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	<title>Wikippe - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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	<updated>2026-09-03T04:37:22Z</updated>
	<subtitle>利用者の投稿記録</subtitle>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E6%9D%8E%E5%85%B8&amp;diff=105733</id>
		<title>李典</title>
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		<updated>2014-07-21T13:44:39Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;240F:63:D61B:1:B8B9:EFF8:F5C2:2607: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{三国志の人物&lt;br /&gt;
|名前       = 李典&lt;br /&gt;
|画像       = &lt;br /&gt;
|サイズ     = &lt;br /&gt;
|説明       = &lt;br /&gt;
|王朝       = [[後漢]]　&lt;br /&gt;
|称号・役職 = 都亭侯、破虜将軍&lt;br /&gt;
|出生       = 生年不詳&lt;br /&gt;
|出身地     = [[エン州|兗州]]山陽郡[[巨野県|鉅野県]]&lt;br /&gt;
|死去       = 没年不詳&lt;br /&gt;
|死没地     = &lt;br /&gt;
|ピン音     = Li Dian&lt;br /&gt;
|字         = 曼成&lt;br /&gt;
|諡号       = 愍侯&lt;br /&gt;
|廟号       = &lt;br /&gt;
|別名       = &lt;br /&gt;
|主君       = [[曹操]]&lt;br /&gt;
|特記事項   = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;李 典&#039;&#039;&#039;（り てん、生没年不詳）は、[[中国]]の[[後漢]]末の[[武将]]。[[曹操]]に仕えた。字は&#039;&#039;&#039;曼成&#039;&#039;&#039;。[[エン州|兗州]]山陽郡[[巨野県|鉅野県]]&amp;lt;ref&amp;gt;『[[資治通鑑]]』巻64には巨鹿の人であると記述されている。&amp;lt;/ref&amp;gt;の人。子は李禎その他1名。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』[[魏 (三国)|魏]]志に伝がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==生涯==&lt;br /&gt;
謙虚な人物で、若い頃は武芸よりも学問を好んだという（『魏書』）。学問の師をつけて『春秋左氏伝』を読み、さまざまな書物に目を通した。曹操は李典の振る舞いを好ましいものと思い、試しに人民を統治する職につけてみたという（『魏書』）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
従父の李乾はおおしい性格で、食客数千家を擁して乗氏県にいたが、[[初平]]年間に曹操の挙兵に応じて馳せ参じ、寿張の黄巾賊との戦いや、[[袁術]]との争い、[[徐州]]征伐など、数々の戦いに参戦して、武功を立てた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[呂布]]が兗州で反乱を起こすと、曹操は李乾を乗氏県に帰還させ民心を落ち着かせようとした。李乾はそこで呂布の任命した兗州別駕の[[薛蘭]]・[[李封]]から帰順の催促を受けたが、断固として拒んだために、薛蘭・李封に殺害された。曹操は李乾の子の李整に後を継がせ、諸将とともに薛蘭・李封を追討させた。李整は兗州の諸県を鎮圧するなど武功を立て[[青州]][[刺史]]までになった。李整が亡くなると李典が李整の軍を率いることになり、潁陰の令に転任し、中郎将に任命された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのとき、曹操は袁紹と官渡で対峙していたため（[[官渡の戦い]]）、李典は一族と部下を引き連れ、食料・絹などを曹操軍に輸送し供給した。曹操が袁紹を破ると裨将軍に任命された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
袁紹の死後、曹操は[[袁譚]]と[[袁尚]]を黎陽に攻撃したが、李典に命令し、[[程イク|程昱]]と共に兵糧を輸送させた。袁尚は魏郡太守の高蕃に命じて水路を遮断させた。曹操は予め、水路を通ることが困難なら陸路を使うよう命令をしておいたが、李典は敵の状況を見た上でその命令を聞かずに独断で程昱と相談し、高蕃に急襲をかけてこれを打ち破り、水路を回復させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
荊州の[[劉表]]を頼った[[劉備]]が葉まで侵攻してきた時、曹操の命令で留守を守る[[夏侯惇]]の配下として戦った。戦いの最中、劉備が突然陣営を焼き払い退却したため、夏侯惇は追撃の好機と見た。李典はこれを劉備の策であるとして諫めたが、夏侯惇は聞き容れず[[于禁]]とともに追撃に出、李典は留守を守った。果たして夏侯惇は劉備の伏兵に遭い不利になったが、李典が救援に赴いたため劉備は撤退し、夏侯惇は窮地を脱することができた（[[博望坡の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ギョウ|鄴]]の包囲に参加した。鄴の平定後、[[高幹]]が壺関で挙兵すると[[楽進]]と共に討伐した。また長広の管承を楽進と共に破り、捕虜将軍に昇進、都亭侯になった。曹操から受けた厚遇に感動した李典は、乗氏から1万3000の一族郎党を魏郡鄴県に移住させた。この行為は曹操に喜ばれ、破虜将軍に昇進した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[208年]]、曹操は荊州征伐に向かう際に、[[司空]]掾属主簿である[[趙ゲン|趙儼]]に章陵太守を兼任させ、さらに都督護軍に転任させた。これにより李典は、于禁・張遼・[[張コウ|張郃]]・[[朱霊]]・[[路招]]・馮楷の6将軍と共に趙儼の統括下に入ることになった（「趙儼伝」）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、曹操の命令で[[孫権]]への備えとして、李典は張遼、楽進とともに合肥に駐屯していたが、この3名は元来不仲であった。[[215年]]、孫権が合肥を攻撃してくると、張遼は2人が命令を聞かないことを心配したが、李典は国家の大事に私情は差し挟まないとして、楽進と共に張遼と協力して戦うことを誓いあった。李典は張遼と共に800の兵を率い、孫権が率いる10万の軍勢を迎え撃ち、撃退した（「張遼伝」、[[合肥の戦い]]）。100戸の加増を受け、300戸となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
李典は学問を好み、儒学の素養もあり、諸将と功績を争うこともなく、[[士大夫]]にも謙虚に接した。軍中においても称えられたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
36歳の若さで病死し、愍侯と諡された。子の李禎が後を継いだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[曹丕]]（文帝）が帝位に就くと、李典の功績を思い起こし、李禎に100戸が加増され、さらに李典の一子に関内侯と領邑100戸が与えられたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[244年]]秋7月、[[曹芳]]（斉王）は詔勅を下し、曹操の霊廟の堂前の広場に功臣達を祭ったが、その中に破虜将軍李典も含まれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
正史では武帝紀で、[[215年]]（[[建安 (漢)|建安]]20年）8月、孫権を合肥で破った記述を最後に事績が途絶えている。生没年を[[174年]]-[[209年]]とする書物があるが、史書や上記の略歴を見る限り、彼の活躍が明確になるのは官渡の戦い前後である。何より武帝紀の記述から先の没年を採る事は不可能といえよう。&lt;br /&gt;
--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==『三国志演義』での李典==&lt;br /&gt;
小説『[[三国志演義]]』では、曹操が[[董卓]]に反旗を翻し、軍を編成した時点で3千の兵を引き連れて参加し仕えている。[[黄邵]]を捕虜にするなど曹操の将として早くから武功を挙げ、呂布との戦いや[[華北]]4州平定にも参加。[[禰衡]]には他の曹操の部下とともに罵られている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後に[[曹仁]]の配下として[[樊城]]に駐屯している。206年、曹仁が劉表の客将として[[新野県|新野]]に駐屯する劉備を攻撃しようとした時、李典は曹操に援軍を要請するべきだと慎重策を述べ、曹仁と対立している。李典の懸念通り、曹仁は劉備の軍師である[[徐庶]]の采配に翻弄され、樊城を奪われてしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
207年に、劉備と[[諸葛亮]]打倒を曹操に志願した夏侯惇の配下として[[于禁]]と共に付けられ、新野付近の博望坡に攻め寄せる。この時も李典は劉備軍の撤退の様子を不審に思い、夏侯惇の追撃を諫めている。夏侯惇は李典の言葉を聞き入れず深追いしたため、案の定諸葛亮の火計に遭い大敗。しかし、李典は夏侯惇をあらかじめ諌めていたことにより曹操から賞賛されている（[[博望坡の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
208年、曹操が[[荊州]]など南方征伐を行った時も引き続き従軍する。[[長坂の戦い|長坂坡の戦い]]の最中、逃亡する劉備を追跡するが、長坂橋で仁王立ちしている[[張飛]]に撃退されている。再び曹操と共に長坂橋に行くと、今度は橋が焼き払われていたため、李典は「橋を落としたのは伏兵のない証拠」と判断して再追撃を命じた曹操に「諸葛亮の罠ではないかと思われます」と進言した。曹操は李典の言葉を聞き入れ撤退している。209年、張遼の副将として合肥の守備を任され、呉の武将の[[宋謙]]を射殺し、さらに[[太史慈]]を計略にかけて討ち取っている。以降も史実と同様、合肥の守将として張遼を助けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上のように相手の策を見破り進言する知性的な副将としての位置で描かれることが多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:り てん}}&lt;br /&gt;
[[Category:三国志の登場人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:菏沢出身の人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>240F:63:D61B:1:B8B9:EFF8:F5C2:2607</name></author>
	</entry>
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		<title>夷陵の戦い</title>
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		<updated>2014-07-21T10:38:39Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;240F:63:D61B:1:B8B9:EFF8:F5C2:2607: /* 　参戦人物　 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Battlebox&lt;br /&gt;
|battle_name = 夷陵の戦い&lt;br /&gt;
|   campaign = 三国時代 (中国)&lt;br /&gt;
|      image = [[ファイル:Yangtze river.jpg|280px|三峡一帯]]&lt;br /&gt;
|    caption = &lt;br /&gt;
|   conflict = &#039;&#039;&#039;夷陵の戦い&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|       date = [[221年]][[7月]]～[[222年]][[8月]]&lt;br /&gt;
|      place = [[三峡]]&lt;br /&gt;
|     result = 呉の勝利&lt;br /&gt;
| combatant1 = [[呉 (三国)|呉]]&lt;br /&gt;
| combatant2 = [[蜀漢|漢]]&lt;br /&gt;
| commander1 = [[陸遜]]&lt;br /&gt;
| commander2 = [[劉備]]、[[馮習]]&lt;br /&gt;
|  strength1 = 50,000&lt;br /&gt;
|  strength2 = 不明（[[資治通鑑]]だと4万余り）&lt;br /&gt;
|casualties1 = －&lt;br /&gt;
|casualties2 = 数万&lt;br /&gt;
|}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;夷陵の戦い&#039;&#039;&#039;（いりょうのたたかい、[[中国語]]: 夷陵之戰 {{Lang|zh|Yílíng zhī zhàn}}又は猇亭之戰）は[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[222年]]に行われた、[[三峡]]における[[蜀|蜀漢]]皇帝[[劉備]]率いる蜀漢軍と、[[呉 (三国)|呉]]王[[孫権]]の武将[[陸遜]]率いる呉軍との間の戦いである。戦場となったのは[[白帝城]]から夷道までの三峡全域となるが、[[三国志演義]]に記された決戦場に因んで「夷陵の戦い」と称される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 事前の経緯 ==&lt;br /&gt;
[[208年]]の[[赤壁の戦い]]に於いて主要な活躍をした孫権勢力であったが、その後、劉備が[[荊州]]の5郡を占拠し、このことに強い不満を抱いていた。劉備勢力はこの荊州に加えて、西の益州（[[四川省|四川]]）を獲得し、北の[[曹操]]勢力に対抗する態勢を整えつつあった。その後、孫権の荊州の引渡し要求に対して、劉備は2郡を譲渡するに留まった。孫権勢力では親劉備派と反劉備派に分かれて意見が対立していた。赤壁以後の政権を執っていた[[魯粛]]は親劉備派だったが、魯粛の死後は反劉備派の勢力が強くなり、荊州を守備する[[関羽]]と対峙するように[[呂蒙]]が派遣された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[219年]]、劉備が[[漢中]]を攻略し、一方で荊州の守将であった関羽が曹操領の荊州の拠点である[[樊城]]を攻撃した([[樊城の戦い]])。このことを好機と見た孫権は曹操と同盟を結び、呂蒙らを派遣して荊州侵攻作戦を開始し、関羽を捕らえて殺し、荊州を領有することに成功した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 夷陵の戦い ==&lt;br /&gt;
旗揚げ当時からの部下であり、兄弟同然だった関羽の訃報を聞いた劉備は嘆き悲しみそして怒り狂い、呉への復讐を誓った。正史では、先主伝、[[法正]]伝などにそのことが記され、[[魏 (三国)|魏]]の謀臣[[劉曄]]も、劉備と関羽の関係の深さから、劉備の呉への出兵を予測している。劉備は呉への復讐戦を決意するが、[[趙雲]]を始めとした多くの群臣が反対に回った。なお、[[諸葛亮]]が劉備による呉への出兵に反対したという記述は正史には無い&amp;lt;ref&amp;gt;この時点で諸葛亮は戦略の立案執行には関わっていないという説もあるが、一文官や一将軍に過ぎない[[秦フク|秦{{lang|zh|宓}}]]や趙雲には出兵に反対したという記録がある。ただし敗戦後「法正が健在であれば東征を抑えただろうに」と嘆息したという話が残っていることから、内心は反対だったとも考えられる&amp;lt;/ref&amp;gt;。呉は関羽を殺した時から劉備と対立することになることを予期して、曹魏勢力へ接近し、形式的に[[曹丕]]に臣従することで劉備に対抗しようとした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[221年]]、劉備は蜀漢皇帝に即位したが、同年[[張飛]]が部下の[[張達]]と[[范彊]]によって殺害された。劉備は「ああ、飛が死んだ」と、度重なる義弟の死を嘆いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
劉備は遂に親征軍を発し、侵攻に反対した趙雲を[[江州]]に留め置いて魏軍にたいする牽制とし、[[呉班]]、[[馮習]]らを先鋒として[[李異]]、[[劉阿]]らが防御していた巫城と{{lang|zh|秭}}帰城を続けて急襲、短期間の内に[[秭帰県|{{lang|zh|秭}}帰県]]までを制圧した。孫権は、関羽討伐で功があった名門陸家の[[陸遜]]を大都督に任じ、防衛を命じた。しかし、呉の諸将は書生あがりで若輩の陸遜に対して懐疑的な態度を示し、素直に従わない面も見られた。劉備は自身も本隊を率いて進軍、{{lang|zh|秭}}帰に駐屯し、[[呉班]]と[[陳式]]らに水軍を指揮させ夷陵へ先行させた。この水軍は囮であり、劉備は陸上から進軍したが、この計略は陸遜によって見破られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[222年]]に入り、気候が温暖となると劉備は更に侵攻を進める。[[黄権]]はこれ以上侵攻すると撤退が困難であることを指摘し、自身が兵を指揮するから劉備には後方にいて欲しいと主張したが、劉備は[[長江]]北岸の戦線を黄権にまかせると、水軍を引き上げさせ、長江を渡渉し、先鋒は夷道にまで進んで[[孫桓]]を包囲した。孫桓は陸遜に救援要請を出したが、陸遜は「蜀軍を破る計略があるから耐えるべし」として救援を出さなかった。呉の将達は皆この陸遜の行いを見、「陸伯言は愚か者だ。呉は滅ぶ」と口々に語りあった。この時点で陸遜の本隊は三峡内の全拠点を失い、後方には[[江陵県|江陵]]があるだけという危機的な状況であった。劉備は次いで自身も{{lang|zh|猇}}亭にまで進軍し、[[馬良]]を[[武陵]]に派遣して異民族を手懐けさせ、これに武陵蛮の[[沙摩柯]]らが呼応した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時、劉備は補給線と退路を確保するために、後方に50近くの陣営を築き連ねていたが、魏帝曹丕はこれを聞いて「劉備は戦の仕方を知らない。必ず敗北する」と側近に語ったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここまで劉備が攻勢を続け、陸遜はじわじわと押し込まれるという情勢が1年近くも続いていたため、また陸遜が若輩であるということもあって、呉軍の諸将は勝手な行動を取り続けていて、陸遜は剣を手にかけ軍権が自分にあることを改めて諸将に宣言し、やっと諸将は陸遜の命令に服するというありさまであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月、陸遜は蜀軍の陣地の一つを攻撃したが、成果を得られなかった。しかし、この時に陸遜は蜀軍の陣が火に弱いという弱点を見抜いた。陸遜は全軍に指示を出し、夜半に水上を急行して総攻撃を開始した。呉軍は同時に蜀陣に火計を仕掛け、これを散々に撃ち破った。蜀軍は延々と陣営を伸ばして布陣していたため、陣営同士の連携も疎かであり、混乱に陥った。呉軍は40以上の陣営を陥落させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
劉備は後方の陣営が落とされると[[馬鞍山市|馬鞍山]]まで撤退し陣を敷いたが、呉軍はこれを四方から攻撃し蜀軍は潰走した。その後孫桓などは蜀軍を並行追撃し、次々に退路を遮断した。この中で馮習や[[王甫]]、[[張南]]、[[傅トウ|傅{{lang|zh|彤}}]]、[[程畿]]、馬良ら有能な武官・文官が戦死し、退路を失った黄権も魏に投降、軍船・兵器類が多数奪われた。[[楊戯]]の『[[季漢輔臣賛]]』では、指揮官に任命されていた馮習一人に責任を負わせているが、これは先帝である劉備を弁護する意図があると思われる。劉備は救援の趙雲・[[馬忠 (蜀漢)|馬忠]]らに助けられ辛うじて[[白帝城]]に逃げ込み、白帝城を永安と改名、ここに留まる。蜀軍の被害は著しく、数万人が戦死した。これにより[[蜀|蜀漢]]は荊州を完全に失陥した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦後 ==&lt;br /&gt;
この戦いで意気消沈した劉備は白帝城で病死し、その後を[[劉禅]]が継ぎ、国事は諸葛亮に全てゆだねられることになった。呉ではこの大勝を機に再び魏の影響下から脱して独立色を明確にし、魏に対抗するようになる。[[222年]]冬、魏は[[合肥の戦い#222年から223年にかけての三方面での戦い|三方面から呉に攻め込んだ]]が、疫病が流行ったため撤退した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 両軍の戦力について ==&lt;br /&gt;
この戦いに参加した呉軍の兵力は、陸遜伝に5万と明記されているが、蜀軍については、本文中には「大軍」とあるだけで明記されていない。文帝記の註（『[[魏書 (曖昧さ回避)|魏書]]』）には、222年の2月8日に「劉備の支党4万人と馬2、3千頭が秭帰を出てきました」という孫権からの上書が載せられている。[[資治通鑑]]では蜀軍全軍を4万余人、それに加え蜀に与した荊州の異民族である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
先主伝によると「222年の正月に先主は秭帰に駐留し、呉班・陳式の水軍は夷陵に駐屯して陣取った」とあり、「2月に先主は秭帰から諸将を率いて軍を進めて猇亭に駐営した」とある。2月8日に曹丕に届いた上書が蜀軍全体を指すのか、先鋒のみなのか劉備の本体を指すのかは分からない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また蜀軍の被害は、「斬首したり投降してきたりした者は数万にのぼった」（呉主伝）、「その死者は数万にのぼった」（陸遜伝）、「陸議はその兵8万余人を殺し」（劉曄伝註（『傅子』））とある&amp;lt;ref&amp;gt;[[西晋]]時代に[[葛洪]]によって書かれた[[神仙伝]]には季意期（先主伝では季意其）という[[前漢]]の[[文帝_(漢)|文帝]]の代より生きていると称す[[仙人]]が、劉備から呉討伐の吉凶について求められ、紙に兵馬武器数十万枚を描いて引き裂き、最後に一人の大きな人物を描いて地面に埋め、蜀軍の敗北を予言したという逸話を載せている。ここでは劉備の敗北について&#039;&#039;「十余万の軍勢のうち、わずか数百人しか帰還することができず、武器も兵糧もあらかた尽きた」&#039;&#039;と表現されている。ただし先主伝の註での引用では兵力については触れられていない。[[裴松之]]の時代の神仙伝そのままとも考えられるし（神仙伝は後世の改変が甚だしいと考えられている）、裴松之が兵力については省略したとも考えられる（裴松之は引用にあたり原文を編集・省略することもあった）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 三国志演義では ==&lt;br /&gt;
小説『[[三国志演義]]』では、劉備が漢中を領有した翌年に死んでいるはずの老将[[黄忠]]が劉備に「年寄りは役に立たぬ（この時劉備も六十代）」と馬鹿にされ、敵に突っ込んでいき矢をうけ、その傷が元で陣没することになっている。また、関羽の仇である[[糜芳]]、[[士仁|傅士仁]]、[[潘璋]]、[[朱然]]、[[馬忠 (孫呉)|馬忠]]らが[[張苞]]、[[関興]]らの手により次々と戦死するが、これは全くの創作である。また、陸遜は秋から冬の乾燥した時期を待って火攻めを敢行し勝利した、とあるが、実際には夏（6月）である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
他にも、劉備を追ってきた陸遜が、諸葛亮発案の石兵八陣にかかり進軍できずに途中で引き返し、魏の攻撃に対処することになっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また劉備の率いる蜀軍の兵力は75万となっているが、蜀漢が滅亡した時の戸籍人口が94万（後主伝）であることを考慮すると現実味に乏しい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==　参戦人物　==&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|valign=top|&lt;br /&gt;
*[[蜀漢|蜀]]軍&lt;br /&gt;
**[[劉備]]&lt;br /&gt;
***[[張飛]]（出征前に部下の[[張達]]、[[范彊]]に殺される）&lt;br /&gt;
****張達 &lt;br /&gt;
****范彊&lt;br /&gt;
***[[呉班]]&lt;br /&gt;
***[[馮習]]（戦死）&lt;br /&gt;
***[[張南]]（戦死）&lt;br /&gt;
***[[傅肜]]（戦死）&lt;br /&gt;
***[[輔匡]]&lt;br /&gt;
***[[趙融]]&lt;br /&gt;
***[[廖化]]&lt;br /&gt;
***[[向寵]]&lt;br /&gt;
***[[陳到]]&lt;br /&gt;
***[[陳式]]&lt;br /&gt;
***[[李朝 (蜀)|李朝]]&lt;br /&gt;
***[[程畿]]（戦死）&lt;br /&gt;
***[[馬良]]（戦死）&lt;br /&gt;
***[[沙摩柯]]（戦死）&lt;br /&gt;
***[[王甫]]（戦死）&lt;br /&gt;
***[[黄権]]（[[魏 (三国)|魏]]に投降）&lt;br /&gt;
***[[龐林]]（魏に投降）&lt;br /&gt;
***[[杜路]]（[[呉 (三国)|呉]]に投降）&lt;br /&gt;
***[[劉寧]]（呉に投降）&lt;br /&gt;
***[[趙雲]]（江州に駐屯し、永安を後援）&lt;br /&gt;
***[[馬忠 (蜀漢)|馬忠]]（永安を後援）&lt;br /&gt;
|valign=top|&lt;br /&gt;
*[[呉 (三国)|呉]]軍&lt;br /&gt;
**[[陸遜]]&lt;br /&gt;
***[[朱然]]&lt;br /&gt;
***[[潘璋]]&lt;br /&gt;
***[[宋謙]]&lt;br /&gt;
***[[韓当]]&lt;br /&gt;
***[[徐盛]]&lt;br /&gt;
***[[鮮于丹]]&lt;br /&gt;
***[[孫桓]]&lt;br /&gt;
***[[李異]]&lt;br /&gt;
***[[駱統]]&lt;br /&gt;
***[[謝旌]]&lt;br /&gt;
***[[劉阿]]&lt;br /&gt;
***[[蒋壱]]&lt;br /&gt;
***[[丁奉]]&lt;br /&gt;
***[[歩隲|步騭]]（武陵蛮を鎮圧）&lt;br /&gt;
***[[潘濬]]（武陵蛮を鎮圧）&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚註 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:いりようのたたかい}}&lt;br /&gt;
[[Category:三国時代 (中国)の戦闘]]&lt;br /&gt;
[[Category:222年]]&lt;br /&gt;
[[Category:湖北省の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:重慶の歴史]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>240F:63:D61B:1:B8B9:EFF8:F5C2:2607</name></author>
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		<title>孫朗</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;240F:63:D61B:1:B8B9:EFF8:F5C2:2607: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;孫 朗&#039;&#039;&#039;（そん ろう、生没年不詳）は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[呉 (三国)|呉]]の皇族の一人、[[孫堅]]の庶子。[[孫権]]の弟。別名では&#039;&#039;&#039;孫仁&#039;&#039;&#039;&amp;lt;ref&amp;gt;なお、『三国志演義』では「孫仁」は[[孫夫人|孫権の妹]]の名前となっている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[字]]は不明であるが、小説『[[三国志演義]]』では&#039;&#039;&#039;早安&#039;&#039;&#039;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[陳寿]]の『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』本文では名が見えず、記載はもっぱら[[裴松之]]の注による&amp;lt;ref&amp;gt;『三国志』孫堅伝・注『志林』&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[魏 (三国)|魏]]の[[曹休]]が攻めてきたとき、孫朗は[[呂範]]と共にこれを防いだが、このとき、軍用資材を自身の不手際から焼失する失敗を犯した。これに兄の孫権は激怒し、孫朗を皇族から追放して丁姓を名乗らせると共に、彼を投獄した。そして孫朗は、獄中で死去したという&amp;lt;ref&amp;gt;『三国志』[[孫匡]]伝・注『[[江表伝]]』。なお、『江表伝』本文では孫匡のことと記載されており、裴松之が記載の矛盾から孫朗のことではないかと推察している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『三国志演義』では、[[孫策]]臨終の際に名前が出てくるのみである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[伴野朗]]の『呉・三国志　長江燃ゆ』では主人公として扱われている。&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:そん ろう}}&lt;br /&gt;
[[Category:孫氏|ろう]]&lt;br /&gt;
[[Category:三国志の登場人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:呉の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:獄死した人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:生年不明]]&lt;br /&gt;
[[Category:没年不明]]&lt;/div&gt;</summary>
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		<title>諸葛恢</title>
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		<updated>2014-07-20T10:08:31Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;240F:63:D61B:1:B8B9:EFF8:F5C2:2607: /* 経歴 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{統合文字|葛恢}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;諸葛 恢&#039;&#039;&#039;（しょかつ かい [[284年]] - [[345年]]）は[[字]]を&#039;&#039;&#039;道明&#039;&#039;&#039;と言い、[[東晋]]の[[政治家]]である。祖父は[[三国志|中国三国時代]]に[[魏 (三国)|魏]]に仕えた[[諸葛誕]]、父は魏が滅んだ後に[[呉 (三国)|呉]]に仕えた[[諸葛セイ|諸葛靚]]である。[[諸葛亮]]の親戚筋にあたる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==経歴==&lt;br /&gt;
若くしてその才能を知られ、[[西晋]]で[[臨沂市|臨沂]]の令として治績をあげた。[[永嘉の乱]]が起こると江東に逃れ、[[東晋]]に仕えた。[[王導]]の琅邪王氏と並び、その名声は高かった。若い頃、王導に彼は黒髪の宰相になるだろうと言われた。また、潁川の[[荀闓]]、陳留の[[蔡謨]]は、共に字が「道明」で、やはり名声があった。そこで、諸葛恢と合わせて「中興三明」と称賛された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東晋では[[元帝 (東晋)|元帝]]・[[明帝 (東晋)|明帝]]・[[成帝 (東晋)|成帝]]に仕え、成帝の[[咸康]]八年（[[342年]]）に[[尚書令]]に至る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
咸康七年（[[341年]]）、燕王を自称していた[[前燕]]の[[慕容コウ|慕容皝]]が東晋に、燕王の公認を求める使者として[[劉翔（前燕）|劉翔]]らを送った。慕容皝は[[後趙]]の[[石虎]]と争っていたため、東晋に接近したのである。諸葛恢は劉翔の姉の夫であったが、「[[夷狄]]が争っているのは中国の利であります。しかし器と名は、軽々しく許してはなりません」と公認に反対した。しかし結局、東晋は慕容皝の王位を公認した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[永和]]元年（[[345年]]）、62歳で亡くなった。[[諡]]は敬侯。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==血縁==&lt;br /&gt;
息子は二人いる。諸葛(虎に甘)と(虎に黒)である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==家系図==&lt;br /&gt;
 ●&lt;br /&gt;
 ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓&lt;br /&gt;
 [[諸葛珪]]　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　                          [[諸葛玄]]&lt;br /&gt;
 ┣━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━┓                   &lt;br /&gt;
 [[諸葛瑾]]　　　　　　　　　     [[諸葛亮]]                       [[諸葛均]]       　　        [[諸葛誕]]&lt;br /&gt;
 ┣━━━┳━━━┓　　　  ┣━━━━━━━━━━━┓                              ┃&lt;br /&gt;
 [[諸葛恪]]　[[諸葛喬]]　[[諸葛融]]　  [[諸葛瞻]]　　　　　　　      　[[諸葛懐]]                         [[諸葛セイ|諸葛靚]]&lt;br /&gt;
 　　　   ┃　　　　　　      ┣━━━┳━━━┓                                    ┃&lt;br /&gt;
 　　　   [[諸葛攀]]　　　　　    [[諸葛尚]]　[[諸葛京]]　[[諸葛質]]                               　[[諸葛恢]]&lt;br /&gt;
 　　　　  ┃&lt;br /&gt;
 　　　　  [[諸葛顕]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[清和政策研究会]] - 元帝が諸葛恢の統治を称賛した詔にある「政清人和（まつりごと清ければ人おのずから和す）」の語句が名称の由来。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しよかつ かい}}&lt;br /&gt;
[[Category:魏晋南北朝時代の人物|しよかつかい]]&lt;br /&gt;
[[Category:琅邪諸葛氏|かい]]&lt;br /&gt;
[[Category:284年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:345年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>240F:63:D61B:1:B8B9:EFF8:F5C2:2607</name></author>
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		<title>諸葛恪</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;240F:63:D61B:1:B8B9:EFF8:F5C2:2607: /* 家系図 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{統合文字|葛}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;諸葛 恪&#039;&#039;&#039;（しょかつ かく、[[203年]] - [[253年]]）は[[中国]]の[[三国時代 (中国)|三国時代]]の政治家。[[呉 (三国)|呉]]に仕えた。[[字]]は&#039;&#039;&#039;元遜&#039;&#039;&#039;。[[諸葛瑾]]の長男で、[[蜀]]（蜀漢）の[[丞相]]の[[諸葛亮]]の甥にあたる。弟に[[諸葛喬]]・[[諸葛融]]。子は[[諸葛綽]]・[[諸葛竦]]・[[諸葛建]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概略==&lt;br /&gt;
===孫権時代===&lt;br /&gt;
若い頃から機知と才気に長け、その才能を発揮していた。一方で性格は父・諸葛瑾や叔父の諸葛亮とは正反対と言っても良く、思慮深いとは言えず、いい加減で、野心家であり、弁論でも他人をやりこめるのが得意であり、才能をひけらかすのが好きだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
逸話として、宴の最中に引き出された[[ロバ|驢馬]]の額に、[[孫権]]が戯れて「&#039;&#039;&#039;諸葛子瑜&#039;&#039;&#039;」と書いた（諸葛瑾は面長であったとされる）ことがあった。一座の者は大笑いしたが、父を馬鹿にされて面白くない幼少の諸葛恪は、その驢馬の文字の下に「&#039;&#039;&#039;之驢&#039;&#039;&#039;」と書き加えた（諸葛瑾の驢馬という意味にした）。孫権はじめ一座の者は、その機転の良さに舌を巻きその驢馬は諸葛瑾に与えられた。また、孫権に「お前の父と叔父と、どちらが偉いか？」（現代に至るもそうだが、当時も諸葛亮のほうが評価は高い）と問われた際に、「父です。仕えるべき主君を知っていますから。」と即座に返答し、孫権を感心させている。他にも正史には彼の幼少時代の才気煥発さを示すエピソードが多く載せられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方で負けず嫌いを示す逸話もある。[[皇太子]]の[[孫登]]に「馬の糞でも食っていろ」とからかわれた際に、諸葛恪は「なら太子様は鶏卵を食べて下さい」と言い返した。脇で聞いていた孫権が意味がわからず問いただすと「鶏卵も糞と同じ所から出ます」と返答したという。婉曲な表現であっても、皇太子相手でも言い返さずには済まなかったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その才能に見合わぬ性格の問題から、諸葛瑾は常に「息子は頭が良過ぎる。家を栄えさせるのもこの子なら、潰すのもまたこの子だろう」と嘆いていた。諸葛亮も[[陸遜]]に宛てた書状の中でわざわざ「恪は大雑把でいい加減なので兵糧管理などは向かない」と判じて注意し、更に陸遜も彼をつかまえて「その人を人と思わない性格をどうにかしろ」と窘めている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また諸葛恪は[[張休]]・[[顧譚]]・[[陳表]]とともに皇太子の孫登の側近となり、諸葛恪ら四人は孫登の四友と呼ばれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
諸葛恪は「[[丹陽市|丹陽]][[郡]]は山が険しく、住民の多くは勇敢なのですが、丹陽郡の奥地には不服住民（[[山越]]）が多いです。自分が丹陽郡に赴けば、3年で武装兵4万人を手に入れられます」と上申した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[234年]]、諸葛恪は撫越将軍･丹陽[[太守]]に任じられ、陳表・[[顧承]]らとともに山越の討伐を命じられる。諸葛恪は策略を使って、あまり戦うことなく、3年で山越を帰順させ、4万人以上の山越兵を手に入れる事に成功した&amp;lt;ref&amp;gt;諸葛恪とともに山越を討伐した[[顧承]]は諸葛恪とは別に8000人の山越兵を徴兵し、陳表は1万人以上の山越兵を徴兵した。&amp;lt;/ref&amp;gt;。その功績をたたえられ、威北将軍に任ぜられ、都郷侯に封ぜられた。その後も[[魏 (三国)|魏]]との戦いで功績を挙げ、[[246年]]に[[大将軍]]に任ぜられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
皇太子の孫登が死去すると、[[孫和]]が皇太子となった。しかし、孫和と[[孫覇]]との間で継承争いが起き、家臣団が真っ二つになって争いあう事態となった。諸葛恪は孫和を支持したが、諸葛恪の長男の諸葛綽は孫覇を支持したようである。結局、孫和は太子を廃されたうえに幽閉され、孫覇は処刑され、[[孫亮]]が皇太子となった（[[二宮事件]]）。孫権はこの事について諸葛恪に諸葛綽の再教育を命じた。諸葛恪は諸葛綽を毒殺した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[251年]]12月、皇太子の孫亮がまだ幼かったので、諸葛恪は[[太傅|太子太傅]]に任ぜられた。[[252年]]、孫権が危篤になると、[[孫弘]]・[[孫峻]]・[[滕胤]]・[[呂拠]]と共に後事を託された。次の日、孫権は逝去し、孫亮が[[皇帝]]となった。孫弘は諸葛恪と仲が悪かったことから、孫権の死を隠して諸葛恪を排除しようとしたが、逆に露見し誅殺されてしまう。これにより、その後の呉の実権は諸葛恪が握ることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===孫亮時代===&lt;br /&gt;
[[252年]]閏4月、諸葛恪は皇帝の孫亮の太傅となった。官吏を監察する校官の制度を廃止し、未納の税金を帳消しにし、関税を廃止したので、絶大な支持を受けた。[[韋昭]]（韋曜）を推薦して[[太史令]]とし、『呉書』を編纂させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
またその頃[[孫和]]の妃の張氏は黄門の陳遷を派遣し、[[建業]]に行って皇后に上疏させると共に諸葛恪にも挨拶をさせた。諸葛恪の姉の子が張氏である。その面会も済んで退出しようとしている時に諸葛恪は陳遷に言った、「お妃様にお伝え下さい、間も無く彼等よりも優位な立場にお立て致しますから」。その年の正月に孫和は南陽王に封ぜられ、[[長沙]]に追い遣られていた。この言葉が些か世間に泄れる事となった。それに加え諸葛恪は、遷都を行おうとの意図で[[武昌]]の宮殿を整備させていた事から、世間は孫和を武昌に迎えようとしているのだとも噂をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[252年]]10月、諸葛恪は東興に大きな[[堤防|堤]]を造り、堤の左右の山地に堤を挟む形で二つの城を築いた。同年12月、[[魏 (三国)|魏]]の[[胡遵]]・[[諸葛誕]]らは東興を攻め堤を決壊させるべく、船を並べて浮橋を築き、浮橋を渡り堤の上に進軍し、堤の上に陣を張り、堤の左右の山地に築かれた二つの城に攻撃をかけた。そこで、諸葛恪は[[丁奉]]・[[留賛]]・呂拠・[[唐咨]]らを先鋒として魏軍を攻撃し、撃破した。敗走した魏軍はあわてて浮橋に殺到したが、呉の[[朱異]]によって浮橋が壊されたので大混乱になり、魏軍は[[韓綜]]・[[桓嘉]]をはじめ数万人が戦死した（東興の戦い）。呉はこの戦いで多大な牛馬や軍事物資を手に入れた。諸葛恪は陽都侯に封ぜられ、[[揚州]]と[[荊州]]の[[刺史|牧]]に任ぜられ、国内の軍事全般の指揮を任されることになった。『建康実録』によればこのとき丞相に昇進している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[253年]]、前年の戦いの勝利に気をよくした諸葛恪は周りの諫めを無視して、大軍を率いて魏に侵攻し、4月、[[合肥市|合肥]]新城を包囲した。魏の[[毌丘倹]]・[[文欽]]は合肥新城の守将の[[張特]]とともにこれを防いだ。諸葛恪の合肥新城包囲は100日に及んだが、攻め落とす事は出来ず、疫病が大流行し、非常に多くの兵が亡くなった。同年7月、魏の[[太尉]]の[[司馬孚]]が東征して合肥新城の救援に赴くと、諸葛恪は合肥新城の包囲を解いて撤退し、8月に呉に帰還した（合肥新城の戦い）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
諸葛恪はこの戦の失敗と相次ぐ独断専行のため人望を失ってしまう。そして同年10月、孫峻らのクーデターにより殺され、諸葛瑾の心配した通り諸葛恪と弟の諸葛融の一族は皆殺しにされてしまう。諸葛恪の死体は葦のむしろに巻かれ、丘陵地帯に投げ捨てられた。後に諸葛恪の元部下達が諸葛恪の遺体を回収して埋葬した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
諸葛恪が誅殺されると、孫峻は諸葛恪の先の発言に因縁を付け、南陽王の璽綬を孫和から没収し[[新都]]に強制移住させ、更に使者を送って自害させた。この時に姪の張氏も夫に殉じており、先の諸葛恪の発言は自身の一家だけでなく姪とその夫まで殺めたのであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
諸葛恪の死後、諸葛恪の弟の諸葛喬の子で[[諸葛攀]]が陽都侯を継ぐものの早世したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==評価==&lt;br /&gt;
『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』の著者の[[陳寿]]は「諸葛恪は才気にあふれ、大きな展望をもって働く事ができ、国内の人々の賞賛を受けていたが、驕慢で狭量であった」と評している。その上で「仮令[[周瑜|周公]]であっても（その様な欠点が在れば）その長所を台無しにしてしまう。まして諸葛恪なら尚更で、己を誇って他人を踏付けにしたのだから、どうして身を滅ぼさずに済む筈があろう。若し彼が[[陸遜]]や弟達に与えた手紙に述べた内容を実践していたならば、後悔する事にも災禍を被る事にもならなかったのである」と締めている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==家系図==&lt;br /&gt;
 ●&lt;br /&gt;
 ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓&lt;br /&gt;
 [[諸葛珪]]　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　                          [[諸葛玄]]&lt;br /&gt;
 ┣━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━┓                   &lt;br /&gt;
 [[諸葛瑾]]　　　　　　　　　     [[諸葛亮]]                       [[諸葛均]]       　　        [[諸葛誕]]&lt;br /&gt;
 ┣━━━┳━━━┓　　　  ┣━━━━━━━━━━━┓                              ┃&lt;br /&gt;
 [[諸葛恪]]　[[諸葛喬]]　[[諸葛融]]　  [[諸葛瞻]]　　　　　　　      　[[諸葛懐]]                         [[諸葛セイ|諸葛靚]]&lt;br /&gt;
 　　　   ┃　　　　　　      ┣━━━┳━━━┓                                    ┃&lt;br /&gt;
 　　　   [[諸葛攀]]　　　　　    [[諸葛尚]]　[[諸葛京]]　[[諸葛質]]                               　[[諸葛恢]]&lt;br /&gt;
 　　　　  ┃&lt;br /&gt;
 　　　　  [[諸葛顕]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚註 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しよかつ かく}}&lt;br /&gt;
[[Category:琅邪諸葛氏|かく]]&lt;br /&gt;
[[Category:三国志の登場人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:呉の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:203年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:253年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>240F:63:D61B:1:B8B9:EFF8:F5C2:2607</name></author>
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		<title>諸葛瑾</title>
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		<updated>2014-07-20T09:11:56Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;240F:63:D61B:1:B8B9:EFF8:F5C2:2607: /* 家系図 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{統合文字|葛}}&lt;br /&gt;
{{三国志の人物&lt;br /&gt;
|名前       = 諸葛瑾&lt;br /&gt;
|画像       = &lt;br /&gt;
|サイズ     = &lt;br /&gt;
|説明       = &lt;br /&gt;
|王朝       = [[呉 (三国)|呉]]　&lt;br /&gt;
|称号・役職 = [[大将軍]]・左都護・豫州牧&lt;br /&gt;
|出生       = [[熹平]]3年（[[174年]]）&lt;br /&gt;
|出身地     = [[徐州]]琅邪国陽都県&lt;br /&gt;
|死去       = [[赤烏]]4年（[[241年]]）&lt;br /&gt;
|死没地     = [[荊州]]南郡[[公安県]]&lt;br /&gt;
|ピン音     = Zhuge Jin&lt;br /&gt;
|字         = 子瑜&lt;br /&gt;
|諡号       = &lt;br /&gt;
|廟号       = &lt;br /&gt;
|別名       = &lt;br /&gt;
|主君       = [[孫権]]&lt;br /&gt;
|特記事項   = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;諸葛 瑾&#039;&#039;&#039;（しょかつ きん、[[174年]] - [[241年]]）は、[[中国]][[後漢]]末期から[[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[呉 (三国)|呉]]の[[政治家]]・[[武将]]。字は子瑜。[[徐州]]琅邪国（琅邪郡）[[陽都県]]（現在の[[山東省]][[沂南県]]）の出身。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 一族 ==&lt;br /&gt;
先祖や諸葛姓の由来については、諸説あり明確ではない。[[前漢]]の[[諸葛豊]]の子孫であるといわれる。父は[[諸葛珪]]、叔父に[[諸葛玄]]がいる。子には[[諸葛恪]]・[[諸葛喬]]・[[諸葛融]]がいる。弟は[[蜀漢]]の[[丞相]][[諸葛亮]]で、次男の諸葛喬は諸葛亮の養子となっている。系図も参照。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==生涯==&lt;br /&gt;
『呉書』によると若い頃に都に出て、『毛詩』・『尚書』・『左氏春秋』などを読み学問を修め、実母が死ぬと継母に孝養を尽くしたという。後漢末の戦乱を避けて[[揚州]]に移り住んだ。この頃[[孫策]]が亡くなり[[孫権]]が跡を継いだ頃で、彼の非凡さを見抜いた孫権の姉婿である、曲阿の弘咨が諸葛瑾を孫権に推挙した。孫権の諸葛瑾への評価は高く、[[魯粛]]と同じく賓客として遇され、後に長史・中司馬とされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[劉備]]の使者として弟が都を訪問した時、孫権に諸葛亮を説得して仕えさせられないかと言われると、「私が我が国を裏切らないように、弟もまた劉備を裏切らないでしょう」と言ったという。孫権はこの言葉に感銘を受け、その後、諸葛瑾に絶大な信頼を示すようになったという（「江表伝」）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[215年]]、劉備が[[益州]]を手に入れたのに伴い、[[荊州]]返還を要求する孫権の使者となる。この時、劉備に仕えた弟とは公私の立場をはっきり区別し、公式の場で顔を合わせても、私的に面会する事はなかった。劉備が「[[涼州]]を手に入れたらお返しする」と返答したため、返還が実現せずに失敗している。このため、孫権が怒り[[呂蒙]]に荊州を奪取させると、劉備も自ら兵を派遣し同盟関係が拗れかけた。しかし魯粛の尽力（単刀赴会）と、さらに[[曹操]]が[[漢中]]を平定したことにより、劉備から和解が申し込まれた。諸葛瑾は同盟関係確認のため、再び使者として益州に赴いた（「呉主伝」）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
諸葛瑾は孫権の性格を良くつかんでおり、戒める時も直接言う事はなく、諭すような様子で取り成し、孫権と不仲になった呉郡[[太守]]の[[朱治]]や、校尉の[[殷模]]との関係を上手く取り持った。また、孫権に疎まれた[[虞翻]]の弁護を懸命に行い、虞翻に感謝された。風格は堂々としていたが、思慮深い上に人当たりは良く、そのため周囲の評判は良かった。孫権は「瑾、瑾」と彼を特に重用していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[関羽]]討伐に参加して功績を挙げると、綏南将軍となり、宣城侯に封じられた。呂蒙の死後は[[南郡 (中国)|南郡]]太守となる。劉備が東征の軍を進めると、呉蜀講和のために劉備に書簡を寄せているが、劉備には受け入れられなかった。諸葛亮の兄ということで内通を疑われたが、[[陸遜]]はそのようなことはないとしつつも、孫権に判断を任せるため使者を送った。孫権は「瑾が私を裏切らないのは、私が瑾を裏切らないのと同じだ」と言い、先の諸葛亮との関係を述べた発言を引いて、再び絶大な信頼を示し、陸遜にもそのつもりでいるよういい含めたという。（『江表伝』）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[夷陵の戦い]]の直後に[[魏 (三国)|魏]]との関係が悪化し、[[曹真]]と[[夏侯尚]]の大軍に[[荊州区|江陵]]の[[朱然]]が包囲されると（[[合肥の戦い#222年から223年にかけての三方面での戦い|222年から223年にかけての三方面での戦い]]）、[[潘璋]]と江陵救援に駆けつけて（『呉録』・「潘璋伝」）、魏軍の浮橋に攻撃をかけて夏侯尚軍を苦しめ、[[長江]]の中州に軍を進めたが、夏侯尚の火計で損害を受けた（魏志「[[董昭]]伝」・「夏侯尚伝」）。孫権は、諸葛瑾の用兵が臨機応変を欠くものであったため、当初は不満を持ったが、後に浮橋に攻撃をかけて魏軍を撤退に追い込むと、兵力を失わなかったことを賞したという（『呉録』）。&lt;br /&gt;
この年（222年）、[[左将軍]]に昇進し[[公安県|公安]]の督となり、宛陵侯に封じられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[226年]]、孫権の[[江夏区|江夏]]攻撃に連動して、張覇とともに[[襄陽]]に侵攻したが、魏の[[司馬懿]]に敗れ[[張覇]]は斬られた（魏志「明帝紀」）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[229年]]、孫権が皇帝を号すると[[大将軍]]に任じられ、左都護・[[豫州]][[牧]]を兼任した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[234年]]には諸葛亮の[[北伐]]に呼応して、陸遜と共に江夏に進軍している（「呉主伝」）。呉蜀の同盟関係が復活した後は、弟とも連絡は取り合う関係になっていたようで、長らく子がいなかった弟のために、次子の諸葛喬を養子としている。諸葛亮に実子の[[諸葛瞻]]が誕生すると、234年の出陣の直前、弟から実子の成長を心待ちにする内容の手紙をもらっている（蜀志「諸葛亮伝」）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[236年]]、[[合肥]]攻略を期した孫権の命令で、陸遜とともに襄陽への侵攻を命じられた。作戦の途中で、連絡の使者が敵に捕らえられるという事件が勃発したため、諸葛瑾は動揺したが、陸遜が冷静に退却策を示したため諸葛瑾はそれに従い、損害を出さずに撤退することに成功した（「陸遜伝」）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[張承 (孫呉)|張承]]・[[歩隲|歩&amp;amp;#39469;]]・[[厳シュン|厳畯]]とは古くからの付き合いがあり親友であった。歩&amp;amp;#39469;・厳畯とは、[[江東]]に避難してきた時に同行して以来の親友であり（「歩&amp;amp;#39469;伝」が引く『呉書』）、また張承の後妻として娘を嫁がせている。頴川の周昭はこの4名と[[顧邵]]について、書物を著し立派な振る舞いをした人物として、賞賛したという（「歩&amp;amp;#39469;伝」）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
諸葛瑾の顔は面長で驢馬に似ていたため、ある時孫権は大勢の前で驢馬の額に、「諸葛子瑜」と書いてからかったという話が記載されている。この時諸葛瑾は黙していたが、幼少の息子であった恪がそこに「之驢」と書き加え、父親の面子を守った。孫権と一座の者は、その機転の良さに舌を巻き、孫権は本当にその驢馬を諸葛瑾に与えた。長子である諸葛恪が頭角を現すようになると、孫権はその才能を愛した。しかし諸葛瑾は息子のそうした才気煥発さが、やがては一族を滅ぼす原因になると懸念したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
孫権が老いて判断力を欠くようになると、[[呂壱]]のような[[酷吏]]が台頭するようになった。孫権は後に過ちに気づき陳謝し、重臣達に向けて国政に対する意見を求めた。諸葛瑾は自分が武官であることを理由に、一時は孫権の要請を黙殺したが、孫権が詔勅により自分の誤まりを正すよう必死に要請したため、諸葛瑾はすぐさま具体的に回答を示した（「呉主伝」）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[239年]]に歩&amp;amp;#39469;を中心に、[[周瑜]]の次子で[[229年]]に失脚していた周胤の復帰を求める運動が起きると、諸葛瑾もその運動の中心となって孫権に嘆願を続けた。[[全ソウ|全琮]]や朱然の協力も得て、孫権の気持ちを動かすことも出来たが、ちょうど周胤が没したため、周家の復権は果たせなかった（「周瑜伝」）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
241年の夏4月、孫権が魏に大規模な攻勢をかけた時（芍陂の役）、諸葛瑾も荊州方面に軍を展開させ、柤中を占領したが、全琮や朱然の率いた主力の軍が捗々しい戦果を挙げることができなかったため、一斉に撤兵した（「呉主伝」）。この直後の閏6月に、諸葛瑾は死去した（「呉主伝」）。68歳であった。白木の棺に普段着のままで埋葬し、葬儀は質素にするよう遺言したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
諸葛恪は既に功績を上げ爵位を得ていたので、諸葛瑾の爵位は諸葛融が継承し、公安の督の任務も引き継いだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
諸葛瑾が大将軍となった時、既に諸葛恪と諸葛融は兵を率いる立場に成長しており、蜀には弟の諸葛亮、魏には一族の[[諸葛誕]]がそれぞれ名声高く重職を占めていたため、天下の評判を博したという。そのような中でも、諸葛瑾の才能は弟に及ばなかったものの、徳に随う振る舞いをしたと評され、妻の死去した後も再婚することはなく、寵愛する妾はいたものの、その子を取り立てようとは決してしなかったという（『呉書』）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
諸葛恪が驕慢になり[[253年]]に誅殺されると、諸葛融も公安で追討軍に包囲され自害し、諸葛瑾の子孫は悉く滅ぼされた。諸葛喬の子の諸葛攀だけが蜀にいたため生存し、その後呉に呼び戻されて、家の再興が許されたという。諸葛攀の子の諸葛顕は蜀に残り、[[蜀漢の滅亡|蜀の滅亡]]後に[[諸葛京]]らとともに河東へ移住している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==家系図==&lt;br /&gt;
 ●&lt;br /&gt;
 ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓&lt;br /&gt;
 [[諸葛珪]]　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　                          [[諸葛玄]]&lt;br /&gt;
 ┣━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━┓                   &lt;br /&gt;
 [[諸葛瑾]]　　　　　　　　　     [[諸葛亮]]                       [[諸葛均]]       　　        [[諸葛誕]]&lt;br /&gt;
 ┣━━━┳━━━┓　　　  ┣━━━━━━━━━━━┓                              ┃&lt;br /&gt;
 [[諸葛恪]]　[[諸葛喬]]　[[諸葛融]]　  [[諸葛瞻]]　　　　　　　      　[[諸葛懐]]                         [[諸葛セイ|諸葛靚]]&lt;br /&gt;
 　　　   ┃　　　　　　      ┣━━━┳━━━┓                                    ┃&lt;br /&gt;
 　　　   [[諸葛攀]]　　　　　    [[諸葛尚]]　[[諸葛京]]　[[諸葛質]]                               　[[諸葛恢]]&lt;br /&gt;
 　　　　  ┃&lt;br /&gt;
 　　　　  [[諸葛顕]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しよかつ きん}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:琅邪諸葛氏|きん]]&lt;br /&gt;
[[Category:三国志の登場人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:呉の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:174年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:241年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>240F:63:D61B:1:B8B9:EFF8:F5C2:2607</name></author>
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		<title>曹芳</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;240F:63:D61B:1:B8B9:EFF8:F5C2:2607: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{基礎情報 中国君主&lt;br /&gt;
|名       =斉王 曹芳&lt;br /&gt;
|代数     =第3代&lt;br /&gt;
|呼称     =皇帝&lt;br /&gt;
|画像     =&lt;br /&gt;
|説明     =&lt;br /&gt;
|王朝     =魏&lt;br /&gt;
|在位期間 =[[239年]] - [[254年]]&lt;br /&gt;
|都城     =&lt;br /&gt;
|諱       =曹芳&lt;br /&gt;
|字       =蘭卿&lt;br /&gt;
|諡号     =厲公（西晋の邵陵公として）&lt;br /&gt;
|廟号     =&lt;br /&gt;
|生年     =[[太和 (魏)|太和]]6年（[[232年]]）&lt;br /&gt;
|没年     =[[泰始 (晋)|泰始]]10年（[[274年]]）&lt;br /&gt;
|父       =[[曹楷]]?&lt;br /&gt;
|母       =&lt;br /&gt;
|皇后     =甄皇后&amp;lt;br&amp;gt;張皇后&amp;lt;br&amp;gt;王皇后&lt;br /&gt;
|陵墓     =&lt;br /&gt;
|年号     =[[正始 (魏)|正始]] : [[240年]] - [[249年]]&amp;lt;/br&amp;gt;[[嘉平 (魏)|嘉平]] : [[249年]] - [[254年]]&lt;br /&gt;
|注釈     =&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;曹芳&#039;&#039;&#039;（そうほう）は、[[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[魏 (三国)|魏]]の第3代[[皇帝]]。廃位されたため皇帝としての[[諡]]がなく、&#039;&#039;&#039;邵陵厲公&#039;&#039;&#039;と諡されている。一般的には即位前および廃位後の地位&#039;&#039;&#039;斉王&#039;&#039;&#039;で呼ばれることが多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
先代の[[曹叡|明帝]]の子が相次いで夭折したために、親族の秦王[[曹詢|曹詢]]と曹芳の兄弟を養子に迎えて、[[皇太子]]候補として養育していた。だが、その経歴ははっきりと判明していない&amp;lt;ref&amp;gt;『[[三国志]]』[[魏書]]斉王紀では、曹芳の実父は記されず、由来を知る者はない、とされている。ただし、[[裴松之]]注が引用する[[孫盛]]の『魏氏春秋』には、済南王[[曹楷]]（武帝[[曹操]]の孫で、[[曹彰]]の嫡子）の子という説が記されている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[青龍 (魏)|青龍]]3年（[[235年]]）、斉王に封建された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[景初]]2年（[[238年]]）に、[[邪馬台国]]女王[[卑弥呼]]の使者が明帝への拝謁を求めて[[洛陽]]に到着している。{{要出典範囲|date=2013年3月|この遣使の年は景初3年であるという異説もあり、その場合には邪馬台国の使者が拝謁したのは曹芳だということになる}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同3年（[[239年]]）正月[[朔]]（1日）、明帝が危篤となり皇太子に立てられ、その日の内に明帝の崩御に伴い皇帝に即位する。幼年（8歳）であるために、[[曹爽]]・[[司馬懿]]が補佐につき政務を取り仕切った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[正始 (魏)|正始]]4年（[[243年]]）、元服。この年に倭王が朝貢している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同5年（[[244年]]）、曹爽が[[蜀漢]]討伐を行うが失敗に終わった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同7年（[[246年]]）、[[カン丘倹|毌丘倹]]・王頎が[[高句麗]]を討伐する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同8年（[[247年]]）、[[太守]]王頎到官。この頃に半島の直轄化が完了した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[嘉平 (魏)|嘉平]]元年（[[249年]]）、司馬懿がクーデターを起こして曹爽一族、一党を追放・誅殺したため、これ以降魏は事実上司馬一族の支配するところとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同3年（[[251年]]）、[[王凌]]が[[曹彪]]を擁してクーデターを図るが露顕。王凌は自殺、曹彪も死罪となる。司馬懿が死去し、[[司馬師]]が実権を握った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同6年（[[254年]]）、[[李豊]]・[[夏侯玄]]・[[張緝]]らが司馬師を追放しようと計画するが失敗し、関係者は全て誅殺された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この事件により司馬師は皇帝の廃位を計画し、既に成人しているのに政務を看ずに、色欲に耽っているという理由で同年廃位し、斉王に引き戻した。時に23歳であった。廃位後洛陽を去る時、数十名の朝臣のみが見送った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[泰始 (晋)|泰始]]元年（[[265年]]）、[[西晋|晋]]が成立すると、邵陵公に降格された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同10年（[[274年]]）に43歳で死去し、厲公と[[諡]]された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 血縁 ==&lt;br /&gt;
=== 后妃 ===&lt;br /&gt;
*甄皇后&lt;br /&gt;
*張皇后&lt;br /&gt;
*王皇后&lt;br /&gt;
*邢氏（のちに[[孫壱]]の妻）&lt;br /&gt;
=== 子 ===&lt;br /&gt;
不詳&lt;br /&gt;
=== 兄 ===&lt;br /&gt;
*[[曹詢]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{魏の皇帝|第3代|239年 - 254年}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:そう ほう}}&lt;br /&gt;
[[Category:曹氏|ほう]]&lt;br /&gt;
[[Category:三国時代の皇帝]]&lt;br /&gt;
[[Category:中国の幼君]]&lt;br /&gt;
[[Category:232年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:274年没]]&lt;/div&gt;</summary>
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		<title>中嶋悟</title>
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		<updated>2014-07-20T06:13:15Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;240F:63:D61B:1:B8B9:EFF8:F5C2:2607: /* 日本人初のフルタイムF1ドライバー */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{redirect|中島悟|テレビドラマの演出家|中島悟 (演出家)}} &lt;br /&gt;
{{F1ドライバー|&lt;br /&gt;
 氏名 = 中嶋 悟 |&lt;br /&gt;
 Image = Satoru Nakajima 2008 Motorsport Japan.jpg|&lt;br /&gt;
 image-size = 200px|&lt;br /&gt;
 説明 = |&lt;br /&gt;
 フルネーム = |&lt;br /&gt;
 愛称 = |&lt;br /&gt;
 国籍 = {{JPN}} |&lt;br /&gt;
 出身地 = [[愛知県]][[岡崎市]]|&lt;br /&gt;
 生年月日= {{生年月日と年齢|1953|2|23}}|&lt;br /&gt;
 年 = 1987 - 1991 |&lt;br /&gt;
 所属チーム = &#039;87-&#039;89 [[チーム・ロータス|ロータス]]&amp;lt;br&amp;gt;&#039;90-&#039;91 [[ティレル]] |&lt;br /&gt;
 出走回数 = 74 |&lt;br /&gt;
 タイトル = 0 |&lt;br /&gt;
 優勝回数 = 0 |&lt;br /&gt;
 通算獲得ポイント = 16 |&lt;br /&gt;
 表彰台回数 = 0 |&lt;br /&gt;
 ポールポジション = 0 |&lt;br /&gt;
 ファステストラップ = 1 |&lt;br /&gt;
 初戦 = {{F1|1987}}[[1987年ブラジルグランプリ|ブラジルGP]] |&lt;br /&gt;
 最終戦 = {{F1|1991}}[[1991年オーストラリアグランプリ|オーストラリアGP]] |&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;中嶋 悟&#039;&#039;&#039;（なかじま さとる、 [[1953年]][[2月23日]] - ）は、元[[レーシングドライバー]]で、有限会社[[中嶋企画]]代表取締役社長。[[愛知県]][[岡崎市]]出身。血液型B型。身長165cm、体重60㎏。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本人初の[[フォーミュラ1|F1]]フルタイムドライバーで、現在は株式会社[[日本レースプロモーション]]（JRP）の取締役会長も務める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
=== 生い立ち ===&lt;br /&gt;
愛知県岡崎市に、4人兄姉の末っ子として生まれる。生家は約300年続く農家。父親は、航空母艦「[[雲鷹 (空母)|雲鷹（うんよう）]]」で艦載機の整備兵をしていた軍人。兄たちが戦死したので農業を継いだという&amp;lt;ref&amp;gt;[http://astand.asahi.com/webshinsho/asahi/asahishimbun/product/2012091400003.html 中嶋悟のF1風雲録〔2〕　夢舞台・人生はレースとともに(朝日新聞) - WEB新書 - 朝日新聞社]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[岡崎市立梅園小学校]]、[[岡崎市立葵中学校]]を経て、[[名古屋市]]にある[[名城大学附属高等学校]]に進んだ&amp;lt;ref&amp;gt;[[中日新聞]] 2014年4月21日、朝刊、三河版、12面 「こころは三河 私の古里」。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;『[[リバーシブル (雑誌)|リバーシブル]]』（株式会社ペーパードール）1984年11月号、56-69頁 「THE INTERVIEW レーサー中嶋悟」。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== レースデビュー ===&lt;br /&gt;
名城大学附属高等学校在学中に[[レーシングカート]]を始め、数戦のレースに参加。高校卒業後、すぐに運転免許を取得し、[[アルバイト]]先だった[[ガソリンスタンド]]に就職。後に実兄が開業したガソリンスタンドに移り、そこで資金を稼ぎながら本格的なレース活動を開始する。[[1973年]]の[[鈴鹿サーキット|鈴鹿]]シルバーカップ第1戦でレースデビュー（決勝3位）。[[1975年]]には[[FL500]]に参戦してシリーズチャンピオンを獲得。ただこの頃は慢性的な資金不足にあえいでおり、[[1976年]]にはレース活動を辞めようかとも考えていたという。ところが同年夏、鈴鹿サーキットで行われた[[富士グランチャンピオンレース|GCレース]]に参戦するためのドライバーを探していた[[松浦賢]]の目に偶然留まったことが契機となり、当時「最強チーム」との呼び声の高かった[[ヒーローズレーシング]]への加入が実現する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===ステップアップ===&lt;br /&gt;
[[1977年]]にはヒーローズレーシングより[[全日本F2000選手権|全日本F2000]]/鈴鹿F2000と[[FJ1300]]に参戦。特にFJ1300ではシリーズ全7戦で[[ポールポジション]]、全周回トップという圧倒的な強さでシリーズチャンピオンを獲得する。[[1978年]]には[[全日本F2選手権|全日本F2]]に参戦しつつ、[[イギリス・フォーミュラ3選手権|イギリスF3]]にスポット参戦。鈴鹿サーキット限定で争われる[[全日本F2選手権|鈴鹿F2選手権]]でチャンピオンを獲得した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお1978年はイギリスF3に参戦する関係で、シーズン途中に[[モータースポーツライセンス]]を[[日本自動車連盟]]（JAF）発行のものからイギリスの王立自動車クラブ（RAC）発行のものに切り替えている。当時の全日本F2選手権では「外国ライセンスのドライバーはポイント対象外」との規定が設けられており、このため中嶋の後半2戦（第5戦・第7戦）の結果はポイント対象外となってしまった。この2戦で中嶋は共に2位に入っており、通常通りのポイントを獲得していたとすると同年の全日本F2でもチャンピオンを獲得していた計算になるため、一部のメディアでは「幻のチャンピオン」と評されることがある&amp;lt;ref&amp;gt;『[[Racing On]]』（[[三栄書房]]）2009年9月号・p.39&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 国内トップカテゴリー ===&lt;br /&gt;
[[1979年]]には[[生沢徹]]が結成した[[i&amp;amp;iレーシング]]に移籍。ただしヒーローズレーシングから半ば強引に引き抜かれる形でチームを移籍したため、ヒーローズ側の圧力により当時の全日本F2で最強と呼ばれた[[ケン・マツウラレーシングサービス]] チューンの[[BMW]]エンジンの供給を受けられず、同年と1980年の全日本F2では成績が低迷する。一方で1979年には[[富士グランチャンピオンレース|富士GCシリーズ]]でチャンピオンを獲得した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1981年]]からは生沢の伝で、前年よりF2に復帰した[[本田技研工業|ホンダ]]のワークスエンジンの供給を受けられるようになり、同年と[[1982年]]には全日本F2選手権・鈴鹿F2選手権でシリーズチャンピオンを獲得。1982年には[[フォーミュラ2|ヨーロッパF2選手権]]にも参戦し、緒戦で2位表彰台を獲得するが、資金不足に悩まされ成績は下降した。そのため生沢徹と確執が生まれ[[1983年]]にi&amp;amp;iレーシングから離脱。自らの会社&#039;&#039;&#039;[[中嶋企画]]&#039;&#039;&#039;を設立するため、破格の契約金を提示した[[ハラダレーシング]]に移籍する。i&amp;amp;iでのドライビングを高く評価したホンダから引き続きワークスエンジンの供給を受けたが、チーム体制が整っておらず同年はチャンピオンを逃した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1984年]]にヒーローズレーシングに復帰。そのときに「車体はヒーローズが提供し、資金は中嶋企画がまかなう」という当時としては例のない契約をした。以後[[1986年]]まで全日本F2選手権で3連覇を達成する&amp;lt;ref&amp;gt;1984年・1985年については鈴鹿F2とのダブルタイトル&amp;lt;/ref&amp;gt;など、BMW勢より優位なホンダエンジン、中嶋のテクニック、[[ブリヂストン]]タイヤのパッケージは当時のF2には敵がいない状態であった。ホンダがエンジン供給しない富士GCシリーズではケン・マツウラレーシングサービスチューンのBMWエンジンの供給を受けられず劣勢であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===F1テストドライバー===&lt;br /&gt;
F1マシンの初ドライブは、1982年に全日本F2の一戦である「JPSトロフィー」で優勝した副賞として、当時[[JPS (タバコ)|JPS]]がメインスポンサーだった[[チーム・ロータス|ロータス]]のテストを行ったのが最初。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後前述のホンダとの関係から[[1984年]]からは[[ホンダF1]]のテストドライバーを務めるようになり、当時ホンダがエンジンを供給していた[[ウィリアムズF1|ウィリアムズ]]のマシンをドライブするようになった。後のF1デビュー後にこの際の経験が生かされることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 国際選手権 ===&lt;br /&gt;
[[1985年]]と1986年には[[トムス]]・[[トヨタ自動車#モータースポーツ|トヨタ]]に乗り[[ル・マン24時間レース]]や[[スポーツカー世界選手権|世界耐久選手権]]（WEC）にも参戦。特に1986年の「[[WEC-JAPAN|WEC in Japan]]」（[[富士スピードウェイ]]）では[[トムス・86C/トヨタ]]を駆り予選トップタイムをマークしたが、[[Tカー]]でのタイムのためにタイムは無効とされ、ポールポジションを獲得することはできなかった。決勝は9位。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1986年にはホンダのサポートを受け、全日本F2選手権への参戦の合間を縫って[[フォーミュラ3000|国際F3000]]にもフルシーズン参戦し、国内選手権との同時参戦という過密スケジュールでの参戦である上、慣れないコースや時差に戸惑いながらも堅実な走りを見せ、最高位4位（1回）を含む数回の入賞という結果を残した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== メーカーとの関係 ===&lt;br /&gt;
ホンダとの強い結びつきがイメージされる中嶋だが、[[ワークス]]契約はしておらず、ホンダ一辺倒だったわけではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
デビュー当初は、[[マツダ]]系[[自動車ディーラー|ディーラー]]の[[碧南マツダ]]の支援を受け、[[マツダ・ファミリア|ファミリア]]や[[マツダ・サバンナ|サバンナRX-3]]などで多くのレースに参戦していた。また、全日本F2でホンダのワークスエンジンの供給を受け参戦するのと並行して、ロータスから技術供給、および資本提携していたトヨタがF1参戦の可能性があったこともあり、1980年の[[フォーミュラ・パシフィック]]（FP）やその後のル・マン24時間レース・WEC-JAPANなどでは、トヨタ系のマシンを数多くドライブしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方で[[日産自動車のモータースポーツ|日産]]との関係は薄く、1979年のFPで[[星野一義]]の代役として数戦に出場した程度である。一説にはこのFP参戦時に[[長谷見昌弘]]と[[チームオーダー]]の件で対立したことが中嶋から日産を遠ざけた一因といわれている。しかし、中嶋本人は『[[ホリデーオート]]』誌上で[[日産・フェアレディZ|フェアレディZ]]を思い出に残る車にあげている&amp;lt;ref&amp;gt;最初の愛車がフェアレディZだった。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
※参考資料：『F1走る魂』（[[海老沢泰久]]著、[[文藝春秋]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== F1時代 ==&lt;br /&gt;
=== 日本人初のフルタイムF1ドライバー ===&lt;br /&gt;
34歳にして[[タイ王国|タイ]]の[[プリンス・ビラ]]に次ぐ[[アジア]]人として2人目、&#039;&#039;&#039;日本人初のフルタイムF1ドライバー&#039;&#039;&#039;になる。1987年の開幕戦（ブラジルGP）で[[チーム・ロータス|ロータス]]・ホンダよりデビューを果たし、1991年で引退するまでの5年間、ホンダと初年度のチームメイトであった[[アイルトン・セナ]]と共に、当時[[バブル景気]]で沸いていた日本にF1ブームを巻き起こした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
F1での生涯成績は、出走回数80回（決勝出走回数74回）、予選最高位6位（2回/[[1988年メキシコグランプリ|1988年メキシコGP]]・[[1988年日本グランプリ (4輪)|1988年日本GP]]）、決勝最高位4位（2回/[[1987年イギリスグランプリ|1987年イギリスGP]]・[[1989年オーストラリアグランプリ|1989年オーストラリアGP]]）、ファステストラップ1回（1989年オーストラリアGP）、総獲得ポイント16点であった。&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 1987年 ===&lt;br /&gt;
[[File:Lotus 99T right Honda Collection Hall.jpg|thumb|240px|right|ロータス99T・ホンダ]]&lt;br /&gt;
1984年からホンダエンジンを搭載したF1マシンのテストドライバーをつとめた後に、この年の開幕戦であるブラジルGPにロータス・ホンダよりF1デビューを果たし、7位で完走した。この年は慣れないコースの上、99Tの信頼性が低い[[アクティブサスペンション#F1のアクティブサスペンション|アクティブサスペンション]]に苦しめられ予選で6-7列目の中段になる場面が多く見られたほか、マシントラブルに苦しめられたものの、4位1回、5位1回、6位2回の合計7ポイントを獲得し、グレーデッド・ドライバー（Graded Driver）の仲間入りを果たした。なおこの年のチームメイトは、後のワールドチャンピオン、アイルトン・セナであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
F1では若いカーナンバーがチームのエース・ドライバーに与えられることが多いが、新人の中嶋がカーナンバー11、すでにF1での実績のあるセナがカーナンバー12であった（これは単にセナが1985年のロータス加入時に[[エリオ・デ・アンジェリス]]のセカンドドライバーとして12番をつけた名残とも言える）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4位に入賞したイギリスGPでは、ホンダエンジン車による1-4位独占の一角を占めたほか、地元の[[1987年日本グランプリ (4輪)|日本GP]]でも、ベネトンのブーツェンやファビ、ブラバムのパトレーゼらと終始争い「中嶋返し」や「大外刈り&amp;lt;ref&amp;gt;柔道とは無関係であるが、アウト側（外）からオーバーテイク（かる = 駆る、狩る、刈る）という意味で柔道で同名の技「[[大外刈]]」と語呂合わせで誕生した言葉。主に鈴鹿サーキット第1コーナーでのアウト側からのオーバーテイクに対して表現されるが、近年では他のコーナーでもアウト側からのオーバーテイクのことを「大外刈り」と表現する傾向がある。&amp;lt;/ref&amp;gt;」と呼ばれる鈴鹿サーキット1コーナーでのアウト側からの追い抜きを2回も決めて6位に入賞した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マシンに関しては、期待していたほどの成果を挙げることができなかったため、この年限りで[[アクティブサスペンション#F1のアクティブサスペンション|アクティブサスペンション]]の実戦使用を中止した。だが長い期間[[アクティブサスペンション#F1のアクティブサスペンション|アクティブサスペンション]]開発に注力してきたこともあり、パッシブサスペンションや空力、トランスミッション等の開発が立ち遅れ、翌年以降の低迷期へと繋がっていくこととなる。中嶋のマシンにのみ、シーズンを通じて車載カメラがテスト的に搭載された&amp;lt;ref&amp;gt;なお、サンマリノグランプリは、セナのスペアカーに乗り換えたため搭載されていない&amp;lt;/ref&amp;gt;が、このことがマシンのバランスを崩す結果となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* マシン：[[ロータス 99T]]・ホンダ&lt;br /&gt;
* チームメイト：アイルトン・セナ&lt;br /&gt;
* 獲得ポイント：7&lt;br /&gt;
* 最高位：4位（イギリスGP）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 1988年 ===&lt;br /&gt;
[[Image:Lotus 100T right Honda Collection Hall.jpg|thumb|240px|right|ロータス100T・ホンダ]]&lt;br /&gt;
初年度と同じくロータス・ホンダをドライブすることになったが、チームメイトは前年度のワールドチャンピオンでウィリアムズから移籍してきた[[ネルソン・ピケ]]に変わった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この年はコースに慣れたこともあり、予選でピケに並ぶタイムを度々たたき出したほか、ターボエンジンが圧倒的な優位性を持つ[[1988年メキシコグランプリ|メキシコGP]]や、コースを熟知していた[[1988年日本グランプリ (4輪)|日本GP]]における予選6位など、たびたび予選トップ10に食い込む活躍を見せた。市街地コースで開催されたモナコGPとアメリカGPでは予選落ちを喫したが、決勝レースでもトップ10内フィニッシュを繰り返し、レース中にピケを上回ることや[[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]]や[[ベネトン・フォーミュラ|ベネトン]]と好バトルを繰り広げることもあった。しかしマシントラブルが原因のリタイアも多く、開幕戦の[[1988年ブラジルグランプリ|ブラジルGP]]で6位に入賞した以降は入賞することなくシーズンを終えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時のロータスは中嶋をセカンドドライバーと明確に割り切っていたため、チームの中嶋とピケに対する待遇差は歴然としていた。なお、ベルギーGP序盤で6位走行のピケに対し、中嶋はピケより上位の5位を走っていたものの、ほどなくしてピケに抜かれるという場面があったが、この順位の入れ替えは[[チームオーダー]]によるものではなく、シフトミスの結果であったと中嶋は自らのミスを認めている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本GPでは、開幕前日に母を亡くすという最悪の精神状態であったものの、自身の予選最高位である6位&amp;lt;ref&amp;gt;5位のピケと同タイムだが、先にタイムを出したピケが上位となる&amp;lt;/ref&amp;gt;を獲得。しかし[[ポールポジション]]のセナとともにスタートでエンスト、大きく出遅れたものの鬼神の追い上げで入賞まで後一歩の7位まで挽回してみせた&amp;lt;ref&amp;gt;鈴鹿は下り坂スタートのためアクセルコントロールが難しく、[[フォーミュラ2|F2]]時代にも何度もミスしたことがある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
シーズン序盤に来季のロータスに対するホンダエンジンの供給停止が決定されていたため、この年限りでの中嶋のロータス離脱は決定的に見えた。実際、[[アロウズ]]と契約寸前まで行っていたが、スポンサーの問題で最終合意には至らなかった。そしてロータスは、マシン開発に長けているだけでなくチームスタッフとの関係も良好な上、ホンダとの強力なコネクション、[[セイコーエプソン|EPSON]]や[[PIAA]]といったスポンサーを持つ中嶋との1年間の契約延長を行った。契約延長が発表された最終戦のオーストラリアGPで中嶋は初めてTカーを与えられたが、ロータスが中嶋に対してTカーを与えたのはこのレースが最初で最後であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* マシン：[[ロータス 100T|ロータス100T・ホンダ]]&lt;br /&gt;
* チームメイト：ネルソン・ピケ&lt;br /&gt;
* 獲得ポイント：1&lt;br /&gt;
* 最高位：6位（ブラジルGP）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 1989年 ===&lt;br /&gt;
[[Image:Satoru Nakajima demonstrating Lotus 101 2011 Japan.jpg|thumb|240px|right|[[ロータス 101]]・ジャッドを駆る中嶋悟。&amp;lt;br /&amp;gt;（※：[[2011年日本グランプリ|2011年日本GP]]のイベント走行にて。）]]&lt;br /&gt;
この年も引き続きロータスでドライブすることになったが、ホンダからのエンジン供給が止まったため、非力なカスタマー仕様の[[ジャッド]]にエンジンが変わり、ワークスエンジンを持つトップ4チームに比べて明らかにマシンのポテンシャルは劣っていた。またシーズン中にティックフォード・チューンの5バルブ仕様を投入する予定だったが、トラブルが頻発したため、実戦では[[1989年フランスグランプリ|フランスGP]]で投入されただけに留まるなど、チームの混乱が続いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
チームメイトのピケはシーズン中盤に連続入賞を果たすなど戦闘力に劣るマシンながら元ワールドチャンピオンの意地を見せ、中嶋もイギリスGP、ドイツGPやポルトガルGPなどで好走を見せたこともあったが、シーズン全般的に予選、決勝ともに中位以降に沈む事が多かった。ベルギーGPでは予選初日に上位に顔を覗かせたが、結局ピケと共に予選落ちを喫する結果となった。エントリーしたマシンが全て予選不通過となったのは、長い歴史を誇るロータスのチーム史上初の屈辱であった。なお、この年の中嶋は既にモナコGP、カナダGPでも予選落ちを経験しており、これがシーズン3度目の予選不通過であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、最終戦の[[1989年オーストラリアグランプリ|オーストラリアGP]]では激しい雨が降る中、好走を見せた。後方23位からスタートし、1周目にスピンし最下位まで落ちたものの、序盤から次々順位を上げ、レース終盤には3位を走行する[[リカルド・パトレーゼ]]の[[ウィリアムズF1|ウィリアムズ]]・[[ルノーF1|ルノー]]を追い回した。スリップストリームに入るとエンジンが（前のパトレーゼのマシンが巻き上げた）水煙を吸い込みミスファイアを起こすという症状が何度も起きたたため、結局パトレーゼを抜くまでには至らなかった上に、時間制限により規定周回数前にレースが終わってしまったが、[[ファステストラップ]]を記録し、自己最高位タイの4位に入賞した。ファステストラップは[[2012年]][[2012年中国グランプリ|中国GP]]で[[小林可夢偉]]が記録するまでの長い間、F1において唯一[[アジア人]]ドライバーが記録したファステストラップだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{see also|#「雨のナカジマ」}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* マシン：[[ロータス 101]]・ジャッド&lt;br /&gt;
* チームメイト：ネルソン・ピケ&lt;br /&gt;
* 獲得ポイント：3&lt;br /&gt;
* 最高位：4位（オーストラリアGP）&lt;br /&gt;
* ファステストラップ：1回（オーストラリアGP）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 1990年 ===&lt;br /&gt;
前年のシーズン中より、[[アロウズ]]や[[ティレル]]、[[オニクス]]など複数の中堅チームと移籍交渉を行い、最終的にはティレルに移籍することになった。非力な[[フォード・モーター|フォード]]([[コスワース]][[DFV#DFR|DFR]])エンジンを使用するため、前年に続き苦戦を強いられることが予想されたものの、開幕戦の[[アメリカグランプリ|アメリカGP]]で6位入賞を果たしたほか、日本GPでの6位入賞を含む3回の入賞を果たすなどまずまずの成績を残した。しかし、シーズン中盤に6連続リタイアを喫するなど、たび重なるマシントラブルに見舞われたこともあり、シーズンを通して完走がわずか5回という完走率の低いシーズンとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、チームメイトの[[ジャン・アレジ]]も2位表彰台2回を含む3回の入賞を果たすなど、マシンのバランスのよさを生かした結果を出したが、中嶋同様に完走率の低いシーズンを送った。なお、この年の第3戦サンマリノGPでデビューしたティレル019は、初めて本格的なハイノーズを導入した画期的なマシンであったが、中嶋本人は前年型の[[ティレル・018|ティレル018]]のハンドリング特性をより好んでいたという（本人によると「確かに018よりタイムは出るんだけど、なんか乗りにくいんだよねぇ」）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
チームオーナーの[[ケン・ティレル]]は、ロングランでのタイヤテストや決勝用タイヤの皮剥きのための走行など、地味ながらもチームに不可欠な作業を黙々とこなす点&amp;lt;ref&amp;gt;アレジはこのような作業を非常に嫌った&amp;lt;/ref&amp;gt;を始め、開発能力や確かなセッティング能力などを理由に挙げ、中嶋に対して高い評価を与えていた。&amp;lt;ref&amp;gt;「ぜんぶF1から教わった」（中嶋悟、マガジンハウス、1992年）pp.162 &amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* マシン：ティレル018・フォード,019・フォード&lt;br /&gt;
* チームメイト：ジャン・アレジ&lt;br /&gt;
* 獲得ポイント：3&lt;br /&gt;
* 最高位：6位（アメリカGP、[[イタリアグランプリ|イタリアGP]]、日本GP）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 1991年 ===&lt;br /&gt;
[[File:Tyrrell 020 front-left 2012 Japan.jpg|right|thumb|240px|ティレル020・ホンダ]]&lt;br /&gt;
昨年に続きティレルでの参戦となった。当時、高い戦闘力を持ち、かつ前年[[マクラーレン]]にダブル・タイトルをもたらしたホンダV10エンジンを搭載することが決まっていたため、前年以上の好成績を収めることが期待されたが、ハイパワーエンジンを支えるタイヤが、この時、優勢だった[[グッドイヤー]]ではなく[[ピレリ]]だったことから、車のパフォーマンスを十分に発揮できるのか不安視する見方もあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
シーズンが開けると、フォードV8（[[フォード・コスワース・DFVエンジン|DFR]]）エンジンに比べ重くて大きいエンジンを積んだことからマシンバランスが悪化し、それを補うために導入された軽量トランスミッションが信頼性不足となり、トラブルが頻発した。それでもサンマリノGPではリタイヤするまで4位を走行するなど、シーズン序盤こそ期待を抱かせる走りも見せたが、シーズンが進むにつれてティレル020の相対的な戦闘力は低下し、結局シーズンを通しての入賞は開幕戦のアメリカGPの5位&amp;lt;ref&amp;gt;4位はチームメイトのモデナ、6位は[[ラルース (F1チーム)|ラルース]]の[[鈴木亜久里]]&amp;lt;/ref&amp;gt;のみという結果に終わった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この年のティレル失速の原因として、ホンダV10エンジンによるマシンバランス悪化という根本原因のほか、[[ピレリ]]タイヤの開発主導権を軽いV8の[[フォード・コスワース・HBエンジン|HBエンジン]]搭載の[[ベネトン・フォーミュラ|ベネトン]]に握られてしまい、V10エンジンのパワーにマッチしたタイヤを手に入れられなかったこと&amp;lt;ref&amp;gt;その為レース後半でタイヤがたれると瞬く間に中嶋、モデナともに順位を落とすシーンがよくみられた&amp;lt;/ref&amp;gt;と、シーズン序盤にデザイナーである[[ハーベイ・ポスルスウェイト]]がチームを離脱したため、マシン熟成作業が遅々として進まなかったことも挙げられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、中嶋自身も体力と視力の衰えに悩んでおり、第9戦の[[ドイツグランプリ|ドイツGP]]にて、このシーズンを最後に引退することを発表。なお、引退発表直後に行われた[[ドイツグランプリ|ドイツGP]]予選では、このシーズンで唯一チームメイトの[[ステファノ・モデナ|モデナ]]より速い予選通過タイムを記録している。その年の日本GPが行われた[[鈴鹿サーキット]]はまさに中嶋一色に染まり、[[日本の国旗|日の丸]]とともに「ありがとう中嶋」、「やらまいか中嶋」などの横断幕がサーキットを埋め、最後の鈴鹿で念願の表彰台が期待されたものの、スタートに失敗し7位まで追い上げたもののステアリングのトラブルにより車が曲がらず、S字でクラッシュしてリタイアという結果に終わった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
引退レースとなった最終戦の[[1991年オーストラリアグランプリ|オーストラリアGP]]は、くしくも4位入賞・ファステストラップを記録した2年前と同じ、雨のアデレード市街地サーキットとなったが、レース序盤にリアをスライドさせてマシンがコンクリートウォールにヒット。26台中最初のリタイヤとなり、F1レーサーとしてのキャリアを終えた&amp;lt;ref&amp;gt;91年F1総集編の解説では「コース上があまりにも危険だったため、ベテランの判断としてエンジンを意図的に切ってリタイアした」ととれる語りが流れている。事実、中嶋のマシンはスピン後ウォールに当たったが、右リアウィング翼端板が外れただけで、走行自体にダメージが残るようなクラッシュではなかった&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* マシン：[[ティレル・020|ティレル020・ホンダ]]&lt;br /&gt;
* チームメイト：[[ステファノ・モデナ]]&lt;br /&gt;
* 獲得ポイント：2&lt;br /&gt;
* 最高位：5位（アメリカGP）&lt;br /&gt;
*第2回（1991年度）スポーツ功労者文部大臣表彰受賞&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ドライビング ==&lt;br /&gt;
=== 「雨のナカジマ」 ===&lt;br /&gt;
日本国内の各選手権で活躍していたころから雨のレースを得意とし、ファンからは「&#039;&#039;&#039;雨のナカジマ&#039;&#039;&#039;」と呼ばれていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロータスでの最後のレースとなった、1989年の最終戦[[1989年オーストラリアグランプリ|オーストラリアGP]]（[[アデレード市街地コース]]）では、予選に失敗し23番グリッドからのスタートとなったものの、大雨に見舞われチャンピオン争いを行うセナや1987年のワールドチャンピオンのピケなど多くの選手がクラッシュ。最終戦とあって年間順位がほぼ確定していることもあり、セナとチャンピオンを争っていたものの、ほぼチャンピオンを確定していたプロストは危険なずぶ濡れのコースで無理に走らず棄権するなど&amp;lt;ref&amp;gt;プロスト、ピケ、セナ、マンセルとワールドチャンピオン達はすべて完走できず。&amp;lt;/ref&amp;gt;最悪のコンディションの中、戦闘力の劣るロータス101・ジャッドで上位のマシンを次々と抜き去る見事な走りを見せ、日本人ドライバーとして初の、そしてチーム・ロータスとしては最後のファステストラップを記録した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
残り10周を切った時点で、3番手を走るウィリアムズ・ルノーのリカルド・パトレーゼの直後に迫り、日本人F1ドライバー初の表彰台を期待されたが、エンジンの電気系統のトラブルで抜くことができず&amp;lt;ref&amp;gt;前述の通り、水煙の影響でエンジンがミスファイアを起こしていた&amp;lt;/ref&amp;gt;、また2時間ルール規定にも阻まれ、結局4位に終わっている。レース後、中嶋は担当エンジニアの[[ティム・デンシャム]]と抱擁した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後年、TVのインタビューで「なぜ雨のレースが得意なんですか?」との問いに「雨だと車が滑るけど、その分ハンドルが軽くなって操縦しやすくなるから、腕力が無い自分にとって雨のレースはチャンスだった」と答えている。また、「中嶋のマシンの挙動に対する感覚の高さが、車が滑りやすい雨のレースにおけるドライビングの巧みさの理由である」という評価も受けている。毒舌で有名なイギリスの[[英国放送協会|BBC]]の名物解説者であり、それまで中嶋に対して高い評価を与えたことのなかった元ワールドチャンピオンの[[ジェームス・ハント]]は、後の1991年シーズン前に「（パフォーマンスの高いホンダエンジンを搭載したマシンをドライブしても）中嶋が表彰台に登れるはずがない」とこき下ろしたものの「だが、全戦が雨で開催されるなら、話は変わってくる」とも語っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後の1991年のサンマリノグランプリでも上位が潰れる中、予選10位より一時4番手まで順位を上げ、マクラーレンのアイルトン・セナ、ゲルハルト・ベルガー及び3番手を走るステファノ・モデナと共にホンダエンジン搭載車が1～4位独占かというところで駆動系トラブルにより惜しくもリタイヤしたが、このときもレース前半はウエットコンディションであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 評価 ===&lt;br /&gt;
「スキルはあるが体力が無い」という事実は、30代半ばという異例に遅いF1デビューを果たした中嶋を常に悩ませ続け、これを裏づけるように、1991年当時直線とシケインで構成されていたドイツ・[[ホッケンハイムリンク]]での予選（ドライ）でこの年初めてチームメイトのステファノ・モデナを上回った際、当時ティレルの[[テクニカルディレクター (スポーツ)|テクニカルディレクター]]であった[[ハーベイ・ポスルスウェイト]]は「直線で一息入れられるサーキットではナカジマは速い」とコメントを出している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ネルソン・ピケ]]は、[[中村良夫 (自動車)|中村良夫]]のインタビューに対し、中嶋について「中嶋はとても速いドライバーです。必要なのは、サーキットを早く覚えることです」と述べ、「サーキットを完全に把握するのにちょっと時間がかかるような気がしますね。もし予選を、決勝が終わったあとの月曜日にもう一度やったら、中嶋はすごく速くなっているんじゃないですか」とも語った&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite book |和書&lt;br /&gt;
|author=中村良夫&lt;br /&gt;
|title=F1グランプリ全発言&lt;br /&gt;
|edition=第2版&lt;br /&gt;
|date=1990-06-10&lt;br /&gt;
|publisher=株式会社山海堂&lt;br /&gt;
|isbn=4-381-07627-3&lt;br /&gt;
|pages=p.121&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 引退後 ==&lt;br /&gt;
[[全日本F3000選手権]]→[[フォーミュラ・ニッポン]]→[[スーパーフォーミュラ]]や[[全日本GT選手権]]→[[SUPER GT]]などに参戦する自身のチーム「ナカジマレーシング」の監督として現場を率いている（詳しくは[[中嶋企画]]の項を参照）。同チームは、[[野田英樹]]、[[中野信治]]、[[高木虎之介]]、[[松田次生]]、[[小暮卓史]]といったドライバーを輩出するなど、若手ドライバーの登用に積極的である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[鈴鹿サーキットレーシングスクール]]（「SRS-K」、「SRS-F」）の校長も務めており、これまで佐藤琢磨、松田次生、[[松浦孝亮]]などを同スクールより送り出している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2004年には日本レースプロモーション（JRP）の会長に就任、観客数の低迷が続くフォーミュラ・ニッポン→スーパーフォーミュラの建て直しにも本格的に乗り出しているが、2014年現在低迷状態からは抜け出せていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
引退後もホンダや鈴鹿サーキットの[[ファン感謝デー]]、[[JAFグランプリ]]併催の「レジェンドカップ」などでたびたびデモランやエキシビションレースに参加しており、2014年現在も往年の腕前の一端を見せている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== スポンサー ==&lt;br /&gt;
* EPSON（[[セイコーエプソン]]、[[エプソン販売]]）&lt;br /&gt;
:販売拡大と[[ブランド]]イメージ向上を図るため、セイコーエプソンは新たな広報活動として1983年に全日本F2に参戦するハラダレーシングのメインスポンサーとなった。この時ドライバーに抜擢されたのが中嶋で、速くてマシンを壊さない中嶋のドライビングスタイルが商品と重なるとして、翌年より中嶋を支援することになった。なお、ハラダレーシングは1シーズンで全日本F2から撤退している。&lt;br /&gt;
:1987年には中嶋のF1参戦に伴いパーソナルスポンサーとしてF1に参入。1988年から1991年には中嶋の所属チーム（[[チーム・ロータス|ロータス]]、[[ティレル]]）のスポンサーとしての活動も展開した。この時期に制作された中嶋を起用した[[コマーシャルメッセージ|テレビCM]]で「F1 ＝ 中嶋 ＝ EPSON」という印象が広く世間に浸透。当時のF1[[ブーム]]も重なり企業イメージと知名度が飛躍的に向上した。&lt;br /&gt;
:中嶋の現役引退後は、中嶋率いる[[中嶋企画|ナカジマレーシング]]のスポンサーとなる。2000年から子会社のエプソン販売にスポンサー活動が引き継がれ、変わらぬ支援体制が続いている。2004年よりSUPER GTに「EPSON NAKAJIMA RACING」として参戦。フォーミュラ・ニッポンではサブスポンサーとしてマシンに[[ロゴタイプ|ロゴ]]が貼られている。※参考資料 - 『[[Racing On]]』（[[ニューズ出版]]） 2007年10月号・特集「中嶋悟」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[PIAA]]&lt;br /&gt;
:1986年に当時はまだ珍しかった海外レース（国際F3000）に挑戦する中嶋のスポンサーとなる。翌年F1にステップアップした中嶋への支援は1988年から再開され、1989年〜1991年にはEPSONと同様に所属チームのロータスとティレルのスポンサーも務めた。&lt;br /&gt;
:国内では、1989年から[[全日本F3000選手権|全日本F3000]]と[[JTCC]]に白黒のPIAAカラーで中嶋企画が参戦。以降、PIAAカラーは中嶋企画にとってお馴染みのカラーリングとなり、EPSONと共に中嶋の長年のパートナーとして広く認識される存在であった。&lt;br /&gt;
:2009年をもって中嶋企画のスポンサーから撤退したが、2012年より中嶋企画への支援を再開している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* ホンダ&lt;br /&gt;
:1981年、生沢徹が率いるi&amp;amp;iレーシングに在籍していた中嶋は、全日本F2に復帰したばかりの[[本田技研工業|ホンダ]]エンジン&amp;lt;ref&amp;gt;生沢がホンダと繋がりがあったことから獲得した&amp;lt;/ref&amp;gt;でシーズンを戦った。それ以前から非力なマシンで上位を喰う走りをみせていたが、ホンダエンジン搭載によるマシンの戦闘能力の向上もあり、中嶋は初の全日本F2チャンピオンに輝いた。&lt;br /&gt;
:その走りと開発能力に着目したホンダは、中嶋の独立後もエンジン供給を約束。国内のF1テストドライバーにも抜擢し、1986年の国際F3000参戦も支援した。そして1987年からのF1参戦に繋がった。&lt;br /&gt;
:F1引退後もナカジマレーシングにマシンやエンジンを供給するなど良好な関係が現在まで続いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 家族 ==&lt;br /&gt;
あけみ夫人との間に長男・[[中嶋一貴]]と次男・[[中嶋大祐]]の2人の子供を授かり、共に現在レーシングドライバーとなっている。特に長男・一貴は、かつて父がホンダF1エンジンのテストドライバーをつとめた際に縁があったウイリアムズに2007年から所属し、同年最終戦から2009年アブダビGPまでF1に参戦していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歌手デビュー ==&lt;br /&gt;
F1ブームが頂点に達した1990年11月21日、キティレコーズ（現 [[ユニバーサルミュージック (日本)|ユニバーサルミュージック]]）から「[[悲しき水中翼船]]」で歌手デビュー。作詞・作曲・プロデュースは[[東京バナナボーイズ]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中嶋本人は歌うことに抵抗があったが、スポンサーであるEPSONの[[コマーシャルソング|CMソング]]であったことと、テレビ番組など人前で歌わないことを条件に承諾したという。また、レコーディング直前まで自身が歌うことを知らされず、「僕は前もって言われると考えちゃってほとんど“NO”って言っちゃうんだよ。そのことをマネージャーが知っているから、直前まで隠したんだよね」と、『[[F1ポールポジション]]』（[[フジテレビジョン|フジテレビ]]）に出演した際に語っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
折からのF1ブームや話題性、テレビCMでの大量オンエアもあり、多くのプロの歌手を押しのけ[[オリコンチャート|オリコン]]で最高20位にランクインするスマッシュヒットとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== シングル ===&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[悲しき水中翼船]]&#039;&#039;&#039;（1990年11月21日発売、最高位：オリコン20位）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アルバム ===&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[SATORU NAKAJIMA]]&#039;&#039;&#039;（1991年11月25日発売、最高位：オリコン14位）&lt;br /&gt;
:中嶋の引退を記念して発売された[[コンピレーション・アルバム]]。中嶋の[[モノローグ]]とEPSONのCMソングを収録。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;FOREVER SATORU NAKAJIMA 1991 F-1 JAPANESE GP&#039;&#039;&#039;（1991年12月15日発売、最高位：オリコン69位）&lt;br /&gt;
:1991年の[[日本グランプリ (4輪)|F1日本グランプリ]]の「[[Pit-FM]]」実況（サーキットの場内FM放送）の他、1887年～1990年の日本グランプリの「Pit-FM」実況のダイジェストやホンダV10エンジンのエキゾーストノートなどを収録した[[アルバム]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==エピソード==&lt;br /&gt;
*中嶋が先鞭をつけたことにより、これまで数多くの日本人レーサーがF1に参戦しているが、2010年現在、参戦した年すべてにおいてポイントを獲得しているのは中嶋悟と[[小林可夢偉]]の2人だけである。&lt;br /&gt;
*1986年から1991年の引退まで、日本の自動車雑誌「[[カーグラフィック]]」に連載を持っていた。その後この連載は単行本化された。&lt;br /&gt;
*1987年の開幕前のテストで、ロータスの[[アイルトン・セナ]]がマシンに乗ると、「エンジンから異常な振動がする」とチームスタッフに訴えた。それを知った中嶋は、セナのマシンでコースを1周すると、「いや、これでいいんだ」と言った。セナは、テストドライバーだった中嶋のその言葉に納得し、ドライブを続けたという。&lt;br /&gt;
*参戦初年度の1987年にブラジルGP開催の直前、高価な[[ダイバーズウォッチ]]をつけて市内を[[ジョギング]]をしたが、ジョギングから戻った後F1スタッフから、「そんな高価な時計を身につけてジョギングするのはとても危険」ということを聞かされ、それ以降ブラジルではジョギング時には時計をつけないようになった。&lt;br /&gt;
*フジテレビの1987年度[[F1総集編]]で、[[モナコグランプリ|モナコGP]]開催直後（日曜日の夜）、[[モナコ]]のホテルで行われたパーティーで、「他のF1ドライバーは[[タキシード]]を着ているのに対し、（ヨーロッパの文化に疎かったため）中嶋だけが[[ブレザー]]で出席してしまった」と伝えられているが、これは誤報。実際には金曜日のパーティにはタキシードで出席しており、中嶋がヨーロッパ文化を知らなかったということは無い。しかし決勝レースでチームメイトのアイルトン・セナが優勝したため、優勝チームの一員として当初参加予定ではなかったレース後のパーティに招かれたが、すでにセナと共にタキシードを含め荷物をパックした後で、仕方なくタキシード非着用で出席したというのが真相である。同パーティではF1解説者の[[今宮純]]もタキシード非着用で（今宮は現地入りしてから招待を受けたためそもそもタキシードを持ってきておらず、現地で購入しようとしたが失敗した）、パーティーで今宮の姿を見たセナと中嶋が助けを求めるかのように今宮のテーブルに移動してきたというエピソードもある。&amp;lt;ref&amp;gt;「モータースポーツジャーナリスト青春編」（[[今宮純]]著、[[三樹書房]]、1998年）pp.198 - 202&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
*同じ年齢で、ロータス時代に中嶋のセッティング能力を高く評価していたネルソン・ピケは、中嶋がF1からの引退を発表した後に「サトルの引退は残念だ。まだ若いし、まだやれる。引退しないように僕が説得に行こうかな」と話した。&lt;br /&gt;
*[[ティエリー・ブーツェン]]は、1992年の[[日本グランプリ (4輪)|日本グランプリ]]前に[[鈴鹿サーキット|鈴鹿]]での思い出をとインタビューを受けたときに「[[マーチ・エンジニアリング|マーチ]][[BMW]]で参戦した全日本F2。後ろからどんどん抜いて行って最終的に2位に入ったレースさ。ウイナーは&#039;&#039;&#039;ナカサン&#039;&#039;&#039;だ。完勝だったよ」と答えている。&lt;br /&gt;
*前述のように、日本国内時代の中嶋悟の速さを知るブーツェンは、「日本では全く歯が立たなかったのに、F1に来てからの彼はどうしてしまったんだろう」という趣旨の発言をしている。&lt;br /&gt;
*ソース[[焼きそば]]と[[栗きんとん]]が大好物。レース期間中にピットで[[カップ焼きそば]]を食べることもあったという。蛇足ながら、F1ドライバー時代のライバル鈴木亜久里はソース焼きそばが苦手である。&lt;br /&gt;
*趣味は[[ドライブ]]と[[ゴルフ]]。現役時代から現在まで、国内はおろかF1ドライバー時代のヨーロッパでも移動のほとんどを自らの運転で行っている。ゴルフについては「僕が[[アラン・プロスト|プロスト]]に勝てるのはゴルフくらいかな」と語っている。当時のプロストのハンデは10だった&amp;lt;ref&amp;gt;1987年日本GP前日のフジテレビのプロストへのインタビューによる&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
*F1実況を担当していた[[古舘伊知郎]]は、中嶋の自家用車で東名高速道路を同乗させてもらった時のことを『[[F1ポールポジション]]』番組内で「F1ドライバーだから飛ばすのかなと思いきや、普通に運転していた」「でも、安定感が違う」と語っている。また、中嶋の引退後の1992年南アフリカGPで中嶋がゲスト解説で中継に参加した時、コース下見を中嶋の運転する車で行い、「その時にタイヤがきしむ音がずっとしていたが、クルマの限界を解った上で走っているから音がしてても全然怖くない」とも語っていた。&lt;br /&gt;
*古舘は上記同乗の時、一番印象深かったこととして、バックでの駐車を語っている。その際中嶋は、ドアを開けて確認したり、助手席のヘッドレストに手をかけ後ろを覗き込んだりすることなく、バックミラー・サイドミラーの位置を徹底的に調整していたという。1～2分程度かけて調整し終わると、ミラーだけを見て後退を開始。車は切り返しを行うことなく、一発で駐車スペースに真っすぐ入ったという。古舘は他でもないこの瞬間に「一流ドライバーの真骨頂を見た」と感動したという。&lt;br /&gt;
*ケン・ティレルが中嶋を評価していたエピソードとして、1991年の日本グランプリの話がある。グランプリが始まる前にガレージに呼びつけられると、そこには5台のティレル020が並んでいた。わけが解らないでいる中嶋にケンは「（最後の母国グランプリである）サトルの為に用意した。さあ、好きなのに乗ってくれ!」と言いレースカーを選ばせたという。さらに引退後、そのマシンは引退記念として、ケンから中嶋に直接プレゼントされた。潤沢とは言い切れない資金の中レースカーを5台用意したり、その1台を無償でプレゼントしてしまうというのは、通常ではまずあり得ないことであり、ケン・ティレルがどれだけ中嶋を気にいっていたを示している。ケン・ティレルとの関係はその後も続き、中嶋の愛弟子だった[[高木虎之介]]のF1デビューもティレルが全面的にバックアップし、中嶋も「スポーティング・ディレクター」の肩書きでチームに参加した。&lt;br /&gt;
*現在は、[[スーパーGT]]などの監督業も行い、海外など飛行機でしか行けない場所でない限り、今でも自ら愛車の[[ホンダ]][[ホンダ・レジェンド|レジェンド]]を駆ってサーキットまで行くという。しかも、年間走行距離は、5万キロを超えることも珍しくないという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==著書==&lt;br /&gt;
*「中嶋悟のF1日記 PART1」 [[二玄社]] 1989年&lt;br /&gt;
*「中嶋悟のF1日記 PART2」 二玄社 [[1992年]]&lt;br /&gt;
:[[自動車]][[雑誌]]「[[カーグラフィック]]」に、国際F3000時代の1986年から、引退する1991年にかけて毎月連載された日記調の連載を単行本にしたもの。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連作品 ==&lt;br /&gt;
* 海老沢泰久の小説『[[F2グランプリ]]』（[[1981年]]、[[1984年]]に[[東宝]]より映画化）に登場するドライバーの「中野英明（映画では中野訓）」は、中嶋をモデルとしている。&lt;br /&gt;
* 他にも自身の名を冠したテレビゲームがVARIE（現 [[レイアップ]]）社からいくつか発売された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== F1での年度別成績 ==&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:center; font-size:80%&amp;quot;&lt;br /&gt;
! 年&lt;br /&gt;
! 所属チーム&lt;br /&gt;
! シャーシ&lt;br /&gt;
! 1&lt;br /&gt;
! 2&lt;br /&gt;
! 3&lt;br /&gt;
! 4&lt;br /&gt;
! 5&lt;br /&gt;
! 6&lt;br /&gt;
! 7&lt;br /&gt;
! 8&lt;br /&gt;
! 9&lt;br /&gt;
! 10&lt;br /&gt;
! 11&lt;br /&gt;
! 12&lt;br /&gt;
! 13&lt;br /&gt;
! 14&lt;br /&gt;
! 15&lt;br /&gt;
! 16&lt;br /&gt;
! WDC&lt;br /&gt;
! ポイント&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[1987年のF1世界選手権|1987]]&lt;br /&gt;
! rowspan=&amp;quot;3&amp;quot; | [[チーム・ロータス|ロータス]]&lt;br /&gt;
! [[ロータス・99T|99T]]&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#CFCFFF&amp;quot;| [[1987年ブラジルグランプリ|BRA]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;7&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#DFFFDF&amp;quot;| [[1987年サンマリノグランプリ|SMR]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;6&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#DFFFDF&amp;quot;| [[1987年ベルギーグランプリ|BEL]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;5&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#CFCFFF&amp;quot;| [[1987年モナコグランプリ|MON]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;10&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#EFCFFF&amp;quot;| [[1987年アメリカグランプリ|DET]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;Ret&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#CFCFFF&amp;quot;| [[1987年フランスグランプリ|FRA]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;NC&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#DFFFDF&amp;quot;| [[1987年イギリスグランプリ|GBR]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;4&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#EFCFFF&amp;quot;| [[1987年ドイツグランプリ|GER]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;Ret&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#EFCFFF&amp;quot;| [[1987年ハンガリーグランプリ|HUN]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;Ret&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#CFCFFF&amp;quot;| [[1987年オーストリアグランプリ|AUT]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;13&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#CFCFFF&amp;quot;| [[1987年イタリアグランプリ|ITA]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;11&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#CFCFFF&amp;quot;| [[1987年ポルトガルグランプリ|POR]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;8&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#CFCFFF&amp;quot;| [[1987年スペイングランプリ|ESP]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;9&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#EFCFFF&amp;quot;| [[1987年メキシコグランプリ|MEX]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;Ret&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#DFFFDF&amp;quot;| [[1987年日本グランプリ (4輪)|JPN]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;6&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#EFCFFF&amp;quot;| [[1987年オーストラリアグランプリ|AUS]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;Ret&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
! 12位&lt;br /&gt;
! 7&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[1988年のF1世界選手権|1988]]&lt;br /&gt;
! [[ロータス・100T|100T]]&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#DFFFDF&amp;quot;| [[1988年ブラジルグランプリ|BRA]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;6&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#CFCFFF&amp;quot;| [[1988年サンマリノグランプリ|SMR]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;8&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#FFCFCF&amp;quot;| [[1988年モナコグランプリ|MON]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;DNQ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#EFCFFF&amp;quot;| [[1988年メキシコグランプリ|MEX]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;Ret&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#CFCFFF&amp;quot;| [[1988年カナダグランプリ|CAN]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;11&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#FFCFCF&amp;quot;| [[1988年アメリカグランプリ|DET]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;DNQ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#CFCFFF&amp;quot;| [[1988年フランスグランプリ|FRA]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;7&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#CFCFFF&amp;quot;| [[1988年イギリスグランプリ|GBR]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;10&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#CFCFFF&amp;quot;| [[1988年ドイツグランプリ|GER]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;9&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#CFCFFF&amp;quot;| [[1988年ハンガリーグランプリ|HUN]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;7&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#EFCFFF&amp;quot;| [[1988年ベルギーグランプリ|BEL]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;Ret&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#EFCFFF&amp;quot;| [[1988年イタリアグランプリ|ITA]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;Ret&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#EFCFFF&amp;quot;| [[1988年ポルトガルグランプリ|POR]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;Ret&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#EFCFFF&amp;quot;| [[1988年スペイングランプリ|ESP]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;Ret&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#CFCFFF&amp;quot;| [[1988年日本グランプリ (4輪)|JPN]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;7&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#EFCFFF&amp;quot;| [[1988年オーストラリアグランプリ|AUS]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;Ret&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
! 16位&lt;br /&gt;
! 1&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[1989年のF1世界選手権|1989]]&lt;br /&gt;
! [[ロータス・101|101]]&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#CFCFFF&amp;quot;| [[1989年ブラジルグランプリ|BRA]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;8&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#CFCFFF&amp;quot;| [[1989年サンマリノグランプリ|SMR]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;NC&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#FFCFCF&amp;quot;| [[1989年モナコグランプリ|MON]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;DNQ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#EFCFFF&amp;quot;| [[1989年メキシコグランプリ|MEX]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;Ret&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#EFCFFF&amp;quot;| [[1989年アメリカグランプリ|USA]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;Ret&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#FFCFCF&amp;quot;| [[1989年カナダグランプリ|CAN]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;DNQ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#EFCFFF&amp;quot;| [[1989年フランスグランプリ|FRA]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;Ret&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#CFCFFF&amp;quot;| [[1989年イギリスグランプリ|GBR]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;8&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#EFCFFF&amp;quot;| [[1989年ドイツグランプリ|GER]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;Ret&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#EFCFFF&amp;quot;| [[1989年ハンガリーグランプリ|HUN]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;Ret&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#FFCFCF&amp;quot;| [[1989年ベルギーグランプリ|BEL]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;DNQ&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#CFCFFF&amp;quot;| [[1989年イタリアグランプリ|ITA]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;10&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#CFCFFF&amp;quot;| [[1989年ポルトガルグランプリ|POR]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;7&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#EFCFFF&amp;quot;| [[1989年スペイングランプリ|ESP]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;Ret&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#EFCFFF&amp;quot;| [[1989年日本グランプリ (4輪)|JPN]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;Ret&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#DFFFDF&amp;quot;| &#039;&#039;[[1989年オーストラリアグランプリ|AUS]]&#039;&#039;&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;4&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
! 21位&lt;br /&gt;
! 3&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;2&amp;quot; | [[1990年のF1世界選手権|1990]]&lt;br /&gt;
! rowspan=&amp;quot;3&amp;quot; | [[ティレル]]&lt;br /&gt;
! [[ティレル・018|018]]&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#DFFFDF&amp;quot;| [[1990年アメリカグランプリ|USA]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;6&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#CFCFFF&amp;quot;| [[1990年ブラジルグランプリ|BRA]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;8&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
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|&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
! rowspan=&amp;quot;2&amp;quot; | 15位&lt;br /&gt;
! rowspan=&amp;quot;2&amp;quot; | 3&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! [[ティレル・019|019]]&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#EFCFFF&amp;quot;| [[1990年サンマリノグランプリ|SMR]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;Ret&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#EFCFFF&amp;quot;| [[1990年モナコグランプリ|MON]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;Ret&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#CFCFFF&amp;quot;| [[1990年カナダグランプリ|CAN]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;11&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#EFCFFF&amp;quot;| [[1990年メキシコグランプリ|MEX]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;Ret&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#EFCFFF&amp;quot;| [[1990年フランスグランプリ|FRA]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;Ret&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#EFCFFF&amp;quot;| [[1990年イギリスグランプリ|GBR]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;Ret&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#EFCFFF&amp;quot;| [[1990年ドイツグランプリ|GER]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;Ret&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#EFCFFF&amp;quot;| [[1990年ハンガリーグランプリ|HUN]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;Ret&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#EFCFFF&amp;quot;| [[1990年ベルギーグランプリ|BEL]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;Ret&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#DFFFDF&amp;quot;| [[1990年イタリアグランプリ|ITA]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;6&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;white&amp;quot;| [[1990年ポルトガルグランプリ|POR]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;DNS&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#EFCFFF&amp;quot;| [[1990年スペイングランプリ|ESP]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;Ret&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#DFFFDF&amp;quot;| [[1990年日本グランプリ (4輪)|JPN]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;6&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#EFCFFF&amp;quot;| [[1990年オーストラリアグランプリ|AUS]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;Ret&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[1991年のF1世界選手権|1991]]&lt;br /&gt;
! [[ティレル・020|020]]&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#DFFFDF&amp;quot;| [[1991年アメリカグランプリ|USA]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;5&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#EFCFFF&amp;quot;| [[1991年ブラジルグランプリ|BRA]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;Ret&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#EFCFFF&amp;quot;| [[1991年サンマリノグランプリ|SMR]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;Ret&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#EFCFFF&amp;quot;| [[1991年モナコグランプリ|MON]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;Ret&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#CFCFFF&amp;quot;| [[1991年カナダグランプリ|CAN]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;10&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#CFCFFF&amp;quot;| [[1991年メキシコグランプリ|MEX]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;12&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#EFCFFF&amp;quot;| [[1991年フランスグランプリ|FRA]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;Ret&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#CFCFFF&amp;quot;| [[1991年イギリスグランプリ|GBR]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;8&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#EFCFFF&amp;quot;| [[1991年ドイツグランプリ|GER]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;Ret&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#CFCFFF&amp;quot;| [[1991年ハンガリーグランプリ|HUN]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;15&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#EFCFFF&amp;quot;| [[1991年ベルギーグランプリ|BEL]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;Ret&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#EFCFFF&amp;quot;| [[1991年イタリアグランプリ|ITA]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;Ret&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#CFCFFF&amp;quot;| [[1991年ポルトガルグランプリ|POR]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;13&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#CFCFFF&amp;quot;| [[1991年スペイングランプリ|ESP]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;17&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#EFCFFF&amp;quot;| [[1991年日本グランプリ (4輪)|JPN]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;Ret&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|bgcolor=&amp;quot;#EFCFFF&amp;quot;| [[1991年オーストラリアグランプリ|AUS]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;Ret&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
! 15位&lt;br /&gt;
! 2&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;太字&#039;&#039;&#039;は[[ポールポジション]]、&#039;&#039;斜字&#039;&#039;は[[ファステストラップ]]。([[:Template:F1 driver results legend 2|key]])&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== F1以外の経歴 ==&lt;br /&gt;
*1973年&lt;br /&gt;
**レースデビュー&lt;br /&gt;
*1975年&lt;br /&gt;
**FL500 チャンピオン&lt;br /&gt;
*1977年&lt;br /&gt;
**[[FJ1600]] チャンピオン（7勝, 7PP）&lt;br /&gt;
**[[全日本F2000選手権]] 参戦&lt;br /&gt;
**[[全日本F2000選手権|鈴鹿F2000選手権]] 参戦&lt;br /&gt;
*1978年&lt;br /&gt;
**[[全日本F2選手権]] 参戦&lt;br /&gt;
**[[全日本F2選手権#鈴鹿F2選手権|鈴鹿F2選手権]] チャンピオン&lt;br /&gt;
**[[イギリス・フォーミュラ3選手権|イギリスF3選手権]] 参戦&lt;br /&gt;
*1979年&lt;br /&gt;
**[[富士グランチャンピオンレース]] チャンピオン&lt;br /&gt;
*1981年&lt;br /&gt;
**全日本F2選手権 チャンピオン（2勝, 1PP）&lt;br /&gt;
**鈴鹿F2選手権 チャンピオン&lt;br /&gt;
**富士グランチャンピオンレース 7位&lt;br /&gt;
**フォーミュラ・パシフィック 2位（2勝, 4PP）&lt;br /&gt;
**[[マカオグランプリ]] リタイア&lt;br /&gt;
*1982年&lt;br /&gt;
**全日本F2選手権 チャンピオン（4勝, 1PP）&lt;br /&gt;
**鈴鹿F2選手権 チャンピオン&lt;br /&gt;
**富士グランチャンピオンレース 6位&lt;br /&gt;
**[[フォーミュラ2#ヨーロッパF2選手権|ヨーロッパF2選手権]] シリーズ13位（最高位2位）&lt;br /&gt;
*1983年&lt;br /&gt;
**全日本F2選手権 シリーズ4位（2勝, 2PP）&lt;br /&gt;
**鈴鹿F2選手権 シリーズ2位&lt;br /&gt;
**富士グランチャンピオンレース 5位&lt;br /&gt;
*1984年&lt;br /&gt;
**全日本F2選手権 チャンピオン（4勝, 6PP）&lt;br /&gt;
**鈴鹿F2選手権 チャンピオン&lt;br /&gt;
**富士グランチャンピオンレース 2位&lt;br /&gt;
*1985年&lt;br /&gt;
**全日本F2選手権 チャンピオン（5勝, 6PP）&lt;br /&gt;
**鈴鹿F2選手権 チャンピオン&lt;br /&gt;
**富士グランチャンピオンレース 2位&lt;br /&gt;
*1986年&lt;br /&gt;
**全日本F2選手権 チャンピオン（1勝, 5PP）&lt;br /&gt;
**鈴鹿F2選手権 シリーズ2位&lt;br /&gt;
**[[フォーミュラ3000|国際F3000選手権]] シリーズ10位（最高位4位）&lt;br /&gt;
**[[ル・マン24時間レース|ル・マン24時間]] リタイア&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
{{Commons|Satoru Nakajima}}&lt;br /&gt;
* [[モータースポーツ]]&lt;br /&gt;
* [[日本人ドライバー一覧]]&lt;br /&gt;
* [[F1ドライバーの一覧]]&lt;br /&gt;
* [[鈴鹿サーキット]]&lt;br /&gt;
* [[富士スピードウェイ]]&lt;br /&gt;
* [[レイトンハウス]]&lt;br /&gt;
* [[プリンス・ビラ]]&lt;br /&gt;
* [[愛知県出身の人物一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{ロータス}}&lt;br /&gt;
{{ティレル}}&lt;br /&gt;
{{フォーミュラ・ニッポン歴代チャンピオン}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:なかしま さとる}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:日本のドライバー]]&lt;br /&gt;
[[Category:チーム・ロータスのF1ドライバー]]&lt;br /&gt;
[[Category:ティレルのF1ドライバー]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本のF1ドライバー]]&lt;br /&gt;
[[Category:愛知県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1953年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>240F:63:D61B:1:B8B9:EFF8:F5C2:2607</name></author>
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	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E7%8E%8B%E8%95%83&amp;diff=117309</id>
		<title>王蕃</title>
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		<updated>2014-07-20T05:40:20Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;240F:63:D61B:1:B8B9:EFF8:F5C2:2607: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;王 蕃&#039;&#039;&#039;（おう はん、[[228年]] - [[266年]]）は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[呉 (三国)|呉]]の[[天文学]]者・数学者・政治家。[[字]]は&#039;&#039;&#039;永元&#039;&#039;&#039;。弟は王著・王延。[[揚州]][[廬江]]郡の人。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』呉志に伝がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
博学で天文・数学に通じていた&amp;lt;ref&amp;gt;[[張衡 (科学者)|張衡]]の説を容れて[[渾天儀]]（[[天球儀]]のようなもの）を制作し、1年は365と145/589日≒365.2461799日であると計算した。また、[[円周率]]を求め、142/45≒3.155とするなど[[科学]]の探求に実績があった。&lt;br /&gt;
&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
[[尚書令]]に任じられた後で官を退いたが、[[孫休]]が即位すると再び官に就き、[[薛瑩]]・[[虞汜]]・[[賀邵]]と共に散騎中常侍の官に任じられ、駙馬都尉を加えられた。この人事は世間に評価された。[[蜀漢]]に使者として赴いたときは、蜀の人々にも高く評価された。帰還後に夏口の督となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[孫皓]]が即位すると、中央に戻され常侍となった&amp;lt;ref&amp;gt;呉志「楼玄伝」によると、万彧の他に郭逴と楼玄も同時に常侍となっている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。同じ常侍の[[万イク|万彧]]や中書丞の陳声は孫皓のお気に入りで、ひたすら諂い出世した人物であったため、有能で名声もある王蕃から軽んじられているのではないかと疑心暗鬼となり&amp;lt;ref&amp;gt;『呉録』では、万彧が左[[丞相]]となったときに、万彧の身分の低さを理由に王蕃が中傷したとあるが、万彧の左丞相への昇進は丁忠の帰還後のことであり矛盾が生じる。&amp;lt;/ref&amp;gt;、陳声にいたっては讒言までした。王蕃は誇り高い性格であったため、孫皓の前でも正論を吐き、孫皓の意に逆らったことも何度かあった。このため孫皓から憎まれるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[甘露 (呉)|甘露]]2年（[[266年]]）、[[西晋|晋]]に使者として赴いていた丁忠が戻って来た時、行われた宴会の席で王蕃が酔いつぶれて突っ伏していると、酔った振りをしているのだと思った孫皓から、孫皓の息のかかった者達を伴い、穏やかに宴会場の外へ連れ出された。酔いが覚めないうちに王蕃は宴会に戻ったが、威厳が備わっていて立ち居振る舞いが自然だった。このため自分の予想が正しいと思い込んだ孫皓は怒り、命令して正殿の前で王蕃を斬らせ、死体を山野に投げ捨てさせた&amp;lt;ref&amp;gt;『江表伝』では、[[武昌]]遷都に反対する群臣を恐怖で従わせようとするために、宴席で王蕃にわざと返答に時間を要する質問をし、王蕃が黙ったままでいたところを無礼として斬り捨て、山へ首を投げ捨てさせ虎や狼の餌としたとある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
滕牧や[[留平]]は王蕃のために弁護したが聞き入れられなかった。また、[[陸凱]]は王蕃の死を惜しみ上疏した。その文章が正史に収録されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
王蕃の家族は広州に強制移住させられた。弟の王著と王延は才能ある人物だったが、[[天紀]]3年（[[279年]]）の郭馬の乱で郭馬からの味方要請を断ったため、殺害されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
薛瑩は王蕃を「器量が大きく様々な物事に通じた人物」として、[[楼玄]]・賀邵・[[韋昭]]と並ぶ人物であると評価した。また[[胡沖]]は、韋昭を除いた三名の人物について楼玄を最も高く評価し、賀邵がその次であるとしつつも、三者とも甲乙付け難いと評している。[[陳寿]]は、薛瑩や胡沖の評価を踏まえつつも「乱れた政治の時代に高官にあったのだから、非業の死を遂げたことも仕方のないことである」と評している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小説『[[三国志演義]]』では、孫皓の所業を諌めて怒りを買い、処刑された人物の一人として名が挙がるのみである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:おう はん}}&lt;br /&gt;
[[Category:中国の数学者]]&lt;br /&gt;
[[Category:中国の天文学者]]&lt;br /&gt;
[[Category:三国志の登場人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:呉の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1世紀から10世紀の数学者|2280000]]&lt;br /&gt;
[[Category:228年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:266年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:数学に関する記事]]&lt;br /&gt;
[[Category:天文学に関する記事]]&lt;/div&gt;</summary>
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