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	<title>Wikippe - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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	<updated>2026-09-03T22:11:21Z</updated>
	<subtitle>利用者の投稿記録</subtitle>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E3%81%AE%E9%99%A3&amp;diff=69994</id>
		<title>天正の陣</title>
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		<updated>2014-06-29T10:58:41Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;58.89.8.132: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Battlebox|&lt;br /&gt;
battle_name=天正の陣&lt;br /&gt;
|campaign=&lt;br /&gt;
|image=&lt;br /&gt;
|caption=&lt;br /&gt;
|conflict=[[羽柴秀吉]]による[[四国攻め]]&lt;br /&gt;
|date=[[1585年]]&lt;br /&gt;
|place=[[伊予国]][[新居郡]]（[[愛媛県]][[新居浜市]]）&lt;br /&gt;
|result=[[長宗我部氏|長宗我部軍]]の大敗&lt;br /&gt;
|combatant1=[[羽柴氏|羽柴軍]][[Image:Go-shichi no kiri crest.svg|20px]]&lt;br /&gt;
|combatant2=[[長宗我部氏|長宗我部軍]]&lt;br /&gt;
|commander1=[[小早川隆景]][[image:Hidari mitsudomoe.svg|15px]]&lt;br /&gt;
|commander2=[[金子元宅]]&lt;br /&gt;
|strength1=30,000余&lt;br /&gt;
|strength2=2,000&lt;br /&gt;
|casualties1=不明&lt;br /&gt;
|casualties2=壊滅&lt;br /&gt;
|}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;天正の陣&#039;&#039;&#039;（てんしょうのじん）は、[[1585年]]（天正13年）に全国統一を目指す羽柴秀吉（[[豊臣秀吉]]）の命を受けた中国・[[毛利氏]]の[[小早川隆景]]率いる軍勢が[[伊予国]][[新居郡]]（現在の[[愛媛県]][[新居浜市]]）に上陸し、[[金子城]]城主 [[金子元宅]]率いる地元勢力を制圧した戦。「天正の陣」の呼称は、伊予側からのものであり、個々の戦闘については、&#039;&#039;&#039;金子城の戦い&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;高尾城の戦い&#039;&#039;&#039;などとも称する。秀吉による[[四国攻め]]（四国平定戦）の一連の戦いのなかのひとつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概略 ==&lt;br /&gt;
===丸山城の戦い===&lt;br /&gt;
{{main|丸山城の戦い}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「天正の陣」の前哨戦にあたり、丸山城城主[[黒川広隆]]は戦わずに降伏し、金子城・高尾城攻めに饗導役として参加した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===金子城の戦い===&lt;br /&gt;
1585年7月、[[毛利輝元]]は一族の[[小早川隆景]]らを四国討伐に向かわせる。総勢3万余の大軍が[[瀬戸内海]]を渡り新居郡内の御代島・沢津（共に現新居浜市）の二手に分かれて上陸し現地の城塞を落として進軍、金子元宅率いる新居の金子城を目指した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
金子城には周辺の城から兵が集結していたが、その総数は2千に過ぎず、戦況不利は明らかであった中、敵方に降伏する武将も現れた。かねてより伊予守護の[[河野氏]]を通じて毛利氏と友好関係を築こうとしていた金子氏には、この際に降伏し毛利の軍門に降る選択肢もあったと思われるが、[[土佐国|土佐]]の[[長宗我部元親]]側に付いての徹底抗戦を決意。配下の武将もこれに従った。元宅は金子城を弟の[[金子元春]]に託して全軍指揮のために守護代の石川氏の高峠城に入り、兵を氷見（現[[西条市]]）の高尾城に集めて軍勢を整えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
金子城では毛利軍による総攻撃が始まった。これに対し、金子軍の抵抗も激しく、&amp;lt;!--- また金子氏を慕う領民達も決起し毛利軍に[[ゲリラ|非正規戦]]を仕掛けたと思われる。---&amp;gt;近隣の主だった神社仏閣も焼き討ちに遭うなどして、一帯は戦場と化した。しかし、やがて籠城軍は力尽き、金子城は落城した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===高尾城の戦い===&lt;br /&gt;
金子城を落とした毛利軍は休む間もなく、高尾城に向けて進軍。7月12日、要所に陣取った毛利軍は攻撃を開始した。城内の兵も立ち向かい、双方に多数の戦死者を出し激戦となった。7月17日、金子元宅は自ら城に火を放ち、城外の野々市原に討って出た。ここに両軍入り乱れた最終決戦が行われ、金子元宅はじめ金子方の武将は戦死、毛利軍の勝利に終わった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小早川隆景は金子方の軍勢を弔うため、野々市原に千人塚を建て弔った。また、被害に遭った寺社の再建にも尽力した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この戦で伊予における最大拠点を失った長宗我部氏は、その後伊予各地で敗戦し、伊予国内では毛利軍に屈することとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[金子城]]&lt;br /&gt;
*[[四国攻め]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:てんしようのしん}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の戦国時代の戦い]]&lt;br /&gt;
[[Category:安土桃山時代の戦い]]&lt;br /&gt;
[[Category:新居浜市の歴史‎]]&lt;br /&gt;
[[Category:1585年]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>58.89.8.132</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E6%94%BB%E3%82%81&amp;diff=160757</id>
		<title>四国攻め</title>
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		<updated>2014-06-29T10:41:28Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;58.89.8.132: /* 友好から対立へ */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;四国攻め&#039;&#039;&#039;（しこくぜめ）は、[[安土桃山時代]]の[[1585年]]（天正13年）に行われた、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]と[[長宗我部元親]]との戦争である。資料によっては&#039;&#039;&#039;四国征伐&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;四国の役&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;四国平定&#039;&#039;&#039;などの呼称も用いられる。これに加えて本項では、[[本能寺の変]]によって中断された[[1581年]]（[[天正]]9年）から[[1582年]]（[[天正]]10年）にかけての[[織田信長]]による[[四国]]進出の過程についても説明する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 織田政権の四国進出 ==&lt;br /&gt;
{{Battlebox|&lt;br /&gt;
battle_name=織田政権の四国進出&lt;br /&gt;
|campaign=織田信長の戦闘&lt;br /&gt;
|image=&lt;br /&gt;
|caption=&lt;br /&gt;
|conflict=織田政権の四国進出&lt;br /&gt;
|date=[[1581年]] - [[1582年]]&lt;br /&gt;
|place=淡路・阿波・讃岐&lt;br /&gt;
|result=本能寺の変により中止&lt;br /&gt;
|combatant1=[[織田信長]][[Image:Mon-Oda.png|20px]]&lt;br /&gt;
|combatant2=[[長宗我部元親]][[ファイル:Nanatsukatabami.svg|20px]]&lt;br /&gt;
|commander1=[[三好康長]]&amp;lt;br&amp;gt;[[織田信孝|織田（神戸）信孝]]&amp;lt;br&amp;gt;[[丹羽長秀]]など&lt;br /&gt;
|commander2=長宗我部元親&lt;br /&gt;
|strength1=14,000（信孝軍）&lt;br /&gt;
|strength2=-&lt;br /&gt;
|}}&lt;br /&gt;
=== 友好から対立へ ===&lt;br /&gt;
天正3年（[[1575年]]）、[[土佐国|土佐]]を統一した長宗我部元親は家臣の反対を押し切り、中島可之介を使者として織田信長の元に派遣した。目的は元親の長男弥三郎の[[烏帽子親]]を信長に引き受けてもらうことだった。交渉は成功し、信長は弥三郎に一字を与えて[[長宗我部信親|信親]]と名乗るよう返書を出した。この時信長は元親に阿波での在陣を認め、また「四国は切り取り次第所領にしてよい」という朱印状も出したとされる&amp;lt;ref&amp;gt;『図説 高知県の歴史』P137及び『信長の天下布武への道』P249より。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正8年（[[1580年]]）6月、元親は[[香宗我部親泰]]を安土に派遣し、[[阿波国|阿波]][[岩倉城 (阿波国)|岩倉城]]の[[三好康俊]]を服属させたことを信長に報告した。また阿波征服のために、康俊の父[[三好康長]]が長宗我部に敵対しないように信長から働きかけてくれるよう依頼し、いずれも了解を得た。この頃は明智光秀が取次役として、元親・信長の交渉窓口となっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[三重大学]]教授で日本近世国家成立史が専門の[[藤田達生]]によると、同じ頃に三好康長と羽柴秀吉が接近しはじめていた。秀吉の目的は、当時交戦中だった[[毛利氏]]に対抗するため、[[三好氏]]の水軍を味方につけることにあったと藤田は推測する。両者の提携に際し、遅くとも天正9年（[[1581年]]）2月までに秀吉の甥・[[豊臣秀次|孫七郎（後の豊臣秀次）]]が康長の養子となっていたと藤田は推定するが、岐阜市信長資料集編集委員で信長関連の著書が多い[[谷口克広]]は、本能寺の変以前に秀次は三好氏の養子になっておらず、従って両者の提携関係も存在しなかったと反論する&amp;lt;ref&amp;gt;本段落の藤田の主張は『謎とき本能寺の変』P50、谷口の主張は『検証本能寺の変』P216-218より。なお、藤田はその後の論文（小山靖憲 編『戦国期畿内の政治社会構造』（和泉書院、2006年）所収「織田信長の東瀬戸内支配」）において、縁組時期を天正7年11月まで遡らせている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正9年（1581年）3月、三好康長は[[讃岐国|讃岐]]から阿波に入り、式部少輔を長宗我部氏から離反させた。同年6月、信長から香宗我部親泰に朱印状が与えられた。その内容は長宗我部氏と三好氏が協力することを求めるもので、信長の四国政策が三好氏寄りに変更されたことを示すものだった&amp;lt;ref&amp;gt;この朱印状を、事実上の信長から元親への断交宣言とする見解もある（『西国の戦国合戦』P234）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長宗我部氏に圧迫された阿波の三好氏、[[伊予国|伊予]]の[[河野氏]]や[[西園寺公広]]らは信長に救援を求めたため、信長は元親に土佐及び阿波南半分の領有のみを許し、他の占領地は返還するよう命じた。しかし元親は、四国征服は信長が認めたことであり、また獲得した領地は自力で切り取ったものであり信長の力を借りたものではなく、指図を受けるいわれはない&amp;lt;ref&amp;gt;信長側は、天正3年（1575年）の遣使の時点で長宗我部氏が織田氏に臣従したとみなしていた可能性もある（『信長の天下布武への道』P249）。&amp;lt;/ref&amp;gt;とはねつけた。明智光秀は[[石谷頼辰]]を派遣して元親を説得したが、おそらく天正9年（1581年）後半頃&amp;lt;ref&amp;gt;『信長の天下布武への道』P250より。&amp;lt;/ref&amp;gt;には織田・長宗我部の交渉は決裂した。長宗我部氏と毛利氏は、讃岐の親毛利勢力で天正7年（[[1579年]]）以降長宗我部氏の傘下に入った[[香川信景]]を通じて協調関係にあったと考えられる&amp;lt;ref&amp;gt;『西国の戦国合戦』P234より。&amp;lt;/ref&amp;gt;が、長宗我部・織田の決裂に伴い、天正9年（1581年）8月までには讃岐天霧城にて対織田同盟を結んだ&amp;lt;ref&amp;gt;『謎とき本能寺の変』P51より。&amp;lt;/ref&amp;gt;。また東伊予の[[金子元宅]]とも天正9年（1581年）中には同盟を結んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年9月までに、[[篠原自遁]]や東讃岐の[[安富氏]]も[[黒田孝高|小寺（黒田）孝高]]を介し、当時[[中国攻め]]の任にあった羽柴秀吉に人質を差し出して従属した。これに伴い、秀吉は孝高に[[淡路国|淡路]]攻撃を指示した。10月、秀吉は当時淡路志知城に進出していた孝高に、長宗我部氏に抵抗する篠原の[[木津城]]及び[[森村春]]の[[土佐泊城]]への兵糧・弾薬の補給を命じた。11月中旬、秀吉は自ら[[池田元助]]と共に淡路に渡り、まず[[由良城]]の[[安宅清康|安宅貴康]]を降した。次いで[[岩屋城 (淡路国)|岩屋城]]を攻略して[[生駒親正]]に守備させ、[[仙石秀久]]に淡路の支配を命じた。また安富氏の秀吉への従属により、同氏の勢力圏であった[[小豆島]]も同年中には秀吉の支配下に入った。天正10年4月には[[塩飽諸島]]も[[村上武吉|能島村上氏]]から離反して秀吉に属した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 四国派兵 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Niwa Nagahide2.jpg|thumb|light|150px|四国派遣軍副将の丹羽長秀]]&lt;br /&gt;
天正10年（1582年）5月上旬、信長は三男[[織田信孝]]を総大将、[[丹羽長秀]]・[[蜂屋頼隆]]・[[津田信澄]]を副将として四国方面軍を編成し、四国攻めの指示を下した&amp;lt;ref&amp;gt;5月7日付の信長から信孝に宛てた「今度四国に至って差し下すに就きての条々」では、攻略後の四国の国割について、讃岐は信孝、阿波は三好康長に与え、他の国は信長が淡路まで行った時に決めるとしている。また侵攻に当たっては信孝を康長の養子とし、三好氏として四国を統治させようとしていた（『信長の天下布武への道』P250-251）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。三好康長はその先鋒として[[勝瑞城]]に入り、阿波の親三好勢力を糾合して[[一宮城 (阿波国)|一宮城]]（[[徳島市]][[一宮町 (徳島市)|一宮町]]）・[[夷山城]]（[[徳島市]][[八万町]]）を攻略した。長宗我部方の野中三郎左衛門・池内肥前守らは一宮城主一宮成祐・夷山城主庄野和泉守を人質に取って[[牟岐]]（[[徳島県]][[海部郡 (徳島県)|海部郡]]）に退却した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月29日には信孝の軍は[[摂津国|摂津]][[住吉郡|住吉]]（大阪市）に着陣し、また津田・丹羽勢は摂津[[大坂]]、蜂屋勢は[[和泉国|和泉]][[岸和田]]に集結し、総勢1万4,000の軍が渡海に備えていた&amp;lt;ref&amp;gt;『信長の天下布武への道』P251より。&amp;lt;/ref&amp;gt;。これらの軍は6月2日に四国へ向けて出航する予定だったが、当日朝に[[本能寺の変]]で信長が死亡したため作戦は立ち消えになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
集められた軍勢のなかには、本能寺の変の報を受けて動揺し、逃亡したものも少なくなかった。また、[[明智光秀]]の女婿にあたる津田信澄は信孝・長秀によって[[野田城 (摂津国)|野田城]]（大阪市福島区）で殺害された。しかし、秀吉東上の大行軍（[[中国大返し]]）の報によって動揺は沈静化し、6月12日、摂津[[富田 (高槻市)|富田]]（[[大阪府]][[高槻市]]）に着陣した秀吉軍に合流した。このとき、信孝は名目的にではあるが総大将に推された。翌6月13日の[[山崎の戦い]]にも光秀討伐軍として参戦した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後ろ盾である信長を失った三好康長は勝瑞城を捨てて逃亡した。長宗我部氏は存亡の危機を脱し、一転して阿波・讃岐侵攻の絶好の機会を迎えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 羽柴と長宗我部の対立 ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:Sogojo01.jpg|thumb|right|180px|十河城跡]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:Shozuijo09.jpg|thumb|right|180px|勝瑞城跡]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正10年（1582年）6月、長宗我部元親は東予・西讃の諸将を動員し、香川信景3000、長尾・羽床・新名氏ら1000の兵力を西長尾に集結させて[[香川親和|香川親政]]を総大将となした。7月、これらの兵はまず[[那珂郡 (香川県)|那珂]]・[[鵜足郡]]へ侵攻し、聖通寺城（現[[宇多津町]]）の奈良氏を敗走させた。次いで[[香西佳清]]の藤尾城を攻めて降伏させた。さらに[[十河氏]]の名代[[三好隼人佐]]が守る[[十河城]]を攻めた（[[十河城#第一次十河城の戦い|第一次十河城の戦い]]）が、攻略はできなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
8月、元親は[[中富川の戦い]]で[[十河存保]]を破り、阿波[[勝瑞城]]・[[岩倉城 (阿波国)|岩倉城]]を攻略した。さらに同年、[[虎丸城]]に逃れた存保を追って讃岐に侵攻した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年10月、元親は親政勢と合流し、合計3万6000の軍勢で十河城を包囲したが攻略には至らず、冬にはいったん帰国した。この間に存保の救援要請に応じて、秀吉から[[仙石秀久]]が[[小豆島]]に派遣された。仙石は[[屋島]]を攻撃したが攻めきれず退却した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[#友好から対立へ|前節]]における藤田達生の説によれば、天正9年（1581年）以降秀吉は四国に関しては一貫して長宗我部氏との対決路線を保持しており、そのため長宗我部氏は対抗上秀吉の敵対勢力と同盟する道を選んだとしている&amp;lt;ref&amp;gt;『小牧・長久手の戦いの構造』P261より。&amp;lt;/ref&amp;gt;。天正11年（[[1583年]]）の[[賤ヶ岳の戦い]]に際し、元親は[[柴田勝家]]・[[織田信孝]]と結んで秀吉を牽制したため、秀吉は仙石秀久を淡路[[洲本城]]に配置してこれに備えた。同年春、元親は再度讃岐に出陣して[[十河城]]・虎丸城を包囲したため、仙石を援軍に送ったが、敗退して小豆島を維持するにとどまった（[[引田の戦い]]）。4月には、長宗我部氏に服さず自立の姿勢を見せていた[[木津城]]の篠原自遁が、[[香宗我部親泰]]に追われて淡路に敗走した。同年冬から翌年にかけては、[[毛利氏]]が秀吉と和睦したことにより毛利・長宗我部の関係が冷却化し、毛利氏と友好関係にある伊予の[[河野通直 (伊予守)|河野通直]]・[[西園寺公広]]への長宗我部方の攻勢が再開された&amp;lt;ref&amp;gt;伊予侵攻に力を注いだことが、長宗我部氏の淡路・畿内方面への攻撃を難しくしたという見方もある（『戦国の地域国家』P102-103）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正12年（[[1584年]]）正月、長宗我部氏の伊予侵攻に対応して、毛利氏は河野氏援助のため伊予に派兵した。3月から始まった[[小牧・長久手の戦い]]でも元親は[[徳川家康]]・[[織田信雄]]と結び、[[紀伊国|紀伊]]の[[根来衆|根来]]・[[雑賀衆]]と協力して秀吉の背後を脅かす姿勢を見せた。6月、元親は長期の攻城の末に讃岐十河城を攻略した（[[十河城#第二次十河城の戦い |第二次十河城の戦い]]）。この年の後半には伊予における長宗我部氏の攻撃は激しさを増し、10月19日には長宗我部方が西園寺公広の[[黒瀬城]]を攻略した。これに対抗して毛利氏も伊予に[[児玉就英]]らを増派し、河野・西園寺氏への支援を強化した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正13年（[[1585年]]）3月から4月にかけて秀吉は[[紀州攻め]]を行い、元親の同盟勢力である根来・雑賀衆を潰した。これによって長宗我部氏は軍事的に孤立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 長宗我部と織田・徳川との同盟 ===&lt;br /&gt;
天正10年6月の[[清洲会議]]で[[伊賀国|伊賀]]・[[伊勢国|伊勢]]・[[尾張国|尾張]]南半を配分された織田信雄は、柴田勝家と結んだ信孝の最期をみて不安を感じ、徳川家康を頼った。家康は当時[[小田原]]に本拠をおく[[後北条氏]]と同盟していたので、秀吉と対決することになった場合、背後から衝かれることのない点が戦略上の強みであった。天正12年3月、信雄は[[長島城|伊勢長島城]]にみずからの有力家臣で秀吉に内通した疑いのあった[[津川義冬]]・[[岡田重孝]]・[[浅井長時]]を招いて殺害した。家康の指示によるものであった&amp;lt;ref name=imatani&amp;gt;今谷『戦国の世』p.168&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この事件を契機として小牧・長久手の戦いが始まったが、当時、長宗我部氏は未だ四国内の各所に敵を抱えており、渡海して秀吉の勢力圏を攻撃することは現実的ではなかった。にもかかわらず、長宗我部氏は渡海計画を掲げ続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
津野倫明によると、現実味の乏しい渡海攻撃を喧伝し続けたことは織田信雄・徳川家康との同盟関係を維持するためであり、長宗我部氏にとってこの同盟には3つの利点があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一は、東予の金子氏との同盟維持である。金子氏は中予の河野氏及びその同盟者の毛利氏、ひいては秀吉とも敵対しており、天正12年（1584年）時点では毛利勢の伊予上陸もあって大きな脅威を感じていた。長宗我部氏は自陣営の優勢を伝えることで、金子氏の離反を回避しようとしていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二は、毛利氏の攻勢を抑止することである。毛利氏と秀吉は和睦していたものの、当時なお中国における両勢力の境界線確定（中国国分）は解決しておらず、また先に毛利氏から織田氏に寝返り、現在は秀吉の傘下にある[[来島通総]]の伊予帰国を巡って対立していた。秀吉が反秀吉陣営に敗れれば、中国国分・来島氏問題は毛利氏優位の解決が期待できたため、毛利氏は反秀吉陣営の一員である長宗我部氏への攻勢に出なかった、と津野は述べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第三は、秀吉による四国出兵の抑止である。長宗我部氏の渡海攻撃に備えるため、秀吉は和泉方面の防備を増強しなければならず、また織田・徳川氏への対応や帰趨の明らかでない毛利氏への警戒もせねばならず、その分十河氏などへの支援に振り向ける兵力は減少した。長宗我部氏にとっては、秀吉による本格的な四国攻撃を回避することが同盟の最大の利点であった&amp;lt;ref&amp;gt;以上、同盟の利点に関する内容は、『小牧・長久手の戦いの構造』P268-277 の記述にもとづく。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小牧・長久手の戦闘に先だって、家康は長宗我部元親のみならず紀伊の[[畠山貞政]]、[[越中国|越中]]の[[佐々成政]]らに檄を送り秀吉の背後を衝くよう要請して秀吉包囲網を形成した。秀吉は、佐々に対し[[上杉景勝]]・[[真田昌幸]]・[[丹羽長秀]]らをあて、[[和泉国|和泉]]および[[淡路国|淡路]]には[[仙石秀久]]・[[中村一氏]]・[[蜂須賀家政]]らの軍勢を派兵させて長宗我部勢に備えさせた&amp;lt;ref name=imatani/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 羽柴と毛利の同盟 ===&lt;br /&gt;
信長の時代には毛利氏との関係は対決基調であったが、[[毛利輝元]]は天正11年の[[賤ヶ岳の戦い]]ののち、祝勝の品を届けて秀吉に接近し、叔父（ただし輝元より年少）にあたる小早川元総（のちの[[毛利秀包]]）や[[従兄弟]]の[[吉川広家|吉川経言]]（のちの広家）を差し出して秀吉との同盟関係に転じた。元総は秀吉より「秀」の字を賜り、小牧・長久手の戦闘にも秀吉勢として参加した。天正13年3月の[[紀州攻め]]では、輝元は、秀吉の命令により[[小早川隆景]]率いる毛利水軍を送っているので、この頃毛利氏は明確に秀吉の軍事行動に動員される服属大名となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 長宗我部による四国統一について ==&lt;br /&gt;
秀吉による四国攻めが始まる以前、長宗我部元親が四国統一を達成していたかについては、統一は完成していたとするのが通説である&amp;lt;ref name=&amp;quot;e&amp;quot;&amp;gt;『愛媛県の歴史』P153&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかしながら統一は完成していないとする研究者も複数おり、見解は分かれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 統一されていたとする説 ===&lt;br /&gt;
統一完成説の代表は[[山本大]]で、その著書『長宗我部元親』において、天正13年（1585年）春に伊予河野氏を降伏させて四国統一が成ったとしている&amp;lt;ref name=&amp;quot;e&amp;quot; /&amp;gt;。完成説によるその経過は次の通り。&lt;br /&gt;
天正10年（1582年）8月、中富川の戦いの勝利によって長宗我部氏は阿波を平定した。同年讃岐に侵攻し、天正12年（1584年）6月には[[十河城]]・虎丸城を陥落させて讃岐を平定した。[[十河存保]]は秀吉を頼って上方へ逃れた。天正13年（1585年）春、[[湯築城]]の[[河野通直 (伊予守)|河野通直]]を降して伊予を平定した。河野氏の降伏によって長宗我部元親による四国統一が完成した&amp;lt;ref&amp;gt;本項の参考文献中、『秀吉の天下統一戦争』『戦国の地域国家』『高知県史』『徳島県史』『香川県史 中世』『香川県史 近世1』『図説 高知県の歴史』『高知県の歴史』『戦国武将・合戦事典』の各書が統一完成説を前提に記述している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東大史料編纂所の大日本史料から抜粋すると、天正12年11月に、伊予に駐留している毛利氏の武将の桂元親の書状（桂文書）に、土州衆の出撃で数ヶ所が落城しているため、援軍の派遣を要請している。&lt;br /&gt;
また、大洲旧草記に、近日中野封馬土州申合、伊予河野通直、注進、という記述があり、土州（長宗我部軍）との合戦が近いこと。萩藩閥閲録の天正12年12月21日、河野通直、伊予能美の村上景親をして、同国府中東条分を安堵せしむ、という記述を最後に河野氏が伊予を統治した形跡がないこと。天正13年7月17日になって、小早川隆景が伊予に侵攻している事実。このことから、通説に従って、伊予河野氏は降伏し、長宗我部元親の伊予統一は成ったとみなせる。なお、伊予東部の金子氏は長宗我部軍であり、伊予・恵良（松山市北部）での毛利軍と長宗我部軍との交戦記録が毛利氏の記録に残ることから、松山市の周囲が長宗我部軍によって、軍事的に制圧されているのは確実である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
桂文書や大洲旧草記の記述から、長宗我部軍を土州衆・土州と呼んでいるのは明白であり、湯築城の土州様の瓦と関連するとも考えられる。以下、土州様の瓦の記事を掲載する。&lt;br /&gt;
一方、河野氏の居城だった湯築（ゆづき）城（松山市）の発掘調査で、城内から見つかった長宗我部氏にかかわる瓦や土器が近年、研究者の間で議論を呼んでいる。大手（城の表門）付近から土佐の岡豊城、中村城でしか見つかっていない瓦が出土したからだ。 &lt;br /&gt;
寸法や成形に共通点があり、文様は同じ笵（はん）木を使って焼かれたと考えられている。城内の家臣団の居住区からは、元親を指すと考えられる「土州様」と墨書された土器皿も見つかった。 &lt;br /&gt;
調査を担当した愛媛県埋蔵文化財調査センターの中野良一調査第一係長は、「長宗我部氏が湯築城を占拠した証しに瓦をふいたのではないか」と推測。河野氏の降伏説を主張している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 統一されていないとする説 ===&lt;br /&gt;
;阿波・讃岐の未制圧&lt;br /&gt;
:[[津野倫明]]の説によると、天正12年（1584年）6月に讃岐で落城したのは十河城のみであり、東香川の十河存保は虎丸城でその後も抗戦を続けた。また森村春の阿波[[土佐泊城]]は、中富川の戦い以後も落城することはなかった。従って長宗我部氏は阿波・讃岐を完全には制圧できなかったとしている&amp;lt;ref&amp;gt;『小牧・長久手の戦いの構造』P262-266より。&amp;lt;/ref&amp;gt;。また山本浩樹も津野の説を支持し、秀吉は海路を通じて両城への補給を続け、これによって両城は持ちこたえたと推測している&amp;lt;ref&amp;gt;『西国の戦国合戦』P236-240より。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、秀吉事記には、羽柴秀長・秀次は、阿波土佐泊に上陸、一城を拵え、味方の樋いとなして、という記述があり、土佐泊城は存在せず、豊臣軍が上陸したときに、土佐泊に築城したことになっている。長宗我部軍も土佐泊には存在せず、最寄は木津城に[[東条関兵衛]]が篭っている。&lt;br /&gt;
また、香宗我部家伝証文には、天正11年4月是月、長宗我部元親の弟香宗我部親泰、阿波木津城を攻めて之を抜く、又淡路の洲本城を奪ふ、淡路の兵起り、洲本城を復す、という記述があり、この段階で、阿波国を平定し、さらに淡路国への影響力も及ぼしたことが伺える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;伊予の未制圧&lt;br /&gt;
:[[山内譲]]・[[内田九州男]]は[[河野氏]]の地盤である[[中予地方|中予]]は攻略できず、統一は完成していないとする立場を取る&amp;lt;ref&amp;gt;『愛媛県の歴史』P153-154。&amp;lt;/ref&amp;gt;。また[[山本浩樹]]も、[[長宗我部氏]]と河野・毛利氏の抗争は郡内表（[[喜多郡]]、現[[大洲市]]周辺）を中心とし、河野氏の本拠である道後地方に長宗我部方が攻め込むことはなかったとしている&amp;lt;ref&amp;gt;『西国の戦国合戦』P239。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 羽柴秀吉の四国攻め（四国の役） ==&lt;br /&gt;
※ [[四国平定]]も参照。&lt;br /&gt;
=== 事前の交渉 ===&lt;br /&gt;
秀吉はたびたび背後を長宗我部氏に脅かされたため、四国出兵を考えるようになった。秀吉・元親とも当初は交渉による和解を模索したが、領土配分を巡る対立を解消できず、交渉は決裂した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『長元記』によると、元親は秀吉に進物を贈って和解を試みたが、秀吉は讃岐・伊予の返納を命じた。元親は伊予一国を返還することで済ませようとしたが秀吉は認めず、交渉は決裂した&amp;lt;ref&amp;gt;『図説 高知県の歴史』P133及び『秀吉の天下統一戦争』P177より&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方『小早川文書』によると、一度は阿波・讃岐の返還、伊予・土佐の安堵という条件が成立したが、その後ご破算になったとされる&amp;lt;ref&amp;gt;『高知県の歴史』P155より。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 開戦 ===&lt;br /&gt;
{{Battlebox|&lt;br /&gt;
battle_name=羽柴秀吉の四国攻め&lt;br /&gt;
|campaign=豊臣秀吉の戦闘&lt;br /&gt;
|image= [[File:Shikoku Seitō.jpg|300px]]&lt;br /&gt;
|caption= 豊公四国征討図（[[楊洲周延]]画）&lt;br /&gt;
|conflict=羽柴秀吉の四国攻め&lt;br /&gt;
|date=[[1585年]]&lt;br /&gt;
|place=阿波・讃岐・伊予&lt;br /&gt;
|result=長宗我部氏の降伏&lt;br /&gt;
|combatant1=羽柴秀吉[[Image:Go-shichi no kiri crest.svg|20px]]&lt;br /&gt;
|combatant2=長宗我部元親[[ファイル:Nanatsukatabami.svg|20px]]&lt;br /&gt;
|commander1=[[豊臣秀長|羽柴秀長]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[宇喜多秀家]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[小早川隆景]][[image:Hidari mitsudomoe.svg|15px]]など&lt;br /&gt;
|commander2=[[香宗我部親泰]]&amp;lt;br&amp;gt;[[谷忠澄]]&amp;lt;br&amp;gt;[[金子元宅]]など&lt;br /&gt;
|strength1=105,000-123,000&amp;lt;ref&amp;gt;両軍の兵力は『秀吉の天下統一戦争』P178による。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
|strength2=最大40,000&lt;br /&gt;
|casualties1=-&lt;br /&gt;
|casualties2=-&lt;br /&gt;
|}}&lt;br /&gt;
1585年（天正13年）5月4日、秀吉は[[黒田孝高]]に四国攻めの先鋒として淡路に出るよう命じ、また[[一柳直末]]には明石で待機するよう命じた。8日、秀吉は四国出陣の準備として、羽柴秀長に対して和泉・紀伊の船舶の数を調査するよう命じた。また同日紀伊の[[国人]]白樫氏・玉置氏に対しても四国攻めの準備と船の手配を命じた。これに従って秀長は翌9日、船数調査の実施と紀伊・和泉の船を同月27・28日までに紀ノ湊（現[[和歌山市]]）へ集結させることを命令している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月、秀吉は四国への出陣を決定し、淡路から阿波・備前から讃岐・安芸から伊予の三方向から四国への進軍を命じた。当初秀吉は6月3日を四国出陣の日に予定していたが、[[越中]]の[[佐々成政]]がなお健在であり、また病を得たため自身の出馬を諦め、代わって弟の[[豊臣秀長|羽柴秀長]]を総大将、副将を甥の[[豊臣秀次|羽柴秀次]]と定めた。6月16日、秀吉は[[岸和田城]]に在陣しつつ、秀長以下の諸将を四国へ侵攻させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長宗我部元親は、この年の春より秀吉の侵攻に備え、土佐勢6,000を含む2万から4万の軍勢を動員した。5月には四国4ヶ国の境にあり各方面と連絡が取れる阿波西端の[[白地城]]に元親の本陣を置き、全軍を督戦した。また羽柴方が阿波方面から侵攻することは長宗我部側も予測しており、阿波諸城に重臣らを配置して防備を固めていた。また讃岐でも植田城（現[[高松市]]）を築いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この戦いの最中の7月、秀吉は[[関白]]に就任した。以後、四国攻めは天下平定戦争の一環という色合いを強める&amp;lt;ref&amp;gt;『戦国の地域国家』P103より。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 讃岐 ====&lt;br /&gt;
[[宇喜多秀家]]率いる備前・美作の兵に加えて播磨から[[蜂須賀正勝]]・黒田孝高、さらに仙石秀久が加わり計2万3000（1万5000とも）の軍が屋島に上陸した。秀家等は喜岡城（当時の高松城）を攻略して高松頼邑を討ち取り、香西城・牟礼城を攻略した。しかし、戸波親武の守る植田城の守りの堅さを見てとった黒田はこれを放置して阿波攻撃を優先することを主張したため、他の諸将もこれに同意して[[大坂峠|大坂]]越えより阿波に入り、秀長軍との合流を図った。この転進について、山本大は「元親の防衛策は早くも失敗したのである」と述べている&amp;lt;ref&amp;gt;『図説 高知県の歴史』P134&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 伊予 ====&lt;br /&gt;
{{See also|天正の陣}}&lt;br /&gt;
[[毛利輝元]]配下の中国8ヶ国の軍勢は、3万から4万（2万5,000とも）に達した。輝元は備後[[三原市|三原]]に残り、6月下旬に三原及び安芸[[竹原市|忠海]]の港を発し、同月27日に小早川隆景の第一軍が今治浦に上陸した。続いて7月5日、[[吉川元長]]・宍戸元孝・福原元俊らの第二軍が今治浦もしくは新間（新麻、新居浜）に上陸した。その最初の攻撃目標は[[宇摩郡|宇摩]]・[[新居郡]]を支配する石川氏と、同氏家臣団の実力者である[[金子元宅]]であった。元宅は[[東予地方|東伊予]]の実質的な指導者であり、長宗我部氏とは同盟関係にあった。元宅は自らは[[高尾城]]に在城し、[[高峠城]]に当時8歳の主君石川虎竹丸を置いて近藤長門守以下800余の兵で守らせ、金子城には弟の対馬守元春を配した。高尾城には土佐から派遣された長宗我部氏の援兵も籠城に加わった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月14日に中国勢は黒川広隆が守る丸山城（高尾城の出城）を攻略（[[丸山城の戦い]]）し、続いて15日から金子元宅と片岡光綱（長宗我部からの援軍）の籠る高尾城を包囲して17日には落城させ、元宅は討ち死にした&amp;lt;ref&amp;gt;『予陽河野家譜』によると、寄手の兵300人が丘の上から城に向けて一斉射撃を行い、城内が混乱したのに乗じて総攻撃をかけ、このため元宅は城に火を放って自害したとする。一方『赤木文書』によると、小早川配下の赤木蔵人丞が元宅を討ち取ったとする。また吉川元長書状によると、この時高尾城で戦死した城兵は600余人だった（『愛媛県史 中世』P680）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。緒戦で中心人物を失った新居郡の将兵の打撃は大きかった。中国勢は続いて新居郡の高峠城を攻め、高峠城兵は石川虎竹丸を土佐に逃がしたのち野々市原（現[[西条市]]）にて迎撃、全滅した。その結果、高峠・生子山・岡崎など新居郡の諸城はことごとく陥落し、金子氏の本拠地である金子山城を守っていた金子元春も敗走して同郡での抵抗は終息した（以上、いわゆる伊予に於ける[[天正の陣]]）。金子元宅の嫡男毘沙寿丸は土佐へ落ち延びて長宗我部元親の庇護を受けた。中国勢はさらに東進して土佐勢の妻鳥氏が守る宇摩郡川之江の[[仏殿城]]を攻略中の25日に長宗我部元親が降伏し、講和となった。この頃には[[南予地方|南伊予]]の長宗我部勢も撤退した&amp;lt;ref&amp;gt;桑名洋一「天正期伊予における「境目」領主についての一考察」2005年&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;桑名洋一「伊予における天正の陣についての考察」2003年&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東予二郡の制圧後、中国勢は進路を西に転じ&amp;lt;ref&amp;gt;これ以後の中予の戦況については正確な史料が少ないため（『愛媛県史 中世』P681）、概況のみ示す。&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[周敷郡|周敷]]・[[桑村郡|桑村]]・[[越智郡|越智]]・[[野間郡|野間]]・[[風早郡]]を制圧して道後平野に達し、8月末には河野通直の湯築城が攻囲され、小早川隆景の薦めにより開城し、通直は道後の町に蟄居した。隆景配下の桂元綱は喜多郡の諸将を攻め、帰順させた。西園寺公広・大野直昌は隆景の元に赴いて降伏し、大野直之・曾根宣高らは捕らえられ、伊予全域の制圧が完了した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 阿波 ====&lt;br /&gt;
[[ファイル:Itimayajo13.jpg|thumb|一宮城本丸下の石垣]]&lt;br /&gt;
羽柴秀長率いる大和・和泉・紀伊の軍勢3万は6月16日に[[堺]]から船出し、海路洲本に至る。羽柴秀次率いる摂津・近江・丹波の兵3万は明石から淡路へ渡り、両軍は[[福良 (南あわじ市)|福良]]（現[[南あわじ市]]）で合流して大小800余艘&amp;lt;ref&amp;gt;『徳島県史』P257より。『兵庫県史』P742では大船600艘、小船300艘。&amp;lt;/ref&amp;gt;の船団で阿波の土佐泊へ上陸した。対する長宗我部方は木津城に東条関兵衛、[[牛岐城]]に香宗我部親泰、[[渭山城]]に[[吉田康俊]]、[[一宮城 (阿波国)|一宮城]]に[[谷忠澄]]・[[江村親俊]]、岩倉城に[[比江山親興]]、[[脇城]]に[[長宗我部親吉]]をそれぞれ配した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
秀長の軍は阿波上陸後、まず木津城を攻撃した。八昼夜にわたる攻撃の上に蜂須賀正勝によって水の手も絶たれたため、城将の東条関兵衛は秀吉方についた叔父の東条紀伊守の説得に応じて開城した。関兵衛は土佐へ退いたが、立腹した元親によって切腹させられた。双方が主力を投入した阿波の戦いだが、戦力を伊予・讃岐にも分散せざるを得なかった長宗我部方の劣勢が明らかとなった。牛岐城の香宗我部親泰、渭山城の吉田康俊は木津落城を聞いて城を捨てて逃れ、残る長宗我部方の拠点は一宮・岩倉・脇の三城のみとなった。この頃秀吉は自ら出陣する意思を示し、7月3日にはその先鋒が淡路に達した。しかし秀長は秀吉の出陣を諌止し、自ら一宮城攻撃の指揮を執り、秀次に脇・岩倉城攻めを任せた。秀長は7月19日付の小早川隆景に宛てた書状で、一宮・脇城攻めの近況を報告している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9,000（または5,000）とされる&amp;lt;ref&amp;gt;『秀吉の天下統一戦争』P180&amp;lt;/ref&amp;gt;一宮城兵は善戦したが、[[筒井定次]]・[[藤堂高虎]]・蜂須賀正勝・[[増田長盛]]など5万の秀長勢に兵糧を絶たれ、また城への坑道を掘り水の手を断つという寄手の奇策もあって、7月中旬には開城した。前後して脇・岩倉城も秀次・黒田・蜂須賀勢らによって陥落し、東の秀長・秀次勢、西の中国勢で元親の白地城を挟撃する態勢となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 降伏 ===&lt;br /&gt;
白地城へ戻った谷忠澄は『南海治乱記』&amp;lt;ref&amp;gt;『高知県史』P941-2より。&amp;lt;/ref&amp;gt;によると次のように述べて降伏を勧めた。&lt;br /&gt;
{{quotation|&lt;br /&gt;
上方勢は武具や馬具が光り輝き、馬も立派で、武士たちは旗指物を背にまっすぐに差して、勇ましい。兵糧も多くて心配することは少しもない。これに比べて、味方は10人のうち7人は小さな土佐駒に乗り、鞍も曲って木の鐙をかけている。武士は鎧の毛が切れくさって麻糸でつづりあわせてある。小旗を腰の横に差しており、上方とは比較にならぬ。国には兵糧がなく、長い戦争などできるはずがない&amp;lt;ref&amp;gt;『図説 高知県の歴史』P134における現代語訳。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これに対し元親は『元親記』によると次のように以後の戦略を述べた。&lt;br /&gt;
{{quotation|&lt;br /&gt;
縦（たと）い、岩倉・一の宮を攻落さるる共、[[海陽町|海部表]]へ引請け、一合戦すべき手立、この中、爰許（ここもと）に詰候つる軍兵、又、国元の人数打震いて打立ち、都合その勢一万八千余、信親大将して[[東洋町|野根・甲浦]]に至り着合ひ、海部表への御働を相待つ筈なり。&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
同書での元親はさらに、一度も決戦せずに降伏するのは恥辱であり、たとえ本国まで攻め込まれても徹底抗戦すると言い、また降伏を勧めた谷忠澄を罵倒し、腹を切れとまで言っている&amp;lt;ref&amp;gt;『秀吉の天下統一戦争』P181&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし忠澄を始めとする重臣らの説得を受けて、元親も最後には折れ、7月25日付の秀長の停戦条件を呑んで降伏した。交渉に当たっては蜂須賀正勝が仲介を務め、8月6日までには講和が成立した&amp;lt;ref&amp;gt;『秀吉の天下統一戦争』P183&amp;lt;/ref&amp;gt;。講和の条件は、長宗我部氏に土佐一国安堵、長宗我部家当主が毎回兵3000を率いて軍役を務めること、人質の提出&amp;lt;ref&amp;gt;以上、『愛媛県の歴史』P153より。『西国の戦国合戦』P241によると、人質は元親の実子2人が務めた。&amp;lt;/ref&amp;gt;、徳川家康との同盟禁止&amp;lt;ref&amp;gt;『戦国の地域国家』P103より。&amp;lt;/ref&amp;gt;とされている。これに従い、長宗我部氏は阿波・讃岐・伊予を割譲した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
8月23日、秀長は戦後処理を終えて大坂に帰還した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経過 ==&lt;br /&gt;
月日は旧暦をあらわす&lt;br /&gt;
;天正10年（1582年）&lt;br /&gt;
*5月上旬 - 信長、織田信孝を総大将として四国方面軍を編成、四国攻めを指示。&lt;br /&gt;
*5月29日 - 信孝軍、摂津住吉に着陣。&lt;br /&gt;
*6月2日 - 本能寺の変。四国渡海を中止。&lt;br /&gt;
*7月 - 讃岐[[聖通寺城の戦い]]&lt;br /&gt;
*7月 - 讃岐[[十河城の戦い]]（第一次）&lt;br /&gt;
*8月28日 - 阿波[[中富川の戦い]]&lt;br /&gt;
;天正11年（1583年）&lt;br /&gt;
*4月 - 讃岐[[引田の戦い]]&lt;br /&gt;
*4月 - 阿波[[木津城の戦い]]（第一次）&lt;br /&gt;
;天正12年（1584年）&lt;br /&gt;
*正月 - 毛利氏の伊予派兵。&lt;br /&gt;
*6月 - 讃岐十河城の戦い（第二次）&lt;br /&gt;
*10月19日 - 伊予[[黒瀬城の戦い]]（第一次）&lt;br /&gt;
;天正13年（1585年）&lt;br /&gt;
*3月-4月 - 根来・雑賀一揆&lt;br /&gt;
*6月16日 - 羽柴・毛利軍、四国攻略を開始。&lt;br /&gt;
*7月2日 - 伊予[[丸山城の戦い]]&lt;br /&gt;
*7月 - 讃岐[[喜岡城の戦い]]&lt;br /&gt;
*7月 - 讃岐[[植田城の戦い]]&lt;br /&gt;
*7月 - 阿波木津城の戦い（第二次）&lt;br /&gt;
*7月中旬 - 阿波[[牛岐城の戦い]]&lt;br /&gt;
*7月14日 - 伊予[[金子城の戦い]]（天正の陣）&lt;br /&gt;
*7月 - 阿波[[一宮城の戦い]]&lt;br /&gt;
*7月 - 阿波[[脇城の戦い]]&lt;br /&gt;
*7月 - 阿波[[岩倉城の戦い]]&lt;br /&gt;
*7月17日 - 伊予[[高尾城の戦い]]（天正の陣）&lt;br /&gt;
*7月18日 - 伊予[[高峠城の戦い]]（天正の陣）&lt;br /&gt;
*8月6日 - 長宗我部元親、秀長に降伏。&lt;br /&gt;
*8月中旬 - 伊予[[仏殿城の戦い]]&lt;br /&gt;
*8月下旬 - 伊予[[湯築城の戦い]]&lt;br /&gt;
*8月下旬 - 伊予黒瀬城の戦い（第二次）&lt;br /&gt;
*8月 - 秀吉、[[四国国分]]を決定。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦役後の四国地方 ==&lt;br /&gt;
=== 四国国分とその後 ===&lt;br /&gt;
{{main|四国国分}}&lt;br /&gt;
==== 四国国分 ====&lt;br /&gt;
四国平定の結果、[[豊臣政権]]によって「国分（くにわけ）」がおこなわれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長宗我部氏は土佐一国を安堵され豊臣政権に繰り込まれ、元親の三男の[[津野親忠]]が人質となった。その他の3国は没収され、阿波に正勝の子の[[蜂須賀家政]]（一部に[[赤松則房]]）、讃岐に[[仙石秀久]]（聖通寺城）、うち[[山田郡 (香川県)|山田郡]]2万石に十河存保（十河城）、伊予に[[小早川隆景]]（一部に[[安国寺恵瓊]]、[[来島通総]]、[[得居通幸]]）が封じられた。また淡路は[[脇坂安治]]が[[津名郡]]3万石（洲本城）、[[加藤嘉明]]が津名・[[三原郡]]1万5000石（志知城）に封じられた。こうして、伊予には毛利旗下の大名、讃岐・阿波・淡路には豊臣系の大名が配されることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[豊臣政権]]による天正13年の大規模国替えにより、検地と動員に代表される近世的統治が始まると各地で膨大な数の中世城郭が破却・整理されるとともに織豊系城郭が誕生していった。四国を含む環瀬戸内海では播磨国[[明石城]]（[[高山右近]]）・[[室津城]]（[[小西行長]]）、淡路国[[洲本城]]（[[脇坂安治]]）・[[志知城]]（[[加藤嘉明]]）、阿波国[[徳島城]]（[[蜂須賀家政]]）、讃岐国[[聖通寺城]]（[[仙石秀久]]）、伊予国[[湊山城]]（[[小早川隆景]]）などが築城・修築され、豊臣政権による[[九州征伐]]への準備が進められた&amp;lt;ref&amp;gt;藤田達生『日本近世国家成立史の研究』（校倉書房、2001年）「第一部　豊臣政権の統一戦」より。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 国分後の動向 ====&lt;br /&gt;
戦後処理の後、秀吉は[[惣無事令]]に反した[[島津氏]]他を討伐するために[[九州征伐]]を開始したが、[[豊後国|豊後]]の[[大友義鎮|大友宗麟]]救援のため仙石秀久、十河存保、長宗我部元親など四国の大名が先発で派遣された。しかし、豊臣軍は島津軍に[[戸次川の戦い]]で大敗北を喫し、秀久は戦場から逃亡、存保は戦死、元親の嫡男である信親も戦死したことにより[[お家騒動]]の原因となった。本隊の到着により九州征伐は豊臣方の勝利に終わったが、九州国分により四国の勢力地図も書き変わることとなった。逃亡した秀久は讃岐を召し上げられ、変わって後に[[生駒親正]]が入った。伊予では僅か2年弱で[[小早川隆景]]が筑前へ転封となり、変わって[[福島正則]]（東部及び中部の一部）・粟野秀用（中部の一部）・[[戸田勝隆]]（南部）に入った。後に正則が尾張に転出し、後嗣のない戸田氏が除封されると、[[小川祐忠]]（東部）・加藤嘉明（中部）・[[藤堂高虎]]（南部）・[[池田秀氏]]（南部の一部）が伊予に配置された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、四国の在地勢力として伊予東部の河野通直は秀吉と敵対もせず、毛利氏と婚姻・友好関係にあったが、大名として認められなかったため毛利氏に身を寄せ、家臣は領主となった隆景に従った。伊予南部の西園寺は後に戸田氏の配下となったが後に謀殺され、後に讃岐の生駒氏の配下に繰り入れられた十河氏の勢力も次第に減殺されて弱体化していった。これら有能な外様大名が存続したのに対して、無能・病弱・旧体制などの理由により豊臣政権に貢献出来ない大名達は時間とともに様々な理由で淘汰されて行くこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 毛利輝元の四国出兵 ====&lt;br /&gt;
豊臣秀吉の四国攻めにより四国は豊臣体制に繰り込まれ、太閤検地と軍役動員により四国諸勢力は近世大名へと変貌を遂げていった。また、秀吉の関白任官以降の基調となった[[惣無事]]の論理により諸大名は私戦や[[自力救済]]による領土拡張を禁じられ、これを破るものは[[豊臣政権]]による制裁を受けた。しかし、秀吉の死去に伴い次第に指導力を強めていった徳川家康に反発して[[関ヶ原の戦い]]が勃発する。&lt;br /&gt;
{{See also|関ヶ原の戦い#四国|[[三津刈屋口の戦い]]}}&lt;br /&gt;
このように[[毛利輝元]]は豊臣政権を運営する大老として惣無事の論理を以って西軍諸将を統制・動員しつつ、一方では伊予を版図に加えるべく豊臣政権によって廃絶された旧領主や土着勢力を動員して四国へ出兵し(「[[三津刈屋口の戦い]]」)、惣無事以前の戦国時代的領土拡張の行動を取った&amp;lt;ref name=&amp;quot;mitsunari2009&amp;quot;&amp;gt;光成準治『関ヶ原前夜 西軍大名達の戦い』2009年&amp;lt;/ref&amp;gt;。このように秀吉の死後に豊臣体制が崩壊し、徳川体制への移行の過程で戦乱が収束して安定期に入ると江戸幕府による四国八藩体制は幕末まで長らく続くこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*山本浩樹『戦争の日本史12 西国の戦国合戦』（[[吉川弘文館]]、2007年） ISBN 9784642063227&lt;br /&gt;
*谷口克広『戦争の日本史13 信長の天下布武への道』（吉川弘文館、2006年） ISBN 4642063234&lt;br /&gt;
*[[小和田哲男]]著『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』（吉川弘文館、2006年） ISBN 4642063250&lt;br /&gt;
*藤田達生「豊臣期国分に関する一考察 -四国国分を中心に-」1991年&lt;br /&gt;
*山本大・杉本尚雄「四国平定」（桑田忠親監修『日本の合戦第六巻 豊臣秀吉』）1965年&lt;br /&gt;
*旧参謀本部編『日本の戦史4 小牧・九州・小田原の役』1965年&lt;br /&gt;
*『徳島県史 第二巻』（徳島県、1966年）&lt;br /&gt;
*『高知県史 古代中世編』（高知県、1971年）&lt;br /&gt;
*『愛媛県史 古代2・中世』（愛媛県、1984年）&lt;br /&gt;
*『香川県史 第二巻 通史編 中世』（香川県、1989年）&lt;br /&gt;
*『香川県史 第三巻 通史編 近世1』（香川県、1989年）&lt;br /&gt;
*『兵庫県史 第3巻』（兵庫県、1978年）&lt;br /&gt;
*『広島県史 近世1』（広島県、1981年）&lt;br /&gt;
*『和歌山県史 中世』（和歌山県、1994年）&lt;br /&gt;
*山本大編『図説 高知県の歴史』（[[河出書房新社]]、1991年） ISBN 4309611397&lt;br /&gt;
*荻慎一郎他『高知県の歴史』（[[山川出版社]]、2001年） ISBN 4634323907&lt;br /&gt;
*内田九州男他『愛媛県の歴史』（山川出版社、2003年） ISBN 463432380X&lt;br /&gt;
*山本大『長宗我部元親』（1960年初版、1988年新装版、吉川弘文館） ISBN 4642051031&lt;br /&gt;
*橋詰茂『瀬戸内海地域社会と織田権力』（思文閣出版、2007年） ISBN 9784784213337&lt;br /&gt;
*藤田達生『謎とき 本能寺の変』（[[講談社現代新書]]、2003年） ISBN 4061496859&lt;br /&gt;
*谷口克広『検証 本能寺の変』（吉川弘文館、2007年） ISBN 9784642056328&lt;br /&gt;
*有光友學編『日本の時代史12 戦国の地域国家』（吉川弘文館、2003年） ISBN 4642008128&lt;br /&gt;
:（主に岸田裕之「統合へ向かう西国地域」）&lt;br /&gt;
*藤田達生編『小牧・長久手の戦いの構造 戦場論 上』（岩田書院、2006年） ISBN 4872944224&lt;br /&gt;
:（うち津野倫明「小牧・長久手の戦いと長宗我部氏」）&lt;br /&gt;
*『[[日本城郭大系]]』第16巻（[[新人物往来社]]、1980年）&lt;br /&gt;
*峰岸純夫・片桐昭彦編『戦国武将・合戦事典』（吉川弘文館、2005年） ISBN 4642013431&lt;br /&gt;
*[[今谷明]]『戦国の世』（[[岩波書店]]&amp;amp;lt;岩波ジュニア新書&amp;amp;gt;、2000年） ISBN 4-00-500335-4&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[天正の陣]]&lt;br /&gt;
*[[日本史の出来事一覧]]&lt;br /&gt;
*[[日本の合戦一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しこくせめ}}&lt;br /&gt;
[[Category:安土桃山時代の戦い]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の戦国時代の戦い]]&lt;br /&gt;
[[Category:四国地方の歴史]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>58.89.8.132</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E6%9C%9D&amp;diff=10751</id>
		<title>サーサーン朝</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E6%9C%9D&amp;diff=10751"/>
		<updated>2014-06-28T03:42:11Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;58.89.8.132: /* 滅亡 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{出典の明記|date=2007年2月}}&lt;br /&gt;
{{基礎情報 過去の国&lt;br /&gt;
|略名       = ペルシア&lt;br /&gt;
|日本語国名 = サーサーン朝&lt;br /&gt;
|公式国名   = &#039;&#039;&#039;{{Lang|fa|}}&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|建国時期   = [[226年]]&lt;br /&gt;
|亡国時期   = [[651年]]&lt;br /&gt;
|先代1      = パルティア&lt;br /&gt;
|先旗1      = &lt;br /&gt;
|先代2      = インド・パルティア王国&lt;br /&gt;
|先旗2      = &lt;br /&gt;
|先代3      = クシャーナ朝&lt;br /&gt;
|先旗3      = &lt;br /&gt;
|先代4      = アルメニア王国&lt;br /&gt;
|先旗4      = &lt;br /&gt;
|先代5      = ラフム朝&lt;br /&gt;
|先旗5      = &lt;br /&gt;
|次代1      = クシャーノ・サーサーン朝&lt;br /&gt;
|次旗1      = &lt;br /&gt;
|次代2      = 正統カリフ&lt;br /&gt;
|次旗2      = Black flag.svg&lt;br /&gt;
|次代3      = ダブワイド朝&lt;br /&gt;
|次旗3      = &lt;br /&gt;
|国旗画像   = Derafsh Kaviani.png&lt;br /&gt;
|国旗リンク = &amp;lt;!--「&amp;quot;略名&amp;quot;の国旗」以外を指定--&amp;gt;&lt;br /&gt;
|国旗説明   =&lt;br /&gt;
|国旗幅     = &amp;lt;!--初期値125px--&amp;gt;&lt;br /&gt;
|国旗縁     = &amp;lt;!--no と入力すると画像に縁が付かない--&amp;gt;&lt;br /&gt;
|国章画像   = &amp;lt;!--画像ファイル名を入力--&amp;gt;&lt;br /&gt;
|国章リンク =&lt;br /&gt;
|国章説明   =&lt;br /&gt;
|国章幅     = &amp;lt;!--初期値85px--&amp;gt;&lt;br /&gt;
|標語       =&lt;br /&gt;
|国歌名     =&lt;br /&gt;
|国歌追記   =&lt;br /&gt;
|位置画像   = Carte empire Sassanide.png&lt;br /&gt;
|位置画像説明  =&lt;br /&gt;
|公用語        = 中世ペルシア語（[[パフラヴィー語]]）&lt;br /&gt;
|首都          = [[クテシフォン]]&lt;br /&gt;
|元首等肩書    = [[シャーハンシャー]]&lt;br /&gt;
|元首等年代始1 = [[226年]]&lt;br /&gt;
|元首等年代終1 = [[241年]]&lt;br /&gt;
|元首等氏名1   = [[アルダシール1世]](初代)&lt;br /&gt;
|元首等年代始2 = [[241年]]&lt;br /&gt;
|元首等年代終2 = [[272年]]&lt;br /&gt;
|元首等氏名2   = [[シャープール1世]](第2代)&lt;br /&gt;
|元首等年代始3 = [[309年]]&lt;br /&gt;
|元首等年代終3 = [[379年]]&lt;br /&gt;
|元首等氏名3   = [[シャープール2世]](第10代)&lt;br /&gt;
|元首等年代始4 = [[531年]]&lt;br /&gt;
|元首等年代終4 = [[579年]]&lt;br /&gt;
|元首等氏名4   = [[ホスロー1世]](第22代)&lt;br /&gt;
|元首等年代始5 = [[632年]]&lt;br /&gt;
|元首等年代終5 = [[651年]]&lt;br /&gt;
|元首等氏名5   = [[ヤズデギルド3世]](最後)&lt;br /&gt;
|面積測定時期1 =&lt;br /&gt;
|面積値1       =&lt;br /&gt;
|面積測定時期2 =&lt;br /&gt;
|面積値2       =&lt;br /&gt;
|面積測定時期3 =&lt;br /&gt;
|面積値3       =&lt;br /&gt;
|面積測定時期4 =&lt;br /&gt;
|面積値4       =&lt;br /&gt;
|面積測定時期5 =&lt;br /&gt;
|面積値5       =&lt;br /&gt;
|人口測定時期1 =&lt;br /&gt;
|人口値1       =&lt;br /&gt;
|人口測定時期2 =&lt;br /&gt;
|人口値2       =&lt;br /&gt;
|人口測定時期3 =&lt;br /&gt;
|人口値3       =&lt;br /&gt;
|人口測定時期4 =&lt;br /&gt;
|人口値4       =&lt;br /&gt;
|人口測定時期5 =&lt;br /&gt;
|人口値5       =&lt;br /&gt;
|変遷1         = 成立&lt;br /&gt;
|変遷年月日1   = [[226年]]&lt;br /&gt;
|変遷2         =&lt;br /&gt;
|変遷年月日2   =&lt;br /&gt;
|変遷3         =&lt;br /&gt;
|変遷年月日3   =&lt;br /&gt;
|変遷4         = 事実上崩壊&lt;br /&gt;
|変遷年月日4   = [[642年]]&lt;br /&gt;
|変遷5         = 滅亡&lt;br /&gt;
|変遷年月日5   = [[651年]]&lt;br /&gt;
|通貨          =&lt;br /&gt;
|注記          = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;サーサーン朝&#039;&#039;&#039;（サーサーンちょう、{{lang-en-short|Sassanid}}、{{lang-fa-short|ساسانيان}} - {{ラテン翻字|fa|ISO|Sāsāniyān}} 、[[226年]] - [[651年]]）はイラン高原・[[メソポタミア]]などを支配した[[王朝]]・[[帝国]]。首都は[[クテシフォン]]（現在のイラク）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 名称 ==&lt;br /&gt;
しばしば&#039;&#039;&#039;ササン朝ペルシア&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;ササン朝ペルシャ&#039;&#039;&#039;とも呼ばれる。単に&#039;&#039;&#039;ペルシア帝国&#039;&#039;&#039;または&#039;&#039;&#039;ペルシャ帝国&#039;&#039;&#039;といった場合は、サーサーン朝か[[アケメネス朝]]を指すことが多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
{{イランの歴史}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
サーサーン朝は、[[アケメネス朝]]と同じく[[イラン高原]]の[[ファールス州|パールス地方]]から勃興した勢力で、その支配領域は&#039;&#039;&#039;エーラーン・シャフル&#039;&#039;&#039; Ērān Šahr と呼ばれ、おおよそ[[アナトリア]]東部、[[アルメニア]]から[[アムダリア川]]西岸、[[アフガニスタン]]周辺まで及んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
特に始祖アルダフシール（[[アルダシール1世]]）自身が[[ゾロアスター教]]の[[神官]]階層から出現したこともあって、様々な変遷はあったもののゾロアスター教と強い結びつきを持った帝国であった。[[ゾロアスター教]]を国教とし、[[アケメネス朝|アケメネス朝ペルシャ]]の復興を目標とした。ペルシアを支配した勢力の中で、ゾロアスター教を国教とした最後の国である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
=== 起源 ===&lt;br /&gt;
サーサーン朝の起源については不明な点が多い。サーサーン朝を開いたのは[[アルダシール1世]]であるが、彼の出自は謎に包まれている。まず王朝の名に用いられている{{仮リンク|サーサーン|en|Sasan}}と言う人物が何者であるのかもはっきりしない。サーサーンが王位に付いたという事実は現在までのところ確認されてはいないし、サーサーンに関する伝説でも、アケメネス朝の後裔とするものやパールスの王族であったとするもの、神官であったとするものなどがある。アルダシールの父親{{仮リンク|バーバク|fr|Papak}}（パーパクとも）は[[ファールス州|パールス地方]]の支配権を持った王であり、サーサーン朝が実際に独立勢力となったのは彼の時代である。彼はサーサーンの息子とも遠い子孫ともいわれる。しかし、バーバクは間もなく[[パルティア]]と戦って敗れ、結局パルティアの宗主権下に納まった。そしてバーバクの跡を継いだアルダシール1世がサーサーン朝を偉大な帝国として起こすことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アルダシール1世は西暦[[224年]]に即位すると再びパルティアとの戦いに乗り出し、[[エリマイス王国]]など[[イラン高原]]の諸国を次々制圧した。同年4月に{{仮リンク|ホルミズダガンの戦い|en|Battle of Hormizdegan}}でパルティア王[[アルタバヌス4世]]と戦って勝利を収め、「[[諸王の王]]」というアルサケス朝の称号を引き継いで使用した。この勝利によって[[パルティア#7大貴族|パルティアの大貴族]]がアルダシール1世の覇権を承認するようになった。[[230年]]には[[メソポタミア]]全域を傘下に納め、[[セウェルス朝]]の介入を排して[[アルメニア]]にまで覇権を及ぼした。東では[[クシャーナ朝]]や[[トゥーラーン]]の王達との戦いでも勝利を納め、彼らに自らの宗主権を承認させ、旧パルティア領の大半を支配下に置くことに成功した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:Bas relief nagsh-e-rostam al.jpg|thumb|280px|right|降服する[[ウァレリアヌス]]帝らと騎乗のシャープール1世。[[ナグシェ・ロスタム]]の磨崖像より]]&lt;br /&gt;
以後サーサーン朝とローマ諸王朝（[[東ローマ帝国|東ローマ諸王朝]]）はサーサーン朝が滅亡するまで断続的に衝突を繰り返した。アルダシール1世の後継者[[シャープール1世]]は、[[セウェルス朝]]との戦争で戦果を挙げた。[[244年]]、[[歴史的シリア|シリア地方]]の安全保障のためにサーサーン朝が占領していた{{仮リンク|ヌーサイビン|en|Nusaybin|label=ニシビス}}などの都市を奪回すべく[[ゴルディアヌス3世]]がサーサーン朝へと侵攻した。これを迎え撃ったシャープール1世は{{仮リンク|ミシケの戦い|en|Battle of Misiche|label=マッシナの戦い}}でゴルディアヌス3世を戦死させた。そして、新皇帝となった[[フィリップス・アラブス|フィリップス]]との和平において莫大な賠償金を獲得した。後に[[ヴァレリアヌス]]が再度サーサーン朝と開戦したが、シャープール1世は[[260年]]の[[エデッサの戦い]]でヴァレリアヌスを捕虜にするという大戦果を収めた。シャープール1世は馬上のシャープール1世にひざまずいて命乞いをするヴァレリアヌスの浮き彫りを作らせた。そしてこれ以後、「エーラーンとエーラーン外の[[諸王の王]]」（Šāhān-šāh Ērān ud Anērān）を号するようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 王位継承問題と弱体化 ===&lt;br /&gt;
[[File:Tour nagsh-e-rostam iran.jpg|thumb|200px|right|[[ナグシェ・ロスタム]]の「ゾロアスターのカアバ」[[:en:Ka&#039;ba-i Zartosht]] と呼ばれる遺跡。建物自体の用途は不明だが、下部の壁面にカルティールによって書かれた長大なパフラヴィー語碑文がある。]]&lt;br /&gt;
シャープール1世が死去すると長男の[[ホルミズド1世]]（ホルミズド・アルダシール）が即位したが、間もなく死去したので続いて次男の[[バハラーム1世]]が即位した。バハラーム1世の治世ではシャープール1世の時代に祭司長となっていた[[カルティール]]（キルデール）が影響力を大幅に拡大していった。カルティールは王と同じように各地に碑文を残しており、その絶大な権力がうかがい知れる。ゾロアスター教の祭司として宗教活動に勤しんだ彼は異端宗教の排除を主張し、[[マニ教]]や[[仏教]]、[[ネストリウス派]]キリスト教などの排斥を進めた。マニ教の経典によればカルティールは教祖マニの処刑に関わっていたとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
バハラーム1世が死去すると、その弟であった[[ナルセ1世]]と、息子であった[[バハラーム2世]]との間で不穏な気配が流れた。既にバハラーム1世の生前にバハラーム2世が後継者に指名されていたが、ナルセ1世はこれに激しく反発した。しかしカルティールや貴族の支持を得たバハラーム2世が即位した。バハラーム2世の治世には[[ホラーサーン]]の反乱や対ローマ戦の敗北などがあったが、ホラーサーンの反乱は鎮圧した。カルティールは尚も強い影響力を保持し続けた。バハラーム2世の死去後、その息子[[バハラーム3世]]が更に王位に就く。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ナルセ1世はこれに強く反対し、またカルティールなどと敵対する中小の貴族の支援を受けバハラーム3世を排除した。王位についたナルセ1世はメソポタミア西部やその他の州の奪回を目指して東ローマ軍と戦い、西メソポタミアを奪回。一方でアルメニアを喪失し、両国の間に和平協定が結ばれ、和平は40年間に渡って維持された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 統治体制の完成 ===&lt;br /&gt;
[[File:Julian Campaign 363.png|thumb|280px|right|ユリアヌスの東方遠征（[[363年]]）。]]&lt;br /&gt;
ナルセ1世の死後、[[ホルミズド2世]]の短い治世を経て[[シャープール2世]]が即位した。シャープール2世は生まれる前に貴族や聖職者達によって擁立された。ホルミズド2世には多くの息子がいたが、長男は貴族たちによって殺害され、次男、三男は幽閉されて王位から退けられた。そしてまだ生まれてすらいない胎児であったシャープール2世が即位することが決定され、シャープール2世の母親のお腹の上に王冠が戴せられた。こうしてシャープール2世は生まれると同時に即位し、少年時代を通じて貴族達の傀儡として過ごした。しかし、長じるに順って実権を握りサーサーン朝史上最長の在位期間を持つ王となった。シャープール2世は[[スサ]]の反乱を速やかに鎮圧し城壁を破壊。また前王の死後領内に侵入していた[[アラブ人]]と戦ってこれを撃退し、アラビア半島の奥深くまで追撃して降伏させた。ローマ軍との戦いでは、[[363年]]に{{仮リンク|クテシフォンの戦い|en|Battle of Ctesiphon (363)|label=クテシフォンの戦い}}で侵攻してきた[[フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス|ユリアヌス]]を戦死させ、アルメニアの支配権を握るなどした。東方の[[トゥーラーン]]では[[フン族]]の一派と思われる集団が侵入したが、シャープール2世は彼らを同盟者とすることに成功した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
対外的な成功を続けたシャープール2世は、領内統治に関しては数多くの都市を再建し各地に要塞と城壁を築いて外敵の侵入に備えた。また、ナルセ1世以来の宗教寛容策を捨ててゾロアスター教の教会制度を整備し、キリスト教やマニ教への圧力を強めた。こうしてシャープール2世の治世では、サーサーン朝の統治体制が1つの完成を見たとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中間期 ===&lt;br /&gt;
[[File:Taq-e Bostan - High-relief Shapur II and Shapur III.jpg|thumb|280px|right|[[ターク・イ・ブスタン]]小洞の[[シャープール3世]]（左）とその父[[シャープール2世]]（右）の像。像の左上、右上に各々の像主について[[パフラヴィー語]]碑文が書かれている。]]&lt;br /&gt;
シャープール2世の跡を継いで[[379年]]に王となった[[アルダシール2世]]、続く[[シャープール3世]]は短命に終わる。[[バハラーム4世]]の治世に入ると[[フン族]]が来襲したが、バハラーム4世は彼らを同盟した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
バハラーム4世の死後、[[ヤズデギルド1世]]が即位した。ヤズデギルド1世は「罪人」の異名を与えられているが、その真の理由は分かっていない。友人にキリスト教徒の医師がいたためにキリスト教に改宗したからだとも言われ、またヤズデギルド1世の許可の下で[[410年]]に{{仮リンク|セレウキア公会議|en|Council of Seleucia-Ctesiphon}}が開かれたためとも言われているが、ヤズデギルド1世がキリスト教徒に特別寛容であったかどうかは判然としていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヤズデギルド1世の死後、再び王位継承の争いが起き、短命王が続いた後{{仮リンク|バハラーム5世|en|Bahram V}}が即位した。バハラーム5世はゾロアスター教聖職者の言を入れてキリスト教徒の弾圧を行ったために多くのキリスト教徒が国外へ逃亡した。亡命者を巡ってサーサーン朝とテオドシウス朝の間で交渉が持たれたが決裂。[[422年]]に戦争（[[:en:Roman–Sassanid War (421–422)]]）に敗北し領内におけるキリスト教徒の待遇改善を約束した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== エフタルの脅威 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:HephthaliteCoin.jpg|thumb|300px|{{仮リンク|インド・エフタル|en|Indo-Hephthalites}} {{仮リンク|ナプキ・マルカ|en|Napki Malka}}王(c.475-576)の[[ビロン|貨幣用合金]][[ドラクマ]]。]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[425年]]、バハラーム5世の治世に東方から[[エフタル]]の侵入があった。バハラーム5世はこれを抑えて中央アジア方面でのサーサーン朝の勢力を拡大したが、以後エフタルはサーサーン朝の悩みの種となる。[[428年]]に{{仮リンク|アルサケス朝アルメニア|en|Arsacid dynasty of Armenia}}が滅亡し、{{仮リンク|サーサーン朝アルメニア|en|Persian Armenia}}が成立。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
バハラーム5世の跡を継いだ息子の{{仮リンク|ヤズデギルド2世|en|Yazdegerd II}}は、[[東ローマ帝国]]の[[テオドシウス2世]]と紛争（[[:en:Byzantine–Sasanian War of 440]]）の後、[[441年]]に相互不可侵を結んだ。[[443年]]、{{仮リンク|キダーラ朝|en|Kidarites}}との戦いを始め、[[450年]]に勝利を納めた。国内において、キリスト教徒であったアルメニア人をゾロアスター教に改宗を迫り動乱が発生した。テオドシウス朝がアルメニアを支援したが、[[451年]]にヤズデギルド2世が[[:en:Battle of Avarayr]]で勝利しキリスト教の煽動者を処刑、支配を固めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヤズデギルド2世の治世末期より、強大化したエフタルはサーサーン朝への干渉を強めた。ヤズデギルド2世は東部国境各地を転戦したが、決定的打撃を与えることなく西暦[[457年]]世を去った。彼の二人の息子、ホルミズドと{{仮リンク|ペーローズ1世|en|Peroz I}}は王位を巡って激しく争いペーローズ1世はエフタルの支援を受け帝位に就いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[458年]]にサーサーン朝アルメニアで[[ゾロアスター教]]への改宗を拒む{{仮リンク|マミコニア家|en|Mamikonian}}の王女が夫Varskenに殺害された。エフタルの攻撃を受けサーサーン朝が東方に兵を振り向けていたため、{{仮リンク|イベリア王国|en|Caucasian Iberia}}の[[:en:Vakhtang I Gorgasali]]がこの争いに介入してVarskenも殺された。ペーローズ1世は{{仮リンク|アードゥル・グシュナスプ|en|Adhur Gushnasp}}を派遣したが、[[:en:Vahan I Mamikonian]]が蜂起してVakhtang I Gorgasaliに合流。アードゥル・グシュナスプは再攻撃を試みたが敗れて殺された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ペーローズ1世はエフタルの影響力を排除すべく[[469年]]にエフタルを攻めたが、敗れてペーローズ1世は捕虜となり、息子の{{仮リンク|カワード1世|en|Kavadh I}}を人質に差し出しエフタルに対する莫大な貢納を納める盟約を結んだ。旱魃により財政事情は逼迫、[[484年]]に再度エフタルを攻めたが敗死した（{{仮リンク|ヘラートの戦い (484年)|en|Battle of Herat (484)|label=ヘラートの戦い}}）。ペーローズ1世の死後、貴族達によって{{仮リンク|バラーシュ1世|en|Balash}}（在位：[[484年]]-[[488年]]）が推挙され帝位に就いた。[[485年]]には[[:en:Vahan I Mamikonian]]がサーサーン朝アルメニアの[[:en:Marzban]]に即位。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人質に出ていたカワード1世（在位：[[488年]]–[[496年]]、[[498年]]-[[531年]]）がエフタルの庇護の下で帰国すると、バラーシュ1世から帝位を奪った。しかし、[[マズダク教]]の扱いを巡り貴族達と対立したため幽閉されて廃位され、{{仮リンク|ジャーマースプ|en|Djamasp}}が皇帝となった。幽閉されたカワード1世は逃亡してエフタルの下へ逃れ、エフタルの支援を受け再び首都に乗り込んだ。[[498年]]、ジャーマースプは抵抗することなく帝位返還に同意、カワード1世が復位した。同年、[[ネストリウス派]]の総主教が{{仮リンク|セレウキア-クテシフォン|en|Al-Mada&#039;in}}に立てられた。カワード1世は、帝位継承に際して貴族の干渉を受けずにこれを行うことを目指し、後継者を息子の[[ホスロー1世]]とした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[502年]]、カワード1世はエフタルへの貢納の費用を捻出するため東ローマ領へ侵攻し（[[:en:Anastasian War]]）、領土を奪うとともに領内各地の反乱を鎮圧した。この戦いが[[:en:Byzantine–Sassanid Wars]]（[[502年]]–[[628年]]）の始まりであった。&lt;br /&gt;
[[526年]]、{{仮リンク|イベリア戦争|en|Iberian War}}（[[526年]]–[[532年]]）が、[[東ローマ帝国]]・{{仮リンク|ラフム朝|en|Lakhmids}}連合軍との間で行なわれた。&lt;br /&gt;
[[530年]]、[[:en:Battle of Dara|Battle of Dara]]、[[:en:Battle of Satala (530)|Battle of Satala]]。&lt;br /&gt;
[[531年]]、[[:en:Battle of Callinicum|Battle of Callinicum]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 最盛期 ===&lt;br /&gt;
カワード1世の跡を継いだ[[ホスロー1世]]（在位：[[531年]]-[[579年]]）の治世はサーサーン朝の最盛期と称される。ホスロー1世は父帝の政策を継承して大貴族の影響力排除を進め、またマズダク教の活動を抑制して社会秩序を回復、軍制改革にも取り組んだ。とりわけ中小貴族の没落を回避のため、軍備費用の自己負担を廃止して武器を官給とした。一方、宗教政策に力を入れ、末端にも聖火の拝礼を奨めるなど神殿組織の再編を試みた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、東ローマではキリスト教学の発達に伴って異教的学問の排除が進み、[[529年]]には[[東ローマ帝国]]の[[ユスティニアヌス1世]]が非[[キリスト教]]的な学校を閉鎖する政策を実施したため、[[アテネ]]の[[アカデミア]]が閉鎖された。このために失業した学者が数多くサーサーン朝に移住し、ホスロー1世は学問を奨励して彼らのための施設を作って受け入れた。それ以前に、エジプトでも[[415年]]に[[ヒュパティア]]が[[キリスト教徒]]により[[異教徒]]として虐殺され、エジプトからも学者が数多くサーサーン朝に亡命して来ていた。この結果、ギリシア語やラテン語の文献が多数翻訳された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[File:ChosroesHuntingScene.JPG|thumb|280px|right|ホスロー1世の狩猟図を描いた銀盤]]&lt;br /&gt;
ホスロー1世からホスロー2世の時代にかけて、各地の様々な文献や翻訳文献を宮廷の図書館に収蔵させたと伝えられている。宗教関係では『[[アヴェスター]]』などのゾロアスター教の聖典類も書写され、これらの注釈などのために各種のパフラヴィー語による『ヤシュト』もこの時期に文書化された。『アヴェスター』書写のためアヴェスター文字も既存のパフラヴィー文字を改良して創制され、現存するゾロアスター教文献など一連のゾロアスター教資料群の基礎はこの時期に作成されたものを直接の起源としていると現在考えられている。現存しないが、後の『[[シャー・ナーメ]]』の前身となる、古代からサーサーン朝時代まで続く歴史書『{{仮リンク|フワダーイ・ナーマグ|en|Khwaday-Namag}}』（Χwadāy Nāmag）は、この頃に編纂されたと思われる。&amp;lt;ref&amp;gt;ディミトリ・グタス『ギリシア思想とアラビア文化―初期アッバース朝の翻訳運動』（山本啓二 訳）勁草書房, 2002/12/20. &amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[タバリー]]などの後代の記録では、ホスロー1世の時代から（おもにホスロー2世の時代にかけて）ギリシア語に翻訳されていた古典の天文・医学・自然科学などの諸文献が[[パフラヴィー語]]（中期ペルシア語）へ大量に翻訳され宮廷の図書館へ収蔵されたことが伝えられており、さらに『パンチャ・タントラ』などのインド方面の[[サンスクリット]]諸文献も積極的に移入・パフラヴィー語訳が作られたという。（この時期のインド方面からの文物の移入については、例えば、[[チェス]]がインドからサーサーン朝へ移入された経緯が述べられているパフラヴィー語による[[シャトランジ]]の歴史物語『{{仮リンク|シャトランジ解き明かしの書|fa|گزارش شطرنج}}』（チャトラング・ナーマグ、Chatrang-namak）もホスローと彼に仕えた大臣{{仮リンク|ブズルグミフル|en|Bozorgmehr|label=ブズルグミフル・イ・ボーフタガーン}}（{{lang-fa|بُزُرْگْمِهْر بُخْتَگان}}、転写: {{lang|en|Bozorgmehr-e Bokhtagan}}）の話である。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5世紀前後からオマーンやイエメンといったアラビア半島へ遠征や鉱山開発などのため入植を行わせており、イラク南部の{{仮リンク|ラフム朝|en|Lakhmids}}などの周辺のアラブ系王朝も傘下に置くようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ホスロー1世は、[[ユスティニアヌス1世]]の西方経略の隙に乗じて圧力を掛け貢納金を課し、また度々東ローマ領へ侵攻して賠償金を得た。[[ユスティニアヌス王朝|ユスティニアヌス朝]]との間に50年間の休戦を結ぶと、[[558年]]に東方で影響力を拡大するエフタルに対して[[突厥]]西方（現[[イリ]]）の[[室点蜜]]と同盟を結び攻撃を仕掛け、長年の懸案であったエフタルを滅亡させた。一方でエフタルの故地を襲った突厥との友好関係を継続すべく婚姻外交を推し進めたが[[588年]]の{{仮リンク|第一次ペルソ・テュルク戦争|en|First Perso-Turkic War}}で対立に至り、結局エフタルを滅ぼしたものの領土の拡張は一部に留まった。[[569年]]からビザンチンと[[西突厥]]は同盟関係となっていたことから、{{仮リンク|ビザンチン・サーサーン戦争 (572年-591年)|en|Byzantine–Sassanid War of 572–591}}を引き起こすことになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 滅亡 ===&lt;br /&gt;
[[File:Persia 600ad.jpg|thumb|280px|right|600年前後のサーサーン朝周辺]]&lt;br /&gt;
ホスロー1世の死後、息子の{{仮リンク|ホルミズド4世|en|Hormizd IV}}が即位。[[590年]]にクーデターに遭い、両目を潰された後、処刑された。跡を継いでホルミズド4世の息子{{仮リンク|ホスロー2世|en|Khosrau II}}が即位したが、東方で{{仮リンク|バフラーム・チョービーン|en|Bahrām Chobin}}の反乱が発生したためホスロー2世は東ローマ国境付近まで逃走し、王位は簒奪された。ユスティニアヌス朝の[[マウリキウス]]の援助を得て反乱を鎮圧したが、[[602年]]に当のユスティニアヌス朝で政変が起こりマウリキウスが殺され[[フォカス]]が帝位を僭称すると、仇討を掲げて攻め（{{仮リンク|ビザンチン・サーサーン戦争 (602年-628年)|en|Byzantine–Sassanid War of 602–628}}）、フォカスは初戦で大勝を収めた。東ローマ帝国では[[610年]]に[[ヘラクレイオス]]がフォカスを倒して皇帝位に即き、[[ヘラクレイオス王朝|ヘラクレイオス朝]]を興していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
連年のホスロー2世率いるサーサーン朝軍の侵攻によって、ヘラクレイオスは即位直後から劣勢となり、[[613年]]にはシリアの[[ダマスクス]]、{{仮リンク|アンティオキアの戦い (613年)|en|Battle of Antioch (613)|label=シリア}}、翌[[614年]]には聖地[[エルサレム]]が陥落し（{{仮リンク|エルサレム包囲戦 (614年)|en|Siege of Jerusalem (614)|label=エルサレム包囲戦}}）、このとき[[エルサレム]]から「[[聖十字架|真なる十字架]]」を持ち帰ったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[615年]]に{{仮リンク|サーサーン朝のエジプト征服|en|Sassanid conquest of Egypt|label=エジプト征服}}が始まり、[[619年]]に{{仮リンク|第二次ペルソ・テュルク戦争|en|Second Perso-Turkic War}}が起こった。[[621年]]にサーサーン朝は[[アエギュプトゥス|エジプト]]全土を占領し、[[アナトリア]]を占領、アケメネス朝の旧領域を支配地に組み入れた。一時はコンスタンティノープルも包囲し、ヘラクレイオス自身も故地[[カルタゴ]]まで逃亡を計ろうとした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、[[622年]]に{{仮リンク|カッパドキアの戦い (622年)|en|Heraclius&#039; campaign of 622|label=カッパドキアの戦い}}でヘラクレイオスが反撃へ転じ、被占領地を避け黒海東南部沿岸から直接中枢部イラクへ侵入した。サーサーン朝は[[アヴァール]]と共同でヘラクレイオス不在の首都[[コンスタンティノポリス]]を包囲し、呼応して{{仮リンク|第三次ペルソ・テュルク戦争|en|Third Perso-Turkic War}}も起こったが、コンスタンティノポリスでは撃退される（{{仮リンク|コンスタンティノープル包囲戦 (626年)|en|Siege of Constantinople (626)|label=コンスタンティノープル包囲戦}}）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[627年]]、ヘラクレイオスの[[親征|親卒]]する東ローマ軍がクテシフォン近郊へ侵攻（{{仮リンク|ニネヴェの戦い (627年)|en|Battle of Nineveh (627)|label=ニネヴェの戦い}}）、ホスロー2世の長年に渡る戦争と内政を顧みない統治で疲弊を招いていた結果、クテシフォンで反乱が起こりホスロー2世は息子の{{仮リンク|カワード2世|en|Kavadh II}}に裏切られ殺された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[File:Cherub plaque Louvre MRR245 n2.jpg|thumb|280px|right|{{仮リンク|ホスロー2世|en|Khosrau II}}を屈服させるヘラクレイオス1世。（十字架に描かれた七宝製画像。12世紀後半）]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
カワード2世は即位するとヘラクレイオス朝との関係修復のため聖十字架を返還したが、程なくして病死。王位継承の内戦が発生した。長期に渡る混乱の末、29代目で最後の王となる[[ヤズデギルド3世]]が即位したが、サーサーン朝の国力は内乱やイラク南部における[[チグリス川|ディジュラ]]・[[ユーフラテス川|フラート河]]とその支流の大洪水に伴う流路変更と農業適地の消失（湿地化の進行）により消耗していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[アラビア半島]]に勃興した[[イスラム帝国|イスラム共同体]]が勢力を拡大、東ローマ領に続きサーサーン領へ侵入し始める。[[633年]]に[[ハーリド・イブン＝アル＝ワリード]]率いるイスラム軍がイラク南部のサワード地方に侵攻。現地のサーサーン軍は敗れ、サワード地方の都市の多くは降伏勧告に応じて開城した。その後、ハーリドがシリア戦線に去ると、イスラム軍は統率を失い、進撃は停滞、ヤズデギルド3世は各所でこれらを破り、一時、サーサーン朝によるイラク防衛は成功するかに見えた&amp;lt;ref&amp;gt;後藤明、吉成勇編『世界「戦史」総覧』新人物往来社、1998年、pp.46-47&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし、アブー・バクルの死によるカリフの交代と共に、ペルシア戦線におけるイスラム軍の指揮系統は一新され、[[636年]]{{仮リンク|カーディスィーヤの戦い|en|Battle of al-Qādisiyyah}}で敗北、首都クテシフォンが包囲されるに及んでヤズデギルド3世は陥落前に逃亡、サーサーン朝の領国では飢饉や疫病が蔓延していたという。クテシフォンの北東にあったジャルーラーウでザグロス山脈周辺から軍を召集して反撃を試みたが、イスラム軍の攻撃を受け大敗した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[641年]]にヤズデギルド3世は{{仮リンク|レイ (イラン)|en|Rey, Iran|label=ライ}}、{{仮リンク|シャールザー|en|Shahreza|label=クーミス}}、[[エスファハーン]]、[[ハマダーン]]などイラン高原西部から兵を徴集して6万とも10万とも言われる大軍を編成、対して[[ウマル]]も軍営都市の[[バスラ]][[クーファ]]から軍勢を招集する。[[642年]]に[[ニハーヴァンドの戦い]]でサーサーン軍とイスラム軍は会戦、サーサーン軍は敗れた。敗戦後エスファハーンからパールス州のイスタフルへ逃れたが、エスファハーンも[[643年]]から[[644年]]にかけてイスラム軍に制圧された。再起を計って東方へ逃れ[[ケルマーン]]や[[スィースターン]]へ赴くが、現地辺境総督（マルズバーン）の反感を買って北へ逃れざるを得なくなり[[ホラーサーン]]の[[メルヴ]]へ逃れた。しかし、[[651年]]にヤズデギルド3世はメルヴ総督のマーフワイフの裏切りにより殺害され、サーサーン朝は断絶した。国の東方に遠征駐屯していた王子ペーローズとその軍はその地に留まり反撃の機会を窺い、さらに東方の[[唐]]の助勢を求め、自らが首都の[[長安]]まで赴いたりもしたが、上手く行かずに終息した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
サーサーン朝の滅亡は、ムスリムにとってはイスラーム共同体が世界帝国へ発展していく契機となった栄光の歴史として記憶されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 後世への影響 ==&lt;br /&gt;
後期サーサーン朝では官僚的中央集権化が進み、その諸制度は後の[[アッバース朝]]などの[[イスラム帝国]]に引き継がれた。また、後代にはサーサーン朝最後の君主ヤズデギルド3世の娘シャフル・バーヌーが[[シーア派]]の第3代[[イマーム]]・[[フサイン]]の妻の一人となり、第4代イマーム・[[アリー・ザイヌルアービディーン]]の生母となった、といったものや[[サファヴィー朝]]の宗祖[[サフィー・アッディーン・イスハーク・アルダビーリー|サイイド・サフィーユッディーン・イスハーク]]（[[1252年|1252/]][[1253年|3年]] - [[1334年]]）がサーサーン王家の血を引いているなどの伝承が生まれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
特にアッバース朝が衰退をはじめる10世紀以降も[[カスピ海]]南岸の地域では[[ズィヤール朝]]や[[マーザンダラーン]]の{{仮リンク|バーワンド朝|en|Bavand dynasty|fr|Bawandides|label=バーワンド家}}（{{lang|en|Bawandids}}、[[8世紀]]-[[1349年]]）などサーサーン朝時代まで遡る名家が存在しており、この地域からイラン的な習俗を強く持った[[ブワイフ朝]]が勃興しイラクやイラン高原全域を席巻した。他の地域同様、アラブ征服時代以降に[[イラン]]方面まで進出したイスラームの預言者[[ムハンマド・イブン＝アブドゥッラーフ|ムハンマド]]の一族である[[ハーシム家]]などの後に[[サイイド]]と呼ばれる人々と婚姻を結んで来た歴史を持つ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 自国史の編纂 ===&lt;br /&gt;
[[File:Nushirwan Holds a Banquet for his Minister Buzurgmihr.jpg|thumb|220px|right|公正なるヌーシルラワーンことホスロー1世が大臣ブズルグミフルのために宴席を設ける。（[[イルハン朝]]時代の『[[シャー・ナーメ]]』の1写本。[[1330年]]作成）]]&lt;br /&gt;
サーサーン朝の歴史については[[アッバース朝]]時代の[[ウラマー]]である[[タバリー]]が[[アラビア語]]で著した『諸使徒と諸王の歴史』収録の記事が現存する「通史」としては最古であり、他にはサーサーン朝の歴代君主が残した碑文群や[[マニ教]]文書、[[パフラヴィー語]]による行政文書などの史料群、[[パフラヴィー語]]、[[シリア語]]、[[ギリシア語]]、[[ラテン語]]などの年代記、通貨などにより歴史や実態、文化などが研究されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パルティア語やパフラヴィー文字碑文などはサーサーン朝の草創期から存在しているが、現存するゾロアスター教文献などによると、本来古代のイラン世界では文字は音声を物質化した賎しむべきものと見なされていたようで、古代からの伝承は神官（[[マギ]]）などが口伝によって代々受継がれていくものとされていたという。しかしながら、ホスロー1世の時代からこの世の至上の君主であるサーサーン朝の君主の許で、世界中の知識を集積しようというイデオロギー的な動きが見られ、ゾロアスター教文献などもパフラヴィー文字を改良したアヴェスター文字などを作り出す事によって文字化する契機が生まれたと考えられている。これに関連して古代からサーサーン朝時代までの歴史も編纂する動きがあったようで、『フワダーイ・ナーマグ』（Χwadāy Nāmag）と呼ばれる歴史書が製作されたと伝えられている。これが、アッバース朝時代のタバリーなどのサーサーン朝史の原典となり、さらに後代の[[フェルドウスィー]]などが著した歴史叙事詩『[[シャー・ナーメ]]』のルーツとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのため、現在の[[ペルシア人|イラン民族]]にとって、[[アケメネス朝]]ではなく、サーサーン朝の方が直接の国家的祖先と見なされている。これは近代化の影響だけでなく、そもそもサーサーン朝時代の歴史などを編纂し始めた王朝末期や[[アッバース朝]]時代の頃には、すでにアケメネス朝時代は神話化・伝説化し、[[セレウコス朝]]時代については失伝、[[パルティア]]時代も殆ど忘れ去られていた状態で、過去への歴史的な憧憬は[[神話]]時代を除くと[[ペルシア文学]]ではサーサーン朝後期の[[ホスロー1世]]の時代が特に賞揚されてきた伝統によっている。特にホスロー1世は「公正なるアヌーシルワーン」（「不滅なる霊魂」を意味する[[パフラヴィー語|中期ペルシア語]]、アノーシャグ・ルワーン anōšag ruwān に由来するアラビア語の訛音）とも呼ばれ、統治者・君主の模範として仰がれた。ペルシア語の通用したアナトリアやイラン高原以東の地域では、[[フェルドウスィー]]の『[[シャー・ナーメ]]』の他に、{{仮リンク|ホスロー2世|en|Khosrau II}}を題材にした[[ニザーミー]]の『[[ホスローとシーリーン]]』などペルシア語文芸とともにサーサーン朝時代についての知識が受容された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 文化 ==&lt;br /&gt;
サーサーン朝で育まれた行政組織や文化は後の[[イスラム]]時代にも多大な影響を残した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 宗教的特徴とマニ教の成立 ===&lt;br /&gt;
サーサーン朝時代は、西から[[キリスト教]]、東から[[仏教]]が伝来。サーサーン朝は[[インド]]、[[クシャーナ]]、[[ローマ]]、[[中国]]、[[突厥]]など当時の大国と係わりがあり、[[ユーラシア]]西部の文明の一大中心地であり十字路でもあった。このような素地の中で、キリスト教、[[ゾロアスター教]]、仏教などの[[世界宗教]]を総合する[[マニ教]]が誕生した。ゾロアスター教は、キリスト教の東方への浸透と、仏教の西方への浸透を阻む役割を果たした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 銀貨 ===&lt;br /&gt;
サーサーンで鋳造された[[銀貨]]は、[[ソグド人]]などの[[中央ユーラシア]]社会における高額決裁用の[[基軸通貨]]として尊重された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 手工芸 ===&lt;br /&gt;
ガラス器や銀製品などの工芸品は、世界史上に残る工芸品である。7世紀の日本に渡来した文物は、[[正倉院]]に今も収められている。またペルシャ錦といわれる織物が成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 料理 ===&lt;br /&gt;
{{仮リンク|ホスロー2世|en|Khosrau II}}の時代に絢爛豪華で洗練された宮廷料理が成立し、サーサーン朝滅亡後も[[アッバース朝]]イスラム帝国の上流階級に引き継がれ、後には南アジア、中東、北アフリカにまで影響を及ぼした。記録に残っている料理には、[[ケバブ]]や[[ブドウ]]の葉の[[ドルマ]]が含まれている&amp;lt;ref&amp;gt;Arthur Christensen. &#039;&#039;Contes persans en langue populaire&#039;&#039;. Copenhagen: Andr. Fred. Høst &amp;amp; Son, 1918.&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 年表 ==&lt;br /&gt;
* [[208年]] {{仮リンク|バーバク|fr|Papak}}が[[ファールス州|パールス地方]]を統一。サーサーン朝の基礎を起こす。&lt;br /&gt;
* [[226年]] [[アルダシール1世]]が[[パルティア]]（アルサケス朝）を滅ぼし、イラン・[[イラク]]を統一。&lt;br /&gt;
* [[240年]]頃 [[シャープール1世]]、[[クシャーナ]]に遠征し、[[ガンダーラ]]を奪う。&lt;br /&gt;
* [[260年]] [[シャープール1世]]、エデッサの戦いで[[ローマ軍]]と戦い、[[ウァレリアヌス]]を捕える。&lt;br /&gt;
* [[350年]]頃、[[シャープール2世]]、[[クシャーナ]]を破り、再度征服。&lt;br /&gt;
* [[363年]] [[シャープール2世]]、[[ユリアヌス]]を敗死させる。&lt;br /&gt;
* [[409年]] [[キリスト教]]寛容令。&lt;br /&gt;
* [[425年]] [[エフタル]]の侵入。&lt;br /&gt;
* [[428年]] [[アルメニア王国]]を廃絶し、サーサーン朝の知事を置く。&lt;br /&gt;
* [[484年]] {{仮リンク|ペーローズ1世|en|Peroz I}}、 [[エフタル]]との戦いで戦死。&lt;br /&gt;
* [[540年]] [[ホスロー1世]]、[[アンティオキア]]を占領。&lt;br /&gt;
* [[567年]] [[ホスロー1世]]、[[エフタル]]を滅ぼす。&lt;br /&gt;
* [[575年]] [[ホスロー1世]]、[[イエメン]]を占領。&lt;br /&gt;
* [[616年]] {{仮リンク|ホスロー2世|en|Khosrau II}}、[[東ローマ帝国|東ローマ]]領の[[歴史的シリア|シリア]]、[[エジプト]]を占領。&lt;br /&gt;
* [[626年]] 東ローマ・[[ヘラクレイオス王朝|ヘラクレイオス朝]]の[[ヘラクレイオス]]がクテシフォンへ侵攻、占領地を奪回される。&lt;br /&gt;
* [[637年]] カディシーヤの戦いでイスラーム軍に敗れ、[[クテシフォン]]を占領される。&lt;br /&gt;
* [[642年]] ハマダーン近くの[[ニハーヴァンド]]の戦いで敗北。&lt;br /&gt;
* [[651年]] [[ヤズデギルド3世]]逃亡先で暗殺され、サーサーン朝滅亡。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴代君主 ==&lt;br /&gt;
[[File:Sasanids.png|thumb|right|280px|サーサーン朝系図]]&lt;br /&gt;
歴代君主の称号は[[シャー|シャーハンシャー]]（諸王の王）である。&lt;br /&gt;
# [[アルダシール1世]] （[[224年]]-[[241年]]）&lt;br /&gt;
# [[シャープール1世]] （241年-[[272年]]）&lt;br /&gt;
# [[ホルミズド1世]] （272年-[[273年]]）&lt;br /&gt;
# [[バハラーム1世]] （273年-[[276年]]）&lt;br /&gt;
# [[バハラーム2世]] （276年-[[293年]]）&lt;br /&gt;
# [[バハラーム3世]] （293年）&lt;br /&gt;
# [[ナルセ1世]] （[[293年]]-302年）&lt;br /&gt;
# [[ホルミズド2世]] （[[302年]]-309年）&lt;br /&gt;
# {{仮リンク|アーザルナルセ|fr|Adhur-Narseh}} （[[309年]]）&lt;br /&gt;
# [[シャープール2世]] （309年-379年）&lt;br /&gt;
# [[アルダシール2世]] （[[379年]]-383年）&lt;br /&gt;
# [[シャープール3世]] （[[383年]]-388年）&lt;br /&gt;
# [[バハラーム4世]] （[[388年]]-399年）&lt;br /&gt;
# [[ヤズデギルド1世]] （[[399年]]-420年）&lt;br /&gt;
# {{仮リンク|バハラーム5世|en|Bahram V}} （[[420年]]-438年）&lt;br /&gt;
# {{仮リンク|ヤズデギルド2世|en|Yazdegerd II}} （[[438年]]-457年）&lt;br /&gt;
# {{仮リンク|ホルミズド3世|en|Hormizd III}} （[[457年]]-459年）&lt;br /&gt;
# {{仮リンク|ペーローズ1世|en|Peroz I}} （[[459年]]-484年）&lt;br /&gt;
# {{仮リンク|バラーシュ1世|en|Balash}} （[[484年]]-488年）&lt;br /&gt;
# {{仮リンク|カワード1世|en|Kavadh I}} （[[488年]]-497年、復位：499年-[[531年]]）&lt;br /&gt;
# {{仮リンク|ジャーマースプ|en|Djamasp}} （497年-[[499年]]）&lt;br /&gt;
# [[ホスロー1世]] （531年-[[579年]]）&lt;br /&gt;
# {{仮リンク|ホルミズド4世|en|Hormizd IV}} （579年-[[590年]]）&lt;br /&gt;
#* {{仮リンク|バフラーム・チョービーン|en|Bahrām Chobin|label=バハラーム6世}} （590年-[[591年]]）&lt;br /&gt;
# {{仮リンク|ホスロー2世|en|Khosrau II}} （590年-[[628年]]）&lt;br /&gt;
#* {{仮リンク|ヴィスタム|fa|ویستهم}} （[[591年]]-[[595年]]）&lt;br /&gt;
#* {{仮リンク|ホルミズド5世|en|Hormizd V}}&lt;br /&gt;
# {{仮リンク|カワード2世|en|Kavadh II}} （628年）&lt;br /&gt;
# {{仮リンク|アルダシール3世|en|Ardashir III}} （628年-[[630年]]）&lt;br /&gt;
#* {{仮リンク|シャフルバラーズ|en|Shahrbaraz}} （630年）&lt;br /&gt;
#* {{仮リンク|ホスロー3世|en|Khosrau III}}&lt;br /&gt;
# {{仮リンク|ボーラーンドゥフト|en|Borandukht|label=ボーラーン}} （630年-[[631年]]、女帝）&lt;br /&gt;
# {{仮リンク|ペーローズ2世|fr|Péroz II}}&lt;br /&gt;
# {{仮リンク|ホスロー4世|en|Khosrau IV}}&lt;br /&gt;
# {{仮リンク|アーザルメードゥフト|en|Azarmidokht}} （631年-[[632年]]、女帝）&lt;br /&gt;
#* {{仮リンク|ホスロー5世|en|Farrukhzad Khosro V}} （632年?-632年?）&lt;br /&gt;
#* {{仮リンク|ホルミズド6世|en|Hormizd VI}} （632年?-633年?）&lt;br /&gt;
# [[ヤズデギルド3世]] （632年-[[651年]]）&lt;br /&gt;
#* {{仮リンク|ペーローズ3世|en|Peroz III}} （[[唐 (王朝)|唐]]に亡命）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
{{commons|category:Sassanids}}&lt;br /&gt;
* [[クシャーノ・サーサーン朝]]&lt;br /&gt;
* {{仮リンク|ダブワイド朝|en|Dabuyid dynasty|fr|Dabwaïhides}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ささんちよう}}&lt;br /&gt;
[[Category:サーサーン朝|*]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Link FA|de}}&lt;br /&gt;
{{Link FA|no}}&lt;br /&gt;
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