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	<title>Wikippe - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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		<title>核砲弾</title>
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		<updated>2014-08-17T06:13:58Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;58.188.177.224: /* 概要 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{出典の明記|date=2014年1月9日 (木) 01:54 (UTC)}}&lt;br /&gt;
[[File:W48 155-millimeter nuclear shell.jpg|thumb|300px|[[W48 (核砲弾)|W48]] 155mm 核砲弾]]&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;核砲弾&#039;&#039;&#039;（かくほうだん）は、[[弾頭]]に[[核兵器]]を搭載した[[砲弾]]のことである。[[冷戦]]期に作られた[[戦術核兵器]]の一つ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[核兵器]]の小型化が進んでいない時代に[[アメリカ合衆国]]で最初に作られた核砲弾は、[[1952年]]から配備が進められた[[W9 (核砲弾)|W9核砲弾]]である。[[口径]]が280mmもある巨大なものであり、専用の[[原子砲|アトミックキャノン]]と呼ばれる[[カノン砲]]により発射されるが、その巨大さ故に運用が困難であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
W9核砲弾は[[W19 (核砲弾)|W19核砲弾]]に更新されたりしたが、核兵器の小型化とともに[[1957年]]には203mm砲向けの[[W33 (核砲弾)|W33核砲弾]]が実用化され、[[1963年]]には155mm砲向けの[[W48 (核砲弾)|W48核砲弾]]の部隊配備が開始された。戦術核兵器として[[弾頭|中性子弾頭]]の[[W79 (核砲弾)|W79-0核砲弾]]も開発された。この他、[[アメリカ海軍]]も[[アイオワ級戦艦]]の16インチ砲向けに[[W23 (核砲弾)|W23核砲弾]]を開発・配備している。[[冷戦]]後のアメリカ合衆国は戦術核兵器の前線配備を中止したため、核砲弾は配備されていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
核砲弾の実射試験は一度のみであり、[[1953年]][[5月25日]]にアメリカ・[[ネバダ核実験場]]で行われた、[[アップショット・ノットホール作戦|アップショット・ノットホール作戦（Upshot-Knothole）]]の一つ『グレイブル』（[[:w:Upshot-Knothole Grable|Upshot-Knothole Grable]]）においてW9核砲弾が実験された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== アメリカの核砲弾 ==&lt;br /&gt;
[[File:Upshot-Knothole GRABLE.jpg|thumb|250px|1953年に行われたW9核砲弾の実験（[[アップショット・ノットホール作戦]]）。 M65 280mmカノン砲で発射。核出力は広島に投下されたのと同じ15kt]]&lt;br /&gt;
* 16インチ砲弾（406mm [[アメリカ海軍]][[艦砲]]）&lt;br /&gt;
** [[W23 (核砲弾)|W23]] -（1956年-1962年）[[ガンバレル型]]&lt;br /&gt;
* 280mm砲弾（[[M65 280mmカノン砲]]）&lt;br /&gt;
** [[W9 (核砲弾)|W9]]（1952年-1957年）ガンバレル型&lt;br /&gt;
** [[W19 (核砲弾)|W19]] -（1955年-1963年）ガンバレル型, W9の改良型&lt;br /&gt;
* 240mm砲弾&lt;br /&gt;
** [[W32 (核砲弾)|W32]] -（1955年開発中止）&lt;br /&gt;
* 8インチ砲弾 (203 mm)&lt;br /&gt;
** [[W33 (核砲弾)|W33]] -（1957年-1992年）ガンバレル型&lt;br /&gt;
** [[W75 (核砲弾)|W75]] -（1973年開発中止）&lt;br /&gt;
** [[W79 (核砲弾)|W79]] -（1981年-1992年、W79-0は中性子弾頭）&lt;br /&gt;
* 155mm砲弾&lt;br /&gt;
** [[W48 (核砲弾)|W48]] -（1963年-1992年）インプロージョン方式&lt;br /&gt;
** [[W74 (核砲弾)|W74]] -（1973年開発中止）&lt;br /&gt;
** [[W82 (核砲弾)|W82]] -（W82-0 中性子弾頭は1983年開発中止、W82-1 核分裂弾頭は1990年開発中止）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[砲弾]]&lt;br /&gt;
* [[核兵器]]&lt;br /&gt;
* [[中性子爆弾]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:かくほうたん}}&lt;br /&gt;
[[Category:砲弾]]&lt;br /&gt;
[[Category:核兵器]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>58.188.177.224</name></author>
	</entry>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E6%B0%B7%E5%B7%9D%E7%A5%9E%E7%A4%BE&amp;diff=57259</id>
		<title>氷川神社</title>
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		<updated>2014-08-17T05:17:37Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;58.188.177.224: /* 近世 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Otheruses|埼玉県さいたま市大宮区高鼻町の氷川神社|その他の氷川神社|氷川神社 (曖昧さ回避)}}&lt;br /&gt;
{{神社&lt;br /&gt;
|名称   = 氷川神社&lt;br /&gt;
|画像   = [[画像:Front shrine of the Hikawa shrine.jpg|280px|拝殿]]&amp;lt;br/&amp;gt;拝殿&lt;br /&gt;
|所在地 = [[埼玉県]][[さいたま市]][[大宮区]]高鼻町一丁目407番地&lt;br /&gt;
|ISO = JP-11&lt;br /&gt;
|緯度度 = 35|緯度分 = 55|緯度秒 = 00.30&lt;br /&gt;
|経度度 =139|経度分 = 37|経度秒 = 47.04&lt;br /&gt;
|祭神   = [[スサノオ|須佐之男命]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[クシナダヒメ|奇稲田姫命]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[大国主|大己貴命]]&lt;br /&gt;
|神体   = &lt;br /&gt;
|社格   = [[式内社]]（[[名神大社|名神大]]）&amp;lt;br/&amp;gt;[[武蔵国]][[一宮]]または[[三宮神社|三宮]]&amp;lt;br/&amp;gt;旧[[官幣大社]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[勅祭社]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[別表神社]]&lt;br /&gt;
|創建   = （伝）第5代[[孝昭天皇]]3年&lt;br /&gt;
|本殿   = [[流造]]&lt;br /&gt;
|別名   = &lt;br /&gt;
|札所等 = &lt;br /&gt;
|例祭   = [[8月1日]]&lt;br /&gt;
|神事   = &lt;br /&gt;
|地図   = Japan Saitama&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;氷川神社&#039;&#039;&#039;（ひかわじんじゃ）は、[[埼玉県]][[さいたま市]][[大宮区]][[高鼻町]]にある[[神社]]。[[式内社]]（[[名神大社]]）、[[武蔵国]][[一宮]]または[[三宮神社|三宮]]、[[勅祭社]]。[[近代社格制度|旧社格]]は[[官幣大社]]で、現在は[[神社本庁]]の[[別表神社]]。宮中の[[四方拝]]で遥拝される一社。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京都・埼玉県近辺に約200社ある[[氷川神社 (曖昧さ回避)|氷川神社]]の総本社である。他の氷川神社と区別する際は「&#039;&#039;&#039;大宮氷川神社&#039;&#039;&#039;」とも呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
神社の境内は[[見沼]]（[[江戸時代]]中期まで存在した広大な沼）の畔に立ち、もとは見沼の水神を祀っていたと考えられている。現在の神池は、見沼の名残である。[[埼玉県]]・[[東京都]]の[[荒川 (関東)|荒川]]流域、特に旧[[武蔵国]][[足立郡]]を中心にして[[氷川信仰]]に基づく氷川神社が多数分布する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[富士山]]と[[筑波山]]を結んだ線と、[[浅間山]]と[[冬至]]の日の出を結んだ線の交差地点に位置する。また、大宮の氷川神社・中川の中氷川神社（現 [[中山神社 (さいたま市)|中山神社]]）・三室の[[氷川女体神社]]が浅間山と冬至の日の出の線上に一直線に並ぶことから、この三社が男体社・女体社・簸王子社として一体の氷川神社を形成していたという説がある。なお、この三氷川とかつて大宮の氷川神社境内にあった三社（男体社・女体社・簸王子社）がよく混同されるが別のものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さいたま市の「大宮」の地名は、当社を「大いなる宮居」と称えたことに由来する。埼玉県周辺の広域から参拝者を集め、正月三が日の初詣の参拝者数（[[警察]]調べ）は全国10位以内に数えられる。特に全国的に初詣客が増加した[[2008年]]（[[平成]]20年）以降は連年200万人以上が訪れている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 祭神 ==&lt;br /&gt;
現在の主祭神は以下の3柱。&amp;lt;!--表記は神社由緒書に準拠。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[スサノオ|須佐之男命]]&#039;&#039;&#039; （すさのおのみこと）&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[クシナダヒメ|稲田姫命]]&#039;&#039;&#039; （いなだひめのみこと）&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[大国主|大己貴命]]&#039;&#039;&#039; （おおなむちのみこと）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 祭神の変遷 ===&lt;br /&gt;
祭神がどの神であるかは、以下のように多くの議論がなされてきた&amp;lt;ref name=chimei&amp;gt;『埼玉県の地名』（[[平凡社]]）氷川神社項。&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[平安時代]]中期の『[[延喜式神名帳]]』では一座として記載されている。&lt;br /&gt;
* [[日本武尊]]の東征時、須佐之男命を勧請したとする説（[[吉田兼永]]）。&lt;br /&gt;
* 須佐之男命とする説（『大日本神祇史』）。&lt;br /&gt;
* 男体社：須佐之男命（相殿に[[イザナギ|伊弉諾]]、日本武尊、[[大国主|大己貴]]）、女体社：奇稲田姫命（相殿に天照太神宮、[[イザナミ|伊弉冉]]、[[三穂津姫]]、[[弟橘媛]]）、簸王子社：大己貴とする説（『風土記稿』）。&lt;br /&gt;
* 男体社：伊弉諾、女体社：伊弉冉、簸王子社：[[カグツチ|軻遇突智]]とする説（『大宮氷川太明神縁起之書』）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
近世には男体社、女体社、簸王子社の三社に別れ、それぞれ岩井家・内倉家（のち断絶、角井家が継承して西角井家を称する）・角井家（後に東角井家を称する）が[[社家]]として神主を世襲した。三社の祭神や順位を巡る論争もあったが、[[江戸時代]]の[[元禄]]12年（[[1699年]]）三社・三社家を同格とする裁定が下った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在の祭神は、[[天保]]4年（[[1833年]]）当時の神主・角井惟臣が著した『氷川大宮縁起』に拠る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
=== 創建 ===&lt;br /&gt;
社伝によれば、第5代[[孝昭天皇]]3年4月の創建されたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『[[国造本紀]]』によれば、[[景行天皇]]の代に[[出雲国|出雲]]の氏族が須佐之男命を奉じてこの地に移住したと伝える。[[成務天皇]]の時代に出雲の兄多毛比命（えたもひのみこと）が武蔵[[国造]]となり、当社を崇敬した。この一帯は出雲族が開拓した地であ&lt;br /&gt;
り、武蔵国造は[[出雲国造]]と同族とされる。社名の「氷川」も出雲の「[[簸川郡|簸川]]」（現在の[[斐伊川]]）に由来するという説がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 概史 ===&lt;br /&gt;
==== 前史 ====&lt;br /&gt;
氷川神社の摂社に「[[門客人神社]]」があり、元々は「荒脛巾（あらはばき）神社」と呼ばれていたもので、アラハバキが「客人神」として祀られている。この[[アラハバキ]]社は氷川神社の[[地主神]]である&amp;lt;ref name=junkei&amp;gt;大林太良『私の一宮巡詣記』（青土社、2001年）69頁。&amp;lt;/ref&amp;gt;。現在祀られている出雲系の神は、[[武蔵国造]]一族とともにこの地に乗り込んできたもので&amp;lt;ref&amp;gt;[[松前健]]『日本神話の形成』（塙書房）186頁、菱沼勇「武蔵の古社」（有峰書店、1972年）71-75頁、原島礼二「氷川神社」、谷川健一篇『日本の神々 神社と聖地 11関東』（白水社）。&amp;lt;/ref&amp;gt;、先住の神がアラハバキとみられる&amp;lt;ref name=junkei&amp;gt;&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このほか、景行天皇の皇子・[[ヤマトタケル|日本武尊]]が東征の際に負傷し、夢枕に現れた老人の教えに従って当社へ詣でたところ、立てるようになったという伝説が残されている。このことから本地域を「[[足立郡|足立]]」と称するようになったとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 古代 ====&lt;br /&gt;
『[[日本三代実録]]』には神階授与の記載があり（[[氷川神社#神階|後述]]）、古来から朝廷から崇敬された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[平安時代]]中期の『[[延喜式神名帳]]』には「武蔵国足立郡 氷川神社 名神大 月次新嘗」と記載され、[[名神大社]]に列している。また武蔵国の[[一宮]]または三宮とされ（[[氷川神社#一宮・三宮に関する議論|後述]]）、国司からも崇敬を受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 中世 ====&lt;br /&gt;
[[平安時代]]後期、[[平貞盛]]が[[平将門の乱]]において当社で戦勝を祈願し乱を平定したことから、[[関東地方]]の[[武士]]に幅広く信仰され、[[荒川 (関東)|荒川]]流域に数多くの分社が建てられ、武蔵国中に広がった。[[治承]]4年（[[1180年]]）には[[源頼朝]]が[[土肥実平]]に命じ社殿を再建して社領3000貫を寄進、[[建久]]8年（[[1197年]]）には神馬神剣を奉納している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 近世 ====&lt;br /&gt;
[[徳川家康]]が関東に入ると、[[文禄]]5年（[[1596年]]）8月に関東郡代[[伊奈忠次]]を奉行として社頭を造営した。[[江戸時代]]には[[江戸幕府|幕府]]から社地三百石が寄進されていた。江戸初期の[[中山道]]は[[大宮宿]]の南で参道を使用していたが、この地を治めていた関東郡司[[伊奈忠治]]が、参道を街道とすることは恐れ多いとして、[[寛永]]5年（[[1628年]]）に西側に街道を付け替え、参道沿いの宿や家およそ40軒を新設街道沿いに移転させ、これが現在に至る大宮の町となった。[[寛文]]7年（[[1667年]]）3月には、阿部豊後守を奉行として社殿を建立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 近代以降 ====&lt;br /&gt;
[[明治]]元年（[[1868年]]）10月17日、[[東京奠都|東京入都]]の4日目に[[明治天皇]]は当社を武蔵国の[[鎮守神|鎮守]]・[[勅祭社|勅祭の社]]と定めた&amp;lt;ref&amp;gt;「[http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/listPhoto?IS_STYLE=default&amp;amp;REFCODE=A04017123000 氷川神社ヲ武蔵国ノ鎮守ト為スノ詔]」、『​稿​本​詔​勅​録​』巻之一（内部上）22頁、閲覧画面で28頁。「[http://jpimg.digital.archives.go.jp/pdf/S46B0100140000/066907361457.pdf 武蔵国大宮駅氷川神社ヲ当国ノ鎮守トナシ勅祭ノ社ト定ム]」、『太政類典』第1編（慶応3年～明治4年）第123巻36。&amp;lt;/ref&amp;gt;。10日目には大宮に[[行幸]]し、[[10月28日]]に関東の神社の中で最初に親祭を行った 。以来、[[例祭]]には[[勅使]]の参向があり、[[宮内庁]]楽師による[[舞|歌舞]]が[[奉納]]される。明治天皇は[[1870年]]（明治3年）にも再度参拝され、[[昭和天皇]]も皇太子時代の[[1917年]]（[[大正]]6年）[[11月12日]]、天皇に即位した[[1934年]]（[[昭和]]9年）11月に、それぞれ軍事演習視察の帰途に参拝された。[[明仁|今上天皇]]も皇太子時代の[[1987年]]（昭和62年）7月に夫妻で参拝されている。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治初頭の寺院整理神社統合により、供僧観音寺は本地仏とともに[[北足立郡]]下加村の満福寺（現・さいたま市[[北区 (さいたま市)|北区]]日進町）へ退転した。また、[[神域]]である社有林が開かれて、埼玉県で最初の近代公園「[[大宮公園]]」として整備された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1882年]]（明治15年）に社殿を改造し、簸王子社と女体社を廃して男体社に三神を祀るようになり、さらに[[1940年]]（[[昭和]]15年）に国費で社殿・楼門等を改築し、現在の姿になった。また、[[1929年]]（昭和4年）9月には埼玉縣[[招魂社]]が境内に建立され、県内の戦死者2000余柱が祀られた。招魂社は[[1939年]]（昭和14年）3月に分離して埼玉県[[護国神社]]となり、同4月には国指定護国神社となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1966年]]（昭和41年）[[7月22日]]に[[明治神宮]]の大鳥居（第二鳥居（木造鳥居では国内最大））が落雷によって破損したため、新たな鳥居が[[1975年]]（昭和50年）に竣功。落雷した鳥居は移設され、[[1976年]]（昭和51年）[[4月5日]]に氷川神社に竣功された。これが現在、[[さいたま市立図書館|さいたま市立大宮図書館]]前にある二の鳥居である。このとき、もともとの二ノ鳥居は「裏参道」側に移設されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1982年]]（昭和57年）の[[東北新幹線]]開業を祝い、この年から[[薪能]]が毎年5月に催されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 神階 ===&lt;br /&gt;
文献にはいずれも「武蔵国氷川神」と記載。&lt;br /&gt;
* [[貞観 (日本)|貞観]]元年（[[859年]]）1月27日、従五位下から従五位上 （『[[日本三代実録]]』）&lt;br /&gt;
* 貞観5年（[[863年]]）6月8日、正五位下 （『日本三代実録』）&lt;br /&gt;
* 貞観7年（[[865年]]）12月21日、従四位下 （『日本三代実録』）&lt;br /&gt;
* 貞観11年（[[869年]]）11月19日、正四位下 （『日本三代実録』）&lt;br /&gt;
* [[元慶]]2年（[[878年]]）12月2日、正四位上 （『日本三代実録』）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 一宮・三宮に関する議論 ===&lt;br /&gt;
[[武蔵国]]内における氷川神社の位置付けには、[[一宮]]と三宮の2説がある&amp;lt;ref name=chimei&amp;gt;&amp;lt;/ref&amp;gt;（「[[武蔵国#一宮以下について]]」も参照）。当社自体は「武蔵一宮 氷川神社」の社標を掲げている。&lt;br /&gt;
* 一宮とする史料&lt;br /&gt;
** 『[[大日本国一宮記]]』（[[室町時代]]）&lt;br /&gt;
* 三宮とする史料（この場合、一宮は[[小野神社 (多摩市)|小野神社]]に比定される）&lt;br /&gt;
** 『[[神道集]]』（[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上記を基に、室町時代以降に当社が小野神社に替わって一宮の地位を確立したとする説がある&amp;lt;ref name=chimei&amp;gt;&amp;lt;/ref&amp;gt;。『延喜式神名帳』には「氷川神社：[[名神大社]]、小野神社：小社」と記され、平安中期にはすでに社格の逆転があったと考えられる。しかし現在のところ、中世まで氷川神社を一宮とする資料は見つかっていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
武蔵国[[総社]]の[[大國魂神社]]（六所宮）では国内の一宮から六宮までを「武州六大明神」として祀っているが、ここでは「一宮：小野神社、三宮：氷川神社」を公式としている。現在も大國魂神社の[[例大祭]]（[[くらやみ祭]]・武蔵[[国府祭]]）の祈祷に氷川神社の神官が参じている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 境内 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
ファイル:氷川神社 本殿.JPG|本殿&lt;br /&gt;
File:Omiya-Hikawa jinja Haiden.jpg|拝殿&lt;br /&gt;
File:Boards of the Hikawa shrine.jpg|舞殿&lt;br /&gt;
File:Hikawa-jinja Omiya Saitama 01.jpg|楼門&lt;br /&gt;
ファイル:氷川神社 額殿.JPG|額殿&lt;br /&gt;
ファイル:氷川神社 神楽殿.JPG|神楽殿&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 摂末社 ==&lt;br /&gt;
=== 摂社 ===&lt;br /&gt;
* 門客人神社 （もんきゃくじんじんじゃ）&lt;br /&gt;
** 祭神：[[アシナヅチ・テナヅチ|足摩乳命、手摩乳命]]&lt;br /&gt;
* 天津神社 （あまつじんじゃ）&lt;br /&gt;
** 祭神：[[スクナビコナ|少彦名命]]&lt;br /&gt;
* 宗像神社 （むなかたじんじゃ）&lt;br /&gt;
** 祭神：[[タキリビメ|多起理比売命]]、[[イチキシマヒメ|市寸島比売命]]、[[タギツヒメ|田寸津比売命]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
ファイル:氷川神社 境内門客人神社.JPG|門客人神社&lt;br /&gt;
ファイル:氷川神社 境内天津神社.JPG|天津神社&lt;br /&gt;
ファイル:Munakata shrine in Hikawa shrine.jpg|宗像神社&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 末社 ===&lt;br /&gt;
* 六社&lt;br /&gt;
** 山祇神社 - 祭神：[[オオヤマツミ|大山祇命]]&lt;br /&gt;
** 石上神社 - 祭神：[[布都御魂|布都御魂命]]&lt;br /&gt;
** 愛宕神社 - 祭神：[[カグツチ|迦具土命]]&lt;br /&gt;
** 雷神社 - 祭神：[[大雷命]]&lt;br /&gt;
** 住吉神社 - 祭神：[[住吉三神|底筒男命、中筒男命、上筒男命]]&lt;br /&gt;
** 神明神社 - 祭神：[[天照大神|天照大御神]]&lt;br /&gt;
* 天満神社 - 祭神：[[菅原道真|菅原道真公]]&lt;br /&gt;
* 松尾神社 - 祭神：[[大山咋神|大山咋命]]&lt;br /&gt;
* 御嶽神社 - 祭神：[[大国主|大己貴命]]、[[スクナビコナ|少彦名命]]&lt;br /&gt;
* 稲荷神社 - 祭神：[[ウカノミタマ|倉稲魂命]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
ファイル:氷川神社 境内六社.JPG|六社&lt;br /&gt;
ファイル:氷川神社 境内松尾神社.JPG|松尾神社&lt;br /&gt;
ファイル:氷川神社 境内御嶽神社.JPG|御嶽神社&lt;br /&gt;
ファイル:氷川神社 境内稲荷神社.JPG|稲荷神社&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参道 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
File:Third shinto gateway of the Hikawa shrine.jpg|三の鳥居&lt;br /&gt;
File:Front approach of the Hikawa shrine.jpg|表参道&lt;br /&gt;
File:Hikawa Jinja Ninotorii 110221.jpg|二の鳥居&lt;br /&gt;
File:氷川神社 一の鳥居.JPG|一の鳥居&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
旧[[中山道]]の[[大宮区]]吉敷町から神社まで、およそ2kmの表参道が、ほぼ南北に延びており、「氷川参道」と呼ばれている。参道には三つの大鳥居があり、中山道と分かれる位置に「一の鳥居」、前述の市立図書館近くに「二の鳥居」、境内入り口に「三の鳥居」がある。参道周辺には勅使斎館等の行事施設や市立図書館・博物館が並ぶほか、大型マンションが並ぶ地域もあるが、おおむね閑静な住宅街である。特に神社周辺の高鼻町は古くから高級住宅地となっており、建築制限が課せられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
参道は&amp;lt;!--すべて総社であるケヤキ並木とは全く関係が無い 総社とも関係が無い [[大國魂神社]]同様に[[ケヤキ]]（埼玉県の木）--&amp;gt;古来[[松]]が多かったが、明治以降は[[杉]]が主体となる樹木で覆われた。[[太平洋戦争]]中から戦後にかけて燃料として伐採され、また参道に自動車を走らせたことから排気ガスで枯死し、汚染に強いケヤキが6割を占めるようになったが、ケヤキも歩行者により、根本が踏み固められたために弱っている。ケヤキを含め、参道には30種類680本の木々があり、幹回りが2メートルを超える古木25本を市の天然記念物に指定している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2キロに及ぶ参道は3つの区間に分かれている。&lt;br /&gt;
#神社から[[埼玉県道2号さいたま春日部線]]（旧[[国道16号]]）までの約500mは往事の面影が残された広い参道が延びている。中央に歩行者用の広い参道があり、東側に対面通行の自動車道がある。&lt;br /&gt;
#県道2号から大宮中央通り（[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]東口の駅前通り）までの約300mは「平成ひろば」と名づけられた公園になっている。中央が歩行者用の広い参道であり、その周囲が公園となっている。自動車は「平成ひろば」の両側を南北方向とも一方通行で走ることができる。&lt;br /&gt;
#:「平成ひろば」は参道を利用していた住宅・店舗を移転させた跡地に造られた。この住宅や店舗はもともと、[[第二次世界大戦]]敗戦後に大宮駅東口に集まっていた闇市やバラック街であったが、[[1947年]]（昭和22年）に駐留軍が排除命令を出し、警察と[[大宮市]]、氷川神社の間で、参道の一部に移転することが決められた。その後40年にわたって参道の一部が生活の場となったが、そのために樹木は荒れ、往事の面影は失われた。昭和の終りに大宮市によって街道の再生が行われ、住宅や店舗は下町の市営住宅へ移転し、跡地は[[1989年]]（平成元年）に「平成ひろば」となった。&lt;br /&gt;
#大宮中央通りの南の約1000mは狭くなっており、参道を車道として開放している。歩道と車道が分離されており、自動車は北向きの一方通行である。将来構想としては、自動車を完全に排除して、往事の参道に再生することが考えられている。&lt;br /&gt;
#: この区間は住宅街を貫き、自動車の違法駐車が後を絶たなかった。また南大通りより南の部分（一の鳥居から南大通りまで380m）は狭いながら対面通行であり、歩行者、自転車、双方向の自動車、路上駐車で混乱していた。[[さいたま新都心]]が街開きしたことから、参道南部を歩く人が飛躍的に増え、違法駐車の排除が検討される。そこで、参道再生の一環として車道部分を通過できるだけの広さにし、残りを御影石風のブロックを敷き詰めた歩道にした。[[2002年]]（平成14年）に第一期が完成（南大通りより北の450m）、[[2006年]]（平成18年）に第二期（上記の380m）が完成した。特に第二期は自動車を一方通行に変更するため、数次に亘る社会実験を経て実現した。[[2009年]]（平成21年）に第三期（中央通りより南の約200m）が着手され、全区間の歩車分離が完成した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
参道では毎年[[12月10日]]に「十日市（とうかまち）」という祭が催され、さいたま市屈指の賑わいをみせる。このほか、中山道土手町から神社北側に至る「裏参道」がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主な祭事 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;div class=&amp;quot;NavFrame&amp;quot; style=&amp;quot;width:100%;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
 &amp;lt;div class=&amp;quot;NavHead&amp;quot; style=&amp;quot;padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px;&amp;quot;&amp;gt;氷川神社 年間祭事一覧&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
 &amp;lt;div class=&amp;quot;NavContent&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:left;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 毎月&lt;br /&gt;
** 月次祭 （1日）&lt;br /&gt;
** 献詠祭 （15日）&lt;br /&gt;
* 1月&lt;br /&gt;
** [[歳旦祭]] （1月1日）&lt;br /&gt;
* 2月&lt;br /&gt;
** [[節分祭]] （2月節分日）&lt;br /&gt;
** [[的神事]]（いくわの-） （2月7日）&lt;br /&gt;
** [[祈年祭]] （2月17日）&lt;br /&gt;
* 3月&lt;br /&gt;
** [[郷神楽]]（さとかぐら） （3月15日）&lt;br /&gt;
* 4月&lt;br /&gt;
** [[鎮花祭]]（はなしずめ-） （4月5・6・7日）&lt;br /&gt;
* 5月&lt;br /&gt;
** [[御鎮座祭]] （5月9日）&lt;br /&gt;
** [[道饗祭]]（みちあえ-） （5月21日）&lt;br /&gt;
* 6月&lt;br /&gt;
** [[粽神事]]（ちまきの-） （6月5日）&lt;br /&gt;
** [[大祓]] （6月30日）&lt;br /&gt;
* 8月&lt;br /&gt;
** [[例大祭]] （8月1日）&lt;br /&gt;
** [[神幸祭]] （8月2日）&lt;br /&gt;
* 10月&lt;br /&gt;
** [[抜穂神事]]（ぬきほの-） （10月9日）&lt;br /&gt;
** [[朔瓶祭]]（さくへい-） （10月21日）&lt;br /&gt;
* 11月&lt;br /&gt;
** [[新嘗祭]] （11月23日）&lt;br /&gt;
* 12月&lt;br /&gt;
** [[大湯祭]]（だいとう-） （12月10日）&lt;br /&gt;
** [[誓詔祭]]（せいしょう-） （12月11日）&lt;br /&gt;
** [[大祓]] （12月31日）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国民奉祝日にはそれぞれ祭事がある。&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 文化財 ==&lt;br /&gt;
=== 埼玉県指定有形文化財 ===&lt;br /&gt;
* 氷川神社行幸絵巻 1巻（附 原本1巻、下絵1巻）（絵画） - 昭和39年11月17日指定。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== さいたま市指定有形文化財 ===&lt;br /&gt;
* 氷川神社横山大観作「秋色武蔵国」1幅（絵画） - 昭和39年1月13日指定。&lt;br /&gt;
* 氷川神社文書（古文書） - 昭和40年11月6日指定。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== さいたま市指定天然記念物 ===&lt;br /&gt;
* 氷川参道の並木 - 昭和50年2月7日指定（昭和63年12月2日追加指定）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 現地情報 ==&lt;br /&gt;
; 所在地&lt;br /&gt;
* [[埼玉県]][[さいたま市]][[大宮区]][[高鼻町]]一丁目407番地&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 交通アクセス&lt;br /&gt;
* 鉄道&lt;br /&gt;
** [[東武野田線]] [[大宮公園駅]]または[[北大宮駅]] （徒歩約10分）&lt;br /&gt;
** [[JR東日本]]・[[東武野田線]]ほか [[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]] （徒歩約20分）&lt;br /&gt;
::: 参道の始まる一の鳥居へは、[[さいたま新都心駅]]が最寄駅。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 車&lt;br /&gt;
** [[埼玉県道35号川口上尾線]]（産業道路）・[[埼玉県道2号さいたま春日部線]]「堀の内」交差点から数分。県道35号大宮公園入口交差点、県道2号氷川神社入口交差点から入ってもアクセス可能。&lt;br /&gt;
** 最寄りIC：首都高速[[埼玉新都心線]][[新都心西出入口]]、[[東北自動車道|東北道]][[岩槻インターチェンジ|岩槻IC]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 周辺&lt;br /&gt;
* [[埼玉縣護國神社]]&lt;br /&gt;
* [[大宮公園]]&lt;br /&gt;
:: [[明治]]期に神社の周辺の社有林を開いて設置された。現在でも境内と明確に分かれているわけではない。公園にはサッカー場、野球場、競輪場、小動物園、児童公園、水泳場、弓道場、県立博物館等が置かれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 『武蔵一宮 氷川神社略記』（神社由緒書）&lt;br /&gt;
* 『[[稿​本​詔​勅​録]]』、[http://www.jacar.go.jp/ アジア歴史資料センター]にて2011年10月閲覧&lt;br /&gt;
* 『[[太政類典]]』、[http://www.digital.archives.go.jp/ 国立公文書館デジタルアーカイブ]にて2011年10月閲覧&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[小野神社 (多摩市)|小野神社]] - 武蔵国一宮を称するもう1つの神社。&lt;br /&gt;
* [[アラハバキ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 当社に由来&lt;br /&gt;
* [[氷川信仰]]&lt;br /&gt;
** [[氷川神社 (曖昧さ回避)]] - 各地の氷川神社の一覧。&lt;br /&gt;
* [[大宮暦]]&lt;br /&gt;
* [[氷川丸]]&lt;br /&gt;
* [[武蔵 (戦艦)|戦艦「武蔵」]] - 氷川神社を[[艦内神社]]とする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
{{Commons|Category:Hikawa-jinja, Omiya}}&lt;br /&gt;
* [http://musashiichinomiya-hikawa.or.jp/ 武蔵一宮　氷川神社]（公式ページ）&lt;br /&gt;
* [http://www.sainokuni-kanko.jp/index.php?action=pages_view_main&amp;amp;active_center=kankodb_view_main_center&amp;amp;active_block_id=&amp;amp;page_id=58&amp;amp;disp_name=result&amp;amp;page_type=area&amp;amp;area_id=3&amp;amp;prefecture_id=1 武蔵一宮氷川神社]（ちょこたび埼玉（埼玉県観光課））&lt;br /&gt;
* [http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/160401.html 氷川神社]（國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{神道 横}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ひかわしんしや}}&lt;br /&gt;
[[Category:埼玉県の神社]]&lt;br /&gt;
[[Category:さいたま市の建築物]]&lt;br /&gt;
[[Category:大宮区の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:名神大社]]&lt;br /&gt;
[[Category:武蔵国の式内社|名ひかわしんしや]]&lt;br /&gt;
[[Category:一宮]]&lt;br /&gt;
[[Category:官幣大社]]&lt;br /&gt;
[[Category:勅祭社]]&lt;br /&gt;
[[Category:別表神社]]&lt;br /&gt;
[[Category:氷川神社|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:武蔵国|社1]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>58.188.177.224</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E3%82%AC%E3%83%80%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%8A%E3%83%AB%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84&amp;diff=122359</id>
		<title>ガダルカナル島の戦い</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E3%82%AC%E3%83%80%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%8A%E3%83%AB%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84&amp;diff=122359"/>
		<updated>2014-08-15T17:04:30Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;58.188.177.224: /* 日本陸軍による反撃 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Battlebox&lt;br /&gt;
| battle_name=ガダルカナル島の戦い&lt;br /&gt;
| campaign=ソロモン諸島の戦い&lt;br /&gt;
| colour_scheme=background:#ffff99;color:#2222cc&lt;br /&gt;
| image=[[ファイル:Guad19420805 JP.jpg|300px]]&lt;br /&gt;
| caption=ガダルカナル島要図。北岸中央部がヘンダーソン飛行場&lt;br /&gt;
| conflict=[[太平洋戦争]] / [[大東亜戦争]]&lt;br /&gt;
| date=[[1942年]][[8月7日]] - [[1943年]][[2月7日]]&lt;br /&gt;
| place=[[ソロモン諸島]][[ガダルカナル島]]&lt;br /&gt;
| result=連合軍の勝利&lt;br /&gt;
| combatant1={{JPN1889}}&lt;br /&gt;
| combatant2={{USA|1912}}&amp;lt;br /&amp;gt;{{AUS}}&amp;lt;br /&amp;gt;{{NZL}}&amp;lt;br /&amp;gt;{{UK}}&lt;br /&gt;
| commander1=[[百武晴吉]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[塚原二四三]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[一木清直]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[川口清健]]&lt;br /&gt;
| commander2=[[アレクサンダー・ヴァンデグリフト]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[リッチモンド・K・ターナー]]&lt;br /&gt;
| strength1=36,204&lt;br /&gt;
| strength2=60,000&lt;br /&gt;
| casualties1=戦死 22,493{{Sfn|太平洋戦争研究会|2005|loc=185項}}&lt;br /&gt;
| casualties2=戦死 6,842{{Sfn|太平洋戦争研究会|2005|loc=185項}}&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;ガダルカナル島の戦い&#039;&#039;&#039;（ガダルカナルとうのたたかい、Battle of Guadalcanal）は、[[第二次世界大戦]]において[[1942年]]8月以降[[日本軍]]と[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]が西[[太平洋]][[ソロモン諸島]]の[[ガダルカナル島]]を巡って繰り広げた[[戦闘|戦い]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 背景 ==&lt;br /&gt;
日本は[[太平洋戦争]]（[[大東亜戦争]]）緒戦（[[南方作戦]]）において、[[援蒋ルート]]遮断と[[資源]]（原油、鉱物、天然ゴム等）の獲得のため、[[マレー半島|マレー]]（[[マレー作戦]]）、[[ミャンマー|ビルマ]]（[[ビルマの戦い]]）、[[フィリピン]]（[[フィリピンの戦い (1941-1942年)|フィリピンの戦い]]）、[[シンガポール]]（[[シンガポールの戦い]]）、[[ボルネオ島|ボルネオ]]・[[インドネシア]]（[[蘭印作戦]]）などといった広大な[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]][[植民地]]を占領、また、太平洋戦争の開戦意義であり南方作戦における最重要攻略目標であった[[オランダ領インドネシア|蘭印]][[パレンバン]]および周辺の[[製油所]]・大[[油田]]地帯も、「[[空の神兵]]」こと[[挺進連隊|陸軍第1挺進団]]の[[エアボーン|空挺作戦]]によりほぼ無傷で獲得した（[[パレンバン空挺作戦]]）。しかし、第二次の作戦については方針が定まってはいなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[大日本帝国海軍|日本海軍]]においても、軍令部は長期の戦いになる事を想定していたのに対し、連合艦隊司令部はアメリカを相手に長期持久戦を行うことを不利として、積極的に戦線を拡大して早期に主力艦隊同士の決戦を図ることを主張した。その連合艦隊司令部が1942年4月に計画したのが、第1に連合国の反攻拠点と考えられた[[オーストラリア]]の攻略作戦であり、第2に[[ミッドウェー島]]を攻略することでアメリカ艦隊を引き寄せて撃滅しアメリカの継戦意欲を失わせる作戦であった。[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]は、あくまで[[日中戦争]]（[[支那事変]]）解決を重視しており、[[東南アジア]]の占領地・資源地帯は現状維持とし、それ以上の太平洋方面は海軍の作戦担当地域であるという認識に立っていたため、戦線拡大には否定的であった。したがって大兵力を[[中国]]の[[支那派遣軍]]や、[[満州]]の[[関東軍]]から引き抜かなくてはならないオーストラリア攻略作戦に消極的ではあったが、オーストラリアを孤立させることについては海軍と見解が一致した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これで企画されたのが米豪遮断作戦である。この作戦は、[[ニューギニア島]]東南岸の[[ポートモレスビー]]攻略作戦（[[ニューギニアの戦い#MO作戦と珊瑚海海戦|MO作戦]]）と[[ニューカレドニア]]、[[フィジー]]、[[サモア]]の攻略作戦（[[FS作戦]]）から成るものであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ところが日本海軍は[[ミッドウェー海戦]]において主力[[航空母艦]]4隻を失うこととなり、FS作戦の実施は一時中止されることとなった。だが、守勢に回ったとしても必要となるソロモン諸島の[[制空権]]拡張のため、ラバウル以南の前進航空基地を建設する為、ガダルカナル島に飛行場が建設されることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;建設決定までの経緯については、[[井上成美#ガダルカナル島の飛行場建設について]]を参照。&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[軍令部]]作戦課から[[参謀本部]]作戦課に文書で通知している。だが作戦課同士でのやり取りであったため、陸軍内で広く知られる事はなく、戦後「基地建設の事を陸軍は知らされていなかった」との誤解を生じた。正確には、参謀本部は知っていたが、政府や陸軍省は知らなかったということである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大本営は連合軍の太平洋方面の反攻開始は[[1943年]]以降と想定していたため、ガダルカナル島において戦闘能力のある人員は、設営隊と護衛の[[海軍陸戦隊]]（第18警備隊基幹）を合わせても600名足らずであった。アメリカ軍上陸直前の8月5日には滑走路の第1期工事が完了している。なおこれに先立つMO作戦時に、近接する[[ツラギ島]]には[[水上機]]基地が設けられていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本軍の予測は外れ、アメリカ軍は早くも7月2日には対日反攻作戦となる[[ウォッチタワー作戦]]を発令した。[[アメリカ陸軍|米国陸軍]][[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]大将は、ウォッチタワー作戦の目標をフィリピンにより近い[[ラバウル]]とすることを主張していた。しかし、[[太平洋艦隊 (アメリカ海軍)|太平洋艦隊]]の空母戦力が充実していないことを理由に[[アメリカ海軍作戦部長|海軍作戦部長]][[アーネスト・キング]]大将から猛反対され、当時飛行場建設が行われていたガダルカナル島を攻略することで双方一応の決着をみた。そして7月4日以降ガダルカナル島への偵察・爆撃が強化され上陸作戦への布石が打たれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 前哨戦 ==&lt;br /&gt;
=== ガダルカナル島上陸緒戦 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:GuadLandingsLunga.jpg|thumb|1942年8月7日、ガダルカナルに上陸する海兵隊]]&lt;br /&gt;
8月7日午前4時、[[アメリカ海兵隊|海兵隊]][[第1海兵師団 (アメリカ軍)|第1海兵師団]]（師団長[[アレクサンダー・ヴァンデグリフト]]少将）を主力とし、[[オーストラリア]]軍の支援を受けた10,900名の海兵隊員が、[[艦砲射撃]]と航空機の支援の下でガダルカナル島テナル川東岸付近に上陸を開始した。同時にツラギ島方面にも4個大隊1,500名が上陸し壮絶な玉砕戦が行われた。また、これとは別に6,705名が海上に師団予備として残された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Main2|ツラギ島方面の戦い|フロリダ諸島の戦い}}&lt;br /&gt;
8月7日、ガダルカナル島の日本軍は哨直の第13設営隊以外は眠っており、連合軍の攻撃は完全な奇襲となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上陸当初、最も敵に近い[[ルンガ川]]の飛行場地区に第11設営隊の陣地があり、ルンガ川を挟んで第13設営隊、海軍陸戦隊が駐屯していたが、各隊の陣地は[[防空壕]]以外に陣地整備されているものは何も無い状況だった。そのため、敵兵力の把握もままならないままルンガ川東岸の第11設営隊約1,350名は駆逐され、完成間近の飛行場を含むルンガ川東岸一帯は連合軍の手に落ちた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この上陸戦において、米軍側公刊戦史は[[小銃]]、[[機関銃]]数挺、70粍[[山砲]]（[[歩兵砲]]）及び75粍山砲各2門、弾薬、ガソリン、燃料、使用可能なトラック35台を含む自動車と[[電波探知機]]2台、[[糧秣]]多数を鹵獲したと伝えている。一方、第13設営隊隊長[[岡村徳長]]少佐は冷静に指揮下の1,200人の設営隊員を敵上陸地点の反対方向のルンガ川西岸地区に移動させ、ルンガ川橋梁を破壊してルンガ川西岸で連合軍部隊を迎え撃つ姿勢を見せた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同日夕方、どうにか数十名の部下を従えた第11設営隊隊長[[門前鼎]]大佐が岡村部隊と合流して善後策を協議し、ルンガより西方約4キロメートルにある[[マタニカウ川]]を[[最前線|第一線陣地]]とし、門前隊、岡村隊、第18警備隊（含む第84警備隊の1部）を合わせて臨時のガダルカナル島守備隊を編成することとなった。8日午前零時、門前大佐が中隊長として[[クルツ岬]]に向けて中隊本部を後退させ、岡村隊と警備隊をマタニカウ川正面に展開を終えたのは8日午前4時30分とされる。この際に同隊がクルツ岬付近のジャングルに設営された海軍本部に収容できた食料は、わずか7日分であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これに対し、連合軍の動きを知った日本海軍は現地のラバウル第25航空戦隊（陸攻27、艦爆9、戦闘機17の計53機）と[[第八艦隊 (日本海軍)|第8艦隊]]（[[三川軍一]]中将、増強を受け[[重巡洋艦|重巡]]5隻、[[軽巡洋艦|軽巡]]2隻、[[駆逐艦|駆逐]]1隻）に反撃を指示した。また、陸海軍協定に則り、陸軍に協力を求め、在ラバウル陸軍[[第17軍 (日本軍)|第17軍]]は[[グアム島]]の一木支隊、[[パラオ諸島]]駐屯の第35旅団（川口支隊）をガダルカナルに投入することとした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:Sakai wounded.jpg|thumb|ガダルカナルへの攻撃で[[ドーントレス]]編隊の集中砲火を受け負傷した[[坂井三郎]]。（8月7日のラバウル基地への帰還時）]]&lt;br /&gt;
米軍上陸日当日から翌日にかけて行われた25航戦による爆撃は、直前で敵艦上戦闘機及び敵急降下爆撃機の撹乱銃撃を受けてしまい効果が薄かったものの、この地域に米空母部隊が進出しているという貴重な情報を得ることとなる。25航戦は34機喪失の大被害を受け、うち艦爆隊は当初から航続力不足のため不時着覚悟の出撃であり、全機体が失われている&amp;lt;ref&amp;gt;乗員救助のため駆逐艦の緊急派遣などの措置は取られており、収容された乗員から連合軍艦隊の詳細情報を得られた。&amp;lt;/ref&amp;gt;。また三川中将率いる第8艦隊は翌8月8日夜半に戦場海域に到達しそこで連合軍艦隊と遭遇し、[[第一次ソロモン海戦]]が戦われ、重巡4隻を撃沈し同1隻を大破させる戦術的大勝を収めた。しかし戦闘艦艇の撃破には成功したものの本来の目的であった輸送艦隊への攻撃は中止された。このため米軍は重火器を含む大量の物資の揚陸に成功し、これが結果的にガダルカナル島の戦いの戦略的な帰趨に重大な影響を与えることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Main|第一次ソロモン海戦}}&lt;br /&gt;
上陸初日からの日本軍による反撃により、テナルの米軍揚陸地点を危険と判断した[[フランク・J・フレッチャー|フレッチャー]]中将は揚陸作業を中断して空母群と輸送船団を南方に退避させた。そのため、第1海兵師団も十分な物資を揚陸できず上陸作戦完了後、海兵隊の1日の食事は2食に制限された。また、ガダルカナル島での航空優勢が確立されるまで、同島への物資補給は米軍も駆逐艦輸送に限定されることとなった（後に日本軍はこの手法を「[[鼠輸送]]」と称して常用するようになるのである）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
13日、捕虜となったある日本兵が米海兵隊に対して「日本軍には投降する意志がある」と証言した。海兵隊の偵察隊もマタニカウ川西岸に「[[白旗]]」が掲げられていると報告したため、第1海兵師団のD-2（情報担当幕僚）のフランク・ゲデッジ中佐率いる24名の偵察隊が現地に向かった。ところが実際には日本軍の攻撃を受け、伝令2名と川に飛び込んで逃げた1名のみが生還した。「白旗」を囮に攻撃を加えるという日本軍に多くの海兵隊員は激怒し、彼らの多くが日本兵は捕虜にせず、その場で殺害することを心に誓ったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
18日、同川西岸の日本軍を危険視したヴァンデグリフトは、これを排除すべく第5海兵連隊の3個中隊を投入。翌19日、同連隊B中隊は、海岸沿いに西進してマタニカウ川東岸に向かい、マタニカウ村に向けて援護射撃を行い、L中隊は同川河口上流を渡河して西岸を北上し、マタニカウ村を攻撃した。日本軍は激しく抗戦し、特に日本側の狙撃兵によって米軍側の指揮官が次々と倒された。L中隊のある小隊では1日で小隊長2名が戦死している。海兵隊も偵察狙撃班を編成して対抗し、I中隊が日本軍の退路を遮断するため[[ククム]]から西の[[コクンボナ]]に上陸を敢行。午後には日本軍が戦闘からの離脱と後退を開始した。だが、海兵隊側には追撃を試みるだけの兵力や物資がなく、第5連隊は元の陣地に帰還している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:Guad Ichiki.JPG|thumb|一木支隊の行動概要図]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:GuadInitialLungaPerimeter.gif|thumb|1942年8月ヘンダーソン飛行場周辺の米軍展開図：一木支隊は東部から飛行場防衛地区へ侵攻]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本陸軍による反撃 ===&lt;br /&gt;
{{Main|イル川渡河戦}}&lt;br /&gt;
陸軍の[[一木清直]]大佐率いる大本営直轄の一木支隊（[[第7師団 (日本軍)|第7師団]]の[[歩兵第28連隊]]を基幹とする）約2,300名は、当初ミッドウェー島攻略部隊に充当されていた部隊であったが、1942年6月のミッドウェー海戦で海軍が敗北したため攻略作戦は中止となり、一時[[グァム島]]に休養を兼ねて留め置かれていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年8月7日の連合軍ガダルカナル上陸が始まると内地転属が解除され、そのまま[[トラック諸島]]へと輸送された。トラック諸島からガダルカナルまでは駆逐艦「[[陽炎 (陽炎型駆逐艦)|陽炎]]」以下6隻に第1梯団として[[支隊]][[司令部|本部]]163名、[[大隊]]本部23名、歩兵4個[[中隊]]420名（[[軽機関銃]]36、[[八九式重擲弾筒|擲弾筒]]24）、[[機関銃]]隊110名（[[九二式重機関銃|重機関銃]]8挺）、[[歩兵砲|大隊砲]]1個小隊50名（[[九二式歩兵砲|歩兵砲]]2門）、[[工兵]]1個中隊150名が乗船し急派されている。支隊の残りは、海軍の横須賀第5特別陸戦隊主力とともに輸送船で第2梯団として送り込まれることとなったが、同時に出航したにもかかわらず9.5ノットの低速が災いし、[[イル川渡河戦]]（米国名：テナルの戦い）には間に合わなかった（イル川は現地名で、日本軍は中川と呼称。テナル川はイル川の東方に位置し日本軍通称は蛇川）。このほか横須賀第5特別陸戦隊の先遣部隊（高橋中隊）が駆逐艦により輸送され、8月16日に上陸成功して設営隊などと合流している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
駆逐艦輸送であった為、一木支隊は実質、1個大隊相当の戦力しかなかったといえる。さらに、一木支隊に届いていた敵情については「連合軍兵力は約2,000名」、「敵上陸目的は飛行場破壊にあり、現在は島からの脱出に腐心している」などといった海軍第11設営隊、や[[駐在武官|駐ソ武官]]の情報などがあった&amp;lt;ref&amp;gt;大本営海軍部では当初は本格的な上陸と考えていたが、前記各情報から主力は撤退したと誤認するに至った。&amp;lt;/ref&amp;gt;。そのため、第1梯団は軽装（1人当たり小銃弾250発、食料7日分）で急行し、海軍部隊を保護して、ただちに敵を攻撃する方針を決定する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
8月18日にガダルカナル島[[タイボ岬]]に無血上陸した一木支隊は、ひたすら西を目指して前進した。海岸沿いの砂浜を主に夜間行軍により進み、20日夕刻頃までにはテナル川を越えてイル川西岸地域まで到達している。当初の構想では海軍第11設営隊跡（ヘンダーソン飛行場東側の丘状地）に支隊本部を置き、飛行場に所在していると思われる敵残存兵力を攻撃することとしており、一木大佐は飛行場から3キロも離れたイル川東岸に敵防御陣地があることを想定していなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本軍とは対照的に、アメリカ海兵隊は18日に[[コーストウォッチャー]]（[[:en:Coastwatchers|Coastwatchers]]）の通報によりタイボ岬沖からの日本軍上陸を察知していた。19日昼には、倒した日本軍[[斥候]]兵の[[階級章]]から、タイボ岬に上陸した日本軍が陸軍部隊であることに気づき、20日夕刻までにはルンガ地区イル川東岸の防備を固めていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
20日18：00にイル川を越えて先行していた[[将校]]斥候（渋谷大尉・館中尉ら）34名中31名が、アメリカ海兵隊の攻撃により戦死の憂き目に遭う。2時間後に離脱兵から報告を受けた一木大佐は激高し、不明将校の捜索を命じるに当たって「行動即索敵即攻撃」を各中隊に命じている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:GuadTenaruSandbar.jpg|thumb|1942年8月21日海岸部で包囲殲滅された一木支隊]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
21：00頃には、一木支隊の[[尖兵]]中隊がイル川西岸で思いもよらぬ敵からの銃砲撃を受け立ち往生しているところに支隊本部が合流した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
22：30から歩兵砲の砲撃を合図にイル川渡河を決定。火力の差は明白で、[[M3 37mm砲|M3 37ミリ対戦車砲]]（[[:en:37 mm Gun M3|en]]）、[[M116 (75mm榴弾砲)|M1A1 75ミリ榴弾砲]]、[[M101 (105mm榴弾砲)|M2A1 105ミリ榴弾砲]]などを有する強力な[[砲兵]]に援護された機関銃座陣地を前に、100名余の損害を出して一旦攻撃を停止する。敵兵力が10,900人を擁する大軍であることを知らない一木大佐は、なおも1時間後に同様の白兵攻撃を命じて、同様に機銃陣地からの[[十字砲火]]を受け今度は200名を越す損害を受けたとされる。また、その間にも敵砲兵陣地からの砲撃、とりわけ[[迫撃砲]]による砲火は苛烈を極め、日本軍の反撃は渡河に成功した一握りの兵による[[軽機関銃|軽機]]や[[手榴弾]]による攻撃にとどまった。一部の将校は一旦後退することを具申したが、一木大佐は攻撃を続行した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ようやく翌21日午前5時頃、一木大佐はイル川左岸の海岸部に残兵を集め状況把握に努めたが、夜明けとともに敵機が上空を舞い始め、陸上からは海兵第1連隊がイル川を越えて一木支隊の退路を断つように迂回攻撃を仕掛けてきたため、包囲された一木支隊は苦戦に陥った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同日午後から投入された[[水陸両用戦車]]6両により支隊本部は蹂躙され、一木支隊は[[壊滅]]した。海岸で波打ち際に追い詰められた兵士は執拗な包囲射撃によりことごとく[[殲滅]]された。海岸での海兵隊による掃討戦は21日14時には概ね終了し、意識不明の負傷兵15名が捕虜となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結局、8月25日までに生きて上陸地点のタイボ岬まで戻れたものは916名中126名（うち戦傷者30名）であり、790名（戦死者行方不明者777名、捕虜15名）の損害&amp;lt;ref&amp;gt;戦死者数は日本側公刊戦史より捕虜は米側公刊戦史より抜粋しており合計数は一致しない&amp;lt;/ref&amp;gt;を出して戦いは終わった。米軍の損害は戦死者40名余りとされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
支隊長一木大佐は21日の戦闘で戦死したと思われるが、その状況は不明である。ちなみに、戦闘開始時に総員[[背嚢]]遺棄が命じられたため、早くも一木支隊の残存兵は飢えに悩まされるようになった。一方、米軍もまたこの戦闘による消費で物資弾薬の枯渇が表面化しつつあったが、戦闘後に輸送船団による物資と増援兵力の輸送が成功して危機は去り、この時点において兵站面での勝敗は決していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 第1次総攻撃 ==&lt;br /&gt;
=== 川口支隊 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:GuadBloodyRidgeSep12-14.gif|thumb|9月12日-14日の川口支隊の攻勢]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:GuadAmericalLanding.gif|thumb|ガ島に増援を送るアメリカ軍]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:HendersonF4FIntercept.gif|thumb|日本の航空機を迎撃する為にヘンダーソン飛行場より発進した[[F4F (航空機)|F4F ワイルドキャット]]]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:GuadPatrol.jpg|thumb|1942年9月、マタニカウ川を巡回する海兵隊]]&lt;br /&gt;
一木支隊の壊滅の報を受ける前、8月中旬から[[川口清健]]少将率いる[[第18師団 (日本軍)#川口支隊|川口支隊]]（第35旅団[[司令部]]および[[歩兵第124連隊]]基幹）約4,000名の輸送が始まっていた。しかし、連合艦隊司令部では8月20日に「ガダルカナル島付近で敵機動部隊が出現」との報告を受け、川口支隊の船団輸送を一時中止し、ガダルカナル島海域の航空優勢の確立のためトラック島の機動部隊（空母「翔鶴」「瑞鶴」「龍驤」基幹）に出撃を命じた。日米両軍機動部隊の間で、8月23日～24日にかけて東部ソロモン海域において[[第二次ソロモン海戦]]が戦われることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Main|第二次ソロモン海戦}}&lt;br /&gt;
海戦の結果、日米両軍とも空母戦力に相当のダメージを受けたが、米軍は[[護衛空母]]「[[ロング・アイランド (護衛空母)|ロング・アイランド]]」を使ってヘンダーソン飛行場に航空機を送り込むことに成功した。そのためヘンダーソン基地航空部隊の動きが活発化し、一木支隊第2梯団の輸送船団は空からの攻撃で輸送船1隻、駆逐艦1隻を失い[[ショートランド諸島|ショートランド泊地]]へ退避した。第二次ソロモン海戦後もガダルカナル島海域に一時とどまっていた空母「瑞鶴」が支援していたが（8月25日）、及ばなかった。これを見て川口支隊の船団輸送も中止となり、輸送は駆逐艦による「鼠輸送」と島づたいの[[上陸用舟艇|舟艇]]機動（[[大発動艇]]など）による「[[蟻輸送]]」に頼ることとなった。増援が遅れる間に、ガダルカナル島の海軍部隊は徐々に圧迫され、マタニカウ川の防衛線を放棄して後退しはじめていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
川口支隊は、一木支隊の第2梯団と共に9月7日までにガダルカナルに上陸した。川口少将の主張により、60隻の小型舟艇に分乗し島づたいにガダルカナルに向かった別働隊（約1,000名）は、空襲や故障で被害を受けたうえ分散状態になり、本隊とは飛行場を挟んで反対側にたどり着いてしまい、総攻撃には間に合わなかった。駆逐艦を使った本隊もアメリカ軍の空襲のため、兵員はともかく、[[重火器]]は[[高射砲]]2門・[[野砲]]4門・山砲6門・[[速射砲]]14門しか揚陸できなかった。陸上輸送の困難から、このうち実際に戦闘に参加した砲は、さらにわずかとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
川口支隊は、一木支隊の戦訓から、正面攻撃を避けるべくヘンダーソン飛行場の背後に迂回してジャングルから飛行場を攻撃することを試みた。しかし、そのために必要な地図の準備はなく、険しい山岳地形の密林に進撃路を切り開くために各大隊の工兵部隊は通常装備を捨てて、つるはしとスコップによる人海戦術で総攻撃の当日まで啓開作業を行った。完成した粗末な啓開路では重火器や[[砲弾]]の運搬は不可能であり、その大部分は後方に取り残された。また、作業により兵は疲労困憊していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月12日午後8時を期して「中央隊（左、中、右と3個大隊が別々に行動）」、「左翼隊（[[岡明之助]]大佐率いる舟艇機動の第124連隊第2大隊）」、「右翼隊（一木支隊の残存集成部隊）」が同時に米軍陣地に攻撃を行うことになった。しかし、夕方までに攻撃位置につけたのは僅か中央隊の一部だけであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
12日の総攻撃は各部隊バラバラに攻撃を行い、実質的な第1次総攻撃（米国名：「血染めの丘（エドソンの丘）の戦い」Battle of Edson&#039;s Ridge）が行われたのは13日の夜半から14日の未明にかけてである。12日から14日に至る間、川口支隊の左翼隊とその後詰の舞鶴大隊は米軍の集中砲火の前に前進を阻まれ戦いに至らず、各隊は[[鉄条網]]と火線を越えられずに散発的な戦いのみに終始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
激戦となった中央隊左翼を担当した[[田村昌雄]]少佐率いる青葉大隊の一部が、中央隊右翼国生大隊の米軍陣地の第一線を突破し、さらに3個中隊のうちの1個中隊がムカデ高地の端からヘンダーソン飛行場南端に達し、付近の建設中の倉庫などの拠点を確保した。だが、混戦のすえに日本軍は敗走した。川口支隊と対戦した米軍は700人だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この戦闘による川口支隊の戦死者・行方不明者は約700名で、一木支隊と比べれば損耗率は低かったが、激戦となったのは国生大隊と田村大隊の2個大隊だけであり、国生少佐、水野少佐を含め[[中隊|中隊長]]クラスの中堅将校が戦死した。また、再起を画してアウステン山からマタニカウ川西岸にかけて負傷者を含めた5,000名余りが駐屯することになり、[[兵站]]線の細い日本軍は、以後食料・弾薬の補給不足が深刻化し、以後ガダルカナル島（ガ島）はさながら「&#039;&#039;&#039;餓島&#039;&#039;&#039;」の様相を呈することになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月23日から9月27日の間に、マタニカウ河東岸に駐屯する川口部隊に対し米軍は、&lt;br /&gt;
9隻の舟艇による逆上陸を含む6度の攻撃を行うが、川口部隊の第二大隊・第三大隊に撃退され、&lt;br /&gt;
米軍は多数の損害をだして後退した｡&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第一次総攻撃の総括とその後 ===&lt;br /&gt;
[[1942年]]9月17日、陸軍[[参謀総長]][[杉山元]][[陸軍大将]]は、[[大元帥]]である[[昭和天皇]]にガダルカナル島の戦いについて以下のように[[上奏]]している。&lt;br /&gt;
* 川口支隊の攻撃不成功の要因はジャングルを利用した[[奇襲]]に重点を置きすぎ、連絡不十分なまま戦力を統合運用しなかったためであること&lt;br /&gt;
* 連合軍の防御組織、とりわけ物的威力が予想以上であり、同島では今後まったくの力押しによる戦闘が求められること&lt;br /&gt;
* この戦いを受けて[[第17軍 (日本軍)|第17軍]]に、関東軍・支那派遣軍などから20個単位の戦車、砲兵戦力を転用・編入して戦機である10月中にガダルカナル飛行場を奪回するべきこと&lt;br /&gt;
* ガダルカナル島の戦いにおいては、陸海軍戦力を統合発揮する必要があること&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、この上奏文をもとに作成された大陸命688号による兵力の転用は当時の日本軍の海上輸送能力を超えたものであった。重火器を大発による「蟻輸送」により送り込む計画が破綻すると、10月1日からの駆逐艦による「鼠輸送」&amp;lt;ref&amp;gt;連合軍は「東京エクスプレス」と称した&amp;lt;/ref&amp;gt;だけでは、兵站線途上のショートランド島から先に充分な重火器と弾薬を供給できなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そこで10月中旬に、機動部隊の護衛と戦艦部隊によるヘンダーソン飛行場艦砲射撃の間接支援で、ガダルカナル島タサファロング沖に大挙6隻の高速貨物船での揚陸を企図することになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
10月7日には、先に到着していた増援の[[歩兵第4連隊]]が、ヘンダーソン飛行場を射程下におさめるために不可欠なマタニカウ川東岸への進出を図った。しかし連合軍の予想外の反撃に遭い、第2次総攻撃を前に、戦力の3分の2にあたる2個大隊が壊滅的な打撃を受けてマタニカウ川西岸へ撃退されてしまった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Main|マタニカウ川東岸の戦い}}&lt;br /&gt;
他方アメリカ軍は、10月13日に[[ヌーメア]]から[[アメリカル師団]]の1個連隊をガダルカナル島に送り込むことに成功した。また、9月の危機で脆弱だったムカデ高地の陣地を補強し、ジャングルに敷設した[[集音器]]の数も増やし、ジャングルからの日本軍に管制射撃網を敷く体制を整えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
10月15日にアメリカ太平洋艦隊司令長官の[[チェスター・ニミッツ|ニミッツ]]は、それまで南太平洋戦域の米軍を統括指揮していた南太平洋軍司令官の[[ロバート・L・ゴームレー|ロバート・ゴームレー]]（[[:en:Robert L. Ghormley|Robert L. Ghormley]]）海軍中将を敗北主義であるとして更迭、代わりに[[ウィリアム・ハルゼー]]海軍中将を起用している。ハルゼーはすぐに現地の指揮官を集めて会議を開き「撤退しようというのか、それとも確保しようとするのか？」と質問した。ヴァンデグリフトは「私は確保できます。だが、いままでよりもっと積極的な支援をお願いします」と答え、ハルゼーは「よろしい。大いにやってみたまえ。できるだけのことを君に約束する」と確言した&amp;lt;ref name=&amp;quot;nc&amp;quot;&amp;gt;ニミッツ、ポッター 129ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 第二次総攻撃 ==&lt;br /&gt;
=== 第2師団 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:JMajGenMaruyama.gif|thumb|丸山政男中将]]&lt;br /&gt;
10月初旬、[[百武晴吉]]中将以下の第17軍戦闘司令部がガダルカナル島へ進出し、[[第2師団 (日本軍)|第2師団]]（師団長・[[丸山政男]]中将）が同島に派遣された。作戦目標は、飛行場を挟んで川口支隊とは反対側の西側に上陸し、飛行場占領することであった。なお、川口支隊の輸送時にネックとなった船団護衛について、海軍はヘンダーソン飛行場基地については戦艦及び巡洋艦の艦砲射撃による破壊を行う事とし、さらに米空母の出撃に備えて第3艦隊（空母「翔鶴」「瑞鶴」）が10月11日以降、トラック島を出撃しガダルカナル島北方海面に進出することとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
10月12日未明、ヘンダーソン飛行場の艦砲射撃第一陣として向かった重巡部隊が、[[サボ島沖海戦]]で敗北を喫することとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
13日の第2陣となった[[戦艦]]「[[金剛 (戦艦)|金剛]]」「[[榛名 (戦艦)|榛名]]」を中心とする艦隊がガダルカナル島に夜間の艦砲射撃を行う（[[ヘンダーソン基地艦砲射撃]]）。さらに翌14日朝にはラバウルから飛来した海軍航空部隊による空襲、14日夜には[[重巡洋艦]]「[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]]」「[[衣笠 (重巡洋艦)|衣笠]]」による艦砲射撃が追い打ちをかけた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを受けて、第2師団を乗せた高速輸送船団6隻が泊地に投錨し揚陸作業を開始した。一連の事前砲爆撃によって米軍航空部隊は飛行機の半分以上とガソリンのほとんどを焼失する大きな打撃を受けていたが、海兵隊は既にヘンダーソンとは別に規模の戦闘機用の小さな滑走路を完成させていた。海軍の航空偵察も陸軍川口支隊もそれを察知しておらず、潰し損なったため、第2師団の揚陸作業中の現地上空の航空優勢の確保は達成できなかった。結果、兵員の上陸は終わったものの食料は50%、重火器類は20%の揚陸がすんだ時点で輸送船団に被害が目立ち始め、船団を北方に退避させることとなってしまった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第2師団は、ジャングルの迂回作戦で道を見失い支離滅裂となった川口支隊の失敗を受けて、大部隊による正攻法で攻撃を行う計画であった。そのため20,000名以上の大兵力、火砲200門以上と1個[[機甲部隊|戦車連隊]]（戦車・[[装甲車]]75両）を上陸させようとしたがごく一部しか揚陸できなかった。やむなく、作戦は変更され、歩兵の主力は先に失敗したジャングルの迂回作戦を取ることになり、当初の正面攻撃は一部の部隊が[[陽動]]として行うことになった。だが、ジャングルを進むための地図や土木機械の準備は川口支隊の時と同様に全く行われておらず、従って進撃路の啓開は遅々として進まず、部隊はまたもや支離滅裂の状態となった。右翼部隊を指揮していた川口支隊長は第1次総攻撃の反省から、大本営から派遣された作戦参謀[[辻政信]]中佐に迂回攻撃を進言したが、意見が対立し罷免された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:GuadBattleOct20-25.gif|thumb|10月20日-24日の第二師団の攻勢]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:GuadNakagumaMatanikauDeadJapanese.jpg|thumb|壊滅した陽動部隊の住吉支隊（1942年10月24日、マタニカウ川河口）]]&lt;br /&gt;
戦車や重砲はとてもジャングル内の迂回路を進むことは出来ないため、陽動隊に配属された。その数は、水上機母艦「[[日進 (水上機母艦)|日進]]」などで輸送された野砲7門・[[九一式十糎榴弾砲]]4門・[[九六式十五糎榴弾砲]]15門・[[九二式十糎加農砲|九二式十糎加農]]3門などにすぎず、戦車は独立戦車第1中隊が[[九五式軽戦車]]及び[[九七式中戦車]]合わせて10数両を持つだけであり、何よりも砲弾が不足していた。ジャングルの迂回路を進む主力には歩兵砲・山砲・速射砲・迫撃砲など小型で軽量の砲が配属されていたが、人力担送は困難を極め、大半は進撃路の遙か後方に取り残され、戦闘には間に合わなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした状況にも係らず第2師団は「23日にはガダルカナルの占領を完了。ツラギ、[[レンネル島|レンネル]]、[[マキラ島|サンクリストバル]]に転進し、これを占領する予定なり」という意の[[電報]]を大本営に送っていた{{Sfn|伊藤正徳|1973}}。&lt;br /&gt;
[[ファイル:GuadMatanikauDeadJapanese.jpg|thumb|壊滅した第2師団（1942年10月25日）]]&lt;br /&gt;
こういった中で日本は10月24日にバラバラにアメリカ軍陣地に攻撃を掛けた。川口少将を罷免したことで右翼方面の連絡系統は著しく混乱し、飛行場の1キロ手前まで到達したところで司令部に作戦成功を意味する「バンザイ」の電報を送った。これは勿論誤報であったが、将校一同は「御芽出度う」と交歓し合い、井本参謀は日誌の一項を覆う大文字で「天下一品の夜」と記した。&amp;lt;ref&amp;gt;『失敗の本質―日本軍の組織論的研究 （中公文庫）』・{{Harvnb|伊藤正徳|1973}}より&amp;lt;/ref&amp;gt;。左翼方面は敵に突撃し、哨戒線を突破したが砲火に晒され大損害を出した。25日から26日朝にかけて第2師団は繰り返し[[夜戦|夜襲]]をかけたが、装備の不足などから猛砲火を浴び戦傷含めた損害は半数以上と壊滅状態に陥った。25日からは飛行場から発進した米攻撃機による空襲が始まり、高級将校多数が戦死した。ラバウル基地の日本海軍航空部隊（零戦）は飛行場占領の誤報を受けガダルカナル基地を目指したが、その飛行場から[[F4F (航空機)|F4F]]が迎撃してきてパニックに陥った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:MatanikauTank.jpg|thumb|マタニカウ河の戦闘で撃破された九七式中戦車]]&lt;br /&gt;
陽動のため海岸線沿いを進んでいた住吉支隊では、[[住吉正]]少将が作戦の拡大を急遽決定し、戦車部隊にマタニカウ河の渡河を命じた。これに対し米軍は37mm対戦車砲や75mm[[自走砲]]を配備して日本軍を待ち構えていた。戦車隊は河の中央付近で十字砲火を浴びて次々に撃破され、対岸にたどり着いた2両も[[地雷]]で動けなくなったところを75mm自走砲に撃破された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
26日には師団参謀がガダルカナル奪回は不可能との旨を辻政信参謀に報告し、作戦は中止された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦闘における全体の戦死者については、資料がなく不明であるが、第2師団麾下の[[歩兵第29連隊]]では、兵員2,554名に対し戦死・行方不明553名となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第2次総攻撃の総括とその後 ===&lt;br /&gt;
11月12日にガダルカナルより大本営陸軍部作戦課長の[[服部卓四郎]]大佐が帰京し次のように第2次総攻撃の失敗について、[[東條英機]][[内閣総理大臣]]兼[[陸軍大臣]]に報告している&amp;lt;ref&amp;gt;大本営陸軍部軍務課長[[真田穣一郎]]大佐の日誌より要約抜粋&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 敵は完全に制空権を掌握し、熾烈巧妙な火力準備により裸の我が軍を迎え撃った。&lt;br /&gt;
* 敵は地上攻撃と空中攻撃を併用し、我が軍の航空支援は皆無だった。&lt;br /&gt;
* 我が軍の大隊長級の能力薄弱。&lt;br /&gt;
* 兵の士気は麻痺しており、さらに顧慮すべき衛生は劣悪。高い発熱、[[下痢]]、[[栄養失調]]により第2師団の戦力は4分の1に低下。戦傷兵の後方担送には1人につき4から8人が必要な状況にある。&lt;br /&gt;
* 現地の火砲は十五榴12門、十加2門、野砲4門、山砲8門、高射砲12門の計48門で、弾薬不十分。&lt;br /&gt;
* [[糧秣|糧食]]は非常に不足し、揚陸物資も搬送手段無く、末端には届いていない。&lt;br /&gt;
* [[軍]]司令官は健康。「やる」と言っているが第一線を把握していない。&lt;br /&gt;
* 敵は白昼堂々と船団輸送しているが、我が軍は[[潜水艦]]でコソコソ揚陸するも10隻で僅かに2日分の糧食を輸送できるに過ぎない（この時期に潜水艦による輸送は始まっていないため、駆逐艦の誤りと推測される）。&lt;br /&gt;
結論として、既定の第38師団・第51師団の投入を行うほか、[[ブカ島|ブカ]]、ショートランド、ガダルカナル島エスペランス岬付近に飛行場を整備し陸軍より[[戦闘機]]2個[[陸軍飛行戦隊|戦隊]]・[[爆撃機|軽爆]]1個戦隊はぜひ必要。次期攻撃は18年1月末となるべし、と結んでいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、11月16日に[[第8方面軍]]司令官[[今村均]]中将は昭和天皇に拝謁し、「南東太平洋方面よりする敵の反抗は、国家の興廃に甚大の関係を有するにつき、速やかに苦戦中の軍を救援し戦勢を挽回せよ」との言葉を受け、同日、大陸指1338号によるソロモン群島方面の作戦要領が次の通り示された。&lt;br /&gt;
* 陸海軍の協力により各種の手段による敵機の活動封止に努めるとともに12月中旬を目処として所要の飛行場の整備を完了する。&lt;br /&gt;
* 飛行場の整備に伴いガダルカナル方面の敵航空勢力を制圧し、機宜に応じて船団輸送により攻撃兵力と軍需品を強行輸送しする。&lt;br /&gt;
* 作戦準備を拡大した上で、18年1月中旬末をもって攻撃準備の完成をなす。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、これら中央の決定がなされている間にも南方戦線は憂うべき情況を呈していた。すなわち、ニューギニア方面で[[第55師団 (日本軍)#南海支隊|南海支隊]]がイスラバ、デネギ、ココダ、オイビとオーストラリア軍に追撃され11月10日には要衝ゴラリの維持も不能と見て全面退却に移っていた。さらに海軍の協力を得て進めたガダルカナル島への第38師団の船団輸送も、輸送船11隻中7隻を失い、さらに残る4隻も11月15日に揚陸作業中を航空部隊の攻撃にさらされ、事実上、輸送計画は失敗に終わった。また、輸送船11隻約7万7千トンの大量喪失により、過ぎる10月22日に決定された陸海軍局部長会議で決まっていた民間船舶20万トンの軍徴用の解傭を一転、民間からの追加徴用へと陸軍を突き動かすことになった。また、この船舶増傭問題が後にガダルカナル島撤退論に大きな影響を及ぼすことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方のアメリカ側はこの頃のガダルカナルの情勢に相当の危機感を持っていた。ヨーロッパ戦線では間近に迫っていたドイツへの反攻作戦のために大量の兵力・兵器を必要としていたが、ルーズベルト大統領は10月24日に統合参謀本部に「入手可能なあらゆる兵器を、ガダルカナル保持のためその地域に確実に送れ。」と書いたメモを送っている&amp;lt;ref name=&amp;quot;pb&amp;quot;&amp;gt;ポッター 277ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 第38師団の輸送とその後の戦い ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:USS Enterprise-Bat Santa Cruz.jpg|thumb|南太平洋海戦で日本の襲撃を受けている空母「[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]」]]&lt;br /&gt;
第2次総攻撃時に派遣された[[機動部隊]]と米機動部隊との間で10月26日に[[南太平洋海戦]]が戦われた。日本側はベテランパイロット多数を失ったが、空母1隻沈没、同1隻中破の戦果を挙げ一時的にアメリカ太平洋艦隊が展開する空母戦力が無くなることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{main|南太平洋海戦}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この報告を受け[[第38師団 (日本軍)|第38師団]]約1万名の輸送が決定した。&lt;br /&gt;
[[ファイル:HendersonDamagedF4F.gif|thumb|ヘンダーソン飛行場のF4F戦闘機]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:Marines rest in the field on Guadalcanal.jpg|thumb|アメリカ軍第2海兵隊（1942年11月）]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:GuadMapJan-Feb1943.jpg|thumb|1943年2月の最終局面]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第38師団 ===&lt;br /&gt;
11月10日、[[第38師団 (日本軍)|第38師団]]長[[佐野忠義]]中将率いる先遣隊が上陸した。14日に師団主力の輸送が開始され、海軍は制海権の確保と再び飛行場を砲撃するため戦艦2隻を含む第11戦隊を派遣し第三次ソロモン海戦が発生した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{main|第三次ソロモン海戦}}&lt;br /&gt;
日本海軍は海戦で戦艦2隻を失った上、肝心の飛行場の砲撃も上手くいかず、輸送船団は米軍機の空襲に晒された。結果、輸送船11隻中6隻が沈没、1隻（佐渡丸&amp;lt;ref&amp;gt;離脱してショートランド泊地への帰還に成功するが、11月18日の空襲で沈没。&amp;lt;/ref&amp;gt;）が中破離脱し、翌日に強行突入した輸送船4隻は岸辺に乗り上げたが夜明けとともに始まった米軍の陸海からの砲撃や米軍機の銃爆撃により全て炎上した&amp;lt;ref&amp;gt;戦史叢書 28 234ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。かろうじて揚陸した兵器・弾薬食料のほとんども、輸送船から浜辺の集積地に集めるのがやっとの状態で、ヘンダーソン飛行場から出撃してくる米軍機の爆撃や[[機銃掃射]]によって荷役組織力が麻痺し、さらに繰り返された執拗な米軍機の攻撃により物資は積み上げられたまま焼失した。最終的に揚陸を確認された兵力は2,000名、重火器は皆無、少量の弾薬と食料が4日分だった。これによりガダルカナル島の兵力は数字の上では約2～3万名を数えたが、[[伝染病]]にかかった者や餓死寸前の者が大半で、通常戦闘が可能な兵員は8,000人程度だった&amp;lt;ref&amp;gt;『帝国陸軍の最後』より &amp;lt;/ref&amp;gt;。このころのアメリカ軍の防衛体制はさらに強化されていたため、上陸した第38師団は飛行場に近づくことさえできなかった&amp;lt;ref name=&amp;quot;nhka&amp;quot;&amp;gt;ＮＨＫ チャプター 4&amp;lt;/ref&amp;gt;。18日、第38師団による夜襲が行われたが失敗し、その後アウステン山の西稜線守備隊として転用され、翌年1月のアメリカ軍の反転攻勢を受けることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第38師団のガダルカナル島での状況は、「NHK 戦争証言 アーカイブス 証言記録　兵士たちの戦争」の「[http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210032_00000 ガダルカナル島　最後の部隊　繰り返された失敗　～名古屋・歩兵第２２８連隊～]」に多くの証言が記録されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本軍の攻撃を撃退した南太平洋軍司令官の[[ウィリアム・ハルゼー|ハルゼー]]は11月19日、中将から海軍６人目の大将に昇進した&amp;lt;ref name=&amp;quot;pa&amp;quot;&amp;gt;ポッター 297ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 転進 ==&lt;br /&gt;
第38師団の輸送失敗のあと、大本営はさらに[[第51師団 (日本軍)|第51師団]]と[[第6師団 (日本軍)|第6師団]]をガダルカナル島に送り込むことを計画する。だが、ガダルカナル島の航空基地も増強されていて、アメリカ軍の制空権下の輸送が成功する見通しは全く立たなくなっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
既に低速の輸送船はガダルカナルに近づくことができず、駆逐艦の「鼠輸送」に終始していた。しかし駆逐艦による輸送でも、10月下旬の第2師団総攻撃失敗以降、わずか3ヶ月あまりの間に10数隻の駆逐艦が撃沈される結果となった。やむなく潜水艦による輸送まで試みられていたが、駆逐艦以上に搭載力が小さく、成功しても効果は微々たるものであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
12月6日には[[閣議]]において、参謀本部作戦部長の[[田中新一]]中将が支援に必要な16万5000トンの艦船をガダルカナルに送り込むよう訴えたが、その半分の増援も認めなかったため、東條首相ら政務側に対し「馬鹿野郎」と怒鳴りつけ事実上更迭された。その理由は、元々東條はこの方面の作戦には反対であったこと、過去に投入した船団もことごとく全滅状態となったことであった。また参謀本部や海軍の要求を通すと南方からの資源輸送・南方への物資輸送が滞り、戦時経済そのものに悪影響を与えるためでもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
12月31日の[[御前会議]]において「継続しての戦闘が不可能」としてガダルカナル島からの撤退が決定された。この決定からさらに1ヶ月を経た[[1943年]]2月1日から7日にかけて、撤退作戦が行われた。各部隊のほとんどは予定通りに撤退地点まで到着することが出来たが、身動きの出来なくなった傷病兵を[[自殺|自決]]させ、あるいは「処分」することが大規模に行われていたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Main|ケ号作戦}}&lt;br /&gt;
ガダルカナル島に上陸した総兵力は31,404名、うち撤退できたものは10,652名、それ以前に負傷・後送された者740名、死者・行方不明者は約2万名強であり、このうち直接の戦闘での戦死者は約5,000名、残り約15,000名は餓死と戦病死だったと推定されている。一方、米軍の損害は、戦死1,598名、戦傷4,709名であった&amp;lt;ref&amp;gt;&#039;&#039;[http://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/USMC-C-Guadalcanal/index.html First Offensive: The Marine Campaign For Guadalcanal]&#039;&#039;&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このとき撤退は「&#039;&#039;&#039;転進&#039;&#039;&#039;」という名で報道され、撤退した将兵も多くはそのまま南方地域の激戦地にとどめ置かれた。2月9日の[[大本営発表]]では以下のように報じられている&amp;lt;ref&amp;gt;歴史群像 太平洋戦史シリーズ 6 P.115&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{quotation|ソロモン群島のガダルカナル島に作戦中の部隊は昨年8月以降引続き上陸せる優勢なる敵軍を同島の一角に圧迫し、激戦敢闘克く敵戦力を撃摧しつつありしが、その目的を達成せるにより、2月上旬同島を撤し、他に転進せしめられたり}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同時にニューギニアの[[ニューギニアの戦い#ブナ・ゴナの戦い|ブナ]]からの転進（ブナ守備隊は1月に玉砕）も大本営発表が行われた。なお当時から陸軍の報道班の手記や新聞記事からガダルカナル島の悲惨な状況についてはおおむね公表されていた&amp;lt;ref&amp;gt;「さらに補給の問題がある。これはすでに十分新聞には書かれているが、全く想像のほかである。実際いま考えても涙が出るが、大体あの間で、一番兵士が余計食った日が、一日僅か一合で、それが三日と続いていない。三勺、四勺という日が何日も続いた。それはまだいい方で、何日も食わずにやっているという部隊が沢山ある。そして本当に草を食っている」「糧秣は四十キロかもっと遠くの方で揚げる。その間のたった一本の道は毎日雨が降るので泥濘膝を浸し、人一人が通っても飛行機が襲いかかる。飛行機が遊覧バスにでも乗った格好で椰子よりも低く飛んで横から薙いでいく行く。砲弾は絶えずやって来る。軍艦からも撃って来る。その一本の道を伝わって一日として欠かさず物を運んでいる。その運ぶ兵隊というものは、さっき申したような栄養状態で、ほとんど全部が発熱で、骨と皮の幽霊みたいな兵隊が、危険の中を、任務だというので一日として欠かさず通っておる」陸軍報道班員手記　ガダルカナルの血戦　昭和18年7月20日発行より引用。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦後、軍事評論家の[[伊藤正徳 (軍事評論家)|伊藤正徳]]は「ガダルカナルは、たんなる島の名でない。それは帝国陸軍の墓地の名である。」と批評している{{Sfn|伊藤正徳|1973}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 日本軍のエピソード ==&lt;br /&gt;
=== 軍紀の乱れ ===&lt;br /&gt;
ガダルカナル島の戦いは日本の継戦能力の限界を超えた状況となっており、11月24日にはある将校が「そこら中でからっぽの[[飯盒]]を手にしたまま兵隊が死んで腐って[[蛆]]がわいている」旨を大本営に報告したが、撤退は未だ決まらなかった。1ヵ月後の12月31日になって日本軍はようやく撤退に向けて動き始めたがこの間にも多くの将兵が餓死していった（これはガダルカナル以降補給の途絶えた各戦場で見られた現象で、ある生存者はジャングルを「緑の砂漠」と表現した）。ほとんどの部隊では、ふらふらと何とか歩ける兵士はすべて食糧の搬送に当たり、陣地を「守る」のは、立つこともできなくなった傷病兵という状態に陥っていた。そういう中で、やっと手に入れた食糧を戦友のもとに届けようと最後の力を振り絞り、背中に米を担いだまま絶命する兵士も現れれば、食糧搬送の兵を襲って米を強奪する兵士も現れる状況になった。また、戦いも末期になると孤島に封じられ、食糧の欠乏が深刻になると軍紀の荒廃は極まり、飢えた兵士の中から[[カニバリズム]]も発生したと言われ、書籍{{Sfn|滝口岩夫|1999|p=87}}では、ガダルカナルからの帰還兵の話として、日本兵狩りについて触れられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした軍紀の乱れは「遊兵」と呼ばれるどの部隊にも属さない兵を生み出し、日本軍の組織的戦闘能力の減耗を加速させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 余命の判定 ===&lt;br /&gt;
1942年12月頃からアウステン山の守備についていた兵士たちの間である生命判断が流行り出した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{quotation|立つことの出来る人間は、寿命30日間。身体を起して座れる人間は、3週間。寝たきり起きれない人間は、1週間。寝たまま小便をするものは、3日間。もの言わなくなったものは、2日間。またたきしなくなったものは、明日。|{{Harvtxt|五味川純平|1983}}『ガダルカナル』398項}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この記述は、刊行物としては辻政信参謀の戦後著作が初出となっているが、実際には&amp;lt;!-- [[第38師団 (日本軍)|第38師団]] --&amp;gt;川口支隊歩兵弟124連隊[[軍旗#大日本帝国陸軍|連隊旗手]][[小尾靖夫]]少尉の[[陣中日誌]]『人間の限界』12月27日の項が元になっていると思われる。小尾も、後にこの手記を発表しており、&amp;lt;!-- また公刊戦史である『[[戦史叢書]]「陸軍南太平洋戦史（1）」にもこの風聞が記載されている。--&amp;gt;1969年発行の戦史叢書にも小尾少尉の日記の引用として記載されている&amp;lt;ref&amp;gt;戦史叢書 28 476ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、小尾少尉は日記の中で「1月1日（元旦）に分配された最後の食糧は乾パン2粒とコンペイ糖1粒だけ。」と述べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 上陸して見たもの ===&lt;br /&gt;
川口支隊の一員として8月末に上陸した兵士はその時の様子を次のように語っている。&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
「わたしたちを出迎えたのが、一木先遣隊の生き残りでしたけと、とても兵隊なんてものじゃない。痩せ衰えたヨボヨボの連中が杖にすがって、なにか食うものをと手を出しましてね。米をやると、ナマのままポリポリかじるんです。・・・・（中略）・・・・・・・・。『ワシらが来たけん、もう安心バイ』と元気をつけたんです。ええ、十日もたたんうちに、自分たちがおなじ姿になるとも知らんで」&amp;lt;ref name=&amp;quot;ud&amp;quot;&amp;gt;平塚柾緒 93 ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。そして10月中旬に上陸した第2師団を「飯盒と水筒だけの、みすぼらしい姿」で出迎えるが、上陸してきた兵士からは「ごくろうさん。ワシらが来たから安心しなさい」となぐさめられた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ue&amp;quot;&amp;gt;平塚柾緒 108 ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
最後に上陸した第38師団の兵士もこれと同様の話を語っている&amp;lt;ref name=&amp;quot;nhkb&amp;quot;&amp;gt;ＮＨＫ チャプター 3&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本軍撤退作戦後 ===&lt;br /&gt;
ガダルカナル島最後の撤退作戦に参加した海軍輸送部隊指揮官の言によると、撤退するのが難しい傷病兵の多くは[[捕虜]]になることを防ぐため、手榴弾などで自決するか、戦友達の手（手榴弾・銃・[[銃剣]]など）によって葬られた{{Sfn|滝口岩夫|1999|pp=88-89}}。&amp;lt;!--この手の話はよく聞くので、特に確認は不要と思われる --&amp;gt;日本軍撤退作戦終了後、ガダルカナル島はソロモン諸島におけるアメリカ軍の新たな兵站基地として使用され、また、日本軍の残兵掃討を行い部隊の練度を上げることが行われたと言われる。戦後刊行されたグラフ雑誌『[[ライフ (雑誌)|ライフ]]』には、米軍の捕虜となった日本の傷病兵などが、[[戦車]]の前に一列に並べられ、[[キャタピラ]]でひき殺されている様子が掲載されたという{{Sfn|滝口岩夫|1999|p=218}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本軍[[狙撃手]]は、ガダルカナル撤退作戦時、アメリカ軍の急追を防ぐため伏兵として島内各所に残された{{要出典|date=2007年6月}}。彼らは自力で食料収集を行ないつつ、日本軍撤退後も個人個人の判断で戦闘を継続した。ガダルカナル島の最後の日本兵が投降したのは、[[1947年]]（昭和22年）10月27日である&amp;lt;ref&amp;gt;[[産経新聞社]]編 「あの戦争上 太平洋戦争全記録」 p249&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 連合軍のエピソード ==&lt;br /&gt;
=== コースト・ウォッチャーズ（沿岸監視員） ===&lt;br /&gt;
戦いの全期間を通じ、縁の下で大きな貢献をしたのがオーストラリア軍が[[第一次世界大戦]]勃発時の1914年から研究を進めていた[[コースト・ウォッチャーズ]]（沿岸監視員）であった。本格的な編成は、1939年頃から進められていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
オーストラリア沿岸監視機関は[[:en:Eric Feldt|エリック・フェルド]][[オーストラリア海軍]]少佐に指揮され、豪北[[タウンズビル]]に拠点を置いた。機関の活動は[[ソロモン諸島]]を構成している約1000の島々で日本軍の活動を監視する上で特に重要であった。多数の人員が沿岸監視任務に参加し、日本軍の後背で作戦した。彼等はオーストラリア海軍の義勇兵 ([[:en:Royal Australian Naval Volunteer Reserve|RANVR]]) として任命された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この戦いに関連してよく知られているのは次のエピソードである。1942年に、[[ブーゲンビル島]]の2人の監視員、リード (Read) とメイスン (Mason) は、日本の艦船と航空機への早期警戒のためアメリカ海軍への無線通報に従事していた。この通報では敵の部隊の数、兵器の型式、速度が報告されている。 監視員の報告によって米軍は航空機を発進させ、限られた時間内に、攻撃任務に従事させることが出来た。ウィリアム・ハルゼーは後に「2人の男がガダルカナルを救った」と述べた&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.arrl.org/news/behind-enemy-lines-an-amateur-radio-operator-rsquo-s-amazing-tale-of-bravery Behind Enemy Lines: An Amateur Radio Operator’s Amazing Tale of Bravery]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Main|コースト・ウォッチャーズ}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本の飛行場設営隊が残した施設・物資の活用 ===&lt;br /&gt;
上陸当初のアメリカ軍は日本軍の空と海からの攻撃のため十分な物資を揚陸できず、日本の飛行場設営隊が遺棄した施設・物資も活用された。&lt;br /&gt;
* 倉庫に山積みされた大量の米&amp;lt;ref name=&amp;quot;ua&amp;quot;&amp;gt;平塚柾緒 36ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;は初期の毎日２食の米兵の貴重な食料となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;na&amp;quot;&amp;gt;ニミッツ、ポッター 118ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ea&amp;quot;&amp;gt;エドワード P.222&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 製氷工場はトージョー・アイス・カンパニーと名前を変え米兵に氷とアイスクリームを供給した（米兵への最大のプレゼント）&amp;lt;ref name=&amp;quot;ub&amp;quot;&amp;gt;平塚柾緒 39ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 大型発電機（発電所）は米兵に明りをプレゼントした&amp;lt;ref name=&amp;quot;uc&amp;quot;&amp;gt;平塚柾緒 38ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [[ホニアラ国際空港|ヘンダーソン飛行場]] ===&lt;br /&gt;
* 名前はミッドウェー海戦で戦死した海兵隊の航空指揮官、ロフトン・R・ヘンダーソン少佐に由来する。&lt;br /&gt;
* 8月20日に海兵隊の[[F4F (航空機)|ワイルドキャット]]19機と[[SBD (航空機)|ドーントレス]]12機が到着して航空基地としての機能がスタートした&amp;lt;ref name=&amp;quot;eb&amp;quot;&amp;gt;エドワード P.180&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 空母「[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]」「[[サラトガ (CV-3)|サラトガ]]」「[[ワスプ (CV-7) |ワスプ]]」の艦載機とパイロットも母艦が戦闘で損傷し、修理のため使用できない間はヘンダーソン飛行場から出撃した&amp;lt;ref name=&amp;quot;ec&amp;quot;&amp;gt;エドワード P.222&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第1海兵師団の交代 ===&lt;br /&gt;
8月の上陸以来、戦いの主力を担って疲労が大きくマラリアにも苦しめられていた第1海兵師団は師団長のヴァンデグリフト将軍とともに12月半ばにオーストラリアに後退した。1月にはアメリカ軍の規模は5万人余りの陸軍と第2海兵師団となり、積極的な攻勢を開始した&amp;lt;ref name=&amp;quot;nb&amp;quot;&amp;gt;ニミッツ、ポッター 144ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ガダルカナル戦の意義と日本軍の敗因 ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:KinugawaMaru1.jpg|thumb|襲撃を受け荷揚げに失敗した輸送船「[[鬼怒川丸]]」]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:GuadJapaneseSubandShip.jpg|thumb|放棄された「山月丸」と[[特殊潜航艇]]（1944年）]]&lt;br /&gt;
ミッドウェー海戦とともに、太平洋戦争における攻守の転換点となった戦闘とされている。一般に、ガダルカナル戦は日本軍が米軍の物量に圧倒されて敗北した戦いと認識されている。川口支隊の敗北までの時点で、その点を冷静に判断し、兵を引いていれば、その後の泥沼のような消耗戦で何ら得るところなく戦力と継戦能力をすりつぶす事態は避けられたと考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
航空機の損害はミッドウェーの約3倍、搭乗員の損失はそれを遙かに越えた（ミッドウェーでは、航空機が母艦の沈没によりもろとも海没したが、救助された搭乗員は実際には多く、搭乗員の戦死は100名余りに止まっている）。このため操縦者を筆頭に搭乗員の練度は著しく低下した。航空部隊の消耗の原因に、拠点であるラバウルからガダルカナル島まで往復8時間という長距離攻撃を強いられた事が一因に挙げられる。ブーゲンビル島のブカや[[ブイン (パプアニューギニア)|ブイン]]などへの中間飛行場整備も、その当初は必要性が認められず整備が遅れており着手した時にはその戦機を既に逃して間に合わなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大量の輸送船が撃沈されたこと、それにともないさらなる商船徴用&amp;lt;ref&amp;gt;本来なら初期作戦が完了して徴用解除が進められるはずの時期であった。&amp;lt;/ref&amp;gt;が行われたことは、それ以降の海上輸送と軍需生産に深刻な打撃を与えた。海軍にとっては、艦隊の手足となる駆逐艦を輸送任務中に大量喪失したことが、前記の航空部隊の消耗に加え、以後の作戦遂行上大きな打撃となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
物量についてでは、最終的には米軍の物量は日本軍を圧倒したが、一連の戦闘の全期間でそうであったわけではない。8月頃の時点では、米軍は第一次ソロモン海戦での敗北のため、輸送船団が一時退避するなどして重火器や弾薬の揚陸が遅れており、物量はかなり欠乏を来していた（アメリカ軍呼称：「八月危機」）。[[アレクサンダー・ヴァンデグリフト|ヴァンデグリフト]]少将は「実際の手順とは逆の手順で日本軍が来襲していたら、ガダルカナルの連合軍はなすすべもなく追い落とされていただろう」と述べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、実際には日本軍は最初はわずか900名の一木支隊第1挺団、次は6,000名の川口支隊と一木支隊第2挺団という、兵力の逐次投入を行い、敵を圧倒的に下回る兵力で攻撃を掛けては撃退された（ただし川口支隊と対戦し、これを撃退したアメリカ軍は700名余りである）もっとも、仮に占領に成功していたとしても、その後日本から6,000キロ以上も離れたこの島を、米軍の再反攻を前にどこまで維持できたかは疑問である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
{{Commons|Guadalcanal Campaign}}&lt;br /&gt;
* 防衛研究所戦史室編『戦史叢書 28 南太平洋陸軍作戦(2) ガダルカナル・ブナ作戦』朝雲新聞社、1969年&lt;br /&gt;
* [[亀井宏]]『ガダルカナル戦記』1～3（[[潮書房|光人社]]NF文庫、1994年）&lt;br /&gt;
: 1 ISBN 4-7698-2032-1、2 ISBN 4-7698-2043-7、3 ISBN 4-7698-2049-6&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書|author=五味川純平| authorlink=五味川純平 |title=ガダルカナル |date=1983 |publisher=文芸春秋 |isbn=4167115107 |series=文春文庫 |ref=harv}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書|author=日本放送協会取材班 |title=ガダルカナル学ばざる軍隊 |date=1995 |publisher=角川書店 |isbn=4041954134 |series=角川文庫 太平洋戦争日本の敗因2 |ref=harv}}（[[NHKスペシャル]]『[[ドキュメント太平洋戦争]]』第2回の書籍化）&lt;br /&gt;
* 歴史群像 太平洋戦史シリーズ 6 『死闘ガダルカナル』 学習研究社、1996年、ISBN 4-05-601159-1&lt;br /&gt;
* [[白石光]]『ガダルカナル海兵隊戦記』（[[歴史群像]] 2008年10月号　学研）　&lt;br /&gt;
* Center of Military History, United States Army, &#039;&#039;[http://www.army.mil/cmh-pg/brochures/72-8/72-8.htm GUADALCANAL]&#039;&#039; （米国公刊戦史）&lt;br /&gt;
* Marine Corps Historical Center, &#039;&#039;[http://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/USMC-C-Guadalcanal/index.html First Offensive: The Marine Campaign For Guadalcanal]&#039;&#039; （米国公刊戦史）&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書|author=太平洋戦争研究会 |title=太平洋戦争・主要戦闘事典 : 指揮官・参加部隊から、戦果・損害まで |date=2005 |publisher=PHP研究所 |isbn=4569664180 |series=PHP文庫  |ref=harv}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書|author=伊藤正徳 |title=帝国陸軍の最後 2.決戦篇 |date=1973 |publisher=角川書店 |series=角川文庫|isbn=978-4769821908 |ref=harv}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書|author=[[滝口岩夫]] |title=戦争体験の真実 : イラストで描いた太平洋戦争一兵士の記録 |date=1999 |edition=新版 |publisher=第三書館 |isbn=4807499181 |ref=harv}}&lt;br /&gt;
* E・B・ポッター/秋山信雄（訳）『BULL HALSEY/キル・ジャップス！ ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』光人社、1991年、ISBN 4-7698-0576-4&lt;br /&gt;
* 平塚柾緒『米軍が記録したガダルカナルの戦い』草思社、1995年、ISBN 4-7942-0632-1&lt;br /&gt;
* C・W・ニミッツ / E・B・ポッター 共著、実松譲 / 冨永謙吾 共訳『ニミッツの太平洋海戦史』（英題 &#039;&#039;THE GREAT SEA WAR&#039;&#039;）恒文社、1992年新装版。ISBN 4-7704-0757-2&lt;br /&gt;
* エドワード・P・スタッフォード 著、井原裕司 訳 『空母エンタープライズ＜上巻＞』 元就出版社。ISBN 978-4-86106-157-8 &lt;br /&gt;
* [[日本放送協会|NHK]]「戦争証言 アーカイブス 証言記録　兵士たちの戦争」の『[http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210032_00000 ガダルカナル島　最後の部隊　繰り返された失敗　～名古屋・歩兵第228連隊～]』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ガダルカナル島の戦いを題材にした作品 ==&lt;br /&gt;
; 著作&lt;br /&gt;
* [[戸部良一]] 他『失敗の本質 &amp;lt;small&amp;gt;日本軍の組織論的研究&amp;lt;/small&amp;gt;』（[[中公文庫]]、1991年） ISBN 4-12-201833-1&lt;br /&gt;
* [[森本忠夫]]『ガダルカナル 勝者と敗者の研究 &amp;lt;small&amp;gt;日米の比較文明論的戦訓&amp;lt;/small&amp;gt;』（光人社NF文庫、2008年） ISBN 978-4-7698-2570-8&lt;br /&gt;
* 軍医・[[高木八郎]]がガダルカナル戦場で詠んだ短歌約150首が『[[アララギ]]』1943年8月号から翌年11月号にかけて掲載されている。歌集『南海の雲』（1953年）所収。&lt;br /&gt;
; 映画&lt;br /&gt;
* [[ガダルカナル・ダイアリー]] 1943年、アメリカ映画&lt;br /&gt;
* [[大突撃]] 1969年、アメリカ映画&lt;br /&gt;
* [[シン・レッド・ライン]] 1998年、アメリカ映画、20世紀フォックス&lt;br /&gt;
; テレビドラマ&lt;br /&gt;
* [[ザ・パシフィック (テレビドラマ)|ザ・パシフィック]]&lt;br /&gt;
: Part One（第1話）及びPart Two（第2話）。&lt;br /&gt;
; マンガ&lt;br /&gt;
* [[楳図かずお]]『[[おろち (漫画)|おろち]]』戦闘（第6話）　&lt;br /&gt;
; PCゲーム&lt;br /&gt;
* [[メダル・オブ・オナー パシフィックアサルト]]&lt;br /&gt;
* [[メダル・オブ・オナー ライジングサン]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[フェザーストン事件]]&lt;br /&gt;
* [[ウォッシングマシーン・チャーリー]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{太平洋戦争・詳細}}&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:かたるかなるとうのたたかい}}&lt;br /&gt;
[[Category:太平洋戦争の作戦と戦い]]&lt;br /&gt;
[[category:ソロモン諸島]]&lt;br /&gt;
[[Category:1942年の日本]]&lt;br /&gt;
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[[Category:1942年のアメリカ合衆国]]&lt;br /&gt;
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[[Category:1942年の戦闘]]&lt;br /&gt;
[[Category:1943年の戦闘]]&lt;br /&gt;
{{Link FA|en}}&lt;br /&gt;
{{Link FA|hu}}&lt;br /&gt;
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		<author><name>58.188.177.224</name></author>
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		<title>タラワ</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;58.188.177.224: /* 歴史 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{coord|1|25|N|173|02|E|type:isle|display=title}}&lt;br /&gt;
{{otheruses|タラワ}}&lt;br /&gt;
{{世界の市&lt;br /&gt;
|正式名称 = タラワ&amp;lt;!--必須--&amp;gt;&lt;br /&gt;
|公用語名称 = {{Lang|en|Tarawa}}&amp;lt;!--必須--&amp;gt;&lt;br /&gt;
|愛称 = &lt;br /&gt;
|標語 = &lt;br /&gt;
|画像 = Bonriki International Airport2.jpg&lt;br /&gt;
|画像サイズ指定 = &lt;br /&gt;
|画像の見出し = ボンリキ国際空港&lt;br /&gt;
|市旗 = &lt;br /&gt;
|市章 = &lt;br /&gt;
|位置図 = Kiribati-CIA WFB Map.png&lt;br /&gt;
|位置図サイズ指定 = &lt;br /&gt;
|位置図の見出し = タラワの位置&lt;br /&gt;
|位置図2 = Tarawa map w.jpg&lt;br /&gt;
|位置図サイズ指定2 = &lt;br /&gt;
|位置図の見出し2 = タラワの位置&lt;br /&gt;
|緯度度 = |緯度分 = |緯度秒 = |N(北緯)及びS(南緯) = &lt;br /&gt;
|経度度 = |経度分 = |経度秒 = |E(東経)及びW(西経) = &lt;br /&gt;
|成立区分 = &lt;br /&gt;
|成立日 = &lt;br /&gt;
|成立区分1 = &lt;br /&gt;
|成立日1 = &lt;br /&gt;
|成立区分2 = &lt;br /&gt;
|成立日2 = &lt;br /&gt;
|旧名 = &lt;br /&gt;
|創設者 = &lt;br /&gt;
|下位区分名 = {{KIR}}&amp;lt;!--必須--&amp;gt;&lt;br /&gt;
|下位区分種類1 = [[キリバスの行政区画|行政区]]&lt;br /&gt;
|下位区分名1 = [[ギルバート諸島]]&lt;br /&gt;
|下位区分種類2 = &lt;br /&gt;
|下位区分名2 = &lt;br /&gt;
|下位区分種類3 = &lt;br /&gt;
|下位区分名3 = &lt;br /&gt;
|下位区分種類4 = &lt;br /&gt;
|下位区分名4 = &lt;br /&gt;
|規模 = 地区&amp;lt;!--必須--&amp;gt;&lt;br /&gt;
|最高行政執行者称号 = &lt;br /&gt;
|最高行政執行者名 = &lt;br /&gt;
|最高行政執行者所属党派 = &lt;br /&gt;
|総面積(平方キロ) = &lt;br /&gt;
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|陸上面積(平方キロ) = &lt;br /&gt;
|陸上面積(平方マイル) = &lt;br /&gt;
|水面面積(平方キロ) = &lt;br /&gt;
|水面面積(平方マイル) = &lt;br /&gt;
|水面面積比率 = &lt;br /&gt;
|市街地面積(平方キロ) = &lt;br /&gt;
|市街地面積(平方マイル) = &lt;br /&gt;
|都市圏面積(平方キロ) = &lt;br /&gt;
|都市圏面積(平方マイル) = &lt;br /&gt;
|標高(メートル) = &lt;br /&gt;
|標高(フィート) = &lt;br /&gt;
|人口の時点 = 年月日&lt;br /&gt;
|人口に関する備考 = &lt;br /&gt;
|総人口 = &lt;br /&gt;
|人口密度(平方キロ当たり) = &lt;br /&gt;
|人口密度(平方マイル当たり) = &lt;br /&gt;
|市街地人口 = &lt;br /&gt;
|市街地人口密度(平方キロ) = &lt;br /&gt;
|市街地人口密度(平方マイル) = &lt;br /&gt;
|都市圏人口 = &lt;br /&gt;
|都市圏人口密度(平方キロ) = &lt;br /&gt;
|都市圏人口密度(平方マイル) = &lt;br /&gt;
|等時帯 = &lt;br /&gt;
|協定世界時との時差 = &lt;br /&gt;
|夏時間の等時帯 = &lt;br /&gt;
|夏時間の協定世界時との時差 = &lt;br /&gt;
|郵便番号の区分 = &lt;br /&gt;
|郵便番号 = &lt;br /&gt;
|市外局番 = &lt;br /&gt;
|ナンバープレート = &lt;br /&gt;
|ISOコード = &lt;br /&gt;
|公式ウェブサイト = &lt;br /&gt;
|備考 = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
[[ファイル:Tarawa Maiana STS088-707-6.jpg|thumb|250px|衛星写真(1998年)]]&lt;br /&gt;
[[image:Battle Tarawa.jpg|right|thumb|250px|[[太平洋戦争]]時の[[日本軍]]の防空陣地跡]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;タラワ&#039;&#039;&#039;（{{Lang-en|Tarawa}}）は、[[キリバス共和国]]の[[首都]]であり、中部[[太平洋]]にある[[環礁]]の名称。日米では太平洋戦争中の激戦地として知られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
[[バイリキ島]]、ボンリキ島、ベシオ島、アンボ島、ビケニベウ島など計24の島々から成り、うち8島は無人島である。以前は[[イギリス]]領[[ギルバート諸島]]の首府であった。&lt;br /&gt;
住民の大半は[[ミクロネシア]]人である。[[1990年]]時点での人口は約2万8千人で、ボンリキ島が最大の面積・人口を誇り、タラワ環礁唯一の[[国際空港]]（[[ボンリキ国際空港]]）がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
バイリキ島はタラワ環礁内では比較的小さな島だが、キリバス共和国およびタラワ環礁の[[政治]]の中心地であり、実質的な首都機能を果たす。ただしキリバス共和国議会はアンボ島にあるほか、いくつかの行政官庁はベシオ島やビケニベウ島に分かれて設置されており、いわゆる一極集中型の首都ではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ベシオ島はタラワ環礁の[[経済]]の中心地で、主要な[[港湾]]を抱えることから、[[コプラ]]や[[真珠]]を輸出している。この島はかつて、日米間で戦闘が行われた激戦の島でもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==行政==&lt;br /&gt;
タラワ環礁は大きく&#039;&#039;&#039;南タラワ&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;ベシオ&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;北タラワ&#039;&#039;&#039;という3つの行政区に分けられる。南タラワはバイリキ島からタナエア島にかけての地域であり、&#039;&#039;&#039;テイナイナノ都市評議会&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;TUC&#039;&#039;&#039;)という機構が管轄する、キリバス共和国の実質的な首都かつタラワ環礁の政治的中心である。&#039;&#039;&#039;ベシオ&#039;&#039;&#039;は経済の中心ベシオ島を区域とし、&#039;&#039;&#039;ベシオ町評議会&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;BTC&#039;&#039;&#039;)が管轄する。そして残りの地域が北タラワに分類される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==歴史==&lt;br /&gt;
[[太平洋戦争]]中の激戦地として知られ、[[1943年]]11月20日から開始された[[タラワの戦い]]では、この島を要塞化した[[日本軍]]と[[アメリカ合衆国|アメリカ]]軍との間で壮絶な戦いが繰り広げられた。&lt;br /&gt;
現在も、日本軍関連の施設がベシオ島のいたる所に残っており、戦没者の慰霊碑もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==交通==&lt;br /&gt;
タラワには鉄道はなく、主な交通手段はバスである。また、停留所もなく、通りかかったバスに手を上げて停車してもらい、乗車する方式をとっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ベシオとバイリキの間の交通手段はかつては浅瀬を干潮時に歩いて渡っていたが、近年連絡路[[コーズウェイ]]が完成したため、現在は自動車による交通も可能となった。なお、バイリキからベシオへ入る場合は有料であるが、逆にベシオからバイリキへ行く場合は無料である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Commonscat|Tarawa Atoll}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たらわ}}&lt;br /&gt;
[[Category:キリバス]]&lt;br /&gt;
[[Category:太平洋の島]]&lt;br /&gt;
[[Category:キリバスの環礁]]&lt;br /&gt;
[[Category:オセアニアの首都]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>58.188.177.224</name></author>
	</entry>
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