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	<title>Wikippe - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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	<updated>2026-10-12T10:09:37Z</updated>
	<subtitle>利用者の投稿記録</subtitle>
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		<title>馬廻</title>
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		<updated>2013-03-07T07:33:37Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;219.106.2.90: /* 馬廻の異称 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;馬廻&#039;&#039;&#039;（うままわり）は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に生まれた[[武家]]の職制のひとつである。[[騎馬]]の[[武士]]で、大将の馬の周囲（廻り）に付き添って護衛に当たったり、伝令や決戦兵力として用いられた。平時にも[[大名]]の護衛となり、事務の取次ぎなど大名の側近として吏僚的な職務を果たすこともあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
大名家によって様々な呼び名があり、[[後北条氏]]の馬廻衆が有名である。[[織田信長]]の馬廻衆は、[[小姓]]と並んで[[土豪]]の次男・三男などから編成され、信長の側近として活躍した。信長の馬廻・小姓の精鋭は赤・黒二色の[[母衣衆]]に抜擢され、そこから部隊の指揮官に昇進した例も多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[江戸時代]]においても、諸藩の職制として存続し、大名の日常の警護を務めた。[[江戸幕府]]の職制では、&#039;&#039;&#039;両番&#039;&#039;&#039;と呼ばれる[[書院番]]・[[小姓組|小姓組番]]が諸藩における馬廻にあたる。[[旗本]]の子弟はまず両番に任ぜられ、将軍の側近として認められて、幕府官僚として出世してゆくのが通例であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
馬廻は、諸藩においては職制のほか、家格の呼称としても使用されることが多かった。藩によって馬上資格を認める藩と認めない藩があって、どちらが一般的であるかは断言できない。馬廻に馬上資格を認めない藩にあっては、[[給人]]または給人席以上を馬上資格としたり、家老から直接統率を受ける家格以上の家臣を馬上資格とするなど様々な基準があった。職制並びに家格上、給人と馬廻が併存する藩とどちらかだけが存在する藩もある。家格に給人と馬廻が併存する藩にあっては給人のほうが格上である。馬上資格がない馬廻は、江戸幕府の[[小十人]]とほぼ同義であって、藩主への謁見資格があるが、馬乗りにはなれない中堅家臣である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
馬廻に馬上資格がある藩では、馬廻の家格は、広義の上級家臣の下位を意味すると言える。[[元禄赤穂事件]]で有名な[[赤穂藩]][[浅野氏|浅野家]]の馬廻役がその典型的な例である。馬上資格のない[[中小姓]]の上位に位置する馬上武士の階級と位置づけられていた。[[赤穂浪士]]四十七士のうち馬廻だった者は[[堀部武庸]]ら15名で、全員が200石から100石取りである。重臣とまでは言えないものの、上士と呼べる家禄の者たちである。これが馬上資格のない中小姓だと最上の[[大高忠雄]]でも30石取りであるからこの階級差は歴然である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし時代が下るに連れて、武士が増加すると諸藩・幕臣にあっても、馬廻はあくまで格式にすぎなくなってゆく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
例えば長岡藩の「安政分限帳」（『長岡藩政史料集（6）長岡藩の家臣団』所収）によれば、50石未満の低位の知行である藩士が大組（馬廻相当）に119名確認され、最小俸給者は知行高20石または5人扶持の藩士である。50石未満の低位の知行である藩士が馬一頭を飼う事は常識的には不可能であり、その家臣に馬上を許しながら、実際に馬を飼っていなかったという事態が発生した。また、[[薩摩藩]]でも状況は同じで馬廻相当から家老となり、[[近思録崩れ]]で処分された秩父伊賀も馬を保有していなかったことが「文化朋党実録」で述べられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 馬廻の異称 ==&lt;br /&gt;
諸藩の中には馬廻を『馬廻』と称さずに、別呼称で呼ぶ藩もある。[[長州藩]]及び[[越後長岡藩]]では『大組』と呼称した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:うままわり}}&lt;br /&gt;
[[Category:戦国時代 (日本)]]&lt;br /&gt;
[[Category:織豊政権の政策制度]]&lt;br /&gt;
[[Category:武士]]&lt;br /&gt;
[[Category:江戸時代の政治]]&lt;br /&gt;
[[Category:江戸幕府]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>219.106.2.90</name></author>
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