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	<title>Wikippe - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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	<updated>2026-04-22T16:50:19Z</updated>
	<subtitle>利用者の投稿記録</subtitle>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E5%85%B1%E7%8A%AF&amp;diff=27997</id>
		<title>共犯</title>
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		<updated>2014-08-25T16:36:38Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.231.47.46: /* 真犯人の嘘の自供により共犯者にされた冤罪事件 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Law}}&lt;br /&gt;
{{日本の刑法}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;共犯&#039;&#039;&#039;（きょうはん）とは、[[正犯]]に対置される概念であり、複数人が同一の犯罪に関与する形態をいう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 共犯の分類 ==&lt;br /&gt;
共犯は&#039;&#039;&#039;必要的共犯&#039;&#039;&#039;と&#039;&#039;&#039;任意的共犯&#039;&#039;&#039;に分かれる。&lt;br /&gt;
後者には共同正犯、教唆犯、幇助犯の3つが属する（これらを総称して&#039;&#039;&#039;広義の共犯&#039;&#039;&#039;といい、特に教唆犯と幇助犯の2つのみを指して&#039;&#039;&#039;狭義の共犯&#039;&#039;&#039;という）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 共犯（最広義）&lt;br /&gt;
** 必要的共犯&lt;br /&gt;
*** 多衆犯&lt;br /&gt;
*** 対向犯&lt;br /&gt;
** 任意的共犯（広義の共犯）&lt;br /&gt;
*** [[共同正犯]]（正犯の一種でもある）&lt;br /&gt;
*** 狭義の共犯（加担犯）&lt;br /&gt;
**** [[教唆犯]]&lt;br /&gt;
**** [[幇助犯]]（従犯）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==必要的共犯==&lt;br /&gt;
必要的共犯とは、構成要件上初めから複数の行為者を予定して定められている犯罪をいう。[[内乱罪]]、[[騒乱罪]]などの&#039;&#039;&#039;多衆犯&#039;&#039;&#039;と、[[重婚罪]]、[[賄賂罪]]などの&#039;&#039;&#039;対向犯&#039;&#039;&#039;がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
対向犯の成立には相手方の存在を必要とするが、相手方処罰規定を欠く場合もある（[http://www.geocities.jp/lucius_aquarius_magister/M13HO036.html#020902 &#039;&#039;&#039;旧刑法&#039;&#039;&#039;（明治13年太政官布告第36号）]には贈賄罪の規定は存在しなかった）。&lt;br /&gt;
* 重婚罪：配偶者のある者（[[刑法 (日本)|刑法]]184条前段で処罰）とその相手方（刑法184条後段で処罰）&lt;br /&gt;
* 賄賂罪：賄賂を受ける公務員（刑法197条前段で処罰）と賄賂を供与する者（刑法198条で処罰）&lt;br /&gt;
* [[わいせつ物頒布罪]]：わいせつな文章・図画を頒布等する者（刑法175条前段）と頒布を受ける者（不可罰）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==任意的共犯==&lt;br /&gt;
任意的共犯とは、条文上単独の行為者を想定して定められている犯罪を、2人以上の行為者によって実現する場合をいう。これは&#039;&#039;&#039;広義の共犯&#039;&#039;&#039;ともいわれる。&lt;br /&gt;
例えば[[殺人罪 (日本)|殺人罪]]や[[窃盗|窃盗罪]]は行為者が単独でも実行できるが、こうした犯罪を複数で実行することが任意的共犯である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
任意的共犯には共同正犯、教唆犯、幇助犯の3種がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;共同正犯 :複数の者が共同して犯罪を実行した場合、共犯者の全員が正犯として、別の共犯者の行為やその結果についても責任を負う（一部実行全部責任）こととなる。&lt;br /&gt;
;教唆犯 :人をそそのかして「犯罪」を実行させた者をいい、正犯と同じ刑が科される（刑法61条1項）。この教唆犯を教唆した場合を間接教唆と呼び、刑法61条2項により処罰される。さらにこの間接教唆者に教唆する場合を再間接教唆と呼び、これ以降の間接教唆を連鎖教唆と呼ぶ。連鎖教唆については刑法61条1項のような規定がないことからこれを処罰しうるか争いがあるが、判例は処罰を肯定する。&lt;br /&gt;
;幇助犯 :「[[正犯]]」を幇助した者をいう。幇助とは、正犯でない者が正犯の実行を容易にすることをいい、犯罪に使うもの（凶器など）を用意するといった物理的方法はもちろんのこと、正犯者を勇気づけるといった精神的方法でも幇助にあたるとされる。詳しくは[[幇助]]の項目を参照。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==正犯と共犯==&lt;br /&gt;
刑法各則の定める[[構成要件]]を自ら単独で実現する場合を[[単独正犯]]という。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
正犯と共犯の区別が問題となるのは[[間接正犯]]の場合である。これに関してそもそも正犯と共犯がいかなる関係に立つかが問題となり、かつては、共犯を処罰縮小事由とする[[拡張的正犯概念]]と共犯を処罰拡張事由とする[[限縮的正犯概念]]の対立があったが、現在では後者が通説である。限縮的正犯概念からは、正犯性を有する場合にのみ正犯になりえ、正犯にならない場合には（正犯性がなくても）共犯の成否が問題になるということになろう。もっとも、共犯の成立のためには正犯性を有しないことを要するとする見解もある。正犯性については[[正犯]]の項を参照。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
正犯と共犯の区別という論点がある。ここでいう共犯は狭義の共犯である。以下のような対立がある。&lt;br /&gt;
#主観説：正犯意思の有無による。&lt;br /&gt;
#形式的客観説：実行行為の分担の有無による。かつての通説。&lt;br /&gt;
#実質的客観説：構成要件実現への支配・寄与の程度ないし結果の帰属といった点により判断する。現在の多数説。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==共犯の従属性==&lt;br /&gt;
実行従属性、要素従属性、罪名従属性の3つに分けて考えられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
例：Aは資金繰りの悪くなった会社経営者のBに対して、「取引先を脅して金を奪ってしまえ」と執拗に勧めた。しかしBは「馬鹿なことを言うな」といって全く取り合わなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もしもBが実際に取引先を脅して金を奪った場合、Aは[[恐喝罪]]の教唆犯として処罰される。この例ではAが恐喝を唆しているが、Bは恐喝の実行に着手すらしていないため、Aには何らの犯罪も成立しない。このような見解を&#039;&#039;&#039;共犯従属性説&#039;&#039;&#039;（反対の見解が[[共犯独立性説]]）といい、現在の学説と実務の支配的な立場である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この「正犯者が犯罪の実行に着手しなければ共犯は成立しない」という考え方は&#039;&#039;&#039;実行従属性&#039;&#039;&#039;の原則といわれる（ただし、これは一般法としての刑法で認められた原則であって、[[特別刑法]]において教唆行為それ自体を犯罪として処罰することはできる。例としては[[破壊活動防止法]]38条以下にある内乱の教唆などがあるが、このように教唆行為自体が罰せられるものを独立教唆犯という）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;要素従属性&#039;&#039;&#039;とは、共犯が成立するためには概念上の正犯がどこまで犯罪要素を備えていなければならないか、という議論である。つまり、ある行為が犯罪として処罰されるのは、その行為が構成要件に該当し、違法であり、行為者に責任が問えるという3つの条件をすべて満たしている場合だけである。よって共犯が処罰されるのは、正犯者の行為がこの3つの条件すべてを満たしているという意味での「犯罪」である時に限られるのではないか、というのがこの議論の出発点である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この点については，以下のような形式があるとされる。&lt;br /&gt;
* 誇張従属形式（正犯に処罰条件、構成要件該当性、違法性および有責性が必要）（ただし、本来はこのような意味ではなく、要素従属性とは無関係とする指摘もある。）&lt;br /&gt;
* 極端従属形式（正犯に構成要件該当性、違法性および有責性が必要）&lt;br /&gt;
* 制限従属形式（正犯に構成要件該当性および違法性が必要）&lt;br /&gt;
* 最小限従属形式（正犯に構成要件該当性が必要）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、共犯と正犯又は各共犯に成立する罪名は同じである必要があるかという&#039;&#039;&#039;罪名従属性&#039;&#039;&#039;という問題がある。&lt;br /&gt;
犯罪共同説からはこれを肯定する見解が多数であるが、一部の犯罪共同説や行為共同説からは否定される。もっとも、狭義の共犯については、正犯の構成要件該当性への従属性を肯定する通説からは、共犯の罪名が正犯の罪名を上回らないという意味で片面的な罪名従属性が肯定されることになる。これを前提に、65条2項によってこの例外が認められる（つまり共犯の罪名が正犯の罪名を上回ることになる）か否かは争いがあるが、通説は肯定する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、近年においては、混合惹起説の有力化に伴って従属性の二義性も指摘されている。すなわち、従属性には必要条件としての従属性と連帯性としての従属性があるというものである。例えば、要素従属性は前者の問題とされる。2つの意味の区別は、独立性・（必要条件としての）従属性と個別性・連帯性を分離し、惹起説を前提にしつつ個別的要素についての要素従属性を承認する混合惹起説の論者にとって特に重要だからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 共犯の処罰根拠 ==&lt;br /&gt;
共犯がなぜ処罰されるのか、ということが盛んに論じられている（ここでいう共犯とは、狭義の共犯（すなわち教唆犯と幇助犯）を含むことが前提であるが、さらに共同正犯を含めるかについては争いがある。）。これを&#039;&#039;&#039;共犯の処罰根拠&#039;&#039;&#039;の問題という。共犯の処罰根拠についての学説の分類には争いがあるが、ここでは、代表的な五分説を説明する。もっとも、これはドイツにおける分類であり、必ずしも日本における学説状況とは対応しない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 責任共犯説（責任共犯論、堕落説） ===&lt;br /&gt;
共犯（特に教唆犯）は、（法益侵害への加功に加えて）正犯者を誘惑・堕落させたために処罰されるべきだ、という立場である。&lt;br /&gt;
現在では支持者は少ないが、伝統的な古典派はこれに近い見解を採っていた。極端従属形式に至る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 不法共犯説（不法共犯論、違法共犯論） ===&lt;br /&gt;
共犯は、正犯の不法（構成要件該当性＋違法性）を惹起したために処罰されるべき、という立場である。違法論のバリエーションによってさまざまな説がここに分類される。例えば、（二元論を含む）[[行為無価値論]]からは行為無価値惹起説が採られたり、二元論からは（法益侵害も処罰根拠に含める）二重の不法内容の理論が唱えられたりする。[[結果無価値論]]ないし二元論から唱えられる修正惹起説（後述）もこの一種とされることもある。制限従属形式に至る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 惹起説（因果共犯論） ===&lt;br /&gt;
共犯が処罰されるのは、共犯自身が違法に法益侵害結果を惹起するからだ、とする見解。&lt;br /&gt;
この見解には、さらに純粋惹起説、修正惹起説、混合惹起説の3つがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;純粋惹起説&#039;&#039;&#039;（独立性志向惹起説）&lt;br /&gt;
*: 共犯自身が違法かつ有責に法益を侵害することが処罰根拠であるとして、正犯の構成要件該当性は不要とする（違法性は要求する見解が多い）。[[限縮的正犯概念]]を前提として正犯と共犯の区別を行為類型の差に求め、[[要素従属性]]が緩和されるだけでなく、[[正犯なき共犯]]をも認める（拡張的共犯概念）。また、[[共犯なき正犯]]も肯定する。日本では、関西系の結果無価値論者に支持者が多い。従来は[[共犯独立性説]]に立つ近代派（[[牧野英一]]ら）によって支持されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;修正惹起説&#039;&#039;&#039;（従属性志向惹起説）&lt;br /&gt;
*: 違法の連帯性を前提として、共犯が正犯とともに法益侵害結果を惹起したことに処罰根拠を求める。共犯自身が違法かつ有責であるだけでなく、正犯が構成要件に該当し違法に法益侵害結果を惹起することを要求する。制限従属性を堅持するため、不法共犯論との差異はほとんどないと言われる。日本では、これを元に要素従属性を緩和する見解（「第三の惹起説」と呼ぶ論者もいる）が有力に唱えられている。正犯なき共犯も共犯なき正犯も否定する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;混合惹起説&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
*: 違法の相対性を承認し、共犯が処罰されるのは正犯の構成要件該当性及び違法性を前提とした（制限従属性）共犯自身の違法性に基づくとする。現在最も有力な見解である。正犯なき共犯は否定し、共犯なき正犯は肯定する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 共犯の本質 ==&lt;br /&gt;
[[共犯の本質]]が何であるかについては大きく分けて犯罪共同説と行為共同説が存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 犯罪共同説 ===&lt;br /&gt;
共犯とは数人が共同して構成要件を完成させることであると考え、各人が構成要件該当行為を行うことを要求する。この説では「数人一罪」と捉える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*完全犯罪共同説&lt;br /&gt;
*:各行為者の主観面において同一の構成要件を実現しようとする意思を要求する見解である。例えば、AとBが共同実行の意思をもって甲に対して殴る蹴るの暴行を加えて死に至らしめた場合、Aが殺人の故意をもって行い、Bが傷害の故意をもって行っていれば共犯は不成立となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*部分的犯罪共同説&lt;br /&gt;
*:各行為者の主観面が一致していなくても侵害された法益が一致する部分で共犯の成立を認める見解である。上記の例の場合、Aには殺人罪、Bには傷害致死罪が成立し、さらに、傷害致死罪の限度で共同正犯となる。また、窃盗を教唆したところ被教唆者が強盗を犯した場合のような&#039;&#039;&#039;共犯の過剰&#039;&#039;&#039;については、過剰結果については共犯成立を否定し、窃盗罪の範囲で教唆犯を認める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 行為共同説 ===&lt;br /&gt;
共同正犯は、各行為者が個別に犯罪を遂行し、惹起された法益侵害結果について各自の主観により個別の犯罪が成立すると考える。この説では「数人数罪」と捉える。&lt;br /&gt;
数人の間に実行行為を共同する意思があり、その行為と因果関係を有する法益侵害結果があれば共犯が成立することとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 類似概念 ==&lt;br /&gt;
共犯と似た概念に&#039;&#039;&#039;同時犯&#039;&#039;&#039;がある。共犯は各犯罪者が一つの犯罪を行うのに対し、同時犯は各犯罪者が（過失を含めて）意を通じることなく偶然同時に同じ犯罪をすることを指す。この場合は、一部実行全部責任とはならず、各人の犯した罪の限度でのみ処断される（どちらが犯したか不明の部分がある場合は、その部分は両者とも不可罰となる）。例外として[[同時傷害の特例]]がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 真犯人の嘘の自供により共犯者にされた冤罪事件 ==&lt;br /&gt;
* [[吉田岩窟王事件]]&lt;br /&gt;
* [[加藤老事件]]&lt;br /&gt;
* [[八丈島事件]]&lt;br /&gt;
* [[榎井村事件]]&lt;br /&gt;
* [[梅田事件]]&lt;br /&gt;
* [[八海事件]]&lt;br /&gt;
* [[山中事件]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[要素従属性|共犯従属性説]]&lt;br /&gt;
*[[共犯独立性説]] &lt;br /&gt;
&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
*[[要素従属性]] 　&lt;br /&gt;
*[[実行従属性]] 　&lt;br /&gt;
*[[罪名従属性]]&lt;br /&gt;
*[[制限的正犯概念]] 　&lt;br /&gt;
*[[拡張的正犯概念]] 　&lt;br /&gt;
*[[統一的正犯概念]] 　&lt;br /&gt;
--&amp;gt;&lt;br /&gt;
*[[共同正犯]] 　&lt;br /&gt;
*[[間接正犯]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:日本の刑法|きようはん]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.231.47.46</name></author>
	</entry>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E7%94%B7%E5%B1%B1_(%E9%85%92%E9%80%A0%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC)&amp;diff=105108</id>
		<title>男山 (酒造メーカー)</title>
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		<updated>2014-08-23T20:36:10Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.231.47.46: /* その他 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[画像:Otokoyama.jpg|280px|thumb|right|男山株式会社]]&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;男山株式会社&#039;&#039;&#039;（おとこやま）は[[北海道]][[旭川市]]の酒造メーカー。北の灘として知られる旭川を代表する酒造メーカーで、知名度は群を抜いて高い。全国各地に「男山」を名乗る酒は数多いが、旭川の「男山」が本家である。&lt;br /&gt;
敷地内には、旭川の観光名所の一つである「&#039;&#039;&#039;男山酒造り資料館&#039;&#039;&#039;」を併設。試飲もできて見学無料である。&lt;br /&gt;
外には酒造に使われる[[大雪山]]の[[伏流水]]も湧き出ていて、見学客も自由に飲むことが出来る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
多くの観光コースに組み込まれているが、近年は[[台湾]]など[[アジア]]からの観光客も数多く訪れている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 沿革 ==&lt;br /&gt;
男山の起源は[[17世紀]]中ごろ、[[寛文]]年間（1661年 - 1672年）に木綿屋山本三右衛門が男山八幡宮からその名をとり、[[兵庫県]][[伊丹市]]に創設したのが始まりとされている。[[1697年]]には伊丹市内の酒造家で町の政治を担う「惣宿老」の称号を獲得すると同時に、当時の特許の一つであった「御免酒」にもなった。[[1700年代]]には、初頭に[[赤穂浪士]]がその著名な討ち入りの後に男山を酌み交わしたとされ、江戸番付では男山大関に、[[江戸幕府]]からは徳川将軍家御膳酒にそれぞれ指定された。1700年代後半になると男山は文化にも定着。[[1794年]]に三代目市川八百蔵と六代目[[市川團十郎 (6代目)|市川團十郎]]が[[歌舞伎]]「男山御江戸磐石」を演じると、その2年後には[[喜多川歌麿]]が男山の[[浮世絵]]を描いた。その後[[19世紀]]にかけ、江戸に下る伊丹の酒としては最高量となる、28万樽の酒量を記録したほか、[[19世紀]]初頭に男山を飲んだ[[頼山陽]]から絶賛を受けるなど、「男山」の銘柄は日本の美酒の代名詞となった。商標登録などの規制が存在しない時代だったことから、全国のいくつかの蔵元が「男山」の名を酒に冠した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、その後灘・伏見の酒に人気が移り、明治の初めに元祖である伊丹の男山は廃業することになったが、その際に「男山」のブランドを切り売りすることになった。そのため全国にさらに多くの「男山」を名乗る蔵元ができた。男山株式会社が製造しているのは「北海男山」であるが、数多くの男山の中でも北海男山が正当な男山の末裔とされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
男山株式会社の前身である山崎酒造は、[[1899年]]に旭川で創業した、北海道としては老舗酒蔵である。[[1968年]]に元祖男山である伊丹の山本家末裔から正統の印である印鑑が継承され、男山株式会社に改称した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[20世紀]]に入ってから男山はその製品の品質において[[モンドセレクション]]、アムステルダム・ハイクオリティトロフィー（[[1992年]]）など数々の賞を受賞。特に世界酒類コンクール、国際酒類コンクール、欧州酒類コンクールでは、[[1977年]]から延べ30年間続けて金賞を受賞している。また、1970年代後半より、例年2月の第二日曜日に酒蔵開放イベントを実施。酒類の試飲コーナーやプレゼント抽選会を設けるなどしており、入場者の数も第一回から比べると軒並み増加している。[[1970年]]には旭川市とともに「工場緑化協定1号」を締結。その十年後となる[[1980年]][[10月14日]]には「旭川市みどりの市民」の援助も受けて、「北方圏外国樹木見本園」を敷地内に造設した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==各種データ==&lt;br /&gt;
* 主な銘柄：男山&lt;br /&gt;
* 所在地：旭川市永山2条7丁目64 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
※蔵見学可。本蔵併設の資料舘からガラス越しに見学できる。&lt;br /&gt;
: 9時 - 17時、無休（年末年始を除く）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== その他 ==&lt;br /&gt;
* 早くから輸出に力を入れた酒造メーカーで、「男山」は海外で最も有名な日本酒の銘柄となっている。&lt;br /&gt;
* 30年以上に渡り、[[北海道テレビ放送]](HTB)にてスポットCMを放映している。また、[[札幌テレビ放送]](STV)でも道北・北空知地区で放送している「[[札幌テレビ放送#市民ニュース|旭川市民ニュース]]」でCMを放映している。&lt;br /&gt;
* 海外にて「男山」を扱っているレストラン・飲食店の情報をメールなどで募集している。&lt;br /&gt;
* 日本最大級の[[カタクリ]]群生地として有名な、[[突哨山]]一帯を管理している。[http://www.otokoyama.com/otoko_b/otoko_b3/ 男山自然公園]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考 ==&lt;br /&gt;
* 男山酒造り資料館内、「男山関連の歴史と人物」より&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
* [http://www.otokoyama.com/ 木綿屋男山本家 男山株式会社ホ－ムページ]&lt;br /&gt;
* [http://www.kuramotokai.com/kikou/4 男山酒造の蔵元紀行]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:おとこやま}}&lt;br /&gt;
[[Category:北海道の日本酒メーカー]]&lt;br /&gt;
[[Category:旭川市の企業]]&lt;br /&gt;
[[Category:老舗企業 (江戸時代創業)]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.231.47.46</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E6%AE%BA%E3%81%97%E5%B1%8B&amp;diff=164622</id>
		<title>殺し屋</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E6%AE%BA%E3%81%97%E5%B1%8B&amp;diff=164622"/>
		<updated>2014-08-22T19:01:24Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.231.47.46: /* 関連項目 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Otheruses|殺人を生業とするもの|同名の小説|殺し屋 (小説)}}&lt;br /&gt;
{{redirect|暗殺者|同名のアメリカ映画|暗殺者 (映画)}}&lt;br /&gt;
{{独自研究|date=2011年11月}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;殺し屋&#039;&#039;&#039;（ころしや）とは、[[殺人]]を請け負うことで金銭的利益を得る者。職務上[[処刑]]に携わる[[公務員]]（[[死刑執行人]]）は含まれない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
殺し屋の「業務」たる[[殺人]]は時代と場所を問わず[[犯罪]]である。日本では、殺し屋に殺人を依頼し、殺し屋が殺人の[[実行行為]]に着手すれば、依頼主は殺人罪の[[教唆犯]]となり（共犯従属性説）、[[刑法 (日本)|刑法]]により処罰される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
殺し屋が稼業として成り立つかどうかは、その国の[[治安]]状況と、警察の[[捜査]]能力に依拠している。すなわち法治国家においては、実行後に逮捕された場合、営利目的の殺人は極めて厳しい刑罰が科せられることになる。従ってこのリスクが高い日本や先進諸国においては、一回仕事をしただけでも懲役数十年（場合によっては死刑）の実刑を覚悟しなければならず、ビジネスとしては全く成り立たないことになる。また、依頼者（クライアント）は殺人教唆で常に同様の重罪を受ける覚悟をしなければならず、被依頼者が何らかの事件で逮捕された場合には、その自白により依頼者も逮捕される危険性を常に抱えることになる。また、被依頼者によって逆に「[[出頭]]するぞ」と脅される危険性をも負うことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 殺し屋の一例 ==&lt;br /&gt;
[[1970年代]]に実在したとされる[[マフィア]]の殺し屋の自叙伝「KILLER」には、以下のような説明がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
殺し屋はフリー・ランサーと特定の組織にフルタイムで雇われている場合に分けられる。フリーの場合、すべて契約から始まり、金は前金で支払われる。プランは三つの方法が選択される。&lt;br /&gt;
#相手の決まった行動を知らされる。&lt;br /&gt;
#殺し屋が相手を研究して決まった行動を自分で見つける。&lt;br /&gt;
#あらかじめ決められた場所に関係者が相手を連れてくる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
計画が完璧であるとはっきりすると仕事が実施される。凶器の用意以外に必要な準備はほとんどないが、目撃されて逃走する可能性がある場合は盗難車を用意しておく。運転手や見張りがつく場合もあるが大抵は一人で行う。但し人込みのなかで仕事をする場合は盗難車と追ってくる車に偶然ぶつかり足止めするための衝突車が使われる。仕事の後にすべき処理は凶器の片付けであり、その後は記憶はしているが仕事を忘れて日常生活に戻ることで終わる。もし目撃者がいた場合もそれぞれが巻き添えを恐れ裁判で証人になろうというほど意識の高いケースはほとんどない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次に警察だが、警察は殺人事件の犯人を知っていても組織暴力のケースでは証人が得られないとあまり努力はしないが、第三者を巻き込んだ場合はその限りではない。そのため仕事では相手を一人にさせるのが重要になる。最後に死体の処理だが契約において現場に残す場合と死体を無くす場合が指定される。無くす場合は農園、建築現場が使われるとこの殺し屋は示唆している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 公務員としての殺し屋 ==&lt;br /&gt;
国家が秘密警察や情報機関が政治的目的で殺人者を養成する場合もあると考えられる&amp;lt;ref&amp;gt;トロツキーを暗殺した[[ラモン・メルカデル]]などは明らかに公務として殺人を行った公務員であるが、その実態は完全には明らかにはなっていない。&amp;lt;/ref&amp;gt;。フィクションにおいてはCIAの殺し屋は隠語で｢ウェットボーイ」と言うとされるがその実態は不明である&amp;lt;ref&amp;gt;[[映画]]『[[:en: In the Line of Fire#Plot synopsis|ザ･シークレットサービス]]』より。&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[マルコ・ポーロ]]は『[[東方見聞録]]』において、暗殺者教団について記述しているがその真偽は不明である。詳細は[[暗殺教団]]を参照。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==題材とした作品==&lt;br /&gt;
殺し屋を主題とした作品、主役または重要人物に殺し屋が登場する作品を記述する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===映画===&lt;br /&gt;
{{columns-list|2|&lt;br /&gt;
* [[黄線地帯 イエローライン|黄線地帯]] （1960年）&lt;br /&gt;
* [[乾いた花 (映画)|乾いた花]] （1964年）&lt;br /&gt;
* [[網走番外地 (東映)|網走番外地 望郷編]]　（1965年）&lt;br /&gt;
* [[ある殺し屋]] （1967年）&lt;br /&gt;
* [[殺しの烙印]] （1967年）&lt;br /&gt;
* [[狼の挽歌]] （1970年）&lt;br /&gt;
* [[狼やくざ 殺しは俺がやる]] （1971年）&lt;br /&gt;
* [[ジャッカルの日]] （1973年）&lt;br /&gt;
* [[ゴルゴ13 (1973年の映画)|ゴルゴ13]] （1973年）&lt;br /&gt;
* [[激突! 殺人拳|殺人拳]]シリーズ&lt;br /&gt;
** [[激突! 殺人拳]] （1974年）&lt;br /&gt;
** [[子連れ殺人拳]] （1976年）&lt;br /&gt;
* [[直撃! 地獄拳]] （1974年）&lt;br /&gt;
* [[ゴルゴ13 九竜の首]] （1977年）&lt;br /&gt;
* [[ザ・サイレンサー MAGNUM357]] （1995年）&lt;br /&gt;
* [[暗殺者 (映画)|暗殺者]]　（1995年） - 殺し屋同士の新旧対決を描く。&lt;br /&gt;
* [[ウォンテッド (映画)|ウォンテッド]]&lt;br /&gt;
* [[ニキータ]]&lt;br /&gt;
* [[ザ・シークレット・サービス]]&lt;br /&gt;
* [[レオン (映画)|レオン]] &lt;br /&gt;
* [[コラテラル]]&lt;br /&gt;
* [[Mr.&amp;amp;Mrs. スミス]]&lt;br /&gt;
* [[隣のヒットマン]]/[[隣のヒットマンズ 全弾発射]]&lt;br /&gt;
* [[スモーキン・エース/暗殺者がいっぱい]]&lt;br /&gt;
* [[キル・ビル]]&lt;br /&gt;
* [[パルプ・フィクション]]&lt;br /&gt;
* [[ノーカントリー]]&lt;br /&gt;
* [[ヒットマン (2007年の映画)|ヒットマン]]&lt;br /&gt;
* [[ザ・マジックアワー]]&lt;br /&gt;
* [[ローグ・アサシン]]&lt;br /&gt;
* [[IZO (映画)|IZO]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===オリジナルビデオ===&lt;br /&gt;
* [[KOROSHI 殺し]]（2000年） - [[小林政広]]監督作品。[[石橋凌]]主演。出演：[[大塚寧々]]、[[緒方拳]]、[[光石研]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===ゲーム===&lt;br /&gt;
{{columns-list|2|&lt;br /&gt;
*[[ヒットマン (ゲーム)|ヒットマン]]シリーズ &lt;br /&gt;
*[[Phantom -PHANTOM OF INFERNO-]]&lt;br /&gt;
*[[グラスホッパー・マニファクチュア]]&lt;br /&gt;
*[[龍が如く2]]&lt;br /&gt;
*[[グランド・セフト・オートシリーズ]]&lt;br /&gt;
*[[アサシンクリードシリーズ]]&lt;br /&gt;
*[[アウトフォクシーズ]]&lt;br /&gt;
*[[天誅 (ゲーム)|天誅]]シリーズ&lt;br /&gt;
*[[必殺裏稼業]]&lt;br /&gt;
*[[ザ・ダークネス (ゲーム)|ザ・ダークネス]]&lt;br /&gt;
*[[オメルタ 〜沈黙の掟〜]]&lt;br /&gt;
*[[葬除屋XLORD]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===ドラマ===&lt;br /&gt;
*[[女殺し屋 花笠お竜]]&lt;br /&gt;
*[[必殺シリーズ]]&lt;br /&gt;
*[[MOZU]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===小説===&lt;br /&gt;
{{columns-list|2|&lt;br /&gt;
*[[池波正太郎]]『[[仕掛人・藤枝梅安]]』&lt;br /&gt;
*[[新堂冬樹]]『アサシン』&lt;br /&gt;
*[[深見真]]『[[ヤングガン・カルナバル]]』&lt;br /&gt;
*[[伊坂幸太郎]]『[[グラスホッパー (小説)|グラスホッパー]]』&lt;br /&gt;
*[[山田正紀]]『殺人契約 殺し屋・貴志』&lt;br /&gt;
*[[西尾維新]]『[[戯言シリーズ]]』&lt;br /&gt;
*[[野沢尚]]『殺し屋シュウ』&lt;br /&gt;
*[[大石圭]]『人を殺す、という仕事』&lt;br /&gt;
*[[小竹清彦]]『アップルジャック』&lt;br /&gt;
*[[ヒキタクニオ]]『[[凶気の桜]]』、『消し屋A』、『遠くて浅い海』 - 「消し屋」と称する殺し屋が登場。&lt;br /&gt;
*[[フレデリック・フォーサイス]]『[[ジャッカルの日]]』&lt;br /&gt;
*[[逢坂剛]]『[[MOZU|百舌シリーズ]]』&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===漫画===&lt;br /&gt;
{{columns-list|2|&lt;br /&gt;
*[[ゴルゴ13]]&lt;br /&gt;
*[[殺し屋1]]&lt;br /&gt;
*[[シティーハンター]]&lt;br /&gt;
*[[エンジェル・ハート]]&lt;br /&gt;
*[[職業・殺し屋。]]&lt;br /&gt;
*[[家庭教師ヒットマンREBORN!]]&lt;br /&gt;
*[[今日からヒットマン]]&lt;br /&gt;
*[[殺し屋さん]]&lt;br /&gt;
*[[イフリート〜断罪の炎人〜]]&lt;br /&gt;
*[[BLACK CAT]]&lt;br /&gt;
*[[ジーザス (漫画)|ジーザス]]&lt;br /&gt;
*[[オメガ7]] - 殺し屋というよりは「[[死の部隊]]」を描いた作品。&lt;br /&gt;
*[[魔弾の射手 (漫画)|魔弾の射手]]&lt;br /&gt;
*[[TISTA]]&lt;br /&gt;
*[[ツーリング・エクスプレス]]&lt;br /&gt;
*[[闇狩人]]&lt;br /&gt;
*[[殺し屋麺吉]]&lt;br /&gt;
*[[Mr.Perfect]]&lt;br /&gt;
*[[CØDE:BREAKER]]&lt;br /&gt;
*[[“殺医”ドクター蘭丸]]&lt;br /&gt;
*[[Luck Stealer]]&lt;br /&gt;
*[[ブラック・ラグーン|BLACK LAGOON]]&lt;br /&gt;
*[[魔王 JUVENILE REMIX]]&lt;br /&gt;
*[[湯けむりスナイパー]]&lt;br /&gt;
*[[アラクニド]]&lt;br /&gt;
*[[長男の時代]]&lt;br /&gt;
*[[ブラック・エンジェルズ]]&lt;br /&gt;
*[[ミッドナイトパンサー]]&lt;br /&gt;
*[[キルミーベイベー]]&lt;br /&gt;
*[[悪魔のリドル]]&lt;br /&gt;
*[[暗殺教室]]&lt;br /&gt;
*[[デストロ246]]&lt;br /&gt;
*[[親愛なる殺し屋様]]&lt;br /&gt;
*[[Wallman -ウォールマン-]]&lt;br /&gt;
*[[アサシンichiyo]]&lt;br /&gt;
*[[しすばれ -Sister bullet-]]&lt;br /&gt;
*[[アカメが斬る!]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===アニメ===&lt;br /&gt;
{{columns-list|2|&lt;br /&gt;
*[[NOIR]]&lt;br /&gt;
*[[Phantom 〜Requiem for the Phantom〜]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 音楽 ===&lt;br /&gt;
{{columns-list|1|&lt;br /&gt;
* [[K DUB SHINE]]　『アウトロー』&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参照 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[キラー]]&lt;br /&gt;
* [[暗殺]]&lt;br /&gt;
* [[刺客]]&lt;br /&gt;
* [[アサシン]]&lt;br /&gt;
* [[ヒットマン]]&lt;br /&gt;
* [[バウンティハンター]]&lt;br /&gt;
* [[幕末の四大人斬り]]&lt;br /&gt;
* [[マーダー・インク]]&lt;br /&gt;
* [[スナイパー]]&lt;br /&gt;
* [[リチャード・ククリンスキー]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ころしや}}&lt;br /&gt;
[[Category:職業]]&lt;br /&gt;
[[category:殺人]]&lt;br /&gt;
[[Category:暗殺者|*]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[no:Leiemorder]]&lt;br /&gt;
[[sv:Yrkesmördare]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.231.47.46</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E6%B8%A1%E9%83%A8%E9%99%BD%E4%B8%80&amp;diff=223875</id>
		<title>渡部陽一</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E6%B8%A1%E9%83%A8%E9%99%BD%E4%B8%80&amp;diff=223875"/>
		<updated>2014-08-21T21:42:02Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.231.47.46: /* バラエティ */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Infobox journalist&lt;br /&gt;
| name        = 渡部 陽一&lt;br /&gt;
| image       = &lt;br /&gt;
| caption     = &lt;br /&gt;
| birthname   = &lt;br /&gt;
| birth_date  = {{生年月日と年齢|1972|9|1|}}&lt;br /&gt;
| birth_place = {{JPN}}・[[静岡県]][[富士市]]&lt;br /&gt;
| death_date  = &lt;br /&gt;
| death_place = &lt;br /&gt;
| education   = [[明治学院大学]][[法学部]]&lt;br /&gt;
| occupation  = 戦場カメラマン&amp;lt;br&amp;gt;フォトジャーナリスト&lt;br /&gt;
| alias       = &lt;br /&gt;
| title       = &lt;br /&gt;
| family      = &lt;br /&gt;
| spouse      = あり&lt;br /&gt;
| domestic_partner =&lt;br /&gt;
| children    = [[長男]]（[[2010年]]生）&lt;br /&gt;
| relatives   = &lt;br /&gt;
| ethnic      = {{JPN}}&lt;br /&gt;
| religion    = &lt;br /&gt;
| salary      = &lt;br /&gt;
| years_active = &lt;br /&gt;
| networth    = &lt;br /&gt;
| credits     = &lt;br /&gt;
| agent       = &lt;br /&gt;
| URL         = http://www.yoichi-watanabe.com/index.html 戦場カメラマン 渡部陽一 &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;渡部 陽一&#039;&#039;&#039;（わたなべ よういち、[[1972年]][[9月1日]] - ）は、日本の[[戦場カメラマン]]、[[写真|フォト]][[ジャーナリスト]]、[[タレント]]。初代・[[富士市]][[観光大使|観光]][[親善大使]]。所属事務所はBe.Brave Group。{{要出典範囲|date=2013年12月|渡辺と誤植されることが多い}}&amp;lt;!-- 全ての渡部さんに言えることかと思われるが、特筆する理由は？ --&amp;gt;が、「渡&#039;&#039;&#039;部&#039;&#039;&#039;」と書いて「わたなべ」と読むのが正しい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 来歴 ==&lt;br /&gt;
[[静岡県]][[富士市]]出身。静岡県[[富士市立田子浦小学校]]、同市立[[富士市立田子浦中学校|田子浦中学校]]卒業。中学時代は[[生徒会長]]を務め、[[静岡県立富士高等学校]]に入学する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[静岡県立富士高等学校]]卒業後、「[[バンカラ]]にあこがれて」という動機により&amp;lt;ref name=&amp;quot;Bunsyun&amp;quot;&amp;gt;[[週刊文春]]2011年九月一日号&amp;lt;/ref&amp;gt;[[早稲田大学]]を目指し2年間の[[過年度生|浪人]]の末、[[明治学院大学]][[法学部]]に進学した。[[落合信彦]]の著書に登場する弁護士の存在を知り、「[[弁護士]]や[[検察官]]など、困っている人を助ける仕事に就きたい。」と思い、大学の法学部に入った。大学の一般教養課程の生物学の授業でアフリカの狩猟民族に興味を持ち、全く現地の知識もないまま旅行者として[[ピグミー族]]に会いに行くため、[[アフリカ]]の[[コンゴ民主共和国]]に行った&amp;lt;ref name=&amp;quot;sankeiphoto&amp;quot;&amp;gt;{{Cite web|date=2011-07-24|url=http://photo.sankei.jp.msn.com/essay/data/2011/07/0724watanabe/|title=好奇心が自身を導く〜戦場カメラマンの渡部陽一さん|publisher= MSN産経フォト|accessdate=2011-07-31}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし当時は[[ルワンダ紛争]]のまっただ中であったため、[[ルワンダ]]の[[少年兵]]に襲撃され、カメラを含めた私物全てを差し出すことで何とか助かった。帰国後周囲の人間に、その被害と少年兵がいる現実を説明したが、理解してもらえなかったことから、その場の状況を伝えられるカメラの必要性を痛感し、「[[戦場カメラマン]]」となることを決意した&amp;lt;ref name=&amp;quot;techinsight2010.08.05&amp;quot;&amp;gt;{{Cite news|url = http://japan.techinsight.jp/2010/08/watanabeyouiti1008032334.html| title =【エンタがビタミン♪】あの“戦場カメラマン”渡部陽一が、テレビ出演を断らない理由。|accessdate=2010年8月8日|date=2010年8月5日|work =TechinsightJapan}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。大学1年生のときから戦場へ取材に行っており、その影響で大学を2回[[留年]]したあと、同大学を卒業。試験のときだけ帰国していたという。当時は飲食店や写真撮影の[[アルバイト]]で貯めた資金で取材をしていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初の撮影写真が記載された雑誌は『[[サンデー毎日]]』である&amp;lt;ref name=&amp;quot;Bunsyun&amp;quot;&amp;gt;[[週刊文春]]2011年九月一日号&amp;lt;/ref&amp;gt;。時に「[[侍|サムライ]][[ジャーナリスト]]」を名乗る&amp;lt;ref name=&amp;quot;sankeiphoto&amp;quot; /&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
過去には、平均して1年の半分は海外に滞在して仕事をしており&amp;lt;ref name=&amp;quot;techinsight2010.08.05&amp;quot;/&amp;gt;、[[ルワンダ紛争]]、[[コソボ紛争]]、[[チェチェン紛争]]、[[ソマリア内戦]]、[[イラク戦争]]など、130の[[国家|国]]と[[地域]]の紛争地域を取材している。EMBED（[[従軍記者]]）として紛争地域に赴く。雑誌、テレビ番組などで作品を配信しているほか、ラジオ番組でも現地から直接リポートをしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2009年]]に結婚、[[2010年]][[6月9日]]に第一子の男児が誕生。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
かねてから故郷の[[富士市]]に貢献したいと発言しており、[[2011年]][[2月10日]]に富士市では初となる「富士市[[観光大使|観光]][[親善大使]]」に任命された。「富士市が大好きで、日本のみならず、世界中に、富士市を[[パブリック・リレーションズ|PR]]します。」と述べた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2011年]][[3月11日]]、[[東京都]]六本木ヒルズ森タワーで、『戦場カメラマン 渡部陽一 &amp;amp; 紙の魔術師 太田隆司 展』についての会見が[[地震]]のため、約1時間中断した。「突然で非常に動揺しました。」、首から下げているカメラのシャッターは「状況を見て切らなかった。」と述べた。過去には[[1999年]]に[[トルコ]]で[[イズミット地震 (1999年)|大地震]]に遭遇したことがあり、「当時、一軒家の3階にいて、立ち上がれなかった。広場に避難したのを覚えています。今回の地震とは比べられないが、あの時もすごい揺れだった。」と述べている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.sanspo.com/geino/news/110312/gnj1103120506016-n1.htm]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2011年]]3月から4月にかけて、[[東日本大震災]]の被災地である[[岩手県]][[大船渡市]]、[[陸前高田市]]、[[宮古市]]などを取材している&amp;lt;ref&amp;gt;[http://yoichi4001.iza.ne.jp/blog/month/201103/ 公式ブログ3月付記事]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[http://yoichi4001.iza.ne.jp/blog/month/201104/3/ 公式ブログ4月付記事]&amp;lt;/ref&amp;gt;。「[[津波]]の被害は本当に想像を絶するもの。そこには世界中まわっても見たことのない厳しい現状が広がっており、僕は言葉を失ってしまいました。」と述べた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2011年]][[3月27日]]、[[東京都]]オリナス錦糸町で、「少しでも役に立ちたい。」と、当初予定していたイベントの代わりに、[[東日本大震災に対する個人・その他各種団体の支援活動|東日本大震災被災者への募金活動]]を行った。募金活動には、賛同した[[山本梓]]、[[テツandトモ]]も参加した。渡部は「被災者は本当に困っています。ぜひ力を貸してください。」と大きな声で呼びかけた&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.sanspo.com/geino/news/110328/gnj1103280503007-n1.htm]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物 ==&lt;br /&gt;
{{雑多な内容の箇条書き|date=2013年8月|section=1}} &lt;br /&gt;
* [[身長]]180[[センチメートル|cm]]、[[体重]]65[[キログラム|kg]]、[[靴|靴のサイズ]]26.5[[センチメートル|cm]]。[[血液型]]は[[ABO式血液型|A型]]。&lt;br /&gt;
* [[イスラム世界|イスラム圏]]で取材を行うため、現地の[[習慣|慣習]]に合わせて[[髭|ヒゲ]]を生やしている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.shic-place.com/]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* [[灰色|グレー]]の[[ベレー帽]]は「13～14年前に妹からもらったもので、この帽子をかぶっていくと取材が成功する可能性が高いんです。」と述べている（2010年）&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.cyzo.com/2010/11/post_5916.html]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* [[ポケット]]がたくさんついている[[カメラマン]][[ベスト]]は「細かい持ち物はすべてポケットに収納して、どんなときでも両手をあけて、不測の事態に対応しているんです。小さな[[カメラ]]、[[電池|バッテリー]]、[[写真フィルム|フィルム]]、[[ノートブック|ノート]]、[[ペン]]…、どれをどのポケットに入れるかすべて決まっていて、真っ暗な中でもバッテリーやフィルム交換をできるように訓練しています。」と述べている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.cyzo.com/2010/11/post_5916.html]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 襟なしの[[シャツ]]をよく着ている。「昔から、ワイシャツを着て、ネクタイを締めるという生活をしたことがなかったので、襟があるとなんだか気になって、疲れてしまうんですね。」と述べている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.cyzo.com/2010/11/post_5916.html]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 使用している[[カメラ]]は[[キヤノン|Canon]] EOS-1D MarkIV。カメラに[[太陽光]]が反射するとそれが[[銃]]だと間違われて、射撃されることがあるため、[[レンズ]]以外の部分を[[黒|黒い]][[テープ]]（パーマセルテープ）で覆っている&amp;lt;ref name=&amp;quot;degicamwatch2011.02.28&amp;quot;&amp;gt;{{Cite news|url = http://dc.watch.impress.co.jp/docs/news/20110228_430061.html| title =NTTナレッジ・スクウェア、「戦場カメラマン 渡部陽一のスナップ写真講座」を開講|accessdate=2011年3月3日|date=2011年2月28日|work =デジカメWatch}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。最近の作品は[[デジタルカメラ]]で撮影し、[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]を使って[[データ]]管理している。1990年代終わり頃までは[[写真フィルム|フィルム]]で撮影をする事が基本であった&amp;lt;ref&amp;gt;[http://yoichi-watanabe.com/column005.html]&amp;lt;/ref&amp;gt;。また安全のために[[ボディアーマー|防弾チョッキ]]を着用して取材を行っているが、幸いなことに[[弾丸|銃弾]]を受けたことは1度もない。&lt;br /&gt;
* [[重さ]]7[[キログラム|kg]]もある大型[[日記]]帳は耐久性強化のために[[煉瓦|レンガ]]を付着している&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.shic-place.com/]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* [[土産|手土産]]に[[山崎製パン]]の「ダブルソフト」を持っていく。やわらかい食感が好評で、また来るときはリクエストされるという&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.shic-place.com/]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 低い声でゆっくりと話す柔らかい口調と、シリアスな話題でも聞く側を重苦しくさせない話術が特徴である&amp;lt;ref name=&amp;quot;techinsight2010.08.05&amp;quot; /&amp;gt;。『[[ウチくる!?]]』に出演した富士高時代の友人たちは、彼の話し方やカラオケでの歌い方などは、学生時代から変わっていないと証言している。別の知人の証言によると、渡部は、妹の結婚に際しておこなわれた親族の顔合わせでも、父親から「お前は喋り方が変だから、何もいうな。」と「厳命された。」という&amp;lt;ref name=&amp;quot;seven20101223&amp;quot;&amp;gt;{{Cite journal|和書&lt;br /&gt;
| author = &lt;br /&gt;
| year = 2010&lt;br /&gt;
| month = 12&lt;br /&gt;
| title = 渡部陽一 父から「喋り方が変だから何もいうな」といわれてた&lt;br /&gt;
| journal = [[女性セブン]]&lt;br /&gt;
| volume = &lt;br /&gt;
| issue = 2010年12月23日号&lt;br /&gt;
| pages = &lt;br /&gt;
| publisher = NEWSポストセブン&lt;br /&gt;
| url = http://www.news-postseven.com/archives/20101211_7854.html&lt;br /&gt;
| accessdate = 2011-02-07&lt;br /&gt;
}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。なお、常にゆっくり話すわけではなく、時に早口で話すこともある。&lt;br /&gt;
* 「小さいころから友人に『渡部は話し方が変だ。』と言われました。外国に行くようになり、言葉が通じない国で単語を正確にゆっくり伝えると、理解してもらえるんです。そんな生活を続けて、もともとの話し方から、さらにゆっくりになったんだと思います。」と述べている&amp;lt;ref name=&amp;quot;sankeiphoto&amp;quot; /&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* [[アフリカ]]や[[中東]]の取材で、しゃべる言葉について「僕は99パーセントは[[英語]]で話します。[[日本語]]、[[アラビア語]]でコミュニケーションを取る場合もありますが、ほとんどが英語ですね。必要に応じて、それを現地語に通訳してもらいます。」、「ゆっくりでも、単語単語をつなげていくと、相手が理解してくれます。特に英語が[[公用語]]になっていない地域の国々では、僕と同じようなテンポで英語を話しますので、お互いリズムがかみ合い、取材はしやすいですね。」と述べている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.cyzo.com/2010/11/post_5916.html]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 定期的に出演していたバラエティ番組『[[笑撃!ワンフレーズ]]』での発言は、番組司会者の[[千原ジュニア]]の判断で、そのつど[[着ボイス]]化されている。あまりにゆっくり喋るため、[[生放送]]の番組に出演した際は司会者が苦労することが多い。&lt;br /&gt;
* 「危険だという瞬間を写真で押さえるのも、カメラマンの大事な仕事ですが、たどり着く前に事件が終わっていることもありますね。」と述べている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.cyzo.com/2010/11/post_5916.html]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 「取材で気をつけていることは、[[日本人]]のライフスタイルや[[習慣|慣習]]を、取材先の地域には持ち込まないこと。」と述べている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.cyzo.com/2010/11/post_5916.html]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 戦場カメラマンとして力を入れている一つが「戦渦の子供達を撮影すること」で、「戦争の一番の犠牲者が子供達であるということをたくさんの人に知ってもらいたい。」と述べている。今まで武器を携えている少年兵や危険に晒された通学路を通いながらも笑顔を見せる子供たちを撮影してきた&amp;lt;ref name=&amp;quot;techinsight2010.08.05&amp;quot; /&amp;gt;。いきなり写真を撮っても警戒され笑顔を見せてくれないため、「アイアム、[[ブルース・リー]]」といって気を引く&amp;lt;ref name=&amp;quot;techinsight2010.08.05&amp;quot; /&amp;gt;。ブルース・リーを選んだ理由は、外国の子供が良く知っている東洋人であるためである&amp;lt;ref name=&amp;quot;techinsight2010.08.05&amp;quot; /&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 「恐怖により取材の挫折・帰国を繰り返したが、刺激のない日本にいると気分が塞いでしまうため戦場に向かう」との旨を著書で述べている。[[植村直己]]の「冒険とは生きて帰ることである」という言葉に感銘を受け、自身は「戦場カメラマンとは生きて帰ること」を信条としている。&lt;br /&gt;
* 「将来、何十年先かもしれないが、世界から戦争がなくなり、戦場カメラマンの仕事がなくなって、[[カメラマン#写真|学校カメラマン]]になること。世界中の学校を撮影し、写真集やドキュメンタリー番組などで、伝えていきたい。」と述べている&amp;lt;ref name=&amp;quot;sankeiphoto&amp;quot; /&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== テレビ出演に対して ===&lt;br /&gt;
{{雑多な内容の箇条書き|date=2013年8月|section=2}} &lt;br /&gt;
* [[2003年]]に勃発した[[イラク戦争]]では、初めて[[ビデオカメラ]]を使って[[テレビ]]の仕事をこなした&amp;lt;ref name=&amp;quot;sankeiphoto&amp;quot; /&amp;gt;。「[[情報プレゼンター とくダネ!]]」の[[大村正樹]]の通訳兼ガイドを担当し、大村からの薦めで写真や取材報告を多くの人に伝えるため「Be.Brave Group」に所属となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;Bunsyun&amp;quot;&amp;gt;[[週刊文春]]2011年九月一日号&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* [[2009年]]末、[[TBSテレビ|TBS]]『1億3000万人の法則』で、戦場カメラマンの仕事について、インタビューを受けた&amp;lt;ref&amp;gt;[http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/column/20100721/1032437/?ST=life&amp;amp;P=2 2010年07月22日日経トレンディネット]&amp;lt;/ref&amp;gt;。その後[[2010年]]頃から、さまざまなテレビ番組への出演を重ねるようになった。「お呼びがかかることが、何とも不思議であり、ありがたいことでもあります。」と述べている&amp;lt;ref name=&amp;quot;sankeiphoto&amp;quot; /&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* [[2010年]]、『[[笑っていいとも!増刊号]]』（フジテレビ）のレギュラーにもなった。レギュラーコーナー『戦場カメラマン渡部陽一の[[新宿アルタ|アルタ]]最前線!』。また、[[2011年]]から[[テレビ東京]]などで放送中の『[[ちょこっとイイコト 〜岡村ほんこん・しあわせプロジェクト〜]]』では、「[[岡村隆史]]の結婚プロジェクト」に後見人の1人として参加。スタジオで実施される岡村の公開お見合いに立ち会ったり、岡村に対して既婚者の立場からアドバイスを送ったりしている。&lt;br /&gt;
* バラエティー番組などのテレビ出演には葛藤もあったというが、バラエティー番組に出演したことは、今では良かったと思っている。「子供から年配の方にまで、[[イラク]]、[[アフガニスタン]]、[[レバノン]]、[[パレスチナ]]、[[スーダン]]といった世界のことを伝えられ、少しでも『アフガニスタンって、どんな国なの?』と思ってもらえるようになるのが、一番うれしい。」と述べている&amp;lt;ref name=&amp;quot;sankeiphoto&amp;quot; /&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 渡部の師匠である[[報道写真|報道写真家]]・[[山本皓一]]から「（バラエティー番組などのテレビ出演について）やってみたらいい。ただ条件として、どの番組でも少しでも撮影した写真を使っていただき、自分で何が起こっているかを伝えること。これさえ守れれば、何を言われても静かにしていなさい。」とアドバイスをもらい、渡部はテレビ出演に踏み切った&amp;lt;ref name=&amp;quot;sankeiphoto&amp;quot; /&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 本人はテレビに出演するのも全て、戦場カメラマンとして活動するためだという。自分に関心を持ってもらい、撮影した写真をたくさんの人に見てもらいたい。戦争の悲惨さ・命の大切さをたくさんの人に知ってもらいたい。そして、長期間、海外に滞在して仕事をするので、その活動費を稼ぐため&amp;lt;ref name=&amp;quot;techinsight2010.08.05&amp;quot; /&amp;gt;。戦場カメラマンとしての収入は不安定なものなので、バナナの積み込みなどをして、活動費を補ったりしてきた。&lt;br /&gt;
* 戦場取材の資金稼ぎのため、テレビに出まくった[[2010年]]を「挑戦の年でした。普段はカメラマンですが、逆に撮られる側の恐怖感にも、気づくことができました」と振り返る。来年は「しっかり、状況を見据えながら、柔軟に、フットワークよく、世界中を、跳び回っていこうと思っています」と語った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 趣味・嗜好 ===&lt;br /&gt;
{{雑多な内容の箇条書き|date=2013年8月|section=3}} &lt;br /&gt;
* 釣りは幼少期から始め、[[海釣り]]が好き。&lt;br /&gt;
* 剣道は富士市立田子浦小学校入学当初から習い始め、田子浦中剣道部に所属し初段の腕前。「礼節を保って自分を律し、目上の人を敬うことをたたき込まれました。今でも僕のカメラマンの仕事には、少年剣道時代がルーツにあると思う。」と述べている&amp;lt;ref name=&amp;quot;sankeiphoto&amp;quot; /&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 富士高バドミントン部、明治学院大ファンタスティックテニスサークルに所属していた。知人の証言によれば、体育教師から「何をやらせても陽一がいちばんうまい。あいつがいちばん運動神経がある」と褒められていたという&amp;lt;ref name=&amp;quot;seven20101223&amp;quot; /&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 水周り関係（風呂・トイレ・キッチン）の掃除が好き。&lt;br /&gt;
* [[公式ウェブサイト|オフィシャル]][[ブログ]]を持つが、ブログの方にはプライベートのことは書かず、戦場での写真などしか記載しない。ただし[[ツイッター]]も持っているので、そちらには番組出演の情報なども記載している。&lt;br /&gt;
* 好きな言葉は「死して[[死体|屍]]、拾うものなし」&amp;lt;ref&amp;gt;[http://photo.sankei.jp.msn.com/kodawari/data/YoichiWatanabe/20101227afgan/]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 好きな食べ物はサンドイッチ、アイスクリーム、[[豚カツ|トンカツ]]。[[日本]]に戻って一番したかったことは「[[豚カツ|トンカツ]]を食べること。[[アフガニスタン]]では（[[イスラム教]]の）宗教上の[[習慣|慣習]]で[[豚肉]]は食べられないんです。」と述べている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://japan.techinsight.jp/2011/05/watanabe-201156-iitomokikoku.html]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 嫌いな食べ物はポップコーン。その理由は「味付けされていないポップコーンを食べ続けていたため」。&lt;br /&gt;
* 映画鑑賞も好む。好きな映画は『[[ゴースト/ニューヨークの幻|ゴースト]]』、『[[フラッシュダンス]]』、『[[トップガン (映画)|トップガン]]』、『[[ニュー・シネマ・パラダイス]]』、『[[BECK (映画)|BECK]]』など。『BECK』を観に行っており、活動休止になった[[水嶋ヒロ]]・[[絢香]]夫婦を「これからも応援していきたい。」と述べている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://japan.techinsight.jp/2010/10/watanabeyouichi-youngsunday.html]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 好きな音楽は[[J-POP|ジャパニーズポップス]]関連では、[[矢沢永吉]]の『[[SOMEBODY&#039;S NIGHT]]』、[[SPEED]]の『[[White Love]]』、[[西田ひかる]]の『[[ときめいて]]』、[[絢香]]の『[[三日月 (絢香の曲)|三日月]]』など。戦場で必ず聴くという楽曲が絢香の『三日月』で、「『三日月』を聴くと現地で平常心を取り戻すことが出来る。」と述べている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://japan.techinsight.jp/2010/10/watanabeyouichi-youngsunday.html]&amp;lt;/ref&amp;gt;。また[[EMINEM]]の『Lose Yourself』は戦場へ向かう時に聴き、自らを奮いたたせるために聴く曲である。&lt;br /&gt;
* 撮りたい芸能人として挙げるのは、同い年の[[西田ひかる]]。「小さいころから、好きだったんです。」と述べている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/110113/ent11011307140043-n1.htm]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--TRIV : == 取材内容 ==&lt;br /&gt;
* [[1993年]]6月 - 9月 アフリカ、[[ザイール内戦]]取材&lt;br /&gt;
* 1993年12月 - [[1994年]]3月 アフリカ、ザイール内戦取材&lt;br /&gt;
* 1994年6月 - 9月 アフリカ、[[ルワンダ紛争]]取材&lt;br /&gt;
* 1994年12月 - [[1995年]]3月 アフリカ、ザイール内戦取材&lt;br /&gt;
* 1995年7月 - 9月 [[メキシコ]]、チアパス民族解放戦取材&lt;br /&gt;
* 1995年12月 - [[1996年]]1月 アフリカ、ザイール内戦取材&lt;br /&gt;
* 1996年9月 - 10月 アフリカ、[[ナイジェリア]]国内紛争取材&lt;br /&gt;
* [[1997年]]2月 - 5月 [[インドネシア]]、イリアンジャヤ独立紛争取材&lt;br /&gt;
* 1997年11月 - 12月 [[ユーゴスラビア]]、[[コソボ紛争]]取材&lt;br /&gt;
* [[1998年]]6月 - 9月 ユーゴスラビア、コソボ内戦取材&lt;br /&gt;
* 1998年12月 - [[1999年]]3月 [[チェチェン紛争]]取材&lt;br /&gt;
* 1999年6月 - [[2000年]]1月 チェチェン紛争取材&lt;br /&gt;
* 2000年2月 - 5月 [[ソマリア内戦]]取材&lt;br /&gt;
* 2000年9月 - 12月 [[コロンビア]]内戦取材&lt;br /&gt;
* [[2001年]]2月 - 3月 [[パレスチナ]]紛争取材&lt;br /&gt;
* 2001年7月 - 11月 コロンビア内戦取材&lt;br /&gt;
* [[2002年]]1月 - 5月 [[イラク]]紛争取材&lt;br /&gt;
* 2002年6月 パレスチナ紛争取材&lt;br /&gt;
* 2002年8月 - 10月 イラク紛争取材&lt;br /&gt;
* [[2003年]]1月 - 4月 [[イラク戦争]]取材&lt;br /&gt;
* 2003年5月 - 6月 イラク戦争戦後復興取材&lt;br /&gt;
* 2003年7月 - 8月 イラク戦争戦後復興取材&lt;br /&gt;
* 2003年9月 - 12月 [[サッダーム・フセイン]]元大統領拘束取材&lt;br /&gt;
* [[2004年]]1月 - 4月 [[イラク日本人人質事件]]、[[自衛隊イラク派遣]]取材&lt;br /&gt;
* 2004年6月 - 7月 [[イラク駐留米軍]]取材&lt;br /&gt;
* 2004年10月 - 11月 アフリカ・[[スーダン]]、[[ダルフール]]難民取材&lt;br /&gt;
* [[2005年]]1月 - 2月 インドネシア、[[スマトラ島沖地震]]取材、インド領[[アンダマン諸島]]、[[ニコバル諸島]]取材&lt;br /&gt;
* 2005年2月 [[スリランカ]]反政府ゲリラLITE（[[タミル・イーラム解放のトラ]]）取材&lt;br /&gt;
* 2005年3月 インドネシア、スマトラ島沖地震の被災地、[[マレー半島]]取材&lt;br /&gt;
* 2005年5月 [[北方領土]]、[[サハリン]]取材&lt;br /&gt;
* 2005年6月 [[インド]]、[[ガンジス川]]の***行僧取材&lt;br /&gt;
* 2005年9月 - 10月 [[キューバ]]、[[チェ・ゲバラ]]の軌跡取材&lt;br /&gt;
* 2005年11月 旧[[満州]]（[[中国東北部]]）日本統治時代の取材&lt;br /&gt;
* [[2006年]]1月 - 2月 アフリカ、[[ガーナ]]、ジャングルでの学校教育取材&lt;br /&gt;
* 2006年3月 [[カンボジア]]・[[ベトナム]]で戦場に散ったカメラマン取材&lt;br /&gt;
* 2006年4月 イラク戦後3周年取材&lt;br /&gt;
* 2006年5月 - 6月 [[インドネシア]]、[[ジャワ島中部地震]]取材&lt;br /&gt;
* 2006年7月 - 8月 [[レバノン紛争]]、[[ベイルート]]・南部サイダ・カナ取材&lt;br /&gt;
* 2006年9月 [[タイ王国|タイ]]、[[タイ軍事クーデター (2006年)|タクシン首相に対する軍事クーデター]]取材&lt;br /&gt;
* 2006年9月 カンボジア、日本人戦場カメラマン、[[一ノ瀬泰造]]の軌跡取材&lt;br /&gt;
* 2006年12月 [[イギリス]]、[[ロンドン]]元ロシア情報工作員[[アレクサンドル・リトビネンコ]]毒殺事件取材&lt;br /&gt;
* [[2007年]]2月 [[朝鮮民主主義人民共和国]][[平壌]]、[[金正日]]65歳生誕祭、板門店北朝鮮側[[軍事境界線]]取材&lt;br /&gt;
* 2007年3月 [[大韓民国]][[ソウル]]、韓国側38度軍事境界線取材&lt;br /&gt;
* 2007年3月 朝鮮民主主義人民共和国平壌、太城経済制裁効果現地取材&lt;br /&gt;
* 2007年4月 [[南太平洋]]、[[ソロモン諸島]]大地震現地取材&lt;br /&gt;
* 2007年5月 インド、[[パキスタン]]国境紛争取材&lt;br /&gt;
* 2007年7月 - 8月 パキスタン、モスク籠城事件取材&lt;br /&gt;
* 2007年9月 - 10月 パキスタン、大統領選挙、[[戒厳令]]取材&lt;br /&gt;
* 2007年10月 - 11月 [[台湾]]、日本統治時代の残像取材.1&lt;br /&gt;
* [[2008年]]1月 - 2月 台湾、日本統治時代の残像取材.2&lt;br /&gt;
* 2008年2月 - 3月 パキスタン、[[総選挙]]取材&lt;br /&gt;
* 2008年3月 - 4月 [[中華人民共和国|中国]]、[[チベット自治区]]暴動現地取材&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 見出しタイトル ==&lt;br /&gt;
* 2008年5月 [[ジャマイカ]]、[[ボブ・マーリー]]の軌跡取材&lt;br /&gt;
* 2008年6月 中国、[[新疆ウイグル自治区]]暴動現地取材&lt;br /&gt;
* 2008年6月 台湾、日本統治時代の残像取材.3&lt;br /&gt;
* 2008年8月 - 9月 大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の国境取材&lt;br /&gt;
* 2008年11月 大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の[[軍事境界線]]取材&lt;br /&gt;
* 2008年11月 - 12月 アフリカ、スーダンの[[ダルフール紛争]]取材&lt;br /&gt;
* [[2009年]]4月 大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の軍事境界線取材&lt;br /&gt;
* 2009年7月 台湾、日本統治時代の残像取材.4&lt;br /&gt;
* 2009年7月 インドネシア、[[自爆テロ]]事件取材&lt;br /&gt;
* 2009年8月 大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の国境取材&lt;br /&gt;
* 2009年9月 - 10月 [[アフガニスタン]]、[[アメリカ軍]]従軍取材&lt;br /&gt;
* 2009年11月 大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の国境取材--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出演作品 == &lt;br /&gt;
=== バラエティ === &lt;br /&gt;
* [[笑っていいとも!増刊号]]（[[フジテレビ]]、2010年10月10日よりレギュラー『戦場カメラマン渡部陽一の[[新宿アルタ|アルタ]]最前線!』）&lt;br /&gt;
* [[ちょこっとイイコト 〜岡村ほんこん・しあわせプロジェクト〜]]（[[テレビ東京]]、『岡村隆史の結婚プロジェクト』へ不定期で出演） &lt;br /&gt;
* [[土曜プレミアム]]『渡部陽一が撮った!これが世界の「戦場」だ』（フジテレビ、2011年7月2日[司会]）&lt;br /&gt;
* [[課外授業 ようこそ先輩]]『[[富士市立田子浦小学校]]』（[[NHK総合]]、2012年3月17日[先輩]）&lt;br /&gt;
* [[くりぃむクイズ ミラクル9|クイズミラクルファーム]]（[[テレビ朝日]]、2012年3月17日)&lt;br /&gt;
* [[テレビでアラビア語]]（[[NHK教育]]、2012年4月4日 - ）&lt;br /&gt;
* [[世界ナゼそこに?日本人 〜知られざる波瀾万丈伝〜]]（テレビ東京、2012年10月26日よりレギュラー『[[ラーメン]][[ロード]]』）&lt;br /&gt;
* [[聞きこみ！ローカル線 気まぐれ下車の旅]]（BSジャパン、2014年5月26日から不定期）&lt;br /&gt;
* 『渡部陽一が行く再会の旅路　最後の秘境　大コーカサス山脈（仮）』（BSジャパン、2014年10月25日放送予定）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 劇場アニメ ===&lt;br /&gt;
* [[名探偵コナン 沈黙の15分]]（2011年） - 渡部刑事 役&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== インターネット ===&lt;br /&gt;
*リセンス学級会 －オトナのホームルーム－ 「戦場から65年」シリーズ・1 －戦場に生きる子どもたち－（[[あっ!とおどろく放送局]]、2010年8月19日配信開始）&amp;lt;ref&amp;gt;[http://odoroku.tv/vod/000003FE9/ あっ!とおどろく放送局]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
*「THE ハードトーク」（[[サイゾー]]・APF通信社、2010年9月8日）&lt;br /&gt;
* Magalry（マガリー）渡部陽一の世界の国を歩いてみたら。（[http://magalry.com/magazine/youichi.watanabe Magalry（マガリー）渡部陽一の世界の国を歩いてみたら。]、2013年2月19日-）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ラジオ ===&lt;br /&gt;
* 渡部陽一 勇気のコトバ（ニッポン放送、2010年12月6日 - 2011年1月27日）&lt;br /&gt;
* 渡部陽一 勇気のラジオ（ニッポン放送、2012年4月2日 - 2014年3月30日）&lt;br /&gt;
* 渡部陽一 明日へ喝!（ニッポン放送、2014年4月13日 - ）プロ野球中継番組「ショウアップナイター」の放送予定が無い日曜日のみ放送。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== CM ===&lt;br /&gt;
* [[ハドソン]]「[[桃太郎電鉄WORLD]]」（2010年11月）&lt;br /&gt;
* デコラン（2010年12月） - 声のみ。&lt;br /&gt;
* [[エムグラントフードサービス]] ステーキハンバーグ&amp;amp;サラダバー けん （2011年1月）&lt;br /&gt;
* [[日産自動車]]・[[日産・キューブ|キューブ]]「体感CP エコスイッチ」篇（2011年1月-）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
* [[着うた]]『戦場カメラマン渡部陽一の[[着信ボイス]]』が20万回ダウンロードされた。TOP25位以内に14コンテンツがランクイン（2010年11月9日調べ）&amp;lt;ref&amp;gt;[http://news.livedoor.com/article/detail/5147302/]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.hotexpress.co.jp/news/101117_yoichiwatanabe/]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
*『渡部陽一 学校向け特別講演 ～世界の子どもの声を聞こう!～』&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.kouenirai.com/profile/700.htm]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* [[アリコジャパン]]、[[チューリッヒ]]、[[アクサダイレクト]]、オリックス生命の保険4社の新聞広告&amp;lt;ref&amp;gt;2010年10月28日朝日新聞朝刊24面&amp;lt;/ref&amp;gt;（2010年10月28日、「考えるのは、やっぱり家族」インタビュー）&lt;br /&gt;
* みなとみらいリフォームフェスティバル（2010年11月23日、イベント出演）&lt;br /&gt;
* 写真集『日本の美しい女子高生』発売記念、渡部陽一サイン会&amp;amp;握手会（開催2010年12月9日、東京・福家書店新宿サブナード店）&amp;lt;ref&amp;gt;[http://yoshimotonews.laff.jp/news/2010/12/post-558f.html]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 異色の突然のブレーク（インタビュー、2011年1月1日朝日新聞、テレビ・ラジオ欄37面、[[マツコ・デラックス]]、[[尾木直樹]]、2人込みで）&lt;br /&gt;
*『富士市観光親善大使就任の委嘱状交付式』（2011年2月10日開催）&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.city.fuji.shizuoka.jp/hp/page000028800/hpg000028755.htm]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
*『平成22年度 富士市男女共同参画プラン推進講演会』渡部陽一講演会（開催2011年2月10日）&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.city.fuji.shizuoka.jp/hp/page000028200/hpg000028165.htm 富士市 戦場カメラマン 渡部陽一さん講演会]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 2011年4月27日朝日新聞朝刊、書店配布のチラシ　コミックブレーク 〈私のコミック履歴書〉戦場カメラマン　渡部陽一さん&amp;lt;ref&amp;gt;[http://book.asahi.com/comicbreak/TKY201104260214.html コミックブレーク]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
*『豊かな心講演会』渡部陽一講演会（2011年5月18日開催、静岡県立富士高等学校）&lt;br /&gt;
*『戦場カメラマン 渡部陽一 &amp;amp; 紙の魔術師 太田隆司 展 ～写真とペーパークラフトが織りなす「絆の情景」～』渡部陽一ギャラリートーク（開催2011年7月21日、静岡ホビースクエア会場）&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.sut-tv.com/event/exhibit/post_15/]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 書籍 ==&lt;br /&gt;
* 『世界は危険で面白い』（[[産経新聞出版]]、2008年、ISBN 9784819110273）&lt;br /&gt;
* 『報道されなかったイラクと人びと』（[[大村正樹]]共著、[[新風舎]] 2004年 ISBN 9784797443806）&lt;br /&gt;
* 写真集『日本の美しい女子高生』（撮影・鼻洗浄カメラマン渡部陽太郎（[[島田紳助]]）、渡部陽一 [[ワニブックス]]、2010年12月15日、ISBN-10:4847043413）&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.cinematoday.jp/page/N0028866]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[http://archive.is/20120711025504/amexlog.blog112.fc2.com/blog-entry-831.html]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 写真集『MOTHER TOUCH　戦場からのメッセージ』（[[辰巳出版]]、2010年12月24日、ISBN-10: 4777808726）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== CD ==&lt;br /&gt;
*[[コンパクトディスク|CD]]アルバム 『渡部陽一の世界名作童話劇場　日本篇』（2011年2月23日発売、[[ビクター]]）&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.jvcmusic.co.jp/-/Discography/A023416/VICG-60781.html]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[戦場カメラマン]]&lt;br /&gt;
* [[ピグミー族]]&lt;br /&gt;
* [[コンゴ民主共和国]]&lt;br /&gt;
* [[ルワンダ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.business-plus.net/special/1402/602901.shtml 仕事を楽しむためのWebマガジンB-plus]&lt;br /&gt;
* [http://yoichi4001.iza.ne.jp/ 戦場からこんにちは] - ブログ&lt;br /&gt;
* [http://www.bebrave.co.jp/talent/index.html ビー・ブレーブ] - プロフィール・ギャラリー&lt;br /&gt;
* [http://www.yoichi-watanabe.com/index.html 戦場カメラマン 渡部陽一 公式サイト]&lt;br /&gt;
* {{Twitter|yoichiomar}}&lt;br /&gt;
* [https://www.gosen-dojo.com/?page_id=30/ 渡部陽一の戦場からこんにちは] - [[ニコニコ動画]]&lt;br /&gt;
* [http://ch.nicovideo.jp/channel/ch3120/ 戦場カメラマン・渡部陽一「マスメディアでは語れない戦場の真実」] - サイゾー×APF「THEハードトーク」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{People-stub}}&lt;br /&gt;
{{Camera-stub}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:わたなへ よういち}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の写真家]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本のジャーナリスト]]&lt;br /&gt;
[[Category:イラク戦争のジャーナリスト]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本のタレント]]&lt;br /&gt;
[[category:明治学院大学出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:静岡県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1972年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.231.47.46</name></author>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%B9&amp;diff=8164</id>
		<title>リヒャルト・シュトラウス</title>
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		<updated>2014-08-21T15:00:14Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.231.47.46: /* 音楽の変化と発展　 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{出典の明記|date=2013年7月22日 (月) 01:57 (UTC)|ソートキー=人1949年没}}&lt;br /&gt;
{{Infobox Musician &amp;lt;!--プロジェクト:音楽家を参照--&amp;gt;&lt;br /&gt;
| Name                = リヒャルト・シュトラウス&amp;lt;br /&amp;gt;Richard Strauss&lt;br /&gt;
| Img                 = Special Film Project 186 - Richard Strauss 4.png&lt;br /&gt;
| Img_capt            = &lt;br /&gt;
| Img_size            = &amp;lt;!-- サイズが250ピクセルに満たない場合のみ記入 --&amp;gt;&lt;br /&gt;
| Landscape           = &amp;lt;!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --&amp;gt;&lt;br /&gt;
| Background          = classic&lt;br /&gt;
| Birth_name          = Richard Georg Strauss&lt;br /&gt;
| Alias               = &lt;br /&gt;
| Blood               = &amp;lt;!-- 個人のみ --&amp;gt;&lt;br /&gt;
| School_background   = &amp;lt;!-- 個人のみ --&amp;gt;&lt;br /&gt;
| Born                = {{生年月日と年齢|1864|6|11|died}}&lt;br /&gt;
| Died                = {{死亡年月日と没年齢|1864|6|11|1949|9|8}}&amp;lt;br /&amp;gt;{{BRD}} [[バイエルン州]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[オーバーバイエルン行政管区]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[ガルミッシュ＝パルテンキルヒェン郡]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[ガルミッシュ＝パルテンキルヒェン]]&lt;br /&gt;
| Origin              = {{DEU1815}}&amp;lt;br /&amp;gt;{{BAY}} [[ミュンヘン]]&lt;br /&gt;
| Instrument          = &amp;lt;!-- 個人のみ --&amp;gt;&lt;br /&gt;
| Genre               = [[交響詩]]、[[オペラ]]&lt;br /&gt;
| Occupation          = [[作曲家]]、[[指揮者]]&lt;br /&gt;
| Years_active        = &lt;br /&gt;
| Label               = &lt;br /&gt;
| Production          = &lt;br /&gt;
| Associated_acts     = &lt;br /&gt;
| Influences          = &lt;br /&gt;
| URL                 = &lt;br /&gt;
| Notable_instruments = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
[[Image:Max Liebermann Bildnis Richard Strauss.jpg|thumb|175px|upright|シュトラウスの肖像画 （[[マックス・リーバーマン]]画）]]&lt;br /&gt;
{{Portal クラシック音楽}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;リヒャルト・ゲオルク・シュトラウス&#039;&#039;&#039;（&#039;&#039;&#039;Richard Georg Strauss&#039;&#039;&#039;, [[1864年]][[6月11日]] - [[1949年]][[9月8日]]）は[[ドイツ]]の後期[[ロマン派音楽|ロマン派]]を代表する[[作曲家]]。[[交響詩]]と[[オペラ]]の作曲で知られ、また、[[指揮者]]としても活躍した。[[ウィーン]]の[[ヨハン・シュトラウス2世|ヨハン・シュトラウス]]一族とは血縁関係はない。&amp;lt;!--姓の末尾の綴りも異なる（ヨハン・シュトラウスの［[[ß]]］に対してリヒャルト・シュトラウスは［ss］）--&amp;gt;&amp;lt;!--下記「出生とその成長」のコメント参照。ドイツ語でßをssに置き換えるのは通例化しており、リヒャルトのssが置き換えでないという傍証がなく、なおかつßで綴った例もある以上、同じ綴りとみなすべきだと思います。ちなみにオスカー・シュトラウスはsが一つだけのため、しばしば一人だけ綴りの違う作曲家シュトラウスとして引き合いに出されます）。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== シュトラウスの生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 出生とその成長 ===&lt;br /&gt;
[[Image:Der junge Richard Strauss.JPG|thumb|left|upright|青年期のシュトラウス]]&lt;br /&gt;
彼は、1864年6月11日に[[バイエルン王国]]の[[ミュンヘン]]で、ミュンヘン宮廷歌劇場の首席[[ホルン]]奏者であったフランツ（Franz Strauss, [[1822年]]-[[1905年]]）の子として生まれた&amp;lt;!--（[[ウィンナワルツ]]で有名な[[ヨハン・シュトラウス]]一家とは--&amp;gt;&amp;lt;!--姓の綴りが異なることからも分かるように--&amp;gt;&amp;lt;!-- 姓の綴りの違いについて：確かに通常は&amp;quot;Richard Strauss&amp;quot;と綴られますが，ドイツ語圏ではヨハン・シュトラウス一家と同様に&amp;quot;Strauß&amp;quot;と綴られる場合もあったようです。例えば http://okobay.ciao.jp/iblog/C255584223/E2106877294/index.html にはリヒャルト・シュトラウスの演奏会ポスター3枚の写真が出ていますが、いずれも&amp;quot;Strauß&amp;quot;と綴られています。従って&amp;quot;姓の綴りが異なる&amp;quot;という記述は正確ではないと考え、コメントアウトしました。--&amp;gt;&amp;lt;!--親戚関係にはない）--&amp;gt;。&lt;br /&gt;
母親はミュンヘンの有名なビール醸造業者（プショール醸造所）の娘だった。リヒャルトは幼いときから父親によって徹底した、しかし保守的な音楽教育を受け、非常に早い時期から作曲を始めた。[[1882年]]に[[ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン|ミュンヘン大学]]に入学するが、1年後に[[ベルリン]]に移った。そこで彼は短期間学んだ後、[[ハンス・フォン・ビューロー]]の補助指揮者の地位を得、[[1885年]]にビューローがミュンヘンで辞任するとその後を継いだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 音楽の変化と発展　===&lt;br /&gt;
この頃までのシュトラウスの作品は父親の教育に忠実で、[[ロベルト・シューマン|シューマン]]や[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]風のかなり保守的なものであった。[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]を崇敬しており、「[[交響曲第41番 (モーツァルト)|ジュピター交響曲]]は私が聴いた音楽の中で最も偉大なものである。終曲の[[フーガ]]を聞いたとき、私は天国にいる思いがした」&amp;lt;ref&amp;gt;[[渡辺護]] CD「モーツァルト交響曲第40番・第41番」（{{ASIN|B000STC5LU}}）に付属の解説書より&amp;lt;/ref&amp;gt;と語ったという。なおシュトラウスは1926年に自身の指揮でこの曲を録音している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
シュトラウスが当時の新しい音楽に興味を持つきっかけとなったのは、優れた[[ヴァイオリン|ヴァイオリン奏者]]で、[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の姪の1人と結婚したアレクサンダー・リッターと出会ったときからである。シュトラウスが革新的音楽に真剣に向き合うようになったのは、リッターによるところが大きい。この革新的傾向はシュトラウスに決定的な影響を与え、[[1889年]]に初演され、彼の出世作として最初に成功した作品、交響詩『[[ドン・ファン (交響詩)|ドン・ファン]]』（&#039;&#039;Don Juan&#039;&#039;）が生まれた。この作品に対する聴衆の反応は、半数は喝采したものの、残り半数からは野次が飛んだ。シュトラウスは彼の内なる音楽の声を聞いたことを知って、「多数の仲間から気違い扱いされていない芸術家など誰もいなかったことを十分に意識すれば、私は今や私が辿りたいと思う道を進みつつあると知って満足している」と話した。シュトラウスは他にも一連の交響詩の作曲を続けた。その中には『[[ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら]]』（&#039;&#039;Till Eulenspiegels lustige Streiche&#039;&#039;, [[1895年]]）、シュトラウスの死後に映画『[[2001年宇宙の旅]]』で使われ有名になった『[[ツァラトゥストラはこう語った (交響詩)|ツァラトゥストラはかく語りき]]』（&#039;&#039;Also sprach Zarathustra&#039;&#039;, [[1896年]]）がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1894年]]、シュトラウスはバイロイト音楽祭で『[[タンホイザー]]』を指揮する。彼はこの時エリザベートを歌っていたソプラノ歌手パウリーネ・デ・アーナ（[[:de:Pauline Strauss-de Ahna|独語版]]）とたちまち恋に落ち結婚した。シュトラウス夫人となったパウリーネはその激しい性格により、恐妻家シュトラウスの「悪妻」として数々の悪評を残したが、その叱咤激励のおかげで作曲家シュトラウスの作品が多くが生まれたのも事実であろう。ちなみに後に書かれた歌劇『[[インテルメッツォ]]』と『[[家庭交響曲]]』はこの夫人との家庭生活に想を得た作品であり、『[[影のない女]]』の染物師の妻もパウリーネがモデルと言われる。パウリーネがどのような人物であったかは、[[グスタフ・マーラー|マーラー]]が妻[[アルマ・マーラー|アルマ]]に送った1907年1月の手紙で書き残している。マーラーがベルリンに住んでいたシュトラウスの家を訪ねた際、以下マーラーの文章「パウリーネは私を出迎えると自分の部屋に私を引っ張り込み、ありとあらゆるつまらぬ話を豪雨のように浴びせかけ、私に質問の矢を放つのだが、私に口を出す暇を与えないのだ。それから疲れて寝ているシュトラウスの部屋へ、私を両手で掴んで有無を言わせず引っ張って行き、金切り声で“起きてちょうだい、グスタフが来たのよ!”。シュトラウスは受難者めいた顔つきで苦笑しながら起きると、今度は3人で先程の話の蒸し返し。それからお茶を飲み、パウリーネに土曜日の昼食を一緒にすることを約束されられて、2人に宿泊先のホテルまで送ってもらった。」&amp;lt;ref&amp;gt;Mahler, Alma: Erinnerungen und Briefe. Bermann; Fischer Verlag, 1949 (酒田健一訳、白水社、1973)&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1898年]]、最後の交響詩『[[英雄の生涯]]』（&#039;&#039;Ein Heldenleben&#039;&#039;）を書き上げたシュトラウスは、関心を[[オペラ]]に向けるようになった。このジャンルでの最初の試みである『グントラム』（[[1894年]]作曲）は主に自作の台本の拙さのせいで酷評され失敗に終る。続く『火の危機』（[[1901年]]作曲）もミュンヘン方言のオペラということもあり、一定の評価を収めたにとどまった。しかし、[[1905年]]に[[オスカー・ワイルド]]の戯曲のドイツ語訳に作曲した『[[サロメ (楽劇)|サロメ]]』（&#039;&#039;Salome&#039;&#039;）を初演すると、空前の反響を呼んだ。ただし、聖書を題材にしていることや、エロティックな内容が反社会的とされ、ウィーンを始め上演禁止になったところも多い。[[ニューヨーク]]の[[メトロポリタン歌劇場]]がこの作品を上演した時などは、終演後の聴衆の怒号の余りの激しさにたった1回で公演中止になったほどであった。[[グスタフ・マーラー|マーラー]]ら、当時の作曲家達はその音楽の前衛性に深く共感し、シュトラウスはオペラ作曲家としての輝かしい第一歩を踏み出した。シュトラウスの次のオペラは『[[エレクトラ (リヒャルト・シュトラウス)|エレクトラ]]』で、前衛的手法をさらに徹底的に推し進めた。多調の多用、不協和音の躊躇なき使用などを行い、調性音楽の限界を超えて無調音楽の一歩手前までに至った。この作品はシュトラウスが詩人[[フーゴ・フォン・ホーフマンスタール]]と協力した最初のオペラでもある。この2人はホーフマンスタールが死去するまで、音楽史上も稀に見る実り豊かな共作を続けていくことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのホフマンスタールとの共同作業第2作目になる『[[ばらの騎士]]』（&#039;&#039;Der Rosenkavalier&#039;&#039;, [[1910年]]）で、大成功をおさめ作曲家として不動の地位を獲得する。シュトラウスは『ばらの騎士』を境に前衛的手法の追求を控え、当時興隆しつつあった[[新ウィーン楽派]]や[[新古典主義音楽]]などとは一線を画して後期ロマン主義音楽の様式に留まり続けたため、結果的にその後に時代においては穏健な保守派の立場に立つこととなる。その後も最後のオペラ作品となる『[[カプリッチョ]]』に至るまで精力的にオペラを作曲した。喜劇の比率が高く(特に中期以降)、ロマン派以降、ワーグナー、ヴェルディ、プッチーニら大物オペラ作家の仕事がほとんど悲劇で占められている中で異彩を放っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
晩年の保守派というマイナスイメージは死後は相対的に拭い去られ、今日ではロマン派最末期の巨星として多くの作品が演奏、上演され続けている。さすがに最後の十年は創作ペースが衰えたとはいえ、それでも『カプリッチョ』『最後の四つの歌』など重要な作品があり、『ドン・ファン』から数えると、代表作が実に60年におよんでいる。これは音楽以外の創作分野でも史上類例が少ない息の長さである。また、器楽作品とオペラの両方に多くの代表作を残したという点では、モーツァルト以来の存在となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ナチスへの協力 ===&lt;br /&gt;
1930年代以降の[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]政権下のドイツにおいて、シュトラウスと政治との関わりをめぐっては今に至るも多くの議論がある。一方は、彼が第三帝国の[[帝国音楽院]]総裁の地位についていたこと、ナチ当局の要請に応じて音楽活動を行った事実を指摘し、この時代のシュトラウスを親ナチスの作曲家として非難する見解である。もう一方は、シュトラウスの息子の嫁がユダヤ人であり、その結果彼の孫も[[ユダヤ人]]の血統ということになるために、自分の家族を守るためにナチスと良好な関係を維持せねばならなかった事情を考慮して擁護する見解である。事実、シュトラウスはオペラ『無口な女』の初演のポスターから、ユダヤ人台本作家[[シュテファン・ツヴァイク]]の名前を外すことを拒否するという危険を犯した点や、彼は自身の公的な地位を使って、ユダヤ人の友人や同僚達を保護しようとしたという意見もある。さらにはシュトラウスはナチスに利用され続けた被害者的立場だったとの同情的意見もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
シュトラウスは[[第二次世界大戦]]終結後、ナチスに協力したかどうかで連合国の非ナチ化裁判にかけられたが、最終的に無罪となった。なお、[[1940年]]（昭和15年、皇紀2600年）にはナチスの求めに応じて、[[日独伊防共協定]]を結んだ日本のために「[[日本の皇紀二千六百年に寄せる祝典曲]]」を書いている（当該項目を参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 終戦後とその死 ===&lt;br /&gt;
終戦後、裁判の被告となったこともあり、表だった活動は控えていたが、周囲からのすすめもあり、ロンドン公演を実施している。イギリス人にとってもはや彼は“過去の人”であったが、自ら指揮棒を振り健在をアピールしている。このときの演目は『[[家庭交響曲]]』（本人は『[[アルプス交響曲]]』を希望したが、当日に別の演奏会があったためにオーケストラ奏者を確保できなかった）。なおこの時、ロンドンの行く先々で「あなたがあの『[[美しく青きドナウ]]』の作曲者ですか?」と、尋ねられたという逸話が残されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1948年]]、時間をもてあましていたシュトラウスは家族に薦められて最後の作品のひとつになる、『[[4つの最後の歌 (リヒャルト・シュトラウス)|4つの最後の歌]]』を作曲した（出版は彼の死後。実際にはその後もいくつかの歌曲が書かれた）。シュトラウスは生涯を通じて数多くの[[歌曲]]を書いたが、恐らく彼の歌曲の中でこれがもっとも有名なものの1つであろう。すでに[[カールハインツ・シュトックハウゼン|シュトックハウゼン]]、[[ピエール・ブーレーズ|ブーレーズ]]、[[ルイジ・ノーノ|ノーノ]]、[[ジョン・ケージ|ケージ]]といった前衛作曲家達が登場し始めていたこの時代においては、シュトラウスの作風は、あまりに古色蒼然とした時代遅れであった。シュトラウス自身も戦後すぐの放送インタビューで「私はもう過去の作曲家であり、私が今まで長生きしていることは偶然に過ぎない」と語った。にも関わらず、この歌曲集は聴衆からも演奏家からも常に高い人気を誇っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
晩年はひっそりと暮らしていたシュトラウスは庭の花を観てよく、「私がいなくなっても、花は咲き続けるよ」と呟いたという。彼の最後の作品は歌曲「[[あおい_(リヒャルト・シュトラウス)|あおい]]」であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1949年]][[9月8日]]、彼はドイツの[[ガルミッシュ＝パルテンキルヒェン]]で死去した。遺言により、葬儀では『ばらの騎士』第3幕の三重唱が演奏された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 指揮者シュトラウス ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
親交のあった[[グスタフ・マーラー|マーラー]]と同様に、シュトラウスも又作曲家としてのみならず指揮者としても著名であり、生前は自作も含め数多くのオペラやコンサートを演奏した。指揮者としてのシュトラウスは、トップクラスの歌劇場であるミュンヘン、ベルリン及びウィ－ンの歌劇場で要職をも務めたほどである。（ただし後には自作の初演も他の指揮者に委ねる様になった）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
若い頃のシュトラウスはフランスの作家[[ロマン・ロラン]]に「気違いだ!」と評されるほど激しい身振りを身上とするダイナミックな指揮スタイルであった。しかし後年は、弟子の[[カール・ベーム]]や[[ジョージ・セル]]らから想像がつくように、簡潔で誇張の少ない抑制されたものになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
またベームの証言によれば、『影のない女』を指揮した際、指揮姿を撮影していたカメラマンが「左手を出して、立って指揮をしてくれませんか?」と懇願したところ、「私は以前から指揮するときはいつもこうと決めている。今後もずっと、左手を出さずに座って指揮をする!」と怒り出したという。ところが、ある日クライマックスでつい熱が入ってしまい、思わず左手を出して立ち上がって指揮をしたことがあった。公演終了後、ベームは「先生は、常日頃から自分の指揮法について『これは絶対に守らなければならない!』とおっしゃていました。しかし今日ばっかりは先生自らその戒めを破ってしまいましたね?」とからかうと、シュトラウスはむっつりしたまま逃げ去るように帰っていったという。また別の逸話では「ギャラを二倍にしてくれるなら両手で指揮してもいいよ」と、語ったともいわれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
指揮者としての心構えをベームに対して「右手で拍子をとるのは外面的なことで、楽員が自らの場所を見失わないようにするためである。その他は全て精神的なものから来る。指揮者の表情は曲の抒情的な部分や劇的な部分で変化すべきであるし、作品に現われる愛や憎悪を共に体験しなければならないのだ」と語ったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もっとも、セルの証言によればシュトラウスは演奏よりも[[スカート (トランプ)]]を好んでいたらしく、ある時、オペラ「[[フィデリオ]]」の指揮中に懐中時計を見たところ、このままではトランプをやる時間に間に合わないことに気づき、いきなり猛スピードで指揮をしたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼の演奏は自作自演も含め、数多くの録音が残されており、その姿は写真のみならず幾つかのフィルムで偲ぶことができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== シュトラウスの作品 ==&lt;br /&gt;
{{作品一覧|リヒャルト・シュトラウスの楽曲一覧}}&lt;br /&gt;
*年は作曲完了年（作曲年月日）【台本作家】&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== オペラ／舞台作品 ===&lt;br /&gt;
*『トーリードのイフィジェニー』AV186 [[1890年]]（1890.9[[ヴァイマル]]）独語版改作 --- 原曲：[[クリストフ・ヴィリバルト・グルック|グルック]]&lt;br /&gt;
*『[[グントラム]]』op.25 [[1892年]]（1892.11.24）【作曲家自身】― 初演失敗、オペラ作曲を一度は諦める&lt;br /&gt;
*『{{仮リンク|火の危機|en|Feuersnot}}』（火の消えた町）op.50 [[1901年]] （1901.5.21）【エルンスト・フォン・ヴォルツォーゲン】&lt;br /&gt;
*『[[サロメ (オペラ)|サロメ]]』op.54 [[1905年]]（1905.6.20（サロメ舞曲なし）、1905.8月下旬；サロメ舞曲）【[[オスカー・ワイルド]]／H.ラハマン】&lt;br /&gt;
*『[[エレクトラ (リヒャルト・シュトラウス)|エレクトラ]]』op.58 [[1908年]]（1908. 9.22ガルミッシュ）【[[フーゴ・フォン・ホーフマンスタール|ホーフマンスタール]]】&lt;br /&gt;
*『[[ばらの騎士]]』op.59 [[1910年]]（1910.9.26ガルミッシュ）【ホーフマンスタール】&lt;br /&gt;
*『[[ナクソス島のアリアドネ]]』op.60（I） [[1912年]]（1910. 7.22）（[[モリエール]]の[[戯曲]]「[[町人貴族]]」をホーフマンスタールが改作、シュトラウスの音楽つきで上演したさいに劇中で上演された）【ホーフマンスタール】― 初演失敗&lt;br /&gt;
*『[[ナクソス島のアリアドネ]]』op.60（II） [[1916年]]（1916. 6.19）（改訂版；町人貴族なし）【ホーフマンスタール】― 現在一般に上演されている版&lt;br /&gt;
*『[[影の無い女|影のない女]]』op.65 [[1917年]]（1917.6.24）【ホーフマンスタール】&lt;br /&gt;
*喜劇『[[町人貴族 (リヒャルト・シュトラウス)|町人貴族]]』op.60（III） （1917.10.11）【[[モリエール]]／ホーフマンスタール】&lt;br /&gt;
*『{{仮リンク|インテルメッツォ (オペラ)|label=インテルメッツォ|en|Intermezzo (opera)}}』op.72 [[1923年]]（1923.8.21[[ブエノスアイレス]]）【作曲家自身】&lt;br /&gt;
*劇音楽『アテネの廃墟』AV190 [[1924年]] ガルミッシュ ― [[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]原曲【ホーフマンスタール】&lt;br /&gt;
*映画音楽『[[ばらの騎士|薔薇の騎士]]』op.112 [[1925年]]（1925.10.18ガルミッシュ）【ホーフマンスタール】&lt;br /&gt;
*『[[エジプトのヘレナ]]』op.75 [[1927年]]（第1稿；1927.10.8ガルミッシュ）【ホーフマンスタール】― 初演失敗&lt;br /&gt;
*『[[イドメネオ]]』o.op.117/AV191  [[1930年]]（1930.9.28ガルミッシュ）― モーツァルト原曲【L.ヴァラーシュタイン、作曲家】&lt;br /&gt;
*『[[アラベラ (オペラ)|アラベラ]]』op.79 [[1932年]]（1932.10.12）【1幕；ホーフマンスタール、2,3幕はホーフマンスタール死去のため作曲家による自由な改変】&lt;br /&gt;
*『{{仮リンク|エジプトのヘレナ|en|Die_ägyptische_Helena}}』op.75 [[1933年]]（1933. 1.15ガルミッシュ；ウィーン改訂稿）―  現代最もポピュラーな版&lt;br /&gt;
*『{{仮リンク|無口な女|en|Die_schweigsame_Frau}}』op.80 [[1935年]]（1935.1.17ガルミッシュ）【[[シュテファン・ツヴァイク]]】&lt;br /&gt;
*『{{仮リンク|平和の日|en|Friedenstag}}』op.81 [[1936年]]（1936. 6.16ガルミッシュ）【シュテファン・ツヴァイク（原案）、{{仮リンク|ヨーゼフ・グレゴール|en|Joseph Gregor}}】&lt;br /&gt;
*『[[ダフネ (リヒャルト・シュトラウス)|ダフネ]]』op.82 [[1937年]]（1937.12.24タオルミナ）【ヨーゼフ・グレゴール】&lt;br /&gt;
*『{{仮リンク|ダナエの愛|en|Die_Liebe_der_Danae}}』op.83 [[1940年]]（1940.6.28ガルミッシュ）【ヨーゼフ・グレゴール】&lt;br /&gt;
*『[[カプリッチョ (オペラ)|カプリッチョ]]』op.85 [[1941年]]（1941.8.3ガルミッシュ）【[[クレメンス・クラウス]]と作曲家自身】&lt;br /&gt;
*『[[ロバの影]]』AV300 [[1948年]]（未完・オペレッタ・スイス；カールハウスナーによる管弦楽補完）【ハンス・アドラー】&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== バレエ音楽 ===&lt;br /&gt;
* バレエ音楽『{{仮リンク|ヨゼフ伝説|en|Josephslegende}}』作品63　[[1914年]]（1914.2.2ベルリン）【H.G.ケスラー、ホーフマンスタール】&lt;br /&gt;
* バレエ音楽『{{仮リンク|泡雪クリーム|en|Schlagobers}}』作品70　[[1922年]] （1922.9.16ガルミッシュ）【作曲家自身】&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 歌曲 ===&lt;br /&gt;
* 『子守歌』[[1878年]]&lt;br /&gt;
* 『[[献呈 (リヒャルト・シュトラウス)|奉納（献呈）]]』作品10-1 [[1882年]]-[[1883年]]&lt;br /&gt;
* 『[[万霊節 (リヒャルト・シュトラウス)|万霊節]]』作品10-8 [[1883年]]&lt;br /&gt;
* 『[[セレナーデ (リヒャルト・シュトラウスの歌曲)|セレナーデ]]』作品17-2 [[1887年]]&lt;br /&gt;
* 『[[ツェツィーリエ (歌曲)|ツェツィーリエ]]』作品27-2 [[1894年]]&lt;br /&gt;
* 『[[ひそやかな誘い]]』作品27-3 [[1894年]]&lt;br /&gt;
* 『[[明日! (歌曲)|あした]]』作品27-4 [[1894年]]&lt;br /&gt;
* 『[[黄昏の夢 (リヒャルト・シュトラウス)|黄昏の夢]]』作品29-1 [[1895年]]&lt;br /&gt;
* 『[[子守歌 (リヒャルト・シュトラウス)|子守歌]]』作品41-1 [[1899年]]&lt;br /&gt;
* 『[[4つの最後の歌 (リヒャルト・シュトラウス)|4つの最後の歌]]』Vier Letzte Lieder [[1948年]]&lt;br /&gt;
** 第1曲『春（Frühling）』1948.7.18&lt;br /&gt;
** 第2曲『九月（September）』1948.9.20&lt;br /&gt;
** 第3曲『眠りにつくとき（Beim Schlafengehen）』1948.8.4&lt;br /&gt;
** 第4曲『夕映えの中で（Im Abendrot）』1948.5.6&lt;br /&gt;
*『[[あおい (リヒャルト・シュトラウス)|あおい]]』（遺作）1948年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 合唱曲 ===&lt;br /&gt;
* 『さすらい人の嵐の歌』作品14（混声合唱と管弦楽）&lt;br /&gt;
* 『2つの歌』 作品34（無伴奏混声合唱）&lt;br /&gt;
** 夕 Der Abend&lt;br /&gt;
** 讃歌 Hymne&lt;br /&gt;
* 『オリンピック讃歌』（混声合唱と管弦楽） - オリンピックの開会式と閉会式などで必ず演奏されるサマラス作曲の『[[オリンピック賛歌]]』とは別の曲。&lt;br /&gt;
* 『タイユフェ』作品52（ソプラノ・テナー・バス独唱・混声合唱と6管編成の管弦楽のためのバラード） &lt;br /&gt;
* 『ドイツモテット』 作品62（無伴奏混声合唱）&lt;br /&gt;
* 『[[フリードリヒ・リュッケルト|リュッケルト]]による3つの男声合唱曲』（無伴奏男声合唱）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 交響詩 ===&lt;br /&gt;
* 『[[ドン・ファン (交響詩)|ドン・ファン]]』[[1888年]]&lt;br /&gt;
* 『[[マクベス (交響詩)|マクベス]]』[[1890年]]&lt;br /&gt;
* 『[[死と変容]]』[[1889年]]&lt;br /&gt;
* 『[[ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら]]』op.28[[1895年]]&lt;br /&gt;
* 『[[ツァラトゥストラはこう語った (交響詩)|ツァラトゥストラはこう語った]]』[[1896年]]&lt;br /&gt;
* 『[[ドン・キホーテ (交響詩)|ドン・キホーテ]]』（&#039;&#039;Don Quixote&#039;&#039;）[[1897年]]（[[チェロ]]と[[ヴィオラ]]の協奏的作品）&lt;br /&gt;
* 『[[英雄の生涯]]』（&#039;&#039;Ein Heldenleben&#039;&#039;）[[1898年]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 交響曲 ===&lt;br /&gt;
* 交響曲（第1番）ニ短調 [[1880年]]&lt;br /&gt;
* [[交響曲第2番 (リヒャルト・シュトラウス)|交響曲第2番ヘ短調 作品12]] [[1884年]]&lt;br /&gt;
* [[家庭交響曲]]（&#039;&#039;Sinfonia domestica&#039;&#039;） [[1903年]]&lt;br /&gt;
* [[アルプス交響曲]]（&#039;&#039;Eine Alpensinfonie&#039;&#039;） [[1915年]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 協奏曲 ===&lt;br /&gt;
* [[ヴァイオリン協奏曲 (リヒャルト・シュトラウス)|ヴァイオリン協奏曲ニ短調 作品8]] [[1882年]]&lt;br /&gt;
* [[ブルレスケ|ブルレスケ ニ短調（ピアノと管弦楽）]] [[1885年]]&lt;br /&gt;
* [[家庭交響曲#家庭交響曲余録|家庭交響曲余録]] 作品73（左手ピアノと管弦楽）&lt;br /&gt;
* パンアテネの大祭 作品74（左手ピアノと管弦楽）&lt;br /&gt;
* ロマンツェ ヘ長調（チェロと管弦楽）&lt;br /&gt;
* [[ホルン協奏曲 (リヒャルト・シュトラウス)#第1番|ホルン協奏曲第1番変ホ長調]] 作品11 [[1883年]]&lt;br /&gt;
* [[ホルン協奏曲 (リヒャルト・シュトラウス)#第2番|ホルン協奏曲第2番変ホ長調]] [[1942年]][[11月28日]]&lt;br /&gt;
* [[オーボエ協奏曲 (リヒャルト・シュトラウス)|オーボエ協奏曲]] [[1945年]][[10月25日]]&lt;br /&gt;
* [[二重小協奏曲 (リヒャルト・シュトラウス)|二重小協奏曲]]（[[クラリネット]]、[[ファゴット]]、[[ハープ]]、[[弦楽合奏]]）[[1947年]][[12月16日]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他の管弦楽曲 ===&lt;br /&gt;
* 交響的幻想曲『[[イタリアから]]』作品16 [[1886年]]&lt;br /&gt;
* 組曲『[[町人貴族 (リヒャルト・シュトラウス)|町人貴族]]』作品60 1917年（劇音楽から抜粋）&lt;br /&gt;
* [[祝典前奏曲]] 作品61　[[1913年]]&lt;br /&gt;
* [[日本の皇紀二千六百年に寄せる祝典曲]] 作品84　[[1940年]]&lt;br /&gt;
* 『[[メタモルフォーゼン]]』（&#039;&#039;Metamorphosen&#039;&#039;）[[1945年]]（[[弦楽合奏]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 管楽合奏曲 ===&lt;br /&gt;
* [[13管楽器のためのセレナード (リヒャルト・シュトラウス)|13管楽器のためのセレナード]] 作品7 1881年&lt;br /&gt;
* [[13管楽器のための組曲 (リヒャルト・シュトラウス)|13管楽器のための組曲]] 作品4 1884年&lt;br /&gt;
* [[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団|ウィーン・フィルハーモニー]]のためのファンファーレ（[[金管]]と[[ティンパニ]]）&lt;br /&gt;
* ウィーン市民のためのファンファーレ（[[金管]]と[[ティンパニ]]）&lt;br /&gt;
* ヨハネ騎士修道会の荘重な入場（[[金管]]と[[ティンパニ]]）&lt;br /&gt;
* 16管楽器のためのソナチネ第1番「傷病兵の仕事場から」&lt;br /&gt;
* 16管楽器のためのソナチネ第2番「楽しい仕事場」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 室内楽曲 ===&lt;br /&gt;
* [[チェロソナタ (リヒャルト・シュトラウス)|チェロ・ソナタ ヘ長調]] 作品6 [[1883年]]&lt;br /&gt;
* [[ヴァイオリンソナタ (リヒャルト・シュトラウス)|ヴァイオリン・ソナタ]] 作品18　[[1888年]]&lt;br /&gt;
* 『[[イーノック・アーデン]]』作品38（[[ピアノ]]と[[朗読]]） ― [[アルフレッド・テニソン]]の詩による&lt;br /&gt;
* [[弦楽四重奏曲 (リヒャルト・シュトラウス)|弦楽四重奏曲 イ長調]] 作品2　[[1880年]]&lt;br /&gt;
* [[ピアノ四重奏曲 (リヒャルト・シュトラウス)|ピアノ四重奏曲 ハ短調]] 作品13　[[1885年]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 著作 ==&lt;br /&gt;
* ヘルタ=ブラウコップ編『マーラーとシュトラウス ― ある世紀末の対話 往復書簡集1888〜1911』（[[塚越敏]]訳/[[音楽之友社]]/1982）&lt;br /&gt;
* 大野誠監修『オペラ「薔薇の騎士」誕生の秘密 ― R・シュトラウス/ホフマンスタール往復書簡集』（堀内美江訳/[[河出書房新社]]/1999）&lt;br /&gt;
* ヴィリー・シュー編『リヒャルト・シュトラウス ホーフマンスタール 往復書簡全集』（中島悠爾訳/音楽之友社、2001）&lt;br /&gt;
* [[エクトル・ベルリオーズ|エクトール・ベルリオーズ]]、リヒャルト・シュトラウス『管弦楽法』（[[小鍛冶邦隆]]監修、広瀬大介訳/音楽之友社/2006）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出典 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
{{commonscat|Richard Strauss}}&lt;br /&gt;
*[[:Category:リヒャルト・シュトラウスの楽曲]]&lt;br /&gt;
*[[オスカー・ワイルド]]&lt;br /&gt;
*[[ナチス時代の音楽家]]&lt;br /&gt;
*[[フーゴ・フォン・ホーフマンスタール]]&lt;br /&gt;
*[[シュテファン・ツヴァイク]]&lt;br /&gt;
*{{仮リンク|ヨーゼフ・グレゴール|en|Joseph Gregor}}&lt;br /&gt;
*[[クレメンス・クラウス]]&lt;br /&gt;
*[[ロマン・ロラン]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* {{IMSLP|id=Strauss%2C_Richard|cname=リヒャルト・シュトラウス}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{先代次代|[[マイニンゲン宮廷楽団]]&amp;lt;br /&amp;gt;指揮者|1885年 - 1886年|[[ハンス・フォン・ビューロー]]|[[フリッツ・シュタインバッハ]]}}&lt;br /&gt;
{{先代次代|[[ワイマール宮廷歌劇場]]&amp;lt;br /&amp;gt;音楽監督|1889年 - 1894年|[[エドゥアルト・ラッセン]]|[[ペーター・ラーベ]]}}&lt;br /&gt;
{{先代次代|[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団]]&amp;lt;br /&amp;gt;客演指揮者|1893年 - 1895年|[[ハンス・フォン・ビューロー]]&amp;lt;br /&amp;gt;（常任指揮者）|[[アルトゥール・ニキシュ]]&amp;lt;br /&amp;gt;（常任指揮者）}}&lt;br /&gt;
{{先代次代|[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]&amp;lt;br /&amp;gt;客演指揮者|1903年 - 1908年|[[ヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世]]&amp;lt;br /&amp;gt;（常任指揮者）|[[フェリックス・ワインガルトナー]]&amp;lt;br /&amp;gt;（常任指揮者）}}&lt;br /&gt;
{{バイエルン国立歌劇場 音楽総監督}}&lt;br /&gt;
{{ベルリン国立歌劇場 音楽総監督}}&lt;br /&gt;
{{ウィーン国立歌劇場監督}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しゆとらうす りひやると}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツの作曲家]]&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツの指揮者]]&lt;br /&gt;
[[Category:ロマン派の作曲家]]&lt;br /&gt;
[[Category:近現代の作曲家]]&lt;br /&gt;
[[Category:オペラ作曲家]]&lt;br /&gt;
[[Category:バレエ作曲家]]&lt;br /&gt;
[[Category:ミュンヘン出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1864年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1949年没]]&lt;br /&gt;
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		<summary type="html">&lt;p&gt;210.231.47.46: /* 代表的作品 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Infobox Musician &amp;lt;!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照--&amp;gt;&lt;br /&gt;
| Name = セザール・フランク&amp;lt;br/&amp;gt;César Franck   &lt;br /&gt;
| Img = Cesar franck.jpg&lt;br /&gt;
| Img_capt = &lt;br /&gt;
| Img_size = &lt;br /&gt;
| Landscape = &amp;lt;!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --&amp;gt;&lt;br /&gt;
| Background = classic&lt;br /&gt;
| Birth_name = &amp;lt;!-- 個人のみ --&amp;gt;&amp;lt;!-- 出生時の名前が公表されている場合にのみ記入 --&amp;gt;&lt;br /&gt;
| Alias = &lt;br /&gt;
| Blood = &amp;lt;!-- 個人のみ --&amp;gt;&lt;br /&gt;
| School_background = &amp;lt;!-- 個人のみ --&amp;gt;&lt;br /&gt;
| Born = [[1822年]][[12月10日]]&amp;lt;br/&amp;gt;{{flagicon2|オランダ}}[[ネーデルラント連合王国]]、[[リエージュ]]&lt;br /&gt;
| Died =  {{死亡年月日と没年齢|1822|12|10|1890|11|8}}&amp;lt;br/&amp;gt;{{FRA1870}}、[[パリ]]&lt;br /&gt;
| Origin = &lt;br /&gt;
| Instrument = &lt;br /&gt;
| Genre = &lt;br /&gt;
| Occupation = [[作曲家]]、[[オルガニスト]]&lt;br /&gt;
| Years_active = &lt;br /&gt;
| Label = &lt;br /&gt;
| Production = &lt;br /&gt;
| Associated_acts = &lt;br /&gt;
| Influences = &lt;br /&gt;
| URL = &lt;br /&gt;
| Current_members = &amp;lt;!-- グループのみ --&amp;gt;&lt;br /&gt;
| Past_members = &amp;lt;!-- グループのみ --&amp;gt;&lt;br /&gt;
| Notable_instruments = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{Portal クラシック音楽}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;セザール＝オーギュスト＝ジャン＝ギヨーム＝ユベール・フランク&#039;&#039;&#039;（{{lang|fr|&#039;&#039;&#039;César-Auguste-Jean-Guillaume-Hubert Franck&#039;&#039;&#039;}}、[[1822年]][[12月10日]] - [[1890年]][[11月8日]]）は、[[ベルギー]]出身、[[フランス]]で活躍した[[作曲家]]、[[オルガニスト]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ネーデルラント連合王国]]の[[リエージュ]]に生まれ、この町で[[1834年]]には最初のコンサートを開いている。弟のジョゼフ（1825年 - 1891年）とともに幼くしてピアノの才能を示し、父は彼らを[[フランツ・リスト|リスト]]のような大ピアニストにすべく英才教育を行った。[[1834年]]に[[リエージュ王立音楽院]]を卒業し、[[1835年]]に一家で[[パリ]]に移住すると[[アントニーン・レイハ]]などに教えを受けた。[[1837年]]に[[パリ国立高等音楽・舞踊学校|パリ音楽院]]に入学し[[作曲]]、[[ピアノ]]、[[オルガン]]等を学んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1842年]]に退学し帰郷したが、[[1844年]]には再びパリに戻って活動した。その後作曲家志望を固め、また父の意に沿わぬ結婚をしたことなどから父とは決別した。リストや[[フレデリック・ショパン|ショパン]]にも才能を注目されたが、ピアノ教師として、またその後は[[教会]]オルガニストとしてつつましい生活を送った。この間作曲家としては[[オラトリオ]]など[[宗教音楽]]を中心に手がけている。また、フランス国内を広く旅してオルガン製造者の[[アリスティド・カヴァイエ＝コル]]が設置したオルガンを紹介して回った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1858年]]に就任した[[サント・クロチルド聖堂]]のオルガニストの職には、その後生涯にわたってとどまった。[[1871年]]には[[カミーユ・サン＝サーンス|サン＝サーンス]]、[[ガブリエル・フォーレ|フォーレ]]らとともに[[国民音楽協会|フランス国民音楽協会]]の設立に加わり、[[1872年]]にパリ音楽院の教授に迎えられた。最晩年の[[1885年]]ごろから[[ヴァイオリンソナタ (フランク)|ヴァイオリン・ソナタ イ長調]]、[[交響曲 (フランク)|交響曲ニ短調]]など、現在よく知られる代表作を次々に作曲し、にわかに注目された。彼の弟子の[[ヴァンサン・ダンディ]]、[[エルネスト・ショーソン]]、[[ガブリエル・ピエルネ]]、[[アンリ・デュパルク]]、[[ギィ・ロパルツ|ギー・ロパルツ]]や、その影響を受けた[[アルベリク・マニャール]]らは“フランキスト”と呼ばれ、のちに[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]らの[[印象主義音楽]]と対抗することになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
===幼少期と学生期 （1822年–1842年）===&lt;br /&gt;
[[File:Casa nadal d&#039;en Cesar Franck.jpg|thumb|left|220px|[[リエージュ]]にあるフランクの生家]]&lt;br /&gt;
フランクは[[ネーデルラント連合王国]]（現ベルギー、[[1830年]]から[[ワロン語]]圏ベルギーとなっていた）の[[リエージュ]]で生まれた。元来[[ドイツ]]系の家系で、父のニコラ＝ジョゼフ・フランク（Nicolas-Joseph）は銀行家でベルギー国境付近の出身、母のマリー＝カテリーヌ＝バルブ・フランク（Marie-Catherine-Barbe 旧姓フリンクス Frings）は[[アーヘン]]の出身であった。セザールは幼い頃から絵画と音楽の才能を示しており、父のニコラ＝ジョゼフは息子が[[フランツ・リスト]]や[[ジギスモント・タールベルク]]のような若き神童ピアニスト兼作曲家となって、一家に富と名声をもたらすことを夢見ていた&amp;lt;ref&amp;gt;ダンディはニコラ＝ジョゼフを「厳格で独裁的」と評していた。(p. 31); ヴァラは明確に「経済的搾取」について言及している。(p. 16)&amp;lt;/ref&amp;gt;。父によって[[リエージュ王立音楽院]]に送られたフランクは[[ソルフェージュ]]、[[ピアノ]]、[[オルガン]]、[[和声|和声学]]を[[ジョゼフ・ドーソワーニュ＝メユール]]ら他の下で学んだ。フランクの演奏会デビューは[[1834年]]のことで、建国間もないベルギー王国の[[ベルギー国王の一覧|国王]][[レオポルド1世 (ベルギー王)|レオポルド1世]]も臨席していた&amp;lt;ref&amp;gt;Vallas, p. 15&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1835年]]、息子をより広い聴衆の前に出す時が来たと決意した父ニコラ＝ジョゼフは、彼と弟のジョゼフを引き連れて[[パリ]]へと赴き、彼らに[[アントニーン・レイハ]]による[[対位法]]の、また[[ピエール・ジメルマン]]によるピアノの個人的なレッスンを受けさせた。レイハとジメルマンは[[パリ国立高等音楽・舞踊学校|パリ音楽院]]の教授も務めていた。10か月後にレイハがこの世を去ると、ニコラ＝ジョゼフは2人の息子の音楽院入学の方策を模索するようになった。しかしながら音楽院は国外の学生を受け入れていなかったため、ニコラ＝ジョゼフはフランス国籍の取得に向けて動くことになり、[[1837年]]には帰化が認められた&amp;lt;ref&amp;gt;Vallas, p. 22&amp;lt;/ref&amp;gt;。この間ニコラ＝ジョゼフはパリで息子らが単独で、もしくは2人が同時に出演するような演奏会やリサイタルを企画した。こうした場で彼らは主に当時の流行音楽を演奏し、おおむね好評を得ていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[image:Theatre du Conservatoire Paris CNSAD.jpg|thumb|right|210px|1911年まで使われていた旧[[パリ国立高等音楽・舞踊学校|パリ音楽院]]校舎]]&lt;br /&gt;
セザールとジョゼフは1837年10月にパリ音楽院に入学を果たした。セザールはジメルマンの下で引き続きピアノの修行を積むと同時に、エメ・ルボルン（Aimé Leborn）に[[作曲]]を師事するようになった&amp;lt;ref&amp;gt;d&#039;Indy, 31&amp;lt;/ref&amp;gt;。彼は[[1838年]]、初年度の終わりにピアノの1等賞を獲得し、以降も高い水準の演奏を維持していった。一方で対位法の成績はそこまで目覚ましいものではなく、1838年から[[1840年]]まで1年ごとに3等賞、2等賞、1等賞と順位を伸ばしていった。フランクは[[フランソワ・ブノワ]]のオルガンの指導も受けるようになり、演奏と即興演奏を学んで[[1841年]]には2等賞を獲得した。その翌年には作曲で[[ローマ賞|ローマ大賞]]への出品を目指していたものの、理由は不確かながら[[1842年]][[4月22日]]に音楽院を「自主」退学してしまう&amp;lt;ref name=&amp;quot;dIndy34&amp;quot;&amp;gt;d&#039;Indy, p. 34&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父ニコラ＝ジョゼフがフランクに音楽院を去るよう命じたのではないかと考えられる。フランクは学問の習得に励む傍ら、父の要請により個人的な音楽指導を行い演奏会もこなしていた。「それは彼にとっては辛い日々で（中略）気性が荒く執念深くさえあった彼の父の振る舞いにより、毎日が楽になるようなことはなかった（略）&amp;lt;ref&amp;gt;Vallas, p. 37&amp;lt;/ref&amp;gt;」若いフランクが時に[[ヴァイオリン]]を演奏する弟を伴って、自作曲を交えながら披露する演奏会は最初こそ好意的に受け入れられたものの、次第にニコラ＝ジョゼフの商業的な息子の売り出し方がパリの音楽雑誌や批評家の反感を買うようになった。フランクのピアニストとしての技量は認められていたが、この時点では公正に判断するならば彼の作曲家としての腕前は未熟なものだった。状況は、ニコラ＝ジョゼフと&#039;&#039;Revue et Gazette musicale&#039;&#039;誌で首席評論家を務めるアンリ・ブランシャール（Henri Blanchard）の間で確執が生じたことでさらに悪化した。ブランシャールはニコラ＝ジョゼフがひどく気取っていることを酷評し、上の息子の「荘厳な」名前を嘲った。こうした敵意は「疑いなく個人的なもの&amp;lt;ref&amp;gt;Vallas, p. 45&amp;lt;/ref&amp;gt;」であったが、ニコラ＝ジョゼフにベルギー帰国が必要だと思わせるには十分だったようで、1842年に「有無を言わせぬ命令&amp;lt;ref name=&amp;quot;dIndy34&amp;quot;/&amp;gt;」が下されたフランクは音楽院を後にして父に付き従がわざるを得なかったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 教師、オルガニスト時代 （1842年–1858年） ===&lt;br /&gt;
[[image:Franz Liszt by Herman Biow- 1843.png|thumb|right|180px|[[フランツ・リスト]]、1843年]]&lt;br /&gt;
ベルギーへ帰国したフランクだったが、祖国には2年と留まらなかった。収入源となるような演奏会を開くことは出来ず、批評家達は無関心か軽蔑的かのいずれかであり、ベルギーの宮廷からの援助は得られそうになかった（もっとも、国王は後になってフランクにゴールドメダルを授与することになる）&amp;lt;ref&amp;gt;Vallas, p. 62&amp;lt;/ref&amp;gt;。資金を得る術はなかったのである。ニコラ＝ジョゼフに関する限りは、帰郷が失敗に終わったため息子をパリでの音楽指導と家庭向け演奏会の生活に引き戻そうとしていた。この演奏会についてローレンス・デイヴィス（Laurence Davies）は、過酷で実入りの少ないものだったとしている&amp;lt;ref&amp;gt;Davies, p. 63&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし、長い目で見ると若きフランクにとってこの経験は有益な側面も持ち合わせていた。なぜならこの時期にパリへ戻れたことで、彼は音楽院に復学して最後の数年及びその後の時間を過ごすことが出来たからである。また、彼の最初の成熟した楽曲となるピアノ三重奏曲集が完成したことにもこの期間の役割が大きい。これらの作品はフランク自身が初めて自作と認め得たものであり、作品を見たリストは激励と建設的批判を与えた上で自らも数年後に[[ヴァイマル]]で演奏している&amp;lt;ref&amp;gt;d&#039;Indy, p. 111&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[1843年]]、フランクは室内楽作品以外では初の挑戦となる[[オラトリオ]]『ルツ』の作曲に取り掛かった。この作品はリスト、[[ジャコモ・マイアベーア|マイアベーア]]をはじめ他の有名音楽家を招いて[[1845年]]に私的に初演され、ほどほどの賛辞と前向きな提案を得た&amp;lt;ref&amp;gt;Davies, p. 62&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかしながら、[[1846年]]初頭に行われた公開初演においては聴衆が関心を示さず、オラトリオの芸術性の欠落と単純さには冷たい批判が浴びせられた&amp;lt;ref&amp;gt;Vallas, p. 75-6&amp;lt;/ref&amp;gt;。この作品が次に上演されたのは[[1872年]]、大改訂を加えた後のことであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これにともない、フランクは公の活動からは実質的に身を引き、教師と伴奏者として陽の当たらない生活をするようになった。彼の父もしぶしぶこれを認めた。フランクはパリと[[オルレアン]]の両方で、こうした仕事や歌曲や小規模な作品の作曲の依頼を受けていた。彼の元には[[1848年]]の[[フランス第二共和政|第二共和政]]の成立を祝し、これを強固にするような作品の依頼が舞い込んでおり、そうした作品には聴衆が関心を示すようなものもあったが、[[ナポレオン3世|ルイ・ナポレオン]]の下で[[フランス第二帝政|第二帝政]]が立ち上げられたことで演奏の機会を失ってしまった。[[1851年]]にはオペラ『頑固な召使い』に取り組んだものの、[[リブレット (音楽)|リブレット]]は「最低の文学的出来&amp;lt;ref&amp;gt;Vallas, p. 105&amp;lt;/ref&amp;gt;」であり、曲は慌てて書きつけられたようなものだった。フランク自身も終生「印刷する価値のないものだった&amp;lt;ref&amp;gt;d&#039;Indy, p. 41&amp;lt;/ref&amp;gt;。」と言い続けることになる。しかし、概していえばこうした隠遁生活はそれまで脚光を浴び続けてきたフランクには休息となったと考えられる。「フランクは神の思召しに従い、いまだ全くの闇の中にいた&amp;lt;ref&amp;gt;Davies, p. 72&amp;lt;/ref&amp;gt;。」そして、この期間に生じた2つの大きな変化が、彼のその後の人生を形作ることになっていく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず1点目は、フランクが両親とほぼ完全に縁を切ってしまったことである。直接の原因となったのは、彼がピアノの教え子であったユーゲニー＝フェリシテ＝カロリーヌ・セイヨ（Eugénie-Félicité-Caroline Saillot; 1824年-1918年）と親密となり後に恋人関係となったことであった。彼女の両親はデムソー（Desmousseaux）という芸名で活動する[[コメディ・フランセーズ]]会社の一員であった。フランクは彼女と音楽院時代からの知り合いであり、若いフランクにとってフェリシテ・デムソーの家庭は威圧的な実の父からの避難所のような存在となっていた。1846年にニコラ＝ジョゼフは息子の書類の中から「喜ばしい記憶の中のF.デムソー嬢」への献辞が付された楽曲を発見し、本人の目の前でそれを破り捨てたこともあった。フランクはそのままデムソー家へと向かい、記憶を頼りに曲を書き起こして献辞と共にフェリシテへと贈った。ニコラ＝ジョゼフとの関係は、彼が息子の婚約や結婚の意志を一切認めようとしなかったことでさらに悪化した&amp;lt;ref group= &amp;quot;注&amp;quot;&amp;gt;当時のフランスの法律では、25歳未満の男子の婚姻の場合に父親がそれを禁止することができた。&amp;lt;/ref&amp;gt;。ニコラ＝ジョゼフはさらに母を苦痛に陥れたとしてフランクを非難し&amp;lt;ref group= &amp;quot;注&amp;quot;&amp;gt;フランクの母の立場は明らかではない。ある程度息子の味方になっていたか、もしくは争いからは完全に距離を置いていたかである。&amp;lt;/ref&amp;gt;、フランクのいかなる縁談も夫婦間の毒殺事件という醜聞に繋がるに違いないと怒鳴りつけたのである&amp;lt;ref&amp;gt;Vallas, p. 84-5&amp;lt;/ref&amp;gt;。7月のある日曜日、フランクは持てるものだけを持って両親の家を後にすると、そのまま歩いてデムソー家に向かって移り住んだ。デムソー家で歓迎を受けた彼は二度と実家には戻らなかった。この時以来、若いフランクは名乗る際や書類や作品への署名を「&#039;&#039;&#039;César Franck&#039;&#039;&#039;」もしくは単に「&#039;&#039;&#039;C. Franck&#039;&#039;&#039;」とするようになった。「これは彼が父ときっぱり決別し、かつ周囲にそれを知らせようとする意志の現れであった。（中略）彼は元の自分とは出来るだけ違った、新しい人間になろうと決意したのである&amp;lt;ref&amp;gt;Vallas, p. 85&amp;lt;/ref&amp;gt;。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[image:Cavaillé-Coll ca. 1855 by Dallemagne.jpg|thumb|left|190px|[[アリスティド・カヴァイエ＝コル|カヴァイエ＝コル]]、1855年頃]]&lt;br /&gt;
フェリシテの両親の注意深くも友好的な眼差しの中、フランクは彼女へ求婚し続けた。[[1847年]]に彼が25歳となるや否や、彼は父にフェリシテとの結婚の意志を伝え、実際に[[1848年のフランス革命|二月革命]]が勃発したのと同月の[[1848年]][[2月22日]]に念願を成就させた。教会にたどり着くまでに一向は革命群が築いたバリケードを乗り越えなければならなかったが、[[ヴァンサン・ダンディ|ダンディ]]が伝えるところでは「この仮設の要塞の後方に集まっていた大勢の蜂起民が進んで手助けをした&amp;lt;ref&amp;gt;d&#039;Indy, p. 39&amp;lt;/ref&amp;gt;。」結婚にあたってはフランクの両親も和解の上、式典に出席するとともに登記簿への署名を行った。この時のノートル＝ダム＝ド＝ロレット教会（Notre-Dame-de-Lorette）がフランクの教区教会となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2点目は上記のように、ノートル＝ダム＝ド＝ロレット教会がフランクの教区教会となったことであった。[[1847年]]にこの教会の[[オルガニスト]]補佐となったフランクであったが、これを契機として次々とより重要で影響力の高いオルガニストの職を歴任していくことになる。フランクは音楽院時代にピアニストとして異彩を放ったのと同じようにオルガニストとして輝きを見せたわけではなかったが、彼はオルガニストの職を嘱望しており、そこには安定した収入が望めるという理由が少なからずあった。こうして彼は人々の礼拝に必要な技術を学ぶという形で[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]へと帰依する機会を得て、時おり上司にあたるアルフォンス・ギルバ（Alphonse Gilbat）の代役をこなすこともあった。この教会におけるフランクの働きが、[[1851年]]に新しく建立されたサン＝ジャン＝サン＝フランソワゾー＝マレ教会（Saint-Jean-Saint-François-au-Marais）に牧師（&#039;&#039;[[:fr: curé|curé]]&#039;&#039;）として移ってきたダンセル牧師（Abbé Dancel）の目に留まった。2年後、牧師はフランクを「&#039;&#039;titulaire&#039;&#039;」の地位、すなわち第1オルガニストへと誘う。フランクの新しい教会には[[アリスティド・カヴァイエ＝コル]]が設置した優れた新式のオルガン（1846年製）が備えられていた。カヴァイエ＝コルは芸術性に恵まれ、機能的には革新的な大オルガンの制作で名を馳せていた。フランクは「私の新しいオルガンはまるでオーケストラのようだ！&amp;lt;ref&amp;gt;Vallas, p. 102&amp;lt;/ref&amp;gt;」と述べていた。フランクの即興演奏の能力は非常に必要とされるようになっていた。というのも、当時の礼拝の慣習においてはミサや礼拝で歌われる単旋律聖歌の伴奏を行った上で、そこから楽想を派生させて聖歌隊による歌唱や神父の説教との間を繋がねばならなかったからである。さらにフランクの演奏能力とカヴァイエ＝コルの楽器への愛情が合わさったことで、彼はカヴァイエ＝コルと協力関係を結ぶことになる。フランクはフランス中を訪ねて回って古い楽器を引き立てるとともに、新しい楽器の除幕式で演奏する役割を担った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[image:Église Notre-Dame-de-Lorette (Paris)74.JPG|thumb|right|190px|ノートル＝ダム＝ド＝ロレット教会のオルガン]]&lt;br /&gt;
期を同じくして、フランスにおけるオルガン演奏には革命が起こっていた。バッハの伝記作家として知られる[[ヨハン・ニコラウス・フォルケル]]&amp;lt;ref&amp;gt;Vallas, p. 100&amp;lt;/ref&amp;gt;門下でドイツのオルガニストである[[アドルフ・フリードリヒ・ヘッセ]]は、[[1844年]]のパリにおいて、バッハ作品の演奏が可能となるような足鍵盤の技巧とドイツ式の足鍵盤を披露した。これはフランクがブノワから音楽院で学んだ奏法の範疇からは全く外れたものだった。大抵のフランスのオルガンにはそうした作品に用いられている足鍵盤の音がなく、[[フランソワ・クープラン|クープラン]]の時代から続くフランスの由緒ある古典的なオルガンの伝統も、その当時は即興演奏を重視するあまりないがしろにされていたのである。ヘッセの演奏もまばゆい超絶技巧によって一過性の騒ぎになったに過ぎないと思われる。続いて[[1852年]]から[[1854年]]にかけては、当時[[ブリュッセル王立音楽院]]のオルガン科で教授を務めていた[[ジャック＝ニコラ・レメンス]]がパリを訪れた。レメンスは技巧的なバッハ演奏家であるにとどまらず、全てのオルガニストが正確に、音を濁らせず、レガートのフレージングをもって演奏できるようになるオルガン指導法を開発した人物だった。フランクは[[1854年]]にレメンスが出演したのと同じ就任記念演奏会に出席しており&amp;lt;ref&amp;gt;Vallas, p. 103&amp;lt;/ref&amp;gt;、レメンスの古典的なバッハの解釈を高く評価するのみならず、その素早くかつ均質な足鍵盤さばきにも称賛を惜しまなかった。ヴァラ（Vallas）によればオルガニストになる前にピアニストであったフランクは「生涯自分自身でレガートの様式を確立するには至らなかった&amp;lt;ref&amp;gt;Vallas, p. 104&amp;lt;/ref&amp;gt;」ものの、そのような技術を取り入れることでオルガン演奏の幅を広げることが出来るということは認識しており、技術の習得に向けた取り組みを開始していたという&amp;lt;ref&amp;gt;Smith, &#039;&#039;Toward,&#039;&#039; p. 31-34&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== サン＝クロチルド教会の正オルガニスト期 （1858年–1872年） ===&lt;br /&gt;
[[image:Organ of Sainte-Clotilde Paris.JPG|thumb|right|190px|[[サント・クロチルド聖堂]]のオルガン]]&lt;br /&gt;
フランクは彼の3つ目かつ最後となるオルガニスト職に刺激され、活気づいていた。[[1858年]][[1月22日]]、彼は奉献間もない[[サント・クロチルド聖堂]]のメートル・ド・シャペル（&#039;&#039;maître de chapelle&#039;&#039;）のオルガニストに就任した。この職は彼がその後生涯にわたって留まるものである。7か月後、この教会に新設されたカヴァイエ＝コルのオルガンは3段の手鍵盤を備えるもので&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.sainte-clotilde.com/orgue.html Sainte-Clotilde Cavaillé-Coll organ]&amp;lt;/ref&amp;gt;、フランクがこの楽器の正奏者になるとともに[[テオドール・デュボワ]]が合唱指揮者と副オルガニストを務めることになった。このオルガンがフランクの演奏と作曲に与えた影響は最初期のピアニストとしての経験同様に、彼のその後の作曲活動を考えるにあたって無視することはできない。ノルベール・デュフォルク（Norbert Dufourcq）はこの楽器について「疑いなく制作者のこの時期までの傑作として位置付けられる」と記している&amp;lt;ref&amp;gt;Vallas, p. 112, note&amp;lt;/ref&amp;gt;。フランク自身はサント・クロチルド教会の司祭にこう述べている。「私がどれほどこの楽器を愛しているのか、あなたがご存知だったなら（中略）指の下でのしなやかさ、そして私の思いに従順なことといったら！&amp;lt;ref&amp;gt;quoted in d&#039;Indy, p. 41-42, note&amp;lt;/ref&amp;gt;」フランク自身も30鍵の足鍵盤を持つこのオルガンの性能に負けじと[[プレイエル]]社から購入した練習用の足鍵盤を自宅に置き、教会のオルガンの前で何時間も過ごすのに加えて足鍵盤の技術向上に勤しんだ。このオルガンが持つ響きの美しさと注がれた優れた技術により、彼は即興演奏家として、またオルガンはもちろん他のジャンルの作曲家としても名声を得るようになっていった。オルガン曲、声楽曲、そして[[ハーモニウム]]曲が順繰りに作曲されるようになり、そうした中で生まれた楽曲では『3声のミサ曲』（1859年）が最もよく知られる。この作品は何年もかけて作曲されたために楽章間で出来が不揃いであるが、ここからフランクの作品中でも最も長く愛される曲の1つである『[[天使の糧]]』が生まれている。これ以上に注目されるのが、[[1860年]]から[[1862年]]にかけて書かれた&amp;lt;ref group= &amp;quot;注&amp;quot;&amp;gt;ただし、出版は1868年である。&amp;lt;/ref&amp;gt;オルガンのための『6曲集』である。この曲集は今日でも演奏機会の多いオルガンであり、ローリン・スミス（Rollin Smith）によれば100年以上にわたるフランスのオルガン芸術史における初めての傑作、そして「[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]以降に書かれた最も重要なオルガン音楽」である&amp;lt;ref&amp;gt;Smith, &#039;&#039;Playing,&#039;&#039; p. 27&amp;lt;/ref&amp;gt;。フランクは各曲を[[カミーユ・サン＝サーンス|サン＝サーンス]]などの同僚のピアニストやオルガニスト、師であるブノワ、そしてカヴァイエ＝コルに献呈している。曲集中の『[[前奏曲、フーガと変奏曲]]』Op.18と『[[交響的大曲]]』Op.17はフランクのオルガン作品の中でも最もよく知られるものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:Cesar Franck At Organ.jpg|thumb|left|200px|オルガンを演奏するフランク]]&lt;br /&gt;
オルガニスト、即興演奏家としての名声が高まるにつれ、フランクはますますカヴァイエ＝コルが新設または改修したオルガンの除幕式や奉献式での演奏を任されるようになっていった。彼は[[ルイ・ジェームズ・アルフレッド・ルフェビュール＝ヴェリー|ルイ・ルフェビュール＝ヴェリー]]がオルガニストとなった[[サン＝シュルピス教会]]の新しいオルガン（1862年）をはじめ、以降ノートル＝ダム教会、{{仮リンク|サンテチエンヌ・デュ・モン聖堂|en|Saint-Étienne-du-Mont}}、[[サントトリニテ教会]]などで演奏した。これらの楽器の中には彼が単独、もしくはサン＝サーンスと共に助言を行ったものもある。フランクが担当するサント・クロチルド聖堂では、彼の即興演奏を聴くために人々がミサや礼拝に訪れ始めていた。さらに、フランクは自作や他の作曲家の作品を取り上げて聖堂でのオルガン演奏会を開催するようになっていた。そうした中でおそらく最も知られる演奏会は[[1866年]]4月に[[フランツ・リスト|リスト]]が出席した日曜ミサだろう。聖歌隊席に腰かけてフランクの即興演奏を聴いたリストはこう述べた。「あの時のピアノ三重奏曲集を書いた人物のことを、これまでに私が忘れてしまうことなどあり得るだろうか。」これに対してフランクはこう不平をもらしたのではないかと思われる。「あれ以降、もっといい仕事をしてきたと思うのだが&amp;lt;ref&amp;gt;Vallas, p. 127&amp;lt;/ref&amp;gt;。」そのひと月後にリストはサント・クロチルド聖堂においてフランクのオルガン作品を紹介する演奏会を企画し、聴衆から好評を得るとともに音楽雑誌にも好意的に報じられた。フランクはリストだけでなく、活動の主軸をドイツに置く[[ハンス・フォン・ビューロー]]の演奏が聴けることを喜んだ。また、フランクは[[1869年]]にノートル＝ダム聖堂で[[アントン・ブルックナー]]の演奏を耳にし、ドイツのオルガン音楽とそれらをいかに演奏すべきかという点について理解を深めている。彼は定期的に門下生の集まりを催すようになり、オルガンには建前から関わっていたに過ぎなかった弟子たちもフランクの作曲技法に関心を示すようになっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランクはこの時期にも合唱を用いた作品を作曲し続けたが、大半は出版されないままとなった。当時は音楽院を修了した音楽家でも皆がそうであったように、フランクは過去の[[ポリフォニー|多声音楽]]に詳しくなかった。フランクは礼拝音楽をその当時の様式に沿って作曲し、デイヴィスはこれを「宗教的な偏りを持つ世俗音楽」と表現した&amp;lt;ref&amp;gt;Davies, p. 87&amp;lt;/ref&amp;gt;。そうした状況ではあったがフランクは[[1869年]]から主要な合唱作品となる[[オラトリオ]]『[[至福 (オラトリオ)|至福]]』の作曲にとりかかり、[[普仏戦争]]の勃発による中断等を経て10年余りをかけて完成させた。1848年の革命の際と同様に、この戦争によって彼の弟子の多くがパリを離れ、もしくは戦闘で落命するか障害を負うなどして彼の元から去っていった。彼は再び愛国的な楽曲をいくつか作曲したが、当時は時代の厳しい状況の下では演奏されることはなかった。収入が減少するとともに食料品や燃料の価格が高騰し、フランクとその一家は経済的な苦境に陥った。音楽院も[[1870年]]から[[1871年]]の年度は開校しなかった&amp;lt;ref&amp;gt;Smith, &#039;&#039;Playing,&#039;&#039; p. 29&amp;lt;/ref&amp;gt;。こうした中、フランスの音楽家の間には自らの音楽に対する認識の変化が生じていた。とりわけ戦後からは確固たるフランスの音楽として「ガリアの芸術 &#039;&#039;Ars Gallica&#039;&#039;&amp;lt;ref&amp;gt;Vallas, p. 135&amp;lt;/ref&amp;gt;」を追い求めるようになったのである。この言葉は新たに結成された[[国民音楽協会]]の標語として掲げられた。フランクは協会の最古参の会員となり、1871年11月に開かれた最初の演奏会のプログラムにはフランク作品が取り上げられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 「ペール・フランク」 音楽院の教授、作曲家期 （1872年–1888年） ===&lt;br /&gt;
[[image:D&#039;Indi Vincent Postcard-1910.jpg|thumb|right|180px|有力なフランクの門弟だった[[ヴァンサン・ダンディ]]]]&lt;br /&gt;
フランクの名声は今や演奏家として、国民音楽協会の会員として、そして少ないながらも忠実な弟子たちの存在によって広く知れ渡っていた。1872年に授業を再開したパリ音楽院でブノワがオルガン科の教授から退官すると、フランクが後任として推されることになる。誰が推薦人であったのかについては不確かな点がある。サン＝サーンスとテオドール・デュボワはそれぞれ異なる時期に自らの関与を認めており、それはカヴァイエ＝コルも同様である&amp;lt;ref&amp;gt;Vallas, p. 137-8; Smith, &#039;&#039;Playing,&#039;&#039; p. 30&amp;lt;/ref&amp;gt;。確実なのはフランクの名前が候補者一覧の一番上に記載されていたということ、そしてこの推薦によってフランクが任用に必要なフランス国籍を有していないことが公になってしまったという、きまりの悪い事実であった。フランクの父のニコラ＝ジョゼフは息子を音楽院へ入学させるべくフランスへと帰化させていたが、これはフランス政府に成人として忠誠を宣言しなければならない21歳までの期限付きだったということをフランクは知らなかったのである。フランク自身は父による国籍変更の手続き以後、ずっと自分がフランス国民であると考えていたにもかかわらず、実際は知らぬ間に元の国籍であるベルギーへと戻されて人生の大半を過ごしていた。すぐさまフランクは再度帰化申請の手続きに入り、[[1872年]][[2月1日]]に予定されていた任用は[[1873年]]へと変更になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランクの下に集った弟子の多くは音楽院で学んでいた者か、在籍中の学生であった。中でも[[ヴァンサン・ダンディ]]、[[エルネスト・ショーソン]]、[[ルイ・ヴィエルヌ]]、[[アンリ・デュパルク]]らはとりわけ有名である。この集団は徐々に師弟間で相通ずる尊敬と愛情によって固く結ばれるようになっていった。ダンディはこれを新たな門弟が個々に、しかし誰もが師のことを「ペール・フランク &#039;&#039;Père Franck&#039;&#039;」すなわち「父フランク」と呼ぶようになったことと関連付けている&amp;lt;ref&amp;gt;d&#039;Indy, p.235&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方、フランクは教員生活において緊張を強いられる場面も経験していた。彼はオルガンによる演奏や即興の技術と同等に作曲の指導を行う傾向があった。また、音楽院が認可した公式の教科書や参考書を軽視する姿勢により、彼の指導方法は合理的でないとみなされていた{{refnest|group= &amp;quot;注&amp;quot;|「フランクは決して固く決まりきった規則や、出来合いの理論を使って教えようとはしなかった&amp;lt;ref&amp;gt;d&#039;Indy, p. 235&amp;lt;/ref&amp;gt;。」}}。さらに彼の一部学生からの人気に嫉妬を感じる教員も現れ、[[ローマ賞|ローマ大賞]]など各種の賞の選考においてフランクの教え子はそうした教授陣から偏見交じりの審査を受けることもあった&amp;lt;ref&amp;gt;d&#039;Indy, p. 247&amp;lt;/ref&amp;gt;。ヴァラはフランクが「彼の信じる単純な本質は理解されなかった（中略）彼自身が常に親切な雰囲気を向けられていると感じていた音楽院の中でさえ、彼はいかほどの不快な類の指摘を受けたことだろうか。」と記している&amp;lt;ref&amp;gt;Vallas, p. 152&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[image:César Franck 95 bd Saint-Michel.jpg|thumb|left|フランクが1865年から住んだ家に掲げられた銘版]]&lt;br /&gt;
フランクの立場は長年温めていた楽曲の構想を楽譜に起こせるようなものとなっていた。彼は『至福』の作曲を中断してオラトリオ『贖罪』（1871年作曲、1874年改訂）、[[交響詩]]『[[アイオリスの人々]]』（1876年）、オルガンのための『3つの小品』（1878年）、『[[ピアノ五重奏曲 (フランク)|ピアノ五重奏曲]]』（1879年）などや他の多くの小規模作品に取り組んだ。『至福』は最終的に[[1879年]]に初演を迎えることとなったが、これはフランクの他の多くの合唱曲や管弦楽曲の場合と同じく成功しなかった。作品は全体としてではなく細分化された上での抜粋だった上、適当なオーケストラがなかったためにピアノ伴奏で演奏された。さらにダンディでさえ指摘しているのは、フランクがゴスペルの至福の中に表現される美徳と対比される罪悪を、音楽的に表現出来ていなかったらしいということである。「この《理想の罪悪》（もしこのような表現が可能であればの話であるが）の擬人化はフランクの本性とあまりにかけ離れており、彼はそうしたものを適切に表現することができなかった&amp;lt;ref&amp;gt;d&#039;Indy, p. 223&amp;lt;/ref&amp;gt;。」その結果生じたヴァラが述べるところの「単調な印象」は&amp;lt;ref&amp;gt;Vallas, p. 163&amp;lt;/ref&amp;gt;、フランクの忠実な門下生にすら『至福』の一つの作品としての存続可能性について推測させるに及んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1880年代]]になり、フランクは気づくと様式的に主張の異なる2群の板挟みとなっていた。一方は最初に慣れ親しんだスタイルからの変化を好まなかった妻のフェリシテであり、他方はおそらく彼が影響を与えるのと同じように彼自身にも驚くべき影響を与えていた弟子たちである。ダンディの次のような言葉が引用されている。「（フランクは）どの調性的関係を選択するのか、展開部をどう進行させるべきか考えあぐねた際、いつも弟子たちに相談して彼らと疑問点を共有し、彼らの意見を聞くことを好んだ&amp;lt;ref&amp;gt;Vallas, p. 247&amp;lt;/ref&amp;gt;。」その一方、フランクの弟子のひとりはフランク夫人が次のように（一部的を射た）発言をしたと物語っている。「彼に向けられる敵意を生んでいるのは全部あなたたち弟子なのよ&amp;lt;ref&amp;gt;Vallas, p. 243&amp;lt;/ref&amp;gt;。」加えて、サン＝サーンスとフランク及びその一派との反りが合わなくなってきており、国民音楽協会においてもいくらか軋轢が生じていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらのいざこざがフランクの心をどれだけ疲弊させたのか、確かなことはわからない。しかし、彼のより「卓越した」楽曲がこうした時期に生み出されたことは確かである。交響詩の『[[呪われた狩人]]』（1882年）と『[[ジン (交響詩)|鬼神（ジン）]]』（1883年-1884年）、ピアノのための『[[前奏曲、コラールとフーガ]]』（1884年）と『[[交響的変奏曲 (フランク)|交響的変奏曲]]』（1885年）、そしてオペラ『ユルダ』（1886年）である。これらの作品の多くは少なくともフランクの生前に行われた初演時には、並みの成功となるか否かといった程度であった。しかし、[[1879年]]の『ピアノ五重奏曲』は注目を集めるとともに思考を喚起する作品であるとされた。批評家はこの作品には「不穏な生気」が宿り、「劇場的といってよい程の不気味さ」を湛えていると評した&amp;lt;ref&amp;gt;Vallas, p. 168&amp;lt;/ref&amp;gt;。ただし、サン＝サーンスはこの作品を特に嫌悪していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[image:EugèneYsaÿe.jpg|thumb|right|180px|『[[ヴァイオリンソナタ (フランク)|ヴァイオリンソナタ]]』の献呈を受けた[[ウジェーヌ・イザイ]]]]&lt;br /&gt;
[[1886年]]の『[[ヴァイオリンソナタ (フランク)|ヴァイオリンソナタ]]』は、ベルギーの[[ヴァイオリニスト]]である[[ウジェーヌ・イザイ]]の結婚祝いとして作曲されたものだった。この作品の成功は轟きわたることになる。イザイはこれをブリュッセル、パリで演奏し、さらに演奏旅行に組み込んでしばしば弟の[[テオ・イザイ]]のピアノ伴奏で演奏した。彼がこの作品を最後に演奏したのは[[1926年]]のパリで、[[イヴ・ナット]]が伴奏を受け持った&amp;lt;ref&amp;gt;Stove, p. 260&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[20世紀]]半ばにヴァラはこのソナタについて次のように記している。「少なくともフランスではフランクの最も人気の作品となり、室内楽曲のレパートリー全体から見ても最も一般的に受容される楽曲である&amp;lt;ref&amp;gt;Vallas, p. 198&amp;lt;/ref&amp;gt;。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランクへの評価がはっきり定まらなかったことは、フランク一派が遅すぎると考えたフランクの受章にも表れているかもしれない。[[1885年]][[8月4日]]、フランクはフランスの[[レジオン・ドヌール勲章]]のシェヴァリエに叙された。彼の支持者らは憤った。ダンディはこう記している。「この勲章が音楽家、フランスの芸術に名誉をもたらす優れた作品の作曲者に与えられたと考えることは間違っているのか。少しもそんなことはない！&amp;lt;ref&amp;gt;d&#039;Indy, p. 52&amp;lt;/ref&amp;gt;」表彰が、単に10年以上勤めた「オルガンの教授」へとなされたものだったからである。ヴァラは「世論はこの点について同じような過ちを犯すまい」と続けて、普段はフランクに批判的だった雑誌の記述を引用した。それはこの表彰が「少し遅きに失したのだとしても、『贖罪』や『至福』を書いた傑出した作曲家に対して正当にもたらされた敬意のしるし」だというものだった&amp;lt;ref&amp;gt;Vallas, p. 185&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランクが[[1886年]]から[[1888年]]に[[ギリシャ神話]]を基に手がけた交響詩『プシュケ』を発表すると、フランクの家庭と取り巻きの弟子たちの間の衝突は新たな局面に突入した。本人のあずかり知らぬ場所でも繰り広げられたいさかいの内容は音楽だけに留まらず、題材の哲学的、宗教的側面にまで及んだ&amp;lt;ref group= &amp;quot;注&amp;quot;&amp;gt;題材はシカール（Sicard）とルイ・ド・フールコー（Louis de Fourcaud）という人物の詩的スケッチに基づいていた。&amp;lt;/ref&amp;gt;。この作品があまりに官能的であると考えたフランクの妻と息子は彼により広範な、もっと大衆への訴求力を持つ、そして「全体としてより商業的な」音楽に専念するよう希望した&amp;lt;ref&amp;gt;Vallas, p. 206&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方のダンディはこの楽曲の神話的重要性に触れ、こう述べている。「多神教徒の精神は何も持ち合わせていないが（中略）それどころか、キリスト教徒の恩寵と感受性を吹き込まれている（略）&amp;lt;ref&amp;gt;d&#039;Indy, p. 173-4&amp;lt;/ref&amp;gt;」このダンディの解釈は後になって「日曜教室の新任教師が悪童に[[雅歌]]を教えるように突然指示された場合に感じるような、ある種の当惑であった。」と解説されている&amp;lt;ref&amp;gt;Stove, p. 262&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランク唯一の交響曲となる『[[交響曲 (フランク)|交響曲 ニ短調]]』が出版されると、議論はますます勢いを増した。曲の評判は芳しくなかった。音楽院のオーケストラは非協力的で&amp;lt;ref&amp;gt;d&#039;Indy, p. 54&amp;lt;/ref&amp;gt;、聴衆は冷淡、批評家は態度を決められず&amp;lt;ref group= &amp;quot;注&amp;quot;&amp;gt;反応は「率直な熱狂」から「型通りの軽蔑」まで幅広いものだった。&amp;lt;/ref&amp;gt;、仲間の作曲家の多くは「全体の形式をはじめ細部においても&amp;lt;ref group= &amp;quot;注&amp;quot;&amp;gt;例えば[[コーラングレ|イングリッシュ・ホルン]]の使用などが挙げられる。&amp;lt;/ref&amp;gt;形式主義者の規則や厳格な玄人及び素人の慣習を破壊した。」として取り乱した&amp;lt;ref&amp;gt;Vallas, p. 211-213&amp;lt;/ref&amp;gt;。フランク自身は弟子のルイ・ド・スーレ（-Serres）にこの曲には基となる私的な着想があったのかと問われ「いや、ただの音楽だ。純粋な音楽以外には何もない。」と答えている&amp;lt;ref&amp;gt;Vallas, p. 212&amp;lt;/ref&amp;gt;。ヴァラによれば交響曲で用いられた様式と技法は良いものもそうでないものも皆、フランクの思考と芸術家人生の中心を占めたオルガンに帰することが出来るという。また、彼はフランクがこの経験から学んだとも指摘している。「彼は弟子たちに向かって、その時以降同じような作品は2度と書くまいと述べた&amp;lt;ref&amp;gt;Vallas, p. 216&amp;lt;/ref&amp;gt;。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 晩年 （1888年-1890年） ===&lt;br /&gt;
[[image:Tomb of César Franck.JPG|thumb|right|180px|[[オーギュスト・ロダン]]による胸像が設置されたフランクの墓]]&lt;br /&gt;
1888年、フランクは次なるオペラ『ジゼル』に取り掛かった。しかし、この作品は作曲というに至らぬ草稿の段階までで終わり、完成されることはなかった。対照的に大規模な『[[弦楽四重奏曲 (フランク)|弦楽四重奏曲]]』は完成され、[[1890年]]4月の初演は聴衆と評論家から好評をもって迎えられた。これ以外にも同じ時期には、フランクはパリ及び近隣都市でコンサートピアニストとして活動し、2年前には『プシュケ』の再演が熱狂的に終わっており、さらに弟子たちによる数多くの演奏によってフランクは成功を手にしていた。加えて、彼はサント・クロチルド聖堂で定例の大きな日曜集会には即興演奏を披露し続けていた。彼はオルガンのための大きな作品、またチェロソナタの構想も温めていた可能性がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1890年7月&amp;lt;ref group= &amp;quot;注&amp;quot;&amp;gt;かつては5月と考えられていた。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;Stove, pp. 279, 295&amp;lt;/ref&amp;gt;、フランクが乗車していた辻馬車が馬引きの列車と衝突事故を起こす。頭に損傷を受けた彼は一時意識を喪失した。ただちに後遺症が見られなかったため彼はそのまま移動を再開し、本人も事故を重要視しなかった。しかしながら次第に歩行が苦痛になり始め、気が付くと彼は演奏会やリハーサルを休む事を余儀なくされ、続いて音楽院での講義も断念せざるを得なくなった。できるだけ急いで休暇を取って[[ヌムール]]に赴いた彼は、同地で約束していたオルガン作品や[[ハーモニウム]]のための委嘱作品を書けることを願った。休暇中に彼は両プロジェクトに着手することができた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ハーモニウムの作品集よりも早く、オルガン作品が1890年の8月と9月に書き上げられた。この作品はオルガン音楽史における珠玉の逸品である『[[3つのコラール (フランク)|3つのコラール]]』であり、今日でも頻繁に演奏されている。ヴァラはこの作品について次のように述べている。「その美しさと重要さは、この曲集を音楽による遺書もしくは遺言と考えてまったく差し支えないほどである&amp;lt;ref&amp;gt;Vallas, p. 232&amp;lt;/ref&amp;gt;。」ヴァラよりも後の時代の伝記作家も同様の表現を用いている。「全体を通してフランクの意識が大きな別れの言葉となっているのは明らかである（中略）『コラール』を作曲したフランクが、自らの身体が完全に回復する希望を持ち続けていたと考えるのは難しい、いや、ほとんど不可能に近い&amp;lt;ref&amp;gt;Stove, pp. 283-284&amp;lt;/ref&amp;gt;。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[image:Monument a Cesar Franck.jpg|thumb|left|180px|{{仮リンク|アルフレド＝シャルル・ルノワール|label=A.F.ルノワール|fr|Alfred-Charles Lenoir}}によるフランク像]]&lt;br /&gt;
10月から音楽院の新学期に入ったフランクであったが、月の半ばに風邪を引いてしまう。この風邪をこじらせたことによって[[胸膜炎]]&amp;lt;ref group= &amp;quot;注&amp;quot;&amp;gt;[[腹膜炎]]、[[心膜炎]]などとされる場合もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;にかかった彼は、みるみるうちに病状を悪化させて[[11月8日]]に帰らぬ人となった。[[1970年]]にある病理学者が示した所見では、従来フランクの死は交通事故が原因とされるか何かしらの関連があるものとされていたが、呼吸器感染自体が死の病となることもあり得たという。[[抗生物質]]がまだ知られぬ当時においては、この病状は「70代男性の[[肺炎]]の状態として珍しいものとは言えない&amp;lt;ref&amp;gt;Ober, p. 83&amp;lt;/ref&amp;gt;。」しかしこの判断にはその後疑問を呈する者が現れた。「最もよく知っているだろうと思われる2人の人物、すなわちフランク本人と彼の妻が述べた《直接の原因》には疑いがない。同様に直近の1890年の7月から11月まで家政婦として彼の身の回りの世話をしていた外部の人間の言葉も確からしい（中略）フランクの数十年にわたる《蝋燭を両側から燃やすような》過酷な労働そのものによって、彼が軽度の怪我から回復するのに必要な体力さえもが損なわれていた可能性も十分にある&amp;lt;ref&amp;gt;Stove, p. 296&amp;lt;/ref&amp;gt;。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランクの葬送ミサはサント・クロチルド聖堂で執り行われ、音楽院の公式代表だった[[レオ・ドリーブ]]をはじめ、[[カミーユ・サン＝サーンス|サン＝サーンス]]、[[ウジェーヌ・ジグー]]、[[ガブリエル・フォーレ]]、[[アレクサンドル・ギルマン]]、[[シャルル＝マリー・ヴィドール]]（フランクの後任として音楽院のオルガン科教授となった）、[[エドゥアール・ラロ]]などの多数の参列者があった&amp;lt;ref&amp;gt;Vallas, p. 234-235&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[エマニュエル・シャブリエ]]がモントルージュ（Montrouge）にあった元の墓地の側でスピーチを行った&amp;lt;ref&amp;gt;Stove, p. 300&amp;lt;/ref&amp;gt;。フランクの亡骸はその後パリの[[モンパルナス墓地]]に移され、友人で建築家の{{仮リンク|ガストン・ルドン|en|Gaston Redon}}が設計した墓に納められた。[[オーギュスタ・オルメス]]率いるフランクの弟子たちは[[オーギュスト・ロダン]]に銅板への浮き彫りを委嘱し、完成した3/4サイズのフランクの胸像は[[1893年]]に墓の脇に掲げられた&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.rodin-web.org/bio/bio_long_5.htm rodin-web.org, Life(5), 1893]&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[1904年]]、彫刻家の{{仮リンク|アルフレド＝シャルル・ルノワール|fr|Alfred-Charles Lenoir}}が製作した記念碑「オルガンに向かうセザール・フランク」が、サント・クロチルド聖堂から通りを挟んで向かい側のサミュエル＝ルソー広場に設置された&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.findagrave.com/cgi-bin/fg.cgi?page=gr&amp;amp;GRid=362 Cesar Franck (1822–1890) – Find A Grave Memorial]&amp;lt;/ref&amp;gt;。フランクは現在もモンパルナス墓地に眠っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 作風 ==&lt;br /&gt;
{{listen&lt;br /&gt;
 | header=ヴァイオリンソナタ イ長調&amp;lt;br/&amp;gt;（フルートとピアノのための編曲）&lt;br /&gt;
 | filename     = Cesar Franck - Sonata in A, 1st movement.ogg&lt;br /&gt;
 | title        =  1. Allegretto moderato&lt;br /&gt;
 | description  =&lt;br /&gt;
 | pos          = right&lt;br /&gt;
 | format       = [[Ogg]]&lt;br /&gt;
 | filename2    = Cesar Franck - Sonata in A, 2nd movement.ogg&lt;br /&gt;
 | title2       = 2. Allegro&lt;br /&gt;
 | description2 =&lt;br /&gt;
 | format2      = [[Ogg]]&lt;br /&gt;
 | filename3    = Cesar Franck - Sonata in A, 3rd movement.ogg&lt;br /&gt;
 | title3       = 3. Ben moderato: Recitative-Fantasia&lt;br /&gt;
 | description3 =&lt;br /&gt;
 | format3      = [[Ogg]]&lt;br /&gt;
 | filename4    = Cesar Franck - Sonata in A, 4th movement.ogg&lt;br /&gt;
 | title4       = 4. Allegretto poco mosso&lt;br /&gt;
 |description4  = {{仮リンク|アルバート・ティプトン|en|Albert Tipton}}（フルート）、メアリー・ノリス（ピアノ）&lt;br /&gt;
 |format4       = [[Ogg]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランクは[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]以降のドイツ[[ロマン派音楽]]、特に同時代のリストや[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]から強い影響を受けた。その結果彼の音楽の特徴として、[[半音階]]的[[和声]]進行が目立つこと、形式的には[[循環形式]]を多用することが挙げられる。前半の楽章で登場した主題の一部や全体が後半の楽章で再現されることで曲全体の統一が図られる。また、フランクさらに進んで独自の様式を創り上げており、各楽章で主要な役割を演じる主題が単一のモチーフから生成される場合もある。1888年の『[[交響曲 (フランク)|交響曲 ニ短調]]』ではこの手法が顕著に示されている。また、彼の作品では巧みな[[転調]]が頻繁に行われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランクは[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|J.S.バッハ]]を研究し[[対位法]]を巧みに用いている。作曲に際して比較的簡明な[[音価]]を用いる為、単一の旋律で提示される場合はいささか空疎であるが、循環形式内で複数の旋律で提示された場合は非常に高潔な印象を与えるのが特徴である。多くのフランクの門下生もこの手法にほぼ倣っているが、フランクの高みに触れたものはいない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランクは12度を掴むことが出来る大きな手を持っていた&amp;lt;ref&amp;gt;Smith, &#039;&#039;Toward,&#039;&#039; p. 36, note 87&amp;lt;/ref&amp;gt;。これによってフランクの[[フーガ]]作品における声部連結は通常にない自由度を有しており、彼の鍵盤楽器作品では和音の幅の広さが特徴の一つとなっている。『[[ヴァイオリンソナタ (フランク)|ヴァイオリンソナタ]]』の書法について、次のような指摘がある。「音楽家の手が皆自分のように大きくないということを幸せにも忘れがちなフランクは、ピアノパート（特に第4楽章）に長10度の和音を散りばめている。（中略）以来、ピアニストはこれを演奏するために手を大きく開くことを強いられてきたのである&amp;lt;ref&amp;gt;Stove, p. 257&amp;lt;/ref&amp;gt;。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランク作品を読み解く鍵は彼の性格に求められるのかもしれない。彼の友人たちは彼について「これ以上ないほど謙遜し、気取りなく、尊敬の情に溢れ、勤勉であった。」と評した。弟子の1人で後にノートル＝ダム聖堂の正オルガニストに就いた[[ルイ・ヴィエルヌ]]は、フランクに関する記憶を書き留めている。「（彼は）芸術の気品に対する、役割の高貴さに対する、そして音に対して語る際の熱い真摯さに対する絶え間ない配慮（を見せた）。（中略）歓喜と陰鬱、荘厳と神秘、力強さと天衣無縫さ。サント・クロチルド聖堂でのフランクはこれら全てを兼ね備えていた&amp;lt;ref&amp;gt;Vierne, &#039;&#039;Mes Souvenirs,&#039;&#039; p. 43, quoted in Smith, &#039;&#039;Toward&#039;&#039;, p. 24&amp;lt;/ref&amp;gt;。」このフランク自身への賛美は彼の作品すべてに敷衍できるだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 代表的作品 ==&lt;br /&gt;
{{main|セザール・フランクの楽曲一覧}}&lt;br /&gt;
; 管弦楽作品&lt;br /&gt;
* 交響的間奏曲「贖罪(改訂版)」（1874年）&lt;br /&gt;
* 交響詩「[[アイオリスの人々]]」（1876年）&lt;br /&gt;
* 交響詩「[[呪われた狩人]]」（1883年）&lt;br /&gt;
* [[交響曲 (フランク)|交響曲 ニ短調]]（1888年）&lt;br /&gt;
* 交響詩「プシュケ」（1888年）&lt;br /&gt;
; ピアノと管弦楽のための作品&lt;br /&gt;
* ピアノ協奏曲第2番ロ短調作品11&lt;br /&gt;
* 交響詩「[[ジン (交響詩)|鬼神（ジン）]]」（1884年）&lt;br /&gt;
* [[交響的変奏曲 (フランク)|交響的変奏曲]]（1885年）&lt;br /&gt;
; ピアノ曲&lt;br /&gt;
* [[前奏曲、フーガと変奏曲]]（1873年）&lt;br /&gt;
* [[前奏曲、コラールとフーガ]]（1884年）&lt;br /&gt;
* [[前奏曲、アリアと終曲]]（1887年）&lt;br /&gt;
; 室内楽曲&lt;br /&gt;
* [[ピアノ五重奏曲 (フランク)|ピアノ五重奏曲 ヘ短調]]（1879年）&lt;br /&gt;
* [[ヴァイオリンソナタ (フランク)|ヴァイオリンソナタ イ長調]]（1886年）&lt;br /&gt;
* [[弦楽四重奏曲 (フランク)|弦楽四重奏曲 ニ長調]]（1890年）&lt;br /&gt;
; オルガン曲&lt;br /&gt;
* 「アンダンティーノ ト短調」（1858年）&lt;br /&gt;
* 44の小品（1858年 - 1863年）&lt;br /&gt;
* 6つの作品（幻想曲ハ長調、[[交響的大曲]]、[[前奏曲、フーガと変奏曲]]、パストラール、祈り、終曲）（1862年）&lt;br /&gt;
* 3つの作品（幻想曲イ長調、カンタービレ、英雄的作品）（1878年）&lt;br /&gt;
* [[3つのコラール (フランク)|3つのコラール]]（1890年）&lt;br /&gt;
; [[オラトリオ]]&lt;br /&gt;
* 『ルツ』（1845年）&lt;br /&gt;
* 『贖罪』（1872年）&lt;br /&gt;
* 『[[至福 (オラトリオ)|至福]]』（1869年 - 1879年）&lt;br /&gt;
* 『レベッカ』（1880年 - 1881年）&lt;br /&gt;
; [[歌曲]]&lt;br /&gt;
* ばらの結婚（1871年）&lt;br /&gt;
* [[天使の糧]]（天使のパン）（1872年） - 「3声のミサ曲 イ長調」（1860年）に後から追加された楽章&lt;br /&gt;
* 夜想曲（1884年）&lt;br /&gt;
* 聖行列（1888年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;注釈&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
{{Reflist|group= &amp;quot;注&amp;quot;}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;出典&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
{{Reflist|4}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;div class=&amp;quot;references-small&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
*{{cite book | last=Boyden | first=Matthew | coauthors=Buckley, Jonathan  | title=Classical Music on CD-The Rough Guide | location=London | publisher=Rough Guides | year=1994 | isbn=1-85828-113-X}}&lt;br /&gt;
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*{{cite book | last=Davis | first=Elizabeth (ed.)  | title=A Basic Music Library- Essential Scores and Sound Recordings | location=Chicago | publisher=American Library Association | year=1997 | isbn=0-8389-3461-7}}&lt;br /&gt;
*&amp;quot;Franck, César.&amp;quot;  &#039;&#039;Norton/Grove Concise Encyclopedia of Music.&#039;&#039;  (Pub. in UK as &#039;&#039;Grove Concise Dictionary of Music.&#039;&#039;).  New York: Norton, 1988.&lt;br /&gt;
*Ober, William B. (1970).  &amp;quot;De Mortibus Musicorum: Some cases drawn from a pathologist&#039;s notebook.&amp;quot;  &#039;&#039;Stereo Review,&#039;&#039; vol. 25 no. 5 (November 1970).&lt;br /&gt;
*Smith, Rollin (1997).  &#039;&#039;Playing the Organ Works of César Franck.&#039;&#039;  Series: The Complete Organ No. 1.  Hillsdale, NY: Pendragon Press  ISBN 0-945193-79-3.&lt;br /&gt;
*——— (2002).  &#039;&#039;Toward an Authentic Interpretation of the Organ Works of César Franck.&#039;&#039;  Second edition, revised and expanded.  Series: The Complete Organ No. 6; Juilliard Performance Guide No. 1.  Hillsdale, NY: Pendragon Press.  ISBN 978-1-57647-076-3.&lt;br /&gt;
*Stove, R. J. (2012). &#039;&#039;César Franck: His Life and Times.&#039;&#039; Lanham, Maryland: Scarecrow Press. ISBN 978-0-8108-8207-2.&lt;br /&gt;
*Vallas, Léon (1951).  &#039;&#039;César Franck.&#039;&#039;  Trans. [[:en: Hubert J. Foss|Hubert J. Foss]]. New York: Oxford University Press.  Trans. of &#039;&#039;La véritable histoire de César Franck&#039;&#039; (1949)&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
{{wikiquotelang|en|César Franck}}&lt;br /&gt;
{{commonscat|César Franck}}&lt;br /&gt;
* {{IMSLP|id=Franck, César}}&lt;br /&gt;
* {{ChoralWiki|César Franck}}&lt;br /&gt;
* [http://www.mutopiaproject.org/cgibin/make-table.cgi?Composer=FranckC 楽譜]　[[ミュートピアプロジェクト]]&lt;br /&gt;
* [http://www.cesar-franck.org/ International César Franck Society] {{de icon}} または {{fr icon}}&lt;br /&gt;
* [http://www.logoslibrary.org/classical/franck/index.html Logos Virtual Library]フランク作品の演奏音源、[[MP3]]&lt;br /&gt;
* [http://www.virtuallybaroque.com/inco076.htm L&#039;Organiste played on virtual harmoniums]&lt;br /&gt;
* [http://www.virtuallybaroque.com/list2f.htm More works by César Franck performed on virtual instruments]&lt;br /&gt;
* [http://www.naxos.com/composerinfo/Cesar_Franck/27179.htm César Franck] [[ナクソス (レコードレーベル)|Naxos]]&lt;br /&gt;
* {{Allmusic|class=artist|id=q2132}}&lt;br /&gt;
* {{IMDb name|0290424}}&lt;br /&gt;
* [http://kcpo.jp/info/39th/Franck1.html#head 関西シティフィルハーモニー交響楽団 / フランク・交響曲ニ短調]（フランクの生涯、及び曲の概説）&lt;br /&gt;
* {{nndb|383/000093104}}&lt;br /&gt;
* {{Find a Grave|362}}&lt;br /&gt;
* {{DNB-Portal|118534645}}&lt;br /&gt;
* {{PTNA|composers|59|フランク}}&lt;br /&gt;
* {{Cite EB1911|Franck, César|short=x}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Authority control|VIAF=66651702|SELIBR=253159|GND=118534645|LCCN=n/79/130762}}&lt;br /&gt;
{{Persondata&lt;br /&gt;
|NAME              = Franck, César&lt;br /&gt;
|ALTERNATIVE NAMES = César-Auguste-Jean-Guillaume-Hubert Franck&lt;br /&gt;
|SHORT DESCRIPTION = Belgian-French composer, organist and music teacher&lt;br /&gt;
|DATE OF BIRTH     = 10 December 1822&lt;br /&gt;
|PLACE OF BIRTH    = Liège, Belgium&lt;br /&gt;
|DATE OF DEATH     = 8 November 1890&lt;br /&gt;
|PLACE OF DEATH    = Paris, France&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ふらんく せさある}}&lt;br /&gt;
[[Category:フランスの作曲家]]&lt;br /&gt;
[[Category:ベルギーの作曲家]]&lt;br /&gt;
[[Category:ロマン派の作曲家]]&lt;br /&gt;
[[Category:フランスのオルガニスト]]&lt;br /&gt;
[[Category:教会音楽家]]&lt;br /&gt;
[[Category:パリ国立高等音楽・舞踊学校の教員]]&lt;br /&gt;
[[Category:レジオンドヌール勲章受章者]]&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツ系フランス人]]&lt;br /&gt;
[[Category:ベルギー系フランス人]]&lt;br /&gt;
[[Category:リエージュ王立音楽院出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:交通事故死した人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:リエージュ出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1822年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1890年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.231.47.46</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%8E%E3%83%BC&amp;diff=175526</id>
		<title>シャルル・グノー</title>
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		<updated>2014-08-20T13:08:14Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.231.47.46: /* 宗教音楽・ミサ曲 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Infobox Musician&lt;br /&gt;
| Name = シャルル・グノー&amp;lt;br/&amp;gt;Charles Gounod&lt;br /&gt;
| Img = Charles Gounod.jpg&lt;br /&gt;
| Img_capt = シャルル・グノー&lt;br /&gt;
| Background = classic&lt;br /&gt;
| Birth_name = シャルル・フランソワ・グノー&amp;lt;br/&amp;gt;Charles François Gounod&lt;br /&gt;
| Alias = &lt;br /&gt;
| Blood = &amp;lt;!-- 個人のみ --&amp;gt;&lt;br /&gt;
| School_background = &amp;lt;!-- 個人のみ --&amp;gt;&lt;br /&gt;
| Born = [[1818年]][[6月17日]]&amp;lt;br/&amp;gt;{{FRA1814}}、パリ&lt;br /&gt;
| Died = [[1893年]][[10月18日]]&amp;lt;br/&amp;gt;{{FRA1870}}、サン＝クルー&lt;br /&gt;
| Origin = &lt;br /&gt;
| Instrument = &amp;lt;!-- 個人のみ --&amp;gt;&lt;br /&gt;
| Genre = &lt;br /&gt;
| Occupation = [[作曲家]]&lt;br /&gt;
| Years_active = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{Portal クラシック音楽}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;シャルル・フランソワ・グノー&#039;&#039;&#039;（{{lang-fr|Charles François Gounod}}、[[1818年]][[6月17日]] - [[1893年]][[10月18日]]）は、[[フランス]]の[[作曲家]]。わけても、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]の『[[ファウスト]]』第1部に基づく[[ファウスト (オペラ)|同名のオペラ]]で有名である。[[バチカン]]の実質的な[[国歌]]である『[[賛歌と教皇の行進曲]]』を作曲したことでも知られている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
[[パリ]]生まれ。母はピアニスト、父は設計士であった。母親に[[ピアノ]]の手ほどきを受けて楽才を開花させ、[[パリ音楽院]]に入学してオペラ作曲家[[フロマンタル・アレヴィ]]に師事した。[[1839年]]に[[カンタータ]]『フェルディナン』（&#039;&#039;Ferdinand&#039;&#039;）で[[ローマ賞|ローマ大賞]]を受賞、ただちに[[ローマ]]へ留学し、[[ジョヴァンニ・ダ・パレストリーナ|パレストリーナ]]の作品を研究した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2年間のローマ留学の後、[[ウィーン]]、[[ベルリン]]、[[ライプツィヒ]]等を経由して、[[1843年]]にパリに戻り、[[サン・トゥスタッシュ教会]]の聖歌隊楽長兼教会[[オルガニスト]]となった。[[1851年]]に最初のオペラ『サッフォー』（&#039;&#039;Sapho&#039;&#039;）を作曲するが、[[1859年]]の『[[ファウスト (オペラ)|ファウスト]]』（&#039;&#039;Faust&#039;&#039;）まで大成功をおさめることはできなかった。この作品は今日でも最も有名なグノー作品であるが、[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]原作のオペラ『[[ロメオとジュリエット (グノー)|ロメオとジュリエット]]』（[[1867年]]初演）もまた定期的に上演・録音がなされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1870年]]から[[1875年]]まで、グノーは戦乱を避けて[[イングランド]]に過ごし、のちの王立合唱協会（[[ロイヤル・コーラル・ソサエティ]]）の首席指揮者を務めた。この頃から、グノー作品の多くが実質的に声楽曲や合唱曲となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
グノーは後半生において主に宗教曲を手掛けているが、中でも[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]の『[[平均律クラヴィーア曲集]]』第1巻第1曲の前奏曲に旋律をかぶせた『[[アヴェ・マリア (グノー)|アヴェ・マリア]]』は有名であり、『グノーのアヴェ・マリア』と称されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
グノーの管弦楽曲『操り人形の葬送行進曲』は、[[アルフレッド・ヒッチコック]]のテレビシリーズでテーマ音楽に用いられて有名になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2つの[[交響曲]]は[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]や[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]らの作品を熟知した上で作曲されており、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]と違って[[スケルツォ]]楽章ではなく[[メヌエット]]が使われている。この2曲は、また16歳の[[ジョルジュ・ビゼー|ビゼー]]が[[交響曲 (ビゼー)|交響曲ハ長調]]を作曲する上でも手本となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1893年、パリ郊外の[[サン＝クルー]]で死去。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主要作品 ==&lt;br /&gt;
=== 歌劇 ===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;サッフォー&#039;&#039;&#039;（&#039;&#039;&#039;Sapho&#039;&#039;&#039;,1851）&lt;br /&gt;
*:E.オージエの台本による3幕のオペラ。1884年に4幕に改訂される。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;血まみれの修道女&#039;&#039;&#039;（&#039;&#039;&#039;La nonne sanglante&#039;&#039;&#039;,1854）&lt;br /&gt;
*:[[ウジェーヌ・スクリーブ|A-E.スクリーブ]]とG.ドラヴィーニュの台本による5幕のオペラ。『&#039;&#039;&#039;血にまみれた尼&#039;&#039;&#039;』とも。初期作品であるが故に演奏や録音は行われないが、最近になってCPOレーベルからリリースされている。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;いやいやながら医者にされ&#039;&#039;&#039;（&#039;&#039;&#039;Le médecin malgré lui&#039;&#039;&#039;,1858）&lt;br /&gt;
*:J.バルビエとM.カレ、作曲者自身の台本による3幕のオペラ。『&#039;&#039;&#039;にわか医師&#039;&#039;&#039;』とも表記される。[[エリック・サティ]]はこのオペラの[[レチタティーヴォ]]を編曲している。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[ファウスト (オペラ)|ファウスト]]&#039;&#039;&#039;（&#039;&#039;&#039;Faust&#039;&#039;&#039;,1859）&lt;br /&gt;
*:J.バルビエとM.カレの台本による5幕のオペラ。最も有名なオペラで、同時に最初に大規模な成功を収めた作品でもある。1869年にバレエ音楽を追加する形で改訂している。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;鳩&#039;&#039;&#039;（&#039;&#039;&#039;La colombe&#039;&#039;&#039;,1860）&lt;br /&gt;
*:J.バルビエとM.カレの台本による幕のオペラ。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;フィレモンとボーシス&#039;&#039;&#039;（&#039;&#039;&#039;Philémon et Baucis&#039;&#039;&#039;,1860）&lt;br /&gt;
*:J.バルビエとM.カレの台本による幕のオペラ。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;シバの女王&#039;&#039;&#039;（&#039;&#039;&#039;La reine de Saba&#039;&#039;&#039;,1862）&lt;br /&gt;
*:J.バルビエとM.カレの台本による幕のオペラ。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;ミレイユ&#039;&#039;&#039;（&#039;&#039;&#039;Mireille&#039;&#039;&#039;,1864）&lt;br /&gt;
*:M.カレの台本による5幕のオペラ。2番目に成功したオペラである。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[ロメオとジュリエット (グノー)|ロメオとジュリエット]]&#039;&#039;&#039;（&#039;&#039;&#039;Roméo et Juliette&#039;&#039;&#039;,1867）&lt;br /&gt;
*:J.バルビエとM.カレの台本による5幕のオペラ。『ファウスト』と共に最も知られる作品。ジュリエットのワルツは独唱者たちに好んで歌われるアリアである。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;サン＝マール&#039;&#039;&#039;（&#039;&#039;&#039;Cinq-Mars&#039;&#039;&#039;,1877）&lt;br /&gt;
*:L.ガレとP.ポワルソンの台本による4幕のオペラ。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[ポリュクトゥス|ポリュクト]]&#039;&#039;&#039;（&#039;&#039;&#039;Polyeucte&#039;&#039;&#039;,1878）&lt;br /&gt;
*:J.バルビエとM.カレの台本による5幕のオペラ。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;ザモラの貢ぎ物&#039;&#039;&#039;（&#039;&#039;&#039;Le tribut de Zamora&#039;&#039;&#039;,1881）&lt;br /&gt;
*:A.P.デリーとJ.ブレジルの台本による5幕のオペラ。ただし台本作者にJ.バルビエとM.カレも関わっているとされる。このオペラを以ってグノーはオペラの作曲を止めたため、最後の作品である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 劇音楽 ===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;ユリシーズ&#039;&#039;&#039;（&#039;&#039;&#039;Ulysse&#039;&#039;&#039;,1851）&lt;br /&gt;
*:Ponsardの劇のための音楽。全5幕。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;町人貴族&#039;&#039;&#039;（&#039;&#039;&#039;Le bourgeois gentilhomme&#039;&#039;&#039;,1856）&lt;br /&gt;
*:モリエールの劇のための音楽。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;フランスの2人の王女&#039;&#039;&#039;（&#039;&#039;&#039;Les deux reines&#039;&#039;&#039;,1865）&lt;br /&gt;
*:ルグヴェの劇のための音楽。全4幕。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;ジャンヌ・ダルク&#039;&#039;&#039;（&#039;&#039;&#039;Jeanne d&#039;Arc&#039;&#039;&#039;,1873）&lt;br /&gt;
*:J.バルビエの劇のための音楽。全5幕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 交響曲 ===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;交響曲第1番 ニ長調&#039;&#039;&#039;（1854）&lt;br /&gt;
*:全4楽章からなる最初の交響曲。演奏されることはほとんどないが、[[ミシェル・プラッソン]]の録音が残されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;交響曲第2番 変ホ長調&#039;&#039;&#039;（1856）&lt;br /&gt;
*:全4楽章からなる2番目の交響曲。こちらも第1番と同様に演奏されることはほとんどないが、[[イーゴリ・マルケヴィチ]]による録音（1957年）は隠れた名盤として知られている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[小交響曲 (グノー)|小交響曲 変ホ長調]]&#039;&#039;&#039;（1888）&lt;br /&gt;
*:管楽器のための[[シンフォニエッタ]]であるが、厳密には室内楽に分類される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 宗教音楽・ミサ曲 ===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;聖ツェツィーリアのための荘厳ミサ ト長調&#039;&#039;&#039;（&#039;&#039;&#039;Messe solennelle en l&#039;honneur de Sainte Cécile&#039;&#039;&#039;,1855）&lt;br /&gt;
*:3人の独唱陣（S,T,Bs）、合唱、管弦楽とオルガンのための作品。同年に作曲された『荘厳ミサ』より改作したもの。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;レクイエム ハ長調&#039;&#039;&#039;（&#039;&#039;&#039;Requiem en Do majeur&#039;&#039;&#039;,1893）&lt;br /&gt;
*:4人の独唱陣（S,A,T,Bs）、合唱と管弦楽（ピアノまたはオルガンの任意）のための作品。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== エピソード ==&lt;br /&gt;
グノーが楽長を務めていたサン・トゥスタッシュ教会の聖歌隊に、後に画家として著名になる[[ピエール＝オーギュスト・ルノワール]]が、1850年頃から数年間所属していた事がある。グノーはルノワールに声楽を教え、ルノワールの歌手としての才能を高く評価していた。そのため、グノーはルノワールの両親にルノワールを[[パリ国立オペラ|オペラ座]]の合唱団に入れることを提案したが、断られた。グノーはルノワールを歌手にしようと考えていたので、その才能を惜しんだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* {{IMSLP|id=Gounod%2C_Charles|cname=シャルル・グノー}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Classic-stub}}&lt;br /&gt;
{{Music-bio-stub}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:くの しやるる}}&lt;br /&gt;
[[Category:ロマン派の作曲家]]&lt;br /&gt;
[[Category:フランスの作曲家]]&lt;br /&gt;
[[Category:オペラ作曲家]]&lt;br /&gt;
[[Category:1818年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1893年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:パリ国立高等音楽・舞踊学校の教員]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.231.47.46</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%BC&amp;diff=5763</id>
		<title>クロード・ドビュッシー</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%BC&amp;diff=5763"/>
		<updated>2014-08-19T16:44:20Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.231.47.46: /* オペラ、カンタータ、劇付随音楽 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Infobox Musician &amp;lt;!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照--&amp;gt;&lt;br /&gt;
| Name                = クロード・ドビュッシー&amp;lt;br /&amp;gt;{{lang|fr|Claude Debussy}}&lt;br /&gt;
| Img                 = Claude Debussy ca 1908, foto av Félix Nadar.jpg&lt;br /&gt;
| Img_capt            = &lt;br /&gt;
| Img_size            = &amp;lt;!-- サイズが250ピクセルに満たない場合のみ記入 --&amp;gt;&lt;br /&gt;
| Landscape           = &amp;lt;!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --&amp;gt;&lt;br /&gt;
| Background          = classic&lt;br /&gt;
| Birth_name          = {{lang|fr|Achille Claude Debussy}}&lt;br /&gt;
| Alias               = &lt;br /&gt;
| Blood               = &amp;lt;!-- 個人のみ --&amp;gt;&lt;br /&gt;
| School_background   = [[パリ国立高等音楽・舞踊学校|パリ音楽院]]&lt;br /&gt;
| Born                = [[1862年]][[8月22日]]&amp;lt;br /&amp;gt;{{FRA1852}}、[[サン＝ジェルマン＝アン＝レー]]&lt;br /&gt;
| Died                = {{死亡年月日と没年齢|1862|8|22|1918|3|25}}&amp;lt;br /&amp;gt;{{FRA1870}}、[[パリ]]&lt;br /&gt;
| Origin              = &lt;br /&gt;
| Instrument          = &amp;lt;!-- 個人のみ --&amp;gt;&lt;br /&gt;
| Genre               = [[印象主義音楽]]&lt;br /&gt;
| Occupation          = [[作曲家]]&lt;br /&gt;
| Years_active        = [[1884年]] - [[1916年]]&lt;br /&gt;
| Label               = &lt;br /&gt;
| Production          = &lt;br /&gt;
| Associated_acts     = &lt;br /&gt;
| Influences          = &lt;br /&gt;
| URL                 = &lt;br /&gt;
| Notable_instruments = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{ウィキポータルリンク|クラシック音楽}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;クロード=アシル・ドビュッシー&#039;&#039;&#039;（&#039;&#039;&#039;{{lang|fr|Claude Achille Debussy}}&#039;&#039;&#039;, [[1862年]][[8月22日]] - [[1918年]][[3月25日]]）は、[[フランス]]の[[作曲家]]。[[長音階]]・[[短音階]]以外の[[旋法]]と、[[機能和声]]にとらわれない自由な和声法などとを用いて独自の作曲を実行した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ドビュッシーの音楽は、代表作『[[海 (ドビュッシー)|海]]』や『[[夜想曲 (ドビュッシー)|夜想曲]]』などにみられる特徴的な作曲技法から、「[[印象主義音楽]]（印象派）」と称されることもある。また[[歌詞]]やテーマの選択は象徴派（[[象徴主義]]）からの影響が色濃いと目されることもあるのだという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
尚、名前は生後1890年（23歳）まで「&#039;&#039;&#039;アシル=クロード&#039;&#039;&#039;」、1890年（23歳）から「&#039;&#039;&#039;クロード=アシル&#039;&#039;&#039;」である。&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 幼少期 ===&lt;br /&gt;
[[1862年]][[8月22日]]午前4時半、[[イヴリーヌ県]]の[[サン・ジェルマン＝アン＝レー]]のパン通り38番地に、「アシル=クロード・ドビュッシー」として生まれた。父親のマニュエル・アシル・ドビュッシーは陶器店を経営し、母親のヴィクトリーヌ・マヌリ・ドビュッシーは裁縫師であった。5人兄弟の長男として生まれているが、彼が2歳（[[1864年]]7月31日）になってから[[洗礼]]を受けている。その年に一家は経営難のためサン・ジェルマン＝アン＝レーを離れ、母方の実家（[[クリシー]]）に同居する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1870年]]、[[カンヌ]]に住む伯母クレメンティーヌ（父の姉にあたる）のもと、彼女の肝煎りで[[イタリア]]の[[ヴァイオリニスト]]、ジャン・チェルッティ（&#039;&#039;Jean Cerutti&#039;&#039;）にピアノを習う（期間は不明）&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、チェルッティは彼の持つ才能を見抜けなかったといわれる。 ゴレア p11&amp;lt;/ref&amp;gt;。このカンヌでの滞在は1回だけであったが、後年ドビュッシーは鮮烈な印象を残したと手紙の中で語っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1871年]]、詩人ヴェルレーヌの義母マリー・モテ・ド・フルールヴィル夫人に基礎的な音楽の手ほどきを受ける。これは、偶然にも父親の知人であったヴェルレーヌの義兄で小唄作者のシャルル・デ・シヴリー（&#039;&#039;Charles de Sivry&#039;&#039;）と出会い、シヴリーが少年のドビュッシーを自分の母親のフルールヴィル夫人に引き合わせたとされる。夫人はドビュッシーの才能を見抜き、親身に彼を教えたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幼少期のドビュッシーについては、後年本人が語ろうとしなかったため、彼がどのように過ごしたのかは不明である。ただしこの時期からピアノの手ほどきを受けていたことは確かである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 音楽院入学とローマ賞 ===&lt;br /&gt;
[[1872年]]10月22日、10歳の若さで[[パリ国立高等音楽・舞踊学校|パリ音楽院]]に入学する。この時の合格者がドビュッシーを含むわずか33名であった&amp;lt;ref&amp;gt;ゴレア p13&amp;lt;/ref&amp;gt;。1年後、[[エルネスト・ギロー]]（作曲）、オーギュスト・バジュ（ピアノ伴奏法）、[[アントワーヌ・マルモンテル]]（ピアノ）、エミール・デュラン（作曲）、[[アルベール・ラヴィニャック]]（[[ソルフェージュ]]）らに学ぶ。元々[[ピアニスト]]になるつもりで、入学当初はマルモンテルのピアノ科クラスに入り（同時にラヴィニャックのクラスに入る）、[[1873年]]の1月29日に[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|J.S.バッハ]]の『トッカータ』（BWV915）を弾いた際、「魅力的な素質」と評価されて自信を持ち、ピアニストへの道に進むことを決めたという&amp;lt;ref&amp;gt;松橋 p19&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[1874年]]に学内のコンクールにおいて[[フレデリック・ショパン|ショパン]]の[[ピアノ協奏曲第2番 (ショパン)|ピアノ協奏曲第2番]]の第1楽章を弾いて第2次席賞を獲得。翌[[1875年]]にショパンの『[[バラード第1番 (ショパン)|バラード第1番]]』で第1次席賞を得るが、[[1876年]]には獲得できなかった&amp;lt;ref&amp;gt;演奏曲目は[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の『[[ピアノソナタ第23番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第23番]]』の第1楽章。&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[1877年]]には[[ロベルト・シューマン|シューマン]]の『[[ピアノソナタ第2番 (シューマン)|ピアノソナタ第2番]]』（第1楽章）で再び第2次席賞を獲るが、[[1878年]]と[[1879年]]は2年続けて賞が取れずに失敗し、これによってピアニストになることを諦める決心をした。この失敗を知った両親は落胆し、特に母親ヴィクトリーヌ・マヌリは「落伍者」と呼び、さらには「こんな汚辱の子を育てるより、蝮を生んだ方がましだった」と言い放ったという&amp;lt;ref&amp;gt;ゴレア p15&amp;lt;/ref&amp;gt;。結局ピアノで賞を得ることができず（1位入賞を目標にしていたため）、その年にピアノ科を去り、10月にバジュ（バズィーユ）のピアノ伴奏法のクラスに入る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方でドビュッシーは作曲にも挑戦している。[[1878年]]にピアノ曲『フーガ』（L番号なし）を作曲し、これは現存するドビュッシーの最古の作品とされている。[[1879年]]に歌曲『月に寄せるバラード』（L.1）と『マドリード』（L.2）を作曲する（ただし79年の2つの歌曲は紛失）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1880年]]7月、18歳のドビュッシーは[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]の[[パトロン]]であった[[ナジェジダ・フォン・メック|フォン・メック夫人]]の長期旅行にピアニストとして同伴し、『ピアノ三重奏曲』（L.3）や『交響曲 ロ短調』（L.10）の断片を作曲した。また、『ボヘミア舞曲』（L.9）という小品を夫人の計らいでチャイコフスキーへ送るが、酷評を受けた（出版はドビュッシーの死後）。メック夫人を通して、チャイコフスキーの当時の最新作であった[[交響曲第4番 (チャイコフスキー)|交響曲第4番]]（[[1877年]]）などのロシアの作品も勉強しており、この経験が元でチャイコフスキーや[[ロシア5人組]]に影響を受ける。また貴族趣味も芽生えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パリに戻ったのち、この年の12月24日にギローのクラスに入る（当初[[ジュール・マスネ|マスネ]]に師事するつもりでいた）。また[[セザール・フランク]]のオルガンのクラスに顔を出しているが、オルガンにおける「執拗な灰色の色調」に嫌気が差したためにわずか半年でクラスから逃げるように立ち去っている&amp;lt;ref&amp;gt;松橋 p25&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1882年]]に歌曲『星の輝く夜』（L.4）を出版する。また10作以上の歌曲を作曲する。この年の5月にローマ賞に挑戦するも、予選落ちに終わる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:Claude Debussy by Marcel Baschet 1884.jpg|thumb|160px|left|1884年の肖像画]]&lt;br /&gt;
[[1883年]]5月、2回目となるローマ賞に挑戦し、『祈り』（L.40）で予選を通過。カンタータ『剣闘士』（L.41）本選の第2等賞を獲得する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1884年]]に3回目となるローマ賞に挑戦し、カンタータ『春』（L.56）で予選を通過、[[カンタータ]]『放蕩息子』（L.57）で[[ローマ大賞]]を受賞する。審査員の中には[[シャルル・グノー|グノー]]や[[カミーユ・サン＝サーンス|サン=サーンス]]もいた。&lt;br /&gt;
翌[[1885年]]から[[1887年]]にかけて[[イタリア]]の[[ローマ]]へと留学したものの、あまりイタリアの雰囲気には馴染めず、ローマ大賞受賞者に与えられる期間を繰り上げてパリに戻った。これにはヴァニエ夫人という意中の人がいたためとも言われる。このヴァニエ夫人のために書かれたいくつかの歌曲のうち[[ポール・ヴェルレーヌ]]の「[[艶なる宴]]」に基づくものは後に『艶なる宴』（全2集）としてまとめられた。&lt;br /&gt;
またローマに留学していた頃に生み出された作品は、いくつかの歌曲や交響組曲『春』、合唱と管弦楽のための『ツライマ（ズレイマ）』（L.59、後に破棄されて現存しない）である（なおローマからパリへ帰郷してから作られた作品はカンタータ『選ばれた乙女』や『ピアノと管弦楽のための幻想曲』）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1888年]]の夏、銀行家のエティエンヌ・デュパンの支援によって念願であった[[バイロイト]]へ初めて行き、同地で『[[ニュルンベルクのマイスタージンガー]]』と『[[パルジファル]]』を聴く。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中期 ===&lt;br /&gt;
[[1889年]]は27歳のドビュッシーにとって大きな転機の年となる。1月には[[国民音楽協会]]に入会して[[エルネスト・ショーソン]]らと知り合い、新たな人脈と発表の場を得た。6月に[[パリ万国博覧会 (1889年)|パリ万国博覧会]]でジャワ音楽（[[ガムラン]]）を耳にしたことは、その後の彼の音楽に大きな影響を与え、その後2度目に訪れた[[バイロイト音楽祭]]では[[ワグネリズム]]の限界を感じ、これを境にアンチ・ワグネリアンを標榜することになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1890年]]の28歳のとき、名前を「&#039;&#039;&#039;アシル=クロード&#039;&#039;&#039;」から「&#039;&#039;&#039;クロード=アシル&#039;&#039;&#039;」に変えた。&lt;br /&gt;
[[1893年]]4月、『選ばれた乙女』、が国民音楽協会の演奏会で初演され、その後同協会の運営委員にも選出された。また12月29日に『[[弦楽四重奏曲 (ドビュッシー)|弦楽四重奏曲]]』がイザイ弦楽四重奏団によって初演されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1894年]]3月、テレーゼ・ロジェと婚約するがガブリエル・デュポン（愛称ギャビー）の知るところとなり破談。この出来事でショーソンと疎遠になり、ショーソンが[[1899年]]6月に事故で没したときにも葬儀に参列しなかった。12月22日に『[[牧神の午後への前奏曲]]』が初演。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1900年代]]に入ると、『[[ビリティスの歌]]』（[[1900年]]）、『[[夜想曲 (ドビュッシー)|夜想曲]]』（1900年）、『[[版画 (ドビュッシー)|版画]]』（[[1904年]]）などが初演された。また、オペラ『[[ペレアスとメリザンド (ドビュッシー)|ペレアスとメリザンド]]』が完成し、[[1902年]]に初演され大きな成功を収めた。これらの一連の作品で成功したドビュッシーは作曲家としてのキャリアを確実なものとした。[[1903年]]には[[レジオンドヌール勲章|レジオン・ドヌール五等勲章]]を受勲している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1913年]]、バレエ音楽『遊戯』が完成し同年に[[ピエール・モントゥー]]によって初演され、夏に『おもちゃ箱』の作曲に着手する（管弦楽化は[[アンドレ・カプレ]]と協力）。12月、[[モスクワ]]とペテルブルクに演奏旅行に行く（クーセヴィツキーとジロティの要請による）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 晩年 ===&lt;br /&gt;
[[1914年]]、[[第一次世界大戦]]が勃発してエンマの息子などが兵士として動員されたことを受けて、戦争を恐れるようになっていたドビュッシーは、9月に家族とともにアンジェに避難したが、1か月後にパリへと戻る。この時すでにドビュッシーの身体は病に侵されており、大腸癌を発病していた。この頃から「様々な楽器のための6つのソナタ」に着手するも、完成したのは3曲のみであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1915年]]、『[[練習曲 (ドビュッシー)|12の練習曲]]』や『[[ビリティスの歌|6つの古代碑銘]]』などを生み出す。3月23日に母が死去、同じ頃にエンマの母もこの世を去っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1916年]]は『ヴァイオリンソナタ』の構想や、未完に終わったオペラ『アッシャー家の崩壊』の台本（決定稿）の作成に取り掛かる。またこの年には2台ピアノのための『[[白と黒で]]』や『[[チェロソナタ (ドビュッシー)|チェロソナタ]]』などを含む4つの作品が初演されている。私生活では、離婚した元妻のリリー（マリ・ロザリー・テクシエ）に対する月手当ての支払いが1910年以来ため、裁判所から3万フランの[[供託金]]の支払いを命令されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1917年]]7月、一家は[[スペイン]]の国境付近の[[サン＝ジャン＝ド＝リュズ]]に3か月滞在する。この地は保養地として有名であったため多くの著名人がこの地に訪れている。ドビュッシーは同地で自作の『[[ヴァイオリンソナタ (ドビュッシー)|ヴァイオリンソナタ]]』を演奏しているが、これが生涯最後の公開演奏となった。この時期に計画していた残りのソナタと[[ピアノ協奏曲]]の作曲を想起していたが、これらの作品はいずれも実現せずに終わっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1918年]]初旬、病により床から離れなくなり、[[3月25日]]の夕方に静かに息を引き取る。葬儀は29日に行われ、遺体はパッシーの墓地に埋葬された（埋葬は翌年のことで、前年は仮に安置されていた）。またドビュッシーが没した翌年の[[1919年]]に娘クロード=エマがジフテリアによる髄膜炎によって夭逝、妻エンマは16年後の[[1934年]]に世を去った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 年譜 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Twenty franc banknote claude debussy.JPG|thumb|240px|right|フランスの紙幣（1997）]]&lt;br /&gt;
* [[1862年]] - 8月22日 誕生。&lt;br /&gt;
* [[1871年]] - この年から3年ほど、モーテ・ド・フルールヴィル夫人にピアノのレッスンを受ける。&lt;br /&gt;
*[[1872年]] - [[パリ国立高等音楽・舞踊学校|パリ音楽院]]入学。以後12年在籍。ピアノを[[アントワーヌ・マルモンテル|マルモンテル]]、[[ソルフェージュ]]を[[アルベール・ラヴィニャック|ラヴィニャック]]、和声学をデュラン、作曲法を[[エルネスト・ギロー|ギロー]]に師事。&lt;br /&gt;
*[[1880年]] - [[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]のパトロンであった[[ナジェジダ・フォン・メック|フォン・メック夫人]]の長期旅行にピアニストとして同伴。&lt;br /&gt;
*[[1884年]] - [[ローマ大賞]]を受賞。&lt;br /&gt;
*[[1885年]] - ローマに滞在。&lt;br /&gt;
*[[1887年]] - パリに戻る。&lt;br /&gt;
*[[1888年]] - 1度目の[[バイロイト音楽祭|バイロイト]]行き。&lt;br /&gt;
*[[1889年]] - [[パリ万国博覧会 (1889年)|パリ万国博覧会]]で東洋芸術に接触、2度目のバイロイト行き。&lt;br /&gt;
*[[1890年]] - 名前を「&#039;&#039;&#039;アシル=クロード&#039;&#039;&#039;」から「&#039;&#039;&#039;クロード=アシル&#039;&#039;&#039;」に変える。『[[ベルガマスク組曲]]』。&lt;br /&gt;
*[[1891年]] -『[[2つのアラベスク]]』。この頃、初期のピアノ小品や歌曲を多く手がける。&lt;br /&gt;
*[[1893年]] - [[モーリス・メーテルリンク|メーテルリンク]]の戯曲「[[ペレアスとメリザンド]]」に出会う。&lt;br /&gt;
*[[1894年]] - 『[[牧神の午後への前奏曲]]』。&lt;br /&gt;
*[[1899年]] - リリー・テクシエと最初の結婚。&lt;br /&gt;
*[[1902年]] - 『[[ペレアスとメリザンド (ドビュッシー)|ペレアスとメリザンド]]』初演。&lt;br /&gt;
*[[1905年]] - 『[[海 (ドビュッシー)|海]]』、[[エンマ・バルダック]]と同棲。長女クロード＝エンマ（シュウシュウ）誕生。&lt;br /&gt;
*[[1910年]] - 『[[前奏曲 (ドビュッシー)|前奏曲集 第1集]]』。&lt;br /&gt;
*[[1911年]] - 舞台音楽劇『[[聖セバスティアンの殉教]]』。&lt;br /&gt;
*[[1913年]] - バレエ音楽『[[遊戯 (ドビュッシー)|遊戯]]』。[[バレエ・リュス]]のために作曲。&lt;br /&gt;
*[[1914年]] - [[第一次世界大戦]]勃発、[[大腸癌]]を発病。「様々な楽器のための6つのソナタ」着手（完成は3曲）。&lt;br /&gt;
*[[1918年]] - [[3月25日]]夕方 死去。&lt;br /&gt;
*[[1919年]] - 娘クロード＝エマ死去。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 家族 ==&lt;br /&gt;
*父親:マニュエル=アシル・ドビュッシー（&#039;&#039;Manuel-Achille Debussy&#039;&#039;,1836年 - 1910年）&lt;br /&gt;
:モンルージュ（パリの南郊）で生まれ、陶器商を経営していた。&lt;br /&gt;
*母親:ヴィクトリーヌ・マヌリ・ドビュッシー（&#039;&#039;Victorine Manoury Debussy&#039;&#039;,1836年 - 1915年）&lt;br /&gt;
:車大工の父親と料理人の母親との間に生まれる。&lt;br /&gt;
*伯母:クレマンティーヌ・ドビュッシー（&#039;&#039;Clémentine Debussy&#039;&#039;,1835年 - 1874年）&lt;br /&gt;
:マニュエル=アシルの姉。クロードが洗礼の際、代母として名付けを担当した。&lt;br /&gt;
*第1弟:エマニュエル・ドビュッシー（&#039;&#039;Emmanuel Debussy&#039;&#039;,1867年 - 1937年）&lt;br /&gt;
*第2弟:アルフレッド・ドビュッシー（&#039;&#039;Alfred Debussy&#039;&#039;,1870年 - ?）&lt;br /&gt;
*第3弟:ウジェーヌ=オクターヴ・ドビュッシー（&#039;&#039;Eugène-Octave Debussy&#039;&#039;,1873年 - 1877年）&lt;br /&gt;
:末弟だが髄膜炎のため4歳で夭逝。&lt;br /&gt;
*第1妹:アデール・ドビュッシー（&#039;&#039;Adèle Debussy&#039;&#039;,1863年 - 1952年）&lt;br /&gt;
:弟妹の中では長く生きた人物。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3人の弟については資料の少なさゆえに詳細は不明であるが、妹アデールは2つの世界大戦を生き抜いた唯一の人物である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物 ==&lt;br /&gt;
気難しい性格で、内向的かつ非社交的であった。音楽院に入学してからは伝統を破壊しかねない言動（不平不満や文句）をしていたため、ギローなど担当教師らを困らせていた。その性格に依るところがあるせいか、女性関係においてのトラブルも絶えなかった。元々18歳より弁護士の人妻マリー=ブランシュ・ヴァニエ夫人（Marie-Blanche Vasnier）と8年間の情事のあと別れ、1889年から（Rue Gustave Doré）にて同棲を続けていたガブリエル・デュポン（愛称ギャビー）とは、自殺未遂騒動の末に[[1898年]]に破局を迎えた。同じ頃、ソプラノ歌手のテレーゼ・ロジェ（&#039;&#039;Thérèse Roger&#039;&#039;）とも情通している。翌年にはギャビーの友人であるマリ・ロザリー・テクシエ（愛称リリー）と結婚するが、1904年頃から、教え子の母親、銀行家の人妻である[[エンマ・バルダック]]と不倫関係になり、リリーは[[コンコルド広場]]で胸を銃で撃ち自殺未遂となり、離婚する（1905年）。この事件がもとで、ドビュッシーはすでに彼の子を身ごもっていたエンマとともに一時イギリスに逃避行することとなり、友人の多くを失うこととなる。長女クロード＝エンマ（愛称シュシュ）の出産に際しパリに戻り、エンマと同棲した（1908年に結婚）。シュシュはドビュッシーに溺愛され『[[子供の領分]]』を献呈された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同じ印象派の作曲家とされることが多い[[モーリス・ラヴェル]]は、『ペレアスとメリザンド』に対しては彼が所属するグループ「[[アパッシュ (芸術サークル)|アパッシュ]]」のメンバーとともに積極的に支持したが、『版画』の第2曲「グラナダの夕暮れ」が、彼が1895年に作曲した2台ピアノのための「ハバネラ」（後の『[[スペイン狂詩曲 (ラヴェル)|スペイン狂詩曲]]』の第3曲）と類似しているとしてドビュッシーに反発し、以来両者は疎遠となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 作品と表現 ==&lt;br /&gt;
初期の作品である[[カンタータ]]『[[選ばれた乙女]]』（[[1888年]]）や『ボードレールの5つの詩』（[[1889年]]）までは[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の影響を見ることができる。しかしこの辺りの作品、特に[[ポール・ヴェルレーヌ|ヴェルレーヌ]]と出会って以降の3つの歌曲、『忘れられた小歌』、『華やかな饗宴』第1集などでは、より明確に独自の書法へと変化していった。[[弦楽四重奏曲 (ドビュッシー)|弦楽四重奏曲]]ト短調（[[1893年]]）においては[[フリギア旋法]]だけではなく、様々な[[教会旋法]]を使用している。なかでも『[[牧神の午後への前奏曲]]』（[[1894年]]）、[[モーリス・メーテルリンク|メーテルリンク]]の戯曲による[[オペラ]]『[[ペレアスとメリザンド (ドビュッシー)|ペレアスとメリザンド]]』（1893年頃着手し、完成は[[1902年]]）など同時代の作品から現れた[[全音音階]]の使用は、その後の独特の[[ハーモニー]]の基盤ともなっている。また、これらの作品は規則的な律動にとらわれない書法の先駆けでもあり、それまでの[[西洋音楽]]の概念からは異色ともいえるものだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 印象主義音楽 ===&lt;br /&gt;
ドビュッシーの音楽は[[印象主義音楽]]と俗に呼ばれている。[[印象派]]（ないし印象主義）という表現はもともと、1874年に最初の展覧会を開催した新進画家グループ（[[クロード・モネ|モネ]]、[[エドガー・ドガ|ドガ]]、[[ポール・セザンヌ|セザンヌ]]ら）に共通していた表現様式に対する揶揄表現が定着したものであり、音楽における《印象主義》も、若手作曲家の作品への揶揄の意味合いを込めて用いられた表現である。ドビュッシー自身も、出版社のデュランに宛てた書簡（1908年3月）の中で、この用語に対して否定的な見解を示した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主な作品 ==&lt;br /&gt;
{{Main|ドビュッシーの楽曲一覧}}&lt;br /&gt;
=== ピアノ曲 ===&lt;br /&gt;
* フーガ（16歳の時に作曲された現存する最初の作品。[[1999年]][[ウィーン]]の国立図書館で発見） - 1878年&lt;br /&gt;
* ボヘミア舞曲 (Danse bohémienne)（18歳の時の作品。[[ナジェジダ・フォン・メック|フォン・メック夫人]]のはからいで[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]に送ったが、未熟だと酷評された。死後発見） - 1880年&lt;br /&gt;
* [[2つのアラベスク]] (2 Arabesques) - 1888年~1891年&lt;br /&gt;
* 舞曲（[[シュタイアーマルク州|スティリー]]風タランテラ）(Danse, Tarantelle styrienne)（後に[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]が管弦楽に編曲）- 1890年&lt;br /&gt;
* [[夢想 (ドビュッシー)|夢想]] (Rêverie) - 1890年&lt;br /&gt;
* ロマンティックなワルツ (Valse romantique) - 1890年&lt;br /&gt;
* マズルカ (Mazurka) - 1890年&lt;br /&gt;
* バラード (Ballade) - 1890年&lt;br /&gt;
* [[ベルガマスク組曲]] (Suite Bergamasque) - 1890年&lt;br /&gt;
**前奏曲 (Préludes)&lt;br /&gt;
**メヌエット (Menuet)&lt;br /&gt;
**月の光 (Clair de lune)（ドビュッシーの曲の中で最もポピュラーな曲の1つ）&lt;br /&gt;
**パスピエ (Passepied)&lt;br /&gt;
*[[映像 (ドビュッシー)|忘れられた映像]] (Images oubliées)（死後発見、標題はドビュッシーが付けたものではない） - 1894年&lt;br /&gt;
**レント（憂うつに、そしてやさしく） (Lent (mélancolique et doux))&lt;br /&gt;
**ルーヴルの思い出 (Souvenir du Louvre)（後に『ピアノのために』第2曲「サラバンド」に改作）&lt;br /&gt;
**「もう森には行かない」の諸相 (Quelques aspects de &amp;quot;Nous n&#039;irons plus au bois&amp;quot;) （『版画』第3曲「雨の庭」の前身。「（いやな天気だから）もう森へは行かない」はフランスの童謡。ドビュッシーはこの「諸相」、「雨の庭」、歌曲「眠りの森の美女」、「管弦楽のための映像・第3曲『春のロンド』」の合計4曲でこの童謡を用いている） &lt;br /&gt;
*[[ピアノのために]] (Pour le piano) - 1896年、1896年 - 1901年&lt;br /&gt;
**前奏曲 (Prélude)&lt;br /&gt;
**サラバンド (Sarabande)&lt;br /&gt;
**トッカータ (Toccata)&lt;br /&gt;
*[[版画_(ドビュッシー)|版画]] (Estampes) - 1903年&lt;br /&gt;
**塔 (Pagodes)（「[[パゴダ]]」は仏教の宝塔を指す）&lt;br /&gt;
**グラナダの夕暮れ (La soirée dans Grenade)&lt;br /&gt;
**雨の庭 (Jardins sous la pluie)&lt;br /&gt;
*[[喜びの島]] (L&#039;Isle Joyeuse) （作曲者監修のもと、イタリアの指揮者[[ベルナルディーノ・モリナーリ]]([[:w:Bernardino Molinari|Bernardino Molinari]])により管弦楽用に編曲されている） - 1904年&lt;br /&gt;
*仮面 (Masques) - 1904年&lt;br /&gt;
*[[映像 (ドビュッシー)|映像 第1集]] (Images) - 1905年&lt;br /&gt;
**水の反映（水に映る影） (Reflets dans l&#039;eau)&lt;br /&gt;
**ラモー礼讃（「ラモーをたたえて」とも） (Hommage à Rameau)&lt;br /&gt;
**運動 (Mouvement)&lt;br /&gt;
*[[映像 (ドビュッシー)|映像 第2集]] - 1907年&lt;br /&gt;
**葉ずえを渡る鐘　(Cloches à travers les feuilles) &lt;br /&gt;
**荒れた寺にかかる月 (Et la lune descend sur le temple qui fut) &lt;br /&gt;
**金色の魚　(Poissons d&#039;or)&lt;br /&gt;
*[[子供の領分]] (Children&#039;s Corner - Petite suite pour piano seul)（娘のクロード・エマのために作曲されたもの） - 1906年 - 1908年&lt;br /&gt;
**グラドゥス・アド・パルナッスム博士 (Doctor Gradus ad Parnassum)&lt;br /&gt;
**象の子守唄 (Jimbo&#039;s lullaby)&lt;br /&gt;
**人形へのセレナード (Serenade of the doll)&lt;br /&gt;
**雪が踊っている (The snow is dancing)&lt;br /&gt;
**小さな羊飼い (The little shepherd)&lt;br /&gt;
**ゴリウォーグのケークウォーク (Golliwogg&#039;s Cake-Walk)&lt;br /&gt;
*[[レントより遅く]] (La plus que lente (Valse)) - 1910年&lt;br /&gt;
*2つの[[前奏曲 (ドビュッシー)|前奏曲集]]&lt;br /&gt;
**前奏曲集 第1巻 (Préludes 1) - 1909年 - 1910年&lt;br /&gt;
**:以下の曲名は一般の曲の曲名とは違い、各曲の最後に小さく記されている。&lt;br /&gt;
***デルフィの舞姫 (...Danseuses de Delphes)&lt;br /&gt;
***ヴェール (...Voiles) （「帆」とも訳される）&lt;br /&gt;
***野を渡る風 (...Le vent dans la plaine)&lt;br /&gt;
***音と香りは夕暮れの大気に漂う (...Les sons et les parfums tournent dans l&#039;air du soir)&lt;br /&gt;
***アナカプリの丘 (...Les collines d&#039;Anacapri)&lt;br /&gt;
***雪の上の足跡 (...Des pas sur la neige)&lt;br /&gt;
***西風の見たもの (...Ce qu&#039;a vu le vent d&#039;ouest)&lt;br /&gt;
***亜麻色の髪の乙女 (...La fille aux cheveux de lin)&lt;br /&gt;
***とだえたセレナード (...La sérénade interrompue)&lt;br /&gt;
***沈める寺 (...La cathédrale engloutie)&lt;br /&gt;
***パックの踊り (...La danse de Puck)&lt;br /&gt;
***ミンストレルズ (...Minstrels)&lt;br /&gt;
**前奏曲集 第2巻 (Préludes 2) - 1910年 - 1913年&lt;br /&gt;
***霧 (...Brouillards)&lt;br /&gt;
***枯葉 (...Feuilles mortes)&lt;br /&gt;
***ヴィーノの門 (...La Puerta del Vino)&lt;br /&gt;
***妖精たちはあでやかな踊り子 (...Les fées sont d&#039;exquises danseuses)&lt;br /&gt;
***ヒースの荒野 (...Bruyères)&lt;br /&gt;
***風変わりなラヴィーヌ将軍 (...Général Lavine - excentric)&lt;br /&gt;
***月の光が降り注ぐテラス (...La terrasse des audiences du clair de lune)&lt;br /&gt;
***水の精 (...Ondine)&lt;br /&gt;
***ピクウィック殿をたたえて (...Hommage à S. Pickwwick Esq. P.P.M.P.C.)&lt;br /&gt;
***カノープ (...Canope)&lt;br /&gt;
***交代する三度 (...Les tierces alternées)&lt;br /&gt;
***花火 (...Feux d&#039;artifice)&lt;br /&gt;
*[[英雄的な子守歌]]　(Berceuse heroïque pour rendre hommage à S.M. le Roi Albert I&amp;lt;sup&amp;gt;er&amp;lt;/sup&amp;gt; de Belgique et à ses soldats) - 1914年（同年12月に管弦楽曲に編曲）&lt;br /&gt;
**第一次世界大戦時、侵攻したドイツ軍に対して抵抗したベルギーの国王[[アルベール1世 (ベルギー王)|アルベール1世]]に献呈。&lt;br /&gt;
*[[練習曲 (ドビュッシー)|12の練習曲]] (12 Études) 作曲者による運指がないことで知られる - 1913年 - 1915年&lt;br /&gt;
**五本の指のための、ツェルニー氏による (Pour les cinq doigts, après M. Czerny)&lt;br /&gt;
**三度のための (Pour les tièrces)&lt;br /&gt;
**四度のための (Pour les quartes)&lt;br /&gt;
**六度のための (Pour les sixtes)&lt;br /&gt;
**オクターブのための (Pour les octaves)&lt;br /&gt;
**八本の指のための (Pour les huit doigts)&lt;br /&gt;
**半音階のための (Pour les degrés chromatiques)&lt;br /&gt;
**装飾音のための (Pour les agréments)&lt;br /&gt;
**反復音のための (Pour les notes répétées)&lt;br /&gt;
**対比的な響きのための (Pour les sonorités opposées)&lt;br /&gt;
**組み合わされたアルペジオのための (Pour les arpeges composés)&lt;br /&gt;
***別版あり。&lt;br /&gt;
**和音のための (Pour les accords)&lt;br /&gt;
*負傷者の服のための小品 (Pièce pour le vêtement du blessé) - 1915年&lt;br /&gt;
*:1933年、「アルバムのページ (Page d&#039;album)」の名で出版。&lt;br /&gt;
*エレジー (Élégie) - 1915年&lt;br /&gt;
*燃える炭火に照らされた夕べ (Les soirs illuminés par l&#039;ardeur du charbon) - 1917年&lt;br /&gt;
**遺作。表題は[[シャルル・ボードレール|ボードレール]]の『[[悪の華]]』の「露台」 (Le Balcon) の一節。第一次世界大戦による物資不足の中で石炭を送ってくれた石炭商に頼まれて作曲。[[2001年]]に発見。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===2台ピアノ・4手連弾のための曲===&lt;br /&gt;
*交響曲 ロ短調 （少年期の習作。第1楽章の4手連弾のみ現存） - 1880年 - 1881年&lt;br /&gt;
*[[小組曲 (ドビュッシー)|小組曲]] (Petite suite) 4手連弾。[[アンリ・ビュッセル|ビュッセル]]による管弦楽編曲版で有名。 - 1886年 - 1889年&lt;br /&gt;
**小舟にて (En Bateau)&lt;br /&gt;
**行列 (Cortège)&lt;br /&gt;
**メヌエット (Menuet)&lt;br /&gt;
**バレエ (Ballet)&lt;br /&gt;
*[[スコットランド風行進曲]] (Marche écossaise sur un thème populaire) - 1891年（1908年に管弦楽版に編曲）&lt;br /&gt;
*6つの古代の墓碑銘 (6 Epigraphes antiques) 4手連弾。『[[ビリティスの歌]]』の1、7、3、10、8、12曲目より編曲。独奏版もあり。[[エルネスト・アンセルメ|アンセルメ]]による管弦楽編曲版もある。 - 1914年 &lt;br /&gt;
**夏の風の神、パンに祈るために (Pour invoquer Pan, dieu du vent d&#039;été)&lt;br /&gt;
**無名の墓のために (Pour un tombeau sans nom)&lt;br /&gt;
**夜が幸いであるために (Pour que la nuit soit propice)&lt;br /&gt;
**カスタネットを持つ舞姫のために (Pour la danseuse aux crotales)&lt;br /&gt;
**エジプト女のために (Pour l&#039;Égyptienne)&lt;br /&gt;
**朝の雨に感謝するために (Pour remercier la pluie au matin)&lt;br /&gt;
*[[リンダラハ]] (Lindaraja) 2台ピアノ。 - 1901年&lt;br /&gt;
*[[白と黒で]] (En blanc et noir) 2台ピアノ。 - 1915年&lt;br /&gt;
**情熱に駆られて (Avec emportement)&lt;br /&gt;
**緩やかにそして控えめに (Lent et sombre)&amp;lt;!--sombreはうまい訳語がないので意訳--&amp;gt;&lt;br /&gt;
**スケルツァンド (Scherzando)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===管弦楽曲・協奏曲===&lt;br /&gt;
*[[春 (ドビュッシー)|交響組曲『春』]] (Suite symphonique &#039;Printemps&#039;) - 1886年 - 1887年&lt;br /&gt;
*:最初の版には女声合唱があったが火事で焼失した。1913年にビュッセルによって再度[[管弦楽法|オーケストレーション]]（管弦楽のみ）が行われる。&lt;br /&gt;
*[[ピアノと管弦楽のための幻想曲]] (Fantaisie pour piano et orchestre) - 1889年 - 1891年&lt;br /&gt;
*:作曲者がリハーサルの段階で楽譜を差し止めたため、死後初演。&lt;br /&gt;
*[[神聖な舞曲と世俗的な舞曲]] (Danse sacrée et danse profane) - 1904年&lt;br /&gt;
*:独奏ハープと弦楽合奏のための曲。&lt;br /&gt;
*[[第1狂詩曲_(ドビュッシー)|クラリネットと管弦楽のための第1狂詩曲]] (I&amp;lt;sup&amp;gt;er&amp;lt;/sup&amp;gt; Rhapsodie pour orchestre avec clarinette principale) - 1909年 - 1910年&lt;br /&gt;
*:「クラリネットとピアノのための第1狂詩曲」を編曲。&lt;br /&gt;
* [[サクソフォーンと管弦楽のための狂詩曲]] (Rhapsodie pour orchestre et saxophone) - 1901年 - 1908年&lt;br /&gt;
*:作曲者の死後の1919年に[[ジャン・ロジェ＝デュカス|ロジェ＝デュカス]]によって管弦楽編曲が行われた。&lt;br /&gt;
* [[牧神の午後への前奏曲]] (Prélude à l&#039;Après-midi d&#039;un faune) - 1892年 - 1894年&lt;br /&gt;
* [[夜想曲 (ドビュッシー)|夜想曲]] (Nocturnes) - 1897年 - 1899年&lt;br /&gt;
** 雲 (Nuages)&lt;br /&gt;
** 祭 (Fêtes)&lt;br /&gt;
** シレーヌ (Sirènes)&lt;br /&gt;
** :第3曲には女性コーラス（歌詞なし）が入る&lt;br /&gt;
* [[海 (ドビュッシー)|交響詩『海』]] (La Mer) - 1903年 - 1905年&lt;br /&gt;
** 海上の夜明けから正午まで (De l&#039;aube à midi sur la mer)&lt;br /&gt;
** 波の戯れ (Jeux de vagues)&lt;br /&gt;
** 風と海との対話 (Dialogue du vent et de la mer)&lt;br /&gt;
* [[映像 (ドビュッシー)|管弦楽のための映像]] (Images pour orchestre) - 1905年 - 1912年&lt;br /&gt;
** ジーグ (Gigues)&lt;br /&gt;
** イベリア (Ibéria)&lt;br /&gt;
*** 街の道から田舎の道から (Par les rues et par les chemins)&lt;br /&gt;
*** 夜の薫り (Les parfums de la nuit)&lt;br /&gt;
*** 祭りの日の朝 (Le matin d&#039;un jour de fête)&lt;br /&gt;
** 春のロンド (Rondes de printemps)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 室内楽曲 ===&lt;br /&gt;
* [[ピアノ三重奏曲 (ドビュッシー)|ピアノ三重奏曲]]（18歳の時、[[ナジェジダ・フォン・メック|フォン・メック夫人]]の元で書かれた曲） - 1879年 - 1880年&lt;br /&gt;
* [[弦楽四重奏曲 (ドビュッシー)|弦楽四重奏曲]] - 1893年&lt;br /&gt;
**活気をもって、決然と (Animé et très décidé)&lt;br /&gt;
** 十分生き生きと、きわめてリズミカルに (Assez vif et bien rythmé)&lt;br /&gt;
** アンダンティーノ、おだやかに、表情豊かに (Andantino, doucement expressif)&lt;br /&gt;
** 非常にゆっくりと (Très modéré - Très mouvementé - Très animé)&lt;br /&gt;
* [[第1狂詩曲 (ドビュッシー)#クラリネットとピアノのための小品|クラリネットとピアノのための小品]] (Petite pièce pour clarinette et piano) - 1910年&lt;br /&gt;
* [[ビリティスの歌]] (Chansons de Bilitis) - 1900年 - 1901年&lt;br /&gt;
*: パントマイムと詩の朗読のための付随音楽。編成は2フルート、2ハープ、チェレスタ。&lt;br /&gt;
* [[フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ]] (Sonate pour flûte, alto et harpe) - 1915年&lt;br /&gt;
* [[チェロソナタ (ドビュッシー)|チェロ・ソナタ]] (Sonate pour violoncelle et piano) - 1915年&lt;br /&gt;
* [[ヴァイオリンソナタ (ドビュッシー)|ヴァイオリン・ソナタ]] (Sonate pour violon et piano) - 1916年 - 1917年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== バレエ音楽 ===&lt;br /&gt;
* [[遊戯_(ドビュッシー)|遊戯]] (Jeux) - 1912年 - 1913年&lt;br /&gt;
*: 1幕。[[ヴァーツラフ・ニジンスキー|ニジンスキー]]台本。&lt;br /&gt;
* [[カンマ_(ドビュッシー)|カンマ]] (Khamma) - 1912年&lt;br /&gt;
*: 3幕。ピアノ譜のみ。オーケストレーションは[[シャルル・ケクラン]]による。&lt;br /&gt;
* [[おもちゃ箱_(ドビュッシー)|おもちゃ箱]] (La boîte à joujoux) - 1913年&lt;br /&gt;
*: 4場の子供用バレエ。ピアノ譜のみ。オーケストレーションは[[アンドレ・カプレ]]による。&lt;br /&gt;
*: プロローグ - おもちゃ箱 - 戦場 - 売られる羊小屋 - お金持ちになってから - エピローグ&lt;br /&gt;
* 沈黙の宮殿 (Le palais du silence) - 1914年&lt;br /&gt;
*: 1幕。前奏曲と第1場の初めの草稿のみ現存。のちに「ノ・ジャ・リ」と変更した。ドビュッシーはこの作品を期日までに仕上げる事ができなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 歌曲 ===&lt;br /&gt;
（カッコ内は詩人）&lt;br /&gt;
* 麦の花（Fleur des blés [[アンドレ・ジロー]]） - 1878年&lt;br /&gt;
* 美しき夕暮れ（Beau soir {{仮リンク|ポール・ブルジェ|fr|Paul Bourget}}） - 1880年&lt;br /&gt;
* 星の夜（Nuits d&#039;étoiles [[テオドール・ド・バンヴィル]]） - 1880年&lt;br /&gt;
* 中国風のロンデル（Rondel chinois 作者不詳） - 1880年&lt;br /&gt;
* 西風（Zéphyr [[テオドール・ド・バンヴィル]]） - 1881年&lt;br /&gt;
* ピエロ（Pierrot [[テオドール・ド・バンヴィル]]） - 1881年&lt;br /&gt;
* 愛し合い、そして眠ろう（Aimons-nous et dormons [[テオドール・ド・バンヴィル]]） - 1881年&lt;br /&gt;
* ジャヌ（ジェイン）（Jane [[ルコント・ド・リール]]） - 1881年&lt;br /&gt;
* マンドリン（Mandoline [[ポール・ヴェルレーヌ]]） - 1882年&lt;br /&gt;
* 華やかな宴（Fête galante [[テオドール・ド・バンヴィル]]） - 1882年（メロディは後に『小組曲』の「メヌエット」に流用）&lt;br /&gt;
* ロンドー（Rondeau [[アルフレッド・ド・ミュッセ]]） - 1882年&lt;br /&gt;
* パントマイム（Pantomime [[ポール・ヴェルレーヌ]]） - 1882年&lt;br /&gt;
* [[月の光]]（Clair de lune [[ポール・ヴェルレーヌ]]） - 1882年。「[[艶なる宴]] 第1集」第3曲の初稿。&lt;br /&gt;
* 今はもう春（Voici que le printemps ポール・ブルジェ） - 1883年&lt;br /&gt;
* 感傷的な風景（Paysage sentimental ポール・ブルジェ） - 1883年&lt;br /&gt;
* スペインの歌 (Chanson espagnole) - 1883年。失われたとされてきたが、近年自筆譜が発見された。&lt;br /&gt;
* 顕現（Apparition [[ステファヌ・マラルメ]]） - 1884年&lt;br /&gt;
* 声をひそめて（En sourdine [[ポール・ヴェルレーヌ]]） - 「艶なる宴 第1集」第1曲の初稿。&lt;br /&gt;
* [[シャルル・ボードレール]]の5つの詩 (5 Poémes de Charles Baudelaire) - 1887年 - 1889年&lt;br /&gt;
** バルコニー (Le balcon)&lt;br /&gt;
** 夕暮れの調べ (Harmonie du soir)&lt;br /&gt;
** 噴水 (Le jet d&#039;eau)&lt;br /&gt;
** 黙想 (Recueillement)&lt;br /&gt;
** 恋人たちの死 (La mort des amants)&lt;br /&gt;
* 眠りの森の美女（La belle au bois dormant [[ヴァンサン・イスパ]]） - 1890年&lt;br /&gt;
* 2つのロマンス（2 Romances ポール・ブルジェ） - 1891年&lt;br /&gt;
** そぞろな悩める心 (L&#039;âme évaporée et souffrante)&lt;br /&gt;
** 鐘 (Les cloches)&lt;br /&gt;
* 3つの歌曲（3 Mélodies [[ポール・ヴェルレーヌ]]） - 1891年&lt;br /&gt;
** 海は美しい (La mer est plus belle)&lt;br /&gt;
** 角笛の音は (Le son du cor s&#039;affige)&lt;br /&gt;
** 羊の群れと立ち並ぶ生垣は(L&#039;échelonnement des haies)&lt;br /&gt;
*[[艶なる宴]] 第1集（Fêtes galantes 1 [[ポール・ヴェルレーヌ]]） - 1891年&lt;br /&gt;
** 声をひそめて(En sourdine)&lt;br /&gt;
** 操り人形 (Fantoches)&lt;br /&gt;
** [[月の光]] (Clair de lune)&lt;br /&gt;
* 庭の中（Dans le jardin [[ポール・グラフォレ]]） - 1891年&lt;br /&gt;
* お告げの鐘 (Les Angélus)（[[グレゴワール・ル・ロワ]]） - 1892年&lt;br /&gt;
* 叙情的散文（Proses lyriques 作曲者自身） - 1892 - 1893年&lt;br /&gt;
** 夢 (De rêve)&lt;br /&gt;
** 砂浜 (De grève)&lt;br /&gt;
** 花 (De fleurs)&lt;br /&gt;
** 夕暮れ (De soir)&lt;br /&gt;
* 忘れられたアリエッタ（Ariettes oubiées [[ポール・ヴェルレーヌ]]） - 1886年 - 1888年&lt;br /&gt;
*: 忘れられた小歌 という場合もあり&lt;br /&gt;
** やるせなく夢見る思い (Ariettes oubiées I &#039;C&#039;est l&#039;extase langoureuse&#039;)&lt;br /&gt;
** [[われの心に涙降る]]（Ariettes oubiées II &#039;Il pleure dans mon cœur&#039; [[巷に雨の降るごとく]]）&lt;br /&gt;
** 露包む川面の木々の影 (Ariettes oubiées III &#039;L&#039;ombre des arbres&#039;)&lt;br /&gt;
** ベルギーの風景「木馬」 (Paysages belges &#039;Chevaux de bois&#039;)&lt;br /&gt;
** 水彩画１「グリーン」 (Aquarelles I &#039;Green&#039;)&lt;br /&gt;
** 水彩画２「スプリーン（憂鬱）」 (Aquarelles II &#039;Spleen&#039;)&lt;br /&gt;
* [[ビリティスの歌|ビリティスの3つの歌]]（3 Chansons de Bilitis [[ピエール・ルイス]]） - 1897年 - 1898年&lt;br /&gt;
** パンの笛 (La flûte de Pan)&lt;br /&gt;
** 髪 (La chevelure)&lt;br /&gt;
** 水の精の墓 (Le tombeau des naïades)&lt;br /&gt;
* 眠れぬ夜 (Nuits blanches 作曲家自身) - 1899年 - 1902年。全5曲を構想していたが未完に終わった。&lt;br /&gt;
** 終わりなき夜 (Nuit sans fin)&lt;br /&gt;
** 彼女がいる時に (Lorsqu&#039;elle est entrèe)&lt;br /&gt;
* [[艶なる宴]] 第2集（Fêtes galantes 2 [[ポール・ヴェルレーヌ]]） - 1904年&lt;br /&gt;
** 無邪気な人たち (Les ingénus)&lt;br /&gt;
**半獣神 (Le faune)&lt;br /&gt;
** 感傷的な対話 (Colloque sentimental)&lt;br /&gt;
* フランスの3つのシャンソン（Chansons de France[[シャルル・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|シャルル・ドルレアン]]、[[トリスタン・レルミット]]） - 1904年&lt;br /&gt;
** ロンデル - 時は脱いだよ、そのマント（Rondel – Le temps a laissié son manteau）&lt;br /&gt;
** 洞窟 (La Grotte) - 「二人の恋人の散歩道」第1曲に再収録。&lt;br /&gt;
** ロンデル - 喜びが死んでしまったから（Rondel – Pour ce que plaisance est morte）&lt;br /&gt;
*二人の恋人の散歩道（Le promenoir des deux amants [[トリスタン・レルミット]]） - 1904,1910年&lt;br /&gt;
**この暗い洞窟のほとり (Auprès de cette grotte sombre)&lt;br /&gt;
** 愛するクリメーヌよ、私の言うとおりにしておくれ (Crois mon conseil,chère Climène)&lt;br /&gt;
** 私は震える (Je tremble en voyant ton visage)&lt;br /&gt;
* [[フランソワ・ヴィヨン]]の3つのバラード (3 Ballades de François Villon) - 1910年&lt;br /&gt;
** 恋人に与えるバラード (Ballade de Villon à s&#039;amye)&lt;br /&gt;
** 聖母に祈るために母の要請で作られたヴィヨンのバラード (Ballade que feit Villon à la requeste de sa mère pour prier Nostre-Dame)&lt;br /&gt;
** パリジェンヌのバラード (Ballade des femmes de Paris)&lt;br /&gt;
* [[ステファヌ・マラルメ]]の3つの詩 (3 Poèmes de Stèphane Mallarmé) - 1913年&lt;br /&gt;
** ため息 (Soupir)&lt;br /&gt;
** 取るに足らない願い (Placet futile)&lt;br /&gt;
** 扇 (Éventail)&lt;br /&gt;
* もう家の無い子のためのクリスマス（Noël des enfants qui n&#039;ont plus de maison 作曲者自身） - 1915年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== オペラ、カンタータ、劇付随音楽 ===&lt;br /&gt;
*[[ペレアスとメリザンド (ドビュッシー)|ペレアスとメリザンド]] (Pelléas et Mélisande) - 1893年 - 1895年、1901年 - 1902年&lt;br /&gt;
*:5幕15場の[[オペラ]]。[[モーリス・メーテルリンク|メーテルランク]]の戯曲『[[ペレアスとメリザンド]]』をそのまま台本にしたもの。[[ワグネリズム]]の対極にある作品。完成したオペラはこの1作品のみ。&lt;br /&gt;
*音楽劇『[[聖セバスティアンの殉教]]』 (Le martyr de St. Sébastien [[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]) - 1911年&lt;br /&gt;
*:全曲は5幕の神秘劇。非常に大きなもので、編曲したものが演奏されることが多い。[[管弦楽法|オーケストレーション]]に[[アンドレ・カプレ]]の協力を得て完成。&lt;br /&gt;
*拳闘士 (Cantate &#039;Le gladiateur&#039;) - 1883年&lt;br /&gt;
*:[[カンタータ]]。[[ローマ大賞|ローマ大賞二席]]受賞曲。&lt;br /&gt;
*放蕩息子 (L&#039;enfant prodigue) - 1884年、1906年 - 1908年改訂&lt;br /&gt;
*:[[カンタータ]]。[[ローマ大賞]]受賞曲。&lt;br /&gt;
*[[リア王]] (King Lear) - 1904年&lt;br /&gt;
*:劇付随音楽。本来は7部からなるものであったが、作曲されたものは2曲のみである。&lt;br /&gt;
**ファンファーレ (Fanfare)&lt;br /&gt;
**リア王の眠り (Le sommeil de Lear)&lt;br /&gt;
*森のディアヌ (Diane au bois)  - 1884年 - 1886年&lt;br /&gt;
*:[[カンタータ]]。破棄され、一部のみ現存。[[ローマ大賞]]応募曲。&lt;br /&gt;
*ロドリーグとシメーヌ(Rodrigue et Chimène) - 1890年 - 1893年&lt;br /&gt;
*:未完のオペラ。[[エル・シッド]]伝説を題材とした[[カチュール・マンデス]]の台本による。台本は4幕5場だが、作曲は第3幕までの断片のみ。リチャード・ランハム・スミス（Richard Langham Smith）による補筆を[[エディソン・デニソフ]]が管弦楽化、1993年に上演。&lt;br /&gt;
*鐘楼の悪魔(Le diable dans le beffroi) - 1902年 - 1903年&lt;br /&gt;
*:未完のオペラ。[[エドガー・アラン・ポー]]の同名小説により作曲者が2幕3場の台本を作成したが、作曲は1幕分のスケッチのみ。一部が『ムジカ』誌の匿名コンクールに掲載された『ピアノのための小品』に転用。&lt;br /&gt;
*[[アッシャー家の崩壊]] (La chute de la maison Usher) - 1908年 - 1918年&lt;br /&gt;
*:未完のオペラ。[[エドガー・アラン・ポー]]の同名小説をもとにしたもの。作者自身による2幕の台本は完成したが、作曲は全曲の半分ほどに終わる(楽譜は作曲者の死後、妻が関係者に配ったため散逸)。フアン・アジェンデ＝ブリン (Juan Allende-Blin) が補完して、1977年に上演。その後、散逸していたスケッチを元にロバート・オーレッジ(Robert Orledge)が復元・補筆し、[[2006年]]に[[ブレゲンツ音楽祭]]で上演。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他の楽曲 ===&lt;br /&gt;
* [[シャルル・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|シャルル・ドルレアン]]の3つの歌 (Trois chansons de Charles d&#039;Orléans) - 1898年および1908年&lt;br /&gt;
*:唯一の無伴奏混声合唱曲。2曲目はアルト独唱を伴う（後述の録音では、独唱パートは合唱で歌われている）。&lt;br /&gt;
**神よ、なんと彼女を美しく見せ給うことか (Dieu! qu&#039;il la fait bon regarder!)&lt;br /&gt;
**タンバリンが鳴り渡る時 (Quant j&#039;ai ouy le tambourin)&lt;br /&gt;
**冬よ、お前は嫌なやつだ (Yver, vous n&#039;estes qu&#039;un villain)&lt;br /&gt;
*[[シランクス]] (Syrinx) - 1912年&lt;br /&gt;
*:無伴奏フルート独奏曲。ムーレイの戯曲「プシュケ」のために作られたもの）&lt;br /&gt;
*[[エリック・サティ|サティ]]：「[[ジムノペディ]]」第1番、第3番（管弦楽用の編曲）- 1897年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== メディア ==&lt;br /&gt;
{{multi-listen start}}&lt;br /&gt;
{{multi-listen item|filename=Debussy - Dieu qu il la fait bon regarder.ogg|title=Dieu qu&#039;il l&#039;a fait bon regarder|description=(&amp;quot;God, how He has made her good to behold&amp;quot;)|format=[[Ogg]]}}&lt;br /&gt;
{{multi-listen item|filename=Debussy - Quant jai ouy le tambourin.ogg|title=Quant j&#039;ai ouy le tambourin|description=(&amp;quot;When I heard the tambourine&amp;quot;)|format=[[Ogg]]}}&lt;br /&gt;
{{multi-listen item|filename=Debussy - Mazurka.ogg|title=Mazurka|description=([[マズルカ]])|format=[[Ogg]]}}&lt;br /&gt;
{{multi-listen end}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== その他 ==&lt;br /&gt;
; ドビュッシー博物館&lt;br /&gt;
: [[サン＝ジェルマン＝アン＝レー]]にあるドビュッシーの生家を博物館にしたもの。展示室およびオーディトリウムがある。1階は観光案内所。パリ中心部より[[RER A線]]で約20分、駅より徒歩5分。&lt;br /&gt;
; 墓碑&lt;br /&gt;
: パリ16区[[パッシー墓地]]にある。&lt;br /&gt;
; 肖像&lt;br /&gt;
: ユーロ導入前の20[[フランス・フラン|フラン]]紙幣にその肖像が描かれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* フランソワ・ルシュール、笠羽映子訳　『伝記　クロード・ドビュッシー』　[[音楽之友社]]、2003年&lt;br /&gt;
**〈Lesure, F. 2003. Claude Debussy, Biographie critique. Paris, Fayard.〉&lt;br /&gt;
* フランソワ・ルシュール編、笠羽映子訳　『ドビュッシー書簡集』　音楽之友社、1999年 &lt;br /&gt;
** 〈Lesure, F. 1993. Claude Debussy, correspondance 1884-1918, Paris, Hermann.〉&lt;br /&gt;
* 原書版では、追加の書簡、相手からの来簡や家族の手紙も含めた「書簡全集」が刊行されている。&lt;br /&gt;
** 〈Claude Debussy Correspondance (1872-1918) édition établie par François Lesure et Denix Herlin, annotée par François Lesure, Denis Herlin et Georges Liébert, Gallimard nrf.〉、2005年7月発行 ISBN 2-07-077255-1&lt;br /&gt;
*Ashbrook, W. and Cobb, M.G. 1990. A portrait of Claude Debussy. Oxford: Clarendon Press. {Dietschy, M. 1962. La passion de Claude Debussy. Neuchâtel: Baconnière}&lt;br /&gt;
*Lockspeiser, E. 1962. Debussy: his life and mind volume 1, 1862-1902. New York, Macmillan.&lt;br /&gt;
*Lockspeiser, E. 1965. Debussy: his life and mind volume II, 1902-1918. New York: The Macmillan Company.&lt;br /&gt;
*Lockspeiser, E. 1972. Debussy. New York: McGraw-Hill.&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[杉本秀太郎]]訳 『音楽のために ドビュッシー評論集』　[[白水社]]、新装版2002年&lt;br /&gt;
* [[平島正郎]]訳 『ドビュッシー音楽論集』 [[岩波文庫]]、初版1996年－ドビュッシー自身が編集した抄版。&lt;br /&gt;
* [[松橋麻利]] 『ドビュッシー 作曲家・人と作品』 [[音楽之友社]]、2007年&lt;br /&gt;
* アントワーヌ・ゴレア著,店村新次（訳）『不滅の大作曲家 ドビュッシー』[[音楽之友社]]、1971年&lt;br /&gt;
* 音楽之友社編　笠羽映子、菅野浩和、塚田れい子、平島正郎、平野昭、真崎隆治、村井範子　著（五十音順）作曲家別名曲解説ライブラリー⑩『ドビュッシー』[[音楽之友社]]、1993年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[神奈川沖浪裏]] - 葛飾北斎の代表的な木版画､名所浮世絵の連作『富嶽三十六景』の一つ。この絵に対する印象から交響詩『海』を作曲したと言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* {{IMSLP| id=Debussy,_Claude | cname=クロード・ドビュッシー}}&lt;br /&gt;
* [http://www.78rpm.net/column08.html ドビュッシーのピアノ自作自演]（ドビュッシー本人によるピアノ演奏録音についてのコラム）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Commonscat|Claude Debussy}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:とひゆつしい くろおと}}&lt;br /&gt;
[[Category:フランスの作曲家]]&lt;br /&gt;
[[Category:ロマン派の作曲家]]&lt;br /&gt;
[[Category:近現代の作曲家]]&lt;br /&gt;
[[Category:新古典主義の作曲家]]&lt;br /&gt;
[[Category:オペラ作曲家]]&lt;br /&gt;
[[Category:フランスの音楽評論家]]&lt;br /&gt;
[[Category:フランスの紙幣の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1862年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1918年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:薔薇十字団]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Link FA|el}}&lt;br /&gt;
{{Link GA|eo}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.231.47.46</name></author>
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		<updated>2014-08-19T15:29:19Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.231.47.46: /* 歌曲 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{独自研究|date=2012年6月}}&lt;br /&gt;
{{Infobox Musician &amp;lt;!--プロジェクト:音楽家を参照--&amp;gt;&lt;br /&gt;
| Name                = カミーユ・サン＝サーンス&amp;lt;br /&amp;gt;Charles Camille Saint-Saëns&lt;br /&gt;
| Img                 = Saintsaens.jpg&lt;br /&gt;
| Img_capt            = &lt;br /&gt;
| Img_size            = &lt;br /&gt;
| Landscape           = &amp;lt;!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --&amp;gt;&lt;br /&gt;
| Background          = classic&lt;br /&gt;
| Birth_name          = &amp;lt;!-- 個人のみ --&amp;gt;&amp;lt;!-- 出生時の名前が公表されている場合にのみ記入 --&amp;gt;&lt;br /&gt;
| Alias               = &lt;br /&gt;
| Blood               = &amp;lt;!-- 個人のみ --&amp;gt;&lt;br /&gt;
| School_background   = &amp;lt;!-- 個人のみ --&amp;gt;&lt;br /&gt;
| Born                = [[1835年]][[10月9日]]&amp;lt;br /&amp;gt;{{FRA1830}}、[[パリ]]&lt;br /&gt;
| Died                = {{死亡年月日と没年齢|1835|10|9|1921|12|16}}&amp;lt;br /&amp;gt;{{Flagicon|FRA}} [[フランス領アルジェリア]]、[[アルジェ]]&lt;br /&gt;
| Origin              = &lt;br /&gt;
| Instrument          = [[ピアノ]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[オルガン]]&lt;br /&gt;
| Genre               = [[クラシック音楽]]&lt;br /&gt;
| Occupation          = [[作曲家]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[ピアニスト]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[オルガニスト]]&lt;br /&gt;
| Years_active        = &lt;br /&gt;
| Label               = &lt;br /&gt;
| Production          = &lt;br /&gt;
| Associated_acts     = &lt;br /&gt;
| Influences          = &lt;br /&gt;
| URL                 = &lt;br /&gt;
| Notable_instruments = &lt;br /&gt;
}}{{Portal クラシック音楽}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;シャルル・カミーユ・サン＝サーンス&#039;&#039;&#039;（&#039;&#039;&#039;Charles Camille Saint-Saëns&#039;&#039;&#039;, [[1835年]][[10月9日]] - [[1921年]][[12月16日]]）は、[[フランス]]の[[作曲家]]、ピアニスト、オルガニスト。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 略歴 ==&lt;br /&gt;
官吏の家庭に生まれる。[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]と並び称される神童タイプで、2歳でピアノを弾き、3歳で作曲をしたと言われている。また、10歳で[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]、モーツァルト、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]たちの作品の演奏会を開き、16歳で最初の[[交響曲]]を書いている。[[1848年]]に13歳で[[パリ国立高等音楽・舞踊学校|パリ音楽院]]に入学して作曲とオルガンを学ぶ。やがて作曲家兼オルガニストとして活躍した。特にオルガンの[[即興演奏]]に素晴らしい腕を見せ、[[1857年]]に当時のパリのオルガニストの最高峰といわれた[[マドレーヌ教会]]のオルガニストに就任する。[[1871年]]にはフランス音楽普及のために、[[セザール・フランク|フランク]]、[[ガブリエル・フォーレ|フォーレ]]らとともに[[国民音楽協会]]を設立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1881年にはアカデミー会員に推薦され、57歳の1892年には[[ケンブリッジ大学]]から音楽博士の称号を贈られた。1913年78歳でサン＝サーンスは、最高勲章であるグラン・クロワも贈呈されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
輝かしい功績に恵まれていたサン＝サーンスは、1921年に[[アルジェリア]]旅行中に86歳の生涯を閉じた。サン＝サーンスの葬儀は、その多大な功績に相応しく[[国葬]]で執り行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 作風と評価 ==&lt;br /&gt;
音楽家として、作曲家、ピアニスト、オルガニストとして活躍したほか、少年のころからさまざまな分野に興味を持ち、その才能を発揮した。一流のレベルとして知られるのは詩、天文学、数学、絵画などである。特に詩人としての活動は多岐にわたり、自作の詩による声楽作品も少なからず存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その博識ゆえの嫌味な性格は人々の良く知るところであり、[[アルフレッド・コルトー]]に向かって「へぇ、君程度でピアニストになれるの?」といった話は有名である&amp;lt;ref&amp;gt;Harold C. Schonberg, &#039;&#039;The Great Pianists&#039;&#039;, p. 406&amp;lt;/ref&amp;gt;。これは、彼が超一流しか眼中になかったことを示すエピソードでもあった。実際にサン＝サーンスが完璧と評した生徒の中に、ピアニストの[[レオポルド・ゴドフスキー]]がいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
晩年、[[印象主義音楽]]の台頭の中でも[[近代音楽]]を批判し、すでに保守的とみなされるようになった作風による創作を[[第一次世界大戦]]後も死の直前まで続けた。若き日の[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]は、サン＝サーンスの典型的な批判者であった。しかしドビュッシーはまた「サン＝サーンスほどの音楽通は世界広しといえどもいない。」とも評している&amp;lt;ref&amp;gt;『反ディレッタントのクローシュ氏』より&amp;lt;/ref&amp;gt;。当のサン＝サーンスはドビュッシーの[[春 (ドビュッシー)|交響組曲『春』]]に対して、[[嬰ヘ長調]]であることを理由に[[管弦楽]]に適さないとして酷評している。しかし、『[[動物の謝肉祭]]』では和音の平行移動などの多くの印象主義の技法を駆使（「水族館」）するなどしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
映画『ギーズ公の暗殺』のために史上初めてオリジナルの映画音楽を作曲したことに象徴されるが、サン＝サーンスは様々な音楽分野において先駆的な役割を果たしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
サン＝サーンスが古典音楽に固執し、また不人気であったかのように記されることがあるが、それは正しくない。国家的な大音楽家とみなされていたことは、葬儀が国葬であったことからもわかる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主要作品 ==&lt;br /&gt;
{{作品一覧|サン＝サーンスの楽曲一覧}}&lt;br /&gt;
=== 歌劇 ===&lt;br /&gt;
*[[黄色い王女]]　作品30 （1872年）&lt;br /&gt;
*[[サムソンとデリラ (オペラ)|サムソンとデリラ]]  作品47（1869年 - 1872年） &amp;lt;span style=&amp;quot;font-size:90%;&amp;quot;&amp;gt;※同作品中「バッカナール」は、[[フィギュアスケート]]で有名選手が用いるなど特に広く知られた楽曲である&amp;lt;/span&amp;gt;&lt;br /&gt;
*銀の音色 （1877年）&lt;br /&gt;
*エティエンヌ・マルセル （1879年）&lt;br /&gt;
*ヘンリー八世 （1883年）&lt;br /&gt;
*ガブリエッラ・ディ・ヴェルジ （1885年）&lt;br /&gt;
*プロセルピーヌ （1887年）&lt;br /&gt;
*アスカニオ （1890年）&lt;br /&gt;
*フリーネ （1893年）&lt;br /&gt;
*フレデゴント （1895年）&lt;br /&gt;
*野蛮人 （1901年）&lt;br /&gt;
*エレーヌ （1904年）&lt;br /&gt;
*祖先 （1906年）&lt;br /&gt;
*デジャニール （1911年）&lt;br /&gt;
*ロッシュ・カルドンの城、または過酷な運命&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 劇音楽 ===&lt;br /&gt;
*アンティゴネ （1893年）&lt;br /&gt;
*気に病む男 （1893年）&lt;br /&gt;
*デジャニール （1898年）&lt;br /&gt;
*パリザティス （1902年）&lt;br /&gt;
*アンドロマク （1903年）&lt;br /&gt;
*象牙細工師の娘（疑作説あり）（1909初演）&lt;br /&gt;
*誓い 作品130 （1910年）&lt;br /&gt;
*戯れに恋はすまじ （1917年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== バレエ音楽 ===&lt;br /&gt;
*ジャヴォット （1896年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 交響曲 ===&lt;br /&gt;
*交響曲変ロ長調（未完、1848年）&lt;br /&gt;
*交響曲ニ長調（未完、1850年）&lt;br /&gt;
*[[交響曲イ長調 (サン＝サーンス)|交響曲イ長調]]（1850年頃、第1版あり）&lt;br /&gt;
*[[交響曲第1番 (サン＝サーンス)|第1番変ホ長調 作品2]]（1851年）&lt;br /&gt;
*[[交響曲ヘ長調 (サン＝サーンス)|交響曲ヘ長調「ローマ」（&#039;&#039;Urbs Roma&#039;&#039;）]]（1856年）&lt;br /&gt;
*[[交響曲第2番 (サン＝サーンス)|第2番イ短調 作品55]]（1858年）&lt;br /&gt;
*[[交響曲第3番 (サン＝サーンス)|第3番ハ短調 作品78「オルガン付き」]]（1886年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 協奏的作品（独奏と管弦楽のための作品） ===&lt;br /&gt;
==== ヴァイオリンと管弦楽のための作品 ====&lt;br /&gt;
*[[ヴァイオリン協奏曲第1番 (サン＝サーンス)|ヴァイオリン協奏曲第1番イ長調 作品20]]（1859年）&lt;br /&gt;
*[[ヴァイオリン協奏曲第2番 (サン＝サーンス)|ヴァイオリン協奏曲第2番ハ長調 作品58]]（1858年）&lt;br /&gt;
*[[ヴァイオリン協奏曲第3番 (サン＝サーンス)|ヴァイオリン協奏曲第3番ロ短調 作品61]]（1880年）&lt;br /&gt;
*[[序奏とロンド・カプリチオーソ|序奏とロンド・カプリチオーソ イ短調 作品28]]（1863年）&lt;br /&gt;
*ロマンス 変ニ長調 作品37（1874年）　&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size:90%;&amp;quot;&amp;gt;※フルートでも演奏される&amp;lt;/span&amp;gt;&lt;br /&gt;
*「[[ノアの洪水 (サン＝サーンス)|ノアの洪水]]」（Deluge）作品45 から「前奏曲」&lt;br /&gt;
*ロマンス ハ長調 作品48（1874年）&lt;br /&gt;
*演奏会用小品 ト長調 作品62（1880年）&lt;br /&gt;
*[[ハバネラ (サン＝サーンス)|ハバネラ ホ長調 作品83]]（1887年）&lt;br /&gt;
*[[アンダルシア奇想曲 (サン＝サーンス)|アンダルシア奇想曲（&#039;&#039;Caprice andalou&#039;&#039;）ト長調 作品122]]（1904年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ピアノと管弦楽のための作品 ====&lt;br /&gt;
*[[ピアノ協奏曲第1番 (サン＝サーンス)|ピアノ協奏曲第1番ニ長調 作品17]]（1858年）&lt;br /&gt;
*[[ピアノ協奏曲第2番 (サン＝サーンス)|ピアノ協奏曲第2番ト短調 作品22]]（1868年）&lt;br /&gt;
*[[ピアノ協奏曲第3番 (サン＝サーンス)|ピアノ協奏曲第3番変ホ長調 作品29]]（1869年）&lt;br /&gt;
*[[ピアノ協奏曲第4番 (サン＝サーンス)|ピアノ協奏曲第4番ハ短調 作品44]]（1875年）&lt;br /&gt;
*[[ピアノ協奏曲第5番 (サン＝サーンス)|ピアノ協奏曲第5番ヘ長調 作品103]]「エジプト風」（1896年）&lt;br /&gt;
*[[アレグロ・アパショナート_(サン＝サーンス)#作品70|アレグロ・アパショナート 嬰ハ短調 作品70]]（1884年）&lt;br /&gt;
*「オーベルニュ狂詩曲」作品73（1884年）&lt;br /&gt;
*「ウェディング・ケーキ」（カプリース・ワルツ）作品76（1886年）&lt;br /&gt;
*[[アフリカ (サン＝サーンス)|幻想曲「アフリカ」作品89]]（1891年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== チェロと管弦楽のための作品 ====&lt;br /&gt;
*[[チェロ協奏曲第1番 (サン＝サーンス)|チェロ協奏曲第1番イ短調 作品33]]（1873年）&lt;br /&gt;
*組曲 作品16（1862年）&lt;br /&gt;
*ロマンス ヘ長調 作品36（1874年）　&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size:90%;&amp;quot;&amp;gt;※ホルンでも演奏される（下記に再掲）&amp;lt;/span&amp;gt;&lt;br /&gt;
*[[アレグロ・アパショナート_(サン＝サーンス)#作品43|アレグロ・アパショナート ロ短調 作品43]]（1875年）&lt;br /&gt;
*[[チェロ協奏曲第2番 (サン＝サーンス)|チェロ協奏曲第2番ニ短調 作品119]]（1902年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== その他 ====&lt;br /&gt;
*[[タランテラ (サン＝サーンス)|タランテラ]] 作品6（1857年）（フルート、クラリネットと管弦楽）&lt;br /&gt;
*「[[ミューズと詩人]]」（&#039;&#039;La Muse et le poete&#039;&#039;）作品132（1910年）（ヴァイオリン、チェロと管弦楽）&lt;br /&gt;
*演奏会用小品ト長調 作品154（1918年　-　1919年）　（ハープと管弦楽）&lt;br /&gt;
*[[糸杉と月桂樹]]（&#039;&#039;Sypres et lauriers&#039;&#039;）作品156（1919年）　（オルガンと管弦楽）&lt;br /&gt;
*抒情的小品（オデレット）（&#039;&#039;Odelette&#039;&#039;）作品162（1920年）　（フルートと管弦楽）&lt;br /&gt;
*ロマンス ヘ長調 作品36（1874年）　（ホルンとピアノ、またはホルンと管弦楽）&lt;br /&gt;
*ロマンス ホ長調 作品67　（ホルンとピアノ、またはホルンと管弦楽）&lt;br /&gt;
*[[ホルンと管弦楽のための演奏会用小品|演奏会用小品 ヘ短調 作品94]]（&#039;&#039;Morceau de concert&#039;&#039;）　（ホルンとピアノ、またはホルンと管弦楽）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 管弦楽作品 ===&lt;br /&gt;
*序曲「スパルタクス」（1863年）&lt;br /&gt;
*ブルターニュ狂詩曲 作品7bis（作品7から抜粋・再構成）&lt;br /&gt;
*管弦楽組曲 作品49（1863年）&lt;br /&gt;
*行進曲「東洋と西洋」作品25 （1869年） （吹奏楽）　&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size:90%;&amp;quot;&amp;gt;※軍楽隊とオーケストラという編成もあるらしい&amp;lt;/span&amp;gt;&lt;br /&gt;
*ガヴォット 作品23（1871年）&lt;br /&gt;
*交響詩「[[オンファールの糸車]]」（&#039;&#039;Le rouet d&#039;Omphale&#039;&#039;）作品31（1871年）&lt;br /&gt;
*[[英雄行進曲]]（&#039;&#039;Marche héroïque&#039;&#039;）作品34（1871年）　&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size:90%;&amp;quot;&amp;gt;※2台ピアノからの編曲（下記に再掲）&amp;lt;/span&amp;gt;&lt;br /&gt;
*交響詩「[[ファエトン (交響詩)|ファエトン]]」（Phaeton）作品39（1873年）&lt;br /&gt;
*交響詩「[[死の舞踏 (サン＝サーンス)|死の舞踏]]」（Danse macabre）作品40（1874年）&lt;br /&gt;
*交響詩「[[ヘラクレスの青年時代]]」作品50&lt;br /&gt;
*[[アルジェリア組曲]]（&#039;&#039;Suite algerienne&#039;&#039;）作品60（1879年 - 1880年）（4曲）&lt;br /&gt;
*リスボンの夜 作品63（1880年）&lt;br /&gt;
*アラゴン舞曲 作品64（1880年）&lt;br /&gt;
*ヴィクトル・ユゴー賛歌 作品69（1881年）&lt;br /&gt;
*サラバンドとリゴードン 作品93（1892年）&lt;br /&gt;
*エドワード7世のための戴冠行進曲 作品117（1902年）&lt;br /&gt;
*軍隊行進曲「ナイル川の岸辺で」 作品125（1908年）（吹奏楽）&lt;br /&gt;
*祝祭序曲 作品133（1909年）（吹奏楽）&lt;br /&gt;
*連合国行進曲 作品155（1918年）（吹奏楽）&lt;br /&gt;
*アルジェの学生に捧げる行進曲 作品163（1921年）（吹奏楽）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 室内楽作品 ===&lt;br /&gt;
*組曲「[[動物の謝肉祭]]」（&#039;&#039;Le carnaval des animaux&#039;&#039;）（1886年）　&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size:90%;&amp;quot;&amp;gt;※オーケストラで演奏されることも多いが、本来は室内楽曲として作曲された。&amp;lt;/span&amp;gt;&lt;br /&gt;
*[[ピアノ五重奏曲 (サン＝サーンス)|ピアノ五重奏曲イ短調 作品14]]（1855年）&lt;br /&gt;
*[[ピアノ四重奏曲 (サン＝サーンス)|ピアノ四重奏曲ロ長調 作品41]]（1875年）&lt;br /&gt;
*[[ピアノ三重奏曲第1番 (サン＝サーンス)|ピアノ三重奏曲第1番ヘ長調 作品18]]（1869年）&lt;br /&gt;
*[[ピアノ三重奏曲第2番 (サン＝サーンス)|ピアノ三重奏曲第2番ホ短調 作品92]]（1892年）&lt;br /&gt;
*[[七重奏曲 (サン＝サーンス)|七重奏曲変ホ長調 作品65]]（1880年）　（トランペット、弦五部、ピアノ）&lt;br /&gt;
*[[弦楽四重奏曲第1番 (サン＝サーンス)|弦楽四重奏曲第1番ホ短調 作品112]]（1899年）&lt;br /&gt;
*[[弦楽四重奏曲第2番 (サン＝サーンス)|弦楽四重奏曲第2番ト長調 作品153]]（1918年）&lt;br /&gt;
*[[ヴァイオリンソナタ第1番 (サン＝サーンス)|ヴァイオリン・ソナタ第1番ニ短調]] 作品75（1885年）&lt;br /&gt;
*[[ヴァイオリンソナタ第2番 (サン＝サーンス)|ヴァイオリン・ソナタ第2番変ホ長調 作品102]]（1896年）&lt;br /&gt;
*[[チェロソナタ第1番 (サン＝サーンス)|チェロ・ソナタ第1番ハ短調 作品32]]（1871年 - 1872年）&lt;br /&gt;
*[[チェロソナタ第2番 (サン＝サーンス)|チェロ・ソナタ第2番ヘ長調 作品123]]（1905年）&lt;br /&gt;
*[[オーボエソナタ (サン＝サーンス)|オーボエ・ソナタ ニ長調 作品166]]（1921年）&lt;br /&gt;
*[[クラリネットソナタ (サン＝サーンス)|クラリネット・ソナタ変ホ長調 作品167]]（1921年）&lt;br /&gt;
*[[バスーンソナタ (サン＝サーンス)|バスーン・ソナタ ト長調 作品168]]（1921年）&lt;br /&gt;
*カヴァティーナ 作品144（1915年）　（トロンボーンとピアノ）&lt;br /&gt;
*幻想曲イ長調 作品124（1907年）　（ヴァイオリンとハープ）&lt;br /&gt;
*2つのエレジー 作品143、160　（ヴァイオリンとピアノ）&lt;br /&gt;
*[[デンマークとロシアの歌による奇想曲|デンマークとロシアの歌による奇想曲 作品79]]（1887年）　（ピアノ、フルート、オーボエ、クラリネット）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ピアノ作品 ===&lt;br /&gt;
==== オリジナル作品（自編を含む） ====&lt;br /&gt;
*6つのバガテル 作品3&lt;br /&gt;
*マズルカ第1番 作品21&lt;br /&gt;
*ガヴォット 作品23&lt;br /&gt;
*マズルカ第2番 作品24&lt;br /&gt;
*[[ピアノ協奏曲第3番 (サン＝サーンス)|ピアノ協奏曲第3番 作品29]]より第1楽章 (自編)&lt;br /&gt;
*メヌエットとワルツ 作品56&lt;br /&gt;
*[[練習曲 (サン＝サーンス)#6つの練習曲 作品52|6つの練習曲 第1集 作品52]]&lt;br /&gt;
*[[オンファールの糸車]] 作品31（自編）&lt;br /&gt;
*マズルカ第3番 作品66&lt;br /&gt;
*[[アレグロ・アパショナート_(サン＝サーンス)#作品70|アレグロ・アパショナート 作品70]]&lt;br /&gt;
*アルバム 作品72&lt;br /&gt;
*オーヴェルニュ狂詩曲 作品73&lt;br /&gt;
*イタリアの思い出 作品80&lt;br /&gt;
*夕べの鐘 作品85&lt;br /&gt;
*カナリアのワルツ 作品88&lt;br /&gt;
*[[アフリカ_(サン＝サーンス)|アフリカ 作品89]]&lt;br /&gt;
*組曲 作品90&lt;br /&gt;
*主題と変奏 作品97&lt;br /&gt;
*イスマイリアの想い出 作品100&lt;br /&gt;
*かわいいワルツ 作品104&lt;br /&gt;
*のんきなワルツ 作品110　　　　　　　&lt;br /&gt;
*[[練習曲 (サン＝サーンス)#6つの練習曲 作品111|6つの練習曲 第2集 作品111]]&lt;br /&gt;
*弱々しいワルツ 作品120&lt;br /&gt;
*[[練習曲 (サン＝サーンス)#6つの左手のための練習曲 作品135|左手のための6つの練習曲 作品135]]&lt;br /&gt;
*愉快なワルツ 作品139&lt;br /&gt;
*6つのフーガ 作品161　　　　&lt;br /&gt;
*アルバムのページ 作品169&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 編曲作品（再構成作品も含む） ====&lt;br /&gt;
*[[エクトル・ベルリオーズ|ベルリオーズ]]の《[[ファウストの劫罰]]》より賛歌&lt;br /&gt;
*「タイスの死」([[ジュール・マスネ|マスネ]]の《[[タイスの瞑想曲|タイス]]》によるパラフレーズ)&lt;br /&gt;
*D．ルイ・ミランのリュートのための2つの幻想曲&lt;br /&gt;
*[[シャルル・グノー|グノー]]の《[[ファウスト (オペラ)|ファウスト]]》より祭典とワルツ&lt;br /&gt;
*[[クリストフ・ヴィリバルト・グルック|グルック]]の《アルチェステ》のエール・ド・バレエによるカプリス&lt;br /&gt;
*[[フランツ・リスト|リスト]]の《ベートーヴェン・カンタータ》による即興曲&lt;br /&gt;
*[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]編曲集 全2集&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 2台のピアノのための作品（自編を含む） ====&lt;br /&gt;
*[[タランテラ (サン＝サーンス)|タランテラ 作品6]]（自編）&lt;br /&gt;
*[[ベートーヴェンの主題による変奏曲 (サン＝サーンス)|ベートーヴェンの主題による変奏曲 作品35]]（1874年）&lt;br /&gt;
*[[オンファールの糸車|オンファールの糸車 作品31]]（自編）&lt;br /&gt;
*[[英雄行進曲|英雄行進曲 作品34]]&lt;br /&gt;
*[[ファエトン (交響詩)|ファエトン 作品39]]（自編）&lt;br /&gt;
*[[死の舞踏 (サン＝サーンス)|死の舞踏 作品40]]（自編）&lt;br /&gt;
*[[ヘラクレスの青年時代|ヘラクレスの青年時代 作品50]]（自編）&lt;br /&gt;
*[[アルジェリア組曲|アルジェリア組曲 作品60]]（自編）&lt;br /&gt;
*アラゴン舞曲 作品64（自編）&lt;br /&gt;
*ヴィクトル・ユゴー賛歌 作品69（自編）&lt;br /&gt;
*ポロネーズ 作品77（1886年）&lt;br /&gt;
*[[交響曲第3番 (サン＝サーンス)|交響曲第3番 作品78「オルガン付」]]（自編）&lt;br /&gt;
*[[スケルツォ (サン＝サーンス)|スケルツォ 作品87]]（1890年）&lt;br /&gt;
*アラビア綺想曲 作品96（1894年）&lt;br /&gt;
*英雄綺想曲 作品106（1898年）&lt;br /&gt;
*[[糸杉と月桂樹]] 作品156（自編）&lt;br /&gt;
*「プロセルピーヌ」序曲（自編）&lt;br /&gt;
*「パリザティス」序奏と三つのバレエシーン（自編）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== オルガン作品 ===&lt;br /&gt;
*3つの小品 作品1（1852年）（[[ハルモニウム]]作品）&lt;br /&gt;
*幻想曲 変ホ長調（1857年）&lt;br /&gt;
*ブルターニュの歌による3つの狂詩曲 作品7（1866年）&lt;br /&gt;
*祝婚曲(&#039;&#039;Bénédiction nuptiale&#039;&#039;) 作品9（1859年）&lt;br /&gt;
*奉挙、または聖体拝領（&#039;&#039;Élévation ou Communion&#039;&#039;） 作品13（1858年）&lt;br /&gt;
*3つの前奏曲とフーガ 第1集 作品99（1894年）&lt;br /&gt;
*幻想曲（第2番）変ニ長調 作品101（1895年）&lt;br /&gt;
*3つの前奏曲とフーガ 第2集 作品109（1898年）&lt;br /&gt;
*7つの即興曲 作品150（1916-17年）&lt;br /&gt;
*幻想曲（第3番）ハ長調 作品157（1919年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 合唱を含む作品 ===&lt;br /&gt;
*ジン（&#039;&#039;Les Djinns&#039;&#039;）（1850年）&lt;br /&gt;
*クリスマス・オラトリオ 作品12（1858年）&lt;br /&gt;
*カンタータ「プロメテの結婚」作品19（1867年）&lt;br /&gt;
*オラトリオ「[[ノアの洪水 (サン＝サーンス)|ノアの洪水]]」（&#039;&#039;Déluge&#039;&#039;）作品45（1874年）&lt;br /&gt;
*[[レクイエム (サン＝サーンス)|レクイエム]] 作品54（1878年）&lt;br /&gt;
*[[竪琴とハープ]]（&#039;&#039;La lyre et la harpe&#039;&#039;） 作品57（1879年）&lt;br /&gt;
*ヴィクトル・ユゴー賛歌 作品69（1881年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 歌曲 ===&lt;br /&gt;
*歌曲集「ペルシャの歌」（&#039;&#039;Mélodies persanes&#039;&#039;）作品26（1870年）　（A.ルノー詞、6曲）&lt;br /&gt;
*「見えない笛」（&#039;&#039;Une flûte invisible&#039;&#039;）（1885年）　（[[ヴィクトル・ユーゴー|V.ユゴー]]詞、フルートのオブリガード付き）&lt;br /&gt;
*「鼓手の婚約者」（&#039;&#039;La fiancée du timbalier&#039;&#039;）作品82（1887年）　（V.ユゴー詞）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 映画音楽 ===&lt;br /&gt;
*「ギーズ公の暗殺」（&#039;&#039;L&#039;assassinat du Duc de Guise&#039;&#039;）作品128（1908年、世界初の映画音楽）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 著作 ==&lt;br /&gt;
日本語訳があるものは次の通り。&lt;br /&gt;
*『音楽の十字街に立つ』（馬場二郎訳／[[新潮社]]／1925年）&lt;br /&gt;
*ジャン＝ミシェル・ネクトゥー編著『サン＝サーンスとフォーレ 往復書簡集1862-1920』（[[大谷千正]]、日吉都希惠、島谷眞紀訳／[[新評論]]／1993年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*ミヒャエル・シュテーゲマン著『サン＝サーンス』（西原稔訳／[[音楽之友社]]／1993年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出典 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* {{IMSLP|id=Saint-Sa%C3%ABns%2C_Camille|cname=カミーユ・サン＝サーンス}}&lt;br /&gt;
* [http://www.rtve.es/alacarta/videos/los-conciertos-de-la-2/conciertos-2-concierto-ortve-22/1862287/ 交響曲第3番ハ短調作品78「オルガン付き]. RTVE交響楽団.&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:さんさんす かみゆ}}&lt;br /&gt;
[[Category:フランスの作曲家]]&lt;br /&gt;
[[Category:ロマン派の作曲家]]&lt;br /&gt;
[[Category:オペラ作曲家]]&lt;br /&gt;
[[Category:フランスのクラシック音楽のピアニスト]]&lt;br /&gt;
[[Category:フランスのオルガニスト]]&lt;br /&gt;
[[Category:パリ出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1835年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1921年没]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Link GA|es}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.231.47.46</name></author>
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	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=E.T.A.%E3%83%9B%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3&amp;diff=96309</id>
		<title>E.T.A.ホフマン</title>
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		<updated>2014-08-19T15:26:46Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.231.47.46: /* 作品一覧 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Infobox 作家&lt;br /&gt;
| name          = E・T・A・ホフマン&amp;lt;br /&amp;gt;E.T.A.Hoffmann&lt;br /&gt;
| image         = ETA Hoffmann 2.jpg&lt;br /&gt;
| imagesize     = &lt;br /&gt;
| caption       = E・T・A・ホフマン自画像&lt;br /&gt;
| pseudonym     = &lt;br /&gt;
| birth_name    = エルンスト・テオドール・ヴィルヘルム・ホフマン&lt;br /&gt;
| birth_date    = [[1776年]][[1月24日]] &lt;br /&gt;
| birth_place   = [[ファイル:Flag of Prussia 1892-1918.svg|border|22x20px]][[プロイセン王国]]、ケーニヒスベルク&amp;lt;br /&amp;gt;（現{{RUS}}、[[カリーニングラード]]）&lt;br /&gt;
| death_date    = {{死亡年月日と没年齢|1776|1|24|1822|6|25}}&lt;br /&gt;
| death_place   = [[ファイル:Flag of Prussia 1892-1918.svg|border|22x20px]]プロイセン王国、[[ベルリン]]&lt;br /&gt;
| occupation    = [[作家]]、[[音楽家]]、[[画家]]、[[法律家]]&lt;br /&gt;
| nationality   = &lt;br /&gt;
| period        = &lt;br /&gt;
| genre         = [[ファンタジー|幻想小説]]&lt;br /&gt;
| subject       = &lt;br /&gt;
| movement      = [[ロマン主義]]&lt;br /&gt;
| notable_works = 『[[黄金の壺]]』（1814年）&amp;lt;br /&amp;gt;『[[砂男 (小説)|砂男]]』（1815年）&amp;lt;br /&amp;gt;『[[ブランビラ王女]]』（1820年）&amp;lt;br /&amp;gt;『[[牡猫ムルの人生観]]』（1820年）&amp;lt;br /&amp;gt;『[[蚤の親方]]』（1822年）&lt;br /&gt;
| awards        = &lt;br /&gt;
| debut_works   = 「騎士グルック」（1809年）&lt;br /&gt;
| spouse        = &lt;br /&gt;
| partner       = &lt;br /&gt;
| children      = &lt;br /&gt;
| relations     = &lt;br /&gt;
| influences    = [[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]、[[フリードリヒ・フォン・シラー|シラー]]、[[ジャン・パウル]]、[[ジャン＝ジャック・ルソー|ルソー]]、[[ルートヴィヒ・ティーク|ティーク]]、[[アーデルベルト・フォン・シャミッソー|シャミッソー]]、[[アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲル|A.W.シュレーゲル]]と[[フリードリヒ・シュレーゲル|F.シュレーゲル]]、[[クレメンス・ブレンターノ|ブレンターノ]]、[[カルデロン・デ・ラ・バルカ|カルデロン]]&lt;br /&gt;
| influenced    = [[オノレ・ド・バルザック|バルザック]]、[[アレクサンドル・デュマ・ペール|デュマ]]、[[アルフレッド・ド・ミュッセ|ミュッセ]]、[[シャルル・ボードレール|ボードレール]]、[[ジェラール・ド・ネルヴァル|ネルヴァル]]、[[オーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダン|ヴィリエ・ド・リラダン]]、[[ギ・ド・モーパッサン|モーパッサン]]、[[アレクサンドル・プーシキン|プーシキン]]、[[フョードル・ドストエフスキー|ドストエフスキー]]、[[エドガー・アラン・ポー|ポー]]、[[リヒャルト・ワーグナー|ヴァーグナー]]&lt;br /&gt;
| signature     = &lt;br /&gt;
| website       = &lt;br /&gt;
&amp;lt;!--| footnotes     = --&amp;gt;&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;エルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマン&#039;&#039;&#039;（Ernst Theodor Amadeus Hoffmann, [[1776年]][[1月24日]] － [[1822年]][[6月25日]]）は[[ドイツ]]の[[作家]]、[[作曲家]]、[[音楽評論家]]、[[画家]]、[[法律家]]。文学、音楽、絵画と多彩な分野で才能を発揮したが、現在では主に後期[[ロマン派]]を代表する[[幻想文学]]の奇才として知られている。本名はエルンスト・テオドール・ヴィルヘルム・ホフマン（Ernst Theodor Wilhelm Hoffmann）であったが、敬愛する[[ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト]]にあやかってこの筆名を用いた（伯父と同じ名前を嫌ったとも言われる）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ケーニヒスベルク (プロイセン)|ケーニヒスベルク]]の法律家の家系に生まれ、自らも法律を学んで裁判官となるが、その傍らで芸術を愛好し詩作や作曲、絵画制作を行なっていた。[[1806年]]に[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の進軍によって官職を失うと[[バンベルク]]で劇場監督の職に就き、舞台を手がける傍らで音楽雑誌に小説、音楽評論の寄稿を開始。[[1814年]]に判事に復職したのちも裁判官と作家との二重生活を送り、病に倒れるまで旺盛な作家活動を続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小説では[[オートマタ|自動人形]]や[[ドッペルゲンガー]]といった不気味なモチーフを用い、現実と幻想とが入り混じる特異な文学世界を作り出した。また当時のロマン派作家の多くが田舎の田園風景を称揚したのに対し、都会生活を好んで描いたことにも特徴がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== ケーニヒスベルクでの生い立ち ===&lt;br /&gt;
E・T・A・ホフマンは[[1776年]][[1月24日]]、[[プロイセン王国|プロイセン]]領[[ケーニヒスベルク (プロイセン)|ケーニヒスベルク]]にエルンスト・テオドール・ヴィルヘルム・ホフマンとして生まれた。父クリストフ・ルートヴィヒ・ホフマン（Christoph Ludwig Hoffmann）はプロイセン宮廷裁判所の法律顧問であり、その家系はポーランド貴族バギエンスキー家に遡る。母ルイーゼ・アルベルティーネ（Luise Albertine、旧姓デルファー Doerffer）とはいとこ同士であり、デルファー家もまた法律家の家系であった。ホフマンは3人兄弟の末っ子だったが、両親が間もなく不仲となり、彼が2歳の時父が家を出て行った。ホフマンは実母のもとに転居した母に引き取られ、叔父オットー・ヴィルヘルム・デルファーが後見人となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:Hoffmann Hippel.png|thumb|190px|ホフマンとヒッペル（ホフマン画、1803年）]]ホフマンは[[1782年]]にプロイセンの改革派が経営するブルク学校に入学するが、その一方で合唱指揮者兼オルガン奏者クリスチャン・ポドビエルスキーの下で音楽理論とピアノ演奏法を習った。1786年ころ、終生の友となるテオドール・ゴットリープ・フォン・ヒッペル（[[:de:Theodor Gottlieb von Hippel der Jüngere]]）に出会う。[[1792年]]、ヒッペルとともに{{仮リンク|ケーニヒスベルク大学|en|University of Königsberg}}の法律科に入学。ホフマンはこの頃から法律の勉強の傍ら絵画、作曲、詩作とさまざまな芸術に手を染めており、また多くの文学作品を読んだ。当時ホフマンが読んでいた作家は[[ジャン＝ジャック・ルソー|ルソー]]、[[ジョナサン・スウィフト|スウィフト]]、[[ローレンス・スターン|スターン]]、[[トバイアス・スモレット|スモレット]]、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]、[[フリードリヒ・フォン・シラー|シラー]]、[[ジャン・パウル]]などであり、特にシラーの『見霊者』を熟読していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ディレッタントとしての生活 ===&lt;br /&gt;
==== グローガウ - ベルリン時代 ====&lt;br /&gt;
[[1795年]]7月にホフマンは司法候補試験に合格し、ケーニヒスベルクで陪席判事として活動を始めた。しかし間もなく学生時代から交際のあった人妻ドーラ・ハット（コーラという愛称で呼ばれていた）との付き合いが問題化したことなどから、翌年グローガウ（現在[[ポーランド]]の[[グウォグフ]]、当地の[[ユダヤ人]]にドイツ風の[[姓]]を与えるのも仕事であった）へ転任、代父オットー・ヴィルヘルムの伯父ヨハン・ルートヴィヒ・デルファー宅に移り住んだ。コーラとは1798年秋まで手紙のやり取りが続いたが情熱は冷えきっており、代わりにデルファー家の娘ミンナと恋に落ち、この年に婚約を交わした。しかしミンナとは実際に結婚にいたることなく、1802年に婚約を解消することになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1798年]]にホフマンはグローガウで次の司法試験に合格する。ちょうどこの頃、伯父ヨハンが法廷上級顧問官として[[ベルリン]]に配属されることになり、ホフマンもこれに合わせて配転希望を提出、8月にベルリンに転居した。ホフマンはこの地で都市生活を堪能し、歌手フリードリヒ・フレックや音楽指揮者アンゼルム・ヴェーバーら芸術家と親交を結び、また[[宮廷楽長]]であるヨハン・フリードリヒ・ライヒアルトから音楽を学んだ。判事としての仕事の傍ら絵画の制作や作曲に従事し、自作のオペラ『仮面』をプロイセン王妃[[ルイーゼ・フォン・メクレンブルク＝シュトレーリッツ|ルイーゼ]]に贈るなどしている。また1798年11月からは友人ヒッペルもベルリンに移っており、ホフマンは親友と二人で次の国家試験に備え1800年に「優秀」の成績で合格した。3月、ホフマンはポーゼン（現[[ポーランド]]領[[ポズナニ]]）の上級裁判所判事補に任命され、ヒッペルとともにポーゼンに移った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ポーゼン - プローク時代 ====&lt;br /&gt;
[[ファイル:Karikatur Hoffmann.gif|thumb|left|190px|戯画的に描かれたホフマンの自画像]]&lt;br /&gt;
ポーゼンの住民は大部分がポーランド人であり、ドイツ人の役人はドイツ人だけを招いて集会を開いていた。ホフマンはそうした集会の一つである娯楽集会「社交クラブ」のメンバーとなり、政府顧問官ヨハン・ルートヴィヒ・シュヴァルツと親交を結んだ。ホフマンはこのクラブのためにカンタータを作曲しており、シュヴァルツが脚本を書いている。またホフマンはこの集会で[[ワイン]]の愛好熱に取り付かれ、取り分け[[プンシュ|ポンス酒]]を好むようになった。しかし1802年2月、謝肉祭の仮面舞踏会席上で配布したホフマンによる諷刺画に対し、モデルにされた連隊長ヴィルヘルム・フォン・ツァストフ少将が激怒し、ベルリンにこの件に関する回状を送った。ホフマンは罰としてポーゼン勤務を解かれ、プローク（現ポーランド領プヴォツク）への左遷が決まる。プローク行きに先立つ1802年7月、ホフマンはシュヴァルツを通じて知り合ったポーランド人女性ミヒャエリナ・ローレル・トルツィンスカ（Michalina Rorer-Trzynska、愛称ミーシャ）と結婚、汚職で告訴されたミーシャの兄の娘であるミシャリーナを養女とし、二人を伴って8月にプロークに移った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時のプロークは人口2500人あまりの寒村であった。ホフマンはこの地の社交界に興味を示さず、余暇には自宅に引きこもって創作活動に専念した。この時期ホフマンは喜劇『賞金』を制作し、当時人気のあった喜劇作家[[フリードリヒ・アウグスト・コッツェブー]]に送った（この原稿は現在残っていない）。またこの頃にヨハン・クリスティアン・ヴィークレプの『自然魔術』（化学を用いた手品を扱ったもの）を読んで自動人形を製作することを思い立ったり、ルソーの『告白』を読むなどしている。1804年3月、1年半の左遷が解かれワルシャワへの勤務命令を受け、4月にミーシャ、ミシャリーナを連れ同地に向かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ワルシャワ - ポーゼン時代 ====&lt;br /&gt;
ワルシャワは当時南プロイセン州の首都であり、ホフマンは活気のあるこの都市で再び社交に楽しみを見出した。ホフマンは「音楽クラブ」の共同設立者となり、仕事の余暇に音楽演奏に参加したり、クラブのためにフレスコ画を制作し、詩作や作曲も行い、またイタリア語を習得した。この時期ホフマンが作曲したものには『変ホ長調交響曲』『ニ短調ミサ曲』、[[クレメンス・ブレンターノ|ブレンターノ]]の戯曲をもとにしたオペラ『招かれざる客』の舞台音楽などがある。またホフマンはヒッペルと並んで生涯の友となるユリウス・エドゥアルト・イッチヒ（1809年からは「ヒッチヒ」と名乗っている）と出会い、ロマン主義文学の愛好者であった彼から[[ルートヴィヒ・ティーク|ティーク]]やブレンターノ、[[ノヴァーリス]]、また[[アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲル|シュレーゲル]]兄弟がドイツ語に訳した[[ペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカ|カルデロン]]などの作品を紹介され、これらの文学作品に親しんだ。1805年7月には娘が誕生し、音楽の守護聖人[[聖セシリア|セシリア]]にちなんでツェツィーリアと名づけられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし幸福な日々は長く続かず、1806年11月にナポレオン軍がワルシャワに進駐し、プロイセンの政府機関が解体されてしまう。ホフマンは職を失っただけでなく、フランス軍の接収によって住居すら失った。ホフマンは家族を連れムニーツェク宮殿にあった「音楽クラブ」の屋根裏部屋に引っ越したが、やがて現金が底をつき、妻の縁者を頼って1807年1月にポーゼンに移った。しかしフランス軍当局にナポレオンに忠誠を誓うかワルシャワを去るか選択を迫られると、ホフマンは後者を選び、7月に再びベルリンに赴いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 芸術家への転身 ===&lt;br /&gt;
==== ベルリン - バンベルク時代 ====&lt;br /&gt;
ベルリンの宿屋についた途端、ホフマンは盗難に遭い、手持ちの現金をすべて失ってしまう。官庁への就職も、職を失った国家官僚同士の競争が激しくうまくいかず、ホフマンの生活は非常に困窮した。さらに1807年8月、追い討ちをかけるようにポーゼンから娘ツェツェリア死去の報を受ける。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:Bamberg ETA Hoffmann 13aug2007.jpg|thumb|170px|バンベルク劇場前にあるホフマン像]]&lt;br /&gt;
生活に困ったホフマンは、8月末に広告専門の新聞紙『アルゲマイナー・アンツァイガー』に劇団ないし楽団指揮者として求人広告を出した。この広告がバンベルク劇場の関係者の目に留まり、以前ホフマンがオペラに曲を付けたことのあったバンベルク劇場支配人ゾーデン伯爵の仲介もあり、1808年4月にホフマンはバンベルク劇場の音楽指揮者として採用されることになった。ホフマンはミーシャを連れ出すために6月にポーゼンに向かい、この間に後に作家としての名声をもたらすことになる小説『騎士グルック』を完成させた。『騎士グルック』は1809年2月にライプツィヒの『一般音楽新聞』に掲載され、ホフマンはこれをきっかけに劇場での仕事の傍ら同紙へ音楽評論の定期的な寄稿を始めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
バンベルク劇場のホフマンの仕事は当初、ゾーデン伯爵の後継者として支配人となった俳優ハインリヒ・クノーとの衝突から思うようには運ばなかったが、旧弊な演劇に固執したクノーが劇場を破産に追いやると事態が好転した。1810年にバンベルク劇場は株式会社として生まれ変わり、ホフマンとは旧知の間柄であったフランツ・フォン・ホルバインが新たな支配人として迎え入れられた。ホフマンの才能を認めていたホルバインはホフマンを重用し、ホフマンは作曲家、舞台装置家、画家として思う存分に腕を振ることができた。上演目録も改良され、すでに古くなっていたコッツェブーの喜劇を除きカルデロンの『十字架の傍の祈念』や『マンティブレの橋』を上演した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ホフマンはまた副業として上流階級の人々への音楽教育に携わった。1811年、ホフマンは歌唱指導を行なっていた20歳年下のユリア・マルクに恋心を抱くようになり、彼女の婚約者であるハンブルクの商人ゲレーペルに酒の席で無礼を働いてしまう。翌日彼女の母親に弁解の手紙を送ったもののこの事件によってホフマンはバンベルクの社交界へ出入りすることができなくなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ドレスデン・ライプツィヒ時代 ====&lt;br /&gt;
[[ファイル:Callot Burlesque Violinist.jpg|thumb|ジャック・カロによる戯画の一例]]&lt;br /&gt;
1813年、ホフマンは『一般音楽新聞』編集長フリードリヒ・ロッホリッツの誘いを受け、ドレスデンのヨゼフ・ゼコンダ演劇会社での音楽指揮者の地位に就くことになった。ホフマンは[[自由戦争]]のさなかドレスデンに移住し、ドレスデンとライプツィヒの往復生活を始めた。音楽指揮者の仕事はゼコンダとの性格的な衝突によって1年ほどで解雇されてしまうが、ホフマンは劇団での仕事の傍らで、[[フリードリヒ・フーケ|フケー]]から依頼された『[[ウンディーネ]]』のオペラ作曲を完成し、『磁気催眠術師』『詩人と作曲家』『自動人形』『黄金の壺』などの物語を書き上げてクンツ社と出版契約を結び、さらに長編『悪魔の霊液』の執筆に取り掛かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1814年から1815年にかけてクンツ社より発行された『カロ風幻想曲集』はホフマンの文名を高めた。この作品集はホフマンの偏愛する戯画作者[[ジャック・カロ]]の名をつけて4巻本で発行され、序文は[[ジャン・パウル]]から寄せられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ベルリンでの作家生活 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:ETA Hoffmann.jpg|thumb|left|ベルリン時代に描かれた自画像（1810年-20年ころ）]]失職したホフマンは、友人ヒッペルの尽力もあり1814年に再びプロイセン国家官僚として採用され、9月にみたびベルリンに移住した。1815年4月からは大審院判事に就任し、ホフマンは裁判官の仕事をしながら売れっ子作家として小説を書き、舞台を手がけ作曲を行ない、また多くの芸術家との社交にいそしむ多忙な生活を送った。当時ホフマンが社交場で交際したのはヒッチヒのほかに[[アーデルベルト・フォン・シャミッソー|シャミッソー]]、ティーク、フケーらであったが、この時期はとりわけ俳優ルートヴィヒ・デブリエント（[[:de:Ludwig Devrient]]）との親交を深めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ベルリン時代にホフマンは『悪魔の霊液』『くるみ割り人形とねずみの王様』『夜景集』『ゼラピオン同人集』と小説・物語を次々と刊行していった。1818年の夏よりホフマンは「ムル」と名づけた雄猫を飼い始めたが、この猫と自分の生活に着想を得て1819年からは『牡猫ムルの人生観』に取り掛かり、1820年には『ブランビラ王女』を発表している。しかしホフマンは作家業を自身の芸術活動で最も重要なものとは見なしておらず、最も情熱を傾けたのは音楽のほうだった。ホフマンは1814年に完成したオペラ『ウンディーネ』こそ自身の畢生の大作と考えており、ベルリン時代にはこのオペラの上演に最も力を注ぎ、1816年8月にベルリン王立劇場で行なわれた同オペラの初演は大きな成功を収めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:E.T.A Hoffmann Grave.jpg|thumb|ベルリンにあるホフマンの墓]]&lt;br /&gt;
1819年、プロイセン政府はナポレオン戦争の余波から各地で起こっていた自由民主化運動を抑圧するため「大逆的な結社ならびにその他の危険な策動を調査する直属委員会」を設置し、ホフマンもその一員となった。しかし、内面にではなく実際に成された行為のみに基づいて判決を下すべきだという意見を抱いていたホフマンは国王や上司との関係を悪くした。1819年7月に「ドイツの体操の父」[[フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーン]]（[[:de:Friedrich Ludwig Jahn]]）が反逆罪で起訴されたが、ヤーンは警察庁長官カンプツを逆に侮辱罪で訴えた。周囲の官僚はヤーンの訴えを無視するべきと考えていたが、ホフマンはヤーンの訴えを聞きカンプツを召喚し、召喚を中止せよという法相からの命令にも従おうとしなかった。ついに国王自らが介入して召喚は中止となり、ホフマンは国王から大きな不興を被った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1822年2月、出版前のホフマンの小説『蚤の親方』に、ヤーンの審理を揶揄する不敬な表現があるとして出版が差し止められた。国王は直ちにホフマンを尋問するよう要求したが、ホフマンはすでに[[脊椎カリエス]]で病床にあり、医師の判断で尋問は行なわれなかった。4月、ホフマンは病床で最後の小説『隅の窓』の口述筆記が行なっていたが、6月25日に病により死去した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 受容と影響 ==&lt;br /&gt;
ホフマンは人気作家であったものの、同時代では[[ハインリヒ・ハイネ]]や[[アーデルベルト・フォン・シャミッソー]]からの高評価を除き、文学的な評価は得ておらず、どちらかといえば通俗作家の位置に留まっていた。ホフマンの評価はむしろドイツ国外で高まり、1828年にフランスに初めて翻訳されて以降[[オノレ・ド・バルザック|バルザック]]、[[ヴィクトル・ユーゴー|ユゴー]]、[[テオフィル・ゴーティエ|ゴーティエ]]、[[ジョルジュ・サンド]]、[[アルフレッド・ド・ミュッセ|ミュッセ]]、[[オーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダン|ヴィリエ・ド・リラダン]]、[[アレクサンドル・デュマ・ペール|デュマ]]、[[ジェラール・ド・ネルヴァル|ネルヴァル]]、[[シャルル・ボードレール|ボードレール]]、[[ギ・ド・モーパッサン|モーパッサン]]など、中でも特に小ロマン派と呼ばれる作家達に大きな影響を及ぼし、また[[ウォルター・スコット]]のホフマン紹介文の翻訳中で初めてコント・ファンタスティックという語が用いられた。ロシアでは[[アレクサンドル・プーシキン|プーシキン]]、[[フョードル・ドストエフスキー|ドストエフスキー]]などがホフマンの物語を愛好し、その影響は[[エドガー・アラン・ポー]]にも及んでいる。ドイツでは[[リヒャルト・ワーグナー|リヒャルト・ヴァーグナー]]がホフマンから霊感を得ており、『[[ニュルンベルクのマイスタージンガー]]』『[[タンホイザー]]』は『ゼラピオン同人集』のなかのパリを舞台にした小説群に多くを負っているほか、『[[さまよえるオランダ人]]』もホフマン作品の暗鬱で神秘的な人物像から影響を受けている。また[[ジークムント・フロイト]]はホフマンの『砂男』を題材にして「不気味」という感情の源泉を分析した『不気味なもの』という論文を執筆している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:Hoffmann sandmann.png|thumb|250px|『砂男』のホフマン自身による挿絵]]&lt;br /&gt;
ホフマン作品を基にした楽曲としてはバレエ『[[くるみ割り人形]]』『[[コッペリア]]』やオペラ『[[ホフマン物語]]』、「スキュデリ嬢」をオペラ化した[[パウル・ヒンデミット|ヒンデミット]]の『[[カルディヤック]]』などが知られている。『くるみ割り人形』はホフマンの童話『[[くるみ割り人形とねずみの王様]]』からのデュマの翻案（『はしばみ物語』）を基にしており、『コッペリア』はホフマンの『砂男』が原作、『ホフマン物語』は『大晦日の夜の冒険』『砂男』『クレスペル顧問官』の3作を翻案したものである。ほかにホフマンの同名の作品から霊感を得て作られた[[ロベルト・シューマン]]のピアノ曲集『[[クライスレリアーナ]]』や、同名の小説をオペラ化した[[フェルッチョ・ブゾーニ|ブゾーニ]]の『花嫁選び』などがある。なお『クライスレリアーナ』はホフマンの文学的分身であるヨハンネス・クライスラー楽長が語るという体裁の音楽評論であるが、ホフマンの代表作の一つ『牡猫ムルの人生観』は人語を解する猫ムルの回想録にこのクライスラー楽長の伝記が混じってしまったという形で書かれた長編小説であり、[[夏目漱石]]の『[[吾輩は猫である]]』には主人公の猫がこの作品に触れて、ドイツにも同じ境遇の猫がいると知って感慨にふけるシーンがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『スキュデリ嬢』は[[推理小説]]風の作品で、[[森鴎外]]は「エドガー・ポーを読む人は更にホフマンに遡らざるべからず」と述べ、『玉を懐いて罪あり』の題で訳出した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
音楽家としてのホフマンは七十数曲を残しており、成功した『ウンディーネ』以外の作品も後世に再演、再評価されている。CDに録音されたものに、ハープ五重奏曲ハ短調、グランド・ピアノ三重奏曲ホ長調などがあり、歌曲「ソプラノ、テノールとピアノのための6つのイタリア」は、『牡猫ムルの人生観』の中で言及されている。小説の体裁でモーツァルトの『[[ドン・ジョヴァンニ]]』の評論ともなっている「ドン・ジュアン」は、この作品の解釈として当時画期的であり、その後の作品理解に大きな影響を与えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 作品一覧 ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:Gedenktafel Charlottenstr 56 Ernst Theodor Amadeus Hoffmann.JPG|thumb|ベルリン、シャルロッテ通りにあるホフマンの記念碑]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:Skulptur Hoffmann Berlin2007.jpg|thumb|ベルリン、リープクネヒト橋のたもとにあるホフマンの記念碑]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:Stamps of Germany (Berlin) 1972, MiNr 426.jpg|thumb|ホフマンの肖像を使用したドイツの切手（1972年）]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:Bamberg Theater Hoffmann Büste.jpg|thumb|ホフマンの胸像]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 文学 ===&lt;br /&gt;
* カロ風幻想曲（&#039;&#039;Fantasiestücke in Callots Manier&#039;&#039;、1814年）&lt;br /&gt;
** 騎士グルック（&#039;&#039;Ritter Gluck&#039;&#039;）&lt;br /&gt;
** クライスレリアーナ（&#039;&#039;Kreisleriana&#039;&#039;）&lt;br /&gt;
** ドン・ジュアン（&#039;&#039;Don Juan&#039;&#039;）&lt;br /&gt;
** 犬のベルガンツァの最近の運命に関する報告（&#039;&#039;Nachricht von den neuesten Schicksalen des Hundes Berganza&#039;&#039;）&lt;br /&gt;
** 磁気催眠術師（&#039;&#039;Der Magnetiseur&#039;&#039;）&lt;br /&gt;
** [[黄金の壺]]（&#039;&#039;Der goldne Topf&#039;&#039;） &lt;br /&gt;
** 大晦日の夜の冒険（&#039;&#039;Die Abenteuer der Sylvesternacht&#039;&#039;）&lt;br /&gt;
* [[悪魔の霊液]]（&#039;&#039;Die Elixiere des Teufels&#039;&#039;、1815年）&lt;br /&gt;
* 夜曲集（&#039;&#039;Nachtstücke&#039;&#039;、1817年）&lt;br /&gt;
** [[砂男 (小説)|砂男]]（&#039;&#039;Der Sandmann&#039;&#039;）&lt;br /&gt;
** 請願（&#039;&#039;Das Gelübde&#039;&#039;）&lt;br /&gt;
** イグナーツ・デンナー（&#039;&#039;Ignaz Denner&#039;&#039;）&lt;br /&gt;
** G町のジェスイット協会（&#039;&#039;Die Jesuiterkirche in G.&#039;&#039;）&lt;br /&gt;
** 世襲権（&#039;&#039;Das Majorat&#039;&#039;）&lt;br /&gt;
** 荒んだ家（&#039;&#039;Das öde Haus&#039;&#039;）&lt;br /&gt;
** サンクトゥス（&#039;&#039;Das Sanctus&#039;&#039;）&lt;br /&gt;
** 石の心臓（&#039;&#039;Das steinerne Herz&#039;&#039;）&lt;br /&gt;
* 劇場監督の奇妙な苦しみ（&#039;&#039;Seltsame Leiden eines Theater-Direktors&#039;&#039; 1819年）&lt;br /&gt;
* ちびのツァヒェスまたの俗称をツィノーバー（&#039;&#039;Klein Zaches, genannt Zinnober&#039;&#039; 1819年）&lt;br /&gt;
* ゼラピオン同人集（&#039;&#039;Die Serapionsbrüder&#039;&#039;、1819年）&lt;br /&gt;
** 隠者ゼラピオン（&#039;&#039;Der Einsiedler Serapion&#039;&#039;）&lt;br /&gt;
** マルティン親方とその弟子たち（&#039;&#039;Meister Martin der Küfner und seine Gesellen&#039;&#039;）&lt;br /&gt;
** クレスペル顧問官（&#039;&#039;Rat Krespel&#039;&#039;）&lt;br /&gt;
** フェルマータ（&#039;&#039;Die Fermate&#039;&#039;）&lt;br /&gt;
** 詩人と作曲家（&#039;&#039;Der Dichter und der Komponist&#039;&#039;） &lt;br /&gt;
** 3人の友人の生活から一篇の断章（&#039;&#039;Ein Fragment aus dem Leben dreier Freunde&#039;&#039;）&lt;br /&gt;
** アーサー王宮（&#039;&#039;Der Artushof&#039;&#039;） &lt;br /&gt;
** ファールン鉱山（&#039;&#039;Die Bergwerke zu Falun&#039;&#039;）&lt;br /&gt;
** [[くるみ割り人形とねずみの王様]]（&#039;&#039;Nußknacker und Mausekönig&#039;&#039;、1816年）&lt;br /&gt;
** 歌合戦（Der Kampf der Sänger&#039;&#039;） &lt;br /&gt;
** 幽霊譚（&#039;&#039;Eine Spukgeschichte&#039;&#039;） &lt;br /&gt;
** 自動人形（&#039;&#039;Die Automate&#039;&#039;）&lt;br /&gt;
** ヴェネツィアの総督と総督夫人（&#039;&#039;Doge und Dogaresse&#039;&#039;）&lt;br /&gt;
** 新旧協会音楽問答（&#039;&#039;Alte und neue Kirchenmusik&#039;&#039;）&lt;br /&gt;
** 樽屋の親方マルティンとその若衆たち（&#039;&#039;Meister Martin der Küfner und seine Gesellen&#039;&#039;）&lt;br /&gt;
** 見知らぬ子供（&#039;&#039;Das fremde Kind&#039;&#039;）&lt;br /&gt;
** さる有名な人物の消息（&#039;&#039;Nachricht aus dem Leben eines bekannten Mannes&#039;&#039;）&lt;br /&gt;
** 花嫁選び（&#039;&#039;Die Brautwahl&#039;&#039;）&lt;br /&gt;
** 不気味な訪問者（&#039;&#039;Der unheimliche Gast&#039;&#039;） &lt;br /&gt;
** スキュデリ嬢（&#039;&#039;Das Fräulein von Scuderi&#039;&#039;）&lt;br /&gt;
** 賭事師の運 （&#039;&#039;Spielerglück&#039;&#039;、1819年）&lt;br /&gt;
** 男爵フォン・B.という人物（&#039;&#039;Der Baron von B.&#039;&#039;） &lt;br /&gt;
** シニョール・フォルミカ&#039;&#039;（Signor Formica&#039;&#039;）&lt;br /&gt;
** ツァハリーアス・ヴェルナー（&#039;&#039;Zacharias Werner&#039;&#039;）&lt;br /&gt;
** 幻のごと現われしもの（&#039;&#039;Erscheinungen&#039;&#039;）&lt;br /&gt;
** 物事の関連性（&#039;&#039;Der Zusammenhang der Dinge&#039;&#039;）&lt;br /&gt;
** ヴァンパイアリズム（&#039;&#039;Vampirismus&#039;&#039;）&lt;br /&gt;
** 美的趣味のティーパーティー （&#039;&#039;Die ästhetische Teegesellschaft&#039;&#039;）&lt;br /&gt;
** 王さまの花嫁 （&#039;&#039;Die Königsbraut&#039;&#039;） &lt;br /&gt;
* [[ブランビラ王女]]（&#039;&#039;Prinzessin Brambilla&#039;&#039;、1820年）&lt;br /&gt;
* [[牡猫ムルの人生観]]（&#039;&#039;Lebensansichten des Katers Murr&#039;&#039;、1820年）&lt;br /&gt;
* 誤謬（&#039;&#039;Die Irrungen&#039;&#039;、1820年）&lt;br /&gt;
* 秘密（&#039;&#039;Die Geheimnisse&#039;&#039;、1821年）&lt;br /&gt;
* ドッペルゲンガー（&#039;&#039;Die Doppeltgänger&#039;&#039;、1821年）&lt;br /&gt;
* [[蚤の親方]]（&#039;&#039;Meister Floh&#039;&#039;、1822年）&lt;br /&gt;
* 隅の窓（&#039;&#039;Des Vetters Eckfenster&#039;&#039;、1822年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 音楽 ===&lt;br /&gt;
==== 歌劇 ====&lt;br /&gt;
* 『ウンディーネ』（&#039;&#039;Undine&#039;&#039;、Zauberoper、1814年。1816年初演）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 管弦楽曲 ====&lt;br /&gt;
* 交響曲変ホ長調（1806年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 室内楽曲 ====&lt;br /&gt;
* ハープ五重奏曲ハ短調（1807年）&lt;br /&gt;
* ピアノ三重奏曲ホ長調（1809年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ピアノ曲 ====&lt;br /&gt;
* ロンド（1795年）&lt;br /&gt;
* 5つのピアノ・ソナタ（イ長調、ヘ短調、ヘ長調、ヘ短調、嬰ハ短調）（1805-1808年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 教会音楽 ====&lt;br /&gt;
* ミサ曲ニ短調（&#039;&#039;Messa d-Moll&#039;&#039;、1805年）&lt;br /&gt;
* ミゼレーレ変ロ短調（&#039;&#039;Miserere b-Moll&#039;&#039;、1809年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 合唱曲 ====&lt;br /&gt;
* 「夜の歌 − 静かで崇高な夜」作品77（&#039;&#039;Nachtgesang – Still und hehr die Nacht&#039;&#039;、1819年）&lt;br /&gt;
* 「トルコの音楽」作品78（&#039;&#039;Türkische Musik&#039;&#039;、1820年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
この版では主にエーバーハルト・ロータース『E.T.A.ホフマンの世界』を参照している。&lt;br /&gt;
* E.T.A.ホフマン 『ホフマン全集』 深田甫訳、創土社、1971年-1993年&lt;br /&gt;
* ヴェルナー・ベルゲングリューン 『E.T.A.ホフマン ―幻想の芸術』 大森五郎訳、朝日出版社、1971年&lt;br /&gt;
* ジャン=リュック・スタインメッツ『幻想文学』中島さおり訳 白水社 1993年&lt;br /&gt;
* リュディガー ザフランスキー 『E.T.A.ホフマン―ある懐疑的な夢想家の生涯』 識名章喜訳、1994年&lt;br /&gt;
* エーバーハルト・ロータース 『E.T.A.ホフマンの世界』 金森誠也訳、吉夏社、2000年&lt;br /&gt;
* 木野光司 『ロマン主義の自我・幻想・都市像 ―E.T.A.ホフマンの文学世界』 関西大学出版会、2002年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
{{Wikisourcelang|de|E. T. A. Hoffmann|E.T.A.ホフマン}}&lt;br /&gt;
{{Wikiquote|de:E. T. A. Hoffmann|E.T.A.ホフマン}}&lt;br /&gt;
{{Commonscat|E. T. A. Hoffmann|E.T.A.ホフマン}}&lt;br /&gt;
*{{青空文庫著作者|1058|ホフマン エルンスト・テオドーア・アマーデウス}}&lt;br /&gt;
*{{DNB-Portal|118552465}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Normdaten|PND=118552465|LCCN=n/80/75856|VIAF=29535422}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ほふまん えるんすと}}&lt;br /&gt;
[[Category:E.T.A.ホフマン|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツの小説家]]&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツの詩人]]&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツの作曲家]]&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツの画家]]&lt;br /&gt;
[[Category:ロマン主義]]&lt;br /&gt;
[[Category:ロマン派の作曲家]]&lt;br /&gt;
[[Category:オペラ作曲家]]&lt;br /&gt;
[[Category:ケーニヒスベルク出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:結核で死亡した人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1776年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1822年没]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Link GA|de}}&lt;br /&gt;
{{Link GA|fr}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.231.47.46</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E6%9D%89%E6%9D%91%E5%A4%AA%E8%94%B5&amp;diff=221508</id>
		<title>杉村太蔵</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E6%9D%89%E6%9D%91%E5%A4%AA%E8%94%B5&amp;diff=221508"/>
		<updated>2014-08-17T15:18:38Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.231.47.46: /* 関連項目 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{政治家&lt;br /&gt;
|人名 = 杉村 太蔵&lt;br /&gt;
|各国語表記 = すぎむら たいぞう&lt;br /&gt;
|画像 = &lt;br /&gt;
|画像説明 = &lt;br /&gt;
|国略称 = {{JPN}}&lt;br /&gt;
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1979|8|13}}&lt;br /&gt;
|出生地 = [[北海道]][[旭川市]]&lt;br /&gt;
|没年月日 = &lt;br /&gt;
|死没地 = &lt;br /&gt;
|出身校 = [[北海道札幌藻岩高等学校]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[筑波大学]]体育専門学群中退&lt;br /&gt;
|前職 = 派遣社員&lt;br /&gt;
|現職 = [[タレント]][http://www.sugimurataizo.com/login 杉村太蔵公式サイト]、政治評論家&lt;br /&gt;
|所属政党 = （[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]→）&amp;lt;br /&amp;gt;（[[たちあがれ日本]]→）&amp;lt;br /&amp;gt;[[無所属]]&lt;br /&gt;
|称号・勲章 = &lt;br /&gt;
|親族（政治家） = &lt;br /&gt;
|配偶者 = あり&lt;br /&gt;
|サイン = &lt;br /&gt;
|国旗 = JPN&lt;br /&gt;
|職名 = [[衆議院|衆議院議員]]&lt;br /&gt;
|内閣 = &lt;br /&gt;
|選挙区 = [[比例南関東ブロック]]&lt;br /&gt;
|当選回数 = 1回&lt;br /&gt;
|就任日 = [[2005年]][[9月12日]]&lt;br /&gt;
|退任日 = [[2009年]][[7月21日]]&lt;br /&gt;
|所属委員会 = &lt;br /&gt;
|議員会館 = &lt;br /&gt;
|元首職 = &lt;br /&gt;
|元首 = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;杉村 太蔵&#039;&#039;&#039;（すぎむら たいぞう、[[1979年]]〈昭和54年〉[[8月13日]] - ）は、[[タレント]]、[[政治家]]、政治評論家。元[[衆議院|衆議院議員]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
=== 出生から学生時代まで ===&lt;br /&gt;
[[北海道]][[旭川市]]に生まれる。父、祖父は[[歯科医]]、[[曾祖父]]は[[弁護士]]&amp;lt;ref name=&amp;quot;diamond34741&amp;quot;&amp;gt;[http://diamond.jp/articles/-/34741 「3つの原則」でつかんだ 社会人1年目のシンデレラ・ストーリー杉村太蔵 ＜前編＞]&amp;lt;/ref&amp;gt;。三兄弟の長男である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小学校4年生の時から、親の影響でテニスをはじめた&amp;lt;ref&amp;gt;『スポーツ対談　杉村太蔵　氏: 杉山記一のブログ』（2011年1月25日 (火)）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[北海道札幌藻岩高等学校]]在学時の[[1997年]]（平成9年）に、[[テニス]]の[[第52回国民体育大会|なみはや]][[国民体育大会|国体]]少年男子ダブルスで優勝をした&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.japan-sports.or.jp/Portals/0/images/archives/01_kokutai.pdf 国民体育大会記録集【第1回（1946）～第65回（2010）】PDF　483ページ、日本体育協会]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[筑波大学]]体育専門学群にスポーツ推薦で入学した。曾祖父が弁護士だったため大学時代、弁護士を目指して勉強をしていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;diamond34741&amp;quot;/&amp;gt;。体育専門の学群から法学専攻（第一学群社会学類法学主専攻）への転部はかなわず、[[司法試験 (日本)|司法試験]]の勉強をしたものの、そのまま6年通った大学を[[中退]]することになった&amp;lt;ref name=&amp;quot;diamond34741&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 出馬・政界入り ===&lt;br /&gt;
大学在学中、[[民主党 (日本 1998-)|民主党]]の[[鳩山由紀夫]]の事務所でアルバイトをしていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
筑波大学を中退後、就職活動が上手くいかず、旭川の実家に「もう帰ろうと思う」と弱音を吐いたところ、父に「帰ってくるな。働けないなら死ね」と言われて、目が覚め、「それぐらいでないと人間は生きていけないと悟った」と後に語っている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.news-postseven.com/archives/20120627_122638.html 杉村太蔵　25才ニートの母に「メシ作るな、兵糧攻めにしろ」2012.06.27 07:02]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、[[総理大臣官邸]]の隣りにある[[山王パークタワー]]でビル清掃員のアルバイトをする。トイレ掃除なども行っていたが、この時に職業に貴賤は無いと悟る。また、同僚の年配の人々と親しくなり、のちに選挙事務所を手伝ってくれた人もいた。ある日の勤務中、ビル内清掃で顔なじみになっていた[[ドイツ銀行|ドイツ証券]]のグレン・ウッドという人物から「キミは若いし、そんなに頭も悪そうじゃない。1週間後、うち（ドイツ証券）の入社試験をぜひ受けなさい」と声をかけられる&amp;lt;ref&amp;gt;[http://wpb.shueisha.co.jp/2011/10/11/7366/ 杉村太蔵「今は無職。あえて肩書きがあるとすれば『杉村太蔵』2011.10.11]&amp;lt;/ref&amp;gt;、試験を受けて契約社員として働くようになった。清掃員の同僚に報告をするといつもは集まらない面々が一同に介して就職祝いの宴を張ってくれ、新たな門出を祝ってもらったという。ドイツ証券では株式調査部に&amp;lt;!--派遣社員として（←契約社員なのか派遣社員なのか、どっち？--&amp;gt;勤務した。証券アナリストへ新聞や郵便の配達等、庶務業務を行っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ある時、グレン・ウッドから郵政民営化の動向を調査するように依頼をされ、調査を行っている[[2005年]]（平成17年）の[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]の公式サイトをみて候補者公募を知り、その一次審査の論文課題が自分がまさに調査していた『郵政民営化と構造改革について』であったため応募した。翌日に自民党本部から『すぐ来られますか?』と電話があり、その後5度の面接を経て公募に合格した&amp;lt;ref&amp;gt;&amp;quot;「チルドレン」何を思う&amp;quot; 2012年12月15日付[[朝日新聞]]夕刊（大阪本社3版）8面&amp;lt;/ref&amp;gt;（元参議院議員で太蔵の「教育係」を勝手に名乗っていた[[大仁田厚]]の著書『国会デスマッチ』によると、太蔵の父親は元々北海道で当時自民党幹事長だった武部勤の後援会の有力支持者であるとのことだが、選挙にその父親が出るわけにはいかず息子である太蔵を比例名簿に登載させることにしたらしい）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[郵政解散]]を受けて行われた[[2005年]]（平成17年）[[9月11日]]の[[第44回衆議院議員総選挙]]で、自由民主党福岡県支部連合会から[[福岡県第1区|福岡1区]]出馬の推薦を取り付けたが、党本部が難色を示したため、比例南関東ブロック35位での出馬となった。この総選挙は都市部を中心に自民党が圧勝し同ブロックの多くの候補者が次々と[[小選挙区]]で当選し順位が繰り上がったことで当選を果たした。その後、テレビのインタビュー{{要出典|date=2012年6月}}で自分は「ヒラリーマン」（ヒラのサラリーマンという意味の造語）にすぎない旨を述べた。その後もインタビューで「黒塗りのハイヤーに乗って[[料亭]]通いしたい」、「[[議員宿舎]]への入居が楽しみでしょうがない」、「（選挙後）真っ先に国会議員の給料を調べました」、「[[議員報酬]]で[[BMW]]を買いたい」、「無料パスで[[グリーン車]]に乗り放題」など、自由奔放な発言を連発した{{要出典|date=2014年6月}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 衆議院議員として ===&lt;br /&gt;
本人はフリーター・[[ニート]]問題について主に取り組んでいると公言していた{{要出典|date=2014年6月}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当選直後からテレビ取材での様々な発言をして、「棚からぼた餅という言葉は僕のためにあるような言葉」、「[[佐藤ゆかり|ゆかりタン]]と僕とでは同じ外資系でも天と地の差ですよ」、「120%小泉チルドレンでございます」、「歩き方も分からないのでキッチリ[[派閥]]に入って勉強します、ハイ…」（その後記者から「小泉が新人議員に派閥に入るなと指示」と聞かされ）「…え、総理が派閥に入るなと!?総理が!!?総理がおっしゃるならその通りだと」などがメディアで話題になった。国会議員としてあまりに軽率な発言が目立ったため、テレビ局の取材中に、当時の[[自由民主党幹事長|自民党幹事長]]であった[[武部勤]]から厳重注意を受ける。後に、党本部にて単独記者会見を行い、謝罪する結果となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
選択的[[夫婦別姓]]制度導入に反対していた&amp;lt;ref&amp;gt;読売新聞2010年参院選　各党候補者アンケート&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===「新しい風」の入会と退会===&lt;br /&gt;
議員当選直後から武部に師事して、武部が作った勉強会「[[新しい風 (自民党)|新しい風]]」に入会。同会の『夕張再生プロジェクト』の座長に就任した。その後も[[第21回参議院議員通常選挙|参院選]]の北海道選挙区総決起集会などに参加している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、[[2007年]]（平成19年）の自民党総裁選で武部が「新しい風」において[[福田康夫]]を推すことでまとめたことに対し反発して、「新しい風」を脱会した。総裁選挙では[[麻生太郎]]に投票した&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news &lt;br /&gt;
 |url = http://www.nikkansports.com/general/p-gn-tp0-20070924-260518.html&lt;br /&gt;
 |title = 太蔵議員「戦う姿勢に共感」麻生氏に投票&lt;br /&gt;
 |publisher = [[日刊スポーツ]]&lt;br /&gt;
 |date = 2007-09-24&lt;br /&gt;
 |accessdate = 2009-08-27&lt;br /&gt;
}}{{リンク切れ|date=2012年3月}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[日本テレビ放送網|日本テレビ]] 『[[真相報道 バンキシャ!]]』（2007年9月23日放送）のカメラの覗き見によるもの。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 公認候補争い ===&lt;br /&gt;
[[第45回衆議院議員総選挙]]では[[北海道第1区|北海道1区]]（札幌市中央区・南区・西区）からの小選挙区立候補を表明した。既に自民党の公認申請をしており、公認はまだ決定してなかったが、「いくら若くても、私は現職です。現職には現職の強みがあります。大臣に会おうと思えば会えるんです」「公認するかしないかは党の判断ですが、選挙に出るか出ないかは私の判断です。私は誰が何と言おうと[[北海道1区|北海道第1区]]から出馬します」と宣言した&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news &lt;br /&gt;
 |url = http://www.zakzak.co.jp/top/2007_12/t2007121202_all.html&lt;br /&gt;
 |title = 太蔵出馬へ強行突破宣言「出るかは私の判断!」&lt;br /&gt;
 |publisher = [[夕刊フジ]]&lt;br /&gt;
 |date = 2007-12-12&lt;br /&gt;
 |accessdate = 2007-12-12&lt;br /&gt;
}}{{リンク切れ|date=2012年3月}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
候補者選考委員会は、杉村とYOSAKOIソーラン祭りの創始者である[[長谷川岳]]の両名による演説で、党員の意向を調整しようとしていたが、杉村はそれを無視&amp;lt;ref&amp;gt;『太蔵氏、討論会リタイアへ…「自民党公認」事実上消滅』 [[スポーツ報知]]、2007年12月15日。&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[2007年]]（平成19年）[[12月30日]]、選考委員会が長谷川を公認することを[[2008年]]（平成20年）[[1月8日]]の役員会で正式決定して、党本部に長谷川の公認申請を行なった。その後も無所属での出馬を模索していたが、最終的に出馬を断念して、[[2009年]]（平成21年）[[6月4日]]に自民党本部で記者会見を開き、次回総選挙への不出馬を表明した。記者会見では「いずれひと回りもふた回りも大きくなって、この場に挑戦したい。捲土重来を期したい」とコメントし、機会があれば国政復帰に挑戦したいとの意向を表明した&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news &lt;br /&gt;
 |url = http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090604/stt0906041759007-n1.htm &lt;br /&gt;
 |title = タイゾー議員、出馬断念 「大きくなってまた挑戦したい」&lt;br /&gt;
 |publisher = [[産経新聞]]&lt;br /&gt;
 |date = 2009-06-04&lt;br /&gt;
 |accessdate = 2009-06-04&lt;br /&gt;
}}{{リンク切れ|date=2012年3月}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2009年]]（平成21年）[[7月21日]]の[[衆議院解散]]に伴い、1期で衆議院議員の任期を終えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その後 ===&lt;br /&gt;
[[2010年]]（平成22年）[[6月3日]]に[[たちあがれ日本]]が[[第22回参議院議員通常選挙]]の比例代表候補に杉村を擁立すると発表して、同日、杉村は自民党に離党届を提出した&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|date=2010-06-03|url=http://www.yomiuri.co.jp/election/sangiin/2010/news1/20100603-OYT1T00714.htm|title=たちあがれ日本、杉村太蔵氏を比例選に擁立|publisher=読売新聞|accessdate=2011-01-14}}&amp;lt;/ref&amp;gt;が、[[2010年]][[7月11日]]投票の結果、党の候補者9人中6位の31,146票で落選した&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|date=2010-07|url=http://mainichi.jp/select/seiji/10saninsen/mai/kaihyo/hirei_ichiran.php?sid=046|title=2010参院選|publisher=毎日新聞|accessdate=2011-09-20}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。落選後は、テレビの出演依頼を受けCMやTVバラエティ番組などに出演するようになり、「薄口政治評論家」として、女性国会議員たちの[[パンチラ]]などについて解説するようになった&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.j-cast.com/2012/06/11135240.html 「小池百合子も蓮舫もパンチラが凄い」　杉村太蔵の余りにひどい下劣発言] J-CASTニュース 2012年6月11日&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
[[芸能人生活保護不正受給問題]]では問題提起を行った[[片山さつき]]参議院議員に対して、「国会議員として基本的人権の感覚はあるのか？ なぜ個人攻撃をするのか」「目立ちたかっただけ。河本の実名を出せば自分が有名になれるから」などの批判を行った。これに対して片山は「問題を追及し、法律を変えていくのが私たちの仕事ですから」と理解を求めた&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2012/06/03/kiji/K20120603003386700.html 片山さつき議員　杉村太蔵の批判にも冷静「問題を追及するのが仕事」] スポーツニッポン 2012年6月3日&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2011年]]（平成23年）、[[たちあがれ日本]]を離党した&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web&lt;br /&gt;
|url=http://www.tachiagare.jp/site/question.php&lt;br /&gt;
|title=よくある質問 - たちあがれ日本&lt;br /&gt;
|accessdate=2012年1月1日&lt;br /&gt;
}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== その他 ==&lt;br /&gt;
自身も所属する小泉チルドレンによる[[83会]]について、「あんなの意味あるんですかね」、「学級会みたいじゃないですか&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web&lt;br /&gt;
|author=杉村太蔵&lt;br /&gt;
|date=2006-02-02&lt;br /&gt;
|url=http://sugimurataizo.net/2006/02/post_125.html&lt;br /&gt;
|title=それにしても83会。&lt;br /&gt;
|work=杉村太蔵ブログ&lt;br /&gt;
|archiveurl=http://web.archive.org/web/20060210053954/sugimurataizo.net/2006/02/post_125.html&lt;br /&gt;
|archivedate=2006-02-10&lt;br /&gt;
|accessdate=2009-08-27&lt;br /&gt;
}}&amp;lt;/ref&amp;gt;」、「おじさん、おばさんの井戸端会議状態」などと発言している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2007年]]（平成19年）[[3月7日]]の自身のブログで[[赤ちゃんポスト]]について、「ここで政治家として国民の生命を守る責務を負った立場から一言申し上げると、どのようなご時世であろうとも、常識ではおよそ考えつかないような、とんでもなく無責任な親は、たとえ数は少なくても絶対数存在する、となると、『産んだはいいけど、育てられない』よって、例えば赤ちゃんをロッカーに入れてしまうだとか、捨ててしまうだとか、そうした胸が張り裂けそうになるような事件が起きているのも事実です。生まれてくる赤ちゃんには何の罪もないのに」と述べている&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web&lt;br /&gt;
|author=杉村太蔵&lt;br /&gt;
|date=2007-03-07&lt;br /&gt;
|url=http://www.sugimurataizo.net/2007/03/post_269.html&lt;br /&gt;
|title=赤ちゃんポストについて&lt;br /&gt;
|work=杉村太蔵ブログ&lt;br /&gt;
|archiveurl=http://web.archive.org/web/20070810022006/www.sugimurataizo.net/2007/03/post_269.html&lt;br /&gt;
|archivedate=2007-08-10&lt;br /&gt;
|accessdate=2009-08-27&lt;br /&gt;
}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2007年]]（平成19年）[[7月12日]]の自身の[[ブログ]]にて、[[赤城徳彦]][[農林水産大臣]]の「政治とカネ」の問題について、「はっきり申し上げて、いい加減にしていただきたいですね。うんざりでございます」などと批判した上、[[領収書]]を公開すべきだと主張した&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web&lt;br /&gt;
|author=杉村太蔵&lt;br /&gt;
|date=2007-07-12&lt;br /&gt;
|url=http://www.sugimurataizo.net/2007/07/post_285.html&lt;br /&gt;
|title=政治とカネについて&lt;br /&gt;
|work=杉村太蔵ブログ&lt;br /&gt;
|archiveurl=http://web.archive.org/web/20070821152859/www.sugimurataizo.net/2007/07/post_285.html&lt;br /&gt;
|archivedate=2007-08-21&lt;br /&gt;
|accessdate=2009-08-27&lt;br /&gt;
}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2006年]]（平成18年）頃に公設第2秘書の[[公募]]をして[[フリーター]]・[[ニート]]の[[若者]]を採用すると見られたが、結局公募による採用はしなかった。詳細や本人の会見などは開かれていないが、[[2008年]]（平成20年）[[8月28日]]に[[公設秘書]]の一人が[[自殺]]を図り&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news &lt;br /&gt;
 |url = http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/080828/crm0808281211009-n1.htm&lt;br /&gt;
 |title = 杉村太蔵議員の秘書が自殺未遂&lt;br /&gt;
 |publisher = 産経新聞&lt;br /&gt;
 |date = 2008-08-28&lt;br /&gt;
 |accessdate = 2009-08-27&lt;br /&gt;
}}{{リンク切れ|date=2012年3月}}&amp;lt;/ref&amp;gt;、同年[[9月11日]]に死亡した&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news &lt;br /&gt;
 |url = http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp3-20080911-407290.html&lt;br /&gt;
 |title = 重体だった杉村太蔵議員の秘書死亡&lt;br /&gt;
 |publisher = 日刊スポーツ&lt;br /&gt;
 |date = 2008-09-11&lt;br /&gt;
 |accessdate = 2009-08-27&lt;br /&gt;
}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2009年]]（平成21年）の衆院選出馬断念のあと、一旦、地元の[[旭川市|旭川]]に戻り、その後政治の勉強をし直すために北米など世界各国を渡り歩き、雇用政策などに関する書籍約150冊を読むなど猛勉強したという&amp;lt;ref&amp;gt;[[ワイド!スクランブル]] [[2009年]][[12月29日]]放送&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news &lt;br /&gt;
 |url = http://megalodon.jp/2010-0708-0821-18/hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20100704-OHT1T00080.htm&lt;br /&gt;
 |title = 太蔵候補、大変心!?丸刈り頭で演説冒頭は謝罪&lt;br /&gt;
 |publisher = スポーツ報知&lt;br /&gt;
 |date = 2010-07-04&lt;br /&gt;
 |accessdate = 2010-07-29&lt;br /&gt;
}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2011年]]（平成23年）の[[東日本大震災]]の発生をうけ、[[サンデージャポン]]の番組企画において何度か被災地入りしている&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|date=2011-06-12|url=http://www.j-cast.com/2011/06/12098179.html?p=all|title=政治＆タレントどっちつかず　「杉村太蔵」今後の身の振り方|publisher=J-CASTニュース|accessdate=2011-09-20}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 家族 ==&lt;br /&gt;
=== 杉村家===&lt;br /&gt;
衆議院議員在職中の[[2005年]]に[[群馬県]]出身の女性（実業家の娘で当時[[OL]]）と[[結婚]]。子どもが2人いる。『[[SPA!]]』[[2007年]][[7月3日]]号で、自身が担当するコラムにて、新米親としての育児体験談の中に生後2か月の長女を[[議員宿舎]]に残して夫妻で1時間ほどの外食に出た際に、長女が[[脱水 (医療)|脱水症状]]を起こしていたことを語った。『[[女性セブン]]』は[[2007年]][[7月19日]]号でこれを取り上げ、[[ネグレクト]]であることを指摘し、脱水症状で[[ショック|ショック状態]]を引き起こせば冗談事では済まされないことになったとも指摘している。杉村は長女の容態について「3ヶ月検診の結果、異常はみられなかった」と自身のブログで釈明している&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web&lt;br /&gt;
|author=杉村太蔵&lt;br /&gt;
|date=2007-07-05&lt;br /&gt;
|url=http://www.sugimurataizo.net/2007/07/post_283.html&lt;br /&gt;
|title=娘の三か月検診がありました&lt;br /&gt;
|work=杉村太蔵ブログ&lt;br /&gt;
|archiveurl=http://web.archive.org/web/20070821153238/www.sugimurataizo.net/2007/07/post_283.html&lt;br /&gt;
|archivedate=2007-08-21&lt;br /&gt;
|accessdate=2009-08-27&lt;br /&gt;
}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出演 ==&lt;br /&gt;
=== テレビ===&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- 単発のゲスト出演は不要。レギュラー番組のみ記述をお願いします。「Wikipedia:ウィキプロジェクト 芸能人」参照 --&amp;gt;&lt;br /&gt;
* Jリーグ2011 〜[[Jリーグ]] ディビジョン1 第13節 [[浦和レッズ]]×[[アルビレックス新潟]]〜（2011年5月28日、[[TBSテレビ|TBS]]） - 副音声&lt;br /&gt;
* [http://www.mxtv.co.jp/gold/ Golden Hour]（水曜日）[[TOKYO MXTV]]&lt;br /&gt;
* [[ナニコレ珍百景]] - 「珍百景党」党首として&lt;br /&gt;
* [[爆報! THE フライデー]] -　レポーター&lt;br /&gt;
* [[サンデージャポン]] - コメンテーター。&lt;br /&gt;
* [[run for money 逃走中]]（[[フジテレビ]]）(2011年3月6日、10月9日、12月20日)&lt;br /&gt;
* [[battle for money 戦闘中]]（[[フジテレビ]]）(2012年3月30日、5月19日、2013年6月30日)&lt;br /&gt;
* [[幸せ!ボンビーガール]]（[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]）&lt;br /&gt;
他多数&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== テレビドラマ ===&lt;br /&gt;
* [[ナサケの女 〜国税局査察官〜]] 最終話（2010年12月9日、テレビ朝日） - 中山知道 役&lt;br /&gt;
* [[黒の女教師]] 第5話（2012年8月17日、TBS）　- 永井浩 役&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ラジオ ===&lt;br /&gt;
* TBSラジオおトクな春を迎えよう!新生活応援キャンペーン（2014年3月10日 - 3月16日、TBSラジオ） - TBSラジオ新生活応援大使&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== CM ===&lt;br /&gt;
* [[ソフトバンクモバイル]] ホワイト学割 with 家族 2011「ガッツ先生編」（2011年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 雑誌===&lt;br /&gt;
*『[[SPA!]]』（2007年2月6日号）にて、かつて司法試験受験生であったと述べたものの、[[民法]]と[[刑法]]の違いを問われしどろもどろになった。受験歴などについては一切触れていない。また、衆議院選挙に初当選直後、司法試験の受験指導を受けていた[[伊藤塾]]に赴き、当選を機にもう一度[[憲法]]を勉強し直したいと言って憲法の教材を購入した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[83会]]&lt;br /&gt;
* [[新しい風 (自民党)|新しい風]]&lt;br /&gt;
* [[ムダヅモ無き改革]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.sugimurataizo.com/login 杉村太蔵公式サイト]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{s-start}}&lt;br /&gt;
{{s-hon}}&lt;br /&gt;
{{succession box &lt;br /&gt;
| title= 最年少衆議院議員&lt;br /&gt;
| before= [[寺田学]]&lt;br /&gt;
| after= [[松岡広隆]]&lt;br /&gt;
| years= 2005年 - 2009年}}&lt;br /&gt;
{{s-end}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:すきむら たいそう}}&lt;br /&gt;
[[Category:比例南関東ブロック選出の衆議院議員]]&lt;br /&gt;
[[Category:自由民主党の衆議院議員]]&lt;br /&gt;
[[Category:たちあがれ日本の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:83会]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本のタレント]]&lt;br /&gt;
[[Category:北海道出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1979年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.231.47.46</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E4%B8%B8%E6%AD%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6&amp;diff=55435</id>
		<title>丸正事件</title>
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		<updated>2014-08-11T16:40:21Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.231.47.46: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;丸正事件&#039;&#039;&#039;（まるしょうじけん）は1955年に[[静岡県]]で発生した殺人[[事件]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
1955年に発生した殺人事件であり、起訴された2人の人間の[[冤罪]]疑惑があるとして注目された事件である。主犯として立件された人間が[[在日韓国人]]だったことで、冤罪を主張する立場からは在日韓国人に対する偏見による立件であると指摘していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それだけでなく、被疑者の弁護人が2人の犯人とする証言をした証人を偽証罪で告訴したり別の人間を名指しで犯人視して殺人罪で告発したり、犯人視された人物が逆に[[名誉毀損罪]]で弁護人を告訴して裁判になったことでも注目を集めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==殺人罪の刑事裁判==&lt;br /&gt;
[[1955年]][[5月11日]]から翌12日朝の間に、[[静岡県]][[三島市]]にある丸正運送店の女性店主が絞殺され預金通帳が無くなっていた。この事件の犯人として、同年[[5月29日]]に沼津市の大一トラックの運転手である李得賢、翌日に運転助手の鈴木一男が逮捕され、強盗殺人罪で起訴された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
李得賢は事件について終始関与を否定、鈴木一男は一度自白をしたものの、それは拷問によるものだとして、その後は一貫して否定した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
検察側は女性店主を絞殺時に使った手拭いが李得賢のものであることや、丸正運送店の近くに大一トラックが停まっていたというタクシー運転手の証言を証拠とした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、この手拭いは大一トラックが昭和29年、30年に年賀用として配られた手拭であった。それゆえ、証拠としての信憑性は薄かった。さらに犯行当日、丸正運送店の近くに大一トラックが停まっていたというタクシー運転手の証言も二転三転し、運転手と一緒にいたとされる者が目撃自体を否定した。また、盗まれたとされた預金通帳は事件からおよそ6ヵ月後に被害者の実家から実印とともに発見され、検察が起訴状で金銭目的とする動機が大きく揺らいだ。しかし、裁判ではこれらの件は殺人認定には揺るがなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2人が犯人として逮捕されたきっかけは、運転していたトラックが東京にたどり着くのが遅かったという事実だけであった。犯行当日、李は非番だったが、当日は顧客からの荷物運送の依頼が多く、会社の要請で李も一社員として引き受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
李達のトラックが東京に向けて沼津を出発した15分後に同じ会社のトラック2台が同じく東京に向けて出発した。ところが先に東京に到着したのが、後続の2台のトラックだった。それから遅れて15分後に李のトラックが到着した。捜査本部は、後続の2台のトラックより到着が遅れたことに不審を抱いた。これが捜査線上に浮上。それに対し、2人の証言は、荷物を満載したトラックゆえエンジンの調子が悪く、オイル切れをしたために国道1号線の箱根峠で注油するのに15分かかり、その間に後続の2台のトラックに追い越されたのだとあくまで主張した。この証言については、弁護人が偽証として告発するも、不起訴となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1957年]]、第一審で李得賢には[[無期懲役]]、鈴木一男には懲役15年の判決が下される。第二審への控訴は棄却、最高裁への上告も棄却された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その後==&lt;br /&gt;
その後、[[1974年]][[4月25日]]、鈴木一男は満期出所、[[1977年]][[6月17日]]には李得賢も[[仮釈放]]された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
度々の仮釈放面接で無実を主張したため、鈴木は未決勾留期間を入れて19年近く服役した。李も同様に無実を主張し続け、犯行を否認したまま仮釈放になる。これは仮釈放の稀な事例である&amp;lt;ref&amp;gt;佐藤友之、真壁旲著『冤罪の戦後史』（1981年、図書出版社）、65ページ。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
二人の出所後、[[再審制度|再審請求]]が行われたが棄却、即時抗告も行われたが棄却、さらに特別抗告が行われているが、1989年1月2日に李得賢が死去、その3年後の1992年12月27日に鈴木一男も死去。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この事件では被害者の死亡時刻や死亡状況の推定について不備が指摘されており、再審請求に際して提出された被害者に関する新鑑定によれば、被害者の死亡時刻には犯人とされた両名ともに[[アリバイ]]が存在している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==被害者親族犯人説と名誉毀損裁判==&lt;br /&gt;
鈴木一男の姉から相談を受けた[[正木ひろし]]の紹介で控訴審から弁護人になった[[鈴木忠五]]（[[三鷹事件]]の一審裁判長）と、控訴棄却後に弁護に加わった正木は、書面審理でほとんどが上告棄却となる最高裁段階での非常手段として、被害者の親族3人が犯人であると上告趣意補充書に記すとともに記者会見を開いて公表した。これはプライバシーの概念が薄かった当時としても異例の出来事であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
親族を犯人だとする主な理由は以下の通り。&lt;br /&gt;
*解剖写真に写る鼻血の跡から被害者は殺害されたとき仰向けだったと考えられる（トラックの応対に出た店頭ではなくて就寝中の殺害である）&lt;br /&gt;
*同居の親族が事件に気付かなかったのは不自然である&lt;br /&gt;
*その親族と被害者は遺産相続を巡って感情的軋轢があった&lt;br /&gt;
*強奪されたはずの通帳が実家から発見された&lt;br /&gt;
*それを見た被害者の母（犯人扱いはされていない）が「死んでしまいたい」と嘆いた&lt;br /&gt;
*後から現場に来た親族の1人は（その前に変更されていて）知るはずのない発見直後の被害者の態様を警察の事情聴取で述べている&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2弁護士は親族3人を東京地検に殺人罪で告発するとともに、上告趣意補充書の内容を単行本「告発」として出版した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、親族3人への告発は不起訴となり、[[検察審査会]]が不起訴不当の議決をしたが、検察は不起訴の結論を変えなかった。逆に親族からの告訴を受け正木ひろしと鈴木忠五を名誉毀損罪で起訴した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この裁判は全国から数十人の弁護士が駆けつけたり推理作家の[[高木彬光]]が特別弁護人になるなどし、「事実上の再審」として注目を集めた。1965年5月、東京地裁は「真犯人の立証は不十分であり、弁護人は正当な弁護活動を逸脱した」として名誉毀損を認定し、2弁護士に対し禁錮6ヶ月執行猶予1年の判決を言い渡した。2弁護士は控訴をするも、1971年2月に東京高裁は控訴棄却。正木ひろしは上告中に死去したため公訴棄却。1976年3月23日、最高裁が上告を棄却し、鈴木忠五の有罪及び被害者親族3人を殺人犯扱いは真犯人の立証は不十分として名誉毀損が確定。冤罪を問題視して活動した弁護人は真犯人の立証が不十分で無実の可能性がある被害者親族3人を殺人犯扱いして、別の意味で冤罪に加担したことになった。有罪確定によって、鈴木忠五は弁護士資格を6ヶ月剥奪された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
冤罪疑惑のある被疑者の弁護において、別の真犯人を提示することは弁護方法の最も優れた方法ともいえる。しかし、捜査権限がない民間人が真犯人を推理することへの限界が指摘される。また、冤罪を問題視して活動をしている人間が、一方で推定無罪で無実の可能性がある人間に対して推定有罪によって冤罪に加担する可能性が出てくることの問題がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連書籍== &lt;br /&gt;
*正木ひろし・鈴木忠五『告発―犯人は別にいる』（実業之日本社）&lt;br /&gt;
*鈴木忠五『世にも不思議な丸正事件』（谷沢書房）&lt;br /&gt;
*[[佐木隆三]]『誓いて我に告げよ』（角川書店）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[冤罪]]&lt;br /&gt;
*[[名誉毀損]]&lt;br /&gt;
*[[首なし事件]]（丸正事件の一審の裁判長・村岡武夫は、正木ひろしも携わった首なし事件の時に、水戸地裁の予審判事だった）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==脚注==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_id=dspDetail&amp;amp;hanreiSrchKbn=01&amp;amp;hanreiNo=26715&amp;amp;hanreiKbn=01 名誉毀損訴訟の最高裁判例]&lt;br /&gt;
* [http://j-footage.vox.com/library/video/6a00d41420c1f0685e00f30f580dbc0001.html スリラーもどきの丸正事件（昭和37年1月14日）] - [[日本映画新社]]・朝日ニュース昭和映像ブログ{{リンク切れ|date=2010年9月}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:まるしようしけん}}&lt;br /&gt;
[[Category:昭和時代の殺人事件 (戦後)]]&lt;br /&gt;
[[Category:1955年の日本の事件]]&lt;br /&gt;
[[Category:三島市の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:在日韓国・朝鮮人の事件]]&lt;br /&gt;
[[Category:無期懲役が確定した日本の殺人事件]]&lt;br /&gt;
[[Category:冤罪が指摘されている事件]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.231.47.46</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3&amp;diff=56162</id>
		<title>モーリス・ルブラン</title>
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		<updated>2014-08-11T13:38:32Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.231.47.46: /* 経歴・人物 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{出典の明記|date=2013年7月11日 (木) 14:06 (UTC)|ソートキー=人1941年没}}&lt;br /&gt;
{{Infobox 作家&lt;br /&gt;
| name          = モーリス・ルブラン&amp;lt;br /&amp;gt;Maurice Leblanc&lt;br /&gt;
| birth_name    = &lt;br /&gt;
| birth_date    = [[1864年]][[12月11日]]&lt;br /&gt;
| birth_place   = {{FRA1852}}、[[ルーアン]]&lt;br /&gt;
| death_date    = {{死亡年月日と没年齢|1864|11|11|1941|11|6}}&lt;br /&gt;
| death_place   = {{FRA1940}}、[[ペルピニャン]]&lt;br /&gt;
| occupation    = &lt;br /&gt;
| nationality   = {{FRA}}&lt;br /&gt;
| period        = &lt;br /&gt;
| genre         = &lt;br /&gt;
| subject       = &lt;br /&gt;
| movement      = &lt;br /&gt;
| notable_works = [[アルセーヌ・ルパン#アルセーヌ・ルパンシリーズ|アルセーヌ・ルパンシリーズ]]&lt;br /&gt;
| awards        = &lt;br /&gt;
| debut_works   = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;モーリス・マリー・エミール・ルブラン&#039;&#039;&#039;（{{lang-fr|Maurice Marie Émile Leblanc}}, [[1864年]][[12月11日]]&amp;lt;ref&amp;gt;出生証明書に次のように記載されている。「1864年12月12日午後3時、モーリス・マリー・エミール・ルブランの出生証明。性別男。昨日午前4時に出生。」なお、[[11月11日]]とする資料もある。&amp;lt;/ref&amp;gt; - [[1941年]][[11月6日]]）は、[[フランス]]の[[小説家]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
怪盗紳士「&#039;&#039;&#039;[[アルセーヌ・ルパン]]&#039;&#039;&#039;」の生みの親として知られる。ルブランの「ルパン」は、しばしば[[イギリス]]の作家[[アーサー・コナン・ドイル]]の生んだ「[[シャーロック・ホームズ]]」と対比される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴・人物 ==&lt;br /&gt;
[[フランス]]・[[ノルマンディー]]の地方都市[[ルーアン]]で生まれる。地元の[[コルネイユ高等学校]]（Lycée Corneille, Lycée Pierre-Corneille）卒業。数ヵ国で学び、ロースクールを落第後、[[ギュスターヴ・フローベール|フローベール]]や[[ギ・ド・モーパッサン|モーパッサン]]らに影響されて[[パリ]]に引っ越し、[[純文学]]作家になる。ルブランの作品は文壇で多少の評価を得たものの収入には結びつかず、40歳を過ぎるまで、うだつの上がらない貧乏作家生活が続く。しかし友人の編集者ピエール・ラフィットに、[[大衆小説]]の執筆を依頼されたことから転機が訪れる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
通俗作家への転向に気が進まないながら、金に困っていたルブランは知恵を絞り、当時ヒットしていた[[シャーロック・ホームズ]]物のアンチヒーローとして、軽妙で魅惑的な「泥棒紳士」の[[アルセーヌ・ルパン]]を創造した。[[1905年]]に発表した第一作の短編「アルセーヌ・ルパンの逮捕」が評判を博し、売り上げも上々であったため、以後ルブランは次々とルパンものを書き続け、結果的に作家人生のほとんどをルパンシリーズへ注ぎ込んだ。ルパンは大成功を収め、ルブランに名声と経済的成功をもたらした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
コナン・ドイルは[[シャーロック・ホームズシリーズ|ホームズシリーズ]]の成功に対してむしろ困惑し、犯罪小説で成功することを、より「尊敬に値する」文学的情熱から遠ざけるもので、生活を妨害されているようでさえあると感じていたともいわれている。同様にルブランも、もともと純文学・心理小説作家を志していた事もあり、[[犯罪#犯罪とフィクション|犯罪小説]]・[[探偵小説]]であるルパンシリーズで名声を博する事に忸怩たるものがあったといわれる。ドイルがホームズを[[ライヘンバッハの滝]]に落としたのと同様、ルブランもルパンを一度自殺させている（『[[813 (小説)|813]]』）。「ルパンが私の影なのではなく、私がルパンの影なのだ」という言葉などにも、その苦悩の跡が見られる。ただ晩年、「ルパンとの出会いは事故のようなものだった。しかし、それは幸運な事故だったのかも知れない」との言葉を残し、その自分の経歴も受け入れられるようになったとも見られている。なお、探偵もの以外の娯楽小説では、[[サイエンス・フィクション|SF]]に分類される『三つの眼』（[[ファーストコンタクト]]・テーマ）、『ノー・マンズ・ランド』がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ルブランは文学への貢献（直接の理由は「国民的英雄・ルパン」の創造）によって[[レジオンドヌール勲章]]を授与され、1941年に[[ペルピニャン]]で亡くなった。死因の一つは[[肺うっ血]]。妹ジョルジェットの死を息子のクロードから伝えられたが、その時にはもう意識が無くなっていた&amp;lt;ref &amp;quot;&amp;gt;Derouard, Jacques. &#039;&#039;Maurice Leblanc –Arsène Lupin malgré lui–&#039;&#039;. Séguier, 1993. p.312&amp;lt;/ref&amp;gt;。亡くなる数週間前に、「ルパンが私の周りに出没して何かと邪魔をする」という趣旨の被害届を警察署に出し、そのため警察官が24時間体制で警備し、最期の日々の平穏を守った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[クロード・モネ]]の絵で有名な大西洋岸の町[[エトルタ]]には、彼の住居を基にしたモーリス・ルブラン記念館、通称「アルセーヌ・ルパンの隠れ家」がある。またモネの絵の題材にもなった有名なエトルタの岸壁は、その頂上に登ると崖の内部に潜れるようになっており、『[[奇巌城]]』に登場する暗号がそのまま金属プレートで掲示されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
伝記ではないが、日本で[[隆巴]]が書き下ろした戯曲『ルパン』は劇中劇のルパンと往還する形でルブランの苦悩を描いた作品であり、初演は[[仲代達矢]]がルブラン、ルパンの二役を演じた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
お金に細かい所があり、経済的に不自由が無くなっても、出版社に鉄道の割引券（permis de circulation）を無心して、南仏などへの旅行に利用していた&amp;lt;ref &amp;quot;&amp;gt;Derouard, Jacques. &#039;&#039;Maurice Leblanc –Arsène Lupin malgré lui–&#039;&#039;. Séguier, 1993. p.302 他&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
ファイル:Museum Maurice Leblanc.jpg|モーリス・ルブラン博物館「ルパンの隠れ家」le Clos Lupin, Musée de Maurice Leblanc&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主な作品 ==&lt;br /&gt;
=== アルセーヌ・ルパンシリーズ ===&lt;br /&gt;
{{See|アルセーヌ・ルパン#アルセーヌ・ルパンシリーズ}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他の小説 ===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;Les Trois Yeux&#039;&#039; 『三つの眼』&amp;lt;!-- 偕成社版邦題 --&amp;gt;『三つの目』&amp;lt;!-- 創元版邦題 --&amp;gt;（1920年）&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;Le Formidable Événement&#039;&#039; 『驚天動地』『ノー・マンズ・ランド』（1921年）&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;Le Cercle rouge&#039;&#039; 『赤い輪』（1922年）&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;Dorothée, Danseuse de Corde&#039;&#039; 『[[女探偵ドロテ]]』『綱渡りのドロテ』（1923年）&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;La Vie extravagante de Balthazar&#039;&#039; 『バルタザールの風変わりな毎日』『バルタザールのとっぴな生活』（1925年）&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;Le Prince de Jéricho&#039;&#039; 『[[ジェリコ公爵]]』（1930年）&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;De minuit à sept heures&#039;&#039; 『真夜中から七時まで』（1932年）&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;Le Chapelet rouge&#039;&#039; 『[[赤い数珠]]』（1934年）（新聞『ラ・ヴォロンテ』連載時の題は&#039;&#039;La Clés mystérieuses&#039;&#039;『謎の鍵』。後に『カリオストロの復讐』に登場するルスラン判事が謎を解く）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
{{wikisourcelang|fr|Maurice Leblanc|モーリス・ルブランの著作}}&lt;br /&gt;
* [[ジョルジェット・ルブラン]] - モーリス・ルブランの妹。女優・歌手。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.biblioweb.org/-LEBLANC-Maurice-.html 伝記。 書誌学]（フランス語）&lt;br /&gt;
* [http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1121.html ルブラン モーリス：作家別作品リスト]（[[青空文庫]]）&lt;br /&gt;
* [http://gw5.geneanet.org/softloft?lang=fr;p=marie+emile+maurice;n=leblanc　家系図]（フランス語）&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:るふらん もおりす}}&lt;br /&gt;
[[Category:フランスの小説家]]&lt;br /&gt;
[[Category:フランスの推理作家]]&lt;br /&gt;
[[Category:フランスのSF作家]]&lt;br /&gt;
[[Category:1864年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1941年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:レジオンドヌール勲章受章者]]&lt;br /&gt;
[[Category:ルーアン出身の人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.231.47.46</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E5%B0%8F%E6%9D%BE%E6%94%BF%E5%A4%AB&amp;diff=99362</id>
		<title>小松政夫</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E5%B0%8F%E6%9D%BE%E6%94%BF%E5%A4%AB&amp;diff=99362"/>
		<updated>2014-08-09T17:55:52Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.231.47.46: /* テレビドラマ */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Infobox お笑い芸人&lt;br /&gt;
| 名前          = 小松 政夫&lt;br /&gt;
| 画像          = &lt;br /&gt;
| キャプション  = &lt;br /&gt;
| 本名          = 松崎 雅臣&amp;lt;ref name=NHK&amp;gt; {{Cite web|date=|url=http://nhk.jp/chronicle/?B10002200090901080030175|title=NHKアーカイブス|publisher=|accessdate=2012-03-03}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
| ニックネーム  = 親分さん&amp;lt;br /&amp;gt;小松の親分&lt;br /&gt;
| 生年月日      = {{生年月日と年齢|1942|1|10}}&lt;br /&gt;
| 没年月日      = &lt;br /&gt;
| 出身地        = {{JPN}}・[[福岡県]][[福岡市]][[博多区]]&lt;br /&gt;
| 血液型        = &lt;br /&gt;
| 身長          = &lt;br /&gt;
| 方言          = [[博多弁]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[標準語]]&lt;br /&gt;
| 最終学歴      = [[福岡県立福岡高等学校]]定時制課程普通科&lt;br /&gt;
| 師匠          = [[植木等]]&lt;br /&gt;
| 出身          = [[RKB毎日放送|RKB]]放送劇団&lt;br /&gt;
| コンビ名      = &lt;br /&gt;
| トリオ名      = &lt;br /&gt;
| グループ名    = &lt;br /&gt;
| 相方          = &lt;br /&gt;
| 芸風          = [[コント]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[ものまね]]&lt;br /&gt;
| 立ち位置      = &lt;br /&gt;
| 事務所        = [http://fine-stage.net/ ファインステージ]&lt;br /&gt;
| 活動時期      = [[1962年]] - &lt;br /&gt;
| 同期          = &lt;br /&gt;
| 現在の代表番組= &lt;br /&gt;
| 過去の代表番組= 『[[シャボン玉ホリデー]]』&amp;lt;br/&amp;gt;『[[笑って笑って60分]]』&amp;lt;br/&amp;gt;『[[みごろ!たべごろ!笑いごろ!]]』 など&lt;br /&gt;
| 作品          = &lt;br /&gt;
| 他の活動      = [[俳優]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[社団法人]][[日本喜劇人協会]]会長（第10代）&lt;br /&gt;
| 配偶者        = &lt;br /&gt;
| 親族          = &lt;br /&gt;
| 弟子          = &lt;br /&gt;
| 公式サイト    = &lt;br /&gt;
| 受賞歴        = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;小松 政夫&#039;&#039;&#039;（こまつ まさお、[[1942年]]&amp;lt;ref name=NHK/&amp;gt;[[1月10日]] - ）は、[[日本]]の[[コメディアン]]、[[タレント]]、[[俳優]]。[[社団法人]][[日本喜劇人協会]]会長（第10代）。本名、&#039;&#039;&#039;松崎 雅臣&#039;&#039;&#039;（まつざき まさおみ）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[福岡県]][[福岡市]]瓦町（現：[[博多区]]上川端町）出身。愛称は&#039;&#039;&#039;親分さん&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;小松の親分&#039;&#039;&#039;（自らのコントから）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 来歴・人物 ==&lt;br /&gt;
=== 生い立ち ===&lt;br /&gt;
[[クラシエホールディングス|鐘紡]]福岡工場（現：[[キャナルシティ博多]]）の近くで育つ。実父は地元の実業家で名士だったが、早くして病死。以後、小松の家族は貧窮を極めた。この頃、小松は自宅前の焼け跡で行われていた[[露天商]]の口上をよく見聞しており、[[サクラ (おとり)|サクラ]]がいるのを知っていたという。それらが自然と身に付き、学生時代から現在に至るまでの小松の明るさや笑いのセンスは作られた&amp;lt;ref&amp;gt;[[朝日新聞]]『人生の贈りもの』より&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[福岡県立福岡高等学校]]定時制課程普通科卒業。高校時代の小松は陽気で努力家だったという。この頃は、亡父が懇意にしていた菓子店・[[石村萬盛堂]]で働くなどして生計を支える&amp;lt;ref name=&amp;quot;daifuku&amp;quot;&amp;gt;同社の商品「塩豆大福」のCMに起用された際、字幕で紹介された。以来、「塩豆大福」のCMに出演する。2009年1月の時点では字幕表示は消えたが、ロケの休憩中にほおばり続けるというものである。&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[RKB毎日放送]]の劇団に所属後、[[1961年]]に[[俳優]]を目指して上京。[[魚河岸]]など様々な職業を経験した後、[[トヨペット店|横浜トヨペット]]のセールスマンになる。セールスマン時代、公募に応募して[[植木等]]の付き人兼運転手となり、その後芸能界入りした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
芸能界入りする前には様々な営業職を転々としたが、自動車セールスマンの職は他業種から引き抜かれて就職したものだった。自動車セールスマン時代の小松はセールストークに長けていたようで、教習所と交渉し、受講者に免許を5日で取得させる手筈まで整えて、免許を持たない人にまで車を買わせるなどしたという&amp;lt;ref name=&amp;quot;tokimeki&amp;quot;&amp;gt;NHK 『ラジオビタミン「ときめきインタビュー」』 本人談&amp;lt;/ref&amp;gt;。そういった顧客とのセールストークや会社内での上司との丁々発止のやりとりにより、小松は周囲から人気を獲得。周囲から押し上げられる形で、小松は[[コメディアン]]を志す。セールスマン時代の体験は、後に数々のギャグの礎となった。なお、セールスマン時代は初任給1万円の時代に月給12万円を稼いでいたが、植木の付き人兼運転手時代の月給はわずか7,000円だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 芸能界デビュー ===&lt;br /&gt;
コメディアンとしてのデビューは『[[シャボン玉ホリデー]]』（[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]）。この番組に出演したきっかけは、同番組に出演していた植木に付いていった際、最年少であったためにスタッフからからかわれたことによる。その時に飛び出したアドリブである「&#039;&#039;&#039;知らない、知らない、知らなぁ〜い&#039;&#039;&#039;」が[[プロデューサー]]の目に留まり、翌日の収録時には台本に小松の出番が設けられていたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
付き人兼運転手からタレントに転身する際、植木からかけられた言葉は「明日から来なくていいから。マネージャーも契約も全部済ませてあるから」というあまりに突然なものだった。「そろそろデビューする頃か」などの前フリも無く、何年ぐらいで独り立ちできるかも知らず、覚悟すら出来ていなかった時期での発言であった。植木から言葉をかけられた後は運転中に涙がボロボロとこぼれ、運転に支障が出るほどだったが、そのことを植木に謝罪するも、植木は優しくそれを制した。この時のことを、小松は「目にワイパーが欲しいぐらいだった」と後に述懐している&amp;lt;ref name=&amp;quot;tokimeki&amp;quot;&amp;gt;NHK 『ラジオビタミン「ときめきインタビュー」』 本人談&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、学校の担任や[[キャバレー (風俗)|キャバレー]]での[[ホステス]]の会話など身近な人からヒントを得たギャグや、レギュラー番組のコーナーからヒットした「電線音頭」（[[1976年]]発売）、「しらけ鳥音頭」（[[1978年]]発売、60万枚を売り上げた）、「タコフン音頭」（[[1980年]]発売）、[[淀川長治]]の[[物真似]]などで一躍人気[[コメディアン]]となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
正式なコンビというわけではなかったが、[[伊東四朗]]との息の合ったコンビ芸は、[[1970年代]]を代表するギャグの一つとして今なお語り継がれている。『[[みごろ!食べごろ!笑いごろ!]]』や『[[笑って!笑って!!60分]]』では「&#039;&#039;&#039;小松の大親分&#039;&#039;&#039;」など数々の名コントを演じた（先の「電線音頭」や「&#039;&#039;&#039;ずんずんずんずん〜小松の大親分♪&#039;&#039;&#039;」、「&#039;&#039;&#039;ニントスハッカッカ&#039;&#039;&#039;」など）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 「お呼びでない」 ===&lt;br /&gt;
[[植木等]]の代表的なギャグ「お呼びでない」が生まれるきっかけを作ったのも、小松である。植木の付き人時代、植木が出演していた生放送番組『シャボン玉ホリデー』（日本テレビ）でのショートコントの最中、小松は勘違いして、出番前ではないのに「出番です」と植木に言ってしまい、植木はつい舞台に出てしまった。当然、周囲は植木の場違いな登場に唖然としたが、その瞬間に植木は機転を利かせて「&#039;&#039;&#039;お呼びでない……? ……こりゃまた失礼致しました!&#039;&#039;&#039;」と[[アドリブ]]を放った&amp;lt;ref name=aoshima&amp;gt;[[青島幸男]] 『わかっちゃいるけど… シャボン玉の頃 』（1988年9月、[[文藝春秋]]） ISBN 4163426205&amp;lt;/ref&amp;gt;。傍で見ていたプロデューサーはこのアドリブに大爆笑し、以後、「お呼びでない」は毎回のように使われるギャグとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、このエピソードについて、小松自身はこのような事実はないと完全否定している。植木の「お別れの会」での[[弔辞]]でも、「『お呼びでない』は小松がきっかけだとオヤジさん（植木）はおっしゃっていたようですが、私はオヤジさんの出番を間違えるようなことはしていないと思うのです」と述べている。そして、「事実でなくても、自分のため（小松を売り出すため）に作ってくれたエピソードであり、本当に感謝している」とも語っている&amp;lt;ref&amp;gt;日刊ゲンダイ 2012年12月28日付&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また植木の逝去直後、[[TBSテレビ]]で放送された追悼特番では、付き人時代から小松単独での番組出演オファーがあった時期のことを「自分は当時まだ勉強中の身でありながら、番組に出るなんてとんでもないと思っていたんです。しかしそれを植木さん&amp;lt;ref&amp;gt;小松は、普段は植木のことを「オヤジさん」と呼んでいたが、この番組では「植木さん」と呼称した。&amp;lt;/ref&amp;gt;に相談したら、すごく喜んで頂いて『結構なことじゃないか。行って来い。行って勉強してきなさい』と、笑顔で背中を押してもらいました。一人で番組に出ることを咎められたことはありませんでした。あの優しさは今も忘れられませんね」と懐古している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 近況 ===&lt;br /&gt;
現在も[[バラエティ番組]]や[[テレビドラマ]]、[[舞台]]など多方面で活躍中である。また、[[1970年代]]後半から[[1990年代]]にかけては『[[パナソニック ドラマシアター]]』（旧『[[ナショナル劇場]]』）や『[[月曜ドラマランド]]』の常連キャストでもあった。時代劇では悪党の子分役などが多かったが、近年では善人役を多く演じている。伊東は小松を「&#039;&#039;&#039;こんなに引き出しのある人はいないんだから&#039;&#039;&#039;」と評し、数多くのギャグの引き出しも健在である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
地元の[[博多祇園山笠]]には、現在でもしばしば参加している。かつては出身の岡流に属していたが、岡流が途絶えた後は、知り合いの多い[[中洲流]]に参加している&amp;lt;ref&amp;gt;2009年の博多祇園山笠で、[[日本放送協会|NHK]]生中継に出演した際の本人談&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2011年]][[6月20日]]、[[社団法人]][[日本喜劇人協会]]の第10代会長に選出された&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web|url=http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20110620-OYT1T00987.htm |accessdate=2011-06-20 |title=日本喜劇人協会の新会長に小松政夫さん|date=2011-06-20|archiveurl=http://web.archive.org/web/20110623085519/http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20110620-OYT1T00987.htm|archivedate=2011-06-23|deadlinkdate=2014-07-22}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主なギャグ ==&lt;br /&gt;
*「どうして! どうしてなの! おせーて!」（焼き鳥屋のカウンターで別れ話をするカップルの会話より）&lt;br /&gt;
*「もーイヤ、もーイヤこんな生活!」（ホステスの会話より）&lt;br /&gt;
*「どーかひとつ」（女性専門に自動車を売り上げていた同僚のセールストークより。 対面する相手の両肩に手を置き、膝を曲げて軽く押さえる）&lt;br /&gt;
*「ながーい目で見てください」（オカマの独り言より。両目尻を手で横に引っ張り長く延ばしながら）&lt;br /&gt;
*「知らない! 知らない! 知らない!もー」（セールスマン時代、厳つい風貌の上司の会話より）&lt;br /&gt;
*「ニンドスハッカッカ、マー! ヒジリキホッキョッキョ! トーベトベトベ[[科学忍者隊ガッチャマン|ガッチャマン]]〜、&amp;lt;ref name=gatchaman&amp;gt;「ガ〜ッチャマン〜」の台詞を言う際には、両手の親指と人指し指で輪を作り、手を逆さに顔にマスクの様に被せて云う。&amp;lt;/ref&amp;gt;ガ〜ッチャマンニマケルナ、マケルナガッチャマン、ワ〜!」（最初の2フレーズは小学校時代の担任の女の先生が小松を励ました時に使った。一種のおまじないより）&lt;br /&gt;
*「表彰状、あんたはエライ! 以下同文…」（「あんたはエライ!」は、旧日本兵の[[小野田寛郎]]が戦後29年ぶりに[[フィリピン]]の[[ルバング島]]から帰国した際に、空港で小野田の母親がかけた言葉がヒントになったといわれる）&lt;br /&gt;
*「悪りーね、悪りーね、[[マレーネ・ディートリッヒ|ワリーネ・デイートリッヒ]]」&lt;br /&gt;
*「よーやる、よーやる、[[ローヤルゼリー|よーやるゼリー]]」&lt;br /&gt;
*「まー随分ね! 随分随分随分ね!」&lt;br /&gt;
*「上手だね、上手だね、西方じょうずだね。東方xxxxだね。福岡県出身、鼻くそ部屋」（xxxxはシーンによって異なる）&lt;br /&gt;
*「暗いね、暗いね、[[アイネ・クライネ・ナハトムジーク]]!」（[[モーツァルト]]の曲より）&lt;br /&gt;
*「そーでしょ? そーでしょ ?そりゃそうだモン」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主な出演作品 ==&lt;br /&gt;
=== バラエティ番組 ===&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- 単発のゲスト出演は不要。レギュラー番組のみ記述をお願いします。「Wikipedia:ウィキプロジェクト 芸能人」参照 --&amp;gt;&lt;br /&gt;
*[[シャボン玉ホリデー]]（不定期出演、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]）&lt;br /&gt;
*[[NTV紅白歌のベストテン]]（日本テレビ）&lt;br /&gt;
*[[ドリフ大爆笑]]（1978年 - 1980年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]） ※[[伊東四朗]]と共にコメディリリーフとして出演&lt;br /&gt;
*[[笑って笑って60分]]（1975年 - 1981年、[[TBSテレビ|TBS]]）&lt;br /&gt;
*[[みごろ!たべごろ!笑いごろ!]]（1976年 - 1979年、[[テレビ朝日|NET]]）&lt;br /&gt;
*[[歌謡ドッキリ大放送]]（1980年 - 1989年、[[テレビ朝日]]）&lt;br /&gt;
*[[今夜は最高!]]（1981年 - 1989年、日本テレビ）&lt;br /&gt;
*[[奥さまお手をどうぞ!]]（1990年 - 1991年、フジテレビ）&lt;br /&gt;
*[[みごろ!たべごろ!ナントカカントカ]]（2004年、テレビ朝日）&lt;br /&gt;
ほか多数&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== テレビドラマ ===&lt;br /&gt;
*[[青空にとび出せ!]] 第5話「恋は青空」（1969年、[[TBSテレビ|TBS]] / [[国際放映]]）&lt;br /&gt;
*[[だいこんの花]]（1970年、[[日本教育テレビ|NET]]）&lt;br /&gt;
*[[坊っちゃん]]（1970年）&lt;br /&gt;
*[[おきあがりこぼし]]（1970年 - 1971年）&lt;br /&gt;
*[[花は花よめ]]（1971年）&lt;br /&gt;
*[[なんたって18歳!]]（1971年、TBS / [[大映テレビ]]）&lt;br /&gt;
*[[知らない同志]]（1972年）&lt;br /&gt;
*[[だから大好き!]]（1972年）&lt;br /&gt;
*[[風の中のあいつ (1973年のテレビドラマ)|風の中のあいつ]]（1973年、TBS）&lt;br /&gt;
*[[唖侍鬼一法眼]] 第14話（1974年、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]] / [[東映]]）&lt;br /&gt;
*[[くるくるくるり]]（1973年 - 1974年）&lt;br /&gt;
*[[幡随院長兵衛 お待ちなせぇ]]（1974年、NET / 東映）&lt;br /&gt;
*[[傷だらけの天使]] 第10話（1974年、日本テレビ / [[東宝]]）&lt;br /&gt;
*[[夜明けの刑事]]（TBS / 大映テレビ）&lt;br /&gt;
**第15話「ウソの結婚・刑事はつらいよ」（1975年）&lt;br /&gt;
**第90話「スッポン刑事の大勝負」（1976年） - 小西 役&lt;br /&gt;
*[[必殺仕置屋稼業]]（1975年、[[ABCテレビ|朝日放送]] / 松竹） - 亀吉 役&lt;br /&gt;
*[[敬礼!さわやかさん]]（1975年、NET） - 佐山刑事 役&lt;br /&gt;
*[[前略おふくろ様]]（1975年 - 1976年、日本テレビ）&lt;br /&gt;
*[[ザ・カゲスター]]（1976年、NET　/ 東映） - 神成部長 役&lt;br /&gt;
*[[水戸黄門 (パナソニック ドラマシアター)|水戸黄門]]（TBS / [[C.A.L]]）&lt;br /&gt;
**[[水戸黄門 第6部|第6部]] 第14話「弥七二人旅 -津山-」（1975年6月30日） - 庄之助 役&lt;br /&gt;
**[[水戸黄門 第13部|第13部]] 第15話「三葉葵を盗んだ男 -津山-」（1983年1月17日） - 隼の五六吉 役&lt;br /&gt;
**[[水戸黄門 第15部|第15部]] 第36話「代官にされたドジな掏博 -岡部-」（1985年9月30日） - 矢島小太夫 役、百助 役（一人二役）&lt;br /&gt;
**[[水戸黄門 第16部|第16部]] 第23話「涙で誓った盗っ人仁義 -長岡-」（1986年9月29日） - 政吉 &lt;br /&gt;
**[[水戸黄門 第20部|第20部]] &lt;br /&gt;
***第29話「瞼の人はドジな泥棒 -鳥取-」（1991年5月27日） - ミゾレの政吉 役&lt;br /&gt;
***第47話「嘘を承知の偽黄門 -日光-」（1991年9月30日） - 半助 役&lt;br /&gt;
**[[水戸黄門 第21部|第21部]] 第1話「悪鬼が巣喰う岡崎城 -水戸・岡崎-」（1992年4月6日） - 六兵衛 役&lt;br /&gt;
**[[水戸黄門 第27部|第27部]] 第21話「大金持ちの物拾い -与板-」（1999年8月9日） - 大坂屋善兵衛 役&lt;br /&gt;
**[[水戸黄門 第28部|第28部]] 第32話「リストラを吹っ飛ばせ! -防府-」（2000年11月6日） - 淡野勘兵衛 役&lt;br /&gt;
**[[水戸黄門 第31部|第31部]] 第15話「俺たち日本一の用心棒 -龍野-」（2003年2月3日） - 沢村半之丞 役&lt;br /&gt;
**[[水戸黄門 (第31-38部)#1000回記念スペシャル|1000回記念SP]]（2003年12月15日） - 道右衛門 役&lt;br /&gt;
**[[水戸黄門 (第39-43部)#第42部|第42部]] 第6話「助さんに見た父の面影 -富山-」（2010年11月15日）- 嘉吉 役&lt;br /&gt;
*[[新必殺仕置人]]（1977年、朝日放送 / 松竹） - 亀吉 役&lt;br /&gt;
*[[海は甦える]]（1977年、TBS）&lt;br /&gt;
*[[せい子宙太郎]]（1977年）&lt;br /&gt;
*[[江戸の渦潮]]（1978年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]/東宝）&lt;br /&gt;
*[[熱中時代]]（1978年、日本テレビ）&lt;br /&gt;
*[[ゆうひが丘の総理大臣]]（1978年 - 1979年、日本テレビ/東宝） - 教頭 役&lt;br /&gt;
*[[熱中時代]]刑事編 第25話「熱中刑事ワナにかかる」（1979年、日本テレビ） - 長内 役&lt;br /&gt;
*[[西遊記シリーズ|西遊記II]] 第11話（1980年、日本テレビ/国際放映）&lt;br /&gt;
* [[雪姫隠密道中記]] （1980年、MBS）- 韋駄天の六助 役&lt;br /&gt;
*[[北の国から]]（1981年、フジテレビ）&lt;br /&gt;
*[[だんなさまは18歳]]（1982年 - 1983年、TBS） - 番組の案内役&lt;br /&gt;
*[[AカップCカップ]]（1983年）&lt;br /&gt;
*[[天まであがれ!|天まであがれ! 2]] 第6話（1983年9月10日、日本テレビ） - 学年主任教諭 役&lt;br /&gt;
*[[事件記者チャボ!]] 第8話（1983年12月24日、日本テレビ）&lt;br /&gt;
*[[月曜ドラマランド]]（フジテレビ）&lt;br /&gt;
**[[長谷川町子]]の意地悪クッキー（1983年）&lt;br /&gt;
**[[あんみつ姫]]シリーズ（1983年）&lt;br /&gt;
**[[ぐうたらママ]]シリーズ（1983年 - 1984年）&lt;br /&gt;
**[[どきどき婦警さん]]シリーズ（1983年 - 1984年）&lt;br /&gt;
**[[乙女学園男子部]]（1983年）&lt;br /&gt;
**[[とことんトシコ]]シリーズ（1983年 - 1984年）&lt;br /&gt;
**[[のんき君]]シリーズ（1983年 - 1984年）&lt;br /&gt;
**[[野球狂の詩]]（1985年）&lt;br /&gt;
**[[いたずらスチュワーデス!]]（1985年）&lt;br /&gt;
*[[オヨビでない奴!]]（1987年 - 1988年、TBS） - 村西先生 役&lt;br /&gt;
*[[親子ウォーズ]]（1988年、TBS）&lt;br /&gt;
*[[翔んでる!平賀源内]]（1989年、TBS）&lt;br /&gt;
*[[大江戸捜査網]]（1990年、テレビ東京）&lt;br /&gt;
*[[月曜ドラマスペシャル]]（TBS）&lt;br /&gt;
**[[坂道の家#1991年版|松本清張作家活動40年記念・黒い画集 坂道の家]]（1991年8月26日） - 古賀克彦 役&lt;br /&gt;
*[[大岡越前 (テレビドラマ)|大岡越前]] [[大岡越前 (テレビドラマ)#第12部|第12部]] - [[大岡越前 (テレビドラマ)#第15部|15部]]（1991年 - 1999年） - 赤垣伝兵衛 役&lt;br /&gt;
*[[ダブルキッチン]]（1993年、TBS）&lt;br /&gt;
*[[真実一路 (小説)|真実一路]]（1993年）&lt;br /&gt;
*[[江戸を斬る]]VII - VIII（1994年、TBS）&lt;br /&gt;
*[[走らんか!]]（1995年、NHK）&lt;br /&gt;
*[[Age,35 恋しくて]]（1996年、フジテレビ）&lt;br /&gt;
*[[総理と呼ばないで]]（1997年、フジテレビ）&lt;br /&gt;
*[[お水の花道]]（1999年、フジテレビ）&lt;br /&gt;
*[[火曜サスペンス劇場]]（日本テレビ）&lt;br /&gt;
**[[刑事・鬼貫八郎]]9「沈黙の函」（1999年） - 茨木辰二 役&lt;br /&gt;
**[[検事・霞夕子]]15「知らなかった」（2000年） - 穂刈守 役&lt;br /&gt;
* [[巷説百物語シリーズ#京極夏彦「怪」|京極夏彦「怪」]]第1話「七人みさき」（2000年1月3日、[[WOWOW]]） - 樫村兵衛 役&lt;br /&gt;
*[[土曜ワイド劇場]]（テレビ朝日）&lt;br /&gt;
**[[渡り番頭・鏡善太郎の推理]]1（2000年2月12日）- 山本鉄生 役&lt;br /&gt;
**[[混浴露天風呂連続殺人]]23（2003年12月20日）- 坂本良男 役&lt;br /&gt;
*[[はるちゃん]]5 第10話（2001年、フジテレビ）&lt;br /&gt;
*[[伝説のマダム]]（2003年）&lt;br /&gt;
*[[ハケンの品格]]（2007年、日本テレビ） - 小笠原繁 役&lt;br /&gt;
*[[陽炎の辻〜居眠り磐音 江戸双紙〜]]（2007年、[[日本放送協会|NHK]]） - 金兵衛 役&lt;br /&gt;
*[[特命係長・只野仁|特命係長・只野仁 スペシャル &#039;08 大手銀行派遣女子行員が仕掛けた罠]]（2008年2月2日、[[テレビ朝日]]系列） - 八代勲 役&lt;br /&gt;
*[[瞳 (2008年のテレビドラマ)|瞳]]（2008年）&lt;br /&gt;
*[[長生き競争!]]（2009年、[[東海テレビ放送|東海テレビ]]）&lt;br /&gt;
*[[働くゴン!]]（2009年、日本テレビ） - コック 役&lt;br /&gt;
*[[陽炎の辻〜居眠り磐音 江戸双紙〜|陽炎の辻スペシャル〜居眠り磐音 江戸双紙〜]]（2010年1月1日、NHK）- 金兵衛 役&lt;br /&gt;
*[[やっとかめ探偵団|名古屋やっとかめ探偵団]]（2010年6月20日、東海テレビ） - 吉川常 役&lt;br /&gt;
*[[夏の恋は虹色に輝く]] 第1話（2010年7月19日、フジテレビ）&lt;br /&gt;
*[[相棒]] season9 第14話（2011年2月2日、テレビ朝日） - 古谷勲 役&lt;br /&gt;
*[[牙狼＜GARO＞〜MAKAISENKI〜]] 第6話（2011年11月10日、テレビ東京） - 庄内治 役&lt;br /&gt;
* 俺たち絶体絶命!（2013年7月21日、[[BS-TBS]]） - 誠治 役&lt;br /&gt;
*[[孤独のグルメ]]真夏の博多出張スペシャル（2014年8月9日、テレビ東京）- うどん屋店主 役&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 映画 ===&lt;br /&gt;
*[[大冒険]]（1965年、東宝） - 植木等のバイクスタント（クレジットなし）&lt;br /&gt;
*[[大風呂敷]]（1967年、日活） - 関口社長 役&lt;br /&gt;
*[[クレージーの怪盗ジバコ]]（1967年、東宝・渡辺プロ） - ゴーゴークラブの司会者 役&lt;br /&gt;
*[[ザ・タイガース 世界はボクらを待っている]]（1968年、東宝・渡辺プロ） - 田村 役&lt;br /&gt;
*[[ザ・タイガース 華やかなる招待]]（1968年、東宝・渡辺プロ） - 田村 役&lt;br /&gt;
*[[喜劇初詣列車]]（1968年、東映） - 坂本研吉 役&lt;br /&gt;
*[[不良番長 送り狼]]（1969年、東映）&lt;br /&gt;
*[[クレージーのぶちゃむくれ大発見]]（1969年、東宝・渡辺プロ） - 俳優 役&lt;br /&gt;
*[[ザ・タイガース ハーイ!ロンドン]]（1969年、東宝・渡辺プロ） - 山崎 役&lt;br /&gt;
*[[クレージーの殴り込み清水港]]（1970年、東宝・渡辺プロ） - 牢番 役&lt;br /&gt;
*[[あしたのジョー]]（1970年、日活） - 青山 役&lt;br /&gt;
*[[新宿（ジュク）の与太者]]（1970年、東映）&lt;br /&gt;
*[[怪獣大奮戦 ダイゴロウ対ゴリアス]]（1973年、円谷プロ） - 好子の見合いの相手 役&lt;br /&gt;
*[[スプーン一杯の幸せ]]（1975年、松竹） - ゴルフ場の指導員 役&lt;br /&gt;
*[[&#039;80アニメーション ザ・ベストテン]]（1980年、東映） - おばちゃま 役（映画評論家？）&lt;br /&gt;
*[[駅 STATION]]（1981年、東宝）&lt;br /&gt;
*[[極道の妻たち]]（1986年、東映）&lt;br /&gt;
*[[こちら葛飾区亀有公園前派出所 THE MOVIE]]（1999年、東宝） - マーチン 役（声の主演）&lt;br /&gt;
*[[ちんちろまい]]（2000年、[[ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント (日本)|ソニー・ピクチャーズ・エンタテインメント]]）&lt;br /&gt;
*[[笑の大学]]（2004年、フジテレビジョン・東宝）&lt;br /&gt;
*[[美式天然]]（2005年、ラヴァルスフィルム） - 弁士 役&lt;br /&gt;
*[[アリア (2007年の映画)|アリア]]（2007年、ラヴァルスフィルム） - 人形遣い・空蔵 役&lt;br /&gt;
*[[20世紀少年 (映画)|20世紀少年 第2章 最後の希望]]（2009年、東宝） - 珍宝楼の店主・珍 役&lt;br /&gt;
*[[掌の小説 (映画)|掌の小説]] 第3話「日本人アンナ」（2010年、エースデュース） - 木賃宿の番頭 役&lt;br /&gt;
*[[TOKYOてやんでぃ]]〜The Story Teller&#039;s Apprentice〜（2013年、アイエス・フィールド） - 立花亭圓志 役&lt;br /&gt;
*[[ハーメルン (映画)|ハーメルン]]（[[2013年]]、トリクスタ）&lt;br /&gt;
*[[ささら さや#映画|トワイライト ささらさや]]（2014年11月8日公開予定、[[ワーナー エンターテイメント ジャパン|ワーナー・ブラザース映画]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ラジオ番組 ===&lt;br /&gt;
*ラジオコメディ みんな大好き（[[NHKラジオ第1放送]]） - 花咲大吉 役&lt;br /&gt;
*[[伊集院光 日曜日の秘密基地]] 「秘密基地VIPルーム」（2004年8月29日、[[TBSラジオ&amp;amp;コミュニケーションズ|TBSラジオ]]） - ゲスト&lt;br /&gt;
*[[博多屋台 こまっちゃん]]（2009年4月- 、NHKラジオ[[NHK福岡放送局|福岡局]]）&lt;br /&gt;
*[[はかま満緒の話しのネタ]]（2010年5月31日・6月14日、[[アール・エフ・ラジオ日本|ラジオ日本]]） - ゲスト&lt;br /&gt;
*[[爆笑問題の日曜サンデー]] 「ここは赤坂応接間」（2012年2月5日、TBSラジオ） - ゲスト&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== テレビコマーシャル ===&lt;br /&gt;
*[[石村萬盛堂]] 「塩豆大福」&amp;lt;ref name=&amp;quot;daifuku&amp;quot;/&amp;gt;&lt;br /&gt;
*[[日清食品]] 「めん八珍」&lt;br /&gt;
*新生住宅 「ロワールマンション」 ※福岡ローカル『[[RKBニュースワイド]]』の提供スポンサー&lt;br /&gt;
*[[フンドーキン醤油]] 「ゴールデン紫」&lt;br /&gt;
*[[シュワルツコフヘンケル|山発産業]] 「パオン」&lt;br /&gt;
*[[ベネゼル]]&lt;br /&gt;
*[[ヤタガイ]]&lt;br /&gt;
*[[ソフトバンクテレコム|日本テレコム]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 吹き替え ===&lt;br /&gt;
*[[アルフ (テレビドラマ)|アルフ]] - ウィリー・タナー 役&lt;br /&gt;
*[[トッツィー]] - マイケル＝トッツィー（演：[[ダスティン・ホフマン]]） 役　※フジテレビ『[[ゴールデン洋画劇場]]』版&lt;br /&gt;
*[[オズの魔法使]] - レイ・ボルジャー＝かかし 役　※NHK吹替版&lt;br /&gt;
*[[0086笑いの番号]] - マックス・スマート 役&lt;br /&gt;
*[[香港発活劇エクスプレス 大福星]]　- チビ（演：[[エリック・ツァン]]） 役&lt;br /&gt;
*[[七福星]] - チビ（演：エリック・ツァン） 役&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 舞台 ===&lt;br /&gt;
* 伊東四朗&amp;amp;小松政夫 エニシングゴーズ（1995年、[[シアターサンモール]]）&lt;br /&gt;
* 追いつ!追われつ!!（2001年2月、[[本多劇場]]）&lt;br /&gt;
* 小松政夫×[[イッセー尾形]]のびーめん生活（2006年 - 2012年）&lt;br /&gt;
* 楽屋の王様 〜小松政夫・ギャグこそマイウエイ〜（2005年11月30日、[[博品館劇場]]）&lt;br /&gt;
* MSN We舞台 「[[夢をかなえるゾウ]]」（2008年12月16日 - 26日、[[品川ステラボール]]） - [[ガネーシャ]] 役&lt;br /&gt;
* 王立劇場vol.8 「[[王立新喜劇・続々・コーポからほり303〜谷町筋を封鎖せよ！]]」（2011年2月、[[なんばグランド花月]]）&lt;br /&gt;
* 天国のシャボン玉ホリデー（2011年6月、アクシスかつらぎ大ホール）&lt;br /&gt;
* 二人でひとり（2011年9月、[[西南学院大学|西南コミュニティセンター]]） ※[[青島幸男]]の未発表[[戯曲]]を舞台化&lt;br /&gt;
* [[前川清]]・[[秋元順子]]特別公演 「ザ・ナイスガイ どうしてこんなにモテるんだろう」（2011年12月、[[明治座]]）&lt;br /&gt;
* [[コロッケ (タレント)|コロッケ]]錦秋喜劇公演 「わたくしです物語」（2012年10月、[[博多座]]）&lt;br /&gt;
* マウストラップ（2013年3月、六本木ブルーシアター） - パラビチーニ 役&lt;br /&gt;
* 日本喜劇人まつり（2013年4月、[[三越劇場]]）&lt;br /&gt;
ほか多数&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== レコード・CD ==&lt;br /&gt;
* デンセンマンの電線音頭/同カラオケ（1976年12月） ※伊東四朗と共演、テレビ朝日『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』より。&lt;br /&gt;
* しらけ鳥音頭/哀愁の一丁がみ小唄（1977年11月） ※テレビ朝日『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』より。&lt;br /&gt;
* タコフン音頭/同カラオケ（1980年11月） ※テレビ朝日『歌謡ドッキリ大放送』より。&lt;br /&gt;
* 電線レゲエ/デンセンマンの電線音頭（1995年10月、ファンハウス）&lt;br /&gt;
* [[小松の親分]]（1995年12月、ファンハウス）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 著書・連載 ==&lt;br /&gt;
=== 著書 ===&lt;br /&gt;
* 目立たず隠れず そおーっとやって20年（1985年4月、婦人生活社） ISBN 978-4574700573&lt;br /&gt;
* おもしろい人に会ったよ（1993年1月、コスモの本） ISBN 978-4906380411&lt;br /&gt;
* のぼせもんやけん ― 昭和三〇年代横浜 セールスマン時代のこと。（2006年6月、竹書房） ISBN 978-4812427590&lt;br /&gt;
* のぼせもんやけん2 ― 植木等の付き人時代のこと。（2007年12月、竹書房） ISBN 978-4812432730&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== インタビュー連載 ===&lt;br /&gt;
*[[朝日新聞]] 夕刊 『人生の贈りもの』（2008年12月15日 - 19日）&lt;br /&gt;
ほか多数&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[福岡県出身の人物一覧]]&lt;br /&gt;
* [[植木等]] - 師匠&lt;br /&gt;
* [[ザ・ドリフターズ]] - 数多く共演。[[ハナ肇とクレージーキャッツ]]との関係が深いという点で同輩にあたる。&lt;br /&gt;
* [[伊東四朗]] - [[1970年代]]を中心に共演。今なお名コンビとの呼び声が高い。&lt;br /&gt;
* [[タモリ]] - [[1980年代]]を中心に共演。同じ福岡県出身のピン芸人という点で共通。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://fine-stage.net/talent/%e5%b0%8f%e6%9d%be-%e6%94%bf%e5%a4%ab/ 所属事務所による公式プロフィール]&lt;br /&gt;
* [http://blog.oricon.co.jp/kigekijin/ 日本喜劇人協会 オフィシャルブログ]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{お笑いスター誕生!!}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:こまつ まさお}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本のコメディアン]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本のタレント]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の俳優]]&lt;br /&gt;
[[Category:悪役俳優]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の男性声優]]&lt;br /&gt;
[[Category:過去の渡辺プロ系列所属者]]&lt;br /&gt;
[[Category:福岡市出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1942年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.231.47.46</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E5%B9%B3%E6%B8%85%E7%9B%9B&amp;diff=95096</id>
		<title>平清盛</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E5%B9%B3%E6%B8%85%E7%9B%9B&amp;diff=95096"/>
		<updated>2014-08-01T20:00:27Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.231.47.46: /* 伊勢平氏の嫡男 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Otheruses||同名のテレビドラマ、その他|#平清盛を題材とした現代の創作}}&lt;br /&gt;
{{基礎情報 武士&lt;br /&gt;
| 氏名 = 平清盛&lt;br /&gt;
| 画像 = Taira no Kiyomori,TenshiSekkanMiei.jpg&lt;br /&gt;
| 画像サイズ = 250px&lt;br /&gt;
| 画像説明 = 『[[天子摂関御影]]』の清盛肖像（[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]）&lt;br /&gt;
| 時代 = [[平安時代]]末期&lt;br /&gt;
| 生誕 = [[元永]]元年（[[1118年]]）&lt;br /&gt;
| 死没 = [[治承]]5年[[2月4日 (旧暦)|閏2月4日]]（[[1181年]][[3月20日]]）&amp;lt;br/&amp;gt;享年64&lt;br /&gt;
| 改名 = 清盛、浄海&lt;br /&gt;
| 別名 = 平大相国、六波羅殿、福原殿、清盛入道&lt;br /&gt;
| 戒名 =&lt;br /&gt;
| 墓所 = [[能福寺]]、[[神戸市]]切戸町、&amp;lt;br/&amp;gt;[[六波羅蜜寺]]、[[祇王寺]]、[[彦島]]&lt;br /&gt;
| 官位 = [[従一位]]、[[太政大臣]]&lt;br /&gt;
| 主君 = [[崇徳天皇]]（[[鳥羽天皇|鳥羽院]]）→[[近衛天皇]]（鳥羽院）→[[後白河天皇]]→[[二条天皇]]（後白河院）→[[六条天皇]]（後白河院）→[[高倉天皇]]（後白河院）→[[安徳天皇]]（後白河院・高倉院）&lt;br /&gt;
| 氏族 = [[伊勢平氏]]&lt;br /&gt;
| 父母 = 父：[[平忠盛]]&amp;lt;br/&amp;gt;母：[[白河天皇|白河院]][[女房]]（[[祇園女御]]の妹?）&lt;br /&gt;
| 兄弟 = &#039;&#039;&#039;清盛&#039;&#039;&#039;、[[平家盛|家盛]]、[[平経盛|経盛]]、[[平教盛|教盛]]、[[平頼盛|頼盛]]、[[平忠度|忠度]]、他&lt;br /&gt;
| 妻   = 正室：&#039;&#039;&#039;[[高階基章]]の娘&#039;&#039;&#039;&amp;lt;br/&amp;gt;継室：&#039;&#039;&#039;[[平時子]]&#039;&#039;&#039;&amp;lt;br/&amp;gt;側室：[[厳島内侍]]、[[常盤御前]]?&lt;br /&gt;
| 子   = [[平重盛|重盛]]、[[平基盛|基盛]]、&#039;&#039;&#039;[[平宗盛|宗盛]]&#039;&#039;&#039;、[[平知盛|知盛]]、[[平徳子|徳子]]、[[平盛子|盛子]]、&amp;lt;br/&amp;gt;[[平重衡|重衡]]、[[平維俊|維俊]]、[[平知度|知度]]、[[平清房|清房]]、[[平完子|完子]]、[[御子姫君]]、&amp;lt;br/&amp;gt;[[藤原信隆|坊門信隆]]室、[[藤原兼雅|花山院兼雅]]室、[[藤原隆房|冷泉隆房]]室、&amp;lt;br/&amp;gt;[[廊御方 (平家)|廊御方]]?&lt;br /&gt;
| 特記事項 =&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;平 清盛&#039;&#039;&#039;（たいら の きよもり）は、[[平安時代]]末期の[[武将]]・[[公卿]]。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[伊勢平氏]]の[[武家の棟梁|棟梁]]・[[平忠盛]]の長男として生まれ、平氏棟梁となる。[[保元の乱]]で[[後白河天皇]]の信頼を得て、[[平治の乱]]で最終的な勝利者となり、[[武士]]としては初めて[[太政大臣]]に任ぜられる。娘の[[平徳子|徳子]]を[[高倉天皇]]に入内させ「&#039;&#039;&#039;平氏にあらずんば人にあらず&#039;&#039;&#039;」（『[[平家物語]]』&amp;lt;ref&amp;gt;なお、これは[[平時忠]]の言葉であり、清盛自身はこのようなことは言っていない。&amp;lt;/ref&amp;gt;）と言われる時代を築いた（[[平氏政権]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、[[治承三年の政変]]で法皇を幽閉して徳子の産んだ[[安徳天皇]]を擁し政治の実権を握るが、[[平氏]]の[[独裁政治|独裁]]は[[貴族]]・寺社・武士などから大きな反発を受け、[[河内源氏|源氏]]による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 伊勢平氏の嫡男 ===&lt;br /&gt;
[[元永]]元年（[[1118年]]）、[[伊勢平氏]]の[[武家の棟梁|棟梁]]である[[平忠盛]]の長男として三重県津市（? 諸説有り）に生まれる（実父は白河法皇という説もある。詳細[[#系譜|後述]]）。生母は不明だが、もと[[白河天皇|白河法皇]]に仕えた[[女房]]で、忠盛の妻となった女性（『[[中右記]]』によると[[保安 (元号)|保安]]元年（[[1120年]]）没）である可能性が高い。『[[平家物語]]』の語り本系の諸本は清盛の生母を[[祇園女御]]としているが、読み本系の延慶本は清盛は祇園女御に仕えた中﨟女房の腹であったというように書いている&amp;lt;ref&amp;gt;[[佐々木八郎]]は、初めの頃はその中﨟女房の腹であったとして語られたのが、語られてゆくうちに祇園女御の腹であるというように変化していったのであろうと推断している（『平家物語の研究』早稲田大学出版部、1948年）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、[[近江国]][[胡宮神社]]文書（『仏舎利相承系図』&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.nihonnotoba3.sakura.ne.jp/2008to/binmanji23.jpg 仏舎利相承図テクスト]&amp;lt;/ref&amp;gt;）は清盛生母を祇園女御の妹とし、祇園女御が清盛を[[猶子]]としたと記している。清盛が忠盛の[[正室]]の子でない（あるいは生母が始め正室であったかもしれないがその死後である）にもかかわらず[[嫡男]]となった背景には、後見役である祇園女御の権勢があったとも考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[大治 (日本)|大治]]4年（[[1129年]]）正月に12歳で[[従五位|従五位下]]・[[兵衛府|左兵衛佐]]に叙任。これについて[[藤原宗忠|中御門宗忠]]は驚愕している&amp;lt;ref&amp;gt;「人耳目を驚かすか、言ふに足らず」『[[中右記]]』大治4年正月24日条&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;通常、武士の任官は三等官の尉から始まり、二等官の佐に任じられるのは極めて異例だった。&amp;lt;/ref&amp;gt;。清盛は同年3月に[[石清水八幡宮|石清水]]臨時祭の舞人に選ばれるが&amp;lt;ref&amp;gt;『中右記』3月16日条&amp;lt;/ref&amp;gt;、清盛の馬の口取を祇園女御の養子とされる内大臣・[[源有仁]]の随身が勤めていることから、幼少期の清盛は祇園女御の庇護の下で成長したと推定されている。また祇園女御の庇護下で育ったことから、清盛の実父は白河法皇であるとの説も当時からある。清盛が院近臣家の出身にもかかわらず、後に皇族か摂関、[[清華家]]でなければ任命されない[[太政大臣]]に任命されたことから、当時の朝廷が非公式にではあるがこの話を事実としていたともいわれる&amp;lt;ref&amp;gt;[[元木泰雄]]『平清盛の闘い 幻の中世国家』（2001年、角川書店）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
若い頃は、[[鳥羽天皇|鳥羽法皇]]第一の寵臣・[[藤原家成]]の邸に出入りしていた。家成は、清盛の継母・[[池禅尼]]の従兄弟だった。[[高階基章]]の娘との間に[[平重盛|重盛]]・[[平基盛|基盛]]が生まれるが、死別したと推測される。[[保延]]3年（[[1137年]]）忠盛が[[熊野本宮大社|熊野本宮]]を造営した功により、清盛は[[肥後国|肥後]][[国司|守]]に任じられる。[[久安]]3年（[[1147年]]）、[[継室]]に迎えた[[平時子]]との間に[[平宗盛|宗盛]]が生まれる。時子の父・[[平時信]]は鳥羽法皇の判官代として、[[藤原顕頼|葉室顕頼]]・[[信西]]とともに院庁の実務を担当していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この年6月15日、清盛は[[八坂神社|祇園社]]に赴くが、郎等の武具を咎めた[[神人]]と小競り合いとなり、郎等の放った矢が宝殿に当たるという事件が発生した（[[祇園闘乱事件]]）。祇園社を末社とする[[延暦寺]]は忠盛・清盛の配流を要求して[[強訴]]するが、鳥羽法皇は延暦寺の攻勢から忠盛・清盛を保護し、清盛の罪を[[贖銅]]三十斤という[[罰金刑]]にとどめた。その後、清盛に代わり正室腹の異母弟の[[平家盛]]が常陸介・右馬頭に任じられ頭角を現す。既に母を亡くし問題を起こした清盛に替わって、母方の後見の確かな家盛が家督を継ぐ可能性もあった。しかし久安5年（1149年）に家盛は急死したため、清盛の嫡流としての地位は磐石となる。家盛の同母弟・[[平頼盛|頼盛]]は15歳の年齢差もあって統制下に入り清盛も兄弟間の№2として遇するが、[[平経盛|経盛]]・[[平教盛|教盛]]に比べてその関係は微妙なものであり続けた。[[安芸国|安芸守]]に任じられて瀬戸内海の制海権を手にすることで莫大な利益をあげ、父と共に西国へと勢力を拡大した。またその頃より宮島の[[厳島神社]]を信仰するようになり、[[仁平]]3年（1153年）、忠盛の死後に平氏一門の棟梁となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 保元の乱、平治の乱 ===&lt;br /&gt;
{{Main|保元の乱|平治の乱}}&lt;br /&gt;
[[保元]]元年（[[1156年]]）の[[保元の乱]]では義母・池禅尼が[[崇徳天皇|崇徳上皇]]の子・[[重仁親王]]の乳母だったため清盛の立場は難しいものであったが、一門の結束につとめ[[後白河天皇]]側について勝利をもたらし[[播磨国|播磨守]]、[[大宰府|大宰大弐]]となる。信西と[[藤原信頼]]・二条親政派の対立では中立的立場をとっていたが、[[平治]]元年（[[1159年]]）の[[平治の乱]]で政権を握った藤原信頼・[[藤原経宗|大炊御門経宗]]・[[藤原惟方|葉室惟方]]などの反信西派を一掃することで、急速にその政治的地位を高めることになる。この過程で[[源義朝]]・[[源重成]]・[[源季実]]・[[源光保]]といった有力武士が滅亡したため、清盛は武士の第一人者として朝廷の軍事力・警察力を掌握し、武家政権樹立の礎を築く。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 全盛期 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Heikenoukyou.jpg|thumb|230px|長寛2年（[[1164年]]）に[[厳島神社]]に奉納した『[[平家納経]]』 観普賢経 見返し]]&lt;br /&gt;
室の時子が[[二条天皇]]の乳母だったことから、清盛は天皇の乳父として後見役となり[[検非違使別当]]・[[中納言]]になる一方、後白河上皇の院庁の別当にもなり、天皇・上皇の双方に仕えることで磐石の体制を築いていった。[[応保]]元年（[[1161年]]）9月、後白河上皇と[[平滋子]]（建春門院）の間に第七皇子（憲仁親王、後の[[高倉天皇]]）が生まれると、[[平時忠]]・[[平教盛]]が立太子を画策した。二条天皇はこの動きに激怒し、時忠・教盛・[[藤原成親]]・[[藤原信隆|坊門信隆]]を解官して後白河院政を停止した。清盛は天皇の御所に武士を宿直させて警護することで、二条天皇支持の姿勢を明確にした。翌年3月には平治の乱で配流されていた二条親政派の大炊御門経宗が帰京を許され、6月には平時忠・[[源資賢]]が二条天皇を賀茂社で呪詛した罪で配流された。清盛は二条天皇の厚い信任を受け、親政を軌道に乗せた。さらに関白・[[近衛基実]]に娘・[[平盛子|盛子]]を嫁がせて、摂関家とも緊密な関係を結んだ。院政を停止させられた後白河上皇への配慮も怠りなく、[[長寛]]2年（[[1164年]]）に[[蓮華王院]]を後白河上皇のために造営している。蓮華王院には荘園・所領が寄進され、後白河上皇の経済基盤も強化された。二条天皇は後白河上皇の動きに警戒心を抱き、長寛3年（[[1165年]]）に重盛を参議に任じて平家への依存を深めるが、7月28日崩御した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後継者の[[六条天皇]]は幼少であり近衛基実が摂政として政治を主導して、清盛は[[大納言]]に昇進して基実を補佐した。9月、平時忠が帰京を許され、12月25日に憲仁親王が親王宣下を受けると、清盛は勅別当になった。後白河院政派は次第に勢力を盛り返していたが、清盛は後白河上皇の行動・性格に不安を覚え、院政復活を望まなかったという。[[永万]]2年（[[1166年]]）7月26日、摂政・[[藤氏長者]]の近衛基実が急死して後白河院政が復活すると、基実の子・[[近衛基通|基通]]が幼少であることから弟・[[松殿基房]]が摂政となる。基実の領していた摂関家領が基房に移動すれば、平氏にとって大打撃となる。清盛は[[藤原邦綱]]の助言により、[[殿下渡領]]・[[勧学院]]領・[[御堂流]]寺院領を除いた私的家領を後家の盛子に相続させることで、摂関家領の管轄に成功した。10月10日に憲仁親王が立太子すると清盛は[[春宮坊|春宮大夫]]となり、11月には[[内大臣]]となった。翌[[仁安 (日本)|仁安]]2年（[[1167年]]）2月に太政大臣になるが&amp;lt;ref&amp;gt;これにより後世において「平大相国（へいだいしょうこく）」と尊称される&amp;lt;/ref&amp;gt;、太政大臣は白河天皇の治世に[[藤原師実]]と摂関を争って敗れた[[藤原信長]]が就任してからは実権のない名誉職に過ぎず、わずか3ヶ月で辞任する。清盛は政界から表向きは引退し、嫡子・重盛は同年5月、宣旨により[[東海道|東海]]・[[東山道|東山]]・[[山陽道|山陽]]・[[南海道]]の治安警察権を委任され、後継者の地位についたことを内外に明らかにした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:Itsukushima floating shrine.jpg|thumb|right|250px|[[厳島神社]] 仁安3年（1168年）清盛の援助によって今日のような海上社殿が造られた。]]&lt;br /&gt;
仁安3年（[[1168年]]）清盛は病に倒れ、[[出家]]する。原因は「[[サナダムシ|寸白（すびゃく）]]」だったとされる。清盛の病状が政情不安をもたらすことを危惧した後白河上皇は、当初の予定を早めて六条天皇から憲仁親王に譲位させることで体制の安定を図った。病から回復した清盛は[[福原京|福原]]に別荘・[[雪見御所]]を造営して、かねてからの念願だった厳島神社の整備・[[日宋貿易]]の拡大に没頭する。[[嘉応]]元年（1169年）、後白河上皇は出家して法皇となるが、清盛は後白河法皇とともに東大寺で受戒して協調につとめた。これは、鳥羽法皇と[[藤原忠実]]が同日に受戒した例に倣ったものであった。この頃は、後白河法皇が福原を訪れ宋人に面会、清盛の娘・徳子が高倉天皇に入内、福原で後白河法皇と清盛が千僧供養を行うなど両者の関係は友好的に推移していた。この間、平氏一門は隆盛を極め、全国に500余りの[[荘園]]を保有し、日宋貿易によって莫大な財貨を手にし、平時忠をして「&#039;&#039;&#039;平氏にあらずんば人にあらず&#039;&#039;&#039;」といわしめた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 平氏に対する不満 ===&lt;br /&gt;
{{Main|鹿ケ谷の陰謀|治承三年の政変}}&lt;br /&gt;
ところが、この清盛の勢力の伸張に対して、後白河法皇をはじめとする院政勢力は次第に不快感を持つようになり、建春門院の死を契機に、清盛と対立を深めていく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[治承]]元年（[[1177年]]）6月には[[鹿ケ谷の陰謀]]が起こる。これは[[多田行綱]]の密告で露見したが、これを契機に清盛は院政における院近臣の排除を図る。[[西光]]は処刑とし、藤原成親は[[備前国]]へ流罪&amp;lt;ref&amp;gt;7月9日に食物を与えられず殺害される&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[俊寛]]らは[[鬼界ヶ島]]に流罪に処したが、後白河法皇に対しては罪を問わなかった。ただし、実際に平氏打倒の陰謀があったかは不明であり、直前に後白河法皇から延暦寺攻撃を命じられた清盛が、延暦寺との衝突を回避するために行ったとする見方もある&amp;lt;ref&amp;gt;河内祥輔は治承元年事件（鹿ケ谷の陰謀）は具体的な陰謀があったものではなく、平清盛からみて後白河法皇の延暦寺攻撃命令そのものが平家と延暦寺と争わせるだけでなく、平家を「仏敵」にして延暦寺攻撃の仏罰によって滅亡に追い込むための陰謀と解されたとする（河内祥輔『日本中世の朝廷・幕府体制』（吉川弘文館、2007年）P124-144）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[治承]]3年（[[1179年]]）6月、娘の盛子が死亡。すると法皇は直ちに盛子の荘園を清盛に無断で没収した。さらに7月、重盛が42歳で病死。するとまた、後白河法皇は重盛の[[知行国]]であった[[越前国]]を没収した。さらに、法皇は20歳の近衛基通（室は清盛女・[[平完子|完子]]）をさしおいて、8歳の[[松殿師家]]を権中納言に任じた。この人事によって摂関家嫡流の地位を[[松殿家]]が継承することが明白となり、近衛家を支援していた清盛は憤慨する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月14日、清盛は福原から軍勢を率いて上洛し、[[クーデター]]を決行した。いわゆる[[治承三年の政変]]であるが、清盛は松殿基房・師家父子を手始めに、[[藤原師長]]など反平氏的とされた39名に及ぶ公卿・院近臣（貴族8名、殿上人・受領・検非違使など31名）を全て解任とし、代わって親平氏的な公家を任官する。後白河法皇は恐れを覚えて清盛に許しを請うが、清盛はこれを許さず、11月20日には鳥羽殿に幽閉するにいたった。ここに後白河院政は完全に停止された。清盛は、後の処置を宗盛に委ね福原に引き上げた。このクーデターは発端が後白河法皇の挑発であったため、院政停止後の政権構想がしっかりと準備されていなかった。高倉天皇・近衛基通・平宗盛の三人はいずれも政治的経験が未熟であり、結局は清盛が表に出てこざるを得なかった。清盛は、解官していた[[平頼盛]]・[[藤原兼雅|花山院兼雅]]の処分を解除するなど一門の結束につとめ、基通の補佐のため藤原氏の有力者である左大臣・藤原経宗、右大臣・[[九条兼実]]の懐柔を図った。実際の政務に関しては、平時忠・[[藤原隆季|四条隆季]]・[[源通親|土御門通親]]などの能吏が清盛の代弁者となった。治承4年（[[1180年]]）2月、高倉天皇が譲位、言仁親王が践祚した（[[安徳天皇]]）。安徳天皇の母は言うまでもなく清盛の娘・徳子である。名目上は高倉上皇の院政だったが、平氏の傀儡政権であることは誰の目にも明らかだった。さらに、法皇を幽閉して政治の実権を握ったことは多くの反平氏勢力を生み出すことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 反乱の狼煙 ===&lt;br /&gt;
{{Main|治承・寿永の乱}}&lt;br /&gt;
平氏の独裁に対して反抗の第一波となったのは、後白河法皇の第3皇子・[[以仁王]]の挙兵だった。以仁王は優秀であったが建春門院の圧力で親王宣下も受けられず、[[暲子内親王|八条院]]の猶子となって即位の機会を伺っていたものの、今回のクーデターでその望みは絶望的なものとなっていた。以仁王には、八条院直属の武力ともいえる[[源頼政]]・[[下河辺行義]]・[[源義清 (矢田判官代)|足利義清]]・[[源仲家]]などが付き従い、平氏に反発する[[興福寺]]・[[園城寺]]もこの動きに同調した。しかし計画は未然に発覚、清盛の手早い対策により検非違使で平氏家人の藤原景高・[[藤原忠綱 (秀郷流)|伊藤忠綱]]が300騎の兵で追撃して、以仁王と源頼政らを討ち取った。しかし寺社勢力、特に園城寺と同じ[[天台宗]]で親平氏の延暦寺でも反平氏勢力の動きがあり、清盛は有力寺社に囲まれ平氏にとって地勢的に不利な京都を放棄し、6月、一門の反対を押し切り、平氏の拠点である国際貿易港の[[大輪田泊]]（現在の[[兵庫県]][[神戸市]]）を望む地への[[遷都]]を目指して[[福原京#福原行幸|福原行幸]]を強行する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし以仁王の[[令旨]]が全国各地に飛び火して、8月には伊豆に流されていた[[源頼朝]]、[[武田信義]]を棟梁とする[[甲斐源氏]]、9月には[[信濃国]]において[[源義仲|木曾義仲]]が挙兵する。これに対して清盛は頼朝らの勢力拡大を防ぐため、[[平維盛]]を総大将とした大軍を関東に派遣したが、[[富士川の戦い]]では交戦をせずに撤退してしまった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この敗戦を契機として寺社勢力、特に以仁王の反乱に協力的であった園城寺・興福寺が不穏な動きを見せ始める。さらに、近江源氏が蜂起し園城寺・延暦寺の反平氏分子と提携して、物流の要所・琵琶湖を占拠し、反乱勢力は旧都を攻め落とす勢いにまで成長した。また、九州でも反乱が勃発、高倉帝や公家衆、さらに平氏一門や延暦寺からも遷都を望まない声が高まり、11月23日、清盛は平安京に還都する。12月になると清盛は、平知盛・平資盛・藤原清綱らが率いる軍勢を差し向けて園城寺を焼き払い、近江源氏の[[山本義経]]・[[柏木義兼]]を打ち破って、近江の平定に成功する（[[近江攻防]]）。次に清盛が標的としたのは、畿内最大の反平氏勢力・興福寺だった。清盛は背後の脅威を一掃することを決意して、重衡を総大将とした大軍を[[奈良|南都]]に派遣、12月28日、興福寺・[[東大寺]]など南都の諸寺は炎上した。確かにこれにより都周辺の反平氏勢力の動きは鎮静化したが、[[南都焼討]]は清盛が恐れていた「仏敵」の汚名を着せるにいたってしまった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 最期 ===&lt;br /&gt;
治承4年（[[1180年]]）末までには、平氏の勢力基盤である西国においても[[伊予国]]の[[河野通清]]・[[河野通信|通信]]父子、翌治承5年（[[1181年]]）には[[豊後国]]の[[緒方惟栄]]・臼杵惟隆・佐賀惟憲ら豪族が挙兵し、伊勢志摩においても反乱の動きがあった。東国においても平氏方であった[[佐竹秀義]]などが頼朝によって討伐される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このような中で、清盛は京都を中心に新体制を築こうと、畿内近国の惣官職を置いて宗盛を任じた。これは[[天平]]3年（[[731年]]）に京・畿内を対象に兵馬の権を与えられた[[新田部親王]]の例に倣ったものであり、畿内近国に兵士役と兵糧米を課して臨戦体制を築いた。また[[丹波国]]に諸荘園総下司職を設けて、[[平盛俊]]を任じた。さらに[[越後国]]の[[城資永]]、[[陸奥国]]の[[藤原秀衡]]に源頼朝・武田信義追討の宣旨を与えている。2月26日には平重衡の鎮西下向を中止し、宗盛以下一族の武士が東国追討に向かう事が決められていたが、清盛は27日に熱病に倒れた&amp;lt;ref&amp;gt;病状の記録から、大陸から伝来して流行していた[[風土病]]である[[マラリア]]に罹ったとされる。&amp;lt;/ref&amp;gt;。死期を悟った清盛は、自分の死後はすべて宗盛に任せてあるので、宗盛と協力して政務を行うよう法皇に奏上したが、返答がなかったため、恨みを残して「天下の事は宗盛に任せ、異論あるべからず」と言い残し、閏2月4日に九条河原口の[[平盛国]]の屋敷で死亡した。[[享年]]64。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
清盛の死により、平氏の新体制作りは計画倒れに終わる。『[[平家物語]]』では清盛が死に臨んで「[[葬儀]]などは無用。頼朝の首を我が墓前に供えよ」と遺言を残したとしている。死亡した年の8月1日、頼朝が密かに院に平氏との和睦を申し入れたが、宗盛は清盛の遺言として「我の子、孫は一人生き残る者といえども、骸を頼朝の前に晒すべし」と述べてこれを拒否し、頼朝への激しい憎悪を示した&amp;lt;ref&amp;gt;『[[玉葉]]』による&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 死後 ==&lt;br /&gt;
清盛の死後、嫡男の重盛はすでに病死し、次男の基盛も早世していたため、平氏の棟梁の座は三男の宗盛が継いだが、全国各地で相次ぐ反乱に対処できず、後白河法皇の奇謀に翻弄された上、院政勢力も勢力を盛り返すなど、平氏は次第に追いつめられていった。しかも、折からの[[飢饉]]（[[養和の大飢饉]]）という悪条件なども重なって、[[寿永]]2年（[[1183年]]）、[[倶利伽羅峠の戦い]]で平氏軍が壊滅した後、義仲軍の攻勢の前に成す術無く都落ちする。そして[[元暦]]2年（[[1185年]]）の[[壇ノ浦の戦い]]に敗れて平氏は滅亡した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 評価 ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:Taira no Kiyomori.jpg|thumb|200px|平清盛 [[菊池容斎]]画、明治時代]]&lt;br /&gt;
* 『[[平家物語]]』における悪虐、非道、非情の描写から、かつての清盛は成り上がりの暴君・傲慢な性格の持ち主だという評価が定着していたが、現在では実際の清盛の人物像は温厚で情け深いものだったとも言われている。（実際、後の源頼朝や源義経など義朝の遺児を殺さずに伊豆への流罪、仏門入りで済ませたことが災いして後に平家を滅ぼすことにもなった。しかしこれは[[池禅尼]]、もしくは彼女の背後の[[上西門院]]や頼朝の母方の実家の熱田宮司家の意向も働いていると言われている。）&lt;br /&gt;
** 『[[十訓抄]]』7-27には、若い頃の清盛について「人がとんでもない不都合な振る舞いをしても、冗談と思うことにした」「やったことがちっともおかしくなくても、相手への労わりとしてにこやかに笑い、とんでもない誤りをしても、役立たずと声を荒らげることはない」「冬の寒い時に身辺に奉仕する幼い従者を自分の衣の裾の方に寝かせ、彼らが朝寝坊をしていたらそっと床から抜け出して存分に寝かせた」「最下層の召使いでも、彼の家族や知り合いの見ている前では一人前の人物として扱ったので、その者は大変な面目と感じて心から喜んだ」という逸話が記されている。&lt;br /&gt;
** 『平家物語』においても若い頃に世話になった藤原顕時の息子である[[藤原行隆|葉室行隆]]が苦境に陥っていることを知ると援助を申し出るなど、義理堅い一面が描かれている。&lt;br /&gt;
* 清盛の非道を示す有名なエピソードである[[殿下乗合事件]]は、清盛が[[松殿基房]]に報復したというのは『平家物語』の虚構であり、『[[玉葉]]』や『[[百錬抄]]』の記述によれば、実際に非道な報復を行ったのは重盛であり、清盛はむしろ基房に謝罪したとされる&amp;lt;ref&amp;gt;いずれにせよ、この事件の背景には平氏と摂関家（[[松殿家]]）の強い反目があったと考えられている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 平治の乱前後の清盛について『[[愚管抄]]』では、如才なく諸方に気を配る人物であり、複雑な院政期の政界を生き抜く処世術を持っていた。しかし大きな権力を持つようになると、それを維持するために院・摂関家・寺社勢力と対立していく過程で強引な手段に出るようになり、悪評も増えていった。&lt;br /&gt;
* 『[[源平盛衰記]]』では僧侶の祈祷によって雨を降らせた事を偶然に過ぎないと一蹴したり、[[経が島]]では清盛が[[人柱]]を廃止したという伝説があるなど、迷信に囚われない開明的な考え方の逸話も見られる。&lt;br /&gt;
* 政治的には[[日宋貿易]]に見られるような財政基盤の開拓、[[宋銭]]を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、経が島築造に見られる公共事業の推進、時代の矛盾に行き詰まりつつあった貴族政治を打ち破り、（貴族的要素が強いとは言え）日本初の武家政権を打ち立てるなど、優れた功績も残している。&lt;br /&gt;
* 軍記物で政治上手の戦下手と書かれることも多いが、平治の乱で複数の部隊を連携させた戦術で藤原信頼軍を撃破し、御所や市街地の被害も最低限に抑えることに成功しており「洗練された戦法（評：元木泰雄）」を得意とする優秀な武将でもあったとされる。&lt;br /&gt;
* 京都・奈良で大きな勢力を持ち始めていた仏教勢力の抑制に努めた。皇位継承問題に干渉した興福寺と園城寺に総攻撃をかけたことは当時は評判が悪かったが、強大な武力をもつ宗教勢力が重大な政治問題に関わることを阻止した意義は無視できない。皮肉なことに、この政策は敵である鎌倉幕府に僧兵を擁しない禅宗や念仏宗の保護といった穏健化した形で受け継がれていった。&lt;br /&gt;
* [[南都焼討]]の際、[[東大寺]]・[[興福寺]]に放火するよう直接命令したとする説が見受けられるが、史実とは異なり、清盛がそのような命令をしたことはない。実際は[[平重衡]]が夜の陣中にて灯りを求めたところ、配下が火攻めの命令と勘違いして民家に火を放ち、折からの強風に煽られて東大寺・興福寺を巻き込む大火災を招いたのである&amp;lt;ref&amp;gt;「[[歴史秘話ヒストリア]] 異色の革命児　平安を動かす～日本を変えたヒーロー 平清盛～（2012年1月11日放送）」より{{出典無効|date=2013-7-17|tilte=[[WP:QS]]}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;width: 100%;&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!style=&amp;quot;width: 4em;&amp;quot;|和暦&lt;br /&gt;
!style=&amp;quot;width: 4em;&amp;quot;|西暦&lt;br /&gt;
!style=&amp;quot;width: 6em;&amp;quot;|月日&amp;lt;br /&amp;gt;（[[旧暦]]）&lt;br /&gt;
!内容&amp;lt;!--内容は簡潔に記してください--&amp;gt;&lt;br /&gt;
!style=&amp;quot;width: 5em;&amp;quot;|出典&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[元永]]元&lt;br /&gt;
|1118年&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|生誕（[[数え年]]1歳）&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[大治 (日本)|大治]]4&lt;br /&gt;
|[[1129年]]&lt;br /&gt;
|1月6日&lt;br /&gt;
|従五位下。1月24日、左兵衛佐。（12歳）&lt;br /&gt;
|公卿補任&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|大治6&lt;br /&gt;
|[[1131年]]&lt;br /&gt;
|1月5日&lt;br /&gt;
|従五位上（14歳）&lt;br /&gt;
|公卿補任&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[長承]]4&lt;br /&gt;
|[[1135年]]&lt;br /&gt;
|1月5日&lt;br /&gt;
|正五位下。8月21日、従四位下。（18歳）&lt;br /&gt;
|公卿補任&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[保延]]2&lt;br /&gt;
|[[1136年]]&lt;br /&gt;
|4月7日&lt;br /&gt;
|[[中務大輔]]（19歳）&lt;br /&gt;
|公卿補任&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|保延3&lt;br /&gt;
|[[1137年]]&lt;br /&gt;
|1月30日&lt;br /&gt;
|[[肥後国|肥後守]]兼任（20歳）&lt;br /&gt;
|公卿補任&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|保延6&lt;br /&gt;
|[[1140年]]&lt;br /&gt;
|11月14日&lt;br /&gt;
|従四位上（23歳）&lt;br /&gt;
|公卿補任&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[久安]]2&lt;br /&gt;
|[[1146年]]&lt;br /&gt;
|2月1日&lt;br /&gt;
|正四位下。2月2日、[[安芸国|安芸守]]兼任。肥後守任替。（29歳）&lt;br /&gt;
|公卿補任&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|rowspan=&amp;quot;2&amp;quot;|[[保元]]元&lt;br /&gt;
|rowspan=&amp;quot;2&amp;quot;|[[1156年]]&lt;br /&gt;
|7月6～11日&lt;br /&gt;
|[[保元の乱]]（39歳）&lt;br /&gt;
|公卿補任&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|7月11日&lt;br /&gt;
|[[播磨国|播磨守]]&lt;br /&gt;
|公卿補任&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|保元3&lt;br /&gt;
|[[1158年]]&lt;br /&gt;
|8月10日&lt;br /&gt;
|大宰大弐（41歳）&lt;br /&gt;
|公卿補任&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[平治]]元&lt;br /&gt;
|[[1159年]]&lt;br /&gt;
|12月9～26日&lt;br /&gt;
|[[平治の乱]]（42歳）&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[永暦]]元&lt;br /&gt;
|[[1160年]]&lt;br /&gt;
|6月20日&lt;br /&gt;
|正三位。8月11日、[[参議]]。大宰大弐如元。9月2日、[[右衛門督]]兼任。12月30日、大宰大弐辞任。（43歳）&lt;br /&gt;
|公卿補任&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|永暦2&lt;br /&gt;
|[[1161年]]&lt;br /&gt;
|1月23日&lt;br /&gt;
|[[検非違使別当]]兼職。近江権守兼任。9月13日、権[[中納言]]。検非違使別当・[[右衛門督]]如元。（44歳）&lt;br /&gt;
|公卿補任&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[応保]]2&lt;br /&gt;
|[[1162年]]&lt;br /&gt;
|1月9日&lt;br /&gt;
|検非違使別当・右衛門督両官職辞任。閏2月9日、検非違使別当・右衛門督兼職。4月7日、[[皇太后宮権大夫]]兼任。8月20日、従二位。9月、検非違使別当・右衛門督両官職辞任。（45歳）&lt;br /&gt;
|公卿補任&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[長寛]]3&lt;br /&gt;
|[[1165年]]&lt;br /&gt;
|1月23日&lt;br /&gt;
|[[兵部卿]]兼任。8月17日、[[権大納言]]。兵部卿・皇太后権大夫如元。（48歳）&lt;br /&gt;
|公卿補任&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[永万]]2&lt;br /&gt;
|[[1166年]]&lt;br /&gt;
|6月6日&lt;br /&gt;
|正二位。10月1日、[[春宮大夫]]兼任。兵部卿・皇太后宮権大夫両官止む。11月11日、[[内大臣]]。（49歳）&lt;br /&gt;
|公卿補任&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[仁安 (日本)|仁安]]2&lt;br /&gt;
|[[1167年]]&lt;br /&gt;
|2月11日&lt;br /&gt;
|従一位[[太政大臣]]。5月17日、太政大臣辞任。（50歳）&lt;br /&gt;
|公卿補任&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|仁安3&lt;br /&gt;
|[[1168年]]&lt;br /&gt;
|2月11日&lt;br /&gt;
|出家（51歳）&lt;br /&gt;
|公卿補任&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[承安 (日本)|承安]]元&lt;br /&gt;
|[[1171年]]&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|[[平徳子|徳子]]入内（54歳）&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[治承]]元&lt;br /&gt;
|[[1177年]]&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|[[鹿ケ谷の陰謀]]（60歳）&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|治承3&lt;br /&gt;
|[[1179年]]&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|[[治承三年の政変]]（62歳）&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|rowspan=&amp;quot;4&amp;quot;|治承4年&lt;br /&gt;
|rowspan=&amp;quot;4&amp;quot;|[[1180年]]&lt;br /&gt;
|4月22日&lt;br /&gt;
|[[安徳天皇]]即位（63歳）&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|4月&lt;br /&gt;
|[[以仁王]]が平氏追討の令旨を発する&lt;br /&gt;
|[[吾妻鏡]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|6月10日&lt;br /&gt;
|准三宮宣下&lt;br /&gt;
|[[百錬抄]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
||8月17日&lt;br /&gt;
|[[源頼朝]]挙兵&lt;br /&gt;
|吾妻鏡&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[養和]]元&lt;br /&gt;
|[[1181年]]&lt;br /&gt;
|閏2月4日&lt;br /&gt;
|薨去（享年64 / 満63歳没）&lt;br /&gt;
|[[玉葉]]&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 墓所 ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:Kobe-heisyoukokubyou.JPG|thumb|250px|能福寺にある平相國廟]]&lt;br /&gt;
以下が清盛の墓所として伝わっている。&lt;br /&gt;
* [[神戸市]][[兵庫区]]北逆瀬川の宝積山[[能福寺]]平相國廟&lt;br /&gt;
* 神戸市兵庫区切戸町の清盛塚（供養塔）&lt;br /&gt;
* [[京都市]][[東山区]]松原通大和大路東入ル2丁目轆轤町の補陀洛山[[六波羅蜜寺]]の平清盛塚&lt;br /&gt;
* 京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町の嵯峨山[[大覚寺]]（旧嵯峨御所大覚寺門跡）の塔頭寺院である[[祇王寺]]の供養塔&lt;br /&gt;
* [[山口県]][[下関市]]彦島の清盛塚&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 系譜 ==&lt;br /&gt;
平清盛は、[[伊勢国]]の[[津市|産品]]（うぶしな）の生まれとされる。[[桓武天皇]]の曾孫・[[平高望]]（たかもち）の子孫で、坂東の[[桓武平氏]]の流れを汲む[[伊勢平氏]]の一族。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 [[桓武天皇]]－[[葛原親王]]－[[高見王]]－[[平高望]]－[[平国香]]－[[平貞盛]]－[[平維衡]]－[[平正度]]－[[平正衡]]－[[平正盛]]－[[平忠盛]]－&#039;&#039;&#039;平清盛&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[平忠盛]]の長男。『[[公卿補任]]』の記事から逆算すると、[[元永]]元年（[[1118年]]）の誕生となる。『[[中右記]]』[[保安 (元号)|保安]]元年（[[1120年]]）7月12日条の「伯耆守忠盛妻俄に卒去すと云々。是仙院の辺なり」という記事により忠盛の妻が仙院（[[白河天皇|白河法皇]]）の周辺に仕えた[[女房]]であったことがわかり、この女性が清盛の母である可能性がある。『[[平家物語]]』は、白河法皇の寵愛を受けて懐妊した[[祇園女御]]が忠盛に下賜されて清盛が生まれたとしている（いわゆる[[落胤]]説）。しかし、『平家物語』の成立は鎌倉時代以降であり、祇園女御は当時40歳を越えていたと推測されることから信憑性は薄い。また、明治26年（1893年）に発見された滋賀県・[[胡宮神社]]所蔵の『仏舎利相承系図』（[[文暦]]2年（[[1235年]]）の日付を持つ）には、清盛の母「女房」は祇園女御の妹であり、姉の祇園女御が清盛を「[[猶子]]」として白河院所有の仏舎利を清盛に伝えたことが記されている&amp;lt;ref&amp;gt;[[高橋昌明]]は『仏舎利相承系図』の記述を後世の加筆として、清盛の母を祇園女御の妹とする説を否定している（『清盛以前-伊勢平氏の興隆-　増補・改訂版』文理閣、2004年）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{familytree/start|style=font-size:80%}}&lt;br /&gt;
{{familytree | | | |gion|~|~|~|y|~|~|~|tadamori|~|~|~|~|~|~|~|~|y|~|ike| | | | | | | | | |shirakawa| |gion=[[祇園女御]]の妹?|tadamori=[[平忠盛|忠盛]]|ike=[[池禅尼]]|shirakawa=[[白河天皇]] }}&lt;br /&gt;
{{familytree | | | | | | | | | |!| | |,|-|^|-|v|-|-|-|.| | | |)|-|-|-|.| | | | | | | | | | |!| }}&lt;br /&gt;
{{familytree | | | | | | | | | |!| |tsunemori| |norimori| |tadanori| |iemori| |yorimori| | | | | | | | |toba| |tsunemori=&amp;lt;sup&amp;gt;三男&amp;lt;/sup&amp;gt;[[平経盛|経盛]]|norimori=&amp;lt;sup&amp;gt;四男&amp;lt;/sup&amp;gt;[[平教盛|教盛]]|tadanori=&amp;lt;sup&amp;gt;六男&amp;lt;/sup&amp;gt;[[平忠度|忠度]]|iemori=&amp;lt;sup&amp;gt;次男&amp;lt;/sup&amp;gt;[[平家盛|家盛]]|yorimori=&amp;lt;sup&amp;gt;五男&amp;lt;/sup&amp;gt;[[平頼盛|頼盛]]|toba=[[鳥羽天皇]] }}&lt;br /&gt;
{{familytree | | | | | | | | | |!| | | | | | | | | | | | | |,|-|-|-|v|-|-|-|.| | | | | | | |!| }}&lt;br /&gt;
{{familytree |takashina|~|y|~|~|~|kiyomori|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|y|tokiko| |tokitada| |shigeko|~|~|~|~|y|goshirakawa| |takashina=[[高階基章]]の娘|kiyomori=&amp;lt;sup&amp;gt;長男&amp;lt;/sup&amp;gt;[[平清盛|清盛]]|tokiko=[[平時子|時子]]|tokitada=[[平時忠|時忠]]|shigeko=[[平滋子|滋子]]|goshirakawa=[[後白河天皇]] }}&lt;br /&gt;
{{familytree | |,|-|-|^|.| | | |)|-|v|-|v|-|v|-|.| | | |)|-|-|-|v|-|-|-|v|-|-|-|.| | | |!| }}&lt;br /&gt;
{{familytree |shigemori| |motomori| |koretoshi|!|tomonori|!|kiyohusa| |munemori| |tomomori| |shigehira| |tokuko|y|takakura| |shigemori=&amp;lt;sup&amp;gt;長男&amp;lt;/sup&amp;gt;&#039;&#039;&#039;[[平重盛|重盛]]&#039;&#039;&#039;|motomori=&amp;lt;sup&amp;gt;次男&amp;lt;/sup&amp;gt;[[平基盛|基盛]]|koretoshi=&amp;lt;sup&amp;gt;六男&amp;lt;/sup&amp;gt;[[平維俊|維俊]]|tomonori=&amp;lt;sup&amp;gt;七男&amp;lt;/sup&amp;gt;[[平知度|知度]]|kiyohusa=&amp;lt;sup&amp;gt;八男&amp;lt;/sup&amp;gt;[[平清房|清房]]|munemori=&amp;lt;sup&amp;gt;三男&amp;lt;/sup&amp;gt;[[平宗盛|宗盛]]|tomomori=&amp;lt;sup&amp;gt;四男&amp;lt;/sup&amp;gt;[[平知盛|知盛]]|shigehira=&amp;lt;sup&amp;gt;五男&amp;lt;/sup&amp;gt;[[平重衡|重衡]]|tokuko=[[平徳子|徳子]]|takakura=[[高倉天皇]] }}&lt;br /&gt;
{{familytree | |!| | | |!| | | | | |!| | | |!| | | | | |!| | | |!| | | | | | | | | |!| }}&lt;br /&gt;
{{familytree | |!| | |yukimori| | | |kiyosada| |kiyokuni| | | |kiyomune| |tomoaki| | | | | | | |antoku| |yukimori=[[平行盛|行盛]]|kiyosada=&amp;lt;sup&amp;gt;養子&amp;lt;/sup&amp;gt;[[平清貞|清貞]]|kiyokuni=&amp;lt;sup&amp;gt;養子&amp;lt;/sup&amp;gt;[[平清邦|清邦]]|kiyomune=[[平清宗|清宗]]|tomoaki=[[平知章|知章]]|antoku=[[安徳天皇]] }}&lt;br /&gt;
{{familytree | |)|-|-|-|v|-|-|-|v|-|-|-|v|-|-|-|v|-|-|-|v|-|-|-|.| }}&lt;br /&gt;
{{familytree |koremori| |sukemori| |kiyotsune| |arimori| |moromori| |tadahusa| |munezane| |koremori=&#039;&#039;&#039;[[平維盛|維盛]]&#039;&#039;&#039;|sukemori=[[平資盛|資盛]]|kiyotsune=[[平清経|清経]]|arimori=[[平有盛|有盛]]|moromori=[[平師盛|師盛]]|tadahusa=[[平忠房|忠房]]|munezane=[[平宗実|宗実]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree | |!| }}&lt;br /&gt;
{{familytree |takakiyo| |takakiyo=&#039;&#039;&#039;[[平高清|高清]]&#039;&#039;&#039; }}&lt;br /&gt;
{{familytree/end}}&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
[[ファイル:NyakuichiJinjyaTairanoKiyomori.jpg|thumb|200px|[[京都市]][[下京区]] [[若一神社]]の平清盛像]]&lt;br /&gt;
* 父：[[平忠盛]]&lt;br /&gt;
* 母：[[祇園女御]]の妹?&lt;br /&gt;
* 継母：[[池禅尼]]&lt;br /&gt;
** 弟：[[平家盛]]&lt;br /&gt;
** 弟：[[平頼盛]]&lt;br /&gt;
* 弟：[[平経盛]]&lt;br /&gt;
* 弟：[[平教盛]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 弟：[[平忠度]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[正室]]：[[高階基章]]の女&lt;br /&gt;
** 長男：[[平重盛]]&lt;br /&gt;
** 次男：[[平基盛]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[継室]]：[[平時子]]（二位尼） - [[平時信]]の娘&lt;br /&gt;
** 三男：[[平宗盛]]&lt;br /&gt;
** 四男：[[平知盛]]&lt;br /&gt;
** 五男：[[平重衡]]&lt;br /&gt;
** 三女?：[[平徳子]]（建礼門院） - [[高倉天皇]][[中宮]]&lt;br /&gt;
* 側室：[[厳島内侍]]&lt;br /&gt;
** 七女?：[[御子姫君]]&lt;br /&gt;
* 側室：[[常盤御前]]&lt;br /&gt;
** 八女?：[[廊御方 (平家)|廊御方]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 生母不明の子女&lt;br /&gt;
** 六男：[[平維俊]]&lt;br /&gt;
** 七男：[[平知度]]&lt;br /&gt;
** 八男：[[平清房]]&lt;br /&gt;
** 長女?：[[藤原信隆|坊門信隆]]室&lt;br /&gt;
** 次女?：[[藤原成範|藤原成憲]]室、後[[藤原兼雅|花山院兼雅]]室&lt;br /&gt;
** 四女?：[[平盛子]] - [[近衛基実]]室、[[高倉天皇]]准母、[[准三宮]]&lt;br /&gt;
** 五女?：[[藤原信親]]室、後[[藤原隆房|冷泉隆房]]室&lt;br /&gt;
** 六女：[[平完子]] - [[近衛基通]]室&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 養子&lt;br /&gt;
** [[平清貞]] - 実父：[[中原師元]]&lt;br /&gt;
** [[平清邦]] - 実父：[[藤原邦綱]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 史料 ==&lt;br /&gt;
; 史料&lt;br /&gt;
* 『[[玉葉]]』&lt;br /&gt;
* 『[[愚管抄]]』&lt;br /&gt;
* 『[[吾妻鏡]]』&lt;br /&gt;
; 軍記物語&lt;br /&gt;
* 『[[保元物語]]』&lt;br /&gt;
* 『[[平治物語]]』&lt;br /&gt;
* 『[[平家物語]]』&lt;br /&gt;
* 『[[源平盛衰記]]』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* [[上横手雅敬]]　『源平争乱と平家物語』　角川選書、2001年。&lt;br /&gt;
* [[五味文彦]]　『平清盛』　[[吉川弘文館]]〈人物叢書〉、1998年。&lt;br /&gt;
* [[高橋昌明]]　『平清盛　福原の夢』　[[講談社]]、2007年。&lt;br /&gt;
* [[元木泰雄]]　『平清盛の闘い－幻の中世国家』　角川叢書、2001年。&lt;br /&gt;
* 元木泰雄　『平清盛と後白河院』　角川選書、2012年。&lt;br /&gt;
* [[山田真哉]]　『経営者・平清盛の失敗－会計士が書いた歴史と経済の教科書』　講談社、2011年。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 平清盛を題材とした現代の創作 ==&lt;br /&gt;
; 小説&lt;br /&gt;
* 『[[新・平家物語]]』　[[吉川英治]]&lt;br /&gt;
* 『平家物語』　[[森村誠一]]&lt;br /&gt;
* 『双調平家物語』　[[橋本治]]&lt;br /&gt;
* 『清盛』　[[三田誠広]]&lt;br /&gt;
* 『宮尾本 平家物語』　[[宮尾登美子]]（大河ドラマ『[[義経 (NHK大河ドラマ)|義経]]』の原作、演：[[渡哲也]]）&lt;br /&gt;
* 『平家』　[[池宮彰一郎]]&lt;br /&gt;
* 『海国記』　[[服部真澄]]&lt;br /&gt;
* 『小説 平清盛』　[[高橋直樹 (作家)|高橋直樹]]&lt;br /&gt;
; 漫画&lt;br /&gt;
* 『平家物語』（マンガ日本の古典シリーズ） [[横山光輝]]&lt;br /&gt;
; 戯曲&lt;br /&gt;
* 『[[野望と夏草]]』 1970年、[[山崎正和]]&lt;br /&gt;
; 映画&lt;br /&gt;
* 『[[新・平家物語 (映画)|新・平家物語]]』（1955年、監督：[[溝口健二]]、主演：[[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]]）&lt;br /&gt;
; TVドラマ&lt;br /&gt;
: 平清盛が主人公のTVドラマ&lt;br /&gt;
* 『[[清盛と常盤]]』（1960年、日本テレビ、主演：[[松本白鸚 (初代)|松本幸四郎]]）&lt;br /&gt;
* 『[[新・平家物語 (NHK大河ドラマ)|新・平家物語]]』（1972年、NHK大河ドラマ、主演：[[仲代達矢]]）&lt;br /&gt;
* 『[[平清盛 (1992年のテレビドラマ)|平清盛]]』（1992年、TBS、主演：[[松平健]]）&lt;br /&gt;
* 『[[平清盛 (NHK大河ドラマ)|平清盛]]』（2012年、NHK大河ドラマ、主演：[[松山ケンイチ]]）&lt;br /&gt;
: 平清盛が登場するTVドラマ&lt;br /&gt;
* 『[[女人平家 (テレビドラマ)|女人平家]]』　(1971年-1972年、TBS、主演：[[佐藤慶]])&lt;br /&gt;
* 『[[草燃える (NHK大河ドラマ)|草燃える]]』（1979年、NHK大河ドラマ、助演：[[金子信雄]]）&lt;br /&gt;
* 『[[義経 (NHK大河ドラマ)|義経]]』（2005年、NHK大河ドラマ、助演：[[渡哲也]]）&lt;br /&gt;
; 人形劇&lt;br /&gt;
* 『[[人形歴史スペクタクル 平家物語]]』（1993年12月 - 1995年1月、NHK人形劇、主演（声）：[[風間杜夫]]）&lt;br /&gt;
; 歌謡曲&lt;br /&gt;
* 『長編歌謡浪曲 清盛天下を射る』（[[三波春夫]]）&lt;br /&gt;
* 『長編歌謡浪曲 神戸を拓く清盛』（三波春夫）&lt;br /&gt;
;ウォーゲーム（ボードゲーム）&lt;br /&gt;
* 『清盛軍記 保元・平治の乱』（[[ウォーゲーム日本史]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[平家納経]]&lt;br /&gt;
* [[全国平家会]]&lt;br /&gt;
* [[名馬一覧|望月]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
{{Commonscat|Taira no Kiyomori}}&lt;br /&gt;
* [http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01102.htm 日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 桓武平氏清盛流【1】]&lt;br /&gt;
* [http://www.miyajima-wch.jp/jp/itsukushima/ 厳島神社宮島観光公式サイト]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たいら の きよもり}}&lt;br /&gt;
[[Category:平安時代の武士]]&lt;br /&gt;
[[Category:平安時代後期の貴族]]&lt;br /&gt;
[[Category:平家|きよもり]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の財政家]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の貿易立国論者]]&lt;br /&gt;
[[Category:1118年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1181年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の神 (人物神 平氏)|きよもり]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.231.47.46</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%8E%84&amp;diff=9991</id>
		<title>武田信玄</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%8E%84&amp;diff=9991"/>
		<updated>2014-07-31T18:48:14Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.231.47.46: /* 西上作戦 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Otheruses}}&lt;br /&gt;
{{基礎情報 武士&lt;br /&gt;
| 氏名 = 武田 信玄 / 武田 晴信&lt;br /&gt;
| 画像 = Takeda Harunobu.jpg&lt;br /&gt;
| 画像サイズ = 220px&lt;br /&gt;
| 画像説明 = 武田晴信像（高野山持明院蔵）&lt;br /&gt;
| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]（[[室町時代]]後期）&lt;br /&gt;
| 生誕 = [[大永]]元年[[11月3日 (旧暦)|11月3日]]（[[1521年]][[12月1日]]）&lt;br /&gt;
| 死没 = [[元亀]]4年[[4月12日 (旧暦)|4月12日]]（[[1573年]][[5月13日]]）&lt;br /&gt;
| 改名 = 太郎（幼名・通称）、晴信、機山（道号）、徳栄軒信玄（法号・法名）&lt;br /&gt;
| 別名 = 渾名：甲斐の虎、甲斐の龍&amp;lt;br /&amp;gt;勝千代&amp;lt;ref&amp;gt;『甲陽軍鑑』では幼名「太郎」に加え「勝千代」とも呼ばれたとされる。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
| 戒名 = 法性院機山信玄&lt;br /&gt;
| 墓所 = [[武田神社]]、[[信玄墓]]、[[大泉寺 (甲府市)|大泉寺]]、[[恵林寺]]、&amp;lt;br /&amp;gt;[[諏訪湖]]、[[長岳寺]]、[[龍雲寺 (佐久市)|竜雲寺]]、[[高野山]]、&amp;lt;br /&amp;gt;[[福田寺]][[妙心寺]]ほか&lt;br /&gt;
| 官位 = [[従四位下]]、[[大膳職|大膳大夫]]、[[信濃国|信濃守]]贈[[従三位]]&lt;br /&gt;
| 幕府 = [[室町幕府]]：[[甲斐国|甲斐]]守護職・[[信濃国|信濃]]守護職&lt;br /&gt;
| 氏族 = [[甲斐源氏]]、[[武田氏]]&lt;br /&gt;
| 父母 = 父：[[武田信虎]]、母：[[大井の方]]&lt;br /&gt;
| 兄弟 = 竹松、&#039;&#039;&#039;武田晴信（信玄）&#039;&#039;&#039;、犬千代、&amp;lt;br /&amp;gt;[[武田信繁]]、[[武田信基]]、[[武田信廉]]、&amp;lt;br /&amp;gt;[[松尾信是]]、[[武田宗智]]、[[河窪信実]]、&amp;lt;br /&amp;gt;[[一条信龍]]、[[武田信友]]、[[武田勝虎]]、&amp;lt;br /&amp;gt;[[定恵院]]、南松院、[[禰々]]、花光院、&amp;lt;br /&amp;gt;[[菊御料人]]、[[亀御料人]]、[[今出川晴季]]室&lt;br /&gt;
| 妻   = 正室：&#039;&#039;&#039;[[上杉朝興]]の娘&#039;&#039;&#039;　継室：&#039;&#039;&#039;[[三条の方]]&#039;&#039;&#039;&amp;lt;br /&amp;gt;側室：[[諏訪御料人]]、[[禰津御寮人]]、&amp;lt;br /&amp;gt;[[油川夫人]]　[[#系譜|ほか]]&lt;br /&gt;
| 子   = [[武田義信]]、[[海野信親]]、[[武田信之 (武田信玄三男)|武田信之]]、&amp;lt;br /&amp;gt;[[黄梅院 (北条氏政正室)|黄梅院]]、[[見性院 (穴山梅雪正室)|見性院]]、&#039;&#039;&#039;[[武田勝頼]]&#039;&#039;&#039;、&amp;lt;br /&amp;gt;[[真竜院]]、[[仁科盛信]]、[[葛山信貞]]、&amp;lt;br /&amp;gt;[[武田信清]]、[[信松尼|松姫]]、[[菊姫 (上杉景勝正室)|菊姫]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;武田 信玄&#039;&#039;&#039;（たけだ しんげん） / &#039;&#039;&#039;武田 晴信&#039;&#039;&#039;（たけだ はるのぶ）は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]、[[甲斐国|甲斐]]の[[守護大名]]・[[戦国大名]]。[[甲斐源氏]]の[[嫡流]]にあたる[[武田氏|甲斐武田家]]第19代当主。[[諱]]は&#039;&#039;&#039;晴信&#039;&#039;&#039;、[[仮名 (通称)|通称]]は&#039;&#039;&#039;太郎&#039;&#039;&#039;（たろう）。「信玄」とは（出家後の）[[戒名|法名]]で、正式には徳栄軒信玄。[[大正]]期に[[従三位]]を贈られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
甲斐の[[守護]]を務めた甲斐源氏武田家第18代・[[武田信虎]]の嫡男。先代・信虎期に武田氏は[[戦国大名]]化し国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・[[信濃国|信濃]]に侵攻する。その過程で[[越後国]]の[[上杉謙信|上杉謙信（長尾景虎）]]と五次にわたると言われる[[川中島の戦い]]で抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え信濃、[[駿河国|駿河]]、西[[上野国|上野]]、[[遠江国|遠江]]、[[三河国|三河]]と[[美濃国|美濃]]の一部を領し、次代の勝頼期にかけて領国を拡大した。晩年、[[西上作戦]]の途上に三河で病を発し、信濃で病没した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸時代から近現代にかけて『[[甲陽軍鑑]]』（以下『軍鑑』&amp;lt;ref&amp;gt;『甲陽軍鑑』は江戸時代初期の元和年間に原本が成立した[[軍学書]]で、近世社会において広く流布した。奥書に拠れば武田家の行く末を案じた信玄・勝頼期の譜代家老である[[春日虎綱]]（高坂昌信、1527年 - 1578年）の口述記録を原本に虎綱子孫が編纂を継続し、虎綱の部下であった[[小幡昌盛]]の子[[小幡景憲|景憲]]が原本を入手し、刊行させたものであるという。内容は文書上で確認されない事績や人物の名前、年紀の誤り等を数多く含み、軍学部分以外では後代の嵌入が認められる箇所も多数あるため、明治期の[[実証主義]]史学において資料的価値に否定的評価が与えられてきたが、戦後には[[酒井憲二]]の国学的検討を契機に再評価も行われている。刊行本には[[磯貝正義]]・[[服部治則]]校注『甲陽軍鑑』（人物往来社、1965年）や酒井『甲陽軍鑑大成』。&amp;lt;/ref&amp;gt;）に描かれる伝説的な人物像が世間に広く浸透し、「[[風林火山]]」の軍旗を用い、&#039;&#039;&#039;甲斐の虎&#039;&#039;&#039;または、龍朱印を用いたことから&#039;&#039;&#039;甲斐の龍&#039;&#039;&#039;とも呼ばれる。NHK大河ドラマ『[[武田信玄 (NHK大河ドラマ)|武田信玄]]』に代表されるように、無敵と呼ばれた騎馬軍団を率い、また上杉謙信の良き好敵手としての人物像が形成される&amp;lt;ref&amp;gt;NHK（2002）『その時歴史が動いた』 激突 武田信玄と上杉謙信～川中島の戦い、両雄決戦の時～&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;NHK（2004）『その時歴史が動いた』 武田信玄 地を拓き水を治める～戦国時代制覇への夢～&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;NHK（2007）『その時歴史が動いた』完成・戦国最強軍団 ～武田信玄・苦悩の生涯～&amp;lt;/ref&amp;gt;{{信頼性要検証|date=2014-06}} 。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 出生から甲斐守護継承まで ===&lt;br /&gt;
甲斐国守護・[[武田信虎]]の嫡長子として生まれる。母は西郡の有力国人[[大井氏]]の娘・[[大井の方|大井夫人]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
甲斐国では[[上杉禅秀の乱]]を契機に守護武田氏の権威が失墜し有力国衆が台頭していたが、信玄の祖父にあたる信昌期には守護代跡部氏の排斥、国衆勢力を服従させ国内統一が進む。信昌期から父の信直（後の信虎）期には武田宗家の内訌に新たに台頭した有力国衆・対外勢力の争いが関係し甲斐は再び乱国状態となるが、信虎は甲斐統一を達成し、[[永正]]16年（[[1519年]]）には[[甲府]]の[[躑躅ヶ崎館]]を本拠とした城下町（武田城下町）を開府し、家臣団組織が整備され[[戦国大名]]としての地位が確立されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信玄の出生は信虎による甲斐統一の達成期にあたり、生誕地は躑躅ヶ崎館に付属した城として知られる&#039;&#039;&#039;[[要害山城]]&#039;&#039;&#039;である（または[[積翠寺]]）。信虎は[[駿河国]][[今川氏]]を後ろ盾とした[[甲府盆地]]西部（西郡）の有力国衆大井氏と対決していたが、大永元年（1521年）10月には今川家臣[[福島正成]]率いる軍勢が甲府に迫り、信虎は甲府近郊の飯田河原合戦において福島勢を撃退している。この際に大井夫人は詰城である要害山へ退いていたといわれ、信玄は要害山城において出生したという&amp;lt;ref&amp;gt;福島勢の侵攻・信玄出生に関しては「[[高白斎記]]」「[[王代記]]」ともに『[[山梨県史]]』資料編資料編6中世3上（県内記録）など&amp;lt;/ref&amp;gt;。幼名は太郎&amp;lt;ref&amp;gt;信玄の幼名は確実な史料では「太郎」であるが、『[[甲陽軍鑑]]』によればこのときの勝利に因み「&#039;&#039;&#039;勝千代&#039;&#039;&#039;（かつちよ）」とも名付けられたという。信玄は後世に英雄視されていることから出生伝説もうまれ、『軍鑑』や『武田三代記』などによれば、信玄誕生のとき、産屋の上に一条の雲がたなびき白旗の風に翻るように見えたが、それが消えたとき一双の白鷹が3日間も産屋にとまったとされる。このため、諏訪明神の神使が若君（信玄）を守護してくれるのだと末頼もしく思ったとされている。別の話では、信虎が陣中で休息しているとき、[[曾我時致]]が自分の子になる夢を見て、そのときに信玄が生まれたとされている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。兄の竹松が７歳で夭折した為、嫡男となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[大永]]5年（[[1525年]]）父・信虎と大井夫人との間に弟・次郎（[[武田信繁]]）が生まれる。『軍鑑』によれば、父の寵愛は次郎に移り勝千代（太郎）を徐々に疎むようになったと言う。[[傅役]]は不明だが、『軍鑑』では譜代家臣[[板垣信方]]が傅役であった可能性を示している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信虎後期には駿河今川氏との和睦が成立し、関東地方において[[相模国]]の新興大名である[[後北条氏]]と敵対していた[[扇谷上杉氏]]と結び、領国が接する甲斐[[都留郡]]において北条方との抗争を続けていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[天文 (元号)|天文]]2年（[[1533年]]）に&#039;&#039;&#039;[[扇谷上杉家]]&#039;&#039;&#039;当主で武蔵国川越城主である&#039;&#039;&#039;[[上杉朝興]]&#039;&#039;&#039;の娘が晴信の正室として迎えられており、これは政略結婚であるが、晴信と彼女の仲は良かったと伝えられている。しかし、天文3年（[[1534年]]）に出産の折、難産で彼女も子も死去している&amp;lt;ref&amp;gt;「[[勝山記]]」『山資』6所載&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文5年（[[1536年]]）に[[元服]]して、[[室町幕府]]第12代将軍・&#039;&#039;&#039;[[足利義晴]]&#039;&#039;&#039;から「&#039;&#039;&#039;晴&#039;&#039;&#039;」の[[偏諱]]を賜り、「&#039;&#039;&#039;晴信&#039;&#039;&#039;」と改める&amp;lt;ref&amp;gt;『高白斎記』に拠る。「信」は武田氏の[[通字]]）&amp;lt;/ref&amp;gt;官位は[[従五位下]]・[[大膳職|大膳大夫]]に叙位・任官される。元服後に[[継室]]として[[左大臣]]・[[三条公頼]]の娘である[[三条の方|三条夫人]]を迎えている。この年には駿河で[[今川氏輝]]が死去し、[[花倉の乱]]を経て[[今川義元]]が家督を継ぎ武田氏と和睦しており、この婚姻は京都の公家と緊密な今川氏の斡旋であったとされている。『軍鑑』では輿入れの記事も見られ、晴信の元服と官位も今川氏の斡旋があり勅使は三条公頼としているが、家督相続後の義元と信虎の同盟関係が不明瞭である時期的問題から疑視もされている（柴辻俊六による）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信虎は諏訪氏や村上氏ら信濃豪族と同盟し信濃国[[佐久郡]]侵攻を進めているが、武家の[[初陣]]は元服直後に行われていることが多く、『軍鑑』によれば晴信の初陣は天文5年（1536年）11月、佐久郡[[海ノ口城]]主[[平賀源心]]攻めであるとしている。『軍鑑』に記される晴信が城を一夜にして落城させたという伝承は疑問視されているものの、時期的にはこの頃であると考えられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
晴信は信虎の信濃侵攻に従軍し、天文10年（[[1541年]]）の[[海野平合戦]]にも参加しているが、『高白斎記』によれば甲府へ帰陣した同年6月には晴信や重臣の[[板垣信方]]や[[甘利虎泰]]、[[飯富虎昌]]らによる信虎の駿河追放が行われ、晴信は[[武田家]]の第19代目の[[家督]]を[[相続]]する&amp;lt;ref&amp;gt;信虎追放に関しては『勝山記』や[[向嶽寺|塩山向岳禅庵小年代記]]など甲斐国内史料に記される信虎の対外侵攻の軍役や[[凶作]]に際しての[[重税]]など「悪行」を原因としていることから、『[[甲斐国志]]』による合意による隠居であったとする説、今川義元との共謀説などの諸説ある。『軍鑑』では追放の原因を不和とし、晴信は嫡男として遇されていたが、信虎との関係は険悪化しており、[[天文 (元号)|天文]]7年（[[1538年]]）[[正月]]の[[元旦]]祝いのとき、信虎は晴信には盃をささず、弟の信繁にだけ盃をさしたという逸話を記している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 信濃国を平定 ===&lt;br /&gt;
[[File:戦国甲信越.png|thumb|250px|戦国時代の甲信とその周辺[[メディア:戦国甲信越.png|拡大]]]]&lt;br /&gt;
信虎期の武田氏は敵対している勢力は相模後北条氏のみで、駿河国今川氏、上野国[[山内上杉氏]]・[[扇谷上杉氏]]、信濃諏訪氏と同盟関係を持ち信虎末期には信濃佐久郡・小県郡への出兵を行っていたが、晴信は家督を相続すると信虎路線からの変更を行い、信濃諏訪領への侵攻を行う&amp;lt;ref&amp;gt;信虎期からの外交方針の転換については、晴信が官途名を「左京太夫」から「大善太夫」に改称していることにも象徴されていると指摘される（秋山敬「武田氏の国人被官化過程と政権意識」『甲斐武田氏と国人』（高志書院、2003）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文11年（[[1542年]]）6月に晴信は諏訪氏庶流である[[高遠頼継]]とともに諏訪領への侵攻を開始し、諏訪頼重を甲府へ連行して自害に追い込み、諏訪領を制圧している&amp;lt;ref&amp;gt;晴信は天文10年6月に信虎を追放し家督を相続しているが、同年5月の海野平合戦で小県を追われた[[海野棟綱]]は、信濃の隣国上野に拠する[[関東管領]]・[[上杉憲政]]を頼った。同年7月に憲政は信濃佐久郡へ侵攻し、当時諏訪領主であった[[諏訪頼重 (戦国時代)|諏訪頼重]]は、同盟相手である武田・小県郡村上氏へ断りをせず、独断で上杉方と和睦して、所領の分割を行っている（「神使御頭之日記」）。晴信の諏訪侵攻はこの翌年に行われていることから、諏訪侵攻の背景には信濃・上野地域における外交情勢が関係していると考えられている平山優『川中島の戦い』2002&amp;lt;/ref&amp;gt;。諏訪領においては同年9月には高遠頼継が武田方に対して挙兵しているが、武田方はこれを撃破して諏訪領を掌握する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
武田方はさらに天文12年（[[1543年]]）には信濃国[[長窪城]]主である[[大井貞隆]]を攻めて自害に追い込んだ。天文14年（[[1545年]]）4月、[[上伊奈郡]]の[[高遠城]]に侵攻し、高遠頼継を、続いて6月には[[福与城]]主である[[藤沢頼親]]も滅ぼした。父信虎時代は対立していた後北条氏とは天文13年（1544年）に和睦し、その後も天文14年の今川氏と後北条氏の対立（[[河東の乱|第2次河東一乱]]）を仲裁して、両家に大きな「貸し」を作った。それによって西方に安堵を得た[[北条氏康]]は[[河越城の戦い]]で大勝し、そうした動きが後年の[[甲相駿三国同盟]]へと繋がっていく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今川・北条との関係が安定したことで武田方は[[信濃侵攻]]を本格化させ、信濃守護小笠原長時、小県領主村上義清らと敵対する。天文16年（[[1547年]]）には関東管領勢に支援された[[志賀城]]の[[笠原清繁]]を攻め、同年[[8月6日 (旧暦)|8月6日]]の[[小田井原の戦い]]で武田軍は上杉・笠原連合軍に大勝する&amp;lt;ref&amp;gt;『[[勝山記]]』によれば晴信は小田井原で討ち取った約3,000人の首級を夜のうちに[[志賀城]]のまわりに打ち立る。志賀城の城兵はこれを見て戦意を阻喪し、8月10日正午に外曲輪、深夜には二の曲輪に火を掛け城兵を追い詰め、翌11日正午頃志賀城は陥落、笠原清繁は甲斐衆の萩原弥右衛門が、高田憲頼は諏訪衆の小井弖越前守が討ち取り、城兵三百余が戦死した。笠原清繁の妻は小山田信有が貰い受け、さらに残った女子供と奉公の男は人質として2貫文から10貫文という法外な値を要求し、大半は黒川金山の坑夫や娼婦、奴婢として人身売買されたという。&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、領国支配においても同年には[[分国法]]である&#039;&#039;&#039;[[甲州法度之次第]]（信玄家法）&#039;&#039;&#039;を定めている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文17年（[[1548年]]）2月、晴信は信濃国北部に勢力を誇る[[葛尾城]]主・[[村上義清]]と上田原で激突する（[[上田原の戦い]]）。上田原合戦において武田軍は村上軍に敗れ、宿老の板垣信方・甘利虎泰らをはじめ多くの将兵を失い、晴信自身も傷を負い甲府の[[湯村温泉 (山梨県)|湯村温泉]]で30日間の[[湯治]]をしたという。この機に乗じて同年4月、[[小笠原長時]]が諏訪に侵攻して来るが、晴信は7月の[[塩尻峠の戦い]]（勝弦峠の戦い）で小笠原軍を撃破した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文19年（[[1550年]]）7月、晴信は小笠原領に侵攻する。これに対して小笠原長時にはすでに抵抗する力は無く、[[林城]]を放棄して村上義清のもとへ逃走した。こうして、中信は武田の支配下に落ちた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
勢いに乗った晴信は同年9月、村上義清の支城である[[戸石城|砥石城]]を攻める。しかし、この戦いで武田軍は後世に[[砥石崩れ]]と伝えられる大敗を喫した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし天文20年（[[1551年]]）4月、[[真田幸隆]]（幸綱）の策略で砥石城が落城すると、武田軍は次第に優勢となり、天文22年（[[1553年]]）4月、村上義清は[[葛尾城]]を放棄して[[越後]]の長尾景虎（上杉謙信）のもとへ逃れた。こうして東信も武田家の支配下に入り、晴信は北信を除き信濃をほぼ平定した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 川中島の戦い ===&lt;br /&gt;
{{Main|川中島の戦い}}&lt;br /&gt;
[[File:Sengoku period battle.jpg|thumb|180px|第四次川中島の戦い]]&lt;br /&gt;
天文22年（[[1553年]]）4月、村上義清や北信豪族の要請を受けた長尾景虎（[[上杉謙信]]）は本格的な信濃出兵を開始し、以来善光寺平の主導権を巡る甲越対決の端緒となる（&#039;&#039;&#039;第1次[[川中島の戦い]]&#039;&#039;&#039;）。このときは景虎方に武田軍の先鋒を布施・八幡にて撃破される。景虎は武田領内深く侵攻するも晴信は決戦を避ける。その後は景虎も軍を積極的に動かすことなく、両軍ともに撤退した。同年8月には景虎の支援を受けて[[大井信広]]が謀反を起こすが、晴信はこれを直ちに鎮圧した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
晴信は信濃進出に際して、和睦成立後も緊張が続いていた駿河今川氏と相模北条氏の関係改善を進めており、天文23年（[[1554年]]）には嫡男義信の正室に今川義元の娘[[嶺松院]]を迎え、甲駿同盟を強化する。また[[黄梅院 (北条氏政正室)|娘]]を[[北条氏康]]の嫡男[[北条氏政|氏政]]に嫁がせ[[甲相同盟]]を結ぶ。今川と北条も信玄及び今川家の[[太原雪斎]]が仲介して婚姻を結び[[甲相駿三国同盟]]が成立する。三国同盟のうち、北関東において景虎と抗争していた北条氏との甲相同盟は景虎を共通の敵として相互に出兵し軍事同盟として特に有効に機能した。天文24年にも川中島において長尾景虎と対陣している&amp;lt;ref&amp;gt;なお、『勝山記』天文24年条に拠ればこのとき鉄砲300挺、弓800張が動員されたとしており、武田氏の合戦においてはじめて[[鉄砲]]の使用が確認される記事として注目されている。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
弘治3年（1557年）には将軍[[足利義輝]]による甲越和睦の御内書が下される。これを受諾した景虎に対し晴信は受託の条件に信濃守護職を要求し、信濃守護に補任されている&amp;lt;ref&amp;gt;鴨川達夫は「神田孝平氏所蔵文書」に含まれた足利義輝宛の手紙を根拠に、信濃守護補任が数年遡る可能性を指摘している（鴨川達夫『&amp;lt;small&amp;gt;日本史リブレット人043&amp;lt;/small&amp;gt; 武田信玄と毛利元就 &amp;lt;small&amp;gt;思いがけない巨大な勢力圏&amp;lt;/small&amp;gt;』[[山川出版社]]、2011年、57-60頁、ISBN 978-4-634-54843-5）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『[[甲斐国志]]』に拠れば、永禄2年（1559年）2月に晴信は[[長禅寺 (甲府市)|長禅寺]]住職の[[岐秀元伯]]を導師に[[出家]]し、「徳栄軒信玄」と号したという。文書上では翌年に信濃佐久郡の松原神社に奉納している願文が「信玄」の初見史料となっている&amp;lt;ref&amp;gt;『戦武』 - 664号。なお『甲陽軍鑑』では出家時期を天文20年2月とするが、文書上からは否定されるほか、出家時期を[[策彦周良]]宛の手紙（『山梨県史』資料編5、二六一七）を根拠に、永禄元年12月とする説も提示されている（鴨志田智啓「武田信玄呼称の初見文書について」 『戦国史研究』60号、2010。鴨川達夫『&amp;lt;small&amp;gt;日本史リブレット人043&amp;lt;/small&amp;gt; 武田信玄と毛利元就 &amp;lt;small&amp;gt;思いがけない巨大な勢力圏&amp;lt;/small&amp;gt;』山川出版社、2011、60頁）&amp;lt;/ref&amp;gt;。出家の背景には信濃をほぼ平定した時期であることや、信濃守護に補任されたことが契機であると考えられているほか&amp;lt;ref&amp;gt;平山（2002）p.154&amp;lt;/ref&amp;gt;、永禄2年（1559年）に相模後北条氏で永禄の大飢饉を背景に当主氏康が家督を嫡男氏政に譲り徳政を行っていることから、同じく飢饉が蔓延していた武田領国でも代替わりに近い演出を行う手段として、晴信の出家が行われた可能性が考えられている&amp;lt;ref&amp;gt;平山（2002）p.155&amp;lt;/ref&amp;gt;。「信玄」の号のうち「玄」の字は「晴」と同義であるとする説や&amp;lt;ref&amp;gt;平山（2002）p.154&amp;lt;/ref&amp;gt;、臨済宗妙心寺派の開山である[[関山慧玄]]の一字を授かったとする説&amp;lt;ref&amp;gt;平山（2002）p.154&amp;lt;/ref&amp;gt;、唐代の僧[[臨済義玄]]から一字を取ったとする説などがある&amp;lt;ref&amp;gt;平山（2002）p.154&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
[[File:Takeda Shingen versus Uesugi Kenshin statue.jpg|thumb|280px|武田信玄（左）・上杉謙信（右）一騎討像　長野市[[八幡原史跡公園]]]]&lt;br /&gt;
[[File:Statue of Uesugi Kenshin in Joetsu, Niigata.jpg|thumb|上杉謙信公の銅像（新潟県上越市）]]&lt;br /&gt;
信玄は北信侵攻を続けていたものの謙信の上洛により大きな対戦にはならなかったが、[[永禄]]4年（[[1561年]]）の第四次川中島の戦いは一連の対決の中で最大規模の合戦となる。武田方は信玄の実弟である武田軍副将[[武田信繁]]をはじめ武田家重臣[[室住虎光|諸角虎定]]、足軽大将の[[山本勘助]]、[[三枝守直]]ら有力家臣を失い、信玄自身までも負傷したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第四次川中島合戦を契機に信濃侵攻は一段落し、以後は西上野出兵を開始しており、この頃から対外方針が変化しはじめる。永禄7年（[[1564年]]）にも上杉軍と川中島で対峙したが、衝突することなく終わっている（&#039;&#039;&#039;第5次川中島の戦い&#039;&#039;&#039;）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 外交方針の転換と今川・北条との戦い ===&lt;br /&gt;
川中島の戦いと並行して信玄は[[西上野侵攻]]を開始し、上杉旧臣である[[長野業正]]が善戦した為、捗々しい結果は得られなかった。しかし、業正が永禄4年（1561年）に死去すると、武田軍は後を継いだ[[長野業盛]]を激しく攻め、永禄9年（[[1566年]]）9月には[[箕輪城]]を落とし、上野西部を領国化した&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、天文年間後期（小田井原の戦い以降）には甘楽郡の上野市河氏や国峯小幡氏は既に武田氏に帰属している（黒田基樹「天文期の山内上杉氏と武田氏」（初出:柴辻俊六 編『戦国大名武田氏の役と家臣』（岩田書院、20121） ISBN 978-4-87294-713-7/所収:黒田『戦国期 山内上杉氏の研究』（岩田書院、2013年）ISBN 978-4-87294-786-1）。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;西上野侵攻については、柴辻俊六「武田信玄の関東計略と西上野支配」『戦国大名武田氏領の支配構造』&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄3年（[[1560年]]）5月には[[桶狭間の戦い]]において駿河で今川義元が尾張国の[[織田信長]]に敗死して当主が[[今川氏真|氏真]]に交代し、今川領国では三河で松平元康（[[徳川家康]]）が独立するなど動揺が見られた。信玄は義元討死の後に今川との同盟維持を確認しているが、この頃には領国を接する岐阜においても信長が斎藤氏の内訌に介入して抗争しており、信長は斎藤氏との対抗上武田との関係改善を模索し、こうした経緯から諏訪勝頼正室に信長養女が迎えられている&amp;lt;ref&amp;gt;丸島和洋「信玄の拡大戦略　戦争・外交・同盟」『新編武田信玄のすべて』2008&amp;lt;/ref&amp;gt;。川中島合戦・桶狭間合戦を契機とした対外情勢の変化に伴い武田と今川の同盟関係には緊張が生じ、永禄10年（[[1567年]]）10月には武田家において嫡男義信が廃嫡される事件が発生している（義信事件）&amp;lt;ref&amp;gt;義信事件の経緯は不明であるが、永禄8年10月15日には義信傅役の飯富虎昌が処刑（丸島和洋「高野山成慶院『甲斐国供養帳』－『過去帳(甲州月牌帳）』」『武田氏研究』（34号、2006年））、永禄10年10月19日には甲府東光寺に幽閉されていた義信が自害しており、事件後には領国の動揺を沈静化させるためであると考えられている文書が発給されている。嫡男義信は正室が今川氏真妹で武田家においても親今川派の人物であったと考えられており、義信事件の背景には今川氏との外交関係を巡る武田家内部の事情が関係していると考えられている。義信事件については平山優「武田勝頼の再評価」『新府城と武田勝頼』（山梨県韮崎市教育委員会、2001年）、丸島（2008）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄11年（[[1568年]]）12月には遠江割譲を約束した三河の[[徳川家康]]と共同で[[駿河侵攻]]&amp;lt;ref&amp;gt;駿河侵攻の経緯については[[駿河侵攻]]を参照。&amp;lt;/ref&amp;gt;を開始し、[[薩垂山]]で今川軍を破り[[今川館]]を一時占拠する。信玄は駿河侵攻に際して相模北条氏康にも協調を持ちかけていたが氏康は今川方救援のため出兵し甲相同盟は解消され、北条氏は越後上杉氏との[[越相同盟]]を結び武田領国への圧力を加えた。さらに徳川氏とは遠江領有を巡り対立し、翌永禄12年5月に家康は今川氏と和睦し侵攻から離脱した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした状況の中で信玄は信長・将軍足利義昭を通じて越後上杉氏との和睦（[[甲越和与]]）を試み、同年8月には上杉氏との和睦が成立した&amp;lt;ref&amp;gt;「甲越和与」の経緯については丸島和与「甲越和与の発掘と越相同盟」『戦国遺文武田氏編　月報』6&amp;lt;/ref&amp;gt;。さらに信玄は越相同盟に対抗するため常陸国佐竹氏や下総国簗田氏など北関東勢力との同盟を結び後北条領国へ圧力を加え、同年10月には小田原城包囲を行い、撤退の際には[[三増峠の戦い]]で北条勢を撃退した&amp;lt;ref&amp;gt;柴辻「越相同盟と武田氏の武蔵侵攻」『戦国期武田氏領の展開』&amp;lt;/ref&amp;gt;。こうした対応策から後北条氏は上杉・武田との関係回復に方針を転じ、同年末には再び駿河侵攻を行い駿府を掌握した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
北条方では越相同盟の強化や徳川氏・織田氏への呼びかけにより武田氏との対抗を模索するが、無理の大き過ぎた越相同盟は機能せずに武田方に圧倒され、[[元亀]]2年（[[1571年]]）には隠居氏康が「謙信との同盟を捨て、信玄と同盟し直せ」と遺言して死去する。当時は亡き信玄娘を正室とした氏政が全権を掌握すると、氏政は上杉氏との関係が悪化したことから氏康の遺言を実行し、武田方との同盟再締結に転じ、甲相同盟が再締結された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、永禄年間に[[下野国|下野]][[宇都宮氏]]の家臣[[益子勝宗]]と親交を深めていた。勝宗が信玄による西上野侵攻に呼応して出兵し、軍功を上げると信玄は勝宗に[[感状]]を贈っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 遠江・三河侵攻と甲相同盟の回復 ===&lt;br /&gt;
永禄11年（[[1568年]]）9月、将軍[[足利義昭]]を奉じて織田信長が上洛を果たした。ところが信長と義昭はやがて対立し、義昭は信長を滅ぼすべく、信玄やその他の大名に信長討伐の御内書を発送する。信玄も信長の勢力拡大を危惧したため、元亀2年（[[1571年]]）2月、信長の盟友である徳川家康を討つべく、大規模な遠江・三河侵攻を行う。信玄は同年5月までに[[小山城 (遠江国)|小山城]]、[[真弓山城|足助城]]、[[田峯城]]、[[野田城 (三河国)|野田城]]、[[二連木城]]を落としたが、信玄が血を吐いたため甲斐に帰還した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元亀2年（1571年）[[10月3日 (旧暦)|10月3日]]、かねてより病に臥していた北条氏康が小田原で死去し、後を継いだ嫡男の氏政は、「再び武田と和睦せよ」との亡父の遺言に従い（氏政独自の方針との異説あり）、謙信との同盟を破棄して弟の[[北条氏忠]]、[[北条氏規]]を人質として甲斐に差し出し、[[12月27日 (旧暦)|12月27日]]には信玄と[[甲相同盟]]を回復するに至った。この時点で武田家の領土は、[[甲斐国|甲斐]]一国のほか、[[信濃国|信濃]]、[[駿河国|駿河]]、[[上野国|上野]]西部、[[遠江国|遠江]]・[[三河国|三河]]・[[飛騨国|飛騨]]・[[越中国|越中]]の一部にまで及び、石高はおよそ120万石に達している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 西上作戦 ===&lt;br /&gt;
尾張の[[織田信長]]とは永禄年間から領国を接し外交関係がはじまっており&amp;lt;ref&amp;gt;武田氏の領国拡大過程において、天文23年の南信伊那郡制圧において東美濃国衆[[遠山氏]]が武田方に帰属しており、この頃から尾張隣国である美濃[[斎藤氏]]との緊張関係が発生している。弘治2年4月には斎藤氏と信長の抗争が勃発し、武田氏は遠山氏を介して美濃情勢に介入しており、このころから織田氏との外交関係がもたれていたと考えられている。&amp;lt;/ref&amp;gt;、永禄8年（[[1565年]]）には東美濃の国衆である[[遠山直廉]]の娘（信長の姪にあたる）を信長が養女として武田家の世子である[[武田勝頼]]に嫁がせることで友好的関係を結んだ。その養女は男児（後の[[武田信勝]]）を出産した直後に死去したが、続いて信長の嫡男である[[織田信忠]]と信玄の娘である[[信松尼|松姫]]の婚約が成立しており、織田氏の同盟国である徳川氏とは三河・遠江をめぐり対立を続けていたが、武田と織田は友好的関係で推移している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元亀2年（[[1571年]]）には織田信長による[[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山焼き討ち]]により[[天台座主]]の[[覚恕|覚恕法親王]]（[[正親町天皇]]の弟[[宮]]）が甲斐へ亡命している。信玄は法親王を保護し、[[皇族]]の座主の計らいにより[[権僧正]]という高位の僧位を与えられた。法親王は仏法の再興を信玄に懇願した。また、同年には甲相同盟が回復している&amp;lt;ref&amp;gt;元亀2年、信玄は甲相同盟を背景に大規模な遠江・三河への侵攻を開始したとされているが、近年では元亀2年の三河侵攻は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは勝頼期の天正3年の出来事であった可能性も考えられている（[[鴨川達夫]]『武田信玄と勝頼』（岩波新書、2009）、[[柴裕之]]「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元亀3年（[[1572年]]）[[10月3日 (旧暦)|10月3日]]、仏法の庇護者でもある信玄は、将軍・[[足利義昭]]の信長討伐令の呼びかけに応じる形で甲府を進発した&amp;lt;ref&amp;gt;信長は甲越和与の調停中で武田との友好的関係は保たれており、元亀3年の軍事行動は手切の通告がなされない突然のものであったと考えられている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。武田勢は諏訪から伊那郡を経て遠江に向かい、[[山県昌景]]と[[秋山虎繁]]（信友）の支隊は徳川氏の三河へ向かい、信玄本隊は[[馬場信春]]と青崩峠から遠江に攻め行った&amp;lt;ref&amp;gt;元亀3年の軍事行動の経緯については[[西上作戦]]を参照。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信玄率いる本隊は浅井・朝倉らに信長への対抗を要請し、[[10月13日 (旧暦)|10月13日]]に徳川方の諸城を1日で落とし、山県昌景軍は[[柿本城]]、[[井平城]]（井平小屋城）を落として信玄本隊と合流した。一方11月に信長の叔母の[[おつやの方]]が治める東美濃の要衝[[岩村城]]が武田軍に寝返ってきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これに対して、信長は信玄と義絶するが、[[浅井長政]]、[[朝倉義景]]、[[石山本願寺]]の[[一向宗]]徒などと対峙していたため、家康に[[佐久間信盛]]、[[平手汎秀]]らと3000の兵を送る程度に止まった。家康は[[10月14日 (旧暦)|10月14日]]、武田軍と遠江一言坂において戦い敗退している（[[一言坂の戦い]]）。[[12月19日 (旧暦)|12月19日]]には、（武田軍は）遠江の要衝である[[二俣城]]を陥落させた（[[二俣城の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:Mikatagahara no tatakai.jpg|230px|thumb|三方ヶ原の戦い]]&lt;br /&gt;
劣勢に追い込まれた家康は浜松に籠城の構えを見せたが、浜松城を攻囲せず西上する武田軍の動きを見て出陣した。しかし遠江三方ヶ原において、[[12月22日 (旧暦)|12月22日]]に信玄と決戦し敗退している（&#039;&#039;&#039;[[三方ヶ原の戦い]]&#039;&#039;&#039;）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしここで（信玄は）盟友・浅井長政の援軍として北近江に参陣していた朝倉義景の撤退を知る。信玄は義景に文書を送りつけ（[[伊能文書]]）再度の出兵を求めたものの、義景はその後も動こうとしなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信玄は軍勢の動きを止め刑部において越年したが、元亀4年（[[1573年]]）1月には三河に侵攻し、[[2月10日 (旧暦)|2月10日]]には[[野田城 (三河国)|野田城]]を落とした（[[野田城の戦い]]）。3月6日、岩村城に秋山虎繁を入れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 信玄の死と遺言 ===&lt;br /&gt;
[[File:Grave of Takeda Shingen in Kofu city.JPG|thumb|230px|甲府市岩窪町の武田信玄公墓所（2010年9月撮影）]]&lt;br /&gt;
[[File:Grave of Takeda Shingen in Erinji.JPG|thumb|230px|甲州市恵林寺の武田信玄公墓所（2010年11月撮影）]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信玄は野田城を落とした直後から度々[[喀血]]を呈する（一説では、&#039;&#039;&#039;[[三方ヶ原の戦い]]&#039;&#039;&#039;の[[首実検]]のときに[[喀血]]が再発したとも）など持病が悪化し、武田軍の進撃は突如として停止する。このため、信玄は[[長篠城]]において療養していたが、近習・一門衆の合議にては4月初旬には遂に甲斐に撤退することとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月12日、軍を甲斐に引き返す三河街道上で死去する、享年53&amp;lt;ref&amp;gt;信玄の[[死因]]に関しては、侍医御宿監物書状（『戦武』 - 2638号）にみられる持病の[[労咳]]（[[肺結核]]）、[[肺炎]]、『甲陽軍鑑』による[[胃癌]]若しくは[[食道癌]]による病死説が有力である。江戸時代には新井白石『藩翰譜』において三河野田城攻城における狙撃が元で死去したとする説を記しているほか、近代には[[地方病 (日本住血吸虫症)|地方病]]として蔓延した[[日本住血吸虫]]病に死因を求める見解も生まれている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。臨終の地点は小山田信茂宛御宿堅物書状写によれば三州街道上の信濃国駒場（[[長野県]][[下伊那郡]][[阿智村]]）であるとされているが、浪合や根羽とする説もある。[[戒名]]は法性院機山信玄。菩提寺は[[山梨県]][[甲州市]]の[[恵林寺]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
辞世の句は、「&#039;&#039;&#039;大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流&#039;&#039;&#039;」。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『&#039;&#039;&#039;[[甲陽軍鑑]]&#039;&#039;&#039;』によれば、信玄は[[遺言]]で「自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈める事」や、勝頼に対しては「信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事」を言い残し、重臣の山県昌景や馬場信春、[[内藤昌秀]]らに後事を託し、山県に対しては「源四郎、明日は瀬田に（我が武田の）旗を立てよ」と言い残したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信玄の遺言については、遺体を諏訪湖に沈めることなど事実で無いことが含まれているが（『軍鑑』によれば、重臣の協議により実行されなかったという）、三年秘匿や勝頼が嫡男信勝の後見となっている可能性も指摘され、文書上から確認される事跡もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信玄の死後に家督を相続した勝頼は遺言を守り、信玄の葬儀を行わずに死を秘匿している。駒場の長岳寺や甲府岩窪の魔縁塚を信玄の火葬地とする伝承があり、甲府の[[円光院]]では[[安永]]8年（[[1779年]]）に甲府代官により発掘が行われて信玄の戒名と年月の銘文がある棺が発見されたという記録がある。このことから死の直後に火葬して遺骸を保管していたということも考えられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正3年（[[1575年]]）3月6日には山県昌景が使者となり高野山成慶院に日牌が建立され(「武田家御日牌帳」)[[葬儀]]は『甲陽軍鑑』品51によれば長篠の戦いの直前にあたる4月12日に恵林寺で弔いが行われており、[[快川紹喜]]が大導師を務め葬儀を行ったという(「天正玄公仏事法語」)。[[上野晴朗]]はこれを「3年喪明けの葬儀で天正4年（[[1576年]]）4月16日に本葬を行った」としている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物 ==&lt;br /&gt;
[[File:Takeda Shingen.jpg|thumb|200px|right|『川中島百勇将戦之内』「明将 武田晴信入道信玄」]]&lt;br /&gt;
=== 人物像 ===&lt;br /&gt;
武田信玄の発行した文書は、信玄の[[花押]]による文書が約600点、[[印判]]を使用したものが約750点、写しのため署判不詳が100点、家臣が関与したものが50点の合計約1500点ほどが確認されている&amp;lt;ref&amp;gt;柴辻俊六「戦国大名自筆文書の考察-武田信玄を事例として-」『山梨県史研究』第5号、1997年。&amp;lt;/ref&amp;gt;。そのうち信玄自筆書状は50点前後確認できるが、20点ほどは神社宛の願文で、私的な文書は皆無で人物像・[[教養]]について伺える資料・研究は少なく、昭和初年には[[渡辺世祐]]『武田信玄の経綸と修養』 において若干論じられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
教養面について、信玄は京から公家を招いて[[詩歌]]会・連歌会を行っており、信玄自身も数多くの歌や[[漢詩]]を残している。信玄の詩歌は『為和集』『心珠詠藻』『甲信紀行の歌』などに住職され恵林寺住職の快川紹喜や円光院住職の説三恵璨により優れたものとして賞賛されている。また、漢詩は京都大徳寺の宗佐首座により「武田信玄詩藁」として編纂している&amp;lt;ref&amp;gt;[[黒田基樹]]「武田信玄と詩歌会・連歌会」『山梨県史』通史編2中世&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、信玄は実子義信の廃嫡や婚姻同盟の崩壊による子女の受難などを招いている一方で、娘の安産や病気平癒を祈願した[[願文]]を奉納しているなど、親としての一面が垣間見える事実もあることから、国主としての複雑な立場を指摘する意見もある&amp;lt;ref&amp;gt;平山優「武田信玄の人間像」 『戦国遺文月報』武田氏編第3巻、2003&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『甲陽軍鑑』において信玄は名君・名将として描かれ、中国三国時代蜀の[[諸葛亮|諸葛孔明]]の人物像に仮託されており（品九）、甲陽軍鑑においてはいずれも後代の仮託と考えられているが[[軍学]]や[[人生訓]]に関する数々の[[名言]]が記されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Wikiquote}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 『甲陽軍鑑』等における逸話 ===&lt;br /&gt;
{{複数の問題|ソートキー=人1573年没&lt;br /&gt;
|section = 1&lt;br /&gt;
| 出典の明記 = 2012年4月&lt;br /&gt;
| 独自研究 = 2012年4月&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* あるとき、駿河の今川義元の正室として嫁いだ姉から大量の貝殻が贈られてきた。山国甲斐で育った信玄はこれを喜び、近習に貝殻の数を調べさせた。貝殻は2畳分あった。そこで家臣らを呼んで「お前たち、この貝殻が何枚あるか当ててみい」と命じた。ある者は5000枚、ある者は1万枚と思い思いに述べた。すると信玄は「皆的違いだ。3700枚ほどだ」と教えた。そして「わしは今まで、合戦には兵力が必要だと思っていた。だが兵力は少なくともよい。必要なのは5000の兵を1万に見せることができるように、兵を思うように動かすことこそ大事である。お前たちもこのことをしかと心得よ」と述べた。それを聞いた家臣らは「末恐ろしい若君よ」と驚嘆した（甲陽軍鑑。品第6）。&lt;br /&gt;
* 武田軍の強さは、長篠の戦いで大敗した後も、信長の支配地域において「&#039;&#039;&#039;武田軍と上杉軍の強さは天下一である&#039;&#039;&#039;」と噂されるほどのものであった（大和国興福寺蓮成院記録・天正十年三月の項）。&lt;br /&gt;
* 躑躅ヶ崎館に、[[水洗トイレ]]を設置している。躑躅ヶ崎館の裏から流れる水を利用した仕組みで信玄がひもを引いて鈴を鳴らすと[[伝言ゲーム]]のように配置された数人の家臣に知らされていき上流の者が水を流す仕組みである。信玄はここを&#039;&#039;&#039;山&#039;&#039;&#039;と言う名称で呼んでいた。家臣が「何故、厠を山と言うのでしょう?」と尋ねた所、信玄は&#039;&#039;&#039;「山には常に、草木（臭き）が絶えぬから」&#039;&#039;&#039;と機知に富んだ回答をしている。トイレと言ってもかなり広く、室内には机や硯も設置されていた。信玄はここで用を足しながら書状を書いたり作戦を考えていた。&lt;br /&gt;
* 甲陽軍鑑によると、信長から小袖が贈られた時に、信玄はそれが入れられていた漆箱の方に目をつけそれを割るなどして調べると、それは漆を何度も重ね塗りしたものでありその丁寧さから「&#039;&#039;&#039;これは織田家の誠意の表れであり、武田家に対する気持ちが本物だ&#039;&#039;&#039;」と言った事から、信長の真意はともかく細かい所にも気をつける性格だったようである。&lt;br /&gt;
* 信玄は、かなり前から病を患っていたものと思われる。甲陽軍鑑には20代の頃から度々体調を崩していることが書かれている。&lt;br /&gt;
* 信玄は自らの影武者に、実弟の信廉を起用した。&lt;br /&gt;
* 信玄は&#039;&#039;&#039;情報収集を重要視し、「[[三ツ者]]」と呼ばれる隠密組織を用いていた&#039;&#039;&#039;（甲陽軍鑑では三ツ者のほか、素破とも表現されている）。また、身寄りの無い少女達を集めて忍びの術を仕込ませ、表向きは「歩き巫女」として全国に配備し諜報活動を行わせた。このため、信玄は甲斐に居ながら日本各地の情報を知っていたことから、まるで日本中を廻っていたかのような印象を持たれ「足長坊主」と異称されたという。&lt;br /&gt;
* 上洛のとき、「甲陽軍鑑」において、次のようなことを信玄自らが述べたという記述がある。&amp;lt;blockquote&amp;gt;&amp;lt;div&amp;gt; 「&#039;&#039;遠州・三河・美濃・[[尾張国|尾張]]へ発向して、存命の間に天下を取つて都に旗をたて、仏法・王法・神道・諸侍の作法を定め、政をただしく執行はんとの、信玄の望み是なり&#039;&#039;」&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;/blockquote&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 元亀2年（[[1571年]]）の織田信長による[[延暦寺]][[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山焼き討ち]]の際、信玄は信長を「天魔ノ変化」と非難し、比叡山延暦寺を甲斐に移して再興させようと図った。このため、元亀3年（[[1572年]]）に信玄は比叡山延暦寺の生き残った高僧から、大僧正の地位を与えられている。また、その大僧正の身分をわざわざ書いた宣戦布告ともいえる文を信長に送っている。&lt;br /&gt;
* 信玄にとって甲斐から京都へ上洛する距離は、当時としてはかなりの遠隔地だった。実際、織田信長の美濃・尾張に較べると甲斐は後進地域であるうえ、山国でもあるために行軍も難しかった。信長が信玄に先んじて上洛した際、当時の俳諧書である[[新撰犬筑波集|犬筑波集]]では、次のような句が記されている。&amp;lt;blockquote&amp;gt;&amp;lt;div&amp;gt;「都より甲斐への国へは程遠し。おいそぎあれや日は武田殿」（大意：甲斐は都から遠い。お急ぎせねば日が暮れますぞ。）&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;/blockquote&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 信玄は上杉謙信を上杉姓で呼ばなかったが、これは甲斐守護の武田家と越後守護代の長尾家の格式の差による。長尾家が関東管領として上杉姓となると、格式が逆転したため、面白くなかった信玄は、最期まで長尾姓のままで呼び続けたという。&lt;br /&gt;
* [[ルイス・フロイス]]の「日本史」によれば、武田氏は「彼（織田信長）がもっとも煩わされ、常に恐れていた敵の1人」だったという。&lt;br /&gt;
* フロイスはその他、書簡（日本耶蘇会年報に所収）にいくつか信玄のことについて記している。「戦争においては[[ユグルタ]]に似たる人」「彼は剃髪して坊主となり、常に坊主の服と数珠を身に着けたり。1日3回偶像を祭り、之が為 戦場に坊主600人を同伴せり。この信心の目的は、隣接諸国を奪うに在り」「彼は武力により畏怖され、部下より大に尊敬を受く。けだし小なる欠点といえども宥（ゆる）すことなく、直ちに之を殺害せしむるを以てなり」&lt;br /&gt;
**同じ書簡には、信玄が遠江・三河に侵攻する前、信長に一書を送ったが、そこには「その名を誇示せしめんとの慢心より、その書状の上に次の如く認めたり。テンダイノ・ザスシャモン・シンゲン（天台座主沙門信玄）」と署名してあり、「信長は之に対してドイロク・テンノマウオ・ノブナガ（[[第六天魔王]]信長）、と応酬せり」というやりとりがあったという。なお、この書簡の日付は1573年4月20日（日本暦の3月29日）だが、この後すぐ信玄が没してしまった事もあり、信玄が天台座主を名乗ったという史料はいまのところ他に見つかっていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 政策 ==&lt;br /&gt;
=== 家臣団と制度 ===&lt;br /&gt;
武田家臣団を制度的に分類する事は研究者の間でも意外と難しいとされる。武田家が守護から戦国大名になったと言う経緯から、中世的な部分が残る一方、時代に合わせて改変していった制度もあり、部分部分で鎌倉室町前期の影響と室町後期の時代の影響の両方がやや混然と存在しているためである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
家臣団を大きく分けると以下のように分けられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 1. 御一門衆&lt;br /&gt;
: 信玄の兄弟・親族らが中心。「甲州武田法性院信玄公御代惣人数事」『甲陽軍鑑』巻八では十二名を記載している。呼称は「御一門衆」であることが指摘され、『甲斐国志』では「親族衆」とし、「国主の兄弟から出て一家を立てた」者とされる。このため一条家など、別姓もありえる。また、[[木曾氏]]のような婚姻関係の結果親族衆に含まれる場合も含まれる。&lt;br /&gt;
; 2. 譜代家臣団&lt;br /&gt;
: 基本的には甲斐一国当時から武田家に仕えていた家を中心とした家臣団。ただし、春日虎綱（高坂昌信）のように武田信玄の代に侍大将に抜擢された家なども含まれるため、代々仕えていたと言う点が基準となるわけではない。逆に甲州に領地を持っていながら譜代と扱われていない例もある。4. その他の項を参照。&lt;br /&gt;
; 3. 外様家臣団&lt;br /&gt;
: 同時代には外様と言う表現は使われていないが、現代では便宜的にこのように言われる。1及び2に含まれない家臣団。当時は諏訪衆・上野衆と言った地域名、あるいは真田衆と言った領主名で呼ばれていた。武田海軍である海賊衆もここに含まれる。&lt;br /&gt;
; 4. その他（地域武士団）&lt;br /&gt;
: 武川衆のように甲斐国内に存在した集団でありながら、親族とも譜代とも判別し難いのみならず、武田氏に服属していたのか同盟関係に近かったのかの判断が困難なグループがある（小山田氏等）。多くは中世の本家分家的な関係を基礎としており、一定地域での独自色の強い集団であった。これらの集団と武田氏との関係の研究は現在も続けられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現代ではこのように分ける例が多い。しかし、『壬午起請文』では譜代家臣団の中に入るべき人物が「武田親族衆」とされている部分もある。これらについて[[服部治則]]は「非血縁分家」と言う表現で武田家との関係の深度によるのではないかとしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
職制は行政面と軍政面で分けられる。行政面では「職」と呼ばれる役職を頂点にした機関が存在した。ただし、武田氏は中央集権的な制度ではなかったため、在地領主（いわゆる国人）の領地に対しては直接指示を下せるわけではなかった。特に穴山・小山田両氏の領地は国人領主と言えるほどの独自性を維持している。信玄の初期は国人による集団指導体制の議長的な役割が強く、知行制による家臣団が確立されるのは治世も後半の事である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
構造的には原則として以下のようになっていたとされる。ただし、任命されていた人物の名が記されていない場合もあり、完全なシステムとしてこのように運営されていたわけではないようである。また、領地の拡大や知行制の浸透に伴い、これらの制度も変遷を行った様子が伺える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 行政&lt;br /&gt;
** 職。&lt;br /&gt;
*** 公事奉行…公事と訴訟を担当する。ただし、この公事奉行が全ての裁判を審議したわけではなく、下部で収まらなかった訴訟を審議した。後述。&lt;br /&gt;
*** 勘定奉行…財政担当官。&lt;br /&gt;
*** 蔵前衆…地方代官。同時に御料所と呼ばれる武田氏直轄地の管理を行った。&lt;br /&gt;
*** 侍隊将…出陣・警護の任務に当たる。&lt;br /&gt;
*** 足軽隊将…検使として侍隊将の補佐を勤める旗本隊将と、領地境界の番手警備を行う加勢隊将に別れる。&lt;br /&gt;
*** 浪人頭…諸国からの浪人を統率する。&lt;br /&gt;
* 軍政&lt;br /&gt;
** 職。&lt;br /&gt;
*** 旗本武者奉行…弓矢指南とされる。最上位に記される事から出陣の儀や勝ちどきの儀などの責任者か。&lt;br /&gt;
*** 旗奉行…諏訪法性の旗などを差配する。&lt;br /&gt;
*** 鑓奉行…騎馬足軽が付随したとある。旗本親衛隊の統率者か。&lt;br /&gt;
*** 使番衆…百足の旗を背負う伝令役。使番と奥使番に分けられる。&lt;br /&gt;
*** 奥近衆…奥近衆小姓とも記される。基本的には領主クラスの子弟から選ばれる。&lt;br /&gt;
*** 諸国使番衆…諸国への使者を務める。&lt;br /&gt;
*** 海賊衆…海軍。&lt;br /&gt;
*** 御伽衆…御話衆とも。側近。&lt;br /&gt;
*** 新衆…工兵集団。架橋や陣小屋作成など。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
行政・軍政とも職（総責任者）の下に位置し、武田氏の下部組織を勤める。竜朱印状奏者はこれらの制度上の地位とは別である。また、占領地の郡代など、限定的ながら独自裁量権を持つ地位も存在する。なお郡代という表現そのものも信濃攻略時には多く見られるが、駿河侵攻時にはあまり見られなくなっており、城主や城代がその役目を行うようになった。武田の行政機構が領地の拡大にあわせて変化していった一例であろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
軍事制度としては[[寄親寄子制]]であった事がはっきりしている。基本的には武田氏に直属する寄親と、寄親に付随する寄子の関係である。ただし、武田関連資料ではこの寄子に関して「同心衆」と言う表現をされる場所があるため、直臣陪臣制と誤解される事も多く、注意が必要である。また、地域武士団は血縁関係によって結びついた甲州内に存続する独自集団であり、指揮系統的には武田氏直属であったと考えられているが、集団が丸ごと親族衆の下に同心の様に配されている場合もあり、必ずしも一定していない。地域武士団の前者の例は先述の[[武川衆]]、後者の例は小山田氏に配属されていた[[九一色衆]]が上げられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
寄親とされているのは親族衆と譜代家臣団・外様家臣団の一部。譜代家臣団でありながら同心（寄子）である家もあるため、譜代家臣団が必ず寄親のような大部隊指揮官という訳ではない。また、俗に言う武田二十四将の中にも同心格である家もあり、知名度とも関係はない。それどころか侍大将とされている人物でも寄親の下に配されている場合もあり、かなり大きな権限を持っていたと考えられている。全体としては大きな領地を持っている一族である例が多く、地主的な発言権とは不可分であるようである。また、一方面指揮官（北信濃の春日虎綱や上野の内藤昌豊など）のように、領地とは別に大軍を指揮統率する権限を有している場合もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
寄子は制度的には最も数が多くなる。譜代家臣団・外様家臣団の大部分である。平時には名主として領地を有し、居住する地域や領地の中に「又被官（武田氏から見た表現。被官の被官と言う意味）」と記される直属の部下を持つ。寄親一人の下に複数の寄子が配属され、一軍団を形成する。武田関係の資料では先述したように「同心衆」と記され、「甘利同心衆」と言うように責任者名＋同心の書き方をされる例が多い。ただしこの名前が記されている人物も寄子である場合もあり、言葉そのものが状況によって使い分けられていたようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この複雑さを示す例として「信玄の被官」であり板垣信方の「同心」を命じられた[[曲淵吉景]]が挙げられる。信玄の被官と言う事は信玄直属であり、制度面で正確に言えば寄子としては扱われないはずであるが、信方の同心である以上は寄子として扱われている。信玄の被官である以上、知行は信玄から与えられる一方、合戦時の指示は信方から与えられる、と言う事になる。この例の曲淵は他者の同心であるが、信玄直属の同心と言える立場の人物ももちろん存在していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もっとも現代のように一字一句にこだわった表現が当時されていたかどうかは判断が難しい。軍役帳などの場合、「被官〜氏」「同心〜氏」であれば信玄直属の被官、「〜氏同心××氏」でれば誰かの又被官と、前後の書かれ方で意味が通じるからである。現代発行される書籍などで単語だけ取り出す事によって混乱が助長されている面は否定できない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、『中尾之郷軍役衆名前帳』には同じ郷から出征する人物が複数の寄親に配属されている場合があり、複数の郷に領地を持っている人物が寄子同心が存在するなど、一概に一地方＝一人物の指揮下と断定する事もできない。これもまた制度研究を困難にさせている要因の一つである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、裁判面では寄親寄子制が基幹となっており、甲州法度之次第では内容にかかわらず寄子はまず寄親に訴え出る事が規定されている。寄親が対処できない場合のみ信玄の下に持ち込まれることになっていた。これは一方で兵農未分離の証左とも言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信玄は家臣との間の些細な諍いや義信事件など家中の動揺を招く事件に際しては忠誠を誓わせる[[起請文]]を提出させており、神仏に誓うことで家臣との紐帯が保たれていた。また、信玄が寵愛する[[衆道]]相手の春日源介（「春日源介」の人物比定は不詳。）に対して、浮気の弁明を記す手紙や[[誓詞]]（天文15年（1546年））武田晴信誓詞、ともに東京大学史料編纂所所蔵）が現存しており、家臣との交友関係などを示す史料となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、信玄（晴信）に関して特徴的なことは、家臣に対する偏諱として「昌」の字が用いられた例が多いことである。武田氏の通字である「信」の授与は重臣の嫡男に限られ、それ以外の家臣には父・信虎は「虎」、子・勝頼は「勝」の字を授けているが、晴信の「晴」は将軍からの偏諱であるために「晴」の字を与えるはなく、代わりに曾祖父・[[武田信昌]]に由来する「昌」の字を代わりに授けたとみられている。例えば、真田氏の場合、幸隆の嫡男には「信」の一字を与えて信綱、次男以下には「昌」の字を与えて昌輝・昌幸などと名乗らせている&amp;lt;ref&amp;gt;黒田基樹『戦国大名と外様国衆』（文献出版、1997年）ISBN 4-8305-1192-3 P134&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 領国統治 ===&lt;br /&gt;
[[File:Shingen embankment aerial photo.jpg|thumb|180px|信玄堤（竜王堤）付近の空中写真。画像右側に帯状に見える緑地が堤防である。（1975年撮影）&amp;lt;br/&amp;gt;{{国土航空写真}}]]&lt;br /&gt;
信玄期には信虎期から整備されて家一間ごとに賦課される[[棟別諸役]]が確立し、在地掌握のための[[検地]]も行われ領国支配の基盤が整えられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
武田氏の本拠地である甲斐は平野部である[[甲府盆地]]を有するが、[[釜無川]]、[[笛吹川]]の二大河川の氾濫のため利用可能な耕地が少なく年貢収入に期待ができなかった為、信玄期には大名権力により治水事業を行い、[[氾濫原]]の[[新田開発]]を精力的に実施した。代表的事例として、甲府城下町の整備と平行して行われた[[御勅使川]]と釜無川の合流地点である竜王（旧中巨摩郡竜王町、現甲斐市）では[[信玄堤]]と呼ばれる堤防を築き上げ、河川の流れを変え開墾した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本で初めて[[金貨]]である[[甲州金]]（碁石金）を鋳造した。甲斐には[[黒川金山]]や[[湯之奥金山]]など豊富な埋蔵量を誇り信玄期に稼動していた金山が存在し、南蛮渡来の掘削技術や精錬手法を積極的に取り入れ、莫大な量の金を産出し、治水事業や軍事費に充当した。また中央権門や有力寺社への贈答、織田信長や上杉謙信に敵対する勢力への支援など、外交面でも大いに威力を発揮した。ただし、碁石金は通常の流通には余り用いられず、金山の採掘に関しては武田氏は直接支配を行っていた史料はみられず、金堀衆と呼ばれる技術者集団の諸権益を補償することによって金を得ていたと考えられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:Kai-Zenkoji-temple main gate.JPG|left|thumb|150px|[[甲斐善光寺]]の山門（重要文化財）]]&lt;br /&gt;
寺社政策では寺領の安堵や寄進、[[守護不入|不入権]]など諸権益の保証、中央からの住職招請、法号授与の斡旋など保護政策を行う一方で、規式の保持や戦勝祈願の修法や戦没者供養、神社には神益奉仕などを義務づける統制を行っている。信玄は自身も仏教信仰を持っていたが、領国拡大に伴い地域領民にも影響力を持つ寺社の保護は領国掌握の一環として特定宗派にとらわれずに行っている。特に[[臨済宗]]の[[恵林寺]]に対する手厚い保護や、[[武田八幡宮]]の社殿造営、甲府への[[善光寺|信濃善光寺]]の移転勧請などが知られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
駿河を征服すると武田水軍の創設に尽力し、元亀2年（[[1571年]]）に[[間宮武兵衛]]（船10艘）、[[間宮信高]]（船5艘）、[[小浜景隆]]（安宅船1艘、小舟15艘）、[[向井正綱]]（船5艘）、[[伊丹康直]]（船5艘）、[[岡部貞綱]]（船12艘、同心50騎）などを登用して、武田水軍を創設している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 研究 ==&lt;br /&gt;
=== 肖像画 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[File:Kira Yoriyasu.jpg|thumb|150px|伝[[吉良頼康]]像&amp;lt;br/&amp;gt;（[[九品仏浄真寺]]蔵）]]&lt;br /&gt;
信玄の[[肖像|肖像画]]は同時代のものが複数存在し、[[和歌山県]]持明院所蔵の「絹本著色武田晴信像」、[[高野山]]成慶院所蔵の[[長谷川等伯]]筆「絹本著色武田信玄像」（重要文化財）が知られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前者は信玄の供養のため奉納されたと伝わる肖像画で、青年期の晴信が侍烏帽子に直垂という武家の正装姿で描かれており、直垂には武田家当主・甲斐守護職であることを示す花菱紋が描かれている。後者は、勝頼が武田氏の菩提所である成慶院に奉納したと伝わる肖像画で、壮年期のふっくらとした姿で頭部には[[髻]]があり、[[笄]]や目貫に[[足利将軍家]]家紋「二引両紋」のある脇差が描かれている。[[三条家]]とも関わりのある絵師・[[長谷川等伯]]によって描かれ、信玄正室の三条夫人の叔父を描いた「日堯上人像」と同時期に描かれている。また、高野山成慶院には信玄の弟信廉が描き勝頼が奉納したとされる肖像があったとされ、原本は伝存していないが写が現存している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同時代では、信玄は肖像画以外に[[不動明王]]のイメージで自らを描かせているが、イメージは不確定であった。江戸時代には『甲陽軍鑑』が流行し、軍配を持ち赤法衣と諏訪法性の兜に象徴される法師武者姿としてのイメージが確立し、狩野探信や[[柳沢吉里]]により描かれた信玄個人の肖像画&amp;lt;ref&amp;gt;狩野探信（[[狩野探幽]]の長男）筆『武田信玄画像』 山梨・[[大泉寺 (甲府市)|大泉寺]]蔵、絹本著色、[[正徳 (日本)|正徳]]5年（[[1715年]]） 。柳沢吉里（[[柳沢吉保]]の嫡男）筆 『武田信玄画像』 山梨・[[恵林寺]]蔵（武田信玄公宝物館保管展示）、絹本著色、[[甲州市]]指定文化財、[[享保]]8年（[[1723年]]）信玄没後百五十回忌に吉里が奉納した。&amp;lt;/ref&amp;gt;や武田二十四将図、[[歌舞伎]]や[[浄瑠璃]]の演目『本朝廿四孝』、これを描いた[[役者絵]]や[[武者絵]]などにおいて定着した。明治期もこの流れを引き継いでいるが、顔貌の描き方は統一されていなかった。しかし、[[松平定信]]編纂の『集古十種』（[[寛政]]12年（[[1800年]]刊））で既に成慶院本が「武田信玄像」として紹介されており、これが明治40年頃に[[東京帝国大学]]が発行した教育用掛図の中に採用されて普及し始め&amp;lt;ref&amp;gt;石川博 「信玄伝説 由緒と図像」（『よみがえる武田信玄の世界 山梨県立博物館開館記念特別展』図録、[[山梨県立博物館]]、2006年、所収）。&amp;lt;/ref&amp;gt;、今なお信玄の一般的なイメージとして知られている。甲府駅前や[[塩山駅]]前に建てられている銅像なども、そのイメージは成慶院本がモデルとされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ところが近年、[[歴史学者]]の[[藤本正行]]は、&lt;br /&gt;
* 勝頼の書状には像の図様が書かれておらず、成慶院本がそれに当たるか判別できない。&lt;br /&gt;
* 成慶院本は、『集古十種』以前に信玄像として扱われたことはなく、また『集古十種』にはしばしば誤りがある。&lt;br /&gt;
* 信玄の末子信清の家系である[[米沢武田家]]の史料に、成慶院の肖像は逍遥軒筆とあり、等伯が描いた現在の成慶院本と矛盾する。&lt;br /&gt;
* 39歳で出家し剃髪したにもかかわらず、後鬢が残されている。&lt;br /&gt;
* 服や刀の家紋が武田花菱紋でなく、二引両紋（足利・[[畠山氏|畠山]]）である。旧説支持者は足利将軍家からの下賜品と解釈するが、もしそうならばより権威が高く贈答品に用いられ、絵画での作例も多い[[桐紋]]が相応しく、また自家の家紋が全く描かれていないのは不可解である。&lt;br /&gt;
* （持病の）労咳や癌で死んだと言われる割には、身体がふっくらしている。&lt;br /&gt;
* 右側に止まっている[[鳥類|鳥]]は、当時甲斐ではあまり見られない鳥種であった。&lt;br /&gt;
* 絵師は[[能登国|能登]]出身の長谷川等伯であることは間違いないが、この時期に能登から出た形跡が無く、信玄との接点は薄い。旧説支持者からは多くの仮説が出されているが、どれも成慶院本を信玄像とすることを前提としており、史料的な裏付けもない。&lt;br /&gt;
などの疑問点から、成慶院本の像主が[[畠山氏#能登畠山家（匠作家）|能登畠山家]]の誰か、特に[[畠山義続]]の可能性が高いという説を出している。そのため、最近の教科書では成慶院本の画像は使われず、もっぱら持明院本の画像が採用されることが多い。なお藤本によれば、花菱紋が大量に描かれ、具足の描き方などが時代的によく合っているという論拠から、東京都[[世田谷区]]の[[九品仏浄真寺|浄真寺]]所蔵の「伝[[吉良頼康]]像」こそが、本来成慶院にあった[[武田信廉|逍遙軒]]の描いた信玄像の忠実な模本であるという。また、江戸期に描かれた他の模本類でも、前述の高野山成慶院にあったという逍遥軒筆の信玄像は、この「伝吉良頼康像」に類似する&amp;lt;ref&amp;gt;例えば、[[東京大学史料編纂所]]所蔵の模本（[http://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/IMG/0M0/_102ro_/361/00000621.jpg 画像]）など。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;藤本正行 『武田信玄像の謎』 [[吉川弘文館]]&amp;lt;[[歴史文化ライブラリー]]206&amp;gt;、2006年&amp;lt;/ref&amp;gt;。更に信玄の法名「徳栄軒」と、[[畠山義綱]]の戒名「興禅院華岳&#039;&#039;&#039;徳栄&#039;&#039;&#039;大居士」に注目し、元々成慶院本に付属していた箱書きや讃文に書かれていたであろう「徳栄」の文字が、後世の人々に信玄像と誤認させたのでは、という指摘もある&amp;lt;ref&amp;gt;落合謙暁 「土佐家伝来の伝足利義政像について」[[日本歴史学会]] 『日本歴史』 [[吉川弘文館]]、2012年9月号、31頁。なお同論文では、像主が畠山徳栄であると共に、切り取られたという賛の筆者が徳栄だった可能性を指摘している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし美術史家からは、肖像は描かれた状況からどう描いたかを考えるべきで、図像から像主を判断するのは順序が逆だとして、こうした見方に反対する意見も根強い&amp;lt;ref&amp;gt;松嶋雅人「長谷川等伯─信春時代における諸問題」『[[東京国立博物館]]紀要』43号所収、2007年、など。 &amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 武田菱 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:山梨県甲府市市章.svg|thumb|150px|甲府市章の菱形は武田菱を由来とする&amp;lt;ref&amp;gt;http://www.city.kofu.yamanashi.jp/contents/content/view/39/83/1/1/　2011年2月16日参照&amp;lt;/ref&amp;gt;。]]武田菱は、甲州武田家の家紋である。菱形を4つ合わせた形状であり、知名度が高い。元々は「割菱紋」と呼ばれたが、江戸期に大量に描かれた信玄像で信玄を表す家紋として使われたため、武田菱の名が定着した。ただし、前述のように信玄のような武田家の総領は、実際には割菱紋ではなく花菱紋を用いており注意を要する。旧甲斐国の山梨県では、[[甲府]]駅から一般家屋に至るまであらゆる場所に武田菱が見られる。また[[山梨県警]][[機動隊]]の車両などの装備品や、[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]の特急「[[あずさ (列車)|あずさ]]」や「[[かいじ (列車)|かいじ]]」に使われる[[JR東日本E257系電車|E257系]]のデザインにも用いられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、[[広島県立祇園北高等学校]]は、校舎が武田氏の傍流安芸武田氏の居城[[佐東銀山城]]のあった[[武田山]]の麓に立地していることにちなみ、校章には武田菱があしらわれており、同じ広島県の呉武田学園[[武田中学校・高等学校]]は、安芸武田氏の末裔が設立した学校である事から、この学校の校章は武田菱をモデルとした校章を採用している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長野県の白馬連峰山麓にある[[白馬五竜スキー場]]などの名称「五竜」は「御料」もしくは「御菱」が変化したものであり、雪解けの季節に武田菱に似た模様が山肌に現れるため武田家の「御料」と定められ（もしくは武田家の「御菱」ということから）、それが「五竜」と変化した、とする巷談がある。詳しくは「[[五竜岳]]」の項目参照。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、[[皇居]]で行われる新年一般参賀や[[天皇誕生日]]の一般参賀において使用される宮殿・長和殿のベランダ（[[天皇]]や[[皇族]]らが立つ位置）周辺に武田菱と同じ紋様が存在するが、これは古くから宮中の調度、装束に用いられているもので、甲州武田家とは無関係である（宮内庁広報係の回答より）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 後世の評価 ==&lt;br /&gt;
徳川幕府が成立してから著しく評価を落とされた&#039;&#039;&#039;[[豊臣秀吉]]&#039;&#039;&#039;とは対照的に、信玄は「&#039;&#039;&#039;家康公を苦しめ、人間として成長させた武神&#039;&#039;&#039;」として高く評価された。信玄の手法を家康が参考にした事から、「&#039;&#039;&#039;信玄の神格化＝家康の神格化&#039;&#039;&#039;」となるので幕府も信玄人気を容認していたとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[江戸時代]]には信玄の治世や軍略を中心とした『[[甲陽軍鑑]]』が成立し、これを基に武田家や川中島合戦を描いた文学がジャンルとして出現した。また、一円が[[幕領]]支配となった甲斐国においては、[[大小切税法]]や[[甲州金]]、[[甲州桝]]の甲州三法に象徴される独自の制度を創始した人物と位置づけられ、崇められるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治には信玄のイメージが広く定着するが、江戸期を通じて天領であった山梨県においては信玄は郷土史の象徴的人物と認識されるようになった。戦前は[[内務省 (日本)|内務省]]が[[武田神社]]の[[別格官幣社]]への昇格条件に信玄の勤王事跡の挙証を条件としていたこともあり、郷土史家により信玄を勤王家と位置づける研究も見られた。戦後は、[[英雄史観]]や[[皇国史観]]を廃した実証的研究が中世史や武田氏研究でも行われるようになった。昭和62年には武田氏研究会が発足し、[[磯貝正義]]、[[上野晴朗]]、[[笹本正治]]、[[柴辻俊六]]、[[平山優 (歴史学者)|平山優]]、[[秋山敬]]らの研究者が出現し、実証的研究や武田氏関係史料の刊行を行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦後には産業構造の変化から[[観光]]が山梨県の主要産業になると、観光事業振興の動きの中で信玄は県や甲府市によって歴史的観光資源となる郷土の象徴的人物として位置付けられた。信玄の命日にあたる4月12日の土日には[[時代行列]]「甲州軍団出陣」を目玉とした都市祭礼である[[信玄公祭り]]が開催されており、また山梨の日常食であった[[ほうとう]]が「信玄の陣中食」として観光食としてアピールされるなど、観光物産に関わるさまざまな信玄由来説が形成された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 系譜 ==&lt;br /&gt;
武田氏は[[清和源氏]]の中の[[河内源氏]]系の[[源義光|新羅三郎義光]]を祖とする[[甲斐源氏]]の棟梁。武田氏は[[甲斐国|甲斐]]の[[守護]]も務め、信玄は第19代当主に当たる。&lt;br /&gt;
; 父母&lt;br /&gt;
* 父：[[武田信虎]]&lt;br /&gt;
* 母：[[大井の方]]&lt;br /&gt;
; 兄弟&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* [[武田信繁]]&lt;br /&gt;
* [[武田信基]]&lt;br /&gt;
* [[武田信廉]]&lt;br /&gt;
* [[松尾信是]]&lt;br /&gt;
* [[武田宗智]]&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* [[河窪信実]]&lt;br /&gt;
* [[一条信龍]]&lt;br /&gt;
* [[武田信友]]&lt;br /&gt;
* [[武田勝虎]]&lt;br /&gt;
* [[定恵院]]（[[今川義元]]室）&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 南松院（[[穴山信友]]室）&lt;br /&gt;
* [[禰々]]（[[諏訪頼重 (戦国時代)|諏訪頼重]]室）&lt;br /&gt;
* 花光院（浦野友久室）&lt;br /&gt;
* 菊御料人（[[菊亭晴季]]室）&lt;br /&gt;
* 亀御料人（[[大井信為]]室）&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;br style=&amp;quot;clear: left;&amp;quot; /&amp;gt;&lt;br /&gt;
; 妻妾&lt;br /&gt;
* 正室：上杉の方（[[上杉朝興]]の娘）&lt;br /&gt;
* 継室：[[三条の方]]（[[三条公頼]]の娘）&lt;br /&gt;
* 側室&lt;br /&gt;
** [[諏訪御料人]]（[[諏訪頼重 (戦国時代)|諏訪頼重]]の娘）&lt;br /&gt;
** [[禰津御寮人]]（[[禰津元直]]の娘）&lt;br /&gt;
** [[油川夫人]]（[[油川信守|油川源左衛門]]の娘）&lt;br /&gt;
; 子女&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* [[武田義信]]&lt;br /&gt;
* [[海野信親]]&lt;br /&gt;
* [[武田信之 (武田信玄三男)|武田信之]]&lt;br /&gt;
* [[黄梅院 (北条氏政正室)|黄梅院]]（[[北条氏政]]室）&lt;br /&gt;
* [[見性院 (穴山梅雪正室)|見性院]]（[[穴山信君]]室）&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* [[武田勝頼]]（諏訪勝頼）&lt;br /&gt;
* [[真竜院]]（[[木曾義昌]]室）&lt;br /&gt;
* [[仁科盛信]]&lt;br /&gt;
* [[葛山信貞]]&lt;br /&gt;
* [[武田信清]]&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* [[菊姫 (上杉景勝正室)|菊姫]]（[[上杉景勝]]正室）&lt;br /&gt;
* [[信松尼|松姫]]（[[織田信忠]]と婚約）&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;br style=&amp;quot;clear: left;&amp;quot; /&amp;gt;&lt;br /&gt;
信玄の正室・側室は[[上杉朝興]]の娘、[[三条公頼]]の娘・[[三条の方]]（または三条夫人）のほか、[[諏訪頼重 (戦国時代)|諏訪頼重]]の娘など。多数の正室・側室がいたとする説もあるが、系譜・記録資料から確認できるのは上杉の方、三条の方、[[諏訪御料人]]、[[禰津御寮人]]、[[油川夫人]]の5人である。ただ、禰津御寮人の子と言われる[[武田信清]]の出生時期が極めて遅いこと、信玄の七女が母親不詳なこと、上記3人以外の側室とされる墓が残されていることから、ほかに側室がいた可能性も考えられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 家臣 ==&lt;br /&gt;
[[File:Takeda24syou.jpg|thumb|180px|武田二十四将]]&lt;br /&gt;
武田家は勝頼の代で滅亡しているが、武田家の遺臣は徳川氏によって保護され、中には幕府に仕えて活躍したものもいる。また、甲斐では村落に居住しつつも武田旧臣に由緒を持ち、特権を保持していた[[武田浪人]]が存在していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸時代には『&#039;&#039;&#039;甲陽軍鑑&#039;&#039;&#039;』が流行し、信玄時代の武田家の武将達の中で特に評価の高い24名の武将を指して[[武田二十四将]]（武田二十四神将）と言われるようになり、信玄の名は広く知られることになった。原典は江戸時代に作られた[[浮世絵]]や[[浄瑠璃]]で、正式に武田家中で二十四将という区分や呼称は存在しない。選ばれた武将達も時代は離れており、全員が同時期に信玄に仕えたことはない。庶民の評価で決まったものらしく、資料によって顔ぶれが異なる。なお、この種の群像では主君を入れないのが一般的だが、武田二十四将には家臣が23名しか入らず、信玄自身が二十四将の一人に数えられていることが最大の特徴である。他に[[武田四天王]]（武田四名臣とも、信玄・勝頼を支えた[[馬場信春]]、[[内藤昌豊]]、[[山県昌景]]、[[高坂昌信]]の4人を指す）も有名である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--　==その他==&lt;br /&gt;
信玄は[[駿河国]]（[[静岡県]]）から塩や魚を仕入れていたが、[[1567年]]([[永禄]]10年)、13年間に及ぶ駿河国（静岡県）の今川氏との同盟を破棄して[[東海]]方面への進出を企てたため、[[今川氏真]]は縁戚関係にあった[[相模国]]（[[神奈川県]]）の[[北条氏康]]の協力を仰ぎ、武田領内への塩留を行った。信玄は塩が入ってこなくなってしまい食事に困ったが、この事態を見て義を重んじる[[上杉謙信]]は武田の領民の苦しみを見過ごすことができず「塩ならこっちにいくらでもあるじないか。送ってやれ」と敵の信玄と領民に塩を送った。これが“敵に塩を送る”という諺となった。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 武田氏研究会 『武田氏研究』（1988年～継続刊行中、年3回刊）&lt;br /&gt;
* [[磯貝正義]] 『定本武田信玄』（[[新人物往来社]]、1978年）　ISBN 978-4-4040-0787-2&lt;br /&gt;
* [[奥野高広]] 『武田信玄』（[[吉川弘文館]]、1985年）　ISBN 978-4-642-05021-0&lt;br /&gt;
* [[朝倉治彦]] [[三浦一郎]] 『世界人物逸話大事典』 [[角川書店]] 1996年2月 ISBN 978-4-040-31900-1&lt;br /&gt;
* [[笹本正治]] 『武田信玄』（[[中央公論社]]、1997年）　ISBN 978-4-121-01380-4 &lt;br /&gt;
* 笹本正治 『武田信玄』（[[ミネルヴァ書房]]、2005年）　ISBN 9784623045006&lt;br /&gt;
* [[藤本正行]] 『武田信玄像の謎』（[[吉川弘文館]]、2005年）　ISBN 978-4-642-05606-9&lt;br /&gt;
* [[柴辻俊六]] 『武田信玄合戦録』（[[角川書店]]、2006年）　ISBN 978-4-047-03403-7 &lt;br /&gt;
* 柴辻俊六 『信玄の戦略』（[[中央公論新社]]、2006年）　ISBN 978-4-121-01872-4&lt;br /&gt;
* [[平山優 (歴史学者)|平山優]] 『武田信玄』（[[吉川弘文館]]、2006年）　ISBN 978-4-642-05621-2&lt;br /&gt;
* 『よみがえる武田信玄の世界 山梨県立博物館開館記念特別展』図録（[[山梨県立博物館]]、2006年）&lt;br /&gt;
* [[鴨川達夫]] 『武田信玄と勝頼』（[[岩波書店]]、2007年）　ISBN 978-4-004-31065-5&lt;br /&gt;
* 柴辻俊六 『信玄と謙信』（[[高志書院]]、2009年）　ISBN 978-4-86215-065-3&lt;br /&gt;
* 三浦一郎 『武田信玄・勝頼の甲冑と刀剣』（[[宮帯出版社]]、2011年）　ISBN 978-4-863-66091-5&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連事項 ==&lt;br /&gt;
=== 史料 ===&lt;br /&gt;
* [[甲陽軍鑑]]&lt;br /&gt;
* [[高白斎記]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 関連作品 ===&lt;br /&gt;
==== 小説 ====&lt;br /&gt;
* 武田信玄が主人公の小説&lt;br /&gt;
** [[武田信玄 (小説)|武田信玄]] - 文藝春秋、[[新田次郎]]&lt;br /&gt;
** 武田信玄 - 講談社、[[津本陽]]&lt;br /&gt;
** 武田信玄 - 成美堂出版、[[土橋治重]]&lt;br /&gt;
** 武田三代記 - 新人物往来社、[[高野楽山]]&lt;br /&gt;
* それ以外の小説&lt;br /&gt;
** [[風林火山 (小説)|風林火山]] - 新潮社、[[井上靖]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 映画 ====&lt;br /&gt;
武田信玄が登場する映画&lt;br /&gt;
* [[新書・忍びの者]]（[[1966年]]（昭和41年）、[[大映]]、武田信玄：[[石山健二郎]]）&lt;br /&gt;
* [[風林火山 (映画)|風林火山]]（[[1969年]]（昭和44年）、[[東宝]]・[[三船プロ]]、[[原作]]：[[井上靖]]、武田信玄：[[萬屋錦之介|初代中村錦之助]]）&lt;br /&gt;
* [[戦国自衛隊 (映画)|戦国自衛隊]]（[[1979年]]（昭和54年）、[[角川映画|角川春樹事務所]]・東宝・[[東映]]洋画系マーケット、武田信玄：[[田中浩 (俳優)|田中浩]]）&lt;br /&gt;
* [[影武者 (映画)|影武者]]（[[1980年]]（昭和55年）、東宝・[[黒澤プロ]]、武田信玄と影武者の二役：[[仲代達矢]]）&lt;br /&gt;
* [[天と地と#映画|天と地と]]（[[1990年]]（平成2年）、角川春樹事務所・東映、武田信玄：[[津川雅彦]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== テレビドラマ ====&lt;br /&gt;
* 武田信玄が主人公のテレビドラマ&lt;br /&gt;
** [[武田信玄 (1966年のテレビドラマ)|武田信玄]]（[[1966年]]（昭和41年）、[[讀賣テレビ放送|よみうりテレビ]]、武田信玄：[[倉丘伸太朗]]）&lt;br /&gt;
** [[武田信玄 (NHK大河ドラマ)|武田信玄]]（[[1988年]]（昭和63年）、[[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]]、武田信玄：[[中井貴一]]（幼少期は[[真木蔵人]]））&lt;br /&gt;
** [[武田信玄 (1991年のテレビドラマ)|武田信玄]]（[[1991年]]（平成3年）、[[TBSテレビ|TBS]]、武田信玄：[[役所広司]]）&lt;br /&gt;
* 武田信玄が準主役扱いのテレビドラマ&lt;br /&gt;
** [[天と地と (NHK大河ドラマ)|天と地と]]（[[1969年]]（昭和44年）、[[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]]、武田信玄：[[高橋幸治]]）&lt;br /&gt;
** [[風林火山 (テレビドラマ 1969年)|風林火山]]（同年、[[テレビ朝日|NETテレビ]]、武田信玄：[[緒形拳]]）&lt;br /&gt;
** [[風林火山 (1992年のテレビドラマ)|風林火山]]（[[1992年]]（平成4年）、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]「年末大型時代劇スペシャル」第8弾、武田信玄：[[舘ひろし]]）&lt;br /&gt;
** [[風林火山 (2006年のテレビドラマ)|風林火山]]（[[2006年]]（平成18年）、[[テレビ朝日]]、武田信玄：[[松岡昌宏]]）&lt;br /&gt;
** [[風林火山 (NHK大河ドラマ)|風林火山]]（[[2007年]]（平成19年）、NHK大河ドラマ、武田信玄：[[市川猿之助 (4代目)|二代目市川亀治郎]]、幼少期（幼名：勝千代）は[[池松壮亮]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 漫画 ====&lt;br /&gt;
武田信玄が主人公の漫画&lt;br /&gt;
* 武田信玄 - [[横山光輝]]、原作：[[新田次郎]]&lt;br /&gt;
* 武田信玄 - [[さいとうたかを]]、原作：新田次郎&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== テレビゲーム ====&lt;br /&gt;
武田信玄が主人公のテレビゲーム&lt;br /&gt;
* [[戦国関東三国志]]([[インテック]])&lt;br /&gt;
* 武田信玄([[エイコム]])&lt;br /&gt;
* 武田信玄([[ホット・ビィ]])&lt;br /&gt;
* 武田信玄2 (ホット・ビィ)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== アーケードゲーム ====&lt;br /&gt;
武田信玄が主人公のアーケードゲーム&lt;br /&gt;
* [[武田信玄 (アーケードゲーム)|武田信玄]]（[[ジャレコ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ボードゲーム ====&lt;br /&gt;
武田信玄が主人公のボードゲーム&lt;br /&gt;
* 信玄上洛 〜風の巻〜 - ツクダホビー ※作戦級（HG-121）&lt;br /&gt;
* 関東制圧 - ツクダホビー ※ 天と地と（第四次川中島合戦）、謙信越山（上杉謙信の小田原包囲戦）、関東制圧（武州松山城包囲戦）、甲相激突三増峠（三増峠の合戦）&lt;br /&gt;
* 甲裴の虎 - ツクダホビー（HG-130） ※[[上田原の戦い]]、[[川中島の戦い]]、[[三増峠の戦い]]の3シナリオ。&lt;br /&gt;
* 武田盛衰記 - ツクダホビー ※「三方ヶ原の合戦」,「信長、三方ヶ原へ」（ifシナリオ）,「長篠の合戦」,「雨の長篠」（ifシナリオ）&lt;br /&gt;
* 武田騎馬軍団 - [[エポック社]]&lt;br /&gt;
* 謙信VS信玄 川中島の戦い - [[アークライト (企業)|アークライト]]&lt;br /&gt;
* 竜虎激突 信玄謙信 - [[ゲームジャーナル]]第8号、[[シミュレーションジャーナル]]&lt;br /&gt;
* 信玄最後の戦い - [[コマンドマガジン日本版]]第36号、[[国際通信社]] ※『信玄上洛 〜風の巻〜 』のリメイク版。&lt;br /&gt;
* 信州制圧 〜武田信玄の信州制圧〜 - コマンドマガジン日本版第56号、国際通信社&lt;br /&gt;
* Kawanakajima 1561 - Hexasim(フランスのゲームメーカー)｡※第四次川中島の戦いをテーマにしたボードゲーム&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 模型 ====&lt;br /&gt;
* [[武者ガンダム#SD戦国伝|SD戦国伝 天と地と]]（[[1990年]]（平成2年）、[[バンダイ]]）&lt;br /&gt;
* [[SD戦国伝 武神降臨編]]（[[2009年]]（平成21年）、バンダイ）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 歌謡曲 ====&lt;br /&gt;
* 日本の名将 武田信玄 （[[三波春夫]]）&lt;br /&gt;
* 長編歌謡浪曲 戦国塩物語 （[[三波春夫]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
{{Commonscat|Takeda Shingen}}&lt;br /&gt;
{{Wikiquote|武田信玄}}&lt;br /&gt;
* [[武田流合気之術]]&lt;br /&gt;
* [[武田流中村派合気道]]&lt;br /&gt;
* [[楯無]] - 武田家の家宝&lt;br /&gt;
* [[武田神社]]&lt;br /&gt;
* [[武田家旧温会]] - 武田家家臣末裔者の会&lt;br /&gt;
* [[富士山本宮浅間大社]] - 信玄が駿河侵攻の際に成就を祈願して奉納された太刀である備前長船景光を所蔵。また、武田信玄が寄進したと言われる桜がある&amp;lt;ref&amp;gt;富士山本宮浅間大社御祭神・御由緒[http://www.fuji-hongu.or.jp/sengen/history/index.html#0601]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* [[田村怡与造]] - 明治期の陸軍軍人。優れた戦略家であると評され、山梨出身であることから「今信玄」と呼ばれた。&lt;br /&gt;
* [[金丸信]] - 武田氏の一族である[[金丸氏]]の子孫。中央政界や県政において影響力を持ち、全盛期には信玄にたとえられた。&lt;br /&gt;
* [[平塚八幡宮]] - 信玄が北条氏康を攻めた際、当社は陣所とされて戦火に遭う&lt;br /&gt;
* [[長野業正]] - 信玄の進攻を何度にも渡って防いだといわれる武将。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{甲斐武田氏当主|第19代|1541年 - 1573年}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たけた しんけん}}&lt;br /&gt;
[[Category:武田信玄|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:武田信虎の子女|しんけん]]&lt;br /&gt;
[[Category:戦国大名]]&lt;br /&gt;
[[Category:室町・安土桃山時代の僧]]&lt;br /&gt;
[[Category:中部地方の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:甲斐国の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の神 (人物神 戦国大名)]]&lt;br /&gt;
[[Category:両性愛の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1521年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1573年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.231.47.46</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%B3_(1960%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB)&amp;diff=121982</id>
		<title>サイコ (1960年の映画)</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%B3_(1960%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB)&amp;diff=121982"/>
		<updated>2014-07-28T21:34:53Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.231.47.46: /* 関連項目 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{独自研究|date=2012-05-11}}&lt;br /&gt;
{{Infobox Film&lt;br /&gt;
| 作品名 = サイコ&lt;br /&gt;
| 原題 = Psycho&lt;br /&gt;
| 画像 = Bates Motel.jpg&lt;br /&gt;
| 画像サイズ = &lt;br /&gt;
| 画像解説 = ハリウッド・スタジオのベイツ・モーテル&lt;br /&gt;
| 監督 = [[アルフレッド・ヒッチコック]]&lt;br /&gt;
| 脚本 = [[ジョセフ・ステファノ]]&lt;br /&gt;
| 原作 = [[ロバート・ブロック]]&lt;br /&gt;
| 製作 = アルフレッド・ヒッチコック&lt;br /&gt;
| 製作総指揮 = &lt;br /&gt;
| 出演者 = [[アンソニー・パーキンス]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[ジャネット・リー]]&lt;br /&gt;
| 音楽 = [[バーナード・ハーマン]]&lt;br /&gt;
| 撮影 = ジョン・L・ラッセル&lt;br /&gt;
| 編集 = ジョージ・トマシーニ&lt;br /&gt;
| 配給 = [[パラマウント映画]]&lt;br /&gt;
| 公開 = {{flagicon|USA}} 1960年6月16日&amp;lt;br /&amp;gt;{{flagicon|JPN}} 1960年9月4日&lt;br /&gt;
| 上映時間 = 109分&lt;br /&gt;
| 製作国 = {{USA}}&lt;br /&gt;
| 言語 = [[英語]]&lt;br /&gt;
| 製作費 = $806,000&lt;br /&gt;
| 興行収入 =$50,000,000 &lt;br /&gt;
| 前作 = &lt;br /&gt;
| 次作 = [[サイコ2]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
『&#039;&#039;&#039;サイコ&#039;&#039;&#039;』（&#039;&#039;Psycho&#039;&#039;）は、[[1960年]]に製作された[[アメリカ合衆国]]の映画。[[アルフレッド・ヒッチコック]]監督によるサイコ・ホラー系の[[サスペンス映画]]で、全編が[[モノクロ]]映像である。音楽は[[バーナード・ハーマン]]。ヒッチコック監督の前作『[[北北西に進路を取れ]]』に引き続き、タイトルデザインを[[ソウル・バス]]が担当。脚本は[[ジョセフ・ステファノ]]、作家[[ロバート・ブロック]]が[[エド・ゲイン]]の犯罪にヒントを得て執筆した小説『サイコ』が原作。撮影は[[ユニバーサル・ピクチャーズ|ユニバーサル映画]]のスタジオ。配給は[[パラマウント映画]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== あらすじ ==&lt;br /&gt;
金曜日の午後、アリゾナ州フェニックスのホテルで、地元の不動産会社のOLのマリオンは恋人サムと情事にふけっている。カリフォルニアで金物店を営むサムは、経済的な理由でマリオンとの再婚に踏み切れずにいる。職場に戻ったマリオンは、客が払った代金4万ドルを銀行まで運ぶことになるが、彼女は札束を持ったまま、車でサムのいる町へ向かってしまう。その道すがらパトロールの警官や中古車店の店主に不審の目を向けられるが、彼女の持ち逃げは表沙汰になっておらず、それ以上のことは起こらない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに車を進めるうち、たまたま看板が目に留まったベイツというモーテルに寄る。そこは青年ノーマンが一人で切り盛りする小さな宿で、彼は隣接した丘の上に建つ屋敷に住んでいた。マリオンは宿の応接室で食事をとりながらノーマンの話を聞く。屋敷には母親もいて、数年前から彼が世話をしてきたという。客室に戻ったマリオンがシャワーを浴びていると、何者かが刃物を振りかざして襲ってくる。何度も刺された彼女は床に倒れ、絶命してしまう。直後に飛び込んできたノーマンは浴室を清掃し、死体と所持品を彼女の車のトランクに押し込み、近くの沼まで運ぶ。車は4万ドルの札束もろとも、沼の中に沈んでいく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
サムの店に、マリオンの姉ライラが妹の消息を尋ねに来る。そこにアーボガストも加わる。アーボガストは、マリオンに金を持ち逃げされた関係者が警察沙汰を避けるために雇った私立探偵だった。店を出た探偵は、街中の捜索を続けるうちにベイツ・モーテルに行き着く。宿帳からマリオンが訪れたことは確かめたが、不審な態度をとるノーマンを問い詰めても、手がかりは得られない。母親に事情を聞きたいと言っても、会わせようとしない。アーボガストはいったん退き、得られた情報を電話でライラに伝える。モーテルに戻った探偵は、ノーマンの姿が見えないので屋敷のほうに回る。ところが玄関から2階へ通じる階段を上っていくと、階上の部屋から飛び出して来た人物に襲われ、階段の下に転落してしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
探偵からの連絡が途絶え、保安官に相談しても助力を得られなかったので、サムとライラは2人だけでベイツ・モーテルに乗り込む。サムがノーマンを引き留めている間に、屋敷の中で母親を捜し回ったライラは、やがて地下の部屋で椅子に後ろ向きに座った女性を見つける。肩に手を触れると椅子が回って、干からびた死人の顔面が現れる。驚いたライラが悲鳴を上げた瞬間、戸口から女の姿をした人物が刃物を振り上げて襲いかかってくる。その直後に、追いかけてきたサムが背後から取り押さえる。かつらが外れ、衣装がずれて現れた人物はノーマンだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
精神科医が拘留中のノーマンを診察し、関係者の前でその結果を説明する&amp;lt;ref&amp;gt;精神科医リッチモンドの説明は、[https://en.wikiquote.org/wiki/Psycho_(1960_film) ウィキクォート Psycho (1960 film)]に台詞の全文がある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。ノーマンは父親を早く亡くし、母親の手で育てられた。母親は執着心の強い、わがままな女だった。何年間にもわたって、母親と息子は2人だけの世界で暮らしてきた。その当時からすでにノーマンは精神に異常を来していた。やがて母親に愛人ができたとき、ノーマンは自分が見捨てられたと感じた。そして母親と愛人を2人とも殺害した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
母親殺しは、とくに息子にとっては耐え難い犯罪なのだろう。ノーマンは罪の意識をぬぐい去るために、母親の死体を盗みだし、状態を保つための処置を施した。それだけでは不足に感じて、母親の代わりに話し始めた。彼は自分自身と「母親」の両方の人格でいることもあれば、「母親」が全ての人格を支配することもあった。ただし完全にノーマンに戻ることはなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ノーマンはあまりにも病的に母親を嫉妬していたので、母親も自分に対して嫉妬していると思い込んだ。それゆえ、彼が他の女性に強く惹かれると、彼の中の「母親」が激怒した。彼がマリオンに会ったとき、彼女に心を動かされ、彼女を欲した。それが「嫉妬する母親」を爆発させ、「母親」がマリオンを殺した。殺人のあと、深い眠りから覚めたかのようにノーマンは元に戻った。そして義務を果たす息子のように、自分の母親が犯したと確信する犯罪のすべての痕跡を隠した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ノーマンの女装は、母親が生きているという幻想を抱き続けるための精一杯の手段だった。現実があまりに近くに迫ってきたとき、危険や欲望が幻想を脅かし始めたとき、彼は女物の服をまとい、安物のかつらまで付けて女装した｡そして屋敷をうろつき、母親の椅子に座り、母親の声でしゃべった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1つの心に2人の人格が同居すると、その2人は必ず闘争になる。もはやノーマンの「母親」はその闘争に最終的に勝利し、彼を完全に支配している。ラストシーンは、毛布を羽織って椅子に腰掛けているノーマンの姿を映しながら、すべての罪を息子になすりつける「母親」の声が流れ、ノーマンのにやついた顔のアップに、一瞬母親の死体の顔が重なる。そして沼の底から沈んだ車が引き揚げられる映像で幕となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== キャスト ==&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;&lt;br /&gt;
!rowspan=2|役名&lt;br /&gt;
!rowspan=2|俳優&lt;br /&gt;
!colspan=3|日本語吹き替え&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!フジテレビ版&amp;lt;ref&amp;gt;初回放送[[1975年]]9月5日フジテレビ『[[ゴールデン洋画劇場]]』／ 再放送[[1980年]]5月4日[[テレビ朝日]]『[[日曜洋画劇場]]／アルフレッド・ヒッチコック追悼放映』&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
!TBS版&amp;lt;ref&amp;gt;初回放送1983年6月16日TBS『名作洋画ノーカット10週』&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
!ソフト版&amp;lt;ref&amp;gt;DVD・Blu-ray収録&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| ノーマン・ベイツ || [[アンソニー・パーキンス]] ||colspan=&amp;quot;2&amp;quot;| [[西沢利明]] || [[辻谷耕史]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| マリオン・クレイン || [[ジャネット・リー]]  ||colspan=&amp;quot;2&amp;quot;| [[武藤礼子]] || [[佐々木優子]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| ライラ・クレイン（マリオンの姉） || [[ヴェラ・マイルズ]] ||colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|  [[鈴木弘子]]|| [[相沢恵子]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| サム・ルーミス（マリオンの恋人） || [[ジョン・ギャヴィン]] || [[川合伸旺]]||[[神谷和夫]] || [[小山力也]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| ミルトン・アーボガスト（私立探偵） || [[マーティン・バルサム]] ||[[島宇志夫]] || [[渡部猛]] || [[有本欽隆]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| アル・チェンバース（保安官） || [[:en:John McIntire|ジョン・マッキンタイア]] ||[[雨森雅司]] || [[八奈見乗児]] || [[飯塚昭三]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| フレッド・リッチモンド （精神科医）|| [[:en:Simon Oakland|サイモン・オークランド]] || [[岡部政明]] || [[加藤正之]] || rowspan=2|[[稲葉実]] &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| トム・キャシディ（金持ちの経営者） || [[:en:Frank Albertson|フランク・アルバートソン]] || [[雨森雅司]] || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| チェンバース（保安官）夫人 || [[:en:Lurene Tuttle|ルーリン・タトル]] || [[鈴木れい子]] || ||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| キャロライン（マリオンの同僚） || [[:en:Patricia Hitchcock|パトリシア・ヒッチコック]] || [[吉田理保子]] || [[榊原良子]] ||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| ジョージ・ロウリー（不動産会社の社長） || [[:en:Vaughn Taylor (actor)|ボーン・テイラー]] || [[北村弘一]] || ||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| チャーリー（中古車店の店主）|| [[:en:John Anderson (actor)|ジョン・アンダーソン]] || [[村松康雄]] || ||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| ハイウェイパトロールの警官 || [[:en:Mort Mills|モート・ミルズ]] || [[木原正二郎]] || ||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| ノーマ・ベイツ（ノーマンの母親）の声 || バージニア・グレッグ&amp;lt;br&amp;gt;ポール・ジャスミン&amp;lt;br&amp;gt;ジャネット・ノーラン|| [[京田尚子]] || || [[磯辺万沙子]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== スタッフ ==&lt;br /&gt;
* 製作・監督 - [[アルフレッド・ヒッチコック]]&lt;br /&gt;
* 脚本 - [[ジョセフ・ステファノ]]&lt;br /&gt;
* 撮影 - ジョン・L・ラッセル&lt;br /&gt;
* 編集 - ジョージ・トマシーニ&lt;br /&gt;
* 音楽 - [[バーナード・ハーマン]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 受賞・ノミネート歴 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;受賞&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
*[[:en:18th Golden Globe Awards|第18回ゴールデングローブ賞]] 助演女優賞:ジャネット・リー&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[:en:List of Edgar Allan Poe Award for Best Motion Picture Screenplay winners|エドガー賞 映画脚本部門]] 1961年最優秀賞:ジョセフ・ステファノ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;ノミネート&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
*[[第33回アカデミー賞]](1960年) 4部門&lt;br /&gt;
::[[アカデミー監督賞|監督賞]]:アルフレッド・ヒッチコック&lt;br /&gt;
::[[アカデミー助演女優賞|助演女優賞]]:ジャネット・リー&lt;br /&gt;
::[[アカデミー撮影賞|撮影賞(白黒部門)]]:ジョン・L・ラッセル&lt;br /&gt;
::[[アカデミー美術賞|美術賞 (白黒部門)]]:ジョセフ・ハーレイ、ロバート・クラットワーシー、ジョージ・ミロ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[全米監督協会賞]]:アルフレッド・ヒッチコック&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 製作 ==&lt;br /&gt;
ヒッチコックは、原作の映画化権をわずか9,000ドルで匿名で買い取った。またネタバレを防ぐため、スタッフは市場に出回っていた原作を可能な限り買い占めた。ベイツ・モーテルは、アンソニー・パーキンスが大きく見えるよう、原寸より少し小さめに作った。シャワー・シーンで流れたのは、赤くないチョコレートソースだった。ヒッチコックは、マリオンが事務所に出勤した際、事務所の外でウェスタンハットをかぶっている通行人として[[カメオ出演]]した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 評価 ==&lt;br /&gt;
映画の前半では、マリオンの犯した横領をめぐる心理的葛藤を描くクライム・サスペンスの様相を呈し、「クルマを購入する際の不自然な挙動」や「それを不審に思う警官」など、不安定な心理状態と緊迫感が丁寧に演出される。ところが、彼女は何の前ぶれもなく刺殺される（『シャワー・シーン』）。モノクロながら凄惨な映像と音楽は、数々の作品において模倣やパロディーを繰り返される。細かなカットは、タイトル・シーケンスも手がけた[[ソウル・バス]]の絵コンテによる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後半では、マリオンの姉と探偵らによるマリオン探しが主眼になり、謎とサスペンスは次第にベイツ・モーテルへと集中していく。探偵殺害シーンでは“カメラが人物の背後からはるか頭上へ1カットで急速に移動する”など、多くの映像テクニックが駆使され、殺人者の謎を隠しながら違和感のない演出となっている。最後に[[マザーコンプレックス]]のノーマンがかばう母親の正体が明らかになり、物語は「この世にいないはずの人物による[[モノローグ]]」という大胆かつ実験的な終結を迎える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{要出典範囲|本作は同時期に公開された映画『[[血を吸うカメラ]]』と、異常殺人というモチーフの重なりや、その主題へのアプローチの差異などで比較されることもある。|date=2010年2月}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
公開当時の日本における評価は低く、[[キネマ旬報]]ベスト10では35位だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==トリビア==&lt;br /&gt;
* ヒッチコック自身が本編の部分は使わず、舞台を案内する予告編があった。DVDなどの付録になっていることがあるが、北島明弘『クラシック名画のトリビア的楽しみ方』（[[近代映画社]]）には「前代未聞の驚くべき予告編」という項目によれば、「ヒッチコックがカーテンを開けると叫ぶ女性は、リーがいなかったのでライラを演じたヴェラ・マイルズが代演している」という。&lt;br /&gt;
* 公開当時、ヒッチコックが「途中入場の禁止」「ストーリーの口外禁止」を観客に訴える録音メッセージが劇場で流された&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite video|title=Alfred Hitchock&#039;s Psycho|people=Hitchock, Alfred (Director)|year=2008|medium=DVD|language=English|publisher=Universal Studios Home Entertainment|location=Universal City, California, U.S.A.}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。途中入場を禁止したのは、途中入場した観客が「主役（[[ジャネット・リー]]）が出演していない」と騒ぐ可能性があったためである&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite video|title=THE MAKING OF PSYCHO|people=Robertson,Peggy(Personal Assistant To Mr. Hitchcock)|year=1997|medium=DVD|language=English|publisher=Universal Studios Home Entertainment|location=Universal City, California, U.S.A.}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 声ばかりが聞こえ、最後に少しだけ顔を見せる「母親」の名前はノーマ。ライラに襲い掛かる場面で「私がノーマ・ベイツ」と名乗っているが日本版ビデオでは字幕が出ないため判りにくい。声は[[ヴァージニア・グレッグ]] （[[w:en:Virginia Gregg|Virginia Gregg]]）、[[ポール・ジャスミン]]、[[ジネット・ノーラン]]という3人の女優が担当した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 続編の劇場映画2本（『[[サイコ2]]』『[[サイコ3/怨霊の囁き]]』）とテレビ映画1本（『[[サイコ4]]』）、及び[[サイコ (1998年の映画)|同タイトルのリメイク作品]]が製作されている。なお、小説にも続編があるが、映画とは全く別の物語である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[脚本]]の[[ジョセフ・ステファノ]]は、その後テレビシリーズ『[[アウター・リミッツ (1963年)|アウター・リミッツ]]』の脚本家・プロデューサーとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*映画の中でトイレが出てくる（しかも水まで流している）のはこの映画が初である&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite video|title=THE MAKING OF PSYCHO|people=Leigh, Janet &amp;amp; Stefano, Joseph|year=1997|medium=DVD|language=English|publisher=Universal Studios Home Entertainment|location=Universal City, California, U.S.A.}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*マリオンの同僚キャロライン役を演じている女性は[[パトリシア・ヒッチコック]]（ヒッチコック監督の娘）で、父親から直々にキャスティングされた&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite video|title=THE MAKING OF PSYCHO|people=Hitchock, Pat|year=1997|medium=DVD|language=English|publisher=Universal Studios Home Entertainment|location=Universal City, California, U.S.A.}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*有名なシャワーシーンの撮影には[[ジャネット・リー]]の全撮影日数（３週間）のうちの３分の１を占める７日間を要した。また、ヌードシーンではヌードモデル（マルリ・レンフロ）が起用されている。また、ナイフが刺さる音はメロンにナイフを突き刺す音声を使用している&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite video|title=THE MAKING OF PSYCHO|people=Leigh, Janet|year=1997|medium=DVD|language=English|publisher=Universal Studios Home Entertainment|location=Universal City, California, U.S.A.}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*登場する自動車がすべて[[フォード]]製なのはTVシリーズ「[[ヒッチコック劇場]]」の主要スポンサーであったためである&amp;lt;ref&amp;gt;Blu-ray版「サイコ」（2010年発売）[[スティーブン・レベロ]]&lt;br /&gt;
（「アルフレッド・ヒッチコック＆ザ・メイキング・オブ・サイコ」著者）による本編音声解説より&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*モーテル内の剥製や壁掛けの絵など「鳥」が象徴的に登場するが、実は町（[[フェニックス (アリゾナ州)|フェニックス]]）や登場人物（マリオン・クレインのクレイン＝鶴）の名前にも鳥が隠されている。ヒッチコック作品の中では「鳥」が登場するシーンはいつも大きな変化の予兆として描かれている&amp;lt;ref&amp;gt;Blu-ray版「サイコ」（2010年発売）[[スティーブン・レベロ]]&lt;br /&gt;
（「アルフレッド・ヒッチコック＆ザ・メイキング・オブ・サイコ」著者）による本編音声解説より&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*劇中でノーマンは5歳の時に父親を亡くしたという設定だが、ノーマン役を演じた[[アンソニー・パーキンス]]も実際に5歳の時に父親を亡くしている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B9 アンソニー・パーキンス - Wikipedia]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[ヒッチコック (映画)]]：本作の製作舞台裏を描いた2012年の[[アメリカ合衆国の映画]]。&lt;br /&gt;
* 『ベイツ・モーテル（&#039;&#039;&#039;Bates Motel&#039;&#039;&#039;）』（2013年から放送されているアメリカの連続TVドラマ。少年時代のノーマンやその母が、ベイツ・モーテルに引っ越して来る辺りから始まり、どのようにして彼の人格が形成されてゆくかを描いている。シーズン2までが放送済み。2015年にはシーズン3の放送が予定されている）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
{{wikiquote|en:Psycho (1960 film)}}&lt;br /&gt;
* {{Movielink|allcinema|8337|サイコ}}&lt;br /&gt;
* {{Movielink|kinejun|3518|サイコ}}&lt;br /&gt;
* {{amg movie|39578|Psycho}}&lt;br /&gt;
* {{IMDb title|0054215|Psycho}}&lt;br /&gt;
* {{rotten-tomatoes|psycho|Psycho}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{アルフレッド・ヒッチコック監督作品}}&lt;br /&gt;
{{サイコ (映画)}}&lt;br /&gt;
{{movie-stub}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:さいこ}}&lt;br /&gt;
[[Category:サイコ (映画)|1]]&lt;br /&gt;
[[Category:1960年の映画]]&lt;br /&gt;
[[Category:カリフォルニア州を舞台とした映画作品]]&lt;br /&gt;
[[Category:アルフレッド・ヒッチコックの監督映画]]&lt;br /&gt;
[[Category:小説を原作とする映画]]&lt;br /&gt;
[[Category:パラマウント映画の作品]]&lt;br /&gt;
{{Link GA|en}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.231.47.46</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E4%B8%8B%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6&amp;diff=65102</id>
		<title>下山事件</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E4%B8%8B%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6&amp;diff=65102"/>
		<updated>2014-07-28T17:03:16Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.231.47.46: /* 書籍 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Infobox 事件・事故&lt;br /&gt;
| 名称       = 下山事件&lt;br /&gt;
| 画像       = Shimoyama Incident.JPG&lt;br /&gt;
| 脚注       = 搬出される下山の遺体&lt;br /&gt;
| 場所       = {{JPN}} [[東京都]][[足立区]] [[常磐線]][[北千住駅]] - [[綾瀬駅]]間&lt;br /&gt;
| 緯度度 = |緯度分 = |緯度秒 = &lt;br /&gt;
| 経度度 = |経度分 = |経度秒 = &lt;br /&gt;
| 日付       = [[1949年]]（[[昭和]]24年）[[7月6日]]&lt;br /&gt;
| 時間       = 午前0時30分過ぎ&lt;br /&gt;
| 時間帯     = JST&lt;br /&gt;
| 概要       = 同年[[7月5日]]、[[日本国有鉄道|国鉄]][[総裁]][[下山定則]]が出勤途中に[[失踪宣告|失踪]]。翌日未明に[[死体]]となって発見された&lt;br /&gt;
| 原因       =&lt;br /&gt;
| 手段       = &lt;br /&gt;
| 武器       = &lt;br /&gt;
| 攻撃人数   = &lt;br /&gt;
| 標的       = &lt;br /&gt;
| 死亡       = [[下山定則]]&lt;br /&gt;
| 犯人       = &lt;br /&gt;
| 容疑       = &lt;br /&gt;
| 動機       = &lt;br /&gt;
| 関与       =&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;下山事件&#039;&#039;&#039;（しもやまじけん）とは、[[連合国軍占領下の日本|日本が連合国の占領下]]にあった[[1949年]]（[[昭和]]24年）[[7月5日]]朝、[[日本国有鉄道|国鉄]][[総裁]][[下山定則]]が出勤途中に[[失踪宣告|失踪]]、翌日未明に[[死体]]となって発見された事件。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
事件発生直後から[[マスコミュニケーション|マスコミ]]では[[自殺]]説・[[殺害|他殺]]説が入り乱れ、[[警視庁 (旧警察法)|警視庁]]は公式の[[捜査]]結果を発表することなく捜査を打ち切った。下山事件から約1ヵ月の間に国鉄に関連した[[三鷹事件]]、[[松川事件]]が相次いで発生し、三事件を合わせて「[[国鉄三大ミステリー事件]]」と呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 事件のあらまし ==&lt;br /&gt;
1949年（昭和24年）[[6月1日]]に発足した日本国有鉄道（国鉄）の初代総裁に就任したばかりの下山定則は、7月5日朝、午前8時20分頃に[[大田区]][[上池台]]の自宅を[[社用車|公用車]]で出た。出勤途中、[[運転手]]に[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]の[[三越]]に行くよう指示。三越に到着したものの開店前だったため、一旦、[[JR東日本本社ビル#旧国鉄本社ビル|国鉄本社]]のある[[東京駅]]前に行って千代田銀行（[[三菱銀行]]、現在の[[三菱東京UFJ銀行]]）に立ち寄るなど、複雑なルートを辿った後で再度三越に戻った。そして午前9時37分頃、公用車から降りた下山は、「五分くらいだから待ってくれ」と運転手に告げ、急ぎ足で三越に入りそのまま消息を絶った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
普段、下山は午前9時前には国鉄本社に出勤し、毎朝[[秘書]]が玄関で出迎えていた。失踪当日は、[[#事件の時代背景と推理|国鉄の人員整理]]をめぐり緊張した状況にあり、午前9時には重要な[[鉄道管理局|局長]]会議が予定されていたため、自宅に確認したところ「普段通り公用車で出た」との回答に国鉄庁内は大騒ぎとなり、[[警察]]に連絡。失踪事件として捜査が開始された。翌[[7月6日]]午前0時30分過ぎに[[足立区]][[綾瀬 (足立区)|綾瀬]]の国鉄[[常磐線]][[北千住駅]] - [[綾瀬駅]]間で汽車に轢断された下山の遺体が発見された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 失踪後の足取り ===&lt;br /&gt;
失踪後、下山総裁らしき人物は、まず三越店内で、次に[[帝都高速度交通営団|営団地下鉄]]（現[[東京地下鉄]]）[[東京メトロ銀座線|銀座線]]の[[浅草駅|浅草]]行き列車内で目撃された。三越店内では、数名の人物たちを伴っていたとの目撃証言もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
午後1時40分過ぎに、轢断地点に近い[[東武伊勢崎線]][[五反野駅]][[改札]]で改札係と話を交わした。その後、午後2時から5時過ぎまで、同駅に程近い「末広[[旅館]]」に滞在。午後6時頃から8時すぎまでの間、五反野駅から南の轢断地点に至る東武伊勢崎線沿線で、服装背格好が総裁によく似た人物の目撃証言が多数得られた&amp;lt;ref&amp;gt;[[警視庁 (旧警察法)|警視庁]][[捜査一課]]は、末広旅館での目撃証言により、[[ストレス (生体)|ストレス]]等による発作的自殺説に傾いていった。しかし、五反野駅周辺から末広旅館にかけて目撃された人物について、旅館滞在中と、旅館を出て[[トンネル]]と土手で目撃された18時40分までは、[[眼鏡|メガネ]]をかけていたが、夕方にかけての3人の目撃証言では、[[ネクタイ]]とメガネを外しており強度の[[近視]]でメガネを常にかけていた下山にしては不自然との指摘や、旅館滞在中に[[煙草]]を一本も吸っていないのも、タバコ好きの下山にしてはおかしいとの指摘がある（実弟・下山常夫証言『資料・下山事件』573ページ）。また、下山は[[東武鉄道]]の優待乗車証を所持していたが、五反野駅の改札では駅員に[[乗車券|切符]]を渡しているなど疑問点が多数指摘され、五反野周辺で目撃された人物を下山本人とみるか[[替え玉]]と見るかで意見が錯綜した。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 生体轢断か死後轢断か ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Investigation on D51-651.jpg|thumb|240px|下山総裁を轢いた機関車 D51 651 の捜査]]&lt;br /&gt;
[[file:Akiya Shichiro and Furuhata Tanemoto.JPG|thumb|140px|left|古畑種基（左）と秋谷七郎（右、毒物鑑定担当）。捜査本部にて]]&lt;br /&gt;
下山総裁は、東武伊勢崎線ガード下の国鉄[[常磐線]]下り方面（水戸方面）線路上で、付近を0時20分頃に通過した下り[[貨物列車]]第869列車（[[国鉄D51形蒸気機関車|D51]] 651号牽引）により轢断されたことが判明&amp;lt;ref&amp;gt;このD51 651号は、事件当日は主[[発電機]]が動かず、灯具類は非常用[[二次電池|電池]]で発光させていたが、[[前照灯]]は 10 [[ワット|W]] 相当の光量しかなく、そのため乗員は下山総裁を轢断した瞬間にも気づかなかった。&amp;lt;/ref&amp;gt;。遺体の[[司法解剖]]の指揮を執った[[東京大学]][[法医学]]教室主任の[[古畑種基]][[教授]]は、回収された下山総裁の遺体に認められた傷に「[[生活反応]]」が認められない事から、死後轢断と判定した（解剖の執刀は同教室の桑島直樹講師）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、遺体は損傷が激しく確実な死因の特定には至らなかったものの、遺体及び轢断現場では[[血液]]が殆ど確認されず、「失血死」の可能性が指摘された。加えて遺体の局部等の特定部位にのみ、内出血などの「生活反応」を有す傷が認められ、該当部分に生前かなりの力が加えられた事が予想され、局部蹴り上げなどの暴行が加えられた可能性も指摘された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、現場検証で遺体を検分した[[東京都]]監察医務院の八十島信之助監察医は、それまでの轢死体の検視経験から、既に現場検証の段階で自殺と判断していた。遺体の局部などの特定部位にみられた内出血などの「生活反応」を有す傷については、[[轢死]]体では頻繁に生じる事象であり、血液反応が僅かなことも、遺体発見時の現場周辺で降った[[雨]]に流され確認できなかったもので、他殺の根拠にはなり得ないと主張した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に[[慶應義塾大学]]の中舘久平教授が生体轢断を主張。自殺の根拠となる「生体轢断」と見るか、他殺の有力な根拠となる「死後轢断」&amp;lt;ref&amp;gt;ただし，死後轢断は直ちに他殺を意味しない。錫谷徹『死の法医学―下山事件再考』（1983、北海道大学図書刊行会）は「生体」の「死後轢断」も起こりうるとする。&amp;lt;/ref&amp;gt;とするかで見解は対立。1949年（昭和24年）[[8月30日]]には古畑教授、中舘教授、[[小宮喬介]]（元[[名古屋医科大学]]教授）の三人の法医学者（ただし中館、小宮両教授は下山総裁の遺体を実見していない）が[[衆議院]]法務委員会に[[参考人招致]]され、[[国会 (日本)|国会]]、[[法医学]]界を巻き込んだ大論争となった。法務委員会委員の質問に対し古畑は、「解剖執刀者桑島博士は、いまだかつて公式には他殺、自殺のいずれともいっていない。死後轢断という解剖所見を述べているだけである。研究は継続中であり、研究結果も知らない者が勝手に推論することは、学者的態度ではない」と述べた&amp;lt;ref&amp;gt;矢田喜美雄『謀殺下山事件』講談社1973年所収、「見解の対立は続く」92ページに掲載の古畑教授の見解の抜粋。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 朝日新聞記者・矢田喜美雄 ===&lt;br /&gt;
[[朝日新聞]]記者[[矢田喜美雄]]と東大法医学教室による遺体および遺留品の分析では、下山総裁の[[ワイシャツ]]や[[下着]]、[[靴下]]に大量に油（通称「&#039;&#039;&#039;下山油&#039;&#039;&#039;」）が付着していたが、一方で上着や革靴内部には付着の痕跡が認められず、油の成分も機関車整備には使用しない植物性のヌカ油であった（当時は物資不足で、機関車の[[油]]に植物油を混入することは通常行われていたという反論もある）ことや、衣類に4種類の塩基性染料が付着していたこと、足先が完存しているにも拘らず革靴が列車により轢断されているなど、遺留品や遺体の損傷・汚染状況等に極めて不自然な事実のあることが次々と浮かび上がっていた。特にヌカ油と染料は、下山総裁の[[監禁]]・殺害場所を特定する重要な手掛かりになる可能性もあるとして注目された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
加えて、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍憲兵司令部・犯罪捜査研究室 (CIL) で[[アメリカ軍]]所属のフォスター[[軍曹]]より、轢断地点付近に僅かな血痕を認めたとの情報を入手。そこで微細血痕を暗闇で発光させ、目視確認を可能とする[[ルミノール]]薬を用いた検証を実施&amp;lt;ref&amp;gt;下山事件の捜査におけるルミノール薬の使用が、日本の科学捜査における初の事例となった。現在でも、時間が経過した犯罪現場などで、古いあるいは微量の血痕検出にルミノール反応は用いられている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。轢断地点から上り方面（上野方面）の枕木上に、僅かな血痕を発見した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、警視庁[[鑑識課]]を加えた上で改めてルミノール検証が行なわれ、轢断地点から上り方面の荒川鉄橋までの、数百メートルの間の枕木上に、断続的に続く多数の血痕を確認した。血痕は、最後に上り方向の線路へ移り途切れたが、さらにその土手下にあった「ロープ小屋」と呼ばれた廃屋の扉や床にも血痕が確認されたため、これらの血痕は下山総裁の遺体を運搬した経路を示しているのではないかと注目された&amp;lt;ref&amp;gt;後の調査で1946年(昭和21年)2月から1948年(昭和23年)5月まで所有者から釣り糸製造業者が借り受け、その間に薪割り中に斧で大けがをしたため血痕が付着した事が分かった。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 迷宮入り ===&lt;br /&gt;
他殺説・自殺説ともを結論を出さないまま、1949年（昭和24年）[[12月31日]]には「下山事件[[捜査本部|特別捜査本部]]」は解散となる。捜査一課は自殺との結論を出し発表しようとしていたが、発表されることはなかった。そしてヌカ油の出所の追跡などを執拗に続け、他殺の線で[[捜査]]を続けていた警視庁捜査二課も、[[1950年]]（昭和25年）には、[[刑事|捜査員]]が突然転任されるなどして大幅に規模を縮小、事実上捜査は打ち切られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1949年（昭和24年）12月15日に、警視庁下山事件特別捜査本部が作成した内部資料「下山国鉄総裁事件捜査報告」（通称「下山白書」）は、1950年（昭和25年）1月に「[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]」と「[[改造 (雑誌)|改造]]」誌上に掲載された。自殺と結論付ける内容となっているが、矢田喜美雄や松本清張などは、報告書の内容に矛盾点や事実誤認を指摘している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1964年]]（昭和39年）[[7月6日]]、殺人事件である場合の[[公訴時効]]が成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 事件の時代背景と推理 ==&lt;br /&gt;
{{seealso|逆コース}}&lt;br /&gt;
1949年（昭和24年）、[[中国大陸]]では[[国共内戦]]における[[中国共産党]]軍の勝利が決定的となり、[[朝鮮半島]]でも[[38度線|北緯38度線]]を境に共産政権と親米政権が一触即発の緊張下で対峙していた。このような国際情勢の中、日本占領を行うアメリカ軍を中心とした連合国軍は、対日政策をそれまでの[[民主化]]から[[反共主義|反共]]の防波堤として位置付ける方向へ転換した。まずは高[[インフレーション|インフレ]]にあえぐ経済の立て直しを急ぎ、いわゆる[[ドッジ・ライン]]に基づく緊縮財政策を実施する。同年[[6月1日]]には行政機関職員定員法を施行し、全[[公務員]]で約28万人、同日発足した日本国有鉄道（国鉄）に対しては約10万人近い空前絶後の[[整理解雇|人員整理]]を迫った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年[[1月23日]]に実施された戦後3回目の第24回衆院総選挙では、[[吉田茂]]の[[民主自由党 (日本)|民主自由党]]が単独過半数264議席を獲得するも、[[日本共産党]]も4議席から35議席へと躍進。共産党系の産別会議（全日本産業別労働組合会議）や[[国鉄労働組合]]もその余勢を駆って人員整理に対し頑強な抵抗を示唆、吉田内閣の打倒と「人民政府」樹立を公然と叫び、世情は騒然とした。下山総裁は人員整理の当事者として労組との交渉の矢面に立ち、事件前日の[[7月4日]]には、3万700人の従業員に対して第一次整理通告（＝解雇通告）が行われた&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news |title = 第一次分に三万七百　國鉄、整理を通告　残余は中旬から実施 |publisher = 朝日新聞社 |page = 1 |date = 1949-07-05 |accessdate = 2014-07-07}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 他殺説 ===&lt;br /&gt;
[[松本清張]]は『[[日本の黒い霧]]』を発表。当時日本を占領下に置いていた連合国軍の中心的存在である[[アメリカ陸軍]][[:en:Counterintelligence Corps (United States Army)|防諜部隊]]が事件に関わったと推理した。また下山事件が時効を迎えると、松本をはじめとする有志が「下山事件研究会」を発足し、資料の収集と関係者からの聞き取りを行った。同研究会では連合国軍の関与した他殺の可能性を指摘した。研究会の成果は、みすず書房から『資料・下山事件』として出版されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
朝日新聞記者の矢田喜美雄は、[[1973年]]（昭和48年）に、長年の取材の成果を『謀殺下山事件』にまとめ、取材の過程で「アメリカ軍内の防諜機関に命じられて死体を運んだ」とする人物に行き着いたとして、その人物とのやりとりを記載している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1999年]]（[[平成]]11年）『週刊朝日』誌上で「下山事件-50年後の真相」が連載。その後、取材を共同で進めていた[[諸永裕司]]著『葬られた夏』、[[森達也]]著『下山事件（シモヤマ・ケース）』、[[柴田哲孝]]著『下山事件-最後の証言-』が相次いで出版。いずれも元[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍属]]が設立した組織と[[亜細亜産業]]関係者による他殺と結論付けている。また下山の友人、知人等は「彼の性分からしてあれほどの首切りを前に自殺するというのであれば遺書の一つは残すはずである」として他殺説を支持する者が多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 他殺説の主張 ====&lt;br /&gt;
* 下山はことあるごとに「鉄道の仕事に就けて幸せだ」と言っており、大好きな鉄道で命を断つ訳が無い。&lt;br /&gt;
* 実直な下山が、遺書も残さずに死ぬ訳が無い（国鉄の同僚の[[島秀雄]]・[[加賀山之雄|加賀山]]らの説、[[安部譲二]]（父が知己）の説）。&lt;br /&gt;
* 轢断面やその近辺の出血といった痕跡が無いのは、轢かれる前にすでに死んでいた事を意味する（東大・古畑説）。&lt;br /&gt;
* 下山が事件前に立ち寄ったとされる旅館の主人は元特高警察官であり、証言は疑わしい。&lt;br /&gt;
* 「大量解雇を予定通り実行させようと下山に強要した GHQ が、下山を拷問の末誤って殺してしまい、それを逆手に取って犯行を労組の仕業に仕立て上げた」という説。轢いた列車の前の便は連合国軍専用列車であり、現場をまたぐ東武線も連合国軍が自由に使える状況にあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 自殺説 ===&lt;br /&gt;
事件発生直後から毎日新聞は自殺を主張（毎日新聞が自殺証言のスクープを出したため）。同紙記者[[平正一]]は取材記録を纏めた『生体れき断』[[1964年]]を出版。大規模な人員整理を進める責任者の立場に置かれたことによる、初老期鬱憂（うつゆう）症による発作的自殺と推理した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1976年]]（昭和51年）には、佐藤一が自殺説の集大成と言える『下山事件全研究』を出版。佐藤は[[松川事件]]の[[被告人|被告]]として[[逮捕]]・[[起訴]]され、14年間の法廷闘争の末に[[無罪]][[判決]]を勝ち取った人物であり、下山事件も[[連合国軍最高司令官総司令部]]（GHQ）あるいは[[日本政府]]による陰謀＝他殺と当初は考え、「下山事件研究会」の事務を引き受けていた。しかし調査を進める過程で次第に他殺説に疑問を抱き、発作的自殺説を主張するようになる。他殺の根拠とされた各種の物証に関して、地道な調査に基づいて反論を加えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 自殺説の主張 ====&lt;br /&gt;
* 総裁になる以前の、運輸次官の段階から下山は「辞めたい」とこぼしていた。&lt;br /&gt;
* 事件前日に下山はあちこちの要人に面会したり面会を要請し、しかしそれらの先々で用件を言うでも無く「嘆願や脅迫が自宅に来る」とこぼして涙ぐんだりするのみだった。他にも前日から当日朝（GHQ より迫られた、解雇発表の期限）までの下山の行動に、抑鬱を思わせるものが多々ある（几帳面につけていた手帳が6月28日で途切れている、[[弁当]]を食べずに持ち歩いて交通会館の無人の部屋で一人食べるなど）。&lt;br /&gt;
* 鉄道自殺など一瞬で生命を絶たれる事案の場合、轢断面に出血が無い事もある。胸部は離断していないにもかかわらず内部の臓器がメチャメチャに粉砕されており、これは轢過よりも立った状態での激突が疑わしい（北大・錫谷説）。&lt;br /&gt;
* 結果的には、警察やマスコミによる自殺説の発表は GHQ により差し止められ、労組による他殺と言う風説が流布されて、後の総選挙での[[日本共産党|共産党]]の躍進が阻止され、日本の共産化が阻止されたのだから、事案そのものは自殺であったとしても、謀略があった事に変わりはない。&lt;br /&gt;
* [[ルミノール]]検査は現場からロープ小屋までしか行われていない。当時の列車の[[トイレ]]は垂れ流しなので、線路ならどこでも女性の経血で血痕が出来るという説もある。またロープ小屋は細長い建物で大部分は壁が無く、犯行には不適である。&lt;br /&gt;
* 下山総裁一家と親しい間柄であった吉松富弥の証言&amp;lt;ref&amp;gt;[http://shimoyamacase.com/etc/etc8.html 吉松富弥氏証言] よしなしごと - 全研究 下山事件&amp;lt;/ref&amp;gt;では、総裁死亡数日前に直接本人より「GHQから国鉄職員大量解雇の指示があって、弱ってるよ」との話を聞き、死亡当日には総裁夫人より「自殺したのだと思う」との言葉を聞いている。吉松は証言の中で、自殺とするより他殺にしておく形の方が日本国全体、GHQ、さらには下山家にとってもベターな選択だったのではないか、と述べている。&lt;br /&gt;
* 事件直前に轢死現場付近で下山と酷似する人物が1人で何か植物を掴むのが目撃されており、下山の上着のポケットから轢死現場付近の植物であるカラスムギが発見されていること。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== その他 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;下山国鉄総裁追憶碑&lt;br /&gt;
:事件後、下山総裁の轢断地点に近い東武伊勢崎線ガード下、国鉄常磐線下り方向の土手の脇に建立された。その後、常磐線改良工事や営団地下鉄[[東京メトロ千代田線|千代田線]]敷設に伴う工事により場所を移動。現在は轢断地点より約 150 [[メートル|m]] 東、西綾瀬1丁目付近のJR常磐線ガード下の道路西側脇にある。筆跡は第二代国鉄総裁となった加賀山之雄のもの。現在碑の置かれている場所は、五反野方面から南流する水路とそれに並行する小道が、[[東京拘置所]]（旧小菅刑務所）方向へ向かう途中で常磐線を横切る地点で、かつての弥五郎新田踏切（通称五反野踏切）に当たる。下山総裁の轢死体片は、東武伊勢崎線ガード下とこの踏切までの間に散乱していた。現在、水路は「五反野親水緑道」として整備されている。&lt;br /&gt;
[[File:Sadanori Shimoyama JNR president cenotaph.jpg|thumb|下山国鉄総裁追憶碑]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;D51 651&lt;br /&gt;
:下山総裁を轢いた[[国鉄D51形蒸気機関車|D51 651]]機関車は、[[1943年]]（昭和18年）[[10月26日]]に死者110名、負傷者107名を出した[[日本の鉄道事故 (1949年以前)#常磐線土浦駅列車衝突事故|常磐線土浦駅列車衝突事故]]を起こした車両でもある。また当便の運転士は、下山が仙台機関区長だった頃の部下であり、事件後に抑鬱の症状を来たし数年後にストレス性の胃潰瘍で死亡した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;[[足立区立郷土博物館]]（東京都）所蔵　下山事件関連資料&lt;br /&gt;
:警視庁の合同捜査会議の内部資料と考えられるガリ版刷り文書類。 [[柴田哲孝]]著『完全版　下山事件-最後の証言-』にも紹介されている。 平成17（2005）年度より整理資料を公開している（原資料保護のため複写版）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連作品 ==&lt;br /&gt;
=== 書籍 ===&lt;br /&gt;
* 『下山総裁の追憶』下山総裁記念事業会編 1951年&lt;br /&gt;
* 『下山事件の謎を解く』[[堂場肇]]著 [[六興出版社]]1952年（初出：雑誌『時事新報』1952年6〜9月号）&lt;br /&gt;
* 「下山事件−その盲点と背景」（雑誌『日本』1959年7月号）&lt;br /&gt;
* 「下山総裁自殺説の証人」（雑誌『文藝春秋』1963年6月号）&lt;br /&gt;
* 『下山総裁怪死事件　“迷宮入り”を科学推理する』[[宮城音弥]]・宮城二三子著 [[光文社]] 1963年&lt;br /&gt;
* 『[[日本の黒い霧]]』[[松本清張]]著 [[文春文庫]]&lt;br /&gt;
* 『謀殺 下山事件』[[矢田喜美雄]]著 [[講談社]] 1973年&lt;br /&gt;
** 『謀殺 下山事件』矢田喜美雄著 [[新風舎]]文庫 2004年&lt;br /&gt;
*** 『謀殺 下山事件』矢田喜美雄著 [[祥伝社]]文庫 2009年 [[ISBN4-396-33505-9]]&lt;br /&gt;
* 『下山事件全研究』佐藤一著 時事通信社 1976年&lt;br /&gt;
* 『[[刑事一代 平塚八兵衛の昭和事件史]]』[[新潮文庫]] - [[警視庁]][[捜査一課]]に所属していた[[平塚八兵衛]]が取り扱った事件についてのインタビューを書籍化。&lt;br /&gt;
* 『下山事件（シモヤマ・ケース）』[[森達也]]著 [[新潮文庫]] 2006年&lt;br /&gt;
* 『下山事件 最後の証言（完全版）』[[柴田哲孝]]著、[[祥伝社文庫]] 2007年 [[ISBN4-396-33366-8]]&lt;br /&gt;
* 『陸軍中野学校の真実　諜報員たちの戦後』斎藤充功著、[[角川書店]] 2005年 （角川文庫、2008年）&lt;br /&gt;
* 『「下山事件」謀略論の歴史』佐藤一著 彩流社 2009年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 映像メディア ===&lt;br /&gt;
*『[[黒い潮]]』（1954年、[[日活]]） 監督・主演：[[山村聡]]、脚本：[[菊島隆三]]、原作：[[井上靖]]&lt;br /&gt;
* 以下は、矢田喜美雄原作のルポルタージュ『謀殺 下山事件』講談社刊をモチーフにした映像作品。&lt;br /&gt;
** 『[[日本の熱い日々 謀殺・下山事件]]』（1981年、[[松竹]]）　監督：[[熊井啓]]、脚本：[[菊島隆三]]、主演：[[仲代達矢]]&lt;br /&gt;
** 『土曜ドラマ戦後史実録シリーズ　空白の900分 -国鉄総裁怪死事件-（前・後編）』（1980年、NHK）　脚本：[[岩間芳樹]]、主演：[[小林桂樹]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
* 『[[ゴルゴ13]]』[[さいとうたかを]] - 「亜細亜の遺産」にて同事件が登場。&lt;br /&gt;
* 『[[奇子]]』[[手塚治虫]]&lt;br /&gt;
* 『[[アリと巨人]]』手塚治虫&lt;br /&gt;
* 『[[BILLY BAT]]』[[浦沢直樹]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[綾瀬 (足立区)]] - 轢断事件の現場地域&lt;br /&gt;
* [[プロ野球再編問題 (1949年)#既存球団の思惑]] - 「3.1 読売と毎日」の項を参照&lt;br /&gt;
* [[東京ヤクルトスワローズ#キーワード]] - 「13.1 下山事件とプロ野球参入 」の項を参照&lt;br /&gt;
* [[キャノン機関]]&lt;br /&gt;
* [[亜細亜産業]]&lt;br /&gt;
* [[犯罪報道]]&lt;br /&gt;
* [[国鉄三大ミステリー事件]]&lt;br /&gt;
* [[レッドパージ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.city.adachi.tokyo.jp/hakubutsukan/chiikibunka/hakubutsukan/shiryo-gezanjiken.html 足立区　下山事件関係資料]（[http://www.city.adachi.tokyo.jp/hakubutsukan/chiikibunka/hakubutsukan/index.html 東京都足立区立郷土博物館]）&lt;br /&gt;
* [http://doraku.asahi.com/earth/showa/090519.html 戦後最大の謎 下山事件]（[http://doraku.asahi.com/index.html 朝日新聞どらく]）&lt;br /&gt;
* [http://showa.mainichi.jp/news/1949/07/post-fe83.html 昭和のニュース 下山事件]（[http://mainichi.jp/ 毎日jp]）&lt;br /&gt;
* [http://www.shugiin.go.jp/Internet/itdb_shitsumona.nsf/html/shitsumon/a061013.htm 下山事件捜査記録等の公表に関する質問主意書] - 衆議院&lt;br /&gt;
* [http://hozonsharyou.web.fc2.com/Monument/K13Tokyo/NishiAyase.html 下山国鉄総裁追憶碑]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{冷戦}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Japanese-history-stub}}&lt;br /&gt;
{{Rail-stub}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しもやましけん}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の鉄道史]]&lt;br /&gt;
[[Category:占領下の犯罪]]&lt;br /&gt;
[[Category:未解決事件]]&lt;br /&gt;
[[Category:陰謀論]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本国有鉄道の事件・事故]]&lt;br /&gt;
[[Category:常磐線]]&lt;br /&gt;
[[Category:1949年の日本の事件]]&lt;br /&gt;
[[Category:足立区の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:戦後の東京]]&lt;br /&gt;
[[Category:1949年の鉄道]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.231.47.46</name></author>
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	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E3%83%97%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%8A%E3%83%BCNo.6&amp;diff=153503</id>
		<title>プリズナーNo.6</title>
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		<updated>2014-07-21T14:56:00Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.231.47.46: /* リメイク */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;『&#039;&#039;&#039;プリズナーNo.6&#039;&#039;&#039;』（原題:&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;The Prisoner&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;）は、1967年に[[イギリス]]で製作された連続[[テレビドラマ]]作品。主演・企画・監督（一部の回）は[[パトリック・マクグーハン]]（Patrick McGoohan）&amp;lt;ref&amp;gt; 『[[刑事コロンボ]]』の「仮面の男」「祝砲の挽歌」の犯人役など。&amp;lt;/ref&amp;gt;。各話約52分、全17本。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャンルとしては[[サイエンス・フィクション|SF]]的な[[スパイ]]ものであるが、斬新で[[前衛]]的な演出や[[哲学]]的なメッセージが随所にちりばめられており、2012年現在でも一部に熱狂的なファンをもち[[カルト映画|カルト]]的な人気を保っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2009年には新『プリズナー No.6』が制作された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==あらすじ==&lt;br /&gt;
英国の[[スパイ|諜報部員]]である主人公はある日、上司に辞表を叩きつけ、辞職する。そのまま自宅に帰り、旅立とうと自宅で荷造りをするが、何者かの手によって催眠ガスで眠らされる。眼を覚ました主人公は「村」と呼ばれる国籍不明の場所にいることを知る。「村」には彼の他にも多くの者が「プリズナー」（囚人）として拉致されてきており、それぞれ自分の正体を隠したまま、番号で呼ばれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ナンバー・シックス」という番号を与えられた主人公は「ナンバー・ツー」と呼ばれる「村」のリーダーから「辞職の理由」と「知っている情報」をたずねられるが、彼は頑なに回答を拒否する。「ナンバー・ツー」はさまざまな手段を用いて「ナンバー・シックス」から情報を聞き出そうとするが、「ナンバー・シックス」はそれを退け、チャンスがあれば「村」からの脱走を試みる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==キャスト==&lt;br /&gt;
*No.6（主人公）（[[パトリック・マクグーハン]]）:[[小山田宗徳]]&lt;br /&gt;
*No.2（ガイ・ドールマン）:[[若山弦蔵]]&lt;br /&gt;
*コッブ（ポール・エディントン）:[[近石真介]]&lt;br /&gt;
*新No.2（ジョージ・ベイカー）:[[浦野光]]&lt;br /&gt;
*No.2（レオ・マッカーン）:早野寿郎&lt;br /&gt;
*No.2（コリン・ゴードン）:[[富田耕生]]&lt;br /&gt;
*No.2（エリック・ポートマン）:[[久松保夫]]&lt;br /&gt;
*No.12（ジョン・キャッスル）:[[中田浩二 (俳優)|中田浩二]]&lt;br /&gt;
*No.1（?）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==スタッフ==&lt;br /&gt;
*製作総指揮：パトリック・マクグーハン&lt;br /&gt;
*製作：デイヴィッド・トンブリン&lt;br /&gt;
*音楽：ロン・グレイナー（メイン・テーマのみ）、アルバート・エルムズ（劇中曲の大半）、ウィルフレッド・ジョセフス（不採用メインテーマと劇中曲の一部）、ロバート・ファーノン、&lt;br /&gt;
*撮影：ブレンダン・J・スタッフォード&lt;br /&gt;
*提供：エヴリマンフィルムズ、ITC&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==作品解説==&lt;br /&gt;
===人物設定===&lt;br /&gt;
「ナンバー・ツー」は毎回人物が変わる。「ナンバー・ツー」は司令室から部下とともに「プリズナー」たちを監視し、警備員と不思議な白い球体で村からの脱出を阻止し、「村」からはヘリコプターでしか出ることができない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ナンバー・ツー」の上位に「ナンバー・ワン」が存在し、色々と「ナンバー・ツー」に指示を行うが、声と姿は最終回まで伏せられている。この両者の知恵比べがドラマの主軸であるが、その間にもいろいろなドラマがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===舞台===&lt;br /&gt;
[[File:Portmeirionpiazza.jpg|thumb|right|400px|舞台となったホテル・ポートメイリオンの中央広場（[[パノラマ写真]]）]]&lt;br /&gt;
作品の中の「村」は[[セット]]ではなく、[[イギリス]]の[[ウェールズ]]にあるホテル・ポートメイリオンが使われたが、それは最終回のオープニングでようやく明らかにされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===車===&lt;br /&gt;
登場する車についても、非常にマニアックな作りとなっており、冒頭に登場する[[ロータス・セブン]]を始め、[[ロータス・エラン]]、[[ジャガー・Eタイプ|ジャガー・Eタイプ]]などが登場し、[[カーチェイス]]を繰り広げる。また「村」の[[タクシー]]で使われているのは[[ミニ・モーク]]であり、特異なキャラクターであったモークを一躍メジャーにした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==日本での放送==&lt;br /&gt;
日本では1969年3月からNHKで放映されたあと、何度か再放送されている。2004年に[[Super!drama TV|スーパーチャンネル]]（スカパー360ch）で再放送された。2012年現在デジタルニューリマスター版のDVDも発売されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==放送リスト==&lt;br /&gt;
#地図にない村  (Arrival)&lt;br /&gt;
#ビッグベンの鐘  (The Chimes of Big Ben)&lt;br /&gt;
#A, B &amp;amp; C  (A. B. and C.)&lt;br /&gt;
#我らに自由を  (Free For All)&lt;br /&gt;
#暗号  (The Schizoid Man)&lt;br /&gt;
#将軍  (The General)&lt;br /&gt;
#皮肉な帰還  (Many Happy Returns)&lt;br /&gt;
#死の筋書  (Dance of the Dead)&lt;br /&gt;
#チェックメイト  (Checkmate)&lt;br /&gt;
#No.2旗色悪し  (Hammer into Anvil)&lt;br /&gt;
#暗殺計画  (It&#039;s Your Funeral)&lt;br /&gt;
#反乱分子  (A Change of Mind)&lt;br /&gt;
#思想転移  (Do Not Forsake Me Oh My Darling)&lt;br /&gt;
#悪夢のような  (Living in Harmony)&lt;br /&gt;
#おとぎ話  (The Girl Who Was Death)&lt;br /&gt;
#最後の対決  (Once Upon a Time)&lt;br /&gt;
#終結  (Fall Out)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==リメイク==&lt;br /&gt;
米[[AMC (テレビ局)|AMC]]および英[[ITV (イギリス)|ITV]]により、[[2009年]]制作。基本プロットである「主人公No.6が謎の村に幽閉され、村の支配者No.2と対立する」点以外、オリジナルとの共通点は殆どない。全6話。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本では[[ミステリチャンネル|AXNミステリー]]（スカパーHD649、スカパー728）で2010年5月24日から、日本語字幕版が放送されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===キャスト===&lt;br /&gt;
*No.6 - [[ジェームズ・カヴィーゼル]]&lt;br /&gt;
:主人公。ある日、砂漠で目を覚まし村にたどり着く。村から脱出しようとし、No.2と戦っていく。&lt;br /&gt;
*No.2 - [[イアン・マッケラン]]&lt;br /&gt;
:村の中心人物。NO.6を執拗に追い続け、村に馴染ませようとする。&lt;br /&gt;
*No.313 - [[ルース・ウィルソン]]&lt;br /&gt;
:村の女医。No.6の話を妄想と考え、現実である村を受け入れさせようとする。&lt;br /&gt;
*No.11-12 - [[ジェイミー・キャンベル・バウアー]]&lt;br /&gt;
:No.2の子供。母と共に父No.2と村の宮殿に住んでいる。恵まれた生活を送っているようで、実は不満を持っている。&lt;br /&gt;
*No.4-15 - [[ヘイリー・アトウェル]]&lt;br /&gt;
:盲目の女性。&lt;br /&gt;
*No.147 - [[レニー・ジェームズ]]&lt;br /&gt;
:タクシー運転手。村に着いたNo.6が最初に出会う人物。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== スタッフ ===&lt;br /&gt;
*製作総指揮・脚本：[[ビル・ギャラガー]] &lt;br /&gt;
*監督：[[ニック・ハラン]]&lt;br /&gt;
*制作：AMC、ITV &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== エピソードタイトル ===&lt;br /&gt;
#到着　Arrival&lt;br /&gt;
#融和　Harmony&lt;br /&gt;
#金床　Anvil&lt;br /&gt;
#愛しい人 Darling&lt;br /&gt;
#分裂　Schizoid&lt;br /&gt;
#チェックメイト checkmate&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==書籍==&lt;br /&gt;
*『プリズナー』 -  [[トマス・M・ディッシュ|トーマス・M・ディッシュ著]]、永井淳 訳　（[[早川書房]]） 絶版。  ― 本ドラマの[[小説化|ノベライズ]]だが、設定が同じのみでありストーリー展開は異なる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==脚注==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{星雲賞メディア部門|映画演劇部門}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ふりすなあなんはあしつくす}}&lt;br /&gt;
[[Category:イギリスのテレビドラマ]]&lt;br /&gt;
[[Category:1967年のテレビドラマ]]&lt;br /&gt;
[[Category:SFテレビドラマ]]&lt;br /&gt;
[[Category:スパイドラマ]]&lt;br /&gt;
[[Category:AXNミステリー]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.231.47.46</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E3%83%88%E3%82%B9%E3%82%AB&amp;diff=14256</id>
		<title>トスカ</title>
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		<updated>2014-07-21T13:06:02Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.231.47.46: /* 備考 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Otheruses|オペラ作品|GM大宇のセダン|GM大宇・トスカ}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:Puccini Tosca.jpg|right|180px|トスカ]]&lt;br /&gt;
{{Portal クラシック音楽}}&lt;br /&gt;
『&#039;&#039;&#039;トスカ&#039;&#039;&#039;』（&#039;&#039;Tosca&#039;&#039;）は、[[ジャコモ・プッチーニ]]の[[オペラ]]である。その見せ場の多さから、オペラ史における極めて重要な作品と見なされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==作品の成立と上演==&lt;br /&gt;
全3幕で、台本は[[ルイージ・イッリカ]]と[[ジュゼッペ・ジャコーザ]]の2人が書いた。初演は[[1900年]][[1月14日]]、[[ローマ]]の[[コスタンツィ劇場]]で行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[リブレット (音楽)|オペラ台本]]は、[[1889年]][[パリ]]で上演されていたヴィクトリアン・サルドゥの[[戯曲]]に基づく。プッチーニは同年[[ミラノ]]で[[サラ・ベルナール]]演ずるこの劇に接し、直ちに馴染みの編集者[[リコルディ]]にサルドゥから権利を買うよう依頼したが、[[1893年]]に作曲家[[アルベルト・フランケッティ]]のものとなってしまう。イルリカが台本を書き、[[1894年]]10月、フランケッティ、リコルディと[[ジュゼッペ・ヴェルディ|ヴェルディ]]はサルドゥに会い、台本を贈った。ヴェルディはこの悲劇作品にいたく魅せられていたが、この作品の結末を変更しない限り作曲するつもりはなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
数ヵ月たって、とうとうフランケッティは自分ではこの作品に作曲することは不可能と認めたため、ジュリオ・リコルディはプッチーニに作曲を依頼した。彼は感情を害していたのでヴェルディの仲介により、ようやくこれを受け入れさせることが出来た。プッチーニは『[[ラ・ボエーム (プッチーニ)|ラ・ボエーム]]』の作曲を終えた後の[[1896年]]から作曲に取り掛かった。リコルディは台本作成のためジュゼッペ・ジャコーザをルイージ・イッリカの共同執筆者に配した。しかしジャコーザはこの作品が気に入らなかったため、彼の韻文の実力を発揮することが出来ず、サルドゥと何度か論争を起こした。プッチーニのほうでも、2人の台本作家にリコルディまで巻き込んだ議論の末、彼らが第3幕に取り入れようとした「ラテン聖歌」をわずか18小節の二重唱「新しい希望に魂は勝ち誇って」にまで短縮させたりした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3年にわたる困難な共同作業の末、[[1899年]]10月に作品が完成した。ローマ市を舞台にした作品だったので、初演はこの永遠の都のコスタンツィ劇場で行われることに決まった。準備は長期間でトラブルもあり、多くの好奇心をひきつけた。出演は、エリクレア・ダルクレー（[[ソプラノ]]）がトスカを、エミーリオ・デ・マルキ（[[テノール]]）がカヴァラドッシを、エウジェニオ・ジラルドーニ（[[バリトン]]）がスカルピアを歌った。また、レオポルド・ムニョーネが総監督を行った。[[マルゲリータ・ディ・サヴォイア＝ジェノヴァ|マルゲリータ王妃]]とペロー首相に加え、[[ピエトロ・マスカーニ]]、[[フランチェスコ・チレア]]、フランケッティ、ズガムバーティなど多数の作曲家が聴衆に加わった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『トスカ』と前作『ラ・ボエーム』の作品の趣は驚くほど異なったにも関わらず、上演は完璧な成功だった。批評家の評価は芳しくなかったが、聴衆は熱狂的にこれを受け入れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==楽器編成==&lt;br /&gt;
[[フルート]]3（第2・第3奏者[[ピッコロ]]持ち替え）、[[オーボエ]]3、[[コーラングレ]]、[[クラリネット]]2、[[バスクラリネット|バス・クラリネット]]、[[ファゴット]]2、[[コントラファゴット]]、[[ホルン]]4、[[トランペット]]3、[[トロンボーン]]3、[[バストロンボーン|バス・トロンボーン]]、[[ティンパニ]]、[[スネアドラム|小太鼓]]、[[トライアングル]]、[[シンバル]]、[[タムタム]]、[[バスドラム|大太鼓]]、[[グロッケンシュピール]]、[[チェレスタ]]、[[鐘]]、[[ハープ]]、[[弦五部]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
舞台上でフルート、[[ヴィオラ]]、ハープ、ホルン4、トロンボーン3、鐘、[[オルガン]]、小太鼓2、ライフル、大砲&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==演奏時間==&lt;br /&gt;
1時間50分（第1幕45分、第2幕40分、第3幕25分）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==作品の内容==&lt;br /&gt;
画家カヴァラドッシと、その恋人で有名歌手トスカの物語である。画家は脱獄した政治囚の逃亡を助けたために死刑宣告される。&lt;br /&gt;
トスカは、彼を救おうと警視総監スカルピアを殺すが、スカルピアの計略でカヴァラドッシは処刑され、トスカも彼の後を追って自殺する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===あらすじ===&lt;br /&gt;
*ところ：ローマ市&lt;br /&gt;
*とき：[[1800年]]6月。[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]率いるフランス軍が欧州を席巻していたころ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===登場人物===&lt;br /&gt;
*フローリア・トスカ：有名な歌手(S)&lt;br /&gt;
*マリオ・カヴァラドッシ：画家でトスカの恋人(T)&lt;br /&gt;
*スカルピア男爵：ローマ市の警視総監(Br)&lt;br /&gt;
*チェーザレ・アンジェロッティ：前ローマ共和国統領(B)&lt;br /&gt;
*スポレッタ：スカルピアの副官(T)&lt;br /&gt;
*堂守：聖アンドレア・デラ・ヴァレ教会の番人(Br)&lt;br /&gt;
*その他羊飼い(S)、看守、聖歌隊・市民など（合唱）&lt;br /&gt;
:S:[[ソプラノ]]、T:[[テノール]]、Br:[[バリトン]]、B:[[バス (声域)|バス]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====第1幕====&lt;br /&gt;
逃亡した政治犯&#039;&#039;&#039;アンジェロッティ&#039;&#039;&#039;が隠れ家を求め、彼の一族が礼拝堂を持つ聖アンドレア・デラ・ヴァレ教会にやってくる。ここには妹のアッタヴァンティ侯爵夫人がやってきて兄の解放を祈っていた。その際彼女は気づかなかったが、画家マリオ・カヴァラドッシが教会の注文で描いているマグダラのマリア像のモデルにしていた。&lt;br /&gt;
一族の礼拝堂に隠れるとすぐに&#039;&#039;&#039;堂守&#039;&#039;&#039;が、続いて&#039;&#039;&#039;カヴァラドッシ&#039;&#039;&#039;が登場する。堂守は画家が絵筆を洗うのを手伝う。カヴァラドッシはちょっと仕事を休み、ポケットに持っていたメダルを見つめる。このメダルはトスカの肖像が描いてあり、彼は描きつつある肖像の青い目に金髪のモデルと、黒い目に茶色の髪のトスカとを比較して歌う（&#039;&#039;[[妙なる調和]]&#039;&#039;）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
堂守はカヴァラドッシのアリアの間、絵のモデルが礼拝に来る夫人であることに気づき呆れて、「ふざけるなら俗人にして、聖人は敬ってくれよ」と合いの手で歌い、画家に促されて退場する。カヴァラドッシは一人になるが、物音でアンジェロッティのいることに気づく。彼は旧知の画家と知って隠れ場所から出てきて、[[サンタンジェロ城]]（ローマ教皇領の牢獄）から逃げ出してきたことを話す。そこへトスカが外から「マリオ！」と呼ぶので、カヴァラドッシは彼に飲み物を与えて隠れるように言い、アンジェロッティは再び礼拝堂に身を隠す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;トスカ&#039;&#039;&#039;はマリオとその夜遅く会う約束をするため来たのだが、ドアの外から話し声を聴き、カヴァラドッシの落ち着かない態度を見て、嫉妬心から彼が誰か他の女性との密会をしていたと疑う。カヴァラドッシを別荘でのデートに誘う（&#039;&#039;緑の中の二人の家にいきましょう&#039;&#039;）が、彼が描いた女性の顔を見てその疑いは確信に変わる。しかし、マリオの説明を聞いてその場は納得し、肖像の眼の色を黒にすることと、夜に会う約束をしてその場を去る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アンジェロッティが再び現れ、脱出計画を話し合う。カヴァラドッシは彼に自分の別荘の鍵を渡し、アンジェロッティは妹が祭壇に隠していた女性の服を着て脱出するというものだった。その時サンタンジェロ城で砲声が響き、アンジェロッティの逃亡が発覚したことを告げる。彼は急いで逃げ、画家も同行する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
堂守が大勢の少年合唱隊や待者ともに戻ってくる。彼らは[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]軍が[[マレンゴの戦い|マレンゴ]]の戦闘に敗れたという誤報を信じ、神に感謝して&#039;&#039;[[テ・デウム]]&#039;&#039;を歌う。そこへ警視総監&#039;&#039;&#039;スカルピア&#039;&#039;&#039;が副官&#039;&#039;&#039;スポレッタ&#039;&#039;&#039;および逃亡した囚人を捜査する部下を何人か従えて登場する。聖堂の礼拝堂で、伯爵夫人の扇と空になった籠を見つけ、疑いを抱く。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼は疑い深く堂守を尋問すると、カヴァラドッシが礼拝堂の鍵を持っていないこと、彼は食事を食べないといっていたことがわかる。そこへ疑い深いトスカが戻ってくる。教会は人で溢れ、枢機卿がテ・デウムの準備をする。スカルピアはトスカの様子を物陰から伺ったあと、彼女に扇を見せて嫉妬心を煽ると、彼女は立腹しその場を去る。スカルピアは部下に彼女のあとをつけるように命じると、トスカに対する恋心を情熱的に歌う。教会ではテ・デウムが始まり、彼もその祈りに和しつつ、目指す男とトスカを二人とも手に入れるのだと歌う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====第2幕====&lt;br /&gt;
スカルピアが公邸としているファルネーゼ宮殿（現在はフランス大使館として使用）で夕食を取っている。外では戦勝祝賀会の歌声が聞こえる。彼は家来にトスカをリサイタル終了後に呼ぶように行かせる。彼は皮肉交じりにトスカを自らの権力で屈服させるのだと歌う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
スポレッタが拘留したカヴァラドッシとともに登場する。アンジェロッティはからくも逃れたのだった。スカルピアは画家を尋問するが彼は白状しない。そこでカヴァラドッシを別室で拷問にかける。そこに入れ替わりにトスカが登場し、スカルピアに恋人の苦痛のうめきを聞かされると、ついに堪えきれずにアンジェロッティの隠れ場所をしゃべってしまう。画家が部屋から引き戻され、彼女が秘密を漏らしたことを激しく詰る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そこに伝令が登場し、ナポレオンが[[マレンゴの戦い|マレンゴ]]でオーストリア軍を破っていたことを知らせる。動揺するスカルピア達の面前でカヴァラドッシは勝ち誇って激しく勝利を歌い上げるので牢屋に連行される。&lt;br /&gt;
後を追おうとするトスカを、スカルピアが呼びとめる。彼女は賄賂で助命を得ようとするがスカルピアは恋人を自由にする代償として彼女の身体を求める。トスカは絶望し、何故このような過酷な運命を与えたのかと神に助けを求めて祈る（&#039;&#039;歌に生き、愛に生き&#039;&#039;）。スポレッタが戻ってきてアンジェロッティが自殺したことを告げ、カヴァラドッシの処遇をたずねる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
トスカが観念したと見たスカルピアは、スポレッタに対しカヴァラドッシの見せかけの処刑を行うよう命令する。パルミエリ伯爵の時と同じだ、と説明するのを意味ありげに聞き、部下は退出する。&lt;br /&gt;
トスカはイタリアを出国できるよう、スカルピアに通行証を求める。スカルピアが書類を書いている間、食卓のナイフに気づいたトスカはそれを隠し持つ。書き終えたスカルピアが&#039;&#039;トスカ、とうとう我が物&#039;&#039;と迫るところを、トスカは&#039;&#039;これがトスカのキッスよ&#039;&#039;といってナイフで胸を刺す。息絶えた彼の手から通行証を奪うと、トスカは信心深く遺体の左右に燭台をおき、[[十字を切る]]と遠くの太鼓の音をききつつ去る（&#039;&#039;彼の前でローマ中が震え上がっていた&#039;&#039;）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;注：歌に生き、愛に生き&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一般には「歌に生き、恋に生き」で知られているが、トスカは「私は歌に生き、神へのamoreに生きてきたのです。」と歌うので、ここでのamoreは「愛」と訳すのが妥当である。（amoreを「恋」と訳すと「神への『恋』に生きる」になり、間違いである。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====第3幕====&lt;br /&gt;
[[Image:RomaCastelSantAngelo.jpg|thumb|250px|right|第3幕の舞台 サンタンジェロ城]]&lt;br /&gt;
サンタンジェロ城の屋上にある牢屋と処刑場。&lt;br /&gt;
冒頭、ホルンのファンファーレに続いて、朝を告げる鐘の音と羊飼いの牧歌が聞こえる。カヴァラドッシは夜明けに行われる処刑を牢屋で待っている。彼は司祭との面会を断り、看守に指輪を与えてトスカに伝言を渡すよう頼む。別れの手紙を書き始めるが、自らの死と恋人との別れを想うと絶望して泣き崩れる（&#039;&#039;[[星は光りぬ|星はきらめき]]&#039;&#039;）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
トスカが現れ、驚くカヴァラドッシに通行証を見せ、これまでのいきさつを語る。空砲で見せかけの処刑が行われること、恋人の助命を引き換えに身体を要求したスカルピアを、信心深く虫も殺せぬ彼女が刺し殺したことを聞き、カヴァラドッシは彼女の手をとって「おおやさしい手よ」とトスカの愛情と勇気をたたえる（&#039;&#039;優しく清らかな手&#039;&#039;）。時間が迫ったことを告げる彼女にカヴァラドッシは&#039;&#039;君ゆえに死にたくなかった&#039;&#039;と語りトスカと互いの愛情を歌う(二重唱&#039;&#039;新しい希望に魂は勝ち誇って&#039;&#039;）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
看守がカヴァラドッシに時が来たことを告げる。&lt;br /&gt;
トスカに見送られて刑場に赴くカヴァラドッシに彼女は&#039;&#039;うまく倒れてね&#039;&#039;と言葉をかけ彼も&#039;&#039;劇場のトスカのように&#039;&#039;と応じる余裕を見せる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
並んだ兵士たちが一斉に発砲し、カヴァラドッシは倒れる。トスカは彼の演技がうまいと一人ほめる。隊長が規則通り剣でとどめを刺すのをスポレッタが制し、一同去る。&lt;br /&gt;
兵士たちが去ったのをみてトスカはマリオに近づき、逃げようと声を掛けるが彼は動かない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
処刑は本物であった。スカルピアは最初からカヴァラドッシの命を救うつもりなどなかったのだ。パルミエリ伯爵もそのようにして欺かれたのであろう。&lt;br /&gt;
トスカは死んで横たわるカヴァラドッシの傍らでスカルピアの計略を悟り、マリオの名を呼んで泣き叫ぶ。そこにスカルピアが殺されていることを知ったスポレッタが兵士と共に駆け寄り、彼女を殺人罪で逮捕しようとするが、彼女は逃れ、サンタンジェロ城の屋上から身を投げる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あらすじは英語版（&#039;&#039;The Opera Goer&#039;s Complete Guide&#039;&#039; by Leo Melitz, 1921 version.をリコルディ社の台本と注釈により改訂）をもとに自由に訳した。日本語訳の表記は、日本放送出版協会 発行のNHK編「オペラ対訳選書 14『トスカ』」、1973年）を参考にした）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==オペラの傑作としての『トスカ』==&lt;br /&gt;
古今のオペラの代名詞的な存在であり、20世紀最大のオペラ歌手とされている[[マリア・カラス]]はトスカを何度も演じた。1958年のパリ・オペラ座でのトスカ第2幕、1964年のコベントガーデンでの同じくトスカ第2幕の映像が残されている。なお、マリア・カラスが残したオペラの映像はこの2つのトスカ第2幕だけであり、大変貴重なものといえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==『トスカ』にまつわる逸話==&lt;br /&gt;
当時[[ウィーン国立歌劇場|ウィーン宮廷歌劇場]]の監督の地位にあった[[グスタフ・マーラー]]の『トスカ』評。&lt;br /&gt;
:“第1幕の教皇が登場する場面では、教会の鐘が鳴りっぱなし。第2幕では男が拷問にかけられて恐ろしい悲鳴を上げ、別の男がナイフで刺し殺される。第3幕ではローマ市の全景、凄まじい鐘の連打、ある中隊の兵士が銃殺される。…今更これを最大級の駄作だ等という必要はあるまい。”（1903年）&lt;br /&gt;
[[後期ロマン派]]を代表する交響曲作曲家として知られているマーラーではあるが、『トスカ』に関しては否定的な批評をしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 備考 ==&lt;br /&gt;
*[[深水黎一郎]]のミステリー小説『[[トスカの接吻]]』は、「トスカ」の上演中に舞台上で起こった殺人事件を描いている。第二幕の終わりにトスカがスカルピアを刺殺する場面で、小道具のナイフが本物のナイフにすり替わっており、事件が起きる。また登場人物の口を借りて斬新な演出のアイディアが語られ、それが事件解決の重要なヒントとなる。&lt;br /&gt;
*フィギュアスケートの定番曲でもあり、過去に男子シングルの[[エフゲニー・プルシェンコ]]や[[アレクセイ・ヤグディン]]、[[本田武史]]、[[エヴァン・ライサチェク]]、女子シングルの[[イリーナ・スルツカヤ]]、[[ミシェル・クワン]]、アイスダンスの[[タニス・ベルビン]]&amp;amp;amp;[[ベンジャミン・アゴスト]]組などが競技用プログラムとして使用している。&lt;br /&gt;
*[[アイドス]]のゲーム『[[Hitman: Blood Money]]』では、「トスカ」上演を控えてリハーサル中の劇場で暗殺を行うミッションがあり、劇中のとあるシーンをうまく利用することで周りに怪しまれずにターゲットを暗殺することができる。&lt;br /&gt;
*[[佐々木倫子]]の漫画『[[動物のお医者さん]]』101話は、オペラ歌手である主人公の母が、地元の「トスカ」公演で主役を歌う話である。[[舞台]]小道具であるナイフが用意されていなかったため、第2幕のあらすじにある、「ファルネーゼ宮の[[警視総監]]の部屋」で刺殺するはずが、急遽首を絞めて殺害する事に変更するハメに。劇の内容を理解していない主人公たち扮するエキストラが、結末を台無しにしてしまうまでが喜劇的に描かれる。&lt;br /&gt;
*[[マレンゴの戦い]]:劇中第1幕において、ナポレオンが死んだとの誤報がもたらされて感謝のミサを行い、第2幕でナポレオンの勝利が報告される。&lt;br /&gt;
*[[マタ・ハリ]]の銃殺刑でも、空砲とすり替えられる予定だったという信憑性に乏しい噂がある。&lt;br /&gt;
*オペラ化される10年前に、日本の落語家[[三遊亭円朝]]がサルドゥの原作を[[大塩平八郎の乱]]に設定を変えた翻案 「名人くらべ」として1891年に新聞連載している。&lt;br /&gt;
*アニメ映画『[[名探偵コナン　ベイカー街の亡霊]]』では、アルト歌手であるはずの[[アイリーン・アドラー]]が、ステージで「歌に生き、愛に生き」を歌う。しかも、時代設定は1888年である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{プッチーニのオペラ}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:とすか}}&lt;br /&gt;
[[category:プッチーニのオペラ]]&lt;br /&gt;
[[Category:20世紀のオペラ]]&lt;br /&gt;
[[Category:戯曲を原作とするオペラ]]&lt;br /&gt;
[[Category:1900年の音楽]]&lt;br /&gt;
[[Category:ローマを舞台とした作品]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Link FA|en}}&lt;br /&gt;
{{Link FA|hu}}&lt;br /&gt;
{{Link FA|ar}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.231.47.46</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E5%82%AC%E7%9C%A0&amp;diff=42671</id>
		<title>催眠</title>
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		<updated>2014-07-19T13:48:24Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.231.47.46: /* 外部リンク */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Otheruses|意識状態}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;催眠&#039;&#039;&#039;（さいみん、{{lang-en-short|hypnosis}}）とは、[[暗示]]を受けやすい[[変性意識状態]]のひとつ。また、その状態（&#039;&#039;&#039;催眠状態&#039;&#039;&#039;）、およびその状態に導く技術 （&#039;&#039;&#039;催眠法&#039;&#039;&#039;）　を指す場合がある。&#039;&#039;&#039;催眠術&#039;&#039;&#039;（さいみんじゅつ {{lang-en-short|hypnotism}}）とも呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 性質 ==&lt;br /&gt;
[[意識]]の構成には「清明度」、「質的」、「広がり」の三つの要素が存在する。「清明度」の低下は一般に[[意識障害]]を、「質的」の変化（意識変容）は[[せん妄]]や[[もうろう]]等を指し、「広がり」が低下した状態（意識の狭窄）を催眠状態と呼ぶ。別の観点から言えば、人間の意識は9割を占める非論理的な[[潜在意識]]と、覚醒時に論理的に思考する[[顕在意識]]とで構成されているが、催眠とは、意識レベルを批判能力を除外する[[潜在意識]]レベルに誘導することであるといえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 催眠による現象 ==&lt;br /&gt;
催眠状態といえば特別な状態に聞こえるが、電車の中でうたた寝をしている状態に近く、誰しもが入る事の出来る現象である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
催眠状態では[[意識]]が狭窄しているので、外界からの刺激や他の概念が[[意識]]から締め出され一つの事象が[[意識]]を占領することによって、[[暗示]]のままに動かされる。この暗示によって様々な[[幻覚]]が作り出されてくる。また、[[潜在意識]]に働きかけて対人恐怖症やアガリ症等を治療する。数学嫌いと同様に、たわいもない事象がきっかけでこれらの症状が発症することが多いからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし催眠状態というような特別な状態がはっきりと存在している訳ではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
催眠法は、心理的な悩みを改善する目的で行われる[[催眠療法]] （ヒプノセラピー） と娯楽を目的に行われる舞台催眠 (ショウ催眠) とに大別される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
催眠を医療に用いる試みもアメリカでは積極的に行なわれているが、日本では積極的な医療機関は限られている。一般的には、まず薬物療法など、他の治療法を十分に試みた上で、適用可否の判断を含めて、訓練を受けた専門家により行われるべきである、とアメリカではされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
俗にいう催眠商法は、催眠と呼称されているが舞台催眠的な方法で物を買わせるのではなく、始めに一つの部屋に大勢の人が入れられ、早いもの順に競わせるようにして品物をただ同然であげると言い、そして最後にその条件反射を利用して安い布団などを高値で買わせるといった心理学全体の技術を応用した詐欺である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 催眠術という呼称 ==&lt;br /&gt;
[[フランツ・アントン・メスメル|メスメル]]の動物磁気実験から発祥し、それに様々な実践的実験が試されてきたものをメスメリズム（催眠術）という。それが日本に入って来たときに催眠術と名付けられた。&lt;br /&gt;
日本に入って来た当時「眠りに催す」ように見えたから付けられたのだが、その2週間後に被験者は眠っている訳ではないと気付いた、しかしすでに催眠術という言葉は日本中に広まってしまい訂正することができなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
メスメリズムとは、ヒプノシス（催眠）の元の呼ばれ方である。19世紀の[[イギリス]]の[[医師]]、[[ジェイムズ・ブレイド]]の造語だとされる。&lt;br /&gt;
現代の催眠に携わる人の間では「催眠は魔術的なものではなく科学であるから、催眠術ではなく催眠・催眠法という表現を使うべき」という主張もある&amp;lt;ref&amp;gt;[[武藤安隆]] 『図解雑学 催眠』[[ナツメ社]]、2001年、62頁。ISBN 978-4816330803。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現代で催眠術という場合、特に舞台催眠 （{{lang-en-short|stage hypnosis}}、ショウ催眠）を指す場合がある。&lt;br /&gt;
一般のほとんどの人が「催眠術」をTVなどでよく見る、いわゆる「ショウ催眠」としてしか認知していないために「[[超能力]]」「[[魔術]]」などといったものと同一視し、誤解されがちであるが、現代の催眠は[[心理学]]、脳科学、そして体の構造を利用した「[[技術]]」である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 催眠術の流行 ==&lt;br /&gt;
日本においては、[[明治]]末期から[[大正]]時代にかけて催眠術が大流行し、催眠術を応用した精神療法や身体鍛練法などを唱える者が多数現れた。それらは医学関係者から霊術師まで多岐にわたり、[[福来友吉]]、[[田中守平]]などがいた。書物も多数出版され、「催眠」と明記した書籍だけでもこの時期だけで400冊以上が出版されている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://kindai.ndl.go.jp/search/searchResult?SID=kindai&amp;amp;searchWord=%E5%82%AC%E7%9C%A0%E8%A1%93　「催眠」近代デジタルライブラリー]&amp;lt;/ref&amp;gt;。その流行ぶりに、風俗撹乱の恐れから、[[1908年]]に発布された[[警察犯処罰令]]（[[1948年]]に廃止）には「みだりに催眠術を施した者」という一項が入れられていた&amp;lt;ref&amp;gt;[http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/785904/109　『日用法律事件百般鑑定顧問 : 自問自答』武知弥三郎 著 (二松堂, 1910) ]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連書 ==&lt;br /&gt;
* 吉永進一　『催眠術の黎明』近代日本臨床心理の誕生　クレス出版　ISBN 4877333142&lt;br /&gt;
* 中杉弘　『催眠術の神秘』　日経企画出版局　星雲社　ISBN 479524782X&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[前世療法]]&lt;br /&gt;
* [[催眠療法]]&lt;br /&gt;
* [[精神医学]]&lt;br /&gt;
* [[神経学]]&lt;br /&gt;
* [[脳神経外科学]]&lt;br /&gt;
* [[心理学]]&lt;br /&gt;
* [[日本催眠心理学会]]&lt;br /&gt;
* [[日本催眠学会]]&lt;br /&gt;
* [[日本催眠医学心理学会]]&lt;br /&gt;
* [[意識]]&lt;br /&gt;
* [[睡眠]] - [[睡眠導入剤]]（睡眠薬）&lt;br /&gt;
* [[洗脳]] - [[マインドコントロール]]&lt;br /&gt;
* [[催眠フェティシズム]]&lt;br /&gt;
* [[気功]]&lt;br /&gt;
* [[二分心]] ([[w:Bicameral Mind|Bicameral Mind]]) - 催眠に関する心理学的考察&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--* [[LOST+BRAIN]] - 催眠をテーマにした漫画作品。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==脚注==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://psychotoolbox.web.fc2.com/hypnosis/history.html 催眠の歴史] （ガスナー神父、メスメルから[[ミルトン・エリクソン]]までの催眠の歴史と解説）&lt;br /&gt;
* [http://kindai.ndl.go.jp/ 近代デジタルライブラリー] - [[福来友吉]]による『催眠心理学概論』等[[大正]]、[[明治]]の頃の催眠の本が公開されている。&lt;br /&gt;
* [http://homepage3.nifty.com/reveal/hypno/in_j.htm 催眠心理研究室] （用語辞典や[[機械翻訳]]を応用して海外サイトを日本語や英和対訳で読めるリンク集など）（リンク切れ）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:さいみん}}&lt;br /&gt;
[[category:催眠|*]]&lt;br /&gt;
[[category:身体技法]]&lt;br /&gt;
[[category:能力開発]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Psych-stub}}&lt;br /&gt;
{{Link FA|mk}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.231.47.46</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%A2%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%8B&amp;diff=5782</id>
		<title>ジョアキーノ・ロッシーニ</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%A2%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%8B&amp;diff=5782"/>
		<updated>2014-07-17T12:45:45Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.231.47.46: /* 関連する人物 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Infobox Musician &amp;lt;!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照--&amp;gt;&lt;br /&gt;
| Name                = ジョアキーノ・ロッシーニ&amp;lt;br /&amp;gt;Gioachino Rossini&lt;br /&gt;
| Img                 = Rossini1.jpg&lt;br /&gt;
| Img_capt            = &lt;br /&gt;
| Background          = classic&lt;br /&gt;
| Birth_name          = ジョアキーノ・アントニオ・ロッシーニ&amp;lt;br /&amp;gt;Gioachino Antonio Rossini&lt;br /&gt;
| Alias               = &lt;br /&gt;
| Blood               = &amp;lt;!-- 個人のみ --&amp;gt;&lt;br /&gt;
| School_background   = &amp;lt;!-- 個人のみ --&amp;gt;&lt;br /&gt;
| Born                = [[1792年]][[2月29日]]&amp;lt;br /&amp;gt;{{PAP-1}}、[[ペーザロ]]&lt;br /&gt;
| Died                = {{死亡年月日と没年齢|1792|2|29|1868|11|13}}&amp;lt;br /&amp;gt;{{FRA1852}}、[[パリ]]&lt;br /&gt;
| Origin              = {{PAP}}、[[ボローニャ]]&lt;br /&gt;
| Instrument          = &amp;lt;!-- 個人のみ --&amp;gt;&lt;br /&gt;
| Genre               = [[ロマン派音楽]]&lt;br /&gt;
| Occupation          = [[作曲家]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[美食家]]&lt;br /&gt;
| Years_active        = [[1810年]] - [[1836年]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{Portal クラシック音楽}}&lt;br /&gt;
[[ファイル:Rossini-portrait-0.jpg|thumb|180px|ロッシーニの肖像画]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;ジョアキーノ・ロッシーニ&#039;&#039;&#039;（本名は&#039;&#039;&#039;ジョアキーノ・アントーニオ・ロッシーニ&#039;&#039;&#039; &#039;&#039;&#039;Gioachino Antonio Rossini&#039;&#039;&#039;, [[1792年]][[2月29日]] - [[1868年]][[11月13日]]）は、[[イタリア]]の[[作曲家]]。[[美食家]]としても知られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物 ==&lt;br /&gt;
『[[セビリアの理髪師]]』や『[[ウィリアム・テル (オペラ)|ウィリアム・テル]]』などの[[オペラ]]作曲家として最もよく知られているが、[[宗教曲]]や[[室内楽曲]]なども手がけている。彼の作品は当時の大衆や[[フレデリック・ショパン|ショパン]]など同時代の音楽家に非常に人気があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;ジョアッキーノ&#039;&#039;&#039;（Gioacchino）と綴られることが多かったが、出生届けなどからGioachinoであることが判明したため、ペーザロのロッシーニ財団の要請で、&#039;&#039;&#039;ジョアキーノ&#039;&#039;&#039;（Gioachino）と綴るようになってきており、ここ数年のイタリアでの公演や録音、映像収録ではGioachino綴りで行われているが、イタリア国外ではまださほど徹底されていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
生涯に39のオペラを作曲、イタリア・[[オペラ]]の作曲家の中で最も人気のある作曲家だった。ただし、実質の作曲活動期間は20年間に満たない。絶頂期には、1年間に3～4曲のペースで大作を仕上げていた。彼の作品は『セビリャの理髪師』『アルジェのイタリア女』のように[[オペラ・ブッファ]]が中心だと思われがちだが、実際オペラ作曲家としてのキャリアの後半期はもっぱら[[オペラ・セリア]]の分野で傑作を生み出している。&lt;br /&gt;
人生の半ばに相当する37歳の時に大作『ウィリアム・テル』を作曲した後はオペラ作曲はせず、サロン風の歌曲やピアノ曲、宗教作品を中心に作曲を行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==略歴==&lt;br /&gt;
*[[1792年]] - [[2月29日]]、[[ペーザロ]]に生まれる。&lt;br /&gt;
*[[1800年]] - （8歳）[[ボローニャ]]に移り住み、ボローニャ音楽学校に学ぶ&lt;br /&gt;
*[[1810年]] - （18歳）フィレンツェで一幕のオペラ・[[ファルサ]]「結婚手形」を初演。オペラ作曲家としてデビュー。&lt;br /&gt;
*[[1812年]] - （20歳）ブッファ『[[試金石_(オペラ)|試金石]]』をスカラ座で初演。初のヒット作となり兵役を免除される。&lt;br /&gt;
*[[1813年]] - （21歳）「タンクレーディ」「アルジェのイタリア女」が初演後たちまち大ヒットしヨーロッパ中に名声が轟く。&lt;br /&gt;
*[[1815年]] - （23歳) ナポリで「エリザベッタ」初演。以後この地のサン・カルロ劇場の音楽監督として、精力的にオペラ・セリアの傑作を生み出す。&lt;br /&gt;
*[[1822年]] - （30歳）歌手のイザベラ・コルブランと結婚。&lt;br /&gt;
*[[1823年]] - （30歳）「セミラーミデ」初演。イタリアでの最後のオペラとなる。&lt;br /&gt;
*[[1824年]] - （32歳）パリのイタリア座の音楽監督に就任。&lt;br /&gt;
*[[1829年]] - （37歳）最後のオペラ『[[ウィリアム・テル (オペラ)|ウィリアム・テル]]』を発表。&lt;br /&gt;
*[[1836年]] - （44歳）音楽界から引退し、イタリアのボローニャ（のちフィレンツェ）で隠居生活を送る。&lt;br /&gt;
*[[1845年]] - （53歳）イザベラ死去。&lt;br /&gt;
*[[1846年]] - （54歳）[[8月16日]]、[[美術モデル]]の[[オランプ・ペリシエ]]と再婚。&lt;br /&gt;
*[[1855年]] - （63歳）健康が回復したとしてパリに戻る。著名人を集めたサロンや高級レストランを経営。&lt;br /&gt;
*[[1868年]] - （76歳）[[11月13日]]、死去。現在はイタリアの[[サンタ・クローチェ聖堂 (フィレンツェ)|サンタ・クローチェ教会]]に眠る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==人物伝～「ナポレオンは死んだが、別の男が現れた」==&lt;br /&gt;
ロッシーニはイタリアの[[アドリア海]]に面した[[ペーザロ]]で音楽一家に生まれた。父親ジュゼッペ（Giuseppe）は食肉工場の検査官をしながらトランペット奏者をしていた。また、母親アンナ（Anna）はパン屋の娘で歌手であった。両親は彼に早くから音楽教育を施し、6歳の時には父親の楽団で[[トライアングル]]を演奏したと言われている。父親は[[フランス]]に好意を抱いており、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]が軍を率いてイタリア北部に到達したことを喜んでいた。しかしこれが元になり、[[1796年]]になって[[オーストリア帝国|オーストリア]]に政権が復帰すると、父親は投獄されてしまった。母親はロッシーニを[[ボローニャ]]につれてゆき、生活のために[[ロマニャーノ・セージア]]の多くの劇場で歌手として働き、のちに父親と再会した。この間ロッシーニはしばし祖母の元に送られ、手におえない子供と言われていた。容姿はやや太り気味だが、天使のような姿と言われ、かなりのハンサムだったので、多くの女性と浮き名を流した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロッシーニは10代終わりの頃からオペラ作曲家としての活動を始めた。[[1813年]]、20歳から21歳にかけての作品『[[タンクレーディ (ロッシーニ)|タンクレーディ]]』と『[[アルジェのイタリア女]]』でオペラ作曲家としての評判を確立し、[[1816年]]、24歳の作品『[[セビリアの理髪師]]』でヨーロッパ中にその名声をとどろかせた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1816年以降、[[ウィーン]]ではロッシーニ人気の高まりによって、イタリア・オペラ派とドイツ・オペラ派の対立が巻き起こったが、イタリア派の勝利に終わった。[[1822年]]、ロッシーニは『[[ゼルミーラ]]』上演のためにウィーンを訪れ、熱烈な歓迎を受けた。このとき訪問を受けた[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]は『セビリアの理髪師』を絶賛し、「あなたは[[オペラ|オペラ・ブッファ]]以外のものを書いてはいけません」と述べたという&amp;lt;ref&amp;gt;水谷彰良『ロッシーニと料理』 透土社、1993年（新版2000年）、173頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。ベートーヴェンはロッシーニの才能を認めていたが、大衆が自分の音楽の芸術性を評価せず、ロッシーニの曲に浮かれていることに愚痴をもらしている&amp;lt;ref&amp;gt;『ロッシーニと料理』、175頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1823年]]、ロッシーニは[[パリ]]を訪問し、やはり議論を巻き起こしながらも大歓迎を受けた。この訪問と同じころに出版された『ロッシーニ伝』において、[[スタンダール]]は「ナポレオンは死んだが、別の男が現れた」と絶賛している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1825年]]、フランス国王[[シャルル10世 (フランス王)|シャルル10世]]の即位に際して、記念オペラ・カンタータ『[[ランスへの旅、または黄金の百合咲く宿|ランスへの旅]]』を作曲、国王に献呈し、「フランス国王の第一作曲家」の称号と終身年金を得る。37歳で『[[ウィリアム・テル (オペラ)|ギヨーム・テル（ウィリアム・テル）]]』発表後、オペラ界から引退を表明。以後は『[[スターバト・マーテル]]』などの宗教曲や小品のみを作曲し、年金生活に入る。[[1830年]]の[[7月革命]]に際しても新政府と交渉し、前国王政府から給付された年金を確保することに成功した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、彼は若い頃から料理が（食べることも作ることも）大好きで、オペラ界からの引退を表明した後の余生はもっぱら料理の創作や高級レストランの経営に費やしていた。フランス料理によくある「○○のロッシーニ風」（[[ヒレ]][[ステーキ]]に[[フォワグラ]]と[[セイヨウショウロ|トリュフ]]のソテーを添えた「トゥールヌド・ロッシーニ」など）とは、彼の名前から取られた料理の名前である&amp;lt;ref&amp;gt;ロッシーニがオペラ界から引退した後、[[リヒャルト・ワーグナー]]がロッシーニの自宅を訪問した時のことである。ワーグナーはオペラ音楽についての話題を熱心に語っていたが、その間、ロッシーニは「ちょっと失礼」と言って部屋から出て行き、数分後に戻って来るという行為を何度も繰り返していた。ワーグナーが不思議に思ってその理由を尋ねると、ロッシーニはちょうど[[鹿肉|鹿の肉]]を焼いていたところで、彼は肉の焼け具合を確かめるために何度も部屋から出ていたのだという。ロッシーニが当時すでに音楽よりも料理の方に熱意を傾けていたことを物語るエピソードである。&amp;lt;/ref&amp;gt;。彼はあまりにも料理が好きだったためか、料理の名前を付けたピアノ曲も作っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
晩年には[[淋病]]、[[躁鬱病]]、[[慢性気管支炎]]などに悩まされ、ついには[[1868年]]に[[直腸癌]]になり、手術を受けたが、それによる[[丹毒]]に感染して生涯を閉じた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロッシーニは従来は教会の儀式などでしか聞くことが出来なかった宗教音楽を、一般のコンサートのレパートリーとして演奏するように尽力した人物である。ロッシーニのこの分野での傑作である『スターバト・マーテル』も、実は一般のコンサートを念頭において作曲されたものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==作曲家として==&lt;br /&gt;
&amp;lt;!---作曲家として、ロッシーニの作品は現在あまり多く演奏されることはないが、---&amp;gt;パリで貧困生活にあえいでいた[[リヒャルト・ワーグナー|ヴァーグナー]]がロッシーニのような作曲家になることを目標にしていたことはよく知られている。また、『ウィリアム・テル』を見た[[エクトル・ベルリオーズ|ベルリオーズ]]は、「テルの第1幕と第3幕はロッシーニが作った。第2幕は、神が作った」と絶賛している。当時から見ても「才能はあるが怠け者」の作曲家だったらしく、『セビリアの理髪師』の作曲をわずか3週間で完成させ、[[ヴィンチェンツォ・ベッリーニ|ベッリーニ]]は「ロッシーニならそれくらいやってのけるだろう。」と述べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロッシーニは（同時代の他作曲家の例にもれず）現在の著作権・創作概念からみれば考えがたい行動をとっており、同じ旋律を使い回すのは朝飯前で、『セビリアの理髪師』序曲は、『パルミーラのアウレリアーノ』→『イングランドの女王エリザベッタ』の序曲を丸ごと再々利用している。また、『ランスへの旅』でも最終カンタータの場面は諸国国歌の丸写しである。さらに[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の第8交響曲の主題を剽窃し、また機会オペラ（国王即位記念に数度演奏されたにすぎなかった）だった『ランスへの旅』を、細部を手直ししただけでコミックオペラ『オリー伯爵』に作り替えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==ロッシーニ・ルネッサンス==&lt;br /&gt;
ロッシーニは死後たちまち忘れられた作曲家となってしまい、『[[セビリアの理髪師]]』『[[チェネレントラ]]（シンデレラ）』『[[ウィリアム・テル (オペラ)|ウィリアム・テル]]』（の[[ウィリアム・テル序曲|序曲]]）の作曲家としてその名をとどめるだけの期間が長く続いた。特に上演や全曲録音はもっぱら『セビリアの理髪師』に集中したため、オペラ作家としては一発屋に近いイメージでとらえられがちだった(しかも『セビリアの理髪師』は、76歳まで生きた彼の24歳の作品である)。しかし、ペーザロのロッシーニ財団が1960年代終わりから出版を開始した（現在も出版が続けられている）クリティカル・エディションによるロッシーニ全集の出版などをきっかけに、1970年代になるとロッシーニのオペラが再評価されるようになった。[[リコルディ]]社から校訂版楽譜が次々と出版されるようになり、それと並行して[[クラウディオ・アバド]]が[[ベルリン]]で『[[ランスへの旅]]』を約150年ぶりに再上演し、以後ヨーロッパにおいてアバドなどの音楽家を中心にロッシーニ・オペラが精力的に紹介されるようになり、1980年代以降その他の作品も見直され、上演される機会が増えた。また、クリティカル・エディションの刊行により、長年受け継がれてきた伝統的な歌唱法や、旧版に記されていた間違いなども改めて見直され、よりロッシーニの楽譜に忠実な演奏が試みられるようになった。この再評価の動きを「ロッシーニ・ルネッサンス」という。現在では『[[ランスへの旅]]』、『[[タンクレーディ (ロッシーニ)|タンクレーディ]]』、『[[湖上の美人]]』をはじめ、ロッシーニの主要オペラがほぼ再演されるようになっている。のみならず、かなりマイナーな作品の蘇演も延々と続いており、作品数が多いだけに、その活況はプッチーニやヴェルディに迫らんばかりの勢いを呈している。ペーザロの[[ロッシーニ・オペラ・フェスティバル]]における蘇演、ロッシーニ研究家で指揮者の[[アルベルト・ゼッダ]]の功績も大きい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==主な作品と作曲年==&lt;br /&gt;
{{作品一覧|ロッシーニの楽曲一覧}}&lt;br /&gt;
===オペラ===&lt;br /&gt;
*デメトリオとポリービオ Demetrio e Polibio 1808年 (初演 1812年 ローマ)&lt;br /&gt;
*結婚手形 La cambiale di matrimonio 1810年 ヴェネツィア&lt;br /&gt;
*ひどい誤解 L&#039;equivoco stravagante 1811年 ボローニャ&lt;br /&gt;
*幸せな間違い L&#039;inganno felice 1812年 ヴェネツィア&lt;br /&gt;
*バビロニアのキュロス Ciro in Babilonia 1812年 フェラーラ　&lt;br /&gt;
*[[絹のはしご]] La scala di seta 1812年 ヴェネツィア&lt;br /&gt;
*[[試金石 (ロッシーニ)|試金石]]  La pietra di paragone 1812年 ミラノ&lt;br /&gt;
*成り行き泥棒 L&#039;occadione fa il ladro 1812年 ヴェネツィア　&lt;br /&gt;
*[[ブルスキーノ氏]] Il Signor Bruschino 1813年 ヴェネツィア&lt;br /&gt;
*[[タンクレーディ (ロッシーニ)|タンクレーディ]] [[:it:Tancredi]] 1813年 ヴェネツィア&lt;br /&gt;
*[[アルジェのイタリア女]] [[:it:L&#039;italiana in Algeri]] 1813年 ヴェネツィア&lt;br /&gt;
*パルミーラのアウレリアーノ　Aureliano in Parmira 1813年 ミラノ&lt;br /&gt;
*[[イタリアのトルコ人]] [[:it:Il Turco in Italia]] 1814年 ミラノ&lt;br /&gt;
*シジスモンド Sigismondo 1814年 ヴェネツィア&lt;br /&gt;
*[[イングランドの女王エリザベッタ]]Elisabetta, Regina d&#039;Inghirtrra 1815年 ナポリ&lt;br /&gt;
*トルヴァルドとドルリスカ Torvaldo e Dorlisca 1815年 ローマ&lt;br /&gt;
*[[セビリアの理髪師]](アルマヴィーヴァ)　[[:it:Il barbiere di Siviglia (Rossini)]]（Almaviva) 1816年 ローマ&lt;br /&gt;
*新聞 La Gazetta　1816年 ナポリ&lt;br /&gt;
*オテッロ またはヴェネツィアのムーア人 Otello 1816年 ナポリ&lt;br /&gt;
*[[チェネレントラ]]または善意の勝利 Il trionfo della bonta&#039; ossia [[:it:La Cenerentola]]1817年 ローマ&lt;br /&gt;
*[[泥棒かささぎ]]　La gazza ladra 1817年 ミラノ&lt;br /&gt;
*[[アルミーダ (ロッシーニ)|アルミーダ]] Armida 1817年 ナポリ&lt;br /&gt;
*ブルゴーニュのアデライーデ 1817年 ローマ&lt;br /&gt;
*エジプトのモーゼ Mose in Egitto 1818年 ナポリ&lt;br /&gt;
*アディーナ Adina 1818年 （初演 1826年 リスボン)&lt;br /&gt;
*リッチャルドとゾライーデ Ricciardo e Zoraide 1819年 ナポリ&lt;br /&gt;
*エルミオーネ 1819年 Ermione ナポリ&lt;br /&gt;
*エドゥアルドとクリスティーナ Edualdo e Cristina 1819年 ヴェネツィア&lt;br /&gt;
*[[湖上の美人]] La donna del lago 1819年 ナポリ&lt;br /&gt;
*ビアンカとファッリエーロ Bianca e Falliero 1819年 ミラノ&lt;br /&gt;
*マオメット2世 Maometto secondo 1820年 ナポリ&lt;br /&gt;
*[[マティルデ・ディ・シャブラン]] Matilde di Shabran 1821年 ローマ、ナポリ（改討版）&lt;br /&gt;
*[[ゼルミーラ]] 1822年 Zermira ナポリ&lt;br /&gt;
*[[セミラーミデ]] [[:it:Semiramide]] 1823年 ヴェネツィア&lt;br /&gt;
*[[ランスへの旅、または黄金の百合咲く宿]] Il viaggio a Reims 1825年 パリ [[シャルル10世]]の戴冠式のためのカンタータ&lt;br /&gt;
*[[コリントの包囲]] Le siege de Corinthe 1826年 パリ （『マホメット2世』の改作）&lt;br /&gt;
*モーゼとファラオ Moise et pharaon 1827年 パリ 　(『エジプトのモーゼ』の改作)&lt;br /&gt;
*[[オリー伯爵]] Le Comte Ory 1828年 パリ （『ランスへの旅』から多くを流用）&lt;br /&gt;
*[[ウィリアム・テル (オペラ)|ギヨーム・テル（ウィリアム・テル）]] 1829年 パリ　Guillaume Tell&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===管弦楽曲===&lt;br /&gt;
*シンフォニア　変ホ長調&lt;br /&gt;
*シンフォニア　ニ長調&lt;br /&gt;
*イタリアの戴冠式&lt;br /&gt;
*クラリネットと小管弦楽のための変奏曲　ヘ長調&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===宗教曲===&lt;br /&gt;
*グローリア・ミサ(Messa di Gloria)、1820年&lt;br /&gt;
*[[ミサ・ソレムニス|小ミサ・ソレムニス]](Petite Messe Solennelle)、1863年&lt;br /&gt;
*[[スターバト・マーテル]]、1842年&lt;br /&gt;
*タントゥム・エルゴ、1847年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===歌曲===&lt;br /&gt;
*音楽の夜会&lt;br /&gt;
*ヴェネツィアの競漕&lt;br /&gt;
*ラ・ダンツァ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===器楽曲===&lt;br /&gt;
*[[弦楽のためのソナタ (ロッシーニ)|弦楽のためのソナタ]]（ヴァイオリン2、チェロ、コントラバスのための・全6曲）、1804年…他者による弦楽四重奏曲、管楽四重奏曲版（共に第3番を除く）あり。&lt;br /&gt;
*[[チェロとコントラバスのための二重奏曲 (ロッシーニ)|チェロとコントラバスのための二重奏曲]]、1824年&lt;br /&gt;
*「涙―主題と変奏」（チェロとピアノのための）、作曲年代不明&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===その他の作品===&lt;br /&gt;
*歓喜&lt;br /&gt;
*主題&lt;br /&gt;
*Brindisi&lt;br /&gt;
*劇付随音楽　コロノスのオイディプス&lt;br /&gt;
*狩での出会い（ファンファーレ）&lt;br /&gt;
*Giunone（1822年以前に作曲？）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===由来の定かでない作品===&lt;br /&gt;
*2匹の猫の愉快な歌（偽作）&lt;br /&gt;
*交響曲（作曲年代不明）&lt;br /&gt;
*歌劇 イタリアの王ウーゴ（未完、1824年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連する人物==&lt;br /&gt;
*[[ニコロ・パガニーニ]]&lt;br /&gt;
*[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェン]]&lt;br /&gt;
*[[フレデリック・ショパン]]&lt;br /&gt;
*[[ジョルジュ・サンド]]&lt;br /&gt;
*[[スタンダール]]　『ロッシーニ伝』（山辺雅彦訳、みすず書房、1992年）がある。&lt;br /&gt;
*[[アルベルト・ゼッダ]]&lt;br /&gt;
*[[オノレ・ド・バルザック]]（1830年に交友を結ぶ。1835年に書いた『夫婦財産契約（&#039;&#039;Le Contrat de mariage&#039;&#039;）』を、1842年にロッシーニに献呈している。その当時、ロッシーニは後に結婚する[[オランプ・ペリシエ]]を愛人にしていた。彼女はバルザックの元愛人でもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
{{commons|Gioacchino Rossini}}&lt;br /&gt;
*[http://societarossiniana.jp/ 日本ロッシーニ協会]&lt;br /&gt;
*[http://www.fondazionerossini.org/ Fondazione G.Rossini ロッシーニ財団、イタリア、ペーザロ]&lt;br /&gt;
*[http://www.rossinioperafestival.it/ Rossini Opera Festival ロッシーニ・オペラ・フェスティヴァル、イタリア、ペーザロ]&lt;br /&gt;
*[http://www.rossinigesellschaft.de/ Deutsche Rossini gesellschaft ドイツ・ロッシーニ協会、ドイツ]&lt;br /&gt;
*[http://rossini.visioservices.de/ Rossini in Wildbad Belcanto Opera Festival、ドイツ、ヴィルトバート]&lt;br /&gt;
* {{IMSLP|id=Rossini%2C_Gioacchino|cname=ジョアキーノ・ロッシーニ}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ろつしに しよあきの}}&lt;br /&gt;
[[Category:イタリアの作曲家]]&lt;br /&gt;
[[Category:ロマン派の作曲家]]&lt;br /&gt;
[[Category:オペラ作曲家]]&lt;br /&gt;
[[Category:ペーザロ出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:レジオンドヌール勲章受章者]]&lt;br /&gt;
[[Category:1792年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1868年没]]&lt;br /&gt;
{{Link FA|hu}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.231.47.46</name></author>
	</entry>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E9%AD%94%E3%81%AE%E5%B1%B1&amp;diff=56384</id>
		<title>魔の山</title>
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		<updated>2014-07-08T13:39:15Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.231.47.46: /* 映画化 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[File:1924 Der Zauberberg (2).jpg|thumb|『魔の山』]]&lt;br /&gt;
[[画像:Luftbild Davos.jpg|right|thumb|200px|空から見た[[ダボス]]の町。この小説の舞台になった場所]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『&#039;&#039;&#039;魔の山&#039;&#039;&#039;』（まのやま、&#039;&#039;Der Zauberberg&#039;&#039;）は、[[1924年]]に出版された[[トーマス・マン]]による長編小説。[[ドイツ]][[教養小説]]の伝統に則ったマンの代表作の一つである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
作品はハンス・カストルプ青年が、[[第一次世界大戦]]前に[[スイス]]の[[アルプス山脈]]にある[[ダボス]]の[[サナトリウム]]に従兄弟を訪れることから始まる。そこで彼は[[結核]]にかかっていることがわかったため、その後7年にわたってそこに滞在することになる。その7年の滞在期間中に、彼は大戦前のヨーロッパの縮図を構成しているような様々な人物から学び成長していく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マンは1912年に、肺病を病んでいた夫人[[カタリーナ・マン|カタリーナ]]を見舞うためにダボスのサナトリウムに訪れており、その際に作品の着想を得ている。当初は短編となる予定であったが、その後構想が膨らみ、執筆に12年をかけた長編小説となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 映画化 ==&lt;br /&gt;
1982年に{{仮リンク|ハンス・W・ガイセンデルファー|de|Hans W. Geißendörfer}}監督により映画化されている。日本では劇場未公開だが『[[魔の山 (映画)|魔の山]]』の邦題で[[DVD]]が発売されている。日本では2時間半のものしか発売されていないが、ドイツなどでは5時間半（全3部）の完全版DVDも発売されている。&lt;br /&gt;
{{see|de:Der Zauberberg (1982)}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 日本語訳 ==&lt;br /&gt;
*「魔の山」（上下、[[高橋義孝]]訳、[[新潮文庫]]、初版1969年、改版2005年） &lt;br /&gt;
*「魔の山」（上下、[[関泰祐]]・[[望月市恵]]訳、[[岩波文庫]]、改版1988年） &lt;br /&gt;
現在はこれらが入手しやすい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[フリーメイソン]]&lt;br /&gt;
*[[イエズス会]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{ウィキポータルリンク|文学}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:まのやま}}&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツの小説]]&lt;br /&gt;
[[Category:1924年の小説]]&lt;br /&gt;
[[Category:スイスを舞台とした作品]]&lt;br /&gt;
[[Category:医療機関を舞台とした小説]]&lt;br /&gt;
[[Category:トーマス・マン]]&lt;br /&gt;
{{lit-stub}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Link FA|es}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Link FA|de}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.231.47.46</name></author>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E3%83%81%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%B9&amp;diff=76399</id>
		<title>チキンライス</title>
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		<updated>2014-07-04T15:14:22Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.231.47.46: /* 類似した料理 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Otheruses|&#039;&#039;&#039;日本の料理&#039;&#039;&#039;のチキンライス|&#039;&#039;&#039;浜田雅功と槇原敬之の楽曲&#039;&#039;&#039;のチキンライス|チキンライス (曲)}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;チキンライス&#039;&#039;&#039;とは、細切れの[[鶏肉]]を混ぜた[[飯|米飯]]を[[トマトケチャップ]]で味付けした、[[日本]]の[[チャーハン|焼き飯]][[料理]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 調理 ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:Foodsample2.jpg|thumb|[[お子様ランチ]]における[[チキンライス]]]]&lt;br /&gt;
チキンライスは、日本発祥の[[洋食]]ともされており、味付けにはほとんどの場合「トマトケチャップ」が用いられる。主な具材としては[[鶏肉]]、[[タマネギ|玉葱]]、[[マッシュルーム]]、[[人参]]、[[グリーンピース]]、[[トウモロコシ|コーン]]などが挙げられ、これらを[[みじん切り]]、あるいは小さな[[賽の目切り]]にして、[[米飯]]とともに炒めた料理である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
基本的な作り方は[[フライパン]]に油をひき、鶏肉を入れて色が変わるまで炒め、その他の具を入れて、しばらくしたら炊いた米の飯を入れる。[[塩]]、[[コショウ|こしょう]]などで味付けし、最後にあらかじめ炒めて水分を飛ばしたトマトケチャップを加えて炒める方法であるが、他の調理法もある（後述）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
名門洋食店として知られる、東京の[[資生堂パーラー]]のチキンライスはトマトケチャップを使用せず、鶏肉と玉葱、マッシュルームを[[トマトソース]]で煮込んだものを米飯と炒め合わせてつくる&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|url = http://parlour.shiseido.co.jp/restaurants/traditionalmenu/chickenrice.html|title = チキンライス│伝統的メニュー|publisher = [[資生堂パーラー]]|accessdate = 2013-02-27}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
油で炒めずに炊き込む場合もあり、炊飯器で調理される事もある。また、具材も多様化しており、鶏肉ではなく、[[ハム]]や[[ベーコン]]を具材とした料理も多くみられる。鶏肉が具材に含まれない場合はケチャップライスと呼ぶこともある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[チャーハン]]と同じく、[[お子様ランチ]]に盛られることが多い。最も典型的なイメージの一つとして、[[山]]形に盛られたチキンライスの上に小さな飾りの[[旗]]を立てる、という盛りつけがある。が、一般客向けのきわめて普通の盛り方は、[[紡錘形]]に纏められた形である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらをそのままを食べるのではなく、[[溶き卵]]を薄く焼いたもので包んだ「[[オムライス]]」とすることも多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 類似した料理 ==&lt;br /&gt;
* [[海南鶏飯]] - マレーシア・シンガポールの名物料理。日本では海南チキンライスとも呼ばれる。&lt;br /&gt;
* [[鶏飯]]（けいはん、けーふぁん） - [[沖縄県|沖縄]]および[[奄美諸島]]の鶏肉を用いた飯料理。&lt;br /&gt;
* [[アロス・コン・ポーヨ]] - [[スペイン]]および[[ラテンアメリカ]]の、鶏肉を用いた飯料理。&lt;br /&gt;
* [[ジャンバラヤ]] - [[ケイジャン]]料理の一つ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* [[小菅桂子]]『チキンライスの日本史』昭和女子大学近代文化研究所、2005年。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[チャーハン]]&lt;br /&gt;
* [[ピラフ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ちきんらいす}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の鶏料理]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の米料理]]&lt;br /&gt;
[[Category:チャーハン]]&lt;br /&gt;
[[Category:洋食]]&lt;br /&gt;
[[Category:鶏料理]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本が発祥の洋風料理および洋風菓子]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.231.47.46</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E3%82%AE%E3%83%A5%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%82%A2%E3%82%BD%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%89&amp;diff=108063</id>
		<title>ギュスターヴ・エミール・ボアソナード</title>
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		<updated>2014-06-26T16:47:57Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.231.47.46: /* 外部リンク */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[画像:Gustave_Boissonade.jpg|frame|ボアソナード (1825-1910)]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;ギュスターヴ・エミール・ボアソナード・ド・フォンタラビー&#039;&#039;&#039;（Gustave Émile Boissonade de Fontarabie、[[1825年]][[6月7日]] - [[1910年]][[6月27日]]）は[[フランス]]の[[法学者]]、[[教育者]]。日本の[[太政官]]法制局御用掛、[[元老院]]御用掛、[[外務省]]事務顧問、[[国際法]]顧問、[[法律取調委員会]]委員等を歴任。[[勲一等旭日大綬章]]受章。呼称については、&#039;&#039;&#039;ボワソナード&#039;&#039;&#039;、古くはボアソナド、ボワソナドとも表記される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物 ==&lt;br /&gt;
[[ヴァル＝ド＝マルヌ県]][[:w:Vincennes|ヴァンサンヌ]]出身。父[[w:Jean François Boissonade de Fontarabie|ジャン・フランソワ・ボアソナード]]は[[パリ大学]][[教授]]で著名な古典学者（ギリシャ語の研究）。[[普仏戦争]]ではパリに篭城した。&lt;br /&gt;
[[明治]]初期に来日した[[お雇い外国人]]の一人。[[幕末]]に締結された[[不平等条約]]による[[治外法権]]に代表される不平等条項の撤廃のため、日本の国内法の整備に大きな貢献を果たし、「&#039;&#039;&#039;日本近代法の父&#039;&#039;&#039;」と呼ばれている。[[司法省法学校]]のほか、[[東京法学校]]（現[[法政大学]]）、[[明治法律学校]]（現[[明治大学]]）、[[東京大学 (1877-1886)|旧制東京大学]]でも教壇に立ち、東京法学校では教頭も務めた。これらの学校は日本法学の草分けとなる人材を多く輩出した。行政・外交分野でも日本政府の顧問として幅広く活躍し、[[旭日重光章]]（外国人として最初の叙勲&amp;lt;ref&amp;gt;アメリカ人の[[チャールズ・ルジャンドル|ル・ジャンドル]]（リセンドル）と同時受章。→[[勲章 (日本)#歴史|日本の勲章の歴史]]&amp;lt;/ref&amp;gt;）、[[勲一等瑞宝章]]、[[勲一等旭日大綬章]]と[[日本の勲章]]を三度受章した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 来歴 ==&lt;br /&gt;
*[[パリ大学]]・同大学院卒業後、同大学院助手を経て&lt;br /&gt;
*[[1864年]] [[グルノーブル大学]]法学部教授。&lt;br /&gt;
*[[1867年]] パリ大学法学部[[助教授]]。&lt;br /&gt;
*[[1873年]] パリ大学[[法学部]][[アグレガシオン|アグレジェ]]。&lt;br /&gt;
*[[1873年]] 来日。[[司法省法学校]]で教鞭をとる。&lt;br /&gt;
*[[1876年]] [[勲二等]][[旭日重光章]]。&lt;br /&gt;
*[[1883年]] [[東京法学校]]（現[[法政大学]]）の教頭に就任。&lt;br /&gt;
*[[1895年]] [[勲一等瑞宝章]]。帰仏。南仏[[コート・ダジュール]]に位置する保養地[[アンティーブ]]に居を構える。&lt;br /&gt;
*[[1909年]] [[勲一等旭日大綬章]]。&lt;br /&gt;
*[[1910年]] 当地にて死去。[[墓地]]もアンティーブに所在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 日本法の近代化 ==&lt;br /&gt;
明治政府の最大の課題は日本の近代化であった。そのためには[[不平等条約]]撤廃の前提として列強各国が日本に対して要求していた近代法典（民法、商法、民事訴訟法、刑法、刑事訴訟法の5法典。参照[[六法]]。）を成立させる必要があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そこで、日本政府はヨーロッパで評価の高い[[ナポレオン・ボナパルト]]の諸法典をモデルとすることを決め、有意の人物を捜していたが、ボアソナードがパリの[[川路利良]]ら司法省の西欧視察団（8人）に法律の講義をしていたのがきっかけで[[明治政府]]により法律顧問として招聘を受けた。彼は当初日本に渡航することに難色を示していたが、パリ大学の教授ポストが当分空かないことなどの事情から日本渡航を決意したといわれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ボアソナードは、来日後、法律顧問に就任し、司法省法学校において10年にわたってフランス法の講義をしたが、[[自然法]]原理主義者であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼は、単に外国法を丸写しするような法律の起草には反対して、日本の[[慣習法]]などを斟酌して日本の国情と近代的な法制との合致を重んじた態度で法典整備を進めるべきだと主張して、時の[[司法卿]][[大木喬任]]から信任を得て、日本の国内法の整備にあたる様になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 刑事法の起草 ===&lt;br /&gt;
法典の編纂はまず、[[刑法 (日本)|刑法典]]と[[治罪法]]典（現在の[[刑事訴訟法]]）から行われた。その理由は、江戸時代までは各藩が独自の[[法度]]を制定し、藩によって刑罰がまちまちであったためその統一が急務であったからである。明治期に入り明治政府が[[仮刑律]]（[[1868年]]）、[[律綱領]]（[[1870年]]）、[[改定律例]]（[[1873年]]）と立て続けに刑事法の制定を行ったのも刑罰権を新政府が独占するためである。しかし、その骨子は従前同様[[中国法]]を直接継受して作られたもので、これまでの日本における[[律令]]と大きな違いはなく、[[改定律令]]は西洋刑法思想を取り入れ律的[[罪刑法定主義]]ともいわれるほど個別の犯罪要件を個別的に明確に規定していたものの近代刑法と呼ぶに及ばないものであった。そこでボアソナードに母国フランスの刑法、治罪法を模範として刑法典ならびに治罪法典の起草が命じられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ボアソナードは近代刑法の大原則である『罪刑法定主義』を柱とした[[刑法]]、ならびに刑事手続の法を明文化した[[治罪法]]を[[フランス語]]で起草し、それを日本側が翻訳するという形で草案がまとめられた。起草された草案は[[元老院]]の審議を経て[[旧刑法]]（明治13年太政官布告第36号）、治罪法（明治13年太政官布告第37号）として明治13年（[[1880年]]）制定され、2年後施行されるに至った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治初期の刑事手続では、江戸時代の制度を受け継いだ[[拷問]]による自白強要が行われていたが、これを偶然目にした彼は自然法に反するとして直ぐさま明治政府に拷問廃止を訴えた（[[1875年]]）。お雇い外国人の中で拷問廃止を訴えたのはボアソナードだけだったと言われている（正式に拷問が廃止されたのは[[1879年]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 民事法の起草 ===&lt;br /&gt;
刑事法の編纂が決着すると明治12年（[[1879年]]）からボアソナードは民法典の起草に着手した。&lt;br /&gt;
しかし民法の起草は容易ではなかった。古来、日本にも[[民事裁判]]は存在していたが、民衆の権利はあくまでも支配者の権力の裏づけがあってはじめて実現されるものであったから民法典が編纂されることがなかった。当事者同士の話し合いで解決できなかった場合に『お上からの恩恵』として[[仲裁]]による解決が為されてきたから民法典が必要とされなかったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし不平等条約撤廃の交渉過程で列強各国が民法典の不在を[[治外法権]]の正当化理由としていたことから[[幕府]]に引き続き明治政府も民法典の編纂に着手するに至った。[[箕作麟祥]]らが[[ナポレオン法典]]を翻訳し民法の草案が幾度も作成されたが[[司法卿]][[大木喬任]]は直輸入的な草案を拒絶し、日本の実態に即した民法典の起草をボアソナードに命じるに至った（なお、家族法の部分については伝統や習慣の影響が極めて大きいため日本人の手によって起草）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
民法典の起草にあたって大木は全国の慣例や習俗を2度に渡って調査し『全国民事慣例類集』を編纂した（これは全国各地の習慣を各土地の長老や有力者から聞き取り調査したものをまとめたもので、幕末から明治期における日本の風俗や習慣を知る上で貴重な史料である）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして10年の歳月を経た明治23年（[[1890年]]）ようやく民法典の草案が完成し[[民法典論争|民法]]（明治23年法律第28号・[[旧民法]]）が公布された。しかし、ボアソナードが依拠していたフランスの[[自然法]]思想は伝統を重んじる日本の国情に合わないとする[[ナショナリズム]]論陣をはられたこともあって（いわゆる[[民法典論争]]）、ボアソナードが編纂した民法は「施行延期」となり、結局[[施行]]されることなく[[民法 (日本)|民法]]が改めて編纂されることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、ボアソナード自身が起草した草案は施行されることこそなかったが、民法典の出来る前には、一時事実上の法源として法曹・法学者に研究・利用された。当時の国家試験の主要科目でさえあったという&amp;lt;ref&amp;gt;杉山直治郎『洋才和魂の法学者・ボアソナード尽瘁半生の生涯』帝国大学新聞昭和11年11月26日号&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、物権や債権、財産権などの原理原則は現行民法に受け継がれ、全条文のうち少なくとも半分くらいはフランス法の影響があると主張する論者もいる（[[星野英一]]など）&amp;lt;ref&amp;gt;星野英一『日本民法典に与えたフランス法の影響（一）』日仏法学三号（1965年）&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;「独逸法と少なくも同じ位の程度に於ては仏蘭西民法又は其仏蘭西民法から出でたる所の他の法典及び之に関する学説、裁判例といふものが参考になって出来たものであります」（[[梅謙次郎]]「開会の辞及ひ仏国民法編纂の沿革」仏蘭西民法百年紀念論集3頁）、との起草者発言を直接の論拠とする。もっとも、これは多くの条文の起草において、旧民法やベルギー民法草案等を含む仏法系の民法を参照したことを意味するに過ぎない。梅謙次郎「法典二関スル話」『国家学会雑誌』12巻134号351頁（国家学会、1898年）。フランス民法典ではなくドイツ民法草案が最も主要な日本民法典の母法であることは明言されている。梅謙次郎「我新民法ト外国ノ民法」『法典質疑録』8号671頁以下、[[穂積陳重]]「獨逸民法論序」『穂積陳重遺文集第二冊』421頁、「獨逸法学の日本に及ぼせる影響」『穂積陳重遺文集第三冊』621頁、[[富井政章]]・民法原論第一巻総論序5頁（有斐閣書房）、[[仁井田益太郎]]・[[穂積重遠]]・[[平野義太郎]]「仁井田博士に民法典編纂事情を聴く座談会」[[法律時報]]10巻7号24頁、[[仁保亀松]]『国民教育法制通論』19頁（金港堂書籍、1904年）、仁保亀松講述『民法総則』5頁（京都法政学校、1904年）、[[松波仁一郎]]=仁保亀松=仁井田益太郎合著・穂積陳重=富井政章=梅謙次郎校閲『帝國民法正解』1巻8頁（[[日本法律学校]]、1896年、復刻版[[信山社]]、1997年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。そのため、現在においてもフランスに留学する民法学者が少なくない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランス法を基礎にした民事訴訟法も起草したが、結局のところ、[[ドイツ法]]を基礎にした[[ヘルマン・テッヒョー]]の民事訴訟法草案が採用され、こちらは日の目を見ることはなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 日本法学への貢献 ==&lt;br /&gt;
[[法学]]教育にも力を注いだが、民法起草者の一人で「日本民法典の父」といわれる[[梅謙次郎]]（法政大学初代総理）、明治法律学校（現明治大学）の創設者[[岸本辰雄]]らに多大な影響を与え、弟子の[[宮城浩蔵]]は東洋の[[ジョセフ・ルイス・エルザー・オルトラン|オルトラン]]と呼ばれた。ちなみにオルトランはボアソナードの師である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[司法省法学校]]で教鞭をとり、[[1881年]]5月に[[法政大学]]の前身である東京法学校の講師、[[1883年]]9月には東京法学校の教頭として着任。10年以上に渡り近代法学士養成と判事・免許代言士（現在の弁護士）養成に尽力し、法大の基礎を築いたため、法政大学の祖とされている&amp;lt;ref&amp;gt;法政大学市ヶ谷キャンパスのシンボルである[[ボアソナード・タワー]]や、ボアソナード記念現代法研究所の名称は彼の名前に由来するものである。&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、明治法律学校では刑法、治罪法、自然法、相続法の講義を行い（通訳は[[杉村虎一]]）、東京大学法学部では旧民法の草案について講義するなど、日本の法学教育に大きく貢献した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ボアソナードの講義について、[[加太邦憲]]は「以って自ずから秩序無く、時には横道に入り、遂には本道への戻り道を失することありて、到底初学の者には了解し難く」と述懐しており&amp;lt;ref&amp;gt;加太邦憲『自歴譜』岩波文庫&amp;lt;/ref&amp;gt;ボアソナード流の講義に慣れるまで苦労したようである。また、ボアソナードは講義をするにあたって法律書など一切携行してくることはなく、前日の講義の末尾を学生に尋ねその続きを講義するといった形で講義をしていたと加太は記している。ボアソナードに先立ち初の法律政府顧問としてフランス人弁護士[[ジョルジュ・ブスケ]] (Georges Hilaire Bousquet) がフランスから招かれフランス法の講義をしていたことについて加太が「大幸福」とその感想記していることからも、ボアソナードの講義は高度で且つ難解であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外交への貢献 ==&lt;br /&gt;
ボアソナードは、当時国際法にも通ずる数少ない人物であったため、[[台湾出兵]]後の北京での交渉に補佐として、日本側代表[[大久保利通]]に同行。条約締結の成功に貢献した。これを受け、[[瑞宝章]]授与。現在も[[法務省]]赤レンガ棟の資料室で一般公開されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 日中朝三国同盟の献策 ==&lt;br /&gt;
[[1882年]]（明治15年）、[[李氏朝鮮|朝鮮]]で[[壬午事変]]が起こった際、ボアソナードは外交顧問として軍乱勃発直後より何回も諮問を受けており、同年8月9日付の「朝鮮事件に付井上議官ボアソナード氏問答筆記」&amp;lt;ref&amp;gt;[[國學院大學]]日本文化研究所編『近代日本法制史料集』第8、所収。&amp;lt;/ref&amp;gt;では、日本にとって最も恐るべき隣国はロシアであると説き、日本、中国、朝鮮が提携するアジア主義をすすめた&amp;lt;ref&amp;gt;[[大久保泰甫]]「ボワソナードの『日中朝三国同盟』献策」[[岩波書店]]『図書』2010年11月号, pp.6-9&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 著書 ==&lt;br /&gt;
* 『仏国民法売買篇講義』[[堀田正忠]]訳、[[薩埵正邦]]編、博聞社、1883年&amp;lt;ref&amp;gt;ボアソナードの東京法学校での講義を堀田正忠が口訳、薩埵正邦が筆記・編集し、ボアソナードの許可を得て出版したもの。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連文献 ==&lt;br /&gt;
* 大久保泰甫『ボワソナアド-日本近代法の父』（岩波書店〈岩波新書〉、1977年）ISBN 978-4004200338&lt;br /&gt;
* [[法政大学]]イノベーション・マネジメント研究センター・洞口治夫編『大学教育のイノベーター 法政大学創立者・薩埵正邦と明治日本の産業社会』（書籍工房早山、2008年）ISBN 978-4886115102&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[法政大学]]&lt;br /&gt;
* [[ボアソナードタワー|ボアソナード・タワー]]&lt;br /&gt;
* [[法整備支援]]&lt;br /&gt;
* [[ジョルジュ・ビゴー]]　風刺画に多く登場するが、表側の業績よりも「倹約家（むしろ&#039;&#039;&#039;ケチ&#039;&#039;&#039;としての意味合い）」での登場が多い&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.hosei.ac.jp/hosei/campus/shisetsu/boissonade.html ボアソナード・タワー]（[[2000年]]竣工、法政大学市ヶ谷キャンパス内）&lt;br /&gt;
* [http://www.hosei.ac.jp/kyoiku_kenkyu/kenkyusho/gendai_hou.html ボアソナード記念現代法研究所]（[[1977年]]設立、同上）&lt;br /&gt;
* [http://www.hosei.ac.jp/gaiyo/daigaku_shi/museum/2012/120621.html ボアソナード博士胸像物語]&lt;br /&gt;
* [http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40022968&amp;amp;VOL_NUM=00034&amp;amp;KOMA=35&amp;amp;ITYPE=0 近代デジタルライブラリー 旧民法]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ほあそなあと きゆすたあう えみいる}}&lt;br /&gt;
[[Category:フランスの法学者]]&lt;br /&gt;
[[Category:19世紀の社会科学者]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の法典論争]]&lt;br /&gt;
[[Category:日仏関係]]&lt;br /&gt;
[[Category:明治時代のお雇い外国人]]&lt;br /&gt;
[[Category:外交顧問]]&lt;br /&gt;
[[Category:台湾出兵の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:法政大学の教員]]&lt;br /&gt;
[[Category:パリ大学の教員]]&lt;br /&gt;
[[Category:グルノーブル大学の教員]]&lt;br /&gt;
[[Category:東京学士会院の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本学士院客員]]&lt;br /&gt;
[[Category:1825年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1910年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.231.47.46</name></author>
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		<title>前田健 (タレント)</title>
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		<updated>2014-06-25T15:29:30Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.231.47.46: /* ドラマ */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Infobox お笑い芸人&lt;br /&gt;
| 名前          = 前田健&lt;br /&gt;
| 画像          = &lt;br /&gt;
| キャプション  = &lt;br /&gt;
| 本名          = 前田健&lt;br /&gt;
| ニックネーム  = まえけん&lt;br /&gt;
| 生年月日      = {{生年月日と年齢|1971|6|14}}&lt;br /&gt;
| 没年月日      = &lt;br /&gt;
| 出身地        = {{JPN}}・[[東京都]][[杉並区]]&lt;br /&gt;
| 血液型        = [[ABO式血液型|O型]]&lt;br /&gt;
| 身長          = 174cm&lt;br /&gt;
| 方言          = [[共通語]]&lt;br /&gt;
| 最終学歴      = [[東京都立農芸高等学校]]卒業&lt;br /&gt;
| 師匠          = &lt;br /&gt;
| 出身          = ブロードウェイダンスセンター&lt;br /&gt;
| コンビ名      = &lt;br /&gt;
| トリオ名      = &lt;br /&gt;
| グループ名    = &lt;br /&gt;
| 相方          = &lt;br /&gt;
| 芸風          = [[ものまね]]&lt;br /&gt;
| 立ち位置      = &lt;br /&gt;
| 事務所        = [[ケイダッシュステージ]]&lt;br /&gt;
| 活動時期      = [[1994年]] - &lt;br /&gt;
| 同期          = &lt;br /&gt;
| 現在の代表番組= &lt;br /&gt;
| 過去の代表番組= &lt;br /&gt;
| 作品          = &lt;br /&gt;
| 他の活動      = [[俳優]]　[[振付師]]　&lt;br /&gt;
| 配偶者        = 未婚&lt;br /&gt;
| 親族          = &lt;br /&gt;
| 弟子          = &lt;br /&gt;
| 公式サイト    = [http://ganchan.milkcafe.to/ 公式サイト]&lt;br /&gt;
| 受賞歴        =&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;前田 健&#039;&#039;&#039;（まえだ けん、[[1971年]][[6月14日]] - ）は、[[日本]]の[[お笑いタレント|お笑い芸人]]、[[ものまねタレント]]、[[俳優]]、[[振付師]]。愛称「&#039;&#039;&#039;まえけん&#039;&#039;&#039;」。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[東京都]][[杉並区]]出身。[[ケイダッシュステージ]]所属。身長174cm。体重80kg（公称）、[[血液型]][[ABO式血液型|O型]]。[[東京都立農芸高等学校]][[卒業]]。[[ネプチューン (お笑いトリオ)|ネプチューン]]の[[原田泰造]]は同校の先輩にあたる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 来歴 ==&lt;br /&gt;
[[高校]]卒業後に渡米し、[[マンハッタン]]に4年間在住。そのため、英会話は流暢。&#039;&#039;&#039;ブロードウェイダンスセンター&#039;&#039;&#039;で3年10ヶ月間、[[ダンス]]の勉強と[[歌]]の個人レッスンを受ける。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1994年]]に日本に帰国後、[[タレント]]活動を開始して一人芝居も話題となる。『[[ものまねバトル]]』で[[渡辺真知子]]の[[物真似|歌まね]]から火が付き、[[女性]]のものまねでもキーを変えないシンガーをメインにしたものまねでブレイク。とりわけ[[松浦亜弥]]のものまねでは松浦本人からも似ていると認められて評判となった（松浦とは[[セガ]]の[[テレビゲーム]]ソフト『[[ぷよぷよフィーバー]]』のCMで共演したこともある）が、[[はるな愛]]が「&#039;&#039;&#039;エアあやや&#039;&#039;&#039;」でブレイクしてからは、松浦から冗談交じりに「&#039;&#039;&#039;まえけんがやる私は汚いから嫌だ&#039;&#039;&#039;」と言われる様になる。前田とはるなは後に週刊誌のグラビア上で「&#039;&#039;&#039;Wあやや&#039;&#039;&#039;」で共演したり、やはりグラビアで前田がカメラマン、はるながモデルという形で撮影された写真が掲載される等の繋がりがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2004年]][[10月]]、『[[完売劇場]]』（[[テレビ朝日]]）のレギュラーに抜擢された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2005年]][[8月]]、『[[まえけん♂トランス.pj]]』の名義にて、『[[恋のマイアヒ]]』、『チワワ』、[[MISA]]の『バンザイ』を[[トランス (音楽)|トランス]]バージョンにアレンジした1stシングル『恋のブチアゲ♂天国』をリリースし、[[オリコンチャート|オリコン]]初登場12位、その後ロングセールスを記録する。女子高生に変装しているため、[[ガレッジセール]]の[[ゴリ (お笑い芸人)|ゴリ]]扮する『[[ワンナイR&amp;amp;R]]』のマスコットキャラクター・[[ゴリエ]]と比較される事がしばしばあった。これを期にか女子高生以外の女装もし始め、テレビでの共演者を困惑させている。しかし、ヅラが取れてしまうと、若ハゲであると『[[クイズプレゼンバラエティー Qさま!!|Qさま!!]]』や『[[はねるのトびら]]』などで放送された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2005年]][[11月]]、恋愛指南本「前田健の恋キャラ診断」を発売すると共に、自身が[[同性愛|ゲイ]]であることを[[カミングアウト]]した。『[[くりぃむしちゅーのオールナイトニッポン]]』や『[[波田陽区の中までテキーラ!]]』などでは毎回ネタにされている。ちなみに、好きなタイプは[[竹山隆範|カンニング竹山]]、[[石田靖]]等であり、本気で愛する[[芸能人]]という質問に対し、「1位、[[高田延彦]]、2位、[[赤井英和]]、3位、カンニング竹山」と答えた（『[[晴れドキ]]』[[2007年]][[9月8日]]放送回にて）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2006年]]、[[テレビアニメ]]『[[デジモンセイバーズ]]』にて[[声優]]に初挑戦。[[Vジャンプ]]によると、アフレコ中も[[松浦亜弥]]の格好をしていた。さらに[[2009年]]放送の『[[フレッシュプリキュア!]]』でも準レギュラーとして出演している。そしてこの縁からか『フレッシュプリキュア!』から『[[スマイルプリキュア!]]』までの4作品のEDテーマのダンスの振り付けを担当している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
芸人、[[青木さやか]]とは旧知の友人。売れない頃は[[高円寺]]の行きつけの[[喫茶店]]で青木と何時間も喋っていたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2007年]][[4月3日]]に[[上野恩賜公園|上野公園]]水上音楽堂行われた[[キンモクセイ (バンド)|キンモクセイ]]のフリーライヴではゲストとして参加し、[[松田聖子]]の格好をして『チェリーブラッサム』を歌い踊り、約1000人の観客を驚かせた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の『[[ウチくる!?]]』に[[真島茂樹]]がゲストの回で、ゆかりのゲストとして登場した前田は、自身の[[性的指向]]と職業について、「仕事が[[オカマ]]でプライベートが[[ホモ]]」と語る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2010年]][[4月3日]]放送の『[[オールスター感謝祭]]』では総合優勝した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2010年[[10月2日]]深夜放送の『[[オードリーのオールナイトニッポン]]』にて、「穴を突かれた際の声は、男の声ではなく女の声が出る」とパーソナリティの若林は語り、同じパーソナリティーである、相方の春日を驚かせていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最近では俳優としての活動が多く、現代劇から時代劇まで幅広く出演している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 持ちネタ ==&lt;br /&gt;
=== ものまねレパートリー ===&lt;br /&gt;
* [[AI (歌手)|AI]]&lt;br /&gt;
* [[五輪真弓]]&lt;br /&gt;
* [[宇多田ヒカル]]&lt;br /&gt;
* [[荻野目洋子]]&lt;br /&gt;
* [[Crystal Kay]]&lt;br /&gt;
* [[倖田來未]]&lt;br /&gt;
* [[椎名林檎]]&lt;br /&gt;
* [[篠原涼子]]&lt;br /&gt;
* [[杉本彩]]&lt;br /&gt;
* [[スティーヴィー・ワンダー]]&lt;br /&gt;
* [[BEGIN (バンド)|BEGIN]]（[[比嘉栄昇]]）&lt;br /&gt;
* [[広瀬香美]]&lt;br /&gt;
* [[BoA]]&lt;br /&gt;
* [[ホイットニー・ヒューストン]]&lt;br /&gt;
* [[マイケル・ジャクソン]]&lt;br /&gt;
* [[槇原敬之]]&lt;br /&gt;
* [[松浦亜弥]]&lt;br /&gt;
* [[松田聖子]]&lt;br /&gt;
* [[松任谷由実]]&lt;br /&gt;
* [[Le Couple]]&lt;br /&gt;
* [[ロナウジーニョ]]&lt;br /&gt;
* [[渡辺真知子]]&lt;br /&gt;
* [[Perfume]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 一人芝居 ===&lt;br /&gt;
* 初級英語講座&lt;br /&gt;
* 中級英語講座&lt;br /&gt;
* 本音しか言わないホンネちゃんシリーズ&lt;br /&gt;
* 愛すべきモチダくんシリーズ&lt;br /&gt;
* しずかちゃん&lt;br /&gt;
* わかめちゃん&lt;br /&gt;
* 振り付け師 ピエール&lt;br /&gt;
* ぬくもりを売るお婆さん&lt;br /&gt;
* 板前しんじ&lt;br /&gt;
* 下町のクリーニング屋&lt;br /&gt;
* 人間観察コントシリーズ（『[[新世紀エヴァンゲリオン|エヴァ]]にはまる[[オタク]]女』など）etc･･･&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出演 ==&lt;br /&gt;
=== バラエティ ===&lt;br /&gt;
* [[爆笑オンエアバトル]]（[[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]）戦績1勝5敗 最高365KB&lt;br /&gt;
* [[ものまねバトル]]→[[ものまねグランプリ]]（[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]）&lt;br /&gt;
* [[MTM]]（[[RKB毎日放送]]制作・[[MBSテレビ|MBS毎日放送]]ネット）&lt;br /&gt;
* [[ポジTV]]（[[RKB毎日放送]]）&lt;br /&gt;
* [[ガチャガチャポン!]]（[[フジテレビジョン|フジテレビ]]）&lt;br /&gt;
* [[エンタの神様]]（日本テレビ）キャッチコピーは「桃色のなりきり芸人」&lt;br /&gt;
* [[青い空が好きっ!]]（[[山口朝日放送]]）&lt;br /&gt;
* [[恋愛百景]]（2008年9月15日、[[テレビ朝日]]）第94話ゲスト&lt;br /&gt;
* [[土曜スペシャル]]（2010年8月21日、[[テレビ東京]]）&lt;br /&gt;
* [[いい旅・夢気分]]（2010年9月1日、テレビ東京）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ドラマ ===&lt;br /&gt;
* [[リモート]] 第8話（2002年、日本テレビ） - 美濃輪マサミ&lt;br /&gt;
* [[奥さまA]]（2003年11月、[[名古屋テレビ放送|名古屋テレビ]]）&lt;br /&gt;
* [[X&#039;masなんて大嫌い]]（2004年12月、日本テレビ） - サラリーマン&lt;br /&gt;
* [[ギャルサー (テレビドラマ)|ギャルサー]]（2006年4月 - 6月、日本テレビ）&lt;br /&gt;
* [[リアルシスター]]（2007年2月、[[ミランカ]]） - 浜路屋弦之丞&lt;br /&gt;
* [[怨み屋本舗 (テレビドラマ)|怨み屋本舗]]シリーズ（[[テレビ東京]]） - レギュラー・十二月田猛臣&lt;br /&gt;
** 怨み屋本舗（2006年7月 - 9月）&lt;br /&gt;
** 怨み屋本舗スペシャル〜家族の闇 モンスター・ファミリー〜（2008年1月6日） &lt;br /&gt;
** 怨み屋本舗スペシャル〜マインドコントロールの罠（2009年1月7日） &lt;br /&gt;
** 怨み屋本舗 REBOOT（2009年7月 - 9月） &lt;br /&gt;
* [[おとり捜査官・北見志穂|おとり捜査官・北見志穂12]]（2007年8月4日、テレビ朝日） - 海老名正人&lt;br /&gt;
* [[ホタルノヒカリ (漫画)#テレビドラマ|ホタルノヒカリ]] 第7話（2007年8月22日、日本テレビ） - 嫌な店長&lt;br /&gt;
* [[受験の神様]] 第5話（2007年8月25日、日本テレビ）&lt;br /&gt;
* [[長い長い殺人]]（2007年11月、WOWOW） - 森元隆一&lt;br /&gt;
* [[薔薇のない花屋]] 第9話（2008年3月10日、フジテレビ）&lt;br /&gt;
* [[栞と紙魚子|栞と紙魚子の怪奇事件簿]]（2008年3月8日、日本テレビ） - ボリス&lt;br /&gt;
* [[キミ犯人じゃないよね?]] 第2話（2008年4月18日、テレビ朝日） - オカマ&lt;br /&gt;
* [[イケナイ足し算A＋B〜マゾ英会話〜]]（2008年8月、BSジャパン） - マゾ教師&lt;br /&gt;
* [[街占師 〜北白川晶子の事件占い〜]]（2008年9月10日、テレビ東京） - 三枝俊明&lt;br /&gt;
* [[時とき]]（2008年9月15日、TBS） - 園田博&lt;br /&gt;
* [[恋うたドラマSP|恋うたドラマSP 元気をだして]]（2008年10月7日、TBS） - モーリス山田&lt;br /&gt;
* [[メン☆ドル 〜イケメンアイドル〜]]（2008年11月14日、テレビ東京） - 羽鳥志愛&lt;br /&gt;
* [[Room Of King]]（2008年10月 - 11月、フジテレビ） - 堀田ノボル&lt;br /&gt;
* [[正しい王子のつくり方]]（2008年1月 - 3月、[[テレビ東京]]） - 仙川茂雄、御手洗聖子（二役）&lt;br /&gt;
* [[あんみつ姫|あんみつ姫2]]（2009年1月11日、フジテレビ） - 比留豚巴肉桂&lt;br /&gt;
* [[戦力外通告]]（2009年2月21日、WOWOW） - ハローワーク職員&lt;br /&gt;
* [[女タクシードライバーの事件日誌]]4（2009年3月9日、TBS）&lt;br /&gt;
* [[ママはニューハーフ]] 52話 - 56話（2009年6月、テレビ東京） - みゆき&lt;br /&gt;
* [[歌のおにいさん]]（2009年、テレビ朝日） - レギュラー・住吉一博&lt;br /&gt;
* [[月曜ゴールデン]]（[[TBSテレビ|TBS]]）&lt;br /&gt;
**[[警視庁南平班〜七人の刑事〜]]（2009年8月24日） - 富井健次刑事&lt;br /&gt;
**警視庁南平班〜七人の刑事〜2（2010年8月23日）&lt;br /&gt;
**警視庁南平班〜七人の刑事〜3（2011年5月16日）&lt;br /&gt;
**警視庁南平班〜七人の刑事〜4（2011年11月7日）&lt;br /&gt;
**警視庁南平班〜七人の刑事〜5（2012年7月2日）&lt;br /&gt;
**警視庁南平班〜七人の刑事〜6（2013年4月8日）&lt;br /&gt;
**警視庁南平班〜七人の刑事〜7（2014年6月2日）&lt;br /&gt;
* [[神児遊助のげんきのでる恋]]（[[BeeTV]]） - 悦子・マスター&lt;br /&gt;
* [[こちら葛飾区亀有公園前派出所#テレビドラマ|こちら葛飾区亀有公園前派出所]]（2009年9月19日、TBSテレビ） - バスジャック犯&lt;br /&gt;
* [[オトコマエ!|オトコマエ!2]] 第4 - 5回「里山の決戦」（2009年9-10月、[[日本放送協会|NHK]]） - 神酒蔵&lt;br /&gt;
* [[偉人の来る部屋]] 第9回（2009年11月30日、[[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]]） - 藤原道長&lt;br /&gt;
* [[裁判長!ここは懲役4年でどうすか#テレビドラマ|傍聴マニア09〜裁判長!ここは懲役4年でどうすか〜]] 第9話（2009年12月17日、[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]） - 神山&lt;br /&gt;
* [[水戸黄門 (パナソニック ドラマシアター)|水戸黄門]][[水戸黄門 (第31-38部)|第40部]] 第20話「見たか江戸っ子の心意気・江戸」（2009年12月21日、TBS） - 留吉&lt;br /&gt;
* ドラマスペシャル [[凍える牙|女刑事音道貴子・凍える牙]]（2010年1月30日、テレビ朝日） - ユメカ&lt;br /&gt;
* [[木曜時代劇 (NHK)|土曜時代劇]] [[鎌倉河岸捕物控|まっつぐ〜鎌倉河岸捕物控〜]]（2010年4月 - 、[[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]） - レギュラー・下駄貫&lt;br /&gt;
* [[大魔神カノン]]（2010年、テレビ東京） - タメキチ&lt;br /&gt;
* [[娼婦と淑女]] 44話（2010年6月3日、フジテレビ） - 娼館の客&lt;br /&gt;
* [[土曜ワイド劇場]] [[東京駅お忘れ物預り所]]（2010年7月3日 - 、テレビ朝日） - レギュラー・北口幸夫&lt;br /&gt;
* [[URAKARA]] 第10話（2011年3月25日、テレビ東京） - 上杉努&lt;br /&gt;
* [[NHK大河ドラマ]] [[江〜姫たちの戦国〜]]（2011年、NHK総合） - 於義丸 → 羽柴秀康 → 豊臣秀康 → [[結城秀康]]&lt;br /&gt;
* [[ドラマ10]] [[ラストマネー -愛の値段-]] 第3話（2011年9月27日、NHK総合） - 磯貝芳雄&lt;br /&gt;
* [[鍵のかかった部屋 (テレビドラマ)|鍵のかかった部屋]] 第1話（2012年4月16日、フジテレビ） - 川崎&lt;br /&gt;
* [[レジデント〜5人の研修医]] 第4話（2012年11月8日、TBS） - ツルコ&lt;br /&gt;
* [[放課後グルーヴ]] 第3話（2013年5月6日、TBS） - 森剛&lt;br /&gt;
* [[ダンダリン一〇一#テレビドラマ|ダンダリン 労働基準監督官]] 第6話（2013年11月6日、日本テレビ） - 北川&lt;br /&gt;
* [[水曜ミステリー9]] [[信州山岳刑事 道原伝吉|信州山岳刑事 道原伝吉2]]（2014年5月28日、テレビ東京） - 牛山耕二郎&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== テレビアニメ ===&lt;br /&gt;
* [[デジモンセイバーズ]]（2006年 - 2007年、フジテレビ） - [[ゴツモン]]役&lt;br /&gt;
* [[フレッシュプリキュア!]]（2009年 - 2010年、テレビ朝日） - カオルちゃん役(エンディングテーマの振り付けも担当)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== CM ===&lt;br /&gt;
* [[サントリー]]『ビタミンウォーター』（2007年）&lt;br /&gt;
* TSUCHZAKI BC（[[パチンコ]]店）『ハッピーキュートな気分で、楽しくあそぼ。』篇（秋田ローカル、2007年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 映画 ===&lt;br /&gt;
* [[AXION]]（2008年3月29日公開） - 前川&lt;br /&gt;
* [[長い長い殺人]]（2008年5月31日公開） - 森元隆一&lt;br /&gt;
* [[夏休みのような1ヶ月]]（2008年11月29日公開） - バーテンダー&lt;br /&gt;
* [[小森生活向上クラブ]]（2008年5月31日公開） - 辻&lt;br /&gt;
* [[ラーメンガール]]（2009年1月17日公開） - ハルミ&lt;br /&gt;
* [[20世紀少年 (映画)|20世紀少年 第2章 最後の希望]]（2009年1月31日公開） - マライア&lt;br /&gt;
* [[昴 (漫画)#映画|昴-スバル-]]（2009年3月20日公開） - サダ&lt;br /&gt;
* [[細菌列島]]（2009年4月4日公開） - 室田&lt;br /&gt;
* [[火天の城]]（2009年9月12日公開） - 留吉&lt;br /&gt;
* [[今日からヒットマン]]（2009年9月26日公開） - 神尾&lt;br /&gt;
* [[いぬばか]]（2009年11月21日公開） - 阿樹場博士&lt;br /&gt;
* [[完全なる飼育#第7作『完全なる飼育 メイド、for you』|完全なる飼育 メイド、for you]]（2010年1月30日公開） - 大竹&lt;br /&gt;
* [[ゼブラーマン -ゼブラシティの逆襲-]]（2010年5月1日公開） - 国会議員&lt;br /&gt;
* [[必死剣 鳥刺し]]（2010年7月10日公開） - 喜助&lt;br /&gt;
* [[裁判長!ここは懲役4年でどうすか#映画|裁判長!ここは懲役4年でどうすか]]（2010年11月6日公開） - 森裁判官&lt;br /&gt;
* [[ふるさとがえり]]（2011年公開）&lt;br /&gt;
* [[少女たちの羅針盤]]（2011年5月14日公開） - 芽咲吾朗&lt;br /&gt;
* [[ギャルバサラ -戦国時代は圏外です-]]（2011年11月26日公開）&lt;br /&gt;
* [[Miss Boys!|Miss Boys! 友情のゆくえ編]]（2012年1月21日公開） - ロミオ&lt;br /&gt;
* [[種まく旅人〜みのりの茶〜]]（2012年3月17日公開）&lt;br /&gt;
* [[LIAR GAME (テレビドラマ)#LIAR GAME -再生-|LIAR GAME -再生-]]（2012年3月3日公開） - 村田テツヤ&lt;br /&gt;
* [[愛と誠#角川・東映版|愛と誠]]（2012年6月16日公開） - 先生&lt;br /&gt;
* [[臨場#映画|臨場 劇場版]]（2012年6月30日公開） - 張り番の警官&lt;br /&gt;
*ばななとグローブとジンベイザメ（2013年2月2日公開、[[矢城潤一]]監督）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 劇場版アニメ ===&lt;br /&gt;
* [[フレッシュプリキュア!|映画 フレッシュプリキュア! おもちゃの国は秘密がいっぱい!?]]（2009年10月31日公開） - カオルちゃん&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 舞台 ===&lt;br /&gt;
* [[劇団♪ダンダンブエノ]] 七味公演 [[「ハイ!ミラクルズ」]]&lt;br /&gt;
* [[シンデレラストーリー]] [[鴻上尚史]]監督 [[山田和也]]演出&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== CD ===&lt;br /&gt;
; [[まえけん♂トランス.pj]]&lt;br /&gt;
:* [[恋のブチアゲ♂天国]]（2005年12月[[日本有線大賞]]有線話題賞・[[第47回日本レコード大賞]]特別賞）&lt;br /&gt;
:* [[東京チャランス]]（2006年8月）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 振付 ===&lt;br /&gt;
* 永久保存版-振付完全攻略フリフリSongBook（2007年 - ）フリーダム前田・フリル前田 役&lt;br /&gt;
; 楽曲振付&lt;br /&gt;
:* &#039;&#039;&#039;[[腐男塾]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:** [[男坂]]（2008年）&lt;br /&gt;
:** [[俺の空]]（2009年）&lt;br /&gt;
:** [[勝つんだ!]]（2009年）&lt;br /&gt;
:** [[ヲタキスト]]（2009年）&lt;br /&gt;
:* &#039;&#039;&#039;[[中野腐女子シスターズ]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:** Honey Bee（2010年）&lt;br /&gt;
:* &#039;&#039;&#039;[[AAA (音楽グループ)|AAA]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:** [[Champagne Gold]]（2006年）&lt;br /&gt;
:* &#039;&#039;&#039;[[藤木直人]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:** [[HEY!FRIENDS]]（2006年）&lt;br /&gt;
:* &#039;&#039;&#039;[[南野陽子]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:** [[はいからさんが通る]]（2006年）&lt;br /&gt;
:&lt;br /&gt;
; ドラマ&lt;br /&gt;
:* [[ギャルサー]]（2006年）パラパラ振付&lt;br /&gt;
:* [[受験の神様]]（2007年）創作ダンス振付&lt;br /&gt;
:&lt;br /&gt;
; 映画&lt;br /&gt;
:* [[あぜ道のダンディ]]（2011年）&lt;br /&gt;
:&lt;br /&gt;
; アニメ&lt;br /&gt;
:* [[フレッシュプリキュア!]]（2009年）エンディングアニメーション振付&lt;br /&gt;
:* [[ハートキャッチプリキュア!]]（2010年）エンディングアニメーション振付&lt;br /&gt;
:* [[スイートプリキュア♪]]（2011年）エンディングアニメーション振付&lt;br /&gt;
:* [[スマイルプリキュア!]]（2012年）エンディングアニメーション振付&lt;br /&gt;
:&lt;br /&gt;
; 舞台&lt;br /&gt;
:* 劇団ダンダンブエノ 七味公演「ハイ！ミラクルズ」（2008年）&lt;br /&gt;
:&lt;br /&gt;
; CM&lt;br /&gt;
:* 雪国もやし「雪国もやしの歌〜マンボ〜」PV（2006年）&lt;br /&gt;
:* [[飲み友]]（2009年）&lt;br /&gt;
:* クロネコヤマト引っ越しセンター（2009年）&lt;br /&gt;
:&lt;br /&gt;
; TV&lt;br /&gt;
:* [[OH!くん|OH!体操2]]（[[岡山放送|OHK岡山放送]],2013年4月）&amp;lt;ref&amp;gt;[[YouTube]]の[http://www.youtube.com/user/ohkunstaff?feature=watch OHKのOH!くん公式チャンネル(ユーザー名:ohkunstuff)]にて、[http://www.youtube.com/watch?v=SgG5s20t5z4 同曲の振り付け動画]が公開されている。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 監督・脚本 ==&lt;br /&gt;
=== 映画 ===&lt;br /&gt;
*[[それでも花は咲いていく]]（2011年）&lt;br /&gt;
== 著書 ==&lt;br /&gt;
* 前田健の恋キャラ診断（2005年、[[扶桑社]]）ISBN 4-594-05054-9&lt;br /&gt;
* それでも花は咲いていく（2009年3月17日、[[幻冬舎]]）ISBN 978-4-344-01647-7&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;div class=&amp;quot;references-small&amp;quot;&amp;gt;&amp;lt;references /&amp;gt;&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://ganchan.milkcafe.to/ 前田健オフィシャルサイト「まえけん日和」]&lt;br /&gt;
* [http://kdashstage.jp/profile/stage/maeda/　所属事務所による公式プロフィール]&lt;br /&gt;
* [http://yaplog.jp/maeken/ 前田健ブログ「観念論」]&lt;br /&gt;
* [http://gree.jp/maeda_ken/ 前田健 公式ブログ]&lt;br /&gt;
* [http://www.fujitv.co.jp/otn/b_hp/100000036.html 永久保存版-振付完全攻略　フリフリSongBook公式サイト]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{TBSオールスター感謝祭チャンピオン}}&lt;br /&gt;
{{ケイダッシュ}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:まえた けん}}&lt;br /&gt;
[[Category:お笑い芸人]]&lt;br /&gt;
[[category:ものまねタレント]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本出身のLGBTの音楽家]]&lt;br /&gt;
[[Category:ケイダッシュ系列所属者]]&lt;br /&gt;
[[Category:ゲイの人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:東京都出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1971年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.231.47.46</name></author>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E4%B8%8B%E6%A2%9D%E6%AD%A3%E5%B7%B3&amp;diff=84406</id>
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		<updated>2014-06-16T14:10:23Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.231.47.46: /* テレビドラマ */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ActorActress&lt;br /&gt;
| 芸名 = 下條 正巳&lt;br /&gt;
| ふりがな = しもじょう まさみ&lt;br /&gt;
| 画像ファイル = &lt;br /&gt;
| 画像サイズ = &lt;br /&gt;
| 画像コメント = &lt;br /&gt;
| 本名 = 下絛 正巳&lt;br /&gt;
| 別名 = &lt;br /&gt;
| 出生地 = [[日本統治時代の朝鮮|朝鮮]]、[[釜山広域市|釜山]]&lt;br /&gt;
| 死没地 = {{JPN}}・[[東京都]]&lt;br /&gt;
| 国籍 = &lt;br /&gt;
| 血液型 = &lt;br /&gt;
| 生年 = 1915&lt;br /&gt;
| 生月 = 8&lt;br /&gt;
| 生日 = 26&lt;br /&gt;
| 没年 = 2004&lt;br /&gt;
| 没月 = 7&lt;br /&gt;
| 没日 = 25&lt;br /&gt;
| 職業 = [[俳優]]&lt;br /&gt;
| ジャンル = 映画、舞台、テレビドラマ&lt;br /&gt;
| 活動期間 = [[1936年]] -[[2004年]]&lt;br /&gt;
| 活動内容 = &lt;br /&gt;
| 配偶者 = [[田上嘉子]]&lt;br /&gt;
| 家族 = [[下條アトム]](長男)&lt;br /&gt;
| 公式サイト = &lt;br /&gt;
| 主な作品 = 『[[白い巨塔]]』&amp;lt;br /&amp;gt;『[[男はつらいよ]]』シリーズ&amp;lt;!--皆が認める代表作品を入力--&amp;gt;&lt;br /&gt;
| アカデミー賞 = &lt;br /&gt;
| AFI賞 = &lt;br /&gt;
| 英国アカデミー賞 = &lt;br /&gt;
| セザール賞 = &lt;br /&gt;
| エミー賞 = &lt;br /&gt;
| ジェミニ賞 = &lt;br /&gt;
| ゴールデングローブ賞 = &lt;br /&gt;
| ゴールデンラズベリー賞 = &lt;br /&gt;
| ゴヤ賞 = &lt;br /&gt;
| グラミー賞 = &lt;br /&gt;
| ブルーリボン賞 = &lt;br /&gt;
| ローレンス・オリヴィエ賞 = &lt;br /&gt;
| 全米映画俳優組合賞 = &lt;br /&gt;
| トニー賞 = &lt;br /&gt;
| 日本アカデミー賞 = &lt;br /&gt;
| その他の賞 = &lt;br /&gt;
| 備考 = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;下條 正巳&#039;&#039;&#039;（しもじょう まさみ、[[1915年]][[8月26日]] - [[2004年]][[7月25日]]）は、[[日本]]の[[俳優]]。下&#039;&#039;&#039;條&#039;&#039;&#039; 正巳の表記も用いられたが、本名の正式な表記は&amp;lt;big&amp;gt;&#039;&#039;&#039;下絛&amp;lt;/big&amp;gt; 正巳&#039;&#039;&#039;であり、こちらの表記が用いられる場合がある&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.allcinema.net/prog/show_p.php?num_p=119534 allcinema]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==来歴・人物==&lt;br /&gt;
[[釜山広域市|釜山]]生まれ&amp;lt;ref name=&amp;quot;家の履歴書&amp;quot;&amp;gt;斉藤明美『家の履歴書 今は亡きあの人篇』[[キネマ旬報社]]、2011年、p97-98&amp;lt;/ref&amp;gt;。両親は[[長崎県]][[壱岐]]の出身&amp;lt;ref name=&amp;quot;家の履歴書&amp;quot;/&amp;gt;。釜山第一商業学校卒業。20歳まで釜山で育ち[[映画監督]]を志し上京&amp;lt;ref name=&amp;quot;家の履歴書&amp;quot;/&amp;gt;。[[1936年]]、[[村山知義]]らの[[新協劇団]]に入団し、『天祐丸』で初舞台を踏む。戦後、[[新協劇団|第2次新協劇団]]の創建に参加。[[1951年]]、[[劇団民藝]]に入団。多くの舞台に出演するが、[[1971年]]、民藝内部で対立が起こり、[[佐野浅夫]]、[[鈴木瑞穂]]、[[佐々木すみ江]]らと退団し、フリーとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[映画]]やテレビドラマにも多く出演しており、中でも「[[男はつらいよ]]」シリーズでは3代目「おいちゃん」（車竜造）を演じ、シリーズ第14作『寅次郎子守唄』から第48作『寅次郎紅の花』まで出演した。晩年は[[北野武]]監督の作品にも出演している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2004年]] すい臓がんで[[東京都|都内]]の自宅で死去。享年90。元女優の[[田上嘉子]]は妻、俳優の[[下條アトム]]は長男である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出演作品 ==&lt;br /&gt;
=== 映画 ===&lt;br /&gt;
* 結婚の生態（1941年、東宝） - 日東新聞記者&lt;br /&gt;
* [[暴力の街]]（1950年）&lt;br /&gt;
* [[真空地帯]]（1952年、新星映画）&lt;br /&gt;
* [[ひろしま (映画)|ひろしま]]（1953年、日教組）&lt;br /&gt;
* [[黒い潮]] （1954年、日活） - 政治部記者&lt;br /&gt;
* 泥だらけの青春（1954年、日活） - 北野&lt;br /&gt;
* [[狼 (映画)|狼]]（1955年、近代映画協会） - 踏切の警官&lt;br /&gt;
* こころ（1955年、日活） - 周旋屋&lt;br /&gt;
* 石合戦（1955年、民芸） - 千代松&lt;br /&gt;
* 銀心中（1956年、日活） - 町内会長&lt;br /&gt;
* 神阪四郎の犯罪（1956年、日活） - 山岸&lt;br /&gt;
* 病妻物語 あやに愛しき（1956年、日活） - 街を歩く夫婦&lt;br /&gt;
* 狙われた男（1956年、日活） - 大阪寿司の主人&lt;br /&gt;
* 哀愁の園（1957年、日活） - 丸十の高橋&lt;br /&gt;
* 危険な年齢（1957年、日活） - 新聞記者&lt;br /&gt;
* 十代の恋よさようなら（1958年、日活） - 小島刑事&lt;br /&gt;
* 血の岸壁（1958年、日活） - 県庁麻薬官&lt;br /&gt;
* その壁を砕け（1959年、日活） - 相生署の刑事&lt;br /&gt;
* 若い傾斜（1959年、日活） - 尾崎営業部長&lt;br /&gt;
* 世界を賭ける恋（1959年、日活） - 北沢教授&lt;br /&gt;
* 「黒い落葉」より 青春を吹き鳴らせ（1959年、日活） - 編集長山内&lt;br /&gt;
* 才女気質（1959年、日活） - 織常&lt;br /&gt;
* よせよ恋なんて（1960年、日活） - 赤沢社長&lt;br /&gt;
* 早射ち野郎（1961年、日活） - 真山医師&lt;br /&gt;
* 街に気球があがる時（1961年、日活） - 大学教授&lt;br /&gt;
* 銀座の恋の物語（1962年、日活） - 医者&lt;br /&gt;
* 証人の椅子（1965年、大映） - 安井副部長&lt;br /&gt;
* [[白い巨塔 (映画)|白い巨塔]] （1966年、大映） - 今津教授 &lt;br /&gt;
* [[黒部の太陽]]（1968年、日活） - 神田&lt;br /&gt;
* 孤島の太陽（1968年、日活） - 駐在&lt;br /&gt;
* 祇園祭（1968年、日本映画復興協会） - 山科甚兵衛&lt;br /&gt;
* [[野獣都市]] （1970年、東宝） - 教授&lt;br /&gt;
* 喜劇 ソレが男の生きる道（1970年、東宝） - 服部検事正&lt;br /&gt;
* [[男はつらいよ]]シリーズ（松竹） - 車竜造&lt;br /&gt;
** [[男はつらいよ 寅次郎子守唄]]（1974年）&lt;br /&gt;
** [[男はつらいよ 寅次郎相合い傘]]（1975年）&lt;br /&gt;
** [[男はつらいよ 葛飾立志篇]]（1975年）&lt;br /&gt;
** [[男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け]]（1976年）&lt;br /&gt;
** [[男はつらいよ 寅次郎純情詩集]]（1976年）&lt;br /&gt;
** [[男はつらいよ 寅次郎と殿様]]（1977年）&lt;br /&gt;
** [[男はつらいよ 寅次郎頑張れ!]]（1977年）&lt;br /&gt;
** [[男はつらいよ 寅次郎わが道をゆく]]（1978年）&lt;br /&gt;
** [[男はつらいよ 噂の寅次郎]]（1978年）&lt;br /&gt;
** [[男はつらいよ 翔んでる寅次郎]]（1979年）&lt;br /&gt;
** [[男はつらいよ 寅次郎春の夢]]（1979年）&lt;br /&gt;
** [[男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花]]（1980年）&lt;br /&gt;
** [[男はつらいよ 寅次郎かもめ歌]]（1980年）&lt;br /&gt;
** [[男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎]]（1981年）&lt;br /&gt;
** [[男はつらいよ 寅次郎紙風船]]（1981年）&lt;br /&gt;
** [[男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋]]（1982年）&lt;br /&gt;
** [[男はつらいよ 花も嵐も寅次郎]]（1982年）&lt;br /&gt;
** [[男はつらいよ 旅と女と寅次郎]]（1983年）&lt;br /&gt;
** [[男はつらいよ 口笛を吹く寅次郎]]（1983年）&lt;br /&gt;
** [[男はつらいよ 夜霧にむせぶ寅次郎]]（1984年）&lt;br /&gt;
** [[男はつらいよ 寅次郎真実一路]]（1984年）&lt;br /&gt;
** [[男はつらいよ 寅次郎恋愛塾]]（1985年）&lt;br /&gt;
** [[男はつらいよ 柴又より愛をこめて]]（1985年）&lt;br /&gt;
** [[男はつらいよ 幸福の青い鳥]]（1986年）&lt;br /&gt;
** [[男はつらいよ 知床慕情]]（1987年）&lt;br /&gt;
** [[男はつらいよ 寅次郎物語]]（1987年）&lt;br /&gt;
** [[男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日]]（1988年）&lt;br /&gt;
** [[男はつらいよ 寅次郎心の旅路]]（1989年）&lt;br /&gt;
** [[男はつらいよ ぼくの伯父さん]]（1989年）&lt;br /&gt;
** [[男はつらいよ 寅次郎の休日]]（1990年）&lt;br /&gt;
** [[男はつらいよ 寅次郎の告白]]（1991年）&lt;br /&gt;
** [[男はつらいよ 寅次郎の青春]]（1992年）&lt;br /&gt;
** [[男はつらいよ 寅次郎の縁談]]（1993年）&lt;br /&gt;
** [[男はつらいよ 拝啓車寅次郎様]]（1994年）&lt;br /&gt;
** [[男はつらいよ 寅次郎紅の花]]（1995年）&lt;br /&gt;
* [[同胞]] （1975年、松竹） - 小柳文治&lt;br /&gt;
* [[八つ墓村]] （1977年、松竹） - 工藤校長&lt;br /&gt;
* [[兎の眼]] （1979年、新星映画） - バク爺さん&lt;br /&gt;
* [[夜叉 (映画)|夜叉]] （1985年、東宝） - ミナミの組長 &lt;br /&gt;
* [[キネマの天地]] （1986年、松竹） - 島田庄吉 &lt;br /&gt;
* [[優駿 ORACION]] （1988年、フジテレビ） - 誠の主治医&lt;br /&gt;
* [[TUGUMI#映画|つぐみ]]（1990年、松竹） - 医師&lt;br /&gt;
* [[教祖誕生]] （1993年、ライトヴィジョン） - 初代教祖&lt;br /&gt;
* [[キッズ・リターン]] （1996年、オフィス北野） - ヤクザの親分&lt;br /&gt;
* [[虹をつかむ男]] （1996年、松竹） - 村長&lt;br /&gt;
* [[機関車先生]]（1997年、フジテレビ） - 佐古周一郎 ※声の出演&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== テレビドラマ ===&lt;br /&gt;
* 礫茂左衛門（1953年、NHK） - 月野夜仁右衛門&lt;br /&gt;
* 神隠しにされた馬（1953年、[[日本放送協会|NHK]]）&lt;br /&gt;
* 山荘太夫（1953年、[[日本テレビ放送網|NTV]]）&lt;br /&gt;
* 特ダネをにがすな!（1956年、[[TBSテレビ|KRT]]）&lt;br /&gt;
* [[私だけが知っている]]（NHK）&lt;br /&gt;
** 三等寝台事件（1957年） - 中神蝉三&lt;br /&gt;
** 屋根（1957年） - 加三郎&lt;br /&gt;
** 墜落（1958年）&lt;br /&gt;
** ノックアウト（1958年）&lt;br /&gt;
** 遺産（1958年）&lt;br /&gt;
** 窓（1959年）&lt;br /&gt;
** 一心さま（1959年）&lt;br /&gt;
* 民芸アワー / 旗岡巡査（1958年、NTV）&lt;br /&gt;
* [[怪人二十面相]]（1958年、NTV）&lt;br /&gt;
* [[東芝日曜劇場]]（TBS）&lt;br /&gt;
** 第66話「吉葉山物語」（1958年）&lt;br /&gt;
** 第88話「敏腕記者」（1958年）&lt;br /&gt;
** 第226話「露草のように」（1961年）&lt;br /&gt;
** 第260話「囮」（1961年）&lt;br /&gt;
** 第325話「河豚」（1963年）&lt;br /&gt;
** 第330話「霙」（1963年）&lt;br /&gt;
** 第337話「日蔭の家」（1963年）&lt;br /&gt;
** 第368話「ほくろの女」（1963年）&lt;br /&gt;
** 第405話「いくじなし」（1964年）&lt;br /&gt;
** 第453話「花火」（1965年）&lt;br /&gt;
** 第582話「娘のゆくえ」（1968年）&lt;br /&gt;
** 第627話「神さま生命をください」（1968年）&lt;br /&gt;
** 第657話「手のなかの日々」（1969年）&lt;br /&gt;
** 第660話「24才その8」（1969年）&lt;br /&gt;
** 第686話「海はあおいか」（1970年）&lt;br /&gt;
** 第696話「天国の父ちゃんこんにちはその12」（1970年） - 眼科医&lt;br /&gt;
** 第712話「酒場の扉」（1970年）&lt;br /&gt;
** 第721話「女と味噌汁その17」（1970年）&lt;br /&gt;
** 第722話「お別れよ」（1970年）&lt;br /&gt;
** 第727話「箱庭の雨」（1970年）&lt;br /&gt;
** 第829話「田園交響楽」（1972年）&lt;br /&gt;
** 第840話「春の恋」（1973年）&lt;br /&gt;
** 第857話「つゆのひぬま」（1973年）&lt;br /&gt;
** 第891話「春の別れ」（1974年）&lt;br /&gt;
** 第906話「恋人」（1974年） - 父親&lt;br /&gt;
** 第929話「ちゃん」（1974年）&lt;br /&gt;
** 第1026話「幸子の恋」（1976年）&lt;br /&gt;
** 第1030話「夏の名残り」（1976年）&lt;br /&gt;
** 第1239話「嫁さん」（1980年）&lt;br /&gt;
** 第1249話「愛の交差点」（1980年）&lt;br /&gt;
** 第1262話「おっきいちゃん」（1981年） - 勘治&lt;br /&gt;
** 第1290話「三代の嫁どの」（1981年）&lt;br /&gt;
** 第1312話「花は花」（1982年）&lt;br /&gt;
** 第1412話「ほうじ茶をいれてください」（1984年）&lt;br /&gt;
** 第1500話「花のこころ」（1985年）&lt;br /&gt;
** 第1646話「早朝電車」（1988年）&lt;br /&gt;
** 第1679話「忘れ物」（1989年）&lt;br /&gt;
** 第1681話「日曜日には麻雀を」（1989年）&lt;br /&gt;
* [[ダイヤル110番]] 第43話「サンダル」（1958年、NTV）&lt;br /&gt;
* お好み日曜座（NHK）&lt;br /&gt;
** はるあき（1958年）&lt;br /&gt;
** ちゃん（1959年）&lt;br /&gt;
** 最後の鎧武者（1959年）&lt;br /&gt;
** 命美わし（1959年）&lt;br /&gt;
** 鯨にのってきた男（1959年）&lt;br /&gt;
* ヤシカゴールデン劇場 / 研究室（1958年、NTV）&lt;br /&gt;
* ここに人あり（NHK）&lt;br /&gt;
** 第94話「バラを殺す」（1959年）&lt;br /&gt;
** 第100話「愛のテープレコーダー」（1959年）&lt;br /&gt;
** 第106話「晴れ間」（1959年）&lt;br /&gt;
** 第117話「黒い芽」（1959年）&lt;br /&gt;
** 第122話「チャルメラとくず籠」（1960年）&lt;br /&gt;
** 第159話「親ごころ」（1960年）&lt;br /&gt;
** 第168話「わが友よ」（1961年）&lt;br /&gt;
* 東芝家族劇場 第17話「娘の手紙」（1959年、NET）&lt;br /&gt;
* [[東芝土曜劇場]]（CX）&lt;br /&gt;
** 第15話「一生に一度」（1959年）&lt;br /&gt;
** 第81話「殺される男」（1960年）&lt;br /&gt;
** 第146話「検事の新妻」（1962年）&lt;br /&gt;
** 第157話「未亡記事」（1962年）&lt;br /&gt;
* ドキュメンタリードラマ・裁判 / 火の誘惑（1959年、KR）&lt;br /&gt;
* ミステリー影（[[MBSテレビ|MBS]]）&lt;br /&gt;
** 失われた恋の始末（1959年）&lt;br /&gt;
** 奇妙な花束（1959年）&lt;br /&gt;
** 不吉な奴（1959年）&lt;br /&gt;
** 死者の設計（1960年）&lt;br /&gt;
* [[サンヨーテレビ劇場]]（KR）&lt;br /&gt;
** ペツペツ教（1959）&lt;br /&gt;
** 先祖伝来（1960年）&lt;br /&gt;
* テレビ劇場（NHK）&lt;br /&gt;
** 海峡のうた（1959年）&lt;br /&gt;
** ささやまなものを（1961年）&lt;br /&gt;
* 慎太郎ミステリー・暗闇の声 / 猿の手（1959年、KR）&lt;br /&gt;
* 雑草の歌（KR）&lt;br /&gt;
** 第105話「つつましき麦」（1960年）&lt;br /&gt;
** 第106話「母の背にも春風を」（1960年）&lt;br /&gt;
** 第119話「社会復帰学校」（1960年）&lt;br /&gt;
** 第122話「日本脳炎」（1960年）&lt;br /&gt;
** 第125話「鏡の中の子ら」（1960年）&lt;br /&gt;
* 東レサンデーステージ（NTV）&lt;br /&gt;
** 第7話「最後の大本営発表」（1960年）&lt;br /&gt;
** 第45話「石庭」（1961年）&lt;br /&gt;
** 第56話「脚」（1961年）&lt;br /&gt;
* スリラー劇場・夜のプリズム 第87話「ツイテない男」（1960年、NTV）&lt;br /&gt;
* NECサンデー劇場（NET）&lt;br /&gt;
** 女殺油地獄（1960年）&lt;br /&gt;
** 晩菊（1960年）&lt;br /&gt;
** 太陽の子（1961年）&lt;br /&gt;
** 生きて愛して死んだ（1961年）&lt;br /&gt;
* [[夫婦百景 (テレビドラマ)|夫婦百景]]（NTV）&lt;br /&gt;
** 第152話「端境期の夫婦」（1961年）&lt;br /&gt;
** 第224話「女房怪談」（1962年）&lt;br /&gt;
** 第252話「実り夫婦」（1963年）&lt;br /&gt;
* テレビ指定席（NHK）&lt;br /&gt;
** 危険な関係（1961年）&lt;br /&gt;
** しあわせ（1961年）&lt;br /&gt;
** 輪禍（1962年）&lt;br /&gt;
** 歪みの結晶（1962年）&lt;br /&gt;
** 強情っ張り（1964年）&lt;br /&gt;
** 木（1965年）&lt;br /&gt;
* プリンススリラー劇場 / 悪魔はここに（1961年、CX）&lt;br /&gt;
* わが家はみどり（1961年、[[東海テレビ放送|THK]]）&lt;br /&gt;
* おかあさん（TBS）&lt;br /&gt;
** 第96話「ふたつ扇」（1961年）&lt;br /&gt;
** 第104話「雪の涯」（1961年）&lt;br /&gt;
** 第177話「ある偶像」（1963年）&lt;br /&gt;
** 第263話「港が見える丘」（1964年）&lt;br /&gt;
** 第394話「灯のある窓」（1967年）&lt;br /&gt;
* 女の園 第21話「幻想画」（1962年、NHK）&lt;br /&gt;
* 短い短い物語 第32話「思い出よ今晩は」（1962年、NET）&lt;br /&gt;
* 指名手配 第135・136話「兄弟」（1962年、NET）&lt;br /&gt;
* 結婚（1962年、[[フジテレビジョン|CX]]）&lt;br /&gt;
* 松本清張シリーズ・黒の組曲（NHK） &lt;br /&gt;
** 第10話「空白の意匠」（1962年） - 植木&lt;br /&gt;
** 第40話「影」（1963年） - 編集者江木&lt;br /&gt;
* 名作推理劇場 / 晩餐後の筋書き（1962年、NET）&lt;br /&gt;
* [[近鉄金曜劇場]]（TBS）&lt;br /&gt;
** やきもの師（1963年）&lt;br /&gt;
** 月夜の傘（1965年）&lt;br /&gt;
** 知恵の輪（1966年）&lt;br /&gt;
* [[シャープ火曜劇場]] 第81話「まごころ」（1963年、CX） - 有賀有三&lt;br /&gt;
*[[大河ドラマ]]（NHK）&lt;br /&gt;
** [[花の生涯 (NHK大河ドラマ)|花の生涯]]（1963年） - 三浦北庵 ※現存する映像が第1回しかないが、その中に出演している&lt;br /&gt;
** [[赤穂浪士 (NHK大河ドラマ)|赤穂浪士]]（1964年） - 三国屋市左衛門&lt;br /&gt;
** [[三姉妹]]（1966年） - 医者&lt;br /&gt;
** [[樅ノ木は残った (NHK大河ドラマ)|樅の木は残った]]（1970年） - 河野道円&lt;br /&gt;
** [[新・平家物語 (NHK大河ドラマ)|新・平家物語]]（1972年） - 藤原時信&lt;br /&gt;
** [[国盗り物語 (NHK大河ドラマ)|国盗り物語]]（1973年） - 長井藤左衛門利安&lt;br /&gt;
** [[元禄太平記]]（1975年） - 内田三郎右衛門&lt;br /&gt;
** [[花神 (NHK大河ドラマ)|花神]]（1977年） - 河合代右衛門&lt;br /&gt;
* [[判決 (テレビドラマ)|判決]] 第41話「やさしき妻の睡り」（1963年、NET）&lt;br /&gt;
* 創作劇場 / 天使とペテン師（1963年、NHK）&lt;br /&gt;
* [[七人の刑事]] 第115話「長い休暇」（1963年、TBS）&lt;br /&gt;
*[[ポーラテレビ小説]]（[[TBSテレビ|TBS]]）&lt;br /&gt;
** 花嫁はブロンド（1963年）&lt;br /&gt;
** [[安ベエの海]]（1969年 - 1970年） - 田口康明&lt;br /&gt;
** 薩摩おごじょ（1973年）&lt;br /&gt;
** わたしは燁（1974年 - 1975年） &lt;br /&gt;
* [[虹の設計]]（1964年 - 1966年、NHK）&lt;br /&gt;
* [[松本清張シリーズ (関西テレビ)|松本清張シリーズ]] / [[張込み#1966年版|張込み]]（1966年、[[関西テレビ放送|KTV]]） - 下岡 &lt;br /&gt;
* 剣 第39話「無分別は見越しの木登り」（1968年、NTV）&lt;br /&gt;
* [[元禄一代女]]（1968年、[[ABCテレビ|ABC]]）&lt;br /&gt;
* NHK劇場（NHK）&lt;br /&gt;
** 雨（1968年）&lt;br /&gt;
** 幻の魚の群（1969年） &lt;br /&gt;
* [[ゼロの焦点#1971年版|ゼロの焦点]]（1971年、NHK） - 鵜原宗太郎&lt;br /&gt;
* [[コートにかける青春]]（1971年、CX）&lt;br /&gt;
* [[小さな恋のものがたり]]（1972年、NTV）&lt;br /&gt;
* [[必殺仕掛人]] 第14話「掟を破った仕掛人」（1972年、ABC） - 井島玄斎&lt;br /&gt;
* 邪教霊験記（[[テレビ東京|12ch]]）&lt;br /&gt;
* [[真昼の月 (松本清張)|真昼の月]]（1972年、THK）&lt;br /&gt;
* [[特別機動捜査隊]] 第571話「歪んだ誘惑」（1972年、NET） &lt;br /&gt;
* [[太陽にほえろ!]]（NTV・東宝）&lt;br /&gt;
**第29話「奪われたマイホーム」（1973年） - 寺川&lt;br /&gt;
**第277話「身代り」（1977年） - 雨坪&lt;br /&gt;
**第332話「冬の訪問者」（1978年）- 石塚刑事（ゴリさん）の父&lt;br /&gt;
**第665話「殉職刑事たちよやすらかに」（1985年・スペシャル版）&lt;br /&gt;
* [[緊急指令10-4・10-10]]　第22話「少女と花と天国」（1972年、NET） - 和泉&lt;br /&gt;
* [[銀座わが町]]（1973年、NHK）&lt;br /&gt;
* [[婚期 (テレビドラマ)|婚期]]（1973年、TBS）&lt;br /&gt;
* [[白い地平線]]（1975年、TBS）&lt;br /&gt;
* 残りの雪（1975年、12ch）&lt;br /&gt;
* 太陽ともぐら（1975年、CX）&lt;br /&gt;
* [[剣と風と子守唄]] 第24話「小さな突撃隊」（1975年、NTV） - 市来庄左衛門&lt;br /&gt;
* [[俺たちの旅]]（1975年、NTV）&lt;br /&gt;
* [[円盤戦争バンキッド]]（1976年、NTV） - 宇崎巌&lt;br /&gt;
* [[俺たちの朝]] 第27話（1977年、NTV）&lt;br /&gt;
* [[乱れる]]（1977年、TBS）&lt;br /&gt;
* [[あにき]]（1977年、TBS） - 入江&lt;br /&gt;
* [[水戸黄門 (パナソニック ドラマシアター)|水戸黄門]]（TBS・[[C.A.L]]）&lt;br /&gt;
**[[水戸黄門 (第1-13部)#第9部|第9部]] 第9話「黄門さまの父子裁き・弘前」（1978年10月2日） - 池田屋庄兵衛&lt;br /&gt;
**[[水戸黄門 (第14-21部)#第14部|第14部]] 第18話「人情紅花夫婦染・米沢」（1984年2月27日） - 山形屋精造&lt;br /&gt;
* [[白い巨塔 (1978年のテレビドラマ)|白い巨塔]] （1978年、CX）　- 竹谷教造&lt;br /&gt;
* [[古谷一行の金田一耕助シリーズ#横溝正史シリーズI・II|横溝正史シリーズII]]・[[仮面劇場]] （1978年、MBS・東宝） - 鈴木医師&lt;br /&gt;
* [[大江戸捜査網]] （12ch ・[[三船プロダクション|三船プロ]]）&lt;br /&gt;
**第363話「江戸っ子魚屋の世継ぎ騒動」（1978年） - 大月頼母&lt;br /&gt;
**第456話「娘魚屋五万石の涙」（1980年） - 亀石伊予守&lt;br /&gt;
* [[幻の花嫁]] （1979年、TBS）&lt;br /&gt;
* [[噂の刑事トミーとマツ]] 第31話「トミマツまっ青、女の激突」（1980年、TBS / 大映テレビ） - 元金庫破り名人・平助じいさん&lt;br /&gt;
* [[旅がらす事件帖]] 第10話「夕陽に背をむけた女」（1980年、KTV） - 仁兵衛&lt;br /&gt;
* [[天才画の女#テレビドラマ|松本清張シリーズ・天才画の女]]（1980年、NHK） - 大江信太郎&lt;br /&gt;
* [[戦後史実録シリーズ 空白の900分 -国鉄総裁怪死事件-]] （1980年、NHK）- 東大法医学部教授&lt;br /&gt;
* [[気になる天使たち]]（1981年、CX）&lt;br /&gt;
*  悦子逆転（1982年、THK）&lt;br /&gt;
* 愛を裁けますか（1982年、MBS）&lt;br /&gt;
* [[君は海を見たか]]（1982年、CX） - 木口博士&lt;br /&gt;
* [[御宿かわせみ]] [[真野響子]]版（1982年、NHK）&lt;br /&gt;
* [[特捜最前線]] 第347話「暗闇へのテレフォンコール」（1984年、ANB・東映） - 杉田&lt;br /&gt;
* [[土曜ワイド劇場]] / [[片岡孝夫の好青年探偵シリーズ|七年待った妻・裸女モデル殺人事件]]（1984年、ABC・大映テレビ）&lt;br /&gt;
* [[裸の大将放浪記|裸の大将]]　第14話「帰って来た裸の大将放浪記」（1984年、KTV・東阪企画） - 先生&lt;br /&gt;
* [[気分は名探偵]] 第5話「おじいちゃんの秘密？」（1984年、NTV・ユニオン映画） - 坂田幸作&lt;br /&gt;
* [[一休さん・喝!]] 第5話「金庫破りの(秘)大作戦 少年を救え」（1986年、[[テレビ東京|TX]]）&lt;br /&gt;
* [[草壁署迷宮課おみやさん#六本木ダンディーおみやさん|六本木ダンディーおみやさん]] 第7話（1987年、ABC） - 源田喜三郎&lt;br /&gt;
* 素晴らしき帰郷（1988年、NHK）&lt;br /&gt;
* 恋愛模様（1990年、NHK）&lt;br /&gt;
* [[世にも奇妙な物語]] / 人面草（1991年、CX）&lt;br /&gt;
* [[火曜サスペンス劇場]] / 女弁護士高林鮎子9・北の街小樽に消えた女（1991年4月9日放送、NTV・東映） - 花村弁護士 役&lt;br /&gt;
* [[検事・若浦葉子]] 第1話「心の扉を開ける鍵・時効不成立!母子の歪んだ絆が生む幼児殺害事件」（1991年、NTV・テレパック）&lt;br /&gt;
* [[許されぬ唄]]（1992年、[[CBCテレビ|CBC]]）&lt;br /&gt;
* [[夏子の酒]]（1994年、CX） - 山田信助&lt;br /&gt;
* [[長男の嫁]]（1994年、TBS） - 中村源一郎&lt;br /&gt;
* [[大家族ドラマ 嫁の出る幕]]（1994年、ANB） - 近藤社長&lt;br /&gt;
* [[長男の嫁|長男の嫁2 実家天国]]（1995年、TBS） - 源為雄&lt;br /&gt;
* [[白線流し]]（[[1996年]]、CX） - 寿司職人・山川元吉&lt;br /&gt;
* [[僕が僕であるために (テレビドラマ)|僕が僕であるために]]（1997年、CX）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ラジオドラマ ===&lt;br /&gt;
* 灰色の部屋（NHK）&lt;br /&gt;
** 影なき女（1952年）&lt;br /&gt;
** 山小屋（1952年）&lt;br /&gt;
** 舶来巾着切（1952年）&lt;br /&gt;
** 黄昏の告白（1953年）&lt;br /&gt;
* いつでん男は（1964年、NHK）&lt;br /&gt;
* 島（1964年、NHK）&lt;br /&gt;
* 袴垂れはどこだ（1964年、NHK）&lt;br /&gt;
* 何処かにか歌うもの（1964年、ニッポン放送）&lt;br /&gt;
* ミイラ志願（1964年、TBS）&lt;br /&gt;
* 狂ったオルゴール（1965年、TBS）&lt;br /&gt;
* はるあはれ（1965年、NHK）&lt;br /&gt;
* 片目ノオ猿ノオ国（1965年、TBS）&lt;br /&gt;
* 蝶の夢（1965年、NHK）&lt;br /&gt;
* 聴耳頭巾（1965年、NHK）&lt;br /&gt;
* 私の眼（1966年、TBS） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 舞台 ===&lt;br /&gt;
* 五稜郭血書（1952年、民藝） - 箱館府兵&lt;br /&gt;
* セールスマンの死（1954年、民藝） - チャーレェ&lt;br /&gt;
* 常盤炭田（1954年、民藝） - 朴世哲&lt;br /&gt;
* 闇の力（1954年、民藝） - 巡査&lt;br /&gt;
* 大和の村（1955年、民藝） - 荒木一郎&lt;br /&gt;
* ヴィルヘルム・テル（1955年、民藝） - バウムガルテン&lt;br /&gt;
* 女の声（1955年、民藝） - 赤松&lt;br /&gt;
* 西の国の人気者（1955年、民藝） - フィリイ&lt;br /&gt;
* 遠い凱歌（1956年、民藝） - 清四郎&lt;br /&gt;
* アンネの日記（1956年、民藝） - デュッセル&lt;br /&gt;
* 島（1957年・1958年、民藝）&lt;br /&gt;
* 人形の家（1958年、民藝）&lt;br /&gt;
* 法隆寺（1958年、民藝） - 栗原真覚&lt;br /&gt;
* 夜の季節（1959年、民藝）&lt;br /&gt;
* どん底（1960年、民藝）&lt;br /&gt;
* 時と緋笠一家（1960年、民藝）&lt;br /&gt;
* イルクーツク物語（1960年、民藝）&lt;br /&gt;
* 火山灰地（1961年、民藝）&lt;br /&gt;
* るつぼ（1962年・1963年、民藝）&lt;br /&gt;
* 狂気と天才（1963年、民藝）&lt;br /&gt;
* アンネの日記（1964年、民藝）&lt;br /&gt;
* 人質（1964年、民藝）&lt;br /&gt;
* 開かれた処女地（1965年、民藝）&lt;br /&gt;
* ゴドーを待ちながら（1965年、民藝）&lt;br /&gt;
* セールスマンの死（1966年、民藝）&lt;br /&gt;
* オットーと呼ばれる日本人（1966年、民藝）&lt;br /&gt;
* アンネの日記（1967年、民藝）&lt;br /&gt;
* 白い夜の宴（1967年、民藝）&lt;br /&gt;
* 汚れた手（1967年・1968年、民藝）&lt;br /&gt;
* ワッサ・ジェレズノーワ（1968年、民藝）&lt;br /&gt;
* 炎の人（1969年、民藝） - ヴェルネ&lt;br /&gt;
* あゝ野麦峠（1970年、民藝）&lt;br /&gt;
* もう一人のヒト（1970年、民藝）&lt;br /&gt;
* アンネの日記（1970年、民藝）&lt;br /&gt;
* 神の代理人（1971年、民藝）&lt;br /&gt;
* るつぼ（1971年、民藝）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www.jmdb.ne.jp/person/p0052680.htm 日本映画データベース]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しもしよう まさみ}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の俳優]]&lt;br /&gt;
[[Category:長崎県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:釜山広域市出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1915年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:2004年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.231.47.46</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E9%87%91%E5%86%85%E5%90%89%E7%94%B7&amp;diff=128000</id>
		<title>金内吉男</title>
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		<updated>2014-06-16T13:59:18Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.231.47.46: /* テレビドラマ */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ActorActress|&lt;br /&gt;
| 芸名 = 金内 吉男&lt;br /&gt;
| ふりがな = かねうち よしお&lt;br /&gt;
| 本名 = &lt;br /&gt;
| 別名 = &lt;br /&gt;
| 出生地 = {{flagicon|Japan}}[[日本]]・[[東京府]]&lt;br /&gt;
| 民族 = [[日本人]]&lt;br /&gt;
| 血液型 = &lt;br /&gt;
| 生年 = 1933&lt;br /&gt;
| 生月 = 7&lt;br /&gt;
| 生日 = 17&lt;br /&gt;
| 没年 = 1992&lt;br /&gt;
| 没月 = 8&lt;br /&gt;
| 没日 = 7&lt;br /&gt;
| ジャンル = [[俳優]]・[[声優]]&lt;br /&gt;
| 活動時期 = [[1957年]] − [[1992年]]&lt;br /&gt;
| 活動内容 =&lt;br /&gt;
| 主な作品 =&lt;br /&gt;
| 受賞 = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;金内 吉男&#039;&#039;&#039;（かねうち よしお、[[1933年]][[7月17日]] - [[1992年]][[8月7日]]）は、[[日本]]の[[男性]][[俳優]]、[[声優]]。[[青二プロダクション]]所属。東京出身。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 来歴・人物 ==&lt;br /&gt;
[[1957年]]劇団ぶどうの会に入団。以後TVドラマ、洋画の吹き替え、アニメ、ナレーションなどで活躍。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1992年8月7日、[[心膜炎|収縮性心膜炎]]で死去。[[享年]]59。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 後任 ==&lt;br /&gt;
金内の死後、その持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[石原良]] - 『[[三国志 (アニメ映画)|三国志 完結編・遥かなる大地]]』：ナレーション&lt;br /&gt;
* [[森田順平]] - 『[[刑事コロンボ]]』：ポール・ジェラード役 ※追加部分のみ&lt;br /&gt;
* [[石田太郎]] - 『[[ハンニバル (映画)|ハンニバル]]』(ソフト版)：ハンニバル・レクター役 ※金内の生前も[[日曜洋画劇場]]版で吹き替えを務めた。&lt;br /&gt;
* [[佐久田脩]] - 『[[ファイナル・カウントダウン]]』：ウォーレン・ラスキー役 ※WOWOWでのノーカット放映の追加部分のみ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出演作品 ==&lt;br /&gt;
=== テレビドラマ ===&lt;br /&gt;
* 松本清張シリーズ・黒の組曲 第19話「[[白い闇#1962年版|白い闇]]」（[[1962年]] [[日本放送協会|NHK]]） - 高瀬俊吉&lt;br /&gt;
* [[大河ドラマ]]（NHK）&lt;br /&gt;
** [[三姉妹 (NHK大河ドラマ)|三姉妹]]（[[1967年]]） - 蛎崎新吾  &lt;br /&gt;
** [[竜馬がゆく (NHK大河ドラマ)|竜馬がゆく]]（[[1968年]]） -  [[土方歳三]]&lt;br /&gt;
** [[樅ノ木は残った (NHK大河ドラマ)|樅ノ木は残った]]（[[1970年]]） - 畑与右衛門&lt;br /&gt;
** [[新・平家物語 (NHK大河ドラマ)|新・平家物語]]（[[1972年]]） - [[藤原惟方]]&lt;br /&gt;
** [[風と雲と虹と]]（[[1976年]]） - [[多治経明]]&lt;br /&gt;
** [[黄金の日日]]（[[1978年]]） - [[増田長盛]]&lt;br /&gt;
** [[峠の群像]]（[[1982年]]） - [[安井彦右衛門]]&lt;br /&gt;
** [[武田信玄 (NHK大河ドラマ)|武田信玄]]（[[1988年]]） -  勘定奉行&lt;br /&gt;
** [[春日局 (NHK大河ドラマ)|春日局]]（[[1989年]]） - [[平岡頼勝]]&lt;br /&gt;
* [[キイハンター]] （[[TBSテレビ|TBS]]）&lt;br /&gt;
** 第18話「新ギャング同盟」（[[1968年]]）&lt;br /&gt;
** 第49話「宝石と女と殺し屋」（[[1969年]]）&lt;br /&gt;
* [[帰って来た用心棒]] 第15話「暁に待つ」（[[1968年]] [[テレビ朝日|NET]]）　&lt;br /&gt;
* [[銭形平次 (大川橋蔵)|銭形平次]]（[[フジテレビジョン|CX]]）&lt;br /&gt;
** 第145話「邪魔者」（[[1969年]]）　&lt;br /&gt;
** 第245話「長兵衛の災難」（[[1971年]]）　&lt;br /&gt;
* [[海は燃えていた]] （[[1969年]] [[東海テレビ放送|THK]]）&lt;br /&gt;
* [[八つ墓村]] （[[1969年]] NET） - [[金田一耕助]]&lt;br /&gt;
* [[そこに生命あれば]]（1970 NHK総合）&lt;br /&gt;
* [[明治の群像 海に火輪を]] 第1話「大久保利通 西南戦争」（[[1976年]] NHK）　&lt;br /&gt;
* [[七人の刑事]] 第35話「妻の身代金」（[[1979年]] TBS）&lt;br /&gt;
* [[日本巌窟王]]（[[1979年]] NHK[[木曜時代劇 (NHK)#水曜時代劇（1978 - 1983年度）|水曜時代劇]]） - [[松平伊豆守]]&lt;br /&gt;
* [[風の隼人]]（[[1979年]] NHK[[木曜時代劇 (NHK)#水曜時代劇（1978 - 1983年度）|水曜時代劇]]） - 碇山将曹&lt;br /&gt;
* [[3年B組金八先生]] 第1シリーズ 第15話「受験勉強一万時間」（[[1980年]] TBS） -  岡村哲男&lt;br /&gt;
* [[戦後史実録シリーズ 空白の900分 -国鉄総裁怪死事件-]] （1980年、NHK）&lt;br /&gt;
* [[西部警察 PART-III]] 第24話「誘拐! 山形・蔵王ルート」（[[1983年]] [[テレビ朝日|ANB]]） - 片山道彦&lt;br /&gt;
* [[真田太平記 (テレビドラマ)|真田太平記]]（[[1985年]] NHK[[大河ドラマ#NHK新大型時代劇|新大型時代劇]]） - [[鈴木重則|鈴木主水]]&lt;br /&gt;
* [[魚河岸ものがたり]]（1987年 NHK）&lt;br /&gt;
* [[凛凛と]]（[[1990年]] NHK[[連続テレビ小説]]）&lt;br /&gt;
* [[ザ・ガードマン]]（判明分のみ、TBS）&lt;br /&gt;
** 第121話／魔性の女&lt;br /&gt;
** 第159話／死の試走車&lt;br /&gt;
** 第166話／殺されに来た二人の男&lt;br /&gt;
** 第176話／新・四谷怪談&lt;br /&gt;
** 第194話／死刑執行人の歌が聞こえる&lt;br /&gt;
** 第214話／黒いロケット&lt;br /&gt;
** 第255話／怪談・手首のない幽霊&lt;br /&gt;
** 第263話／裏口入学は死を招く&lt;br /&gt;
** 第269話／団地奥さんがスターになる方法&lt;br /&gt;
** 第274話／妻の浮気は死を招く&lt;br /&gt;
** 第278話／怪談・壁からでる幽霊&lt;br /&gt;
** 第287話／チエミのモーレツ女課長を殺せ!&lt;br /&gt;
** 第299話／怪談・幽霊たちのクリスマス&lt;br /&gt;
** 第315話／危険な18歳の奥さん&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== テレビアニメ ===&lt;br /&gt;
* [[鉄腕アトム (アニメ第1作)]]（1963年） - 青騎士&lt;br /&gt;
* [[科学少年J.Q]]（1965年） - レース&lt;br /&gt;
* [[W3]]（1965年） - 星光一&lt;br /&gt;
* [[太陽の使者 鉄人28号]]（1980年） - 敷島博士&lt;br /&gt;
* [[ハロー!サンディベル]]（1981年） - レスリー・クリスティー&lt;br /&gt;
* [[アンドロメダ・ストーリーズ]]（1982年） - ナレーション&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 劇場アニメ ===&lt;br /&gt;
* [[FUTURE WAR 198X年]]（1982年） - ギブスン大統領&lt;br /&gt;
* [[時空の旅人]]（1986年） - [[明智光秀]]&lt;br /&gt;
* [[三国志 (アニメ映画)|三国志 第一部・英雄たちの夜明け]]（1992年） - ナレーター&lt;br /&gt;
* [[三国志 (アニメ映画)|三国志 第二部・長江燃ゆ!]]（1993年） - ナレーター&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 吹き替え ===&lt;br /&gt;
==== 俳優 ====&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[ピーター・オトゥール]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
** クリエイター（ハリー）&lt;br /&gt;
** パワープレイ（ゼラー大佐）&lt;br /&gt;
** [[プランケット城への招待状]]（ピーター・プランケット）&lt;br /&gt;
** [[ラ・マンチャの男]]（セルバンテス / ドン・キホーテ / アロンソ・キハーナ）&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[マイケル・ケイン]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
** アシャンティ（デビッド）&lt;br /&gt;
** [[カリフォルニア・スイート]]&lt;br /&gt;
** [[国際諜報局]]（ハリー・パーマー）&lt;br /&gt;
** [[殺しのドレス]]（ロバート・エリオット）※TBS版&lt;br /&gt;
** [[泥棒貴族]]（ハリー・トリスタン・ディーン）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 洋画・海外ドラマ ====&lt;br /&gt;
* [[アマデウス (映画)|アマデウス]]（皇帝ヨーゼフ2世【[[ジェフリー・ジョーンズ]]】）&lt;br /&gt;
* [[赤い空]]（エド・ミラー【[[ジェフリー・ハンター]]】）&lt;br /&gt;
* [[宇宙家族ロビンソン]]・第1シーズン（ジョン・ロビンソン博士【ガイ・ウィリアムス】）&lt;br /&gt;
* [[お熱い出来事]]（[[ロック・ハドソン]]）&lt;br /&gt;
* [[怪傑ゾロ]]（ガイ・ウィリアムス）&lt;br /&gt;
* [[キャット (映画)|キャット]]（[[ロバート・ロッジア]]）&lt;br /&gt;
* [[九月になれば]]（ロック・ハドソン）&lt;br /&gt;
* [[刑事コロンボ|刑事コロンボ 美食の報酬]]（ポール・ジェラード【[[ルイ・ジュールダン]]】）&lt;br /&gt;
* [[サウンド・オブ・ミュージック (映画)|サウンド・オブ・ミュージック]]（フォン・トラップ大佐【[[クリストファー・プラマー]]】）※ソフト版&lt;br /&gt;
* [[ジェシカおばさんの事件簿]]（シメオン・カーショー警部【[[ブラッドフォード・ディルマン]]】）&lt;br /&gt;
* [[島の女 (アメリカ映画)|島の女]]（[[アラン・ラッド]]）&lt;br /&gt;
* [[十二人の怒れる男#映画版|十二人の怒れる男]]（陪審員12番【ロバート・ウェッバー】）※テレビ朝日版&lt;br /&gt;
* [[スペース1999]]（アラン・カーター【ニック・テイト】）&lt;br /&gt;
* [[0011ナポレオン・ソロ]]（サティン【[[リカルド・モンタルバン]]】）第9話、（ファーミントン）第19話、（スビニオン）第61話&lt;br /&gt;
* [[大陸横断超特急]]（ロジャー・デヴロー【[[パトリック・マクグーハン]]】）※テレビ朝日版&lt;br /&gt;
* [[ティファニーで朝食を]]（ポール・バージャク【[[ジョージ・ペパード]]】）※フジテレビ版&lt;br /&gt;
* [[2001年宇宙の旅]]（HAL 9000【[[ダグラス・レイン]]】）※テレビ朝日版&lt;br /&gt;
* [[2010年 (映画)|2010年]]（HAL 9000【ダグラス・レイン】）※テレビ朝日版&lt;br /&gt;
* [[羊たちの沈黙 (映画)|羊たちの沈黙]]（[[ハンニバル・レクター]]【[[アンソニー・ホプキンス]]】）※VHS版&lt;br /&gt;
* [[ファイナル・カウントダウン]]（ウォーレン・ラスキー【[[マーティン・シーン]]】）※フジテレビ版&lt;br /&gt;
* [[北極の基地/潜航大作戦]]（パトリック・マクグーハン）&lt;br /&gt;
* [[マッコーネル物語]]（アラン・ラッド）&lt;br /&gt;
* [[未知との遭遇]]（クロード・コラム【[[フランソワ・トリュフォー]]】）※テレビ朝日旧録版&lt;br /&gt;
* [[名探偵ポワロ|名探偵ポワロ 海上の悲劇]]（クラパトン）※NHK版&lt;br /&gt;
* [[目かくし]]（ロック・ハドソン）&lt;br /&gt;
* [[野獣暁に死す]]（モンゴメリー・フォード）&lt;br /&gt;
* [[ラストエンペラー]]（ナレーション）&lt;br /&gt;
* [[ラット・パトロール]]（サム・トロイ軍曹【クリストファー・ジョージ】）&lt;br /&gt;
* [[レナードの朝]]（レナード・ロウ【[[ロバート・デ・ニーロ]]】）※ソフト版&lt;br /&gt;
* [[ローハイド]]（ピート・ノーラン）&lt;br /&gt;
* [[ロンメル軍団を叩け]]（[[クリントン・グレイン]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 特撮 ===&lt;br /&gt;
* [[ウルトラマン物語]]（ナレーター）&lt;br /&gt;
* [[マグマ大使]]（マグマ大使の声）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== CD ===&lt;br /&gt;
* [[インフェリウス惑星戦史外伝 CONDITION GREEN]]（ブラフォード将軍）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
* [[NHKスペシャル]]『大英博物館』（ナレーション）&lt;br /&gt;
* [[‎残酷を超えた驚愕ドキュメント・カランバ]]（ナレーション）&lt;br /&gt;
* [[日立 世界・ふしぎ発見!|世界・ふしぎ発見!]]（ナレーション）&lt;br /&gt;
* [[アメリカン・バイオレンス (1981年の映画)|アメリカン・バイオレンス]]（1981年 日本・アメリカ合作ドキュメンタリー映画）（ナレーション）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[東京都出身の人物一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.aoni.co.jp/actor/ka/kaneuchi-yoshio.html 青二プロダクションによるプロフィール]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:かねうち よしお}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の俳優]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の男性声優]]&lt;br /&gt;
[[Category:悪役俳優]]&lt;br /&gt;
[[Category:東京都出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1933年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1992年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:過去の青二プロダクション所属者]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.231.47.46</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%B8&amp;diff=1437</id>
		<title>コントラクトブリッジ</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%B8&amp;diff=1437"/>
		<updated>2014-06-06T13:32:54Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.231.47.46: /* 関連する作品 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Infobox card game&lt;br /&gt;
| title         = コントラクトブリッジ&lt;br /&gt;
| subtitle      = &lt;br /&gt;
| image_link    = [[Image:Bridge declarer.jpg|none|250px]]&lt;br /&gt;
| image_caption = ディクレアラープレー&lt;br /&gt;
| alt_names     = ブリッジ&lt;br /&gt;
| type          = トリックテイキングゲーム&lt;br /&gt;
| players       = 4人&lt;br /&gt;
| play          = 時計回り&lt;br /&gt;
| card_rank     = A K Q J 10 9 8 7 6 5 4 3 2&lt;br /&gt;
| ages          = &lt;br /&gt;
| num_cards     = 52枚&lt;br /&gt;
| deck          = アングロアメリカン&lt;br /&gt;
| origin        = &lt;br /&gt;
| related       = [[ホイスト]]、{{仮リンク|オークションブリッジ|en|Auction bridge}}&lt;br /&gt;
| playing_time  = [[:en:World Bridge Federation|WBF]]トーナメントゲームでは1プレイ7.5分&lt;br /&gt;
| random_chance = &amp;lt;!--プレイの仕方次第--&amp;gt;&lt;br /&gt;
| skills        = [[記憶]]、[[戦術]]、予測、駆け引き&lt;br /&gt;
| footnotes     = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{wikibooks}}&#039;&#039;&#039;コントラクトブリッジ&#039;&#039;&#039;（{{lang-en-short|contract bridge}}）は[[トランプ]]を用いて行う[[トリックテイキングゲーム]]の一つである。ただ単に&#039;&#039;&#039;ブリッジ&#039;&#039;&#039;と略すことも多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ポーカー]]、[[ジン・ラミー]]と並ぶ世界三大カードゲームの一つ。トランプを使って行うゲームの中では競技人口が多く、世界130カ国以上で約1億人以上と言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
プレイ人数は4人。向かい合ったもの同士がペアを組み、自らの手札を元に2人でとれるトリック数の合計を類推し、ビッドにより攻撃側ペア・守備側ペアを決める。攻撃側で主とならない側のプレイヤーは、最初のリードの後手札を晒す。これをダミーと呼び、そのカードは主となる側が指定して出すことになる。13回のトリックのうち、攻撃側が宣言した以上のトリックを取れれば勝利となり、宣言しただけの点数を獲得し、宣言した以上の分についてはボーナスとして点数を獲得する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
競技では、配られたカードの差による有利不利を減らすため、[[#デュプリケートブリッジ|デュプリケートブリッジ]]として、カードの内容をあらかじめ決めておき、競技者の間でそれらカードをプレイした結果の差で勝ち負けを決める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
トリックテイキングゲームの歴史はトランプ自体と同じくらい古いが、18世紀後半から19世紀には、イギリスの[[ホイスト]]がヨーロッパ中で流行するようになった。しかしそれまで流行していた[[オンブル]]や[[カドリーユ]]のようなビッドシステムがホイストには欠けていたため、ホイストにビッドシステムを追加する試みがいくつか行われ、その中からブリッジも生まれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ブリッジの直接の祖先にあたるのは、ジョン・コリンソンが1886年に刊行した冊子の中に載っている「ビリッチ（biritch）」というゲームである&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.pagat.com/boston/biritch.html Biritch, or Russian Whist] (pagat.com)&amp;lt;/ref&amp;gt;。コリンソンによると、このゲームは[[イスタンブル|コンスタンチノープル]]のロシア人によって当時遊ばれていたものだという。ビリッチはダミー・ホイスト（ディーラーのパートナーが手札を開いて見せ、ディーラーがそこから何を出すかを決めるもの）の一種で、ディーラーかまたはそのパートナーが切り札を決めるか、または切り札なし（これをビリッチといった）を宣言する。ディーラーの相手側はダブル（contre）をかけられる、というもので、まだ競りのシステムはなかった。このゲームは後に「ブリッジ・ホイスト」さらに略してブリッジと呼ばれるようになった。「ブリッジ」という言葉はこのビリッチが変化したものと考えられている（ビリッチ自身の語源は明らかでない）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1904年]]前後に、切り札をプレイヤーが決めるために“競り”を用いる&#039;&#039;&#039;オークション・ブリッジ&#039;&#039;&#039;が考案された。コントラクトブリッジとオークション・ブリッジとの主な違いは得点の計算方法にある。とくに、オークション・ブリッジでは取れたトリック数がそのまま得点になったのに対して、コントラクトブリッジでは宣言したトリック数によって得点が得られるように変更された。この変更は[[第一次世界大戦]]中に[[フランス]]で考案され、プラフォン（plafond、天井）という名前で流行した&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.britannica.com/EBchecked/topic/462633/Plafond Plafond (card game)] (Emcyclopaedia Britannica)&amp;lt;/ref&amp;gt;。さらにアメリカの[[ハロルド・スターリング・ヴァンダービルト]]らによって1925年にスコア表とバルナラビリティに関する改良が加えられ、1930年代以降はコントラクトブリッジがオークション・ブリッジやプラフォンを圧倒した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在、コントラクトブリッジはオークション・ブリッジを含めた他のブリッジに完全に取って代わっており、特に米英では単に&#039;&#039;&#039;ブリッジ&#039;&#039;&#039;と言えばコントラクトブリッジのことを指すようになっている。ただし、日本では逆にブリッジと言った場合、[[セブンブリッジ]]を指すこともあるため、注意が必要である。日本語では「コントラクトブリッジ」と「コントラクト・ブリッジ」の2種類の表記があるが、管轄団体である&#039;&#039;&#039;日本コントラクトブリッジ連盟&#039;&#039;&#039; (JCBL) では「コントラクトブリッジ」としているため、本項目でもこの表記に従う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本においては余りなじみのない競技だが、戦前から欧米人と関わりを持つ者を中心として行われていた。[[1953年]]には日本コントラクトブリッジ連盟が結成されている。現在では[[日本電気]]や[[日産自動車]]などが協賛する競技会が定期的に開催されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1995年]]にブリッジは[[マインドスポーツ]]の一種目として、[[国際オリンピック委員会]]の承認競技リストに載ることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ラバーブリッジ ==&lt;br /&gt;
知り合い同士でブリッジを遊ぶ際には、ラバーブリッジがよく用いられる。&#039;&#039;&#039;ラバー&#039;&#039;&#039;（rubber）1つとは2ゲームを先取することであり、1ゲームとはコントラクトによる勝利のみで合計100点以上を獲得することである。スコアシートには横線を引いて、ゲームのために加算するポイントとボーナスとなるポイントを区別する。線の下側に書くポイントだけがゲームを左右する。勝敗は1ラバーが終わったときの点数総計で争うので、ごくまれではあるがラバーを勝ち取っても勝負としては負ける可能性もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== プレイヤー ===&lt;br /&gt;
プレイヤーは4人。一般には正方形のテーブルを使用し、その4辺に座る。便宜上4人のプレイヤーをそれぞれN(North)、S(South)、E(East)、W(West)と呼ぶ。向かい合った2人（NとS、EとW）が味方（パートナー）同士となる。この2人をペアといい、2つのペアを区別するときはサイド（NSサイド、EWサイドあるいは相手サイドなど）と呼ぶ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== カードの配り方 ===&lt;br /&gt;
ゲームには通常のトランプ52枚を使う。ディーラーを1人決め、ディーラーは各プレイヤーに13枚ずつカードを配る。ディーラーは、ゲーム毎に左隣の者へと移ってゆく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ルール上最初の手札が13枚と多いため、持ちやすいよう、メジャーなブランドのカードなどには細身の「ブリッジサイズ」バージョンがある（[[トランプ#サイズ]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ビッド ===&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;ビッド&#039;&#039;&#039;（bid）とは競り（オークション）の宣言のことである。競りはディーラーから始め、時計回りに続け、最後に誰かがコールをしてから、他の3名が連続してパスするまで続く。&#039;&#039;&#039;コール&#039;&#039;&#039;（call）にはビッド (bid)、パス (pass)、&#039;&#039;&#039;ダブル&#039;&#039;&#039;（double, DBLと略記する）および&#039;&#039;&#039;リダブル&#039;&#039;&#039;（redouble, RDBLと略記する）があり、自分の順番では、以下のいずれかを行うことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
# 新しくビッドする。&lt;br /&gt;
# パスする。&lt;br /&gt;
# 最後のビッドが相手サイドの場合にダブルをコールする。&lt;br /&gt;
# 相手サイドにダブルがコールされている場合にリダブルをコールする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし、ビッドされることなく4人がパスした場合は、このゲームは互いに0点となり、次のディーラーが新しいゲームを始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ビッドは、オッドトリックの数字とデノミネーションを合わせて行う。&#039;&#039;&#039;オッドトリック&#039;&#039;&#039;（odd tricks）とは、勝利するために必要な最低限の6トリック（ブックという）を除いたトリック数のことで、1～7の数字で指定する。&#039;&#039;&#039;デノミネーション&#039;&#039;&#039;（denomination）は、切り札となる特定のスートかノートランプ (NT) で特定する。&lt;br /&gt;
:例えば、{{cards|1h}}と言えば、7トリックをハートを切り札として獲るという宣言になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新しくビッドを行う場合、直前までのビッドよりオッドトリックの数字もしくはデノミネーションのランクが上回るビッドをする必要がある。スートは下から順に{{cards|c}}、{{cards|d}}、{{cards|h}}、{{cards|s}}の順位をもっており、ノートランプは{{cards|s}}の上に位置する。ダブル、リダブルの後でビッドが行われた場合にはそのダブル、リダブルは無効となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あるコールに対して他の3人がパスしたら、最後のビッドを&#039;&#039;&#039;コントラクト&#039;&#039;&#039;と呼び、これが最終的に有効なものと見なされる。コントラクトを成立させたチームのうち、最初にコントラクトのデノミネーションを宣言したプレイヤーを&#039;&#039;&#039;ディクレアラー&#039;&#039;&#039; (declarer) と呼ぶ。ディクレアラーのパートナーは&#039;&#039;&#039;ダミー&#039;&#039;&#039;（dummy）と呼ばれる。残りの2人を&#039;&#039;&#039;ディフェンダー&#039;&#039;&#039;（defenders）と呼ぶ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最後のビッドをした者がディクレアラーになるわけではないことに注意。たとえば、&lt;br /&gt;
{{Indent|Nが{{cards|1s}}をビッド→Sが{{cards|2c}}をビッド→Wが{{cards|2h}}をビッド→Sが{{cards|4s}}をビッド→他の3人がパス}}&lt;br /&gt;
と進行した場合、ディクレアラーはSではなく最初に{{cards|s}}をビッドしたNになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 手札のプレイ ===&lt;br /&gt;
最初のリードは、ディクレアラーの左側のプレイヤーから行う。プレイは時計回りに進行する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最初のカードがリードされたら、その時点でダミーのカードを机に晒す。そして、これらのカードはこれ以降、ディクレアラーの判断でプレイする。つまり、ディクレアラーがダミーに、どのカードを出すか指示するのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これ以外のプレイの主要な点については他のマストフォロールールを用いた[[トリックテイキングゲーム]]と同じで、前回のトリックを取ったものが次のリードを行う。もちろん、ディクレアラーがダミーの手でトリックを取った場合は、ダミーの側から次のリードを、ディクレアラーが自分の手でトリックを取った場合は、自分の側から次のリードを行う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
切り札は、ビッディングの際にデノミネーションとして宣言されたスートである。NT でコントラクトした場合は切り札なしで行う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 点数の付け方 ===&lt;br /&gt;
ディクレアラーがコントラクトを達成した場合、各スートごとに決められた基本点×コントラクトのオッドトリック分の点数が線の下に書かれる。コントラクトより多くのトリックを取った場合は、ダブル、リダブルの場合を除いて、上回った分について同様に点数を計算するが、これは線の上に記入される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
線の下に書かれる点数は、ダブルされたコントラクトの場合は上記の2倍、リダブルの場合はダブルのさらに2倍となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
切り札をクラブまたはダイヤにした場合は基本点は20点であり、ハートまたはスペードの場合は30点である。NTの場合も30点だが、最後に10点を加えて線の下に記入する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;例&lt;br /&gt;
:{{cards|2c}}でビッド、9トリックを取った場合は、線の下に40点(2x20)を記入、線の上に20点(1x20)を記入する。&lt;br /&gt;
:{{cards|4h}}でビッド、10トリックを取った場合は、線の下に120(4x30)を記入、線の上に0点(0x30)を記入する。&lt;br /&gt;
:4NTでビッド、11トリックを取った場合は、線の下に130(4x30+10)を記入、線の上に30点(1x30)を記入する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ゲーム・バル・ラバー ===&lt;br /&gt;
線の下に書かれた点数が、今までに線の下に書かれたぶんと今とったぶんを合わせ、100点以上(100点を含む)になった場合、そのチームは&#039;&#039;&#039;ゲーム&#039;&#039;&#039;（game）を達成したということになり、そこまでのスコアは両チームとも全て線の上側に書かれたものとして扱う。ゲームを1度勝ったチームを、&#039;&#039;&#039;バルネラブル&#039;&#039;&#039;(Vulnerable）略して&#039;&#039;&#039;バル&#039;&#039;&#039;（Vul.)と呼ぶ。バルネラブルでないチームをノン・バルネラブル(ノンバル)と呼ぶ。バルかノンバルかによって、スラムを取ったときのボーナス点と、ダウン(宣言したトリックが取れなかった場合)の点が変化する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もしそのゲーム達成がそのチームにとって2ゲーム目であった場合、これは&#039;&#039;&#039;ラバー&#039;&#039;&#039;（rubber）獲得とされる。どちらかのチームがラバーを獲得した時点で、そのラバーは終了する。ラバーを獲得したチームには以下のようなラバーボーナスが与えられる。&lt;br /&gt;
*相手チームがノンバルの場合、700点&lt;br /&gt;
*相手チームがバルの場合、500点&lt;br /&gt;
そして、双方の合計点を数え、この合計点の高低で勝利チームを決める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ラバーボーナスは大きいため、普通はラバーを獲得したチームのほうが勝利する。しかし、リダブルで大きなオーバートリックを獲得したチームがある場合など、ラバーを獲得できなかった側が勝利する可能性もルールとしては残されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== スラムボーナス ===&lt;br /&gt;
コントラクトを6でビッドし12トリック取ってそれを達成することを、&#039;&#039;&#039;スモールスラム&#039;&#039;&#039;（small slam）と呼ぶ。そして、ノンバルなら500点を、バルなら750点を線の上側に記入する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
コントラクトを7でビッドし13トリック取ってそれを達成することを、&#039;&#039;&#039;グランドスラム&#039;&#039;&#039;（grand slam）と呼ぶ。ノンバルなら1000点を、バルなら1500点を線の上側に記入する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アナーボーナス ===&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;アナー&#039;&#039;&#039;（honour）ボーナスは、コントラクトの達成如何にかかわらず、下記の条件を満たす場合に線の上側に記入する。ラバーブリッジには適用されるが、デュプリケートには適用されない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*トランプのA,K,Q,J,10の5枚すべてを1人が持っていた場合 150点&lt;br /&gt;
*上記のうちいずれか4枚を1人が持っていた場合 100点&lt;br /&gt;
*ノートランプの場合で、4枚のAを1人が持っていた場合 150点&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ダウン(アンダートリック) ===&lt;br /&gt;
宣言した側が宣言しただけのトリックを取れなかった場合、相手チームが線の上側に点数を獲得する。宣言した側がノンバルの時は、下回った分1トリックにつき50点が、バルの時は、下回った分1トリックにつき100点がその点数となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ダブル ===&lt;br /&gt;
宣言にダブルがかけられていた場合、コントラクトを達成すると、線の下側に記入される点数は2倍になる。さらにボーナス50点を線の上側に記入する。オーバートリックは1トリックにつき、達成した側がノンバルなら100点を、バルなら200点を加算する。リダブルしていた場合は、以上の点数はすべてダブルのときの2倍になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
スラムボーナス、ラバーボーナスはダブル、リダブルの有無にかかわらず同一の点数である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ダブルがかけられたコントラクトを達成できなかった場合、ペナルティ(相手チームに加算する点数)は、以下の通りとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 宣言した側がノンバルの場合は、1ダウンの際は1トリックについて100点、2,3ダウンの際は、1トリックを越えた分について1トリック200点、4以上のダウンの際は、3トリックを越えた分について1トリック300点となる。&lt;br /&gt;
* 宣言した側がバルの場合は、1ダウンの際は1トリックについて200点、2以上のダウンの際は、1トリックを越えた分について1トリック300点となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
コントラクトした側がリダブルをかけていた場合、これらの点数はダブルのときの2倍となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 最近の点数計算に関する変更 ===&lt;br /&gt;
もし、古いブリッジの本を見る機会がある場合、スコアのルールについて違いに気がつくかもしれない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ノンバルの側がダブルをかけられてダウンした場合、前は最初の1トリックが100点、その後が各200点というだけのペナルティだったが、これだとグランドスラムを狙ってコントラクトする側に関しての対抗条件としては弱いので変更された。バルでグランドスラムをかけると、点数は(スラムボーナスとして)1500点、(ゲームボーナスとして)500点、(メジャースートでのトリック達成点として)210点を確保するので、この点数は合計2210点となるのだが、ノンバルの側がダブルをかけられて11ダウンすると、ペナルティは(昔の方式では)2100点となるわけで、これは考慮できる犠牲であったわけだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、リダブルをかけられた際にもらえるボーナスも、古いルールでは50点のままだった。これは100点に変更されているが、このためマイナースートで5以上のコントラクトをし、リダブルして、オーバートリックを取ることが、ダブルされずにスモールスラムを取るよりも価値のあることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この変更はまずデュプリケートブリッジにおいて行われ、ラバーブリッジでも1993年に変更された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 得点早見表 ===&lt;br /&gt;
{|class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|+ トリックスコア&lt;br /&gt;
! 宣言の種類 || 通常 || ダブル || リダブル&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! {{cards|d}}・{{cards|c}}の各オッドトリック &lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 20 &lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 40&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 80&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! {{cards|s}}・{{cards|h}}の各オッドトリック&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 30&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 60&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 120&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! NTの最初のオッドトリック&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 40&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 80&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 160&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! NTの2つめ以降の各オッドトリック&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 30&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 60&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 120&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{|class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|+ コントラクト達成&lt;br /&gt;
! 通常 || ダブル || リダブル&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 0&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 50&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 100&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{|class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|+ オーバートリック&lt;br /&gt;
! rowspan=&amp;quot;2&amp;quot; | 宣言の種類&lt;br /&gt;
! rowspan=&amp;quot;2&amp;quot; | 通常 &lt;br /&gt;
! colspan=&amp;quot;2&amp;quot; | ノンバル&lt;br /&gt;
! colspan=&amp;quot;2&amp;quot; | バル&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!  ダブル || リダブル || ダブル || リダブル&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! {{cards|d}}・{{cards|c}}&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 20&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;2&amp;quot; align=&amp;quot;right&amp;quot; |  100 &lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;2&amp;quot; align=&amp;quot;right&amp;quot; |  200 &lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;2&amp;quot; align=&amp;quot;right&amp;quot; |  200 &lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;2&amp;quot; align=&amp;quot;right&amp;quot; |  400 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! {{cards|s}}・{{cards|h}}・NT&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 30 &lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{|class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|+ アンダートリック（相手が得点）&lt;br /&gt;
!&lt;br /&gt;
! colspan=&amp;quot;3&amp;quot; | ノンバル &lt;br /&gt;
! colspan=&amp;quot;3&amp;quot; | バル&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! || 通常 || ダブル || リダブル || 通常 || ダブル || リダブル&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 1ダウン&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 50&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 100&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 200&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 100 &lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 200&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 400&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 2ダウン&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 100&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 300&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 600&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 200&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 500&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 1000&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 3ダウン&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 150&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 500&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 1000&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 300&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 800&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 1600&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 4つめ以降追加&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 50&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 300&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 600&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 100&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 300&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 600&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{|class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|+ スラム&lt;br /&gt;
!&lt;br /&gt;
! ノンバル || バル&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! スモールスラム &lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 500&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 750&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! グランドスラム&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 1000&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 1500&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{|class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|+ ラバー&lt;br /&gt;
! 相手がノンバル || 相手がバル&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 700&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 500&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{|class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|+ アナー&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! NTで一手に4枚のA&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 150&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 一手にアナー5枚&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 150&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 一手にアナー4枚&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;right&amp;quot; | 100&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== デュプリケートブリッジ ==&lt;br /&gt;
他のカードゲームと同様、ブリッジの点数は手札の良し悪しに依存する。このことを回避し、ブリッジを運のゲームから技のゲームとするため、ブリッジクラブや大会でのスコアはそれ自身では評価せず、同じ手を用いて他のプレイヤーが戦ったときと比べて評価される。これには大きく分けて2つのシステムがある。ペア戦とチーム戦である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ペア戦 ===&lt;br /&gt;
ペア戦では、何回か戦った後に、全員のスコアが比較される。各ペアは自分たちより低い点数だったペアの数×2点を、自分たちと同じ点数だったペアの数×1点を各ゲームについて得る。そして全ゲームの総和で順位を決める。多くの場合点数は%で表す。100%ならある手でそのペアが他全員より良い得点だったということで、50%なら平均的だったということである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アメリカや日本では、勝ったときは1点、同じ点なら1/2点として同様の計算をする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== チーム戦 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
チーム戦では、各ペアは2ペアで構成されるチームの1員となる。各ディールは2度ずつ実行される。2度目は、同じチームの敵が使っていた手を用いてプレイする。もちろん、チーム内では使った手の内容について全てのディールが終わるまで語り合ってはいけない。各ディールが2度ずつ行われたら、各ディールについてスコアを比較する。そして、全スコアは各プレイを比較することで行う。たとえば、あるペアが+1000点獲得し、同じ手で同チームが失点を-980点に押さえた場合、そのチームのスコアはそのディールについて+20点となる。通常、この数字は、大きい点数の場合は圧縮される。さもなければ、1度でもスラム勝ちすれば他のゲームが意味のないものになってしまうからだ。&#039;&#039;&#039;ボード・ア・マッチ&#039;&#039;&#039;の場合は、勝ち負けのみで比較される。&#039;&#039;&#039;IMP&#039;&#039;&#039;の場合は、点数の差は0～24の点数に圧縮される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== デュプリケートブリッジの点数 ===&lt;br /&gt;
デュプリケートブリッジは、クラブやトーナメントで遊ばれているが、これらはそれぞれ独立して扱われ、ラバーの一部としては見られない。これらの違いは単純化され、スコアリングは上記の通りとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
デュプリケートブリッジでは、コントラクトを達成した場合の点数はボーナスも含め上記に書かれた通りである。(6トリックを超えた分について、クラブ、ダイヤでは1トリックにつき20点、ハート、スペードについては30点、ノートランプの際は30点+10点ボーナス。ダブル、リダブルも考慮する。)コントラクトによって達成される点が100点以上となる場合は、ゲーム達成とみなし、バルネラブルでない場合は300点を、バルネラブルの場合は500点を加えて獲得する。100点を達成出来なかった場合も、この点は次の手には持ち越されないが、50点のボーナスは加えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのほかの点数については同様である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
デュプリケートブリッジでは、各ゲームについて、「両チームともバルネラブルでない」「NS側だけバルネラブル」「EW側だけバルネラブル」「両チームがバルネラブル」という順番で行い、その後はディーラーとバルネラブルの組み合わせを変えるために、一人ずつずらしてくり返す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ビッディングボックスとビッディングスクリーン ===&lt;br /&gt;
[[Image:Bridge bidding sequence.jpg|thumb|250px|ビッディングボックスを使ったオークション]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
試合では、&#039;&#039;&#039;ビッディングボックス&#039;&#039;&#039;がよく使われる。これはビッディングの各内容を書いた&#039;&#039;&#039;ビッディングカード&#039;&#039;&#039;をまとめて各人に持たせたもので、これを使うことで、声を使うことで起こる禁止された情報交換を防ぐ事が出来る。たとえば、ただ「ダブル」というのと、強い調子で「&#039;&#039;&#039;ダブル&#039;&#039;&#039;」と言うようなものに違いを持たせているような場合である。国際的な試合や国内のトップ戦の場合は、&#039;&#039;&#039;ビッディングスクリーン&#039;&#039;&#039;が使われる。机上に立てることで、ビッドが終了するまで自分のパートナーを見ることが出来なくなる(声を聞くこともできない)。スクリーンの両側にはそれぞれ2名がいることになる。全てのアラートは書かれたもので行われ、各プレイヤーは自分と自分のパートナー両方のビッドをアラートする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらの問題の多くはオンラインのブリッジで回避される。許可されない情報交換による不正は回避される。しかし、もっとあからさまな不正(たとえば、別回線を用いて、パートナーと電話で会話して情報交換するなど)は可能である。幸運にも、上級者のほとんどはこういった不正を察知できる。それに、電子的に手札は保存されているので、苦情は簡単適切に解決することが可能である。オンラインブリッジにはそのほか、&#039;&#039;&#039;リボーク&#039;&#039;&#039;(ルール違反なカードプレイ)や順番飛ばしなどのルール違反が不可能であるという利点がある。ソフトウェアがルール違反なプレイをすることを防ぐのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ビッディングシステムとコンベンション ==&lt;br /&gt;
パートナー同士は自分の持っている手についてお互いに情報交換することが許されているが、これは下記の2つによって制限される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 情報交換は、ビッディングもしくはカードプレイによってのみ行うことができ、そのほかの方法によって行うことは許されない。&lt;br /&gt;
* 個々の情報交換手段に対し、あらかじめどういった意味を持たせる取り決めをしたか、相手チームにも説明する義務がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
したがって、何を目的として情報交換しているかは、情報交換と同時に相手サイドにもある程度は知られることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パートナー同士で予め合意した、コールが意味する様々な取り決めを集めたものを、&#039;&#039;&#039;ビッディングシステム&#039;&#039;&#039;と呼ぶ。ビッディングシステムには、ゴーレン、エーコール（[[:en:Acol]]）、スタンダードアメリカン（[[:en:Standard American]]）、プレシジョン（[[:en:Precision Club]]）、JCBLスタンダードなど、様々なものがあり、ある名称が別のシステムを包含しているものだったり、同じ名称でも細部の変更がある場合がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本で主に使われているJCBLスタンダードにも4枚メジャーと5枚メジャーと呼ばれるバリエーションがあり、微妙に条件が違っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ビッドの際、宣言したトリック数や切り札スートとは全く違う意味を込める場合があり、これを&#039;&#039;&#039;コンベンション&#039;&#039;&#039;と呼ぶ。多くのコンベンションが開発されているが、有名なのはステイマン（[[:en:Stayman convention]]）、ジャコビ・トランスファー（[[:en:Jacoby transfer]]）、ブラックウッド（[[:en:Blackwood convention]]）の各コンベンションである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;例1&lt;br /&gt;
:ステイマンを採用している場合には、オープナー（最初にビッドしたパートナー）が1NTでビッドを開始した時にレスポンダー（オープナーのパートナー）が{{cards|2c}}をコールすることに関して、チーム内では「{{cards|c}}を切り札にしたい」という意味を持たせずに「{{cards|h}}や{{cards|s}}を最終的に切り札にしたいと持ちかけた」という意味を持たせる。オープナーは{{cards|h}}や{{cards|s}}の枚数で多いものがあるならそのスートの2の代のコールで、もし両方ともない場合は{{cards|2d}}のコールで返答する。2NTのオープン（ビッドの開始）でも同様の取り決めをすることができ、この場合は3の代のコールを同様に使う。&lt;br /&gt;
;例2&lt;br /&gt;
:ジャコビ・トランスファーを採用している場合、オープナーが1NTとビッドした時にレスポンダーが{{cards|2d}}をコールすると「{{cards|d}}を切り札にしたい」と宣言したのではなく、「{{cards|h}}を切り札にしたい（5枚以上ある）」と情報を述べたことにする。オープナーは{{cards|2h}}もしくはそれ以上の{{cards|h}}で返答する。同様な状況でのレスポンダーの{{cards|2h}}コールは{{cards|s}}に関する情報として用いる。&lt;br /&gt;
;例3&lt;br /&gt;
:ブラックウッドを採用している場合、ある状況で4NTというビッドがあった場合は「4NTでプレイしたい」と宣言したのではなく「スラム勝ちを狙うためにAの枚数を問うている」とする。パートナーは5の代のスートでAの枚数を返答すると決められている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== テクニック ==&lt;br /&gt;
=== ディクレアラーによる基本テクニック ===&lt;br /&gt;
初心者でも以下の戦法は遊ぶ際に知っておくべきである。&lt;br /&gt;
; ドロートランプ&lt;br /&gt;
:他のスートをプレイする前に切り札をプレイして、相手側の切り札をすべて出させ、切り札で切られることを事前に防ぐテクニック。&lt;br /&gt;
; フィネス&lt;br /&gt;
:自分のカードより強いカードが右のオポーネント（オンサイド）にあると仮定してカードを出すことで、50%の確率でトリックを取ろうとするテクニック。&lt;br /&gt;
; エスタブリッシュ&lt;br /&gt;
:あるスートを何度もリードし、オポーネントがそのスートを持っていない状態にすること。以降このスートでは（切り札を除けば）確実に勝てるようになる。&lt;br /&gt;
; クロスラフ&lt;br /&gt;
:ダミーと自分の手との間でお互いが持っていないカードをリードし、切り札を出す（ラフ）ことで交互にトリックを取るテクニック。&lt;br /&gt;
; ホールドアップ&lt;br /&gt;
:作戦上わざと負けることで自分の側を有利にするテクニック。相手の通信を遮断するために行う。&lt;br /&gt;
; ハンドリング&lt;br /&gt;
:ダミーと自分の手の間でリード権をやりとりするテクニック。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ディクレアラーによる中級テクニック ===&lt;br /&gt;
大会に出るなら、以下のテクニックは知っておくべきである。&lt;br /&gt;
; 手札のカウンティング&lt;br /&gt;
; クー (coup)&lt;br /&gt;
; ダック&lt;br /&gt;
:スクイズやエンドプレイの際の戦法として行ったり、ディフェンダーのエントリーを妨害して自分の手の連携を行うために行う。&lt;br /&gt;
; ダミーリバーサル&lt;br /&gt;
:切り札の長い方の手で何度もラフし、その後で枚数の少ない方の切り札でドロートランプを行うことで、通常より多くのトリックをとるプレイ。&lt;br /&gt;
; エンドプレイ&lt;br /&gt;
:スローインやスクイズなど、手の持ち札が少なくなった状況で、ディクレアラーにとって有利な札をディフェンダーから無理やり出させるプレイ。&lt;br /&gt;
; Morton&#039;s Fork Coup&lt;br /&gt;
; カウントの修正&lt;br /&gt;
; セーフティプレイ&lt;br /&gt;
:オーバートリックを狙うのではなく、確実にコントラクトを達成するための「安全なプレイライン」&lt;br /&gt;
; スクイズ&lt;br /&gt;
:ディフェンダーが複数のスーツを守っている場合に、そのどちらかを捨てさせるテクニック。&lt;br /&gt;
; トランプ・クー&lt;br /&gt;
; アボイダンス&lt;br /&gt;
:フィネスを行う場合などに、リード権を得ては困る側のディフェンダーにだけは負けないようにプレイする方法。&lt;br /&gt;
; スローイン&lt;br /&gt;
:ディフェンダーからリードするとトリックを損するようなカード配置を作ってからそのディフェンダーに負け、不利なリードを強いるテクニック。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ディフェンダーによる基本テクニック ===&lt;br /&gt;
; オープニングリード&lt;br /&gt;
:4thベスト、トップオブシークエンス、トップオブナッシングなどの一般的な取り決めがあり、これを守ることで、ディフェンダー間の情報伝達を行う。&lt;br /&gt;
;サードハンドハイ&lt;br /&gt;
:パートナーのスモールのリードに対しては、自分の最も高いカードをプレイし、パートナーの絵札が昇格するように協力すること&lt;br /&gt;
;セカンドハンドロー&lt;br /&gt;
:ディクレアラーまたはダミーからのリードに対して、2番手はロウカードをプレイし、パートナーが相手の絵札を捕まえてくれることを期待する。&lt;br /&gt;
;フォローは下から&lt;br /&gt;
:複数枚の同格のカード（KとQ、10と9など）を持っているときは、一番低いものをフォローする。&lt;br /&gt;
;リードは上から&lt;br /&gt;
:「フォローは下から」に対して、トップオブシークエンスのリードの約束について言ったもの。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ディフェンダーによる中級テクニック ===&lt;br /&gt;
; エンドプレイやスクイズの回避&lt;br /&gt;
:ホールドアップによりディクレアラーとダミーの通信を遮断するなどして、エンドプレイにさせない。&lt;br /&gt;
; 手札のカウンティング&lt;br /&gt;
; 競りの情報を元にしたオープニングリード&lt;br /&gt;
:オークションの内容から、他のハンドを推測する。&lt;br /&gt;
; シグナル&lt;br /&gt;
:あらかじめパートナー間で決めたカードの出し方で、そのスーツの絵札の有無や枚数、あるいは次にリードして欲しいスーツなどをパートナーに知らせる。&lt;br /&gt;
; アッパーカット（プロモーション）&lt;br /&gt;
:パートナーが自分とディクレアラーもしくはダミーの両方にボイドとなっているスーツをリードしたときに、自分がラフすることでディクレアラーもしくはダミーにオーバーラフを強制し、トランプの絵札を減じることでドロートランプを妨げる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== インターネットでのブリッジ ==&lt;br /&gt;
インターネット上に、ブリッジを遊ぶためのサーバがある。フリーなものもあるが、登録が必要なものもある。OKBridgeは、インターネット上のブリッジサービスでもっとも古いものであるが、愛好者の間ではもっともポピュラーである。ACBL（アメリカコントラクトブリッジ連盟）は、自営で登録制のブリッジサービスを始めたが、あまり成功していない。フリーのサーバは、不正を監視していないし、プレイに関しては低品質であることが多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
オンラインブリッジにはいくつかの利点がある。&lt;br /&gt;
* いつ遊ぶか決めることが出来る。クラブでのゲームは19時から22時までとなるかもしれない。対してオンラインなら、19時から21時まで、とか17時から23時まで、とすることが出来る。&lt;br /&gt;
* 対戦相手を決める事が出来る。クラブでのゲームの場合、弱すぎたり、マナーがなっていなかったり、あまりに強い人と対戦することを強いられるかもしれない。オンラインなら、ほぼ同じ能力の相手と戦うことが出来る。&lt;br /&gt;
* レーティングシステムが正確である。ACBLマスターポイントシステムは、あなたがどのくらい出来るか、ではなく、どのくらいプレイしてきたか、を測定している。多くのオンラインサービスでは、チェスのELOシステムに近いレーティングを採用している。このレーティングシステムも完璧ではないが、そこそこ良い評価を下してくれる。&lt;br /&gt;
* コンベンションに関する制限が少ない。対戦相手を選べるため、コンベンションに対する制限はないのである。多くのプレイヤーは、コンベンションに対する制限があるため、ACBLを嫌っている。&lt;br /&gt;
* オンラインでは不正を監視することが簡単である。事故的に不正な情報交換をしてしまう羽目になることはオンラインでは少ない。故意の情報交換、たとえば電話で話し合うことなどはより簡単ではある。しかしながら、各ビッドとプレイに関しては完璧な記録が残っているので、上級者にはその後で不正をしたことはわかる。不正をしたと1度や2度苦情を言われたくらいでサーバから排除されることはないだろうが、常習者をあぶり出すことは簡単だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もちろん、オンラインプレイには欠点もある。&lt;br /&gt;
* 対戦相手を選ぶ事に関して。1度か2度良い勝ち方をすれば、対戦相手は消えるだろう。もしその場で組んだパートナーで対戦して、自分が足を引っ張れば、パートナーは去ってしまうだろう。&lt;br /&gt;
* 現実世界での対戦ではないということで、マナーがよくない者がいる。とはいえこれは主観的な意見ではある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 用語 ==&lt;br /&gt;
; トランプ&lt;br /&gt;
: 切り札のこと。スペード、ハート、ダイヤ、クラブのどれを切り札にするかはオークションで決定される。&lt;br /&gt;
; ラフ&lt;br /&gt;
: 切り札以外のスーツが出されているトリックで、切り札のスーツを使ってそのトリックを取ること、あるいは取ろうとすること。&lt;br /&gt;
; ビッド&lt;br /&gt;
: 切り札の種類と、取るトリック数の宣言。&lt;br /&gt;
; コール&lt;br /&gt;
: ビッド・パス・ダブル・リダブルをまとめてコールと呼ぶ。&lt;br /&gt;
; パス&lt;br /&gt;
: ビッドもダブルもリダブルもしないこと。誰かがオープンした後、これが3回続くとビッドは終了する。&lt;br /&gt;
; パスアウト&lt;br /&gt;
: 誰もオープンせずに４人全員がパスすること。そのボードは終了し、スコアは双方とも０点である。&lt;br /&gt;
; メジャースート&lt;br /&gt;
: ハートとスペード。マイナーより重視される。&lt;br /&gt;
; マイナースート&lt;br /&gt;
: クラブとダイヤモンド。&lt;br /&gt;
; スラム&lt;br /&gt;
: 12ないし13トリックを取る宣言。成功すれば大きなボーナス点を得られる。&lt;br /&gt;
; ゲーム&lt;br /&gt;
; ラバー&lt;br /&gt;
; ダブル&lt;br /&gt;
; ディクレアラー&lt;br /&gt;
; ダミー&lt;br /&gt;
; ディフェンダー&lt;br /&gt;
; ボード&lt;br /&gt;
; ノートランプ&lt;br /&gt;
: 切り札（トランプ）を設定しないこと、あるいは設定しないコントラクト&lt;br /&gt;
; ACBL&lt;br /&gt;
; OKBridge&lt;br /&gt;
; ディレクター&lt;br /&gt;
; リボーク&lt;br /&gt;
; リード・アウト・オブ・ターン&lt;br /&gt;
: 本来リードするはずでない人がリードしてしまうこと。所定のペナルティが課される。&lt;br /&gt;
; バルネラブル&lt;br /&gt;
; パートスコア&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連する作品 ==&lt;br /&gt;
米英では一般的なカードゲームであるため、「ブリッジをプレイする」という場合、普通はコントラクトブリッジのことである。小説や映画などにも頻繁に登場するが、ルールの説明が本編にないことがほとんどであり、ミステリー小説などでトリックとして使われると、一般的でない国の人間にはアンフェアとされることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[ひらいたトランプ]] - [[アガサ・クリスティ]]の代表作。ブリッジがトリックに関わるため、ルールを知らない人間には理解しにくい。&lt;br /&gt;
*[[007 ムーンレイカー]] -[[イアン・フレミング]]の小説。007が大金を賭けてブリッジで勝負をする。映画版（映画版シリーズ第11作）ではカットされている。&lt;br /&gt;
*トランプ殺人事件 -[[竹本健治]]のミステリー小説。作品中に用語集が挿入されている。&lt;br /&gt;
*[[黒い賭博師]]（1965年の日活映画）[[小林旭]]演ずるギャンブラー氷室浩次が、『007 ムーンレイカー』のイカサマ手札を利用している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[トランプ]]&lt;br /&gt;
* [[カードゲーム]]&lt;br /&gt;
* [[トリックテイキングゲーム]]&lt;br /&gt;
* [[セブンブリッジ]] - ブリッジではなくラミー系のゲーム。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.jcbl.or.jp/ 日本コントラクトブリッジ連盟] (JCBL)&lt;br /&gt;
* [http://www.worldbridge.org/ World Bridge Federation] 世界ブリッジ連盟&lt;br /&gt;
* [http://www.acbl.org/ American Contract Bridge League] 米国コントラクトブリッジ連盟&lt;br /&gt;
* [http://www.okbridge.com/ OKBridge]&lt;br /&gt;
* [http://www.bridgebase.com/ Bridge Base Online]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{トランプ}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:こんとらくとふりつし}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:トリックテイキングゲーム]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Link FA|sk}}&lt;br /&gt;
{{Link FA|eo}}&lt;br /&gt;
{{Link GA|eo}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.231.47.46</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E5%B1%95%E8%A6%A7%E4%BC%9A%E3%81%AE%E7%B5%B5&amp;diff=77341</id>
		<title>展覧会の絵</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E5%B1%95%E8%A6%A7%E4%BC%9A%E3%81%AE%E7%B5%B5&amp;diff=77341"/>
		<updated>2014-05-20T12:10:52Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.231.47.46: /* ELPのロック版とそれ以降の発展 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{otheruses}}&lt;br /&gt;
{{試聴&lt;br /&gt;
 |header = {{PAGENAME}}（原曲版）&lt;br /&gt;
 |filename     = Mussorgsky Pictures at an Exhibition Part1.ogg&lt;br /&gt;
 |title        = プロムナード、小人&lt;br /&gt;
 |filename2    = Mussorgsky Pictures at an Exhibition Part2.ogg&lt;br /&gt;
 |title2       = プロムナード、古城&lt;br /&gt;
 |filename3    = Mussorgsky Pictures at an Exhibition Part3.ogg&lt;br /&gt;
 |title3       = プロムナード、テュイルリーの庭&lt;br /&gt;
 |filename4    = Mussorgsky Pictures at an Exhibition Part4.ogg&lt;br /&gt;
 |title4       = ビドロ&lt;br /&gt;
 |filename5    = Mussorgsky Pictures at an Exhibition Part5.ogg&lt;br /&gt;
 |title5       = プロムナード、卵の殻をつけた雛の踊り&lt;br /&gt;
 |filename6    = Mussorgsky Pictures at an Exhibition Part6.ogg&lt;br /&gt;
 |title6       = サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ&lt;br /&gt;
 |filename7    = Mussorgsky Pictures at an Exhibition Part7.ogg&lt;br /&gt;
 |title7       = プロムナード、リモージュの市場、カタコンベ、死せる言葉による死者への呼びかけ&lt;br /&gt;
 |filename8    = Mussorgsky Pictures at an Exhibition Part8.ogg&lt;br /&gt;
 |title8       = 鶏の足の上に建つ小屋（バーバ・ヤーガ）、キエフの大門&lt;br /&gt;
 |description8 = Bernd KruegerによるMIDIデジタルピアノ演奏&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
組曲『&#039;&#039;&#039;展覧会の絵&#039;&#039;&#039;』（てんらんかいのえ、{{Lang-ru-short|&#039;&#039;Картинки с выставки&#039;&#039;}}; {{Lang-fr-short|&#039;&#039;Tableaux d&#039;une exposition&#039;&#039;}}）は、[[1874年]]に[[ロシア帝国|ロシア]]の作曲家[[モデスト・ムソルグスキー]]によって作曲されたピアノ[[組曲]]である。後世に編曲された管弦楽版によっても知られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 作品の概要 ==&lt;br /&gt;
=== 成立 ===&lt;br /&gt;
『展覧会の絵』はムソルグスキーが、友人であった[[ヴィクトル・ハルトマン]]（ガルトマンとも）の遺作展を歩きながら、そこで見た10枚の絵&amp;lt;ref&amp;gt;後述するNHKのモチーフとなあった絵の調査後も、そもそも10枚の絵なのか、またムソルグスキーがガルトマンの絵だけを題材にしているのかについては異論がある。&amp;lt;/ref&amp;gt;の印象を音楽に仕立てたものである。ロシアにとどまらずフランス、ローマ、ポーランドなどさまざまな国の風物が描かれている。また、これらの10枚の絵がただ無秩序に並ぶのではなく、「プロムナード」という短い前奏曲あるいは間奏曲&amp;lt;ref name=&amp;quot;p&amp;quot;&amp;gt;自筆譜ではいわゆる第1と第5のみが「プロムナード」と題されている。各種校訂版ではリムスキー・コルサコフらが出版に際して一律にプロムナードとつけたものと判断している。&amp;lt;/ref&amp;gt;が5回繰り返して挿入されるのが特徴的で、この「プロムナード」はムソルグスキー自身の歩く姿を表現している(使われるごとに曲想が変わるので、次の曲の雰囲気と調性とを的確に感じて弾くことが大切である。ドレミ楽譜出版社刊『ムソルグスキー「展覧会の絵」全曲集』より)といわれる。「プロムナード」、「古城」、「卵の殻をつけた雛の踊り」、「ビドロ」、「鶏の足の上に建つ小屋 - バーバ・ヤガー」、「キエフの大門」など覚えやすいメロディーと緩急自在の構成（ユーモラスな曲、優雅な曲、おどろおどろしい曲、重々しい曲など）から、ムソルグスキーの作品の中でももっとも知られた作品の一つである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 様々な編曲 ===&lt;br /&gt;
また、古今東西の多くの音楽家によりさまざまな編曲がなされているのも特徴である。&lt;br /&gt;
*[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]による管弦楽への編曲&lt;br /&gt;
*[[エマーソン・レイク・アンド・パーマー]] (ELP) によるロック版&lt;br /&gt;
*[[冨田勲]]の[[シンセサイザー]]版&lt;br /&gt;
*[[山下和仁]]の[[クラシック・ギター|ギター]]・ソロ版&lt;br /&gt;
などが有名である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、この音楽を主題にした次のような作品なども知られている。&lt;br /&gt;
*[[ワシリー・カンディンスキー|カンディンスキー]]の舞台芸術&lt;br /&gt;
*[[手塚治虫]]の実験アニメーション（音楽は[[冨田勲]]編曲による。ただし、[[展覧会の絵 (冨田勲のアルバム)|シンセサイザー版]]とは別）&lt;br /&gt;
*[[エマーソン・レイク・アンド・パーマー]]のアルバムタイトル&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 組曲の構成 ==&lt;br /&gt;
絵の印象を描いた10曲と、「プロムナード」&amp;lt;ref name=&amp;quot;p&amp;quot;&amp;gt;&amp;lt;/ref&amp;gt;5曲（自筆譜では第2プロムナード、第3プロムナード、第4プロムナードは[[調号]]を用いずに臨時記号で書かれている。&amp;lt;ref&amp;gt;ドレミ楽譜出版社刊『ムソルグスキー「展覧会の絵」全曲集』より&amp;lt;/ref&amp;gt;）、「死せる言葉による死者への呼びかけ」の16曲からなる。ただし、ラヴェル版は第6曲と第7曲の間の第5プロムナードが削除された&amp;lt;ref&amp;gt;ラヴェル研究家のアービー・オレンシュタインによる「第1プロムナードの繰り返しという印象を避けるためでは」という推測以外にもいくつかの説が唱えられているが、どれも裏付ける証拠はない。確実なのは、自筆譜を参照できなかったラヴェルはムソルグスキーが第1と第5のみに「プロムナード」と指示したことを知らなかった点である。&amp;lt;/ref&amp;gt;15曲で、これにならった版も多い{{疑問点|date=2008年9月}}。「死せる言葉による死者への呼びかけ」は「プロムナード」の変奏であり、6番目の「プロムナード」と位置づけることもできる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なおムソルグスキーは各プロムナードと直後の曲、「リモージュの市場」から「死せる言葉による死者への呼びかけ」、「バーバ・ヤガー」と「キエフの大門」を[[アタッカ]]で繋ぐ指示をしている&amp;lt;ref&amp;gt;リムスキー＝コルサコフ版ではアタッカの表記がない状態で出版された。ムソルグスキーの指示を知らなかったラヴェルは、少なくとも初版スコアでは「リモージュの市場」から「死せる言葉による死者への呼びかけ」、「バーバ・ヤガー」と「キエフの大門」のみアタッカを指定している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
!&lt;br /&gt;
!曲名&lt;br /&gt;
!原題&lt;br /&gt;
![[拍子]]&lt;br /&gt;
![[調]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|||bgcolor=#fafad2|第1[[プロムナード]]||bgcolor=#fafad2|Promenade||bgcolor=#fafad2|5/4, 6/4 - 6/4||bgcolor=#fafad2|[[変ロ長調]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
||1||[[ノーム (妖精)|小人（グノーム）]]||Gnomus||3/4 - 4/4, 3/4 - 3/4||[[変ホ短調]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|||bgcolor=#fafad2|第2プロムナード||bgcolor=#fafad2|[Promenade]||bgcolor=#fafad2|5/4,6/4||bgcolor=#fafad2|[[変イ長調]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
||2|| 古城||Il Vecchio castello||6/8||[[嬰ト短調]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|||bgcolor=#fafad2|第3プロムナード||bgcolor=#fafad2|[Promenade]||bgcolor=#fafad2|5/4, 6/4 - 4/4||bgcolor=#fafad2|[[ロ長調]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
||3|| [[テュイルリー宮殿|テュイルリー]]の庭 - 遊びの後の子供たちの口げんか||Tuileries - Dispute d&#039;enfants apr&amp;amp;egrave;s jeux||4/4||[[ロ長調]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
||4|| ビドロ（牛車）||Bydlo||2/4||[[嬰ト短調]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|||bgcolor=#fafad2|第4プロムナード||bgcolor=#fafad2|[Promenade]||bgcolor=#fafad2|5/4, 6/4, 7/4 - 3/4||bgcolor=#fafad2|[[ニ短調]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
||5|| 卵の殻をつけた雛の踊り||Балет невылупившихся птенцов&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
(Ballet des poussins dans leurs coques)&amp;lt;ref name=&amp;quot;f&amp;quot;&amp;gt;作曲者はロシア語でタイトルをつけている。フランス語タイトルはリムスキー・コルサコフによるもの。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
||2/4||[[ヘ長調]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
||6|| サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ||Samuel Goldenberg und Schmuyle||3/4 - 4/4||[[変ロ短調]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|||bgcolor=#fafad2|第5プロムナード||bgcolor=#fafad2|Promenade||bgcolor=#fafad2|5/4, 6/4, 7/4||bgcolor=#fafad2|[[変ロ長調]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
||7|| [[リモージュ]]の市場||Limoges - Le marche||4/4 - 3/4 - 4/4||[[変ホ長調]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
||8|| [[カタコンベ]] - ローマ時代の墓||Catacombae - Sepulchrum Romanum||3/4||[[イ短調]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|||bgcolor=#fff0f5|死せる言葉による死者への呼びかけ||bgcolor=#fff0f5|Cum mortuis in lingua mortua||bgcolor=#fff0f5|6/4||bgcolor=#fff0f5|[[ロ短調]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
||9|| 鶏の足の上に建つ小屋 - [[バーバ・ヤガー]]||Избушка на курьих ножках - Баба-Яга&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
(La cabane sur des pattes de poule - Baba-Yaga)&amp;lt;ref name=&amp;quot;f&amp;quot;&amp;gt;&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
||2/4 - 4/4, 2/4 - 2/4||[[イ短調]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
||10|| [[キエフ]]の大門||Богатырские ворота - в стольном городе во Киеве -&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
(La grande porte de Kiev&amp;lt;ref name=&amp;quot;f&amp;quot;&amp;gt;&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
||2/2 - 4/4||[[変ホ長調]]&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 作曲と編曲の経緯 ==&lt;br /&gt;
=== 原典版（自筆譜） ===&lt;br /&gt;
[[Image:Mussorgsky.jpg|thumb|モデスト・ムソルグスキー]]&lt;br /&gt;
ムソルグスキーは音楽史などでは「[[ロシア5人組]]」と呼ばれる音楽家集団の1人として良く知られているが、ムソルグスキー1人に限って見ると、後年になるほど[[ウラディーミル・スターソフ]]の影響がきわめて大きい。スターソフはロシアの芸術史研究家であり評論家であったが、指導者的な面もあり、多くの若い芸術家の慈父のような役割を果たした。そして彼のサロンには、音楽、絵画、建築、彫刻家などが集まり、ロシア固有の芸術を探求する空気が醸成されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:ViktorHartmann.jpg|thumb|left|ヴィクトル・ハルトマン]]&lt;br /&gt;
[[画像:Catacombae.PNG|thumb|ファクシミリ版17ページ。「カタコンベ」と「死せる言葉による死者への呼びかけ」]]&lt;br /&gt;
1870年ころ、ムソルグスキーは[[ヴィクトル・ハルトマン]]という建築家であり画家でもある男と出会い、交友を結ぶ。しかし[[1873年]]8月4日、ハルトマンは動脈瘤が原因で急死してしまう。ムソルグスキーの落胆ぶりは大きく、残された手紙などによると、ハルトマンの体の異常に気づきながら友人としてなすべきことをしていなかったのではないかと、自責の念にかられている様子がわかる。一方、スターソフはハルトマンの遺作展を開くことにした。ハルトマンの作品を整理することと、ハルトマン未亡人のための資金援助が目的であったと思われる。遺作展は、1874年の2月から3月にかけて、母校であったペテルブルク美術アカデミーにおいて400点の遺作を集めて大々的に開催された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その展覧会から半年後の[[1874年]]7月4日、ムソルグスキーは『展覧会の絵』を完成させた。同年6月24日付のスターソフへの手紙には、この曲について興奮気味に「アイディアが煮えたぎっていて紙に書く暇がない」「今間奏（プロムナード）とそれ以外に（曲集前半の）4曲を書いた」などと書かれており、その前に作曲していた歌曲の完成よりまだ10日程度しかたっていないことから、作業の遅いムソルグスキーにしては珍しく2 - 3週間足らずで一挙に作曲されたものと推測されている。この自筆譜は、現在はレニングラード国立公共M. J. サルティコフ・シェッシュドリン図書館に保存されている（手稿本部門、M. P. ムソルグスキー基礎資料502番、文書番号129）。いわゆる自筆譜とかファクシミリ版と呼ばれているものである。なお原典版・原曲といった場合、本来はムソルグスキーの自筆譜（またはファクシミリ版）を指すが、ファクシミリ版が[[1975年]]まで公開されなかったため、[[1931年]]に出版されたモスクワ音楽院教授のパヴェル・ラム（[[:ru:Ламм, Павел Александрович|Pavel Lamm]]）による校訂版が今でも原典版として広く受け入れられている&amp;lt;ref&amp;gt;ただしラムの校訂についても、改めて自筆譜ファクシミリ版の第2刷を底本にベーレンライター原典版を編纂したクリストフ・フラム（Christoph Flamm）が「ラム版も文字通りの批判校訂版ではない」と指摘しているように、問題点が多々あることが判明している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ムソルグスキーの死とリムスキー＝コルサコフ版 ===&lt;br /&gt;
[[画像:Pictures at the Exhibition 1st edition.jpg|thumb|リムスキー＝コルサコフ版初版表紙]]&lt;br /&gt;
しかしこの『展覧会の絵』はムソルグスキーの生前は、一度も演奏されず、出版もされないままであった。そもそも作曲者本人が、1880年に[[フーゴー・リーマン]]が編纂中であった音楽事典への依頼に応えて書いた原稿の中で「オペラ作曲中の気晴らしに絵画のような作品集を書いた」と、タイトルすら書かないで述べるほど関心を失っていたようである。そして[[1881年]]3月28日、ムソルグスキーは[[アルコール依存症]]と生活苦から衰弱してこの世を去る。今日よく知られる彼の肖像画は、死の3週間ほど前、スターソフの元でやはり懇意であった[[イリヤ・レーピン]]の筆によるものである（レーピンは『ヴォルガの舟曳き』で有名な[[ロシア・リアリズム]]の画家）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幸いにも[[ニコライ・リムスキー＝コルサコフ|リムスキー＝コルサコフ]]がムソルグスキーの遺稿の整理に当たった。そして、『展覧会の絵』のピアノ譜が[[1886年]]に出版され、ついに陽の目を見る。ただしリムスキー＝コルサコフの改訂が目立つため、現在は「リムスキー＝コルサコフ版」として、原典版とは区別されている。改訂は、現在では独創的で斬新とも評価されるムソルグスキーの原典版が、当時の感覚ではあまりに荒削りで、非常識と捉えられる部分もあったためと言われており、時にはリムスキー＝コルサコフがムソルグスキーの音楽を理解していなかったからだとも言われている。しかし、ムソルグスキーの様々な作品の楽譜を世に出した意味は大きく、5人組の中で、リムスキー＝コルサコフが最もその音楽の素晴らしさを認識していた証左といってよい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
特に明確な原典版との相違点は、「ビドロ」がピアノで始まって次第に音量が大きくなる点（原典版ではフォルテッシモで始まる）、「サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ」の最後がC-D♭-C-B♭となる点（原典版はC-♭D-B♭-B♭）。これらは下記のラヴェル版でも踏襲されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== トゥシュマロフ版 ===&lt;br /&gt;
ムソルグスキーの残した音楽の多くが未完成のものであったが、後にさまざまな音楽家がこれを補筆もしくは改訂や編曲をして世に出した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
リムスキー=コルサコフ校訂のピアノ譜の出版の5年後の1891年、リムスキー=コルサコフの弟子であった[[ミハイル・トゥシュマロフ]]がこの曲の最初のオーケストラ編曲を行った。トゥシュマロフ版は5番目以外の「プロムナード」、「小人」、「ビドロ」、「テュイルリーの庭」を省略した短縮版であった。トゥシュマロフ版は通常「トゥシュマロフおよびリムスキー＝コルサコフ編」と表記されているが、リムスキー＝コルサコフが編曲にどこまで関与したかは明らかではない。ただし、トゥシュマロフ版は、発表の年にリムスキー＝コルサコフの指揮によって初演されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ラヴェル版 ===&lt;br /&gt;
[[Image:Maurice_Ravel_1925.jpg|thumb|モーリス・ラヴェル]]&lt;br /&gt;
[[1922年]]、フランスの[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]が、指揮者[[セルゲイ・クーセヴィツキー|クーセヴィツキー]]の依頼で『展覧会の絵』を管弦楽へと編曲した。この編曲版はクーセヴィツキーの率いるオーケストラによって、同年[[10月19日]]（初演）と[[10月26日]]に[[ガルニエ宮|パリのオペラ座]]で演奏され、これをきっかけに一挙にムソルグスキーの『展覧会の絵』は世界的に有名になった。&lt;br /&gt;
{{sound|Modest Mussorgsky - pictures at an exhibition - promenade - allegro giusto, nel modo russico senza allegrezza, ma.ogg|{{PAGENAME}} プロムナード|スキッドモア大学管弦楽団による演奏|align=left}}&amp;lt;br style=&amp;quot;clear:left;&amp;quot; /&amp;gt;&lt;br /&gt;
ラヴェルがこの仕事を引き受けた理由としては、報酬もさることながら当時フランスの音楽家（[[カミーユ・サン＝サーンス|サン＝サーンス]]や[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]、ラヴェルなど）にムソルグスキーの和音を多用する様式が評価されつつあったこと、ムソルグスキーのピアノ曲は管弦楽曲を作るための習作のような作り&amp;lt;ref&amp;gt;一例として「カタコンベ」の、伸ばしている音に対してクレッシェンドをかけるというピアノでは演奏不可能な指定が挙げられる。&amp;lt;/ref&amp;gt;であったことなどが挙げられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ラヴェルは作曲に当たり、友人の[[ミシェル・ディミトリー・カルヴォコレッシ|カルヴォコレッシ]]に譜面の手配を依頼した。その手紙（1922年2月3日付）には「ムソルグスキーの自筆譜（の入手）を期待している。何とかして入手する方法はないだろうか。」と書き、ラヴェルが当時の出版譜にはリムスキー＝コルサコフの改変があることを知っており、自身はムソルグスキーのオリジナルから編曲をする意図であったことが判っているが、カルヴォコレッシは自筆譜を入手できなかったようで、最終的にはリムスキー＝コルサコフ版に基づき&amp;lt;ref&amp;gt;ラヴェルの自作編曲にもみられるような一部補筆の他に、上述した第5プロムナードの省略が行われている。&amp;lt;/ref&amp;gt;、1922年の3月からまず「キエフの大門」に着手して5月1日に完成、続けて残りを初秋頃までかけて編曲を行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その編曲は特に冒頭のトランペットのファンファーレ的な「プロムナード」に象徴されるように、ラヴェルの異名である「オーケストラの魔術師」どおりの華麗で色彩的なもので、原曲のロシア的な要素を重視するよりもオーケストラ作品としての華やかな色彩を与えることを企図し、そして成功している。ラヴェルの編曲は粗野な趣の『展覧会の絵』に新しい生命を与えることに成功したと言ってよい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお楽譜は1929年に[[ロシア音楽出版]]から出版され、現在は同社の業務を引き継いだ[[ブージー・アンド・ホークス]]などで刊行されている。&lt;br /&gt;
{{管弦楽編成&lt;br /&gt;
|フルート=3（2, 3番は[[ピッコロ|Fl.picc.]]持ち替え）&lt;br /&gt;
|オーボエ=3（3番は[[コーラングレ|C.I.]]持ち替え）&lt;br /&gt;
|クラリネット=2, [[バスクラリネット|Cl.b.]]1&lt;br /&gt;
|ファゴット=2, [[コントラファゴット|Cfg.]]1&lt;br /&gt;
|木管楽器=[[アルトサクソフォーン|Sax.a.]]1&lt;br /&gt;
|ホルン=4&lt;br /&gt;
|トランペット=3&lt;br /&gt;
|トロンボーン=3&lt;br /&gt;
|チューバ=1&lt;br /&gt;
|金管楽器=&lt;br /&gt;
|ティンパニ=●&lt;br /&gt;
|打楽器=[[シンバル|Ptti.]], [[スネアドラム|Tamb.]], [[バスドラム|Gr.C.]], [[タムタム|Tam-T.]], [[グロッケンシュピール|Glsp.]], [[シロフォン|Xylo.]], [[トライアングル|Trg.]], [[ラチェット (楽器)|Crec.]], [[むち (楽器)|Fouet]], [[チューブラーベル|Camp.]]&lt;br /&gt;
|第1ヴァイオリン=●&lt;br /&gt;
|第2ヴァイオリン=●&lt;br /&gt;
|ヴィオラ=●&lt;br /&gt;
|チェロ=●&lt;br /&gt;
|コントラバス=●&lt;br /&gt;
|その他=[[チェレスタ|Cel.]], [[ハープ|Arpa]] 2}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== さまざまな編曲 ===&lt;br /&gt;
ラヴェル版が世界的な人気を得たが、同版の演奏権はクーセヴィツキーが5年間独占する契約だったことや、著作権の問題&amp;lt;ref&amp;gt;ラヴェルが編曲した当時、ムソルグスキーの著作権は既に失効していた。&amp;lt;/ref&amp;gt;で他の音楽家によるオーケストラ編曲も多数試みられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その中で特に有名なものは、指揮者[[レオポルド・ストコフスキー|ストコフスキー]]による編曲版である。冒頭の「プロムナード」の旋律が第一ヴァイオリンのみの[[ユニゾン]]で演奏される。[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]版のフランス風に洗練された編曲に対し、原曲のロシア的な響きを生かすという意図のもとに編曲されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== リヒテルのソフィア・ライブ（原典版の復活） ===&lt;br /&gt;
ラヴェル編曲のオーケストラ版の人気に伴い原曲（ピアノ曲）の方も、少しずつ演奏されるようになってきた。しかし難曲であったため、これを弾けるのは「[[ヴィルトゥオーゾ]]の証明」のような扱いになりかけていたし、むしろ管弦楽版が原曲であるかのような扱いでもあった。また[[1931年]]にラムの校訂版が出版されてからも、演奏されることはあってもリムスキー＝コルサコフ版だった。そうした中、ロシアのピアニスト、[[スヴャトスラフ・リヒテル|リヒテル]]のレコードが新しい扉を開く。[[1958年]]のことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時はアメリカとソ連（現在のロシア）の対立が激化し、[[冷戦|東西冷戦]]の真っ最中である。ロシアのピアニストたちは高い評価を得ていたが、そのレコードや演奏が西側諸国で聞ける機会はなかなかなく、リヒテルも幻のピアニストと言われていた。そのリヒテルの[[ソフィア (ブルガリア)|ソフィア]]（ブルガリアの首都）でのコンサート録音がレコードとして発売された。曲目の中に『展覧会の絵』があった。西側諸国ではまだ殆ど聴くことができなかった原典版に忠実な演奏であった。リヒテルのすさまじいばかりの演奏技術も衝撃的で、これが原典版がメジャーになるきっかけと言って良い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在、入手可能なCDやレコードを整理すると、この[[1958年]]を境にして、『展覧会の絵』のピアノ曲の録音が、リムスキー＝コルサコフ版から原典版へとがらりと切り替わるのがよくわかる。原典版は、ラヴェル編曲版とは違いロシア臭が強く、強烈な個性がある。無論、演奏するには難曲であることに替わりはないが、ラヴェル版のピアノ編曲のようになりがちであったピアノ原曲が、ラヴェル版にはない魅力を持ったものになった。そして、ラヴェル版に負けず劣らぬ人気の曲になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、リヒテル当人はラヴェル編に関しては「ムソルグスキーの音楽を理解していない」と評しており、たいへんに批判的であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ピアノ版のホロヴィッツによる編曲 ===&lt;br /&gt;
一方、ムソルグスキー自身は一流のピアニストではなかったため、原曲ではラヴェル編曲の管弦楽版のような色彩感に乏しいことは否めない。1940年代に入るころ、ロシア出身で当時アメリカに亡命していた[[ヴラジーミル・ホロヴィッツ|ウラディミール・ホロヴィッツ]]が独自の編曲を手掛け、1947年からコンサートでしばしば演奏するようになった。1947年のスタジオ録音と1951年のライヴ録音がレコードとして発売され大きな話題になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらの録音は、編曲とはいえ、ピアノ版の「展覧会の絵」の録音としては最も古い部類に属する。原典を重視する向きには敬遠される&amp;lt;ref&amp;gt;なお、ホロヴィッツが編曲の底本にしたのはリムスキー＝コルサコフ版である。&amp;lt;/ref&amp;gt;ことがあるものの、ムソルグスキーによるピアノ原曲を世界に知らしめる上で、ホロヴィッツの演奏が果たした役割は極めて大きい。同時に、ホロヴィッツがこの編曲の楽譜を公開しなかったことと、彼自身の録音が越え難い決定盤と評価され続けたことが、上記のリヒテルによるレコードまで他のピアニストがピアノ版に取り組むことを避けた最も大きな要因とも言える。勿論原曲より技巧的には難しくなっている個所が多いが、その後、幾人かが録音された演奏からの楽譜起しを試みた結果、聴感上の難易度に比べ非常に効率的な編曲がなされていることが分かっており、ホロヴィッツがいかにピアノ技法を熟知していたかをうかがい知ることができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ホロヴィッツ自身、この編曲は超絶演奏技巧を披露するためではなく、ムソルグスキーの原曲の持つロシア的な性格を一層引き出しつつ、ピアノの持つ可能性を最大限に活かすことを目的とした編曲であると述べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ELPのロック版とそれ以降の発展 ===&lt;br /&gt;
[[1971年]]、イギリスの[[プログレッシブ・ロック]]・バンド、[[エマーソン・レイク・アンド・パーマー]]（略称ELP）が『展覧会の絵』のライブレコードを出す。ロック・グループが、クラシックの曲を[[シンセサイザー]]や[[ハモンドオルガン]]でアレンジして演奏した事は当時はセンセーショナルであった。ただし、エマーソン・レイク・アンド・パーマー版は『展覧会の絵』の中の一部の抜粋であり、バンドによるオリジナル曲を挿入した形式であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このELP以降、一挙に様々なアレンジが出てくる。[[冨田勲]]のシンセサイザー版（[[1974年]]）、[[山下和仁]]のソロ・ギター版（[[1981年]]）などは世界的にも大きな影響を与えた。このほか、オルガン版や吹奏楽版、マンドリン版などの人気も高く、現在もさまざまな録音が次々と出ている。また、プログレッシブ・ロックの影響を受けたドイツの[[ヘヴィメタル]]・バンドである[[メコン・デルタ_(バンド)|メコン・デルタ]]はエマーソン・レイク・アンド・パーマー版を元にした曲、およびオーケストラとの共演版を発表している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
またガルトマンの絵についても、[[1991年]]に日本の[[NHK]]が[[團伊玖磨]]の進行でスペシャル番組「革命に消えた絵画・追跡・ムソルグスキー“展覧会の絵”」を放送した。ハルトマンの絵のうち『展覧会の絵』のモチーフとなったとされる10枚の絵をすべて明らかにする、という『展覧会の絵』の謎解きの核心にせまった番組であった。こちらについては絵柄と楽想の乖離や、学問的な手続きが不十分であるという批判もあり、曲と絵との関連性がすべて明らかになったとは言えないが、それまで曲に比べてハルトマンの絵の研究はほとんどされていなかったので先駆的な仕事であったと言って良い。また「ビドロ」という言葉の意味（ポーランド語の&amp;quot;bydło&amp;quot;には「牛車」の他に「（牛のように）虐げられた人」の意味がある。ガルトマンがポーランドで描いたスケッチのタイトルは『ポーランドの反乱』）や音楽的な印象などから絵を推理していく「面白さ」は画期的であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== さまざまな編曲 ==&lt;br /&gt;
最も有名な編曲は[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]のオーケストレーションによるものであり、オーケストラの演奏会で取り上げられる演目のほとんどはこの版だが、他にも多くの版が存在する。ラヴェル以降に作られた管弦楽版は、ラヴェル版（またはラヴェル以前に作られたリムスキー＝コルサコフ版）を参考にしているものが多く、その影響はきわめて大きい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本の[[冨田勲]]は、シンセサイザーによる編曲・録音を行った。彼の2つの編曲版のうち、管弦楽版は[[手塚治虫]]の実験アニメーションのために書き下ろした作品である。これは手塚がラヴェル版を用いようとしたところムソルグスキーの著作権は消滅していたもののラヴェルの著作権が生きていることが判明し（[[1998年]]まで）、[[デュラン (出版社)|デュラン]]社から膨大な使用料を要求され予算を超えてしまったためやむなく取り下げ、代わりに冨田に依頼したという経緯がある。冨田はわずかに1週間でこの編曲を仕上げたという。（現在DVDなどで見られる実験アニメーションの展覧会の絵は、完成当時のものではなく、宗教対立のエピソードがカットされたなどにより、曲の一部が編曲当時のものとは異なる。）&amp;lt;ref&amp;gt;[http://natalie.mu/music/pp/tomitaisao/page/2 冨田勲×宇川直宏対談] （[[ナタリー (ニュースサイト)|ナタリー]]）での冨田の回想によれば、締め切りまでの期間は4日しか無かったが、冨田は手塚から直接電話で「冨田さんだったら、ちょいちょいちょいのちょいですよ」と言われたために「無理です」とは言えなかった、と語っている。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 管弦楽版 ===&lt;br /&gt;
* トゥシュマロフ版（「トゥシュマロフおよびリムスキー＝コルサコフ版」「リムスキー=コルサコフ版」と表記されることが多い）&lt;br /&gt;
* [[ヘンリー・ウッド]]版&lt;br /&gt;
* [[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]版&lt;br /&gt;
* [[レオ・フンテク]]版（ラヴェル版以前に編曲）&lt;br /&gt;
* セルゲイ・ゴルチャコフ（[[:ru:Горчаков, Сергей Петрович|Sergei Gorchakov]]）版&lt;br /&gt;
* [[ユッカ＝ペッカ・サラステ]]版（ゴルチャコフ版とフンテク版から任意で選択）&lt;br /&gt;
* [[ルシアン・カイエ]]（[[w:Lucien Cailliet|Lucien Cailliet]]）版&lt;br /&gt;
* [[レオポルド・ストコフスキー]]版（終曲にオルガンを含む）&lt;br /&gt;
* [[近衛秀麿]]版&lt;br /&gt;
* [[北爪道夫]]版 （サックスを含む）&lt;br /&gt;
* [[冨田勲]]版（[[手塚治虫]]のアニメーションのためにオーケストラ編曲）&lt;br /&gt;
* [[ウラディーミル・アシュケナージ]]版&lt;br /&gt;
* [[レナード・スラットキン|スラットキン]]版（さまざまな版（ラヴェル版を含む総計15の版）から任意で選択）（終曲に歌詞付きの男声合唱を含む）&lt;br /&gt;
* [[津留崎直紀]]版（弦楽オーケストラ）（ラヴェル版を基にせず、原曲からの編曲）&lt;br /&gt;
* [[酒井格]]版（飛騨ヴィルトーゾオーケストラ2011の為の編曲）&lt;br /&gt;
* [[ピーター・ブレイナー]]（[[w:Peter Breiner|Peter Breiner]]）版&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 協奏曲 ===&lt;br /&gt;
* [[ロランス・レナード]]（[[w:Lawrence Leonard|Lawrence Leonard]]）版（ピアノ協奏曲）&lt;br /&gt;
* [[エミール・ナウモフ]]（[[w:Emile Naoumoff|Emile Naoumoff]]）版（ピアノ協奏曲）（曲中にオリジナルの部分を含む）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 室内楽 ===&lt;br /&gt;
* [[ジュリアン・ユー]]版（室内オーケストラ）&lt;br /&gt;
* [[コラーゲンII|北方寛丈]]版&lt;br /&gt;
* [[田中範康]]版（オルガンと打楽器アンサンブル）&lt;br /&gt;
* [[音楽三昧]]版（いろいろな楽器(リコーダー類、擦弦楽器類)のアンサンブル）&lt;br /&gt;
* [[菅原淳]]版（打楽器アンサンブル）&lt;br /&gt;
* [[トーマス・ウィルブラント]]（[[w:Thomas Wilbrandt|Thomas Wilbrandt]]）版（いろいろな楽器（木管楽器、金管楽器、打楽器、擦弦楽器、ピアノ：[[オンド・マルトノ]]）のアンサンブル）&lt;br /&gt;
* [[サミュエル・ラングマイヤー]]（Samuel Langmeier）版（バイオリン、ギター、コントラバスによるアンサンブル）&lt;br /&gt;
* [[蓬田梓]]版（木管五重奏）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 吹奏楽版 ===&lt;br /&gt;
* [[エリック・ライゼン]]版&lt;br /&gt;
* [[マーク・ハインズリー]]版（ラヴェル版を基にしている）&lt;br /&gt;
* [[ロジェ・ブトリ]]版（ラヴェル版を基にしている）&lt;br /&gt;
* [[エルガー・ハワース]]（[[w:Elgar Howarth|Elgar Howarth]]）版（[[フィリップ・ジョーンズ・ブラス・アンサンブル]]による、金管アンサンブルと打楽器）&lt;br /&gt;
* [[サイモン・ライト (指揮者)|サイモン・ライト]]（Simon Wright）版（ラヴェル版を基にせず、原曲からの編曲）&lt;br /&gt;
* [[スティーブン・ロバーツ]]（Stephen Roberts）版&lt;br /&gt;
* [[平石博一]]版（金管アンサンブルと打楽器）&lt;br /&gt;
* 高橋徹版（ラヴェル版を基にせず、原曲からの編曲）&lt;br /&gt;
* [[ジョン・ボイド (指揮者)|ジョン・ボイド]]（John Boyd）版（ラヴェル版を基にせず、原曲からの編曲）&lt;br /&gt;
* 石川尭典版（キエフの大きな門のみ。原曲からの編曲）&lt;br /&gt;
* 三谷澤俊匡版（ラヴェル版を基にしているが、第5プロムナードを復活させている）&lt;br /&gt;
* [[中橋愛生]]版（ラヴェル版を基にせず、原曲からの編曲）&lt;br /&gt;
* [[保科洋]]版&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 器楽曲 ===&lt;br /&gt;
* [[ヴラディーミル・ホロヴィッツ|ホロヴィッツ]]版（ピアノ独奏。原曲ではなくラヴェルの管弦楽版を参考に、より超絶技巧性を持たせたもの）&lt;br /&gt;
* [[チャールス・シフ]]（Charles Schiff）版（独奏チェロとピアノ）&lt;br /&gt;
* [[クリスティアン・リンドベルイ]]版（独奏トロンボーンとピアノ）&lt;br /&gt;
* [[長生淳]]版（独奏サクソフォン(複数持替)とピアノ）&lt;br /&gt;
* [[山下和仁]]版（ギター独奏）&lt;br /&gt;
* [[ミカ・ヴァユリネン]]（[[w:Mika Väyrynen (accordionist)|Mika Väyrynen]]）版（アコーディオン）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
* [[エマーソン・レイク・アンド・パーマー]][[展覧会の絵 (ELPのアルバム)| (EL&amp;amp;P) 版]]（[[プログレッシブ・ロック]]）&lt;br /&gt;
* [[メコン・デルタ (バンド)|メコン・デルタ]]（[[w:Mekong Delta (band)|Mekong Delta]]）版（[[ヘヴィメタル]][[バンド (音楽)|バンド]]）&lt;br /&gt;
* [[アリン・ファーガソン]]（オールイン・ファーガソン、[[w:Allyn Ferguso|Allyn Ferguson]]）版（ジャズ・ビッグバンド）&lt;br /&gt;
* [[マッツ・アップ]]（MATS-UP）版（ジャズ・アンサンブル版。アルバムタイトルは&amp;quot;Same Pictures - New Exhibition&amp;quot;。）&lt;br /&gt;
* [[冨田勲]]の[[展覧会の絵 (冨田勲のアルバム)|シンセサイザー版]]&lt;br /&gt;
* 彭修文（ペン・シュウェン、[[w:Peng Xiuwen|Peng Xiuwen]]）版（中国民族楽器大合奏）&lt;br /&gt;
* [[甲田潤]]版（全曲に歌詞をつけた混声合唱）&lt;br /&gt;
* [[伊藤康英]]版（「二台八手ピアノ、サクソフォーン四重奏、混声合唱と吹奏楽のための交響的カンタータ」とし、16曲中13曲に歌が付けられている。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== モチーフとされているハルトマンの絵 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:Hartmann Chicks sketch for Trilby ballet.jpg|卵の殻をつけた雛の踊り&lt;br /&gt;
画像:Hartmann Paris Catacombs.jpg|[[カタコンベ]]&lt;br /&gt;
画像:Hartmann - Hut of Baba Yaga.jpg|鶏の足の上に建つ小屋 - バーバ・ヤーガ&lt;br /&gt;
画像:Hartmann_--_Plan_for_a_City_Gate.jpg|キエフの大門&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
{{Commons|Картинки с выставки}}&lt;br /&gt;
{{Portal クラシック音楽}}&lt;br /&gt;
* [[ムソルグスキーの楽曲一覧]]&lt;br /&gt;
* [[展覧会の絵 (ELPのアルバム)]]&lt;br /&gt;
* [[展覧会の絵 (ゲームブック)]]&lt;br /&gt;
* [[禿山の一夜]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==脚注==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 一柳富美子「ムソルグスキー 「展覧会の絵」の真実」（2007年 東洋書店）ISBN 9784885957277&lt;br /&gt;
* オイレンブルクスコア ムソルグスキー(ラヴェル編曲) 組曲《展覧会の絵》校訂：アービー・オレンシュタイン（2008年 全音楽譜出版社）ISBN 4118941198&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* {{IMSLP2|id=Pictures at an Exhibition (Mussorgsky, Modest Petrovich)|cname=「展覧会の絵」の総譜とピアノ譜}}&lt;br /&gt;
* [http://www.magazzini-sonori.it/esplora_contenuti/autori_esecutori/quadri_esposizione.aspx 実演データ（ラヴェル編曲版）]　[http://www.magazzini-sonori.it Magazzini Sonori]（イタリア語）より。&lt;br /&gt;
*[http://www.geocities.jp/qqbjj485/XPX/ &amp;quot;展覧会の絵&amp;quot; の展覧会]&lt;br /&gt;
*[http://viole.lib.net/kartinki_s_vystavki/ &amp;quot;展覧会の絵&amp;quot;研究会]&lt;br /&gt;
*[http://www.piano.or.jp/enc/docs/gakufu-33_maegaki.pdf　ベーレンライター原典版　校訂者クリストフ・フラムによる前書きの日本語訳（菅野恵理子訳）]&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:てんらんかいのえ}}&lt;br /&gt;
[[Category:ムソルグスキーの楽曲]]&lt;br /&gt;
[[Category:ピアノ独奏曲]]&lt;br /&gt;
[[Category:管弦楽曲]]&lt;br /&gt;
[[Category:組曲]]&lt;br /&gt;
[[Category:絵画を題材とした楽曲]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Link FA|ru}}&lt;br /&gt;
{{Link GA|uk}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.231.47.46</name></author>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E4%BA%8C%E9%9A%8E%E5%A0%82%E8%98%AD%E5%AD%90&amp;diff=14580</id>
		<title>二階堂蘭子</title>
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		<updated>2014-05-10T08:23:23Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.231.47.46: /* 概要 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;二階堂 蘭子&#039;&#039;&#039;（にかいどう らんこ）は、[[二階堂黎人]]の[[推理小説]]「二階堂蘭子」シリーズに登場する架空の女性探偵。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[1949年]][[7月19日]]生まれ。身長約165センチ。「ハリウッドの映画女優を思わせる豊かな巻き毛。滑らかな輪郭を持つ顔立ち。猫の目のような黒い瞳」と称される美貌の持ち主。登場作品の時代設定は昭和40年代であるが、[[ミニスカート]]を着用することが多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時代背景もあり、女性である彼女を軽視する関係者が多いことから、初対面で[[シャーロック・ホームズ]]のように相手の素性や近況を喝破することが多い。また、作者が冒険小説の風味を加えることを掲げていることもあり、頭脳プレイだけではなくアクティブに動き回り、逆に犯人に捕まってしまうこともある（犯人も完全犯罪志向の個人であるよりは、組織を駆使する凶暴残虐な怪人であったりすることが多い）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「人狼城の恐怖」事件解決後、行方不明となる。以後、2012年刊行の『覇王の死』までに発表された作品は、いずれも失踪以前の事件を扱っている。失踪から約3年を経た1974年6月2日、1歳になるかならないかの息子・亜蘭（あらん）を連れて帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
事件の記述者を務める二階堂黎人（にかいどう れいと）は蘭子の義兄にあたる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
宿敵は自らを&#039;&#039;&#039;魔王ラビリンス&#039;&#039;&#039;と名乗る怪人である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 作品リスト ==&lt;br /&gt;
=== 長編 ===&lt;br /&gt;
*地獄の奇術師　 &lt;br /&gt;
*吸血の家 　 &lt;br /&gt;
*聖アウスラ修道院の惨劇 &lt;br /&gt;
*悪霊の館 　 &lt;br /&gt;
*人狼城の恐怖（第一部・ドイツ編、第二部・フランス編、第三部・探偵編、第四部・解決編）&lt;br /&gt;
*悪魔のラビリンス 　 &lt;br /&gt;
*魔術王事件&lt;br /&gt;
*双面獣事件&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 短編 ===&lt;br /&gt;
*ユリ迷宮（ロシア館の謎、劇薬、密室のユリ）&lt;br /&gt;
*バラ迷宮（サーカスの怪人、変装の家、喰顔鬼、ある蒐集家の殺人、火炎の魔、薔薇の家の殺人）&lt;br /&gt;
*ラン迷宮（泥具根博士の悪夢、蘭の家の殺人、青い魔物）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:にかいどうらんこ}}&lt;br /&gt;
[[Category:架空の探偵]]&lt;br /&gt;
[[Category:推理小説の登場人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.231.47.46</name></author>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E7%99%BD%E7%99%BE%E5%90%88%E5%A5%B3%E5%AD%90%E5%A4%A7%E5%AD%A6&amp;diff=83528</id>
		<title>白百合女子大学</title>
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		<updated>2014-05-09T21:58:27Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.231.47.46: /* 校風、白百合学園の発祥の歴史、その他 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{大学 | 大学名=白百合女子大学&lt;br /&gt;
| ふりがな=しらゆりじょしだいがく&lt;br /&gt;
| 英称=Shirayuri College&lt;br /&gt;
| 画像=shirayuriwemensuniv.jpg|190px&lt;br /&gt;
| 画像説明=白百合女子大学&lt;br /&gt;
| 大学設置年 =1881年&lt;br /&gt;
| 創立年=1881年&lt;br /&gt;
| 学校種別=私立&lt;br /&gt;
| 設置者=[[学校法人白百合学園 (東京都)|学校法人白百合学園]]&lt;br /&gt;
| 国=日本&lt;br /&gt;
| 本部所在地=[[東京都]][[調布市]]緑ヶ丘一丁目25&lt;br /&gt;
| キャンパス=&lt;br /&gt;
| 学部=[[文学部]]&lt;br /&gt;
| 研究科=文学研究科&lt;br /&gt;
| 大学の略称=&lt;br /&gt;
| ウェブサイト=http://www.shirayuri.ac.jp/&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
設立母体は、17世紀末の[[フランス]]を発祥とする[[シャルトル聖パウロ修道女会]]。前身の[[高等女子仏英和学校]]は1881年に創設され、戦後の[[学制改革]]などを経て、[[1950年]]に[[白百合短期大学]]（場所は東京都[[千代田区]][[九段]]）として開学。1965年に4年制大学に改組されたときに調布に移転し、現在の校名となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
モットーは「真・善・美」。&lt;br /&gt;
校名、校章にも「白百合」の花を選び、清楚、謙虚さの中に気品を保ち、豊かな人間性と広い視野のうえに専門的な知識を備えた自立的女性の育成を目標として掲げている。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[文学部]]のみの[[単科大学]]である。&lt;br /&gt;
国文科、英文科、仏文科の伝統が長い。&lt;br /&gt;
1985年に増設された児童文化学科児童文学・文化専攻は日本における[[児童文学]]研究の拠点としても有名。同[[発達心理学]]専攻も大学院修士課程発達臨床心理学コースが、（財）[[日本臨床心理士資格認定協会]]の第1種指定大学院の指定を受け、特に乳幼児期・児童期に関する研究を行っている。2005年からは、幼稚園教諭・小学校教諭の育成がスタート。社会人を対象とした教員養成講座も開講している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==学部・学科/研究科==&lt;br /&gt;
*[[文学部]]（[[男女別学|女子のみ]]）&lt;br /&gt;
**[[国語]][[国文学]]科&lt;br /&gt;
**[[フランス語]][[フランス文学]]科&lt;br /&gt;
**[[英語]][[英文学]]科&lt;br /&gt;
**[[児童]][[文化]]学科&lt;br /&gt;
***[[児童文学]]･文化専攻&lt;br /&gt;
***[[発達心理学]]専攻&lt;br /&gt;
*[[大学院]]文学研究科（男女[[共学]]）&lt;br /&gt;
**発達心理学専攻 （[[修士課程]]・[[博士課程]]）&lt;br /&gt;
***発達心理学コース	&lt;br /&gt;
***発達[[臨床心理学]]コース&lt;br /&gt;
**児童文学専攻 （修士課程・博士課程）&lt;br /&gt;
**国語国文学専攻 （修士課程）&lt;br /&gt;
**フランス語フランス文学専攻 （修士課程）&lt;br /&gt;
**英語英文学専攻 （修士課程）&lt;br /&gt;
**[[言語]]・[[文学]]専攻 （博士課程）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==中学・高校の系列校との関係==&lt;br /&gt;
*同じ修道会で経営する「白百合学園」が全国各地にあり、これらは系列校・姉妹校としている。（附属校とは呼ばない。）&lt;br /&gt;
例として、九段の[[白百合学園中学校・高等学校]]は[[系列校]]である。&lt;br /&gt;
[[湘南白百合学園]]、[[函嶺白百合学園]]、[[聖ヨゼフ学園]]はいずれも別の学校法人の経営であるため、系列校ではなく姉妹校の関係となる。&lt;br /&gt;
*各系列校と校歌の旋律が同じである。&lt;br /&gt;
*校章は百合と剣をかたどったfleurdelisé（ブルボン王朝に同じ）。これも各地白百合学園と共通である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==校風、白百合学園の発祥の歴史、その他==&lt;br /&gt;
*フランス系ミッションスクールであるため、学園を運営している[[修道士|修道女]]（シスター）を「マ・スール（ma sœur）」と呼び、クラスもＡ(アー)組、Ｂ(ベー)組、Ｃ(セー)組と呼ぶなど、キャンパス内では[[フランス語]]が浸透している。&lt;br /&gt;
*白百合学園の発祥の地は北海道の[[函館市|函館]]で、1878年（明治11年）5月28日にフランス・シャルトル聖パウロ修道女会の3人の修道女が訪れたことがきっかけとなっている。後に白百合学園の創設者となるそれら3人の創設者は、現在の函館市元町に[[授産所]]・[[施病院]]・[[孤児院]]を開設し、教育事業をおこし、1886年（明治19年）1月1日　聖保禄女学校を開校。1942年（昭和17年）10月　元町高等女学校と改称。1951年（昭和26年）[[函館白百合学園高等学校]]と改称。今日も『従順・勤勉･愛徳』をモットーに全国各地へ白百合学園の教えが語り継がれている。&lt;br /&gt;
*全国どこの白百合学園でも各教室の壁には[[十字架]]が掲げられている。時間を知らせるキャンパス内の[[鐘]]の旋律は[[アヴェ・マリア]]。白い百合とは[[聖母マリア]]の象徴であり、[[賛美歌|聖歌]]などにしばしば歌われている。校名の欧文名はエコール・デュ・リス・ブラン（L&#039;École du lys blanc）。&lt;br /&gt;
*大規模な講義室は少なく、ほとんどが少人数制の授業である。[[ホームルーム]]制があり、担任のシスターに厳しくあたたかく見守られながら、家庭的雰囲気の中で学生生活を送る。&lt;br /&gt;
*調布のキャンパスは近年に移転したものであるため、現代的なキャンパスと[[チャペル]]である。キャンパス内は緑豊かで、春には[[桜]]、秋には[[紅葉]]が美しい。&lt;br /&gt;
*学園祭は秋に行われる「白百合祭」がある。&lt;br /&gt;
*カトリック校にはよくあることだが、施設等には[[ラテン語]]の名称が付けられている。（学生食堂：ステラマリス 購買部：アミカピア 階段教室：ポルタチェーリ）&lt;br /&gt;
*[[日本カトリック大学連盟]]の加盟校である。&lt;br /&gt;
*キャンパスの敷地は、戦前まで津村順天堂（現・[[ツムラ]]）所有の東洋一の規模を誇った民間[[薬草園]]（津村薬草園）の跡地に当たる。正門を入って少し歩いた所に今もその薬草園時代からある[[孔子]]像が一対ある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===学内奨学金===&lt;br /&gt;
{{main|奨学金}}&lt;br /&gt;
; 給付型&lt;br /&gt;
*白百合女子大学奨学金&lt;br /&gt;
*白百合女子大学同窓会奨学金（[[ジャンヌ・ダルク]]奨学金） &lt;br /&gt;
*白百合女子大学外国留学規程内規に基づく奨学金&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==交通アクセス==&lt;br /&gt;
*[[京王線]][[仙川駅]]から徒歩10分&lt;br /&gt;
*[[小田急線]][[成城学園前駅]]、[[東日本旅客鉄道|JR]][[中央本線|中央線]][[吉祥寺駅]]、京王線[[調布駅]]から仙川まで路線バス有り。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 大学関係者一覧 ==&lt;br /&gt;
*[[白百合女子大学の人物一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 系列校 ==&lt;br /&gt;
* [[仙台白百合女子大学]]&lt;br /&gt;
* [[函館白百合学園中学校・高等学校|函館白百合学園]]（幼稚園・中学校・高等学校）&lt;br /&gt;
* [[盛岡白百合学園中学校・高等学校|盛岡白百合学園]]（幼稚園・小学校・中学校・高等学校）&lt;br /&gt;
* [[仙台白百合学園中学校・高等学校|仙台白百合学園]]（幼稚園・小学校・中学校・高等学校）&lt;br /&gt;
* [[白百合学園中学校・高等学校|白百合学園]]（幼稚園・小学校・中学校・高等学校）&lt;br /&gt;
* [[八代白百合学園高等学校|八代白百合学園]]（幼稚園・高等学校）&lt;br /&gt;
* [[関町白百合幼稚園]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 姉妹校 ==&lt;br /&gt;
* [[湘南白百合学園中学・高等学校|湘南白百合学園]]（幼稚園・小学校・中学校・高等学校）&lt;br /&gt;
* [[学校法人函嶺白百合学園|函嶺白百合学園]]（小学校・中学校・高等学校）&lt;br /&gt;
* [[聖ヨゼフ学園]]（中学校・高等学校）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
*[http://www.shirayuri.ac.jp/ 白百合女子大学]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{学校法人白百合学園 (東京都)}}&lt;br /&gt;
{{日本カトリック大学連盟}}&lt;br /&gt;
{{カトリックのミッションスクール}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Univ-stub}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しらゆりしよしたいかく}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:東京都の大学]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の私立大学|しらゆりしよし]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本のカトリック系大学]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の女子大学]]&lt;br /&gt;
[[Category:学校記事]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.231.47.46</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%81%AE%E9%AD%82&amp;diff=198498</id>
		<title>リングの魂</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%81%AE%E9%AD%82&amp;diff=198498"/>
		<updated>2014-04-22T14:48:24Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.231.47.46: /* 概要 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;『&#039;&#039;&#039;リングの魂&#039;&#039;&#039;』（リングのたましい）は、[[1994年]][[4月4日]]から[[2000年]][[4月1日]]まで[[テレビ朝日]]系で放送された、[[プロレス]]や[[総合格闘技]]などを主な題材としたスポーツバラエティ番組である。通称「&#039;&#039;&#039;リン魂&#039;&#039;&#039;」（リンたま）。[[南原清隆]]にとっては本格的[[ピン]]出演最初の番組となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出演者 ==&lt;br /&gt;
* [[南原清隆]]&lt;br /&gt;
* [[石黒賢]]（〜1994年9月）※番組開始から南原と一緒に出演。半年で降板し、その後は南原が1人で務めた。&lt;br /&gt;
* [[高井正憲]]（テレビ朝日）※ナレーション担当で、本人も不定期に出演。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 主な準レギュラー ===&lt;br /&gt;
* [[勝俣州和]] - 熱烈な[[橋本真也]]ファンであり、番組当初から色々な企画に良く出ており、最終回には勝州力と名乗りJ-1に参加しようとするが、する前に終了した。&lt;br /&gt;
* [[浅草キッド]] - 番組初期〜中期の準レギュラー。トークだけで対決する企画・文化人プロレスでは[[水道橋博士]]が北斗晶に肋を折られた。後に[[格闘コロシアム]]や[[SRS (テレビ番組)|SRS]]といった格闘技番組の司会を務める。&lt;br /&gt;
* [[ダチョウ倶楽部]] - 初期からの準レギュラーで、よく新デスマッチの実験台を務めていた。&lt;br /&gt;
* [[大槻ケンヂ]] - 初期の準レギュラー。スプラッター大賞の時には突如登場した[[レザーフェイス]]が振り回すチェンソーに大声でビビリまくっていた。&lt;br /&gt;
* [[関根勤]] - 初期から中期の準レギュラー。[[輪島功一]]の物真似をよくしていた。また[[UFC]]特集の際に[[佐山聡]]にスリーパーを掛けられ「顎を油圧式エレベーターでぐぅうっと上げられる感じ」と語っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 放送時間 ==&lt;br /&gt;
* 毎週月曜23:25 - 23:55（1994年4月4日 - 1995年3月27日）&lt;br /&gt;
* 毎週日曜24:45 - 25:15（1995年4月2日 - 1995年9月24日）&lt;br /&gt;
* 毎週日曜25:00 - 25:30（1995年10月1日 - 1997年3月30日）&lt;br /&gt;
* 毎週土曜24:58 - 25:28（1997年4月5日 - 1997年9月27日）&lt;br /&gt;
* 毎週土曜25:11 - 25:40（1997年10月4日 - 1999年3月27日）&lt;br /&gt;
* 毎週土曜24:40 - 25:11（1999年4月3日 - 2000年4月1日）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
プロレス・格闘技について、様々な角度でスポットを当てていた。いわゆる格闘技バラエティーの元祖で当初は[[プロレスラー]]をまるで芸人のように扱う企画や、当時まだ総合格闘技自体が一般的には詳しく知られていない中で[[UFC]]などを紹介する企画、関節技など格闘技の技をプロが解説をしていたが、後半はお笑い芸人の柔道王を決める企画などタレントが格闘技をする番組に変わっていった。[[佐々木健介]]・[[北斗晶]]の結婚の際には、両者の[[結納]]をそのまま放送した事もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
番組の初回放送にて、題字を[[大山倍達]]に依頼した。その際、大山が誤って「リンゲ（リンガ？）の魂」と書いてしまったというエピソードがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「&#039;&#039;&#039;プロレスバカ&#039;&#039;&#039;」と呼ばれた時期の[[剛竜馬]]を始めとして、本番組への出演を契機に全国的な知名度を獲得したプロレスラーも多い。[[神取忍]]の「&#039;&#039;&#039;ミスター・女子プロレス&#039;&#039;&#039;」、[[ダイナマイト・関西]]の「&#039;&#039;&#039;よっ！男前発見!&#039;&#039;&#039;」という異名も、この番組が発端である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
番組内で南原がツッコミとして[[アニマル浜口]]の頭を何度か叩くシーンがあった。その事を当時[[週刊プロレス]]編集長だった[[ターザン山本]]が、自身の連載エッセイ「ザッツ・レスラー」の中で「それをやっちゃおしまいだよ！」などと批判し、討論企画で南原に[[チョークスリーパー]]を掛け、大声援を浴びた。なお、後に両者は和解している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 企画 ==&lt;br /&gt;
; 芸能界柔道王決定戦&lt;br /&gt;
: [[猿岩石]]、[[北京ゲンジ]]、[[グレートチキンパワーズ]]、[[ジョーダンズ]]、[[ジャリズム]]、[[よゐこ]]、[[雨上がり決死隊]]、[[ナインティナイン]]、[[ガレッジセール]]、[[つぶやきシロー]]、[[内山信二]]、[[松本ハウス]]、[[キャイ〜ン]]、[[千原兄弟]]、[[春一番 (お笑い芸人)|春一番]]などの若手芸人を集め柔道No.1を決める。番組後期のメイン企画ともいえる。&lt;br /&gt;
: 各自入場テーマ曲があり、一部の芸人は入場時にプロレスラーのコスプレを行っていた（[[千原兄弟]]…[[ファンクス]]、[[ビビる]]・[[ビビる大木|大木淳]]＝当時…[[ジャンボ鶴田]]、雨上がり決死隊・[[宮迫博之]]…[[武藤敬司|グレート・ムタ]]、ジャリズム・[[渡辺鐘]]…[[天龍源一郎]]、よゐこ・[[有野晋哉]]…[[平田淳嗣|スーパー・ストロング・マシン]]、よゐこ・[[濱口優]]…[[アニマル浜口]]、ガレッジセール・[[ゴリ (お笑い芸人)|ゴリ]]…[[スタン・ハンセン]]）。&lt;br /&gt;
: 猿岩石・[[有吉弘行]]は非常に柔道が強く、並み居る芸人を撃破していき企画の顔となるが、北京ゲンジ・お宮の松の前に敗北。その後修行を重ね柔道初段を取得し有吉は復活を遂げるが、ダークホースのジャリズム・渡辺（世界のナベアツ）の前に敗北。またよゐこは女性客やゲストの[[ミニスカポリス]]のスカートをまくるのが恒例となっていた。一方千原兄弟・[[千原ジュニア]]と春一番は非常に柔道が弱く、チャンピオンベルトならぬチャンピオンオムツを賭けて最弱王決定戦も行われた。しかし春は最終回で強豪・ゴリに勝利するというサプライズを見せた事がある。後期は[[K-1]]にならって後に&#039;&#039;&#039;J-1&#039;&#039;&#039;という大会名に改められた。また徐々に出場芸人内に派閥ができ、「J-1正規軍」VS「JFO」という対立構図も出来上がる。最終回はこの企画が放送された。&lt;br /&gt;
; WRESTLINGCASINO&lt;br /&gt;
: 芸人、プロレスラー、スポーツ選手らを書いた5枚のカードで相撲で対決。5回戦で先に3勝した方が勝利。誰を出すかの心理戦が肝となっている。&lt;br /&gt;
; プロレス○○大賞&lt;br /&gt;
: No.1[[ラリアット]]使いを決めるラリアット大賞やレスラーとしての悪役っぷりを競う[[ヒール (プロレス)|ヒール]]大賞、キレっぷりを競う[[アドレナリン]]大賞や、No.1マイクアピールを競う[[マイクアピール]]大賞、空中技の難易度や華麗さを競う[[空中殺法]]大賞、テーマ曲大賞などが放送された。ちなみにラリアット大賞は[[長州力]]、ヒール大賞は[[安生洋二]]、アドレナリン大賞は[[前田日明]]、空中殺法大賞は[[ザ・グレート・サスケ]]のサスケスペシャル1号([[佐山聡|タイガーマスク]]と[[ミル・マスカラス]]は殿堂入りの為、選考対象外)、テーマ曲大賞は長州の「パワーホール」が受賞。&lt;br /&gt;
; 討論企画&lt;br /&gt;
: 放送当時に話題になったプロレス界の出来事を二つのグループに分けて徹底討論する企画。「ここが変だよ[[大仁田厚]]」では大仁田のパフォーマンスに対する賛成派・反対派が激論を交わした。また「[[小川直也]]VS[[橋本真也]]」も小川派、橋本派に分かれてどちらが勝つかを徹底討論した。[[朝まで生テレビ]]方式で「誰が1番強いのか」というテーマで討論した時は、日頃テレビには出演しない[[ミッキー安川]]が出演したり、ターザン山本は「[[宮本武蔵]]」と話し、周りから「論点がずれている!」と非難を浴びたりした。&lt;br /&gt;
; Numberer（ナンバラー）&lt;br /&gt;
: 一人のプロレスラーに焦点を当て、その魅力を南原がトークで引き出していく硬派企画。[[全日本プロレス|全日]]時代の[[三沢光晴]]が登場した時は大きな話題となった。人以外にも、プロレス技などにも焦点を当て、科学的にその効果を検証する回もあった。この流れは後の『[[NANDA!?]]』に引き継がれている。&lt;br /&gt;
; ○○と○○づくしを食べよう&lt;br /&gt;
: 格闘家・プロレスラーをゲストに呼び、その人の名にちなんだ食べ物を食べながらトークする企画。「アンディ・フグと河豚を食べたい」という思いから実現し、女子プロレスラーの[[渡辺智子]]と「ナベと鍋を食べよう」や[[桜庭和志]]と「サクとサクラ尽くしを食べよう」などとシリーズ化した。&lt;br /&gt;
; かけられず嫌い王&lt;br /&gt;
: 芸人がかけられるのが嫌いなプロレス技を見抜く、「[[食わず嫌い王]]」のパクリ企画。特にリアクション王・[[出川哲朗]]は[[藤原喜明]]の頭突きを受ける際に番組が用意したヘルメットを見て「俺がこの世の中で一番嫌いな物は何か分かるか…ヘルメットだよ！」と名台詞をいい投げ捨てたり、[[桜庭和志]]の関節技を食らいながら痛みから逃げるために宇野の[[お尻]]の穴に指を突っ込んだり、[[佐々木健介]]のストラングルホールドを食らい流血したり、[[山崎一夫 (プロレスラー)|山崎一夫]]の蹴りを脚に食らい泣きが入ったりと大活躍をする。[[上島竜兵]]が[[中西学]]の[[アルゼンチンバックブリーカー]]を掛けられた際には、身体があまりの痛みに生命の危機を感じ遺伝子を残さんとしたためなのか、なぜか苦しみながら[[勃起|思わずたってしまった]]。まさに出川や上島らリアクション芸人の為の企画といえよう。&lt;br /&gt;
;AV監督藤原に密着&lt;br /&gt;
:AV「オレが藤原だ!」でAV監督デビューした[[藤原喜明]]の濡れ場に潜入。本番は写さず、スタッフの駄目なカメラワークで南原をヤキモキさせることになったが、あえぎ声はしっかりと入っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 備考 ==&lt;br /&gt;
* 関西地区では、当初は[[朝日放送]]で放送されていたが、後に打ち切り。それ以降は独立U局である[[京都放送|KBS京都]]で放送されていた。&lt;br /&gt;
* テレビ朝日における[[内村プロデュース|後番組]]のMCは、南原の相方・[[内村光良]]。内村も当番組に何度か出演している。&lt;br /&gt;
* 初期の企画などを編集しまとめたビデオソフト『リングの魂DX』が、過去に2本発売されている。&lt;br /&gt;
* 初回&amp;lt;!-- 第2回も? --&amp;gt;においては、南原と石黒が各プロレス団体に挨拶回りを行う企画を放送。その際、最後に2人が立ち寄ったのは、当時テレビ局の関係を含め「鎖国」と言われた時代の全日本プロレスの事務所だった。2人は事務所のスタッフに対面することはなかったが、「決してふざけた番組ではありません」「機会があればぜひ出演を」といった旨の手紙を、事務所の郵便受けに投函していった。前述の「Numberer」での三沢の出演は、その願いがようやく実現した格好となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 橋本真也スペシャル ==&lt;br /&gt;
[[2005年]][[8月20日]]深夜に一晩限りの限定復活で、急逝した[[橋本真也]]の追悼企画番組として生放送された。「しんみりやるのは橋本に似合わない、明るく楽しく追悼をやろう」とし、過去の試合映像や出演者による橋本がらみの爆笑トーク、さらには橋本がかつて雑誌に掲載した下ネタの数々を大暴露などが繰り広げられ、涙一つ無いカラッとした追悼番組となった。番組後半は橋本本人がベストバウトと認めた[[1996年]][[4月29日]]の対[[高田延彦]]戦と、橋本が人生を賭けた[[2000年]][[4月7日]]の対[[小川直也]]戦を完全放送し、最後は南原が橋本への追悼文を読み、テーマ曲『爆勝宣言』をバックに橋本コールを叫びながら[[スポコン!]]番組内で集められた折り鶴をテレビ朝日のロビーに敷き詰めた映像が映し出された。ゲストとして[[闘魂三銃士]]時代の盟友・[[蝶野正洋]]と、[[武藤敬司]]の扮装をした[[神奈月]]、そして橋本の大ファンの[[勝俣州和]]と[[ビビる大木]]が出演。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主題歌 ==&lt;br /&gt;
; オープニングテーマ&lt;br /&gt;
* Rain/[[松田樹利亜]]&lt;br /&gt;
* 抱きしめたいもう一度/[[BAAD]]&lt;br /&gt;
* [[少し自惚れて]]/[[Melody (アイドルグループ)|Melody]]&lt;br /&gt;
* Freeze My Love/[[GLAY]]&lt;br /&gt;
* SPARK/[[LAZY KNACK]]&lt;br /&gt;
* 超敏感に抱いてくれよ/[[SHY BLUE]]&lt;br /&gt;
* BLIND LOVE/[[PAMELAH]]&lt;br /&gt;
* Who&#039;s gone?/[[THE BIG BAND!!]]&lt;br /&gt;
* 今すぐ逢いたい抱きしめたい/[[ROLL DAYS]]&lt;br /&gt;
* タチムカウ/[[筋肉少女帯]]&lt;br /&gt;
* 逢いたいよDarlin&#039;/[[渡辺忠士]]&lt;br /&gt;
* CONFIDENCE/PAMELAH&lt;br /&gt;
* KICK!/[[千聖]]&lt;br /&gt;
* しあわせのかたち/[[Khasi]]&lt;br /&gt;
* 壊れたエンジン/[[THE MODS]]&lt;br /&gt;
* 僕の自転車/[[清水弘貴]]&lt;br /&gt;
* ハイチーズ/[[SKIP COWS]]&lt;br /&gt;
* 罪と罰/[[THE HIGH-LOWS]]&lt;br /&gt;
* 青い空/[[くるり]]&lt;br /&gt;
* フラストレーション デッド モーニング/[[小島 (バンド)|小島]]&lt;br /&gt;
* God・Speed・You!!/[[ギターウルフ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; エンディングテーマ&lt;br /&gt;
* 気がつけば/[[MASAKI]]&lt;br /&gt;
* ありがとう/[[谷口宗一]]&lt;br /&gt;
* Feel My Love/[[原田克彦]]&lt;br /&gt;
* みつめる愛で/[[SING LIKE TALKING]]&lt;br /&gt;
* や・ば・い/[[KENJIRO]]&lt;br /&gt;
* JUMP/[[BOYO-BOZO]]&lt;br /&gt;
* 涙のラスト・ダンス/[[清原タケシ]]&lt;br /&gt;
* らしくないBlue Day/[[鈴里真帆]]&lt;br /&gt;
* 君のあるがままを/[[FENCE OF DEFENSE]]&lt;br /&gt;
* 瞳の中で眠るJELOUSY/[[沢村大和]]&lt;br /&gt;
* ORANGE/[[media youth]]&lt;br /&gt;
* 月の素顔/[[ROUAGE]]&lt;br /&gt;
* Love is the Destiny/[[ROMANTIC MODE]]&lt;br /&gt;
* 太陽/[[TSUNAMI]]&lt;br /&gt;
* BUTTERFLY/[[SMILE (バンド)|SMILE]]&lt;br /&gt;
* 眩しい夜/[[water (ロックバンド)|water]]&lt;br /&gt;
* スロウ/[[GRAPEVINE]]&lt;br /&gt;
* I will follow/[[THE PINK STOCKING CLUB BAND]]&lt;br /&gt;
* 隼/[[the fantastic designs]]&lt;br /&gt;
* Messenger/[[New Cinema 蜥蜴]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== スタッフ ==&lt;br /&gt;
* 企画：澤將晃&lt;br /&gt;
* 構成：[[おちまさと]]、海老克哉、[[笹沼大]]、[[小西正晃]]&lt;br /&gt;
* 題字：[[大山倍達]]（極真会館）&lt;br /&gt;
* 技術協力：[[スウィッシュ・ジャパン]]、[[プログレッソ]]&lt;br /&gt;
* カメラ：[[中島浩司 (カメラマン)|中島浩司]]&lt;br /&gt;
* 映像：有田好嗣&lt;br /&gt;
* 音声：近藤良弘&lt;br /&gt;
* 照明：根建勝広&lt;br /&gt;
* 音効：河手康良&lt;br /&gt;
* 美術：黒目樹司&lt;br /&gt;
* 小道具：北村隆&lt;br /&gt;
* スタイリスト：中谷東一&lt;br /&gt;
* メイク：大の木ひで（hidden）&lt;br /&gt;
* タイトル：安田達夫&lt;br /&gt;
* TK：船木玉緒&lt;br /&gt;
* 編集・MA：[[ビデオ・パック・ニッポン]]（須田正人、福地直美）&lt;br /&gt;
* 広報：上田めぐみ&lt;br /&gt;
* 資料提供：[[東京スポーツ新聞社]]、[[週刊ゴング]]、[[週刊プロレス]]、[[絆のプロレス]]&lt;br /&gt;
* 音楽協力：[[テレビ朝日ミュージック]]&lt;br /&gt;
* 制作協力：[[マセキ芸能社]]（田村正裕）、[[クリエイティブオフィスなび|NAVI]]&lt;br /&gt;
* ディレクター：狩野正明、長尾真、高安義則&lt;br /&gt;
* アシスタントプロデューサー：石丸裕一&lt;br /&gt;
* アシスタントディレクター：[[加地倫三]]&lt;br /&gt;
* プロデューサー：雪竹弘一&lt;br /&gt;
* 制作著作：テレビ朝日&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{ネオバラエティ|月曜1部}}&lt;br /&gt;
{{前後番組&lt;br /&gt;
|放送局=テレビ朝日系&lt;br /&gt;
|放送枠=日曜24:45 - 25:15&lt;br /&gt;
|番組名=リングの魂&amp;lt;br /&amp;gt;（1995年4月2日 - 9月24日）&lt;br /&gt;
|前番組=[[いわんやトミーズをや]]&lt;br /&gt;
|次番組=[[NBA FAST BREAK]]（※24:30 - ）&lt;br /&gt;
|2放送局=テレビ朝日系&lt;br /&gt;
|2放送枠=日曜25:00 - 25:30&lt;br /&gt;
|2番組名=リングの魂&amp;lt;br /&amp;gt;（1995年10月1日 - 1997年3月30日）&lt;br /&gt;
|2前番組=[[VIDEO JAM]]（※25:15 - ）&amp;lt;br /&amp;gt;（日曜25:30枠へ移動）&lt;br /&gt;
|2次番組=[[テレメンタリー]]&#039;97&amp;lt;br /&amp;gt;（日曜7:00枠から移動）&lt;br /&gt;
|3放送局=テレビ朝日系&lt;br /&gt;
|3放送枠=土曜24:58 - 25:28&lt;br /&gt;
|3番組名=リングの魂&amp;lt;br /&amp;gt;（1997年4月5日 - 9月27日）&lt;br /&gt;
|3前番組=[[カーグラフィックTV]]&amp;lt;br /&amp;gt;（水曜25:10枠へ移動）&lt;br /&gt;
|3次番組=[[幻想ミッドナイト]]（※24:40 - ）&lt;br /&gt;
|4放送局=テレビ朝日系&lt;br /&gt;
|4放送枠=土曜25:11 - 25:40&lt;br /&gt;
|4番組名=リングの魂&amp;lt;br /&amp;gt;（1997年10月4日 - 1999年3月27日）&lt;br /&gt;
|4前番組=[[ワールドプロレスリング]]（※25:28 - ）&amp;lt;br /&amp;gt;（土曜26:05枠へ移動）&lt;br /&gt;
|4次番組=[[おネプ!|ネプいっ!]]&amp;lt;br /&amp;gt;（金曜26:00枠から移動）&lt;br /&gt;
|5放送局=テレビ朝日系&lt;br /&gt;
|5放送枠=土曜24:40 - 25:11&lt;br /&gt;
|5番組名=リングの魂&amp;lt;br /&amp;gt;（1999年4月3日 - 2000年4月1日）&lt;br /&gt;
|5前番組=[[六本木キャバクラ天使]]&amp;lt;br /&amp;gt;（1999年1月9日 - 1999年3月27日）&lt;br /&gt;
|5次番組=[[内村プロデュース]]（※24:55 - ）&amp;lt;br /&amp;gt;（2000年4月8日 - 2002年3月23日）&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{南原清隆}}&lt;br /&gt;
{{Tv-stub}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:りんくのたましい}}&lt;br /&gt;
[[Category:1994年のテレビ番組 (日本)]]&lt;br /&gt;
[[Category:テレビ朝日のスポーツ番組]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本のプロレス番組]]&lt;br /&gt;
[[Category:ネオバラエティ]]&lt;br /&gt;
[[Category:格闘技のメディア]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.231.47.46</name></author>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A8%E3%82%B9%E5%8D%94%E5%A5%8F%E6%9B%B2&amp;diff=159495</id>
		<title>アランフエス協奏曲</title>
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		<updated>2014-04-21T09:41:13Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.231.47.46: /* 概要 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Portal クラシック音楽}}&lt;br /&gt;
{{出典の明記|date=2010年7月9日 (金) 10:44 (UTC)}}&lt;br /&gt;
[[File:Aranjuez MonumentoJoaquinRodrigo3.jpg|thumb|[[アランフエス]]にある記念碑]]&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;アランフエス協奏曲&#039;&#039;&#039; (Concierto de Aranjuez) は、[[ホアキン・ロドリーゴ]]が[[1939年]]に作曲した[[ギター協奏曲]]。[[1940年]][[12月11日]]に[[レヒーノ・サインス・デ・ラ・マーサ]]のギター、[[アタウルフォ・アルヘンタ]]の指揮、マドリード室内管弦楽団により[[マドリード]]で初演された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
曲は3楽章からなり、特に第2楽章はその哀愁をたたえた美しい旋律から広く知られている。[[古典派音楽|古典派]]以来、一般的な協奏曲は第1楽章が最も長いものであるが&amp;lt;!--（第1楽章に[[カデンツァ]]が含まれるため）--&amp;gt;、この作品は緩徐楽章である第2楽章が最も長い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロドリーゴはスペインの古都[[アランフエス]]（[[マドリード県]]南部にある都市で、宮殿が有名）が作曲当時の[[スペイン内戦]]で被害を受けたことから、スペインとアランフエスの平和への想いを込めて作曲したと言われている。第2楽章については病によって重体となった妻や失った初めての子供に対する神への祈りが込められているとも言われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第1楽章の主題は1978年作のギター曲『トリプティコ』の第3曲「スケルツィーノscherzino」に転用されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第2楽章はポピュラー・クラシックとして編曲されるなど広く知られており、[[ギル・エヴァンス]]の編曲を得て1959年に演奏された[[トランペット]]奏者[[マイルス・デイヴィス]]のアルバム『[[スケッチ・オブ・スペイン]]』のバージョンは有名である。[[ジャズ]]界では他に、[[モダン・ジャズ・カルテット]]、[[ジム・ホール]]や[[マンハッタン・ジャズ・クインテット]]も取り上げた。また、[[チック・コリア]]は自身の楽曲『[[スペイン (チック・コリアの曲)|スペイン]]』のイントロに第2楽章のフレーズを用いている。ムード音楽の分野では「恋のアランフエス」「我が心のアランフエス」などの通俗名が付けられていることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、これはある程度ギター協奏曲全般についていえることであるが、クラシック・ギターの音量が小さいことからオーケストラが音のバランスに苦労することでも知られる。このため、オケの音量を下げたり、ギターに[[マイクロフォン]]を置くこともある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==編成==&lt;br /&gt;
独奏[[ギター]]、[[フルート]]2([[ピッコロ]]持ち替え1)、[[オーボエ]]2([[イングリッシュ・ホルン]]持ち替え1)、[[クラリネット]]2、[[ファゴット]]2、[[ホルン]]2、 [[トランペット]]2、[[弦楽合奏|弦五部]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 構成 ==&lt;br /&gt;
全体として簡素な書法で書かれており、[[フランシス・プーランク]]はこの作品を「一音の無駄もない」と評している。&lt;br /&gt;
* 第1楽章 Allegro con spirito [[ニ長調]]&lt;br /&gt;
* 第2楽章 Adagio [[ロ短調]] … [[変奏曲]]。冒頭[[コーラングレ|イングリッシュ・ホルン]]によって提示される主題が有名。&lt;br /&gt;
* 第3楽章 Allegro gentile ニ長調 … 2/4と3/4の複合拍子。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== エピソード ==&lt;br /&gt;
献呈を受けられなかった大ギタリスト[[アンドレス・セゴビア]]は、独奏楽器とオーケストラの掛け合いに問題があるとしてこの曲を演奏せずにいた。後に[[ナルシソ・イエペス]]がこの曲をデビュー公演で演奏し、イエペスの鮮烈さと相まって曲が有名になると、セゴビアは完全に興味をなくし結局生涯に一度も演奏することはなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Classic-substub}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:あらんふえすきようそうきよく}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:ロドリーゴの楽曲]]&lt;br /&gt;
[[Category:ギター協奏曲]]&lt;br /&gt;
[[Category:1939年の楽曲]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.231.47.46</name></author>
	</entry>
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