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	<title>Wikippe - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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	<updated>2026-08-31T14:16:36Z</updated>
	<subtitle>利用者の投稿記録</subtitle>
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		<title>復古神道</title>
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		<updated>2014-02-15T07:14:04Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;219.106.2.45: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[ファイル:Portrait of Atsutane Hirata.jpg|thumb|right|300px|平田篤胤]]&lt;br /&gt;
{{神道}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;復古神道&#039;&#039;&#039;（ふっこしんとう）は、[[江戸時代]]、[[国学者]]たちによって提唱された[[神道]]&amp;lt;ref name=&amp;quot;koshintou&amp;quot;&amp;gt;『古神道は甦る』 102-104頁。&amp;lt;/ref&amp;gt;。「[[古神道]]」、「古道」ともいう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
復古神道の[[教義]]は多種多様だが、概ね共通しているのは、[[儒教]]・[[仏教]]などの影響を受ける以前の日本民族固有の精神に立ち返ろうという思想である。[[天之御中主神]]、[[タカミムスビ|高皇産霊神]]、[[カミムスビ|神皇産霊神]]の[[別天津神|造化三神]]を根源神として、根源神の分霊が各人の中に宿っているとして、それらの神の意志をそのまま体現する「惟神（かんながら）の道」が重視された&amp;lt;ref name=yougo1&amp;gt;{{Cite book|和書|author=全国歴史教育研究協議会|authorlink=|title=日本史B用語集―A併記|origdate=2009-3-30|accessdate=|edition=改訂版|publisher=[[山川出版社]]|series=|isbn=9784634013025}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
復古神道は、江戸時代初期に生まれた[[垂加神道]]と同じく、時代を大きく動かしていったが、国学者たちによって、より学問的な立場でつきつめられていった神道といえる。[[賀茂真淵]]や[[本居宣長]]らの国学者がまず古道説を唱えて体系づけ、[[平田篤胤]]や[[本田親徳]]らが、儒教や仏教を強く排斥して日本古来の純粋な信仰を尊ぶ「復古神道」を大成し、発展させていった&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite book|和書|author=[[佐藤信 (歴史学者)|佐藤信]]、[[五味文彦]]、[[高埜利彦]]、[[鳥海靖]]|authorlink=|title=詳説日本史研究|origdate=2008-8-30|accessdate=|edition=改訂版|publisher=[[山川出版社]]|series=|isbn=9784634011014}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。復古神道は、農村の庄屋・地主層に浸透し、幕末の志士たちにも大きな影響を与え、明治維新の[[尊王攘夷]]運動のイデオロギーに取り入れられることとなった&amp;lt;ref name=&amp;quot;koshintou&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、維新政府の政治理念の中心になった復古神道について、「角川日本史辞典」には「江戸後期の国学系統の神道。古代の純粋な民族信仰の復古を唱えた神道。独善的排他的な一面をもつが、[[明治維新]]の思想的側面を形成し、[[神仏分離]]、[[廃仏毀釈]]の運動となり、神道国教化を推進した」とある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
復古神道では、多くの流派で、「[[言霊]]」、「[[数霊]]」を使って古事記や日本書紀を読み解くことも行われ、「アマテラスオホミカミ」、「トホカミエミタメ」など多くの[[題目]]が編み出された。言霊は[[太占]]や[[鎮魂]]、[[帰神法]]と並んで復古神道の四つ柱と称される。また傍流としてではあるが、[[禊]]行や[[折符]]も発達した。現在、神社などで使われている行法も、実はこの復古神道の流れから発達したものが意外に多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現時点で宗教団体として活動している流派の中には「我々は復古神道の流派ではあるが平田派国学と何のかかわり合いもない」という主張をしている場合があるが、教義上そういう建前になっているにすぎず、歴史的には、平田派国学の影響をまぬがれない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==歴史==&lt;br /&gt;
[[飛鳥時代]]の[[仏教]]伝来以来、日本では神道は仏教と混ざり合う[[神仏習合]]により発達してきた。神道は「古道」とも称され、仏教や[[キリスト教]]のように[[戒律]]や根本[[聖典]]がなく&amp;lt;ref&amp;gt;「[[古事記]]」や「[[日本書紀]]」は歴史書であって聖典ではない。&amp;lt;/ref&amp;gt;、素朴な[[精霊信仰]]の形態を維持し続けている数少ない宗教のひとつであり、「神道[[神学]]」が形成されにくいものであった。このため、神道は独自性を高めなければ宗教的に独立できなかったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸時代に賀茂真淵は『[[国意考]]』などで古道の存在を訴え、その薫陶を得た本居宣長は大著『[[古事記伝]]』を完成し、その巻1にある「直毘霊（なおびのみたま）」で、記紀からみいだされた「神の道」を示して、日本固有の神道の復活を目指す復古神道の成立に大いなる貢献をなした&amp;lt;ref name=&amp;quot;yougo1&amp;quot; /&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平田篤胤は本居宣長の書に啓発され、古代史を明らかにし、皇道の正当性を天下に示すなど、復古神道の形成に大きな役割を果たした。また、幽冥界・霊魂など、霊界に関わる研究で著名な成果をあげ、[[法華宗]]や[[密教]]、[[キリスト教]]などの他宗教や[[神仙]]道を取り入れた「平田派国学」を大成させた&amp;lt;ref&amp;gt;『古神道は甦る』 104頁。&amp;lt;/ref&amp;gt;。この平田派国学の流れから後に、[[本田親徳]]、[[川面凡児]]といった宗教家が多く誕生してくる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、明治になると、明治政府に入った平田派国学者らは、神仏分離と神道国教化を推進した&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite book|和書|author=日本史用語研究会|authorlink=|title=必携日本史用語|origdate=2009-2-2|accessdate=|edition=四訂版|publisher=[[実教出版]]|series=|isbn=9784407316599}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、同じ明治の[[本田親徳]]や、本田の弟子の[[長沢雄楯]]、[[出口王仁三郎]]らは、人間の心は根源神の分霊である「[[直霊]]」（なおひ）が「[[荒魂]]」、「和魂」、「奇魂」、「幸魂」の4つの魂を統御するという日本古来の「[[一霊四魂]]」説を体系化した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==脚注==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==参考文献==&lt;br /&gt;
*「古神道の本」[[Books Esoterica]]シリーズ第十巻　[[学研ホールディングス|学習研究社]]&lt;br /&gt;
*「角川日本史辞典」朝尾 直弘ら(著) [[角川書店]]&lt;br /&gt;
*「平田篤胤選集」八幡書店&lt;br /&gt;
*「本田親徳全集」(1976年) 本田 親徳 (著), 鈴木 重道 (編集)　山雅房&lt;br /&gt;
*「[[霊界物語]]」出口王仁三郎（著）81巻83冊　天声社&lt;br /&gt;
*「平田篤胤の神学に於ける耶蘇教の影響」村岡典嗣、1920年3月、雑誌「芸文」。所収『新編日本思想史研究』2004年、平凡社東洋文庫。&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|author=菅田正昭|authorlink=菅田正昭|title=古神道は甦る…The old shinto|origdate=1985-03-03|accessdate=2009-07-09|edition=初版|publisher=[[たま出版]]|isbn=4884811321}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書|author=全国歴史教育研究協議会|authorlink=|title=日本史B用語集―A併記|origdate=2009-3-30|accessdate=|edition=改訂版|publisher=[[山川出版社]]|series=|isbn=9784634013025}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書|author=日本史用語研究会|authorlink=|title=必携日本史用語|origdate=2009-2-2|accessdate=|edition=四訂版|publisher=[[実教出版]]|series=|isbn=9784407316599}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書|author=[[佐藤信 (歴史学者)|佐藤信]]、[[五味文彦]]、[[高埜利彦]]、[[鳥海靖]]|authorlink=|title=詳説日本史研究|origdate=2008-8-30|accessdate=|edition=改訂版|publisher=[[山川出版社]]|series=|isbn=9784634011014}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[古神道]]&lt;br /&gt;
*[[国学]]&lt;br /&gt;
*[[神理教]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ふつこしんとう}}&lt;br /&gt;
[[Category:神道の流派]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の思想史]]&lt;br /&gt;
[[Category:江戸時代]]&lt;br /&gt;
[[Category:国学]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>219.106.2.45</name></author>
	</entry>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E3%81%8A%E8%94%AD%E5%8F%82%E3%82%8A&amp;diff=32948</id>
		<title>お蔭参り</title>
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		<updated>2014-02-15T05:39:07Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;219.106.2.45: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[File:Ando hirosige miyakawanowatasi.jpg|thumb|歌川広重「伊勢参宮・宮川の渡し」]]&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;お蔭参り&#039;&#039;&#039;（おかげまいり）は、[[江戸時代]]に起こった[[伊勢神宮]]への集団参詣。数百万人規模のものが、およそ60年周期（「おかげ年」と言う）に3回起こった。&#039;&#039;&#039;お伊勢参り&#039;&#039;&#039;で抜け参りともいう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
お蔭参りの最大の特徴として、奉公人などが主人に無断で、または子供が親に無断で参詣したことにある。これがお蔭参りが&#039;&#039;&#039;抜け参り&#039;&#039;&#039;とも呼ばれるゆえんである。大金を持たなくても信心の旅ということで沿道の施しを受けることができた時期もあった。  &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸からは片道15日間、大阪からでも5日間、名古屋からでも3日間、東北からも、九州からも参宮者は歩いて参拝した。岩手の釜石からは100日掛かったと言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 背景 ==&lt;br /&gt;
[[天照大神]]の[[神社]]として公家・寺家・武家が加持祈祷を行っていた[[伊勢神宮]]だったが、中世の戦乱の影響で領地を荒らされ、式年遷宮が行えないほど荒廃していた。その伊勢神宮を建て直すため、神宮で祭司を執り行っていた[[御師]]は外宮に祀られている[[豊受大御神]]を広めるため、農民に伊勢神宮へ[[参詣]]してもらうように[[カレンダー|暦]]を配るなど各地へ布教するようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中世には、現世に失望し来世の幸福を願い沢山の人々が寺院へ巡礼した。やがて、神社にも巡礼が盛んになった。街道の関所が天下統一により撤廃され、参詣への障害が取り除かれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[江戸時代]]以降は[[五街道]]を初めとする交通網が発達し、参詣が以前より容易となった。世の中が落ち着いたため、巡礼の目的は来世の救済から[[現世利益]]が中心となり、観光の目的も含むようになった。[[米]]の品種改良や農業技術の進歩に伴い農作物（特に、江戸時代の税の柱であった米）の収穫量が増え、農民でも現金収入を得ることが容易になり、商品経済の発達により現代の[[旅行ガイドブック]]や旅行記に相当する本も発売された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時、庶民の移動、特に農民の移動には厳しい制限があったが、[[伊勢神宮]]参詣に関してはほとんどが許される風潮であった。特に商家の間では、伊勢神宮に祭られている天照大神は商売繁盛の守り神でもあったから、子供や奉公人が伊勢神宮参詣の旅をしたいと言い出した場合には、親や主人はこれを止めてはならないとされていた。また、たとえ親や主人に無断でこっそり旅に出ても、伊勢神宮参詣をしてきた証拠の品物（[[お守り]]や[[お札]]など）を持ち帰れば、おとがめは受けないことになっていたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、庶民の移動には厳しい制限があったといっても、伊勢神宮参詣の名目で[[通行手形]]さえ発行してもらえば、実質的にはどの道を通ってどこへ旅をしてもあまり問題はなく、参詣をすませた後には[[京都|京]]や[[大坂]]などの見物を楽しむ者も多かった。流行時にはおおむね本州、四国、九州の全域に広がったが、[[浄土真宗|真宗]]地域には広まりにくかった傾向がある。死人が生き返ったなど、他の巡礼にも付き物の説話は数多くあるが、巡礼を拒んだ真宗教徒が神罰を受ける話がまま見られる。一番多いのは、おふだふりである。村の家々に神宮大麻（[[神札|お札]]）が天から降ってきたと言う。これは伊勢信仰を民衆に布教した&#039;&#039;&#039;[[御師]]&#039;&#039;&#039;（後述）がばら撒いたものだともいわれる。&lt;br /&gt;
伊勢神宮参詣は多くの庶民にとって一生に一度とも言える大きな夢であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== お伊勢講 ==&lt;br /&gt;
当時の庶民にとって、伊勢までの旅費は相当な負担であった。日常生活ではそれだけの大金を用意するのは困難である。そこで生み出されたのが「お伊勢講」という仕組みである。「[[講]]」の所属者は定期的に集まってお金を出し合い、それらを合計して代表者の旅費とする。誰が代表者になるかは「[[くじ引き]]」で決められる仕組みだが、当たった者は次回からくじを引く権利を失うため、「講」の所属者全員がいつかは当たるように配慮されていたようである。くじ引きの結果、選ばれた者は「講」の代表者として伊勢へ旅立つことになる。旅の時期は、[[農閑期]]が利用される。なお、「講」の代表者は道中の安全のために二、三人程度の組で行くのが通常であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
出発にあたっては盛大な見送りの儀式が行われる。また地元においても道中の安全が祈願される。参拝者は道中観光しつつ、伊勢では代参者として皆の事を祈り、土産として[[神札|御祓い]]や新品種の農作物の種、[[松阪市|松阪]]や[[京都]]の織物などの伊勢近隣や道中の名産品や最新の物産（軽くてかさばらず、壊れないものがよく買われた）を購入する。無事に帰ると、帰還の祝いが行われる。江戸時代の人々が貧しくとも一生に一度は旅行できたのは、この「講」の仕組みによるところが大きいだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
またこの「お伊勢講」は平時においては神社の氏子の協同体としても作用していた。「お伊勢講」は畿内では室町中期から見られた現象だが、全国的になったのは江戸以降である。江戸時代が過ぎてもこの仕組みは残った。なお戦後は講を賭博行為とみなした[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]により解散させられた（[[無尽講]]を参照）。しかし、地域によっては現在でも活動を続けている伊勢講もある。伊勢神宮参拝は数年に一度行うのみとして、簡素な宴席のみを毎年行う習慣が残存している地域もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「お伊勢講」が無かった地域では、周囲からの餞別（せんべつ）が旅行費の大半を占めていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 御師の活躍 ==&lt;br /&gt;
御師が産業の大神である[[豊受大御神]]を、農民に広めたのがお蔭参りのきっかけである。御師は数名ずつのグループに分かれて各地に散らばり、農村部で[[カレンダー|伊勢暦]]を配ったり、豊作祈願を行ったりして、その年に収穫された[[米]]を初穂料として受け取る事で生計を立てていた。伊勢神宮の神田には全国から稲穂の種が集まり、参宮した農民は品種改良された新種の種を持ち帰った。[[江戸時代]]も中頃になると、農業技術の進歩により、農家の中に現金収入を得られる者が増え、新たな知識や見聞、物品を求めて旅をしようと思い立つ者が現れるようになった。しかし、農民の移動に規制があった江戸時代に旅をするにはそれなりの理由が必要で、その口実として伊勢神宮参詣という名目が使われるようになった。当時、他藩の領地を通るために必要不可欠な[[通行手形]]の発行には厳しい制限があったが、伊勢神宮参詣を目的とする旅についてはほぼ無条件で通行手形を発行してもらえたためである（この他にも、[[善光寺]]参詣や[[日光東照宮]]参詣など、寺社参詣目的の旅についてはおおむね通行手形の発行が認められていた。通行手形の発行は、在住地の[[町役人]]・[[村役人]]など[[集落]]の代表者または[[菩提寺]]に申請した）。この口実には、御師が各地の農民に対して伊勢神宮参詣の勧誘活動を行っていたことも理由になっていたようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうして[[伊勢]]に旅立った者は、[[伊勢]]滞在時に大抵、自分達の集落を担当している御師のお世話になっていた。御師は伊勢参拝に来る人をもてなすため、自分の家で[[宿屋]]を経営している事が多かった。御師の宿屋では盛装した御師によって豪華な食器に載った[[伊勢]]や[[松阪市|松坂]]の山海の珍味などの豪勢な料理や歌舞でもてなし、農民が住んでいる所では使ったことがないような[[絹]]の[[布団]]に寝かせる、など、参拝者を飽きさせないもてなしを行った。また、伊勢神宮や伊勢観光のガイドも勤め、参拝の作法を教えたり、伊勢の名所や歓楽街を案内して回った。この時、[[豊受大御神]]が祀られている外宮を先に参拝し[[天照大御神]]が祀られている本殿の内宮へ向かうしきたりで、[[外宮先祭]]という。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== お蔭参りが農村に与えた影響 ==&lt;br /&gt;
お蔭参りに行く者はその者が属する集落の代表として集落から集められたお金で伊勢に赴いたため、手ぶらで帰ってくる事がはばかられた。また、当時、最新情報の発信地であったお伊勢さんで知識や技術、流行などを知り見聞を広げるための旅でもあった。お蔭参りから帰ってきた者によって、最新の[[ファッション]]（例：最新の織物の柄）や[[農具]]（例：新しい品種の農作物がもたらされる。[[箕]]に代わって、手動式風車でおこした風で籾を選別する唐箕が広まる）、音楽や芸能（伊勢音頭に起源を持つ歌舞が各地に広まる）が、実際の品物や口頭、紙に書いた旅の記録によって各地に伝わった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 変遷 ==&lt;br /&gt;
（年号のみ記載のあるものは、厳密にはお蔭参りではないが、群参の顕著な年である）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中世 ===&lt;br /&gt;
お蔭参りの前段階として、集団参詣が数回見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 前期 ===&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[1638年]]（[[寛永]]15年）&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[1650年]]（[[慶安]]3年）&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
*: 慶安のお蔭参りは、記録が少なく、詳しいことはわかっていない。「寛明日記」によると、[[江戸]]の商人が流行らせたと言う。[[箱根峠|箱根]]の関での調べによると、正月下旬から3月上旬までで一日平均500-600人が参詣し、3月中旬から5月までで平均2100人が参詣したという。参詣するものは皆「白衣」を着ていた。&lt;br /&gt;
** 参詣者：&lt;br /&gt;
** 当時の日本総人口：1781万人（1650年）&lt;br /&gt;
** 発生地域：江戸&lt;br /&gt;
** 期間：1月～5月&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[1661年]]（[[寛文]]元年）&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[1701年]]（[[元禄]]14年）&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[1705年]]（[[宝永]]2年）&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
*: 宝永のお蔭参りは、本格的なお蔭参りの始まりで、2ヶ月間に330万～370万人が伊勢神宮に参詣した。[[本居宣長]]の[[玉勝間]]の記載によると、4月上旬から1日に2～3千人が[[松阪市|松阪]]を通り、最高は1日23万人である。&lt;br /&gt;
** 参詣者：330万～370万人&lt;br /&gt;
** 当時の日本総人口：2769万人（1700年）&lt;br /&gt;
** 発生地域：[[京都]]&lt;br /&gt;
** 期間：&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[1718年]]（[[享保]]3年）&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[1723年]]（享保8年）&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[1730年]]（享保15年）&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[1748年]]（[[寛延]]元年）&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[1755年]]（[[宝暦]]5年）&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中期 ===&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[1771年]]（[[明和]]8年）&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
*: 4月11日、[[宇治市|宇治]]から女・子供ばかりの集団が仕事場の[[茶]]山から無断で離れて、着の身着のままやってきたのが明和のお蔭参りの始まりと伝える。&lt;br /&gt;
*: ピーク時には地元[[松阪市|松坂]]では、自分の家から道路を横切って向かいの家に行くことすら困難なほど大量の参詣者が町の中を通っていった、と当時の[[日記]]にかかれている。参詣者らは「おかげでさ、ぬけたとさ」と囃しながら歩いてきた。集団ごとに幟を立てていたが、初めは幟に出身地や参加者を書いていたが、段々と滑稽なものや卑猥なものを描いたものが増えてきたという。お囃子も、老若男女がそろって卑猥な事々を並べ立てるようなものになった。&lt;br /&gt;
** 参詣者：200万人&lt;br /&gt;
** 当時の日本総人口：3110万人（1750年）&lt;br /&gt;
** 発生地域：[[山城国|山城]]の[[宇治市|宇治]]&lt;br /&gt;
** 期間：4月～7月（5ヶ月間）&lt;br /&gt;
** 経済効果：&lt;br /&gt;
**: 街道沿いの物価が高騰した。[[白米]]1升が50文が相場のときに、4月18日には58文に上がり、5月19日には66文、6月19日には70文まではね上がった。[[草鞋|わらじ]]は5月3日で8文だったものが、5月7日には13-15文になり、5月9日には18-24文に急上昇した。&lt;br /&gt;
**: [[街道]]沿いの富豪による「施行」も盛んに行なわれた。無一文で出かけた子供が、[[銀]]を持って帰ってきたといった事もあったという。初めは与える方も[[宗教]]的な思いもあって寄付をしていたが、徐々にもらう方ももらって当然と考えるようになり感謝もしなくなって、中にはただ金をもらう目的で参詣に加わる者も出てきた。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[1803年]]（[[享和]]3年）&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 後期 ===&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[1830年]]（[[文政]]13年 / [[天保]]元年）&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
*: 文政のお蔭参りでは、60年周期の「おかげ年」が意識されていた。伝播地域は、明和よりも狭かったが、参加人数は大幅に増えている。&lt;br /&gt;
*: 何故か参詣するときに、[[柄杓|ひしゃく]]を持って行って伊勢神宮の外宮の北門で置いていくということが流行った。[[阿波国|阿波]]の[[巡礼]]の風習が広まったとも言う。&lt;br /&gt;
** 参詣者：427万6500人&lt;br /&gt;
** 当時の日本総人口：3228万人（1850年）&lt;br /&gt;
** 発生地域：阿波&lt;br /&gt;
** 期間：閏3月初～8月末&lt;br /&gt;
** 経済効果：86万両以上&lt;br /&gt;
**: 物価上昇が起こり、[[大坂]]で13文の[[草鞋|わらじ]]が200文に、[[京都]]で16文の[[柄杓|ひしゃく]]が300文に値上がりしたと記録されている。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[1855年]]（[[安政]]2年）&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 末期 ===&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[1867年]]（[[慶応 (元号)|慶応]]3年）&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
*: &#039;&#039;&#039;ええじゃないか&#039;&#039;&#039;。厳密にはお蔭参りには入らないがお蔭参りの影響を受けている。[[ええじゃないか]]を参照。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[明治]]に入り、[[明治天皇]]が伊勢神宮へ行幸したのをきっかけに伊勢神宮の性質が変容し、さらに、[[明治政府]]が[[御師]]の活動を禁じたために、民衆の伊勢神宮への参拝熱は冷めてしまった。『おかげ年』にあたる明治23年（[[1890年]]）の[[新聞]]には、「お蔭参りの面影もなし」という内容の記事が掲載された（[[日本放送協会|NHK]]教育テレビ 『知るを楽しむ 歴史に好奇心』 10月放送分より）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== お蔭参り（抜け参り）に参加した著名人 ==&lt;br /&gt;
* [[勝小吉]]（[[勝海舟]]の父） 少年時代に抜け参りに参加した。その経緯は自著『[[夢酔独言]]』に詳しい。&lt;br /&gt;
* [[徳川重倫]]（[[紀州藩]]8代藩主）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 旅の文化研究所 編『絵図に見る伊勢参り』（河出書房新社、2002年） ISBN 4309242707&lt;br /&gt;
* 金森敦子『伊勢詣と江戸の旅 &amp;lt;small&amp;gt;道中日記に見る旅の值段&amp;lt;/small&amp;gt;』（文春新書、2004年） ISBN 4166603752&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[鎌田道隆]]&lt;br /&gt;
* [[香良洲神社]] - 「お伊勢詣りをして加良須に詣らぬは片参宮」&lt;br /&gt;
* [[金剛證寺]] - 「伊勢へ参らば朝熊を駆けよ、朝熊駆けねば片参り」&lt;br /&gt;
* [[多度大社]] - 「お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば片参り」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.nara-u.ac.jp/hist/s50/s50-01/s50-01.html 奈良大学 伊勢参り「宝来講」]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Japanese-history-stub}}&lt;br /&gt;
{{Shinto-stub}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:おかけまいり}}&lt;br /&gt;
[[Category:江戸時代の文化]]&lt;br /&gt;
[[Category:三重県の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:伊勢国]]&lt;br /&gt;
[[Category:伊勢神宮]]&lt;/div&gt;</summary>
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