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	<title>Wikippe - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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	<updated>2026-08-17T04:31:01Z</updated>
	<subtitle>利用者の投稿記録</subtitle>
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		<title>張紘</title>
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		<updated>2014-08-13T19:08:56Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;240F:63:D61B:1:1525:B879:B210:4164: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;張紘&#039;&#039;&#039;（ちょうこう）&lt;br /&gt;
* [[中国]][[後漢]]末期の官吏。本項で解説する。&lt;br /&gt;
* 中国[[明]]の武官。[[嘉靖]]35年、[[倭寇]]が黄浦を犯した際に戦死した。（世宗紀）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;張 紘&#039;&#039;&#039;（ちょう こう、生没年不詳）は、中国後漢末期の政治家、学者。[[字]]は&#039;&#039;&#039;子綱&#039;&#039;&#039;。[[揚州]][[広陵]]郡の人。子は張靖・張玄。孫は[[張尚]]。[[孫策]]・[[孫権]]に仕えた。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』[[呉 (三国)|呉]]志に伝がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 生涯 ===&lt;br /&gt;
若い頃、都に出て学問を修めた&amp;lt;ref&amp;gt;『呉書』では、[[太学]]で博士の韓宗に学び、儒教の各経典を修めたとある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。その後、故郷に戻り、[[太守]]の[[趙イク|趙昱]]から[[孝廉]]に挙げられ、[[茂才]]に推挙された。[[三公]]の役所から招聘を受けたが出仕しなかった&amp;lt;ref&amp;gt;『呉書』では、[[大将軍]]の[[何進]]、[[太尉]]の[[朱儁]]、[[司空]]の[[荀爽]]から招聘を受けたとある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦乱を避けて[[江東]]に移住した。後に孫策が挙兵したとき、初めて仕官した&amp;lt;ref&amp;gt;張紘は母の喪中であったが、孫策が直々に出向いて臣に迎えたため、孫策に丹陽を中心に挙兵し、江東を取るよう奨めたという（「破虜討逆伝」が引く『呉歴』）&amp;lt;/ref&amp;gt;。孫策は上奏して正議校尉に任命した。孫策の[[丹陽]]討伐に従軍し、このときに孫策が陣頭で指揮を執ろうとしたため、「総大将たる者が最前線に立つべきではない」と諌めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[張昭]]や同郷の[[秦松]]・陳端と共に、孫策の参謀として仕えた。張昭と張紘のうち、どちらかが随行するときは、必ずもう一人が留守を守ったという（『呉書』）。[[呂布]]が[[徐州]][[牧]]となると、張紘を茂才に推挙して呼び寄せようとしたが、張紘は呂布を嫌悪しており、また孫策も張紘を引き留めたいと思っていたため、孫策が代わって呂布に断りの手紙を書いて送ったという（『呉書』）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[199年]]、孫策の命で[[許|許都]]に使者として赴いた時、[[曹操]]から[[侍御史]]の位を与えられ、留まるよう要請された。その時期に[[孔融]]達と親しく交際した&amp;lt;ref&amp;gt;『呉書』によると、許都の人達と語らうときも、孫策の功績と漢室に対する忠義を強調することを忘れなかったとある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。孫策の死後、その隙を突いて曹操が攻めようとした時、「他人の喪に付け込むべきではない。孫権に恩義を施すべきです。」と主張した。曹操はその言葉を聞き出陣を取り止め、孫権に討虜将軍の地位と[[会稽]]太守の職を与えた。曹操はまた、孫権を自分の傘下に収めようと考えていたため、張紘を使者として孫権の元に送った。孫権は自らの下に戻った張紘を会稽東部[[都尉]]とした&amp;lt;ref&amp;gt;曹操が張紘を[[九江]]太守に任命しようとしたため、張紘は病気と称してこれを固辞した。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
孫権にも厚く信頼され、常に「東部」との尊称で呼ばれた（『江表伝』）。また、張昭と共に計略や外交の任務に当たった（『呉書』）。孫権の母の呉夫人からも孫権のことを託され（『呉書』）、孫権の日常的な振る舞いについても諫言をし、その行状を改めさせた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文章作成の能力に長けていたため、文書の起草や史書の記録に携わり、詩や賦といった文学作品も多く残した。[[陳琳]]にも賞賛されている（『呉書』）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
故郷の太守趙昱は[[サク融|笮融]]により殺害されていたが、当時張紘には力がなく、笮融を討てないまま悲憤するしかすべがなかった。このため会稽東部都尉に任じられた後は役人を派遣し、趙昱の故郷の琅邪国の相の臧宣（[[臧覇]]）に依頼して、趙家の縁戚の子に祭祀を継がせるよう取り計らった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
孫権は[[江夏区|江夏]]に遠征した際、張紘を都に呼び寄せて留守を任せ、都尉としての仕事もこなさせた。その働きに対し、孔融は手紙を送り功績を称えた。孫権が、張紘の留守役としての功績を称し褒賞を与えようとしたが、張紘は固辞した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
孫権が[[合肥]]に出兵したとき、長史に任命され従軍した。孫権が軽装騎兵のみを率いて前線に立とうとしたため、これを戒めた。また、合肥から帰還した翌年にも出兵しようとしたため、再び戒めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
孫権に[[呉郡]]から秣陵（後の[[建業]]）へ遷都するよう進言したため、[[211年]]に遷都が実施された（「呉主伝」）&amp;lt;ref&amp;gt;『江表伝』によると、秣陵に王者の気が見えたためだという。後に呉郡を訪問した[[劉備]]も同様の発言をしたため、孫権は賢者の考えることは同じなのだと喜んだという。一方『献帝春秋』では、孫権自身の意思で軍事的な理由から遷都を実施したとある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。張紘は呉郡に、孫権の家族を迎えに行く任務を与えられたが、呉郡へ向かう途中で病に罹り、間もなく死去した。60歳であった。死の直前、子の張靖に孫権への遺書を託した。その手紙を読んだ孫権は涙を流したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小説『[[三国志演義]]』では、張昭と共に「江東の二張」と称される在野の賢人として登場する。先に仕えていた張昭の説得で、孫策に仕えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:三国志の登場人物|ちよう こう]]&lt;br /&gt;
[[Category:呉の人物|ちよう こう]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>240F:63:D61B:1:1525:B879:B210:4164</name></author>
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	<entry>
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		<title>サク融</title>
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		<updated>2014-08-13T16:19:39Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;240F:63:D61B:1:1525:B879:B210:4164: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&amp;lt;!-- この記事を編集するときには、表の部分を飛ばして、その後をご覧ください。 --&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{記事名の制約|title=&amp;amp;#x7B2E;融}}&lt;br /&gt;
{{三国志の人物&lt;br /&gt;
|名前       = &amp;amp;#x7B2E;融&lt;br /&gt;
|画像       = &lt;br /&gt;
|サイズ     = &lt;br /&gt;
|説明       = &lt;br /&gt;
|王朝       = 後漢&lt;br /&gt;
|称号・役職 = [[ヒ州市|下&amp;amp;#x90B3;]]国相&lt;br /&gt;
|出生       = 不詳&lt;br /&gt;
|出身地     = [[揚州]]丹楊郡&lt;br /&gt;
|死去       = [[建安 (漢)|建安]]2年（[[197年]]）&lt;br /&gt;
|死没地     = &lt;br /&gt;
|ピン音     = {{lang|zh-hant|Ze Rong}}&lt;br /&gt;
|字         = &lt;br /&gt;
|諡号       = &lt;br /&gt;
|廟号       = &lt;br /&gt;
|別名       = &lt;br /&gt;
|主君       = [[陶謙]]→[[劉ヨウ (揚州牧)|劉&amp;amp;#x7E47;]]&lt;br /&gt;
|特記事項   = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;&amp;amp;#x7B2E; 融&#039;&#039;&#039;（さく ゆう、? - [[197年]]）は、[[中国]][[後漢]]時代末期の武将。[[揚州]][[丹陽]]郡の人。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 正史の事跡 ==&lt;br /&gt;
=== 仏教の振興と広陵の略奪 ===&lt;br /&gt;
はじめ[[徐州]]の[[陶謙]]に仕え、[[広陵]]や[[彭城]]で兵糧輸送などの監督官を務めていた。しかし、やがて兵糧などの物資を奪って自立するようになる。この頃の&amp;amp;#x7B2E;融は、領内に壮麗な楼閣を備え、3,000人もの人々を収容できるような大寺院を建立した。また、毎年の[[灌仏会|仏誕節]]である[[4月8日]]には、盛大な法会を執り行ない、寺に至る者は5,000人に達したとされる。後の中国大陸における[[仏教]]が広まる基礎を作り出した布教者であり、[[中国の仏教]]にとっては功労者であると言える一面もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[興平 (漢)|興平]]元年（[[194年]]）に、陶謙が[[曹操]]に攻められて徐州が混乱すると、[[ヒ州市|下&amp;amp;#x90B3;]]国の相となっていた&amp;amp;#x7B2E;融は、彭城国の相であった[[薛礼]]と共に、揚州[[刺史]]の[[劉ヨウ (揚州牧)|劉&amp;amp;#x7E47;]]を盟主として仰ぐようになった。また、ほぼ時を同じくして、混乱を避けるために広陵[[太守]]の[[趙イク|趙&amp;amp;#x6631;]]を頼った。趙&amp;amp;#x6631;が&amp;amp;#x7B2E;融を賓客として持て成したが、&amp;amp;#x7B2E;融は広陵が豊かな土地であると見ると、趙&amp;amp;#x6631;を謀殺して、広陵で略奪の限りを尽くしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 孫策との戦い、裏切りの果ての最期 ===&lt;br /&gt;
その後、&amp;amp;#x7B2E;融は薛礼が守る秣陵城（後の[[呉 (三国)|呉]]の都、[[建業]]）の南に駐屯した。劉&amp;amp;#x7E47;が[[孫策]]に攻められると、&amp;amp;#x7B2E;融は薛礼と共に劉&amp;amp;#x7E47;を支援して戦い、一進一退の攻防の中で、孫策に矢傷を負わせている。しかし&amp;amp;#x7B2E;融が、孫策が死んだとの[[偽情報]]を信じて策にはまり大敗すると、劉&amp;amp;#x7E47;陣営全体も敗北を喫した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;amp;#x7B2E;融は劉&amp;amp;#x7E47;に従って逃亡し、彭沢に駐屯した。&amp;amp;#x7B2E;融は劉&amp;amp;#x7E47;の命令を受けて、[[諸葛玄]]と豫章太守の座を争っていた[[朱皓]]を救援し、[[建安 (漢)|建安]]2年（197年）正月に諸葛玄を戦死させた。ところが&amp;amp;#x7B2E;融は自立の野心を抱き、朱皓や盟友の薛礼までをも殺し、豫章の支配権を奪い取った。その後、攻め込んできた劉&amp;amp;#x7E47;と激戦を繰り広げたが、ついに敗北して逃走し、最後は付近の住民に捕らえられ殺されてしまった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 物語中の&amp;amp;#x7B2E;融 ==&lt;br /&gt;
小説『[[三国志演義]]』では、&amp;amp;#x7B2E;融は劉&amp;amp;#x7E47;の部将の一人となっており、史実の暴虐非道振りは全く影を潜めている。それどころか、孫策との戦いで敗走したために、劉&amp;amp;#x7E47;に処刑されそうになった僚友の[[張英_(後漢)|張英]]を弁護したりしている。しかしついには、孫策に敗北した劉&amp;amp;#x7E47;とともに、[[劉表]]を頼って落ち延びている。その後は登場しない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size:90%;&amp;quot;&amp;gt;『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』呉書4劉&amp;amp;#x7E47;伝 呉書1孫策伝 蜀書5諸葛亮伝&lt;br /&gt;
*『[[三国志演義|三国演義]]』&amp;lt;/span&amp;gt;&lt;br /&gt;
*[[陳舜臣]] 『[[諸葛亮|諸葛孔明]] 上』 「[[中央公論新社]]」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:さく ゆう}}&lt;br /&gt;
[[Category:三国志の登場人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:漢代の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:中国仏教]]&lt;br /&gt;
[[Category:居士]]&lt;br /&gt;
[[Category:197年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>240F:63:D61B:1:1525:B879:B210:4164</name></author>
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		<title>諸葛亮</title>
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		<updated>2014-08-13T16:14:23Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;240F:63:D61B:1:1525:B879:B210:4164: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{redirect|孔明}}&lt;br /&gt;
{{三国志の人物&lt;br /&gt;
|名前       = 諸葛亮&lt;br /&gt;
|画像       = Zhuge Kongming Sancai Tuhui.jpg&lt;br /&gt;
|サイズ     = 200px&lt;br /&gt;
|説明       = &lt;br /&gt;
|王朝       = [[蜀|蜀漢]]　&lt;br /&gt;
|称号・役職 = [[丞相]]・[[録尚書事]]・[[益州牧]]&lt;br /&gt;
|出生       = [[光和]]4年（[[181年]]）&lt;br /&gt;
|出身地     = 不詳&lt;br /&gt;
|死去       = [[建興 (蜀)|建興]]12年（[[234年]]）&amp;lt;!--[[8月23日]]＊日にちは現行の暦と違う可能性があり、他言語版でも記載されていないので隠しました--&amp;gt;&lt;br /&gt;
|死没地     = [[五丈原]]&lt;br /&gt;
|ピン音     = Zhuge Liang（ジューガー・リァン）&lt;br /&gt;
|字         = 孔明&lt;br /&gt;
|諡号       = 忠武侯&lt;br /&gt;
|廟号       = &lt;br /&gt;
|別名       = 伏龍、臥龍（渾名）&lt;br /&gt;
|主君       = [[劉備]] → [[劉禅]]&lt;br /&gt;
|特記事項   = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;諸葛 亮&#039;&#039;&#039;（しょかつ りょう）は、[[中国]][[後漢]]末期から[[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[蜀|蜀漢]]の[[政治家]]・[[軍人]]。[[字]]は&#039;&#039;&#039;孔明&#039;&#039;&#039;（こうめい）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[司隷校尉]][[諸葛豊]]の子孫。[[泰山]][[郡]]丞[[諸葛珪]]の子。[[諡]]は忠武侯（ちゅうぶこう）。蜀漢の建国者である[[劉備]]の創業を助け、その子の[[劉禅]]の[[丞相]]としてよく補佐した。伏龍、臥龍とも呼ばれる。今も[[成都市|成都]]や[[南陽市 (河南省)|南陽]]には諸葛亮を祀る[[武侯祠]]があり、多くの観光客が訪れている。&lt;br /&gt;
妻は[[黄夫人]]。子は蜀漢に仕え[[綿竹市|綿竹]]（成都付近）で戦死した[[諸葛瞻]]。孫には同じく蜀漢に仕え父と共に綿竹で戦死した[[諸葛尚]]や、[[西晋]]の江州[[刺史]]になった[[諸葛京]]がいる。親族として従父（叔父）の豫章[[太守]][[諸葛玄]]、兄で[[呉 (三国)|呉]]に仕えた[[諸葛瑾]]とその息子の[[諸葛恪]]、弟で同じく蜀漢に仕えた[[諸葛均]]などが知られる。一族には、[[魏 (三国)|魏]]に仕えた[[諸葛誕]]などがいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 略伝 ==&lt;br /&gt;
=== 書生時代 ===&lt;br /&gt;
琅邪郡陽都（現在の[[山東省]][[臨沂市]][[沂南県]]）が[[本貫]]だが、出生地は不明。身長は8尺（[[後漢]]の頃の1尺は23cmで8尺は184cm、魏・西晋の頃の1尺は24.1cmで8尺は192.8cmになる）。その祖先は[[前漢]][[元帝 (漢)|元帝]]の時の司隷校尉の諸葛豊で、父は諸葛珪。泰山郡の丞（郡の副長官）を務めた人物であるが、諸葛亮が幼い時に死去している。生母の章氏も同様に幼い時に死去していたが、父は後に後妻の宋氏を娶っている。年の離れた兄には呉に仕えた諸葛瑾、弟には同じく蜀漢に仕えた諸葛均、他に妹がいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まだ幼い頃、[[徐州]]から弟の諸葛均と共に従父の諸葛玄に連れられ南方へ移住する。この時の行き先について『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』本伝では、従父・諸葛玄は[[袁術]]の命令を受けて豫章太守に任命されるが、後漢の朝廷からは[[朱皓]]が豫章太守として派遣され、その後[[劉表]]の元に身を寄せたとなっている。これに対して[[裴松之]]注に引く『献帝春秋』では、朝廷が任命した豫章太守の周術が病死したので劉表が代わりに諸葛玄を任命したが、朝廷からは朱皓が送り込まれ、朱皓は[[劉ヨウ (揚州牧)|劉&amp;amp;#32327;]]の力を借りて諸葛玄を追い出し、諸葛玄は逃れたが[[建安 (漢)|建安]]2年（[[197年]]）に民衆の反乱に遭って殺され、首を劉&amp;amp;#32327;に送られたとなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、諸葛亮は[[荊州]]で弟と共に晴耕雨読の生活に入り、好んで「[[梁父吟]]」を歌っていたという。この時期には自らを[[管仲]]・[[楽毅]]に比していたが、当時の人間でこれを認める者はいなかった。ただ親友の[[崔州平]]（諱は不詳。崔鈞か? [[太尉]]・[[崔烈]]の子、崔均の弟）や[[徐庶]]だけがそれを認めていたという。また、この時期に地元の名士・[[黄承彦]]の[[黄夫人|娘]]を娶ったようである。これは裴松之注に引く『襄陽記』に見える話で、黄承彦は「私の娘は色が黒くて醜いが、才能は君に娶わせるに足る」と言い、諸葛亮はこれを受け入れた。周囲ではこれを笑って「孔明の嫁選びを真似てはいけない」と囃し立てたという。これ以降、不器量の娘を進んで選ぶことを「孔明の嫁選び」と呼ぶようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
舅の黄承彦の妻は襄陽の豪族[[蔡瑁]]の長姉であり、蔡瑁の次姉は[[劉表]]の妻であるため、蔡瑁・劉表は義理の叔父に当たる。また、諸葛亮の長姉は[[蒯祺]]の妻、次姉は[[ホウ徳公|龐徳公]]の息子の妻であり、龐徳公の甥の[[ホウ統|龐統]]も親戚である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 三顧の礼 ===&lt;br /&gt;
[[File:Liu Bei Zhuge Liang.jpg|thumb|[[明]]の時代に描かれた[[三顧の礼]]の様子]]&lt;br /&gt;
この頃[[華北]]では、建安5年（[[200年]]）に[[曹操]]が[[袁紹]]を打ち破って覇権を手中にし、南進の機会を窺っていた。劉備は袁紹の陣営を離れて劉表を頼り、荊州北部・新野（[[河南省]][[南陽市 (河南省)|南陽市]][[新野県]]）に居城を貰っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
諸葛亮は晴耕雨読の毎日を送っていたが、友人の徐庶が劉備の下に出入りして、諸葛亮のことを劉備に話した。人材を求める劉備は徐庶に諸葛亮を連れてきてくれるように頼んだが、徐庶は「諸葛亮は私が呼んだくらいで来るような人物ではない」と言ったため、劉備は3度諸葛亮の家に足を運び、やっと幕下に迎えることができた。これが有名な「[[三顧の礼]]」である。裴松之の注によると、『襄陽記』には、劉備が人物鑑定家として有名な[[司馬徽]]を訪ね、司馬徽は「時勢を識るは俊傑にあり」として「伏竜」と「鳳雛」、すなわち諸葛亮と&amp;amp;#40848;統とを薦めたという話が載る。また『魏略』には、諸葛亮の方から劉備を訪ねたという話が載っていたという。その後に裴松之自身の案語として、「「出師表」には明らかに劉備が諸葛亮を訪ねたと書いてある。それなのにこんな異説を立てるとは、実にわけの分らぬ話である」とある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時、諸葛亮は劉備に対していわゆる「&#039;&#039;&#039;[[隆中策|天下三分の計]]&#039;&#039;&#039;」を披露し、曹操・[[孫権]]と当たることを避けてまず荊州・[[益州]]を領有し、その後に天下を争うべきだと勧めた。これを聞いた劉備は諸葛亮の見識に惚れ込み、諸葛亮は劉備に仕えることを承諾した。これを孔明の出廬と呼ぶ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 赤壁の戦い ===&lt;br /&gt;
建安13年（[[208年]]）、劉表陣営では劉&amp;amp;#29742;が後継となることがほとんど決定的となり、劉&amp;amp;#29734;は命すら危ぶまれていた。劉&amp;amp;#29734;は自らの命を救う策を諸葛亮に聞こうとしていたが、諸葛亮の方では劉表一家の内輪もめに劉備共々巻き込まれることを恐れて、これに近寄らなかった。そこで劉&amp;amp;#29734;は一計を案じて高楼の上に諸葛亮を連れ出し、登った後ではしごを取り外して、諸葛亮に助言を求めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
観念した諸葛亮は[[春秋時代]]の[[晋 (春秋)|晋]]の[[文公 (晋)|文公]]の故事を引いて、劉&amp;amp;#29734;に外に出て身の安全を図るよう薦めた。劉&amp;amp;#29734;はこれに従い、その頃ちょうど[[江夏区|江夏]]（現在の湖北省武昌）太守の[[黄祖]]が孫権に殺されており、空いていたこの地に赴任する事にした。劉&amp;amp;#29734;の兵力は後に劉備たちが曹操に追い散らされたときに貴重な援軍となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年、劉表が死去。その後を予定通り劉&amp;amp;#29742;が継ぐ。諸葛亮は劉備に荊州を取れば曹操に対抗できるとすすめたが、劉備はこれに難色を示す。まもなく曹操が南下を開始すると、劉&amp;amp;#29742;はすぐさま降伏した。劉備は曹操の軍に追いつかれながらも、手勢を連れて[[夏口]]へ逃れた（[[長坂の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
孫権陣営は情勢観察のため劉表の二人の息子への弔問を名目に[[魯粛]]を派遣してきていた。諸葛亮は魯粛と共に孫権の下へ行き、曹操との交戦と劉備陣営との同盟を説き、これに成功した。この際、孫権から「劉豫州(劉備)はどうしてあくまでも曹操に仕えないのか。」と問われ、諸葛亮は答えた、「[[田横]]は斉の壮士に過ぎなかったのに、なおも義を守って屈辱を受けませんでした。まして劉豫州(劉備)は王室の後裔であり、その英才は世に卓絶しております。多くの士が敬慕するのは、まるで水が海に注ぎこむのと同じです。もし事が成就しなかったならば、それはつまりは天命なのです。どうして曹操の下につくことなどできましょうか。」&amp;lt;ref&amp;gt;後世において孫盛は、この言「事業が成就しなければそれはそれでしかたがない。どうして彼らに屈服できようか」をまことに壮烈であって、臆病者の心をも奮い立たせると評し、魏に降伏した劉禅や譙周を批判している。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
その後、劉備・孫権の連合軍は曹操軍と[[長江]]流域で対決し、勝利した（[[赤壁の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 入蜀 ===&lt;br /&gt;
戦後、劉備たちは孫権・曹操の隙を衝いて荊州南部の4郡を占領した。諸葛亮は軍師中郎将に任命され、4郡の内の3郡の統治に当たり、ここからの税収を軍事に当てた。この頃、諸葛亮と並び称された&amp;amp;#40848;統が劉備陣営に加わった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
建安16年（[[211年]]）、荊州の次に取る予定であった益州の[[劉璋]]より、[[五斗米道]]の[[張魯]]から国を守って欲しいとの要請が来た。しかし、その使者の[[法正]]は[[張松]]と謀って、益州の支配を頼りない劉璋から劉備の手に渡す事を目論んでいた。劉備は初めこれを渋ったが、&amp;amp;#40848;統の強い勧めもあり、益州を奪う決心をした。劉備は&amp;amp;#40848;統・[[黄忠]]・法正らを連れて益州を攻撃した。諸葛亮は[[張飛]]・[[趙雲]]らとともに長江を遡上し、手分けして郡県を平定すると、劉備と共に成都を包囲した（[[劉備の入蜀]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
建安19年（[[214年]]）に益州が平定されると、諸葛亮は軍師将軍・署左将軍府事となる。劉備が外征に出る際には常に成都を守り、兵站を支えた。また[[伊籍]]・法正・[[李厳]]・[[劉巴]]とともに蜀の法律である[[蜀科]]を制定した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 夷陵の戦い ===&lt;br /&gt;
その後、劉備は曹操に勝利し[[漢中]]を領有したが、荊州の留守をしていた[[関羽]]が[[呂蒙]]の策に殺され、荊州は孫権に奪われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
劉備の養子の[[劉封]]が[[孟達]]・[[申儀]]の裏切りにより曹操軍に敗走して成都に戻ってくると、劉備は劉封が関羽の援軍に行かなかったことと、孟達の軍楽隊を没収したことを責めた。諸葛亮は劉封の剛勇さは劉備死後に制御し難くなるだろうという理由から、この際に劉封を除くように進言した。劉備はその提案に従い、劉封を自殺させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
建安25年（[[220年]]）には曹操が死去し、その子の[[曹丕]]が遂に後漢の献帝より[[禅譲]]を受けて、魏王朝を建てた。翌年、劉備はこれに対抗して成都で即位して[[蜀|蜀漢]]を建て、諸葛亮は丞相・[[録尚書事]]となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
劉備が呉へ進軍を計画し、この戦いの準備段階で張飛が部下に殺されるという事件が起こり、諸葛亮は張飛が就いていた司隷校尉を兼務する。この戦いは最初は順調に行き、途中孫権は領土の一部を返還して和睦を行おうとしたが、劉備はそれを聞かず、[[陸遜]]の作戦にはまり大敗に終わった（[[夷陵の戦い]]）。この戦いの後、諸葛亮は「法正が生きていれば、これ程の大敗にはならなかった筈だ」と嘆いた（法正は建安25年（[[220年]]）に死去している）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
劉備は失意から病気が重くなり、逃げ込んだ[[白帝城]]で[[章武]]3年（[[223年]]）に死去する。死去にあたり劉備は諸葛亮に対して「君の才能は曹丕の10倍ある。きっと国を安定させて、最終的に大事を果たすだろう。もし後継ぎ（=[[劉禅]]）が補佐するに足りる人物であれば、補佐してくれ。もし、後継ぎに才能がなければ、君が自ら国を奪いなさい」と言った。これに対し、諸葛亮は、涙を流して、「私は思い切って手足となって働きます」と答え、あくまでも劉禅を補佐する姿勢を取った。&lt;br /&gt;
また、劉備は臨終に際して諸葛亮に向い、「馬謖は、言葉が実質以上に先行するから、重要な仕事をさせてはいけない。君はそのことを察知しておれよ」と言い残した。&amp;lt;ref&amp;gt;馬謖伝&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 益州南部の平定 ===&lt;br /&gt;
劉禅が帝位に即くと、諸葛亮は武郷侯・開府治事・益州刺史になり、政治の全権を担った。&lt;br /&gt;
諸葛亮は孫権が劉備の死去を聞けばたぶん異心を抱くだろうと深く心配していたが、[[鄧芝]]を派遣して孫権との友好関係を整え、孫権は魏との関係を絶ち、蜀と同盟し、[[張温]]を派遣して返礼させた。さらに、魏に対する[[北伐]]を企図する。魏は、諸葛亮が実権を握ったのを見て、[[華キン|華歆]]・[[王朗]]・[[陳羣]]・許芝、同族の諸葛璋ら高官が相次いで降伏勧告の手紙を送りつけたが、諸葛亮は返事を出さず後に「正議」を発表し彼らを批判した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
益州南部で[[雍ガイ|雍&amp;amp;#38355;]]・[[高定]]らが反乱を起こすが、諸葛亮は[[建興 (蜀)|建興]]3年（[[225年]]）に益州南部四郡を平定。この地方の財物を軍事に充てた。この時、七縱七禽の故事があったともいわれるが、本伝には見えない（詳しくは[[孟獲]]の項を参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 北伐 ===&lt;br /&gt;
[[File:Sima Yi flees from Zhuge Liang.jpg|thumb|[[清]]の時代、想像で描かれた諸葛亮と[[司馬懿]]]]&lt;br /&gt;
建興5年（[[227年]]）、諸葛亮は[[北伐]]を決行する。北伐にあたり上奏した「[[出師表]]」は名文として有名であり、「これを読んで泣かない者は不忠の人に違いない」（『[[文章軌範]]』の評語）と称賛された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
魏を攻める前年、諸葛亮は、以前魏へ降伏した新城太守の孟達を再び蜀陣営に引き込もうとした。孟達は魏に降った後、曹丕に重用されていたが、建興4年（[[226年]]）の曹丕の死後は立場を失い、危うい状況にあった。諸葛亮はこれを知ると孟達に手紙を送り、孟達の方も返書を出した。さらに申儀の讒言や[[司馬懿]]の疑惑を恐れた孟達は、魏に反乱を起こそうとした。しかし孟達は司馬懿の急襲を受けて討ち取られた&amp;lt;ref&amp;gt;魏志「明帝紀」所引の『魏略』より。蜀志「費詩伝」では、諸葛亮は孟達に誠実な心がないと思っていたため、救助しなかったとある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌建興6年（[[228年]]）春、諸葛亮は漢中より魏へ侵攻した。[[魏延]]は、自らが別働隊の兵1万を率い、諸葛亮の本隊と[[潼関]]で合流する作戦を提案したが、諸葛亮はこれを許可しなかった&amp;lt;ref&amp;gt;「魏延伝」の記述より。『魏略』によると、この時魏延は長安を急襲する作戦を提案している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。魏延はその後も北伐の度にこの作戦を提案するが、いずれも諸葛亮により退けられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
諸葛亮は宿将の趙雲をおとりに使って、郿を攻撃すると宣伝し、[[曹真]]がそちらに向かった隙を突いて、魏の西方の領地に進軍した。この動きに南安・[[天水]]・安定の3郡（いずれも現在の[[甘粛省]]に属する）は蜀に寝返った。魏はこの動きに対して[[張コウ|張&amp;amp;#37059;]]を派遣した。諸葛亮は戦略上の要地である街亭の守備に、かねてから才能を評価していた[[馬謖]]を任命したが、馬謖は配下の[[王平]]の諫言を無視して山上に布陣し、張&amp;amp;#37059;により山の下を包囲され、水の供給源を断たれて敗北した。街亭を失ったことで蜀軍は進軍の拠点を失い、全軍撤退を余儀なくされた（[[街亭の戦い]]）。撤退時に諸葛亮は西県を制圧して1000余家を蜀に移住させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
撤退後、諸葛亮は馬謖らを処刑したほか（「[[泣いて馬謖を斬る]]」の語源）、自らも位を3階級下げて[[右将軍]]になったが、引き続き丞相の職務を執行した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年冬、諸葛亮は再び北伐を決行し、その際「後出師表」を上奏したとされるが&amp;lt;ref&amp;gt;呉の張儼『黙記』、[[習鑿歯]]『漢晋春秋』より。&amp;lt;/ref&amp;gt;、偽作説が有力である。二度目の北伐では陳倉城を攻囲したが、曹真が侵攻路を想定して城の強化を行わせていたことや、守将の[[カク昭|郝昭]]の奮戦により、陥落できないまま食糧不足となり撤退した。撤退時に追撃してきた魏将[[王双]]を討ち取っている（[[陳倉の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌年（[[229年]]）春、第3次の北伐を決行し、武将の[[陳式]]に[[武都]]・陰平の両郡を攻撃させた。魏将[[郭淮]]が救援に向かうが、諸葛亮が退路を断つ動きを見せると撤退したため、陳式は無事に武都・陰平の2郡を平定した。この功績により、再び丞相の地位に復帰した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
建興9年（[[231年]]）春2月、諸葛亮ら蜀軍は第4次の北伐を行い、魏の祁山を包囲すると別働隊を北方に派遣したが、張&amp;amp;#37059;ら魏軍が略陽まで進軍してくると、祁山まで後退した。司馬懿が率いる魏軍は祁山を開放するために、司馬懿が諸葛亮の軍を、張郃が王平の軍を攻撃したが、撃退された。蜀軍は局地的に勝利したものの長雨が続き食糧輸送が途絶えたため撤退した。撤退時に追撃してきた魏の張&amp;amp;#37059;を[[伏兵]]を用いて射殺している&amp;lt;ref&amp;gt;この戦いは、張郃の戦死を除くと勝敗優劣は『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』本伝に書かれておらず、蜀軍が撤退した理由も兵糧不足とある。習鑿歯の『漢晋春秋』では、蜀軍が魏軍の郭淮・[[費耀|費曜]]・司馬懿を破ったとしている。経緯は異なるが『蜀記』にも蜀軍が魏軍に大勝した話が書かれている。『[[晋書]]』では、魏軍が蜀軍を撃退、追撃して大勝したとしている。『漢晋春秋』に書かれた戦いは『三国志』蜀書王平伝にもあるが、王平伝では王平が陣を固守したため張郃が撤退したこと以外勝敗は書かれていない。『三国志』後主伝・諸葛亮伝・張郃伝では、蜀軍を追撃した魏の張郃が射殺されたことのみ言及され、勝敗には触れていない。この戦いの後、魏では蜀軍を撤退へ追い込んだ功により官位の引き上げが行われ、蜀漢で官位の引き下げは行われていない。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
食糧輸送を監督していた李平（李厳から改名）は、糧秣の不足を伝えて諸葛亮を呼び戻させる一方、軍が帰還すると「食料は足りているのになぜ退却したのだろうか」と驚いたふりをして責任転嫁をはかろうとした。しかし諸葛亮は出征前後の手紙を提出して李平の矛盾をただしたため、李平は自分の罪を明らかにした。そこで彼を庶民に落として流罪にした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
建興12年（[[234年]]）春2月、第5次の最後の北伐を行った。諸葛亮は[[屯田]]を行い、持久戦の構えをとって[[五丈原]]で司馬懿と長期に渡って対陣した。しかし、同時に出撃した呉軍は荊州および[[合肥]]方面の戦いで魏軍に敗れ、司馬懿も防御に徹し諸葛亮の挑発に乗らなかった。諸葛亮は病に倒れ、秋8月（『[[三国志演義]]』では8月23日）、陣中に没した（[[五丈原の戦い]]）。享年54。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 死後 ===&lt;br /&gt;
諸葛亮の死後、蜀軍は退却した。この時、魏延は[[楊儀]]の指揮下に入ることを拒否して争いを起こしたが、結局楊儀に殺された。蜀軍が撤退した後、司馬懿はその陣地の跡を検分し、「天下奇才也」（天下の奇才なり）と驚嘆した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
諸葛亮は自身の遺言により漢中の定軍山に葬られた。墳墓は山の地形を利用し作り、棺を入れるだけの小規模なもので、遺体も着用していた衣服を着せたままで、副葬品は一切入れないという質素なものであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
諸葛亮が死去したとの報を聞いた李厳（李平）は、「もうこれで（官職に）復帰できる望みは無くなった」と嘆き、程なく病を得て死去した。同様に、僻地へ追放されていた[[廖立]]も、彼の死を知るや、「私は結局蛮民になってしまうだろう」と嘆き涙を流した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
諸葛亮の死の直後、各地で霊廟を建立したいという願いが出たが、朝廷は礼の制度に背くとして許可しなかった。また後に成都に諸葛亮の廟を建立すべきだとの意見も提出されたが、劉禅はこれを許可しなかった。しかし、民衆や異民族は季節の祭りを口実に、諸葛亮を路上で勝手に祀ることがあとを断たなかった。結局、習隆・向充の上奏を受け、[[景耀]]6年（[[263年]]）に成都ではなく沔陽に廟が建立された&amp;lt;ref&amp;gt;習鑿歯『襄陽記』より&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 評価 ==&lt;br /&gt;
=== 陳寿の評 ===&lt;br /&gt;
[[File:成都武侯祠诸葛亮塑像.JPG|thumb|武侯祠の諸葛亮像]]&lt;br /&gt;
『三国志』の撰者の[[陳寿]]の評では「時代にあった政策を行い、公正な政治を行った。どのように小さい善でも賞せざるはなく、どのように小さい悪でも罰せざるはなかった。多くの事柄に精通し、建前と事実が一致するか調べ、嘘偽りは歯牙にもかけなかった。みな諸葛亮を畏れつつも愛した。賞罰は明らかで公平であった。その政治の才能は管仲・蕭何に匹敵する」と最大限の評価を与えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、その一方で「毎年のように軍隊を動かしたのに（魏への北伐が）あまり成功しなかったのは、応変の将略（臨機応変な軍略）が得意ではなかったからだろうか」とも書いており、政治家として有能であったと評しつつ、軍人としての評価については慨嘆するに留まり、やや言葉を濁した形になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、『三国志』に収録されている「諸葛氏集目録」で陳寿らは「諸葛亮は軍隊の統治には優れていたが、奇策はそれほど得意でなく、敵のほうが兵数が多かったので、魏に対する[[北伐]]は成功しなかった」と評している&amp;lt;ref&amp;gt;「諸葛氏集目録」によれば、諸葛亮は道具の改良や技術の発展に大貢献した。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
諸葛亮が奇策を用いなかったことについては、「古来より兵を出して奇計を使わず危険を冒さず成功した者などいない。諸葛孔明の用兵は奇計を使えなかった所に欠点がある。…孔明に功を挙げられないのは、そもそも予想がつくことであり、仲達を必要とすることもない」（王志堅『読史商語』）など批判する意見もある一方で、&lt;br /&gt;
* 「蜀がもともと弱国で危ういことを知っていたから、慎重堅持して国を鎮めたのだ」（[[傅玄]]『傅子』）&lt;br /&gt;
* 「主君が暗愚で敵国が強大であるので（魏を一気に滅ぼす）計画を変更して蜀を保持しようとしたまでのことだ」（王夫之『読通鑑論』）&lt;br /&gt;
* 「諸葛公はリスクが大きい計略だから用いなかったのではない。大義を標榜した出兵だったから策謀や詭計を用いなかったのだ」（[[洪邁]]『[[容斎随筆]]』）&lt;br /&gt;
など様々に擁護する意見もあり、にぎやかに議論が行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
陳寿の評について「彼の父が諸葛亮によって処罰されたため、評価を厳しくしたのだ」という説が『晋書』陳寿伝にある。（詳しくは[[陳寿#陳寿への非難]]の項を参照）&amp;lt;ref&amp;gt;『三国志』蜀書諸葛亮伝の注に引く[[孫盛]]の『異同記』によれば、蜀（益州）の長老が「陳寿が諸葛亮の子の諸葛瞻の部下だったとき、諸葛瞻から恥辱を受けた。陳寿はそのことを根に持って、諸葛瞻は政治の乱れを矯正できなかったと『三国志』に書いた」と語ったという。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他の評価 ===&lt;br /&gt;
前述のほか、後世に至るまでの評を挙げる。&lt;br /&gt;
* [[裴松之]]：「諸葛亮が魏に仕えて能力を発揮していたら、[[陳羣]]や司馬懿でも対抗できなかっただろう」&lt;br /&gt;
* [[杜甫]]：「[[伊尹]]や[[呂尚]]に伯仲し、天下がその指揮に服したならば[[蕭何]]や[[曹参]]も問題にならなかっただろう」（「詠懐古跡」其の五）&lt;br /&gt;
* [[蘇軾]]：「強大な曹操に対して、自らの内の忠信の心のみをもって対抗した」（『東坡全集』前集巻43「諸葛亮論」）&lt;br /&gt;
* [[朱熹]]：「[[孟子]]以降の人物としては[[張良]]と諸葛亮がいるのみである」（『[[朱子語類]]』巻163・歴代3）&lt;br /&gt;
* 裴注所引『袁子』：「諸葛亮は基本を守る人間で、状況の変化に対応するのは得意ではなかった。だから不得手な面（状況の変化に対応する事）で無理をしなかったのである。不得手な点を知って無理をしない事こそ賢者の偉大なところである」&amp;lt;ref&amp;gt;また「諸葛亮の行軍は安定・平静で行動しやすく、堅固・慎重で進退自在であり、法令は明快にして信賞必罰を旨としていたため、士卒は勇んで戦った。諸葛亮が行軍中に作った軍営・井戸・かまど・厠・砦などは立派で規則に適い、撤退する時はそれらをすっかり取り去っていった。また諸葛亮は役所・宿場・橋・道路の修築を好んだが、（袁子によれば）諸葛亮は国家の根幹を確立することで末端も治まるとの方針に基づいてこれらの工事を奨励した。諸葛亮の統治により、田畑は開墾され、武器の性能は良くなった」とも評している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 蜀の[[費イ|費禕]]は[[姜維]]に「我々は丞相（諸葛亮）に遥かに及ばない。丞相でさえ[[中原]]を平定できなかったのだ。我らなどでは問題外だ。功業樹立は能力のある者の到来を待とう」と語り、諸葛亮を賞賛している。&lt;br /&gt;
* [[西晋]]の[[司馬炎]]は「（諸葛亮を）自分の補佐にしていれば今日の苦労はなかったであろう」と宰相としての諸葛亮を賞賛している（諸葛亮伝・裴注所引『漢晋春秋』）。&lt;br /&gt;
* [[崔浩]]：「曹氏と天下を争う事あたわず、荊州を委棄し退きて巴蜀に入り、劉璋を誘奪し、孫氏を偽連し、守るもキ嶇の地に窮し、辺夷の間に僭号す。此の策の下なるは、趙他を以て偶と為すべきにして、以て管蕭の亜匹と為すは、また過ぎたるにあらずや。」と極めて辛口の評を述べている（『[[魏書]]』毛脩之伝）。&lt;br /&gt;
* 劉璋が支配していた益州を奪ったことに関しては、蘇軾は「劉璋をだまし討ちにし、荊州に連れ去った事で天下の声望を失った。これでは曹操と変わる所が無い。劉備と曹操では才能・兵力・領土に大きな差があり、忠信の心のみが勝っていた。（劉璋をだまし討ちにして）これを失ってから北伐の大義と唱えても上手く行くはずが無い」と述べている（前掲「諸葛亮論」）。これに対し、[[明]]代の学者・王世貞は、劉璋を討つ事を劉備に勧めたのは諸葛亮ではなく龐統・法正である事、また[[劉焉]]は漢朝からの独立を企図した叛臣とみるべき存在であり、子たる劉璋を討つ事は正当化される事などを理由として反論している（『読書後』巻2「書蘇子瞻諸葛亮論後」）。&lt;br /&gt;
* 巴蜀では死後も永くその統治を慕い、懐かしんだ。死後、廟の建立を求める声が各地から挙がり、特別に議して沔陽に立てられた（『襄陽記』）。&lt;br /&gt;
* [[東晋]]の武将[[桓温]]が347年に蜀の[[成漢]]を滅ぼし入蜀を果たした際、諸葛亮が生きていたときに小吏を務めていたという百歳をこえる老人に対し、桓温が「諸葛丞相は、今でいえば誰と比べられるか？」と問うた所、「諸葛丞相が存命中のときはそれほど特別なお方のようには見えませんでした。しかし諸葛丞相がお亡くなりになられてからは、あの人のような人はもういらっしゃらないように思います」と答えたという（『説郛』）。なお、桓温は[[簡文帝 (東晋)|簡文帝]]臨終の際に禅譲を考えていたことから、簡文帝に「諸葛亮や[[王導]]のように皇太子（[[孝武帝 (東晋)|孝武帝]]）を補佐してほしい」と遺詔された。&lt;br /&gt;
*唐代の[[文人]]・[[孫樵]]は「武侯（孔明）が死んでほとんど500年になろうとしているが、今に至るまで梁漢（蜀）の民はその事績を歌にうたい、廟に祭る者あるが如し。その民に愛されることかくの如く久しい」と『刻武侯碑陰』に書く。&lt;br /&gt;
*[[東晋]]の[[習鑿歯]]は、かつて劉備が「馬謖に重事を任せてはならない」といましめていながら、諸葛亮が北伐に際し馬謖を将に起用して大敗し、彼を処刑してしまったことを踏まえて、「人を見る目という点で大失敗を犯し、聡明な君主のいましめに背くことになり、人を裁く上で的を外し、有益な人物を殺すこととなった」とし、「中国を併呑できなかったのも当然のことではなかろうか」と厳しく断じている。しかしその一方李厳や廖立を廃しながらも、その二人に恨みがましい言葉どころかその死を嘆かせた事をあげ、「諸葛亮の刑罰の行使がよく的を射ていたといってよく、秦･漢以来絶えて無かったことである」と法の厳正さを賞賛している。&lt;br /&gt;
*[[李コウ (西涼)|李暠]]：「諸葛亮の訓励・応璩の奏諌を覧るに、其の終始を尋ぬれば周孔の教尽く中に在り」（『晋書』涼武昭王伝）&lt;br /&gt;
*中国文学翻訳家の土屋文子が、『[[歴史読本]]　1993年4月号』（[[新人物往来社]]）の「現代中国の諸葛孔明批判」&amp;lt;ref&amp;gt;『歴史読本 特集 三国志 七人の軍師』 一九九三年四月号　P152-157、新人物往来社&amp;lt;/ref&amp;gt;で発表したところによれば「文化大革命が終了した後の一九八〇年代前半は、中国の史学研究がいわゆる儒教闘争史の頚木から解放され、著しく活性化した時期であった。」「諸葛亮個人に関するものに限ってみても、一九八〇年から一九八五年までの五年間に全国でおよそ一五〇篇にものぼる論文が発表されているが、これは文革以前の一七年間における累計の約三倍に相当する数字である。」このことから、これを「『諸葛亮研究史における繁栄と収穫の時期』であったといってよいだろう」とし、「八〇年代に入って発表された論文の中には、これまでは諸葛亮の功績として評価されてきた事項に、新たな疑問と批判を投げかける、いわば諸葛亮否定論といった風潮が生じている。」と指摘し、こうした論文に対して「こうした批判的風潮は、何もいたずらに諸葛亮をおとしめるために起こったものではなく、論者たちはこのような過激な手法を手がかりとして、諸葛亮に対する従来の一方的な賛美から脱却し、新たなアプローチを試みているのである。」との見解を提示している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 『三国志演義』中の諸葛亮 ==&lt;br /&gt;
[[File:Zhuge Liang.jpg|thumb|諸葛亮の画]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{main|三国志演義の成立史#諸葛孔明}}&lt;br /&gt;
小説『[[三国志演義]]』の中で、その名前を字で記載されているのは玄徳（劉備）と孔明（諸葛亮）のみである（このほか関羽も字の「雲長」や「関公」などと呼ばれて「関羽」と記されることはない）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『初学記』巻二十五に引く『語林』では、諸葛亮が白い輿に乗り、葛巾をかぶり羽扇を手に軍を指揮したと描写されているが、『三国志演義』ではさらにイメージがふくらまされ、綸巾を戴き羽扇を手にして四輪車に乗り、鬼神や天候をも操り、敵の意図を全て事前に察知し、天文をもって人の生き死にを知る事が出来るといったほぼ完璧な人物として描写されている。この描写については批判もあり、[[魯迅]]などは「人物描写に至ってはすこぶる欠点がある。劉備を温厚な人格者として表現しようとしてむしろ偽善者じみているし、諸葛亮を知恵者として表現しようとしてむしろ化け物じみてしまっている」と述べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
諸葛亮の事跡に関して、『三国志』と『演義』との主な相違点を挙げる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 『演義』では曹操が南下をもくろみ、[[夏侯惇]]に10万の兵を付けて派遣するが、諸葛亮の作戦でこれに大勝した、またこの時に関羽と張飛が諸葛亮に対し反抗したが、[[孫武]]の策を使い従わせた、となっているが、実際にはこの戦いは諸葛亮が劉備軍に参加する前の話である。&lt;br /&gt;
* [[赤壁の戦い]]に於いて、前述の通り諸葛亮はあまり目立った事はしていないが、『演義』に於いては重要な役割を演じている。&lt;br /&gt;
** 非戦論を主張する張昭ら呉の重臣達と論戦し全て言い負かし沈黙させる。&lt;br /&gt;
** 非戦論に傾いていた孫権・[[周瑜]]を説得して交戦に向かわせる（『三国志』に徴すれば、周瑜は最初から抗戦を主張していた,[[田横]]の最後を例に挙げ孫権を説得している）。&lt;br /&gt;
** 戦いが始まってから周瑜は諸葛亮の才能を恐れるようになり、諸葛亮に対して10日で矢10万本を手に入れろと言う無理難題を突きつけて殺そうとしたが、諸葛亮は霧の出た夜に曹操軍に夜襲を仕掛け、曹操軍が放った矢を鹵獲して帰った（裴松之注に見られる孫権の逸話を利用したもの）。&lt;br /&gt;
** 曹操軍を火攻めにすると決まったものの北西の風しか吹かず、このままでは火を点けてもその火が自分達に返ってくる事がわかり、周瑜は悩んでいた。そこで諸葛亮は壇を築いて祈祷し、東南の風を吹かせ、曹操軍を焼き討ちにしたことになっている。&lt;br /&gt;
*赤壁の戦いでの敗戦後、曹操の敗軍を旧恩により見逃した関羽を軍律に照らし斬ろうとするも、劉備のとりなしで免じる。&lt;br /&gt;
* 赤壁以後の荊州争奪戦に於いて、周瑜は曹操の残党軍を攻めてこれを打ち破るが、諸葛亮はこの隙を突いて曹操軍の城を占領し、諸葛亮に先んじられた事で怒った周瑜は持病が悪化する。その後、周瑜は蜀を取るからと偽って荊州に入り、隙を突いて荊州を占領しようと図ったが、全て諸葛亮に看破され、再び怒った周瑜は「既生瑜、何生亮」（天はこの世に周瑜を生みながら、なぜ諸葛亮をも生んだのだ!）と叫び、そのまま持病が悪化して死去したとなっているが、これらも『三国志』本伝にはない。&lt;br /&gt;
* 北伐で馬謖の失策により蜀軍が総崩れで敗北し、魏軍の追っ手の司馬懿らを目の前に諸葛亮自らが城壁の上で琴を弾く「[[空城計|空城の計]]」を使い、城壁の裏に大軍がいると勘違いした司馬懿が諸葛亮を恐れて撤退した。これも『演義』の創作である（史実では趙雲が曹操に対して使い、諸葛亮は趙雲を評価した）。&lt;br /&gt;
* 『演義』では北伐中、諸葛亮が魏延の危険性を察知し、追撃してきた司馬懿を谷に誘い込んで魏延共々焼き殺そうとしたが、雨が降ったことで失敗する。その事が原因となって魏延をなだめるため「[[馬岱]]が自分の命令を守らなかったための手違い」として処理し馬岱を一兵卒に落とした&amp;lt;ref&amp;gt;『演義』の版本として現在最も通行している毛宗崗本では、この部分は削除されている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 最後の北伐に於いて、病状が悪化した諸葛亮は幕内に祭壇を築いて寿命を延ばす祈祷を行うが、唐突に幕内に入ってきた魏延がこの祭壇を壊してしまったために祈祷に失敗し、死去する。諸葛亮の死の時に大きな流星があり、司馬懿はこれを見て諸葛亮の死んだ事を悟り、蜀軍に対して総攻撃をかけようとする。ところが蜀軍には諸葛亮の姿があり、これに狼狽した司馬懿は慌てて引き上げる。だが実はこの諸葛亮は木像であったと描いている。後に現地の人間は「死せる孔明、生ける仲達（司馬懿の字）を走らす」と言ったという（この台詞は裴注に引く『漢晋春秋』に見えるが、木像に狼狽したというのは演義の創作である）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 著作等 ==&lt;br /&gt;
『三国志』諸葛亮伝では、「諸葛亮は創造力があった」「諸葛亮の言葉・布告・書簡・上奏文には見るべきものが多くあった」と諸葛亮の創造性と文才を高く評価している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
諸葛亮の著作としてはもちろん「出師表」が最も有名である。[[漢詩]]などはまったく残しておらず、その他の文章も全て政治的なことに関する文章である。『三国志』中に引用されているものとして「出師表」の他には李厳を弾劾する表、廖立を弾劾する表などがある。諸葛亮の文章を陳寿が編纂した『諸葛亮集』なる書物があったが現存していない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「後出師表」は『三国志』本伝に見えず、呉の張儼の著作『黙記』に収録されていたものが『漢晋春秋』に引用され、それを更に裴松之が引用している（裴松之も「この上表文は『諸葛亮集』には見えない」と注記している）。しかしこの文章は[[228年]]に書かれたもののはずだが、翌[[229年]]に死去したはずの趙雲が、すでに死んでいるという記述がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また『三国志』諸葛亮伝によれば、諸葛亮は兵法を応用して八陣の図を作成したが、ことごとく要点をつかんでいた。『[[李衛公問対]]』では、[[唐]]の名将[[李靖]]の「六花の陣」は、諸葛亮の「八陣の法」を参考にして作られているとしている。『三国志演義』では、諸葛亮は『[[兵法二十四編]]』を死の直前に姜維に托している。また宋代には『諸葛亮行兵法』『諸葛亮将苑』など諸葛亮の名を冠した偽兵法書の書名が散見する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
諸葛亮は発明家でもあり、諸葛亮に関係した物として、晋時代に普及した筒袖鎧・連発式の[[弩]]を工夫した元戎（『魏氏春秋』によれば、この弩は十本の矢を同時に発射することができた）・一説には一輪車の起源とされる[[木牛]]・一説に四輪車と言われる流馬・駐留時栽培させた諸葛菜（[[蕪]]）・織物の技術を南蛮民に伝えた諸葛錦・字を知らない民の教育に使用した紙芝居・諸葛亮が考案したおもちゃ孔明鎖・現在雲南地方に諸葛亮発明の物として[[天灯|孔明灯]]なるものなどがあるとされる{{要出典|date=2009年3月}}&amp;lt;ref&amp;gt;『三国志』諸葛亮伝によれば、諸葛亮は連発式の弩（[[弩#連射性能|元戎]]）・木牛・流馬を開発した。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお「[[饅頭]]」という食品は、諸葛亮が南蛮征伐の際、人頭を祀るという風習の代りに、人頭の代替食品として、小麦の練り物の内部に肉団子を包み込み、人頭に見立てて考え出したものであるという話があるが、これは宋代の類書『事物紀原』に「小説に曰く」と前置きして引かれている話である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==家系==&lt;br /&gt;
===家系図===&lt;br /&gt;
 ●&lt;br /&gt;
 ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓&lt;br /&gt;
 諸葛珪　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　                    [[諸葛玄]]&lt;br /&gt;
 ┣━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━┓                    &lt;br /&gt;
 [[諸葛瑾]]　　　　　　　　　[[諸葛亮]]                       [[諸葛均]]       [[諸葛誕]]&lt;br /&gt;
 ┣━━━┳━━━┓　　　  ┣━━━━━━━━━━━┓&lt;br /&gt;
 [[諸葛恪]]　[[諸葛喬]]　[[諸葛融]]　  [[諸葛瞻]]　　　　　　　    [[諸葛懐]]&lt;br /&gt;
 　　　   ┃　　　　　　      ┣━━━┳━━━┓&lt;br /&gt;
 　　　   諸葛攀　　　　　    [[諸葛尚]]　[[諸葛京]]　[[諸葛質]]&lt;br /&gt;
 　　　　  ┃&lt;br /&gt;
 　　　　  諸葛顕&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 諸葛亮の子孫たち ===&lt;br /&gt;
[[中華人民共和国|中国]]には諸葛亮の子孫が集まったとされる[[諸葛八卦村]]が[[浙江省]][[蘭渓市]][[諸葛鎮 (浙江省)|諸葛鎮]]にあり、住民の多くの姓が「諸葛」となっている。近年になって諸葛亮の家系図（彼らの先祖は諸葛亮の孫の[[諸葛京]]の家系とされる）が見つかるが、諸葛亮自身も1800年も前の人物であるので、実際に彼らが諸葛亮の子孫なのかどうかは家系図以外に実証する資料がない。諸葛亮が伝来させたという文化をよく守り、諸葛八卦村は中国から文化財として指定され観光地としても有名である&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.tourzj.jp/zhuge.html 諸葛八卦村 -浙江省観光局公式ページ]より。一部修正&amp;lt;/ref&amp;gt;。なお、[[東京ガールズコレクション]]にも出演歴がある&amp;lt;ref&amp;gt;[http://gw.tv/tgc/09AW/model/_sa/shokatsu/ 東京ガールズコレクション&#039;09 A/W | 出演モデル | 諸葛梓岐]&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[諸葛梓岐]]（マリー・ジュウガー）は諸葛亮63代目の子孫であるという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
張澍『諸葛忠武侯文集』によれば、諸葛質という息子がおり（故事巻一「雑記」）、また[[諸葛懐]]という息子・諸葛果という娘がいたとされる（故事巻一「朝真観記」）。諸葛果は[[成都]]近くの[[道観]]で修行して、ついに[[仙人]]となって昇天したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==脚注==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考書籍  ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size:90%;&amp;quot;&amp;gt; &lt;br /&gt;
*[[陳寿]]　『正史三国志5 蜀書』（[[裴松之]] 注、[[井波律子]] 訳、[[ちくま学芸文庫]]　1992年、ISBN 978-4-480-08045-5）&lt;br /&gt;
* 中林史朗訳著  『諸葛孔明語録』　[[明徳出版社]]〈中国古典新書続編〉 1986年  &lt;br /&gt;
* 渡辺精一訳著 『全論諸葛孔明』　[[講談社]]　2004年&lt;br /&gt;
**渡辺精一 『諸葛孔明　影の旋律』 [[東京書籍]]　1992年&lt;br /&gt;
* 高畠穣 『諸葛孔明の兵法』　[[三笠書房]] 1990年ほか&lt;br /&gt;
* 渡邉義浩 『諸葛亮孔明 その虚像と実像』　[[新人物往来社]]  1998年→新人物文庫、2011年&amp;lt;/span&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===伝記===&lt;br /&gt;
&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size:90%;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
*[[立間祥介]]　『諸葛孔明　三国志の英雄たち』　[[岩波新書]]、1990年	&lt;br /&gt;
*[[植村清二]]　『諸葛孔明』　[[中公文庫]]→[[ちくま文庫]]、2011年　	&lt;br /&gt;
*[[狩野直禎]]　『諸葛孔明　三国時代を演出した天才軍師』 PHP文庫、2003年	&lt;br /&gt;
*林田慎之助　『諸葛孔明　泣いて馬謖を斬る』　[[集英社]]→[[集英社文庫]]&lt;br /&gt;
*宮川尚志　『諸葛孔明　「三国志」とその時代』　[[講談社学術文庫]]、2011年 &amp;lt;/span&amp;gt;　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==登場作品==&lt;br /&gt;
;映画&lt;br /&gt;
*『[[レッドクリフ]]』二部作（2008年、中国・香港・台湾・日本・韓国合作、演：[[金城武]]日本語吹き替え版、声：[[東地宏樹]]）&lt;br /&gt;
;テレビドラマ&lt;br /&gt;
*『[[三国志 諸葛孔明]]』（1985年、中国、主演：[[李法曽]]）&lt;br /&gt;
;人形劇&lt;br /&gt;
*『[[人形劇　三国志]]』（1982～1983、[[NHK]]、声：[[森本レオ]]）&lt;br /&gt;
;アニメ&lt;br /&gt;
*『三国志』（1985年、[[日本テレビ]]、声：富山敬）&lt;br /&gt;
*『[[横山光輝　三国志]]』（1991年~1992年、[[テレビ東京]]、声：[[速水奨]]）&lt;br /&gt;
*『[[三国志　第一部　英雄達の夜明け]]』 (1992年、[[東映]]、声：[[山中一希]]（幼少期）、[[塩屋翼]]（少年期）)&lt;br /&gt;
*『[[三国志　第二部　長江燃ゆ]]』（1993年、東映、声：[[山口崇]]）&lt;br /&gt;
*『[[三国志　完結編　遙かなる大地]]』（1994年、東映）&lt;br /&gt;
*『[[鋼鉄三国志]]』（2007年、声：子安武人）&lt;br /&gt;
*『[[蒼天航路]]』（2009年、日本テレビ、声：平田広明）&lt;br /&gt;
*『[[最強武将伝三国演義]]』（2010～2011日中合作 日本語版、声：[[石井正則]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
{{Commons|Zhuge Liang}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[三顧の礼]]&lt;br /&gt;
*[[天下三分の計]]&lt;br /&gt;
*[[水魚の交わり]]&lt;br /&gt;
*[[出師表]]&lt;br /&gt;
*[[泣いて馬謖を斬る]]&lt;br /&gt;
*[[三国志演義の成立史]]&lt;br /&gt;
*[[オオアラセイトウ]]（諸葛菜）&lt;br /&gt;
*[[饅頭]]&lt;br /&gt;
*[[天灯]]&lt;br /&gt;
*[[誡子書]]&lt;br /&gt;
*竜驤虎視（りゅうじょうこし）:「亮の素志、進みて竜驤虎視し、四海を苞括せんと欲す」（『蜀志』諸葛亮伝）&lt;br /&gt;
*[[小田孔明]] - 下の名前の「孔明（こうめい）」は彼の字（あざな）からとった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しよかつ りよう}}&lt;br /&gt;
[[Category:琅邪諸葛氏|りよう]]&lt;br /&gt;
[[Category:漢代の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:三国志の登場人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:蜀漢の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:181年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:234年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:山東省出身の人物]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Link GA|zh-classical}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>240F:63:D61B:1:1525:B879:B210:4164</name></author>
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		<title>陸績</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;240F:63:D61B:1:1525:B879:B210:4164: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[File:怀桔遗亲.JPG|right|thumb|陸績像]]&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;陸 績&#039;&#039;&#039;（りく せき、[[188年]] - [[219年]]）は、[[中国]][[後漢]]末期の[[政治家]]・[[学者]]・[[武将]]。[[字]]は&#039;&#039;&#039;公紀&#039;&#039;&#039;。[[呉郡]][[呉県]]（現在の[[江蘇省]][[蘇州市]]）の人。陸襃の孫。[[陸康]]の子。陸儁の弟。[[陸尚]]（徐夫人の前夫）の年少の叔父。呉の名門である陸氏の一族で、同族には[[陸遜]]がいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
父の陸康は後漢末期に廬江（現在の[[江西省]][[廬江県]]）の[[太守]]を務めていたが、寿春（現在の[[安徽省]][[六安市]][[寿県]]）に勢力を張った[[袁術]]への対応を迫られることとなった。[[193年]]、陸績は袁術の下にいた時、食事として出された蜜柑を母親に食べさせたいと思い、隠して持ち帰ろうとし、それを知った袁術が陸績の聡明さに感嘆したという逸話がある（[[二十四孝]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後に陸康は袁術と対立し、袁術の部将であった[[孫策]]に攻められた。長期の攻城戦で一族の多くが死亡する被害を受け、自身も降伏した直後、その心労から病死した。陸績は一族の長となった陸遜に引き連れられ呉郡に避難していたが、やがて[[江東]]を席捲した孫策に仕えるようになった。[[張昭]]・[[張紘]]・[[秦松]]といった幕僚たちの末席に位置したが、それでも孫策に堂々と意見をしたため、張昭に感心された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
陸績は風貌は凛々しく、博学多才の読書家で知識が広く、中でも天文と暦学に通じており、年長である[[ホウ統|龐統]]や[[虞翻]]とも堂々と交際した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[孫権]]に招かれて奏曹掾となった。清廉な性格で、孫権に対しても正しいと思うことは何でも諫言したことから、孫権に疎んじられ、中央から退けられて鬱林太守（現在の[[広西チワン族自治区]]）に左遷され、2千の兵を率いる立場となった。陸績は足が不自由で学者としての仕事を望み、『渾天図』を作り『[[易経|周易]]』『[[太玄]]』に注をつけるなど、著述活動に励んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
南方の軍役に従事する中で病を得て死去した。33歳であった。自らの死ぬ日を予測し、自分で自分の辞を作った。その中で、自分の死の60年後に中国大陸が統一される事を予言していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
陸績には宏・叡という男子と鬱生という女がいた。陸宏は[[会稽]]南部[[都尉]]、陸叡は長水[[校尉]]となった。陸鬱生は陸績が鬱林へ赴任した後に生まれ、[[張温]]の弟の張白に嫁いだ。聡明な慎み深い女性で、後に張白が政争に巻き込まれて配流された後も、毅然と夫への貞操を守り抜き、決して再婚しようとしなかったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文と暦学に通じていた陸績は、孫権の命によって当時最新の暦を作った。これによって、[[呉 (三国)|呉]]は[[魏 (三国)|魏]]よりも精確な暦を使用することができ、同時にこれは、魏に対する牽制ともなった（暦の作成は皇帝のみ保有する権利であったため）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小説『[[三国志演義]]』では、孫権の時代に集まった人材の一人として名が挙がる。[[赤壁の戦い]]では降伏派の家臣の一人として登場し、[[諸葛亮]]が孫権を[[曹操]]と戦わせるため、説得の使者として訪れた際、多くの降伏派の群臣達と彼に論戦を挑むものの、諸葛亮に袁術の前で蜜柑を盗んだ過去をからかわれた上で論破されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:りく せき}}&lt;br /&gt;
[[Category:中国の儒学者]]&lt;br /&gt;
[[Category:1世紀から5世紀の学者]]&lt;br /&gt;
[[Category:三国志の登場人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:呉の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:呉郡陸氏|せき]]&lt;br /&gt;
[[Category:蘇州出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:188年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:219年没]]&lt;/div&gt;</summary>
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		<title>張昭</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;240F:63:D61B:1:1525:B879:B210:4164: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{三国志の人物&lt;br /&gt;
|名前       = 張昭 &lt;br /&gt;
|画像       = ZhangZhao.jpg&lt;br /&gt;
|サイズ     = thumb&lt;br /&gt;
|説明       = &lt;br /&gt;
|王朝       = [[後漢]] [[呉 (三国)|呉]]&lt;br /&gt;
|称号・役職 = &lt;br /&gt;
|出生       = [[156年]]&lt;br /&gt;
|出身地     = [[徐州]]彭城&lt;br /&gt;
|死去       = [[236年]]&lt;br /&gt;
|死没地     = &lt;br /&gt;
|ピン音     = Zhang Zhao&lt;br /&gt;
|字         = 子布（しふ）&lt;br /&gt;
|諡号       = 文侯&lt;br /&gt;
|廟号       = &lt;br /&gt;
|別名       = &lt;br /&gt;
|主君       = [[孫策]]→[[孫権]]&lt;br /&gt;
|特記事項   = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--[[Image:ZhangZhao.jpg|thumb|張昭]]--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;張 昭&#039;&#039;&#039;（ちょう しょう、[[156年]]－[[236年]]）は、[[中国]][[後漢]]から[[三国時代 (中国)|三国時代]][[呉 (三国)|呉]]の[[政治家]]。[[字]]は&#039;&#039;&#039;子布&#039;&#039;&#039;（しふ）。[[諡]]は文侯。子に[[張承 (孫呉)|張承]]・[[張休]]・他一名。孫に[[張震 (孫呉)|張震]]、曾孫に張&amp;amp;#38355;（『[[晋書]]』（巻七十六列伝第四十六）「張&amp;amp;#38355;伝」）。甥に[[張奮]]。 [[徐州]][[彭城]]県の人。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==経歴==&lt;br /&gt;
=== 若き日 ===&lt;br /&gt;
若い頃から学問に励み、隷書に巧みで、智謀に長けていた。白侯子安という人物から『[[左氏春秋]]』を教授され、その他広く書物を読んだ。やがて[[王朗]]・[[趙イク|趙昱]]と並んで高い名声を得て、互いに親しく交友した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
20歳前後で[[孝廉]]に推挙されたが、都に出仕しなかった。王朗と旧君の諱についての議論を交わし、[[陳琳]]ら同郷の人々の注目を集めた。その議論は『風俗通』という書籍に記録されていたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[陶謙]]から、官途に就くよう[[茂才]]に推挙されたことがあるが、張昭はこれを拒絶した。そのため、陶謙にこれを恨まれて投獄されたが、趙昱の弁護によって助けられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後に陶謙が死去すると、張昭は陶謙のために弔辞を書いたという（「陶謙伝」が引く『呉書』）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 孫策に仕える ===&lt;br /&gt;
[[董卓]]の専横などで中央が乱れると、その混乱を避けて[[江南]]に移住する。[[孫策]]が[[揚州]]で挙兵したとき、その参謀として招かれた。孫策は張昭を得たことを喜び、上奏して校尉に任命し、師友として遇したという（『呉書』）。長史・撫軍中郎将に任じられた。孫策からの信任は厚く、孫策は張昭の家に赴いて母親に挨拶するなど、家族同然の付き合いをした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時まだ張昭は、北方の[[士大夫]]等との手紙のやり取りを続けていた。孫策はその行動を心配していたが、改めて張昭への信頼を示し、自分の覇業を補佐してくれるよう要請した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
孫策は張昭に政治・軍事の一切の裁断を任せた。孫策は参謀として張昭の他、[[張紘]]・[[秦松]]・陳端といった人物を登用していたが、出陣するときは、張昭か張紘のどちらか一人を伴い、どちらか一人には留守を任せたという（「討逆伝」・「張紘伝」が引く『呉書』）。部将の鄧当が死去すると、張昭は後任として[[呂蒙]]を推挙した（「呂蒙伝」）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[200年]]、孫策が急死した時その枕元に呼ばれ、弟の[[孫権]]を補佐するよう委任された。この時、孫策は孫権に「内政のことは張昭に相談せよ」と命じ、また張昭に「もし仲謀（孫権の字）が仕事に当る能力がないようならば、あなた自身が政権を執ってほしい」と述べたという（『呉歴』）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 孫権を補佐する ===&lt;br /&gt;
孫策の死後、後漢朝に孫権が跡を継いだことを上表した。張昭は孫権が配下の将や城を統率したものの、その死を悲しみしばらく政治を執ろうとしなかった事を叱咤し、馬に乗らせて兵士を率いさせた。この事で人々は、孫権が後継者になったことを認知するようになったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[202年]]（又は207年、「呉夫人伝」が引く『志林』）、孫策と孫権の生母である呉夫人も死去した。その時、張昭は呉夫人に召し出されて「我が子の仲謀をよろしく頼みます」と彼女に委託されたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
孫権が当主になったばかりの時は、孫氏の勢力が不安定なものになっていたので、張昭は兵士・豪族・民の気持ちを安定させるとともに、ときには自身が軍勢を率いて反乱平定や賊討伐に赴いた。また、孫権自身が出陣したときは留守を守り、幕府の事務を処理した（『呉書』）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
孫権政権下では引き続き長吏を務めた。孫権には「張公」と呼ばれ信頼されたという（「張紘伝」が引く『江表伝』）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
孫権は虎狩が好きで、騎馬に乗り虎を射ることを好んでいたが、ある時虎に反撃され馬の鞍に飛びつかれた。それを見た張昭は「君主は優秀な群臣を使いこなすもので、野原で獣と勇を競うものではない」と孫権を叱責した。これ以後、孫権は馬上で虎を射るのではなく、箱に穴を開けた車（木製の装甲車のようなもの）から虎を射て遊んだという。ただし、獣が車に近づいてきたときは、孫権手ずから倒すことを好んだため、張昭はまたもこれを諌めたが、孫権は笑って答えなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 呉の成立 ===&lt;br /&gt;
[[207年]]、[[劉表]]軍の[[黄祖]]陣営から[[甘寧]]が投降してきた。甘寧は孫権に西上して黄祖を討つことを勧めた。張昭は反対したが、甘寧に反論され、孫権もまた甘寧の意見に賛同した（「甘寧伝」）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[208年]]の[[赤壁の戦い]]では、[[曹操]]軍の圧倒的兵力の前に秦松ら多くの家臣達とともに、孫権に降伏を進言している。曹操を退けた後に、孫権が[[劉備]]の推薦で[[車騎将軍]]に任命されると、その軍師となった。[[周瑜]]の死後、孫権は[[魯粛]]を重用するようになった。しかし張昭は魯粛を嫌い、信任しないよう孫権に忠告した（「魯粛伝」）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長年の曹操との抗争の末、孫権は[[217年]]に曹操に降伏し、臣従することになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[221年]]、孫権が[[魏 (三国)|魏]]により呉[[王]]に封じられると、使者の刑貞が呉を訪問した。邢貞は尊大な態度で臨んだが、張昭は強くこれを咎めた。張昭は綏遠将軍となり、由拳侯に封じられた。張昭は[[孫紹]]・[[滕胤]]・鄭礼と共同して、朝廷の儀礼制度を整備したという（『呉録』）。&lt;br /&gt;
孫権が呉王となったとき、群臣は張昭を初代[[丞相]]に推した。しかし孫権は、丞相職は百官の取りまとめなど責務が重要であり、張昭を丞相にすることは彼を優遇することにはならないとして、[[孫邵]]を丞相に任命した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
孫権は太子の[[孫登]]のために、張昭に命じて『漢書』を講義させようとしたが、考え直して子の張休に講義をさせることにした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この間、[[張温 (孫呉)|張温]]という人物が評価を集め、[[顧雍]]や[[蜀漢]]の[[諸葛亮]]など多くの者達が彼を称賛した。張昭は張温のことを、自分の後を引き継げる人材として期待をかけたが、彼は後に孫権から疎まれ失脚した（「張温伝」）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[225年]]に孫邵が死去すると、再び張昭が推されたが、孫権はこれを退け顧雍を後任とした。この時、孫権は「張昭は剛直な性格なので、感情的な行き違いが起こるだろうから、張昭を丞相にすることは彼のためにならない」と、張昭を丞相に任命しない理由を述べた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
孫権は酒好きでよく酒宴を催し、張昭もそれに同席した。ある時に[[武昌]]での宴会で、孫権は酔いつぶれた配下に水を被せ、台から転げ落ちるまで飲ませようとしたが、張昭はものも言わず立ち去った。孫権が後を追い「皆で一緒に楽しもうとしているだけなのに、なぜ腹を立てるのか」と言うと、張昭は「昔[[帝辛|紂]]が糟丘酒池を作り、長夜の飲（さかもり）をいたしましたが、その時にも楽しみのためにやっているのだと考え、悪事を考えているなどとは考えておりませんでした」と反論した。孫権は恥じて宴会を中止させた。その他、孫権と神仙についての話をしているところを[[虞翻]]にからかわれた逸話や（「虞翻伝」）、[[諸葛恪]]にその弁舌で手玉に取られた逸話もある（「諸葛恪伝」）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[229年]]、孫権が[[皇帝]]になったとき、張昭は自分が高齢で病気がちだとして、官位・領地・兵を返上した。孫権は、改めて張昭を[[三公]]に次ぐ輔呉将軍に任命し、婁侯に封じ、一万戸の食邑を与えた。一説には、孫権が帝位につき百官を呼び集めた席で、帝位に即位できたのは周瑜のおかげだと述べた後、同意して周瑜を称賛しようとした張昭に対し「もしあの時、張公の（赤壁の戦いで曹操に降伏する）進言を聞いていたら、我は帝位に即位するどころか、今頃は乞食になっていた」と皮肉ると、張昭は酷く恥じ入ったという（『江表伝』）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
張昭は参内することも稀になったことから、家において著作に励み、『左氏春秋解』や『[[論語]]注』などを著したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ある時、孫権は[[厳シュン|厳畯]]に幼い頃に覚えた書を暗誦するよう求めた。厳畯は求めに応じ『[[孝経]]』の冒頭を暗誦したが、張昭はその場に割って入り、より主君の前の場で適当だと考える部分を暗誦し、孫権に示した。人々は張昭を称賛した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
妻を亡くした長男のために、[[諸葛瑾]]の娘を後添えとして迎えてやった。また、甥が[[歩騭]]の推薦で軍務に就いたときは、これを喜ばなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 孫権との対立 ===&lt;br /&gt;
張昭は参内し孫権と面会する毎に、断固とした意見を述べたため、あるとき孫権の機嫌を損ね、目通りすることができなくなったことがあった。すると、蜀の使者がやってきて蜀の素晴らしさを吹聴した時、呉の群臣達が皆言い返せないという事が起きてしまった。孫権は、張昭がいればこのようなことはなかったと残念がり、次の日に使者を直々に送り、張昭との対面を求めた。孫権と張昭はお互いに謝罪し、張昭は再び目通りが許されたことを感謝しつつも、今後も孫権に対し直言していくことは止めないと述べた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
しかし孫権とは折り合いが悪く、また張昭自身も剛直で頑固な性格であったことから、孫権と度々対立した。その度に張昭は「それがしは兄君の伯符さまと、ご生母の呉夫人から、あなたを補佐する使命すべく遺命を受けたのですぞ」と述べて、孫権を閉口させたという。&lt;br /&gt;
--&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[232年]]、[[公孫淵]]が呉への服属を願い出ると、孫権は使者として張弥・許晏を派遣して、公孫淵を[[燕]]王に封じようとした。張昭は、公孫淵が本心から呉に従おうとしている訳ではないと反対した。孫権は張昭の態度に怒り、剣に手をかけたが、張昭は孫策と呉夫人の遺言を理由にあくまで反対し、孫権をじっと見つめ涙を流した。孫権は剣を捨て、御座から降りて張昭と向かい合い泣いたが、結局は使者を出発させた。張昭は意見が容れられなかったことに腹を立て、病と称して家に引きこもり、出仕しなくなった。孫権は土で張昭の屋敷の門を塞いだが、張昭も負けずに内側から土で門を塞いだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
果たして公孫淵は張弥・許晏を殺し、魏にその首を送った。孫権は何度も詫びを入れたが、張昭は家に引きこもったままだった。さらに、孫権が直接門前から声を掛けても、重病を理由に面会を断った。このため、孫権も怒って張昭の屋敷の門に火を放って脅かしたが、張昭はますます門を固く閉じたため、孫権は慌てて火を消させた。そして、息子らによって張昭は連れ出され、孫権も謝罪したので、ようやく出仕した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
張昭の名声は高く、容姿も謹厳で堂々としていた。孫権は常に張公と呼び、[[避諱|諱を避ける]]ことで敬意を示した。国中で彼は恐れ憚られたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[236年]]に死去した。飾り気のない棺を用い、普段着のまま葬るよう遺言していた。葬儀には孫権も立ち会ったが、素服（平服のことか）で臨んだとある。文侯と諡された。長男は既に爵位を得ていたので、爵位は少子が継いだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[陳寿]]は「張昭は勲功を立派に立て、真心をもって直言し、正しい道を守った。ただ、厳格な態度が理由で孫権に煙たがられ、[[宰相]]（丞相）に任命されなかった」と評している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==三国志演義==&lt;br /&gt;
小説『[[三国志演義]]』においては悪役的な扱いをされ、赤壁の戦いの前に諸葛亮との討論に敗れる重臣の一人として登場している。&lt;br /&gt;
正史では、一度官位と領地を返上した後も政治に関わっているが、演義では完全に隠退したことになっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==家系図==&lt;br /&gt;
 ●&lt;br /&gt;
 ┣━━━━━━━┓&lt;br /&gt;
 [[張昭]]　　　      　●&lt;br /&gt;
 ┣━━┓　　 　 　┃&lt;br /&gt;
 [[張承 (孫呉)|張承]]　[[張休]]　    [[張奮]]&lt;br /&gt;
 ┣━━━┳━━━┓&lt;br /&gt;
 [[張震 (孫呉)|張震]]　　[[孫和]]妻　[[陸抗]]妻&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ちよう しよう}}&lt;br /&gt;
[[Category:三国志の登場人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:呉の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:徐州出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:156年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:236年没]]&lt;/div&gt;</summary>
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		<title>周瑜</title>
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&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{三国志の人物&lt;br /&gt;
|名前       = 周瑜&lt;br /&gt;
|画像       = ZhouYu.jpg&lt;br /&gt;
|サイズ     = 200px&lt;br /&gt;
|説明       = &lt;br /&gt;
|王朝       = [[後漢]]&lt;br /&gt;
|称号・役職 = 前部大督&lt;br /&gt;
|出生       = [[熹平]]4年（[[175年]]）&lt;br /&gt;
|出身地     = [[揚州]][[廬江]]郡舒県&lt;br /&gt;
|死去       = [[建安 (漢)|建安]]15年（[[210年]]）&lt;br /&gt;
|死没地     = 巴丘&lt;br /&gt;
|ピン音     = Zhou Yu（チョン・ユ）&lt;br /&gt;
|字         = 公瑾&lt;br /&gt;
|諡号       = &lt;br /&gt;
|廟号       = &lt;br /&gt;
|別名       = 美周郎（渾名）&lt;br /&gt;
|主君       = [[孫策]] → [[袁術]] → 孫策 → [[孫権]]&lt;br /&gt;
|特記事項   = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;周 瑜&#039;&#039;&#039;（しゅう ゆ、[[175年]] - [[210年]]）は、[[中国]][[後漢]]末期の武将。字は&#039;&#039;&#039;公瑾&#039;&#039;&#039;（こうきん）。渾名は&#039;&#039;&#039;美周郎&#039;&#039;&#039;。[[揚州]][[廬江]]郡舒県（[[安徽省]][[廬江県]]）の人。高祖父は周栄。従祖父は周景。従父は周忠。父は周異。子は[[周循]]・周胤・[[孫登]]妻。妻は[[小喬]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 孫策との出会い ===&lt;br /&gt;
廬江郡の周家は後漢朝において、高祖父の周栄が[[尚書令]]になったのを始めに、従祖父の周景・従父の周忠が[[三公]]の1つである[[太尉]]を務めた名家である。父の周異も[[洛陽]]県令となっている。周瑜は成人すると立派な風采を備えるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[孫堅]]が反[[董卓]]の義兵を挙げた際、孫堅の息子[[孫策]]は母と共に住まいを舒に移し、この地で周瑜と出会った。同い年の両者は「断金」と評されるほどの篤い親交を結んだ。周瑜は大きな屋敷を孫策の一家に譲り、家族同然の付き合いをしたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[興平 (漢)|興平]]元年（[[194年]]）、[[袁術]]の下にいた孫策は[[劉ヨウ (揚州牧)|劉&amp;amp;#32327;]]を攻略するため[[江東]]へ軍を挙げた。丁度その頃、従父の周尚が[[丹陽]][[太守]]に任命されていたので、周瑜はご機嫌伺いに出向いていたが、孫策から誘いの手紙が来たため、周瑜は兵士を連れてこれに従った。孫策に従って横江・当利、さらに秣陵を攻略し、湖孰と江乗を通って曲阿に進み、劉&amp;amp;#32327;を敗走させた。孫策の軍勢は数万に膨れ上がり、孫策は独力で呉と[[会稽]]を攻略できると判断し、周瑜には丹陽の守備を任せた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
袁術は丹陽太守に一門の[[袁胤]]を送り、周尚と周瑜を[[寿春]]に召喚した。袁術は周瑜を配下に迎えようとしたが、周瑜は袁術の先行きに見切りを付け、居巣県の長になることを願い袁術の下を離れ、やがて198年頃に呉に帰還した。その頃、[[魯粛]]と親交を結び、呉への亡命にも同行させている（「魯粛伝」）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
孫策は周瑜を歓迎し、建威中郎将に任命し、兵士2000人・騎馬50匹を与えた。さらに軍楽隊や住居を与えるなどその待遇は並外れていたといい、孫策はかつて丹陽で周瑜に受けた恩に報いるためには、これでもまだ足りないと述べたという（『江表伝』）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人々は24歳の若い周瑜を周郎と呼び称えていた。廬江郡での名声の高さを買われて、牛渚の守備を任され、後には丹陽郡の春穀県の長にも任命された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、孫策は[[荊州]]攻略を考えるようになり、周瑜を中護軍に任命し、[[江夏]]太守の職務を任せ、攻略に当たらせた。揚州北部の皖を攻め落とした時、喬公&amp;lt;ref&amp;gt;[[三国志演義]]では[[橋玄#三国志演義での『喬公』|喬玄]]&amp;lt;/ref&amp;gt;の2人の娘を捕虜にした。2人は絶世の美人であったため、孫策は姉の[[大喬]]・周瑜は妹の小喬を妻に迎えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
尋陽まで軍を進めて[[劉勲]]を破り、江夏を討伐、さらに豫章と廬陵も平定した。周瑜は巴丘に駐屯した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 孫呉の大督 ===&lt;br /&gt;
建安5年（[[200年]]）に孫策が急死し、[[孫権]]が後継者となった。周瑜は軍勢を引き連れて葬儀に参加すると、そのまま呉に留まり、[[張昭]]と共に様々な諸務を取り仕切ることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この頃、諸将や食客の中には後を継いだばかりの孫権を軽んずる者もあった。周瑜は孫策から友人の待遇を受け、また孫策と孫権の生母の呉氏も孫権に対し、周瑜を兄として仕えるよう命じていたが、周瑜は孫権に率先して臣下の礼を取り、規範を示したため、周囲もそれに従うようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
建安7年（[[202年]]）、[[官渡の戦い]]で[[袁紹]]を破り勢いのあった[[曹操]]が、孫権の元に使者を差し向け人質を送ってくるよう命令した。孫権は群臣達に議論をさせたが、張昭や[[秦松]]といった参謀達もはっきりとした意見を出せなかった。孫権は心の中では人質を送りたくないと考えていたことから、母親の呉氏の元に周瑜一人を連れて、その席で議論をしようとした。周瑜は、人質を送らずこのまま力を蓄えて天下の情勢を見極めるべきと述べ、呉氏もこれに同調した。孫権はこれに従った（『江表伝』）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
建安11年（[[206年]]）、周瑜は[[孫瑜]]の軍の目付けとして[[山越]]討伐を行い、麻・保の2つの屯所を攻略して一万人余りの捕虜を得た。その後、[[江夏区|江夏]]太守の[[黄祖]]が部将の[[鄧龍]]を使って、孫権軍の前線基地であった[[柴桑]]を攻撃したが、周瑜はこれを迎撃、鄧龍を生け捕りにして江東に送還した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
黄祖陣営から[[甘寧]]が投降し、孫権に対し黄祖征伐を提案すると、周瑜は[[呂蒙]]とともにこれに賛同した（「甘寧伝」）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
建安13年（[[208年]]）春、周瑜は前部大督（前線総司令）に任命され、黄祖を滅ぼした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 赤壁の戦い ===&lt;br /&gt;
建安13年（208年）9月、曹操が荊州に侵攻し[[劉琮]]を降伏させた。これを受けて孫権陣営では曹操に降伏するか抵抗するかで論争が起きた。曹操は兵士数万を有しており、[[劉表]]の整備した荊州水軍も手中に治めていたため、孫権陣営では降伏論者が多数を占めていた。周瑜はその時&amp;amp;#37169;陽への使者に出向き呉を留守にしていたが、主戦論者の魯粛に呼ばれ急いで帰還した。周瑜は曹操を漢の賊と呼び、それへの抗戦を主張し、曹操軍が抱える数々の不利と、自軍の利を孫権に説いた。これによって孫権は曹操に対抗することを決断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
孫権は3万の精兵を周瑜や[[程普]]らに与え、曹操から逃れてきた[[劉備]]と協力して、赤壁の地で曹操軍を迎撃させた。周瑜の予測通り、この時曹操軍は軍中に疫病を抱えており、一度の交戦で曹操軍は敗退して、長江北岸に引き揚げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次に周瑜らは南岸に布陣し、部将[[黄蓋]]の進言を採用して、曹操軍艦船の焼き討ちを計画した。降伏を偽装して接近に成功した黄蓋が、曹操軍の船団に火を放つと忽ち燃え広がり、岸辺の陣営に延焼した。被害が多数に及んだ曹操軍は、引き返して荊州の南郡に楯籠った（[[赤壁の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
周瑜が劉備と再度合流して追走すると、曹操は[[曹仁]]と[[徐晃]]を[[江陵県|江陵]]の守備に、[[楽進]]を[[襄陽市|襄陽]]の守備に残し、自らは北方へ撤退した（「呉主伝」）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 荊州争奪と最期 ===&lt;br /&gt;
戦後、孫権は江陵に目をつける。曹仁の守りは堅かったが、周瑜は甘寧を夷陵に進撃させ、曹仁と徐晃の部隊を分断した。曹仁が夷陵に軍を送り包囲すると、呂蒙の計略を採用し、[[凌統]]だけを守備に残して軍のほとんどを甘寧の救援に引き連れ、曹仁の包囲を打ち破り甘寧を救援した。この時、曹仁は万余人の兵を失った（「甘寧伝」）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのまま長江の北岸に陣を据えて江陵攻撃を続行したが、この時、正面決戦の末に、周瑜は流れ矢を受けて重傷を負った。周瑜は重傷のまま戦に臨み、曹仁の攻撃を退け、ついに江陵から曹仁を撤退させた。周瑜は偏将軍に任命され、南郡太守の職務にあたった。さらに奉邑として下雋・[[漢昌]]・劉陽・州陵を与えられ、江陵に軍を駐屯させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
劉備は[[左将軍]]・荊州[[牧]]として、江陵の近隣の[[公安]]に幕府を置いていた。劉備が孫権と会談するため、呉の京城に赴いていたとき、周瑜は孫権に上疏し、劉備を篭絡して劉備と[[関羽]]・[[張飛]]を分断し、両将を自ら率いると献策したが、孫権は今は曹操に対抗するため、一人でも多くの英雄が必要な時期と考え、また劉備を篭絡させることはできないだろうと判断し、周瑜の提案は却下された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
周瑜は、曹操が赤壁での疲弊から軍事行動を起こせないと判断した。その間に[[劉璋]]の支配が動揺していた[[益州]]を占領し、益州は孫瑜に任せた上で、[[関中]]の[[馬超]]と同盟を結び、自らは襄陽から曹操を攻めるという計画を立て、孫権の元に出向き、その同意を取り付けた。しかし、その遠征の準備中に巴丘にて急逝した。36歳であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
周瑜の死は孫権を大いに嘆かせた。孫権は[[建業]]に戻ってくる周瑜の柩を蕪湖まで出迎え、葬儀の費用の一切を負担した。また、後に命令を出し、仮に周瑜と程普が勝手に奴隷を保有していたとしても、一切問題にしてはならないと言ったという。&lt;br /&gt;
彼の死により遠征計画も白紙に戻された。周瑜の後は魯粛が継ぎ、以降は荊州に構える劉備との共存方針が採られることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物 ==&lt;br /&gt;
* 知略・武略に優れており、その才能は曹操や劉備からも恐れられるほどであった。実際に曹操は[[蒋幹]]を使者として周瑜の引き抜きを図り、劉備は孫権に虚言を述べて、孫権と周瑜を離間させようとしたが、いずれも失敗に終わっている。&lt;br /&gt;
* 立派な風采をしており、「&#039;&#039;&#039;美周郎&#039;&#039;&#039;」と評された。&lt;br /&gt;
* 寛大な性格で人心を掴むことが得意だった。しかし宿将の程普とだけは折り合いが悪く、程普は若輩の周瑜を度々侮辱していたのだが、周瑜はあくまで膝を屈して謙り続けたので、その謙譲さに程普も遂に感服し、周瑜を尊重するようになった。&lt;br /&gt;
* 若い頃より音楽に精通しており、演奏を聴いていると、たとえ宴会中酒盃が三度回った後でも僅かな間違いに気付いた。そのため当時の人々は「曲に誤りあれば周郎が振り向く」という歌を作って囃したという。&lt;br /&gt;
* [[陳寿]]は「曹公（＝曹操）は[[丞相]]という地位を利し、天子を手元に置き、その威をかりて群雄達の掃討につとめていたが、荊州の城を落とすや、その勢いを借りて東夏（＝呉）の地に鉾先を向けてきた。このときにあたり、（呉の朝廷では）意見を申し述べるものたちは、国の前途を危ぶみ、皆確信を失っていた。周瑜と魯粛とは、そうした中で他人の意見に惑わされる事無く明確な見通しを立て、人々に抜きん出た存在を示したというのは、真に非凡な才能によるのである」と評している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 演義、その他 ==&lt;br /&gt;
小説『[[三国志演義]]』でも、孫策の挙兵にかけつけ、江東制覇に協力し、孫策の死後も孫権に仕え、張昭と並ぶ重臣となった。赤壁の戦いでは史実と同様、主戦派の重鎮として登場するが、劉備の使者として呉に滞在していた[[諸葛亮]]にその出会いのときから翻弄され続ける損な役回りを負わされている。自らの策を全て見透かす諸葛亮を危険視し暗殺を企むも果たせず、終始ライバル視しながらも遂に敵わず病に倒れる。臨終の際にも諸葛亮からの挑発的な書状を読み、「&#039;&#039;&#039;天はこの世に周瑜を生みながら、なぜ諸葛亮をも生んだのだ!（既生瑜、何生亮）&#039;&#039;&#039;」と血を吐いて憤死するという最期となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
但し軍事の才は『演義』においても優れており、赤壁の戦いを始めとして、多くの戦いで戦功を立てるのは史実と同様である。一国を担う将器・常人に勝る才幹を持つ人物として描かれているものの、それを更に圧倒する鬼謀を備えた諸葛亮の、引き立て役にされてしまったというイメージが強い（諸葛亮と周瑜の対比描写について、[[魯迅]]などは「物語にしても、実在の人物の功を歪曲し過ぎており、やり過ぎである」などと批判している）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[京劇]]では、「美周郎」というあだ名の通り古来から二枚目が演じる役とされており、眉目秀麗な英雄としてのイメージが定着している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、『演義』において諸葛亮の代名詞となっている[[道士]]風の綸巾・羽扇は、元代までは周瑜の姿をイメージした衣装とされていた。北宋の詩人[[蘇軾]]の『念奴嬌』（小題「赤壁懐古」）という詞では「遙想公瑾当年、小喬初嫁了、雄姿英発、羽扇綸巾、談笑間強虜灰飛煙減」と歌われ、[[南宋]]代の[[楊万里]]の詩『寄題周元吉湖北漕司志功堂』（『誠斎集』巻23所収）でも「周郎」が「又揮白羽岸綸巾」と詠まれている。趙以夫の『漢宮春次方時父元夕見寄』でも「応自笑、周郎少日、風流羽扇綸巾」と、周郎と羽扇綸巾がセットとしてイメージされていた。これが諸葛亮のものになっていくのは元代後期以降である&amp;lt;ref&amp;gt;中原健二『宋詞と言葉』、2009年、[[汲古書院]]、ISBN 978-4762928673）&amp;lt;/ref&amp;gt;（詳細は[[三国志演義の成立史#綸巾・羽扇]]を参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==登場作品==&lt;br /&gt;
;映画&lt;br /&gt;
*『[[レッドクリフ]]』二部作（2008年、中国・香港・台湾・日本・韓国合作、演：[[梁朝偉|トニー・レオン]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www.project-imagine.org/search2.cgi?text=wu9-1;lang=JpCh 『三国志』周瑜伝全訳・原文]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しゆう ゆ}}&lt;br /&gt;
[[Category:三国志の登場人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:呉の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:合肥出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:175年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:210年没]]&lt;/div&gt;</summary>
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