato_sin.html 武家家伝＿信夫佐藤氏]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:さとう もとはる}}&lt;br /&gt;
[[Category:信夫佐藤氏|もとはる]]&lt;br /&gt;
[[Category:平安時代の武士]]&lt;br /&gt;
[[Category:陸奥国の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1113年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1189年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>61.7.3.99</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E3%83%9E%E3%82%B1%E3%83%89%E3%83%8B%E3%82%A2%E7%8E%8B%E6%9C%9D_(%E6%9D%B1%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E)&amp;diff=79758</id>
		<title>マケドニア王朝 (東ローマ)</title>
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		<updated>2014-06-23T22:39:23Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;61.7.3.99: /* マケドニア王朝皇帝一覧 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;マケドニア王朝&#039;&#039;&#039; （-おうちょう {{lang-el|&#039;&#039;&#039;Μακεδονική Δυναστεία&#039;&#039;&#039;}})は、[[東ローマ帝国]]中期の[[王朝]]（[[867年]] - [[1057年]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==歴史==&lt;br /&gt;
[[画像:Basilios_II.jpg|thumb|200px|[[バシレイオス2世]]]]&lt;br /&gt;
[[画像:1025AD LA.svg|thumb|200px|1025年　バシレイオス2世没時の東ローマ帝国版図]]&lt;br /&gt;
[[867年]]に[[マケドニア]]地方生れの[[アルメニア系]]農民出身の[[バシレイオス1世]]が、クーデターで[[アモリア朝]]3代目の皇帝[[ミカエル3世]]を倒して皇帝に即位し、新王朝を開いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
バシレイオス1世の子孫からは法律や行政に優れた[[レオーン6世]]や、文化人として知られた[[コンスタンティノス7世]]などを輩出し、政治・経済・軍事・文化などの面で東ローマ帝国は躍進を遂げた（レオーン6世の実父はミカエル3世という説があり、これが事実だとすれば公式上、バシレイオス1世の子孫となっているレオーン6世をはじめとするマケドニア王朝の幾人かの皇帝達は実はミカエル3世の子孫であり、アモリア王朝は1057年まで存続したことになる）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
コンスタンティノス7世の息子[[ロマノス2世]]の未亡人テオファノと結婚して帝位についた軍人皇帝[[ニケフォロス2世フォカス]]は、[[アンティオキア]]を約300年ぶりにイスラム勢力から奪回し、ニケフォロスを殺して帝位を奪った[[ヨハネス1世ツィミスケス]]も、ブルガリアや[[キエフ大公国]]軍を破り、[[シリア]]・[[パレスチナ]]を制圧した。ヨハネスの死後実権を取り戻したロマノス2世の息子[[バシレイオス2世]]は東西で戦いを進め、[[1018年]]には宿敵[[第1次ブルガリア帝国]]を滅ぼして、[[ユスティニアヌス1世]]の時代以来最大の版図を実現。バシレイオス2世の下で[[南イタリア]]・[[バルカン半島]]・[[小アジア]]・北シリア・[[アルメニア]]を支配する東地中海の大帝国として、東ローマ帝国は最盛期を迎えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、バシレイオス2世が後継者を残さずに没した後は、享楽的な弟の[[コンスタンティノス8世]]、ついでその娘の（バシレイオス2世の姪）ゾエの結婚相手が皇帝となったのだが、無能・老齢・病弱な皇帝が続き、農民の貧富の差の拡大や大貴族勢力の伸張、財政破綻、トルコ人の侵入といった問題にも有効な手が打てないまま、東ローマ帝国は衰退しはじめた。[[1054年]]にはコンスタンティノポリス教会とローマ教会が完全分裂（[[東西教会の分裂#1054年：教皇と総主教の相互破門|大シスマ]]）し、西欧との関係も悪化した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1056年]]に女帝テオドラが没し、翌[[1057年]]にはテオドラの養子[[ミカエル6世ストラティオティコス]]が反乱で失脚したためにマケドニア王朝は断絶。以後30年近くに渡って内乱や外敵の侵入が相次ぎ、東ローマ帝国は滅亡寸前の状態となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時代の東ローマ帝国は、それまでの完全実力主義的な社会から、血統を尊重する傾向が生じ始め、また同時に地方での軍事貴族の勢力が拡大しはじめた時期である。そのため何度かレカペノス家やフォカス家などの軍事貴族出身の将軍が帝位を簒奪することがあったものの、マケドニア王朝の皇族は排斥されず、簒奪者たちはマケドニア王朝と縁戚関係を結び、マケドニア王朝の正統な皇子は名目的な共同皇帝として残す形態が取られたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、[[ギリシャ人]]は9-10世紀頃から姓を持つようになり（古代以来ギリシャ人に姓は無かった）、この時代すでに軍事貴族たちは姓を持っていたが、マケドニア王朝の皇室自体はアルメニア系農民出身のためか、姓を持っていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==マケドニア王朝皇帝一覧==&lt;br /&gt;
注：&#039;&#039;&#039;強い強調&#039;&#039;&#039;のものはバシレイオス1世の子孫。それ以外はバシレイオス1世の血を引いていない（ただし、上記の通り、レオーン6世の実父はミカエル3世という説があり、この場合、レオーン6世直系子孫はバシレイオス1世の系統ではなく、ミカエル3世の系統ということになる）。&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 皇帝の名前 !! 在位年 !! 備考&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;&#039;[[バシレイオス1世]]&#039;&#039;&#039; &lt;br /&gt;
| 867年 - 886年 || アルメニア系農民出身&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;&#039;[[レオーン6世]]&#039;&#039;&#039;”フィロソフォス（哲学者）”&lt;br /&gt;
| 886年 - 912年 || バシレイオス1世の次男&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;&#039;[[アレクサンドロス (東ローマ皇帝)|アレクサンドロス]]&#039;&#039;&#039; &lt;br /&gt;
| 912年 - 913年 || バシレイオス1世の三男&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;&#039;[[コンスタンティノス7世]]&#039;&#039;&#039;”ポルフィロゲネトス&amp;lt;ref&amp;gt;「緋色の産室生まれ」を意味するあだ名。皇后専用の産室の壁が緋色だったことから、皇帝の嫡子を意味する。&amp;lt;/ref&amp;gt;”&lt;br /&gt;
| 913年 - 959年 || レオーン6世の息子。920年 - 944年は共同皇帝&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[ロマノス1世レカペノス]]&lt;br /&gt;
| 920年 - 944年 || 帝国海軍司令長官。コンスタンティノス7世の皇后ヘレネの父&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;&#039;[[ロマノス2世]]&#039;&#039;&#039; &lt;br /&gt;
| 959年 - 963年 || コンスタンティノス7世の息子&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[ニケフォロス2世フォカス]]&lt;br /&gt;
| 963年 - 969年 || スコライ軍団司令長官（[[タグマ|帝国中央軍]]総司令官）。ロマノス2世の皇后テオファノの再婚相手&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[ヨハネス1世ツィミスケス]] &lt;br /&gt;
| 969年 - 976年 || ニケフォロス2世の甥。ニケフォロスを暗殺して即位。&amp;lt;br /&amp;gt;コンスタンティノス7世の娘テオドラと結婚。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;&#039;[[バシレイオス2世]]&#039;&#039;&#039;”ブルガロクトノス&amp;lt;ref&amp;gt;「ブルガリア人殺し」を意味するあだ名。詳細は[[バシレイオス2世]]を参照。&amp;lt;/ref&amp;gt;”&lt;br /&gt;
| 976年 - 1025年 || ロマノス2世の長男。963年 - 976年は共同皇帝&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;&#039;[[コンスタンティノス8世]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| 1025年 - 1028年 || ロマノス2世の次男。963年 - 1025年は共同皇帝&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[ロマノス3世アルギュロス]]&lt;br /&gt;
| 1028年 - 1034年 || 首都長官。コンスタンティノス8世の娘ゾエの夫。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[ミカエル4世]]&lt;br /&gt;
| 1034年 - 1041年 || コンスタンティノス8世の娘ゾエの2番目の夫。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[ミカエル5世]]&lt;br /&gt;
| 1041年 - 1042年 || ミカエル4世の甥。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;&#039;[[ゾエ]]&#039;&#039;&#039;と&#039;&#039;&#039;[[テオドラ (東ローマ女帝)|テオドラ]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| 1042年 || コンスタンティノス8世の娘2人の共同統治。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[コンスタンティノス9世モノマコス]]&lt;br /&gt;
| 1042年 - 1055年 || [[元老院 (ローマ)|元老院]]議員。コンスタンティノス8世の娘ゾエの3番目の夫。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;&#039;テオドラ&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| 1055年 - 1056年 || 女帝。コンスタンティノス8世の娘が再び即位。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[ミカエル6世ストラティオティコス]]&lt;br /&gt;
| 1056年 - 1057年 || 元老院議員。テオドラの養子。&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==脚注==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[マケドニア朝ルネサンス]]&lt;br /&gt;
*[[マケドニア王朝]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{先代次代&lt;br /&gt;
|[[東ローマ帝国]]&lt;br /&gt;
|867年 - 1057年&lt;br /&gt;
|[[アモリア王朝]]&lt;br /&gt;
|[[ドゥーカス王朝]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:東ローマ帝国の王朝|まけとにあ]]&lt;br /&gt;
[[Category:マケドニア家|*]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>61.7.3.99</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%B36%E4%B8%96&amp;diff=112564</id>
		<title>レオーン6世</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%B36%E4%B8%96&amp;diff=112564"/>
		<updated>2014-06-22T22:39:39Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;61.7.3.99: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{基礎情報 君主&lt;br /&gt;
| 人名       = レオーン6世&amp;quot;ソフォス&amp;quot;&amp;lt;br/&amp;gt;（&amp;quot;フィロソフォス&amp;quot;）&lt;br /&gt;
| 各国語表記 = {{lang|el|Λέων Ϛʹ ὁ Σοφός(ὁ Φιλόσοφος)&amp;lt;br/&amp;gt; Leōn VI ho Sophos(ho Philosophos)}}&lt;br /&gt;
| 君主号     = 東ローマ皇帝&lt;br /&gt;
| 画像       = Detail of the Imperial Gate mosaic in Hagia Sophia showing Leo VI the Wise.jpg&lt;br /&gt;
| 画像サイズ = 250px&lt;br /&gt;
| 画像説明   = [[キリスト]]の前に跪くレオーン6世（[[アヤソフィア]]のモザイク画）&lt;br /&gt;
| 在位       = [[886年]] - [[912年]][[5月11日]]&lt;br /&gt;
| 戴冠日     = &lt;br /&gt;
| 別号       =共同皇帝（[[870年]] - [[886年]]）&lt;br /&gt;
| 全名       = レオーン&lt;br /&gt;
| 出生日     = [[866年]][[9月1日]]&lt;br /&gt;
| 生地       = [[東ローマ帝国]]、[[コンスタンティノープル|コンスタンティノポリス]]&lt;br /&gt;
| 死亡日     = {{死亡年月日と没年齢|866|9|1|912|5|11}}&lt;br /&gt;
| 没地       = [[東ローマ帝国]]、[[コンスタンティノープル|コンスタンティノポリス]]&lt;br /&gt;
| 埋葬日     = &lt;br /&gt;
| 埋葬地     = &lt;br /&gt;
| 継承者     = &lt;br /&gt;
| 継承形式   = &lt;br /&gt;
| 配偶者1    = テオファノ&amp;lt;br/&amp;gt;ゾエ・ザウツァイナ&amp;lt;br/&amp;gt;エウドキア・バイアナ&amp;lt;br/&amp;gt;ゾエ・カルボノプシナ&lt;br /&gt;
| 子女       = [[コンスタンティノス7世]]&lt;br /&gt;
| 王家       = &lt;br /&gt;
| 王朝       = [[マケドニア王朝 (東ローマ)|マケドニア王朝]]&lt;br /&gt;
| 王室歌     = &lt;br /&gt;
| 父親       = [[バシレイオス1世]]（実父は[[ミカエル3世]]?）&lt;br /&gt;
| 母親       = エウドキア・インゲリナ&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
[[ファイル:Follis-Leo VI-sb1729.jpg|thumb|レオーン6世の肖像が描かれた[[銅貨]]]]&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;レオーン6世“ソフォス”&#039;&#039;&#039;または&#039;&#039;&#039;“フィロソフォス”&#039;&#039;&#039;（&amp;lt;small&amp;gt;[[ギリシア語]]&amp;lt;/small&amp;gt;：{{lang|el|&#039;&#039;&#039;Λέων Ϛʹ ὁ Σοφός&#039;&#039;&#039;, Leōn VI ho Sophos}} または {{lang|el|&#039;&#039;&#039;ὁ Φιλόσοφος&#039;&#039;&#039;, ho Philosophos}}, [[866年]][[9月1日]]あるいは[[9月19日]] - [[912年]][[5月11日]]）は、[[東ローマ帝国]][[マケドニア王朝 (東ローマ)|マケドニア王朝]]の第2代[[皇帝]]（在位：[[886年]] - 912年）。中世ギリシア語読みでは「レオン」となる。“ソフォス”は「賢者」を、“フィロソフォス”は「哲学者」を意味するあだ名である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マケドニア王朝の開祖[[バシレイオス1世]]と、彼の二人目の妻のエウドキア・インゲリナとの間に生まれた。しかし、エウドキア・インゲリナは[[867年]]に[[ミカエル3世]]がバシレイオス1世に暗殺されるまでミカエル3世の愛人であった。そのため866年に生まれたレオーンと、867年（ミカエル3世の暗殺直後）に生まれたステファノスはミカエル3世の息子である可能性を否定できない。こうした噂は既にレオーンの出生直後から広く流布していたようである。なお兄のコンスタンティノスはバシレイオス1世の最初の妻であるマリアとの間に生まれた子供である。。これが事実だとすれば公式上、バシレイオス1世の子孫となっているレオーン6世をはじめとするマケドニア王朝の幾人かの皇帝達は実はミカエル3世の子孫であり、アモリア王朝は[[1057年]]まで存続したことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[870年]]には共同皇帝として戴冠された。[[872年]]頃には一時幽閉されていた[[フォティオス]]が召喚され、レオーンらバシレイオス1世の息子たちの家庭教師となった。本来レオーンは権力の座につく予定はなかったが、[[879年]]に、後継者であった兄コンスタンティノスが没したためレオーンがバシレイオス1世の跡を継ぐことになり、[[882年]]に母親のエウドキア・インゲリナの一族のテオファノと結婚した。しかしテオファノと結婚した直後に母が没するとバシレイオス1世とレオーンの関係は急速に悪化した。そして[[883年]]には謀反の疑いをかけられて後継者の地位を剥奪され、宮殿内の一室に[[886年]]7月まで3年あまり幽閉されていた。レオーンが幽閉された要因、そして復権できた要因についてはなお定説はない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
レオーンが復権した直後にバシレイオス1世が急死したため、その権力を継承した。すぐに彼は当時[[コンスタンディヌーポリ総主教庁|コンスタンティノポリス総主教]]に復帰していたフォティオスを更迭し、弟のステファノスを総主教に任命した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
レオーン6世の治世は、前半はレオーンの復帰に尽力した[[ステュリアノス・ザウツェス]]が実権を振るったとされている。彼はレオーンの愛人で後に二人目の妻となったゾエ・ザウツァイナの父親である。レオーンは後に彼にバシレオパトル（「皇帝の父」、あるいは「宮廷の長」の意味）の地位を創設して与えた。ただし最近の研究によると、ステュリアノスの権力は、従来想定されていたほど強力なものではなかったようである。[[899年]]にステュリアノスが没し、ザウツェス一族が失脚すると、それに代わってザウツェス一門の陰謀を通報した宦官のサモナスが実権を握った。彼は当時東ローマ軍で重きをなしていたアンドロニコス・ドゥークスと対立した。アンドロニコス・ドゥークスは[[バグダード]]に亡命したが、この事件にはサモナスが関与していたとされている。なおアンドロニコスの息子のコンスタンティノス・ドゥークスは後に復帰している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
レオーンはフォティオスを追放したものの、少年時代にその教えを受けて多方面に渡る学識を身につけており、たくさんの典礼詩や世俗詩、演説などを残した。また首都の商工業者の組合に関する法令集『総督の書』や6世紀の[[ユスティニアヌス1世]]が編纂させた『[[ローマ法大全]]』のギリシャ語改訂版である『バシリカ法典』などの法律書の編纂をもさせている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように、内政面・文化面では功績を残したレオーンだったが、対外関係ではいくつか失敗を犯している。[[893年]]に[[第一次ブルガリア帝国]]の[[シメオン1世]]と開戦した。レオーンは当時[[ドナウ川]]北岸にいた[[マジャル人]]と同盟してブルガリアを挟撃したが、[[896年]]にはブルガロフュゴンでブルガリアに敗北して、毎年貢納金を支払う条件で和平を結んだ。なおこの時マジャル人も敗走して、現在のハンガリー平原に侵入することになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
西方の領域でも敗北が続いた。[[888年]]には[[ミラッツォ]]沖で[[イスラーム]]艦隊に敗北を喫した。[[902年]]には[[シチリア島]]で事実上最後の拠点であった[[タオルミーナ|タオルミナ]]が陥落した。また[[エーゲ海]]の奥深くにまでイスラーム艦隊が侵入して各地を荒らし、[[904年]]には帝国第二の都市[[テッサロニキ]]が襲撃され、多くの犠牲者を出した。イスラーム艦隊に対してレオーン6世はヒメリオスを艦隊司令官に任じて反撃を行わせた。ヒメリオスは当初大きな成果を挙げるが、[[911年]]の[[クレタ島]]遠征は完全な失敗に終わっている。また[[907年]]には[[キエフ・ルーシ]]の艦隊が[[コンスタンティノープル|コンスタンティノポリス]]を攻撃している（[[:en:Rus&#039;–Byzantine War (907)]]）。一方[[アナトリア半島]]東部では帝国の領域を[[ユーフラテス川]]の東側にまで拡大し、[[テマ]]・メソポタミアを設置した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
レオーンには長い間後継者となる男子が生まれなかったため、私生活の面でもトラブルを起こした。最初の妻テオファノが[[897年]]頃に病死すると、[[898年]]に年来の愛人ゾエ・ザウツァイナと結婚したが、ゾエは翌年病死。その後3度目の妃エウドキア・バイアナを迎えたが、レオーン自身が三度目の結婚を禁止する法律を発布していたために、教会に反対された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[901年]]にはエウドキアも死去。レオーンには未だに子供がいないままだったので、4番目の妃であるゾエ・カルボノプシナ（ヒメリオスの一族）を迎え、[[905年]]についに息子のコンスタンティノス（のちの[[コンスタンティノス7世]]）が生まれた。当初、側近で学友でもあった総主教の[[ニコラオス1世]]ミュスティコスはコンスタンティノスの認知のみ承認することで事態を収拾しようとしたが、レオーンがゾエとの正式な結婚に踏み込んだ（「四婚問題」）ために態度を硬化させた。その結果ニコラオス1世は[[906年]]の[[クリスマス]]および翌年の[[エピファニー|神現祭]]では、レオーンは[[アヤソフィア|ハギア・ソフィア大聖堂]]への立ち入りを禁じた。そのためレオーン6世はニコラオス1世を解任し、自身の信任する修道士[[エウテュミオス]]を後任とした。しかしこれはニコラオス派とエウテュミオス派の対立を惹起することになってしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
912年5月11日に病死した。コンスタンティノス7世がまだ幼かったため、バシレイオス1世の代から共同皇帝の地位にあった[[アレクサンドロス (東ローマ皇帝)|アレクサンドロス]]が後継者となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{commons|Category:Leon VI}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{東ローマ皇帝}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:れおん6}}&lt;br /&gt;
[[Category:東ローマ皇帝]]&lt;br /&gt;
[[Category:マケドニア家]]&lt;br /&gt;
[[Category:866年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:912年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>61.7.3.99</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E3%83%9F%E3%82%AB%E3%82%A8%E3%83%AB3%E4%B8%96&amp;diff=127212</id>
		<title>ミカエル3世</title>
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		<updated>2014-06-22T22:38:32Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;61.7.3.99: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[ファイル:Michael III supervises a convention of clergy and secular persons Chronicle of John Skylitzes.jpg|thumb|ミカエル3世（『スキュリツェス年代記』の挿絵）]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;ミカエル3世“メテュソス”&#039;&#039;&#039;（&amp;lt;small&amp;gt;[[ギリシア語]]&amp;lt;/small&amp;gt;：{{lang|el|&#039;&#039;&#039;Μιχαήλ Γʹ ὁ Μέθυσος&#039;&#039;&#039;, Mikhaēl III ho Methysos}}, [[840年]][[1月19日]]または[[1月20日|20日]] - [[867年]][[9月23日]]または[[9月24日|24日]]）は、[[東ローマ帝国]][[アモリア王朝]]の第3代（最後）の[[皇帝]]（在位：[[842年]] - 867年）。同王朝第2代皇帝[[テオフィロス]]の子。中世ギリシア語読みでは「ミハイル」となる。“メテュソス”は「飲んだくれ」「酔っ払い」を意味するあだ名。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
842年に父テオフィロスが没したとき、わずか2歳という幼年であったため、母[[テオドラ (テオフィロスの皇后)|テオドラ]]と[[宦官]]の[[テオクティストス]]が政務を取り仕切った。テオドラは[[イコノクラスム]]を終わらせ、[[843年]]にイコン崇拝の復活を宣言した。続けてテオドラは[[クレタ島]]の回復を目的とした戦いを開始したが、成果は上がらなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
成人したミカエル3世は、母に実権を握られて傀儡であることを苦々しく思い始めた。そこで、かつてテオクティストスと対立して追放されていた叔父の[[バルダス]]（テオドラの弟。中世ギリシャ語読みでは「ヴァルダス」）らと協力して[[855年]]にクーデターを起こし、テオドラを修道院に追放して親政を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[860年]]、[[:en:Rus&#039;–Byzantine War (860)]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼は実権を獲得するにあたって協力したバルダスを重用し、[[864年]]には「カイサル」（副皇帝）に任じた。また[[863年]]に[[アッバース朝]]領内の[[アミール]]が[[小アジア]]に侵入してきた時にはバルダスの兄弟[[ペトロナス]]を将軍として派遣し、アミールの軍の撃破に成功した。この時ミカエル3世自身も戦いに参加している。この戦い以降、東ローマ帝国は小アジア東部で[[イスラーム]]勢力に対して攻勢に転じるようになっていく。一方で[[シチリア島]]では、[[アグラブ朝]]による攻勢を食い止めることができなかった。また小アジア半島における[[異端]]の[[パウロ派]]の勢力拡大にも、効果的な対策を行うことができなかった。なお[[860年]]には[[黒海]]の北岸からルーシ（のちの[[キエフ・ルーシ]]）が[[コンスタンティノープル|コンスタンティノポリス]]に来襲している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼の代にはコンスタンティノポリスにおける建築活動が盛んになった。[[アヤソフィア|聖ソフィア大聖堂]]ドームに現存する聖母子の[[モザイク]]はミカエル3世時代に作成された可能性が高い。867年には宮殿内にファロス教会も建設される。これらはいわゆる[[マケドニア朝ルネサンス]]につながる文化的潮流となった。一方[[キュリロス (スラヴの（亜）使徒)|キュリロス]]と[[メトディオス (スラヴの（亜）使徒)|メトディオス]]を[[モラヴィア]]に派遣するなど、[[スラヴ]]の[[キリスト教]]化を推進したため、教会の主導権を争っていたローマの[[カトリック教会]]との関係が険悪になり、さらには「[[フィリオクェ問題]]」や在俗の官僚であった[[フォティオス]]の総主教任命をめぐってローマ教会と対立。867年にはミカエル主宰の教会会議がローマ教会の「フィリオクエ」に関する教義を異端として退ける「フォティオスの分離」が起こった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
晩年は、アルメニア系の側近バシレイオスを重用するようになった。そしてバシレイオスは、ミカエル3世のもとで第2の実力者であったバルダスを[[866年]]4月に暗殺し、ミカエル3世もこれを黙認した。こうしてミカエル3世の有力重臣となったバシレイオスは、その1ヵ月後には共同皇帝として即位。だが翌年、ミカエル3世は対立したバシレイオスによって[[暗殺]]されてしまった。バシレイオスは皇帝[[バシレイオス1世]]として即位し（[[マケドニア王朝 (東ローマ)|マケドニア王朝]]初代皇帝）、ここにアモリア王朝は断絶したのである。ただし[[865年]]にバシレイオスと結婚したエウドキア・インゲリナは、ミカエル3世が暗殺されるまでミカエルの愛人でもあったため、866年に生まれた、後の[[レオーン6世]]はミカエル3世の息子である可能性を否定できない。これが事実だとすれば公式上、バシレイオス1世の子孫となっているレオーン6世をはじめとするマケドニア王朝の幾人かの皇帝達は実はミカエル3世の子孫であり、アモリア王朝は[[1057年]]まで存続したことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後のマケドニア王朝時代になると、バシレイオス1世の帝位簒奪を正当化するために、ミカエル3世は暗愚な皇帝であったという逸話が作られた。例えば、小アジア半島に整備されていた[[狼煙|烽火]]による通信網を「競馬場で[[戦車競走]]を行うのに集中できない」という理由で使えなくしてしまった、という話などが伝えられており、“メテュソス”という不名誉なあだ名もマケドニア王朝時代以降につけられたものである。だが[[ゲオルク・オストロゴルスキー|オストロゴルスキー]]は「後世で不当に貶められているが、かといって彼を反動で偉大な皇帝と見てもいけない。この時代の真の支配者は彼の叔父のバルダスだった」としている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{commons|Category:Mikhael III}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{東ローマ皇帝}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:みかえる3}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:東ローマ皇帝]]&lt;br /&gt;
[[Category:アモリア家]]&lt;br /&gt;
[[Category:幼君]]&lt;br /&gt;
[[Category:暗殺された人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:840年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:867年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>61.7.3.99</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E8%A1%8C&amp;diff=71660</id>
		<title>北条時行</title>
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		<updated>2014-06-09T02:52:06Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;61.7.3.99: /* 子孫 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{基礎情報 武士&lt;br /&gt;
| 氏名 = 北条時行&lt;br /&gt;
| 時代 = [[鎌倉時代]]末期 - [[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]&lt;br /&gt;
| 生誕 = 不詳&lt;br /&gt;
| 死没 = [[正平 (日本)|正平]]8年/[[文和]]2年[[5月20日 (旧暦)|5月20日]]（[[1353年]][[6月21日]]）&lt;br /&gt;
| 改名 = 亀寿丸&amp;lt;ref&amp;gt;『[[太平記]]』・正宗寺本『北条系図』&amp;lt;/ref&amp;gt;・長寿丸&amp;lt;ref&amp;gt;『[[梅松論]]』『[[桓武平氏]]系図』&amp;lt;/ref&amp;gt;・勝長寿丸&amp;lt;ref&amp;gt;『[[保暦間記]]』（幼名）&amp;lt;/ref&amp;gt;→時行&lt;br /&gt;
| 別名 = 相模二郎&lt;br /&gt;
| 官位 =&lt;br /&gt;
| 氏族 = [[北条氏]]、[[得宗]]&lt;br /&gt;
| 父母 = 父：[[北条高時]]、母：二位局&lt;br /&gt;
| 兄弟 = [[北条邦時|邦時]]、&#039;&#039;&#039;時行&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| 妻   =&lt;br /&gt;
| 子   = [[豊島輝時]]?、[[北条行氏|行氏]]?、[[北条時満|時満]]?、[[北条惟時|惟時]]?&lt;br /&gt;
| 特記事項 =&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;北条 時行&#039;&#039;&#039;（ほうじょう ときゆき）は、[[鎌倉時代]]末期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[武将]]である。[[鎌倉幕府]]第14代[[執権]][[北条高時]]の次男。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
兄の[[北条邦時|邦時]]が[[正中 (日本)|正中]]2年（[[1325年]]）の生まれであるため、それ以後の誕生と考えられている。 [[後醍醐天皇]]が討幕運動を起こすと、幕府御家人であった[[足利尊氏|足利高氏]]や[[新田義貞]]らが宮方に属し、鎌倉は新田義貞に攻められて高時ら北条氏は滅亡する。この際に時行は得宗被官[[諏訪盛高]]に連れられ、叔父の[[北条泰家|泰家]]と共に鎌倉を脱出、泰家は奥州に遁れている。幕府滅亡後に後醍醐天皇による[[建武の新政]]が開始されると、時行は北条氏が代々世襲する守護国の一つであった[[信濃国|信濃]]に移り、[[諏訪氏]]などに迎えられた。北条一族の残党は各地に潜伏して蜂起し、泰家は京都で[[西園寺公宗]]らとともに各地の北条残党と連絡を取り新政の転覆と鎌倉幕府再興を図るが失敗する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[建武 (日本)|建武]]2年（[[1335年]]）[[7月 (旧暦)|7月]]、10歳前後（7歳とも）であったと考えられている時行は信濃の[[諏訪頼重 (南北朝時代)|諏訪頼重]]、[[諏訪時継]]や[[滋野氏]]に擁立されて挙兵し、足利方の信濃守護[[小笠原貞宗]]と戦って撃破し、道中建武政権に不満を持つ武士を糾合しながら[[武蔵国]]へ入り鎌倉に向けて進軍した。[[7月22日]]には女影原（[[埼玉県]][[日高市]]）で待ち構えていた[[渋川義季]]と[[岩松経家]]らの軍を破り、さらに小手指原（埼玉県[[所沢市]]）で[[今川範満]]を、武蔵府中で[[下野国]]守護[[小山秀朝]]を破って、ついに尊氏の弟である鎌倉将軍府執権[[足利直義]]を町田村（現在の[[町田市]]）の[[菅原神社 (町田市)|井出の沢]]の合戦で破り[[鎌倉]]を奪回した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時行軍は逃げる直義を[[駿河国]]手越河原で撃破するが、京から直義救援に駆けつけた[[足利尊氏]]に、[[遠江国]]橋本、[[小夜の中山]]、箱根、[[相模国]]相模川、片瀬川などの戦いで連破され、時行の軍は壊滅し時行は逃亡した。時行が鎌倉を占領していたのはわずか20日間であるが、先代（[[北条氏]]）と後代（[[足利氏]]）の間に立った鎌倉の一時的支配者となったことから、この乱は[[中先代の乱]]と呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
尊氏は中先代の乱を契機に新政から離反し、宮方を破り京都に武家政権を設立する。[[後醍醐天皇]]は吉野で[[南朝 (日本)|南朝]]を開いて[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]となり、[[延元]]2年（[[1337年]]）時行は吉野の後醍醐天皇と接触し、[[朝敵]]恩赦の[[綸旨]]を受けて南朝方に属する。時行は[[北畠顕家]]の軍に属し、顕家の2度目の西上の時に[[青野原の戦い]]などで足利方と戦う。[[観応の擾乱]]の直後の正平7年/[[文和]]元年（[[1352年]]）に、新田義貞の遺児[[新田義宗|義宗]]・[[新田義興|義興]]と共に[[上野国]]で挙兵するが、[[武蔵国]]で尊氏とその子[[足利基氏|基氏]]に敗れて捕らえられ、翌年5月20日に鎌倉[[龍ノ口]]で処刑された。時行の死により北条[[得宗]]家は滅亡する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 子孫 ==&lt;br /&gt;
[[岡野氏]]、[[横井氏]]（子孫には[[横井小楠]]）や[[平野氏]]（尾張平野氏、子孫に[[平野長泰]]）など時行の子孫を称する家系もある。なお、近年[[黒田基樹]]は[[後北条氏]]第2代に数えられる[[北条氏綱]]の正室であった[[養珠院殿]]が後北条氏家臣で執権北条氏の末裔を名乗っていた横井氏出身の可能性を指摘している&amp;lt;ref&amp;gt;黒田基樹「伊勢宗瑞論」（黒田 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第一〇巻 伊勢宗瑞』（戒光祥出版、2013年）ISBN 978-4-86403-071-7）pp.16-17&amp;lt;/ref&amp;gt;。ゆえに、あくまで可能性だが養珠院殿の子孫（子の[[北条氏康]]など）は時行の子孫であると考えることもできる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*「北条時行」「中先代の乱」（[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]）&lt;br /&gt;
*鎌倉・室町人名事典（新人物往来社）&lt;br /&gt;
*北条氏研究会「北条氏系譜人名辞典」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ほうしよう ときゆき}}&lt;br /&gt;
[[Category:北条氏|ときゆき]]&lt;br /&gt;
[[Category:室町・安土桃山時代の武士]]&lt;br /&gt;
[[Category:刑死した人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1320年代生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1353年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>61.7.3.99</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%82%B9&amp;diff=85891</id>
		<title>クラウディウス・ゴティクス</title>
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		<updated>2014-05-18T20:45:35Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;61.7.3.99: /* コンスタンティウス1世とその子孫達との関係 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[ファイル:Santa Giulia 4.jpg|200px|thumb|クラウディウス・ゴティクスの頭像]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:104 Claudius II Gothicus.jpg|200px|thumb|right|クラウディウス・ゴティクスを印した硬貨]]&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;マルクス・アウレリウス・クラウディウス・ゴティクス&#039;&#039;&#039;（&#039;&#039;&#039;{{lang-la|Marcus Aurelius Claudius Gothicus}}&#039;&#039;&#039;、[[213年]]/[[214年]][[5月10日]] - [[270年]]1月）は、[[ローマ帝国]]の皇帝（在位：[[268年]] - [[270年]]）。&#039;&#039;&#039;クラウディウス2世&#039;&#039;&#039;とも。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[軍人皇帝]]の一人。ローマ市民には人気を博し、神として祀られた。その統治は比較的堅実であり、たびたび北方民族の襲来を破った。弟に[[クィンティッルス]]がいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
[[213年]]或いは[[214年]][[5月10日]]に生まれた。その素性は不詳であり、[[パンノニア]]出身とも[[ダルマチア]]出身とも伝えられる。皇帝[[ガッリエヌス]]を弑逆して帝位を簒奪した。268年に帝位についてほどなく（あるいはその前、史料により異なる）、パンノニアに侵入したゴート族を自ら出陣して破った（[[ナイススの戦い]]）。このときに後に皇帝となる[[ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス]]も将軍として従軍した。これによってゴート族を[[ドナウ川]]より後退させた。そのため、ゴート族を征した者という意味の「ゴティクス」の添名を得た。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こののち数ヵ月後、同年に[[アルプス山脈]]を越えて[[ゲルマン人]]の一氏族[[アラマンニ族]]が来寇すると、ただちに軍を向けてこれを破った。また、[[ガリア]]や[[ヒスパニア]]に割拠していた[[ガリア帝国]]の攻略に取り組むも、皇帝[[マルクス・ピアウォニウス・ウィクトリヌス]]の奮戦に遭った。[[ガリア帝国]]が最終的に滅ぼされたのはアウレリアヌスの治世下であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
269年に[[ヴァンダル族]]がパンノニアに来寇するとこれに兵を向けたが、陣中で疫病にかかり、270年1月に没した。クラウディウスの後継に弟[[クィンティッルス]]が即位したが、アウレリアヌスに打倒された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
クラウディウスはまた、キリスト教殉教者[[ウァレンティヌス]]（聖ヴァレンタイン）を[[269年]][[2月14日]]に処刑した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== コンスタンティウス1世とその子孫達との関係 ==&lt;br /&gt;
『[[ローマ皇帝群像]]』によれば、[[テトラルキア]]時代のローマ皇帝の一人で[[コンスタンティヌス1世]]の父である[[コンスタンティウス1世]]は、{{仮リンク|ダルダニア (ヨーロッパ)|en|Dardania (Europe)|label=ダルダニア}}から来た貴族エウトロピウスとクラウディウスとクィンティッルスの姪クラウディアとの間に生まれた息子である。つまり、コンスタンティウス1世はクラウディウスとクィンティッルスの大甥にあたることになり、コンスタンティウス1世の子孫達はクラウディウスやクィンティッルスと血縁関係を持つことになる。しかし、この系譜はコンスタンティウス1世の孫にあたる[[コンスタンティヌス2世]]による捏造で、地位が高い2人の末裔に見せかけたかったのだろうと多くの歴史家は考えており、コンスタンティウス1世とクラウディウスやクィンティッルスとの間に血縁関係は存在しないとの見方が有力である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
{{commonscat|Claudius II}}&lt;br /&gt;
*クリス・スカー『ローマ皇帝歴代誌』（[[青柳正規]]監修、月村澄枝訳、[[創元社]]、1998年、300頁）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{ローマ皇帝}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:くらうていうす こていくす}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:ローマ皇帝]]&lt;br /&gt;
[[Category:3世紀の古代ローマ人]]&lt;br /&gt;
[[Category:214年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:270年没]]&lt;br /&gt;
{{Link GA|ru}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>61.7.3.99</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%82%B3%E3%82%B94%E4%B8%96%E3%82%A8%E3%83%94%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%8D%E3%82%B9&amp;diff=130705</id>
		<title>アンティオコス4世エピファネス</title>
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		<updated>2014-04-19T05:48:31Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;61.7.3.99: /* 生涯 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[ファイル:AntiochusIVEpiphanes.jpg|thumb|350px|アンティオコス4世エピファネスの肖像のコイン]]&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;アンティオコス4世エピファネス&#039;&#039;&#039;（{{lang|el|&#039;&#039;&#039;Αντίοχος Δ&#039; Επιφανής&#039;&#039;&#039;}}、[[紀元前215年]]? - [[紀元前163年]]）は、[[紀元前2世紀]]の[[セレウコス朝|セレウコス朝シリア]]の王（在位：[[紀元前175年]] - [[紀元前163年]]）。[[プトレマイオス朝]]を圧倒したことで[[ユダヤ]]を支配下に治めたが、やがて[[マカバイ戦争]]を引き起こすことになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
[[アンティオコス3世]]の子として[[セレウコス4世|セレウコス4世フィロパトル]]の弟として生まれたアンティオコス4世はもともとミトラダテスという名前であったが、即位後（あるいは兄アンティオコスの死後）アンティオコス4世という名前を持ったようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アンティオコス4世はセレウコス4世の死後権力の座についた。彼は[[紀元前188年]]にシリアと[[共和制ローマ]]の間で結ばれたアパメア和約を受けて、[[ローマ]]への人質となり、同地で暮らしたが、セレウコス4世の正統な後継者である嫡子（後の[[デメトリオス1世ソテル]]）と交換されてシリアへ戻った。アンティオコスはこの機会を逃さず、まだ幼いセレウコス4世の継承者アンティオコス王子の摂政の座につき、数年してアンティオコス王子を葬ることに成功した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アンティオコス4世の時代の事跡で特筆すべきことは[[プトレマイオス朝]]との戦いに勝利を収めたことである。この勝利により、アンティオコス4世はエジプト征服の寸前までいったが、中東の軍事バランスが崩れることを危惧したローマ軍の介入と、ユダヤでおきた反乱（[[マカバイ戦争]]）のため、断念せざるを得なかった。アンティオコスはユダヤに対して圧政を持って臨み、[[エルサレム]]を破壊し、多くの敵対者を処刑した。これに対してユダヤ人たちは[[ユダ・マカバイ]]の一族であるハスモン家をリーダーとして立ち上がり、アンティオコスの派遣した軍を撃破するなど各地で奮闘した。アンティオコスは怒りにかられて自らユダヤ侵攻軍を率いたが、道半ばにして急死した。[[紀元前163年]]のことであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アンティオコス4世は勃興しつつあった[[パルティア王国]]への派兵も繰り返しており、作戦の当初においてパルティア軍を打倒したが、これも王の急死によって断念された。アンティオコス4世の継承者となったのはまだ幼かった[[アンティオコス5世|アンティオコス5世エウパトル]]であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時代はセレウコス朝が勢いを見せた最後の時代となった。彼の死後、幼い王子が残されたため、セレウコス朝は混乱し、以後、衰退の一途をたどることになり、約100年後、[[ローマ]]によって、滅ぼされることとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==参考文献==&lt;br /&gt;
*[[グナイウス・ポンペイウス・トログス]]／ユスティヌス『地中海世界史』(2004年、合阪學・訳、西洋古典叢書：[[京都大学学術出版会]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[古代イスラエル]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{先代次代|[[セレウコス朝|セレウコス朝君主]]|紀元前175年 - 紀元前163年|[[セレウコス4世|セレウコス4世フィロパトル]]|[[アンティオコス5世|アンティオコス5世エウパトル]]}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:あんていおこす04}}&lt;br /&gt;
[[Category:セレウコス朝の君主]]&lt;br /&gt;
[[Category:紀元前210年代生]]&lt;br /&gt;
[[Category:紀元前163年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>61.7.3.99</name></author>
	</entry>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E5%AD%90%E5%AC%B0&amp;diff=34976</id>
		<title>子嬰</title>
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		<updated>2014-03-16T01:13:54Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;61.7.3.99: /* その他 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{基礎情報 中国君主&lt;br /&gt;
|名=子嬰 嬴子嬰&lt;br /&gt;
|代数=第3&lt;br /&gt;
|呼称=&lt;br /&gt;
|画像=&lt;br /&gt;
|説明=&lt;br /&gt;
|王朝=秦 &lt;br /&gt;
|在位期間=[[紀元前207年|前207年]] &lt;br /&gt;
|都城=咸陽&lt;br /&gt;
|諱=嬴子嬰&lt;br /&gt;
|諡号=&lt;br /&gt;
|廟号=&lt;br /&gt;
|生年=不詳&lt;br /&gt;
|没年=[[紀元前206年|前206年]]&lt;br /&gt;
|父=不詳（諸説あり）&lt;br /&gt;
|母=&lt;br /&gt;
|皇后=&lt;br /&gt;
|陵墓=&lt;br /&gt;
|年号=&lt;br /&gt;
|注釈=&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;子嬰&#039;&#039;&#039;（しえい）は、[[中国]][[秦]]の最後の王。史料では&#039;&#039;&#039;秦王子嬰&#039;&#039;&#039;とも呼称される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
『[[史記]]』「秦始皇本紀」には二世皇帝[[胡亥]]の兄の子とある&amp;lt;REF&amp;gt;『史記』「李斯列伝」は始皇帝の弟としており、また[[中井履軒]]は「兄の子」の子は誤って紛れ込んだもので子嬰は胡亥の兄であるとしている。&amp;lt;/REF&amp;gt;が、定かではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
二世皇帝が[[蒙恬]]を処刑しようとすると、子嬰はかつて[[李牧]]が[[趙 (戦国)|趙]]王・[[幽繆王]]に処刑されて趙が後に滅んだ故事などを例に出して反対したが、聞き入れられなかった。秦に対する反乱が全土に広がり、対処不可能になりつつある状態の中、[[丞相]]・[[趙高]]のクーデターにより、二世皇帝が自殺させられると、趙高により人望が厚い子嬰が擁立されることになったが、既に秦には天下の主としての実質が無いので皇帝ではなく秦王とすることにした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この直前に趙高が[[咸陽市|咸陽]]の近郊まで侵攻していた[[劉邦]]に内応し、子嬰の首を持参して[[関中]]の王になろうとしているとの噂が広まり、危険を感じた子嬰は趙高とその一族の粛清を決定、即位式当日に急病と称して欠席し、度重なる使者の説得を拒否。これに業を煮やした趙高が自ら寝所まで説得に出向いて来た際、側に伏していた息子や腹心の部下によりこれを討った。続いてその一族も粛清した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし劉邦の率いる反乱軍は咸陽の目前に迫り秦朝滅亡が逃れられないと悟った子嬰は、白い馬、白い馬車、白装束という葬式される死人の装飾を身にまとい、更に首に縄を掛けた上で[[玉璽]]を持参して劉邦に降伏。その一族ともども身の安全を保証された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、劉邦に続いて[[項籍|項羽]]が咸陽に入ると、かつて[[始皇帝]]が諸国を滅ぼした罪等を持ち出され、一族ともども処刑された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 扶蘇との関係 ==&lt;br /&gt;
*多くの[[小説]]などでは子嬰は[[公子]][[扶蘇]]の子であるといわれることがあるが、『史記』等の史書に裏付けがある話ではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{秦の君主|前207年||王}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しえい}}&lt;br /&gt;
[[Category:秦の皇帝]]&amp;lt;!--「秦朝」の君主ということで便宜上こちらに区分--&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[Category:紀元前3世紀生]]&lt;br /&gt;
[[Category:紀元前206年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>61.7.3.99</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B3%E3%83%94%E3%82%A6%E3%82%B9&amp;diff=226120</id>
		<title>プロコピウス</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B3%E3%83%94%E3%82%A6%E3%82%B9&amp;diff=226120"/>
		<updated>2013-10-17T13:03:51Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;61.7.3.99: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Otheruses||6世紀東ローマ帝国の歴史家|プロコピオス}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;プロコピウス&#039;&#039;&#039;（Procopius, [[326年]] - [[366年]][[5月27日]]）は、4世紀の[[ローマ帝国]]における東方の帝位[[簒奪]]者（在位：[[365年]] - [[366年]]）。[[ユリアヌス]]帝の親類（ユリアヌス帝と同じく、[[コンスタンティヌス1世]]の甥）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 略歴 ==&lt;br /&gt;
ユリアヌス帝の死後、東方で反乱を起こして[[コンスタンティノポリス]]を包囲した。しかし、部下の[[ゲルマン人]]将軍の裏切りにあって反乱は失敗、その後捕らえられ、処刑された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 後裔 ==&lt;br /&gt;
[[422年]]から[[424年]]に東方軍区長官（magister militum per Orientem）を務めたプロコピウス、その息子で[[西ローマ帝国]][[皇帝]]となった[[アンテミウス|プロコピオス・アンテミウス]]は後裔（アンテミウスは[[ホノリウス]]から数えて、9人目の西ローマ皇帝）。当然ながら、アンテミウスの4男1女の子供達（アリピア、アンテミオルゥス、マルキアン、プロコピオス・アンテミウス、ロムルス）も後裔である。アリピアは後に西ローマ帝国の影の実力者[[リキメル]]と結婚した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ふろこふいうす}}&lt;br /&gt;
[[Category:4世紀の古代ローマ人]]&lt;br /&gt;
[[Category:366年没]]&lt;br /&gt;
{{History-stub}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>61.7.3.99</name></author>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E8%BF%91%E8%97%A4%E3%81%9F%E3%81%BE&amp;diff=201416</id>
		<title>近藤たま</title>
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		<updated>2013-09-25T20:54:35Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;61.7.3.99: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;近藤たま&#039;&#039;&#039;（&#039;&#039;&#039;こんどう たま&#039;&#039;&#039;、[[文久]]2年[[2月15日 (旧暦)|2月15日]]（[[1862年]][[3月15日]]） - 明治19年（[[1886年]]）[[6月28日]]）は、[[明治時代]]の一般女性。[[新選組]]局長[[近藤勇]]の一人娘。母は[[松井つね]]。名は主に&#039;&#039;&#039;瓊&#039;&#039;&#039;と表記。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文久3年（[[1863年]]）、2歳の頃、父・勇が[[浪士組]]として京都へ出立し、後に新選組を結成。勇は[[池田屋事件]]などで名を轟かせたが、[[戊辰戦争]]が勃発したため新政府軍により斬首に処せられた。たまは当時6歳。許嫁の宮川勇五郎（後、[[近藤勇五郎]]）、母・つねと共に本郷村[[成願寺]]に隠れ住んでいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
維新後は、伯父（勇の兄）・[[宮川音五郎]]に引き取られ、明治9年（[[1876年]]）に許嫁の宮川勇五郎と結婚。勇五郎は近藤姓を継ぎ[[近藤勇五郎]]となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治16年（[[1883年]]）にたまにとっての唯一の実子、長男・[[近藤久太郎|久太郎]]を出産。その3年後、母に先立って他界。享年25。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 死後 ==&lt;br /&gt;
その後、勇五郎は再婚する。明治38年（[[1905年]]）に久太郎が[[日露戦争]]で死亡したため、近藤勇の直系は途絶えてしまった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:1862年生|こんとう たま]]&lt;br /&gt;
[[Category:1886年没|こんとう たま]]&lt;br /&gt;
[[Category:明治時代の人物|こんとう たま]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>61.7.3.99</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E4%B8%80%E5%B9%A1&amp;diff=112472</id>
		<title>一幡</title>
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		<updated>2013-07-19T22:55:52Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;61.7.3.99: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;一幡&#039;&#039;&#039;（いちまん、[[建久]]9年（[[1198年]]） - [[建仁]]3年[[9月2日 (旧暦)|9月2日]]（[[1203年]][[10月8日]]））は、[[鎌倉幕府]]第2代[[征夷大将軍]]、[[源頼家]]の[[嫡男]]。母は[[比企能員]]の娘[[若狭局]]。[[公暁]]、[[栄実]]、[[禅暁]]は異母弟、[[竹御所]]は同母妹と考えられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 略歴 ==&lt;br /&gt;
初代将軍[[源頼朝]]の嫡男頼家の長男として誕生。初孫誕生の翌年、頼朝が死去し頼家が家督を相続した。一幡が6歳となった[[建仁]]3年（[[1203年]]）7月に父頼家が重病となり、危篤状態に陥ると家督相続を巡って一幡の母の実家[[比企氏]]と、頼家の母方の外戚[[北条氏]]の対立[[比企能員の変]]が起こる。『[[愚管抄]]』によると、重病に陥った頼家は家督をすべて一幡に譲ろうとしたが、それでは一幡の外祖父[[比企能員]]の全盛となる事を恐れた[[北条時政]]が、能員を呼び出して謀殺し、頼家の弟で一幡の叔父である[[源実朝|千幡]]を次期将軍に立てるべく都へ使者を送り、その間に比企一族は北条氏一派の率いる大軍に攻められて滅亡した。一幡は母が抱いて逃げ延びたが、11月に[[北条義時]]の郎党に捕らえられて刺し殺されたという。頼家の子女の中で最初の死亡者である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鎌倉幕府北条氏編纂書である『[[吾妻鏡]]』では、家督相続は一幡に関東28ヶ国の[[守護]]・[[地頭]]職を譲り、時政が後ろ盾となっている千幡に関西38ヶ国の守護・地頭職が譲るとする決定に比企能員が反発し、頼家に讒言して時政と実朝の討伐を計った。時政が先手を打って能員を殺害し、一幡の住む小御所を襲撃して比企一族を滅ぼしたとしている。一幡と若狭局も、その時に一族と共に焼死したという。事件が起こった年の『吾妻鏡』正月2日条には、一幡が[[鶴岡八幡宮]]に参拝した際、巫女が神懸かり「今年中に関東に大事が起ころう。若君（一幡）が家督を継ぐ事はない。崖上の樹の根はすでに枯れている。人々はそれを知らずして梢の緑を頼みとしているのだ」と叫んだ、と一幡の死を暗示的に書いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在、能員邸のあった場所には[[妙本寺]]が建ち、その中に比企一族の墓、一幡の振袖塚、若狭局の蛇苦止堂がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[比企能員の変]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:みなもと の いちまん}} &lt;br /&gt;
[[Category:河内源氏|いちまん]]&lt;br /&gt;
[[Category:1198年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1203年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>61.7.3.99</name></author>
	</entry>
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		<title>公暁</title>
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		<updated>2013-07-19T22:53:27Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;61.7.3.99: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;公暁&#039;&#039;&#039;（くぎょう、こうきょう、[[正治]]2年（[[1200年]]） - [[建保]]7年[[1月27日 (旧暦)|1月27日]]（[[1219年]][[2月13日]]））は、[[鎌倉時代]]前期の僧侶。[[鎌倉幕府]]2代[[征夷大将軍|将軍]][[源頼家]]の次男。母は[[足助重長]]女（[[源為朝]]の孫娘）。[[一幡]]とは異母兄と異母弟の関係、[[栄実]]、[[禅暁]]は異母弟、[[竹御所]]は異母妹にあたる。[[幼名]]は&#039;&#039;&#039;善哉&#039;&#039;&#039;（ぜんざい）。第3代将軍[[源実朝]]を「父の仇」として暗殺したが、自身も直後に討ち取られた（なお、公暁は実朝の[[猶子]]であったため、義理の父親を殺害したことになる）。なお、最新の研究では、「くぎょう」ではなく、「こうきょう」と発音されていた可能性が高いことが指摘されている&amp;lt;ref&amp;gt;舘隆志「公暁の法名について」（『印度学佛教学研究』61－1、2012年）では、公顕―公胤―公暁の系統で、公顕と公胤が鎌倉期の史料において、それぞれ「コウケン」「コウイン」と漢音で発音されており、実際に江戸期以前の史料において公暁を「コウキョウ」と発音していることから、「クギョウ」ではなく、「コウキョウ」と漢音で発音されていた可能性が高いと指摘している。 &amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 出家 ===&lt;br /&gt;
父である将軍頼家は[[建仁]]3年（[[1203年]]）9月の[[比企能員の変]]によって[[鎌倉]]を追放され、翌年善哉が5歳の時に[[北条氏]]の刺客によって暗殺された。[[建永]]元年（[[1206年]]）6月16日、7歳になった善哉は若宮の別当坊より祖母である尼御台[[北条政子]]の邸に渡り、[[着袴]]の儀式を行う。10月22日、[[乳母]]夫である[[三浦義村]]に付き添われ、政子の計らいによって[[叔父]]の3代将軍[[源実朝]]の[[猶子]]となった。[[建暦]]元年（[[1211年]]）9月15日に12歳で[[鶴岡八幡宮]]寺[[別当]][[定暁]]の下で[[出家]]し&#039;&#039;&#039;公暁&#039;&#039;&#039;の[[戒名|法名]]を受け、翌日には[[受戒]]のため上洛する。[[園城寺]]において[[公胤]]の門弟として入室し、叔父[[貞暁]]の受法の弟子となる。[[建保]]5年（[[1217年]]）6月20日、18歳で鎌倉に戻り、政子の意向により[[鶴岡八幡宮]]寺別当に就任した。同年10月11日からは実朝の命により裏山で千日参篭をおこなう。翌年建保6年（[[1218年]]）12月5日、公暁が鶴岡に参籠して退出しないままいくつかの祈誓を行っているが、一向に髪を下ろす事もしないので人はこれを怪しんだという。また伊勢太神宮や諸社に奉幣する使節を送った事が将軍御所で披露されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 実朝暗殺 ===&lt;br /&gt;
年が明けた建保7年（[[1219年]]）1月27日、雪が2[[尺]]（約60cm）ほど降りしきるなか、実朝が[[右大臣]]拝賀のため[[鶴岡八幡宮]]に参詣する。夜になって参拝を終えて石段を下り、[[公卿]]が立ち並ぶ前に差し掛かったところを、頭布を被った公暁が襲いかかり、[[下襲]]の衣を踏みつけて実朝が転倒した所を「&#039;&#039;&#039;親の敵はかく討つぞ&#039;&#039;&#039;」と叫んで頭を斬りつけ、その首を打ち落とした。同時に3,4人の仲間の法師が供の者たちを追い散らし、[[源仲章]]を[[北条義時]]と間違えて切り伏せたのち、八幡宮の石段の上から「我こそは八幡宮別当阿闍梨公暁なるぞ。父の敵を討ち取ったり」と大音声を上げ、逃げ惑う公卿らと境内に突入してきた武士達を尻目に姿を消した。儀式の際、数千の兵はすべて鳥居の外に控えており、その場に武装した者はいなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
公暁は実朝の首を持って雪の下北谷の後見者・備中阿闍梨宅に戻り、食事の間も実朝の首を離さず、乳母夫の三浦義村に使いを出し、「今こそ我は東国の大将軍である。その準備をせよ」と言い送った。義村は「迎えの使者を送ります」と偽り、北条義時にこの事を告げた。義時は躊躇なく公暁を誅殺すべく評議をし、義村は勇猛な公暁を討つべく[[長尾定景]]を差し向けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
公暁は義村の迎えが来ないので、1人雪の中を鶴岡後面の山を登り、義村宅に向かう途中で討手に遭遇する。討ち手を斬り散らしつつ義村宅の板塀までたどり着き、塀を乗り越えようとした所を討ち取られた。享年20。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
定景が公暁の首を北条義時亭に持ち帰り、義時が[[首実検]]をおこなった。なお実朝の首は所在不明。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
公暁の犯行の背後には、[[北条氏]]の[[源家]]討滅&amp;lt;ref&amp;gt;北条義時（北条氏）黒幕説の代表的なものとして[[龍粛]]（『鎌倉時代 下（京都）』春秋社、1957年）・[[安田元久]]（『北条義時』吉川弘文館、1961年）などがあり、義時が体調不調を理由として事件直前に現場を離れたことを根拠とする。ただし、近年義時の離脱と公家である源仲章への役目交替を「将軍暗殺」という不祥事を招いた武家の失態を隠すための『吾妻鏡』の曲筆とする[[平泉隆房]]による疑義（「『吾妻鏡』源実朝暗殺記事について」『皇学館論叢』133号、1990年）も出されている。&amp;lt;/ref&amp;gt;あるいは[[三浦氏]]の北条打倒&amp;lt;ref&amp;gt;三浦義村（三浦氏）黒幕説は、[[永井路子]]が小説『[[炎環]]』（光風社、1964年）で義村黒幕説を描いて以来注目され、[[石井進 (歴史学者)|石井進]]がその可能性を認めた（『日本の歴史7 鎌倉幕府』中央公論社、1965年）ことで急浮上した。他に[[大山喬平]]（『日本の歴史9 鎌倉幕府』小学館、1974年）・[[上横手雅敬]]（「承久の乱」安田元久 編『古文書の語る日本史3 鎌倉』筑摩書房、1990年）などがいる。&amp;lt;/ref&amp;gt;もしくは[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]による幕府転覆の策謀&amp;lt;ref&amp;gt;後鳥羽上皇黒幕説は近年、[[谷昇]]（「承久の乱に至る後鳥羽上皇の政治課題 -承久年中「修法群」の意味-」『立命館文学』588号、2005年）が提唱し、実朝暗殺と前後する1月22日から28日にかけて上皇が国家安泰とともに政敵の調伏を祈願する[[五壇法]]が実施され、実朝暗殺の報が届いた直後の2月6日に五壇法が再度行われた他、同日に他に4つ、10日も2つの修法が行われていることを指摘して、後鳥羽上皇が京都で育った公暁を利用した実朝暗殺に加担し、自らは京都にて暗殺事件を機に幕府が崩壊することもしくは宮将軍の擁立による幕府掌握を祈願していたと主張している。&amp;lt;/ref&amp;gt;が存在したのではないか、と後世の研究家に推測されている&amp;lt;ref&amp;gt;一連の黒幕論に関しては谷昇『後鳥羽院政の展開と儀礼』思文閣出版、2010年、P179を参照。&amp;lt;/ref&amp;gt;が確証はない。またそれらの背後関係よりも、公暁個人が野心家で実朝の跡目としての将軍就任を狙ったところに、この事件の最も大きな要因を求める見解もある&amp;lt;ref&amp;gt;近年、公暁単独犯行説を取っているのは、[[山本幸司]]（『日本の歴史9 頼朝の天下草創』講談社、2001年）・[[五味文彦]]（「京・鎌倉の王権」五味文彦 編『日本の時代史8 京・鎌倉の王権』吉川弘文館、2003年）・[[永井晋]]（『鎌倉源氏三代記』吉川弘文館、2010年）など。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
[[画像:Large ginkgo in Tsurugaoka-hachimangu Shrine.jpg|200px|thumb|「公暁の隠れいちょう」の伝承のある鶴岡八幡宮のイチョウ（倒壊前）]]&lt;br /&gt;
なお、公暁の[[墓]]は現存せず、墓所についての史料も存在しない。かつて鶴岡八幡宮には「[[鶴岡八幡宮#大銀杏|公暁の隠れいちょう]]」と呼ばれる[[イチョウ]]の大木が立っており、公暁がこの樹の陰に潜んで実朝を襲ったという[[伝説]]と共に親しまれていたが、この伝説が知られるようになったのは[[江戸時代]]になってからの事であり、当時の史料にはない話である。このイチョウは[[2010年]][[3月10日]]の強風によって倒壊した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生存の噂 ==&lt;br /&gt;
公暁は生きて逃亡したとの噂が[[承久]]3年（[[1221年]]）ころにあった。また、[[嘉禄]]3年（[[1227年]]）に[[結城朝広]]、浅利太郎が「若宮禅師」を公暁と誤認して謀反を企てたため[[白河関]]袋辻で切ったと[[鎌倉]]に報告している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* [[石井進 (歴史学者)|石井進]] 『日本の歴史 7 鎌倉幕府』　[[中公文庫]]、1974年刊行。&lt;br /&gt;
* [[奥富敬之]]　『吾妻鏡の謎』　[[吉川弘文館]]　2009年刊行。&lt;br /&gt;
* [[山本幸司]]　『頼朝の天下草創』　[[講談社学術文庫]]　2001年刊行。&lt;br /&gt;
* [[谷昇]]　『後鳥羽院政の展開と儀礼』　[[思文閣出版]]　2010年刊行。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[吾妻鏡]]&lt;br /&gt;
*[[愚管抄]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www.tamagawa.ac.jp/SISETU/kyouken/kamakura/sanetomo/ 実朝さんの二つの供養塔が語るもの]&lt;br /&gt;
*[http://www.pianoforte.co.jp/hadanosannsaku-4.htm 実朝首塚と金剛寺]&lt;br /&gt;
*[http://www.ne.jp/asahi/kawaraban/sousyuu/page081.html 金剛地の由緒]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:くきよう}}&lt;br /&gt;
[[Category:鎌倉時代の僧]]&lt;br /&gt;
[[Category:河内源氏]]&lt;br /&gt;
[[Category:1200年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1219年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:暗殺者]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>61.7.3.99</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E7%BE%A9%E5%B8%9D&amp;diff=46047</id>
		<title>義帝</title>
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		<updated>2013-07-17T14:03:07Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;61.7.3.99: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;義帝&#039;&#039;&#039;（ぎてい、生年不詳 – [[紀元前206年]]）は、[[秦]]末の反秦勢力の名目上の盟主。[[西楚]]の君主。秦滅亡後の一時的な中国の傀儡[[皇帝]]。[[姓]]は&#039;&#039;&#039;羋&#039;&#039;&#039;（び）。名は&#039;&#039;&#039;心&#039;&#039;&#039;（しん）。楚の[[懐王]]の孫（一説では玄孫とも）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「義」は「かり」の皇帝であることを意味する（他の用例: [[義父]]・[[義手]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==略歴==&lt;br /&gt;
楚の滅亡後は地方に逃れて、羊飼いとして暮らしていた。秦末の動乱期に楚の名家の末裔[[項梁]]に迎えられ、楚王に即位し、祖父（一説では高祖父）の名を受け継ぎ、懐王を名乗る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
定陶で項梁が戦死すると、[[宋義]]や[[劉邦]]を用い、項梁の跡を継いだ[[項羽]]を牽制しながら、反秦勢力の盟主として、いわゆる「懐王之約」&amp;lt;ref&amp;gt;懐王之約とは秦の首都[[咸陽市|咸陽]]に一番乗りを果たした者に秦の本貫の地・関中を与えるというものである。&amp;lt;/ref&amp;gt;を発布して[[彭城]]で戦争指導に当たった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[紀元前207年]]、劉邦が咸陽に一番乗りして、秦王[[子嬰]]を降伏させ、その後に項羽が大軍を率いて咸陽に入ると、懐王は「約を実行せよ」と、諸将に厳命するも、項羽はこれを無視し、一番乗りした劉邦には約束である関中を与えなかったりと自ら独断で諸侯を封建し、自身は「西楚の覇王」を名乗り、懐王には「義帝」の称号を奉じ、彭城を出て僻地に転居することを迫った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
義帝はやむなくこれに従うも、その道中で項羽に派遣された[[英布]]に殺害された。なお、その殺害場所や実行者については諸説が存在し、[[長江]]で英布部下の[[呉ゼイ|呉芮]]と[[共敖]]に殺されたとも記されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後に[[韓信]]が[[劉邦]]によって、楚王に封じられる際の会話から、義帝には子がなかったことがわかっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==死の影響==&lt;br /&gt;
義帝の死により、反秦勢力の実質上の盟主もしくは秦滅亡後の中国の実質上の元首としての項羽の政治上の正統性が失われた。これによって[[楚漢戦争]]で劉邦は[[大逆]]を犯した[[項羽]]を天に代わって討ち果たすという大義 （倫理的な正当性）を得ることとなり、項羽の滅亡ひいては[[漢]]王朝の成立へとつながっていく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==脚注==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{先代次代|[[西楚]]の[[中国帝王一覧|帝]]|第2代|[[景駒王]]|―}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:きてい}}&lt;br /&gt;
[[Category:中国の皇帝]]&lt;br /&gt;
[[Category:秦代の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:楚の君主]]&lt;br /&gt;
[[Category:楚漢戦争の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:暗殺された人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:紀元前206年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>61.7.3.99</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E7%A5%90%E8%A6%AA&amp;diff=136787</id>
		<title>伊東祐親</title>
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		<updated>2013-06-29T11:17:53Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;61.7.3.99: /* 生涯 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{基礎情報 武士&lt;br /&gt;
| 氏名 = 伊東祐親&lt;br /&gt;
| 画像 = Statue of Itō Sukechika.jpg&lt;br /&gt;
| 画像サイズ = 250px&lt;br /&gt;
| 画像説明 = [[静岡県]][[伊東市]]大原物見塚公園の伊東祐親像&lt;br /&gt;
| 時代 = [[平安時代]]末期&lt;br /&gt;
| 生誕 = 不詳&lt;br /&gt;
| 死没 = [[養和]]2年[[2月14日 (旧暦)|2月15日]]（[[1182年]][[3月21日]]）&lt;br /&gt;
| 改名 =&lt;br /&gt;
| 別名 = 次郎、祐近、助親、伊東入道、祐親法師&lt;br /&gt;
| 戒名 =&lt;br /&gt;
| 墓所 = [[静岡県]][[伊東市]]大原&lt;br /&gt;
| 官位 =&lt;br /&gt;
| 主君 = &lt;br /&gt;
| 氏族 = [[藤原南家]]、[[伊東氏]]、[[河津氏]]&lt;br /&gt;
| 父母 = 父：[[伊東祐家]]、養父：&#039;&#039;[[工藤祐隆]]&#039;&#039;（祖父）&lt;br /&gt;
| 兄弟 = &#039;&#039;[[伊東祐継|祐継]]&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;祐親&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| 妻   =&lt;br /&gt;
| 子   = [[河津祐泰]]、[[伊東祐清|祐清]]、[[八重姫 (伊東祐親の娘)|八重姫]]、[[三浦義澄]]室、&amp;lt;br/&amp;gt;[[工藤祐経]]前妻、[[北条時政]]前妻、ほか&lt;br /&gt;
| 特記事項 =&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;伊東 祐親&#039;&#039;&#039;（いとう すけちか）は[[平安時代]]末期の[[伊豆国]]伊東（現・[[静岡県]][[伊東市]]）の[[武将]]・[[豪族]]。[[藤原南家]]の流れを汲む[[伊東祐家]]の子。[[諱]]は&#039;&#039;&#039;祐近&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;助親&#039;&#039;&#039;とも。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 所領争い ===&lt;br /&gt;
伊東荘を領する[[工藤祐隆]]の嫡男であった父・祐家が早世すると、祖父・祐隆（法名寂心）は後妻の連れ子である[[伊東祐継|祐継]]を嫡子として本領の伊東荘を与え、嫡孫の祐親を次男として河津荘を与えた。総領の地位を奪われた事に不満を持つ祐親は、祐継の死後にその子・[[工藤祐経|祐経]]から伊東荘を奪った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを恨んだ祐経は[[安元]]2年（[[1176年]]）10月、祐親の嫡男・[[河津祐泰]]を狩りの場で射殺し、これがのちに祐親の孫たちが起こす[[曾我兄弟の仇討ち]]の原因となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 伊豆の流人 ===&lt;br /&gt;
[[東国]]における親[[伊勢平氏|平家]]方豪族として[[平清盛]]からの信頼を受け、[[平治]]元年（[[1159年]]）の[[平治の乱]]に敗れて伊豆に配流されてきた[[源頼朝]]の監視を任される。しかし祐親が[[大番役]]で上洛している間に、娘の[[八重姫 (伊東祐親の娘)|八重姫]]が頼朝と通じ、子・千鶴丸を儲けるまでの仲になってしまう。祐親はこれを知って激怒し、[[安元]]元年（[[1175年]]）9月、平家の怒りを恐れ千鶴丸を松川に沈めて殺害、さらに頼朝自身の殺害を図った。頼朝の乳母・[[比企尼の三女]]を妻としていた次男の[[伊東祐清|祐清]]が頼朝に知らせ、頼朝は夜間馬に乗って熱海の[[伊豆山神社]]に逃げ込み、[[北条時政]]の館に匿われて事なきを得たという。祐親はこの前後に出家している。&lt;br /&gt;
	&lt;br /&gt;
=== 源頼朝挙兵 ===&lt;br /&gt;
[[治承]]4年（[[1180年]]）8月に頼朝が打倒平氏の兵を挙げると、[[大庭景親]]らと協力して[[石橋山の戦い]]にてこれを撃破する。しかし頼朝が勢力を盛り返して坂東を制圧すると、逆に追われる身となり、[[富士川の戦い]]の後捕らえられ、娘婿の[[三浦義澄]]に預けられる。頼朝の妻・[[北条政子]]が懐妊した機会を得て、義澄による助命嘆願が功を奏し、一時は一命を赦されたが、祐親はこれを潔しとせず「以前の行いを恥じる」と言い、自害して果てた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 死後の子孫の動向 ==&lt;br /&gt;
次男の祐清はその後も平家方として戦い、[[篠原の戦い]]で討ち死にしている。頼朝挙兵の13年後、[[建久]]4年（[[1193年]]）5月、孫である[[曾我祐成]]・[[曾我時致|時致]]兄弟が、[[鎌倉殿]]として東国の主となった頼朝が催した[[富士の巻狩り]]の場で、父・祐泰の仇である祐経を討ち果たした。この事件は曾我兄弟の仇討ちとして後世に知られる事になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 孫 ==&lt;br /&gt;
孫には曾我兄弟の他、[[鎌倉幕府]]2代[[執権]]の[[北条義時]]、有力御家人の[[三浦義村]]がいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 史跡など ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:Grave of Itō Sukechika.jpg|thumb|伝・伊東祐親の墓（静岡県伊東市大原町）]]&lt;br /&gt;
八重姫と千鶴丸のエピソードにより敵役のイメージの強い祐親であるが、地元の[[伊東市]]では毎年「&#039;&#039;&#039;伊東祐親まつり&#039;&#039;&#039;」が開催され、物見塚公園には祐親の騎馬武者像が建てられるなど、郷土の英雄として親しまれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[曽我物語]]&lt;br /&gt;
* [[伊東里き]] - [[明治]]期に[[北アメリカ]]への[[日本人]]の移住に尽力した[[女性]]。祐親を先祖とする。&lt;br /&gt;
* [[草燃える]]（[[1979年]]、[[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]]、演：[[久米明]]） &lt;br /&gt;
* [[平清盛 (NHK大河ドラマ)|平清盛]]（[[2012年]]、NHK大河ドラマ、演：[[峰竜太]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:いとう すけちか}}&lt;br /&gt;
[[Category:平安時代の武士]]&lt;br /&gt;
[[Category:河津氏]]&lt;br /&gt;
[[Category:伊東氏|すけちか]]&lt;br /&gt;
[[Category:1182年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>61.7.3.99</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E6%B5%AA%E5%B2%A1%E6%B0%8F&amp;diff=87211</id>
		<title>浪岡氏</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E6%B5%AA%E5%B2%A1%E6%B0%8F&amp;diff=87211"/>
		<updated>2013-04-01T11:30:36Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;61.7.3.99: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Redirect|浪岡御所|浪岡氏の居館|浪岡城}}&lt;br /&gt;
{{日本の氏族&lt;br /&gt;
|家名=浪岡氏&lt;br /&gt;
|家紋=Sasa Rindō inverted.jpg&lt;br /&gt;
|家紋名称=笹竜胆&lt;br /&gt;
|本姓=[[村上源氏]][[中院家|中院]][[庶家|庶流]][[北畠家|北畠氏]][[庶家|庶流]]&lt;br /&gt;
|家祖=[[北畠顕家]]?&amp;lt;br/&amp;gt;[[北畠顕信]]?&lt;br /&gt;
|種別=[[武家]]&lt;br /&gt;
|出身地=&lt;br /&gt;
|根拠地=[[陸奥国]]&lt;br /&gt;
|人物=&lt;br /&gt;
|支流=&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;浪岡氏&#039;&#039;&#039;（なみおかし）又は&#039;&#039;&#039;浪岡北畠氏&#039;&#039;&#039;（なみおかきたばたけし）は、[[陸奥国|陸奥]]の[[国司]]の一族。[[村上源氏]]の一族[[北畠家]]の流れを汲む名門であり、[[室町時代]]には&#039;&#039;&#039;浪岡御所&#039;&#039;&#039;と尊称された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
__TOC__&lt;br /&gt;
&amp;lt;br clear=&amp;quot;both&amp;quot; /&amp;gt;&lt;br /&gt;
==出自==&lt;br /&gt;
[[北畠氏]]の庶流に当たる[[大身]]で、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]に陸奥の[[国司]]として下向した[[北畠顕家]]の子孫が、陸奥の[[津軽地方]]を支配したことから始まるといわれているが、顕家の弟である[[北畠顕信]]の末裔ともいわれることがあり、顕家（又は顕信）以前に浪岡姓を名乗る一族が存在し、顕家（又は顕信）の子孫が入婿となったのが始まりとされることもある。顕家以前の浪岡氏は[[奥州藤原氏]]の末裔であったともいわれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==南北朝時代・室町時代==&lt;br /&gt;
[[後醍醐天皇]]の命により国司として奥州を支配した顕家の時代には、二度までも[[足利尊氏]]を危機に追い込むほど強勢を誇ったものの、顕家が二度目の上洛戦で戦死し、勢力を引き継いだ弟の顕信も、傘下の武士の離反や幕府より奥州に派遣された[[吉良氏]]や[[大崎氏|斯波氏]]のために勢力を衰退させていったという。顕信の後半生ですら不詳であり、それ以後の歴代当主の事跡は戦国期に登場した具永（後述）以前のものは判然としてはいない。名族に列し、[[浪岡城]]を拠点としたことから「浪岡御所」と呼ばれて、陸奥の諸大名から尊敬されたという。また、[[京都]]の[[公家]]とたびたび交流を持ち、陸奥の地に小京都と呼ばれるほどの貴族文化を花開かせた。そして京都の[[公家]]たちとの交流が深かったことから、浪岡氏の歴代当主は[[侍従]]や[[近衛府|左中将]]など、高位の官位を歴任したと伝わる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==戦国時代==&lt;br /&gt;
16世紀前半に名君・[[浪岡具永|北畠具永]]が現れて浪岡北畠氏は全盛期を迎えたが、その子・[[浪岡具統|北畠具統]]の頃から文化面で奢侈に走ったために財政的に困窮し、次第に衰退しはじめた（なお、具統は具永に先立って若死したという説もある）。そして具統の子・[[浪岡具運|北畠具運]]の時代に一族内部で家督と領地をめぐっての抗争が勃発し、[[1562年]]に[[川原御所の乱]]が起き、具運は一族の川原御所[[北畠具信]]に殺されてしまう。これにより浪岡北畠氏の衰退は決定的となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、具運の子・[[浪岡顕村|北畠顕村]]が後を継いだが、[[戦国大名]]として独立を図る[[津軽為信]]に攻められて領地と居城（[[浪岡城]]）を奪われて、ここに国司としての浪岡氏は滅亡した。傍系の一族が[[津軽氏]]・[[安東氏]]に仕え浪岡氏として存続したと伝わる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==浪岡北畠氏一族==&lt;br /&gt;
*[[北畠顕家]]（[[北畠顕信]]を祖とする説もある）&lt;br /&gt;
*[[北畠顕成]]&lt;br /&gt;
*[[北畠顕元]]&lt;br /&gt;
*[[北畠顕邦]]&lt;br /&gt;
*[[北畠顕義]]&lt;br /&gt;
*[[北畠顕具]]&lt;br /&gt;
*[[浪岡具永|北畠具永]]&lt;br /&gt;
*[[浪岡具統|北畠具統]]&lt;br /&gt;
**[[北畠具信]]（川原御所）&lt;br /&gt;
*[[浪岡具運|北畠具運]]&lt;br /&gt;
**[[北畠顕範]]&lt;br /&gt;
***[[北畠顕忠]]&lt;br /&gt;
*[[浪岡顕村|北畠顕村]]&lt;br /&gt;
*[[北畠顕則]]&lt;br /&gt;
**[[北畠慶好]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==系図==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 　　　 [[北畠親房|親房]]&lt;br /&gt;
 　　　　┣━━━┳━━━┓&lt;br /&gt;
 　　　 [[北畠顕家|顕家]]　　[[北畠顕信|顕信]]　　[[北畠顕能|顕能]]&lt;br /&gt;
 　　　　┃　　　┃　　　┃&lt;br /&gt;
 　　　 [[北畠顕成|顕成]]　河原御所　[[北畠家|伊勢国司家]]&lt;br /&gt;
 　　　　┃&lt;br /&gt;
 　　　 [[北畠顕元|顕元]]&lt;br /&gt;
 　　　　┃&lt;br /&gt;
 　　　 [[北畠顕邦|顕邦]]&lt;br /&gt;
 　　　　┃&lt;br /&gt;
 　　　 [[北畠顕義|顕義]]&lt;br /&gt;
 　　　　┃&lt;br /&gt;
 　　　 [[北畠顕具|顕具]]&lt;br /&gt;
 　　　　┃&lt;br /&gt;
 　　　 [[浪岡具永|具永]]&lt;br /&gt;
 　　　　┣━━━━━━┓&lt;br /&gt;
 　　　 [[浪岡具統|具統]]　　　　　[[北畠具信|具信]]&lt;br /&gt;
 　　　　┣━━━┓　　┃&lt;br /&gt;
 　　　 [[浪岡具運|具運]]　　[[浪岡顕範|顕範]]　[[北畠顕重|顕重]]&lt;br /&gt;
 　　　　┃　　　┃　　┃&lt;br /&gt;
 　　　 [[浪岡顕村|顕村]]　　[[浪岡顕忠|顕忠]]　[[北畠利顕|利顕]]&lt;br /&gt;
 　　　　　　　　┣━━┓&lt;br /&gt;
 　　　　　　　 [[北畠慶好|慶好]]　[[北畠顕則|顕則]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[category:北畠氏|*なみおかし]]&lt;br /&gt;
[[Category:戦国大名|なみおかし]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の氏族|なみおかし]]&lt;/div&gt;</summary>
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		<title>バンクォウ</title>
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		<updated>2013-03-27T13:58:03Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;61.7.3.99: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[Image:MacbethAndBanquo-Witches.jpg|thumb|300px|3人の魔女と出会ったマクベスとバンクォー。]]&lt;br /&gt;
[[Image:Banquo.jpg|thumb|200px|バンクォーの亡霊が自分の席に座っているのを見て怯えるマクベス。]]&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;バンクォウ&#039;&#039;&#039;（バンクォーとも、Banquo、?-[[1043年]]）は[[スチュアート朝]]の[[スコットランド王]]の祖先といわれ、[[シェイクスピア]]の[[戯曲]]『[[マクベス (シェイクスピア)|マクベス]]』にも登場する人物である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
バンクォウは[[エイ (スコットランド王)|エイ]]王の次男で、[[コンスタンティン3世]]の弟である[[ドナルド]]の玄孫にあたり、[[ロッハバー]]の領主であった&amp;lt;ref&amp;gt;森, p. 59-60&amp;lt;/ref&amp;gt;。バンクォウは1043年に[[マクベス (スコットランド王)|マクベス]]に殺され、ウェールズに逃れていた長男の[[フリーアンス]]もまた四年後の[[1047年]]に殺されたが、フリーアンスの長男[[ウォルター]]は生き残り、彼の子孫がスチュアート朝を開いた&amp;lt;ref&amp;gt;ibid, p. 60&amp;lt;/ref&amp;gt;。『マクベス』では作品中に魔女たちの予言でバンクォウの子孫がやがてスコットランド王を継承する、と予言している。王を殺して国王の座についたものの、バンクォーの存在と彼の子孫が王になるという予言を恐れたマクベスは、バンクォーと息子フリーアンスに暗殺者を放った。バンクォーは殺されるが、フリーアンスは逃げ延びる。その報告を宴会の席で受けたマクベスはバンクォーの亡霊が列席しているのを見て取り乱した。『マクベス』の登場人物は大抵実在した人物であり『マクベス』の作品自体も実際の歴史を元に作られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 註 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
森護、『スコットランド王国史話』、中央公論新社、2002年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:はんくおう}}&lt;br /&gt;
[[Category:スコットランドの歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:神話・伝説の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:マクベス]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Link GA|en}}&lt;/div&gt;</summary>
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