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	<title>Wikippe - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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	<updated>2026-10-31T14:50:07Z</updated>
	<subtitle>利用者の投稿記録</subtitle>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E7%95%A0%E5%B1%B1%E7%BE%A9%E5%B0%B1&amp;diff=27755</id>
		<title>畠山義就</title>
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		<updated>2014-08-13T01:51:11Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;39.2.197.243: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{基礎情報 武士&lt;br /&gt;
| 氏名 = 畠山義就&lt;br /&gt;
| 画像 = 畠山義就.jpg&lt;br /&gt;
| 画像サイズ = 250px&lt;br /&gt;
| 画像説明 = 『続英雄百人一首』より&lt;br /&gt;
| 時代 = [[室町時代]]後期 - [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]前期&lt;br /&gt;
| 生誕 = [[永享]]9年（[[1437年]]）?&lt;br /&gt;
| 死没 = [[延徳]]2年[[12月12日 (旧暦)|12月12日]]（[[1491年]][[1月21日]]）&lt;br /&gt;
| 改名 = 次郎（[[幼名]]）→義夏（初名）→義就&lt;br /&gt;
| 別名 = 次郎（幼名および通称）&lt;br /&gt;
| 戒名 =&lt;br /&gt;
| 墓所 =&lt;br /&gt;
| 官位 = [[伊予国|伊予守]]、[[衛門府|右衛門佐]]&lt;br /&gt;
| 幕府 = [[室町幕府]][[河内国|河内]]・[[紀伊国|紀伊]]・[[山城国|山城]]・[[越中国|越中]][[守護]]&lt;br /&gt;
| 主君 =&lt;br /&gt;
| 氏族 = [[畠山氏]]&lt;br /&gt;
| 父母 = 父：[[畠山持国]]、母：側室&lt;br /&gt;
| 兄弟 = &lt;br /&gt;
| 妻   =&lt;br /&gt;
| 子   = [[畠山修羅|修羅]]、&#039;&#039;&#039;[[畠山義豊|義豊（基家）]]&#039;&#039;&#039;、猶子：&#039;&#039;[[畠山政国 (総州家)|政国]]&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| 特記事項 =&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;畠山 義就&#039;&#039;&#039;（はたけやま よしひろ/よしなり）は、[[室町時代]]後期から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]前期の[[武将]]、[[守護大名]]である。[[河内国|河内]]・[[紀伊国|紀伊]]・[[山城国|山城]]・[[越中国|越中]]守護。[[足利氏]]（[[足利将軍家]]）の一門にて[[室町幕府]]の[[管領|三管領家]]の1つである[[畠山氏]]出身。父は管領[[畠山持国]]、母は側室。[[幼名]]は&#039;&#039;&#039;次郎&#039;&#039;&#039;、初名は&#039;&#039;&#039;義夏&#039;&#039;&#039;（よしなつ）。子に[[畠山修羅|修羅]]、[[畠山義豊|義豊]]（基家）。猶子に[[畠山政国 (総州家)|政国]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
家督相続を巡って従弟の[[畠山政久|弥三郎政久]]・[[畠山政長|政長]]一派と対立、[[応仁の乱]]を引き起こす。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==生涯==&lt;br /&gt;
===義就の出自===&lt;br /&gt;
義就の母は、義就のほか、[[小笠原長将]]との間に[[小笠原持長 (信濃小笠原氏)|持長]]を、[[飛騨国|飛騨]][[江馬氏]]との間にも子をもうけている&amp;lt;ref&amp;gt; 『二川物語』、『豊前豊津小笠原家譜』。長将の弟[[小笠原政康|政康]]の子としているが、実際には長将の子。但し、持長の生年の[[応永]]3年（[[1396年]]）から考えると疑問もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。また『東寺過去帳』には義就は皮屋の子であり、[[東寺]]の僧祐栄とは従兄弟であるとしている。これらのことから、義就の母は[[ヤリマン|様々な異性と関係をもつ類の女性]]であり、持国の実子ではないとの説があったことが伺える。『大乗院寺社雑事記』には、義就の元で暮らす[[桂女]]（遊女のこと）の記述があり、一族の略系図が添えられている。それによれば、「土用」という名の女に「畠山之桂也」と書かれており、文明12年当時70歳であることが知られる。従って、義就は「土用」27歳の時の子である可能性が高い&amp;lt;ref&amp;gt;[[横澤信生]]「享徳三年四月三日畠山家分裂の実相」富山史壇157号、2008年。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした事情により、義就は嫡子とはされず、[[石清水八幡宮]]の社僧になるはずであったが、12歳の時に俄に父持国に召し出されたことから、元々継嗣と決まっていた叔父[[畠山持富|持富]]の子[[畠山政久|弥三郎政久]]・[[畠山政長|政長]]兄弟との凄絶な家督争いが勃発することになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===家督争い===&lt;br /&gt;
[[文安]]5年（[[1448年]]）11月、持富への相続は撤回され、室町幕府8代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義政|足利義成]]（後の義政）から裁可を得た持国の[[庶子]]が新たにその後継者と定められ、[[元服]]して義成の[[偏諱]]（｢義｣の字）を受けて次郎義夏（&#039;&#039;&#039;畠山義夏&#039;&#039;&#039;）と名乗り、翌文安6年（[[1449年]]）に父に代わって[[椀飯]]の役目を務め、[[宝徳]]3年（[[1451年]]）に伊予守に叙任されるなど持国の後継者であることを示した。ところが義夏への相続は[[守護代]]の[[神保氏]]など被官らの理解を得られず、持富の子である弥三郎政久を旗頭とした反抗勢力を形成される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[享徳]]3年（[[1454年]]）[[4月3日 (旧暦)|4月3日]]に父が弥三郎を擁立しようとした家臣団を没落させるが、弥三郎を[[細川勝元]]・[[山名宗全]]や[[大和国|大和]]の[[国人]]である[[筒井氏]]までもが支持。[[8月21日 (旧暦)|8月21日]]に弥三郎派に襲撃され、形成不利となった義夏は[[京都]]から[[伊賀国|伊賀]]へ逃れ、義政から赦免された弥三郎は9月に再び上洛。しかし、義政の怒りを買った宗全は[[12月3日 (旧暦)|12月3日]]に隠居、領国[[播磨国|播磨]]で挙兵した[[赤松則尚]]を討つため[[12月6日 (旧暦)|6日]]に下向したが、1週間後の[[12月13日 (旧暦)|13日]]に義夏が[[河内国|河内]]から上洛して弥三郎を再び追い落とした。翌享徳4年（[[1455年]]）2月に&#039;&#039;&#039;義就&#039;&#039;&#039;と改名して右衛門佐に叙任、[[3月26日 (旧暦)|3月26日]]の父の死去により家督を継承した&amp;lt;ref&amp;gt;この一連の出来事は、勝元・宗全への対抗策として畠山氏の提携を目論んだ義政の謀略とされる。勝元は義政への宗全赦免の取り成しで弥三郎への援助が出来ず、義夏の上洛も宗全が不在の時であり、結果として義政支持の義夏が畠山氏当主になったからである。大阪府、P54 - P59、桜井、P283 - P285、石田、P109 - P111、P124 - P125。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
享徳4年[[2月7日 (旧暦)|2月7日]]、義政は大和に弥三郎に協力しないことを伝え、義就も分家の[[能登国|能登]]守護[[畠山義忠]]と幕府[[奉公衆]]と共に河内・大和に転戦、大和国人[[越智家栄]]を味方として弥三郎支持の大和国人[[成身院光宣]]・[[筒井順永]]・[[箸尾宗信]]らを追い落として[[宇智郡]]を領有した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ところが、康正3年（[[1457年]]）7月に大和の争乱が起こり、義就は義政の上意と偽って家臣を派遣したが、これが義政の怒りに触れて所領を没収された。義就派の大和国人の所領横領も問題にされ、義政から国人への治罰の命令が伝えられ、義政へ撤回を求めても聞き入れられなかった。9月に勝元の所領である山城[[木津]]も上意の詐称で攻撃、次第に義政の信頼を失っていった。翌[[長禄]]2年（[[1458年]]）9月に宗全と共に八幡[[神人]]討伐に赴く。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長禄3年（[[1459年]]）6月、成身院光宣・筒井順永らが勝元の軍勢に守られ大和へ帰国、越智家栄と交戦したため、義就は援軍を派遣したが、光宣の訴えで細川軍の大和派遣が決まり、合わせて[[7月23日 (旧暦)|7月23日]]の弥三郎赦免で不利となり、越智家栄は敗れて没落、光宣らは勢力を回復した。弥三郎は間もなく死去したが、弟の政長が弥三郎派から新たに擁立され、義就との対立が継続される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長禄4年（[[1460年]]）[[5月10日 (旧暦)|5月10日]]、分国紀伊で[[根来寺]]と畠山軍が合戦を起こし、畠山軍が大敗した。義就は報復に京都から紀伊へ援軍を派遣したが、[[9月16日 (旧暦)|9月16日]]に幕府から政長に家督を譲るよう命じられ、[[9月20日 (旧暦)|20日]]に河内へ没落、劣勢の為政長に家督を奪われた上、綸旨による討伐対象に定められ、朝敵に貶められる。10月に大和龍田で政長・光宣らに敗れ12月に[[嶽山城]]（[[大阪府]][[富田林市]]）に籠城し、討伐に下った政長、光宣、細川、大和国人衆らの兵と2年以上も戦った（[[嶽山城の戦い]]）。[[寛正]]4年（[[1463年]]）[[4月15日 (旧暦)|4月15日]]に嶽山城は陥落し、紀伊から[[吉野]]へ逃れた&amp;lt;ref&amp;gt;義就には大和国人の支援もあった上、包囲中に[[長禄・寛正の飢饉|寛正の大飢饉]]が発生したことも籠城が長引いた要因であった。また、籠城中に河内への文書発給を行っており、政長は名目上の守護に過ぎなかった。大阪府、P59 - P65、朝倉、P115 - P118、桜井、P299 - P301、石田、P129、P136、P160 - P165。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===挽回を期して===&lt;br /&gt;
吉野に逼塞していた義就だったが、寛正4年11月に義政に赦免され（母の[[日野重子]]の死去にちなむ。[[斯波義敏]]も赦免された）、細川勝元と対抗する山名宗全・[[斯波義廉]]の支持を得て、寛正6年（[[1465年]]）8月に挙兵、[[文正]]元年（[[1466年]]）[[8月25日 (旧暦)|8月25日]]に大和から河内に向かい諸城を落とし、越智家栄・[[古市胤栄]]も挙兵して成身院光宣らと戦い、11月に[[十市遠清]]の仲介で両者は和睦したが、義就は12月に河内から上洛。義政との拝謁も果たし、政長に畠山邸の明け渡しを要求させ、管領を辞任させる。翌文正2年（[[1467年]]）[[1月18日 (旧暦)|1月18日]]には[[上御霊神社]]において衝突し、宗全や義廉の家臣[[朝倉孝景 (7代当主)|朝倉孝景]]の協力を得て政長を破る（[[御霊合戦]]）。御霊合戦により山名方が有利となったことにより、翌年には細川方が巻き返しを図り[[応仁の乱]]となる&amp;lt;ref&amp;gt;義政は義就と義敏を赦免して文正元年に[[大内政弘]]も赦免することで幕府派の大名結成を目論んでいた。しかし、家督を義敏に替えられることに反発した義廉は寛正6年（[[1465年]]）に赦免されたが逼塞しているままだった義就と接触、宗全も協力して[[文正の政変]]を起こし、政長に替わり自分の管領就任を狙って義就の挙兵を促した。大阪府、P262 - P263、朝倉、P118 - P121、桜井、P301 - P305、大乗院寺社雑事記、P124 - P130、石田、P177 - P178、P185 - P203。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
乱では宗全率いる西軍に属して政長と戦い、[[内裏]]や東寺に陣取り[[10月3日 (旧暦)|10月3日]]の[[相国寺の戦い]]、翌[[応仁]]2年（[[1468年]]）の[[足軽大将]][[骨皮道賢]]討伐にも参戦。西軍きっての戦上手として河内・大和・[[摂津国|摂津]]・山城を転戦、山城の実力支配も行った。[[文明 (日本)|文明]]元年（[[1469年]]）に東軍寄りだった山城西部の[[乙訓郡]]を占拠（[[西岡の戦い]]）、[[勝竜寺城]]を根拠として[[山崎宿|山崎]]に陣取った西岡国人や[[山名是豊]]、河内の政長派などと戦った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文明5年（[[1473年]]）に宗全と勝元が死去、東西両軍の和睦が進められる中で反対していたが、文明9年（[[1477年]]）[[9月21日 (旧暦)|9月21日]]に政長討伐のために河内へ下り諸城を陥落、[[10月9日 (旧暦)|10月9日]]に政長派の守護代[[遊佐長直]]を[[若江城]]から追い河内を制圧する（[[若江城の戦い (室町時代)|若江城の戦い]]）。越智家栄と[[古市澄胤]]らも大和を制圧、政長派の[[筒井順尊]]・[[箸尾為国]]・十市遠清は没落し、義就は河内と大和の事実上の支配者となった。義就下向後の[[11月11日 (旧暦)|11月11日]]に両軍の間で講和が成立し、西軍諸将が相次いで帰国して解散、応仁の乱は終結した&amp;lt;ref&amp;gt;大阪府、P269 - P280、朝倉、P124、P139 - P141、桜井、P320 - P322、大乗院寺社雑事記、P130 - P143、石田、P224 - P226、P232 - P233、P273、福島、P14、P17 - P18。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 河内争奪戦 ===&lt;br /&gt;
河内守護と畠山氏当主は政長であり、幕府は度々義就追討令を発したが、効果は無く河内と大和は義就が実効支配したままであった。文明9年からはしばらく平穏だったが、文明14年（[[1482年]]）3月に[[細川政元]]と政長連合軍が出陣した。[[7月16日 (旧暦)|7月16日]]に政元と和睦、政元は[[河内十七箇所]]と摂津欠郡（[[東成郡]]・[[西成郡]]・[[住吉郡]]）の交換で単独で撤退するが、政長は河内に留まり、義就との抗争を継続した。義就は河内から南山城に侵入、翌文明15年（[[1483年]]）に南山城を掌握、河内の政長方を討伐して河内支配を確立した（[[犬田城の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、主戦場となった山城では膠着状態となり、文明17年（[[1485年]]）についに国人一揆が起こり（[[山城国一揆]]）、撤退を要求され、河内に引き上げた。以後も幕府から追討令が出されたが、実行されないまま終わった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
延徳2年12月12日（1491年1月21日）死去。[[享年]]54。後継者については、一時隠居を命じられた時に短期間であるが猶子の政国に家督を譲ったこともある。長男の修羅が生まれると政国を廃嫡し実家に戻し、修羅を後継としたが、修羅は文明15年に亡くなった。孫で修羅の子と次男の基家（義豊）が争い、家督と河内・大和は基家が継承することになる。政長も紀伊と越中を根拠として対抗、両者は義就の死後も畠山氏当主の座を巡って争った&amp;lt;ref&amp;gt;大阪府、P281 - P291、大乗院寺社雑事記、P144 - P151、福島、P23 - P34。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 偏諱を与えた人物・名前の読みについて ==&lt;br /&gt;
; 義就時代&lt;br /&gt;
*[[遊佐就家|遊佐&#039;&#039;&#039;就&#039;&#039;&#039;家]]&lt;br /&gt;
*[[遊佐就盛|遊佐&#039;&#039;&#039;就&#039;&#039;&#039;盛]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
※｢就｣の読みについては長らく｢&#039;&#039;&#039;なり&#039;&#039;&#039;｣（[[毛利元就]]などと同様）と読まれてきたが、近年になって教科書等では｢&#039;&#039;&#039;ひろ&#039;&#039;&#039;｣と読む傾向になってきている。但し、上に示した偏諱を与えられた人物に関しては｢なり｣と読まれることが多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 大阪府史編集専門委員会編『大阪府史第4巻 中世編 2』[[大阪府]]、1981年。&lt;br /&gt;
* [[朝倉弘]]『奈良県史11 大和武士』[[名著出版]]、1993年。&lt;br /&gt;
* [[桜井英治]]『日本の歴史12 室町人の精神』[[講談社]]、2001年。&lt;br /&gt;
* [[大乗院寺社雑事記]]研究会『大乗院寺社雑事記研究論集 第2巻』[[和泉書院]]、2003年。&lt;br /&gt;
* [[石田晴男]]『戦争の日本史9 応仁・文明の乱』[[吉川弘文館]]、2008年。&lt;br /&gt;
* [[福島克彦]]『戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦』吉川弘文館、2009年。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[室町時代の人物一覧]]&lt;br /&gt;
*[[筒井城]]&lt;br /&gt;
*[[信貴山城]]&lt;br /&gt;
*[[高屋城]]&lt;br /&gt;
*[[淀古城]]&lt;br /&gt;
*[[瀧谷不動明王寺]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{先代次代|[[畠山氏|河内畠山氏 (総州家)]]|畠山義就|[[畠山持国]]|[[畠山義豊]]}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:はたけやま よしなり}}&lt;br /&gt;
[[Category:畠山氏|よしなり]]&lt;br /&gt;
[[Category:室町時代の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:河内国の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:大阪府の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:守護大名]]&lt;br /&gt;
[[Category:戦国大名]]&lt;br /&gt;
[[Category:1437年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1491年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>39.2.197.243</name></author>
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