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	<title>Wikippe - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=UEFA%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%82%BA%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B0&amp;diff=2018</id>
		<title>UEFAチャンピオンズリーグ</title>
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		<updated>2014-08-25T04:38:24Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: /* 国別出場枠 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{redirect|チャンピオンズリーグ}}&lt;br /&gt;
{{国際サッカー大会&lt;br /&gt;
|大会名 =&lt;br /&gt;
|画像 =&lt;br /&gt;
|開始年 = 1955&lt;br /&gt;
|終了年 =&lt;br /&gt;
|主催 = [[欧州サッカー連盟|UEFA]]&lt;br /&gt;
|地域 = [[ヨーロッパ]]&lt;br /&gt;
|参加チーム数 = 32&lt;br /&gt;
|国 =&lt;br /&gt;
|前回優勝 = {{Flagicon|ESP}} [[レアル・マドリード]]&amp;lt;br /&amp;gt;（10回目）&lt;br /&gt;
|最多優勝 = {{Flagicon|ESP}} [[レアル・マドリード]]&amp;lt;br /&amp;gt;（10回）&lt;br /&gt;
|サイト = [http://jp.uefa.com/uefachampionsleague/index.html 公式サイト]&lt;br /&gt;
|備考 =&lt;br /&gt;
|current_season = [[UEFAチャンピオンズリーグ 2014-15|2014-15 シーズン]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;UEFAチャンピオンズリーグ&#039;&#039;&#039;（{{lang-en-short|UEFA Champions League}}）は、[[欧州サッカー連盟]]（UEFA）の主催で毎年9月から翌年の5月にかけて行われる、[[クラブチーム]]による[[サッカー]]の大陸選手権大会である。&#039;&#039;&#039;CL&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;UCL&#039;&#039;&#039;とも略記される。[[1955年]]に&#039;&#039;&#039;チャンピオン・クラブズ・カップ&#039;&#039;&#039;の名称で始まった。当初は各国リーグの優勝クラブの大会だったが、[[1990年代]]に参加クラブ数、資格が拡大された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1992年より前は、大会の正式名称は「ヨーロピアン・チャンピオン・クラブズ・カップ &#039;&#039;European Champion Clubs&#039; Cup&#039;&#039;」であったが、大抵の場合単純に「ヨーロピアン・カップ」と呼ばれた&amp;lt;ref name=&amp;quot;UCL&amp;quot;&amp;gt;{{cite news |title=Football&#039;s premier club competition |url=http://www.uefa.com/uefachampionsleague/history/index.html |publisher=[[UEFA|Union of European Football Associations]] |date=31 January 2010 |accessdate=23 May 2010 }}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
欧州クラブシーンにおける最も権威ある国際大会であり&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite book|author=David Bolchover, Christopher Brady |year=2006|url=http://books.google.com/books?id=P8m8DiTf-WQC&amp;amp;pg=PA190&amp;amp;dq=champions+league+most+important+club+competition+in+the+world&amp;amp;hl=en&amp;amp;ei=QhdzTe_rGYOYhQfosMA5&amp;amp;sa=X&amp;amp;oi=book_result&amp;amp;ct=result&amp;amp;resnum=10&amp;amp;ved=0CFsQ6AEwCTgK#v=onepage&amp;amp;q=champions%20league%20most%20important%20club%20competition%20in%20the%20world&amp;amp;f=false |title=The 90-minute manager: lessons from the sharp end of management|pages=190|publisher= Pearson Education}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/europe/8691203.stm |title=Champions League bigger than World Cup|author=Jose Mourinho|newspaper=BBC Sport|date=2010-05-19|accessdate=2011-08-09}}&amp;lt;/ref&amp;gt;、各国リーグ戦の上位クラブが総登場することから世界的な注目を集める。世界中の名選手が欧州に集中する現在のサッカー界においては、事実上世界一レベルの高いクラブチームのコンペティションと看做されており、[[FIFAワールドカップ]]と並んで世界中のサッカー選手が憧れる大会、目指すタイトルである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
決勝のテレビ視聴者は毎年1億人を越え&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news |title=Champions League final tops Super Bowl for TV market |url=http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/europe/8490351.stm|work=BBC Sport |publisher=British Broadcasting Corporation |date=2010-01-30 |accessdate=2011-08-09}}&amp;lt;/ref&amp;gt;、ここ数年はアメリカＮＦＬのスーパーボウルを上回り、毎年行われるスポーツイベントとしては世界一の視聴者数を誇るとされる（2013年の決勝の推定視聴者数は全世界で平均1億5000万人）。勝ち上がるごとにクラブには莫大な収益がもたらされ、優勝クラブは名実共に欧州一の称号を得られることから、自国のリーグ戦よりもこちらで勝つことを優先しているクラブも数多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 歴史 ===&lt;br /&gt;
本大会は1955年に、フランスのスポーツ誌[[レキップ]]の記者・編集者だった[[ガブリエル・アノ]]の提案によって開始された&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web |url=http://www.uefa.com/news/newsid=419682.html |title=Hats off to Hanot |accessdate=2011-08-09 |date=2006-05-12 |publisher=UEFA.com |first=Matthew |last=Spiro}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。これは、1948年の[[南米クラブ選手権]]（南米各国の国内クラブ王者による大会）の大成功に着想を得て企画された&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web|url=http://www.youtube.com/watch?v=86xAxuxomoo |title=Primeira Libertadores – História (Globo Esporte 09/02/20.l.08) |publisher=Youtube.com |date= |accessdate=2011-08-09}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。1950年代に行われた親善試合を受けて[[ウルヴァーハンプトン・ワンダラーズFC|ウルヴァーハンプトン・ワンダラーズ]]が「世界チャンピオン」であるとする英国マスコミによる宣言に対する反応として、アノは全ヨーロッパ大陸のトーナメントを実現するようUEFAを最終的に何とか説得した。トーナメントはヨーロッパ各国の国内リーグ王者による大会、「&#039;&#039;&#039;ヨーロピアン・チャンピオン・クラブズ・カップ&#039;&#039;&#039; (European Champion Clubs&#039; Cup)」、略称「&#039;&#039;&#039;ヨーロピアン・カップ&#039;&#039;&#039; (European Cup)」として考案された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大会は、[[UEFAチャンピオンズカップ 1955-56|1955-1956年]]に、[[ホーム・アンド・アウェー|ホーム&amp;amp;アウェー]]の2試合の合計スコアで争われるノックアウト方式を採用して開始された。1992年までは、参加チームは国内リーグの勝者と前年のヨーロピアン・カップ覇者に制限されていた。[[UEFAチャンピオンズリーグ 1992-93|1992-1993シーズン]]から、グループステージが導入され「UEFAチャンピオンズ・リーグ (UEFA Champions League)」と改称した。以後、参加資格や予選ラウンド数、グループ構成など様々な変更が行われている。1997-98シーズンには、[[UEFAランキング]]上位いくつかの国内リーグの準優勝チームにも参加資格が拡大された。現在はさらに、ランキング低位の国のチャンピオンはさらに多くの予選ラウンドを戦い、ランキング上位の国の上位クラブは、後から予選に参戦するように予選システムが変更されている。現在、ランキングの最高位に位置する国々は4クラブまで参加資格が認められている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1960年から2004年まで、本大会の勝者は[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|インターコンチネンタルカップ]]に参加し、南米大陸の[[コパ・リベルタドーレス]]勝者と対戦した。2005年以降は、[[国際サッカー連盟|FIFA]]主催の[[FIFAクラブワールドカップ|クラブワールドカップ]]への出場権を自動的に得ることになっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 開催方式 ==&lt;br /&gt;
=== 国別出場枠 ===&lt;br /&gt;
UEFAに加盟する各国地域内での前年度リーグ戦の上位クラブが参加できる。国別の出場枠およびどのレベルから参加できるかは、UEFAの国別ランキングで決まる。&lt;br /&gt;
* [[UEFAランキング]]1位〜3位の国: 4クラブ&lt;br /&gt;
* UEFAランキング4位〜6位の国: 3クラブ&lt;br /&gt;
* UEFAランキング7位〜15位の国: 2クラブ&lt;br /&gt;
* UEFAランキング16位以下の国: 1クラブ&lt;br /&gt;
ただしCL前年度優勝クラブは国内リーグの成績に拘わらず出場権を得るため、前年度優勝クラブがUEFAランキング4位以下の国のクラブで前年度の自国リーグの成績が出場権獲得圏内より下の順位だった場合は、その国の出場枠が1つ増える。&lt;br /&gt;
1つの国から出場できるのは4クラブまでと規定しているため、前年度優勝クラブがUEFAランキング3位以上の国で国内リーグ成績5位以下の場合、その国の国内リーグ4位クラブは予選出場権が無くなり[[UEFAヨーロッパリーグ]](EL)の出場権を得る&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web |url=http://www.uefa.com/MultimediaFiles/Download/Regulations/competitions/Regulations/01/79/68/69/1796869_DOWNLOAD.pdf |format=pdf |title=Regulations of the UEFA Champions League, 2012/13 competition |publisher=UEFA.com |accessdate=2013-03-09}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上記の規定により、2012-13シーズンの[[チェルシーFC|チェルシー]]は前年度国内リーグ成績6位だったが前年度CL優勝枠で出場となり、本来なら出場権を得る4位の[[トッテナム・ホットスパー]]がELに回ることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なおUEFAは、2015-16シーズンから前年度EL優勝クラブにも出場権を与える事を決定した（プレーオフから参加。但し前年度CL優勝クラブの国内リーグ成績が本大会出場権獲得圏内の場合はグループステージから）。これに伴い、1つの国からの最大出場枠が４から５に拡大する&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web |url=http://jp.uefa.com/uefaeuropaleague/news/newsid=1956476.html|title=UEL優勝チーム、次季UCL出場権を獲得へ=UEFA.com |accessdate=2013-05-24}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 予選 ===&lt;br /&gt;
予選は次の二つのルートで行われる。どのラウンドも1対1のホーム&amp;amp;アウェー方式で行われる。組み合わせ抽選は、シーズン開幕時に確定したクラブ・ランキングに従ってシード分けした上で行われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 国内リーグ優勝チーム予選 ====&lt;br /&gt;
;1次予選&lt;br /&gt;
:UEFAランキング48～53位の国のリーグ戦優勝クラブ6チームによって争われ、勝者3クラブが2次予選進出&lt;br /&gt;
;2次予選&lt;br /&gt;
:UEFAランキング16位〜47位の国のうち、国内にリーグ戦を有さないリヒテンシュタインを除く国のリーグ戦優勝クラブ31チームと1次予選の勝者3チームの34チームによって争われ、勝者17チームが3次予選進出&lt;br /&gt;
;3次予選&lt;br /&gt;
:UEFAランキング13位〜15位の国のリーグ戦優勝クラブ3チームと2次予選の勝者17チームの20チームによって争われ、勝者10チームがプレーオフ進出。&lt;br /&gt;
;プレーオフ&lt;br /&gt;
:3次予選の勝者10チームによって争われ、5チームがグループリーグへ進出&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 国内リーグ上位チーム予選 ====&lt;br /&gt;
;3次予選&lt;br /&gt;
:UEFAランキング6位の国のリーグ戦3位クラブとUEFAランキング7位〜15位の国のリーグ戦2位クラブの10チームによって争われ、勝者5チームがプレーオフ進出。&lt;br /&gt;
;プレーオフ&lt;br /&gt;
:UEFAランキング1位〜3位の国の4位クラブ3チームとUEFAランキング4位〜5位の国の3位クラブ2チーム、および3次予選の勝者5チームの10チームによって争われ、勝者5チームがグループリーグへ進出。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただし前年度優勝クラブが、UEFAランキング3位以上の国であるか、国内リーグ成績が本大会もしくは予選出場権獲得圏内だった場合、予選の枠組みに変動がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
予選3回戦で敗退したチームは、ELのプレーオフに進出する。また、予選プレーオフで敗退したチームは、ELのグループリーグに回る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 本大会出場チームの構成 ===&lt;br /&gt;
*UEFAランキング1位〜12位の国の優勝クラブ(12)&lt;br /&gt;
*UEFAランキング1位〜6位の国の2位クラブ(6)&lt;br /&gt;
*UEFAランキング1位〜3位の国の3位クラブ(3)&lt;br /&gt;
*優勝チーム予選を勝ち上がってきたUEFAランキング13位以下の国の優勝クラブ(5)&lt;br /&gt;
*上位チーム予選を勝ち上がってきたUEFAランキング1～15位の国の2～4位クラブ(5)&lt;br /&gt;
*UEFAチャンピオンズリーグ前年度優勝クラブ もしくはUEFAランキング13位の国の優勝クラブ(1)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前年度優勝クラブの国内リーグ成績が本大会出場権獲得圏内の場合、UEFAランキング13位の国の優勝クラブが予選を免除され、本大会の出場権を得る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 本大会の概要 ===&lt;br /&gt;
グループリーグは32クラブを4クラブ×8グループに分ける。[[ホーム・アンド・アウェー]]方式の2回総当りで争い、各組2位までの16チームが決勝トーナメントに進む。また、グループリーグ3位のチームはELの決勝トーナメントに回る。そのうちの上位4チームは、ELグループリーグの首位とともに、決勝トーナメント1回戦でシードされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
勝ち点が同じチームが出た場合の順位の付け方は以下の順に順位が付けられる。&lt;br /&gt;
#該当チーム同士の直接対決における勝点&lt;br /&gt;
#該当チーム同士の直接対決における総得点&lt;br /&gt;
#該当チーム同士の直接対決におけるアウェイゴール数&lt;br /&gt;
#全試合の得失点差&lt;br /&gt;
#グループリーグにおける総得点&lt;br /&gt;
#UEFAランキングの上位の国と地域&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
決勝トーナメントは16クラブによるホーム&amp;amp;アウェー方式によるトーナメントで、2試合の通算得点が同じ場合は[[アウェーゴール]]の多い方が勝者となる。それでも勝者が決まらない場合は、2試合目の試合後に前後半15分の[[延長戦]]を行う。 延長戦後、得点数が同数であった場合にもアウェーゴールが適用され、アウェークラブが次のラウンドに進出する。 延長戦で両軍とも無得点の場合は[[PK戦]]で勝者を決定する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
準々決勝以降は再度組み合わせ抽選を決勝戦開催地（2009-10シーズン以降はスイスのニヨン）にて実施、そこで前年優勝クラブから優勝カップを返還する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
決勝戦は事前に決定された試合地での1試合決着とし、90分で決しない場合は延長戦を行い、さらに決しない場合はPK戦となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
開催日は概ね火曜日・水曜日。決勝戦は5月の最終水曜になることが多かったが、2009-10シーズンから土曜開催になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 抽選のシステム ====&lt;br /&gt;
グループリーグでは、まず32クラブを過去のCLやELの成績などで決定されるUEFAランキングにより8チームずつ4つのポットに分ける。そのポットから1クラブずつ選び4クラブが1つのリーグに入る。その際に同国のチームが同じリーグに入らないように考慮される（カントリープロテクション。特例出場の場合は考慮されない。2005-06の大会では特例で出場したリヴァプールは同じイングランドのチェルシーと同組になっている）。またグループA-Dを赤、E-Hを青とし、同じ国から2クラブ出場する場合はペア、3クラブ出場する場合は2クラブがペア、4クラブ出場する場合は2組のペアとし、ペア同士が同じ色のグループに入らないように抽選する（例えば同じ国からクラブYとクラブZが出場する場合、YがグループA-Dのどれかに入ればZは自動的にグループE - Hのどれかに入ることになる）。これは同国クラブの戦う曜日が被らないようにするために行われる。また、抽選後にコンピュータによりグループ内での序列を計算し、同国チームのホームとアウェーが被らないように調整する（序列1はAHAHHA、序列2はHAHAAHとなりH&amp;amp;Aが対になっている。序列3はAHHAHA、序列4はHAAHAHである）。同じ国から2クラブ出場の場合は1と2との対、もしくは3と4との対になるように調整し、4クラブ出場の場合でも同じ国内で同じ曜日にホームゲームが行われることはなくなる。ただし例外が2006-07シーズンにあった。このシーズンはロシアから[[PFC CSKAモスクワ|CSKAモスクワ]]と[[FCスパルタク・モスクワ|スパルタク・モスクワ]]の2クラブが出場した。ロシアは気温が低いのでグループリーグの最終戦が行なわれる12月にホームゲームを避けるために両クラブが最終戦をアウェーで戦った（このためホームとアウェーを別々に行なえたのはグループリーグ全6節中2節だけになった）。なお同じく気温が低く2クラブ出場の可能性があるノルウェーのクラブが2クラブ出場する場合も同様の措置を採ることになっている（2005-06シーズンに可能性があった）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
決勝トーナメント1回戦ではグループリーグ1位のクラブと2位のクラブが当たるように抽選する。その際も同国のクラブ同士が対戦しないように考慮される。また、グループリーグで対戦したクラブとも当たらないよう考慮される。抽選はグループリーグ2位の8クラブの玉を入れたポット、1位のクラブについてそれぞれ複数の玉を入れた8つのポット、そして1位のクラブを抽選するための空のポットの計10ポットを用意して行われる。そして、まず2位のチームのポットから1チームを選び、前述の条件により対戦可能なクラブの玉を空のポットに入れて抽選することで組み合わせが決まる。この作業を8カード決まるまで繰り返す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1回戦が終わると8クラブで再び抽選が行われる。準々決勝以降はカントリープロテクションは考慮されない。従来はこれが最後の抽選で準々決勝および準決勝の組み合わせを決めていたが、2012-13シーズンより準決勝も抽選を行うようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 選手登録のルール ===&lt;br /&gt;
各クラブは、事前に選手のAリストとBリストを提出。Aリストは25名までで、以下の制限がある。&lt;br /&gt;
*予選では各ラウンド毎に期限までに提出する。本大会グループステージに向けて提出したリストは基本的に決勝まで変更不可だが、1月に限り3人まで登録選手の入れ替え・追加が可能。&lt;br /&gt;
*うち2人はGKでなければならない。&lt;br /&gt;
*8人以上が「自国育成選手」でなければならず、さらにそのうちの4人以上が「クラブ内育成選手」でなければならない&lt;br /&gt;
*:（「自国育成選手」とは「協会域内育成選手」と「クラブ内育成選手」を含めた総称である。「クラブ内育成選手」とは15歳(選手が15歳になるシーズンの始まり)から、21歳(21歳になる季節の終わり)までの間に国籍関係なく、継続するしないにかかわらず、当該のクラブに完全な3シーズン(そのクラブが所属するリーグの開幕戦から最終戦まで)、もしくは36ヶ月在籍した選手を指す。「協会域内育成選手」とは15歳(選手が15歳になるシーズンの始まり)から、21歳(21歳になる季節の終わり)までの間に国籍関係なく、継続するしないにかかわらず、当該のクラブ、または当該のクラブが所属するサッカー協会に属するクラブに完全な3シーズン(そのクラブが所属するリーグの開幕戦から最終戦まで)、もしくは36ヶ月在籍した選手を指す。)&lt;br /&gt;
*冬の移籍期間に新加入した選手が前所属クラブでCL本大会に出場歴のある場合、1月に新たな所属クラブで出場登録はできない。EL本大会に出場歴のある選手は、1月に1人に限り登録が可能。なおCLの予選、ELの予選のみに前所属クラブで出場歴がある選手に関しては、新たな所属クラブで本大会に登録できる（2011-12シーズンまでは前所属クラブが敗退していない場合は登録不可だった）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Bリストには、試合前日の24:00(中央ヨーロッパ時間)までに申請すれば、登録資格のある選手を無制限に登録できる。Bリストへの登録資格は、シーズン開幕21年前の年の1月1日以降に生まれた選手で、15歳の誕生日以降、継続して2年以上当該クラブに所属歴がある選手とする。 16歳の選手の場合は、2年以上継続して在籍していれば登録可能とする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 過去の大会における主な変更点 ===&lt;br /&gt;
; 1991-1992シーズン&lt;br /&gt;
: 4チーム×2のリーグ戦を導入。&lt;br /&gt;
; 1992-1993シーズン&lt;br /&gt;
: 大会名がヨーロッパチャンピオンズリーグに変更。&lt;br /&gt;
; 1994-1995シーズン&lt;br /&gt;
: ホーム&amp;amp;アウェーの総当り戦による4チーム×4グループのリーグ戦を導入。UEFAランキング上位8カ国のチームあるいは前回優勝チーム（1993-1994シーズンは、前回王者の[[オリンピック・マルセイユ]]は不参加）が本大会でのシード権を獲得。それ以下の国のチームは予選を行って勝ち上がったチームが本大会に出場する。&lt;br /&gt;
; 1996-1997シーズン&lt;br /&gt;
: 大会名がヨーロッパチャンピオンズリーグからUEFAチャンピオンズリーグに変更。アンセム、大会公式球の導入。また、ユニフォームの袖に大会公式ワッペンを付けることが義務づけられた。&lt;br /&gt;
; 1997-1998シーズン&lt;br /&gt;
: 従来からの国内リーグ1位のチームに加えて、国内リーグ2位のチームにも出場権が認められた。但し、国内リーグ2位のチームは予備予選で勝ち上がる必要がある。本大会出場チームが16チームから24チームに増加し、グループも4から6に増加した。これに伴い、グループリーグでの決勝トーナメント進出条件が変更され、各グループ1位のチームと2位の中で最も成績の良かった上位2チームが決勝トーナメントに進出する方式に変更された。&lt;br /&gt;
; 1999-2000シーズン&lt;br /&gt;
: 予選方式、本大会方式が大幅に変更された。これは[[UEFAカップウィナーズカップ]]が廃止されたための変更であるが、1990年代後半から水面下で動いていたスーパーリーグ構想にUEFAが対処しなければならなかったという見方が強い。本大会の出場チームは、24チームから32チームに拡大し、ランキング上位国に与えられる出場枠は4チームに増加。グループリーグは従来からの1次リーグに加えて2次リーグが追加導入され、1次リーグ、2次リーグ共に、各グループ上位2チームが通過という条件に戻った。また、1次リーグで3位に入ったチームは、UEFAカップに回ることになった。しかし、リーグの拡大に伴って試合数も増加し、2次リーグに進出したチームは最低でも12試合を消化しなければならず、さらに決勝戦に進出した場合は合計で17試合も消化しなければならないため、疲労の蓄積や怪我の続出、試合数の増加によるレベルの低下が懸念されたことから、各クラブや選手、監督の間で不満が続出し、後に2003-2004シーズンでの大会システム変更に繋がった。&lt;br /&gt;
; 2003-2004シーズン&lt;br /&gt;
: 本大会の出場チーム数は32チームであるが、過密日程の元凶となっていた2次リーグを廃止して、決勝トーナメント出場チーム数が8チームから16チームに変更されたことで、各クラブや選手、監督の間で不評だった部分が一部解消されている。これにより、グループリーグで消化しなければならない試合数は6試合に減少、決勝戦までに消化する試合数は最大で17試合から13試合に減少しており、試合数の増加に伴う疲労の蓄積と怪我の問題、試合レベルの低下がある程度是正された。&lt;br /&gt;
; 2006-2007シーズン&lt;br /&gt;
: 前年度優勝クラブはグループリーグにシードされる事となった。過去に、2004-05シーズンに優勝した[[リヴァプールFC|リヴァプール]]が[[プレミアリーグ]]ではリーグ5位に終わったため、本来ならば2005-2006シーズンはUEFAカップに回る事となるはずだったが、王者としての防衛権の必要性から、2005-2006シーズンは予備予選からの参加となった。&lt;br /&gt;
; 2009-2010シーズン&lt;br /&gt;
: 予選なしで出場できるチームが16チームから22チームに拡大され(21+前年度優勝クラブ)、出場枠がUEFAランキング上位9カ国から12カ国（前年度優勝枠次第で13カ国）へ、ランキング上位3カ国は上位2チームから3チームへ変更された。予選が国内リーグ優勝チーム予選と国内リーグ上位チーム予選の二つの経路に分かれた。予選が3回戦から4回戦に拡大され、4回戦はプレーオフと命名された。上位チーム予選は3回戦とプレーオフのみとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 賞金 ==&lt;br /&gt;
2012/13シーズンの例&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web |title=UEFA Champions League revenue distribution |url=http://www.uefa.com/uefa/management/finance/news/newsid=1845591.html |work=UEFA.com |publisher=Union of European Football Associations |date=10 August 2012 |accessdate=28 December 2012 }}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*プレイオフ敗退: €2,100,000&lt;br /&gt;
*グループステージ進出: €8,600,000&lt;br /&gt;
*グループステージでの勝利: €1,000,000&lt;br /&gt;
*グループステージでの引き分け: €500,000&lt;br /&gt;
*決勝トーナメント進出: €3,500,000&lt;br /&gt;
*準々決勝進出: €3,900,000&lt;br /&gt;
*準決勝進出: €4,900,000&lt;br /&gt;
*準優勝: €6,500,000&lt;br /&gt;
*優勝: €10,500,000&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これに加えて、「マーケットプール」という各国の広告やテレビ放映権料の割合による加算が行われる。2012/13シーズンの場合、ユヴェントスは上記の賞金の合計2050万ユーロに加え、マーケットプール4481万5000ユーロが加算され6531万5000ユーロとなる。これは優勝したバイエルン・ミュンヘンの賞金3600万ユーロ、マーケットプールの1900万ユーロ、合計5500万ユーロよりも多い&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite journal |year=2013 |month=July |title=Clubs benefit from Champions League revenue|journal=uefadirect |issue=1 |pages=1 |publisher=Union of European Football Associations|url=http://www.uefa.com/MultimediaFiles/Download/uefaorg/Finance/01/97/52/97/1975297_DOWNLOAD.pdf |format=PDF |accessdate=26 July 2013}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 結果 ==&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; border=&amp;quot;1&amp;quot; style=&amp;quot;border-collapse:collapse; font-size:90%;&amp;quot; cellpadding=&amp;quot;1&amp;quot; cellspacing=&amp;quot;1&amp;quot;&lt;br /&gt;
!年度!!優勝!!結果!!準優勝!!会場&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1955-56|1955-56]]&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ESP1945}} &#039;&#039;&#039;[[レアル・マドリード]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;4 - 3&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|{{flagicon|FRA}} [[スタッド・ランス]]&lt;br /&gt;
|[[パルク・デ・プランス]]（{{flagicon|FRA}} [[パリ]]）&lt;br /&gt;
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|[[UEFAチャンピオンズカップ 1956-57|1956-57]]&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ESP1945}} &#039;&#039;&#039;[[レアル・マドリード]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
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|[[エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウ|サンティアゴ・ベルナベウ]]（{{flagicon|ESP1945}} [[マドリード]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1957-58|1957-58]]&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ESP1945}} &#039;&#039;&#039;[[レアル・マドリード]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
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|[[ボードゥアン国王競技場|ヘイゼル]]（{{flagicon|BEL}} [[ブリュッセル]]）&lt;br /&gt;
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|[[UEFAチャンピオンズカップ 1958-59|1958-59]]&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ESP1945}} &#039;&#039;&#039;[[レアル・マドリード]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;2 - 0&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
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|[[ゴットリーブ・ダイムラー・シュタディオン|ネッカー]]（{{flagicon|FRG}} [[シュトゥットガルト]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1959-60|1959-60]]&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ESP1945}} &#039;&#039;&#039;[[レアル・マドリード]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
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|{{flagicon|FRG}} [[アイントラハト・フランクフルト|フランクフルト]]&lt;br /&gt;
|[[ハムデン・パーク]]（{{flagicon|SCO}} [[グラスゴー]]）&lt;br /&gt;
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|[[UEFAチャンピオンズカップ 1960-61|1960-61]]&lt;br /&gt;
|{{flagicon|POR}} &#039;&#039;&#039;[[SLベンフィカ|ベンフィカ]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
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|{{flagicon|ESP1945}} [[FCバルセロナ|バルセロナ]]&lt;br /&gt;
|[[スタッド・ドゥ・スイス・バンクドルフ|バンクドルフ]]（{{Flagicon|SUI}} [[ベルン]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1961-62|1961-62]]&lt;br /&gt;
|{{flagicon|POR}} &#039;&#039;&#039;[[SLベンフィカ|ベンフィカ]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;5 - 3&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ESP1945}} [[レアル・マドリード]]&lt;br /&gt;
|[[オリンピスフ・スタディオン (アムステルダム)|オリンピスフ]]（{{flagicon|NED}} [[アムステルダム]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
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|[[UEFAチャンピオンズカップ 1962-63|1962-63]]&lt;br /&gt;
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|{{flagicon|POR}} [[SLベンフィカ|ベンフィカ]]&lt;br /&gt;
|[[ウェンブリー・スタジアム (1923)|ウェンブリー]]（{{flagicon|ENG}} [[ロンドン]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1963-64|1963-64]]&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ITA}} &#039;&#039;&#039;[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
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|[[エルンスト・ハッペル・シュターディオン|プラーター]]（{{flagicon|AUT}} [[ウィーン]]）&lt;br /&gt;
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|[[UEFAチャンピオンズカップ 1964-65|1964-65]]&lt;br /&gt;
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|[[スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ|サン・シーロ]]（{{flagicon|ITA}} [[ミラノ]]）&lt;br /&gt;
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|-&lt;br /&gt;
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1965-66|1965-66]]&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ESP1945}} &#039;&#039;&#039;[[レアル・マドリード]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
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|{{flagicon|YUG1945}} [[パルチザン・ベオグラード]]&lt;br /&gt;
|[[ボードゥアン国王競技場|ヘイゼル]]（{{flagicon|BEL}} [[ブリュッセル]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|- bgcolor=#D0E7FF&lt;br /&gt;
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1966-67|1966-67]]&lt;br /&gt;
|{{flagicon|SCO}} &#039;&#039;&#039;[[セルティックFC|セルティック]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;2 - 1&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ITA}} [[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]&lt;br /&gt;
|[[エスタージオ・ナチオナル|ナシオナウ]]（{{flagicon|POR}} [[リスボン]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1967-68|1967-68]]&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ENG}} &#039;&#039;&#039;[[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスターU.]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;4 - 1&#039;&#039;&#039; [[延長戦|aet]]&lt;br /&gt;
|{{flagicon|POR}} [[SLベンフィカ|ベンフィカ]]&lt;br /&gt;
|[[ウェンブリー・スタジアム (1923)|ウェンブリー]]（{{flagicon|ENG}} [[ロンドン]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|- bgcolor=#D0E7FF&lt;br /&gt;
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1968-69|1968-69]]&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ITA}} &#039;&#039;&#039;[[ACミラン|ミラン]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;4 - 1&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|{{flagicon|NED}} [[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]&lt;br /&gt;
|[[エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウ|サンティアゴ・ベルナベウ]]（{{flagicon|ESP1945}} [[マドリード]]）&lt;br /&gt;
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|-&lt;br /&gt;
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1969-70|1969-70]]&lt;br /&gt;
|{{flagicon|NED}} &#039;&#039;&#039;[[フェイエノールト]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
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|{{flagicon|SCO}} [[セルティックFC|セルティック]]&lt;br /&gt;
|[[スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ|サン・シーロ]]（{{flagicon|ITA}} [[ミラノ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|- bgcolor=#D0E7FF&lt;br /&gt;
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1970-71|1970-71]]&lt;br /&gt;
|{{flagicon|NED}} &#039;&#039;&#039;[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;2 - 0&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
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|[[ウェンブリー・スタジアム (1923)|ウェンブリー]]（{{flagicon|ENG}} [[ロンドン]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1971-72|1971-72]]&lt;br /&gt;
|{{flagicon|NED}} &#039;&#039;&#039;[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;2 - 0&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ITA}} [[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]&lt;br /&gt;
|[[フェイエノールト・スタディオン|デ・カイプ]]（{{flagicon|NED}} [[ロッテルダム]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|- bgcolor=#D0E7FF&lt;br /&gt;
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1972-73|1972-73]]&lt;br /&gt;
|{{flagicon|NED}} &#039;&#039;&#039;[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;1 - 0&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ITA}} [[ユヴェントスFC|ユヴェントス]]&lt;br /&gt;
|[[スタディオン・ツルヴェナ・ズヴェズダ|ツルヴェナ・ズヴェズダ]]（{{flagicon|YUG1945}} [[ベオグラード]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1973-74|1973-74]]&lt;br /&gt;
|{{flagicon|FRG}} &#039;&#039;&#039;[[バイエルン・ミュンヘン]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;1 - 1&#039;&#039;&#039; [[延長戦|aet]]&amp;lt;br /&amp;gt;&#039;&#039;&#039;4 - 0&#039;&#039;&#039; [[再試合|R]]&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ESP1945}} [[アトレティコ・マドリード]]&lt;br /&gt;
|[[ボードゥアン国王競技場|ヘイゼル]]（{{flagicon|BEL}} [[ブリュッセル]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|- bgcolor=#D0E7FF&lt;br /&gt;
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1974-75|1974-75]]&lt;br /&gt;
|{{flagicon|FRG}} &#039;&#039;&#039;[[バイエルン・ミュンヘン]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;2 - 0&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ENG}} [[リーズ・ユナイテッドAFC|リーズ]]&lt;br /&gt;
|[[パルク・デ・プランス|パルク・デ・プランス]]（{{flagicon|FRA}} [[パリ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1975-76|1975-76]]&lt;br /&gt;
|{{flagicon|FRG}} &#039;&#039;&#039;[[バイエルン・ミュンヘン]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;1 - 0&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|{{flagicon|FRA}} [[ASサンテティエンヌ|サンテティエンヌ]]&lt;br /&gt;
|[[ハムデン・パーク]]（{{flagicon|SCO}} [[グラスゴー]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|- bgcolor=#D0E7FF&lt;br /&gt;
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1976-77|1976-77]]&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ENG}} &#039;&#039;&#039;[[リヴァプールFC|リヴァプール]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;3 - 1&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|{{flagicon|FRG}} [[ボルシア・メンヒェングラートバッハ|ボルシアMG]]&lt;br /&gt;
|[[スタディオ・オリンピコ・ディ・ローマ|オリンピコ]]（{{flagicon|ITA}} [[ローマ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1977-78|1977-78]]&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ENG}} &#039;&#039;&#039;[[リヴァプールFC|リヴァプール]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;1 - 0&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|{{flagicon|BEL}} [[クラブ・ブルッヘ]]&lt;br /&gt;
|[[ウェンブリー・スタジアム (1923)|ウェンブリー]]（{{flagicon|ENG}} [[ロンドン]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|- bgcolor=#D0E7FF&lt;br /&gt;
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1978-79|1978-79]]&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ENG}} &#039;&#039;&#039;[[ノッティンガム・フォレストFC|ノッティンガム・フォレスト]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
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&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1979-80|1979-80]]&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ENG}} &#039;&#039;&#039;[[ノッティンガム・フォレストFC|ノッティンガム・フォレスト]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
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|[[エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウ|サンティアゴ・ベルナベウ]]（{{flagicon|ESP1977}} [[マドリード]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|- bgcolor=#D0E7FF&lt;br /&gt;
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|{{flagicon|ENG}} &#039;&#039;&#039;[[リヴァプールFC|リヴァプール]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;1 - 0&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ESP1977}} [[レアル・マドリード]]&lt;br /&gt;
|[[パルク・デ・プランス|パルク・デ・プランス]]（{{flagicon|FRA}} [[パリ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1981-82|1981-82]]&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ENG}} &#039;&#039;&#039;[[アストン・ヴィラFC|アストン・ヴィラ]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;1 - 0&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|{{flagicon|FRG}} [[バイエルン・ミュンヘン]]&lt;br /&gt;
|[[フェイエノールト・スタディオン|デ・カイプ]]（{{flagicon|NED}} [[ロッテルダム]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|- bgcolor=#D0E7FF&lt;br /&gt;
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1982-83|1982-83]]&lt;br /&gt;
|{{flagicon|FRG}} &#039;&#039;&#039;[[ハンブルガーSV]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;1 - 0&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ITA}} [[ユヴェントスFC|ユヴェントス]]&lt;br /&gt;
|[[アテネ・オリンピックスタジアム|アテネ・オリンピック]]（{{flagicon|GRE}} [[アテネ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1983-84|1983-84]]&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ENG}} &#039;&#039;&#039;[[リヴァプールFC|リヴァプール]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;1 - 1&#039;&#039;&#039; [[延長戦|aet]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;([[PK戦|PK]] 4 - 2)&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ITA}} [[ASローマ|ローマ]]&lt;br /&gt;
|[[スタディオ・オリンピコ・ディ・ローマ|オリンピコ]]（{{flagicon|ITA}} [[ローマ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|- bgcolor=#D0E7FF&lt;br /&gt;
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1984-85|1984-85]]&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ITA}} &#039;&#039;&#039;[[ユヴェントスFC|ユヴェントス]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;1 - 0&#039;&#039;&#039; &amp;lt;ref&amp;gt;[[ヘイゼルの悲劇]]を参照。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ENG}} [[リヴァプールFC|リヴァプール]]&lt;br /&gt;
|[[ボードゥアン国王競技場|ヘイゼル]]（{{flagicon|BEL}} [[ブリュッセル]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1985-86|1985-86]]&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ROM1965}} &#039;&#039;&#039;[[ステアウア・ブカレスト]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;0 - 0&#039;&#039;&#039; [[延長戦|aet]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;([[PK戦|PK]] 2 - 0)&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ESP}} [[FCバルセロナ|バルセロナ]]&lt;br /&gt;
|[[エスタディオ・ラモン・サンチェス・ピスフアン|サンチェス・ピスフアン]]（{{flagicon|ESP}} [[セビリア]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|- bgcolor=#D0E7FF&lt;br /&gt;
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1986-87|1986-87]]&lt;br /&gt;
|{{flagicon|POR}} &#039;&#039;&#039;[[FCポルト|ポルト]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;2 - 1&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|{{flagicon|FRG}} [[バイエルン・ミュンヘン]]&lt;br /&gt;
|[[エルンスト・ハッペル・シュターディオン|プラーター]]（{{flagicon|AUT}} [[ウィーン]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1987-88|1987-88]]&lt;br /&gt;
|{{flagicon|NED}} &#039;&#039;&#039;[[PSVアイントホーフェン|PSV]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;0 - 0&#039;&#039;&#039; [[延長戦|aet]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;([[PK戦|PK]] 6 - 5)&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|{{flagicon|POR}} [[SLベンフィカ|ベンフィカ]]&lt;br /&gt;
|[[ゴットリーブ・ダイムラー・シュタディオン|ネッカー]]（{{flagicon|FRG}} [[シュトゥットガルト]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|- bgcolor=#D0E7FF&lt;br /&gt;
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1988-89|1988-89]]&lt;br /&gt;
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|{{flagicon|ITA}} &#039;&#039;&#039;[[ACミラン|ミラン]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
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|{{flagicon|YUG1945}} &#039;&#039;&#039;[[レッドスター・ベオグラード]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
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|{{flagicon|FRA}} [[オリンピック・マルセイユ]]&lt;br /&gt;
|[[スタディオ・サン・ニコラ|サン・ニコラ]]（{{flagicon|ITA}} [[バーリ]]）&lt;br /&gt;
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|[[UEFAチャンピオンズカップ 1991-92|1991-92]]&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ESP}} &#039;&#039;&#039;[[FCバルセロナ|バルセロナ]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;1 - 0&#039;&#039;&#039; [[延長戦|aet]]&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ITA}} [[UCサンプドリア|サンプドリア]]&lt;br /&gt;
|[[ウェンブリー・スタジアム (1923)|ウェンブリー]]（{{flagicon|ENG}} [[ロンドン]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|- bgcolor=#D0E7FF&lt;br /&gt;
|[[UEFAチャンピオンズリーグ 1992-93|1992-93]]&lt;br /&gt;
|{{flagicon|FRA}} &#039;&#039;&#039;[[オリンピック・マルセイユ]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;1 - 0&#039;&#039;&#039;&amp;lt;ref&amp;gt;[[オリンピック・マルセイユ|マルセイユ]]は[[八百長]]事件発覚のため、タイトルそのものは剥奪されなかったものの、チャンピオンとして活動する権利を失った。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ITA}} [[ACミラン|ミラン]]&lt;br /&gt;
|[[ミュンヘン・オリンピアシュタディオン|ミュンヘン・オリンピア]]（{{flagicon|GER}} [[ミュンヘン]]）&lt;br /&gt;
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|[[UEFAチャンピオンズリーグ 1993-94|1993-94]]&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ITA}} &#039;&#039;&#039;[[ACミラン|ミラン]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
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|[[アテネ・オリンピックスタジアム|アテネ・オリンピック]]（{{flagicon|GRE}} [[アテネ]]）&lt;br /&gt;
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|[[UEFAチャンピオンズリーグ 1994-95|1994-95]]&lt;br /&gt;
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|[[UEFAチャンピオンズリーグ 1995-96|1995-96]]&lt;br /&gt;
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|[[スタディオ・オリンピコ・ディ・ローマ|オリンピコ]]（{{flagicon|ITA}} [[ローマ]]）&lt;br /&gt;
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|[[UEFAチャンピオンズリーグ 1999-2000|1999-00]]&lt;br /&gt;
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|[[スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ|サン・シーロ]]（{{flagicon|ITA}} [[ミラノ]]）&lt;br /&gt;
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|{{flagicon|GER}} [[バイエル・レバークーゼン|レバークーゼン]]&lt;br /&gt;
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|[[UEFAチャンピオンズリーグ 2002-03|2002-03]]&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ITA}} &#039;&#039;&#039;[[ACミラン|ミラン]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;0 - 0&#039;&#039;&#039; [[延長戦|aet]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;([[PK戦|PK]] 3 - 2)&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
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|{{flagicon|ENG}} &#039;&#039;&#039;[[リヴァプールFC|リヴァプール]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;[[UEFAチャンピオンズリーグ 2004-05 決勝|3 - 3]]&#039;&#039;&#039; [[延長戦|aet]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;([[PK戦|PK]] 3 - 2)&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ITA}} [[ACミラン|ミラン]]&lt;br /&gt;
|[[アタテュルク・オリンピヤット・スタディ|アタテュルク・オリンピヤト]]（{{Flagicon|TUR}} [[イスタンブル]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
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|{{flagicon|ESP}} &#039;&#039;&#039;[[FCバルセロナ|バルセロナ]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
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|{{flagicon|ENG}} [[アーセナルFC|アーセナル]]&lt;br /&gt;
|[[スタッド・ド・フランス]]（{{flagicon|FRA}} [[サン＝ドニ]]）&lt;br /&gt;
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|{{flagicon|ITA}} &#039;&#039;&#039;[[ACミラン|ミラン]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;[[UEFAチャンピオンズリーグ 2006-07 決勝|2 - 1]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ENG}} [[リヴァプールFC|リヴァプール]]&lt;br /&gt;
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|{{flagicon|ENG}} &#039;&#039;&#039;[[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスターU.]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;[[UEFAチャンピオンズリーグ 2007-08 決勝|1 - 1]]&#039;&#039;&#039; [[延長戦|aet]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;([[PK戦|PK]] 6 - 5)&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
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|[[ルジニキ・スタジアム|ルジニキ]]（{{Flagicon|RUS}} [[モスクワ]]）&lt;br /&gt;
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|[[UEFAチャンピオンズリーグ 2008-09|2008-09]]&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ESP}} &#039;&#039;&#039;[[FCバルセロナ|バルセロナ]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;2 - 0&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ENG}} [[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスターU.]]&lt;br /&gt;
|[[スタディオ・オリンピコ・ディ・ローマ|オリンピコ]]（{{flagicon|ITA}} [[ローマ]]）&lt;br /&gt;
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|{{flagicon|GER}} &#039;&#039;&#039;[[バイエルン・ミュンヘン]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
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|[[ウェンブリー・スタジアム|ウェンブリー]]（{{flagicon|ENG}} [[ロンドン]]）&lt;br /&gt;
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|[[UEFAチャンピオンズリーグ 2013-14|2013-14]]&lt;br /&gt;
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|{{flagicon|ESP}} [[アトレティコ・マドリード]]&lt;br /&gt;
|[[エスタディオ・ダ・ルス|ダ・ルス]]（{{flagicon|POR}} [[リスボン]]）&lt;br /&gt;
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|- bgcolor=#D0E7FF&lt;br /&gt;
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|&lt;br /&gt;
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|&lt;br /&gt;
|[[ベルリン・オリンピアシュタディオン|ベルリン・オリンピア]]（{{flagicon|GER}} [[ベルリン]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
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&lt;br /&gt;
== 統計 ==&lt;br /&gt;
=== クラブ別成績 ===&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;sortable wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;font-size:smaller&amp;quot;&lt;br /&gt;
!class=&amp;quot;unsortable&amp;quot;|クラブ名!!{{Abbr|優|優勝回数}}!!{{Abbr|準|準優勝回数}}!!優勝年度!!準優勝年度&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ESP}} [[レアル・マドリード]]||align=right|&#039;&#039;&#039;10&#039;&#039;&#039;||align=right|3||1956,1957,1958,1959,1960,1966,1998,2000,2002,2014||1962,1964,1981&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ITA}} [[ACミラン|ミラン]]||align=right|7||align=right|4||1963,1969,1989,1990,1994,2003,2007||1958,1993,1995,2005&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|GER}} [[バイエルン・ミュンヘン]]||align=right|5||align=right|&#039;&#039;&#039;5&#039;&#039;&#039;||1974,1975,1976,2001,2013||1982,1987,1999,2010,2012&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ENG}} [[リヴァプールFC|リヴァプール]]||align=right|5||align=right|2||1977,1978,1981,1984,2005||1985,2007&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ESP}} [[FCバルセロナ|バルセロナ]]||align=right|4||align=right|3||1992,2006,2009,2011||1961,1986,1994&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|NED}} [[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]||align=right|4||align=right|2||1971,1972,1973,1995||1969,1996&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ITA}} [[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]||align=right|3||align=right|2||1964,1965,2010||1967,1972&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ENG}} [[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスターU.]]||align=right|3||align=right|2||1968,1999,2008||2009,2011&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ITA}} [[ユヴェントスFC|ユヴェントス]]||align=right|2||align=right|&#039;&#039;&#039;5&#039;&#039;&#039;||1985,1996||1973,1983,1997,1998,2003&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|POR}} [[SLベンフィカ|ベンフィカ]]||align=right|2||align=right|&#039;&#039;&#039;5&#039;&#039;&#039;||1961,1962||1963,1965,1968,1988,1990&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ENG}} [[ノッティンガム・フォレストFC|ノッティンガム・フォレスト]]||align=right|2||align=right|0||1979,1980||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|POR}} [[FCポルト|ポルト]]||align=right|2||align=right|0||1987,2004||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|SCO}} [[セルティックFC|セルティック]]||align=right|1||align=right|1||1967||1970&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|GER}} [[ハンブルガーSV]]||align=right|1||align=right|1||1983||1980&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ROM}} [[ステアウア・ブカレスト]]||align=right|1||align=right|1||1986||1989&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|FRA}} [[オリンピック・マルセイユ]]||align=right|1||align=right|1||1993||1991&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|GER}} [[ボルシア・ドルトムント|ドルトムント]]||align=right|1||align=right|1||1997||2013&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ENG}} [[チェルシーFC|チェルシー]]||align=right|1||align=right|1||2012||2008&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|NED}} [[フェイエノールト]]||align=right|1||align=right|0||1970||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ENG}} [[アストン・ヴィラFC|アストン・ヴィラ]]||align=right|1||align=right|0||1982||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|NED}} [[PSVアイントホーフェン|PSV]]||align=right|1||align=right|0||1988||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{Nowrap begin}}{{flagicon|SRB}} [[レッドスター・ベオグラード]]{{Nowrap end}}||align=right|1||align=right|0||1991||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|FRA}} [[スタッド・ランス]]||align=right|0||align=right|2||||1956,1959&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ESP}} [[アトレティコ・マドリード]]||align=right|0||align=right|2||||1974,2014&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ESP}} [[バレンシアCF|バレンシア]]||align=right|0||align=right|2||||2000,2001&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ITA}} [[ACFフィオレンティーナ|フィオレンティーナ]]||align=right|0||align=right|1||||1957&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|GER}} [[アイントラハト・フランクフルト|フランクフルト]]||align=right|0||align=right|1||||1960&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|SRB}} [[パルチザン・ベオグラード]]||align=right|0||align=right|1||||1966&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|GRE}} [[パナシナイコスFC|パナシナイコス]]||align=right|0||align=right|1||||1971&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ENG}} [[リーズ・ユナイテッドAFC|リーズ]]||align=right|0||align=right|1||||1975&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|FRA}} [[ASサンテティエンヌ|サンテティエンヌ]]||align=right|0||align=right|1||||1976&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|GER}} [[ボルシア・メンヒェングラートバッハ|ボルシアMG]]||align=right|0||align=right|1||||1977&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|BEL}} [[クラブ・ブルッヘ]]||align=right|0||align=right|1||||1978&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|SWE}} [[マルメFF|マルメ]]||align=right|0||align=right|1||||1979&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ITA}} [[ASローマ|ローマ]]||align=right|0||align=right|1||||1984&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ITA}} [[UCサンプドリア|サンプドリア]]||align=right|0||align=right|1||||1992&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|GER}} [[バイエル・レバークーゼン|レバークーゼン]]||align=right|0||align=right|1||||2002&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|FRA}} [[ASモナコ|モナコ]]||align=right|0||align=right|1||||2004&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ENG}} [[アーセナルFC|アーセナル]]||align=right|0||align=right|1||||2006&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
注1：前身のUEFAチャンピオンズカップ時代も含む。&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
注2：優勝年度及び準優勝年度は、優勝が決定した年を並べている。例えば、1955-56年度王者は1956年としている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== クラブ所在国別成績 ===&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;sortable wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;font-size:smaller; text-align:right&amp;quot;&lt;br /&gt;
!class=&amp;quot;unsortable&amp;quot;|国・地域名!!{{Abbr|優|優勝回数}}!!{{Abbr|準|準優勝回数}}&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=left|{{flagicon|ESP}} [[スペインサッカー連盟|スペイン]]||&#039;&#039;&#039;14&#039;&#039;&#039;||10&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=left|{{flagicon|ITA}} [[イタリアサッカー連盟|イタリア]]||12||&#039;&#039;&#039;14&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=left|{{flagicon|ENG}} [[フットボール・アソシエーション|イングランド]]||12||7&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=left|{{flagicon|GER}} [[ドイツサッカー連盟|ドイツ]]||7||10&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=left|{{flagicon|NED}} [[オランダサッカー協会|オランダ]]||6||2&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=left|{{flagicon|POR}} [[ポルトガルサッカー連盟|ポルトガル]]||4||5&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=left|{{flagicon|FRA}} [[フランスサッカー連盟|フランス]]||1||5&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=left|{{flagicon|SCO}} [[スコットランドサッカー協会|スコットランド]]||1||1&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=left|{{flagicon|ROM1965}} [[ルーマニアサッカー連盟|ルーマニア]]||1||1&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=left|{{Flagicon|SRB}} [[セルビアサッカー協会|セルビア]]||1||1&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=left|{{flagicon|GRE1970}} [[ギリシャサッカー連盟|ギリシャ]]||0||1&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=left|{{flagicon|BEL}} [[ベルギーサッカー協会|ベルギー]]||0||1&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=left|{{flagicon|SWE}} [[スウェーデンサッカー協会|スウェーデン]]||0||1&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
注：前身のUEFAチャンピオンズカップ時代も含む。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 連覇 ===&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;font-size:smaller&amp;quot;&lt;br /&gt;
!クラブ名!!数!!達成年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ESP1945}} [[レアル・マドリード]]||align=right|&#039;&#039;&#039;5&#039;&#039;&#039;||1956,1957,1958,1959,1960&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|NED}} [[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]||align=right|3||1971,1972,1973&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|GER}} [[バイエルン・ミュンヘン]]||align=right|3||1974,1975,1976&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|POR}} [[SLベンフィカ|ベンフィカ]]||align=right|2||1961,1962&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ITA}} [[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]||align=right|2||1964,1965&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ENG}} [[リヴァプールFC|リヴァプール]]||align=right|2||1977,1978&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ENG}} [[ノッティンガム・フォレストFC|ノッティンガム・フォレスト]]||align=right|2||1979,1980&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ITA}} [[ACミラン|ミラン]]||align=right|2||1989,1990&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
注1：前身のUEFAチャンピオンズカップ時代も含む。&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
注2：優勝年度は、優勝が決定した年を並べている。例えば、1955-56年度王者は1956年としている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 補足 ==&lt;br /&gt;
=== ユニフォーム ===&lt;br /&gt;
大会出場全チームには、右袖に星をイメージした大会公式球をモチーフとしたロゴ（通称：スターボール）がつけられる。前シーズン優勝クラブだけは別で、紺地に公式球、また中央に○○/○○ CHAMPIONS（○○/○○には前シーズンの数字が入る）と書かれたバッジが付けられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、クラブによって、選手は各国リーグ戦で用いているユニフォームとはスポンサーやデザインが異なった欧州カップ戦用ユニフォームを着用することがある。例えば[[バイエルン・ミュンヘン]]は、リーグ戦のユニフォームは赤であるが、チャンピオンズリーグでは異なる色がホームユニフォームの色である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
青地に優勝トロフィーと優勝回数が描かれた楕円形のバッジを左袖につけているクラブが存在する。このバッジをつけることができるのは、後述のビッグイヤーの永久保持を認められたチームのみである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 公式試合球 ===&lt;br /&gt;
2002-2003年大会以降は[[アディダス]]の「フィナーレ」（[[:en:Adidas Finale]]）が使用されている。公式ロゴの「スターボール」同様に表面に星をデザインした模様がプリントされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 優勝カップ「ビッグイヤー」 ===&lt;br /&gt;
{{main|ヨーロピアン・チャンピオン・クラブズ・カップ}}&lt;br /&gt;
優勝カップは&#039;&#039;&#039;ビッグイヤー&#039;&#039;&#039;と呼ばれる。優勝トロフィーの把手の形が大きく耳の形に似ていることからついたものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在のトロフィーは高さ73.5cm、重さ8.5kgである。初代から数えて6代目であり、現在のデザインになってからは5代目である。2006年に製作された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それまでのトロフィーは小ぶりなものだったが1967年、5連覇を果たした[[レアル・マドリード|レアル マドリード]]にオリジナルのトロフィーが渡されたのをきっかけに、当時のUEFA事務局長ハンス・バンゲルターがデザインを一新することを決めた。現在のデザインは[[ベルン|ベルン]]の鋳物職人、ユルグ・シュタデルマンが本体の鋳物作業を行い、彫刻家のフレッド・ベニンガーが仕上げを施して完成させた。製作には340時間掛かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3連覇もしくは5回の優勝で永久保持が許される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永久保持が認められたクラブ:&lt;br /&gt;
* {{flagicon|ESP}} [[レアル・マドリード]]（優勝10回、5連覇）&lt;br /&gt;
* {{flagicon|ITA}} [[ACミラン|ミラン]]（優勝7回）&lt;br /&gt;
* {{flagicon|GER}} [[バイエルン・ミュンヘン]]（優勝5回、3連覇）&lt;br /&gt;
* {{flagicon|ENG}} [[リヴァプールFC|リヴァプール]]（優勝5回）&lt;br /&gt;
* {{flagicon|NED}} [[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]（3連覇）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 賛歌 ===&lt;br /&gt;
{{Main|UEFAチャンピオンズリーグ・アンセム}}&lt;br /&gt;
大会がUEFAチャンピオンズリーグに変更された1992年以降はテーマ曲「&#039;&#039;&#039;UEFAチャンピオンズリーグ賛歌&#039;&#039;&#039;（UEFA Champions League Anthem）」が使われている。[[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル|ヘンデル]]の「[[ジョージ2世の戴冠式アンセム|司祭ザドク]]（Zadok the priest）」のメロディをベースに、イギリス人トニー・ブリテンが作詞とアレンジを加え創り上げた。&lt;br /&gt;
[[ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団]]の演奏、セント・マーチン・アカデミー合唱団の合唱をレコーディングしたものが試合開始前や、テレビ中継開始時と終了時に流される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
UEFAの公式言語である英語、ドイツ語、フランス語によって、荘厳と熱狂とを併せ持って歌われる[[サビ]]は、そのシンプルながら美しいメロディとも相まって、これから始まる試合に対する選手やファンの興奮と期待をかき立てるのに一役買っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、本賛歌のオリジナルバージョンは、二つの短いヴァースとコーラスからなる3分程の曲であるが、商業ベース（CD等）でリリースされたことは今まで無い。試合開始前やテレビ中継において流されるのは、後半の「Ils sont les meilleurs…」以下のコーラス部分をアレンジしたものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Ils sont les meilleurs（フランス語：彼らは最高だ）&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
Sie sind die Besten（ドイツ語：彼らは最高だ）&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
These are the champions（英語：彼らがチャンピオンだ）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Die Meister（ドイツ語：道を極めし者）&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
Die Besten（ドイツ語：最高の者）&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
Les Grandes Equipes（フランス語：偉大なチーム）&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
The Champions（英語：それがチャンピオン）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== オフィシャルスポンサー ===&lt;br /&gt;
*[[ハイネケン]]（2004-05までは傘下の[[アムステルビール|Amstel]]（[[イタリア]]では[[:en:Birra Moretti|Birra Moretti]]）,[[w:en:Buckler (beer)|Buckler]]）&lt;br /&gt;
*[[ウニクレーディト・イタリアーノ|ウニクレーディト]]&lt;br /&gt;
*[[ソニー・コンピュータエンタテインメント]]（[[PlayStation 3|プレイステーション3]],[[PlayStation Portable|PSP]],[[PlayStation Vita|PS VITA]]）&lt;br /&gt;
*[[マスターカード]]&lt;br /&gt;
*[[日産自動車]]（2014-15シーズンから4シーズン契約）&lt;br /&gt;
*[[ガスプロム]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 過去のオフィシャルスポンサー ====&lt;br /&gt;
*[[マース (企業)|マース インコーポレイテッド]]（[[M&amp;amp;M&#039;s]]、[[スニッカーズ]]）&lt;br /&gt;
*[[ナイキ]]&lt;br /&gt;
*[[コンチネンタル (自動車部品製造業)|コンチネンタルタイヤ]]&lt;br /&gt;
*[[フィリップス]]&lt;br /&gt;
*[[キヤノン]]&lt;br /&gt;
*[[リーボック]]&lt;br /&gt;
*[[マクドナルド]]&lt;br /&gt;
*[[RTLグループ]]&lt;br /&gt;
*[[フェレロ]]（[[ヌテッラ|nutella]]）&lt;br /&gt;
*[[シャープ]]&lt;br /&gt;
*[[ボーダフォン]]&lt;br /&gt;
*[[ソニー]]（[[BRAVIA]],[[Cyber-shot]],[[VAIO]],[[ウォークマン|WALKMAN]]）&lt;br /&gt;
*[[フォード・モーター|フォード]]（2013-14シーズンまで）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== オフィシャルサプライアーパートナー ===&lt;br /&gt;
*[[アディダス]]&lt;br /&gt;
*[[HTC (企業)|HTC]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== テレビ中継 ===&lt;br /&gt;
チャンピオンズリーグの中継映像はUEFAが統括した上で、試合ごとのホスト局が中心となって制作される。これらの中継におけるスケジュールはフォーマット化されており、放映権を持つテレビ局に配信される。ホスト局は海外メディアが現地中継を行うための放送席用の機材の準備なども担当する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、放映権を持つテレビ局はミックスゾーンでの選手インタビューを行うことができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本でのテレビ中継 ===&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|+ 日本におけるUEFAチャンピオンズリーグの放送状況(2012-13シーズン)&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!放送局!!予選!!本選グループリーグ!!本選決勝トーナメント!!決勝!!備考&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
![[スカパー!]]&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|プレイオフのみ5試合程度生中継&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |全試合中継&amp;lt;BR&amp;gt;（各節8試合以上生中継）&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |全試合生中継&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |生中継&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |日本におけるメインライセンス保持。&amp;lt;BR&amp;gt;J SPORTSでの生中継試合はスカパー!・J SPORTS共同制作となり、スカパー!での録画中継でも放送される&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
![[J SPORTS]]&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|放送なし&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |各節数試合中継&amp;lt;BR&amp;gt;（うち1試合以上生中継）&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |一部録画中継&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |録画中継&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |スカパー!からのサブライセンス。J SPORTSでの録画中継はスカパー!制作のものを放送&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
![[フジテレビジョン|フジテレビ]]&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;|放送なし&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |一部録画中継&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |一部録画中継&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |生中継&amp;lt;BR&amp;gt;（[[フジネットワーク|FNS]]全国ネット）&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |スカパー!からのサブライセンス。決勝以外は原則として[[関東ローカル]]&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
優勝チームは[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|トヨタカップ]]の出場権を獲得することもあって、かつては決勝のみ[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]で放送されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本格的に放送されるようになったのは、[[スポーツ・アイ ESPN]]（[[J SPORTS|J sports 3]]の前身）で1996-97シーズンより。翌1997-98シーズンより[[WOWOW]]が放映権を獲得した。[[日本における衛星放送|BSデジタル放送]]開始から、各節最大4試合生中継（アナログでは2試合生中継、2試合録画中継）、木曜の夜に1試合録画中継したが、それ以外の試合は中断期間まで待つ必要があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
地上波では、[[TBSテレビ|TBS]]が放映権を獲得。毎節最大2試合放送したが、全国放送ではなく、ローカルセールス枠での扱いであり後番組の時間変更ができなかったため、決勝戦でも延長・PK戦となった場合（2度）は途中で放送を打ち切らざるを得なかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
WOWOWとの契約最終年だった2003年4月にスカパー!（現・[[スカパーJSAT]]）、J SKY SPORTS（現・[[J SPORTS]]）、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の3社が放映権獲得を発表した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2003-04シーズンより、[[スカパー!プレミアムサービス|スカパー!]]ではパーフェクト・チョイス（現[[スカチャン]]）、J SPORTSで毎節8試合以上生中継を行い、決勝トーナメント以降は全試合生中継となった。録画中継となった試合でも最長で24時間以内に放送されている。スカイパーフェクTV!110（現・[[スカパー! (東経110度BS・CSデジタル放送)|スカパー!e2]]）ではJ SPORTSで放送される試合以外視聴できなかったが、2004-05シーズン途中よりスカチャン!110（現・スカチャン）で放送開始。2006-07シーズンからはスカチャン!ハイビジョン（現・スカチャンHD800）、2007-08シーズンからはJ sports 4（ハイビジョン）で[[ハイビジョン]]放送が開始されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フジテレビでは、毎節1試合の放送に加え、マガジンプログラム、ダイジェスト放送を行っているが、全国放送は決勝のみである（決勝戦はネットセールス枠扱いであり、試合が延長・PK戦になった場合[[めざましテレビ]]の放送時間を短縮・ずらしをして行う場合がある）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006-07シーズンより、スカパーが単独で放映権を獲得、J SPORTS、フジテレビへはサブライセンスを行う形となった。スカパー!は全試合中継を実施し（予選はプレーオフのみ一部をセレクトして放送。予選リーグは1日に8試合行われるうち、J SPORTSとあわせて6試合程度生中継し、残り試合は録画中継する。決勝リーグは全試合生中継）、J SPORTSとフジテレビは一部をセレクトして放送する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2009-10シーズンからは、ダイジェスト番組が日本テレビで放送されている（試合中継、マガジンプログラムは引き続きフジテレビで放送）。マガジンプログラムはUEFA制作のものをフジテレビとスカパー!が放送。フジテレビ版とスカパー!版はそれぞれが日本語化するため言い回しなどが微妙に異なる場合がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[UEFAランキング]]&lt;br /&gt;
* [[GOAL!2]]（映画。本大会が舞台）&lt;br /&gt;
* [[ヘイゼルの悲劇]]（[[1984年]]-[[1985年]]シーズン決勝戦前のグラウンド乱入事件）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.uefa.com/uefachampionsleague/index.html 大会公式サイト] - UEFA.com{{en icon}}&lt;br /&gt;
* [http://jp.uefa.com/uefachampionsleague/index.html 大会公式サイト] - UEFA.com{{ja icon}}&lt;br /&gt;
* [http://www.rsssf.com/tablese/ec1.html RSSSFによる記録]&lt;br /&gt;
* [http://www.eurocupshistory.com/european_cup/all_time_table European Cup all-time table (55/56-91/92)]&lt;br /&gt;
* [http://www.eurocupshistory.com/champions_league/all_time_table CL all-time table (92/93 up today)]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{UEFAチャンピオンズリーグ}}&lt;br /&gt;
{{各年のUEFAチャンピオンズリーグ}}&lt;br /&gt;
{{ヨーロッパのサッカー国際大会}}&lt;br /&gt;
{{国際クラブサッカー}}&lt;br /&gt;
{{FIFAクラブワールドカップ}}&lt;br /&gt;
[[Category:UEFAチャンピオンズリーグ|*]]&lt;br /&gt;
{{Link FA|ar}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E4%BC%8A%E8%83%BD%E5%BF%A0%E6%95%AC&amp;diff=6361</id>
		<title>伊能忠敬</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E4%BC%8A%E8%83%BD%E5%BF%A0%E6%95%AC&amp;diff=6361"/>
		<updated>2014-08-25T04:37:10Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Infobox scientist&lt;br /&gt;
|名前=伊能忠敬&lt;br /&gt;
|image=Ino-tadataka,sawara,katori-city,japan.JPG&lt;br /&gt;
|image_size=200px&lt;br /&gt;
|caption=伊能忠敬銅像（[[香取市]]佐原公園）&lt;br /&gt;
|fullname=神保三治郎（幼名）→伊能忠敬&lt;br /&gt;
|other_names=三郎右衛門、勘解由（通称）&lt;br /&gt;
|生年月日=[[延享]]2年[[1月11日 (旧暦)|1月11日]]&amp;lt;br&amp;gt;（{{生年月日と年齢|1745|2|11|no}}）&lt;br /&gt;
|birth_name=神保三治郎&lt;br /&gt;
|生誕地=[[上総国]][[山辺郡 (千葉県)|山辺郡]][[小関村]]&lt;br /&gt;
|没年月日=[[文化 (元号)|文化]]15年[[4月13日 (旧暦)|4月13日]]&amp;lt;br&amp;gt;（{{死亡年月日と没年齢|1745|2|11|1818|5|17}}）&lt;br /&gt;
|死没地=&lt;br /&gt;
|時代=[[江戸時代]]中期 - 後期&lt;br /&gt;
|職業=商人、測量家&lt;br /&gt;
|配偶者=&lt;br /&gt;
|両親=父：[[神保貞恒]]&lt;br /&gt;
|子供=[[伊能景敬]]&lt;br /&gt;
|出身地=&lt;br /&gt;
|学派=&lt;br /&gt;
|研究分野=[[天文学]]&lt;br /&gt;
|研究機関=[[天文方]]&lt;br /&gt;
|特筆すべき概念=日本初の正確な地図の製作&lt;br /&gt;
|主要な作品=『[[大日本沿海輿地全図]]』&lt;br /&gt;
|影響を受けた人物=[[高橋至時]]&lt;br /&gt;
|影響を与えた人物=[[高橋景保]]、[[間宮林蔵]]&lt;br /&gt;
|主な受賞歴=&lt;br /&gt;
|署名=Autograph-Ino Tadataka.jpg&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;伊能 忠敬&#039;&#039;&#039;（いのう ただたか&amp;lt;ref group=&amp;quot;注釈&amp;quot;&amp;gt;地元などでは親しみと尊敬の念をこめて、[[有職読み]]で「いのうちゅうけい」とも呼ばれている。&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[延享]]2年[[1月11日 (旧暦)|1月11日]]（[[1745年]][[2月11日]]） - [[文化 (元号)|文化]]15年[[4月13日 (旧暦)|4月13日]]（[[1818年]][[5月17日]]））は、[[江戸時代]]の[[商人]]・[[測量]]家である。通称は三郎右衛門、勘解由（かげゆ）。字は子斉、号は東河。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[寛政]]12年（[[1800年]]）から文化13年（[[1816年]]）まで、足かけ17年をかけて全国を測量し『[[大日本沿海輿地全図]]』を完成させ、日本史上はじめて国土の正確な姿を明らかにした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1883年]]（[[明治]]16年）、贈[[正四位]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 前半生 ==&lt;br /&gt;
[[File:Ino Tadataka&#039;s birth place.JPG|thumb|200px|伊能忠敬出生の地。千葉県九十九里町。]]&lt;br /&gt;
=== 幼少期 ===&lt;br /&gt;
[[延享]]2年（[[1745年]]）1月11日、[[上総国]][[山辺郡 (千葉県)|山辺郡]]小関村（現・[[千葉県]][[山武郡]][[九十九里町]]小関）の[[名主]]・小関五郎左衛門家で生まれた。幼名は&#039;&#039;&#039;三治郎&#039;&#039;&#039;。父親の神保貞恒は[[武射郡]]小堤村（現在の[[横芝光町]]）にあった酒造家の次男で、小関家には婿として嫁いでいた。三治郎のほかに男1人女1人の子がいて、三治郎は末子だった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.17&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6歳の時、母が亡くなり、家は叔父（母の弟）が継ぐことになった。そのため婿養子だった父貞恒は兄と姉を連れ実家の小堤村の神保家に戻るが、三治郎は祖父母の元に残った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小関家での三治郎の生活状況については詳しく分かっていない。当時の小関村は[[イワシ|鰯]]漁がさかんで、三治郎は漁具がしまってある納屋の番人をしていたと伝えられている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] pp.2-3&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方で、名主の家に残されていたということもあって、読み書き算盤や、将来必要となるであろう教養も教え込まれていたのではないかとも考えられている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺(1999)|渡辺(1999)]] pp.17-18&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
10歳の時、三治郎は父の元に引き取られた。神保家は父の兄である宗載（むねのり）が継いでいたため、父は当初そこで居候のような生活をしていたが、やがて分家として独立した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.65&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神保家での三治郎の様子についても文献が少なく、詳細は知られていない&amp;lt;ref&amp;gt;[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.3&amp;lt;/ref&amp;gt;。三治郎は神保家には定住せず、親戚や知り合いの元を転々としたといわれている&amp;lt;ref name=&amp;quot;watanabe1999-19&amp;quot;&amp;gt;[[#渡辺(1999)|渡辺(1999)]] p.19&amp;lt;/ref&amp;gt;。常陸の寺では半年間算盤を習い、優れた才能を見せた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] pp.3-4&amp;lt;/ref&amp;gt;。また17歳くらいのとき、佐忠太と名乗って、[[土浦市|土浦]]の医者に医学を教わった記録がある&amp;lt;ref&amp;gt;[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.20&amp;lt;/ref&amp;gt;。ただしここで習った医学の内容は、あまり専門的なものではなく、余興のたぐいだったといわれている&amp;lt;ref name=&amp;quot;watanabe1999-19&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三治郎が流浪した理由について、研究家の大谷亮吉は、父親が新たに迎え入れた継母とそりが合わなかったこともあって、家に居づらくなったからだとしている。このように、三治郎が周囲の環境に恵まれず不幸な少年時代を過ごしたとする説は昔から広く伝えられている。しかしこの見解に対しては、父や周辺の人物が三治郎のことを思って各地で教育を受けさせたのではないかという反論もある&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.67&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 伊能家に婿入り ===&lt;br /&gt;
三治郎が生まれる前の[[寛保]]2年（[[1742年]]）、[[下総国]][[香取郡]]佐原村（現在の[[香取市]]佐原）にある酒造家の伊能三郎右衛門家（以下、伊能家と記す）では、当主の長由（ながよし）が、妻タミと1歳の娘ミチを残して亡くなった。長由の死後、伊能家は長由の兄が面倒を見ていたが、その兄も翌年亡くなった。そのため伊能家は親戚の手で家業を営むことになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ミチが14歳になった時、伊能家の跡取りとなるような婿をもらったが、その婿も数年後に亡くなった。そのためミチは、再び跡取りを見つけなければならなくなった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.65&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
伊能家・神保家の両方の親戚である平山藤右衛門（タミの兄）は、土地改良工事の現場監督として三治郎を使ったところ、三治郎は若いながらも良い仕事ぶりを発揮した。そこで三治郎を伊能家の跡取りにと薦め、親族もこれを了解した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.27&amp;lt;/ref&amp;gt;。三治郎は形式的にいったん平山家の養子になり、平山家から伊能家へ婿入りさせる形でミチと結婚することになった。その際、大学頭の林鳳谷から、&#039;&#039;&#039;忠敬&#039;&#039;&#039;という名をもらった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[宝暦]]12年（[[1762年]]）12月8日に忠敬とミチは婚礼を行い、忠敬は正式に伊能家を継いだ。このとき忠敬は満17歳、ミチは21歳で、前の夫との間に残した3歳の男子1人がいた&amp;lt;ref name=&amp;quot;kojima78&amp;quot;&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.78&amp;lt;/ref&amp;gt;。忠敬ははじめ通称を源六と名乗ったが、後に三郎右衛門と改め、伊能三郎右衛門忠敬とした&amp;lt;ref name=&amp;quot;kojima78&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 佐原時代 ===&lt;br /&gt;
==== 当時の佐原と伊能家 ====&lt;br /&gt;
[[ファイル:Inou-tadataka-house,katori-city,japan.JPG|thumb|250px|[[伊能忠敬旧宅]]（香取市佐原）]]&lt;br /&gt;
忠敬が入婿した時代の佐原村は、[[利根川]]を利用した舟運の中継地として栄え、人口はおよそ5,000人という、関東でも有数の村であった。舟運を通じた江戸との交流も盛んで、物のほか人や情報も多く行き交った。このような佐原の土壌は後の忠敬の活躍にも影響を与えたと考えられている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.72&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の佐原村は[[天領]]で、武士は1人も住んでおらず、村政は村民の自治によって決められることが多かった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.72-75&amp;lt;/ref&amp;gt;。そしてその村民の中でも特に経済力が大きく、村全体に大きな発言権を持っていたのが、永沢家と、忠敬が婿入りした伊能家であった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.75-76&amp;lt;/ref&amp;gt;。伊能家は[[酒]]､[[醤油]]の[[醸造]]､[[貸金業]]を営んでいた他、[[利根川|利根]]水運などにも関っていたが、当主不在の時代が長く続いたため、事業規模を縮小していた。いっぽう永沢家は事業を広げ、名字帯刀を許される身分となり、伊能家と差をつけていた。そのため伊能家としては、家の再興のため、新当主の忠敬に期待するところが多かった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.79-81&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 祭礼騒動 ====&lt;br /&gt;
忠敬が伊能家に来た翌年の1763年、長女のイネ（稲）が生まれた。同じ年、妻ミチと前の夫との間に生まれた子は亡くなった。3年後の明和3年（[[1766年]]）には長男の景敬が生まれた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.82&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
忠敬は伊能家の主人という立場から、村民からの推薦で名主後見という立場に就いた。しかしそうはいっても忠敬はまだ若かったため、はじめのうちは親戚である伊能豊明の力を借りることが多かった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] pp.14-15&amp;lt;/ref&amp;gt;。この時期の忠敬は病気になって長い間寝込んでいたこともあった。新主人として親戚づきあいなど気苦労も絶えなかったと推測されている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.82-84&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明和6年（[[1769年]]）、佐原の村で祭りにかかわる騒動が起き、これは当時24歳の忠敬にとっても力量が試される事件となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
佐原の中心部は[[小野川 (千葉県)|小野川]]を境に大きく本宿と新宿に分かれ、祭りはそれぞれ年に1回ずつ行われる。伊能家と永沢家のある本宿の祭礼は牛頭天王（ごずてんのう）の祭礼（祇園祭）で、当時は毎年6月に行われていた。祭りの時は各町が所有する趣向を凝らした[[山車]]が引きまわされる&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.74&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.24&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ところが明和3年（1766年）以来、佐原村は不作続きで、農民も商人も困窮していた。そこで佐原村本宿の村役人3人は話し合い、今年は倹約を心がけて、豪華な山車の飾りものは慎むことに決め、町内にもそのように通達した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし通達したにもかかわらず、各町内はいつものように飾りものの準備をしはじめた。そのうえ、山車を引きまわす順番についても、2つの町が、自分が一番に出すと言い出し、収拾のつかない状態で祭りの当日を迎えることになった。このまま祭りが始まると大騒動に発展すると判断した村役人たちは、今年は山車を出さないと決定した。このときに各町を説得しに回ったのが、名主後見という立場にいた、永沢家の永沢次郎右衛門と、伊能家の忠敬であった&amp;lt;ref name=&amp;quot;w25&amp;quot;&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.25&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
佐原村本宿は大きく、本宿組と浜宿組に分かれていた。忠敬と永沢は分担して、忠敬は本宿組の各町を、永沢は浜宿組の各町を説得し、ようやく各町の同意を取り付けた。ところが祭礼2日目、永沢家が説得したはずの浜宿組において禁が破られ、山車が引きまわされるという事態が発生した。本宿組の町民はさっそく忠敬を問い詰め、忠敬も永沢家におもむき責任を追及した。しかし本宿組の担当者はそれだけでは納得がいかず、浜宿組が出したのだからこちらも山車を出すと強硬に主張した。忠敬は、このままでは大きな争いになるのは必至で、町内に申し訳が立たないと感じたため、伊能家は永沢家と「義絶」すると宣言した&amp;lt;ref name=&amp;quot;w25&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.87&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
義絶とはどのような状態なのかはよく分かっていないが、伊能家は永沢家と今後一切の付き合いを無くすという意味だと推定される&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺(1999)|渡辺(1999)]] p.25&amp;lt;/ref&amp;gt;。これにより、各町は山車を出すことをようやく取りやめた。とはいえ佐原で「両家」と言われ富と名声を持っていた2つの家の義絶は村にとっても良くないと考えられたため、仲介によって、同年に両家は和解することとなった&amp;lt;ref name=&amp;quot;w25&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 河岸一件 ====&lt;br /&gt;
祭礼騒動が起こった年の7月、忠敬とミチとの間に次女シノ（篠）が生まれた。さらに同じ年、忠敬は江戸に薪問屋を出したが、翌年に火事にあい、薪7万駄を焼くという損害を出してしまった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.87&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この頃、幕府では[[田沼意次]]が強い力を持つようになっていった。田沼は幕府の収入を増やすため、利根川流域などに公認の[[河岸|河岸問屋]]を設けて、そこから[[運上金]]を徴収する政策を実行した。そして明和8年（[[1771年]]）11月、佐原村も、河岸運上を吟味するため、名主・組頭・百姓代は出頭するよう通告された&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.88&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;w26&amp;quot;&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.26&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
河岸問屋が公認されると運上金を支払わなければならなくなる。そのため佐原の商人や船主は公認に乗り気でなかった。そこで名主4人が江戸の勘定奉公所へ行き、「佐原は利根川から十四、五町も離れていて、河岸問屋もないから、運上は免除願いたい」と申し出た&amp;lt;ref name=&amp;quot;w26&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;kojima89&amp;quot;&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.89&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかしこの願いは奉公所に全く聞き入れられず、それならば佐原には河岸運送をすることは認めないと言われることとなった&amp;lt;ref name=&amp;quot;w26&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;kojima89&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを受けて佐原村ではふたたび話し合いを行い、その結果、今まで河岸運送に大きく関わってきた永沢治郎右衛門、伊能茂左衛門、伊能権之丞、そして忠敬の4人が河岸問屋を引き受けることになった。ところがその数日後、永沢治郎右衛門と伊能権之丞は突然辞退したため、結局、引き受けるのは伊能茂左衛門と忠敬の2人だけになった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.89-90&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌[[1772年]]、2人は願書を作って勘定奉公所に提出した。そしてこの願書は奉公所の怒りを買った。というのも、去年は、佐原は利根川から十四、五町離れていると言っていたにもかかわらず、今年の願書では利根川から二、三町だとしていて、しかも、以前は河岸問屋が無いと言っていたのに、今度は、2人は前から問屋を営んでいたなどと書かれていたからである。矛盾を追及された佐原側は、昨年申し上げたことは間違いであったなどと色々言い訳をしたが、最終的に奉公所から、「前から問屋をしていたというのであれば、その証拠を出すように」と命じられた&amp;lt;ref name=&amp;quot;w26&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;kojima91&amp;quot;&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.91&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを聞いた忠敬は数日の猶予を願い出ていったん佐原へ帰り、先祖が書き残した古い記録をかき集めて奉公所に提出した。この記録によって、佐原は昔から河岸運送をしていたことが証明され、忠敬と茂左衛門は公認を受けることができた。運上金の額は話し合いの上、2人で一貫五百文と決まった&amp;lt;ref name=&amp;quot;kojima91&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ところが同年5月、佐原村内の権三郎という者が自分も問屋をしたいと奉公所へ願い出たため、その関係で忠敬は再び江戸へ出向くことになった。忠敬は、権三郎も問屋を始めたのでは自分たちの商いも減ってしまうし、村方も了承していないと反対意見を述べた。それに対して奉公所の役人は、「権三郎は、自分ひとりに問屋を任せれば、忠敬・茂左衛門の運上金に加えてさらに毎年十貫文上納すると言っているから、2人も問屋を続けたいなら、運上金を増額せよ」と迫った。忠敬は返答の先送りを願い出て、佐原に帰った&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.92-93&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして同年7月、忠敬は村役人惣代、舟持惣代らと共に出頭し、同じく出頭していた権三郎と対決した。忠敬は、自分たちは村役・村方の推薦のもと問屋を引き受けたのだと主張し、さらに権三郎については、多額の運上金を払えるだけの財産もなく、過去にも問屋のことで問題を起こしていると批判した。村役人惣代や舟持惣代も忠敬を支持した。そのため忠敬の主張が認められ、公認の問屋は元のように2人に決まり、この問題はようやく解決を見た。運上金の金額も、いっとき二貫文に上がったが、2年後には一貫五百文に戻った&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.93-94&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この事件で重要な役割を果たすことになった伊能家の古い記録の多くは、忠敬の三代前の主人である[[伊能景利]]がまとめあげたものだった&amp;lt;ref name=&amp;quot;kojima91&amp;quot;/&amp;gt;。景利は佐原村や伊能家にかかわることや、さらに他にも多くのことを丹念に記録に残しており、その量は本にして100冊以上になっていた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.95-96&amp;lt;/ref&amp;gt;。忠敬はこの事件で記録を残すことの重要性を身にしみて認識し、自らもこの事件について『佐原邑河岸一件』としてまとめた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.94&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.27&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、先祖の景利が多くの記録をまとめ始めたのは、隠居した後になってからのことだった。この、隠居後に大きな仕事を成し遂げるという祖先の事例は、後の忠敬の隠居後の行動にもつながることになる&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.96&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 佐原村名主へ ====&lt;br /&gt;
河岸の一件が片付くと、忠敬は比較的安定した生活を送った。[[安永]]3年（[[1774年]]）、忠敬29歳のときの伊能家の収益は以下のようになっている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.32&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*酒造　163両3分&lt;br /&gt;
*田徳　 95両&lt;br /&gt;
*倉敷・店賃　30両&lt;br /&gt;
*舟利　23両2分&lt;br /&gt;
*薪木　37両3分&lt;br /&gt;
*炭　　 1両1分&lt;br /&gt;
*合計　351両1分&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この年、義母のタミが死去した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.31&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
安永7年（[[1778年]]）にいは、妻ミチと奥州旅行へと出かけた。これは忠敬にとって、妻と一緒に行った唯一の旅行となった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.98-99&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同じ年、これまで天領だった佐原村は、[[旗本]]の津田氏の[[地方知行|知行地]]となった。忠敬は名主や村の有力者と、江戸にある津田氏の屋敷にあいさつに出向いた。そのとき、名主5人と永沢治郎右衛門は麻の裃を着用していたのに対し、忠敬は裃の着用を許されず、屋敷内で座る場所も差をつけられた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.104&amp;lt;/ref&amp;gt;。これは永沢が名字帯刀を許された身分だったからであるが、商いが順調なのに相変わらず永沢家と身分に差をつけられていることに悔しさを感じた忠敬は、永沢に対抗心を燃やすようになった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.104-105&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかしそのうちに忠敬の待遇も上がり、天明元年（[[1781年]]）、名主の藤左衛門が死去すると、代わりに忠敬が36歳で名主となった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.106&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 名主としての忠敬 ====&lt;br /&gt;
天明3年（[[1783年]]）、[[浅間山]]の噴火などにともなって[[天明の大飢饉]]が発生し、佐原村もこの年、米が不作となった。忠敬は他の名主らと共に地頭所に出頭し、年貢についての配慮を願い出た。その結果、この年の年貢は全額免除となり、さらに、「御救金」として100両が下された&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.107&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、同じ年の冬になってから行われた利根川の堤防に関する国役[[普請]]では、普請掛りを命じられた。忠敬は堤防工事を指揮するとともに、工材を安く買いいれることで、工事費の節約の面でも手腕を発揮した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.108-109&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方その頃、妻ミチは重い病にかかり、同じ年の暮れに42歳で亡くなった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.109&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
地頭の津田氏は前述のように佐原村の年貢を免除したりしていたが、一方で伊能家や永沢家にたびたび金の無心をしていた。そのため、両家は地頭に対して多くの貸金を持つようになり、地頭所に対しても、また村民に対しても、よりいっそうの発言力を持つようになった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.110-111&amp;lt;/ref&amp;gt;。そして忠敬は、天明3年（1783年）9月には津田氏から名字帯刀を許されるようになり、さらには天明4年（[[1784年]]）、名主の役を免ぜられ、新たに村方後見の役を命じられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
村方後見は名主を監視する権限を持っており、これは永沢治郎右衛門も就いている役である。こうして忠敬は、永沢とほぼ同格の扱いを受けることができた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.111&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 天明の飢饉 ====&lt;br /&gt;
[[浅間山]]の噴火以降、佐原村では毎年不作が続いていた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.112&amp;lt;/ref&amp;gt;。天明5年（[[1785年]]）、忠敬は米の値上がりを見越して、関西方面から大量の米を買いいれた。しかし米相場は翌年の春から夏にかけて下がり続け、伊能家は多額の損失を抱えた&amp;lt;ref name=&amp;quot;w29&amp;quot;&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.29&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.116&amp;lt;/ref&amp;gt;。周囲からは、今のうちに米を売り払って、これ以上の損を防いだ方がよいと忠告されたが、忠敬は、あえて米を全く売らないことにした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
忠敬は、もしこのまま米価が下がり続けて大損したら、そのときは本宅は貸地にして、裏の畑に家を建てて10年間質素に暮しながら借金を返していこうと思っていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;w29&amp;quot;/&amp;gt;が、その年の7月、利根川の大洪水によって佐原村の農業は大損害を受け、農民は日々の暮らしにも困るようになった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.112-113&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
忠敬は村の有力者と相談しながら、身銭を切って米や金銭を分け与えるなど、貧民救済に取り組んだ。各地区で、特に貧困で暮らすにもままならない者を調べ上げてもらい、そのような人には特に重点的にほどこしを与えた。また、他の村から流れ込んできた浮浪人には、一人につき一日一文を与えた。質屋にも金を融通し、村人が質入れしやすくするようにした&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.113&amp;lt;/ref&amp;gt;。翌年もこうした取り組みを続け、村やその周辺の住民に米を安い金額で売り続けたりした。このような活動によって、佐原村からは一人の餓死者も出なかったという&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.114&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天明7年（[[1787年]]）5月、江戸で[[天明の打ちこわし]]が起こると、この情報を聞いた佐原の商人たちも、打ちこわし対策を考えるようになった。この時、皆で金を出しあって地頭所の役人に来てもらい、打ちこわしを防いでもらってはどうかという意見が出された。しかし忠敬は、役人は頼りにならないと反対した。そして、役人に金を与えるならば農民に与えた方がよい、そうすれば、打ちこわしが起きたとしても、その農民たちが守ってくれるから、と主張した。この意見が通り、佐原村は役人の力を借りずに打ちこわしを防ぐことができた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.115&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;chibaken344&amp;quot;&amp;gt;[[#千葉県(2008)|千葉県(2008)]] p.344&amp;lt;/ref&amp;gt;。。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
忠敬が貧民救済に積極的に取り組んだことについては、村方後見という立場からくる使命感、伊能家や永沢家が昔から貧民救済を行っていたという歴史、そして農民による打ちこわしを恐れたという危機感など、いくつかの理由が考えられている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.80,114-115&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#星埜(2010)|星埜(2010)]] p.8&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、伊能家代々の名望家意識とともに商人としての利害得失を見極めた合理的精神がこうした判断を促したと考えられている&amp;lt;ref name=&amp;quot;chibaken344&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
佐原が危機を脱したところで、忠敬は持っていた残りの米を江戸で売り払い、これによって多額の利益を得ることができた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.116&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 隠居 ====&lt;br /&gt;
妻ミチが死去してから間もなく、忠敬は内縁で2人目の妻を迎えた。この妻については詳しいことは分かっておらず、名前も定かではない&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.117&amp;lt;/ref&amp;gt;。天明6年（[[1786年]]）に次男秀蔵、天明8年（[[1788年]]）に三男順次、寛政元年（[[1789年]]）に三女コト（琴）が生まれ、妻は寛政2年（[[1790年]]）に26歳で死去した&amp;lt;ref name=&amp;quot;w297&amp;quot;&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.297&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方、最初の妻ミチとの間に生まれた次女シノも、天明8年に19歳で死去した&amp;lt;ref name=&amp;quot;w297&amp;quot;/&amp;gt;。寛政2年、忠敬は仙台藩医である桑原隆朝の娘ノブを新たな妻として迎え入れた&amp;lt;ref name=&amp;quot;kojima121&amp;quot;&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.121&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この頃、長女のイネはすでに結婚して江戸に移っており、長男景敬は成年を迎えていた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.23&amp;lt;/ref&amp;gt;。忠敬は、景敬に家督を譲り、自分は隠居して新たな人生を歩みたいと思うようになっていった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.118-119&amp;lt;/ref&amp;gt;。そして寛政2年、地頭所に隠居を願い出た。しかし地頭の津田氏はこの願いを受け入れなかった。これは、当時の津田氏は代替わりしたばかりのころだったため、まだ村方後見として忠敬の力を必要としていたからである&amp;lt;ref name=&amp;quot;kojima121&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
地頭所には断られたが、忠敬の隠居への思いはなお強かった。この時忠敬が興味を持っていたのは、暦学であった。忠敬は江戸や京都から暦学の本を取り寄せて勉強したり、天体観測を行ったりして日々を過ごし、店の仕事は実質的に景敬に任せるようにした&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.119-125&amp;lt;/ref&amp;gt;。寛政3年（[[1791年]]）には、次のような家訓をしたためて景保に渡した&amp;lt;ref name=&amp;quot;kojima121&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Quotation|&lt;br /&gt;
*第一　仮にも偽をせす孝弟忠信にして正直たるへし&lt;br /&gt;
*第二　身の上の人ハ&amp;lt;!--「ハ」がカタカナなのは、忠敬の原文の通りです--&amp;gt;勿論身下の人にても教訓異見あらは急度相用堅く守るへし&lt;br /&gt;
*第三　篤敬謙譲とて言語進退を寛容に諸事謙り敬み少も人と争論など成べからず }}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
寛政4年（[[1792年]]）、忠敬は、これまで地頭所に金銭を用立てすることによって財政的に貢献したという理由で、地頭所から三人扶持を与えられた。ただしこれは、忠敬にまだ隠居してほしくないという地頭所の思惑も含まれていたと考えられている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.125&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌寛政5年（[[1793年]]）には、[[久保木清淵]]らとともに、3か月にわたって関西方面への旅に出かけた。忠敬はこの旅についての旅行記を残している。そしてそこには、各地で測った方位角や、天体観測で求めた緯度などが記されており、測量への関心がうかがえる&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.126&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、久保木も「西遊日記」と呼ばれる旅行記を残している&amp;lt;ref name=&amp;quot;chibaken930&amp;quot;&amp;gt;[[#千葉県(2008)|千葉県(2008)]] p.930&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
寛政6年（[[1794年]]）、忠敬は再び隠居の願いを出し、地頭所は12月にようやくこれを受け入れた。忠敬は家督を長男の景敬に譲り、通称を勘解由（伊能家が代々使っていた隠居名）と改め、江戸で暦学の勉強をするための準備にとりかかった&amp;lt;ref name=&amp;quot;kojima127&amp;quot;&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.127&amp;lt;/ref&amp;gt;。そのさなかの寛政7年（[[1795年]]）、妻ノブは難産が原因で亡くなった&amp;lt;ref name=&amp;quot;kojima127&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、寛政6年に佐原の橋本町（現・本橋元町）の惣代より村役人および村方後見である伊能三郎右衛門宛てに町内への便所の設置を求める願書が出されており、ここに登場する三郎右衛門は忠敬から家督を譲られた景敬であるとされている。ちなみに、現在の本橋元町にある公衆便所がこの時設置された便所の後身に当たるという&amp;lt;ref name=&amp;quot;chibaken341&amp;quot;&amp;gt;[[#千葉県(2008)|千葉県(2008)]] p.341-342&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 忠敬と佐原 ====&lt;br /&gt;
[[File:Ino Tadataka monument (Ono-gawa, Sawara).jpg|thumb|小野川沿いにある記念碑]]&lt;br /&gt;
忠敬が隠居する前年の寛政5年（1793年）、伊能家の商売の利益は以下のようになっていた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.31-33&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*酒造　370両3分&lt;br /&gt;
*田徳・店貸　142両1分&lt;br /&gt;
*倉敷　30両&lt;br /&gt;
*運送　39両3分&lt;br /&gt;
*利潤高　450両1分&lt;br /&gt;
*米利　231両1分&lt;br /&gt;
*合計　1264両2分&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
安永3年（1774年）の目録と比較すると、忠敬は伊能家を再興し、かなりの財産を築いたことが分かる&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.33&amp;lt;/ref&amp;gt;。この時の伊能家の資産については正確な数字は明らかでないが、寛政12年に村人が「3万両ぐらいだろう」と答えた記録が残っている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.33-34&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただし、伊能家の状況は必ずしも順風満帆ではなかったとする説もある。伊能家（三郎右衛門家）が得意としてきた酒造業の実績を示す酒造高は天明の大飢饉後の天明8年（1788年）には1480石を誇ってきたが、享和3年（1803年）には600石に減少しており、忠敬没後の[[天保]]10年（[[1839年]]）には株仲間の記録に伊能家の名前は存在していない、すなわち廃業状態にあったことを示している&amp;lt;ref name=&amp;quot;chibaken330図表&amp;quot;&amp;gt;[[#千葉県(2008)|千葉県(2008)]] p.330図表&amp;lt;/ref&amp;gt;。これは伊能家だけではなく競合する永沢家も含めて天明期の仲間35家のうち22家が天保期に姿を消し、代わりに天明期に存在が確認できなかった14家の新興酒造家が名前を連ねている状況&amp;lt;ref name=&amp;quot;chibaken332図表&amp;quot;&amp;gt;[[#千葉県(2008)|千葉県(2008)]] p.332図表&amp;lt;/ref&amp;gt;から、江戸幕府の度重なる[[酒株]]政策の変更に伊能家を含めた旧来の酒造家が対応しきれなかったことが背景にあるとみられている。また、貨幣経済の浸透は旗本などの中小領主達に[[先納金]]・[[御用金]]・領主貸などの手段による貨幣の確保に向かわせることになった。先納金は[[年貢米]]を貨幣で前借することであるが、実際には貨幣による年貢徴収の口実とされて結果的には年貢米の輸送減少をもたらし、御用金や領主貸は伊能家のような地方商人への負担となった。また、農村の疲弊は伊能家から村単位への貸付の増加になって現れており&amp;lt;ref name=&amp;quot;chibaken335図表&amp;quot;&amp;gt;[[#千葉県(2008)|千葉県(2008)]] p.335図表&amp;lt;/ref&amp;gt;、その中にはこれらの村が御用金や先納金を納めるための貸付もあったとみられている。更に伊能家の土地所持高を見ると、享保5年（1720年）には52石7斗余りだったのが、忠敬の相続後である明和3年（1766年）84石1斗余り、隠居後の享和2年（1802年）には145石1斗余りと、忠敬当主時代に急激に増加しているのである&amp;lt;ref name=&amp;quot;chibaken325図表&amp;quot;&amp;gt;[[#千葉県(2008)|千葉県(2008)]] p.325図表&amp;lt;/ref&amp;gt;。これは金融業における質流れの増加とともに忠敬が酒造や輸送業に限界を感じて、土地の集積へと軸足を移そうとしていたことの表れと解される。実際に隠居後の忠敬が佐原に送った書状には「店賃と田の収益ばかりになっても仕方がない」「もし、古酒の勘定もよくなく、未回収金が過分になったら酒造も見合わせてやめるように」などと記しており、特に後継者であった景敬が没した文化9年（1812年）以降には、酒造業や運送業、領主貸を縮小する意向を示している。だが、地主としての土地経営も小作人となった農民との衝突を招くなど、困難な状況が続いており、忠敬隠居後の文化年間に入ると土地集積の対象を山林にも広げている&amp;lt;ref name=&amp;quot;chibaken325&amp;quot;&amp;gt;[[#千葉県(2008)|千葉県(2008)]] p.325-336&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
佐原の町は昔から大雨が降ると利根川堤防が決壊し、大きな被害を受けていた。いったん洪水が起きてしまうと、田畑の形が変わってしまうため、測量して境界線を引き直さなければならない。忠敬は江戸に出る前から測量や地図作成の技術をある程度身に着けていたが、それはこうした地で名主などの重要な役に就いていたという経験によるところが大きい&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.100-101&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、前述したように、祖先の伊能景利は隠居してから膨大な記録をまとめるという仕事に取り組み、また、忠敬の家から川を挟んで向かい側に住んでいた[[楫取魚彦]]も、隠居後に江戸へ出て国学者・歌人として活動した。忠敬もこの2人の生き方から大きな影響を受けたと考えられている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.74-75&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 後半生 ==&lt;br /&gt;
=== 高橋至時に師事 ===&lt;br /&gt;
[[File:Ino Tadataka dwelling site.JPG|thumb|伊能忠敬住居跡。]]&lt;br /&gt;
==== 弟子入り ====&lt;br /&gt;
寛政7年（[[1795年]]）、50歳の忠敬は江戸へ行き、深川黒江町に家をかまえた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.128&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ちょうどその頃、江戸では今まで使われていた暦を改める動きが起こっていた。当時の日本は宝暦4年（[[1754年]]）につくられた[[宝暦暦]]が使われていたが、この暦は日食や月食の予報をたびたび外していたため、評判が悪かった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.41&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;kojima120&amp;quot;&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.120&amp;lt;/ref&amp;gt;。そこで幕府は[[松平信明 (三河吉田藩主)|松平信明]]、[[堀田正敦]]を中心として、改暦に取り組んだ&amp;lt;ref name=&amp;quot;w47&amp;quot;&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.47&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし幕府の[[天文方]]には改暦作業を行えるような優れた人材がいなかったため、民間で特に高い評価を受けていた[[麻田剛立]]一門の[[高橋至時]]と[[間重富]]に任務にあたらせることにした&amp;lt;ref name=&amp;quot;w47&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;kojima120&amp;quot;/&amp;gt;。至時は寛政7年（1795年）4月、重富は同年6月に出府した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.51&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
忠敬が江戸に出たのは同年の5月のため、2人の出府と時期が重なる。改暦の動きは秘密裏に行われていたのであるが、この時期の符合から、忠敬は事前に2人が江戸に来ることを知っていたとも考えられている。その情報元として、渡辺一郎は、忠敬の3人目の妻ノブの父親である桑原隆朝を挙げている。桑原は改暦を推し進めていた堀田正敦と強いつながりがあった。そのため桑原は、堀田から聞いた改暦の話を忠敬に伝えていたのではないかという説である&amp;lt;ref name=&amp;quot;w54&amp;quot;&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.54&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年、忠敬は高橋至時の弟子となった。50歳の忠敬に対し、師匠の至時は31歳だった。弟子入りしたきっかけについては、昔の中国の暦『授時暦』が実際の天文現象と合わないことに気付いた忠敬がその理由を江戸の学者たちに質問したが誰も答えられず、唯一回答できたのが至時だったからだという話が伝えられている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#伊藤(2000)|伊藤(2000)]] p.59&amp;lt;/ref&amp;gt;。そして至時に必死に懇願して入門を認めさせたとのことであるが、至時が多忙な改暦作業の中で入門を許した理由についても、渡辺は、桑原と堀田正敦の影響を指摘している&amp;lt;ref name=&amp;quot;w54&amp;quot;/&amp;gt;。一方で今野武雄は、麻田剛立の弟子で[[大名貸]]の升屋小右衛門とのつながりを推測している&amp;lt;ref&amp;gt;[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.20&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 暦学への取り組み ====&lt;br /&gt;
弟子入りした忠敬は、19歳年下の師至時に師弟の礼をとり、熱心に勉学に励んだ&amp;lt;ref name=&amp;quot;w54&amp;quot;/&amp;gt;。忠敬は寝る間を惜しみ[[天体観測]]や測量の勉強をしていたため「推歩先生」（推歩とは[[暦学]]のこと）というあだ名で呼ばれていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
至時は弟子に対しては、まずは古くからの暦法『授時暦』で基礎を学ばせ、次に[[ティコ・ブラーエ]]などの西洋の天文学を取り入れている『暦象考成上下編』、さらに続けて、[[ヨハネス・ケプラー|ケプラー]]の理論を取り入れた『暦象考成後編』と、順を追って学ばせることにしていた。しかし忠敬は、すでに『授時暦』についてはある程度の知識があったため、『授時暦』と『暦象考成上下編』は短期間で理解できるようになった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.57&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;kojima134&amp;quot;&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.134&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
寛政8年（[[1796年]]）9月からおよそ1年半の間、至時は改暦作業のため京都に行くことになり、その間は間重富が指導についた。同年11月に重富から至時にあてた手紙の中では、「伊能も後編の推歩がそろそろ出来候。月食も出来候」と記されており、すでに『暦象考成後編』を学んでいたことが分かる&amp;lt;ref&amp;gt;[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.38&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 天体観測 ====&lt;br /&gt;
忠敬は天体観測についても教えを受けた。観測技術や観測のための器具については重富が精通していたため、忠敬は重富を通じて観測機器を購入した。さらに後には、江戸職人の大野弥五郎・弥三郎親子にも協力してもらい&amp;lt;ref name=&amp;quot;kojima134&amp;quot;/&amp;gt;、こうしてそろえた器具で自宅に天文台を作り観測をおこなった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.58&amp;lt;/ref&amp;gt;。取り揃えた観測機器は[[象限儀]]、[[圭表儀]]、[[垂揺球儀]]、[[子午線儀]]等々で、質量ともに幕府の天文台にも見劣りしなかった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.61&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
観測はなかなか難しく、入門から4年たった寛政10年（[[1798年]]）の時点でもまだ至時からの信頼は得られていない&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.58-59&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#間・高橋(1971)|間・高橋(1971)]] p.201&amp;lt;/ref&amp;gt;が、忠敬は毎日観測を続けた。太陽の南中を測るため、外出していても昼には必ず家に戻るようにしており、また、星の観測も、悪天候の日を除いて毎日行った&amp;lt;ref&amp;gt;[[#今野(2002)|今野(2002)]] pp.63-64&amp;lt;/ref&amp;gt;。至時と暦法の話をしていても、夕方になるとそわそわしだして、話の途中で席を立って急いで家に帰っていた。あわてるあまり、懐中物や脇差を忘れて帰ったりもした&amp;lt;ref name=&amp;quot;konno64&amp;quot;&amp;gt;[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.64&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
忠敬が観測していたのは、太陽の南中以外には、[[緯度]]の測定、日蝕、月蝕、惑星蝕、星蝕などである&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.68-69&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、[[金星]]の南中（子午線経過）を日本で初めて観測した記録も残っている&amp;lt;ref name=&amp;quot;konno64&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.64&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 長女の勘当と再婚 ====&lt;br /&gt;
長女イネの夫盛右衛門は伊能家の江戸店を任されていたが、忠敬は盛右衛門に、イネとの離縁を言い渡した。この理由は定かではないが、盛右衛門が商売で何らかの不祥事を起こしたためだと伝えられている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.225&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;w253&amp;quot;&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.253&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしイネは盛右衛門との離縁を受け入れず、夫に従った。そのため忠敬はイネを勘当した。ただし勘当した時期については、忠敬隠居後ということは分かっているが、正確には明らかになっていない&amp;lt;ref name=&amp;quot;w253&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方忠敬は江戸に出てから、栄（エイ）という女性を妻に持った。至時は重富にあてた手紙の中で、この女性のことを、「才女と相見候。素読を好み、四書五経の白文を、苦もなく読候由。算術も出来申候。絵図様のもの出来申候。象限儀形の目もり抔、見事に出来申候&amp;lt;ref&amp;gt;[[#間・高橋(1971)|間・高橋(1971)]] p.221&amp;lt;/ref&amp;gt;」と褒め称え、勘解由は幸せ者だとつづっている。江戸で忠敬が行った天体観測についても、一人で行える内容ではないため、妻の手助けがあったのではないかと推測されている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.70&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この妻については、長年の間謎の人物とされていたが、[[1995年]]、この人物は女流漢詩人の大崎栄（号は小窓、字は文姫）であることが明らかになった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#中村(2008)|中村(2008)]] p.145&amp;lt;/ref&amp;gt;。栄は後の忠敬の第一次測量のときは佐原に預けられたが、その後は忠敬の元を離れて文人として生き、忠敬と同じ文政元年（[[1818年]]）にこの世を去っている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#中村(2008)|中村(2008)]] p.146&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.72&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 子午線一度の距離測定 ====&lt;br /&gt;
至時と重富は、寛政9年（[[1797年]]）に新たな暦『[[寛政暦]]』を完成させた。しかし至時は、この暦に満足していなかった。そして、暦をより正確なものにするためには、地球の大きさや、日本各地の[[経度]]・[[緯度]]を知ることが必要だと考えていた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.75-76&amp;lt;/ref&amp;gt;。地球の大きさは、緯度1[[度 (角度)|度]]に相当する[[子午線弧]]長を測ることで計算できるが、当時日本で知られていた[[子午線]]1度の相当[[弧長]]は25[[里]]、30里、32里とまちまちで、どれも信用できるものではなかった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.137&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
忠敬は、自らおこなった観測により、黒江町の自宅と至時のいる浅草の暦局の緯度の差は1[[分 (角度)|分]]ということを知っていた。そこで、両地点の南北の距離を正確に求めれば、1度の距離を求められると思い、実際に測量をおこなった。そしてその内容を至時に報告すると、至時からは、両地点の緯度の差は小さすぎるから正確な値は出せないと返答された。そして、正確な値を出すためには、江戸から蝦夷地ぐらいまでの距離を測ればよいのではないかと提案された&amp;lt;ref group=&amp;quot;注釈&amp;quot;&amp;gt;本段落の内容については当時の複数の文献でも多少の差異がある。詳しくは[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.76-81を参照&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第一次測量（蝦夷地） ===&lt;br /&gt;
==== 測量の許可 ====&lt;br /&gt;
忠敬と至時が地球の大きさについて思いを巡らせていたころ、蝦夷地では帝政ロシアの圧力が強まってきていた。寛政4年（[[1792年]]）にロシアの特使[[アダム・ラクスマン]]は根室に入港して通商を求め、その後もロシア人による択捉島上陸などの事件が起こった。日本側も[[最上徳内]]、[[近藤重蔵]]らによって蝦夷地の調査を行った。また、[[堀田仁助]]は蝦夷地の地図を作成した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.87&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
至時はこうした北方の緊張を踏まえた上で、蝦夷地の正確な地図をつくる計画を立て、幕府に願い出た。蝦夷地を測量することで、地図を作成するかたわら、子午線一度の距離も求めてしまおうという狙いである&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.87-88&amp;lt;/ref&amp;gt;。そしてこの事業の担当として忠敬があてられた。忠敬は高齢な点が懸念されたが&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.85&amp;lt;/ref&amp;gt;、測量技術や指導力、財力などの点で、この事業にはふさわしい人材であった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.139&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
至時の提案は、幕府にはすんなりとは受け入れられなかった。寛政11年（[[1799年]]）から寛政12年（[[1800年]]）にかけて、佐原の村民たちから、今までの功績をたたえて伊能忠敬・景敬親子に幕府から直々に名字帯刀を許可していただきたいとの箱訴が出されたが、これも、忠敬が立派な人間であることを幕府に印象づけさせて、測量事業を早く認めさせるという狙いがあったとみられている（この箱訴は第一次測量後の享和元年（[[1801年]]）に認められ、忠敬は今までの地頭からの許可に加え、幕府からも名字帯刀を許されることとなった。）&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.141&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幕府は寛政12年の2月ごろに、測量をするということ自体は認めたが、荷物は蝦夷まで船で運ぶと定めた。しかし船で移動したのでは、道中に子午線の長さを測るための測量ができない。忠敬と至時は陸路を希望し、地図を作るにあたって船上から測量したのでは距離がうまく測れず、入り江などの地形を正確に描けないなどと訴えた。その結果、希望通り陸路を通って行くこととなったが、測量器具などの荷物の数は減らされた&amp;lt;ref name=&amp;quot;w88&amp;quot;&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.88&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.141-142&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年閏4月14日、幕府から正式に蝦夷測量の命令が下された。ただし目的は測量ではなく「測量試み」とされた。このことから、当時の幕府は忠敬をあまり信用しておらず、結果も期待していなかったことがうかがえる&amp;lt;ref name=&amp;quot;w88&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.142&amp;lt;/ref&amp;gt;。忠敬は「元百姓・浪人」という身分で、1日あたり銀7匁5分が手当として出された&amp;lt;ref name=&amp;quot;w88&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
忠敬は出発直前、蝦夷地取締御用掛の松平信濃守忠明に申請書を出した。そこでは自らの思いが次のようにつづられている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#今野(2002)|今野(2002)]] pp.85-86の現代語訳から引用、一部略&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Quotation|（前略）私は若い時から数術が好きで、自然と暦算をも心掛け、ついには天文も心掛けるようになりましたが、自分の村に居ったのでは研究も思うようには進まないので、高橋作佐衛門様の御門弟になって六年間昼夜精を出して勉めたおかげで、現在は観測などもまちがいないようになりました。この観測についてはいろいろな道具をも取りそろえ、身分不相応の金もつかいました。隠居のなぐさみとはいいながら、私のようなものがこんな勝手なことをするのはまことに相済まないことでございます。したがって、せめては将来の御参考になるような地図でも作りたいと思いましたが、御大名様や御旗本様方の御領内や御知行所などの土地に間棹や間縄を入れて距離を測りましたり、大道具を持ち運ぶなどいたしますとき、必ず御役人衆の御咎にもあうことでありましょうし、とても私どもの身分ではできないことでございます。（中略）ありがたいことにこのたび公儀の御声掛りで蝦夷地に出発できるようになりました。ついては、蝦夷地の図と奥州から江戸までの海岸沿いの諸国の地図を作って差し上げたいと存じますので、この地図が万一にも公儀の御参考になればかさねがさねありがたいことでございます。（中略）地図はとても今年中に完成できるわけではなくおよそ三年ほど手間取ることでございましょう。（後略）}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここでは蝦夷地だけでなく、奥州から江戸までの海岸線の地図作成についても述べられている。このことから、忠敬は最初から日本全国の測量が念頭にあったのではないかと考えられているが、その見解に対しては異論もある&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.83&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 出発 ====&lt;br /&gt;
忠敬一行は寛政12年（[[1800年]]）閏4月19日、自宅から蝦夷へ向けて出発した。忠敬は当時55歳で、内弟子3人（息子の秀蔵を含む）、下男2人を連れての測量となった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.95&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[富岡八幡宮]]に参拝後、浅草の暦局に立ち寄り、至時宅で酒をいただいた。千住で親戚や知人の見送りを受けてから、奥州街道を北上しながら測量を始めた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.85-86&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
千住からは、測量器具を運ぶための人足3人、馬2頭も加わった。寒くなる前に蝦夷測量を済ませたいということもあって、距離は歩測で測り、1日におよそ40kmを移動した&amp;lt;ref name=&amp;quot;w86&amp;quot;&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.86&amp;lt;/ref&amp;gt;。出発して21日目の5月10日、[[津軽半島]]最北端の[[三厩]]に到達した&amp;lt;ref name=&amp;quot;w86&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三厩からは船で箱館（現[[函館市]]）へと向かう予定だったが、[[やませ]]などの影響で船が出せず、ここに8日間滞在した。9日目に船は出たが、やはり風の影響で箱館には着けず、[[松前半島]]南端の吉岡に船をつけ、そこから歩いて箱館へと向かった&amp;lt;ref name=&amp;quot;w89&amp;quot;&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.89&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
箱館には手続きの関係で8泊し、その間に[[函館山|箱館山]]にのぼり方位の測定をおこなった&amp;lt;ref name=&amp;quot;w89&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;kenzo114&amp;quot;&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.114&amp;lt;/ref&amp;gt;。また下男の1人が病気を理由に暇を申し出たので、金を与えて三厩行きの船に乗せた&amp;lt;ref name=&amp;quot;kenzo114&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 蝦夷測量 ====&lt;br /&gt;
5月29日、箱館を出発し、本格的な蝦夷測量が始まった。しかし、蝦夷地では測量器具を運ぶ馬は1頭しか使うことを許されなかったため、持ってきた大方位盤は箱館に置いてくることにした&amp;lt;ref name=&amp;quot;konno101&amp;quot;&amp;gt;[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.101&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、初日は間縄を使って距離を丁寧に測っていたが、あまりに時間がかかりすぎたため、2日目以降は歩測に切り替えた&amp;lt;ref name=&amp;quot;konno101&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一行は海岸沿いを測量しながら進み、夜は天体観測をおこなった。海岸沿いを通れないときは山越えをおこなった。蝦夷地の道は険しく、歩測すらままならなかったところも多い。また、本州のような宿が無かったため、宿泊は会所や役人の仮家を利用した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.116&amp;lt;/ref&amp;gt;。難所続きでわらじもことごとく破れて困っているところに目に入った会所からの迎え提灯は、地獄に仏のようだったという&amp;lt;ref name=&amp;quot;kojima146&amp;quot;&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.146&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月2日、忠敬らはシャマニ（[[様似町]]）からホロイズミ（[[えりも町]]）に向かったが、[[襟裳岬]]の先端まで行くことはできず、近くを横断して東へ向かった。その後クスリ（[[釧路市]]）を経て、ゼンホウジ（[[釧路町|仙鳳趾]]）から船でアツケシ（[[厚岸町]]）に渡り、アンネベツ（姉別）まで歩き、再び船を利用して、8月7日にニシベツ（西別、[[別海町]]）に到達した&amp;lt;ref name=&amp;quot;kojima146&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.119&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.90&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一行はここから船でネモロ（[[根室市]]）まで行き、測量を続ける予定だった。しかしこの時期は鮭漁の最盛期で、船も人も出すことができないと現地の人に言われたので、そのまま引き返すことにした&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] pp.119-120&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
8月9日にニシベツを発った忠敬は、行きとほぼ同じ道を測量しながら帰路についた。9月18日に蝦夷を離れて三厩に到着し&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.122&amp;lt;/ref&amp;gt;、そこから本州を南下して、10月21日、人々が出迎えるなか、千住に到着した。第一次測量にかかった日数は180日、うち蝦夷滞在は117日だった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] pp.121,123&amp;lt;/ref&amp;gt;。なお、後年に忠敬が記した文書によれば、蝦夷滞在中に[[間宮林蔵]]に会って弟子にしたとのことであるが、この時の測量日記には林蔵のことは書かれていない&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.91-92&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 地図作成・事後処理 ====&lt;br /&gt;
11月上旬から測量データを元に地図の製作にかかり、約20日間を費やして地図を完成させた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.124&amp;lt;/ref&amp;gt;。地図製作には妻の栄も協力した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] pp.71-72&amp;lt;/ref&amp;gt;。完成した地図は12月21日に下勘定所に提出した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.125&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
12月29日、測量の手当として1日銀7匁5分の180日分、合計22両2分を受け取った。忠敬は測量に出かけるときに100両を持参していて、戻ってきたときは1分しか残らなかったとの記述があるため、差し引きすると70両以上を忠敬個人が負担したことになる。後世の試算&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.102-103&amp;lt;/ref&amp;gt;によると、この時忠敬が負担した金額は現在の金額に換算して1,200万円程度であった。また忠敬はこの他に測量器具代として70両を支払っている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.103&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
忠敬の測量について、師の至時は、蝦夷地で大方位盤を使わなかったことについては残念だとしながらも、測量自体は高く評価した。そして、間重富あての手紙で、「このように測ることは私が指図はいたしましたが、これほどきちんとやれるとは思いませんでした」とつづった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.104&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#間・高橋(1971)|間・高橋(1971)]] p.216&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、当初の目的であった子午線1度の距離について、忠敬は「27里余」と求めたが、これに対する至時の反応は残されていない&amp;lt;ref&amp;gt;[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.107&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第二次測量（伊豆・東日本東海岸） ===&lt;br /&gt;
==== 計画 ====&lt;br /&gt;
蝦夷測量で作成した地図に対する高い評価は堀田摂津守の知るところとなり、摂津守と親しい桑原隆朝を中心に第二次測量の計画が立てられた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.104&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
寛政12年（1800年）の暮、忠敬は桑原から第二次測量の計画を出すようにすすめられた。忠敬は案を作成し、寛政13年（[[1801年]]）の正月に桑原と至時の添削を受けた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.95&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;kenzo128&amp;quot;&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.128&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この計画は、[[行徳]]から本州東海岸を北上して[[松前郡|松前]]へと渡り、松前で船を調達して、船を住めるように改造し、食料も積み込んでから蝦夷地の西海岸を回り、さらにクナシリからエトロフ、ウルップまで行くというものであった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.95-96&amp;lt;/ref&amp;gt;。途中で船を買うことにしたのは、蝦夷地は道が悪く宿舎が無いことを見越したもので、用がすんだら船は売り払う計画だった&amp;lt;ref name=&amp;quot;w96&amp;quot;&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.96&amp;lt;/ref&amp;gt;。また測量器具を運ぶため、人足1人、馬1匹、長棹1棹の持ち人足を要求した&amp;lt;ref name=&amp;quot;w96&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;kenzo128&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし桑原がこの計画を堀田摂津守に内々で相談したところ、船を買う件と長持の件は書面には書かずに口頭で述べる方がよいとの返答を得た。忠敬は、口頭で伝えたのでは計画の実現は難しく、測量は不十分なものになってしまうと反発した。しかし結局は、忠敬は桑原、至時と話し合ったうえで、船と長持の件はやはり口頭で伝えることとし、これが認められなければ蝦夷地をあきらめて本州東海岸のみを測量するという案を出すことで納得した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.97&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最終的に、今回は蝦夷地は測量せず、伊豆以東の本州東海岸を測量することに決められた。手当は前回より少し上がって1日10匁となった。また、道中奉行、勘定奉行から先触れが出るようになり、この結果、現地の村の人々の協力を得ることも可能になった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.105&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 伊豆測量 ====&lt;br /&gt;
享和元年（[[1801年]]）4月2日、一行は江戸を出て東海道を西に向かった。品川で親類・知人の見送りを受けた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.129&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今回の測量から、歩測ではなく間縄を使って距離を測ることにした。一行は[[三浦半島]]を一周し、鎌倉では[[鶴岡八幡宮]]を参詣、さらに伊豆半島を南下して、5月13日に[[下田市|下田]]に到着した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.132&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;konno122&amp;quot;&amp;gt;[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.122&amp;lt;/ref&amp;gt;。伊豆半島の道は断崖絶壁で測量が難しく、海が荒れる中で船を出して縄を張って距離を求めたり、岩をよじのぼって方角を測ったりするなど、苦労を重ねた&amp;lt;ref name=&amp;quot;kenzo133&amp;quot;&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.133&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;konno122&amp;quot;/&amp;gt;。荷物を運ぶのにも労を要したが、聞いた話によると、下田から先の伊豆半島西海岸はこれに輪をかけて大変だということなので、ここまで持ってきた大方位盤は江戸に送り返すことにした&amp;lt;ref name=&amp;quot;kenzo133&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;konno122&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月17日に下田を発ち、西海岸をまわって5月30日に[[三島市|三島]]に到着、ここで至時によって江戸から送られてきた測量器具「量程車」を受け取った&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.134&amp;lt;/ref&amp;gt;。三島からは東海道を東進し、箱根の関所を越え、6月6日北品川宿に到着、いったん桑原や至時に報告した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.135&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 本州東海岸測量 ====&lt;br /&gt;
[[File:Ino Tadataka monument (Choshi).JPG|thumb|銚子測量記念碑]]&lt;br /&gt;
6月19日、一行は再び江戸を発ち、[[房総半島]]を測量しながら一周し、7月18日に[[銚子市|銚子]]に着いた&amp;lt;ref name=&amp;quot;kenzo139&amp;quot;&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.139&amp;lt;/ref&amp;gt;。銚子には9泊し、[[富士山]]の方角などを確かめた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.106-107&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、銚子で忠敬は病気にかかったが、すぐに回復した&amp;lt;ref name=&amp;quot;kenzo139&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7月29日に銚子を出発し、太平洋沿いを北上していった。しばらくはおおむね順調に測量できていたが、8月21日に到着した塩釜湾岸は山越えができずに舟を出して引き縄で距離を測った&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.142&amp;lt;/ref&amp;gt;。さらに翌日に測量した[[松島]]や、その先の[[釜石市|釜石]]、[[宮古市|宮古]]までの間も、地形が入り組んでいる上に断崖絶壁だったため、たびたび舟の上からの測量となった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.123&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
10月1日に[[宮古湾]]を越えて北上を続け、雪に悩まされながらも10月17日に[[下北半島]]の[[尻屋]]に到着、そして半島を一周して[[奥州街道]]、[[松前街道]]を進み、11月3日、三厩に辿り着いた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] pp.157-159&amp;lt;/ref&amp;gt;。ここからは第一次測量と同じように奥州街道を南下して、12月7日に江戸に到着した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.167&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 地図作成等 ====&lt;br /&gt;
忠敬は江戸にもどったが、5月に下田から送った大方位盤はまだ届いていなかった。忠敬は下田の宿主と名主に照会をとり、荷物は翌年の2月にようやく届けられた。忠敬はこれに対して「不届きの者なり」&amp;lt;!--（これ、洒落なんですかね…。）--&amp;gt;と立腹した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.133&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
地図は第一次測量のものと合わせて、大図・中図・小図の3種類が作られた。そのうち大図・小図は幕府に上程し、中図は堀田摂津守に提出した&amp;lt;ref name=&amp;quot;w107&amp;quot;&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.107&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、子午線一度の距離は28.2里と導き出した&amp;lt;ref name=&amp;quot;w107&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.169&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第三次測量（東北日本海沿岸） ===&lt;br /&gt;
==== 測量計画 ====&lt;br /&gt;
忠敬らは、前回計画を立てながらも実行できなかった蝦夷地の測量をやり遂げたい気持ちがあった。だが忠敬の立てた測量計画が幕府に採用される見込みは相変わらず薄かった。そこで、まずは内地の測量に従事した方がよいと判断した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] pp.86-87&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
享和2年（[[1802年]]）6月3日、忠敬は堀田摂津守からの測量命令を、至時を通して聞いた。測量地点は日本海側の陸奥・三厩から越前まで、および太平洋側の尾張から駿河までで、これと第一次・第二次測量を合わせて東日本の地図を完成させる計画である、また、8月に起きる日食も観測するよう指示された&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.108&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.172&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本測量では人足5人、馬3匹、長持人足4人が与えられ、手当は60両支給された。これは過去2回よりもはるかに恵まれた待遇で、費用の収支もようやく均衡するようになった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.113&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 測量 ====&lt;br /&gt;
一行は6月11日に出発、奥州街道を進み6月21日に[[白河市|白河]]まで辿り着いた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.175&amp;lt;/ref&amp;gt;。ここから奥州街道を離れ[[会津若松市|会津若松]]に向かい、[[山形市|山形]]、[[新庄市|新庄]]などを経て、7月23日に[[能代市|能代]]に到着した&amp;lt;ref name=&amp;quot;konno143&amp;quot;&amp;gt;[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.143&amp;lt;/ref&amp;gt;。ここで、8月1日に起こる日食を観測するための準備を整えた。しかし当日は曇りで、太陽は日食が終わる直前にほんの少し見えただけで、観測は失敗に終わった&amp;lt;ref name=&amp;quot;konno143&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.185&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
8月4日に能代を発ち、[[羽州街道]]を油川（現[[青森市]]）まで進んだ。途中の[[弘前市|弘前]]では宿の設備や対応が悪く、忠敬は役人に注意した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.187&amp;lt;/ref&amp;gt;。このように第三次測量からは、忠敬は、測量に協力的でない役人を叱りつけることがままあった。これは幕府の事業を請け負っているという自負が強くなってきたためだろうと考えられている&amp;lt;ref name=&amp;quot;kenzo189&amp;quot;&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.189&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.145&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
油川からは第一次、第二次と同じ道をたどり、8月15日に三厩に到着した&amp;lt;ref name=&amp;quot;kenzo189&amp;quot;/&amp;gt;。ここから算用師峠を越えて日本海側の小泊（現[[中泊町]]）に行き、そこから南下した。9月2日から6日まで二手に分かれて[[男鹿半島]]を測量し&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] pp.192-193&amp;lt;/ref&amp;gt;、9日からは[[象潟]]周辺を測量した。当時の象潟は入り江の中に幾多の島々が浮かぶ景勝地だったが、忠敬測量の2年後に起きた[[象潟地震]]によって土地が隆起し、姿を全く変えてしまった。そのため、忠敬によって実測された地震前の象潟の記録は貴重なものとなっている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] pp.194-195&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、越後に入ると、海岸沿いでも岩山が多くなり、苦労をしながらの測量となった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.198&amp;lt;/ref&amp;gt;。9月24日に[[新潟市|新潟]]、10月1日に[[柏崎市|柏崎]]、10月4日に今町（現[[上越市]]）に到着し、ここで海岸線を離れて南下した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] pp.200-203&amp;lt;/ref&amp;gt;。そして[[追分宿|追分]]（現[[軽井沢町]]）から[[中山道]]を通って、10月23日に江戸に戻った&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] pp.206-207&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.144&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 地図作成等 ====&lt;br /&gt;
江戸に帰った忠敬らは地図作成に取り掛かったが、今回の測量だけでは東日本全体の地図は作れないため、下図のみ作成して、享和3年（[[1803年]]）1月15日に幕府に提出した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.145&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、今回の測量結果から忠敬は再度子午線一度の距離を計算し、28.2里という、第二次測量の時と同じ値を導き出した。しかし至時は、この値は自分の想定していた値よりも少し大きいとして、忠敬の結果を信用しなかった。忠敬はこの師匠の態度に不満を感じた。そして、この値が信用できないというのであれば、今まで自分がおこなってきた測量をすべて疑っているということではないか、ならば今後、測量を続けることはできない、と言った。至時は忠敬をなだめ、なんとか次の測量の手はずを整えた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.208&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第四次測量（東海・北陸） ===&lt;br /&gt;
==== 測量 ====&lt;br /&gt;
享和3年（[[1803年]]）2月18日、忠敬は至時を通じて堀田摂津守からの辞令を受け取った。今回の測量地域は駿河、遠江、三河、尾張、越前、加賀、能登、越中、越後などで、また、佐渡にも渡るよう指示された。人足や馬は前回と同様で、旅費としては82両2分が支給された&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.212&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.146&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2月25日に一行は出発し、東海道を沼津まで測量した（第二次測量の再測）。沼津からは海岸沿いを通り、[[御前崎]]、[[渥美半島]]、[[知多半島]]を回って、5月6日に[[名古屋市|名古屋]]に着いた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] pp.214-215&amp;lt;/ref&amp;gt;。名古屋からは海岸線を離れて北上し、[[大垣市|大垣]]、[[関ヶ原]]を経て、5月27日に[[敦賀市|敦賀]]に到着した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] pp.216-217&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
28日から敦賀周辺を測量し、その後日本海沿いを北上していったが、5月末から6月にかけては隊員が次々と[[麻疹]]などの病気にかかり、測量は忠敬と息子の秀蔵の2人だけでおこなうこともあった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] pp.218-219&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月22日には病人は快方に向かい、24日に一行は[[加賀国]]へと入った。しかし加賀では、地元の案内人に地名や家数などを尋ねても、回答を拒まれた。これは、加賀藩の情報が他に漏れるのを恐れたためである&amp;lt;ref name=&amp;quot;w114&amp;quot;&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.114&amp;lt;/ref&amp;gt;。そのため忠敬は藩の抵抗にあいながらの測量となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;w114&amp;quot;/&amp;gt;。加賀を出て、7月5日からは[[能登半島]]を二手に分かれて測量した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] pp.221-223&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 糸魚川事件 ====&lt;br /&gt;
8月2日ごろからしばらく忠敬は病気にかかり体調の悪い日が続いていた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] pp.226-227&amp;lt;/ref&amp;gt;。そんななか、8月8日に訪れた[[糸魚川藩]]で、糸魚川事件と呼ばれるいざこざを起こした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
忠敬はこの日、[[姫川]]河口を測ろうとして手配を依頼したところ、町役人は、姫川は大河で舟を出すのは危険だと断った。ところが翌日に忠敬らが行って確認したところ、川幅は10間程度しかなく、簡単に測ることができた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.158-159&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.89&amp;lt;/ref&amp;gt;。忠敬は、偽った証言で測量に差し障りを生じさせたとして、役人たちを呼び出してとがめ、藩の役人にも伝えておくようにと言った&amp;lt;ref name=&amp;quot;watanabe71&amp;quot;&amp;gt;[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.71&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後忠敬一行は直江津（現[[上越市]]）を通過して、8月25日に尼瀬（現[[出雲崎町]]）に到着、ここで船を待って8月26日に佐渡島にわたり、二手に分かれて島を一周し、9月17日に島を離れた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] pp.226-232&amp;lt;/ref&amp;gt;。佐渡の測量によって、本州東半分の海岸線はすべて測量し終えたことになる&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.232&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌日からは内陸部を測りながら帰路についたが、途中の[[六日町]]（現[[南魚沼市]]）で、至時からの至急の御用書を2通受け取った。糸魚川での事件が江戸の藩主に伝わり、藩主から勘定所に申し入れがあったためである&amp;lt;ref name=&amp;quot;watanabe71&amp;quot;/&amp;gt;。至時は1通目の公式な手紙で、忠敬の言い回しはことさら御用を申し立てるようでがさつに聞こえる、もってのほかだ、と非難した。2通目の私的な手紙では、今後測量できなくなるかもしれないから、細かいことにこだわってはいけないと、割合くだけた調子で注意した。忠敬はこれに対して弁明の書を出した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] pp.71-72&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.159&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後一行は[[三国峠 (群馬県・新潟県)|三国峠]]を越え、[[三国街道]]から[[中山道]]に入り、10月7日に帰府した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] pp.234-235&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
帰府後、忠敬は糸魚川事件の詳細な報告書を提出した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.235&amp;lt;/ref&amp;gt;。至時の力もあって、結果的に忠敬は幕府からとがめられることはなく、測量に支障をきたさずにすんだ&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.160&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 至時の死 ====&lt;br /&gt;
忠敬が帰府したとき、至時は西洋の天文書『[[ラランデ暦書]]』の解読に努めていた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.174&amp;lt;/ref&amp;gt;。この本には[[緯度]]1[[度 (角度)|度]]に相当する[[子午線弧]]長が記載されており、計算したところ、忠敬が測量した28.2里に非常に近い値になることが分かった。これを知った忠敬と至時は大いに喜び合った&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.156&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし翌文化元年（[[1804年]]）正月5日に、至時は死去した。至時の死後、忠敬は毎朝、至時の墓のある源空寺の方角に向かって手を合わせたという&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.177&amp;lt;/ref&amp;gt;。幕府は至時の跡継ぎとして、息子の[[高橋景保]]を天文方に登用した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.240&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 日本東半部沿海地図 ====&lt;br /&gt;
忠敬らは第一次から第四次までの測量結果から東日本の地図を作る作業に取り組み、文化元年（1804年）、大図69枚、中図3枚、小図1枚から成る「日本東半部沿海地図」としてまとめあげた。この地図は同年9月6日、[[江戸城]]大広間でつなぎ合わされて、十一代将軍[[徳川家斉]]の上覧を受けた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.16&amp;lt;/ref&amp;gt;。ただし忠敬は身分の違いにより、この場には出席していない&amp;lt;ref name=&amp;quot;watanabe17&amp;quot;&amp;gt;[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.17&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初めて忠敬の地図を見た将軍は、その見事な出来栄えを賞賛したのではないかといわれている&amp;lt;ref name=&amp;quot;watanabe17&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.243&amp;lt;/ref&amp;gt;。9月10日、忠敬は堀田摂津守から小普請組で10人扶持を与えるという通知を受け取った&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.117&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、この年、漢学者として佐原にて門人の教育にあたっていた久保木清淵が[[後漢]]の[[鄭玄]]の『[[孝経]]』註釈を復元した『補訂鄭註孝経』を刊行したが、忠敬は同書の序文を執筆している&amp;lt;ref name=&amp;quot;chibaken930&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第五次測量（近畿・中国） ===&lt;br /&gt;
==== 西国測量計画 ====&lt;br /&gt;
至時は元々、忠敬には東日本の測量をまかせ、西日本は間重富に担当させる予定でいた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#上原(1977)|上原(1977)]] p.224&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし至時の死後に天文方となった景保は当時19歳の若さだったため、重富は景保を補佐する役に当たらなければならなくなった。そのため、西日本の測量も忠敬が受け持つことになった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#上原(1977)|上原(1977)]] p.239&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
西日本の測量は幕府直轄事業となった。そのため、測量隊員には幕府の天文方も加わり人数が増えた。また、測量先での藩の受け入れ態勢が強化され、今まで以上の協力が得られるようになった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.249&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;w119&amp;quot;&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.119&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当初の測量の予定は、本州の西側と四国・九州、さらには対馬、壱岐などの離島も含めて、33か月かけて一気に測量してしまおうという大計画だった。しかし実際は、西日本の海岸線が予想以上に複雑だったこともあって、4回に分けて、期間も11年を要することになる&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.118,120,121&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 測量 ====&lt;br /&gt;
[[File:Takanawa Okido 20130629.JPG|thumb|高輪大木戸跡]]&lt;br /&gt;
文化2年（[[1805年]]）2月25日、忠敬らは江戸を発ち、[[高輪大木戸跡|高輪大木戸]]から測量を開始した。隊員は16人、隊長の忠敬は60歳になっていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;w119&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東海道を測量しながら進み、3月16日に[[浜松市|浜松]]に到着、[[浜名湖]]周辺を測った&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.84&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.167&amp;lt;/ref&amp;gt;。さらに[[伊勢路]]に入ると2手に分かれて、沿岸と街道筋の測量をおこなった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.86&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月22日、伊勢の山田（現[[伊勢市]]）に到着し、この日の夜、経度を測定するため、[[木星]]の衛星食を観測した。木星衛星食の観測は5月6日から8日にかけて、鳥羽でもおこなった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.89&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月17日からは[[紀伊半島]]の[[尾鷲市|尾鷲]]付近を測量したが、地形が入り組んでいたため作業は難航した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.93&amp;lt;/ref&amp;gt;。さらに測量隊から病人も相次いだ&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.255&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後紀伊半島を一周し、8月18日に[[大阪市|大坂]]に着いた&amp;lt;ref name=&amp;quot;kenzo256&amp;quot;&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.256&amp;lt;/ref&amp;gt;。大坂では12泊し、間重富の家族とも接触した&amp;lt;ref name=&amp;quot;kenzo256&amp;quot;/&amp;gt;。また、測量隊のうち市野金助ら3人は病気を理由に帰府した。ただし幕府下役である市野の離脱については、忠敬の内弟子、あるいは忠敬本人の測量方針と見解の相違があったためではないかともいわれている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] pp.96-98&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
閏8月5日、一行は[[京都市|京都]]に入ったが、これまでの測量で予想以上に日数を費やしてしまっていたので、3年で西日本を測量するという計画は成し遂げられそうになかった。忠敬は江戸の景保に手紙を出し、計画の変更と隊員の増員を願い出た&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.105&amp;lt;/ref&amp;gt;。江戸とは何度かやり取りし、その間に37日間かけて[[琵琶湖]]を測量した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.258&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結局測量計画は変更され、中国地方沿岸部を終えたらいったん帰府することになった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.106&amp;lt;/ref&amp;gt;。また人数も2名増員された&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.258&amp;lt;/ref&amp;gt;が、瀬戸内海の海岸線は複雑で、[[家島諸島]]の測量にも日数を要したため、さらに2名の増員を要請した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] pp.106-107&amp;lt;/ref&amp;gt;。一行は[[岡山市|岡山]]で越年することになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文化3年（[[1806年]]）1月18日、岡山を出発し、瀬戸内海沿岸および瀬戸内海の島々を測量した。測量にあたっては地元の協力も得た。瀬戸内海の島々を多くの舟と多くの人数で測量している様子を描いた絵巻『浦島測量之図』が残されている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] pp.127-133&amp;lt;/ref&amp;gt;。1月28日に[[福山市|福山]]、2月5日に[[尾道市|尾道]]、3月29日に[[広島市|広島]]に到着した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] pp.260-262&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月30日、秋穂浦（現[[山口市]]）まで測量を進めた忠敬は、ここで[[おこり]]の症状を訴え、以後、医師の診療を受けながら別行動で移動することになった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.264&amp;lt;/ref&amp;gt;。一行は[[下関市|下関]]を経て6月18日に[[松江市|松江]]に着き、ここで忠敬は留まって治療に専念した。その間に隊員は三保関（現松江市[[美保関町]]）から[[隠岐諸島|隠岐]]へ渡り、測量を終えてから三保関に戻り、8月4日に松江で忠敬と合流した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.265&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;watanabe142&amp;quot;&amp;gt;[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.142&amp;lt;/ref&amp;gt;。忠敬の病状は回復し、松江から再び山陰海岸を測り始めた&amp;lt;ref name=&amp;quot;watanabe142&amp;quot;/&amp;gt;。しかし病気の間に隊員の統率は乱れ、隊員は禁止されている酒を飲んだり、地元の人に横柄な態度をとったりしていた。これは幕府の耳にも入っていたため、10月、景保から戒告状が届けられた&amp;lt;ref name=&amp;quot;konno178&amp;quot;&amp;gt;[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.178&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一行はその後[[若狭湾]]を測量し、[[大津市|大津]]、[[桑名市|桑名]]を経て11月3日に[[宮宿|熱田]]（現[[名古屋市]][[熱田区]]）に着いた。熱田からは測量はおこなわず東海道を江戸へ向かい、11月15日に品川に到着した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.267&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 測量後 ====&lt;br /&gt;
測量後、忠敬は景保と相談し、隊規を乱した測量隊の平山郡蔵、小坂寛平の2名を破門にし、3名を謹慎処分にした&amp;lt;ref name=&amp;quot;konno178&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡部(2001)|渡部(2001)]] p.270&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、弟子とともに地図の作製や天体観測をおこない、今回の地図は文化4年12月に完成した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.127&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今回の測量の経験から、忠敬は、長期に及ぶ測量は隊員の規律を守る点で好ましくないと感じた。そこで次回の測量は四国のみにとどめることにした&amp;lt;ref name=&amp;quot;konno178&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第六次測量（四国） ===&lt;br /&gt;
文化5年（[[1808年]]）1月25日、忠敬らは四国測量のため江戸を出発した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.146&amp;lt;/ref&amp;gt;。江戸から浜松までは測量せずに移動し、浜松から[[御油宿|御油]]（現[[豊川市]]）までは[[姫街道 (東海道)|気賀街道]]を通って測量した&amp;lt;ref name=&amp;quot;watanabe147&amp;quot;&amp;gt;[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.147&amp;lt;/ref&amp;gt;。御油から先はまたほとんど測量をおこなわず、2月24日に大阪に着いた&amp;lt;ref name=&amp;quot;watanabe147&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月3日、[[淡路島]]の岩屋（現[[淡路市]]）に着き、ここから島の東岸を[[鳴門市|鳴門]]まで測り3月21日に徳島に渡った&amp;lt;ref name=&amp;quot;watanabe147&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;watanabe1999-130&amp;quot;&amp;gt;[[#渡辺(1999)|渡辺(1999)]] p.130&amp;lt;/ref&amp;gt;。そして四国を南下し、4月21日に[[室戸岬]]に着き、4月28日、赤岡（現[[香南市]]）で隊を分け、坂部貞兵衛らに、伊予と土佐の国境まで縦断測量をおこなわせた&amp;lt;ref name=&amp;quot;watanabe147&amp;quot;/&amp;gt;。4月29日に[[高知市|高知]]に着いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後も海岸線を測量し、8月11日に[[松山市|松山]]に着いた。ここからも引き続き海岸線を測りつつ、加えて瀬戸内海の島々も測量し、さらに川之江（現[[四国中央市]]）からは再び坂部に四国縦断測量をおこなわせた&amp;lt;ref name=&amp;quot;watanabe1999-130&amp;quot;/&amp;gt;。このように、海岸線だけでなく内陸部も測らせたのは、測量の信頼性を高めるためである&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.166&amp;lt;/ref&amp;gt;。10月1日、[[塩飽諸島]]で日食を観測し、[[高松市|高松]]を経て、鳴門から淡路島に渡り島の西岸を測量、11月21日に大坂に戻った&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺(1999)|渡辺(1999)]] pp.130-131&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大坂で、病気の伊能秀蔵を江戸に帰し、ここから[[法隆寺]]、[[唐招提寺]]、[[薬師寺]]、[[東大寺]]、[[長谷寺]]といった社寺を回りながら奈良・吉野の[[大和路]]を測った&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺(1999)|渡辺(1999)]] pp.131,142-144&amp;lt;/ref&amp;gt;。その後伊勢を経由して帰路につき、文化6年（[[1809年]]）1月18日に江戸に戻った&amp;lt;ref name=&amp;quot;watanabe147&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今回の測量では秀蔵が途中で離脱し、また忠敬自身も病気にかかったが、それ以外は大きな問題はなく、隊員の統率もとれた。測量作業においては藩の協力も多く得られ、測量のために新たに道を作ったところもあった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] pp.129-131&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第七次測量（九州第一次） ===&lt;br /&gt;
==== 測量 ====&lt;br /&gt;
第七次測量は文化6年（1809年）8月27日に開始した。今回は中山道経由で移動することとなり、測量は王子（現[[北区 (東京都)|東京都北区]]）からおこなった。[[日光御成街道|御成街道]]や岩淵の渡しなどを利用して[[岩槻区|岩槻]]まで行き、岩槻から[[熊谷市|熊谷]]へ向かい中山道に入った&amp;lt;ref name=&amp;quot;watanabe172&amp;quot;&amp;gt;[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.172&amp;lt;/ref&amp;gt;。中山道を武佐（現[[近江八幡市]]）まで測り、そこから、東海道へ向かう[[御代参街道]]を土山（現[[甲賀市]]）まで測った&amp;lt;ref name=&amp;quot;watanabe1999-146&amp;quot;&amp;gt;[[#渡辺(1999)|渡辺(1999)]] p.146&amp;lt;/ref&amp;gt;。土山から[[淀]]、[[西宮市|西宮]]を経て[[山陽道]]を行き、11月には備後国神辺（現[[福山市]]）にて儒学者として有名な[[菅茶山]]と面会し、その際に忠敬は自身が序文を書いた久保木清淵の『補訂鄭註孝経』を茶山に贈呈している&amp;lt;ref name=&amp;quot;chibaken931&amp;quot;&amp;gt;[[#千葉県(2008)|千葉県(2008)]] p.931&amp;lt;/ref&amp;gt;。その後、[[豊前国|豊前]]小倉（現[[北九州市]]）で越年、ここから九州測量を始めた&amp;lt;ref name=&amp;quot;watanabe172&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小倉から海岸線を南下し、2月12日に[[大分市|大分]]、28日に鳩浦（現[[津久見市]]）に入った。鳩浦では3月1日に起こる日食を観測したが、天候が悪く失敗した&amp;lt;ref name=&amp;quot;watanabe173&amp;quot;&amp;gt;[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.173&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月6日に[[延岡市|延岡]]、27日に飫肥（現[[日南市]]）に到着。ここで支隊を出して都城方面の街道測量にあたらせた。本隊はそのまま南下して[[大隅半島]]をぐるりと回り、再び都城方面に支隊を出して測線をつないだのち、6月23日に[[鹿児島市|鹿児島]]に着いた&amp;lt;ref name=&amp;quot;watanabe1999-146&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鹿児島で[[桜島]]の測量や木星の観測をおこなってから、一行は[[薩摩半島]]を南下し、7月8日に山川湊に着いた&amp;lt;ref name=&amp;quot;watanabe1999-146&amp;quot;/&amp;gt;。ここから舟に乗り[[種子島]]、[[屋久島]]の測量をおこなう予定であったが、天候が悪かったので後回しにして、そのまま薩摩半島の海岸線を測量し、8月1日、串木野（現[[いちき串木野市]]）付近から[[甑島]]に渡って測量、8月19日に串木野に戻った後、本隊はそのまま海岸線を北上、支隊は鹿児島から街道筋を通って肥後へと向かわせた&amp;lt;ref name=&amp;quot;watanabe1999-147&amp;quot;&amp;gt;[[#渡辺(1999)|渡辺(1999)]] p.147&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
両隊はその後合流して[[天草諸島]]を測った。しかし甑島や天草の測量には手間がかかり、病人も出たので、今回は種子島、屋久島の測量はあきらめ、いったん江戸に帰ることにした&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺(1999)|渡辺(1999)]] pp.161&amp;lt;/ref&amp;gt;。忠敬らは天草周辺の街道を測った後、九州を横断して大分で越年した&amp;lt;ref name=&amp;quot;watanabe173&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;watanabe1999-147&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌文化8年（[[1811年]]）、大分を出発して本州に渡り、中国地方の内陸部などを測量しながら帰路についた。そして5月8日、江戸に到着した&amp;lt;ref name=&amp;quot;watanabe173&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 種子島・屋久島測量に関して ====&lt;br /&gt;
今回の測量では天候の関係などで種子島・屋久島に渡ることができなかった。薩摩の役人は忠敬に対し、波が荒いので、両島に渡る時期は3，4月ごろにして、6，7月ごろに帰るようにしないといけないと述べている&amp;lt;ref name=&amp;quot;watanabe205&amp;quot;&amp;gt;[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.205&amp;lt;/ref&amp;gt;。元々忠敬と景保は両島への渡航は難しいということを知っており無理して渡らなくても良いと申し合わせていたので、断念する結果となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;watanabe205&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし結果的には幕府の方針で、次回の九州測量の計画に両島への渡航は組み込まれた。両島を測ろうとした理由は定かではないが、忠敬に全国の測量をさせると共に、当時閉鎖的だった[[薩摩藩]]の偵察の意味合いも重きにおいていたのではないかと推測されている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.206&amp;lt;/ref&amp;gt;。なお忠敬は両島の測量が決まった時、薩摩藩の担当者に対して[[硫黄島 (鹿児島県)|硫黄島]]などの測量も希望したが、これは実現していない&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.215&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 再会 ====&lt;br /&gt;
文化7年（1810年）、かつて忠敬が勘当した娘イネが、佐原の家に戻ってきた。イネは夫盛右衛門の死没後、剃髪し、名を妙薫と改めていた。忠敬や親類に詫びを入れた妙薫は、以後は景敬の妻りてと共に伊能家を支え、旅先の忠敬ともたくさんの手紙をやり取りし、老年の父を気遣った&amp;lt;ref&amp;gt;[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.226&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.254&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、忠敬は江戸で九州測量の地図を作成している時、間宮林蔵の訪問を受けた。忠敬は林蔵に1週間かけて測量技術を教えた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.181&amp;lt;/ref&amp;gt;。後に林蔵は、忠敬が測り残した蝦夷北西部の測量をおこなうことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第八次測量（九州第二次） ===&lt;br /&gt;
==== 種子島・屋久島・九州北部測量 ====&lt;br /&gt;
文化8年11月25日、忠敬らは、前回の九州測量で測れなかった種子島、屋久島、九州北部などの地域を測量するため、江戸を出発した&amp;lt;ref name=&amp;quot;watanabe1999-168&amp;quot;&amp;gt;[[#渡辺(1999)|渡辺(1999)]] p.168&amp;lt;/ref&amp;gt;。高齢の忠敬は、出発にあたって息子の景敬あてに今後の家政や事業についての教訓や、自分の隠居資金の分配について記した書状を残しており、万一の事態も覚悟しての旅立ちだった&amp;lt;ref name=&amp;quot;watanabe1999-168&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一行は、本州については一部地域を除いて測量せずに東海道、山陽道を進み、文化9年（[[1812年]]）1月25日に小倉に着いた&amp;lt;ref name=&amp;quot;watanabe203&amp;quot;&amp;gt;[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.203&amp;lt;/ref&amp;gt;。小倉からは手分けして北九州の内陸部を測量しながら南下し、鹿児島に到着した鹿児島から山川（現[[指宿市]]）を経て海を渡り、3月27日に屋久島に着いた&amp;lt;ref name=&amp;quot;watanabe203&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
屋久島では二手に分かれ、忠敬は北半分を測量し、南半分は坂部が担当した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.209&amp;lt;/ref&amp;gt;。13日間かけて測量し、その後11日風待ちをして、4月26日に種子島に渡った&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.210&amp;lt;/ref&amp;gt;。5月9日まで測量し、風待ち後、5月23日に山川に戻った&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] pp.212-213&amp;lt;/ref&amp;gt;。その後九州内陸部を手分けして測量しながら北上し、小倉に戻った。小倉から九州北部の海岸線を通って[[福岡市|博多]]に出て、[[佐賀市|佐賀]]、[[久留米市|久留米]]を経由して、[[島原半島]]を一周し、[[大村湾]]を測り、[[佐世保市|佐世保]]で越年した&amp;lt;ref name=&amp;quot;watanabe203&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文化10年（[[1813年]]）、佐世保近くの[[相浦]]で新年を迎えた忠敬は、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Quote|七十に近き春にぞあひの浦九十九島をいきの松原}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と詠んだ&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.187&amp;lt;/ref&amp;gt;。そして[[九十九島 (西海国立公園)|九十九島]]と呼ばれる島々と複雑な海岸線を測りながら[[平戸市|平戸]]へ向かい、[[平戸島]]などの島を測量してから、3月13日に[[壱岐島]]に渡り、15日間かけて壱岐を測量した&amp;lt;ref name=&amp;quot;watanabe203&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
壱岐の次は[[対馬]]に渡る予定だったが、対馬の藩士中村郷左衛門は忠敬に対し、実測を取りやめてもらえないかと申し出た&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.184&amp;lt;/ref&amp;gt;。対馬にはすでに元禄13年（[[1700年]]）に作られた精密な地図『元禄対馬国絵図』があることだから、実測はやめにして、[[朝鮮通信使]]の礼でかりだされた農民たちを休ませたいという理由である&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.190&amp;lt;/ref&amp;gt;。実際、元禄対馬国絵図は精度がきわめて高い優れた地図で&amp;lt;ref&amp;gt;[[#後藤・全・長野(1996)|後藤・全・長野(1996)]] pp.375-380&amp;lt;/ref&amp;gt;、忠敬も高く評価した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.187,190&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし対馬の正確な位置を決めるには天体観測をおこなう必要があるため、測量作業は実施された&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.190-191&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
対馬は53日間かけて測量した。また、交会法を使って朝鮮半島の山々の位置も測った&amp;lt;ref&amp;gt;[[#星埜(2010)|星埜(2010)]] p.42&amp;lt;/ref&amp;gt;。忠敬は測量中、中村郷左衛門に対して、高橋家の息子（景保）も成長したし、間宮林蔵や副隊長の坂部貞兵衛もいることだから、私はこの御用を終えたら元の隠居に戻りたいと、自らの思いを話している&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.194&amp;lt;/ref&amp;gt;。5月21日に対馬の測量を終え、いったん平戸に戻ってから、5月23日に[[五島列島]]の[[宇久島]]に渡った&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] pp.203,220&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 坂部と景敬の死 ====&lt;br /&gt;
五島列島では、忠敬率いる忠敬隊と、副隊長の坂部貞兵衛率いる坂部隊に分かれ、北から南に向かって測っていった&amp;lt;ref name=&amp;quot;watanabe220&amp;quot;&amp;gt;[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.220&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし6月24日ごろから坂部の体調は思わしくなく、6月26日、[[日島|日ノ島]]にいた坂部は忠敬に宛てて、体調が良くないので[[福江島]]に渡って服薬したいと手紙をつづった&amp;lt;ref name=&amp;quot;watanabe220&amp;quot;/&amp;gt;。27日、坂部は福江で治療に専念したが、治療は実らず、7月15日に死亡した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.221&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
忠敬は16日に両隊を呼び寄せ、葬儀をおこなった。忠敬は坂部の死について、鳥が翼を取られたようだと述べ、長い間落胆を隠せなかった。1か月後、九州に戻った時、ようやく失敗した隊員を叱るようになったので良かった、といった内容の手紙を内弟子が書き残している&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.222&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、坂部の死に先立つ6月7日、佐原にいた忠敬の長男の伊能景保も死去していた。忠敬の娘妙薫は、忠敬に心配をかけまいとこの事を伏せ、8月12日に出した手紙にも、景敬は大病にかかっているとだけ書いた。これを読んだ忠敬は、景敬が良くなればよいが難しいだろうとして、その上で、景敬が大病でも、孫の三治郎と銕之助がいるから安心だと妙薫に送り返した。忠敬はこの時すでに景敬の死を察知していたと推定されている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.178-179&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 帰路 ====&lt;br /&gt;
九州本土に戻った忠敬一行は、8月15日に[[長崎市|長崎]]に着き、[[長崎半島]]を一周してから小倉へ行き、本州に渡った&amp;lt;ref name=&amp;quot;watanabe205&amp;quot;/&amp;gt;。そして中国地方の内陸部を測量しながら東に向かい、広島、松江、鳥取、津山、岡山を経由して、[[姫路市|姫路]]で越年した&amp;lt;ref name=&amp;quot;watanabe205&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌文化11年（[[1814年]]）、引き続き内陸部を測量しながら進み、京都を経由し、3月20日[[四日市市|四日市]]に着いた。ここから北上し、[[岐阜市|岐阜]]、[[大垣市|大垣]]、[[高山市|髙山]]を通過し、[[古川町|古川]]から反転して[[野麦峠]]を越えた。さらに[[松本市|松本]]に出て[[善光寺]]に参詣し、反転して[[飯田市|飯田]]まで南下したところで再び北上し、[[中山道]]を江戸に向かった。5月22日、[[板橋宿]]に到着した&amp;lt;ref name=&amp;quot;watanabe205&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第九次測量（伊豆諸島） ===&lt;br /&gt;
忠敬がこれまで住んでいた深川黒江町の家は、地図の作成作業には手狭となっていた。そこで忠敬は文化11年（1814年）5月、かつて桑原隆朝が住んでいた[[八丁堀 (東京都中央区)|八丁堀]]亀島町の屋敷を改修し、6月からここに住むことにした&amp;lt;ref name=&amp;quot;konno185&amp;quot;&amp;gt;[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.185&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文化12年（[[1815年]]）4月27日、測量隊は伊豆七島などを測量するため、江戸を出発した。ただし、下役や弟子の勧めもあって、高齢の忠敬は測量には参加しなかった&amp;lt;ref name=&amp;quot;watanabe238&amp;quot;&amp;gt;[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.238&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永井甚左衛門を隊長とした一行は、[[下田市|下田]]から[[三宅島]]、[[八丈島]]の順に渡り測量した。しかし八丈島から三宅島に戻ろうとしたときに黒潮に流されてしまい、[[三浦半島]]の三崎（現[[三浦市]]）に流れ着いた。三崎から[[御蔵島]]へ行き、三宅島を経由して[[神津島]]、[[新島]]、[[利島]]と測量を続け、いったん新島に戻った。ここから[[伊豆大島|大島]]に向かう予定であったが、下田近くの須崎に流れ着いた。そこから大島へ行き、測量後に下田に戻り、周辺を測量しながら帰路につき、文化13年（[[1816年]]）4月12日に江戸に着いた&amp;lt;ref name=&amp;quot;watanabe238&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第十次測量（江戸府内） ===&lt;br /&gt;
第九次測量と並行して、江戸府内を測る第十次測量をおこなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これまでの測量では、たとえば東海道では高輪大木戸を、甲州街道では[[四谷大木戸]]を起点としていた。今回の測量は、各街道から日本橋までの間を測量して、起点を1つにまとめることが目的である&amp;lt;ref name=&amp;quot;konno185&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;watanabe238&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
測量は71歳になった忠敬も参加し、文化12年（1815年）2月3日から2月19日までおこなわれた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] pp.238,248&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
測量を終えたところで、忠敬は、昔に測った東日本の測量は西日本の測量と比べて見劣りがすると感じた。そこで景保と相談し、もう1度詳しく測りなおす計画を立てた。しかし幕府はこれを採用せず、代わりに江戸府内の地図を作るよう命じた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.186&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この測量は文化13年（1816年）8月8日から10月23日までおこなわれた&amp;lt;ref name=&amp;quot;watanabe238&amp;quot;/&amp;gt;。忠敬もときどき指揮をとったが、おそらく作業の大部分は下役と弟子たちがおこなっていたと推定されている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.250&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 地図作成作業と死 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:伊能忠敬墓-nd727516.jpg|thumb|200px|上野源空寺にある伊能忠敬墓。左側に高橋至時・景保の墓が並んでいる]]&lt;br /&gt;
測量作業を終えた忠敬らは、八丁堀の屋敷で最終的な地図の作成作業にとりかかった。文化14年（[[1817年]]）には、間宮林蔵が、忠敬が測量していなかった蝦夷地の測量データを持って現れた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.251&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.184&amp;lt;/ref&amp;gt;。また同年、忠敬は破門していた平山郡蔵を許し、作業に参加させた&amp;lt;ref name=&amp;quot;kojima189&amp;quot;&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.189&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
地図の作成作業は、当初は文化14年の終わりには終わらせる予定だったが、この計画は大幅に遅れた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.252&amp;lt;/ref&amp;gt;。これは、忠敬が地図投影法の理論を詳しく知らなかったため、各地域の地図を1枚に合わせるときにうまくつながらず、その修正に手間取ったためと考えられている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] pp.252-253&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.188&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
忠敬は新しい投影法について研究し、資料を作りはじめた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] pp.253-254&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし文化14年秋ごろから喘息がひどくなり、病床につくようになった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.189&amp;lt;/ref&amp;gt;。それでも文化14年いっぱいは、地図作成作業を監督したり、門弟の質問に返事を書いたりしていたが、文政元年（[[1818年]]）になると急に体が衰えるようになった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#今野(2002)|今野(2002)]] pp.190-191&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.254&amp;lt;/ref&amp;gt;。そして4月13日、弟子たちに見守られながら満73歳で生涯を終えた&amp;lt;ref name=&amp;quot;kojima189&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 死後 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Tomb of Ino Tadataka at Sawara.jpg|thumb|180px|千葉県香取市の観福寺にある伊能忠敬の墓]]&lt;br /&gt;
地図はまだ完成していなかったため、忠敬の死は隠され、高橋景保を中心に地図の作成作業は進められた&amp;lt;ref name=&amp;quot;konno191&amp;quot;&amp;gt;[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.191&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文政4年（[[1821年]]）、『[[大日本沿海輿地全図]]』と名付けられた地図はようやく完成した。7月10日、景保と、忠敬の孫忠誨（ただのり、幼名三治郎）らは登城し、地図を広げて上程した&amp;lt;ref name=&amp;quot;konno191&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.255&amp;lt;/ref&amp;gt;。そして9月4日、忠敬の喪が発せられた&amp;lt;ref name=&amp;quot;konno191&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
忠敬の子の秀蔵は文化12年、素行が良くなく忠敬に勘当されていた。忠敬の死後は佐原で神保姓を名乗り、手習い師匠となった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] p.279&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
孫の忠誨、銕之助のうち、銕之助は忠敬の死の翌年に亡くなった。忠誨は、忠敬の喪が発せられた年、15歳で五人扶持と85坪の江戸屋敷が与えられ、帯刀を許された&amp;lt;ref&amp;gt;[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.182&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#今野(2002)|今野(2002)]] pp.191-192&amp;lt;/ref&amp;gt;。忠誨は佐原と江戸を行き来しながら、景保らの指導も受け、さらに佐原の伊能家の跡継ぎとしても期待されていたが、文政10年（[[1827年]]）、21歳で病死した&amp;lt;ref name=&amp;quot;konno192&amp;quot;&amp;gt;[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.192&amp;lt;/ref&amp;gt;。忠誨の死により、忠敬直系の血筋は途絶えた&amp;lt;ref name=&amp;quot;konno192&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] pp.187-188&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref group=&amp;quot;注釈&amp;quot;&amp;gt;忠敬の分家としては、子孫に[[金沢工業大学]]土木工学科客員教授の伊能忠敏らがいる([[#伊能(1991)|伊能(1991)]])&amp;lt;/ref&amp;gt;。また測量隊の中には、忠敬が測量し得なかった[[霞ヶ浦]]などを測量しようという意見もあったが、忠誨の死によりその案も立ち消えとなった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.190-191&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
忠敬は死の直前、私がここまでくることができたのは高橋至時先生のおかげであるから、死んだ後は先生のそばで眠りたいと語った。そのため墓地は高橋至時・景保父子と同じく上野[[源空寺]]にある&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.291-292&amp;lt;/ref&amp;gt;。また佐原の[[観福寺 (香取市牧野)|観福寺]]にも遺髪をおさめた[[参り墓]]がある&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] 口絵&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
佐原の名家の1つである伊能三郎右衛門家は忠誨の没後も一族の管理下に置かれて存続するものの、当主不在が続く中で家業の不振は深刻化していき、天保年間には酒造業は廃業に追い込まれている。こうした中で同族の伊能茂左衛門家および三郎右衛門家の分家的扱いであった清宮家&amp;lt;ref group=&amp;quot;注釈&amp;quot;&amp;gt;清宮家は伊能家とは直接の血縁はないものの、清宮家の初代当主は伊能三郎右衛門家2代目である景常の後妻の連れ子であり、継父の支援で清宮家を興したと伝えられ、両家はそれ以来の深い関係を有していた([[#千葉県(2008)|千葉県(2008)]] p.346-347)。&amp;lt;/ref&amp;gt;が佐原における三郎右衛門家の地位を継承することになる。茂左衛門家・清宮家を中心とした伊能家一族の協議の末、三郎右衛門家に養子を迎えて再興させる話が実現するのは、忠誨の死から34年経過した[[文久]]元年（[[1861年]]）のことである&amp;lt;ref name=&amp;quot;chibaken344&amp;quot;&amp;gt;[[#千葉県(2008)|千葉県(2008)]] p.944-946&amp;lt;/ref&amp;gt;。なお、伊能茂右衛門家は[[楫取魚彦]]&amp;lt;ref name=&amp;quot;chibaken868&amp;quot;&amp;gt;[[#千葉県(2008)|千葉県(2008)]] p.868&amp;lt;/ref&amp;gt;を、清宮家は[[清宮秀堅]]&amp;lt;ref name=&amp;quot;chibaken346&amp;quot;&amp;gt;[[#千葉県(2008)|千葉県(2008)]] p.346-349&amp;lt;/ref&amp;gt;を輩出したことで知られ、特に清宮秀堅は文久の伊能三郎右衛門家再興時に清宮家当主として大きな役割を果たしている&amp;lt;ref name=&amp;quot;chibaken346&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 年表 ==&lt;br /&gt;
{| class=wikitable width=&amp;quot;100%&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!style=&amp;quot;width:5em;&amp;quot;|[[和暦]]&lt;br /&gt;
!style=&amp;quot;width:4em;&amp;quot;|[[西暦]]&lt;br /&gt;
!style=&amp;quot;width:5em;&amp;quot;|月日&amp;lt;br /&amp;gt;（[[旧暦]]）&lt;br /&gt;
!nowrap|年齢&lt;br /&gt;
!内容&amp;lt;!--内容は簡潔に記してください--&amp;gt;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[延享]]2年&lt;br /&gt;
|[[1745年]]&lt;br /&gt;
|1月11日&lt;br /&gt;
|0&lt;br /&gt;
|上総国山辺郡小関村の名主・五郎左衛門家で生まれる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[宝暦]]元年&lt;br /&gt;
|[[1751年]]&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|6&lt;br /&gt;
|母が亡くなり、[[婿養子]]だった父は実家の武射郡小堤村の神保家に戻る。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|宝暦5年&lt;br /&gt;
|[[1755年]]&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|10&lt;br /&gt;
|実家の神保家に戻っていた父の元に引き取られる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|宝暦12年&lt;br /&gt;
|[[1762年]]&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|18&lt;br /&gt;
|下総国香取郡佐原村の[[酒屋|酒造業]]を営む伊能家に婿養子に入る。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|天明元年&lt;br /&gt;
|[[1781年]]&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|36&lt;br /&gt;
|佐原村本宿組[[庄屋|名主]]となる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|天明3年&lt;br /&gt;
|[[1783年]]&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|38&lt;br /&gt;
|天明の大飢饉では、私財をなげうって地域の窮民を救済する。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[寛政]]6年&lt;br /&gt;
|[[1794年]]&lt;br /&gt;
|12月&lt;br /&gt;
|50&lt;br /&gt;
|[[隠居]]し、[[家督]]を長男景敬に譲る。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|寛政7年&lt;br /&gt;
|[[1795年]]&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|51&lt;br /&gt;
|江戸に出て幕府[[天文方]][[高橋至時]]に暦学天文を学ぶ。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|寛政12年&lt;br /&gt;
|[[1800年]]&lt;br /&gt;
|閏4月19日&lt;br /&gt;
|56&lt;br /&gt;
|第1次測量　[[奥州街道]]‐[[蝦夷地]]太平洋岸‐奥州街道　180日間&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[享和]]元年&lt;br /&gt;
|[[1801年]]&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|57&lt;br /&gt;
|第2次測量　[[三浦半島]]‐[[伊豆半島]]‐[[房総半島]]‐[[東北]][[太平洋]]沿岸‐[[津軽半島]]‐奥州街道　230日間&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|享和2年&lt;br /&gt;
|[[1802年]]&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|58&lt;br /&gt;
|第3次測量　奥州街道‐山形‐秋田‐津軽半島‐東北[[日本海]]沿岸‐直江津‐長野‐[[中山道]]　132日間　&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|享和3年&lt;br /&gt;
|[[1803年]]&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|59&lt;br /&gt;
|第4次測量　[[東海道]]‐沼津‐太平洋沿岸‐名古屋‐敦賀‐[[北陸]]沿岸‐[[佐渡島|佐渡]]‐長岡‐中山道　219日間&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[文化 (元号)|文化]]2年&lt;br /&gt;
|[[1805年]]&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|61&lt;br /&gt;
|第5次測量　幕府直轄事業となる。東海道‐[[紀伊半島]]‐大阪‐[[琵琶湖]]‐[[瀬戸内海]]沿岸‐下関‐[[山陰]]沿岸‐[[隠岐諸島|隠岐]]‐敦賀‐琵琶湖‐東海道　&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|文化5年&lt;br /&gt;
|[[1808年]]&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|64&lt;br /&gt;
|第6次測量　東海道‐大阪‐鳴門‐高知‐松山‐高松‐[[淡路島]]‐大阪‐[[吉野]]‐[[伊勢神宮|伊勢]]‐東海道&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|文化6年&lt;br /&gt;
|[[1809年]]&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|65&lt;br /&gt;
|第7次測量　中山道‐岐阜‐大津‐[[山陽道]]‐小倉‐[[九州]]東海岸‐鹿児島‐[[天草諸島|天草]]‐熊本‐大分‐小倉‐萩‐[[中国地方|中国]]内陸部‐名古屋‐[[甲州街道]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|文化8年&lt;br /&gt;
|[[1811年]]&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|67&lt;br /&gt;
|第8次測量　甲府‐小倉‐鹿児島‐[[屋久島]]‐[[種子島]]‐九州内陸部‐長崎‐[[壱岐島|壱岐]]‐[[対馬]]‐[[五島列島|五島]]‐中国内陸部‐京都‐高山‐飯山‐川越　913日間&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|文化12年&lt;br /&gt;
|[[1815年]]&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|71&lt;br /&gt;
|第9次測量　忠敬は参加せず。東海道‐三島‐下田‐[[八丈島]]‐[[御蔵島]]‐[[三宅島]]‐[[神津島]]‐[[新島]]‐[[利島]]‐[[伊豆大島|大島]]‐伊豆半島東岸‐八王子‐熊谷‐江戸&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|文化13年&lt;br /&gt;
|[[1816年]]&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|72&lt;br /&gt;
|第10次測量　江戸府内　&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|文化15年&lt;br /&gt;
|[[1818年]]&lt;br /&gt;
|4月13日&lt;br /&gt;
|74&lt;br /&gt;
|死去、喪を秘して地図製作を続行。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[文政]]4年&lt;br /&gt;
|[[1821年]]&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|没後&lt;br /&gt;
|『大日本沿海輿地全図』完成、三ヶ月後喪を公表。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|明治16年&lt;br /&gt;
|1883年&lt;br /&gt;
|2月27日&amp;lt;br&amp;gt;（新暦）&lt;br /&gt;
|没後&lt;br /&gt;
|贈[[正四位]]。&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 大日本沿海輿地全図 ==&lt;br /&gt;
[[File:Ino Tadataka map (daizu,, Atsumi-hanto).jpg|thumb|250px|大図　渥美半島付近（千葉県香取市　伊能忠敬記念館所蔵）]]&lt;br /&gt;
{{Main|大日本沿海輿地全図}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 種類・特徴 ===&lt;br /&gt;
忠敬とその弟子たちによって作られた大日本沿海輿地全図は伊能図とも呼ばれている。縮尺36,000分の1の大図、216,000分の1の中図、432,000分の1の小図があり、大図は214枚、中図は8枚、小図は3枚で測量範囲をカバーしている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.8&amp;lt;/ref&amp;gt;。この他に特別大図や特別小図、特別地域図などといった特殊な地図も存在する&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.260&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
伊能図は日本で初めての実測による日本地図である&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(2009)|小島(2009)]] p.152&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし測量は主に海岸線と主要な街道に限られていたため、内陸部の記述は乏しい。測量していない箇所は空白となっているが、蝦夷地については間宮林蔵の測量結果を取り入れている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.264-265&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
地図には沿道の風景や山などが描かれ、絵画的に美しい地図になっている点も特徴の1つである&amp;lt;ref&amp;gt;[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.14&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 精度 ===&lt;br /&gt;
忠敬は地図を作る際、地球を球形と考え、緯度1度の距離は28.2里とした&amp;lt;ref&amp;gt;[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.26&amp;lt;/ref&amp;gt;。そしてこの前提のもと、測量結果から地図を描き、その後、経度の線を計算によって書き入れた。伊能図の経緯線は[[サンソン図法]]と同じである&amp;lt;ref&amp;gt;[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] pp.22-23&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
忠敬が求めた緯度1度の距離は、現在の値と比較して誤差がおよそ1,000分の1と、当時としてはきわめて正確であった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.10&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、各地の緯度も天体観測により多数測定できた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#今野(2002)|今野(2002)]] p.215&amp;lt;/ref&amp;gt;。そのため緯度に関してはわずかな誤差しか見られない&amp;lt;ref&amp;gt;[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.21&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方で経度については、天体観測による測定が十分にできなかったこと、地図の投影法の研究が足りず各地域の地図を1枚にまとめるときに接合部が正しくつながらなかったこと&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] pp.252-253&amp;lt;/ref&amp;gt;、後から書き加えた経線が地図と合っていなかったこと&amp;lt;ref&amp;gt;[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.29&amp;lt;/ref&amp;gt;などの理由で、特に北海道と九州において大きな誤差が生じている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.25&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その後の伊能図 ===&lt;br /&gt;
忠敬死後、地図は幕府の[[紅葉山文庫]]に納められた。その後の文政11年（[[1828年]]）、[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|シーボルト]]がこの日本地図を国外に持ち出そうとしたことが発覚し、これに関係した日本の[[蘭学]]者（高橋景保ら）などが処罰される事件が起こった（[[シーボルト事件]]）。シーボルトは内陸部の記述を[[正保日本図]]などで補っているため、実際の地形と異なる地形が描かれている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#織田(1974)|織田(1974)]] pp.158-159&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸時代を通じて伊能図の正本は国家機密として秘匿されたが、シーボルトが国外に持ち出した写本を基にした日本地図が[[開国]]とともに日本に逆輸入されてしまったために秘匿の意味が無くなってしまった。[[慶応]]年間に[[勝海舟]]が海防のために作成した地図は逆輸入された伊能図をモデルとしている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#織田(1974)|織田(1974)]] p.112&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
伊能図は明治時代に入って、「輯製二十万分一図」を作成する際などに活用された。この地図は、後に三角測量を使った地図に置き換えられるまで使われた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺(1997)|渡辺(1997)]] pp.274-275&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
伊能図の大図については、幕府に献上された正本は明治初期、[[1873年]]の皇居炎上で失われ、伊能家で保管されていた写しも[[関東大震災]]で焼失したとされる。しかし[[2001年]]、[[アメリカ議会図書館]]で写本207枚が発見された。その後も各地で発見が相次ぎ、現在では地図の全容がつかめるようになっている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.275-289&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[2006年]]12月には、大図全214枚を収録した「伊能大図総覧」が刊行された&amp;lt;ref&amp;gt;[[#星埜(2010)|星埜(2010)]] p.78&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 測量方法 ==&lt;br /&gt;
忠敬が測量で主に使用していた方法は、導線法と交会法である。これは当時の日本で一般的に使われていた方法であり&amp;lt;ref&amp;gt;[[#星埜(2010)|星埜(2010)]] pp.40,60-61&amp;lt;/ref&amp;gt;、実際に測量作業を見学した徳島藩の測量家も、伊能測量は特別なことはしていないと報告している&amp;lt;ref name=&amp;quot;w136&amp;quot;&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.136&amp;lt;/ref&amp;gt;。当時の西洋で主流だった[[三角測量]]は使用していない&amp;lt;ref name=&amp;quot;w136&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
忠敬による測量の特徴的な点は、誤差を減らす工夫を随所に設けたことと、天体観測を重視したことにある&amp;lt;ref name=&amp;quot;hoshino44&amp;quot;&amp;gt;[[#星埜(2010)|星埜(2010)]] p.44&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;w137-138&amp;quot;&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.137-138&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 導線法・交会法 ===&lt;br /&gt;
導線法とは、2点の距離と方角を連続して求める方法である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
測量を始める点に器具を置き、少し離れたところに梵天（竹の棒の先に細長い紙をはたきのように吊るしたもの）を持った人を立たせる。そして、測量開始地点から梵天の位置までの距離と角度を測る。測り終えたら、器具を梵天の位置まで移動し、別の場所に梵天持ちを立たせ、同じように距離と角度を測る。これを繰り返すことで測量を進めてゆく&amp;lt;ref name=&amp;quot;hoshino44&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.136-137&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
導線法を長い距離にわたって続けると、だんだん誤差が大きくなってくる。その誤差を修正するために交会法が使われる&amp;lt;ref name=&amp;quot;hoshino44&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#中村(2008)|中村(2008)]] p.142&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
交会法とは、山の頂上や家の屋根など、共通の目標物を決めておいて、測量地点からその目標物までの方角を測る方法である。導線法で求めた位置が正しければ、それぞれの測量地点と目標物を結ぶ直線は一点で交わるので、この方法で導線法による誤差を確かめることができる&amp;lt;ref name=&amp;quot;hoshino44&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.142-143&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに忠敬はこれに加えて、富士山などの遠くの山の方位を測って測量結果を確かめる遠山仮目的（えんざんかりめあて）の法などを活用している&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.137&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 天体観測 ===&lt;br /&gt;
測量にあたって天体観測を活用することで、観測地の緯度や経度を求めることができるため、地図の精度が向上する。このことは忠敬が測量を始めるおよそ80年前に[[建部賢弘]]が指摘していた。しかしそれを実行に移したのは忠敬が初めてである&amp;lt;ref name=&amp;quot;w137-138&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;otani255&amp;quot;&amp;gt;[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.255&amp;lt;/ref&amp;gt;。忠敬は測量中、晴れていれば必ず天体観測をおこなうようにしており、宿泊場所も観測器具が置けるだけの敷地があるところを指定していた。全測量日数3754日のうち、1404日は天体観測をおこなっている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.152&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主な観測内容は、[[恒星]]の南中高度、太陽の南中、日食、月食、木星の衛星食などである。また、文化2年（1805年）に家島で彗星を見たという記録が残っている（[[ビエラ彗星]]と推定される）&amp;lt;ref&amp;gt;[[#荻原(2007)|荻原(2007)]] pp.612-614&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 恒星の南中観測 ====&lt;br /&gt;
恒星が南中したときの地平からの角度を測る。この角度と、あらかじめ江戸で測定しておいた角度を比較することで観測地点の緯度が求められる&amp;lt;ref name=&amp;quot;otani255&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;w153&amp;quot;&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.153&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし、動いている星が南中した瞬間を正確にとらえるのは難しい。そのため忠敬らは、多い時には1日で20個から30個の星の南中を観測し、誤差の軽減に努めた&amp;lt;ref name=&amp;quot;w157&amp;quot;&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.157&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、日中に太陽の南中を観測することもあった。これは緯度を求める目的のほか、南中した時刻を確かめて、日食・月食の観測で使う器具を調整するという目的もあった&amp;lt;ref name=&amp;quot;w153&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
基準となる江戸での観測は、忠敬の自宅がある深川黒江町でおこなった。この観測にも注意を払い、1つの星に対して数日から数十日かけて観測を続け、観測誤差が少なくなるようにした&amp;lt;ref&amp;gt;[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.347&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 日食・月食の観測 ====&lt;br /&gt;
日食・月食の観測は、観測地点の経度を求める目的でおこなわれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
経度を求めるのは緯度を求めるのと比べて格段に難しい。西洋では18世紀の終わりごろに、[[クロノメーター]]や[[月距法]]を利用した経度測定方法がようやく確立してきていた。しかし当時の日本にはそれらはまだ伝わっていなかったため、忠敬は主に伝統的な日食・月食を使って経度を測定していた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.161&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
方法としては、まず日食・月食が起きる前日までに太陽の南中を観測し、垂揺球儀（後述）を起動させる。そして当日、日食や月食を観測し、時間を記録する。このとき、江戸の暦局と大坂の間家（[[間重富]]の家）でも観測をおこなっているから、日食・月食が起きた時刻を3か所で比較することで、経度の差が求められる&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.159&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とはいえ日食や月食を観測できる機会は少ない。忠敬らは少ない機会を逃さぬようにするため、食が起こる7日ぐらい前に現地に到着し準備していた。しかしそれでも当日が雨や曇りの場合は観測できないし、たとえ晴れていて観測できたとしても、江戸と大坂が曇っていたのなら意味が無くなってしまう。忠敬は測量中、日食や月食を観測できる機会が13回あったが、そのうち2か所以上で観測できたのは5回、3か所すべてで観測できたのはわずか2回だった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.160&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 木星の衛星食の観測 ====&lt;br /&gt;
経度の測定法として、他に[[木星]]の衛星食を利用する方法も試された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
木星の周りを回っている衛星が、木星の後ろに隠れたり、また現れたりする時刻を観測する。日食・月食のときと同じように、同時に2か所以上で観測し、その差から経度差を求める。木星の衛星食は日食や月食と比べて頻繁に起こるので、観測には適している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この方法で経度が求められることは、日本では高橋至時がすでに知っていた。しかし至時は、実際にいつ食が起きるかについてはその時は予想できずにいた。しかしその後至時は、この方法が詳しく載っている西洋書『[[ラランデ暦書]]』を入手することができた。そして同書を元に研究に取り組み&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.161-162&amp;lt;/ref&amp;gt;、この研究は至時の死後、間重富らによって引き継がれた。そうして忠敬の第五次測量の直前にようやく実用化できるようになった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.162-163&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実際の観測は、第五次測量中の文化2年（[[1805年]]）4月22日、伊勢の山田（現[[伊勢市]]）ではじめておこなわれた。その後も測量日記によると合計11回観測している&amp;lt;ref name=&amp;quot;w163&amp;quot;&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.163&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし測量にあたっては、前もって計算していた衛星食の時刻予想が正確ではなかったこともあり、苦労を要した&amp;lt;ref name=&amp;quot;otani350&amp;quot;&amp;gt;[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.350&amp;lt;/ref&amp;gt;。結果的に観測回数は少なく、経度の測定にはほとんど役に立たなかったと考えられている&amp;lt;ref name=&amp;quot;w163&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;otani350&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主な測量器具 ==&lt;br /&gt;
=== 距離測定 ===&lt;br /&gt;
[[File:Ino Tadataka&#039;s step.JPG|thumb|200px|right|[[佐原駅]]前の床には、かつて伊能忠敬の実物大の歩幅（約70cm）が表示されていた。(2008年撮影)]]&lt;br /&gt;
==== 歩測 ====&lt;br /&gt;
歩いた歩数を元に距離を計算する方法である。おもに第一次測量のときに採用した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
忠敬の歩幅について、[[井上ひさし]]は小説『四千万歩の男』を執筆する際に、「二歩で一間」（一歩約90センチメートル）と仮定した。測量中に忠敬の歩いた距離はおよそ35,000キロメートルなので、換算するとおよそ四千万歩となる&amp;lt;ref&amp;gt;[[#井上(2000)|井上(2000)]] pp.8,59&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしその後、実際の歩幅はそれよりも小さいことが明らかになった。昭和63年（[[1988年]]）、伊能忠敬記念館に勤めていた佐久間達夫は、来館者に忠敬の歩幅について尋ねられたのをきっかけに、歩幅の調査をおこなった。そして、忠敬が書いた『雑録』の中に、「1町に158歩」という記述を発見した。佐久間はこの記述と、忠敬が使っていた「折衷尺」（1尺30.303センチメートル）を元に、忠敬の歩幅を約69センチメートルと導き出している&amp;lt;ref&amp;gt;[[#斎藤(1998)|斎藤(1998)]] pp.532-534&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 間縄・鉄鎖 ====&lt;br /&gt;
第二次測量からは歩測の代わりに、間縄と呼ばれる縄や、鉄鎖を使って距離を求めるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二次測量では麻の縄を使って海岸線を測量した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] pp.286-287&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし縄は伸び縮みして正確な距離が測れなかったので、第三次測量からは新たに考案された鉄鎖が使われた。鉄鎖が使えないような場所では引き続き間縄が使われたが、藤づるを編んだ藤縄や、鯨のひれを裂いて編んだ鯨縄を使うといった工夫を加えた&amp;lt;ref name=&amp;quot;w138&amp;quot;&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.138&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鉄鎖は、両端を輪のように加工した長さ一尺の鉄線を60本つないだ鎖で、伸ばすと長さは十間となる。間縄は古くから使われていた方法だが、高橋至時によると、鉄鎖は忠敬が初めて考案したものである（ただし異説もある）&amp;lt;ref name=&amp;quot;w138&amp;quot;/&amp;gt;。鉄鎖も使ってゆくうちに摩耗してゆくので、間棹で毎日長さを確認していた。間棹とは長さ二間の木の棹で、両端に真鍮帽をかぶせている&amp;lt;ref name=&amp;quot;w138&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 量程車 ====&lt;br /&gt;
[[ファイル:Ryoutei-sya.jpg|thumb|200px|right|伊能忠敬の量程車（複製）。[[国立科学博物館]]の展示。]]&lt;br /&gt;
量程車とは車輪と歯車のついた箱状の測量器具である。地面に置いて車輪を転がしながら進むことによって、車輪に連動した歯車が回り、移動した距離が表示されるようになっている。中国では古くから存在し、日本にもすでに伝わっていた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.291&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
忠敬は第二次測量の途中で高橋至時から量程車を受け取り、これを使って測量してみたが、海岸線などの砂地や、凹凸のある道では、距離が正確に測れなかった。したがって、以後は名古屋、金沢の城下など、限られた地域のみで使われ、西日本の測量においては全く使用されなかった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.293&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.146&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 方位測定 ===&lt;br /&gt;
方位の測定は大中小3種類の方位盤および半円方位盤にておこなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 小方位盤 ====&lt;br /&gt;
小方位盤は杖の先に[[羅針盤]]をつけたものである。彎窠（わんか）羅針、杖先羅針とも呼ばれる&amp;lt;ref name=&amp;quot;w141&amp;quot;&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.141&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
羅針盤は杖を傾けても常に水平が保たれるようになっていて、精度としては10分（6分の1度）単位の角度まで読むことができた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.140-141&amp;lt;/ref&amp;gt;。平地では三脚に固定して使用し、傾斜地では杖を地面に突き立てて使用した&amp;lt;ref name=&amp;quot;w141&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小方位盤自体は当時よく使われていた器具だったが、忠敬は羅針の形や軸受けの材質を変えるなどの工夫を加えた。小方位盤は忠敬の測量器具の中で最も重要なものといわれており、西日本を測量する頃になると10個ぐらい持っていっている&amp;lt;ref name=&amp;quot;w141&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.302&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小方位盤は主に導線法と交会法において使われた。導線法で使う際には正・副2本の羅針盤を使って2点の両方から角度を測り、その平均を取るようにしていた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.141-142&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 大・中方位盤 ====&lt;br /&gt;
[[File:Houiban.png|thumb|200px|right|伊能忠敬が使用したとされる大・中方位盤。大谷亮吉著『伊能忠敬』(1919) p.322 より]]&lt;br /&gt;
大方位盤と中方位盤は実物が残っていないため、詳細は定かではないが、[[渋川景佑]]の書いた『量地伝習録』の中で解説がなされている。それによるとこの方位盤は、脚のついた円形の盤の中央に望遠鏡を設置したものである。円盤には方位を測るための磁石が取り付けられるようになっており、また円盤の周囲には、角度が分かるように目盛のついた真鍮の環が組み込まれている。さらに円盤の上には指標板というものが置かれていて、これは望遠鏡と連動して円盤状を回転できるようになっている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.149-150&amp;lt;/ref&amp;gt;。大方位盤と中方位盤は大きさが異なるだけで、外形や使用方法はほとんど変わらないといわれている。円盤の直径は大方位盤が2尺6寸、中方位盤が1尺2寸である&amp;lt;ref&amp;gt;[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] pp.322-323,326&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらの方位盤は、富士山など、遠くの目標物の方角を測るのに用いられた。円盤内の方位磁針の向きと、真鍮の環に刻まれた北を示す目盛りの向きを合わせてから、望遠鏡を目標物の向きに合わせる。すると、指標板が求める方角を指し示す&amp;lt;ref name=&amp;quot;w150&amp;quot;&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.150&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大方位盤は精密な測定ができるため、高橋至時はこれを使って正確に方位を求めるべきだと主張した。しかし忠敬は、正しい位置に設置するための器具が不十分なので精度向上は見込めないと反論した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.328&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、大方位盤は運搬に手間がかかるという問題もあった。そのため第一次測量では使用せず、第二次測量でも途中で江戸に送り返している。その後、第五次、第六次測量では使用されたが、第七次、第八次測量では持参していない&amp;lt;ref name=&amp;quot;w150&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中方位盤は大方位盤と比べて小型なため、第二次測量以降に持ち出され使われている。第五次測量以降の記録では中方位盤の名前は見られないが、忠敬は中方位盤のことを小方位盤と記すこともあるので、本当に使用されなかったかどうかは定かでない&amp;lt;ref&amp;gt;[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] pp.327-328&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 半円方位盤 ====&lt;br /&gt;
半円方位盤はその名の通り半円形の方位盤である。大・中方位盤と同じように、目盛り付きの真鍮板と方位磁針が付属している。また半円盤の上に視準器があり、これを半円盤上で回転させて目標物に合わせることで方角を求める&amp;lt;ref name=&amp;quot;w151&amp;quot;&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.151&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この方位盤は十分単位で角度目盛がついていて、目測では分単位の角度を求めることができたが、構造が単純で偏心による誤差が生じやすかった&amp;lt;ref name=&amp;quot;w151&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;otani321&amp;quot;&amp;gt;[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.321&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし小方位盤と比べると細かな方位が求めやすく、大・中方位盤と比べて持ち運びやすいという利点もあった。そのため遠くの山などを測る目的で、第四次測量以降ひんぱんに使うようになった&amp;lt;ref name=&amp;quot;otani321&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 傾斜・高度測定 ===&lt;br /&gt;
[[File:Quadrant(Sawara).JPG|thumb|210px|right|象限儀のレプリカ。佐原駅北口付近。]]&lt;br /&gt;
坂道の傾斜や星の高度は[[象限儀]]を使って求めた。象限儀の種類としては杖先小象限儀、大象限儀、中象限儀がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 杖先小象限儀 ====&lt;br /&gt;
2点間の距離を導線法により求めても、その2点間が坂道になっていると、地図に表すとき距離が異なってしまう。この補正は、はじめのうちは目測で傾斜角を測って補正していたが、第三次測量からは杖先小象限儀を使うようになった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.139&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この象限儀は長さ一尺二寸で、三脚に据えて、梵天を持っている人の目を目標にして測った。測った角度は割円八線対数表と呼ばれる三角関数の対数表を利用して距離に換算した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.139-140&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.330&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 大・中象限儀 ====&lt;br /&gt;
恒星の南中高度を測るための象限儀は、大（長さ六尺）、中（長さ三尺八寸）の2種類が使われた。構造はどちらも同じである&amp;lt;ref&amp;gt;[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.357&amp;lt;/ref&amp;gt;。大象限儀は江戸に常設しており、全国測量では中象限儀を持ち出した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.155&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.352&amp;lt;/ref&amp;gt;。この象限儀は、刻まれた目盛りによって一分単位の角度を読み取ることができ、目測を加えると十秒または五秒程度の単位まで測ることができた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.354&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
象限儀は地面に対して正確に垂直になるように設置しなければならない。そのため設置にあたっては本体以外に多数の木材が必要となり、全部合わせると、解体して運んでも馬一頭では積みきれないほどの大きさになった&amp;lt;ref name=&amp;quot;w157&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.357-358&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 時間測定 ===&lt;br /&gt;
日食・月食が起きた時刻は、垂揺球儀によって求めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
垂揺球儀は振り子の振動によって時間を求める器具である。仕組みとしては振り子時計と同じで、日本でも[[麻田剛立]]によってすでに使われていた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] pp.398-401&amp;lt;/ref&amp;gt;。忠敬が使っていた垂揺球儀は現存しており、歯車を組み合わせることで十万の桁まで振動数が表示されるようになっている。振り子は1日におよそ59,500回振動するので、最大で約17日連続稼働できる&amp;lt;ref&amp;gt;[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] p.409&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日食・月食の前日までに、観測地においてあらかじめ垂揺球儀を駆動させて1日の振動数を求めておく。そしてその数値と、南中から日食・月食開始までの振動数を元にして、日食・月食が起こった時刻を求めることができる&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.159-161&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物 ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:Statue of Ino Tadataka, Tokyo 01.jpg|thumb|200px|伊能忠敬の銅像（[[富岡八幡宮]]）]]&lt;br /&gt;
=== 性格 ===&lt;br /&gt;
厳格な性格だった。測量期間中は隊員に禁酒を命じ、規律を重んじていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;hoshino20&amp;quot;&amp;gt;[[#星埜(2010)|星埜(2010)]] p.20&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、能力の低い隊員に対しては評価が厳しく、測量中に娘の妙薫にあてた手紙にも、隊員についての愚痴がいくつもつづられている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.238&amp;lt;/ref&amp;gt;。身内でも特別扱いせず、息子の秀蔵も1人の内弟子として扱い、そして最終的には破門している&amp;lt;ref name=&amp;quot;hoshino20&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.245-246&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、根気強く、几帳面であった。測量中に合わせて51冊の日記（『伊能忠敬先生日記』）を残し、後にそれを清書して28巻の『測量日記』としてまとめた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.229&amp;lt;/ref&amp;gt;。測量作業においても、技術の革新はなかったが、根気強い観測と様々な工夫でそれを補った&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.227&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
商売人であったことから金銭には厳しく、家人にあてた手紙にも、「野菜や薪など買わなくてすむものに金を使うな」「ためることが第一」などと書かれている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(2009)|小島(2009)]] p.120&amp;lt;/ref&amp;gt;。また飯炊きが毎日米を少しずつくすねていたのを忠敬が気付き、咎めたとの記録もある。晩年、自身が病気になって江戸の自宅で玉子酒を飲んで治療をしている時も、卵は江戸より佐原の方が安いから佐原で多めに買って江戸まで送るように指示を出している&amp;lt;ref&amp;gt;[[#杉浦(2003)|杉浦(2003)]] pp.4813-4814&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方で天明の飢饉の時には貧民に米などを分け与えたりしており、また九州測量中にも、利根川の洪水で被害を受けた人々にほどこしを与えるよう指示している。ただしこの時、食べていける者にも分け与えることは名聞を求めるのにあたるから慎むべきだとしている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] pp.246-248&amp;lt;/ref&amp;gt;。これらのことから、忠敬は意味のあることについては大金を投じることも惜しまないが、そうでないことには出さないという、合理的な考えの持ち主だったことがうかがえる&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.123-124&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#佐久間達夫編著(1998)|佐久間達夫編著(1998)]] pp.268-269&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 趣向 ===&lt;br /&gt;
全国測量の旅に出かける際は、安全祈願のために[[富岡八幡宮]]に必ず参拝に来ていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;hoshino20&amp;quot;/&amp;gt;。2001年、境内に銅像が建てられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
測量中も、近くの寺社や名所旧跡を多く訪れていて、その門前までの測量記録を残している&amp;lt;ref name=&amp;quot;hoshino20&amp;quot;/&amp;gt;。また、詩歌にも関心が強かった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.228&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
食べ物に関しては、測量中に徳山毛利藩が調べたところによると、かぶら、大根、人参、せり、鳥、卵、長いも、蓮根、くわい、豆腐、菜、菜類、椎茸、鰹節といったものを好んだという&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺編(2003)|渡辺編(2003)]] p.257&amp;lt;/ref&amp;gt;。本人が妙薫などにあてて書いた手紙では、「しそ巻唐辛子を毎日食べていて、残りが少なくなったからあれば送ってほしい」「蕎麦を1日か2日置きに食べている」などの記述があり、さらに豆類も好物とされている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#千葉県史編纂審議会編(1973)|千葉県史編纂審議会編(1973)]] pp.40,117,123,288&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、「歯が時々痛み奈良漬も食べられない」と書かれた手紙も残っている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.186&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#千葉県史編纂審議会編(1973)|千葉県史編纂審議会編(1973)]] p.176&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 身体 ===&lt;br /&gt;
忠敬の体格は、着物の丈が135cmであることから、身長は160cm前後、体重は55kg程度と推定されている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#佐久間達夫編著(1998)|佐久間達夫編著(1998)]] p.267&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
若い頃から体は弱い方で、病気で寝込むこともしばしばあった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#大谷(1917)|大谷(1917)]] pp.237-238&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#杉浦(2003)|杉浦(2003)]] pp.4808&amp;lt;/ref&amp;gt;。加えて四国測量のころからは「痰咳の病」にかかるようになっていった&amp;lt;ref name=&amp;quot;sugiura4809&amp;quot;&amp;gt;[[#杉浦(2003)|杉浦(2003)]] p.4809&amp;lt;/ref&amp;gt;。これは現代でいう慢性気管支炎のことであり、冬になるたびに痰に悩まされていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;sugiura4809&amp;quot;/&amp;gt;。死因も、慢性気管支炎が悪化して起こる急性肺炎（老人性肺炎）とみられている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#杉浦(2003)|杉浦(2003)]] pp.4817&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 幕府との関係 ===&lt;br /&gt;
忠敬と幕府との関係についてはいろいろな説がある。幕府との関係の証拠は、①完成したら国家機密となる&amp;lt;ref&amp;gt;「[[シーボルト事件]]」において、[[紅葉山文庫]]にある[[伊能図]]を写させたことが原因で、何人か罪に問われ死亡している。&amp;lt;/ref&amp;gt;沿海部を測量した②「[[オランダ風説書]]」（文化5年(1808年）10月）の正確な抜粋の残していること③[[ゴローニン]]の尋問の様子を記した手紙④北方警備のための出兵の正確な人数を書いた手紙、&lt;br /&gt;
などいろいろあり、単なる引退した商人の測量技師ではなかったことを示している&amp;lt;ref&amp;gt;「伊能忠敬は国際情報通だった　機密文書が語る顔」日本経済新聞2006年2月20日夕刊24面『夕刊文化』　&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 評価の移り変わり ==&lt;br /&gt;
=== 江戸時代 ===&lt;br /&gt;
忠敬についてのもっとも古い伝記は、江戸時代に書かれた『旌門金鏡類録（せいもんきんきょうるいろく）』の中にある。この書は、伊能家がいかに名家であるかを伝えるために編集されたものであるが、作者や作成時期については分かっていない&amp;lt;ref group=&amp;quot;注釈&amp;quot;&amp;gt;作者は忠敬本人という説もあるが、小島一仁はこれに反論し、息子の景敬によるものではないかと述べている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。本書ではその性質上、忠敬についても、家の復興に努めて村のためにもつくしたことが強調された書き方になっている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.10-11&amp;lt;/ref&amp;gt;。ただし本書は伊能家のために残された書であり、外部に見せるための伝記ではない&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.11&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
公開された初めての伝記は、文政5年（[[1822年]]）に建てられた、源空寺の墓に刻まれている墓碑銘である。この墓碑銘は墓石の左面、背面、右面の3面にわたって刻まれた漢文で、作者は儒学者の[[佐藤一斎]]である&amp;lt;ref&amp;gt;[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.283&amp;lt;/ref&amp;gt;。その内容は『旌門金鏡類録』を参考にしたものとうかがえる。ただし墓碑銘には、忠敬は西洋の技術を学ぶことによって知識が高まったといった内容が刻まれており、こうした記述は『旌門金鏡類録』には無い&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.15-16&amp;lt;/ref&amp;gt;。おそらくこの記述については、渋川景佑の本から採ったものと考えられている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.305&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
弘化2年（1845年）には、佐原出身の清宮秀堅によって、『下総国旧事考（くじこう）』が書かれ、その中で忠敬についても触れられている。この忠敬伝は墓碑銘をもとに書かれているが、忠敬と洋学との関係に関しては記されていない。このことについて小島一仁は、シーボルト事件や[[蛮社の獄]]といった、洋学者に対する弾圧が影響しているのではないかと述べている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.16-17&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 贈位と遺功表 ===&lt;br /&gt;
佐賀藩出身の[[佐野常民]]は、[[長崎海軍伝習所]]で訓練しているときに伊能図を使ったところ、この地図は正確でとても役に立つことを知った&amp;lt;ref&amp;gt;[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.270&amp;lt;/ref&amp;gt;。さらに佐野は、伊能図が英国海軍にも評価されていたことなどを知り、元老院議長となった後の明治13年（1880年）には佐原を巡視し、香取郡長の大須賀庸之助と伊能家の伊能節軒から忠敬についての話を聞いた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.19-20&amp;lt;/ref&amp;gt;。そして佐野は明治15年（1882年）9月、[[東京地学協会]]において、「故伊能忠敬翁事蹟」と題する講演をおこなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この講演では墓碑銘をもとにして忠敬の生涯を紹介したうえで、伊能図の素晴らしさに触れ、忠敬を偉人として讃えている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.24-25&amp;lt;/ref&amp;gt;。この講演は忠敬伝としては初めてのものであるといわれており、その内容はその後における忠敬の評価にも影響を与えることとなる&amp;lt;ref name=&amp;quot;hoyanagi381&amp;quot;&amp;gt;[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.381&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
佐野の講演の目的は、忠敬に対しての贈位を申請することと、忠敬の業績に対して記念碑を建設することであった&amp;lt;ref name=&amp;quot;hoyanagi381&amp;quot;/&amp;gt;。このうち贈位については、大須賀らの協力もあって、明治16年（1883年）1月、東京地学協会長である[[北白川宮能久親王]]の名で申請が出された&amp;lt;ref&amp;gt;[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] pp.270-271&amp;lt;/ref&amp;gt;。そして同年2月、正四位が贈られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もう一方の記念碑について、佐野は講演の中で、忠敬が測量の基準とした高輪大木戸に建てるのがふさわしいと述べ、明治16年の東京地学協会総会で、芝、高輪の大木戸に遺功表を立てることを議決した。その後建設場所は[[芝公園]]に変更となり、明治22年（1889年）に遺功表が建てられた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.273&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 国定教科書 ===&lt;br /&gt;
遺功表が建てられてからは、[[徳富蘇峰]]や[[幸田露伴]]の手による少年向けの忠敬伝が出され、明治20年代から30年代にかけて、忠敬の名は全国に知られるようになっていった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.27&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.277&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治36年（[[1903年]]）、[[国定教科書]]の制度が始まると、忠敬はさっそく国語の教科書に採用された。教科書の内容は佐野の講演を元に書かれており、忠敬の生涯のほか、測量方法についても簡単に述べられている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.32&amp;lt;/ref&amp;gt;。教科書に載ったことで忠敬の名はさらに広まった。地元の佐原で忠敬を偉人とたたえるようになったのもこの頃からである&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.32&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治43年（[[1910年]]）に国定教科書の改訂がなされると、忠敬は国語の教科書から外され、代わりに修身の教科書に載るようになった。そして内容も変化した。修身教科書では、国語教科書で見られたような忠敬の測量における業績についてはほとんど書かれず、「勤勉」「迷信を避けよ」「師を敬へ」といった表題のもと、忠敬が家業に懸命に取り組んだこと、江戸に出てからは雨や風の中で測量に従事し地図を作ったことなどが記され、最後に「精神一到何事カ成ラザラン」などといった格言で締めるという、精神的な面が強調されるようになった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.35-36&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] pp.277-278&amp;lt;/ref&amp;gt;。こうした内容の教科書は第二次世界大戦の終戦まで使われた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.278&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 大谷亮吉による研究 ===&lt;br /&gt;
忠敬が国定教科書に採用された頃、忠敬について書かれた伝記は偉人伝としての要素が強く、測量内容に関する科学的な評価はほとんどなされていなかった。そのような状態の中、物理学者の[[長岡半太郎]]は忠敬に興味を持ち、明治41年（1908年）に開かれた帝国学士院総会において、忠敬の業績を調べるよう提案した。この提案は賛同を得て、長岡の弟子の大谷亮吉の手により調査が始められた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.33-34&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大谷は調査をおこないながら、その結果などを発表していった。大正3年（1914年）には大谷の調査結果を元に、長岡が、「伊能忠敬翁の事蹟に就て」と題する講演をおこなった。この講演は忠敬の業績のほか、麻田剛立、高橋至時、間重富の果たした役割についても述べており、従来の忠敬伝とは一線を画したものとなっている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] pp.280,387&amp;lt;/ref&amp;gt;。そして大正6年（[[1917年]]）、大谷はおよそ9年にわたる調査をまとめた書『伊能忠敬』を書き上げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『伊能忠敬』は本文766ページの大著で、特に忠敬の測量法や測量精度に関する記述が詳しく書かれている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.280&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.43-44&amp;lt;/ref&amp;gt;。本書は今までにないほど精細であり、忠敬研究における決定版ともいわれた&amp;lt;ref name=&amp;quot;kojima44&amp;quot;&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.44&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、これ以後に書かれた忠敬についての本についても、ほとんどは大谷の引き写しだともいわれている&amp;lt;ref name=&amp;quot;kojima44&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.280&amp;lt;/ref&amp;gt;。本書は大正6年に源空寺でおこなわれた忠敬の100遠忌法要において、墓前に供えられた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.50&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、忠敬没後100年の企画としては、他に佐原の有志による銅像と記念文庫建設の計画があった。結果として寄付額が足りず記念文庫の建設は断念されたが、銅像は大正8年、佐原の佐原公園に建設された&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web |date=2009-03-15 |url=http://www.city.katori.lg.jp/02profile/kouhou/20090315/katori090315-web.pdf |title=広報かとり No.72 |format=PDF |publisher=香取市 |accessdate=2014-04-12}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 戦後の忠敬研究 ===&lt;br /&gt;
第二次世界大戦の終戦後は、戦前の国定教科書のような、忠敬を偉人として讃える書き方はなりをひそめ、教科書の記述も簡単なものになった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.3-4&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;hoshino80&amp;quot;&amp;gt;[[#星埜(2010)|星埜(2010)]] p.80&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし戦前の教育の影響からか、忠敬の知名度は相変わらず高く、忠敬は努力によって偉大な業績を上げたのだという偉人的な見方も年配者を中心に消えずに残っていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;hoshino80&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.4-5&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方で新たな角度から忠敬を論ずる研究者も現れてきた。今野武雄は昭和33年（1958年）に出された本で、今までの忠敬伝では忠敬の学問に対する情熱と精力がどこから来たのか得心できないと述べ、「忠敬は努力した」という旧来の書かれ方ではその努力の根源が明らかにされていないことを指摘した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.47-48&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、歴史学者の[[高橋しん一|高橋磌一]]は、昭和43年（1968年）に[[千葉県立佐原高等学校]]で開かれた伊能忠敬翁150年祭の記念講演で、「みなさんは、伊能忠敬を、はじめから、えらい人だとか、えらくない人だとか、きめてかかってはいけません」と発言し、忠敬を先入観で偉人として見る感覚を戒めた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.51&amp;lt;/ref&amp;gt;。また小島一仁は昭和53年（1978年）に出された本で、従来の偉人伝としての忠敬伝を批判した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#星埜(2010)|星埜(2010)]] p.83&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、伊能図の科学的な研究も進んだ。この分野においては大谷の『伊能忠敬』が圧倒的であり、昭和43年（1968年）に東京地学協会で行われた講演において保柳睦美は、「今日まで、忠敬の業績に関する科学的研究は、大谷氏のものが最後といってよい」と発言するほどであった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] p.2&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし保柳はこの講演で、大谷の研究は「独断や誤解のみならず、考察の不十分な点が所々に発見される」と語り、大谷を批判した&amp;lt;ref name=&amp;quot;kojima53&amp;quot;&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] p.53&amp;lt;/ref&amp;gt;。一例として、伊能図における経度方向のずれに関する見解があげられる。大谷は、伊能図はサンソン図法によって描写されており、その投影方法が間違っていたことが経度方向のずれの原因の1つになっていると述べ、この地図投影方法を「大失態」と評し、忠敬および高橋景保を非難している。しかし保柳は大谷に反論し、経度のずれについては、伊能図は経緯線こそサンソン図法と同じだが、地図自体はサンソン図法によって描いたものではなく、両者の違いが経度差となって現れたためだと大谷の誤りを指摘した。そして、幕府の要求は海岸線の測定などが主であって経線は重要視されておらず、当時の日本の研究水準などを考えても、このことについて忠敬をことさらに非難するのは間違っていると主張した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#保柳編(1997)|保柳編(1997)]] pp.21-30&amp;lt;/ref&amp;gt;。保柳らの研究活動は後の昭和49年（1974年）に『伊能忠敬の科学的業績』としてまとめられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また千葉県は昭和48年（1973年）、忠敬の手紙をまとめた『伊能忠敬書状』を出版した&amp;lt;ref name=&amp;quot;kojima53&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 『四千万歩の男』と新たなる忠敬像 ===&lt;br /&gt;
[[井上ひさし]]は昭和52年（1977年）、今まで小説に登場する機会がほとんどなかった忠敬を主人公にした小説『[[四千万歩の男]]』を[[週刊現代]]に連載した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#小島(1978)|小島(1978)]] pp.54-56&amp;lt;/ref&amp;gt;。井上が忠敬に特に関心を持ったのは、隠居後に新たな挑戦を始める、「一身にして二生を得る」という生き方だった。井上は、平均寿命が延びた時代において、退職後の人生を送るにあたって忠敬の生き方は手本になると述べている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#井上(2000)|井上(2000)]] pp.10-11,18-19&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように、高齢化社会という時代性から、第二の人生を有意義に送った忠敬を評価するという見かたは、この頃から広まるようになり、忠敬に対する人々の関心も高まっていった。『四千万歩の男』はその1つの要因と考えられている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#鈴木(2011)|鈴木(2011)]] p.27&amp;lt;/ref&amp;gt;。このような忠敬のとらえ方はその後も続き、忠敬は「中高年の星」「人生を2度生きた男」とも呼ばれるようになっている&amp;lt;ref&amp;gt;朝日新聞1998年1月3日14面&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#星埜(2010)|星埜(2010)]] p.1&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イベントの拡大 ===&lt;br /&gt;
[[File:Statue of IIno Tadataka at Kujukuri.JPG|thumb|200px|伊能忠敬記念公園の忠敬像（九十九里町）]]&lt;br /&gt;
電電公社（現NTT）に勤めていた渡辺一郎は、仕事で毎日日本地図をながめている間に忠敬に対して興味を持ち、そして[[国立国会図書館]]で伊能図を見て感激したことがきっかけで、忠敬の研究を始めた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#伊能忠敬研究会(1998)|伊能忠敬研究会(1998)]] pp.6-7&amp;lt;/ref&amp;gt;。そして平成7年（1995年）には伊能忠敬研究会を結成した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#伊能忠敬研究会(1998)|伊能忠敬研究会(1998)]] p.9&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
研究会の活動などによって、1990年代後半から2000年前後にかけて、忠敬に関するイベントがいくつも開催された。平成10年（1998年）4月10日、[[朝日新聞社]]は創刊120周年記念事業として、徒歩で全国を回る「伊能ウォーク」を主催すると発表した（日本歩け歩け協会（現：日本ウォーキング協会）、伊能忠敬研究会との共同開催）&amp;lt;ref name=&amp;quot;walk111&amp;quot;&amp;gt;[[#日本ウオーキング協会, 伊能ウオーク実行委員会(2001)|日本ウオーキング協会, 伊能ウオーク実行委員会(2001)]] p.111&amp;lt;/ref&amp;gt;。このイベントでは、忠敬の測量隊が歩いたルートを歩くほか、拠点地で伊能図の展示会などが行われた。平成11年（1999年）1月25日から平成13年（2001年）1月1日までの開催期間中に、16万人以上の一般参加者が参加した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#日本ウオーキング協会, 伊能ウオーク実行委員会(2001)|日本ウオーキング協会, 伊能ウオーク実行委員会(2001)]] p.152&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、平成10年（1998年）4月21日から6月21日まで、[[江戸東京博物館]]において、伊能忠敬展が開催された。この展覧会では11万1399人の来館者を集めた&amp;lt;ref name=&amp;quot;walk111&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、忠敬生誕地の九十九里町では、伊能忠敬記念公園が整備され、忠敬の銅像がつくられた。佐原市（現香取市）においても、新しい伊能忠敬記念館が建てられ、1998年5月22日に開館した&amp;lt;ref&amp;gt;千葉日報1998年5月22日&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
他にもこの時期に、忠敬が主人公の演劇、映画が公開されている。また、平成13年（2001年）にアメリカで発見された伊能図の写本などによって伊能図の全貌が明らかになったことにより、原寸大の伊能図を並べて展示するイベントが開かれるようになった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#星埜(2010)|星埜(2010)]] p.84&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 現在 ===&lt;br /&gt;
平成22年（2010年）、伊能忠敬作成の地図や使用した測量器具、関係文書など2345点が、「我が国の測量史・地図史上における極めて高い学術的価値を有する」として、「伊能忠敬関係資料」の名称で[[国宝]]に指定された&amp;lt;!--指定者は文化庁ではなく文部科学大臣--&amp;gt;。これらは伊能家に伝来したもので、香取市の伊能忠敬記念館に保管されている。&amp;lt;ref&amp;gt;平成22年6月29日文部科学省告示第95号&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;「新指定の文化財」『月刊文化財』561号、第一法規、2010&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在の佐原において、忠敬の名は[[忠敬橋]]などに見られる。また、原付の[[デザインナンバープレート]]にも採用されている&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web |date=2012-10-03 |url=https://www.city.katori.lg.jp/03government/section/zeimu/news/2011-0602-0916-2.html |title=香取市オリジナルナンバーが決定しました  |publisher=香取市 |accessdate=2014-04-16}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現代における忠敬の人物としての評価については、先に触れた2度の人生を生きたということのほか、渡辺一郎は、忠敬は才能こそあったものの、偉人や天才ではなく普通の人だったと述べた上で、「ただ、いささか好奇心が強く、凝り性で、根気がよい性格だった」と評している&amp;lt;ref&amp;gt;[[#渡辺(1999)|渡辺(1999)]] p.219&amp;lt;/ref&amp;gt;。また星埜由尚は、「愚直なまでの忍耐と努力」を挙げた上で、17年にわたって愚直に測量を続けたことは公共性（世のため人のため）という観念もあったのではないかとして、忠敬の生き方を、効率化や自らの利益が重視される現代におけるアンチテーゼとしてとらえている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#星埜(2010)|星埜(2010)]] pp.85-88&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 登場作品 ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:Ino Tadataka stamp.jpg|thumb|1995年発行の[[切手]]]]&lt;br /&gt;
=== 小説 ===&lt;br /&gt;
* [[井上ひさし]]『[[四千万歩の男]]』（[[講談社]]／1992年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 映画 ===&lt;br /&gt;
* [[伊能忠敬-子午線の夢-]]（2001年東映　監督：[[小野田嘉幹]]、演：[[加藤剛]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== テレビドラマ ===&lt;br /&gt;
* [[四千万歩の男#テレビドラマ|四千万歩の男・伊能忠敬 人生ふた山、55歳の挑戦 妻が支えた日本地図作り]]（2001年[[日本放送協会|NHK]]正月時代劇） - 演：[[橋爪功]]&lt;br /&gt;
* [[偉人の来る部屋]] - 演：[[志賀廣太郎]]&lt;br /&gt;
* [[歴史誕生]] / 日本を測った男　～伊能忠敬50歳の挑戦～（NHK 1991年2月1日放送） - 演：[[川谷拓三]]（再現ドラマの主演及びナビゲーター）&lt;br /&gt;
*  続々[[三匹が斬る]]　-　演：[[財津一郎]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 舞台 ===&lt;br /&gt;
* 伊能忠敬物語  - 演：加藤剛&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 漫画 ===&lt;br /&gt;
*[[みなもと太郎]] 『[[風雲児たち]]』&lt;br /&gt;
*[[谷口ジロー]] 『[[ふらり。]]』 - 作中では明言されていないが、忠敬と思しき人物を主人公とし、妻のお栄との江戸市中での生活する様子を描いた漫画。公儀からの許可が下り、蝦夷に測量へ旅立つことをお栄に話すところで終わっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== CM ===&lt;br /&gt;
*「[[夢の扉 〜NEXT DOOR〜]]」（56歳になって地図制作を開始したことから「いくつになっても夢を諦めちゃいけない」と語る。ただし地図の完成は彼の没後である。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 楽曲 ===&lt;br /&gt;
*「風の薔薇〜歩いて地図をつくった男のウタ〜」（作詞：[[三浦徳子]]、作曲：[[中島卓偉]]、歌：[[真野恵里菜]]。2012年発売のアルバム『[[More Friends Over]]』収録）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
=== 注釈 ===&lt;br /&gt;
&amp;lt;references group=&amp;quot;注釈&amp;quot;/&amp;gt; &lt;br /&gt;
=== 参照元 ===&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
{{Reflist|3}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=伊藤一男&lt;br /&gt;
|year=2000|month=10&lt;br /&gt;
|title=新考伊能忠敬―九十九里から大利根への軌跡&lt;br /&gt;
|publisher= 崙書房&lt;br /&gt;
|isbn=978-4845510733&lt;br /&gt;
|ref=伊藤(2000)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=井上ひさし&lt;br /&gt;
|year=2000|month=12&lt;br /&gt;
|title=四千万歩の男 忠敬の生き方&lt;br /&gt;
|publisher=講談社&lt;br /&gt;
|isbn=4-06-209536-X&lt;br /&gt;
|ref=井上(2000)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=伊能忠敬研究会&lt;br /&gt;
|year=1998|month=9&lt;br /&gt;
|title=忠敬と伊能図&lt;br /&gt;
|publisher=アワプラニング&lt;br /&gt;
|isbn=978-4768488973&lt;br /&gt;
|ref=伊能忠敬研究会(1998)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite journal|和書&lt;br /&gt;
|author=伊能忠敏&lt;br /&gt;
|year=1991&lt;br /&gt;
|title=北陸と伊能忠敬&lt;br /&gt;
|journal=土と基礎&lt;br /&gt;
|issue=&lt;br /&gt;
|pages=&lt;br /&gt;
|publisher=社団法人地盤工学会&lt;br /&gt;
|issn=0041-3798&lt;br /&gt;
|url=&lt;br /&gt;
|ref=伊能(1991)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=上原久&lt;br /&gt;
|year=1977|month=3&lt;br /&gt;
|title=高橋景保の研究&lt;br /&gt;
|publisher=講談社&lt;br /&gt;
|ref=上原(1977)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=大谷亮吉編著&lt;br /&gt;
|year=1917&lt;br /&gt;
|title=伊能忠敬&lt;br /&gt;
|publisher=岩波書店&lt;br /&gt;
|url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1874853&lt;br /&gt;
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* {{Cite journal|和書&lt;br /&gt;
|author=荻原哲夫&lt;br /&gt;
|year=2007|month=11&lt;br /&gt;
|title=伊能忠敬と彗星について--1805年のビエラ彗星を見た記録とお気に入りの狂歌&lt;br /&gt;
|journal=天界&lt;br /&gt;
|volume=88&lt;br /&gt;
|issue=990&lt;br /&gt;
|pages=pp.612-614&lt;br /&gt;
|publisher=東亜天文学会&lt;br /&gt;
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|ref=荻原(2007)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=織田武雄&lt;br /&gt;
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|title=地図の歴史 日本篇&lt;br /&gt;
|publisher=講談社|series=講談社現代新書&lt;br /&gt;
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|ref=織田(1974)}}&lt;br /&gt;
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|author=小島一仁&lt;br /&gt;
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|title=伊能忠敬&lt;br /&gt;
|publisher= 三省堂|series=三省堂選書&lt;br /&gt;
|ref=小島(1978)}}&lt;br /&gt;
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|author=小島一仁&lt;br /&gt;
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|title=伊能忠敬(一七四五～一八一八)--近代日本地図の父&lt;br /&gt;
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|author=後藤恵之輔、全炳徳、長野克章&lt;br /&gt;
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|title=対馬国絵図の資料調査と画像解析&lt;br /&gt;
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|publisher=土木学会&lt;br /&gt;
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|ref=後藤・全・長野(1996)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=今野武雄&lt;br /&gt;
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|title=伊能忠敬&lt;br /&gt;
|publisher=社会思想社|series=現代教養文庫&lt;br /&gt;
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*{{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=佐久間達夫編著&lt;br /&gt;
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|title=伊能忠敬測量日記 別巻 (新説・伊能忠敬)&lt;br /&gt;
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|ref=佐久間達夫編著(1998)}}&lt;br /&gt;
* {{Cite journal|和書&lt;br /&gt;
|author=斎藤国治.&lt;br /&gt;
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|title=伊能忠敬の歩幅 &lt;br /&gt;
|journal=天界&lt;br /&gt;
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|issue=880&lt;br /&gt;
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*{{Cite journal|和書&lt;br /&gt;
|author=杉浦守邦&lt;br /&gt;
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|title=伊能忠敬の死因&lt;br /&gt;
|journal=医譚&lt;br /&gt;
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|author=鈴木純子&lt;br /&gt;
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|title=随想・意見 小説『四千万歩の男』をめぐって&lt;br /&gt;
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*{{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=千葉県史編纂審議会編&lt;br /&gt;
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|title=千葉県史料 近世篇 文化史料1(伊能忠敬書状)&lt;br /&gt;
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|ref=千葉県史編纂審議会編(1973)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=中村士&lt;br /&gt;
|year=2008|month=7&lt;br /&gt;
|title=江戸の天文学者 星空を翔ける 幕府天文方、渋川春海から伊能忠敬まで&lt;br /&gt;
|publisher=技術評論社|series=知りたい！サイエンス&lt;br /&gt;
|isbn=978-4-7741-3515-1&lt;br /&gt;
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*{{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=日本ウオーキング協会, 伊能ウオーク実行委員会監修&lt;br /&gt;
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|publisher=講談社&lt;br /&gt;
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|ref=日本ウオーキング協会, 伊能ウオーク実行委員会(2001)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=星埜由尚&lt;br /&gt;
|year=2010|month=4&lt;br /&gt;
|title=伊能忠敬―日本をはじめて測った愚直の人|series=日本史リブレット人&lt;br /&gt;
|publisher=山川出版社&lt;br /&gt;
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*{{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=保柳睦美編著&lt;br /&gt;
|year=1997|month=10&lt;br /&gt;
|title=伊能忠敬の科学的業績(復刻新装版)&lt;br /&gt;
|publisher=小学館&lt;br /&gt;
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|ref=保柳編(1997)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=渡辺一郎&lt;br /&gt;
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|title=伊能測量隊まかり通る―幕府天文方御用&lt;br /&gt;
|publisher=NTT出版&lt;br /&gt;
|isbn=978-4871884990&lt;br /&gt;
|ref=渡辺(1997)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=渡辺一郎&lt;br /&gt;
|year=1999|month=6&lt;br /&gt;
|title=伊能忠敬の歩いた日本&lt;br /&gt;
|publisher= 筑摩書房|series=ちくま新書&lt;br /&gt;
|isbn=978-4480058065&lt;br /&gt;
|ref=渡辺(1999)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=渡辺一郎編著&lt;br /&gt;
|year=2003|month=8&lt;br /&gt;
|title=伊能忠敬測量隊&lt;br /&gt;
|publisher=小学館&lt;br /&gt;
|isbn=4-09-626205-6&lt;br /&gt;
|ref=渡辺編(2003)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=渡部健三&lt;br /&gt;
|year=2001|month=3&lt;br /&gt;
|title=伊能測量隊、東日本をゆく&lt;br /&gt;
|publisher=無明舎出版&lt;br /&gt;
|isbn=978-4895442718&lt;br /&gt;
|ref=渡部(2001)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=&lt;br /&gt;
|year=1971|month=&lt;br /&gt;
|title=日本思想大系63(近世科学思想 下)&lt;br /&gt;
|publisher=岩波書店}}&lt;br /&gt;
**{{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=間重富,高橋至時著 広瀬秀雄校注&lt;br /&gt;
|title=星学手簡 抄&lt;br /&gt;
|pages=pp.193-222&lt;br /&gt;
|ref=間・高橋(1971)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=千葉県史料研究財団&lt;br /&gt;
|year=2008|month=3&lt;br /&gt;
|title=千葉県の歴史 通史編：近世2&lt;br /&gt;
|publisher=千葉県&lt;br /&gt;
|ref=千葉県(2008)}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www.city.katori.lg.jp/museum/tadataka.html 伊能忠敬記念館]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
{{commonscat|Ino Tadataka}}&lt;br /&gt;
* [[江戸幕府の地図事業]]&lt;br /&gt;
{{Normdaten|TYP=p|GND=1023117266|LCCN=n/82/56530|NDL=00269993|VIAF=29835733}}&lt;br /&gt;
{{Good article}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:いのう たたたか}}&lt;br /&gt;
[[Category:江戸時代の商人]]&lt;br /&gt;
[[Category:町役人・村役人]]&lt;br /&gt;
[[Category:江戸時代の天文学者]]&lt;br /&gt;
[[Category:19世紀の自然科学者]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の地理学者]]&lt;br /&gt;
[[Category:地図製作者]]&lt;br /&gt;
[[Category:測量に関する人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の地図]]&lt;br /&gt;
[[Category:上総国の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:香取市の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:下総国の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の神 (人物神 開拓神社)]]&lt;br /&gt;
[[Category:1745年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1818年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:天文学に関する記事]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%90&amp;diff=229202</id>
		<title>バーチャル・プライベート・サーバ</title>
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		<updated>2014-08-25T04:34:41Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: /* ホスティングにおける利用者のメリット・デメリット */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{出典の明記|date=2012年6月}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;バーチャル・プライベート・サーバ&#039;&#039;&#039;（仮想専用サーバ、[[英語]]：virtual private server、略称：&#039;&#039;&#039;VPS&#039;&#039;&#039;）とは、一台の物理的な[[サーバ]]コンピュータ上で仮想的なサーバコンピュータを何台も起動する技術（[[仮想機械]]; Virtual Machine）によってつくられた仮想的なサーバコンピュータである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
VPSは、[[ホスティングサーバ]]（レンタルサーバ）事業者のサービスの一つとしても提供されている。これらのサービスは、上記の技術を用いることで、管理者権限が付与される自由度の高い専用サーバを、従来的な専用サーバよりも大幅に安い価格で契約者に提供することを可能にしている。VPS（仮想専用サーバ）は、物理的なサーバを一台占有する「専用サーバ」に比べて処理能力は劣るものの、構成の自由度は専用サーバとほぼ変わらない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Update|date=2014-3}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
VPSとは、個々のユーザーに[[仮想機械]]内において[[スーパーユーザー|管理者権限]] (root) を付与し、共用サーバにおいて専用サーバのような環境を実装するものである。これによって管理者権限を必要とする[[ソフトウェア]]の[[インストール]]等が可能になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、サーバのリソースを個々のユーザーに配分し、1ユーザーが使用できるサーバのリソースの上限を設定する事が一般的である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
VDS:Virtual Dedicated Server（バーチャル・デディケーティッド・サーバ）という語があるが、これもVPSとほぼ同義である。国内ではVPSの呼称が一般に使用されているが、英語圏では「専用サーバ」は&amp;quot;Dedicated Server&amp;quot;と記載するため、海外ではこの名称も一般的に使用されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
VPSを起動させる[[オペレーティングシステム|OS]]としては [[Linux]] が多用されており、[[Xen]]もしくは[[KVM]]を使ったものが主流となっている。その他にも[[OpenVZ]]ベースの[[パラレルス|SWsoft]]の[[Virtuozzo]]が使われている。&lt;br /&gt;
海外では、[[NTTコミュニケーションズ]]の子会社である[[ベリオ (ISP)|VERIO]]（NTT/VERIOブランド）のVPSサービスが有名である。FreeBSDベースであるが、FreeBSDの[[FreeBSD jail|jail]]機構にはリソース管理機能が無いために、それを独自に追加して使っている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://journal.mycom.co.jp/articles/2008/06/03/bsdcan1/index.html Jail + リソース制限機能、FreeBSD 8で登場か - BSDCan2008]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
VERIOのVPSサービスも今までのFreeBSDに加えてLinuxがサポートされている。その他、[[Solaris]]VPSも存在している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国産のVPSとしては、[[2005年]]にNTTPCコミュニケーションズ[[WebARENA]]によってLinux（[[Fedora_Core|Fedora Core]] 3）ベースのVPSが開発されたのを皮切りに、rsaServによって、FreeBSDに実装されている[[FreeBSD jail|jail]]機構をベースに開発されたVPSがあるが、いずれもプログラムの配布/公開はされていない。なおrsaServは2006年に事業を停止した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この他に、日本国内ではFreeBSDおよび[[Red Hat Linux]]を用いたVPSを[[GMOインターネット|GMOホスティング＆セキュリティ株式会社]]の「RapidSite」ブランドや[http://www.webjp.co.jp/ 株式会社ウエブジャパン]、[http://hosting.humeia.co.jp/vps/ 株式会社ヒューメイア][http://www.infoacty.jp/ 株式会社インフォアクティー]、[http://www.plala.or.jp/ NTTぷらら]がサービスしている。　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[株式会社クララオンライン]]や[http://tsukaeru.net 使えるねっと株式会社],[http://cpanel-plesk.net 株式会社Joe&#039;sウェブホスティング], [http://www.1strentalserver.com/ 株式会社トーマスオブアメリカ],[http://flexserver.jp/ 株式会社ライブドア]がLinux(Virtuozzo)を用いたVPSサービスを、それぞれ展開している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2011年4月には、[http://www.cpanel-plesk.net 株式会社Joe&#039;sウェブホスティング]が、LXC(Linux Container)を利用したVPSの提供を開始している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、クラウドの普及とともに海外で低価格のVPSサービスがでてきており、日本でも[[さくらインターネット]]、[[ドリーム・トレイン・インターネット|DTI]]などの事業者が月額1,000円を切った低価格のVPSサービスを始めている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== VPSのメリット ==&lt;br /&gt;
VPSでは、1つの物理的サーバで2つ以上の仮想サーバを起動することが出来る為、[[サンドボックス（コンピュータ）|サンドボックス]]を容易に使用することが出来る。具体例では、1つの仮想サーバ(A)上で実稼動させる[[ウェブサイト]]を公開し、もう1つの仮想サーバ(B)上にそのコピーを製作し、ソフトウェアの重大な変更を行う際には、Aと同等のハードウェア環境を持つB上で、実稼動中のウェブサイトに影響を与えることなくテストを行うことができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、VPSは[[ハニーポット]]の運営にも適している。VPS上では容易に同じ環境を持った複数の仮想サーバを立ち上げることができるため、容易に既知の[[セキュリティホール]]を持ったソフトウェアを故意に起動しておくことができる。それとともに、ログの監視などを行う仮想サーバと実際にハニーポットが設置されている仮想サーバを分けることによってセキュリティを確保することができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 仮想化方式の違い ==&lt;br /&gt;
完全仮想化はエミュレータのようにハードウェアを仮想化して自由なOSを使うことができる。従来の完全仮想化はオーバーヘッドが大きいため速度が必要な用途には使えなかったが、CPU支援による高速化によってオーバーヘッドを低く抑えられるようになった。さらに、高速化のために仮想ドライバが実装されてきており、準仮想化に近づいてきている。CPUの仮想化支援で未対応の命令(リアルモードなど)はソフトウェアエミュレーションを行う。CPUの支援を使った完全仮想化にKVMがある。自由なOSを使うことができるため、Linux上でWindowsを動かすといったこともできる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
準仮想化はゲストOSに互換層を設けたカーネルを用い、ゲストカーネルを低い権限(RING1など)で動作させる。そのため、ゲスト向けにコンパイルされたカーネルが用意されているOSならばゲストOSとして自由に使うことができる。準仮想化としてはXenがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
OSレベルの仮想化は一つのカーネルしか動かないためにメモリが少なくて済む。カーネルは固定であるが、ユーザランドはchrootのように切り替えることができる。カーネルが一つでも、それぞれにIPが割り当てられ、リソース管理もしっかりと行われる。異なったカーネルを使うことができない、カーネルモジュールを追加できないなどの難点がある。Linuxでは[[OpenVZ]]やcgroupをベースにした[[LXC]]などがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ホスティングにおけるVPS ==&lt;br /&gt;
{{独自研究|date=2013年5月|section=1}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
従来の共用レンタルサーバでは、同じサーバの使用者による[[Common Gateway Interface|CGI]]の暴走によるサーバダウン、[[SuExec]]等が導入されていない場合に生じる[[アクセス権限]]等の問題があったが、最適な対応策である専用サーバの導入は、個人使用者にとってはコストの問題で事実上不可能であった。また、高負荷なCGI、大規模な[[データベース]]の処理などサーバのリソースを多く消費するような使用も共用サーバでは大抵禁止されており、そのようなコンテンツの運用は個人レベルでは事実上不可能であった。VPSにおいてはそのような事態は無くなるもしくは大幅に軽減され、より自由な運用が可能である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ホスティングにおける利用者のメリット・デメリット ===&lt;br /&gt;
共用サーバのホスティングサービスを使用する場合と比べ、VPSには以下のようなメリットがある&lt;br /&gt;
# 運用の自由度…従来サーバのリソースの関係で難しかった大規模なデータベース等の処理を行える。また、プログラムの動作テストも、他のユーザーに与える影響が非常に少ない事から一般に許可されている。&lt;br /&gt;
# セキュリティの強化…それぞれのユーザーの使用領域は分断されており、基本的に他のユーザーの領域には関与できない。Unix系OSにおいては避けるべきとされている0777等にアクセス権限を設定しても問題になりにくい。&lt;br /&gt;
# 他の使用者の影響の少なさ…1ユーザーあたり使用可能なサーバのリソースが設定されているため、共用サーバで起こるような他の使用者のリソース消費による自領域の影響（プログラムの実行が遅くなる、サーバダウン等）が非常に少なくなる&lt;br /&gt;
デメリットとしては、&lt;br /&gt;
# 環境維持の必要性…一般に共用サーバではサーバウェア及び各種モジュール類のアップデート、バックアップ等はサーバ管理者によって行われるが、仮想専用環境であるVPSでは、それらの作業を自分で行う必要がある（代行サービスを提供している業者もある）&lt;br /&gt;
# コスト…現在のところ、同程度のサービス内容の共用ホスティングと比較すると割高なことが多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、専用サーバのレンタルと比較すると、&lt;br /&gt;
# 管理の簡略化…OSレベルのアップデートはサーバ管理者によって行われる&lt;br /&gt;
# コスト…物理的なサーバを1ユーザーのために用意する必要が無いため、同等スペックの専用サーバのレンタルと比較すると一般に安価である。&lt;br /&gt;
といったメリットがある一方、&lt;br /&gt;
# 回線の問題…VPSに使用されているサーバの[[インターネットバックボーン]]との接続回線は他のユーザーとの共有なので、ストリーミングの配信等の用途には適さない。また、他のユーザーのそのような行為の影響を受けることもある。もっとも、専用サーバであっても回線は他の使用者と共有、もしくはVPSであっても回線はユーザー別といったケースもあるので、一概に判断は出来ない。&lt;br /&gt;
# マシン再起動が困難…1つのサーバに複数のユーザーが同居している為、範囲が1ユーザーに限定される障害発生時等の物理的再起動が困難である。&lt;br /&gt;
# ハードウェアの自由度…VPSにおいてはサーバのハードウェアはユーザー間で共用のため、特定の目的に特化させる、特定のソフトウェアを使用する等の目的で、ハードウェア環境を変更することは困難である。&lt;br /&gt;
# 他のユーザーの存在…稀なケースではあるが、他のユーザーによってハードディスク等に物理的障害が発生した場合、影響を受けることがある。&lt;br /&gt;
といったデメリットもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自宅サーバーと比較すると、&lt;br /&gt;
# コスト…場合によっては自宅サーバーの電気代よりも安い値段で使える。&lt;br /&gt;
# 信頼性…VPSに使用されているサーバーにはUPSやRAID、ルーター冗長化が使われている場合が多い。またハードウェアが故障しても、直ぐに修理される。&lt;br /&gt;
# 回線…太いバックボーンに繋がっていることが多い。&lt;br /&gt;
デメリットとしては、&lt;br /&gt;
# レイテンシ…自宅からサーバーまでが遠くなるために、レスポンスが遅くなる。&lt;br /&gt;
# 周辺機器の追加不可…バックアップ用のHDDを付け取りしたり、TVのチューナーを足すなどということはできない。&lt;br /&gt;
# ネットワーク分断…物理的にVPSをUPnPサーバーやルーターなどとして使うことはできない。&lt;br /&gt;
これらの他、専用サーバのレンタルのデメリットと同様の問題がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 代表的な[[プラットフォーム]] ==&lt;br /&gt;
* [[KVM]]&lt;br /&gt;
* [[Xen (仮想化ソフトウェア)|Xen]]&lt;br /&gt;
* [http://www.freevps.com FreeVPS]&lt;br /&gt;
* [[Virtuozzo]]&lt;br /&gt;
* [[OpenVZ]]&lt;br /&gt;
* [[Linux-VServer]]&lt;br /&gt;
* [http://www.openvps.org/ OpenVPS]&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--* [[FreeBSD jail]]s--&amp;gt;&lt;br /&gt;
* [[LXC]]&lt;br /&gt;
* [http://user-mode-linux.sourceforge.net/ UML]&lt;br /&gt;
* [http://opensolaris.org/os/community/zones/ Solaris Containers(Zones)]&lt;br /&gt;
* [http://www.eukhost.com/forums/f43/virtual-private-servers-future-web-hosting-5667/ Virtual Private Server] - Future of Web Hosting&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[サーバ]]&lt;br /&gt;
* [[専用サーバー]]&lt;br /&gt;
* [[ホスティングサーバ]]&lt;br /&gt;
* [[バーチャルドメイン]]&lt;br /&gt;
* [[クラウドコンピューティング]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Computer-stub}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:はちやるふらいへとさは}}&lt;br /&gt;
[[Category:インターネット技術]]&lt;br /&gt;
[[Category:サーバ]]&lt;br /&gt;
[[Category:コンピュータ・ネットワーク・セキュリティ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E5%A4%A7%E5%AD%A6&amp;diff=23164</id>
		<title>大学</title>
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		<updated>2014-08-23T07:32:25Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: /* アメリカ */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Otheruses|&amp;lt;!--[[日本]]を含む多くの国における最高学府であり、日本では[[学校教育法]]第1条に定義された--&amp;gt;学校の一つ}}&lt;br /&gt;
[[ファイル:Laurentius de Voltolina 001.jpg|thumb|right|280px|[[ボローニャ大学]]における[[1350年代]]の[[講義]]風景を描いた[[写本]][[挿絵]]]]&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;大学&#039;&#039;&#039;（だいがく、{{lang-en-short|college}}、{{lang|en|university}}）は、[[学問|学術]]研究および[[教育]]の最高機関である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[日本]]の現在の[[学制]]では[[高等学校]]もしくは中等教育学校卒業者、通常の課程による12年の[[特別教育]]を修了した者、またはこれと同等以上の学力を有する者を対象に専門的な[[高等教育]]をおこなうものとされている。学生の教育課程と修了要件の充足に応じて[[学位]]（[[短期大学士]]・[[学士]]・[[修士]]・[[博士]]・[[専門職学位]]）の[[学位]]授与をおこなう（なお、学位の名称・定義も国や地域によって異なる）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
=== 高等教育機関の歴史 ===&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;大学&#039;&#039;&#039;の定義によるが、単に高等教育機関という意味でとらえれば、その歴史は、[[紀元前7世紀]]創設の[[タキシラ]]の[[僧院]]が最古のものとなる。タキシラ僧院では、卒業生に学位にあたるものを与えており、[[世界遺産]]の[[遺跡]]がある現在の[[イスラマバード]]北西、[[パキスタン]]の[[タキシラ]]にあったが、[[西暦]][[6世紀]]に街と共に破壊された。古代インドでは、[[タキシラ]]、[[ナーランダ]]、[[ヴィクラマシラー]]、 [[カーンチプラム]]は[[学問]]の中心地として存在していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[紀元前5世紀]]設立の[[ナーランダ大学]]は、[[インド]]の[[ナーランダ]]に所在し、[[仏教]]を中心とした学問研究で有名で、仏教だけでなく、天文学などの知識も教授していた。学位にあたるものの授与のほかに、今の[[大学院]]にあたるコースもおこなっており、[[西域]]、[[ペルシア]]、[[アラブ世界]]からも人々が学びに来ていた。地元の熱心な仏教徒らの寄進・布施によって運営費や学生らの食費などがまかなわれ、最盛期には学生の数はおよそ1万人、教師数1000人、蔵書数500万冊にも達しており（世界最大級）、建物群は仏教を大切にした歴代の王たちによって増築が重ねられ、キャンパスの広さはおよそ10km × 5kmほどにも達し、中央には大きな塔（タワー）もあった。西暦12世紀ころのイスラム教徒による破壊まで続いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[紀元前387年]]にギリシャの[[哲学者]][[プラトン]]が作った[[アカデメイア]]（[[ギリシャ]]・[[アテナイ|アテナイ, Αθήναι]]）では、[[数学]]、[[哲学]]等を教えており、[[十字軍]]以降[[イスラム]]世界を通じて中世[[ヨーロッパ]]の大学成立に多大な影響を及ぼした。その他にもギリシアでは、[[ヒポクラテス]]の故郷[[コス島]]には[[医学]]校、[[ロドス島]]には哲学の学校があり、[[アレクサンドリア]]には[[博物館]]・[[図書館]]があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[紀元前124年]]に[[漢|漢朝]]では、官僚養成学校である[[太学]]が設立された。中国の古代の[[伝説]]によると、『[[漢書]]』儒林伝では「[[夏 (三代)|夏]]は校と曰い、[[殷]]に庠と曰い、[[周]]に序と曰う」とある。周朝では[[辟雍]]と呼んだともいう。しかし、高等教育機関の名として大学の名称が周のものとして伝えられるものに由来することが有名である。[[礼記]]王制「天子命之教然後為學。小學在公宮南之左、大學在郊。天子曰辟癰、諸侯曰頖宮」。[[隋|隋朝]]以降は、[[国子監]]が最高学府としての役割を担った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[6世紀]]には、[[サーサーン朝]][[ペルシャ]]で、[[グンデシャープール大学]]（[[ジュンディーシャープール]]）があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本では、[[7世紀]]の[[天智天皇]]の治世に官僚養成を目的とした「大学寮」が創設された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[カロリング朝]]には、[[アーヘン]]（今の[[ドイツ]]・[[ノルトライン＝ヴェストファーレン州]]の街）に、[[シャルルマーニュ]]が &#039;&#039;&#039;&#039;&#039;scola palatina&#039;&#039;, palace school, 宮廷学校&#039;&#039;&#039; という名の学校をつくった。Brexgata University Academy もカロリング朝指導者により、[[798年]]、今の[[フランス]]、Noyon 近郊に設立、学者、統治者、聖職者、シャルルマーニュ自身などが参加して、一般市民の教育について、統治者の子どもの（次世代の統治者としての）教育；統治、侵略者からの領地の防衛、浪費を防ぐ術など議論していた。これらの活動は大学 (universitas) の下準備となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ヨーロッパ]]における中世最初の大学は、[[849年]]に[[ビザンツ帝国]][[アモリア王朝]]3代[[皇帝]][[ミカエル3世]]の[[摂政]] Bardas Mamikonian によって建てられた[[コンスタンティノープル大学]]（あるいはマグナウラ宮殿の大学）で（次代の[[マケドニア朝ルネサンス]]の先駆）、[[9世紀]]には[[サレルノ大学]]が作られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[988年]]創設の[[アル＝アズハル大学]]（[[966年]]設立の[[モスク]]に由来）は、[[エジプト]]の[[カイロ]]に所在し、[[シャリーア|イスラーム法学]]、[[プラトン]]、[[アリストテレス]]など古代ギリシアの研究が行われ、大学院にあたるコースも行っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 大学 (universitas) の歴史 ===&lt;br /&gt;
大学を近代西欧語の大学（[[イタリア語|伊]]: Università､[[英語|英]]: university､[[フランス語|仏]]: Université､[[ドイツ語|独]]: Universität）という意味でとらえれば、その歴史は、[[11世紀]]-[[12世紀]]に始まる。最古の大学として、[[イタリア]]の&amp;quot;Alma Mater Studiorum&amp;quot; （[[1088年]]設立、現在の[[ボローニャ大学]]）が、自由都市国家の[[ボローニャ]]に市民達によって開設された&amp;lt;ref&amp;gt;近代的大学の前身はそのルーツをパリにみることができるという見解もある。市民と学生の間の緊張と教会による知識人の指導の検閲に不満だった、アベラールとその他の人は、中世のギルドに擬せられる、大規模で自律で永続的な高等教育機関である &#039;&#039;Universitas&#039;&#039;（統合体） を組織した。&amp;lt;/ref&amp;gt;。その後、[[イングランド]]の[[オックスフォード大学]]（同大学より[[1209年]]に分離して[[ケンブリッジ大学]]が誕生）、[[フランス]]の[[パリ大学]]などが開設されていった。もともとはラテン語の &amp;quot;universitas&amp;quot; （[[ウニベルシタス]]）を起源とし、学生のギルド（組合）から始まる。世界最初の校則は、学生のギルドから教師達への規則（「学生ギルドに無断で授業を休まない」「学生ギルドに無断で都市からでない」など）として作られた。その後、教師のギルドも作られ、連合体を意味するようになる。ギルド=組合を意味する大学は、学生間で上下関係がなく、日本語の訳語としては「大学」ではなく「組合」とした方が原義に近い。&amp;lt;ref&amp;gt;現在の法律概念でいうところの「[[社団]]」にあたる。社団という概念はもともとは[[ローマ教皇]]の破門を契機とする[[アハト]]を回避するための概念であった&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中世の西ヨーロッパにおいて、大学は、[[神学部]]（[[キリスト教]]聖職者の養成）、[[法学部]]（[[法律家]]の養成）、[[医学部]]（[[医師]]の養成）の3つの上級学部と[[哲学部]]ないし[[リベラル・アーツ|学芸]]学部との4学部からなり、[[専門職]]を養成することが大きな役割であった。12世紀から13世紀の間の社会の専門職化の増大に伴って、同様の要求が職業的聖職者に対しても増大した。12世紀以前には、ヨーロッパの知的生活は[[修道院]]に託されていた。修道院は、もっぱら[[典礼]]と祈りの研究に関わっており、少数の修道院が本当の知識人を誇ることができた。[[教会法]]と[[秘蹟]]の研究についての[[グレゴリウス改革]]の重点化に従って、司教は、教会法に基づいて聖職者を養成するための、さらに説教と神学的議論で使うための論理学や論争、より効果的に財務を管理するための会計学をふくむ教会運営のより世俗的側面においても聖職者を養成するための大聖堂附属の学校 (cathedral schools) を組織した。西欧の多くの中世の大学は[[カトリック教会]]の後援により生まれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
学習は、教会の[[ヒエラルキー]]内での昇進に不可欠になり、同じように教師は名声を集めた。しかしながら、需要はすぐに、本質的に一人の教師によって運営されていた大聖堂附属学校の容量を越えた。なお、そのうえ、大聖堂附属学校の学生とより小さい町の市民との間で緊張が高まり、大聖堂附属学校は[[パリ]]やボローニャのような大都市へ移転した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
13世紀に、教会における最高位の職務の約半数が修士学位所持者によって占められ（大修道院長、大司教、枢機卿）、次に高位の職務の三分の一以上が修士によって占められていた。加えて、中世最盛期の何人かの偉大な神学者、[[トマス・アクィナス]]、[[ロバート・グロステスト]]は、中世の大学の出身者であり、[[スコラ学]]はその産物といえる。中世の大学の発展は、ビザンツやユダヤの学者からのアリストテレスの広くいきわたった再導入や、アリストテレス主義の思想を支持してのプラトン主義や[[ネオプラトニズム|新プラトン主義]]の人気の衰えと符合する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中世の大学は、キャンパスを持たなかった。授業は教会や家のように場所が使える所ならどこでも行われ、大学は物理的な場所ではなく、学生のギルドと教師のギルドが1つにまとまった組合団体として互いに結び付けられた諸個人の集まりだった。この呼称で知られる高等教育機関としての大学は、まさに中世のイタリアから始まったものであり、それ以外の世界各地にあったという古代の教育機関とは直接の派生的な関係はない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大学は一般に、教師に給料を支払う者に依存する2つのタイプに従って構成されていた。最初にできたタイプはボローニャにおけるもので、学生が教師を雇い給料を支払う。第二のタイプはパリにおけるもので、教師は教会から給料を支払われる。この構造的な違いは他の特徴を作り出した。ボローニャ大学においては学生が全てを運営した――事実しばしば教師は大変な重圧と不利益のもとに置かれた。パリでは教師が学校を運営した。従って、パリではヨーロッパ中からの教師にとって第一の場所になった。パリでは、教会が給料を払っていたので、主題的な事柄は神学だった。ボローニャでは、生徒はより世俗的な研究を選び、主な主題は法学だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大学の研究は学士号のために6年かかり、修士号や博士号のためにはさらに12年に及んだ。最初の6年は、&#039;&#039;&#039;[[リベラル・アーツ]]&#039;&#039;&#039;（=自由七科）（算術、幾何、天文、楽理、文法、論理、修辞）を研究する哲学部 (faculty of the arts) &amp;lt;!--定訳がない（学芸学部、教養学部、文学部）--&amp;gt;に学んだ。当時ポピュラーな教授法だったスコラ学との緊密な結びつきがあるために、最も重視されたのは論理学だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ひとたび学士 (Bachelor of Arts) を取得すると、学生は修士や博士となるべく三つの学部―法学部、医学部、神学部―から1つを選ぶ。神学は学問のうち最も名望のある領域で、かつ最も難しい領域だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
課程は主題やテーマによってではなく書物に従って設けられる。例えば、ある課程は[[アリストテレス]]の書物あるいは[[聖書]]からの書物に基づいてあるかもしれない。課程は選択ではなく、課程の設置は固定され、全員が同じ課程をとらなければならなかった。しかし、どの教師が使用するかにしたがって臨時の選択があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
学生は大学に14、5歳の時に入った。授業は、午前5時か6時の開始が普通であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
学生は聖職者と同様の保護を与えられた。学生に特権を与えたのは、皇帝[[フリードリヒ・バルバロッサ]]の勅法カピタによってである。だれも学生に肉体的な危害を与えることを許されず、学生は教会裁判所において犯罪のために審問されるのみであり、従っていかなる[[身体刑]]からも免れていた。このことは学生に都市環境においてとがめなく世俗法を犯す自由を与えた。実際、多くの乱用がなされ、盗み、強姦、殺人は、ゆゆしい結果を直視しない学生の間では珍しくはなかった。このことは世俗的権威とともに不安な緊張へと導いた。学生は時々都市を去り何年も戻らないことによって「ストライキ」した。これは、（学生によって始められた）暴動が多数の学生を死に至らしめた後、[[1229年]]のパリ大学でストライキにおいて起こった。学生はストライキしつづけ、二年間戻らなかった。以上のように学生は聖職者的な地位をもつため、女性は大学に入学することは許可されなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大学の研究のためのポピュラーな教科書は、[[ペトルス・ロンバルドゥス]]の『命題集』といわれる。神学生や修士はカリキュラムの一部としてこの教科書について広範な注釈をかくことを要求された。哲学と神学における中世思想の多くは、スコラ的な文献注釈に見出される。なぜならスコラ学は非常にポピュラーな教育法だったからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨーロッパにおける国際的な卓越性をもつどの大学も[[神聖ローマ帝国]]によって「[[ストゥディウム・ゲネラーレ]]」（Studium Generale）として登録された。この施設の構成員は、異なったストゥディウム・ゲネラーレにおける講義課程をしばしば与えるので、ヨーロッパ中にかれらの知識を広めるよう奨励された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 近代以降の発展 ===&lt;br /&gt;
[[アメリカ合衆国|米国]]では[[1636年]]に[[ハーバード大学]]（最初はHarvard Collegeとして）が誕生する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イギリスでは、教会の主導の下、中世のギルド的な大学の伝統に従った貴族による教育が大学で行なわれており、研究は民間のアカデミーで進められ、発表されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランスでは、[[1806年]]に、[[ナポレオン・ボナパルト]]によって、かつての地方大学が専門学校へと引き下げられ、新設された帝国大学（[[:fr:Université de France#L&#039;Université impériale|L&#039;Université impériale]]）が指導監督し、国家が国民の教育にあたるというモデルが採用され、研究はやはりアカデミーで進められるものであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
特に重要なのは、[[言語学者]]でプロイセンの[[政治家]]としても有名だった[[ヴィルヘルム・フォン・フンボルト]]がその骨格をつくった[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]である。ベルリン大学は、国家からの「学問の自由」の標語の下に、研究者と学生が自主的な研究に基づき、真理と知識の獲得を目的として、[[法学]]、[[神学]]、[[医学]]といった伝統的な学問領域を軸として、[[哲学]]がこれら3つの学問のみならず、[[自然科学]]を含めたすべて学問の理論的な研究を指導するというモデルを採用した。ベルリン大学は、研究と教育の一体化を図るとの革命的な発想の転換により各国の大学のモデルとなり、その産業形成を支えた&amp;lt;ref&amp;gt;アメリカ合衆国の[[Ph.D.]]の制度がその典型である。&amp;lt;/ref&amp;gt;。19世紀に至ると、歴史学、社会学、教育学、民俗学など新たな学問分野が生じ、数学、物理学、化学など既存の学問分野も急速な発展を遂げただけでなく、哲学から心理学、哲学史が分離するなどして今日の大学の基本的な諸分野が、ほぼその骨格を現すことになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[20世紀]]になってからは、欧米以外の世界の各国でも多くの大学が誕生してくるようになる。ヨーロッパでは、人文自然科学でも理論的な学問研究が、大学の主要学部とみなされた。また、経営学や音楽、美術、工学などの単科大学はやや差別的な位置づけをされていた&amp;lt;ref&amp;gt;例えば、ドイツでは大学をいうUniversitätよりも、格下、もしくは別種のものとしてHochschuleとして区別している。&amp;lt;/ref&amp;gt;が、徐々に大学の構成学部として認知されるようになってきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
21世紀に入ると、情報科学、社会福祉、都市開発などで従来にはなかったような新しいコンセプトの学部も、世界各国のそれぞれの国内事情に対応して誕生するようになってきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 日本の大学教育 ==&lt;br /&gt;
=== 日本の大学の成立と変遷 ===&lt;br /&gt;
{{main|日本教育史}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本の大学教育 ===&lt;br /&gt;
大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的としている（[[学校教育法]]第83条）。換言すれば、大学教育の目的とは、広範にわたる知識の獲得と諸分野の専門的な[[教育研究]]を行うことで、拡大・深化した知見と柔軟な思考力を備えた知識人を育成することであるといえる。この目的に照らして、大学の内部は専門分野ごとに、[[学部]]や[[学科 (学校)|学科]]・課程などの教育研究組織に分かれている。教員と学生は、それら個々の教育研究組織に所属し、教育研究活動を行う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[大学院重点化]]大学では、教員は、学部の専任教員ではなく、[[大学院]]の研究科の専任教員となる（学部については、兼務の一つとされる）。大学院の研究科に代えて、教員の所属（研究部）と学生の所属（教育部）を分けている大学もある（[[研究科#研究部・教育部制度|研究部・教育部制度]]参照）。また、大学院のみの大学、[[大学院大学]]も存在する。一方、[[短期大学]]は[[修業年限]]を2年または3年とする大学であり、その目的は、深く専門の学芸を教授研究し、職業又は実際生活に必要な能力を育成することである（学校教育法第108条）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大学は[[文部科学省]]が所管するが、それ以外の省庁が所管する機関として[[省庁大学校]]がある。[[独立行政法人]][[大学評価・学位授与機構]]が省庁大学校の課程を大学に相当するものと認めた場合、その課程を卒業すると同機構より学士の学位が与えられる（学校教育法第104条第4項2号）。[[学校教育法]]第135条では、「[[専修学校]]、[[各種学校]]その他第１条&amp;lt;ref&amp;gt;参考; 学校教育法第1条「この法律で、学校とは、[[幼稚園]]、[[小学校]]、[[中学校]]、[[高等学校]]、[[中等教育学校]]、[[特別支援学校]]、[[大学]]及び[[高等専門学校]]とする」&amp;lt;/ref&amp;gt;に掲げるもの以外の[[教育施設]]は、同条に掲げる学校の[[名称]]又は大学院の名称を用いてはならない」としており、第146条では「（この）第135条の規定に[[違反]]した者は、十万円以下の[[罰金]]に処する」としている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし大学・大学院の名称は、企業社員・団体職員向けの教育施設&amp;lt;ref&amp;gt;[[マクドナルド]]従業員の訓練施設としても「ハンバーガー大学」が存在する。&amp;lt;/ref&amp;gt;のほか、広く一般に公開される民間の教育施設や公的な[[日本の生涯学習事業の一覧|生涯学習]]施設などでも公然と用いられており、文部科学省がそれを野放しにしているという現状がある。これに加えて、[[ディプロマミル]]による学位の売買も[[学歴詐称]]などの面で社会的に問題視されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
だが、{{要出典範囲|西欧の人々が思い浮かべやすいような、中世ヨーロッパ時代からの気風に基づき、自然発生的かつ主体的に形成された古典的・伝統的なスタイルの大学 （University）は、その歴史的・文化的背景からアジアには存在していないと見るのが通例である}}。しかしこのようにヨーロッパを唯一の基準として物事をみるのはヨーロッパ文明至上主義的な意見であるという意見も近年提示されている{{誰}}。&lt;br /&gt;
--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
{{要出典範囲|日本では研究者となる学生は比較的少ない}}のと、大学合格が目標のため、「大学は遊ぶところ」というイメージが強い（総務省の調査では日本の大学生の53％が授業以外の勉強時間がゼロ）。2007年5月21日読売新聞大阪版には、授業中の私語が絶えないとの内容が書かれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
学歴取得のための学生も多く（大卒を採用の条件にする企業が多い「マイナビやリクナビなどを参照」）、{{要出典範囲|本来大学とは関係ない学生卒業後の進路についても、大学が力を入れるケースが多い}}。もっとも、{{要出典範囲|日本には大学に代わる「[[ホワイトカラー]]養成の教育機関」が存在しないため、学生が大学に「[[就職]]の踏み台」としての役割を期待するのも仕方がない側面もある}}。大学に代わる、[[ビジネス]]を専門に学ぶ高等教育機関の存在も求められているといえる{{誰}}。そのため、[[専修学校]]制度が発足した。この点は議論が分かれるところであるともいえる{{誰}}。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
職業教育に絞った大学に準ずる高等教育機関を設置しようという動きもある。[[中央教育審議会]]は、2009年6月22日、会議を開き、職業教育に絞った「新しい大学」を創設する方針を打ち出した。新大学の名称は「専門大学」、「職業大学」などが考えられている。「新しい大学」は実験や実習など仕事に直結する授業に重点を置くことが想定されている。しかし、「新しい大学」は大学や短大などと競合する場合もあり、反発が出る可能性もある。22日の会議でも「現行の大学にも多様性があり、議論は尽くされていない」との反対意見が出た&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news &lt;br /&gt;
 |author = 山上浩二郎&lt;br /&gt;
 |url = http://www.asahi.com/national/update/0623/TKY200906220340.html&lt;br /&gt;
 |title = 仕事直結の授業中心、「新大学」創設へ 中教審の報告案&lt;br /&gt;
 |publisher = [[朝日新聞]]&lt;br /&gt;
 |date = 2009-06-23&lt;br /&gt;
 |accessdate = 2009-06-25&lt;br /&gt;
}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
{{seealso|専修学校#1条校化への動き}}&lt;br /&gt;
--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 教員 ===&lt;br /&gt;
[[大学教員]]としては、[[教授]]、[[准教授]]を必ず置かなければならず、必要に応じて[[講師 (教育)|講師]]を置くことができる。いずれも自分の専門とする研究をしていることが条件である。[[初等教育]]、[[中等教育]]などのような[[教員免許状]]は存在しない。多くの教員が、[[修士]]や[[博士]]の学位を持っている。また、他の大学を掛け持ちして教鞭を執る教員や、授業単位で学期ごとに大学と契約する非常勤講師（大学によって兼任講師、嘱託講師などの名称を用いる場合もある）といわれるシステムを採用している大学もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
教員組織は[[学校教育法]]（昭和22年法律第26号）の第93条の規定に基づいて、どの大学にも重要な教育事項等を審議するために[[教授会]]が置かれる。教授会は学部や研究科毎に置かれることが多い。また、学問毎に更に細かい組織が主に学部の学科や大学院の研究科の専攻に置かれている。伝統的に[[講座制と学科目制]]がある。講座制は教員が階級関係であり、学科目制は緩やかな連合関係である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
=== 資産運用能力 ===&lt;br /&gt;
日本の大学の資産運用能力は低い。[[私立大学]]では、2007年の投資の平均利回りは1.6%。収入に占める投資収益の割合は、2.7%となっている。要因としては、リスクが取れないことと、[[金融工学]]等の投資技術の未熟さが指摘されている。公立大学については、運用が制限されているためさらに厳しい&amp;lt;ref name=&amp;quot;20080109yomiuri&amp;quot;&amp;gt;『私大の資産運用は平均利回り1.6％…資金力、米と大差』2008年1月9日付配信　読売新聞&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
--&amp;gt;&lt;br /&gt;
=== 情報公開 ===&lt;br /&gt;
日本の大学は、公的な性格を有する[[一条校]]たる[[高等教育機関]]として、主要な情報をWebページ等で開示している。文部科学省では2009年11月、今後「中退率」、[[在学者数]]等の公表を義務づける方針を[[中央教育審議会#.E5.A4.A7.E5.AD.A6.E5.88.86.E7.A7.91.E4.BC.9A|中央教育審議会大学分科会]]に示した&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20091106-OYT8T00253.htm 「中退率」「就職率」大学公表を] 読売新聞2009年11月6日&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主な開示情報: 研究概要・カリキュラムやシラバス・教員や学生数・入試状況（学科の応募状況・実質倍率・入学者数など）・学費・進路状況（就職・大学院等進学など）・機構や組織・財務状況・外部評価など。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 世界の大学教育 ==&lt;br /&gt;
=== アメリカ ===&lt;br /&gt;
&#039;&#039;→「[[:Category:アメリカ合衆国の大学|Category: アメリカ合衆国の大学]]」も参照&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の大学は私立大学と州立大学に分かれている。日本には国立大学もあるが、アメリカで連邦政府が運営する大学は、[[陸軍士官学校 (アメリカ合衆国)|陸]]・[[海軍兵学校 (アメリカ合衆国)|海]]・[[空軍士官学校 (アメリカ合衆国)|空]]軍の士官学校と[[アメリカ空軍大学|空軍大学校]]の他には存在しない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、米国の大学の数は日本に比べ圧倒的に多く、大規模大学・小規模大学をすべて含めると実に4000以上存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
学期はセメスター制をしく学校と、トライメスター制、クォーター制をしく学校の3種類がある。セメスター制は日本と同じ年2学期制（通常15週間／学期）、トライメスターは3学期制（通常10週間／学期）で、クォーター制は春夏秋冬の4期から構成されている。クォーター制の夏期は基本的に補講期間と考えられていて、メジャーな授業は開講されない。州立大学や[[コミュニティ・カレッジ]]では、学費は日本と異なり登録する単位数によって変動する。学校間の提携が非常に発達しており、既得単位の移動が学校間で比較的容易なため、編入が頻繁に行われている。特に費用の安い[[コミュニティ・カレッジ]]である程度単位を取得してから同一州内の4年制大学へ編入する方法は、成績・経済的な理由から特によく見かけられる。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;アメリカの大学&#039;&#039;&#039;「[[ユニバーシティ]]（大規模・4年制総合大学）・[[カレッジ]]（小規模・4年制単科大学および2年制大学）」は下記のとおり。&lt;br /&gt;
:└ 疑わしい大学・[[カルチャースクール]]のような大学・小規模大学・大規模大学まで、アメリカにはさまざまな大学が存在する。&lt;br /&gt;
;私立総合大学&lt;br /&gt;
:[[アイビーリーグ]]がその代表で、元々[[リベラルアーツ・カレッジ]]だった大学が大学院を持ち、組織や設備を増やすことで巨大化した大学。日本では、[[ハーバード大学]]、[[イェール大学]]、[[プリンストン大学]]、[[スタンフォード大学]]などは全米トップ4のHYPSとして有名。&lt;br /&gt;
;州立総合大学&lt;br /&gt;
:州民のために作られた州で中枢となる教育機関である。元々は師範学校や農業試験場などが大学へ昇格したり、州立大学の分校が独立して大学になった例が多い。そのため、農業や工業など実学系の専門分野が多い。[[バージニア大学]]、[[ミシガン大学]]、[[カリフォルニア大学ロサンゼルス校]]や[[カリフォルニア大学バークレー校|カリフォルニア大学バークレー校 (UC Berkeley)]]に代表される[[カリフォルニア大学|カリフォルニア大学群]]は日本でも有名。&lt;br /&gt;
;リベラルアーツ・カレッジ&lt;br /&gt;
:[[リベラルアーツ・カレッジ]]は私立の学生数500人〜2000人で一般的に全寮制の大学。牧師養成学校から発展したものが多く、知識人や知的エリートの集中的養成の役割を担ってきた。最近では学生一人あたりの教員数が多いという恵まれた教育条件と、キャンパスの自然環境の豊かさ（一般にリベラルアーツ・カレッジは都市から少し離れた地域にある。）から、[[上位中産階級]]や大学教員の師弟が多い。女子大学も多く、東部に名門校が集中している。通常、学部のみの構成である。日本国内では同様の高等教育機関が非常に少ないためあまり知られていないが、アメリカでは大学ランキングにリベラルアーツ・カレッジ部門があるほど普及した形態である。&lt;br /&gt;
;コミュニティ・カレッジ&lt;br /&gt;
:[[コミュニティ・カレッジ]]（日本の短期大学とは別物）は2年制大学である。米国の各州の[[カレッジ]]においてその特徴や学位・称号はすべて異なる。コミュニティ・カレッジはほぼすべてが州立またはその他の公立で[[コミュニティ]]という表現にあるように地域の税金を納めている者が対象である。低所得者が社会で活躍するチャンスを与える為の[[セーフティーネット]]がそこにはある。米国では既に職を得て働く者が専門職の資格取得をしたり、高等学校卒業後、学費が4年制大学より安いという理由からコミュニティ・カレッジで単位を取得してから州立大学に編入学する者がほとんどである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イギリス ===&lt;br /&gt;
[[イギリス]]ではほとんどの大学が総合大学。イギリスの大学は国に属する団体ではない。よって大学の教員は公務員ではない。あくまでも研究費や学生の授業料を国費で援助しているだけである。[[オックスフォード大学]]、[[ケンブリッジ大学]]、[[インペリアル・カレッジ・ロンドン]]、[[ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス]]、[[ロンドン・ビジネス・スクール]]などが有名。&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- === フランス === --&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- === 中国 === --&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- === ロシア === --&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ドイツ ===&lt;br /&gt;
[[ドイツ連邦共和国|ドイツ]]の公立大学は、以前は授業料が無料であり、入学も学部によっては順番待ちによっておこなわれていた。学部の段階から学問と技術を学ぶ気風が高く、2年間ほど在学した後に退学する人も多かったといわれていた。21世紀に入る前後で改革がおこなわれ、州によっては公立大学の授業料が有償化されたが、徐々にRP州やNRW州のように無料化の方向に進んでいる。また、ほとんどが州立であり国立は無い、私立大学の数は比較的少ない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== フランス ===&lt;br /&gt;
[[フランス]]では、大学と共に[[グランゼコール]]が発達し、エリートコースの一つともなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 学費 ==&lt;br /&gt;
{{main|学費}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* C.H.ハスキンズ『大学の起源』（八坂書房）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
{{Commonscat|Universities and colleges}}&lt;br /&gt;
* [[系属校]] - 大学の系属校について&lt;br /&gt;
* [[大学一覧]] - 記事化されている大学&lt;br /&gt;
* [[日本の大学一覧]] - 記事化されていないものも含めてすべて列挙&lt;br /&gt;
* [[Ancient university]]（最古の大学群）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 大学の制度 ===&lt;br /&gt;
* [[大学の歴史]]&lt;br /&gt;
* [[日本教育史]]&lt;br /&gt;
* [[大学教員]]&lt;br /&gt;
* [[学部]] - [[学科 (学校)]] - [[課程]] - [[学群]] - [[学類]] - [[学系]]&lt;br /&gt;
* [[大学院]] - [[大学院大学]] - [[研究科]]&lt;br /&gt;
* [[大学受験]] - [[大学入試センター試験]] - [[大学入試センター]] - [[大学入学資格検定]] - [[国際バカロレア資格]] - [[AO入試]]&lt;br /&gt;
* [[単科大学と総合大学]] - [[リベラルアーツ・カレッジ]]&lt;br /&gt;
* [[単位制]] - [[GPA]]&lt;br /&gt;
* [[教養課程]] - [[専門課程]] - [[ゼミナール]] - [[卒業論文]] - [[専攻]]&lt;br /&gt;
* [[講座制と学科目制]]&lt;br /&gt;
* [[学位と称号]] - [[大学評価・学位授与機構]]&lt;br /&gt;
* [[職業としての学問]]&lt;br /&gt;
* [[学問の自由]]の一内容としての&#039;&#039;&#039;大学の自治&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 大学スポーツ関連 ===&lt;br /&gt;
* [[国際大学スポーツ連盟]] - [[ユニバーシアード]]&lt;br /&gt;
* [[日本の大学スポーツ競技・団体一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
個々の競技会については[[:Category:日本の大学スポーツ]]も参照。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 大学を取り巻く論点など ===&lt;br /&gt;
* [[文系と理系]]&lt;br /&gt;
* [[昼夜開講制]]&lt;br /&gt;
* [[大学通信教育]] - [[放送大学学園]]&lt;br /&gt;
* [[大学職員]] - [[女子大生]]&lt;br /&gt;
* [[オープンキャンパス]]&lt;br /&gt;
* [[就職活動]]&lt;br /&gt;
* [[学歴フィルター]]&lt;br /&gt;
* [[偏差値操作]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
* [[アカデミックドレス]]&lt;br /&gt;
* [[大学行政管理学会]]&lt;br /&gt;
* [[学生割引]] - [[卒業旅行]]&lt;br /&gt;
* [[Tuoカード]] - 大学の[[生活協同組合]]が学生向けに発行する[[クレジット]]機能を持った大学生協の組合員証。&lt;br /&gt;
* [[進学率]]&lt;br /&gt;
* [[鬼仏表]]&lt;br /&gt;
* [[特定建築物]] - 日本の大学施設に適用される環境[[衛生]]、建築[[設備]]等の管理に関する規定&lt;br /&gt;
* [[スクールカラー]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.juaa.or.jp/index.html 財団法人 大学基準協会]&lt;br /&gt;
* [http://www.jpnprofessorsearch.com/ JPN Professor Search]&lt;br /&gt;
* [http://www.arwu.org/ arwu（上海交通大学高等教育研究所による世界大学ランキング）]&lt;br /&gt;
* [http://www.topuniversities.com/ QS TopUniversities: Incorporating the THES - QS World University Rankings（Quacquarelli Symondsによるランキング）]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{学校}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| border=&amp;quot;border&amp;quot; align=&amp;quot;center&amp;quot;&lt;br /&gt;
|- bgcolor=&amp;quot;#f0f0f0&amp;quot;&lt;br /&gt;
| 前段階の学校&lt;br /&gt;
| 現学校&lt;br /&gt;
| 次段階の学校&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;2&amp;quot; |&lt;br /&gt;
* [[高等学校]]&lt;br /&gt;
* [[中等教育学校]][[後期課程]]&lt;br /&gt;
* [[特別支援学校]][[高等部]]&lt;br /&gt;
* [[高等専門学校]]3年次[[修了]]&lt;br /&gt;
* [[専修学校]]の[[高等課程]]（一部）&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;center&amp;quot; | [[大学]]&amp;lt;br/&amp;gt;通常課程: 4年制&amp;lt;br/&amp;gt;18歳以上〜4年間&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
* [[大学院]][[修士課程]]/[[博士前期課程]]&lt;br /&gt;
* 大学院[[専門職学位課程]]&lt;br /&gt;
* 大学院[[一貫制博士課程]]&lt;br /&gt;
* [[大学]][[専攻科]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| align=&amp;quot;center&amp;quot; | [[大学]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[医学部|医]][[歯学部|歯]][[薬学部|薬]][[獣医学部|獣]]: 6年制&amp;lt;br/&amp;gt;18歳以上〜6年間&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
* [[大学院]][[4年制博士課程]]&amp;lt;sup&amp;gt;注1&amp;lt;/sup&amp;gt;&lt;br /&gt;
* [[大学]][[専攻科]]&amp;lt;sup&amp;gt;注1&amp;lt;/sup&amp;gt;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;3&amp;quot; bgcolor=&amp;quot;#f0f0f0&amp;quot; | 同段階の学校&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| valign=&amp;quot;top&amp;quot; colspan=&amp;quot;3&amp;quot; |&lt;br /&gt;
* （15歳以上〜5年間対象） [[高等専門学校]] - 前段階3年 + 1〜2年次に相当&lt;br /&gt;
* （18歳以上〜2年間または3年間対象） [[短期大学]] - 1〜2年次または1〜3年次に相当&lt;br /&gt;
* （18歳以上〜不定期間対象） [[中等教育]]の諸学校の[[専攻科]]&amp;lt;sup&amp;gt;注2&amp;lt;/sup&amp;gt; - 1年次〜不定に相当&lt;br /&gt;
* （18歳以上〜不定期間対象） [[専修学校]]の[[専門課程]] - 1年次〜不定に相当&lt;br /&gt;
* （20歳以上〜不定期間対象） 2年制[[短期大学]]の[[専攻科]] - 3年次〜不定に相当&lt;br /&gt;
* （20歳以上〜不定期間対象） [[高等専門学校]]の専攻科 - 3年次〜不定に相当&lt;br /&gt;
* （21歳以上〜不定期間対象） 3年制短期大学の専攻科 - 4年次〜不定に相当&lt;br /&gt;
以下は、[[医学]]、[[歯学]]、[[薬学]]、[[獣医学]]の[[課程]]のみ&lt;br /&gt;
* （22歳以上〜2年間対象) [[大学院]]の[[修士課程]]/[[博士前期課程]] - 5年次〜6年次に相当&lt;br /&gt;
* （22歳以上〜2年間対象） 大学院の[[専門職学位課程]] - 5年次〜6年次に相当&lt;br /&gt;
* （22歳以上〜5年間対象） 大学院の[[一貫制博士課程]]&amp;lt;sup&amp;gt;注3&amp;lt;/sup&amp;gt; - 5年次〜6年次に相当 + 残り3年&lt;br /&gt;
* （22歳以上〜不定期間対象） [[大学]]の[[専攻科]]&amp;lt;sup&amp;gt;注3&amp;lt;/sup&amp;gt; - 5年次〜不定に相当&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;3&amp;quot; |&lt;br /&gt;
&amp;lt;small&amp;gt;注1: [[医学]]、[[歯学]]、[[薬学]]、[[獣医学]]の課程。&amp;lt;br/&amp;gt;&lt;br /&gt;
注2: 高等専門学校の専攻科は含まない。&amp;lt;br/&amp;gt;&lt;br /&gt;
注3: 医学、歯学、薬学、獣医学以外の課程。 &amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たいかく}}&lt;br /&gt;
[[Category:高等教育]]&lt;br /&gt;
[[Category:大学|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の高等教育]]&lt;br /&gt;
[[Category:教育史]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
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	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E7%89%87%E6%A1%90%E8%B2%9E%E7%AF%A4&amp;diff=216554</id>
		<title>片桐貞篤</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E7%89%87%E6%A1%90%E8%B2%9E%E7%AF%A4&amp;diff=216554"/>
		<updated>2014-08-20T04:56:20Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;片桐 貞篤&#039;&#039;&#039;（かたぎり さだあつ、[[天保]]12年[[9月19日 (旧暦)|9月19日]]（[[1841年]][[11月2日]]） - [[明治]]16年（[[1883年]]）[[6月26日]]）は、[[大和国|大和]][[小泉藩]]の第12代（最後）の藩主。[[子爵]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[松平頼功]]（[[常陸国|常陸]][[常陸府中藩|府中藩]]主・[[松平頼縄]]の弟）の長男。正室は第8代藩主・[[片桐貞信]]の娘、継室は栗原某の娘。子は[[片桐貞健|貞健]]（長男）。官位は従五位下。主膳正。弟に[[越前国|越前]][[福井藩]]家老となった[[本多副元]]がいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[文久]]2年（[[1862年]]）、先代藩主の[[片桐貞利|貞利]]が死去したために、貞信の娘の[[入婿]]となって家督を継いだ。このとき、貞篤は貞利の養嗣子になったとも、先々代の[[片桐貞照|貞照]]の養子として跡を継いだとも言われている。[[幕末]]期の動乱の中では[[天誅組の変]]鎮圧などで功を挙げた。明治元年（[[1868年]]）、[[戊辰戦争]]では新政府側に与して[[京都]]の守備を担った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治2年（[[1869年]]）の[[版籍奉還]]で小泉[[知藩事|藩知事]]となる。明治16年（1883年）、43歳で死去した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{小泉藩主|12代|1862年 - 1871年}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:かたきり さたあつ}}&lt;br /&gt;
[[Category:片桐氏|さたあつ]]&lt;br /&gt;
[[Category:水戸連枝松平氏|さたあつ]]&lt;br /&gt;
[[Category:小泉藩主|*12]]&lt;br /&gt;
[[Category:幕末の大名]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の子爵]]&lt;br /&gt;
[[Category:1841年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1883年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E5%AE%89%E6%94%BF&amp;diff=135803</id>
		<title>佐久間安政</title>
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		<updated>2014-08-20T04:44:52Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{基礎情報 武士&lt;br /&gt;
| 氏名 = 佐久間 安政&lt;br /&gt;
| 画像 = SakumaYasumasa.png&lt;br /&gt;
| 画像サイズ = 250px&lt;br /&gt;
| 画像説明 = 佐久間安政（賤ヶ岳合戦図屏風より）&lt;br /&gt;
| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[江戸時代]]前期&lt;br /&gt;
| 生誕 = [[弘治 (日本)|弘治]]元年（[[1555年]]）&lt;br /&gt;
| 死没 = [[寛永]]4年[[4月25日 (旧暦)|4月25日]]（[[1627年]][[6月8日]]）&lt;br /&gt;
| 改名 = 保田安政→佐久間安政&lt;br /&gt;
| 別名 = 久六&amp;lt;ref&amp;gt;『佐久間軍記』、『信長公記』巻九「西国より大船を催し木津浦の船軍歴々討死の事」&amp;lt;/ref&amp;gt;、久六郎&amp;lt;ref name=&amp;quot;kanseifu&amp;quot;&amp;gt;『寛政重修諸家譜』&amp;lt;/ref&amp;gt;、久右衛門（[[仮名 (通称)|通称]]）、&amp;lt;br/&amp;gt;安次&amp;lt;ref name=&amp;quot;kanseifu&amp;quot; /&amp;gt;&lt;br /&gt;
| 戒名 = 徳翁院殿功岸玄忠大居士&lt;br /&gt;
| 墓所 = 不明&lt;br /&gt;
| 官位 = [[従五位]]下、[[備前国|備前]]守&lt;br /&gt;
| 幕府 = [[江戸幕府]]&lt;br /&gt;
| 主君 = [[織田信長]]→[[織田秀信|秀信]]→[[北条氏政]]→[[蒲生氏郷]]→&amp;lt;br/&amp;gt;[[徳川家康]]→[[徳川秀忠|秀忠]]&lt;br /&gt;
| 藩   = [[近江国|近江]][[近江高島藩|高島藩]]主→[[信濃国|信濃]][[飯山藩]]主&lt;br /&gt;
| 氏族 = [[佐久間氏]]→[[保田氏]]→佐久間氏&lt;br /&gt;
| 父母 = 父：[[佐久間盛次]]、母：[[柴田勝家]]の妹&amp;lt;ref name=&amp;quot;sister&amp;quot;&amp;gt;姉説と妹説あり。『[[寛政重修諸家譜]]』では姉としている。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;br/&amp;gt;養父：&#039;&#039;[[保田知宗]]&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| 兄弟 = [[佐久間盛政|盛政]]、[[佐久間安政|安政]]、[[柴田勝政|勝政]]、[[佐久間勝之|勝之]]&lt;br /&gt;
| 妻   = 正室：[[保田知宗]]の娘&amp;lt;br&amp;gt;継室：[[勧修寺晴豊]]の娘&lt;br /&gt;
| 子   = [[佐久間勝宗|勝宗]]、&#039;&#039;&#039;[[佐久間安長|安長]]&#039;&#039;&#039;、娘（[[桑山一直]]室）、娘（[[北条氏信 (狭山藩主)|北条氏信]]室）、娘（[[毛利高成]]室）、娘（[[新庄直好]]室）、娘（[[久留島通春]]室）&lt;br /&gt;
| 特記事項 = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;佐久間 安政&#039;&#039;&#039;（さくま やすまさ）は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]前期にかけての[[武将]]、[[大名]]。[[近江国|近江]][[近江高島藩|高島藩]]主、のち[[信濃国|信濃]][[飯山藩]]初代藩主。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
[[織田氏|織田家]]の武将・[[佐久間盛次]]の次男。はじめ[[紀伊国|紀伊]]・[[河内国|河内]]の[[守護]]、[[畠山昭高]]家臣の[[保田知宗]]の婿養子となり保田久六を名乗る。後に久右衛門と改める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
兄や弟と共に[[織田信長]]に仕え、最初は[[佐久間信盛]]の軍に属し[[石山本願寺]]攻めに参加、後に[[柴田勝家]]の軍に属した。[[賤ヶ岳の戦い]]では敢闘したものの、柴田軍敗北後は[[雑賀衆]]、[[根来衆]]を頼って落ち延び、[[小牧・長久手の戦い]]では[[徳川家康]]・[[織田信雄]]方に属して、[[岸和田城]]を守る[[中村一氏]]としばしば交戦したが、秀吉と信雄・家康の間で和睦が成立し、家康が撤退したため、その口利きにより[[後北条氏]]に弟の勝之ともども身を寄せた。このとき妻を離縁したという。その後、[[正親町天皇]]の[[武家伝奏]]であった[[勧修寺晴豊]]の娘を妻とした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[小田原征伐]]の後、[[豊臣秀吉]]に赦され、保田氏から佐久間氏に復して[[蒲生氏郷]]に仕え&amp;lt;ref&amp;gt;『[[藩翰譜]]』によると、氏郷の侍大将蒲生源左衛門、同左文が柴田勝家に仕えていた時代に佐久間兄弟と親しかったため、氏郷に兄弟の武勇を話して薦めたことにより、氏郷が秀吉に話したとある。&amp;lt;/ref&amp;gt;[[出羽国]]小国（現[[山形県]][[西置賜郡]][[小国町 (山形県)|小国町]]）を領し、[[葛西大崎一揆]]の鎮圧に功績を挙げた。氏郷の没後、秀吉の直臣となり、信濃国[[槇島城]]（現[[長野県]][[長野市]][[松代町 (長野県)|松代町]]牧島）を賜った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[慶長]]3年（[[1598年]]）秀吉の没後、[[五奉行]]が徳川家康に伺いを立て、その結果近江国小河（現[[滋賀県]][[東近江市]]小川町）に7,000石を与えられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
慶長5年（[[1600年]]）[[関ヶ原の戦い]]で東軍に属し、その戦功により近江国[[高島郡 (滋賀県)|高嶋郡]]（現滋賀県[[高島市]]）の内に加増を受け、合計で1万3,000石を領するようになり、大名に列した（『[[寛政重修諸家譜]]』）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
慶長12年（[[1607年]]）[[江戸城]]内に移転。その際に[[常陸国]]小田（現[[茨城県]][[つくば市]]小田）5,000石を加増され、合計1万8,000石。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[元和 (日本)|元和]]元年（[[1615年]]）[[大坂の陣]]の戦功&amp;lt;ref&amp;gt;『藩翰譜』によれば首級6つを挙げたとある。&amp;lt;/ref&amp;gt;により信濃国飯山（現長野県[[飯山市]]）に加増を受け合計3万2,000石となり、飯山藩の藩祖となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元和3年（[[1617年]]）、[[徳川秀忠]]の[[御伽衆]]に任ぜられる。寛永4年（1627年）に江戸にて73歳で没した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
菩提寺は滋賀県高島市の[[幡岳寺]]と長野県飯山市の[[大聖寺 (飯山市)|大聖寺]]。戒名は徳翁院殿功岸玄忠大居士（『寛政重修諸家譜』では「広岸玄忠徳王院」）。墓所は二本榎[[広岳院]]と言われている。[[高野山奥の院]]に飯山・佐久間家墓所があり、多くの供養墓が現存している。&lt;br /&gt;
&amp;lt;br clear=&amp;quot;both&amp;quot; /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{近江高島藩主||1600年 - 1616年}}&lt;br /&gt;
{{飯山藩主|佐久間氏|初代|1616年 - 1627年}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:さくま やすまさ}}&lt;br /&gt;
[[Category:佐久間氏|やすまさ]]&lt;br /&gt;
[[Category:戦国武将]]&lt;br /&gt;
[[Category:外様大名]]&lt;br /&gt;
[[Category:飯山藩主]]&lt;br /&gt;
[[Category:近江国の藩主]]&lt;br /&gt;
[[Category:1555年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1627年没]]&lt;br /&gt;
{{Japanese-history-stub}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E6%B4%A5%E8%97%A9&amp;diff=163050</id>
		<title>津藩</title>
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		<updated>2014-08-20T01:11:25Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: /* 藩史 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;津藩&#039;&#039;&#039;（つはん）は[[伊勢国|伊勢]][[安濃郡 (三重県)|安濃郡]][[安濃津]]（現在の[[三重県]][[津市]]）に置かれた[[藩]]。&#039;&#039;&#039;安濃津藩&#039;&#039;&#039;（あのつはん）と呼ばれることもある。藩庁は[[津城|安濃津城]]（津城）。石高は伊勢・[[伊賀国|伊賀]]2[[令制国|国]]を合わせた22万石（[[大坂の役]]後、32万3,000石に加増で大和国にも飛び地領が存在）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 藩史 ==&lt;br /&gt;
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の津は安濃津と呼ばれ、[[長野工藤氏]]の支配下にあった。[[永禄]]11年（[[1568年]]）、[[織田信長]]の伊勢侵攻で長野工藤氏は信長に降伏し、信長の弟・[[織田信包|信包]]を[[養子]]に迎えて当主とした。信長没後、信包は[[豊臣秀吉]]に仕え、[[文禄]]3年（[[1594年]]）に2万石を削減されて[[近江国|近江]]に移封された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代わって、[[富田知信]]が5万石で入る。知信は[[慶長]]4年（[[1599年]]）に死去し、後を子の[[富田信高|信高]]が継いだ。信高は[[徳川家康]]に接近し、家康主導による[[会津征伐]]に参加し、[[石田三成]]ら西軍が挙兵すると本国に戻り、西軍の[[伊勢国|伊勢]]侵攻軍である[[毛利秀元]]や[[長束正家]]と戦い、敗れて[[高野山]]に逃れた（[[安濃津城の戦い]]）。関ヶ原の戦い後、家康は信高を2万石加増の7万石で安濃津城主として復帰させた。慶長13年（[[1608年]]）8月24日、信高は[[伊予国|伊予]][[宇和島藩]]に移封された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌日の8月25日、伊予[[今治藩]]10万石から[[藤堂高虎]]が22万石に加増された上で入る。高虎は[[江戸城]]の普請などにも功を挙げて家康から絶大な信任を受け、外様でありながら早くから別格譜代の厚遇を受けることとなる。慶長19年（[[1614年]]）からの[[大坂の陣]]でも家康側に与して戦功を挙げ、[[伊賀国|伊賀]][[伊賀上野藩|上野藩]]主・[[筒井定次]]の[[改易]]もあって伊勢津藩は最終的に32万3,000石を領する大大名となった。&amp;lt;!--: そのため、高虎は「走狗」・「裏切り者」と評する意見もある。だが利を見て主家を変えることは戦国の常であったから、高虎が非難される謂れはない。また、高虎とは全く関係のない200年以上後の[[鳥羽・伏見の戦い]]における津藩の行動（高浜砲台事件）が重ね合わされているとの意見もある。それはともかくとして、高虎は功績を挙げていって順次加増を受け、最終的には32万3950石の[[大名]]となった。--&amp;gt;なお、藩政は初代藩主・高虎の時代に行なわれた城郭普請や家臣団編成、農業制度改革、城下町建設などで確立する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第2代藩主・[[藤堂高次]]は[[寛文]]9年（[[1669年]]）9月29日に隠居する際、子の第3代藩主・[[藤堂高久]]に命じて次男[[藤堂高通]]に5万石を分与して、支藩である[[久居藩]]を立藩させた。このため、津藩は27万3,950石となる。高久も元禄10年（[[1697年]]）10月5日に[[藤堂高堅]]に3,000石を分与して、27万950石となった。高久は藩財政再建のため、[[地方知行]]制の廃止と蔵納制の移行、田畑永代売買の禁止、新田開発、商業統制などを行なったが効果は無かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第4代藩主・[[藤堂高睦]]の在職期には3度にわたる地震などの天災に見舞われた上、藤堂家の嫡流も彼をもって早くも終焉し、以後は支藩・[[久居藩]]から招かれて藩主となった者が多い。第5代藩主・[[藤堂高敏]]、第6代藩主・[[藤堂高治]]、第7代藩主・[[藤堂高朗]]（藤堂高豊）らはいずれも久居藩主を経て、津藩主になった面々である。なお、これら養子藩主時代は幕命による手伝い普請などによる出費や天災・凶作が相次いで藩財政は悪化した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第9代藩主・[[藤堂高嶷]]も久居藩から津藩主となった養子藩主で、藩財政の再建を中心とした藩政改革を行なったが、あまりに急性すぎる改革は周囲の反発を受け、寛政年間に津藩最大の百姓一揆が発生して改革は挫折した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
特筆すべき藩主が、第10代藩主・[[藤堂高兌]]である。彼も久居藩から転任した藩主で高嶷の実子だが、すでに久居藩主時代からその敏腕を持って藩政の再建に成功していた。このため、津藩の藩政でも綱紀粛正・倹約・植林や養蚕の奨励、福祉政策、文武の奨励などを実行して藩政改革を成功させ、藤堂家中興の英主と讃えられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高兌の後を継いだ第11代藩主・[[藤堂高猷]]は無能で、凶作や地震などの天災も相次ぎ、藩の借金は明治に至ると212万両にまで悪化したといわれる。[[慶応]]4年（[[1868年]]）1月の[[鳥羽・伏見の戦い]]では当初は幕府側であったが、山崎高浜砲台の津藩守備隊の機転で官軍側を支援し、対岸の幕軍砲台を砲撃するなど官軍の勝利に大きく貢献することになった。しかし、幕府側の将兵からは突然の裏切り行為であり「その行い、藩祖（高虎）に似たり」とそしられた。その後、藤堂軍は[[戊辰戦争]]で東海道の先鋒となって、各地で旧幕府軍と戦った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[明治]]2年（[[1869年]]）の[[版籍奉還]]で、高猷は津藩知事に任じられる。しかし明治3年（[[1870年]]）には高猷が行なった藩政改革で平民による部隊が編成され、これに不満を持った士族派の長谷部一（[[藤堂監物]]）らが反対して処刑されるという庚午事変（[[監物騒動]]）が起こるなどしている。また、[[伊賀国|伊賀]]4郡で打ちこわし（[[平高騒動]]）も起こっているなど、高猷の失政が目立った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治4年（[[1871年]]）6月28日、高猷は[[隠居]]し、第12代藩主と津藩知事には[[藤堂高潔]]が就任したが、直後の7月14日に行なわれた[[廃藩置県]]で津藩は廃藩となり[[安濃津県]]となる。明治5年（[[1872年]]）に三重県と改称され、明治9年（[[1876年]]）には[[度会県]]が三重県に編入された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==歴代藩主==&lt;br /&gt;
===富田（とだ、または、とみだ）家===&lt;br /&gt;
[[外様]]。5万石→7万石（1595年－1608年）&lt;br /&gt;
#[[富田知信|知信]]（とものぶ）&lt;br /&gt;
#[[富田信高|信高]]（のぶたか）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===[[藤堂氏|藤堂（とうどう）家]]===&lt;br /&gt;
外様。22万950石→27万950石→32万3950石→27万3950石→27万950石（1608年－1871年）&lt;br /&gt;
#[[藤堂高虎|高虎]]（たかとら）〔従四位下・左近衛権少将・和泉守〕 &lt;br /&gt;
#[[藤堂高次|高次]]（たかつぐ）〔従四位下・左近衛権少将・和泉守〕&lt;br /&gt;
#[[藤堂高久|高久]]（たかひさ）〔従四位下・左近衛権少将・和泉守〕&lt;br /&gt;
#[[藤堂高睦|高睦]]（たかちか）〔従四位下・和泉守〕 &lt;br /&gt;
#[[藤堂高敏|高敏]]（たかとし）〔従四位下・和泉守〕 &lt;br /&gt;
#[[藤堂高治|高治]]（たかはる）〔従四位下・大学頭〕 &lt;br /&gt;
#[[藤堂高朗|高朗]]（たかあき、たかほら）〔従四位下・和泉守〕 &lt;br /&gt;
#[[藤堂高悠|高悠]]（たかなが）〔従四位下・和泉守〕 &lt;br /&gt;
#[[藤堂高嶷|高嶷]]（たかさと、たかさど）〔従四位下・和泉守〕 &lt;br /&gt;
#[[藤堂高兌|高兌]]（たかさわ）〔従四位下・和泉守〕 &lt;br /&gt;
#[[藤堂高猷|高猷]]（たかゆき）〔正二位・和泉守〕 &lt;br /&gt;
#[[藤堂高潔|高潔]]（たかきよ）〔正三位・大学頭〕&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 幕末の領地 ==&lt;br /&gt;
* [[伊勢国]]&lt;br /&gt;
** [[三重郡]]のうち - 15村&lt;br /&gt;
** [[河曲郡]]のうち - 29村&lt;br /&gt;
** [[鈴鹿郡]]のうち - 3村&lt;br /&gt;
** [[安濃郡 (三重県)|安濃郡]]のうち - 73村&lt;br /&gt;
** [[一志郡]]のうち - 56村（うち1村を[[紀州藩|和歌山藩]]に編入）&lt;br /&gt;
** [[飯野郡]]のうち - 33村（うち1村を和歌山藩に編入）&lt;br /&gt;
** [[多気郡]]のうち - 20村&lt;br /&gt;
* [[山城国]]&lt;br /&gt;
** [[相楽郡]]のうち - 14村&lt;br /&gt;
* [[大和国]]&lt;br /&gt;
** [[添上郡]]のうち - 42村&lt;br /&gt;
** [[式上郡]]のうち - 9村&lt;br /&gt;
** [[十市郡]]のうち - 24村&lt;br /&gt;
** [[山辺郡]]のうち - 59村（うち1村を[[柳生藩]]に編入）&lt;br /&gt;
* [[伊賀国]]一円&lt;br /&gt;
** [[阿拝郡]] - 69村&lt;br /&gt;
** [[山田郡 (三重県)|山田郡]] - 26村&lt;br /&gt;
** [[名張郡]] - 41村&lt;br /&gt;
** [[伊賀郡]] - 61村&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[明治維新]]後、山辺郡1村が柳生藩領から柳生藩・津藩の[[相給]]となって領地に加わった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 支藩 ==&lt;br /&gt;
===久居藩===&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;久居藩&#039;&#039;&#039;（ひさいはん）は、[[伊勢国]]久居周辺（[[三重県]]旧[[久居市]]、現在は合併により津市）を支配した津藩の支藩。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====藩史====&lt;br /&gt;
[[寛文]]9年（[[1669年]]）、津藩の第2代藩主・藤堂高次が隠居して家督を子の[[藤堂高久]]に譲ったとき、次男の[[藤堂高通]]に5万石を分与して津藩の支藩である久居藩を立藩した。しかし[[城主大名|城主格]]の大名でありながら、築城を許可されず、陣屋と城下町を建設するに留まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
久居藩は高次が本家の嗣子が絶えた場合の無嗣子による改易に備えて設置した藩である。[[元禄]]10年（[[1697年]]）に高通の後を継いだ[[藤堂高堅]]は、3000石をさらに分与されて5万3000石を領する藩主となる。久居藩の内部状況であるが、常に津藩の本家の慣習を踏襲し、相談も行なうこととなった。しかし5回にもわたって[[江戸]]藩邸が焼失し、さらに連年にわたって凶作が相次ぐなどの悪条件も重なって、第5代藩主・[[藤堂高豊]]、第6代藩主・[[藤堂高雅]]の頃から財政悪化が顕著となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのため、倹約令を出して俸禄の借り上げを行なったが、その後も[[天明の大飢饉]]、[[天保の大飢饉]]、[[甲斐国|甲州]]の諸川の手伝い普請などから、遂に財政は破綻寸前となった。しかし名君で有名な第12代藩主・藤堂高兌の藩政改革により、藩財政は再建された。しかし高兌の死後（高兌は本家の藩主となっていた）、再び久居藩は財政が悪化し、第15代藩主・[[藤堂高聴]]は新田開発や[[雲出川]]の治水工事に取り組むことで藩政を再建しようとした。この改革は成功し、再び久居藩は再建された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幕末期は本家の津藩と共に[[天誅組]]討伐に参加した。[[明治]]2年（[[1869年]]）、第16代藩主・[[藤堂高邦]]は[[版籍奉還]]により知藩事となる。明治4年（[[1871年]]）の[[廃藩置県]]で久居藩は廃藩となって[[久居県]]、[[安濃津県]]、翌年には[[三重県]]に編入された。久居藩領の一志郡は久居県を経て[[度会県]]となり、明治9年（[[1876年]]）には三重県に編入されることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
歴代藩主の多くは若死、もしくは本家の津藩を継承した者が多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 歴代藩主 ====&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039; 藤堂（とうどう）家 &#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
[[外様]]。5万石→5万3000石→5万8700石。&lt;br /&gt;
#[[藤堂高通|高通]]（たかみち）〔従五位下。佐渡守〕&lt;br /&gt;
#[[藤堂高堅|高堅]]（たかかた）〔従五位下。備前守〕&lt;br /&gt;
#[[藤堂高陳|高陳]]（たかのぶ）〔従五位下。佐渡守〕&lt;br /&gt;
#[[藤堂高治|高治]]（たかはる）〔従五位下。大膳亮〕&lt;br /&gt;
#[[藤堂高朗|高豊]]（たかとよ）〔従五位下。大膳亮〕&lt;br /&gt;
#[[藤堂高雅|高雅]]（たかまさ）〔従五位下。佐渡守〕&lt;br /&gt;
#[[藤堂高嶷|高敦]]（たかあつ）〔従五位下。大膳亮〕&lt;br /&gt;
#[[藤堂高朶|高朶]]（たかえだ）〔従五位下。左京亮〕&lt;br /&gt;
#[[藤堂高興|高興]]（たかおき）〔従五位下。弾正忠〕&lt;br /&gt;
#[[藤堂高衡|高衡]]（たかひら）〔従五位下。佐渡守〕&lt;br /&gt;
#[[藤堂高矗|高矗]]（たかなお）〔従五位下。佐渡守〕&lt;br /&gt;
#[[藤堂高兌|高兌]]（たかさわ）〔従五位下。左近将監〕&lt;br /&gt;
#[[藤堂高邁|高邁]]（たかとう）〔従五位下。佐渡守〕&lt;br /&gt;
#[[藤堂高やつ|高秭]]（たかやつ）〔従五位下。佐渡守〕 - 「ヤツ」は「秭（禾＋弔に似た字）」&lt;br /&gt;
#[[藤堂高聴|高聴]]（たかより）〔従五位下。佐渡守〕&lt;br /&gt;
#[[藤堂高邦|高邦]]（たかくに）〔従五位下。佐渡守〕&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 幕末の領地 ====&lt;br /&gt;
* 山城国&lt;br /&gt;
** 相楽郡のうち - 14村　&lt;br /&gt;
* 大和国&lt;br /&gt;
** 添上郡のうち - 4村&lt;br /&gt;
** [[広瀬郡]]のうち - 1村&lt;br /&gt;
** 式上郡のうち - 1村&lt;br /&gt;
** 十市郡のうち - 7村&lt;br /&gt;
** 山辺郡のうち - 15村&lt;br /&gt;
* 伊勢国&lt;br /&gt;
** 三重郡のうち - 11村&lt;br /&gt;
** 河曲郡のうち - 16村&lt;br /&gt;
** 鈴鹿郡のうち - 7村&lt;br /&gt;
** 安濃郡のうち - 15村&lt;br /&gt;
** 一志郡のうち - 16村&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 家老 ==&lt;br /&gt;
* [[津藩家臣団]]を参照&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* [[深谷克己]]『津藩』（[[吉川弘文館]]、2002年） ISBN 4-642-06660-8&lt;br /&gt;
* 深谷克己『藩政改革と百姓一揆 &amp;lt;small&amp;gt;津藩の寛政期&amp;lt;/small&amp;gt;』（比較文化研究所、2004年） ISBN 4-902292-01-7&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[藩の一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{s-start}}&lt;br /&gt;
{{s-bef|before=（[[伊勢国]]・[[伊賀国]]）|表記=前}}&lt;br /&gt;
{{s-ttl|title=行政区の変遷&lt;br /&gt;
|years=[[1595年]] - [[1871年]]&amp;lt;br&amp;gt;|years2=津藩→津県}}&lt;br /&gt;
{{s-aft|after=[[安濃津県]]|表記=次}}&lt;br /&gt;
{{s-bef|before=（伊勢国）|表記=前}}&lt;br /&gt;
{{s-ttl|title=行政区の変遷&lt;br /&gt;
|years=[[1669年]] - 1871年&amp;lt;br&amp;gt;|years2=久居藩→久居県}}&lt;br /&gt;
{{s-aft|after=[[度会県]]|表記=次}}&lt;br /&gt;
{{end}}&lt;br /&gt;
{{江戸時代の藩}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:つはん}}&lt;br /&gt;
[[Category:藩]]&lt;br /&gt;
[[Category:津藩|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:伊勢国]]&lt;br /&gt;
[[Category:富田氏|藩]]&lt;br /&gt;
[[Category:藤堂氏|藩]]&lt;br /&gt;
[[Category:津市の歴史]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E4%B8%89%E6%B5%A6%E6%B0%8F&amp;diff=114932</id>
		<title>三浦氏</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E4%B8%89%E6%B5%A6%E6%B0%8F&amp;diff=114932"/>
		<updated>2014-08-19T06:14:09Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Otheruseslist|[[平安時代]]末期、[[鎌倉時代]]初期の[[坂東八平氏]]|その他の三浦氏|三浦氏 (曖昧さ回避)|}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{日本の氏族&lt;br /&gt;
|家名=三浦氏&lt;br /&gt;
|家紋=Japanese Crest Miura mitu Hiki.svg&lt;br /&gt;
|家紋名称=[[引両紋|三浦三つ引（中白）]]&lt;br /&gt;
|本姓=[[平氏#高望王流|桓武平氏]][[平良文|良文流]]（[[坂東八平氏|坂東平氏]]）?&lt;br /&gt;
|家祖=[[平忠通]]&lt;br /&gt;
|種別=[[武家]]&lt;br /&gt;
|出身地=[[相模国]]三浦&lt;br /&gt;
|根拠地=[[相模国]]三浦&lt;br /&gt;
|人物=[[三浦義澄]]&lt;br /&gt;
|支流=[[安西氏]]（[[武家]]）&amp;lt;br/&amp;gt;[[宮沢氏]]（[[武家]]）&amp;lt;br/&amp;gt;[[平子氏]]（[[武家]]）　&amp;lt;br/&amp;gt;[[津久井氏]]（[[武家]]）&amp;lt;br/&amp;gt;[[蘆名氏]]（[[武家]]）&amp;lt;br/&amp;gt;[[岡崎氏]]（[[武家]]）&amp;lt;br/&amp;gt;[[杉本氏]]（[[武家]]）&amp;lt;br/&amp;gt;[[和田氏]]（[[武家]]）&amp;lt;br/&amp;gt;[[大多和氏]]（[[武家]]）&amp;lt;br/&amp;gt;[[多々良氏]]（[[武家]]）&amp;lt;br/&amp;gt;[[佐久間氏]]（[[武家]]）&amp;lt;br/&amp;gt;[[長井氏]]（[[武家]]）&amp;lt;br/&amp;gt;[[杜氏 (三浦氏族)|杜氏]]（[[武家]]）&amp;lt;br/&amp;gt;[[佐原氏]]（[[武家]]）&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;三浦氏&#039;&#039;&#039;（みうらし）は、[[平安時代]]の[[相模国]]の[[武家]]。&#039;&#039;&#039;三浦党&#039;&#039;&#039;（みうらとう）とも呼ばれる。&lt;br /&gt;
__TOC__&lt;br /&gt;
&amp;lt;br clear=&amp;quot;both&amp;quot; /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出自 ==&lt;br /&gt;
[[File:Kinugasa Shōtengai 2010 0418 5.JPG|thumb|250px|三浦一党武者行列]]&lt;br /&gt;
出自については[[桓武平氏]]説、在地豪族説などがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;桓武平氏説&lt;br /&gt;
[[平氏#高望王流|桓武平氏]][[平良文|良文流]]の家系で、[[坂東八平氏|坂東平氏]]の一つである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;在地豪族（太田部直氏）説&lt;br /&gt;
[[太田亮]]の説によれば、三浦氏は古代から[[三浦半島]]に勢力を持った在地[[豪族]]・[[相武国造]]の子孫の[[太田部直氏]]で、平姓は&#039;&#039;&#039;[[僭称]]&#039;&#039;&#039;とする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、[[千葉氏]]が執筆した『[[源平闘諍録]]』では、[[承平天慶の乱#平将門の乱|平将門の乱]]で[[常陸国]]の信太島に配流された良文の子の[[平忠光|駿河守忠光]]が[[三浦青雲介]]の[[婿]]になり三浦氏が始まったといい、桓武平氏説と在地豪族説を折衷した形を採っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 三浦党の歴史 ==&lt;br /&gt;
三浦氏は、為通・為継・[[三浦義継|義継]]・義明・義澄・義村の6代に渡って一族を形成した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 三浦為通（為通流） ===&lt;br /&gt;
[[平良文]]の曾孫である[[平忠通]]（別説として忠光）の代に初めて三浦の苗字を名乗ったとされる。その子の[[三浦為通]]は[[前九年の役]]で武功を挙げ、[[源頼義]]から相模国三浦の領地を与えられる。ただし、為通については数種類現存する[[系図|家系図]]の中には記載されていないものもあり、その他信頼性が低い史料にしか見られないことから実在を疑う説も強い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;安西氏・宮沢氏&lt;br /&gt;
為通の次男・[[平為俊|為俊]]の息子である[[安西為景|為景]]は&#039;&#039;&#039;[[安西氏]]&#039;&#039;&#039;を称した。また、為俊の養子である[[平公俊|公俊]]は&#039;&#039;&#039;[[宮沢氏]]&#039;&#039;&#039;の祖となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 三浦為継（為継流） ===&lt;br /&gt;
三浦氏の動向が比較的明らかになるのは、為通の息子の[[三浦為継]]からである。なお、為通と為継の間に[[三浦為直|為直]]（為名）を置く系図も存在する&amp;lt;ref&amp;gt;『桓武平氏系図（[[群書類従]]）』&amp;lt;/ref&amp;gt;。為継は[[後三年の役]]に従事して功を立て、三浦氏発展の礎を築いた。この合戦中の[[鎌倉景政]]との遣り取りは有名である。為継以降の系図はほとんど差異がないが、三浦氏は寧ろ為継を初代と見做していたともいわれる。『[[吾妻鏡]]』には[[和田合戦]]直前に[[北条氏]]に寝返った[[三浦義村]]・[[三浦胤義|胤義]]兄弟が、為継のことを「嚢祖」と言う台詞が記載されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;平子氏（周防三浦氏）&lt;br /&gt;
為継の三男・[[平子通継|通継]]は&#039;&#039;&#039;[[平子氏]]&#039;&#039;&#039;を称して&#039;&#039;&#039;[[周防三浦氏]]&#039;&#039;&#039;の祖となり、四男・[[安西景継|景継]]は安西氏の養子となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 三浦義継（義継流） ===&lt;br /&gt;
為継の子・[[三浦義継]]（1067年-1159年）は[[相模国]]三浦郡を支配し、&#039;&#039;&#039;三浦荘司&#039;&#039;&#039;また&#039;&#039;&#039;三浦介&#039;&#039;&#039;を称した&amp;lt;ref&amp;gt;デジタル版 日本人名大辞典+Plus,講談社。コトバンク。&amp;lt;/ref&amp;gt;。以降、三浦党は[[相模国|相模]]の有力[[在庁官人]]として相模介となり、相模東半分と[[安房国|安房]]に勢力を振るう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*嫡男は[[三浦義明]]。&lt;br /&gt;
*次男の[[津久井義行|義行]]は&#039;&#039;&#039;[[津久井氏]]&#039;&#039;&#039;と称した。&lt;br /&gt;
*三男の[[蘆名為清|為清]]は&#039;&#039;&#039;[[蘆名氏]]&#039;&#039;&#039;を称しているが、孫の[[石田為久]]は[[源義仲|木曾義仲]]を討ち取っている。&lt;br /&gt;
*四男の[[岡崎義実|義実]]は&#039;&#039;&#039;[[岡崎氏]]&#039;&#039;&#039;を称し、その嫡子・[[佐奈田義忠]]は石橋山の戦いで討ち死にし、次男の[[土屋義清|義清]]は&#039;&#039;&#039;[[土屋氏]]&#039;&#039;&#039;の養子となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 三浦義明（義明流） ===&lt;br /&gt;
義継の嫡男・[[三浦義明]]（1092年-1180年）は[[三浦義澄|義澄]]とともに1156年の[[保元の乱]]・1160年の[[平治の乱]]で[[源義朝]]に従う。平治の乱では義朝が敗れ、三浦一族は戦線離脱に成功し、京都から落ち延び帰国する。その後、自領で雌伏していたが、[[大番役]]の行き帰りに[[源頼朝]]の配所を訪ねるなど、源氏との繋がりを保った。義明は父にならい&#039;&#039;&#039;三浦介&#039;&#039;&#039;と号し、三浦荘（現[[神奈川県]][[横須賀市]]）の[[在庁官人]]を務める。[[治承]]4年（[[1180年]]）、頼朝の挙兵に応じて、三浦一族は挙兵する。しかし[[石橋山の戦い]]で頼朝敗戦の報せを聞き、義明ら一族は引き返し、籠城戦、義明は一族を[[安房国]]に逃したあと、[[衣笠城合戦]]で戦死（享年89）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*義明の長男・[[杉本義宗|義宗]]は&#039;&#039;&#039;[[杉本氏]]&#039;&#039;&#039;を称するが39歳で没す。その息子・[[和田義盛|義盛]]は&#039;&#039;&#039;[[和田氏]]&#039;&#039;&#039;を称した。&lt;br /&gt;
*長男の義宗没後、家督は次男の&#039;&#039;&#039;義澄&#039;&#039;&#039;が継いだ。&lt;br /&gt;
*三男の[[大多和義久|義久]]は&#039;&#039;&#039;[[大多和氏]]&#039;&#039;&#039;を称した。&lt;br /&gt;
*四男の[[多々良義春|義春]]は&#039;&#039;&#039;[[多々良氏]]&#039;&#039;&#039;を称し、その息子・[[佐久間家村|家村]]は&#039;&#039;&#039;[[佐久間氏]]&#039;&#039;&#039;を称した。&lt;br /&gt;
*五男の[[長井義季|義季]]は&#039;&#039;&#039;[[長井氏]]&#039;&#039;&#039;を称した。&lt;br /&gt;
*六男の[[杜義行|義行]]は&#039;&#039;&#039;[[杜氏 (三浦氏族)|杜氏]]&#039;&#039;&#039;を称した。&lt;br /&gt;
*十男の[[佐原義連|義連]]は&#039;&#039;&#039;[[佐原氏]]&#039;&#039;&#039;を称したが、[[宝治合戦]]で本家が滅んだ後は、この家系が嫡流となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、&#039;&#039;&#039;[[猪苗代氏]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[北田氏]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[藤倉氏]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[蘆名氏]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[新宮氏]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[加納氏]]&#039;&#039;&#039;等、[[奥州]]で栄えた子孫もいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 三浦義澄（義澄流） ===&lt;br /&gt;
家督を継いだ[[三浦義澄]](1127年-1200年)は&#039;&#039;&#039;[[矢部氏|矢部次郎]]&#039;&#039;&#039;とも&#039;&#039;&#039;[[荒氏|荒次郎]]&#039;&#039;&#039;とも号した。義澄は[[千葉常胤]]・[[上総広常]]・[[土肥実平]]らと共に頼朝の宿老となった。この時、一族である[[和田義盛]]も[[侍所]]別当職に就いている。その後も三浦氏は頼朝に従い[[治承・寿永の乱|平氏追討]]・[[奥州合戦]]に参戦し、武功を挙げる。頼朝の死後は[[十三人の合議制]]のメンバーとなる。和田義盛も入り、三浦党は鎌倉幕府内で大きな権力を持った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしその後、[[北条氏]]による他氏排斥運動が起こり、和田義盛は[[建暦]]3年（[[1213年]]）の[[和田合戦]]で滅ぼされた。&lt;br /&gt;
{{Main|和田合戦}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 三浦義村（義村流） ===&lt;br /&gt;
義澄の跡は長子の[[三浦義村]](?-1239年)が継いだ。義村の弟である[[山口有綱|有綱]]・[[大河戸重澄|重澄]]は、それぞれ&#039;&#039;&#039;[[山口氏]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[大河戸氏]]&#039;&#039;&#039;を称した。義村は[[評定衆]]の宿老に就任。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 北条氏による滅亡 ===&lt;br /&gt;
義村の子には朝村、泰村、長村、光村、重村、家村、資村、[[三浦胤村|胤村]](のち[[親鸞]]の弟子）、重時、良賢らがいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*義村の長男である[[三浦朝村|朝村]]の末裔が[[今川氏]]の家臣である&#039;&#039;&#039;[[駿河三浦氏]]&#039;&#039;&#039;であると言う。&lt;br /&gt;
*次男は[[三浦泰村]](1184年-1247年)。&lt;br /&gt;
*四男は[[三浦光村]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
泰村と光村は権力を持ち北条氏を凌ぐほどになったため、[[宝治]]元年（[[1247年]]）の[[宝治合戦]]で北条氏と[[安達景盛]]らに滅亡させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[吾妻鏡]]には、三浦氏が喧嘩を起こしたという記事が極めて多い。義村、泰村、家村などが喧嘩を起こした記事がある。ただし、『吾妻鏡』は三浦氏が宝治合戦で滅ぼされた後、北条氏側の視点で書かれた史料であるため、三浦氏を貶める為に曲筆がなされた可能性もある&amp;lt;ref&amp;gt;佐藤・谷口、256-257頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[千葉胤綱]]が[[三浦義村]]の[[和田合戦]]での変節を「三浦の犬は友を食らうぞ」&amp;lt;ref&amp;gt;そもそもは義村が千葉胤綱に対し「&#039;&#039;&#039;下総の犬&#039;&#039;&#039;めは寝場所を知らぬな」と言ったことによる返し。&amp;lt;/ref&amp;gt;と非難したという『[[古今著聞集]]』のエピソードから、より口汚く「狂犬（マッドドッグ）」と評する人もいる。&amp;lt;ref&amp;gt;佐藤・谷口、255頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。三浦氏は鎌倉幕府内部において、評定衆として枢要な地位についていたが、その地位を『悪用』した振る舞いをすることが度々あった&amp;lt;ref&amp;gt;佐藤・谷口、256頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 滅亡後 ===&lt;br /&gt;
[[三浦家村|家村]]の末裔と言う[[三浦正次|正次]]が[[江戸時代]]に時の[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川家光]]に仕えて[[若年寄]]となり[[下総国|下総]][[矢作藩]]で大名に列し、[[三浦明次|明次]]の代に[[美作国|美作]][[美作勝山藩|勝山藩]]に封じられ[[廃藩置県]]を迎えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[三浦泰村|泰村]]の[[長男]]である[[三浦景村|景村]]は&#039;&#039;&#039;[[若狭氏]]&#039;&#039;&#039;を、次男である[[三浦景泰|景泰]]は&#039;&#039;&#039;[[沼田氏]]&#039;&#039;&#039;を称した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[三浦朝村|朝村]]の三男・[[三浦員村|員村]]は[[宝治合戦]]で[[惣領]]の泰村と共に自害したが、員村の次男・[[三浦盛明|盛明]]は無事であり、その子・義継が&#039;&#039;&#039;[[大隅石井氏|石井氏]]&#039;&#039;&#039;を称した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 相模三浦氏による再興 ===&lt;br /&gt;
その後、三浦氏は傍流の[[佐原氏]]の[[三浦盛時]]により再興された。盛時は宝治合戦前には既に[[北条時頼]]に懐柔されていたらしく、以降の三浦氏は[[御内人]]となって幕府内で活躍した。盛時の子の[[三浦頼盛]]は[[北条時輔]]の遺子を捕縛して幕府に引き渡している。盛時によって再興された佐原流三浦氏はやがて[[戦国大名]]の[[相模三浦氏]]となってゆく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 現在 ===&lt;br /&gt;
三浦氏の繁栄の名残は現在も各地に残っている。三浦氏の本拠があった[[横須賀市]][[衣笠 (横須賀市)|衣笠]]の[[衣笠商店街]]では「衣笠さくら祭り」の一環として三浦氏に扮した市民によるパレードを毎年4月に見ることができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
北条氏により滅ぼされた後、三浦氏の落人は各地に散った。現在でも、東北地方には地域の三浦姓の大本家として続く家が残っている。宮城県本吉地方には、伝承として、三浦氏の落人たちが各地に散り散りになる時に約束したという、「その地に三浦氏の者が住む目印として、庭に三浦氏のシンボルであるかやの木を植える」という風習が残っている家があり、三浦氏の祭神である三浦大明神を祀っている家もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==三浦党の人物==&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* [[平忠通|三浦忠通]]&lt;br /&gt;
* [[三浦為通]]&lt;br /&gt;
* [[三浦為継]]&lt;br /&gt;
* [[三浦義明]]&lt;br /&gt;
* [[三浦義澄]]&lt;br /&gt;
* [[三浦義村]]&lt;br /&gt;
* [[三浦泰村]]&lt;br /&gt;
* [[三浦光村]]&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* [[杉本義宗]]&lt;br /&gt;
* [[岡崎義実]]&lt;br /&gt;
* [[佐原義連]]&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;br style=&amp;quot;clear: left;&amp;quot; /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 一族 ==&lt;br /&gt;
*[[安西氏]]&lt;br /&gt;
*[[宮沢氏]]&lt;br /&gt;
*[[平子氏]]&lt;br /&gt;
**[[仁保氏]]&lt;br /&gt;
*[[津久井氏]]&lt;br /&gt;
**[[矢部氏]]&lt;br /&gt;
**[[平塚氏]]&lt;br /&gt;
**[[秋庭氏]]&lt;br /&gt;
**[[二宮氏]]&lt;br /&gt;
**[[若狭氏]]&lt;br /&gt;
*[[蘆名氏]]&lt;br /&gt;
**[[石田氏]]&lt;br /&gt;
**[[木曾氏]]&lt;br /&gt;
*[[岡崎氏]]&lt;br /&gt;
**[[佐奈田氏]]&lt;br /&gt;
**[[土屋氏]]&lt;br /&gt;
*[[杉本氏]]&lt;br /&gt;
**[[和田氏]]&lt;br /&gt;
***[[杉浦氏]]&lt;br /&gt;
*[[大多和氏]]&lt;br /&gt;
*[[多々良氏]]&lt;br /&gt;
**[[佐久間氏]]&lt;br /&gt;
*[[長井氏]]&lt;br /&gt;
*[[杜氏 (三浦氏族)|杜氏]]&lt;br /&gt;
*[[佐原氏]]&lt;br /&gt;
**[[安房正木氏|正木氏]]&lt;br /&gt;
*[[荒氏]]&lt;br /&gt;
*[[大隅石井氏|石井氏]]&lt;br /&gt;
*[[山口氏]]&lt;br /&gt;
*[[大河戸氏]]&lt;br /&gt;
*[[沼田氏]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==系譜==&lt;br /&gt;
&amp;lt;div class=&amp;quot;NavFrame&amp;quot; style=&amp;quot;clear: both; border:0;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;div class=&amp;quot;NavHead&amp;quot; style=&amp;quot;text-align: left;&amp;quot;&amp;gt;三浦氏&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01116e1.htm 日本の名字七千傑]&lt;br /&gt;
,[http://www2.harimaya.com/sengoku/html/miura_k.html 武家家伝],[http://keizudou.web.fc2.com/karou/wakayama.html 近世系図堂],[http://homepage1.nifty.com/t-kubo/Japan/meizoku/miura.htm#noritoki]&amp;lt;/ref&amp;gt;（佐原氏・相模三浦氏・美作三浦氏・美作勝山藩主家）・正木氏&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;div class=&amp;quot;NavContent&amp;quot; style=&amp;quot;text-align: left;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
&#039;&#039;太字は嫡流当主、実線は実子、点線（縦）は養子、点線（横）は婚姻関係。数字は美作津山藩主家歴代。&#039;&#039;&amp;lt;!--構成の都合で出生順より組み替え--&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{familytree/start|style=&amp;quot;font-size:85%&amp;quot;}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0|01||||| 01=[[平忠通]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| |)|-|-|v|-|-|.}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0|01|02|03||| 01=［村岡氏］&amp;lt;br/&amp;gt;村岡孝輔|02=&#039;&#039;&#039;[[三浦為通]]&#039;&#039;&#039;|03=［[[鎌倉氏]]］&amp;lt;br/&amp;gt;[[鎌倉章名]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| ||||)|-|-|-|-|-|.}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0||||01||||02|||| 01=&#039;&#039;&#039;為継&#039;&#039;&#039;|02=為俊}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| |,|-|-|+|-|-|.|||]|~|~|7}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0|01|02|03|04|05| 01=&#039;&#039;&#039;義継&#039;&#039;&#039;|02=［[[平子氏]]/[[仁保氏]]］&amp;lt;br/&amp;gt;平子通継|03=安西景継|04=［[[安西氏]]］&amp;lt;br/&amp;gt;安西為景|05=［宮沢氏］&amp;lt;br/&amp;gt;公俊}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| |)|-|-|v|-|-|v|-|-|.}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0|01|02|03|04|| 01=&#039;&#039;&#039;[[三浦義明|義明]]&#039;&#039;&#039;|02=［津久井氏］&amp;lt;br/&amp;gt;津久井義行|03=［[[蘆名氏#相模蘆名氏|相模蘆名氏]]］&amp;lt;br/&amp;gt;蘆名為清|04=［[[岡崎氏]]］&amp;lt;br/&amp;gt;[[岡崎義実]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| |)|-|-|v|-|-|v|-|-|-|-|-|-|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|.}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0|01|02|03|||||||04|05|06|07| 01=［[[杉本氏#桓武平氏三浦氏流|杉本氏]]］&amp;lt;br/&amp;gt;杉本義宗|02=&#039;&#039;&#039;[[三浦義澄|義澄]]&#039;&#039;&#039;|03=［[[大多和氏]]］&amp;lt;br/&amp;gt;[[大多和義久]]|04=［多々良氏］&amp;lt;br/&amp;gt;多々良義春|05=［[[長井氏]]］&amp;lt;br/&amp;gt;長井義季|06=［杜氏］&amp;lt;br/&amp;gt;杜義行|07=［[[佐原氏]]］&amp;lt;br/&amp;gt;[[佐原義連]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| |!|||)|-|-|v|-|-|v|-|-|.|||!|||||||||!}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0|01|02|03|04|05|06|F|y|~|~|~|~|07| 01=［[[和田氏]]］&amp;lt;br/&amp;gt;[[和田義盛]]|02=&#039;&#039;&#039;[[三浦義村|義村]]&#039;&#039;&#039;|03=［[[山口氏#相模山口氏 (三浦党)|山口氏]]］&amp;lt;br/&amp;gt;山口有綱|04=［大河戸氏］&amp;lt;br/&amp;gt;大河戸重澄|05=[[三浦胤義|胤義]]|06=［[[佐久間氏]]］&amp;lt;br/&amp;gt;佐久間家村|07=盛連}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| |,|-|-|+|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|.||:|!|||,|-|-|+|-|-|v|-|.}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0|01|02|03|04|05|06|J|!||07|08|010|09| 01=［駿河三浦氏］&amp;lt;br/&amp;gt;朝村|02=&#039;&#039;&#039;[[三浦泰村|泰村]]&#039;&#039;&#039;&amp;lt;br/&amp;gt;［断絶］|03=[[三浦光村|光村]]|04=家村|05=［駿河三浦氏］&amp;lt;br/&amp;gt;[[三浦胤村|胤村]]|06=[[矢部禅尼]]|07=［[[猪苗代氏]]］&amp;lt;br/&amp;gt;猪苗代経連|08=［[[北田城|北田氏]]］&amp;lt;br/&amp;gt;北田広盛|09=［金上氏］&amp;lt;br/&amp;gt;金上盛義|010=［[[加納氏#加納氏 (平氏)|加納氏]]］&amp;lt;br/&amp;gt;加納時村}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| ||||)|-|-|.|||!||||||,|-|-|+|-|-|-|-|-|-|-|-|.||!}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0||||01|02|03||||04|05|||||||06|07| 01=［若狭氏］&amp;lt;br/&amp;gt;若狭景村|02=［[[沼田氏]]］&amp;lt;br/&amp;gt;沼田景泰|03=義行|04=［[[蘆名氏#会津蘆名氏|会津蘆名氏]]］&amp;lt;br/&amp;gt;蘆名光盛|05=［[[相模三浦氏]]］&amp;lt;br/&amp;gt;&#039;&#039;&#039;[[三浦盛時]]&#039;&#039;&#039;|06=［[[新宮氏#新宮氏 (陸奥国)|新宮氏]]］&amp;lt;br/&amp;gt;新宮時連|07=（略）}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| ||||||||||!||||||,|-|-|+|-|-|.||||||!||!}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0||||||||||01||||05|02|04||||03|06| 01=行経|02=&#039;&#039;&#039;[[三浦頼盛|頼盛]]&#039;&#039;&#039;|03=杉本宗明|04=為連|05=（7代略）|06=盛信}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| ||||||||||!||||||!|||!|||!||||||!||!}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0||||||||||01||||05|02|04||||03|06| 01=朝常|02=&#039;&#039;&#039;時明&#039;&#039;&#039;|03=［[[美作三浦氏]]］&amp;lt;br/&amp;gt;三浦貞宗|04=[[佐原明連]]|05=佐原高重|06=[[金上盛備|盛備]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| ||||||||||!||||||!|||!|||!||||||!||!}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0||||||||||01||||05|02|04||||03|06| 01=正胤|02=&#039;&#039;&#039;時継&#039;&#039;&#039;|03=行連|04=[[池成明]]|05=[[佐原高明|高明]]|06=（略）}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| ||||||||||!|||||||||!|||!||||||!||!}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0||||||||||01|||||||02|04||||03|05| 01=重明|02=&#039;&#039;&#039;高継&#039;&#039;&#039;|03=範連|04=［[[山吉氏]]］&amp;lt;br/&amp;gt;[[山吉長久]]|05=[[佐原盛純]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| ||||||||||!|||||||||!|||||||||!}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0||||||||||01|||||||02|||||||03| 01=正友|02=&#039;&#039;&#039;高通&#039;&#039;&#039;|03=政盛}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| ||||||||||!|||||||||!|||||||||!}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0||||||||||01|||||||02|||||||03| 01=重村|02=&#039;&#039;&#039;高連&#039;&#039;&#039;|03=貞明}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| ||||||||||!|||||||||!|||||||||!}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0||||02||||01|||||||03|||||||04| 01=正村|02=土井利昌|03=&#039;&#039;&#039;高明&#039;&#039;&#039;|04=貞連}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| ||||!||||||!|||,|-|-|v|-|-|&#039;|||||||||!}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0||||02|~|y|~|01|03|04|~|y|~|05|06|07| 01=正重|02=女|03=&#039;&#039;&#039;[[三浦時高|時高]]&#039;&#039;&#039;|04=女|05=[[大森氏頼]]|06=[[上杉持朝]]|07=貞国}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| |||||||!||||||D|~|~|7|||!||||||!|||)|-|.}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0|||||||01||||02|03|04|~|y|~|05|06|07| 01=［美作勝山藩主家］&amp;lt;br/&amp;gt;[[三浦正次|土井正次→三浦正次]]&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt;|02=&#039;&#039;&#039;[[三浦高救|高救]]&#039;&#039;&#039;|03=&#039;&#039;&#039;[[三浦義同|義同]]&#039;&#039;&#039;|04=女|05=[[三浦高救]]|06=[[三浦貞久|貞久]]|07=[[三浦貞盛|貞盛]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| ||||,|-|-|(|||,|-|-|v|-|-|(||||||!||||||)|-|.}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0||||01|02|04|05|06||||03||||07|08| 01=[[三浦安次|安次]]&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt;|02=［旗本］&amp;lt;br/&amp;gt;共次|03=[[三浦義同|義同]]|04=&#039;&#039;&#039;[[三浦義意|義意]]&#039;&#039;&#039;|05=二俣義正|06=［[[安房正木氏|正木氏]]］&amp;lt;br/&amp;gt;[[正木通綱]]?&amp;lt;ref&amp;gt;三浦時高の子もしくは三浦義時（三浦義同の弟）の子とも。&amp;lt;/ref&amp;gt;|07=[[三浦貞広|貞広]]|08=[[三浦貞勝|貞勝]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| ||||!|||||||||!|||!||||||||||||!}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0||||01|||||||02||!|||||||||||03| 01=[[三浦明敬|明敬]]&amp;lt;sup&amp;gt;3&amp;lt;/sup&amp;gt;|02=佐原義成|03=[[三浦桃寿丸|桃寿丸]]&amp;lt;br/&amp;gt;［無嗣断絶］}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| |,|-|-|+|-|-|.|||,|-|-|(|||!}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0|01|02|03|05|04||!| 01=[[三浦重次|重次]]|02=[[三浦明喬|明喬]]&amp;lt;sup&amp;gt;4&amp;lt;/sup&amp;gt;|03=[[三浦義理|義理]]|04=[[三浦重成]]|05=女}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| ||||}|-|-|.|||]|~|~|[|||)|-|-|.}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0||||01|02|04|03|05|06| 01=[[三浦義理|義理]]&amp;lt;sup&amp;gt;5&amp;lt;/sup&amp;gt;|02=[[三浦明次|明次]]||03=[[三浦重勝|重勝]]&amp;lt;br/&amp;gt;［無嗣断絶］|04=[[阿部重次]]|05=［&amp;lt;small&amp;gt;大多喜&amp;lt;/small&amp;gt;正木氏］&amp;lt;br/&amp;gt;[[正木時茂 (正木時綱子)|時茂]]|06=［&amp;lt;small&amp;gt;勝浦&amp;lt;/small&amp;gt;正木氏］&amp;lt;br/&amp;gt;[[正木時忠|時忠]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| ||||}|-|-|.|||,|-|-|v|-|-|{|||)|-|-|v|-|-|v|-|-|.}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0||||01|02|05|03|04|06|07|08|09| 01=[[三浦明次|明次]]&amp;lt;sup&amp;gt;6&amp;lt;/sup&amp;gt;|02=[[三浦矩次|矩次]]|03=[[正木信茂|信茂]]|04=[[正木憲時|憲時]]&amp;lt;ref&amp;gt;正木弘季（正木通綱の末子）の子もしくは正木時忠の子。&amp;lt;/ref&amp;gt;|05=女|06=[[正木時通|時通]]|07=［[[水戸藩]]士］&amp;lt;br/&amp;gt;時勝|08=［水戸藩士］&amp;lt;br/&amp;gt;時秀|09=[[正木頼忠|頼忠]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| ||||}|-|-|.|||!||||||:|||:|||}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0||||01|02|03||||04|05||| 01=[[三浦矩次|矩次]]&amp;lt;sup&amp;gt;7&amp;lt;/sup&amp;gt;|02=[[三浦前次|前次]]|03=[[正木時茂 (里見義頼子)|正木時茂]]|04=[[正木時茂 (里見義頼子)|時茂]]|05=[[正木頼忠|頼忠]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| ||||}|-|-|.|||F|~|~|V|~|~|C|||!}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0||||01|02|03|04|05||!| 01=[[三浦前次|前次]]&amp;lt;sup&amp;gt;8&amp;lt;/sup&amp;gt;|02=[[三浦毘次|毘次]]|03=忠尭&amp;lt;ref&amp;gt;[[安房国|安房]][[館山藩|館山藩主]]・[[里見義康]]の子、時茂（通綱の子）の外孫。&amp;lt;/ref&amp;gt;|04=［[[岡山藩]]士］&amp;lt;br/&amp;gt;時次&amp;lt;ref name=&amp;quot;康俊&amp;quot;&amp;gt;安房館山藩主一門・里見康俊の子、忠尭の従兄弟。&amp;lt;/ref&amp;gt;|05=［[[大久保氏]]臣］&amp;lt;br/&amp;gt;時俊&amp;lt;ref name=&amp;quot;康俊&amp;quot;/&amp;gt;|}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| ||||}|-|-|.|||,|-|-|v|-|-|v|-|-|+|-|-|v|-|-|.}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0||||01|02|06|07|09|08|010|011|~|y|~|012| 01=[[三浦毘次|毘次]]&amp;lt;sup&amp;gt;9&amp;lt;/sup&amp;gt;|02=[[三浦誠次|誠次]]|06=［[[東条松平家]]臣］&amp;lt;br/&amp;gt;直連|07=［[[紀州藩]]家老］&amp;lt;br/&amp;gt;[[三浦為春]]|08=［旗本］&amp;lt;br/&amp;gt;康長|09=［[[長沢松平家]]臣］&amp;lt;br/&amp;gt;時明|010=［紀州藩士］&amp;lt;br/&amp;gt;三浦定利|011=[[養珠院]]|012=[[徳川家康]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| ||||:|||,|-|-|v|-|-|(||||||:||||||,|-|-|(}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0||||01|02|03|04||||05||||06|07| 01=[[三浦誠次|誠次]]&amp;lt;sup&amp;gt;10&amp;lt;/sup&amp;gt;|02=［水戸藩士］&amp;lt;br/&amp;gt;為次|03=［[[駿河徳川家]]臣］&amp;lt;br/&amp;gt;為連|04=[[三浦為時|為時]]|05=康可&amp;lt;ref&amp;gt;旗本・[[大久保忠当]]の3男。&amp;lt;/ref&amp;gt;|06=［紀州徳川家］&amp;lt;br/&amp;gt;[[徳川頼宣]]|07=［[[水戸徳川家]]］&amp;lt;br/&amp;gt;[[徳川頼房]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| |,|-|-|+|-|-|.|||,|-|-|+|-|-|.|||)|-|-|.|||!}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0|01|02|03|04|05|06|07|08|09| 01=[[三浦峻次|峻次]]&amp;lt;sup&amp;gt;11&amp;lt;/sup&amp;gt;|02=[[三浦弘次|弘次]]|03=[[三浦義次|義次]]|04=[[三浦為隆|為隆]]|05=中川元宣|06=垣屋為淳|07=住成|08=大久保忠之|09=[[松平頼純|松平（紀州）頼純]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| |:|||||||||:|||!||||||:||||||!}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0|01|||||||02|03||||04||||05| 01=[[三浦義次|&amp;lt;small&amp;gt;備後守&amp;lt;/small&amp;gt;義次]]&amp;lt;sup&amp;gt;12&amp;lt;/sup&amp;gt;|02=[[三浦為恭|為恭]]|03=[[三浦為恭]]|04=康度&amp;lt;ref&amp;gt;[[榊原氏|榊原家]]臣・竹本長之の子。&amp;lt;/ref&amp;gt;|05=[[徳川宗直]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| |:|||||||||:|||||||||!||||||!}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0|01|||||||02|||||||03||||04| 01=[[三浦朗次|朗次]]&amp;lt;sup&amp;gt;13&amp;lt;/sup&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[越前国|越前]][[丸岡藩|丸岡藩主]]・[[有馬徳純]]の長子。&amp;lt;/ref&amp;gt;|02=[[三浦為脩|為脩]]|03=康村|04=[[徳川宗将|宗将]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| |:|||||||||!|||||||||:||||||!}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0|01|||||||02|||||||03||||04| 01=[[三浦弘次|弘次]]&amp;lt;sup&amp;gt;14&amp;lt;/sup&amp;gt;|02=[[三浦為積|為積]]|03=康恒&amp;lt;ref&amp;gt;[[水戸徳川家]]臣・朝比奈泰尚の4男。&amp;lt;/ref&amp;gt;|04=[[三浦為脩]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| |!|||||||||!|||||||||)|-|-|.}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0|01|||||||02|||||||03|04| 01=[[三浦顕次|顕次]]&amp;lt;sup&amp;gt;15&amp;lt;/sup&amp;gt;|02=[[三浦為章|為章]]|03=森川俊尹|04=康満}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| |!|||||||||)|-|-|.|||||||||!}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0|01|||||||02|03|||||||04| 01=基次&amp;lt;sup&amp;gt;16&amp;lt;/sup&amp;gt;|02=[[三浦権五郎|為質]]|03=水野正義|04=康忠}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| |!|||||||||:}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0|01|||||||02| 01=義次&amp;lt;sup&amp;gt;17&amp;lt;/sup&amp;gt;|02=三七&amp;lt;ref&amp;gt;中川某の子。&amp;lt;/ref&amp;gt;}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| ||||||||||!}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0||||||||||01| 01=英太郎&amp;lt;ref&amp;gt;嫡孫相続。&amp;lt;/ref&amp;gt;}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| ||||||||||)|-|-|.}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0||||||||||01|02| 01=修|02=八代通夫}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| ||||||||||!}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0||||||||||01|| 01=孝昭}}&lt;br /&gt;
{{familytree/end}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;hr/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[宝治合戦]]&lt;br /&gt;
* [[坂東八平氏]]&lt;br /&gt;
* [[八介]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*佐藤和彦・谷口榮『吾妻鏡事典』(東京堂出版) ISBN 978-4-490-10723-4&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/rekishi.html 歴史に見る三浦氏]（『三浦三崎ひとめぐり』より）&lt;br /&gt;
*[http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01116e1.htm 日本の名字七千傑]&lt;br /&gt;
*[http://www2.harimaya.com/sengoku/html/miura_k.html 武家家伝]&lt;br /&gt;
*[http://keizudou.web.fc2.com/karou/wakayama.html 近世系図堂]&lt;br /&gt;
*[http://homepage1.nifty.com/t-kubo/Japan/meizoku/miura.htm#noritoki 名族系図三浦氏]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Japanese-history-stub}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:みうらし}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の氏族]]&lt;br /&gt;
[[Category:三浦氏|!]]&lt;br /&gt;
[[Category:相模国|氏]]&lt;br /&gt;
[[Category:神奈川県の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:千葉県の歴史]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E8%97%A4%E5%A0%82%E9%AB%98%E8%99%8E&amp;diff=76295</id>
		<title>藤堂高虎</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E8%97%A4%E5%A0%82%E9%AB%98%E8%99%8E&amp;diff=76295"/>
		<updated>2014-08-19T01:55:16Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{基礎情報 武士&lt;br /&gt;
| 氏名 = 藤堂 高虎&lt;br /&gt;
| 画像 = Toudou Takatora.jpg&lt;br /&gt;
| 画像サイズ = 230px&lt;br /&gt;
| 画像説明 = &lt;br /&gt;
| 時代 = [[戦国時代_(日本)|戦国時代]] - [[江戸時代]]前期&lt;br /&gt;
| 生誕 = [[弘治 (日本)|弘治]]2年[[1月6日 (旧暦)|1月6日]]（[[1556年]][[2月16日]]）&lt;br /&gt;
| 死没 = [[寛永]]7年[[10月5日 (旧暦)|10月5日]]（[[1630年]][[11月9日]]）&lt;br /&gt;
| 改名 = 与吉（幼名）、高虎&lt;br /&gt;
| 別名 = 与右衛門（通称）&lt;br /&gt;
| 戒名 = 寒松院殿道賢高山権大僧都&lt;br /&gt;
| 墓所 = [[東京都]][[台東区]][[上野恩賜公園]]内の寒松院&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot;&amp;gt;寒松院は公園隣接地に移転したが、墓所は[[恩賜上野動物園|動物園]]内に残る（関係者のみ立ち入り可能）&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
| 官位 = [[従四位|従四位下]]、[[近衛府|左近衛権少将]]、[[佐渡国|佐渡守]]、[[和泉国|和泉守]]&lt;br /&gt;
| 主君 = [[浅井長政]]→[[阿閉貞征]]→[[磯野員昌]]→[[津田信澄|織田信澄]]→[[豊臣秀長]]→[[豊臣秀保|秀保]]→[[豊臣秀吉|秀吉]]→[[豊臣秀頼|秀頼]]→[[徳川家康]]→[[徳川秀忠|秀忠]]→[[徳川家光|家光]]&lt;br /&gt;
| 藩   = [[伊予国|伊予]][[今治藩]]主→[[伊勢国|伊勢]][[津藩]]主&lt;br /&gt;
| 氏族 = [[藤堂氏]]&lt;br /&gt;
| 父母 = 父：[[藤堂虎高]]、母：[[藤堂忠高]]の娘（多賀良氏の娘・盛との説もある）&lt;br /&gt;
| 兄弟 = 姉（[[鈴木弥右衛門]]室）、[[藤堂高則|高則]]、&#039;&#039;&#039;高虎&#039;&#039;&#039;、妹（[[山岡直則]]室、後に[[渡辺守]]室）、[[藤堂高清|高清]]、[[藤堂正高|正高]]、妹（[[藤堂高経]]室）&lt;br /&gt;
| 妻   = 正室：&#039;&#039;&#039;久芳院&#039;&#039;&#039;（[[一色義直 (旗本)|一色義直]]の娘）&amp;lt;br/&amp;gt;継室：&#039;&#039;&#039;松寿院&#039;&#039;&#039;（[[長連久]]の娘）&lt;br /&gt;
| 子   = &#039;&#039;&#039;[[藤堂高次|高次]]&#039;&#039;&#039;、[[藤堂高重|高重]]、娘（[[蒲生忠郷]]正室、後に[[専修寺]][[堯朝]]室）、娘（[[藤堂忠季]]室）、娘（[[岡部桂賢]]室）、娘（[[生駒正俊]]室）&amp;lt;br/&amp;gt;養子：&#039;&#039;[[藤堂高吉|高吉]]&#039;&#039;（[[丹羽長秀]]の三男）&amp;lt;br/&amp;gt;養女：&#039;&#039;[[織田信清]]の娘&#039;&#039;（[[藤堂高刑]]室）&amp;lt;br/&amp;gt;養女：&#039;&#039;[[藤堂嘉晴]]の娘&#039;&#039;（[[小堀政一]]室）&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
[[画像:Todo Takatora.jpg|thumb|285px|津城址にある藤堂高虎像]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;藤堂 高虎&#039;&#039;&#039;（とうどう たかとら）は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての[[武将]]・[[大名]]。[[伊予国|伊予]][[今治藩]]主。後に[[伊勢国|伊勢]][[津藩]]の初代[[藩主]]となる。[[藤堂氏|藤堂家]]宗家初代。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
何度も主君を変えた戦国武将として知られる。[[築城]]技術に長け、[[宇和島城]]・[[今治城]]・[[篠山城]]・[[津城]]・[[伊賀国|伊賀]][[上野城]]・[[膳所城]]などを築城した。高虎の築城は[[石垣]]を高く積み上げることと[[堀]]の設計に特徴があり、同じ築城の名手でも石垣の反りを重視する[[加藤清正]]と対比される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 浅井家臣時代 ===&lt;br /&gt;
弘治2年（1556年）1月6日、[[近江国]][[犬上郡]]藤堂村（現・[[滋賀県]]犬上郡[[甲良町]]在士）の[[土豪]]・藤堂虎高の次男として生まれる（長兄・[[藤堂高則|高則]]は早世）。藤堂氏は先祖代々在地の小領主であったが、戦国時代にあって没落しており、農民にまで身を落としていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;楠戸72&amp;quot;/&amp;gt;。幼名を与吉と名乗った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
はじめ近江国の[[戦国大名]]・[[浅井長政]]の[[足軽]]として仕え、[[元亀]]元年（[[1570年]]）の[[姉川の戦い]]に参戦して織田軍の敵首を取る武功を挙げ&amp;lt;ref name=&amp;quot;楠戸72&amp;quot;/&amp;gt;、長政から感状を受ける。[[天正]]元年（[[1573年]]）に[[小谷城の戦い]]で[[浅井氏]]が[[織田信長]]によって滅ぼされると、浅井氏の旧臣だった[[阿閉貞征]]、次いで同じく浅井氏旧臣の[[磯野員昌]]の家臣として仕えた。やがて近江国を去り、信長の甥・[[津田信澄|織田信澄]]の家臣として仕えるも長続きしなかった。このように仕官先を転々として流浪生活をしている間、無銭飲食をしたという話も残っている&amp;lt;ref name=&amp;quot;楠戸73&amp;quot;&amp;gt;楠戸義昭『戦国武将名言録』P73&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 豊臣家臣時代 ===&lt;br /&gt;
天正4年（[[1576年]]）に信長の重臣・[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]の弟・秀長（後の[[豊臣秀長]]）に300石で仕える&amp;lt;ref name=&amp;quot;楠戸73&amp;quot;/&amp;gt;。天正9年（[[1581年]]）には[[但馬国]]の土豪を討った功績により3,000石の所領を加増され、鉄砲大将となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;Sakuragi&amp;quot;&amp;gt;桜木謙堂『高山公』P18&amp;lt;/ref&amp;gt;。秀長のもとでは[[中国攻め]]、[[賤ヶ岳の戦い]]などに従軍する。賤ヶ岳の戦いで[[佐久間盛政]]を銃撃して敗走させ、戦勝の端緒を開く抜群の戦功を挙げたため、1,300石を加増された&amp;lt;ref name=&amp;quot;Sakuragi&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正13年（[[1585年]]）の[[紀州征伐]]に従軍し、10月に[[湯川直晴]]を降伏させ、山本主膳を斬った&amp;lt;ref name=&amp;quot;Sakuragi&amp;quot;/&amp;gt;。また秀長の命令で[[雑賀党]]の[[鈴木重意]]を謀略で自害に追い込んだと言われる。戦後は[[紀伊国]][[粉河町|粉河]]に5,000石を与えられ&amp;lt;ref&amp;gt;[[新人物往来社]]編『豊臣秀長のすべて』（新人物往来社、1996年） ISBN 4404023340 P168、桜木『高山公』P18では１万石加増とする。&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[猿岡山城]]、[[和歌山城]]の築城に当たって普請奉行に任命される。これが高虎の最初の築城である。同年の[[四国攻め]]にも功績が有り、秀吉から5,400石をさらに加増され、1万石の大名となった。[[方広寺]][[大仏殿]]建設の際には材木を熊野から調達するよう秀吉から命じられている&amp;lt;ref&amp;gt;『豊臣秀長のすべて』P169-170&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正14年（[[1586年]]）関白となった秀吉は、秀吉に謁見するため上洛することになった[[徳川家康]]の屋敷を聚楽第の邸内に作るよう秀長に指示、秀長は作事奉行として高虎を指名した。高虎は渡された設計図に警備上の難点があるとして、独断で設計を変更、費用は自分の持ち出しとする。のちに家康に引見され、設計図と違う点を尋ねられると、「天下の武将である家康様に御不慮があれば、主人である秀長の不行き届き、関白秀吉様の面目に関わると存じ、私の一存で変更いたしました。御不興であれば、ご容赦なくお手討ちください」と返した。家康は高虎の心遣いに感謝したという。&amp;lt;ref&amp;gt;『高山公実録』&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正15年（[[1587年]]）の[[九州征伐]]では[[根白坂の戦い]]で島津軍に攻められた味方を救援する活躍を見せて2万石に加増される。&amp;lt;ref&amp;gt;『新七郎家乗』&amp;lt;/ref&amp;gt;この戦功により、秀吉の推挙を受けて[[正五位下]]・[[佐渡国|佐渡守]]に叙任する。天正17年（[[1589年]]）、[[北山一揆]]の鎮圧の拠点として赤木城（現三重県熊野市紀和町）を築城した。また高虎によって、多数の農民が田平子峠で斬首された&amp;lt;ref&amp;gt;『日本城郭大系』第10巻（新人物往来社、1980年）P187-188&amp;lt;/ref&amp;gt;。当地では「行たら戻らぬ赤木の城へ、身捨てどころは田平子じゃ」と、処罰の厳しさが歌となって残っている&amp;lt;ref&amp;gt;『三重県の歴史散歩』P271&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正19年（[[1591年]]）に秀長が死去すると、甥で養子の[[豊臣秀保]]に仕え、秀保の代理として翌年の[[文禄・慶長の役#文禄の役|文禄の役]]に出征している。[[文禄]]4年（[[1595年]]）に秀保が早世したため、出家して[[高野山]]に上るも、その将才を惜しんだ豊臣秀吉が[[生駒親正]]に説得させて召還したため還俗し、5万石を加増されて伊予国板島（現在の[[宇和島市]]）7万石の大名となる&amp;lt;ref&amp;gt;桜木『高山公』P23&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[慶長]]2年（[[1597年]]）からの慶長の役にも水軍を率いて参加し、[[漆川梁海戦]]では[[李氏朝鮮|朝鮮]]水軍の武将・[[元均]]率いる水軍を殲滅するという武功を挙げ、[[南原城の戦い]]と[[鳴梁海戦]]にも参加し、帰国後に[[大洲城]]1万石を加増されて8万石となる&amp;lt;ref&amp;gt;桜木『高山公』P31に引く6月23日付けの秀吉朱印状による。尚、桜木は6月26日付けで海船総督に任じられ、幔幕と軍艦を下賜されたとする。桜木『高山公』P32には、[[斎藤拙堂]]の書を引いて日本丸を与えられたのも加増時だとしている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。この時期に板島丸串城の大規模な改修を行い、完成後に宇和島城に改称している。朝鮮の官僚・[[姜コウ|姜沆]]を捕虜にして日本へ移送したのもこの時期である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 関ヶ原の戦い ===&lt;br /&gt;
[[File:Site of Tōdō Takatora and Kyōgoku Takatomo&#039;s Positions.jpg|thumb|関ヶ原の戦いの藤堂高虎・京極高知陣跡（岐阜県不破郡関ケ原町）]]&lt;br /&gt;
慶長3年（[[1598年]]）8月の秀吉の死去直前から[[徳川家康]]に急接近する。これは、高虎は元々家康と親交があって、家康の高邁な志を理解しており、他の大名たちは後漢末の[[劉表]]のようにただ領地を守ることに汲々としており、天下を治める事はできないが、家康は北宋の太祖・[[趙匡胤]]のような人物で、天下を治める力があると考えていたからだといわれている&amp;lt;ref&amp;gt;桜木『高山公』P35。この頃から高虎は儒者の三宅亡羊に[[資治通鑑]]を講義させており、中国の歴史に感激していたという。桜木は、高虎は[[趙普]]のようだと述べている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[豊臣氏]]の家臣団が[[武断派]]・[[文治派]]に分裂すると、高虎は武断派の諸将に先んじて徳川家康側に与した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
慶長5年（[[1600年]]）、家康による[[会津征伐]]に従軍し、その後の[[木曽川・合渡川の戦い|合渡川の戦い]]に参戦する。9月15日の[[関ヶ原の戦い|関ヶ原本戦]]では[[大谷吉継]]隊と死闘を演じた。また、留守中の伊予国における[[毛利輝元]]の策動による一揆を鎮圧している（[[関ヶ原の戦い#四国|毛利輝元の四国出兵]]）。更に[[脇坂安治]]や[[小川祐忠]]、[[朽木元綱]]、[[赤座直保]]らに対して、東軍への寝返りの調略を行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦後、これらの軍功により家康から宇和島領を含む今治20万石に加増されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 江戸時代 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Toudou Takatora2.jpg|thumb|300px|藤堂様御国入行列附版画/伊賀文化産業協会蔵]]&lt;br /&gt;
その後、高虎は徳川家の重臣として仕え、[[江戸城]]改築などにも功を挙げたため、慶長13年（[[1608年]]）に[[伊賀国|伊賀]][[伊賀上野藩|上野藩]]主・[[筒井定次]]の[[改易]]と[[伊勢国|伊勢]][[津藩]]主・[[富田信高]]の[[伊予国|伊予]][[宇和島藩]]への転封で今治周辺の越智郡2万石を飛び地とし、伊賀一国、並びに伊勢8郡22万石に加増移封され、津藩主となる。家康は高虎の才と忠義を高く評価し、[[外様大名]]でありながら[[譜代大名]]格（別格譜代）として重用した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
慶長19年（[[1614年]]）からの[[大坂の陣#大坂冬の陣|大坂冬の陣]]では徳川方として参加する。翌年の[[大坂の陣#大坂夏の陣|大坂夏の陣]]でも徳川方として参戦し、自ら[[河内国|河内]]方面の先鋒を志願して、八尾において豊臣方の[[長宗我部盛親]]隊と戦う（[[八尾・若江の戦い|八尾の戦い]]）。この戦いでは長宗我部軍の猛攻にあって、一族の[[藤堂良勝]]や[[藤堂高刑]]をはじめ、600人余りの死傷者を出している。戦後、その功績により32万石に加増され、同年閏6月には従四位下に昇任した。しかし、この戦いで独断専行を行った家臣の[[渡辺了]]と衝突、決別している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高虎はこの戦いの戦没者供養のため、[[南禅寺]]三門を造営し、[[釈迦]]三尊像及び十六[[羅漢]]像を造営・安置している。[[梅原猛]]によれば、この釈迦如来像は岩座に坐し、宝冠をかぶった異形の像であり、高虎若しくは主君である徳川家康の威厳を象徴しているのではないかという（[[釈迦如来]]像は蓮華座に坐し飾りをつけないのが通例）。また、[[常光寺 (八尾市)|常光寺]]の居間の縁側で八尾の戦いの[[首実検]]を行ったため、縁側の板は後に廊下の天井に張り替えられ、[[血天井]]として現存している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
家康死去の際には枕元に侍ることを許された。家康没後は第2代[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川秀忠]]に仕え、[[元和 (日本)|元和]]6年（[[1620年]]）に秀忠の5女・[[徳川和子|和子]]が入内する際には自ら志願して露払い役を務め、宮中の和子入内反対派公家の前で「和子姫が入内できなかった場合は責任をとり御所で切腹する」と言い放ち、強引な手段で押し切ったという（[[およつ御寮人事件]]）。寛永4年（[[1627年]]）には自分の敷地内に[[上野東照宮]]を建立している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方で内政にも取り組み、上野城と津城の[[城下町]]建設と地方の農地開発、寺社復興に取り組み、藩政を確立させた。また、幕府の命令で[[陸奥国|陸奥]][[会津藩]]と[[讃岐国|讃岐]][[高松藩]]、[[肥後国|肥後]][[熊本藩]]の後見を務め、家臣を派遣して藩政を執り行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
晩年には眼病を患って失明している。寛永7年（1630年）10月5日に死去。[[享年]]75。後を長男の[[藤堂高次|高次]]が継いだ。養子の[[藤堂高吉|高吉]]は高次の家臣として仕え、後に伊賀名張に転封、分家を興した（[[名張藤堂家]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
墓は[[東京都]][[台東区]][[上野恩賜公園]]内の[[寒松院]]。また、[[三重県]][[津市]]の[[高山神社 (三重県)|高山神社]]に祀られている。屋敷は東京都[[千代田区]][[神田和泉町]]他にあった（町名の和泉町は高虎の官位和泉守にちなむ）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物・逸話 ==&lt;br /&gt;
=== 体格 ===&lt;br /&gt;
6尺2寸（約190センチメートル）を誇る大男だったと言われている&amp;lt;ref name=&amp;quot;楠戸72&amp;quot;&amp;gt;楠戸義昭『戦国武将名言録』P72&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[藤田達生]]『江戸時代の設計者―異能の武将・藤堂高虎―』（[[講談社現代新書]]、2006年）P28&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
高虎の身体は弾傷や槍傷で隙間なく、右手の薬指と小指はちぎれ、左手の中指も短く爪は無かった。左足の親指も爪が無く、満身創痍の身体であり、75歳で高虎が死去した際に若い近習が遺骸を清めて驚いたと言われている&amp;lt;ref&amp;gt;『平尾留書』&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;楠戸72&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 家臣への対応 ===&lt;br /&gt;
ある時5人の家臣（[[遊女]]好きの家臣2人と[[博打]]打ち好きの家臣3人）が喧嘩を起こして、それを高虎自らが裁いた。この時高虎は遊女好きの家臣を追放し、博打打ち好きの家臣は減知の上、百日の閉門として家中に残した。不思議に思った側近が尋ねると、高虎は「女好きは物の役に立たないが、博打好きな奴は相手に勝とうとする気概がある」と答えたという（[[南条範夫]]『武家盛衰記』）。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高虎は8度も主君を変えた苦労人のため人情に厚く、家臣を持つことに余り頓着せず、暇を願い出る者があるときは「明朝、茶を振る舞ってやろう」と言ってもてなして自分の刀を与え「行く先がもしも思わしくなければいつでも帰ってくるが良いぞ」と少しも意に介しなかった。そしてその者が新たな仕官先で失敗して帰参を願い出ると、元の所領を与えて帰参を許したという（[[江村専斎]]の『[[老人雑話]]』）&amp;lt;ref name=&amp;quot;itsuwadaijiten&amp;quot;&amp;gt;[[朝倉治彦]] [[三浦一郎]] 『世界人物逸話大事典』 [[角川書店]] 平成8年2月、P664&amp;lt;/ref&amp;gt;。この高虎の行為に家臣が反発すると「臣僕を使うのに禄だけでは人は心服しない。禄をもらって当然と思っているからだ。人に情けを掛けねばいけない。そうすれば意気に感じて、命を捨てて恩に報いようとするものだ。情けをもって接しなければ、禄を無駄に捨てているようなものである」と述べたと伝わる&amp;lt;ref name=&amp;quot;楠戸73&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦国時代並びに江戸時代初期、主君が死ぬとその後を慕って殉死する者が絶えなかったが、高虎はこれを厳禁とした。生きていれば頼りない嫡子の高次を支えてくれる有能な人材であるためだった。そこで国元において箱を書院に置き、「自分が死んだら殉死しようと考えている者はこの箱に姓名を記した札を入れよ」と命じた。開けてみると40人余の札があり、続いて[[駿府]]屋敷でも同じ命令を出すと30人余が名乗り出た。高虎は70人余の名を書いて駿府の家康を訪ね、「私が死んだら殉死を願い出る者がこんなにいます。皆、忠義の者で徳川家の先鋒として子々孫々までお役に立つ者たちです。ですので上意をもって殉死を差し止めて下さい」と嘆願し、家康も了承した&amp;lt;ref name=&amp;quot;楠戸124&amp;quot;&amp;gt;楠戸義昭『戦国武将名言録』P124&amp;lt;/ref&amp;gt;。高虎は家康の書状を受け取ると70人余を集めて家康の上意である事を伝えた上で、「殉死を願い出た者は殉死したも同然である。家康公の厳命に背いてはならぬ。殉死は絶対に許さぬ」&amp;lt;ref&amp;gt;『武将感状記』&amp;lt;/ref&amp;gt;と自分の死後は腹を切らずに切腹したつもりで藤堂・徳川両家のために働くように命じた。この70人の中に1人だけ命令に同意しない者がいた。合戦で右腕を失っており、そのため生き長らえても役には立たないから自分は殉死させてほしいと願い出た。しかし高虎は許さず、家康もこれを聞かされて「藤堂は我が徳川の先鋒。命令に違えて1人でも殉死したら藤堂の先鋒を取り消す」と厳命したため、その者も生きる事に同意したという&amp;lt;ref name=&amp;quot;楠戸125&amp;quot;&amp;gt;楠戸義昭『戦国武将名言録』P125&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸時代を通じて津藩藤堂家の家臣は高虎のある遺訓を座右の銘とした。それは「寝屋を出るよりその日を死番と心得るべし。かように覚悟極まるゆえに物に動ずることなし。これ本意となすべし」である&amp;lt;ref&amp;gt;『高虎遺書禄二百ヶ条』&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
つまり高虎は毎日を今日こそが死ぬ日だとの覚悟を持って生きよと家臣に言い聞かせたのである。現在、伊勢の津城跡には高虎の騎乗像と共にこの遺訓を記した碑が建っている&amp;lt;ref name=&amp;quot;楠戸72&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 加藤嘉明との対立 ===&lt;br /&gt;
慶長の役において[[加藤嘉明]]と功を競い、仲が良くなかった。高虎の領地が今治藩、嘉明のそれが[[伊予国|伊予]][[伊予松山藩|松山藩]]と隣接していたことも事情にあるとされる。別の話もある。[[陸奥国|陸奥]][[会津藩]]主の[[蒲生氏]]が嗣子無く[[改易]]されたとき、徳川秀忠は高虎に東北要衝の地である会津を守護させようとした。しかし高虎は「私は老齢で遠方の守りなどとてもできませぬ」と辞退した。秀忠は「では和泉（高虎）は誰がよいと思うか?」と質問すると「伊予の加藤侍従（嘉明）殿です」と答えた。秀忠は「そちは侍従と不仲だったのではなかったか?」と訊ねた。当時の嘉明は伊予20万石の領主で、国替えがなれば40万石の太守になり30万石の高虎より上になるためでもある。しかし高虎は「遺恨は私事でございます。国家の大事に私事など無用。捨てなければなりませぬ」と答えた。のちにこれを聞いた嘉明は高虎に感謝して和解したという（『[[高山公言行録]]』『[[勢免夫話草]]』）&amp;lt;ref name=&amp;quot;itsuwadaijiten&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 何度も主君を変える ===&lt;br /&gt;
高虎は何人も主君を変えたことから、変節漢あるいは走狗といわれ、歴史小説などでは否定的に描かれる傾向が多い。しかし、江戸時代に[[儒教]]の教えが武士に浸透する以前の日本では、家臣は自分の働きに見合った恩賞を与え、かつ将来性のある主君を自ら選ぶのが当たり前であり、何度も主君を変えるのは不忠でも卑しい事でもなかった。高虎は、取り立てて血筋がよかったわけでもないにも関わらず、彼は己の実力だけで生き抜いてきた。織田信澄に仕えていたときにも大いに功績を挙げたが、信澄は高虎を嫌って加増しようとしなかった。そのため、高虎は知行を捨てて浪人し、羽柴秀長のもとで仕えたと言われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{要出典|秀吉の死後、豊臣氏恩顧の大名でありながら徳川家康に対し「自分を家臣と思って使ってください」といち早く且つ露骨に接近したことは、多くの諸大名から咎められた。それに対し、史書に伝えられる高虎の言葉は「己の立場を明確にできない者こそ、いざというときに一番頼りにならない」という言葉を残している|date=2014年5月}}。高虎は豊臣秀長に仕えていた時分には忠実な家臣であり、[[四国攻め]]の時には秀長に従って多大な功績を立てている。また秀長が亡くなるまで忠節を尽くしている。幕末の[[鳥羽・伏見の戦い]]で、藤堂氏の津藩は[[彦根藩]]と共に官軍を迎え撃ったが、幕府軍の劣勢を察すると真っ先に官軍に寝返り、幕府側に砲撃を開始した。そのため幕府軍側から「さすが藩祖の薫陶著しいことじゃ」と、藩祖高虎の処世に仮託して皮肉られたという。だが一方、寝返った藤堂家は官軍の日光東照宮に対する攻撃命令は「藩祖が賜った大恩がある」として拒否している。この津藩の寝返りが藤堂高虎の悪評を決定づけてしまったため、高虎にはありもしない悪評がつきまとうようになったと[[羽生道英]]は著書『藤堂高虎』の後書きで弁じている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 徳川家康との逸話 ===&lt;br /&gt;
家康は大坂夏の陣で功を挙げた高虎を賞賛し、「国に大事があるときは、高虎を一番手とせよ」と述べたと言われている&amp;lt;ref&amp;gt;『忠勤録』&amp;lt;/ref&amp;gt;。徳川家臣の多くは主君をたびたび変えた高虎をあまり好いていなかったらしいが、家康はその実力を認めていたようである。大坂夏の陣で高虎がとった捨て身の忠誠心を認め、晩年は家康は高虎に信頼を寄せた。高虎について「神祖（家康）の神慮にかなっていただけでなく、今の[[大御所]]（秀忠）も世に頼もしく思い、家光公も御父君に仰せられる事の多くを、この人（高虎）に仰せになった」&amp;lt;ref&amp;gt;『徳川実紀』&amp;lt;/ref&amp;gt;とあるほど、徳川3代の将軍に信任を受けていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
関ヶ原の合戦では[[大谷吉継]]、大坂夏の陣では[[長宗我部盛親]]隊という常に相手方の特に士気の高い主力と激突している。関ヶ原以降、徳川軍の先鋒は譜代は井伊、外様は藤堂というのが例となった。なお、高虎は大谷吉継の墓を建立している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高虎は自分が死んだら嫡子の高次に伊勢から国替えをしてほしいと家康に申し出た。家康は「どうしてだ?」と訊ねると「伊勢は徳川家の要衝でしかも上国でございます。このような重要な地を不肖の高次がお預かりするのは分に過ぎます」と答えた。しかし家康は「そのような高虎の子孫ならこそ、かかる要衝の地を守らねばならぬ。かつて殉死せんと誓った二心の無い者たち（前述）に守らせておけば、もし天下に大事が起こっても憂いが無いというもの。そちの子孫以外に伊勢の地を預けられる者などおらぬ」と述べたという&amp;lt;ref&amp;gt;[[山鹿素行]]『[[武家事紀]]』&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;『武将感状記』&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
秀忠がある日開いた夜話会で、高虎は泰平のときの主の第一の用務は家臣らの器量を見抜き、適材適所につけて十分に働かせることと述べた。次に人を疑わないことが大切で、上下の者が互いに疑うようになれば心が離れてしまい、たとえ天下人であろうと下の者が心服しないようになれば、肝心のときに事を謀ることもできず、もし悪人の讒言を聞き入れるようなことになれば、勇者・智者の善人を失うであろうと語った。家康はのちにこの高虎の言葉を聞いて大いに感動したという&amp;lt;ref&amp;gt;[[古賀桐庵]]『良将達徳鎖』&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;itsuwadaijiten&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元和2年（1616年）、死に際した家康は高虎を枕頭に招き、「そなたとも長い付き合いであり、そなたの働きを感謝している。心残りは、宗派の違うそなたとは来世では会うことができぬことだ」と言った。その家康の言葉に高虎は、「なにを申されます。それがしは来世も変わらず大御所様にご奉公する所存でございます」と言うと、高虎はその場を下がり、別室にいた[[天海]]を訪ね、即座に日蓮宗から天台宗へと改宗の儀を取り行い「寒松院」の法名を得た。再度、家康の枕頭に戻り、「これで来世も大御所様にご奉公することがかないまする」と言上し涙を流した&amp;lt;ref&amp;gt;『西嶋八兵衛留書』&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;楠戸49&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 政治家 ===&lt;br /&gt;
武勇だけではなく、津藩の藩政の基礎を築き上げた内政手腕のほか、文学や[[能楽]]、[[茶の湯]]を嗜む[[文化人]]でもあった&amp;lt;ref&amp;gt;茶の湯は秀長に仕えていた時に[[千利休]]との交流があったとされる（藤田（2006）P17）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[三大築城名人]]の1人と言われるほどの[[城郭]]建築の名人として知られる。慶長の役では[[順天倭城]]築城の指揮をとった。この城は[[明]]・朝鮮軍による陸海からの攻撃を受けたが、全く敵を寄せ付けず撃退に成功し、城の堅固さが実戦で証明された。また[[天守|層塔式天守]]築造を創始し、幕府の[[天下普請]]で伊賀上野城や[[丹波国|丹波]][[亀山城 (丹波国)|亀山城]]などを築いた&amp;lt;ref&amp;gt;数々の築城は[[大坂城]]の[[豊臣秀頼]]と西国の豊臣恩顧大名に対する包囲網を築くためとしている。また、高虎の伊勢転封と筒井定次の改易、脇坂安治の[[淡路国|淡路]][[淡路洲本藩|洲本藩]]から[[伊予国|伊予]][[大洲藩]]への転封もこの政策の一環としている（藤田（2006）P86 - P102）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。本領の津藩のほかに幕府の命で、息女の輿入れ先である会津藩[[蒲生氏|蒲生家]]と高松藩生駒家、さらには加藤清正死後の熊本藩の執政を務めて家臣団の対立を調停し、都合160万石余りを統治した。これらの大名家は、高虎の存在でかろうじて家名を保ったと言え、彼の死後はことごとく改易されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
[[講談]]、[[浪曲]]『藤堂高虎、出世の白餅』では、阿閉氏の元を出奔し浪人生活を送っていた若き日の高虎（当時は与右衛門）が[[三河国|三河]]吉田宿（現・[[豊橋市]]）の吉田屋という餅屋で三河餅を[[無銭飲食]]するが、主の吉田屋彦兵衛に故郷に帰って親孝行するようにと諭され路銀まで与えられる。吉田屋の細君もたまたま近江の出であったという。後日、大名として出世した高虎が[[参勤交代]]の折に立ち寄り、餅代を返すという人情話が伝えられている。ちなみに高虎の旗指物は「三つ餅」。白餅は、「城持ち」にひっかけられているともいう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 遺言 ===&lt;br /&gt;
高虎は死去する5年前に嫡子の高次に対して遺言を遺している。わかりやすくいえば「仁義礼智信、1つでも欠ければ諸々の道は成就しがたい」である。高虎は人の上に立つ人間には五徳が絶対不可欠であり、これを心に戒めて高次に文武両道に励むように求めた。ただ当時は既に泰平の世であるため、戦国を経験した者から詳しく聞いて指針にするように述べている。他に奉公の道に油断なく励む事、人の意見はよく聞いて常に良き友人と語り合い意見してもらい、身分の上下を問わずに良き意見は用いる事、人をもてなす場に遅刻しない事&amp;lt;ref name=&amp;quot;楠戸48&amp;quot;&amp;gt;楠戸義昭『戦国武将名言録』P48&amp;lt;/ref&amp;gt;、長酒はしてはならない事を述べている&amp;lt;ref name=&amp;quot;楠戸49&amp;quot;&amp;gt;楠戸義昭『戦国武将名言録』P49&amp;lt;/ref&amp;gt;。特に奉公の道は厳しく説いており、「主君がお尋ねの折には、直ちに参上せよ。虚病と偽るなどはもってのほかで、気ままな心持ちであってはならぬ」と戒めている&amp;lt;ref name=&amp;quot;楠戸49&amp;quot;/&amp;gt;。他には「年貢に携わる代官の報告もよく聞き、懇ろに召し使う事、戦いにおいて兵糧、玉薬が続かなければ長陣もかなわないので、侍と実務の代官は車の両輪のように思え」「武家として鉄砲・弓・馬以下の家職を忘れてはならず、諸侍には憐憫の情をかける事」などを諭している&amp;lt;ref name=&amp;quot;楠戸49&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その上で最後に「自分は小者から苦労して今の地位を得た事を考えれば、これくらいの遺訓を守る事は苦労ではなかろう」と高次に釘を刺している&amp;lt;ref name=&amp;quot;楠戸49&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 家臣 ==&lt;br /&gt;
{| width=&amp;quot;100%&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| valign=&amp;quot;top&amp;quot; |&lt;br /&gt;
* [[赤井直義]]&lt;br /&gt;
* [[浅井井頼]]&lt;br /&gt;
* [[浅井吉政]]&lt;br /&gt;
* [[池田秀氏]]&lt;br /&gt;
* [[磯野行尚]]&lt;br /&gt;
* [[磯野行信]]&lt;br /&gt;
* [[織田昌澄]]&lt;br /&gt;
* [[小浜直隆]]&lt;br /&gt;
* [[蒲生郷舎]]&lt;br /&gt;
* [[蒲生郷成]]&lt;br /&gt;
| valign=&amp;quot;top&amp;quot; |&lt;br /&gt;
* [[桑名吉成]]&lt;br /&gt;
* [[佐伯惟定]]&lt;br /&gt;
* [[新宮行朝]]&lt;br /&gt;
* [[菅達長]]&lt;br /&gt;
* [[藤堂家信]]&lt;br /&gt;
* [[藤堂高刑]]&lt;br /&gt;
* [[藤堂高吉]] &lt;br /&gt;
* [[藤堂雅久]]&lt;br /&gt;
* [[藤堂良勝]]&lt;br /&gt;
* [[藤堂良政]]&lt;br /&gt;
| valign=&amp;quot;top&amp;quot; |&lt;br /&gt;
* [[西嶋八兵衛]]&lt;br /&gt;
* [[服部平左衛門]]&lt;br /&gt;
* [[真野頼包]]&lt;br /&gt;
* [[渡邉金六]]&lt;br /&gt;
* [[渡邉内膳]]&lt;br /&gt;
* [[渡辺了]]&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
=== 注釈 ===&lt;br /&gt;
{{Reflist|group=&amp;quot;注&amp;quot;}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 出典 ===&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
;書籍&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書|editor=上野市古文献刊行会|title=高山公実録|volume=上巻|series=清文堂史料叢書 ; 第98刊|publisher=[[清文堂]]|year=1998|isbn=4-7924-0437-1}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書|editor=上野市古文献刊行会|title=高山公実録|volume=下巻|series=清文堂史料叢書 ; 第99刊|publisher=[[清文堂]]|year=1998|isbn=4-7924-0438-X}}&lt;br /&gt;
* 桜木謙堂(謙二）『高山公』伊勢新聞社活版部、大正二年（近代デジタルライブラリー所収）&lt;br /&gt;
*『三重県史』&lt;br /&gt;
*『加茂町史』&lt;br /&gt;
* {{Cite journal|和書|author=[[朝尾直弘]]|date=1976-03-31|title=「元和六年案紙」について|journal=京都大學文學部研究紀要|volume=16|pages=23-83|publisher=[[京都大学]]|issn=0452-9774|language =日本語}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書|author=[[久保文武]]|title=藤堂高虎文書の研究|publisher=[[清文堂]]|year=2005|isbn=4-7924-0593-9}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書|author=[[藤田達生]]|title=江戸時代の設計者―異能の武将・藤堂高虎―|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社現代新書]]|year=2006|isbn=4-06-149830-4}}&lt;br /&gt;
* [[楠戸義昭]]『戦国武将名言録』[[PHP研究所]]、[[2006年]]。&lt;br /&gt;
;史料&lt;br /&gt;
* 『[[徳川実紀]]』&lt;br /&gt;
* 『[[武将感状記]]』&lt;br /&gt;
* 『[[武家事紀]]』&lt;br /&gt;
* 『[[高虎遺書禄二百ヶ条]]』（[[佐伯惟直]]著）&lt;br /&gt;
* 『[[高山公実録]]』&lt;br /&gt;
* 『[[新七郎家乗]]』&lt;br /&gt;
* 『[[忠勤録]]』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連作品 ==&lt;br /&gt;
; 小説&lt;br /&gt;
* [[徳永真一郎]]『影の人藤堂高虎』（[[毎日新聞社]]1987年、のちPHP文庫1990年）&lt;br /&gt;
* [[村上元三]]『藤堂高虎』（[[徳間文庫]]1992年、のち[[学陽書房]]人物文庫2008年）&lt;br /&gt;
* [[高野澄]]『藤堂高虎』（[[学研M文庫]]2002年）&lt;br /&gt;
* [[火坂雅志]]『虎の城』（[[祥伝社]]2004年、のち文庫2007年）&lt;br /&gt;
* [[羽生道英]]『藤堂高虎』（PHP文庫2005年）&lt;br /&gt;
* [[横山高治]]『藤堂高虎』（[[創元社]]2008年）&lt;br /&gt;
* [[安部龍太郎]]『下天を謀る』（[[新潮社]]2009年）&lt;br /&gt;
; ドラマ&lt;br /&gt;
*[[徳川家康 (NHK大河ドラマ)|徳川家康]]（1983年、NHK大河ドラマ、演：[[前田昌明]]）&lt;br /&gt;
*[[真田太平記 (テレビドラマ)|真田太平記]]（1986年、NHK新大型時代劇、演：[[児玉謙次 (俳優)|児玉賢次]]）&lt;br /&gt;
*[[秀吉 (NHK大河ドラマ)|秀吉]]（1996年、NHK大河ドラマ、演：[[徳秀樹]]）&lt;br /&gt;
*[[葵 徳川三代]]（2000年、NHK大河ドラマ、演：[[田村亮 (俳優)|田村亮]])&lt;br /&gt;
; ゲーム&lt;br /&gt;
*『[[采配のゆくえ]]』（[[コーエー]]）&lt;br /&gt;
*『[[戦国無双 Chronicle 2nd]]』（[[コーエーテクモゲームス]]）&lt;br /&gt;
*『[[戦国無双4]]』（[[コーエーテクモゲームス]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
{{Commons|Toudou Takatora}}&lt;br /&gt;
*[[北山一揆]]&lt;br /&gt;
*[[筒井騒動]]&lt;br /&gt;
*[[生駒騒動]]&lt;br /&gt;
*[[愛媛縣護國神社]]&lt;br /&gt;
*[[藤堂とらまる]] - 高虎をモチーフにした[[ゆるキャラ]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.info.city.tsu.mie.jp/modules/dept1171/article.php?articleid=626 津藩祖 藤堂高虎]　津市ホームページ&lt;br /&gt;
* [http://n-hp.com/navigate/public/mu8/bin/view.rbz?cd=80 藤堂高虎・京極高知陣跡]　関ケ原町地域振興課&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{藤堂家当主|9代|? - 1630年}}&lt;br /&gt;
{{今治藩主|藤堂氏||1600年 - 1608年}}&lt;br /&gt;
{{津藩主|藤堂氏|初代|1608年 - 1630年}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:とうとう たかとら}}&lt;br /&gt;
[[Category:藤堂氏|たかとら]]&lt;br /&gt;
[[Category:戦国武将]]&lt;br /&gt;
[[Category:織豊政権の大名]]&lt;br /&gt;
[[Category:外様大名]]&lt;br /&gt;
[[Category:今治藩主|藤]]&lt;br /&gt;
[[Category:津藩主|藤01]]&lt;br /&gt;
[[Category:近江国の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:還俗した人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1556年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1630年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E7%AD%92%E4%BA%95%E5%AE%9A%E6%AC%A1&amp;diff=76284</id>
		<title>筒井定次</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E7%AD%92%E4%BA%95%E5%AE%9A%E6%AC%A1&amp;diff=76284"/>
		<updated>2014-08-19T01:44:22Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{基礎情報 武士&lt;br /&gt;
| 氏名 = 筒井 定次&lt;br /&gt;
| 画像 = Tutui Sadazugi.jpg&lt;br /&gt;
| 画像サイズ = 230px&lt;br /&gt;
| 画像説明 = &lt;br /&gt;
| 時代 =[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]前期&lt;br /&gt;
| 生誕 = [[永禄]]5年[[5月5日 (旧暦)|5月5日]]（[[1562年]][[6月6日]]）&lt;br /&gt;
| 死没 = [[慶長]]20年[[3月5日 (旧暦)|3月5日]]（[[1615年]][[4月2日]]）&lt;br /&gt;
| 改名 = 藤松（幼名）→定次&lt;br /&gt;
| 別名 =四郎、藤四郎（通称）&lt;br /&gt;
| 戒名 =&lt;br /&gt;
| 墓所 =[[奈良県]][[奈良市]]小川町の伝香寺&lt;br /&gt;
| 官位 = [[従五位]]下・[[伊賀国|伊賀]]守、[[従四位]]下・[[侍従]]&lt;br /&gt;
| 主君 =[[豊臣秀吉]]→[[豊臣秀頼|秀頼]]→[[徳川家康]]→[[徳川秀忠|秀忠]]&lt;br /&gt;
| 藩   =[[伊賀上野藩]]主&lt;br /&gt;
| 氏族 = [[筒井氏]]&lt;br /&gt;
| 父母 =父：[[筒井順国]]、母：[[筒井順昭]]の娘&amp;lt;br /&amp;gt;養父：&#039;&#039;[[筒井順慶]]&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| 兄弟 =&lt;br /&gt;
| 妻   = 正室：[[織田秀子|秀子]]（[[織田信長]]の娘）&amp;lt;br /&amp;gt;側室：[[市場姫]]（[[松平広忠]]の娘）？&lt;br /&gt;
| 子   =[[筒井順定|順定]]、[[筒井春次|春次]]、&amp;lt;br&amp;gt;娘（[[鞍田九左衛門]]室）、&amp;lt;br&amp;gt;娘（[[筒井六左衛門]]室）、娘（[[新庄直氏]]室）、&amp;lt;br&amp;gt;娘（[[多田正吉]]室）、娘（[[加納豊前]]室）&lt;br /&gt;
| 特記事項 =※&amp;lt;small&amp;gt;正室は[[明智光秀]]の娘で織田信長の養女とも&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;筒井 定次&#039;&#039;&#039;（つつい さだつぐ）は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]前期の[[武将]]・[[大名]]。[[伊賀国|伊賀]][[伊賀上野藩|上野藩]]主。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 筒井家相続まで ===&lt;br /&gt;
永禄5年（1562年）5月5日、慈明寺順国（[[筒井順国]]）の次男として生まれる。一族で本家筋の[[筒井順慶]]（従兄、母方の叔父でもある）に子が無かったため、順慶の養嗣子となった。最初順慶の養子候補としては[[番条五郎]]が検討されており、羽柴秀吉（[[豊臣秀吉]]）の承諾も得ていたが、五郎が謝絶したため定次が養子となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 秀吉臣下としての武功 ===&lt;br /&gt;
[[織田信長]]の死後は豊臣秀吉の家臣となり、[[大坂城]]へ人質として赴いた。[[天正]]12年（[[1584年]]）、順慶の死により家督を相続した。同年、[[小牧・長久手の戦い]]に参戦、この戦いで定次の家臣[[松倉重信]]が奮戦し、戦功を称えられ[[近衛府|右近大夫]]に叙任された。天正13年（[[1585年]]）の[[紀州征伐]]では[[堀秀政]]などと共に[[千石堀城]]を攻めた。『[[絵本太閤記]]』には、この城攻めで二尺七寸の太刀を振りかざし奮戦する定次の姿が描かれている。筒井軍は奮戦したが、その分兵の消耗も大きかったと『[[多聞院日記]]』は言及している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年の[[四国攻め]]においては、[[中村一氏]]や[[蜂須賀正勝]]と共に先鋒に任じられ、[[東条関之兵衛]]が籠城する[[木津城]]を攻撃する。同年8月、秀吉と[[佐々成政]]との合戦（[[富山の役]]）が起こるが、定次は四国に在陣中であったため参戦せず、[[宇陀衆]]を代理に派遣した。閏8月、[[大和国|大和]]から[[伊賀国|伊賀]]上野へ移封（後述）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正14年（[[1586年]]）の[[九州征伐]]では、伊賀の留守を十市新二郎に任せ、1,500の手勢を率いて出陣、[[豊臣秀長]]の部隊に所属し、[[日向国|日向]][[高城]]攻めなどで活躍する。[[天正]]16年（[[1588年]]）、[[豊臣氏|豊臣姓]]を下賜された。天正18年（[[1590年]]）の[[小田原征伐]]では[[韮山城]]攻めに参加した。天正20年（[[1592年]]）からの[[文禄・慶長の役]]にも手勢3,000を率いて出陣し、[[肥前国|肥前]][[名護屋]]に詰めたが、朝鮮に渡航した形跡は残っていない。朝鮮の役の最中、顕著な武功を立てた[[加藤清正]]に称賛の使者を送った事や、名護屋で酒色に溺れ、[[中坊秀祐]]を憂慮させたことなどが『[[和州諸将軍伝]]』に記述されている。同書の記述によると、定次は病を得、秀吉の承諾を得て途中伊賀へ帰国したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 伊賀転封 ===&lt;br /&gt;
天正13年（1585年）、秀吉は小牧・長久手の戦い・紀州征伐・四国攻め・富山の役など外接大名をめぐる情勢が落ち着いた閏8月に領国内の大規模な国替えを行い、畿内については一門・近臣で固める政策を実施した。この国替えで大和には秀吉の弟・秀長が入国し、代わって定次は領国を大和から伊賀上野に移封された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、これは都に近い大和から定次を追い出した実質上の左遷ではないかといわれている。石高も『[[当代記]]』などでは5万石と記されるなど、大和時代に較べて大幅な減封であり、筒井氏は伊賀で苦難の時代を送ったとされた。移封の背景には、大和に根を貼る寺社勢力との確執もあったという。順慶の存命中、寺社は筒井氏に対して従順であったが、順慶が死去すると筒井家の力が弱まったと判断し、反抗的な姿勢を顕在化させた。&amp;lt;ref&amp;gt;籔・203ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、この移封には別の意見もある。移封時より後世となるが慶長期で大和は約44万石、伊賀は約10万石であり、大和の全てが筒井領ではないが理由もなく約30万石の減封は考えにくい。江戸時代の編纂物『増補筒井家下記』には定次は伊賀12万石・伊勢の内で5万石・山城の内に3万石の計20万石を与えられ、更に移封前の大和45万石の内で与力を除いた筒井氏の所領は18万石であり、伊賀への移封は2万石の加増であったと記している。&amp;lt;ref name=&amp;quot;kotake1999&amp;quot;&amp;gt;小竹文生「豊臣政権と筒井氏　-「大和取次」伊藤掃部助を中心として」1999年&amp;lt;/ref&amp;gt;また伊賀は関東に対しての備えとしての役割を持つ要衝であり、そのような重要な土地に定次を配置したことは、秀吉が定次を評価し、一定以上の信頼を寄せていたことの証左とも言える。&amp;lt;ref&amp;gt;籔・204ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
伊賀移封に伴い、定次は[[上野城]]を築城した。また、秀吉から羽柴姓を名乗る事を許され、従五位下伊賀守に任命された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正14年（[[1586年]]）には、灌漑用水を巡って中坊秀祐と[[島清興|島左近]]の間で争いが起こり、定次が秀祐に有利な裁定を下した事で、憤慨した左近が筒井家を去るという事件が起こる。筒井家を去った左近は[[石田三成]]に仕えた。[[松倉重政]]、[[森好高]]、[[布施慶春]]といった家臣達も前後して筒井家を去っている。その背景には、秀祐らの台頭と専断があった。&amp;lt;ref&amp;gt;籔・210ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;定次は、彼らを完全に抑制するだけの力量はなかったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 関ヶ原以後 ===&lt;br /&gt;
慶長5年（[[1600年]]）の[[関ヶ原の戦い]]では東軍に与し、戦後、[[徳川家康]]から所領を安堵された（上野城を陥落させた西軍の[[摂津国|摂津]][[高槻城]]主[[新庄直頼]]、[[新庄直定|直定]]父子は[[改易]]された）。しかし慶長13年（[[1608年]]）、幕命により突如として改易され、ここに大名としての[[筒井氏]]は滅亡した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
改易の理由については、度々大坂城に赴き、[[豊臣秀頼]]や[[大野治房]]らと誼を通じていたこと、領国における悪政、酒色に耽溺したから、[[キリシタン]]による訴訟など、数々の理由が挙げられているが、最近では筒井氏も豊臣恩顧の大名であり、さらに伊賀という大坂近郊の要地を支配していたことを危険視した幕府によるでっちあげの改易ではないかとされている（事実、定次改易後の伊賀には外様ながら譜代並の[[藤堂高虎]]が入った）。どちらにせよ、定次は改易された後、その身柄は[[鳥居忠政]]のもとに預けられることとなった（『[[続武家補佐]]』）。『[[武徳編年集成]]』『[[東武談叢]]』『[[増補筒井家記]]』などは高虎の下に預けられたと記述しており、また江戸に預けられたと主張する文献でも、『大和郡山市史』は江戸の鳥居家屋敷を預け場所としている。現在では、『続武家補佐の記述』が定説として採用されている。&amp;lt;ref&amp;gt;籔・217ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして慶長20年（1615年）3月5日、[[大坂の陣#大坂冬の陣|大坂冬の陣]]にて[[豊臣氏]]に内通したという理由により、嫡男[[筒井順定|順定]]と共に自害を命じられた。[[享年]]54。切腹を賜った経緯について、『[[伊陽安民記]]』『[[翁物語]]』は、大坂冬の陣の際、城中から放たれた矢の一つに筒井家で使われていたものがあり、その矢が内応の示唆を疑わせ、自害を命じられたと記している。しかしこの矢は筒井家が改易された際に四散したものが大坂城に紛れ込んだものと考えられており&amp;lt;ref name=&amp;quot;yab218&amp;quot;&amp;gt;籔・218ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;、幕府がこれを内応と解釈したのは定次を葬る為のでっち上げであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『[[奈良坊目拙解]]』は、自害した定次父子の遺骸を[[伝香寺]]の住職が[[大安寺]]に葬り、伝香寺に[[石塔]]を建立したと伝える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
筒井氏は家康の尽力で定次の従弟に当たる[[筒井定慶]]が継いだが、[[大坂の陣#大坂夏の陣|大坂夏の陣]]で豊臣方に[[郡山城 (大和国)|大和郡山城]]を攻め落とされ、逃亡した後に自害した。これにより筒井氏その物が消滅したように書いてある書籍が多いが、定次流以外の他の筒井氏一族は[[東大寺]][[住職]]や奉行や[[旗本]]などとして存続し、現在まで家名を保っている（[[筒井政憲]]、[[下曽根信敦]]父子など）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
定次には娘が3人がいたが、それぞれ鞆田九左衛門、[[新庄直氏]]、[[多田正吉]]に嫁いで天寿を全うした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物・逸話 ==&lt;br /&gt;
* 定次は[[軍学]]に明るく、上野城の築城に際しても、立地条件や地盤を考慮し、天然の要塞として相応しい場所を選んだ。&lt;br /&gt;
* 伊賀移封により、筒井家は伊賀の豪族を強硬に取り潰し、さらに大和時代からの重臣の多くも離反されるなど、家勢の衰退を招いている。これは関ヶ原で定次が東軍に与する一因を成したともいわれる。&lt;br /&gt;
* [[文禄]]元年（[[1592年]]）に[[長崎市|長崎]]で[[洗礼|受洗]]しており、[[キリシタン]]であった事が改易原因の一つでもあると言われている。&amp;lt;ref name=&amp;quot;Sengokujidai&amp;quot;&amp;gt;{{Cite book|和書|title=戦国時代人物事典|editor=歴史群像編集部|publisher=[[学習研究社]]|year=2009|isbn=978-4054042902}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 伊賀の侘しい寒村であった上野は、定次の整備によって大いに発展した。その為地元では定次は今なお慕われている&amp;lt;ref name=&amp;quot;yab218&amp;quot; /&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 文化面にも精通し、祭礼の振興に尽力した。茶道を嗜み、[[古田重然|古田織部]]とも交流があった。明確ではないが伊賀焼の発展にも貢献したと言う。&amp;lt;ref name=&amp;quot;Sengokujidai&amp;quot;/&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 『[[柴栗草子]]』は「兵法の達人であり、文芸にも秀で、筆跡は[[尊円法親王|尊円親王]]にも匹敵し、画才は[[雪舟]]を髣髴とさせ、能楽の技巧も四座の太夫に劣らない」と評している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 定次とキリスト教 ==&lt;br /&gt;
定次はキリスト教に入信していた。[[三箇マンショ]]と呼ばれるキリシタンを匿っており、彼の話からキリスト教への関心を持っていた。天正20年（1592年）、三箇マンショの仲介により[[アレッサンドロ・ヴァリニャーノ]]神父の知遇を得、キリスト教の洗礼を受けた。[[ルイス・フロイス]]は定次とヴァリニャーノの面会に同席していたが、定次を「人格の優れた人物」と評している他、[[高山右近]]もその人となりを評していた、とフロイスの記録では言及されている。&amp;lt;ref&amp;gt;キリシタンになった大名、364ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;フロイスの記録では、当時太閤秀吉を中心にキリスト教を迫害する風潮があった中、定次は伊賀にキリスト教を広く布教させる意思があることを述べていたという。後の改易と切腹について、キリスト教の影響があったかについては明確な根拠がなく、不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==脚注==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|author=籔景三|title=筒井順慶とその一族|date=1985-07|publisher=[[新人物往来社]]|isbn=4-404-01281-0}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|author=[[結城了悟]]|title=キリシタンになった大名|series=聖母文庫|date=1999-02-01|publisher=[[聖母の騎士社]]|isbn=4-8821-6177-X|page=}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[太田城 (紀伊国)#第二次太田城の戦い|第二次太田城の戦い]]&lt;br /&gt;
*[[筒井騒動]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{大和筒井氏当主|1584年 - 1608年}}&lt;br /&gt;
{{伊賀上野藩主}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:つつい さたつく}}&lt;br /&gt;
[[category:筒井氏|さたつく]]&lt;br /&gt;
[[category:戦国大名]]&lt;br /&gt;
[[category:織豊政権の大名]]&lt;br /&gt;
[[category:外様大名]]&lt;br /&gt;
[[Category:キリシタン]]&lt;br /&gt;
[[category:伊賀国の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:大和国の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1562年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1615年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E9%BB%92%E7%94%B0%E5%85%89%E4%B9%8B&amp;diff=186223</id>
		<title>黒田光之</title>
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		<updated>2014-08-13T01:48:25Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{基礎情報 武士&lt;br /&gt;
| 氏名 = 黒田 光之&lt;br /&gt;
| 画像 = Kuroda Mituyuki.jpg&lt;br /&gt;
| 画像サイズ = 250px&lt;br /&gt;
| 画像説明 = &lt;br /&gt;
| 時代 = [[江戸時代]]前期&lt;br /&gt;
| 生誕 = [[寛永]]5年[[5月16日 (旧暦)|5月16日]]（[[1628年]][[6月17日]]）&lt;br /&gt;
| 死没 = [[宝永]]4年[[5月20日 (旧暦)|5月20日]]（[[1707年]][[6月19日]]）&lt;br /&gt;
| 改名 =&lt;br /&gt;
| 別名 =&lt;br /&gt;
| 戒名 = 江竜院淳山宗真&lt;br /&gt;
| 墓所 =&lt;br /&gt;
| 官位 = [[従四位|従四位下]]・[[衛門府|右衛門佐]]、[[京職|右京大夫]]&lt;br /&gt;
| 主君 = [[徳川家綱]]→[[徳川綱吉|綱吉]]&lt;br /&gt;
| 藩   = [[筑前国|筑前]][[福岡藩]]主&lt;br /&gt;
| 氏族 = [[黒田氏]]&lt;br /&gt;
| 父母 = 父：[[黒田忠之]]　母：養照院（坪坂氏）&lt;br /&gt;
| 兄弟 = &#039;&#039;&#039;光之&#039;&#039;&#039;、[[黒田之勝|之勝]]&lt;br /&gt;
| 妻   = [[正室]]：&#039;&#039;&#039;[[宝光院 (人物)|宝光院]]&#039;&#039;&#039;（[[小笠原忠真]]娘）&amp;lt;br/&amp;gt;[[側室]]：村上氏、河合氏&lt;br /&gt;
| 子   = [[黒田綱之|綱之]]、&#039;&#039;&#039;[[黒田綱政|綱政]]&#039;&#039;&#039;、[[黒田長清|長清]]、筑姫（[[酒井忠挙]]室）、富貴子（[[黒田長重]]室）&lt;br /&gt;
| 特記事項 =&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;黒田 光之&#039;&#039;&#039;（くろだ みつゆき）は、[[筑前国|筑前]][[福岡藩]]の第3代藩主。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==生涯==&lt;br /&gt;
寛永5年（1628年）5月16日、第2代藩主・[[黒田忠之]]の長男として筑前早良郡橋本村の別邸にて生まれた。なぜこのようなところに生まれたかといえば、父の忠之が生母の坪坂氏を嫌って家老の[[黒田一貫]]のもとに預けていたからである。[[承応]]3年（[[1654年]]）、父の死去により家督を継いだ。すでに福岡藩の財政は忠之末期から窮乏化が始まっていたため、光之は厳しい倹約令を出して藩政改革に取り組んだ。光之は武断よりも文治を好み、[[貝原益軒]]に命じて『黒田家譜』を編纂させ、それまでの保守的な重臣を遠ざけて新参の[[鎌田昌勝]]や[[立花実山|立花重根]]を家老として新たに登用した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし後継ぎにおいて[[延宝]]5年（[[1677年]]）2月、嫡男・綱之を廃嫡して[[福岡藩#東蓮寺藩|東蓮寺藩]]を継いでいた三男・長寛（綱政）を後継ぎと新たに定めたが、これが原因で家老が処分されるなど、藩内に大きな混乱をもたらす羽目となった。なお、この間[[天和 (日本)|天和]]2年（[[1682年]]）には[[朝鮮通信使]]の接待を担当している。[[元禄]]元年（[[1688年]]）12月9日、綱政に家督を譲ったが、晩年にはその綱政とも対立している。宝永4年（1707年）5月20日、福岡にて死去。[[享年]]80。法号は江竜院淳山宗真。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この光之の時代の大きな事件は藩の[[御用商人]]である[[伊藤小左衛門]]（いとうこざえもん）による朝鮮との[[密貿易]]が発覚し、幕府の嫌疑を避けるために伊藤小左衛門一家を処分したことにある。朝鮮貿易は[[対馬国|対馬]][[対馬府中藩|府中藩]]の専管であるなか、朝鮮国の官吏は伊藤小左衛門との密貿易を認めている。この密貿易が問題となった一因は、密貿易の品々の中に武器が含まれていたことにある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また光之は荒廃していた太宰府の[[観世音寺]]を天王寺屋浦了夢夫妻に命じて再興させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また日本三大銘菓の一つで知られる「[[鶏卵素麺]]（けいらんそうめん）」は、その考案者である初代[[松屋利右衛門]]から光之に献上され、黒田藩御用菓子と認められたことで全国に広まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==一族==&lt;br /&gt;
*正室：宝光院（[[小笠原忠真]]の娘）&lt;br /&gt;
**長女・筑姫（酒井忠挙正室）&lt;br /&gt;
**長男・綱之&lt;br /&gt;
**次男：市之助&lt;br /&gt;
**三男・綱政&lt;br /&gt;
**四男・長清&lt;br /&gt;
*側室：村上氏&lt;br /&gt;
**次女・富貴子（黒田長重正室）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==参考文献==&lt;br /&gt;
* 福岡市 編『ふくおか歴史散歩』&lt;br /&gt;
* 福岡県高等学校歴史研究会 編『福岡県の歴史散歩』[[山川出版社]]&lt;br /&gt;
* 筑紫豊『だいふまいり』[[西日本新聞社]]、1976年&lt;br /&gt;
* 筑紫豊『私と歩こう博多と太宰府』文献出版、1977年&lt;br /&gt;
* 森弘子『太宰府発見』[[海鳥社]]、2003年、ISBN 4-87415-422-0&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{福岡藩主|3代|1654年 - 1688年}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:くろた みつゆき}}&lt;br /&gt;
[[Category:黒田氏|みつゆき]]&lt;br /&gt;
[[Category:福岡藩主|みつゆき]]&lt;br /&gt;
[[Category:1628年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1707年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E9%BB%92%E7%94%B0%E9%87%8D%E9%9A%86&amp;diff=85695</id>
		<title>黒田重隆</title>
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		<updated>2014-08-13T01:35:13Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{基礎情報 武士&lt;br /&gt;
| 氏名 = 黒田 重隆&lt;br /&gt;
| 画像 =&lt;br /&gt;
| 画像サイズ =&lt;br /&gt;
| 画像説明 =&lt;br /&gt;
| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]&lt;br /&gt;
| 生誕 = [[永正]]5年（[[1508年]]）&lt;br /&gt;
| 死没 = [[永禄]]7年[[2月6日 (旧暦)|2月6日]]（[[1564年]][[3月18日]]）&amp;lt;br/&amp;gt;永禄7年[[8月17日 (旧暦)|8月17日]]（[[1564年]][[10月2日]]）&amp;lt;ref name=&amp;quot;shogonji&amp;quot;/&amp;gt;&lt;br /&gt;
| 改名 = 黒田重隆→黒田宗卜&lt;br /&gt;
| 別名 = 下野守&lt;br /&gt;
| 戒名 = 霊光院覚智性悟大禅定門&amp;lt;ref name=&amp;quot;shogonji&amp;quot;/&amp;gt;&lt;br /&gt;
| 霊名 = &lt;br /&gt;
| 墓所 = [[兵庫県]][[姫路市]][[飾磨区]]妻鹿&lt;br /&gt;
| 官位 = 従五位下&amp;lt;ref name=&amp;quot;shogonji&amp;quot;&amp;gt;「荘厳寺本黒田家略系図」より。[[西脇市]]観光協会のWEBサイト上に翻刻されたものが掲載されている[http://nishiwaki-kanko.jp/kanbee/pdf/kanbee_familytree.pdf]。同系図の信憑性については他史料との乖離が大きいため、否定する意見もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
| 主君 = [[赤松政秀]]→[[小寺政隆]]→[[小寺則職]]→[[小寺政職]]&lt;br /&gt;
| 氏族 = [[黒田氏]]（自称[[宇多源氏]]）&lt;br /&gt;
| 父母 = 父：[[黒田高政]]&amp;lt;ref&amp;gt;一般に偽書とされる『江源武鑑』による。そのため高政の存在自体を否定する意見もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;（または黒田重範&amp;lt;ref name=&amp;quot;shogonji&amp;quot;/&amp;gt;）&lt;br /&gt;
| 兄弟 = 安保和泉守室&amp;lt;ref name=&amp;quot;gochaku&amp;quot;&amp;gt;『播磨御着郡誌』より。&amp;lt;/ref&amp;gt;、&#039;&#039;&#039;重隆&#039;&#039;&#039;、重行&amp;lt;ref name=&amp;quot;shogonji&amp;quot;/&amp;gt;&lt;br /&gt;
| 妻 = 妻鹿氏&amp;lt;br/&amp;gt;比延常範の娘&amp;lt;ref name=&amp;quot;shogonji&amp;quot;/&amp;gt;&lt;br /&gt;
| 子 = &#039;&#039;&#039;[[黒田職隆|職隆]]&#039;&#039;&#039;、[[小寺休夢|高友（休夢）]]、[[井手友氏]]、[[松井重孝]]&amp;lt;br/&amp;gt;（異説：治隆、[[黒田孝高|孝高]]&amp;lt;ref name=&amp;quot;shogonji&amp;quot;/&amp;gt;）&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
[[画像:Grave of Kuroda Shigetaka.jpg|thumb|200px|[[御着城]]跡地にある黒田重隆(左側)と如水の母明石氏の墓]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;黒田重隆&#039;&#039;&#039;（くろだ しげたか）は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出自・前半生 ==&lt;br /&gt;
『黒田家譜』『[[江源武鑑]]』などによると、若い頃は[[山陽地方]]随一の商業都市として繁栄していた[[備前国|備前]]の福岡（現・[[岡山県]][[瀬戸内市]][[長船町]]）に在住していたと伝わる。その後、[[大永]]5年（[[1525年]]）に備前が乱れると播磨に移り、[[姫路]]の[[広峯神社]]の[[神官]]・井口太夫と共謀して[[目薬]]を売ることで財を成し、[[播磨国|播磨]]の[[国人]]になったという。はじめ[[龍野城]]主・[[赤松政秀]]に仕えたが、ほどなく[[御着城]]主[[小寺政職]]に主を替え、子の[[黒田職隆|職隆]]が重用されて[[姫路城]]の[[城代]]となったとされる。ただし実際は、重隆自身の小寺家臣としての発給文書が残っているため、重隆自身も小寺氏重臣として仕えていた。また『播磨御着郡誌』によると、子の職隆は小寺政職の祖父・[[小寺政隆|政隆]]の養女を娶って政隆の養子となっていたとしている&amp;lt;ref&amp;gt;なお政隆は[[享禄]]2年（[[1529年]]）、重隆12歳の時に没している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
妻は妻鹿氏で、[[永禄]]2年[[9月22日 (旧暦)|9月22日]]（[[1559年]][[11月1日]]）に没している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 小寺家の武将として ==&lt;br /&gt;
[[享禄]]4年（[[1531年]]）の[[大物崩れ]]では[[赤松晴政|赤松政祐]]軍に従って出陣&amp;lt;ref name=&amp;quot;gochaku&amp;quot;/&amp;gt;。当時の小寺家当主は政隆の子である[[小寺則職|則職]]だった。その際、近江源氏佐々木氏末裔である重隆は、坂東平氏梶原氏末裔である[[播磨国|播磨]][[高砂城]]主・[[梶原景則]]と戦陣を争って一触即発の状況になったと「赤松秘士録」は伝えている。これは源平合戦の時分、宇治川の戦いで[[佐々木高綱]]と[[梶原景季]]が先陣争いをしたものの再来とされているが、真偽は不明&amp;lt;ref&amp;gt;なお曾孫にあたる[[黒田長政]]が[[藤原氏]]を称している史料が存在するため、黒田氏自体が藤原氏の出自であるとも考えられている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[天文 (元号)|天文]]14年（[[1545年]]）則職の子・政職の代になると、小寺氏一門[[小寺則隆]]や小寺家臣[[八代道慶]]と共に[[姫路城]]の経営にあたる。後に単独で姫路城主となったという説もあるが、[[弘治 (日本)|弘治]]2年（[[1556年]]）に職隆が姫路城主になったという説もあるため実際は不明。いずれにせよ職隆に家督を譲った後は御着城下の屋敷へ戻り、[[永禄]]7年（[[1564年]]）そこで亡くなった。墓所は[[岡山県]][[瀬戸内市]]長船町の妙興寺にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 異説 ==&lt;br /&gt;
『江源武鑑』などの史料によると父・高政に従って先述の流浪をしたとされるが、[[播磨国]][[多可郡]]黒田庄（現・兵庫県[[西脇市]]）出身という説もある&amp;lt;ref name=&amp;quot;shogonji&amp;quot;/&amp;gt;。その説によると、黒田氏は旧来言われる[[近江国|近江]][[佐々木氏]]の末ではなく、[[赤松氏]]の分かれの土豪とされており、黒田庄にあった黒田城主8代目であったとされる。また子の9代目・治隆の代に石原氏・赤井氏との戦闘で討死し、黒田城も落城して家は絶えたという。また治隆の弟に孝隆がおり、小寺職隆の養子となって姫路城主となったとしている&amp;lt;ref&amp;gt;通説では職隆は重隆の子、孝隆（孝高）は重隆の孫である。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 登場作品 ==&lt;br /&gt;
* [[軍師官兵衛]] - 2014年[[NHK大河ドラマ]]、演：[[竜雷太]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出典 ==&lt;br /&gt;
* [[貝原益軒]]『黒田家譜』&lt;br /&gt;
* 諏訪勝則『黒田官兵衛』&lt;br /&gt;
* 御着史跡保存会 編『播磨御着郡誌』&lt;br /&gt;
* 御着史跡保存会 編『播磨御着郡誌 別冊』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{黒田氏歴代当主}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:くろた しけたか}}&lt;br /&gt;
[[Category:黒田氏|しけたか]]&lt;br /&gt;
[[category:戦国武将]]&lt;br /&gt;
[[Category:1508年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1564年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:姫路城]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E4%B8%89%E5%B3%B6%E7%94%B1%E7%B4%80%E5%A4%AB&amp;diff=10059</id>
		<title>三島由紀夫</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E4%B8%89%E5%B3%B6%E7%94%B1%E7%B4%80%E5%A4%AB&amp;diff=10059"/>
		<updated>2014-08-12T04:26:53Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Infobox 作家&lt;br /&gt;
| name          = 三島 由紀夫&amp;lt;br /&amp;gt;（みしま ゆきお）&lt;br /&gt;
| image         = Yukio Mishima.jpg&lt;br /&gt;
| imagesize     = 180px&lt;br /&gt;
| caption       = [[1956年]]&lt;br /&gt;
| pseudonym     = &lt;br /&gt;
| birth_name    = 平岡 公威（ひらおか きみたけ）&lt;br /&gt;
| birth_date    = [[1925年]][[1月14日]] &lt;br /&gt;
| birth_place   = {{JPN}}・[[東京府]][[東京市]][[四谷区]]&lt;br /&gt;
| death_date    = {{死亡年月日と没年齢|1925|1|14|1970|11|25}}&lt;br /&gt;
| death_place   = {{JPN}}・[[東京都]][[新宿区]][[市ヶ谷]]&lt;br /&gt;
| resting_place = {{JPN}}・[[多磨霊園]]&lt;br /&gt;
| occupation    = [[小説家]]、[[劇作家]]&lt;br /&gt;
| language      = [[日本語]]&lt;br /&gt;
| nationality   = {{JPN}}&lt;br /&gt;
| education     = [[法学士]]&lt;br /&gt;
| alma_mater    = [[東京大学]][[法学部]]&lt;br /&gt;
| period        = [[1941年]] - [[1970年]]&lt;br /&gt;
| genre         = [[小説]]、[[戯曲]]、[[評論]]、[[随筆]]&lt;br /&gt;
| subject       = [[古典主義|古典美]]、日本の[[雅]]、[[愛国心]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[超越]]的な[[美意識]]、[[生]]と[[死]]&lt;br /&gt;
| movement      = [[第二次戦後派]]、[[耽美派]]&lt;br /&gt;
| notable_works = 『[[仮面の告白]]』（1949年）&amp;lt;br /&amp;gt;『[[潮騒 (小説)|潮騒]]』（1954年）&amp;lt;br /&amp;gt;『[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]』（1956年）&amp;lt;br /&amp;gt;『[[鹿鳴館 (戯曲)|鹿鳴館]]』（1956年、戯曲）&amp;lt;br /&amp;gt;『[[鏡子の家]]』（1959年）&amp;lt;br /&amp;gt;『[[憂国]]』（1961年）&amp;lt;br /&amp;gt;『[[サド侯爵夫人]]』（1965年、戯曲）&amp;lt;br /&amp;gt;『[[豊饒の海]]』（1965年-1970年）&lt;br /&gt;
| awards        = [[新潮社文学賞]]（1954年）&amp;lt;br /&amp;gt;[[岸田演劇賞]]（1955年）&amp;lt;br /&amp;gt;[[読売文学賞]]（1957年・1962年）&amp;lt;br /&amp;gt;[[週刊読売新劇賞]]（1958年）&amp;lt;br /&amp;gt;[[フォルメントール国際文学賞]]第2位（1964年・1967年）&amp;lt;br /&amp;gt;[[毎日芸術賞]]（1964年）&amp;lt;br /&amp;gt;[[芸術祭 (文化庁)|文部省芸術祭賞]]（1965年）&amp;lt;br /&amp;gt;ツール国際短編[[映画祭]]劇映画部門第2位（1966年）&lt;br /&gt;
| debut_works   = 短編小説：『[[スカンポ|酸模]]―秋彦の幼き思ひ出』、『[[花ざかりの森]]』（1941年）&amp;lt;br /&amp;gt;長編小説：『[[盗賊 (小説)|盗賊]]』（1947年-1948年）&lt;br /&gt;
| spouse        = [[平岡瑤子]]&lt;br /&gt;
| partner       = &lt;br /&gt;
| children      = [[平岡紀子]]、[[平岡威一郎]]&lt;br /&gt;
| relations     = [[松平乗尹]]（五世祖父）&amp;lt;br /&amp;gt;[[永井尚志]]、[[松平頼位]]、[[橋一巴]]（高祖父）&amp;lt;br /&amp;gt;[[平岡太吉]]、[[永井岩之丞]]、[[橋健堂]]（曾祖父）&amp;lt;br /&amp;gt;[[平岡定太郎]]、[[橋健三]]（祖父）&amp;lt;br /&amp;gt;[[平岡萬次郎]]（大伯父）&amp;lt;br /&amp;gt;[[平岡梓]]（父）&amp;lt;br /&amp;gt;[[平岡萬寿彦]]（父の従兄）&amp;lt;br /&amp;gt;[[橋健行]]（伯父）&amp;lt;br /&amp;gt;[[平岡千之]]（弟）&amp;lt;br/&amp;gt;[[平岡美津子]]（妹）&lt;br /&gt;
| influences    = [[葉隠]]、[[二・二六事件]]、[[神風連の乱|神風連]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[歌舞伎]]、[[能楽]]、[[映画]]、[[劇画]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[森鴎外]]、[[谷崎潤一郎]]、[[川端康成]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[泉鏡花]]、[[堀辰雄]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[山口二矢]]、[[江藤小三郎]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[レイモン・ラディゲ]]、[[スタンダール]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[フリードリヒ・ニーチェ]]、[[トーマス・マン]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[プロスペル・メリメ]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[オスカー・ワイルド]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[ジョルジュ・バタイユ]] など&lt;br /&gt;
| influenced    = [[小池真理子]]、[[島田雅彦]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[平野啓一郎]]、[[浅田次郎]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[ジャン＝ジャック・バーネル]]&lt;br /&gt;
| signature     = &lt;br /&gt;
| website       = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;三島 由紀夫&#039;&#039;&#039;（みしま ゆきお、本名：&#039;&#039;&#039;平岡 公威&#039;&#039;&#039;（ひらおか きみたけ）、[[1925年]]（[[大正]]14年）[[1月14日]] - [[1970年]]（[[昭和]]45年）[[11月25日]]）は、[[日本]]の[[小説家]]・[[劇作家]]・[[評論家]]・[[政治活動家]]・[[民族主義者]]。[[血液型]]はA型&amp;lt;ref name=&amp;quot;nichiroku&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref group=&amp;quot;注釈&amp;quot;&amp;gt;[[慶応大学病院]][[法医学]]部の斉藤教授の解剖所見に記載されている。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[戦後]]の[[日本文学]]界を代表する[[作家]]の一人である。代表作は[[小説]]に『[[仮面の告白]]』、『[[潮騒 (小説)|潮騒]]』、『[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]』、『[[鏡子の家]]』、『[[憂国]]』、『[[豊饒の海]]』四部作など、[[戯曲]]に『[[鹿鳴館 (戯曲)|鹿鳴館]]』、『[[近代能楽集]]』、『[[サド侯爵夫人]]』などがある。人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
晩年は政治的な傾向を強め、[[自衛隊]]に体験入隊し、[[民兵]][[組織]]「[[楯の会]]」を結成。1970年11月25日、前年の[[国士|憂国烈士]]･[[江藤小三郎]]の[[自決]]に触発され、 楯の会隊員4名と共に、[[自衛隊]][[市ヶ谷駐屯地]]（現：[[防衛省]]本省）を訪れて[[東部方面隊 (陸上自衛隊)|東部方面]]総監を[[監禁]]。その際に幕僚数名を負傷させ、部屋の前の[[バルコニー]]で演説し[[クーデター]]を促し、その約5分後に[[切腹|割腹]][[自殺]]を遂げた。この一件は世間に大きな衝撃を与え、[[新右翼]]が生れるなど、国内の政治運動に大きな影響を及ぼした。（詳細は[[三島事件]]を参照）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ペンネーム|筆名]]の「三島」は、[[静岡県]][[三島市|三島]]の地名に由来する。「三島」の命名を想起した[[清水文雄]]が[[修善寺]]での同人誌の編集会議を兼ねた一泊旅行のとき、「三島」を通ってきたことと、[[富士山|富士]]を見ての連想から「ゆき」という名前が浮かんだという&amp;lt;ref name=&amp;quot;saeki&amp;quot;&amp;gt;[[佐伯彰一]]『評伝 三島由紀夫』（[[新潮社]]、1978年。[[中公文庫]]、1988年）&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref group=&amp;quot;注釈&amp;quot;&amp;gt;読者圏が全国に広がっていた『[[文芸文化|文藝文化]]』に公威の『[[花ざかりの森]]』を掲載するに際し、公威の文学活動を反対していた親（[[平岡梓]]）の思惑や、まだ学習院の中学生であったことなどを憂慮し、[[清水文雄]]と同人たちが筆名での作品発表を提案したという。清水文雄は、「今しばらく平岡公威の実名を伏せて、その成長を静かに見守っていたい ― というのが、期せずして一致した同人の意向であった」と、同人誌の[[修善寺]]での合宿会議を回想している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[著作権]]は、酒井著作権事務所が一括管理している。2010年11月時点で三島の著作は累計発行部数2400万部以上&amp;lt;ref&amp;gt;[http://sankei.jp.msn.com/culture/books/101123/bks1011231033001-n2.htm 三島由紀夫、没後40年で関連本ラッシュ “仮面”の素顔気さくな一面も (2/2ページ)]（[http://megalodon.jp/2010-1220-0133-58/sankei.jp.msn.com/culture/books/101123/bks1011231033001-n2.htm ウェブ魚拓]）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 出自 ===&lt;br /&gt;
&#039;&#039;[[#家族 親族|家族 親族]]も参照のこと。&#039;&#039;&lt;br /&gt;
[[File:Ｈｉｒａｏｋａ Ｔｅｉｔａｒｏｕ.jpg|thumb|200px|right|&amp;lt;center&amp;gt;祖父・[[平岡定太郎]]&amp;lt;br /&amp;gt;（[[樺太庁]]長官時代）&amp;lt;/center&amp;gt;]]&lt;br /&gt;
[[1925年]]（大正14年）[[1月14日]]、[[東京市]][[四谷区]]永住町2番地（現・[[東京都]][[新宿区]][[四谷]]4丁目22番）に父・[[平岡梓]]と母・[[平岡倭文重|倭文重]]（しずえ）の間に[[長男]]として生まれた。「公威」の名は祖父・[[平岡定太郎|定太郎]]による命名で、定太郎の同郷の土木工学者・[[古市公威]]から取られた&amp;lt;ref&amp;gt;三島由紀夫「東文彦への書簡 昭和16年4月11日付」（『三島由紀夫十代書簡集』）（[[新潮社]]、1999年。[[新潮文庫]]、2002年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。兄弟は、妹・[[平岡美津子|美津子]]（[[1928年]] - [[1945年]]）、弟・[[平岡千之|千之]]（[[1930年]] - [[1996年]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父・[[平岡梓|梓]]は、[[第一高等学校 (旧制)|一高]]から[[東京大学|東京帝国大学]][[法学部]]を経て、[[高等文官試験]]に1番で合格したが、面接官に悪印象を持たれて[[大蔵省]]入りを拒絶され、[[農商務省 (日本)|農商務省]]（公威の誕生後まもなく同省の廃止にともない[[農林水産省|農林省]]に異動）に勤務していた&amp;lt;ref name=&amp;quot;nichiroku&amp;quot;/&amp;gt;。後に[[内閣総理大臣]]となる[[岸信介]]、日本民法学の泰斗と称された[[我妻栄]]とは一高以来の同窓であった。[[1924年]]（大正13年）、[[平岡倭文重|橋倭文重]]と結婚する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
母・[[平岡倭文重|倭文重]]は、[[加賀藩]][[藩主]]・[[前田氏|前田家]]に仕えていた[[儒学者]]・橋家の出身。東京[[開成中学校・高等学校|開成中学校]]の5代目校長で、[[漢学者]]・[[橋健三]]の次女。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
祖父・[[平岡定太郎|定太郎]]は、兵庫県[[印南郡]][[志方村]]（現・兵庫県[[加古川市]]志方地域）の[[農家]]の生まれ。[[東京大学 (1877-1886)|帝国大学]]法科大学（現・[[東京大学]][[法学部]]）を卒業し、[[内務省 (日本)|内務省]]に入省、内務官僚となる。[[1893年]]（明治26年）、[[武士|武家]]の娘である[[平岡なつ|永井なつ]]と結婚。[[福島県]]知事、[[樺太庁]]長官等を務めたが、疑獄事件で失脚した（後に無罪の判決）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
祖母・[[平岡なつ|夏子]]（戸籍名：なつ）は、父・[[永井岩之丞]]（[[大審院]]判事）と、母・高（[[常陸国|常陸]][[水戸藩#宍戸藩|宍戸藩]]藩主・[[松平頼位]]が[[側室]]との間にもうけた娘）の間に長女として生まれ、12歳から17歳で結婚するまで[[有栖川宮熾仁親王]]に行儀見習いとして仕えていた。なつの祖父は江戸幕府若年寄の[[永井尚志]]であった&amp;lt;ref&amp;gt;[[佐伯彰一]]『潮騒』解説・190頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
作家・[[永井荷風]]の永井家と祖母・夏子の実家の永井家は同族（同じ一族）になる。夏子の9代前の祖先[[永井尚政]]の異母兄[[永井正直]]が荷風の12代前の祖先にあたる&amp;lt;ref&amp;gt;安藤武『三島由紀夫 全文献目録』（夏目書房、2000年）p.442&amp;lt;/ref&amp;gt;。父・[[平岡梓|梓]]の風貌は荷風と酷似していて、[[平岡公威|公威]]は父のことを陰で「荷風先生」と呼んでいた。ちなみに、祖母・夏子は幼い公威を「小虎」と呼んでいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
祖父・父・そして息子であった由紀夫と、三代に渡って同じ大学の学部を卒業しており、三代に渡る官僚の家柄の生まれであった&amp;lt;ref&amp;gt;[[佐伯彰一]]『潮騒』解説・190頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。江戸幕府の重臣を担当した永井尚志の血脈は、三島家に深く浸透したのではないかと推測される&amp;lt;ref&amp;gt;[[佐伯彰一]]『潮騒』解説・190頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 幼少年期 ===&lt;br /&gt;
[[画像:Yukio Mishima 1931.gif|thumb|200px|三島由紀夫 6歳 （[[1931年]]4月）]]&lt;br /&gt;
公威と祖母・[[平岡なつ|夏子]]とは、[[学習院]]中等科に入学するまで同居し、公威の幼少期は夏子の絶対的な影響下に置かれていた。公威が生まれて49日目に、「二階で赤ん坊を育てるのは危険だ」という口実の下、夏子は公威を両親から奪い自室で育て始め、母・[[平岡倭文重|倭文重]]が[[授乳]]する際も、夏子が時間を計ったという。[[坐骨神経痛]]の痛みで臥せっていることが多い夏子は、家族の中でヒステリックな振舞いに及ぶこともたびたびだった。車や鉄砲などの音の出る玩具は[[御法度]]で、公威に外での男の子らしい遊びを禁じた。遊び相手は女の子を選び、女言葉を使わせたという。1930年（昭和5年）1月、5歳の公威は[[自家中毒]]に罹り、死の一歩手前までいく。病弱な公威に対し、夏子は食事やおやつを厳しく制限し、[[貴族]]趣味を含む過保護な教育を行った。また、夏子は、[[歌舞伎]]や[[能]]、[[泉鏡花]]などの[[小説]]を好み、後年の公威の[[小説家]]および[[劇作家]]としての作家的素養を培った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1931年]]（昭和6年）4月、公威は学習院初等科に入学した。当時の学習院は[[華族]]中心の学校で、平岡家は[[平岡定太郎|定太郎]]が[[樺太庁]]長官だった時期に[[男爵]]の位を受ける話があったにせよ、[[平民]]階級だった。にもかかわらず公威を学習院に入学させたのは、大名華族意識のある祖母・夏子の意向が強く働いていたと言われる。学習院入学当時のことを、級友だった[[三谷信]]は、「初等科に入って間もない頃、つまり新しく友人になった者同士が互いにまだ珍しかった頃、ある級友が 『平岡さんは自分の産まれた時のことを覚えているんだって！』と告げた。その友人と私が驚き合っているとは知らずに、彼が横を走り抜けた。春陽をあびて駆け抜けた小柄な彼の後ろ姿を覚えている」&amp;lt;ref name=&amp;quot;mitani&amp;quot;&amp;gt;[[三谷信]]『級友 三島由紀夫』（[[中央公論新社|中公文庫]]、1999年）&amp;lt;/ref&amp;gt;と語っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
公威は初等科1、2年から[[詩]]や[[俳句]]などを初等科機関紙『小ざくら』に発表し始める。読書に親しみ、[[小川未明]]、[[鈴木三重吉]]、[[ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ|ストリンドベルヒ]]の[[童話]]、[[インド|印度]]童話集、及び[[講談社]]『[[少年倶楽部]]』（[[山中峯太郎]]、[[南洋一郎]]、[[高垣眸]]ら）、[[宍戸左行]]の『[[スピード太郎]]』などを愛読する&amp;lt;ref&amp;gt;三島由紀夫「ラディゲに憑かれて―私の読書遍歴」（[[日本読書新聞]]、1956年2月20日）&amp;lt;/ref&amp;gt;。自家中毒や風邪で学校を休みがちで、4年生の時は[[肺門]][[リンパ節|リンパ腺]]炎を患い、体がだるく姿勢が悪くなり教師によく叱られる。当時の[[綽名]]は虚弱体質で青白い顔をしていたことから、「アオジロ」だった。しかし初等科6年の時、校内の悪童から、「おいアオジロ、お前の[[精巣|睾丸]]もやっぱりアオジロだろうな」とからかわれたとき、公威は即座にサッと[[ズボン]]の前[[ボタン (服飾)|ボタン]]を開けて[[男性器|一物]]を取り出し、「おい、見ろ見ろ」とその悪童に迫った。それは、揶揄った側がたじろく程の偉容で、濃紺の制服のズボンをバックにした一物は、貧弱な体に比べて意外と大きかったという&amp;lt;ref name=&amp;quot;mitani&amp;quot;/&amp;gt;。1936年（昭和11年）6月、作文『わが国旗』を書く。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1937年]]（昭和12年）4月、中等科に進む。両親の転居に伴い、祖母・夏子のもとを離れ、[[渋谷区]][[大山町 (渋谷区)|大山町]]15番地（現・渋谷区[[松濤]]2丁目4番8号）の両親のもとより通う。文芸部に入る。同年7月、学習院校内誌『[[輔仁会雑誌]]』に[[随筆]]『春草抄―初等科時代の思ひ出』を発表。国語教師の[[岩田九郎]]に作文の才能を認められ成績も上がる。以後、輔仁会雑誌には、中等科・高等科の約7年間（中等科は5年間、高等科の3年は9月卒業）で多くの詩歌や[[散文]]作品、戯曲を発表することとなる。7月に[[支那事変]]が勃発し、[[日中戦争]]となる。同年の秋、8歳年上の高等科3年の文芸部員・[[坊城俊民]]と出会い、文学交遊を結ぶ。初対面の時の公威の印象を坊城は、「人波をかきわけて、華奢な少年が、帽子をかぶりなおしながらあらわれた。首が細く、皮膚がまっ白だった。目深な学帽の庇の奥に、大きな瞳が見ひらかれている。『平岡公威です』 高からず、低からず、その声が私の気に入った。」とし、その時の光景を以下のように語っている。&lt;br /&gt;
{{Quotation|「文芸部の坊城だ」 彼はすでに私の名を知っていたらしく、その目がなごんだ。「きみが投稿した詩、“秋二篇”だったね、今度の輔仁会雑誌にのせるように、委員に言っておいた」 私は学習院で使われている二人称“[[貴様]]”は用いなかった。彼があまりにも幼く見えたので。… &amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
「これは、文芸部の雑誌“雪線”だ。おれの小説が出ているから読んでくれ。きみの詩の批評もはさんである」 三島は全身にはじらいを示し、それを受け取った。私はかすかにうなずいた。もう行ってもよろしい、という合図である。三島は一瞬躊躇し、思いきったように、[[敬礼|挙手の礼]]をした。このやや不器用な敬礼や、はじらいの中に、私は少年のやさしい魂を垣間見たと思った。|[[坊城俊民]]「焔の幻影 回想三島由紀夫」&amp;lt;ref name=&amp;quot;boujou&amp;quot;&amp;gt;[[坊城俊民]]『焔の幻影 回想三島由紀夫』（[[角川書店]]、1971年）&amp;lt;/ref&amp;gt;}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1938年]]（昭和13年）1月頃、初めて小説らしい小説『（[[スカンポ|酸模]]（すかんぽ）―秋彦の幼き思ひ出』を書く。3月に、『[[座禅]]物語』などと共に校内誌『輔仁会雑誌』に発表された。『酸模―秋彦の幼き思ひ出』は三島の活字となった初めての小説といわれている。同年10月、祖母・夏子に連れられて、初めて[[歌舞伎]]（『[[仮名手本忠臣蔵]]』）を観る。また、同月、母方の祖母・橋トミに連れられて、初めて[[能]]（『[[三輪]]』）を観る。以後、歌舞伎、能の観劇に夢中になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1939年]]（昭和14年）1月18日、祖母・夏子が62歳で死亡。同年4月、[[清水文雄]]が学習院に国語教師として赴任し、国文法、作文の担当教師に加わる。清水は三島の生涯の師となり[[平安時代|平安朝]]文学への目を開かせた。同年9月、[[ドイツ]]対[[フランス]]・[[イギリス]]の戦争が始まった（[[第二次世界大戦]]の始まり）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1940年]]（昭和15年）1月に、退廃的心情が後年の作風を彷彿とさせる詩『凶ごと』を書く。同月、母・[[平岡倭文重|倭文重]]に連れられ、詩人・[[川路柳虹]]を訪問する。倭文重の父・[[橋健三]]と川路柳虹は友人だった。何度が川路宅を訪れ師事を受ける。同年2月に俳句雑誌『山梔（くちなし）』に俳句や詩歌を発表。以後、渾名のアオジロをもじって自ら平岡青城の[[俳号]]を名乗り、1年半ほどさかんに俳句や詩歌を『山梔』に投稿する。同年11月に短編『彩絵硝子』を校内誌『輔仁会雑誌』に発表。これを読んだ[[東文彦]]から始めて手紙をもらい、文通が始まる。[[徳川義恭]]とも交友を持ち始める。一方、[[坊城俊民]]との交友は徐々に疎遠になっていく。この頃の心情は、後に短編『[[詩を書く少年]]』に描かれ、この頃の詩歌はのち、『三島由紀夫選集1 [[花ざかりの森]]』（[[新潮社]]、1957年）に「十五歳詩集」として収録された。この頃、[[レイモン・ラディゲ]]、[[オスカー・ワイルド]]、[[ジャン・コクトー]]、[[ライナー・マリア・リルケ|リルケ]]、[[トーマス・マン]]のほか、[[ラフカディオ・ハーン]]（[[小泉八雲]]）、[[北原白秋]]、[[草野心平]]、[[丸山薫]]、[[芥川龍之介]]、[[谷崎潤一郎]]、[[伊東静雄]]、[[森鴎外]]、そして『[[万葉集]]』、『[[古事記]]』、『枕草子』などを愛読した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 戦時下の思春期 ===&lt;br /&gt;
[[1941年]]（昭和16年）4月、公威は校内誌『[[輔仁会雑誌]]』の編集長に選任される。同年7月に小説『[[花ざかりの森]]』を書き上げ、[[清水文雄]]に提出する。感銘を受けた清水は、自らも同人の[[日本浪曼派]]系の[[国文学]]雑誌『[[文芸文化|文藝文化]]』に掲載を決定する。同人は[[蓮田善明]]、[[池田勉]]、[[栗山理一]]など、[[斎藤清衛]]門下生で構成されていた。このとき筆名・&#039;&#039;&#039;三島由紀夫&#039;&#039;&#039;を初めて用いる。「三島」の命名を想起した清水文雄によると、[[修善寺]]での『文藝文化』編集会議を兼ねた一泊旅行のとき、「三島」を通ってきたことと、[[富士山|富士]]を見ての連想から「ゆき」という名前が浮かんだという。そして、「[[伊藤左千夫]]（いとうさちお）」のような[[万葉仮名|万葉]]風の名を希望した公威本人が提示した「三島由紀雄」の名に対して、清水が「由紀雄」は重過ぎると助言をし、「三島由紀夫」となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;saeki&amp;quot;/&amp;gt;。『花ざかりの森』は同人誌『文藝文化』[[1941年|昭和16年]]9月号から12月号に掲載された。編集後記で[[蓮田善明]]は公威について、「この年少の作者は、併し悠久な日本の歴史の請し子である。我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である」と激賞した&amp;lt;ref&amp;gt;[[蓮田善明]]「編集後記」（[[文芸文化|文藝文化]] [[1941年|昭和16年]]9月号に掲載）&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref group=&amp;quot;注釈&amp;quot;&amp;gt;全文は、「『[[花ざかりの森]]』の作者は全くの年少者である。どういふ人であるかといふことは暫く秘しておきたい。それが最もいいと信ずるからである。若し強ひて知りたい人があつたら、われわれ自身の年少者といふやうなものであるとだけ答へておく。日本にもこんな年少者が生まれて来つつあることは何とも言葉に言ひやうのないよろこびであるし、日本の文学に自信のない人たちには、この事実は信じられない位の驚きともなるであらう。この年少の作者は、併し悠久な日本の歴史の請し子である。我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である。此作者を知つてこの一篇を載せることになつたのはほんの偶然であつた。併し全く我々の中から生れたものであることを直ぐに覚つた。さういふ縁はあつたのである」（[[蓮田善明]]「編集後記・[[文芸文化|文藝文化]] [[1941年|昭和16年]]9月号）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この頃から公威は、随筆『[[神道|惟神之道]]（かんながらのみち）』などを書き、天皇制に関して深い傾倒を見せることとなり、美的天皇主義（[[尊王論|尊皇思想]]）を、[[蓮田善明]]から託された形となった（蓮田は終戦直後の1945年（昭和20年）8月19日に南方にて自決）。なお、蓮田は1943年（昭和18年）11月、戦地へ向かう出兵前に、「にはかにお召しにあづかり三島君よりも早くゆくことになつたゆゑ、たまたま得し一首をば記しのこすに、 よきひとと よきともとなり ひととせを こころはづみて おくりけるかな」という別れの一首を三島に遺した。[[1941年]]（昭和16年）[[12月8日]]（[[ハワイ]]時間：[[12月7日]]）に、日本は[[イギリス]]や[[アメリカ]]、[[オランダ]]などの[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]と開戦となった。公威は同年11月から書き始めていた評論『[[王朝]]心理文学小史』を、翌年の[[1942年]]（昭和17年）1月に、学習院図書館懸賞論文として提出する（この論文は、1943年（昭和18年）1月に入選し、希望賞品の豪華本『[[文楽]]』（[[光吉夏弥]]編、[[筑摩書房]]刊）を貰う）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1942年]]（昭和17年）3月24日、席次2番で中等科を卒業。[[学習院高等科 (旧制)|学習院高等科]]文科乙類（独語）に進む。[[ドイツ語|独語]]を[[ロベルト・シンチンゲル]]に師事、ほかに独語教師は[[桜井和市]]、[[新関良三]]、野村行一（1957年に[[東宮大夫]]在職中に死亡）らがいた。なお、[[ドナルド・キーン]]が後年、ドイツで講演をした際、会場でおじいさんが立ち上がって、「私は平岡君の（ドイツ語の）先生だった。彼が一番だった」と言ったという&amp;lt;ref&amp;gt;対談『[[平野啓一郎]]が聞く[[ドナルド・キーン]]の世界』（[[読売新聞]] 2007年7月31日、8月1日に掲載）&amp;lt;/ref&amp;gt;。公威は、[[体操]]と[[物理学|物理]]を除けば極めて優秀な学生であった（[[学校教練|教練]]の成績は[[甲]]で、三島はそのことを生涯誇りとしていた）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1942年（昭和17年）4月、詩『大詔』を同人誌『[[文芸文化|文藝文化]]』に発表。同年5月23日、学習院文芸部委員長に選出される。同年7月1日、公威は同人誌『赤絵』を[[東文彦]]、[[徳川義恭]]と共に創刊する。彼らとの友情を深め、特に病身の東とはさらに文通を重ねた&amp;lt;ref name=&amp;quot;azuma&amp;quot;&amp;gt;『三島由紀夫十代書簡集』（[[新潮社]]、1999年。[[新潮文庫]]、2002年）に所収。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref group=&amp;quot;注釈&amp;quot;&amp;gt;『東文彦作品集』（[[講談社]]、1971年。[[講談社文芸文庫]]、2007年）の序文で、東との交友を振り返りつつ、当時を、「文学に集中できたむしろ[[アリストテレス]]的静的な時代」であったと自ら回顧している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。同年8月26日、祖父・[[平岡定太郎|定太郎]]が79歳で死亡。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1942年（昭和17年）11月、学習院講演依頼のため、[[清水文雄]]に連れられ、[[日本浪曼派]]の[[保田與重郎]]（よじゅうろう）に出会い、以後、何度か訪問する。公威は[[伊東静雄]]や、[[蓮田善明]]の[[ロマン主義]]的傾向の影響の下で詩や小説を、次々と発表する。公威が『[[伊勢物語]]のこと』を掲載した同人誌『文藝文化』[[1942年|昭和17年]]11月号には、蓮田は『[[神風連の乱|神風連]]のこころ』と題した一文を掲載した。これは蓮田にとって[[熊本県立済々黌高等学校|熊本済々黌]]の数年先輩にあたる[[森本忠]]が書いた『神風連のこころ』（国民評論社、1942年）の書評である（なお、三島は神風連の地、[[熊本]]を1966年（昭和41年）に訪れた際に森本忠と会っている）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1943年]]（昭和18年）2月24日、学習院輔仁会の総務部総務幹事となる。同年6月6日、輔仁会春季文化大会で、公威の作・演出の『やがてみ楯と』（2幕4場）が上演される（当初は翻訳劇を企画したが、[[山梨勝之進]]学習院長から許可が出ず、やむなく公威が創作劇を書いた）。同年8月、[[富士正晴]]が『[[花ざかりの森]]』の出版の話を[[蓮田善明]]に提案する。同年9月頃から、公威は[[富士正晴]]を介して、詩人で医師の[[林富士馬]]を知り、以降親しく交際する。同年10月8日、[[東文彦]]が23歳の若さで急逝。公威は弔辞&amp;lt;ref name=&amp;quot;azuma&amp;quot;/&amp;gt;を奉げた。東の死によって同人誌『赤絵』は2号で廃刊となった。文彦の父・[[東季彦]]によると、三島は死ぬまで、文彦の命日に毎年欠かさず墓前参りに来ていたという&amp;lt;ref name=&amp;quot;mochimaru&amp;quot;&amp;gt;[[持丸博]]と[[佐藤松男]]との共著『証言三島由紀夫・[[福田恆存]] たった一度の対決』（[[文藝春秋]]、2010年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、三島自身は、「私は今までの半生で、二回しか試験を受けたことがない。幸いにしてそのどちらも通つた」&amp;lt;ref&amp;gt;三島由紀夫「社会料理三島亭」（[[婦人倶楽部]] 1960年1月号 - 12月号まで連載）&amp;lt;/ref&amp;gt;と書いているが、これに対し、[[村松剛]]が三島の死後に母・[[平岡倭文重|倭文重]]から聞いた話として、高校受験のとき[[第一高等学校 (旧制)|一高]]の入試に不合格となっていたという説もあるが、本当に三島が一高を受験したという証拠は倭文重の証言以外にはなく&amp;lt;ref group=&amp;quot;注釈&amp;quot;&amp;gt;[[村松剛]]は、「倭文重さんはいくつかの愚痴をぼくにいった。（中略）『学習院の中等科を終るときに、一高を受験させたのですよ。でも学習院程度の学校では、一高は無理だったのね。一高の[[バンカラ]]生活を経験していたら、公威もあんなことしなかったと思うの』  『あんなこと』が自衛隊入りいらいの彼の生活をさすことは、いうまでもない。学習院から一高にはいった例は、[[近衛文麿]]がそうであるように少数ながら過去になかったわけではなく、それに一高の生活も外見ほどにはバンカラではない。そう思ったのだが、このときはだまってきいていた。『学習院に入れると決めてしまったのは、義母ですからね』 （中略）つまり息子を死に向かって突走らせた責任の大本は姑にあると、倭文重さんはいいたかったのである」と、『三島由紀夫の世界』（新潮社、1990年）で書いている。この著書と同種の内容は筑波論文（[http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/M17/M175582/2.pdf]）参照のこと。&amp;lt;/ref&amp;gt;、三島の全集の年譜には、「{{要検証範囲|学習院在学中には他校の受験はできなかった|date=2012年3月}}という説もある」と付記されている&amp;lt;ref name=&amp;quot;nenpu&amp;quot;&amp;gt;『決定版 三島由紀夫全集第42巻・年譜・書誌』（新潮社、2005年）に記載。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref group=&amp;quot;注釈&amp;quot;&amp;gt;ただし[[近衛文麿]]や[[児島喜久雄]]、[[松平恒雄]]は学習院中等科から一高を出ており、一高出身の村松剛も、「学習院から一高にはいった例は、[[近衛文麿]]がそうであるように少数ながら過去になかったわけではなく」と、『三島由紀夫の世界』（新潮社、1990年）で書いている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、三島が中等科5年の時の1941年（昭和16年）9月25日付の[[東文彦]]宛の書簡には、高等科は文科乙類（独語）にすることを東に伝えている記述があり、三島本人はそのまま学習院高等科へ進む意思であったことが示されている&amp;lt;ref name=&amp;quot;azuma&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref group=&amp;quot;注釈&amp;quot;&amp;gt;村松剛も、「文学上の師や仲間が、三島のまわりには形成されていた。（中略）中等科五年の九月からは、師の[[清水文雄]]氏の推挽によって『花ざかりの森』を、彼は“[[文芸文化|文藝文化]]”に連載しはじめる。（中略）三島にとっては一高よりも学校外の雑誌に発表の舞台をあたえられたことの方が魅力的であり」と、『三島由紀夫の世界』（新潮社、1990年）で述べ、小説の書き直しなどに夢中になっていた三島が、もし受験していたとしても、及第している方が不思議だという見解を示している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。もう一つ、三島が就職のとき[[日本勧業銀行]]の採用試験に失敗しているとされているが、これについては、筆記試験（一次試験）には合格しており、面接で不採用となっている&amp;lt;ref name=&amp;quot;nenpu&amp;quot;/&amp;gt;。なお、三島と[[学校法人開成学園 (東京都)|開成学園]]については、母方の祖父・（[[橋健三]]）が[[開成中学校・高等学校|開成中学]]の校長を務めた他に、三島の父・（[[平岡梓]]）と、祖母・夏子の実弟・（[[大屋敦]]）が旧制開成中学出身だった縁がある。また、三島の長男・[[平岡威一郎|威一郎]]は[[お茶の水女子大学附属小学校]]卒業後、中学から開成に学んでいる&amp;lt;ref&amp;gt;[[原武史]]『滝山コミューン一九七四』p.262（[[講談社]]、2007年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:Kakogawa-City-Library-1.jpg|thumb|三島が徴兵検査を受けた加古川公会堂]]&lt;br /&gt;
[[1944年]]（昭和19年）4月、公威は[[本籍地]]・[[兵庫県]][[印南郡]][[志方村]]村長発信の[[徴兵検査]]通達書を受け取り、同年5月16日、兵庫県[[加古郡]]加古川町（現・[[加古川市]]）の[[加古川公会堂]]（現・[[加古川市立加古川図書館]]）で[[徴兵検査]]を受け、第2[[乙]]種合格となる。公会堂の現在も残る松の下で40kgの[[米俵]]を持ち上げるなどの検査もあった。自著の『[[仮面の告白]]』によれば、加古川で徴兵検査を受けたのは、「田舎の隊で検査を受けた方がひよわさが目立つて採られないですむかもしれないといふ父の入れ知恵」であったが、結果は合格した。級友の[[三谷信]]など同級生の大半が[[特別幹部候補生]]として志願していたが、三島は一[[兵卒]]として応召するつもりであった。徴兵検査合格の帰途の5月17日、遺作となるであろう『[[花ざかりの森]]』の序文依頼のため、大阪の[[伊東静雄]]を訪れるも、伊東からは悪感情を持たれ、「学校に三時頃平岡来る。夕食を出す。俗人、神堀来る。リンゴを呉れる。九時頃までゐる。駅に送る」などと日記に書かれた&amp;lt;ref name=&amp;quot;jyuurou&amp;quot;/&amp;gt;。しかし、伊東は、のち『[[花ざかりの森]]』進呈の返礼で、「会う機会が少なすぎた感じがする」と公威に言っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1944年]]（昭和19年）9月9日、学習院高等科を[[首席]]で卒業。卒業生総代となる。卒業式に臨席した[[昭和天皇]]に初めて接し、[[恩賜の銀時計]]を拝受。ドイツ[[大使]]よりドイツ文学の原書3冊、[[華族会館]]から図書数冊を贈られた。大学は文学部への進学という選択肢も念頭にはあったものの、父・[[平岡梓|梓]]の勧めにより、同年10月1日、[[東京大学|東京帝国大学]][[法学部]]法律学科（独法）に入学（推薦入学）した。そこで学んだ[[法学]]の厳格な論理性、とりわけ助教授であった[[団藤重光]]（三島没後の定年後に[[最高裁判所裁判官|最高裁判所判事]]）から叩き込まれた[[刑事訴訟法]]理論の精緻な美しさに魅了され、この時修得した法学の論理性が、小説や戯曲の創作において極めて有用であった旨を自ら回顧している&amp;lt;ref&amp;gt;三島由紀夫「法律と文学」「（[[東京大学|東大]]緑会大会プログラム、1961年12月）、三島由紀夫「私の小説作法」「（[[毎日新聞]] 1964年5月10日に掲載）&amp;lt;/ref&amp;gt;。息子が文学に熱中するのを苦々しく思い、事あるごとに執筆活動を妨害していた父ではあったが、帝大文学部ではなく法学部に進学させたことにより、三島文学に日本文学史上稀有な論理性を齎したことは[[平岡梓]]唯一の文学的貢献であるとして、後年、このことを三島は父に感謝するようになった。この頃、出版統制の中、「この世の形見」として『[[花ざかりの森]]』刊行に奔走。同年10月に処女短編集『花ざかりの森』（装幀は友人・[[徳川義恭]]が担当）が七丈書院で出版された。三谷信ら友人、知人にその本を渡した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1945年]]（昭和20年）1月10日から、[[東京大学|東京帝国大学]]勤労報国隊として、[[群馬県]]の[[中島飛行機]]小泉製作所に勤労動員される。総務部配属で事務作業しつつ、小説『[[中世 (小説)|中世]]』を書き続ける。[[中河与一]]の好意により、『中世』第一回と第二回の途中までを雑誌『文芸世紀』に発表する。同年2月4日に入営通知の電報を受け取り、[[遺書]]を書き、遺髪と遺爪を用意する（なお、中島飛行機小泉製作所は1945年（昭和20年）2月25日以降、[[アメリカ軍]]の[[爆撃機]]による主要目標となって徹底的な爆撃を受け壊滅。多数の動員学生も死亡した。結果的に応召は三島に罹災を免れさせる結果となった）。同年2月6日、父・梓と一緒に[[兵庫県]][[富合村]]へ出立し、入隊検査を受けるが、折からかかっていた[[気管支炎]]を[[軍医]]が[[肺結核|肺浸潤]]と誤診し、[[即日帰郷]]となる。偶然が重なったとはいえ、「[[兵役逃れ|徴兵逃れ]]」とも受け取られかねない（実際にはそのような事実関係はないが）、国家の命運を決めることとなった戦争に対する自らの消極的な態度が、以降の三島に複雑な思い（特異な[[死生観]]や「戦後は余生」という感覚）を抱かせることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1945年（昭和20年）5月5日から、[[神奈川県]][[高座郡]]大和の[[海軍]]高座[[工廠]]に勤労動員される。この頃、『[[和泉式部日記]]』、『[[上田秋成]]全集』、『[[古事記]]』、『日本[[歌謡]]集成』、『[[室町時代]]小説集』などの古典、[[泉鏡花]]、[[ウィリアム・バトラー・イェイツ|イェーツ]]などを濫読した。また、[[保田與重郎]]に謡曲の文体について質問した際、期待した[[浪漫主義]]的答えを得られなかった思いを、『中世』を書くことで、人工的な豪華な言語による絶望感に裏打ちされた終末観の美学の作品化に挑戦した。そして、戦禍が激しくなる中、遺作となることを意識した『[[岬にての物語]]』を起稿する。戦時下でただひとつ残った文芸誌『[[文藝]]』（編集長は[[野田宇太郎]]）に寄稿した『[[エスガイの狩]]』の発表は終戦後に遅れた。このとき初めて原稿科を貰う。処女短編集『[[花ざかりの森]]』は野田を通じ、[[川端康成]]にも献呈されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1945年（昭和20年）8月15日、[[日本の降伏|終戦]]、[[第二次世界大戦]]が終わった。「感情教育の師」として私淑していた[[蓮田善明]]は[[マレー半島]]で[[中尉|陸軍中尉]]として終戦を迎えたが、同年8月19日に駐屯地の[[マレー半島]]の[[ジョホールバル]]で、天皇を愚弄した連隊長・[[中条豊馬]][[大佐]]を軍用[[拳銃]]で射殺し、自決。享年41であった。翌年の1946年（昭和21年）11月17日に行われた「蓮田善明を偲ぶ会」に出席した三島は、「古代の雪を愛でし 君はその身に古代を現じて雲隠れ玉ひしに われ近代に遺されて空しく 靉靆の雪を慕ひ その身は漠々たる 塵土に埋れんとす」という詩を、亡き蓮田に献じた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1945年（昭和20年）10月23日には、妹・[[平岡美津子|美津子]]が[[腸チフス]]（菌を含んだなま水を飲んだのが原因）により、17歳の若さで急逝。三島は号泣する。同年11月末か12月頃、公威は[[三谷邦子]]（のちに『[[仮面の告白]]』に描かれる初恋の女性。親友・[[三谷信]]の妹。父親はのちに[[侍従長]]となる[[三谷隆信]]&amp;lt;ref group=&amp;quot;注釈&amp;quot;&amp;gt;なお、[[三谷隆信]]の三女・正子は[[鮎川義介]]の息子・[[鮎川弥一]]に嫁いだため、[[三谷邦子]]は、のち[[鮎川純太]]の義理の伯母の立場となった&amp;lt;/ref&amp;gt;）が、銀行員・[[永井邦夫]]（父は[[永井松三]]）と婚約したことを知る。翌年の1946年（昭和21年）5月5日に両者は結婚。三島はこの日、泥酔する。恋人を横取りされる形になった三島は、「戦争中交際してゐた女性と、許婚の間柄になるべきところを、私の逡巡から、彼女は間もなく他家の妻になつた。妹の死と、この女性の結婚と、二つの事件が、私の以後の文学的情熱を推進する力になつたやうに思はれる」&amp;lt;ref&amp;gt;三島由紀夫「終末感からの出発―昭和二十年の自画像」（[[新潮]] 1955年8月号に掲載）&amp;lt;/ref&amp;gt;と書いている。邦子の結婚後の同年9月16日、三島は偶然、邦子と道で会う。このときのことを三島は、「偶然邦子にめぐりあつた。試験がすんだので友達をたづね、留守だつたので、二時にかへるといふので、近くをぶらぶらあてどもなく歩いてゐた時、よびとめられた。彼女は前より若く却つて娘らしくなつてゐた。（中略）その日一日僕の胸はどこかで刺されつゞけてゐるやうだつた。前日まで何故といふことなく僕は、『[[ゲーテ|ゲエテ]]との対話』のなかの、彼が恋人とめぐりあふ夜の町の件を何度もよんでゐたのだつた。それは予感だ。世の中にはまだふしぎがある。そしてこの偶然の出会は今度の小説を書けといふ暗示なのか？書くなといふ暗示なのか？」&amp;lt;ref&amp;gt;『決定版 三島由紀夫全集第1巻・長編小説』（新潮社、2000年）に所収。&amp;lt;/ref&amp;gt;と、ノートに記している。この頃、三島は初の長編小説『盗賊』を執筆中であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 文壇デビューと『仮面の告白』===&lt;br /&gt;
[[1946年]]（昭和21年）1月27日、[[鎌倉]]に在住していた[[川端康成]]のもとを三島は始めて訪問し、『[[中世 (小説)|中世]]』、『煙草』の原稿を渡す。それは、[[野田宇太郎]]の紹介状を持参した訪問だったが、野田は当時を次のように語っている。「君は文学者になりたいのか、文壇人になりたいのかと言ったら、&amp;quot;有名な作家になりたい&amp;quot;と来るんだよ。まだ学生で一本立ちしてないのに、最初から有名な作家になるつもりで、僕を利用するために来ていたのかと怒ったら、だいぶこたえたようだった。川端さんのところへ行った折に&amp;quot;こういう人間が来るから&amp;quot;と言っておいたら彼は訪ねて行った。そして、川端さんに庇護されて、どんどん翼を伸ばして行った」 しかし、野田の知らないところで、三島と川端との繋がりはそれ以前の学習院在学中の頃からあった。三島の母・[[平岡倭文重|倭文重]]によると、1943年（昭和18年）、三島の同人誌での詩や短編を読んだ川端から突然、手紙（宛名は平岡公威）が来て、三島は、「名もない僕に大作家の川端さんが、お手紙を下さるなんて天にも昇る気持だ」と大喜びし、はしゃいでいたという。翌年の1944年（昭和19年）、『[[花ざかりの森]]』出版まで、2・3度手紙をやりとりし、三島は本ができあがると、川端に贈呈した。誰の紹介状もなくとも、1946年（昭和21年）1月27日に川端宅を初訪問してもよかったが、慎重深く礼儀を重んじる三島は、[[野田宇太郎]]の紹介状を持って訪問したという&amp;lt;ref name=&amp;quot;etugu&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時、[[鎌倉文庫]]の幹部であった川端は、雑誌『[[人間 (雑誌)|人間]]』（編集長：[[木村徳三]]）に『煙草』の掲載を推薦した。これが[[文壇]]への足がかりとなり、以来、川端とは生涯にわたる師弟関係となる（ただし三島自身は終生、川端を「先生」とは絶対に呼ばず、「川端さん」と呼ぶことに固執していた）。敗戦後、川端が、「私はこれからもう、日本の悲しみ、日本の美しさしか歌ふまい」と言った言葉は、三島の心に、「一管の笛のなげきのやうに聴かれて胸を搏つた」&amp;lt;ref&amp;gt;三島由紀夫「永遠の旅人―[[川端康成]]氏の人と作品」（別冊[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]] 51号、1956年4月に掲載）&amp;lt;/ref&amp;gt;という。同年6月、『煙草』は発表されたが、三島は大学の勉強と執筆活動をする中、[[高等文官試験]]を受けるか文筆で立つか悩む。同年11月、敗戦前後に渡って書き綴られた『[[岬にての物語]]』が文芸雑誌『[[群像]]』に、12月には『[[中世 (小説)|中世]]』全編が雑誌『人間』に掲載される。ある日、[[木村徳三]]は、三島と[[帝国大学|帝大]]図書館前で待ち合わせ一時間ほど雑談した際、講義に戻る三島を好奇心から、あとをつけて教室を覗いたという。その様子を木村は、「三島君が入った二十六番教室をのぞいてみると、真面目な優等生がするようにあらかじめ席をとっておいたらしい。教壇の正面二列目あたりに着席する後姿が目に入った。怠け学生だった私などの考えも及ばぬことであった」&amp;lt;ref&amp;gt;[[木村徳三]]『文芸編集者の戦中戦後』（大空社、1995年）（底本『文芸編集者 その跫音』（[[TBSブリタニカ]]、1982年）&amp;lt;/ref&amp;gt;と述べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1946年（昭和21年）12月14日、三島は紺[[絣]]の着物に[[袴]]を身につけ、[[矢代静一]]と一緒に、[[太宰治]]、[[亀井勝一郎]]を囲む集いに参加した。この時、三島は太宰に対して面と向かって、「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」と言い切った。この三島の発言に対して太宰は虚を衝かれたような表情をして誰へ言うともなく、「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」と答えたという&amp;lt;ref name=&amp;quot;henreki&amp;quot;&amp;gt;[[三島由紀夫]]「[[私の遍歴時代]]」（[[東京新聞]]夕刊 1963年1月10日 - 5月23日号に掲載）。『私の遍歴時代』（[[講談社]]、1964年。ちくま文庫で1995年再刊）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1947年]]（昭和22年）6月27日、『[[新夕刊]]』で[[林房雄]]と出会う。三島は林に好感を持ち、以後、親交を持つようになる。林への書簡で自身の文学論や、[[高見順]]ら左翼的文壇への憤慨などを吐露する（後年、三島は『林房雄論』（1963年）を書き、また林との対談『対話・日本人論』（1966年）、『現代における右翼と左翼』（1969年）も実現する）。同年7月、[[日本勧業銀行]]の入行試験を受験する。論文や英語などの筆記試験には合格したが、健康上の理由により面接で不採用となった。この頃、[[加藤周一]]、[[福永武彦]]、[[中村真一郎]]、[[窪田啓作]]らの[[マチネ・ポエティク|マチネ・ポエティック]]の人々と交流を持つ。しかし、その批評活動のあからさまな[[フランス]]臭に、「フランスはフランス、日本は日本じゃないか」&amp;lt;ref name=&amp;quot;henreki&amp;quot;/&amp;gt;と反感をおぼえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1947年]]（昭和22年）11月28日、[[東京大学]][[法学部]]法律学科卒業（同年9月に[[東京帝国大学]]から名称変更）。同年12月13日、[[高等文官試験]]に合格する（成績は合格者167人中138位）。一時[[宮内省]]入省の口利きがあったが、結局は父の強い勧めにより同月24日、[[大蔵省]][[事務官]]に任官され、銀行局国民貯蓄課に勤務する（銀行局長に[[愛知揆一]]、[[主計局]]長に[[福田赳夫]]がいた）。同じく学習院から東大を経て大蔵省入りした先輩に[[橋口収]]、入省同期に[[長岡實]]がいる。同月、初の長編『[[盗賊 (小説)|盗賊]]』の第2章が発表される。入省以降も小説家としても旺盛な創作活動を行う。一方、この頃の心境を、三島は『私の遍歴時代』の中で、「せつせと短編小説を書き散らしながら、私は本当のところ、生きてゐても仕様がない気がしてゐた。ひどい無力感が私をとらえてゐた。（中略）私は自分の若さには一体意味があるのか、いや、一体自分は本当に若いのか。といふやうな疑問にさいなまれた」&amp;lt;ref name=&amp;quot;henreki&amp;quot;/&amp;gt;と記している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1948年]]（昭和23年）6月、雑誌『[[近代文学 (雑誌)|近代文学]]』の第2次同人拡大の際し参加。この第2次参加の顔ぶれは、[[椎名麟三]]、[[梅崎春生]]、[[武田泰淳]]、[[安部公房]]、[[原民喜]]、[[高橋義孝]]、[[寺田透]]、[[船山馨]]、[[日高六郎]]、[[中田耕治]]らがいた。（この件りは『私の遍歴時代』&amp;lt;ref name=&amp;quot;henreki&amp;quot;/&amp;gt;に詳しい）。同年の7月か8月、出勤途中の朝、三島は役所勤めと執筆活動の二重生活による過労のため、[[渋谷駅]]のホームから線路に落ちる。事なきをえたが、この事故をきっかけに職業作家になることを、父・[[平岡梓]]が許す。同年8月下旬、[[河出書房新社|河出書房]]の編集者[[坂本一亀]]（[[坂本龍一]]の父）と[[志邨孝夫]]が、書き下ろし長篇小説の執筆依頼のために大蔵省の三島を訪ねた。三島は快諾し、「この作品に作家的生命を賭ける」と宣言する。そして、同年9月2日、創作に専念するため大蔵省に辞表を提出し、9月22日、辞令を受け依願退職した。同年11月25日に、三島は『[[仮面の告白]]』を起筆する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1949年]]（昭和24年）7月5日、[[書き下ろし]]長編小説『[[仮面の告白]]』（河出書房）が出版される。[[同性愛]]を扱った本作はセンセーションを呼び、高い評価を得て作家の地位を確立した。以降、1950年6月30日に書き下ろし長編『[[愛の渇き]]』（新潮社）を発表。同年7月 - 12月に、[[光クラブ事件]]の[[山崎晃嗣]]をモデルとした『[[青の時代 (小説)|青の時代]]』を連載。1951年（昭和26年）1月 - 1953年（昭和28）8月にかけて、『[[禁色 (小説)|禁色]]』を発表するなど、[[日本の近現代文学史#戦後|戦後文学]]の旗手として脚光を浴びた。また、その間も数々の短編や、『[[邯鄲 (戯曲)|邯鄲]]』、『[[綾の鼓 (戯曲)|綾の鼓]]』、『[[卒塔婆小町 (戯曲)|卒塔婆小町]]』&amp;lt;ref name=&amp;quot;kinndai&amp;quot;/&amp;gt;などの戯曲も発表するなど旺盛な活動を見せた。また、1952年（昭和27年）に発表された短編小説『[[真夏の死]]』は、のちの1967年（昭和42年）に[[フォルメントール国際文学賞]]第2位を受賞することとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1951年]]12月25日には、[[朝日新聞]]特別通信員として約半年間の世界一周旅行へ[[旅客船]]で出発した（この世界一周旅行の実現には、父・[[平岡梓|梓]]の[[第一高等学校 (旧制)|一高]]時代の同期である朝日新聞重役の[[嘉治隆一]]が尽力した）。[[ハワイ]]、[[サンフランシスコ]]、[[ロサンゼルス]]、[[ニューヨーク]]、[[フロリダ]]、[[マイアミ]]、[[サンフアン (プエルトリコ)|サン・フアン]]、[[リオ・デ・ジャネイロ]]、[[サン・パウロ]]、[[ジュネーブ]]、[[パリ]]、[[ロンドン]]、[[アテネ]]、[[ローマ]]を経て、翌年の1952年（昭和27）5月10日、[[東京国際空港|羽田]]に帰国。このときの世界旅行記は、同年10月5日に紀行文集『[[アポロの杯]]』としてまとめられ、[[朝日新聞社]]から刊行された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1953年（昭和28年）3月と、8月 - 9月に、三島は[[三重県]][[鳥羽港]]から[[神島 (三重県)|神島]]（かみしま）に行く。八代神社、[[神島灯台]]、島民の生活、[[例祭]][[神事]]、漁港、歴史、漁船員の仕事や生活、台風などについて取材し、翌年の[[1954年]]（昭和29年）6月10日、『[[潮騒 (小説)|潮騒]]』（新潮社）を発表する。[[ギリシャ]]の古典『[[ダフニスとクロエ (ロンゴス)|ダフニスとクロエ]]』に着想を得たこの恋愛小説はベストセラーとなり、東宝で映画化された。神島を舞台に選んだ理由を三島は、「日本で唯一[[パチンコ]]店がない島だったから」と、大蔵省同期の[[長岡實]]に語ったという。『潮騒』は第1回[[新潮社文学賞]]を受賞した&amp;lt;ref group=&amp;quot;注釈&amp;quot;&amp;gt;三島は『潮騒』の名を、[[万葉集]]の歌、「潮騒（しほさゐ）に 伊良虞（いらご）の島辺（しまへ） 漕ぐ舟に 妹（いも）乗るらむか 荒き島廻（しまみ）を」からとった（[[万葉仮名]]では『潮左為』）。この歌は、[[持統天皇]]が[[伊勢国|伊勢]]に旅された時に、都に残った[[柿本人麻呂]]が[[伊良湖岬]]を歌ったもので、意味は、「さわさわと波がさわいでいる伊良虞の島のあたりを漕いでゆく舟に、今ごろあの娘は乗っているのだろうか、潮の荒いあの島の廻りを」である&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 自己改造と『金閣寺』 ===&lt;br /&gt;
[[画像:Ishihara Mishima.jpg|thumbnail|240px|三島由紀夫と[[石原慎太郎]]（[[1956年]]）]]&lt;br /&gt;
世界一周旅行中に三島が発見した「太陽」、「肉体」、「官能」は、以後の作家生活に大きな影響を及ぼすことになる。世界一周旅行後の翌年1953年（昭和28年）、『[[潮騒 (小説)|潮騒]]』の取材で滞在した[[神島 (三重県)|神島]]の島民に、初め三島は、病気療養のために島に来ている人と勘違いされ、「あの青[[ヒョウタン|びょうたん]]みたいな顔の男は誰やろ？体が悪くて養生しに来とるのか」と噂された。島民たちに島の話を聞きながら、熱心にメモをとる痩せた白い肌の三島の姿は、屈強な島の逞しい男達を見慣れている島の女性たちにはかなり珍しかったという。そんな経験や、胃弱や虚弱体質に悩んでいたこともきっかけとなり、[[1955年]]（昭和30年）9月、三島は、[[週刊読売]]のグラビアに取り上げられていた[[玉利齊]]（当時、[[早稲田大学]][[バーベル]]クラブ主将。現在は社団法人日本[[ボディビル]]協会会長）の写真と、「誰でもこんな身体になれます」というキャプションに惹かれ、早速、編集部に電話をかけ、玉利を紹介してもらい、週3回の[[ボディビル]]を始めるなど、「肉体改造」に取り組み始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最初は自宅の庭に、玉利齋を招き指導を受けていたが、[[1956年]]（昭和31年）1月、[[後楽園]]ジムのボディビル・コーチ鈴木智雄に会い、弟子入りする。同年3月頃、鈴木が[[自由ヶ丘]]にボディビルジムを開き、三島のジム通いが始まった。また同年8月には、自由ヶ丘で知り合った町内会の人に誘われ、自由ヶ丘の[[熊野神社 (目黒区)|熊野神社]]の夏祭りで、生まれて初めて[[神輿]]をかつぐ。元々痩身で虚弱体質の三島であったが、弛まぬ鍛錬で後に知られるほどの偉容を備えた体格となった。最初は10キロしか挙げられなかった[[ベンチプレス]]も、鍛錬の結果、晩年は90キロを挙上したという&amp;lt;ref group=&amp;quot;注釈&amp;quot;&amp;gt;昔の三島は腺病質で、あるパーティでダンスを共にした[[美輪明宏]]から、「あら、三島さんのスーツってパットだらけなのね」とからかわれたこともあったという（この時三島は顔色を変え、部屋から出て行ったとされる）。後年、映画『[[人斬り (映画)|人斬り]]』（1969年）で共演し、撮影現場の京都に向かう飛行機で乗り合わせた[[仲代達矢]]が、「作家なのにどうしてボディービルを？」と尋ねた時、「僕は[[切腹]]をして死ぬからだよ」、「本当に切腹する時脂身が出ないよう、腹筋だけにしようと思っているんだ」と答えたという。料亭で呑んだ時は、仲居に向かって、「腹筋をつまんでごらんなさい」と要求して贅肉のない腹部を誇り、仲間内では「俺はミスター腹筋というのだ」と自慢していたと伝えられる。&amp;lt;/ref&amp;gt;。同年9月には、鈴木の紹介で、[[日本大学|日大]][[拳闘]]部の好意により、小島智雄監督の下、[[ボクシング]]の練習も始め、1年ほど続けた（1953年（昭和28年）頃も、三島は[[安部譲二]]の紹介でボクシングに挑戦したが、その時はいつも[[シャドーボクシング]]だった）。[[1957年]]（昭和32年）5月、小島智雄を[[スパーリング]]相手に練習を行っている三島を、[[石原慎太郎]]が訪ね、[[8ミリ映画|8ミリ]]に撮影する。これを観た三島は、「石原慎太郎の八ミリシネにとつてもらひましたが、それをみていかに[[主観]]と[[客観]]には相違があるものかと非常に驚き、目下自信喪失の状態にあります」&amp;lt;ref&amp;gt;三島由紀夫「私のすぽーつ・セカンドウインド」（[[毎日新聞]] 1957年6月16日に掲載）&amp;lt;/ref&amp;gt;と記し、以後はもっぱらボクシング観戦の方に回り、何人かの選手の[[スポンサー]]になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1948年（昭和23年）頃からの友人で作家となる[[中井英夫]]が、[[小学館]]で『原色百科事典』の編集に携わっていた頃、ボディビルの項目に載せる写真のモデルにならないかと三島に冗談を言い、そのまま忘れていると、次に会った時、三島から妙に声をひそめるようにして、「この間のボディビルの話ねえ、もし本当なら急いでもらえない? オレ、もしかするとまた外国に行かなくちゃならないかも知れないから」と催促された。それは遠慮深く真剣な口調だったので、中井は三島が本気であると感じ、編集部に話を通して実現の運びとなった&amp;lt;ref&amp;gt;[[中井英夫]]『LA BATEE』p.149（[[学研ホールディングス|立風書房]]、1981年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三島の同世代の作家には、[[星新一]]や[[遠藤周作]]など比較的長身の者もいたが、三島は身長164センチ（遺体解剖所見では163センチ）と、当時としては平均的であった。ちなみに三島の1941年（昭和16年）4月22日付の[[身体検査]]記録表には、「平岡公威 身長162.2センチ、体重44.0キロ」と記録され（このときの成績通知表に記された[[文部省]]による全国の同年齢平均標準値は158.8センチ、体重50.0キロとなっている）、1942年（昭和17年）4月13日付の身体検査記録表は、「平岡公威 身長163.1センチ、45.4キロ」と記録され、こちらも同年・同学年の平均値よりは高い数値である&amp;lt;ref name=&amp;quot;nenpu&amp;quot;/&amp;gt;。また、現在残っている質問形式の雑誌記事には三島が正直に身長を答えている記載がいくつもある&amp;lt;ref&amp;gt;「三島由紀夫氏との50問50答」（[[婦人公論]]、1967年9月号に掲載）&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;「三島氏のプライバシー―なんでも相談 なんでも解答」（PocketパンチOh! 1968年7月号に掲載）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ボディビルを始めた同年の1955年（昭和30年）11月には、[[京都]]に取材に行き、1950年（昭和25年）に起こった、青年僧による[[金閣寺放火事件]]を題材にした次回作の執筆にとりかかる。『[[仮面の告白]]』から取り入れていた[[森鴎外]]的な硬質な文体をさらに鍛え上げ、「肉体改造」のみならず「文体改造」も行った。その双方を磨き上げ昇華した独特の壮麗な文体を確立し、広く高い評価を得たのが、[[1956年]]（昭和31年）1月から10月まで雑誌『新潮』に連載された長編小説『[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]』である。『金閣寺』は三島文学の代表作となり、第8回[[読売文学賞]]も受賞した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期の三島は、1956年（昭和31年）に『[[永すぎた春]]』、1957年（昭和32年）に『[[美徳のよろめき]]』などの[[ベストセラー]]小説を多数発表。作品のタイトルのいくつかは流行語（「よろめき」など）にもなり、映画化作品も多数にのぼるなど、文字どおり文壇の寵児となる。また同時期には、1955年（昭和30年）に第2回[[岸田演劇賞]]を受賞した『[[白蟻の巣]]』、1956年（昭和31年）に『[[鹿鳴館 (戯曲)|鹿鳴館]]』など戯曲発表も旺盛に行い、同年、国際的にも評価の高い戯曲集『[[近代能楽集]]』（「[[邯鄲 (戯曲)|邯鄲]]」、「[[綾の鼓 (戯曲)|綾の鼓]]」、「[[卒塔婆小町 (戯曲)|卒塔婆小町]]」、「[[葵上 (戯曲)|葵上]]」、「[[班女 (戯曲)|班女]]」から成る&amp;lt;ref group=&amp;quot;注釈&amp;quot;&amp;gt;のち1968年の文庫版には「[[道成寺 (戯曲)|道成寺]]」、「[[熊野 (戯曲)|熊野]]」、「[[弱法師 (戯曲)|弱法師]]」が加わる&amp;lt;/ref&amp;gt;）も刊行された。戯曲上演には、[[文学座]]をはじめとする劇団で自ら演出、端役出演なども行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
またこの時期、花嫁候補を探していた三島が、[[銀座]]6丁目の小料理屋「井上」の2階で、独身時代の[[皇后美智子|正田美智子]]（美智子皇后）と見合いを行ったのも、1957年（昭和32年）頃であると考えられている&amp;lt;ref&amp;gt;[[徳岡孝夫]]『五衰の人─三島由紀夫私記』（[[文藝春秋]]、1997年。文春文庫、1999年）、および、[[週刊新潮]] 2009年4月2日号掲載記事・「美智子さまと三島由紀夫のお見合いは小料理屋で行われた」&amp;lt;/ref&amp;gt;。同年の3月15日、三島は母・[[平岡倭文重|倭文重]]とともに、皇后美智子が首席で卒業した[[聖心女子大学]]卒業式を参観している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三島は文学以外の評論や批評を行うことも多く、映画や劇画、時事、風俗などへの多岐にわたる評論もした。1954年（昭和29年）の『[[ゴジラ (1954年の映画)|ゴジラ]]』公開当時、多くの文化人が「ゲテモノ映画」と酷評する中、特撮部分だけでなく内容についても「文明批判の見地がある」など高い評価を与えていた。次第にその審美眼は、プロの映画評論家にも一目置かれるようになり、[[荻昌弘]]や[[小森和子]]らと対談などもした。[[淀川長治]]は、「ワタシみたいなモンにでも気軽に話しかけてくださる。自由に冗談を言いあえる。数少ないホンモノの人間ですネ。（中略）あの人の持っている赤ちゃん精神。これが多くの人たちに三島さんが愛される最大の理由でしょうネ」と三島について雑誌『[[平凡パンチ]]』のインタビューで述べていた&amp;lt;ref&amp;gt;[[椎根和]]『[[平凡パンチ]]の三島由紀夫』（新潮社、2007年。新潮文庫、2009年/増補版 河出書房新社、2012年10月）、著者は編集担当者&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、[[サイエンス・フィクション|SF]]やSF的なものに関心を寄せ、肯定的な評価をしていた。[[日本空飛ぶ円盤研究会]]にも所属し、1957年（昭和32年）6月8日には、日活国際会館屋上での[[空飛ぶ円盤]]観測会に初参加した。のちの1962年（昭和37年）には、自らもSF性の強い作品である『[[美しい星 (三島由紀夫)|美しい星]]』を発表し、1963年（昭和38年）9月には、SF同人誌『[[宇宙塵 (同人誌)|宇宙塵]]』に寄稿するなどした。また、[[アーサー・C・クラーク|アーサー・クラーク]]の『[[幼年期の終り]]』を絶賛し、「随一の傑作と呼んで憚らない」と評した。劇画については、「[[平田弘史]]の時代物劇画がなどに、そのあくまで真摯でシリアスなタッチに、古い[[紙芝居]]の[[ノスタルジア|ノスタルジヤ]]と“[[弘瀬金蔵|絵金]]”的[[幕末]]趣味を発見してゐた」&amp;lt;ref name=&amp;quot;gekiga&amp;quot;&amp;gt;三島由紀夫「劇画における若者論」[[サンデー毎日]] 1970年2月1日号に掲載）&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;hyouron36&amp;quot;/&amp;gt;と三島は述べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 世界的評価と『鏡子の家』 ===&lt;br /&gt;
[[1959年]]（昭和34年）9月、三島は書き下ろし長篇小説『[[鏡子の家]]』を発表する。起稿から約1年半をかけ、『[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]』では「個人」を描いたが本作では「時代」を描こうとした野心作だった。三島は『鏡子の家』について、「この小説は、いはゆる戦後文学ではなく、『戦後は終つた』文学だとも云へるだらう。『戦後は終つた』と信じた時代の、感情と心理の典型的な例を書かうとしたのである。（中略）四人の青年が、鏡子といふ[[巫女]]的な女性の媒（なかだ）ちによつて、現代の地獄巡りをする。現代の地獄は、都会的でなければならない。おのづからあらゆる挿話が、東京と[[ニューヨーク|紐青]]に集中するのである」&amp;lt;ref&amp;gt;三島由紀夫「『[[鏡子の家]]』そこで私が書いたもの」（「鏡子の家」広告用ちらし、1959年8月）&amp;lt;/ref&amp;gt;と述べた。[[奥野健男]]はこの小説を「最高傑作」と評価し、[[橋川文三]]も高評価を与えた。だが、[[平野謙 (評論家)|平野謙]]や[[江藤淳]]は「失敗作」と断じ、世間一般の評価も必ずしも芳しいものではなかった。これは、作家として三島が味わった最初の大きな挫折（転機）だったとされている&amp;lt;ref group=&amp;quot;注釈&amp;quot;&amp;gt;三島は後年、大島渚との対談『ファシストと革命家か』（映画芸術 1968年1月号に掲載）の中で、「『鏡子の家』でね、僕そんなこというと恥だけど、あれで皆に非常に解ってほしかったんですよ。それで、自分はいま川の中に赤ん坊を捨てようとしていると、皆とめないのかというんで橋の上に立ってるんですよ。誰もとめに来てくれなかった。（中略）その時の文壇の冷たさってなかったんですよ。僕が赤ん坊捨てようとしてるのに誰もふり向きもしなかった」と語っている&amp;lt;/ref&amp;gt;。同年1月には、評論『[[文章読本#三島由紀夫|文章読本]]』を雑誌『[[婦人公論]]』に発表。『鏡子の家』執筆中の1958年（昭和33年）7月 - 1959年（昭和34年）11月には、エッセイ『[[不道徳教育講座]]』を雑誌『[[週刊明星]]』に連載する。また同時期には、公開日記・随筆『[[裸体と衣裳]]』（掲載時は「日記」というタイトル）も雑誌『新潮』に連載された。[[1958年]]（昭和33年）に発表された戯曲『[[薔薇と海賊]]』は、[[週刊読売]]新劇賞を受賞した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、文壇の寵児として、1960年（昭和35年）に『[[宴のあと]]』（のち[[フォルメントール国際文学賞]]第2位受賞）、『百万円煎餅』、『熱帯樹』、『[[弱法師 (戯曲)|弱法師]]』、1961年（昭和36年）に『[[獣の戯れ]]』、『[[憂国]]』、『[[十日の菊]]』（第13回[[読売文学賞]]戯曲部門賞受賞）、『[[黒蜥蜴 (戯曲)|黒蜥蜴]]』、1962年（昭和37年）に『[[美しい星 (三島由紀夫)|美しい星]]』などを発表、1963年（昭和38年）には『[[午後の曳航]]』（のちフォルメントール国際文学賞候補作品）、『[[雨のなかの噴水]]』、『[[剣 (小説)|剣]]』、『[[喜びの琴]]』、1964年（昭和39年）は『[[絹と明察]]』など、多くの作品を旺盛に発表した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私生活では、[[1958年]]（昭和33年）6月1日に、日本画家・[[杉山寧]]の長女・[[平岡瑤子|瑤子]]と結婚。[[大田区]][[南馬込]]に[[ヴィクトリア朝|ビクトリア]]風[[コロニアル]]様式の新居を建築し（設計・施工は[[清水建設]]）、同年11月からは、[[ボディビル]]に加えて、本格的に[[剣道]]を始める。この頃には、70キロの[[バーベル]]を持ち上げられるようになっていた。翌年の1959年（昭和34年）6月2日には長女・[[平岡紀子|紀子]]が誕生し、1962年（昭和37年）5月2日には長男・[[平岡威一郎|威一郎]]が誕生した。また、[[舩坂弘]]と剣道を通じて交友を持つようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文学活動以外でも、[[1960年]]（昭和35年）に、[[永田雅一]]の[[肝煎|肝煎り]]で[[大映]][[映画]]『[[からっ風野郎]]』（[[増村保造]]監督）に[[チンピラ]][[やくざ]]役で主演した。1961年（昭和36年）9月には、写真家・[[細江英公]]の写真集『[[薔薇刑]]』の[[モデル (職業)|モデル]]となり、自宅で撮影が行われた。写真発表は翌年1962年（昭和37年）1月に銀座松屋の「NON」展でなされ、その鍛え上げられた肉体を積極的に世間に披露した。写真集『[[薔薇刑]]』は、1963年（昭和38年）3月に限定版で刊行された。このような小説家以外での三島の数々の行動に対しては、一部で「露悪的」として嫌悪する見方がある一方、戦後[[マスメディア]]勃興期においていち早くマスメディアの効用を積極的に駆使し、いわゆる「[[マルチタレント|マスコミ文化人の先駆]]」と位置づけて好意的に見る向きもある。だが、三島自身は死の4ヶ月前に[[産経新聞|サンケイ新聞]]夕刊で発表した『果たし得てゐない約束―私の中の二十五年』において、「私の中の二十五年間を考へると、その空虚に今さらびつくりする。私はほとんど『生きた』とはいへない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ」&amp;lt;ref&amp;gt;三島由紀夫『[[文化防衛論]]』（ちくま文庫、2006年）に再録。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;hyouron36&amp;quot;/&amp;gt;と告白している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私生活や多方面の活躍で、その充実ぶりを見せる一方、1961年（昭和36年）2月には、[[深沢七郎]]の『[[風流夢譚]]』をめぐるいわゆる[[嶋中事件]]に関連して[[右翼]]から脅迫状を送付され、2ヶ月間警察の護衛を受けて生活することを余儀なくされる。[[ジョン・ネイスン]]によると、この時の右翼に対する恐怖感が後の三島の思想を過激な方向に向かわせたのではないか、とする実弟・[[平岡千之]]の推測があるとされたが、弟の千之はそのようなことは言っていないと、これを否定した&amp;lt;ref name=&amp;quot;muramatu&amp;quot;&amp;gt;[[村松剛]]『三島由紀夫の世界』（新潮社、1990年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。三島は嶋中事件の起こる2年以上前から剣道を本格的に習い、事件以前に『[[憂国]]』も書き上げているので、ジョン・ネイスンの見解は見当違いである。同年3月には、『[[宴のあと]]』をめぐり[[有田八郎]]から告訴され、同年4月から[[プライバシー]]裁判が始まった。三島は1964年（昭和39年）9月に敗訴し、80万円の賠償を求められた（三島側は10月に[[控訴]]するが、翌年3月の原告・有田八郎の死去に伴い、のちに遺族と和解成立）。この事件で有田側についた[[吉田健一 (英文学者)|吉田健一]]と三島は疎遠となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
劇団「[[文学座]]」をめぐっても、様々なトラブルにも見舞われた。1963年（昭和38年）1月、反[[杉村春子]]であった[[福田恆存]]の裏工作により、[[芥川比呂志]]、[[岸田今日子]]ら29人の劇団員が文学座を脱退し、福田が中心となる「[[劇団雲]]」が結成された。三島は新聞に載る直前まで何も知らされていなかった。岸田今日子は、「福田さんに誘われたわたしは 『三島さんが一緒なら』と言った。『もちろん僕から誘います。三島君に言うと直ぐ洩れるから話さないように』と念を押された。（中略）新聞に脱退の記事が出た。三島さんの名前はない。帰京してすぐ三島さんのお家へ行くと、『新聞に出る前の晩に聞かされて、動けると思う？』と言われた。福田さんにだまされたと思ったけれど、どうしようもなかった。」&amp;lt;ref&amp;gt;[[岸田今日子]]「わたしの中の三島さん」（『決定版 三島由紀夫全集第22巻・戯曲2』付録・月報）（新潮社、2002年）&amp;lt;/ref&amp;gt;と回顧している。[[吉田健一 (英文学者)|吉田健一]]の件と、この一件で、1951年（昭和26年）から続いた「[[鉢の木会]]」も自然消滅する。残された三島は[[文学座]]の再建に力を注ぐが、同年11月には、『[[喜びの琴]]』をめぐり、三島と[[杉村春子]]らが対立する文学座公演中止事件（[[喜びの琴事件]]）が起こり、再びトラブルが相次いだ。このように、この時期には、[[安保闘争]]を経た時代思潮に沿う形でいわゆる「文学と政治」にまつわる事件にも度々関与した。このときはまだ晩年におけるファナティックな政治思想を披瀝するほどの関わりをもつことはなかったが、同年8月には、三島はすでに晩年の自死に通じるような『[[剣 (小説)|剣]]』を書き上げている。翌年の1964年（昭和39年）初めには、『[[浜松中納言物語]]』を読み、『[[豊饒の海]]』の構想が具体化して行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1963年（昭和38年）10月、三島は『[[絹と明察]]』を起筆した。この小説は、『[[鏡子の家]]』で描いた「時代」の「青年」から、日本の「家長」というものへテーマを変えた作品だった。三島は『絹と明察』について、「書きたかつたのは、日本及び日本人といふものと、父親の問題なんです。（中略）父親というテーマ、つまり男性的権威の一番支配的なものであり、いつも息子から攻撃をうけ、滅びてゆくものを描かうとしたものです」&amp;lt;ref&amp;gt;三島由紀夫「著者と一時間（「絹と明察」）」（[[朝日新聞]] 1964年11月23日に掲載）&amp;lt;/ref&amp;gt;と述べている。三島は[[近江]]絹糸の労働争議（[[近江絹糸争議]]）を背景に、伝統的な日本（駒沢）と、西洋かぶれの日本（大槻、岡野）との対立を描くことで、日本の究極の家長とは何かを探ろうとした。この小説の翻訳は当初、[[ジョン・ネイスン]]が担当したが、ネイスンは翻訳途中状態でこれを放置し、[[大江健三郎]]の翻訳担当に移った。のちネイスンは『絹と明察』の翻訳を三島に断ったが、この非礼に怒った三島とネイスンの関係は感情的もつれを生んだ。三島はネイスンのことを、「[[左翼]]に誘惑された与太者」と呼び、ネイスンも米誌に三島の酷評を書いた。『絹と明察』は第6回[[毎日芸術賞]]文学部門賞を受賞した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期には、三島文学が翻訳を介し[[ヨーロッパ]]や[[アメリカ合衆国|アメリカ]]などで紹介されるようになり、舞台上演も数多く行われた（世界各国への三島文学紹介者として、[[アイヴァン・モリス]]、[[ドナルド・キーン]]、[[エドワード・G・サイデンステッカー]]などが著名である）。以降、三島作品は世界的に高く評価されるようになる。[[国連事務総長]]だった[[ダグ・ハマーショルド]]は、1961年（昭和36年）に赴任先で事故死の直前に、『[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]』を読了し、[[ノーベル財団]]委員宛の手紙で大絶賛したという。また、『[[真夏の死]]』、『[[宴のあと]]』は、[[フォルメントール国際文学賞]]第2位を受賞した。ドナルド・キーンは、「三島以前の日本文学者の翻訳は、特殊に研究している人や関心のある人によって読まれていたが、三島の場合は一般の人達まで興味を持って読まれている。『[[サド侯爵夫人]]』は古典劇にも近いために、[[フランス]]では地方の劇場でも上演されている。それは特別な依頼ではなく、見たい人が多いから」としている。&amp;lt;ref&amp;gt;http://hometown.infocreate.co.jp/chubu/yamanakako/mishima/sympo/panel.html&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本国外での評価が高さを示す一例は、監督・[[ポール・シュレイダー]]、制作総指揮・[[ジョージ・ルーカス]]、[[フランシス・フォード・コッポラ]]により、映画『[[Mishima: A Life In Four Chapters]]』が製作されたが、日本での正式な公開は行われなれていない。コッポラは、映画『[[地獄の黙示録]]』の撮影時には、三島の『[[豊饒の海]]』も手に取り、構想を膨らませていたと述べている。三島作品で海外で映画化されたのは、『[[午後の曳航]]』で、『[[The Sailor Who Fell from Grace with the Sea]]』という題名で、1976年（昭和51年）に日米合作で製作上映（[[サラ・マイルズ]]、[[クリス・クリストファーソン]]出演）。フランスでは、1998年（平成10年）に『[[肉体の学校]]』が、『[[L&#039;Ecole de la Chair]]』（英題：『[[The School of Flesh]]』）という題で映画化（[[ブノワ・ジャコ]]監督、[[イサベル・ユベール]]、[[ヴァンサン・マルチネス]]出演）。ほかに1993年(平成5年）7月には、[[モーリス・ベジャール]]振付による、三島を題材にしたバレエ・スペクタクル『[[M (バレエ)|M]]』が東京で初演され、その後ヨーロッパ各国で上演された&amp;lt;ref&amp;gt;松田和彦「肉体で描かれた三島由紀夫へのオマージュ―[[モーリス・ベジャール|ベジャール]]の『[[M (バレエ)|M]]』」（『三島由紀夫論集III 世界の中の三島由紀夫』）（[[勉誠出版]]、2001年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[イギリス]]のロックバンド・[[ストラングラーズ]]も、三島の生き方、作品に着想を得た『[[Death &amp;amp; Night &amp;amp; Blood (Yukio)]]』（『死と夜と血』）という楽曲を発表している。『Ice』という楽曲にも、「[[葉隠|ハガクレ]]という言葉が使われている。ベースの[[ジャン＝ジャック・バーネル]]は、三島の愛読者であるという。映画『[[戦場のメリークリスマス]]』のテーマ曲は[[坂本龍一]]が作曲したが、この楽曲に[[デヴィッド・シルヴィアン]]が詞をつけた『禁じられた色彩』は、三島の『[[禁色 (小説)|禁色]]』から着想されたもので、デヴィッド・シルヴィアンは三島の大ファンだという。なお、[[YMO]]の『[[ビハインド・ザ・マスク (曲)|BEHIND THE MASK]]』は、『[[仮面の告白]]』のタイトルをヒントに坂本龍一が作曲した楽曲だが、これは[[ビハインド・ザ・マスク (曲)#マイケル・ジャクソンによるカバー|マイケル・ジャクソンにカバー]]されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 二・二六事件と『英霊の声』 ===&lt;br /&gt;
[[1965年]]（昭和40年）4月、三島は短編『[[憂国]]』（擱筆・1960年10月）を、自ら脚色・監督・主演・美術・制作する映画『[[憂国]]』の撮影に入った。映画『憂国』は、翌年の[[1966年]]（昭和41年）1月に、ツール国際短編[[映画祭]]劇映画部門第2位となった。日本での一般公開は同年4月からなされ、話題を呼びヒットした。映画『憂国』は、後の自決を予感させるような[[切腹]]シーンがあるため、三島の死後の1971年（昭和46年）に[[平岡瑤子|瑤子]]夫人の希望により[[ネガフィルム]]が全て焼却され、画質劣悪な海外版以外は現存しないとされてきたが、[[2005年]]（平成17年）8月にオリジナルのネガフィルムの発見が報じられた。夫人が死去した数年後に発見されたという。これは、瑤子夫人の要請により上映用フィルムはすべて焼却処分にされたものの、共同製作者・[[藤井浩明]]の「ネガフィルムだけはどうか残しておいてほしい」という要望で、瑤子夫人が自宅に密かに保存していたものであった。茶箱の中に、ネガフィルムのほか、映画『憂国』に関するすべての資料が数個のケースにきちんと分類され収められていた。ネガフィルムの存在を半ば諦めていた藤井浩明はそれを発見したとき、「そこには御主人（三島）に対する愛情と尊敬がこめられていた。ふるえるほどの感動に私は立ちつくしていた」&amp;lt;ref&amp;gt;[[藤井浩明]]「映画『[[憂国]]』の歩んだ道」（『決定版 三島由紀夫全集別巻・映画「[[憂国]]」』ブックレット内）（新潮社、2006年）&amp;lt;/ref&amp;gt;と語った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1966年]]（昭和41年）5月に剣道4段に合格した三島は、[[居合]]（大森流）も始めるようになる。同年6月には、[[二・二六事件]]と[[特別攻撃隊|特攻隊]]の兵士の霊の呪詛を描いた『[[英霊の声]]』を刊行した。この本は、『[[憂国]]』、戯曲『[[十日の菊]]』と共に、二・二六事件三部作としてまとめられ出版された。三島は後記の「二・二六事件と私」の中で、「……たしかに二・二六事件の挫折によつて、何か偉大な神が死んだのだつた」、「かくも永く私を支配してきた真の[[ヒーロー]]たちの霊を慰め、その汚辱を雪ぎ、その復権を試みようといふ思ひは、たしかに私の裡に底流してゐた。しかし、その糸を手繰つてゆくと、私はどうしても[[天皇]]の『[[人間宣言]]』に引つかからざるをえなかつた」と述べている&amp;lt;ref group=&amp;quot;注釈&amp;quot;&amp;gt;三島は次のように語っている。「……たしかに二・二六事件の挫折によつて、何か偉大な神が死んだのだつた。当時十一歳の少年であつた私には、それはおぼろげに感じられただけだつたが、二十歳の多感な年齢に敗戦に際会したとき、私はその折の神の死の怖ろしい残酷な実感が、十一歳の少年時代に直感したものと、密接につながつてゐるらしいのを感じた。（中略）かくも永く私を支配してきた真の[[ヒーロー]]たちの霊を慰め、その汚辱を雪ぎ、その復権を試みようといふ思ひは、たしかに私の裡に底流してゐた。しかし、その糸を手繰つてゆくと、私はどうしても[[天皇]]の『[[人間宣言]]』に引つかからざるをえなかつた。昭和の歴史は敗戦によつて完全に前期後期に分けられたが、そこを連続して生きてきた私には、自分の連続性の根拠と、論理的一貫性の根拠を、どうしても探り出さなければならない欲求が生まれてきてゐた。（中略）どうしても引つかかるのは、『象徴』として天皇を規定した新憲法よりも、天皇御自身の、この『人間宣言』であり、この疑問はおのづから、二・二六事件まで、一すぢの影を投げ、影を辿つて『英霊の声』を書かずにはゐられない地点へ、私自身を追ひ込んだ。自ら『[[美学]]』と称するのも滑稽だが、私は私の[[エステティック]]を掘り下げるにつれ、その底に天皇制の岩盤がわだかまつてゐることを知らねばならなかつた。それをいつまでも回避してゐるわけには行かぬのである」&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[昭和天皇]]が「[[人間宣言]]」したのは、終戦後の[[1946年]]（昭和21年）1月1日であった。新聞には天皇と[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]が並ぶ写真が載った。三島はこの時、憤怒する。級友の[[三谷信]]はその当時を述懐し、「天皇が人間宣言をなさり、背広姿の御写真が新聞に掲載された時、彼は非常な不満、むしろ忿懣を抱いていた。なぜ[[衣冠束帯]]の御写真にしないのかというのである。又、焼跡だらけの[[ハチ公]]前の広場を一緒に歩いていた時、彼は[[天皇制]]攻撃の[[ジャーナリズム]]を心底から怒り、『ああいうことは結局のところ世に受け入れられるはずが無い』と断言した。そういう彼の言葉には理屈抜きの烈しさがあった。だから、彼は自分が敗戦後、日本の伝統から離れて楽しむうちに、混乱の方が、いつか多数派になったのに驚いたのではないか。美酒の瓶が倒れたように、日本の美質がどんどん流失しているのに気付き慄然としたのではないか。（中略）彼が自分の好きな国々を思いきり歩いて故郷に戻って来た時、心の拠り処の日本の[[古典]]は滅びかけていた」&amp;lt;ref name=&amp;quot;mitani&amp;quot;/&amp;gt;と述べている。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[加藤典洋]]は、「わたしの考えでは、1966年に書かれた『[[英霊の声]]』は、日本の戦後にとってたぶんもっとも重要な作品の一つである。（中略）わたしは、日本の戦後に三島のような人間がいてくれたことを日本の戦後のために喜ぶ。わたしがこう言ったとしてどれだけの人が同意してくれるかわからないが、彼がいるといないとでは、日本の戦後の意味は、大違いである」&amp;lt;ref&amp;gt;[[加藤典洋]]「その世界普遍性」（『決定版 三島由紀夫全集第21巻・戯曲1』付録・月報）（新潮社、2002年）&amp;lt;/ref&amp;gt;と論評している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 楯の会と『豊饒の海』 ===&lt;br /&gt;
[[1965年]]（昭和40年）[[2月26日]]、自ら[[ライフワーク]]とした長編四部作『[[豊饒の海]]』の第一巻『[[春の雪 (小説)|春の雪]]』の取材のため、三島は[[奈良市|奈良]][[帯解駅|帯解]]の[[円照寺]]を1人で訪ねる。『春の雪』は同年9月より雑誌『[[新潮]]』で連載開始された（1967年（昭和42年）1月まで）。同年11月には、戯曲『[[サド侯爵夫人]]』と、評論・随筆『[[太陽と鉄]]』も発表された。また、同年は[[AP通信]]が[[ストックホルム]]発で、三島由紀夫と[[谷崎潤一郎]]が[[ノーベル文学賞]]最終候補の模様と報じ、三島は以降の年も引き続きノーベル文学賞候補として話題に上った。翌年の1966年（昭和41年）には国内のマスコミから受賞を期待され予定談話まで受けたが、受賞者は[[シュムエル・アグノン]]と[[ネリー・ザックス]]だった。三島はこのバツの悪い思いの教訓で、その翌年の1967年（昭和42年）には、記者の追跡を避け[[バンコク]]へ滞留する。バンコクでの三島を捕まえた特派員の[[徳岡孝夫]]は予定談話を頼んだが、三島に断られた&amp;lt;ref name=&amp;quot;tokuoka&amp;quot;&amp;gt;[[徳岡孝夫]]『五衰の人─三島由紀夫私記』（[[文藝春秋]]、1997年。[[文春文庫]]、1999年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[川端康成]]がノーベル文学賞を受賞するのは、この翌年の1968年（昭和43年）である。なお、川端は、その7年前の1961年（昭和36年）5月に、三島にノーベル賞推薦文を依頼し、三島が推薦文を書いていたこともあり&amp;lt;ref&amp;gt;三島由紀夫「川端康成への書簡 昭和36年5月30日付）（『川端康成・三島由紀夫 往復書簡』）（[[新潮社]]、1997年。[[新潮文庫]]、2000年）『決定版 三島由紀夫全集第38巻・書簡』（新潮社、2004年）に所収。&amp;lt;/ref&amp;gt;、実際に1961年（昭和36年）にも川端康成がノーベル文学賞を受賞する可能性があったことが、[[朝日新聞]]の[[スウェーデン・アカデミー]]に対する情報開示で明らかになった&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.asahi.com/culture/update/0921/TKY201209210391.html 川端康成、ノーベル賞は7年越し　谷崎・西脇も候補者]朝日新聞2012年9月20日。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref group=&amp;quot;注釈&amp;quot;&amp;gt;なお、[[ドナルド・キーン]]は、ベストベリー委員長が三島由紀夫について、[[安部公房]]ほどは受賞に近づいていなかったと指摘した点については、「スウェーデン人で国連事務総長を務めた[[ダグ・ハマーショルド]]が『[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]』を高く評価することをスウェーデン・アカデミーに伝えており、その推薦は軽視されないということだった。受賞に大変近かったはずだ」と2012年（平成24年）3月23日の[[読売新聞]]で述べている[http://web-kenpou.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-470f.html]。現時点ではまだ1968年度のノーベル賞については開示されていないので、双方の意見の真偽はまだ不明である&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、2014年（平成26年）1月2日（日本時間）にノーベル財団から発表された資料により、三島が1963年度のノーベル文学賞の有力候補6人の中に入っていたことが明らかになった&amp;lt;ref name=&amp;quot;yomiuri2&amp;quot;&amp;gt;「三島ノーベル賞目前だった」（[[読売新聞]] 2014年1月4日号に掲載）&amp;lt;/ref&amp;gt;。三島は「技巧的な才能」に注目され、受賞に非常に近い位置にいた&amp;lt;ref name=&amp;quot;kyoudo3&amp;quot;&amp;gt;[http://img.47news.jp/PN/201401/PN2014010301001094.-.-.CI0003.jpg] 「三島、63年ノーベル賞候補最終6人に残り、あと一歩」（共同通信 2014年1月3日付）[http://www.47news.jp/CN/201401/CN2014010301001074.html]&amp;lt;/ref&amp;gt;。なお、6人の中には、[[サミュエル・ベケット]]らがおり&amp;lt;ref name=&amp;quot;yomiuri2&amp;quot;/&amp;gt;、三島の他に谷崎潤一郎と川端康成らも名を連ね、日本人4人が候補となっていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;kyoudo3&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三島は自死の2か月ほど前、「このごろはひとが家具を買いに行くというはなしをきいても、吐気がする」と[[村松剛]]に告白したという。村松が、「家庭の幸福は文学の敵。それじゃあ、[[太宰治]]と同じじゃないか」と言うと、三島は、「そうだよ、おれは太宰治と同じだ。同じなんだよ」と言い、小市民的幸福を嫌っていたという&amp;lt;ref name=&amp;quot;muramatu&amp;quot;/&amp;gt;が、その一方で、1965年（昭和40年）、月刊雑誌の幼稚園特集号を見て編集部に電話を入れ、幼稚園事情に詳しい記者の紹介を依頼し、都内の料理店でその記者と会い、「長男を[[東大]]に入れるにはどんなコースがあるか、幼稚園の選び方から教えて欲しい」と40分余りにわたって記者に質問し、真剣にアドバイスを聴き、メモをとった一面もあったという&amp;lt;ref name=&amp;quot;andou&amp;quot;/&amp;gt;。さらに、三島は家庭的といえる一面は、母に対する愛情の濃やかさにも顕れ、『[[愛の渇き]]』と『[[仮面の告白]]』の[[著作権]]を自分の死後、母に譲渡する内容の遺書を作成している。また、自身の死後も、子供たちに毎年クリスマス・プレゼントが届く手配をしていたという&amp;lt;ref&amp;gt;特集「知られざる家庭人・三島由紀夫」（[[女性自身]] 1970年12月12日号に掲載）&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[伊藤勝彦]]によると、三島はある種の芸術家にみられるような、家庭を顧みないような人間ではなかったという&amp;lt;ref name=&amp;quot;itou&amp;quot;&amp;gt;[[伊藤勝彦]]『最後のロマンティーク 三島由紀夫』（[[新曜社]]、2006年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、お気に入りのテレビ番組は『[[ウルトラマン]]』であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1966年]]（昭和41年）8月、三島は、『[[豊饒の海]]』の第二巻『[[奔馬 (小説)|奔馬]]』の取材のため、[[奈良県]]の[[大神神社]] &amp;lt;ref group=&amp;quot;注釈&amp;quot;&amp;gt;大神神社境内には、「清明」と揮毫された三島由紀夫の記念碑が存在する。[http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/295dd3872195ee478613e5c5e73f5f0b 名作＆風景(1) 三島由紀夫『奔馬』と大神神社] 2006年1月23日参照&amp;lt;/ref&amp;gt;や、[[熊本県]]の[[神風連の乱|神風連]]の地などを訪れ、途中、[[広島県]]の[[江田島]]の[[海上自衛隊第一術科学校]]にも立ち寄った。この神風連の地への旅について三島は[[清水文雄]]への書簡の中で、「[[天皇]]の神聖は、[[伊藤博文]]の憲法にはじまるといふ[[亀井勝一郎]]説を、[[山本健吉]]氏まで信じてゐるのは情けないことです。それで一そう[[神風連の乱|神風連]]に興味を持ちました。神風連には、一番本質的な何かがある、と予感してゐます」&amp;lt;ref name=&amp;quot;shimizu&amp;quot;&amp;gt;書簡集『師[[清水文雄]]への手紙』（新潮社、2003年）&amp;lt;/ref&amp;gt;と記している。同年10月には、三島は[[林房雄]]との対談『対話・日本人論』の中で、[[藤原定家]]を書こうと思っていると述べた。また、同月、三島は[[自衛隊]]体験入隊を希望し、[[防衛庁]]関係者や元[[陸将]]・[[藤原岩市]]などに接触し、体験入隊許可のための仲介や口利きを求める。同年12月、[[舩坂弘]]著『英霊の絶叫』の序文を書いた返礼として、舩坂弘から[[日本刀]]・関[[孫六兼元|孫六]]を贈られた。さらに、同月には、[[小澤開作|小沢開策]]から『[[論争ジャーナル]]』創刊準備をしている青年の話を聞いた[[林房雄]]の紹介で、同誌の[[万代潔]]が三島宅を訪ねて来る。翌年の[[1967年]]（昭和42年）1月、[[民族派]]雑誌『論争ジャーナル』が創刊され、編集長・[[中辻和彦]]と副編集長・[[万代潔]]が三島宅を訪問し、雑誌に寄稿を正式依頼。以降、同グループとの親交を深める。同年4月12日から5月27日まで、三島は単身で自衛隊体験に入隊し、[[民兵]]組織による国土防衛の一端を担う[[祖国防衛隊]]構想を固め、のち学生らを引き連れた自衛隊体験入隊を定期的に行なった。以降、三島は[[航空自衛隊]]の[[ロッキード]][[F-104 (戦闘機)|F-104戦闘機]]への搭乗体験や、[[陸上自衛隊小平学校|陸上自衛隊調査学校]]情報教育課長・[[山本舜勝]]とも親交し、共に民兵組織（のち「[[楯の会]]」の名称となる）会員への指導を行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二巻『[[奔馬 (小説)|奔馬]]』は、これと平行し[[1967年]]（昭和42年）2月から連載開始された（1968年（昭和43年）8月まで）。この小説は、[[血盟団]]の時代を背景に[[昭和維新]]に賭けた青年の[[自刃]]を描き、[[美意識]]と政治的行動が深く交錯した作品である。同時期には、政治への傾斜とともに『[[葉隠入門]]』、『[[文化防衛論]]』などの[[評論]]も発表された。特に『文化防衛論』においては、「[[近松門左衛門|近松]]も[[井原西鶴|西鶴]]も[[松尾芭蕉|芭蕉]]もいない」[[昭和元禄]]を冷笑し、自分は「現下日本の呪い手」であると宣言するなど、[[戦後民主主義]]への批判を明確にした。同年の3月には、[[中国共産党|中共]]に対して『[[文化大革命]]に関する声明』を[[東京新聞]]に[[川端康成]]、[[石川淳]]、[[安部公房]]と共に発表もした。同年6月、三島は[[日本空手協会]]道場に入門。[[中山正敏]]（[[日本空手協会]][[首席]][[師範]]）の下、7月から空手の稽古を始める。同年10月には、戯曲『[[朱雀家の滅亡]]』を発表した。翌年の[[1968年]]（昭和43年）8月、三島は剣道5段に合格。同年10月5日には、祖国防衛隊の名称を変更し、「[[楯の会]]」とした。これは、[[万葉集]][[防人]]歌の「今日よりは 顧みなくて[[天皇|大君]]の 醜の御楯と出で立つ吾は」より由来したものである。同年12月には、戯曲『[[わが友ヒットラー]]』を発表した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1967年]]（昭和42年）9月から10月に、三島は『[[豊饒の海]]』の第三巻『[[暁の寺 (小説)|暁の寺]]』の取材を兼ね、[[インド]]、[[タイ王国|タイ]]、[[ラオス]]などへ旅行。『暁の寺』は、翌年の[[1968年]]（昭和43年）9月から連載開始された（1970年（昭和45年）4月まで）。このとき三島が感受した[[インド]]における[[ベナレス]]体験は、『暁の寺』全体にみなぎっている巨大で徒労な[[ニヒリズム]]に結実した。それは終結部においても、不意に[[フーガ]]のように作品内に立ち現れてくる&amp;lt;ref&amp;gt;[[森川達也]]「解説」（文庫版『[[暁の寺 (小説)|暁の寺]]』）（新潮文庫、1977年）p.431&amp;lt;/ref&amp;gt;。三島は『[[小説とは何か]]』（雑誌・波 1970年5・6月号に掲載）&amp;lt;ref name=&amp;quot;nanika&amp;quot;&amp;gt;三島由紀夫『小説とは何か』（新潮社、1972年）&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;hyouron34&amp;quot;&amp;gt;『決定版 三島由紀夫全集第34巻・評論9』（新潮社、2003年）に所収。&amp;lt;/ref&amp;gt;の中で、『暁の寺』を脱稿したとき、いいしれぬ不快だったと述べ、「『暁の寺』の完成によつて、それまで浮遊してゐた二種の現実は確定せられ、一つの作品世界が完結し閉ぢられると共に、それまでの作品外の現実はすべてこの瞬間に紙屑になつたのである。私は本当のところ、それを紙屑にしたくなかつた。それは私にとつての貴重な現実であり人生であつた筈だ。しかしこの第三巻に携はつてゐた一年八ヶ月は、小休止と共に、二種の現実の対立・緊張の関係を失ひ、一方は作品に、一方は紙屑になつたのだつた」と述べている。三島はちょうどこの『暁の寺』を執筆中、[[国際反戦デー]]の左翼デモ・[[10.21国際反戦デー闘争 (1969年)]]に対抗するための[[自衛隊]][[治安出動]]と「[[楯の会]]」の出番を期待し、それに乗じた[[クーデター]]による[[憲法改正]]・自衛隊[[日本軍|国軍]]化を実現する「作品外の現実」に賭けていたのである。しかし、その夢はなくなったのであった。三島は『暁の寺』が未完に終ること、つまり死を賭けたクーデターを実現することを期待していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1969年]]（昭和44年）7月、戯曲『[[癩王のテラス]]』（主演は[[北大路欣也]]）を発表し上演。三島は、自決の1週間前の[[清水文雄]]への書簡の中で、「『[[豊饒の海]]』は終りつつありますが、『これが終つたら……』といふ言葉を、家族にも出版社にも、禁句にさせてゐます。小生にとつては、これが終ることが世界の終りに他ならないからです。[[カンボジア]]の[[バイヨン]]大寺院のことを、かつて『癩王のテラス』といふ芝居に書きましたが、この小説こそ私にとつてのバイヨンでした」&amp;lt;ref name=&amp;quot;shimizu&amp;quot;/&amp;gt;と記している。また、[[辻井喬]]によると、『癩王のテラス』の中の台詞、「今の王様にとつては、ただこのお寺の完成だけがお望みなのだ。そしてお寺の名も、共に戦つて死んだ[[英霊]]たちのみ魂を迎へるバイヨンと名づけられた。バイヨン。王様はあの目ざましい戦の間に、討死してゐればよかつたとお考へなのだらう」という言葉は、三島自身の心境（生き残ってしまった青年としての自分の思い、戦争で死んだ英霊たちへの鎮魂）が述べられていたという&amp;lt;ref&amp;gt;[[辻井喬]]「三島由紀夫の復権」（『決定版 三島由紀夫全集第3巻・長編3』付録・月報）（新潮社、2001年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。 同年11月、最後の短編『[[蘭陵王]]』と、[[曲亭馬琴]]原作の[[歌舞伎]]台本『[[椿説弓張月 (歌舞伎)|椿説弓張月]]』（主演は[[松本白鸚 (初代)|8代目松本幸四郎]]）を発表する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1969年]]（昭和44年）[[2月11日]]（[[建国記念の日]]）に[[国会議事堂]]前で決行された[[国士|憂国烈士]]・[[江藤小三郎]]青年の壮絶な自決に三島は大きな衝撃を受け、その心情を、『[[若きサムライのための精神講話|若きサムラヒのための精神講話]]』（PocketパンチOh! 1969年5月号に掲載）に記した&amp;lt;ref name=&amp;quot;samurai&amp;quot;&amp;gt;三島由紀夫『[[若きサムライのための精神講話|若きサムラヒのために]]』（[[日本教文社]]、1969年。[[文春文庫]]で1996年再刊）&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;hyouron35&amp;quot;&amp;gt;『決定版 三島由紀夫全集第35巻・評論10』(新潮社、2003年）に所収。&amp;lt;/ref&amp;gt;。同年5月13日には、[[東京大学|東大]]教養学部教室における[[全学共闘会議|全共闘]]主催の討論会に出席し、当時東大の学生であった[[芥正彦]]、[[小阪修平]]らと[[国家]]・[[天皇]]などについて激論を交わした。三島は、「もし君らが、『[[天皇陛下]][[万歳]]』と叫んでくれたら、共に戦う事ができたのに、言ってくれないから、互いに“殺す殺す”と言っているだけさ」と、意外な近似の面を覗かせた。その時のやり取りは同年6月に出版された&amp;lt;ref name=&amp;quot;kyoutou&amp;quot;&amp;gt;三島由紀夫『[[討論 三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争|討論・三島由紀夫vs.東大全共闘―〈美と共同体と東大闘争〉]]』（新潮社、1969年。新版は角川文庫、2000年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、同年6月からは、[[勝新太郎]]、[[石原裕次郎]]、[[仲代達矢]]らと共演する映画『[[人斬り (映画)|人斬り]]』（[[五社英雄]]監督）の撮影に入り、三島は[[薩摩藩]]士[[田中新兵衛]]役を演じた。映画は同年8月に封切られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1969年（昭和44年）10月、[[楯の会]]の運営資金の問題をめぐり、[[万代潔]]、[[中辻和彦]]、[[持丸博]]（学生長）らが退会した（中辻らが[[田中清玄]]に資金を求めていたことで三島と齟齬が生じたという）。それに伴い、[[森田必勝]]が楯の会の学生長に任命された。この顛末の後、楯の会結成1周年記念パレードの前々日あたりに、[[林房雄]]は三島から電話で、「あなたのお嫌いな連中はもういませんから、安心して見に来てください」と言われたという&amp;lt;ref&amp;gt;[[林房雄]]『悲しみの琴 三島由紀夫への鎮魂歌』（文藝春秋、1972年）&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref group=&amp;quot;注釈&amp;quot;&amp;gt;[[林房雄]]は、このことについて以下のように語っている。「彼ら（NとM）は[[小澤開作|小沢開策]]氏や私を感動させたのと同じ物語で、青年ぎらいの三島君を感動させた。少なくとも当初は彼らは見かけどおりに純粋で誠実であったかもしれぬ。だが、彼らは結局『[[天人五衰]]』の主人公のような悪質の贋物だった。（中略）ある“大先輩”の一人は、『ひどい目にあったな。結局彼らは戦後派青年の最悪のタイプ、いわば[[光クラブ事件|光クラブ]]の連中みたいな奴らばかりだった』とまで極言した。（中略）『[[楯の会]]』はいち早く彼らを除名した。三島君は[[村松剛]]君を立会人としてNとMに破門と絶縁を申しわたした。その激怒ぶりは尋常ではなかった、と村松君は証言している。（中略）『楯の会』の会員は何度もフルイにかけられて精選された。（中略）前記NやMの光クラブ派は厳しく排除された。」&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方、[[村松剛]]によると、三島は[[持丸博]]が退会するときには、「楯の会の仕事に専念してくれれば生活を保証する」と引き止めたが、持丸はこれを断り去っていったという&amp;lt;ref name=&amp;quot;muramatu&amp;quot;/&amp;gt;。この時期、持丸は会の事務を手伝っていた[[松浦芳子]]と婚約していた。[[山本舜勝]]によると、三島は山本に、「男はやっぱり女によって変わるんですねえ」と悲しみと怒りの声でしんみり言ったという&amp;lt;ref name=&amp;quot;yamamoto&amp;quot;&amp;gt;[[山本舜勝]]『三島由紀夫・憂悶の祖国防衛賦―市ケ谷決起への道程と真相』（日本文芸社、1980年）、『自衛隊「影の部隊」―三島由紀夫を殺した真実の告白』 （講談社、2001年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1969年（昭和44年）10月25日、[[蓮田善明]]の25回忌に三島は、『蓮田善明全集』の刊行の協力要請を[[小高根二郎]]に願い出る。同年11月3日、楯の会結成1周年記念パレードを[[国立劇場]]屋上で行なう。三島は、このパレードに[[川端康成]]も招待したが断られ、落胆したという。[[1970年]]（昭和45年）1月17日、三島は[[坊城俊民]]夫妻との会食の席で、「ぼくは五十になったら、[[藤原定家|定家]]を書こうと思います。（中略）定家はみずから神になったのですよ。それを書こうと思います」と今後の執筆の抱負を語ったという&amp;lt;ref name=&amp;quot;boujou&amp;quot;/&amp;gt;。同年2月、未知の男子高校生が三島宅を訪れ、「先生はいつ死ぬんですか」と問う。同時期には、徐々に[[クーデター]]計画をめぐり[[山本舜勝]]と意見が合わなくなり、1970年（昭和45年）4月頃から、三島と[[森田必勝]]ら先鋭メンバーが具体的な最終決起計画を練り始める（その経緯や詳細は[[三島事件]]を参照のこと）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1970年（昭和45年）3月頃、三島は[[村松剛]]に、「『[[豊饒の海]]』第四巻の構想をすっかり変えなくてはならなくなった」と洩らしたという&amp;lt;ref name=&amp;quot;muramatu&amp;quot;/&amp;gt;。三島は、[[森田必勝]]らとの決起計画を進める一方、最終巻の取材のため、同年5月に[[清水港]]、[[駿河湾]]、6月に[[三保の松原]]に赴き、タイトルも決定し、7月から第四巻『[[天人五衰 (小説)|天人五衰]]』の連載を開始した。同年8月、家族とともに[[下田市|下田]]に行く。帰京後の同月には、取材のため[[新富 (東京都中央区)|新富町]]の[[帝国データバンク|帝国興信所]]を訪れた。この頃にはすでに『天人五衰』はほぼ書き上がっていたという。同年9月に評論『革命哲学としての[[陽明学]]』を発表。また、同月には対談集『尚武のこころ』を、10月には対談集『源泉の感情』を出版する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 自衛隊突入決行と自決 ===&lt;br /&gt;
[[1970年]]（昭和45年）[[11月25日]]、[[陸上自衛隊]][[市ヶ谷駐屯地]]内[[東部方面総監部]]の総監室を[[森田必勝]]ら楯の会メンバー4名とともに訪れ、面談中に突如[[益田兼利]]総監を、[[人質]]にして[[籠城]]。[[バルコニー]]から[[檄 (三島由紀夫)|檄文]]を撒き、自衛隊の決起・[[クーデター]]を促す演説をした直後に[[切腹|割腹]][[自決]]した（詳細は[[三島事件]]参照のこと）。{{没年齢|1925|1|14|1970|11|25}}。音楽・文芸評論家の[[高橋英郎]]や[[柴田勝二]]は、[[昭和天皇]]が摂政に就いた日である11月25日を決行日に選んだのでないかと推測している&amp;lt;ref&amp;gt;[[高橋英郎]]『三島あるいは優雅なる復讐』（飛鳥新社、2010年）&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[柴田勝二]]『三島由紀夫　作品に隠された自決への道』（祥伝社新書、2012年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
決起当日の朝、担当編集者（[[小島千加子]]）へ間接的に『[[豊饒の海]] 第四巻　[[天人五衰 (小説)|天人五衰]]』最終回原稿が渡され&amp;lt;ref&amp;gt;[[小島千加子]]『三島由紀夫と檀一雄』（構想社、1980年／ちくま文庫、1989年）&amp;lt;/ref&amp;gt;、本作が[[遺作]]となった。1970年（昭和45年）8月の時点で既に、結末部は脱稿していたが三島は、巻末日付を[[11月25日]]と記載した。また、介錯に使われた自慢の名刀「[[孫六兼元|関孫六]]」は当初白鞘入りだったが、三島が特注の[[軍刀]]拵えを作らせそれに納まっていた。事件後の検分によれば、目釘は固く打ち込まれさらに両側を潰し、容易に抜けないようにされていた。刀を贈った友人の[[舩坂弘]]は、死の8日前の「三島展」で孫六が軍刀拵えで展示されていたことを聞き、言い知れぬ不安を感じたという&amp;lt;ref&amp;gt;[[舩坂弘]]『関ノ孫六　三島由紀夫、その死の秘密』（光文社カッパ・ブックス、1973年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自決2か月前に、三島と対談した文学仲間だった[[武田泰淳]]は、自決の時期は文芸雑誌『[[海 (雑誌)|海]]』（中央公論社）に、戦中の精神病院を舞台にした長編小説『富士』を連載していた。自決直前の11月20日に脱稿した連載原稿に、三島を彷彿とさせる患者（自分を宮様と自称し、[[皇族]]宅に乱入して、「無礼者として殺せ」と要求し、最後は自決する）が描写されていた。担当編集者だった[[村松友視]]は、「この発表タイミングでは、『三島事件』をモデルにしたと読者に思われる」と懸念したが、武田はこの偶然に驚き、作品完成後は、「三島のおかげで、この小説を書きあげることができた」と語った&amp;lt;ref&amp;gt;[[村松友視]]『夢の始末書』（角川書店、1984年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。武田泰淳は三島への追悼文で、「息つくひまなき刻苦勉励の一生が、ここに完結しました。疾走する長距離ランナーの孤独な肉体と精神が蹴たてていった土埃、その息づかいが、私たちの頭上に舞い上り、そして舞い下りています。あなたの忍耐と、あなたの決断。あなたの憎悪と、あなたの愛情が。そしてあなたの哄笑と、あなたの沈黙が、私たちのあいだにただよい、私たちをおさえつけています。それは美的というよりは、何かしら道徳的なものです。あなたが『[[不道徳教育講座]]』を発表したとき、私は『こんなに生真じめな努力家が、不道徳になぞなれるわけがないではないか』と直感したものですが、あなたには生まれながらにして、道徳ぬきにして生きて行く生は、生ではないと信じる素質がそなわっていたのではないでしょうか。あなたを恍惚とさせようとする『美』を押しのけるようにして、『道徳』はたえずあなたをしばりつけようとしていた」と記した&amp;lt;ref&amp;gt;[[武田泰淳]]「三島由紀夫氏の死ののちに」（[[中央公論]] 1971年1月号に掲載）、のち『評論集　滅亡について』（[[川西政明]]編、岩波文庫、1992年）などに収録&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
辞世の句は、「益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜」 、「散るをいとふ　世にも人にも　先駆けて 散るこそ花と　吹く小夜嵐」の2句。自決翌日の11月26日に、自宅書斎で、「限りある命ならば永遠に生きたい.　三島由紀夫」という遺書風のメモが見つかった&amp;lt;ref name=&amp;quot;nichiroku&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌年の[[1971年]]（昭和46年）[[1月14日]]、[[府中市 (東京都)|府中市]][[多磨霊園|多摩霊園]]の平岡家墓地に[[遺骨]]が埋葬された。この日は三島の誕生日でもある。同年[[1月24日]]に、[[築地本願寺]]で[[告別式]]（葬儀委員長・[[川端康成]]、弔辞・[[舟橋聖一]]ほか）が行われ、多くの一般会葬者が参列に来た。[[戒名]]は、「彰武院文鑑公威居士」。現在も[[命日|忌日]]には、「三島由紀夫研究会」による&#039;&#039;&#039;憂国忌&#039;&#039;&#039;（主に、かつては[[九段会館]]、現在は[[星陵会館]]）をはじめ、全国各地で[[民族派]]運動の諸団体が、追悼慰霊祭を行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また[[川端康成]]の養女・政子の夫・[[川端香男里]]によると、三島が川端康成に宛てた手紙の最後のものは、自衛隊[[富士学校]][[滝ヶ原駐屯地]]から出された鉛筆書きのもので、この手紙は川端康成によって焼却されたという。香男里によると、「文章に乱れがあり、これをとっておくと本人の名誉にならないからすぐに焼却してしまった」という&amp;lt;ref&amp;gt;[[川端香男里]]・[[佐伯彰一]]の対談「恐るべき計画家・三島由紀夫―魂の対話を読み解く」（書簡集『[[川端康成]]・三島由紀夫 往復書簡』）後記（新潮社、1997年。新潮文庫、2000年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし、これは川端の名誉にならないから焼却されたという見方もある&amp;lt;ref&amp;gt;[[西法太郎]]「三島と[[川端康成]]」『三島由紀夫研究会[[メルマガ]]』（[http://melma.com/backnumber_149567_5540801/]）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 略年譜 ==&lt;br /&gt;
[[1925年]]（[[大正]]14年） &lt;br /&gt;
* 1月14日 - [[東京市]][[四谷区]]永住町（現・[[東京都]][[新宿区]][[四谷]]）に生まれる。[[本籍|本籍地]]は[[兵庫県]][[印南郡]]志方村上富木（現・兵庫県[[加古川市]]志方町上富木）。&lt;br /&gt;
[[1930年]]（[[昭和]]5年） &lt;br /&gt;
* 1月 - [[自家中毒]]に罹り、死の一歩手前までいく。&lt;br /&gt;
[[1931年]]（昭和6年） &lt;br /&gt;
* 4月 - [[学習院]]初等科に入学。&lt;br /&gt;
[[1934年]]（昭和9年） &lt;br /&gt;
* 12月 - 肺門[[リンパ節|リンパ腺]]を患う。&lt;br /&gt;
[[1937年]]（昭和12年） &lt;br /&gt;
* 4月 - 学習院中等科に入学。文芸部に入部。&lt;br /&gt;
[[1938年]]（昭和13年） &lt;br /&gt;
* 3月 - 『[[スカンポ|酸模]]-秋彦の幼き思い出』。『[[座禅]]物語』。俳句4句。詩『金鈴』（光は普く漲り、金鈴、雨、海、墓場ほか短歌3首）（[[輔仁会雑誌|輔仁會雑誌]] 161号）&lt;br /&gt;
* 10月 - 初めて[[歌舞伎]]、[[能]]を観る。&lt;br /&gt;
[[1939年]]（昭和14年） &lt;br /&gt;
* 4月 - [[成城高校]]から[[清水文雄]]先生就任。&lt;br /&gt;
[[1940年]]（昭和15年） &lt;br /&gt;
* 1月 - [[川路柳虹]]宅を母と訪問。俳句･詩を川路に師事し、平岡青城名で『山梔』に発表。詩作『凶ごと』&lt;br /&gt;
* 11月 - 『[[彩絵硝子]]』（輔仁會雑誌）。[[東文彦]]、[[徳川義恭]]と交友を持つ。&lt;br /&gt;
[[1941年]]（昭和16年）&lt;br /&gt;
* 4月 - 『輔仁會雑誌』編集長に選任される。&lt;br /&gt;
* 7月 - [[川路柳虹]]の紹介で[[萩原朔太郎]]を訪問。&lt;br /&gt;
* 9月 - [[ペンネーム]]を三島由紀夫とし、『[[花ざかりの森]]』（[[文藝文化]] 9月号から12月号まで4回連載）。[[蓮田善明]]に激賞される。&lt;br /&gt;
[[1942年]]（昭和17年）&lt;br /&gt;
* 3月 - 学習院中等科卒業（席次は2番）。&lt;br /&gt;
* 4月 - [[学習院高等科 (旧制)|学習院高等科]]文科乙類（ドイツ語）に入学。&lt;br /&gt;
* 5月 - 文芸部委員長に選任される。&lt;br /&gt;
* 7月 - [[東文彦]]、[[徳川義恭]]の3人で、同人誌『赤繪』を創刊。&lt;br /&gt;
* 11月 - [[清水文雄]]と共に、初めて[[保田與重郎]]を訪問。&lt;br /&gt;
[[1943年]]（昭和18年）&lt;br /&gt;
* 1月 - 『王朝心理文學小史』懸賞論文入選する。&lt;br /&gt;
* 2月 - 「輔仁會」の総務部総務幹事となる。&lt;br /&gt;
* 3月 - 『世々に残さん』（文藝文化 10月号まで連載）&lt;br /&gt;
* 6月 - [[富士正晴]]に神田の七丈書院で会う、知己を得る。富士正晴は早速池袋の精神科開業医で詩人[[林富士馬]]に電話をして三島を連れて行く。その後、林と文学的文通、交際が深まる。この時期、蓮田善明とも顔を会わせる。&lt;br /&gt;
* 7月 - [[徳川義恭]]と共に、[[志賀直哉]]を訪問。&lt;br /&gt;
* 10月 - 富士、林と共に、[[佐藤春夫]]を訪問。[[東文彦]]が死去。&lt;br /&gt;
[[1944年]]（昭和19年）&lt;br /&gt;
* 4月 - [[徴兵検査]]通達書を受け取る。発信者は、本籍地・兵庫県印南郡志方村村長・陰山憲二。&lt;br /&gt;
* 5月 - 兵庫県[[加古郡]]加古川町（現・加古川市）の[[加古川公会堂]]（現・[[加古川市立加古川図書館]]）で徴兵検査を受け、第二[[乙]]種に合格。その足で[[伊東静雄]]を訪問。&lt;br /&gt;
* 9月 - 学習院高等科を首席で卒業。宮中に参内し、[[天皇]]より[[恩賜の銀時計]]を拝受。&lt;br /&gt;
* 10月 - [[東京帝国大学]][[法学]]法律学科（独法）に推薦入学。処女小説集『[[花ざかりの森]]』（七丈書院）刊。&lt;br /&gt;
[[1945年]]（昭和20年）&lt;br /&gt;
* 1月 - [[学徒動員]]に伴い、[[東京帝国大学]]勤労報国隊としての[[群馬県]]の[[中島飛行機]]小泉製作所に配置される。[[群馬県]][[新田郡]][[太田市|太田町]]東矢島寮11寮35号室に入る。&lt;br /&gt;
* 2月 - 『[[中世 (小説)|中世]]』第一回、第二回（未完）（文藝世紀 2月号）。[[入営]]通知の電報が来る。出立までに[[遺書]]を書き、遺髪と遺爪を用意する。兵庫県[[富合村]]で入隊検査を受け、右[[肺結核|肺浸潤]]の診断が下され、[[即日帰郷]]となる。&lt;br /&gt;
* 5月 - [[学徒動員]]に伴い、[[神奈川県]]の[[海軍]][[高座郡|高座]][[工廠]]に配置される。神奈川県[[高座郡]]大和局気付高座廠第五工員[[寄宿舎]]東大法学部第一中隊第二小隊に入る。&lt;br /&gt;
* 8月 - 『[[エスガイの狩]]』（[[文藝]] 5・6月合併号）。[[蓮田善明]]が自死。&lt;br /&gt;
* 10月 - 妹・[[平岡美津子|美津子]]が死亡。&lt;br /&gt;
[[1946年]]（昭和21年） &lt;br /&gt;
* 1月 - [[川端康成]]を初めて訪問。&lt;br /&gt;
* 6月 - 『[[煙草 (小説)|煙草]]』（[[人間 (雑誌)|人間]] 6月号）&lt;br /&gt;
* 11月 - 『[[岬にての物語]]』（[[群像]] 11月号）&lt;br /&gt;
* 12月 - 『中世』（全編）（人間 12月号）。[[太宰治]]に会う。&lt;br /&gt;
[[1947年]]（昭和22年） &lt;br /&gt;
* 4月 - 『[[軽王子と衣通姫]]』（群像 4月号）&lt;br /&gt;
* 6月 - [[林房雄]]と出会う。以降、親交を持つ。&lt;br /&gt;
* 11月 - [[東京大学]][[法学部]]法律学科卒業。&lt;br /&gt;
* 12月 - [[高等文官試験]]合格。[[大蔵省]]大蔵事務官に任官。銀行局国民貯蓄課に勤務。『[[盗賊 (小説)|盗賊]]』第2章「自殺企図者」（文学会議 12月号）&lt;br /&gt;
[[1948年]]（昭和23年）&lt;br /&gt;
* 2月 - 『盗賊』第1章「恋の終局そして物語の発端」（午前 2月号）&lt;br /&gt;
* 3月 - 『盗賊』第3章「出会」（思潮 3月号）、第5章「嘉例」（新文学 3月号）&lt;br /&gt;
* 9月 - 願に依って[[大蔵省]]本官を退職。&lt;br /&gt;
* 10月 - 『盗賊』第4章「美的生活者」（文学会議 10月号）。[[河出書房新社|河出書房]]の同人誌『序曲』の創刊に参加。&lt;br /&gt;
* 11月 - 『盗賊』（真光社）刊。&lt;br /&gt;
[[1949年]]（昭和24年）&lt;br /&gt;
* 7月 - 書き下ろし長編『[[仮面の告白]]』（河出書房）刊。&lt;br /&gt;
* 12月 - [[徳川義恭]]が死去。&lt;br /&gt;
[[1950年]]（昭和25年） &lt;br /&gt;
* 6月 - 書き下ろし長編『[[愛の渇き]]』（[[新潮社]]）刊。&lt;br /&gt;
* 7月 - 『[[青の時代 (小説)|青の時代]]』（[[新潮]] 12月号まで連載）&lt;br /&gt;
[[1951年]]（昭和26年） &lt;br /&gt;
* 1月 - 『[[禁色 (小説)|禁色]]』第1部（群像 10月号まで連載）&lt;br /&gt;
* 12月 - [[朝日新聞]]特別通信員として初めての世界旅行（翌年5月帰国）。&lt;br /&gt;
[[1952年]]（昭和27年） &lt;br /&gt;
* 8月 - 『[[禁色 (小説)|禁色]]（秘楽）』第2部（[[文学界]] 1953年8月号まで連載）&lt;br /&gt;
* 10月 - 『[[真夏の死]]』（新潮 10月号）。紀行文集『[[アポロの杯]]』（[[朝日新聞社]]）刊。&lt;br /&gt;
[[1953年]]（昭和28年） &lt;br /&gt;
* 10月 - 『[[ラディゲ]]の死』（[[中央公論]] 10月号）&lt;br /&gt;
[[1954年]]（昭和29年）&lt;br /&gt;
* 6月 - 書き下ろし長編『[[潮騒 (小説)|潮騒]]』（新潮社）刊。叢書4、11月までに94000部刊行。&lt;br /&gt;
* 10月 - 『[[潮騒 (小説)|潮騒]]』、第1回[[新潮社文学賞]]受賞。&lt;br /&gt;
[[1955年]]（昭和30年）&lt;br /&gt;
* 1月 - 『[[沈める滝]]』（中央公論 4月号まで連載）&lt;br /&gt;
* 9月 - [[ボディビル]]を始める。&lt;br /&gt;
* 10月 - 『[[白蟻の巣]]』を劇団青年座が初演。&lt;br /&gt;
[[1956年]]（昭和31年）&lt;br /&gt;
* 1月 - 『[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]』（新潮 10月号まで連載）。『白蟻の巣』、第2回[[岸田演劇賞]]受賞。&lt;br /&gt;
* 3月 - 「[[文学座]]」に入座。&lt;br /&gt;
* 4月 - 戯曲集『[[近代能楽集]]』（新潮社）刊。&lt;br /&gt;
* 9月 -　[[ボクシング]]を始める（1957年6月ごろまで）。&lt;br /&gt;
* 11月 - 『[[鹿鳴館 (戯曲)|鹿鳴館]]』を文学座が初演。&lt;br /&gt;
* 12月 - 『鹿鳴館』、毎日演劇賞。『[[永すぎた春]]』（講談社）刊。&lt;br /&gt;
[[1957年]]（昭和32年）&lt;br /&gt;
* 1月 - 『[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]』、第8回[[読売文学賞]]受賞。&lt;br /&gt;
* 4月 - 『[[美徳のよろめき]]』（群像 6月号まで連載）&lt;br /&gt;
[[1958年]]（昭和33年）&lt;br /&gt;
* 6月 - 画家[[杉山寧]]の娘・[[平岡瑤子|瑤子]]と結婚。&lt;br /&gt;
* 7月 - 『[[薔薇と海賊]]』を文学座が初演。エッセイ『[[不道徳教育講座]]』（[[週刊明星]] 1959年11月29日号まで）&lt;br /&gt;
* 10月 - 『[[鏡子の家]]』第1章と第2章途中まで（声 創刊号）&lt;br /&gt;
* 11月 - 本格的に[[剣道]]を始める。&lt;br /&gt;
* 12月 - 『[[薔薇と海賊]]』、[[週刊読売]]新劇賞受賞。&lt;br /&gt;
[[1959年]]（昭和34年）&lt;br /&gt;
* 1月 - 『[[文章読本]]』（[[婦人公論]] 1月号）&lt;br /&gt;
* 6月 - 長女・[[平岡紀子|紀子]]が誕生。&lt;br /&gt;
* 9月 - 書き下ろし長編『[[鏡子の家]]』第一部（上巻）、第二部（下巻）（新潮社）刊。&lt;br /&gt;
* 11月 - 日記『[[裸体と衣裳]]』（新潮社）刊。&lt;br /&gt;
[[1960年]]（昭和35年）&lt;br /&gt;
* 1月 - 『[[宴のあと]]』（中央公論 10月号まで連載）&lt;br /&gt;
* 3月 - [[大映]]映画『[[からっ風野郎]]』（[[増村保造]]監督）主演。封切。&lt;br /&gt;
[[1961年]]（昭和36年）&lt;br /&gt;
* 1月 - 『[[憂国]]』（小説中央公論 冬季号）&lt;br /&gt;
* 3月 - 『[[宴のあと]]』モデル問題で、[[有田八郎]]に提訴される（1966年和解）。&lt;br /&gt;
* 4月 - 剣道初段に合格。&lt;br /&gt;
* 6月 - 『[[獣の戯れ]]』（[[週刊新潮]] 9月4日号まで連載）&lt;br /&gt;
* 11月 - 『[[十日の菊]]』を文学座が初演。&lt;br /&gt;
[[1962年]]（昭和37年） &lt;br /&gt;
* 1月 - 『[[美しい星 (三島由紀夫)|美しい星]]』（新潮 11月号まで連載）。『[[十日の菊]]』、第13回[[読売文学賞]]戯曲賞受賞。&lt;br /&gt;
* 3月 - 『[[黒蜥蜴]]』をプロデューサー・システムにより初演。&lt;br /&gt;
* 5月 - 長男・[[平岡威一郎|威一郎]]が誕生。&lt;br /&gt;
[[1963年]]（昭和38年）&lt;br /&gt;
* 1月 - [[文学座]]から[[芥川比呂志]]、[[岸田今日子]]ら29人の劇団員が脱退し、[[福田恆存]]が中心となる「[[劇団雲]]」が結成され、三島は残される。&lt;br /&gt;
* 3月 - 剣道2段に合格。&lt;br /&gt;
* 9月 - 書き下ろし長編『[[午後の曳航]]』（[[講談社]]）&lt;br /&gt;
* 10月 - 『[[剣 (小説)|剣]]』（新潮 10月号）&lt;br /&gt;
* 11月 - 『[[喜びの琴]]』が上演中止になり、三島は[[文学座]]を退団（[[喜びの琴事件]]）。[[朝日新聞]]紙上にて『文学座の諸君への「公開状」―「喜びの琴」の上演拒否について』を発表。&lt;br /&gt;
[[1964年]]（昭和39年）&lt;br /&gt;
* 1月 - 『[[絹と明察]]』（群像 10月号まで連載）。文学座を一緒に脱退したメンバーと「[[劇団NLT]]」を結成。&lt;br /&gt;
* 3月 - 剣道3段に合格。&lt;br /&gt;
* 5月 - 『[[宴のあと]]』が[[フォルメントール国際文学賞]]第2位受賞。&lt;br /&gt;
[[1965年]]（昭和40年）&lt;br /&gt;
* 1月 - 『[[絹と明察]]』、第6回[[毎日芸術賞]]受賞。&lt;br /&gt;
* 4月 - 短編映画『憂国』完成。&lt;br /&gt;
* 9月 - 『[[豊饒の海]]』第一巻『[[春の雪 (小説)|春の雪]]』（新潮 1967年1月号まで連載）&lt;br /&gt;
* 11月 - 『[[太陽と鉄]]』（批評 12号、1968年6月まで連載）。『[[サド侯爵夫人]]』を[[劇団NLT]]が初演。&lt;br /&gt;
[[1966年]]（昭和41年）&lt;br /&gt;
* 1月 - 映画『[[憂国]]』、ツール国際短編[[映画祭]]劇映画部門第2位受賞。&lt;br /&gt;
* 5月 - 剣道4段に合格。[[居合]]を始める。&lt;br /&gt;
* 6月 - 『[[英霊の聲]]』（河出書房）刊。&lt;br /&gt;
* 10月 - [[自衛隊]]体験入隊を希望し、[[防衛庁]]関係者に依頼。&lt;br /&gt;
[[1967年]]（昭和42年）&lt;br /&gt;
* 1月 – 雑誌『[[論争ジャーナル]]』の[[万代潔]]、[[中辻和彦]]と、[[日本学生同盟]]の[[持丸博]]と出会う。&lt;br /&gt;
* 2月 - 『[[豊饒の海]]』第二巻『[[奔馬 (小説)|奔馬]]』（新潮 1968年8月号まで連載）。居合初段に合格。&lt;br /&gt;
* 4月 - 自衛隊に体験入隊する（5月27日まで）。&lt;br /&gt;
* 5月 - 『[[真夏の死]]』がフォルメントール国際文学賞第2位受賞。『[[午後の曳航]]』もフォルメントール国際文学賞候補作品となる。&lt;br /&gt;
* 6月 - [[早大]]国防部の代表・[[森田必勝]]と出会う。&lt;br /&gt;
* 7月 - 森田ら早大国防部と自衛隊[[北海道]][[北恵庭駐屯地]]で体験入隊。[[空手]]を始める（6月に[[日本空手協会]]道場に入門）。&lt;br /&gt;
* 9月 - 『[[葉隠入門]]』（光文社）刊。&lt;br /&gt;
* 10月 - 『[[朱雀家の滅亡]]』を劇団NLTが初演。&lt;br /&gt;
* 11月 - 「論争ジャーナル」グループと[[民兵組織]]「祖国防衛隊」構想の試案パンフレットを作成。&lt;br /&gt;
* 12月 - [[航空自衛隊]]の[[F-104 (戦闘機)|F-104戦闘機]]に試乗。[[山本舜勝]]に出会う。&lt;br /&gt;
[[1968年]]（昭和43年）&lt;br /&gt;
* 3月 - 自衛隊[[富士学校]][[滝ヶ原駐屯地]]で、学生らを引率する第1回自衛隊体験入隊（30日まで）。（以降、1970年まで第5回の体験入隊と、2回のリフレッシャー・コース体験入隊が行なわれる）&lt;br /&gt;
* 4月 - 劇団[[浪曼劇場]]を結成。&lt;br /&gt;
* 7月 - 『[[文化防衛論]]』（中央公論 7月号）&lt;br /&gt;
* 8月 - 剣道5段に合格。&lt;br /&gt;
* 9月 - 『[[豊饒の海]]』第三巻『[[暁の寺 (小説)|暁の寺]]』（新潮 1970年4月号まで連載）&lt;br /&gt;
* 10月 - 祖国防衛隊から「[[楯の会]]」正式結成。&lt;br /&gt;
[[1969年]]（昭和44年）&lt;br /&gt;
* 1月 - 『[[わが友ヒットラー]]』を劇団[[浪曼劇場]]が初演。&lt;br /&gt;
* 5月 - [[東京大学|東大]][[全学共闘会議|全共闘]]委員会主催の討論会に出席。&lt;br /&gt;
* 6月 - 映画『[[人斬り (映画)|人斬り]]』（[[五社英雄]]監督）出演（8月封切）。&lt;br /&gt;
* 7月 - 『[[癩王のテラス]]』を劇団[[浪曼劇場]]＋[[劇団雲]]＋[[東宝]]が初演。『若き[[サムライ|サムラヒ]]のために』（[[日本教文社]]）刊。&lt;br /&gt;
* 10月 - [[持丸博]]の退会に伴い、楯の会の学生長が[[森田必勝]]になる。&lt;br /&gt;
* 11月 - 『[[蘭陵王 (小説)|蘭陵王]]』（群像 11月号）。歌舞伎『[[椿説弓張月 (歌舞伎)|椿説弓張月]]』が初演。&lt;br /&gt;
[[1970年]]（昭和45年）&lt;br /&gt;
* 6月 - [[空手]]初段に合格。&lt;br /&gt;
* 7月 - 『[[豊饒の海]]』第四巻『[[天人五衰 (小説)|天人五衰]]』（新潮 1971年1月号まで連載）&lt;br /&gt;
* 9月 - 対談集『[[尚武のこころ]]』（日本教文社）刊。&lt;br /&gt;
* 10月 - 対談集『[[源泉の感情]]』（[[河出書房新社]]）刊。&lt;br /&gt;
* 11月25日 - 陸上自衛隊[[市ヶ谷駐屯地]]・[[東部方面総監部]]にて[[益田兼利]]総監を拘束し、[[バルコニー]]で演説（[[三島事件]]）。[[森田必勝]]と共に[[割腹]][[自決]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 作風・評価 ==&lt;br /&gt;
三島文学の文体は、終始[[修辞技法|レトリック]]を多様に使っているところが最大の特徴である。日本人作家でありながら、その表現方法は、他の日本人作家よりも、外国人作家に近い。[[長岡實]]は、「日本の文学愛好者の中にはどちらかというと淡泊でむしろ[[余韻]]のある文章を好んで読む傾向があるが、三島作品はどちらかというと濃密な表現を積み重ねていく文学である。こうした点で外国の文豪にも通じ、世界的に高い評価を得ているのではないか?」と分析している&amp;lt;ref&amp;gt;http://hometown.infocreate.co.jp/chubu/yamanakako/mishima/sympo/panel.html&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三島文学の作風としては生と死、文と武、精神と肉体、言葉と行動といった[[二元論]]的思考がみられるが、単純な対立関係ではないところに特徴がある（本人曰く、「『[[太陽と鉄]]』は私のほとんど宿命的な二元論的思考の絵解きのようなものである」と述べている&amp;lt;ref&amp;gt;[[虫明亜呂無]]編『三島由紀夫文学論集Ⅰ』序文（[[講談社文芸文庫]]、2006年） ISBN 406198439X &amp;lt;/ref&amp;gt;）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代表作の一つ『[[仮面の告白]]』の題については、「仮面を被る」のが告白と反対になる概念であるが、両者を[[イロニー|アイロニカル]]に接合している事が指摘される。『[[純白の夜]]』、『[[愛の渇き]]』、『[[美徳のよろめき]]』、『[[春の雪 (小説)|春の雪]]』なども、反対の概念をアイロニカルに組み合わせた題の例である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
近代日本文学史の傾向においては、[[ロマン主義]]、[[耽美主義]]に分類されている。[[ジョルジュ・バタイユ]]的な生と死の合一といった[[エロティシズム]]観念も、『[[憂国]]』、『[[春の雪 (小説)|春の雪]]』で顕著に表れるが、バタイユのエロティシズムとは禁止を犯す不可能な試みで、三島のロマン主義的憧憬とも一致するものであった。三島はバタイユについて、「人間の神の拒否、神の否定の必死の叫びが、実は“本心からではない”ことをバタイユは冷酷に指摘する。その“本心”こそ、バタイユのいはゆる“エロティシズム”の核心であり、[[ウィーン]]の俗悪な[[精神分析学]]者などの遠く及ばぬエロティシズムの深淵を、われわれに切り拓いてみせてくれた人こそバタイユであつた」&amp;lt;ref name=&amp;quot;nanika&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;hyouron34&amp;quot;/&amp;gt;と論じていた。また、死の1週間前に行なわれた対談の中では、「バタイユは、この世でもっとも超絶的なものを見つけだそうとして、じつに一所懸命だったんですよ。バタイユは、そういう行為を通して生命の全体性を回復する以外に、いまの人間は救われないんだと考えていたんです」&amp;lt;ref name=&amp;quot;saigo&amp;quot;&amp;gt;三島由紀夫と古林尚の対談『三島由紀夫 最後の言葉』（図書新聞 1970年12月12日、1971年1月1日掲載）、のち新潮社で『三島由紀夫 最後の言葉』（新潮カセット。新版 新潮CD、2002年）&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;taidan40&amp;quot;&amp;gt;『決定版 三島由紀夫全集第40巻・対談2』（新潮社、2004年）に所収。&amp;lt;/ref&amp;gt;と述べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また作品の人工性も指摘される。その人工性について、[[川端康成]]は三島の初の長編『[[盗賊 (小説)|盗賊]]』の書評の中で、「すべて架空であり、あるひはすべて真実であらう。私は三島君の早成の才華が眩しくもあり、痛ましくもある。三島君の新しさは容易には理解されない。三島君自身にも容易には理解しにくいのかもしれぬ。三島君は自分の作品によつてなんの傷も負はないかのやうに見る人もあらう。しかし三島君の数々の深い傷から作品が出てゐると見る人もあらう。この冷たさうな毒は決して人に飲ませるものではないやうな強さもある。この脆そうな[[造花]]は生花の髄を編み合せたやうな生々しさもある」&amp;lt;ref&amp;gt;[[川端康成]]「序」（『[[盗賊 (小説)|盗賊]]』）（真光社、1948年）&amp;lt;/ref&amp;gt;と記している。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
弟子の女優[[村松英子]]によると、三島は、「基本としてドメスティック（日常的）な演技を必要だけど、それだけじゃ、“演劇”にならない。大根やイワシの値段や[[井戸端会議]]を越えた所に、日常の奥底に、人間の本質のドラマがあるのだからね」、「怒りも嘆きも、いかなる叫びも、ナマでなく濾した上で、舞台では美しく表現されなければならない。汚い音、汚い演技は観客に不快感を与えるから」&amp;lt;ref name=&amp;quot;eiko&amp;quot;&amp;gt;[[村松英子]]『三島由紀夫 追悼のうた』（阪急コミュニケーションズ、2007年）&amp;lt;/ref&amp;gt;と表現の指導をしていたという。また三島は、[[荻昌弘]]との対談でも「[[アーサー・シモンズ]]の言葉、『芸術でいちばんやさしいことは、涙を流させることと、わいせつ感を起させることだ』というのがあるが、これは千古の名言だと思う」と述べ、「日本人の平均的感受性に訴えて、その上で高いテーマを盛ろうというのは、芸術ではなくて政治だよ。（中略）国民の平均的感受性に訴えるという、そういうものは信じない。[[進歩主義|進歩]]派が『[[二十四の瞳]]』を買うのはただ政治ですよ」&amp;lt;ref&amp;gt;[[荻昌弘]]との対談「映画・芸術の周辺」（[[SCREEN (雑誌)|スクリーン]] 1956年9月号に掲載）&amp;lt;/ref&amp;gt;という芸術論を持っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
10歳の時に書いたという小品『世界の驚異』、14歳の時の詩『凶ごと（まがごと）』から、『[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]』、『[[鏡子の家]]』、最晩年の『[[豊饒の海]]』で寂寞のうちに閉じるという印象的な結末まで、数多くの作品には[[ニヒリズム]]的な傾向が認められる。三島自身、「『鏡子の家』は、いはば私の“ニヒリズム研究“だ」と言い、意気込んで書いたが期待とは裏腹に世間では評価されなかった&amp;lt;ref&amp;gt;井上隆史『三島由紀夫 虚無の光と闇』（試論社、2006年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[佐伯彰一]]も『鏡子の家』について、登場人物の「ぶつかり合いが起こらない」として、低評価を与えているが、三島の「創作ノート」では、人物間の絡み合う場面がいくつか構想されていた。それらは皆廃案とされたのである。井上隆史は、「人物が複雑に絡み合うことのない展開は、相応に考え抜かれた構成なのであって、この点を考慮することなしには、『鏡子の家』に対する充分に行き届いた理解も、意味のある批判も不可能であるように思われる」&amp;lt;ref&amp;gt;井上隆史「『創作ノート』の楽しみ1 もう一つの『鏡子の家』」（『決定版 三島由紀夫全集第11巻・長編11』付録・月報）（新潮社、2001年）&amp;lt;/ref&amp;gt;と述べている。佐藤秀明は、「4人の人間が干渉し合わないというのも、今の目から見れば、現代的な人間関係のあり方を早くも捉えていたと言えるのである」、「彼らの危機は、一様に“ニヒリズム”と呼ぶことができる。そのニヒリズムの芽を彼らは待ち続け、より大きな破壊を待望していた気配はある」&amp;lt;ref&amp;gt;佐藤秀明『日本の作家100人 三島由紀夫』（[[勉誠出版]]、2006年）&amp;lt;/ref&amp;gt;という見解を示している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三島は劇作家でもあり、唯一翻訳出版したのも戯曲である。演劇は、二項の対立・緊張による「劇」的展開を得意とした。「告白の順番は詩・戯曲・小説の順で、詩が一番、次が戯曲で、小説は告白に向かない、嘘だから」と述べ、また戯曲は小説よりも「本能的なところ」にあると述べていることからも、[[私小説]]的な従来のものと逆の観念を持っていたことがうかがえる。これは戯曲がそもそも虚構の舞台に捧げられているのに対し、小説が現実世界と紙一枚隔てるに留まり容易に「侵入」を許すという構造の違いに由来すると思われ、三島は『[[豊饒の海]]』第3巻『[[暁の寺 (小説)|暁の寺]]』脱稿後の心境を、「いひしれぬ不快」&amp;lt;ref name=&amp;quot;nanika&amp;quot;/&amp;gt;だったと述べている。戯曲『[[薔薇と海賊]]』は要するに書き手とその作品世界との幸福な合体がテーマであり、自決の直前に上演されたこの劇を見て三島が涕泣したというエピソードからも告白の意味の重みが了解されよう&amp;lt;ref&amp;gt;[[青海健]]『三島由紀夫の帰還 青海健評論集』（[[小沢書店]]、2000年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。これらも「作品・芸術」と「作者・現実」といった二分法を仮定しており、多く小説では分裂の悲劇性となって表れる。『[[潮騒 (小説)|潮騒]]』は例外的に2項対立を無化したものであるが、同時に2年前に[[ギリシア]]旅行で得た、明朗な「[[フリードリヒ・ニーチェ|アポロン的]]」イメージ（旅行記『[[アポロの杯]]』など）を反映している。晩年5年間は政治性に傾斜していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『[[午後の曳航]]』などを翻訳したことのある[[ジョン・ネイスン]]は、「たしかに、三島の何とも優美で華麗な表現力をそなえた日本語は、多少熟れすぎではあったが、骨の髄まで日本的であった。三島が毎夜、真夜中から明け方までかけて紡ぎ出した[[日本語]]こそが彼にとって真の重大事であり、その一生を規定したのだ」、「（三島の死は）一つの国民的苦悩の明快で適切無比な表現であったことも理解されなければならない。これぞ文化的廃嫡の苦悩であった」&amp;lt;ref name=&amp;quot;nathan&amp;quot;/&amp;gt;と述べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三島の創作傾向は、[[古代ギリシア]]の『[[ダフニスとクロエ (ロンゴス)|ダフニスとクロエ]]』から着想した『[[潮騒 (小説)|潮騒]]』、[[能楽]]や[[歌舞伎]]、[[エウリピデス]]などを下敷きにした数々の戯曲、『[[浜松中納言物語]]』を典拠とした『[[豊饒の海]]』など、古典から、その源泉を汲み上げ、新しく蘇らせようとする作風傾向がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 三島の持論 ==&lt;br /&gt;
=== 改憲論 ===&lt;br /&gt;
三島が[[楯の会]]での憲法研究を踏まえて没年に著した『問題提起』の第二・「戦争の放棄」（憲法改正草案研究会配布資料、1970年7月）&amp;lt;ref name=&amp;quot;hyouron36&amp;quot;&amp;gt;『決定版 三島由紀夫全集第36巻・評論11』（[[新潮社]]、2003年）に所収。&amp;lt;/ref&amp;gt;では、[[日本国憲法第9条]]は「敗戦国日本の戦勝国への詫証文」であると断じている。そして憲法第9条第2項では、[[自衛権]]・[[交戦権]]およびいかなるすべての戦力の所有を否定しており、それを遵守すれば、日本は侵略されても自衛すら許されないまま「“国家として死ぬ”以外にはない」から、そのため政府はいわゆる緊急避難の解釈理論という「牽強付会の説を立てた」と述べ、それは、「実際に執行力を持たぬ法の無権威を暴露するのみか、法と道徳との裂け目を拡大」しているとし、「国家理念を剥奪された日本」は、「生きんがためには法を破らざるをえぬことを、国家が大目に見るばかりか、恥も外聞もなく、国家自身が自分の行為としても大目に見ることになつた」&amp;lt;ref name=&amp;quot;hyouron36&amp;quot;/&amp;gt;と断じている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また三島は、法的には明らかに違憲である自衛隊の創設は、皮肉にも、「新憲法を与へたアメリカ自身の、その後の国際政治状況の変化による要請に基づくものである」が、[[朝鮮戦争]]や[[ベトナム戦争]]という難関を突破した1970年以降も、ただ[[護憲]]を標榜するだけの政府について、「消極的弥縫策（一時のがれにとりつくろって間に合わせるための方策）にすぎず」、「しかもアメリカの絶えざる要請にしぶしぶ押されて、自衛隊をただ“量的に”拡大し」、「平和憲法下の安全保障の路線を、無目的無理想に進んでゆく」&amp;lt;ref name=&amp;quot;hyouron36&amp;quot;/&amp;gt;と問題提議を唱えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、いわゆる「押しつけ憲法論」について三島は、同条が日本の戦力の所有を徹頭徹尾否定する内容である以上、「この詫証文の成立が、日本側の自発的意志であるか米国側の強制によるかは、もはや大した問題ではない」とし、この条約が「国家としての存立を危ふくする立場に自らを置くものであることは明らかである」&amp;lt;ref name=&amp;quot;hyouron36&amp;quot;/&amp;gt;と断じている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、改憲に当たっては[[憲法第9条]]第2項だけを削除すればよい、という意見に対しては、そのためには「第九条第一項の規定は、世界各国の憲法に必要条項として挿入されるべきであり、日本国憲法のみが、国際社会への誓約を、国家自身の基本法に包含するといふのは、不公平不調和」であると断じ、「敗戦憲法の特質を永久に免かれぬことにならう」と批判し、「第九条全部を削除」すべしと主張している&amp;lt;ref name=&amp;quot;hyouron36&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また同論では、改憲にあたっては[[憲法第9条]]のみならず、[[日本国憲法第1章|第1章]]「天皇」の問題と、[[日本国憲法第20条|第20条]]「信教の自由」に関する[[神道]]の問題と関連させて考えなければ、日本は独立国としての体面を回復できず、アメリカの思う壺にはまるだけであると警告している。憲法9条のみを改正し、[[日米安保]]を双務条約に書き変えるだけでは、[[韓国]]その他アジア[[反共主義|反共]]国家と並ぶだけの結果に終ると警告し、正しい日本の体面回復のためには、憲法9条を全部破棄し、その代わりに、[[日本軍|日本国軍]]を設立し憲法に、「日本国軍隊は、[[天皇]]を中心とするわが[[国体]]、その歴史、伝統、文化を護持することを本義とし、国際社会の信倚と日本国民の信頼の上に健軍される」という建軍の本義を規定・明記するべきであると主張している&amp;lt;ref name=&amp;quot;hyouron36&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また三島は、[[平和憲法]]と呼ばれる憲法9条について、「完全に遵奉することの不可能な[[成文法]]の存在は、道義的退廃を惹き起こす」と、[[闇市]]の取締りを引き合いに出して批判し、「戦後の偽善はすべてここに発したといつても過言ではない」&amp;lt;ref&amp;gt;三島由紀夫『「変革の思想」とは ― 道理の実現』（[[読売新聞]] 1970年1月19・21・22日に連載）&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;hyouron36&amp;quot;/&amp;gt;と断じた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三島が自衛隊を違憲だとし、政府の「解釈改憲」を批判したのは以上の論点による。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、三島は1969年（昭和44年）12月から[[楯の会]]会員のうち13人を募って「憲法研究会」を発足した（班長・[[阿部勉 (民族主義者)|阿部勉]]）。翌年1970年（昭和45年）1月以降、三島が執筆した『問題提起』第一・「新憲法における『日本』の欠落」（1970年5月に配布）、第二・「戦争の放棄」（1970年7月に配布）、第三・「非常事態法について」（1970年9月に配布）を基本資料とし、研究会は憲法改正案を起草し続けた。結局、三島の死後の1971年（昭和46年）2月になって、研究会による一連の議論の記録及び憲法改正案から成る「[[維新]]法案序」を完成&amp;lt;ref&amp;gt;詳細は[[松藤竹二郎]]『血滾ル三島由紀夫「憲法改正」』（毎日ワンズ、2006年） ISBN 4901622048で紹介されている&amp;lt;/ref&amp;gt;。楯の会は同月28日に解散した。この「維新法案序」は[[産経新聞]]の[[2003年]]（平成15年）11月2日号により初めて紹介された[http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/01252/contents/465.htm]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 自衛隊論 ===&lt;br /&gt;
上記のように、三島にとって日本の[[再軍備]]は日本の存続において不可欠なものであった。『問題提起』でも、「[[防衛]]は国の基本的な最重要問題であり、これを抜きにして国家を語ることはできぬ。 物理的に言つても、一定の領土内に一定の国民を包括する現実の態様を抜きにして、国家といふことを語ることができないならば、その一定空間の物理的保障としては軍事力しかなく、よしんば、空間的国家の保障として、外国の軍事力（[[核兵器]]その他）を借りるとしても、決して外国の軍事力は、他国の時間的国家の態様を守るものではない」と、[[ロン・ノル]]が「赤化した」[[ノロドム・シハヌーク|シハヌーク]]国家元首を追放した[[1970年]]（昭和45年）の[[クーデター]]を引き合いに出して[[日米安保]]に安住することを批判し、日本の自主防衛を訴えている&amp;lt;ref name=&amp;quot;hyouron36&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三島は、人生最後の日の檄文で、「&#039;&#039;&#039;自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負ひつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与へられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与へられず、その忠誠の対象も明確にされなかつた&#039;&#039;&#039;」と訴えた（同様の趣旨は『問題提起』でも示されている）。そして、「[[政体]]を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によつて[[国体]]が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであらう」と説き、前述のように前年の[[国際反戦デー]]の左翼デモ・[[10.21国際反戦デー闘争 (1969年)]]の際に自衛隊[[治安出動]]がおこなわれなかったことに憤った&amp;lt;ref name=&amp;quot;hyouron36&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
檄文では、「&#039;&#039;&#039;諸官に与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。（中略）国家百年の大計にかかはる[[核拡散防止条約|核停条約]]は、あたかもかつての[[ワシントン海軍軍縮条約|五・五・三の不平等条約]]の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切る[[将軍|ジェネラル]]一人、自衛隊からは出なかつた。[[沖縄返還]]とは何か？ 本土の防衛責任とは何か？ [[アメリカ]]は真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、[[左派]]のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの[[傭兵]]として終るであらう&#039;&#039;&#039;」とも警告した&amp;lt;ref name=&amp;quot;hyouron36&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この警告について[[西尾幹二]]は、三島由紀夫は[[NPT]]のことを語っているとし、「彼が自衛隊に蹶起を促すのは、明らかに核の脅威を及ぼしてくる外敵を意識しての話なのである。このままでよいのかという切迫した問いを孕んでいる」&amp;lt;ref name=&amp;quot;nishio&amp;quot;/&amp;gt;と述べ、「六年前に[[中国]]が[[核実験]]に成功し、核保有の五大国として“[[核拡散防止条約|核停止条約]]”（NPTのこと）で特権的位置を占め、三島が死んだこの年に[[台湾]]を蹴落として[[国連]]に加盟、[[常任理事国]]となるのである。『[[ワシントン海軍軍縮条約|五・五・三の不平等条約]]』とは、[[ワシントン会議]]における米英日の主力戦艦の保有比率であることは見易い」と解説し、「三島は、NPTに署名し核を放棄するのは『国家百年の大計にかかはる』と書いている。NPTの署名を日本政府が決断したのは[[1970年|1970]]（昭和45）年[[2月3日]]で、同じ年の[[11月25日]]に三島は腹を切った。そして、NPTの署名と[[核武装]]の放棄を理由に、[[佐藤栄作]]は[[ノーベル平和賞]]の名誉に輝いた。（中略）『あと二年』とは[[1972年|1972]]（昭和47）年を指す。[[沖縄返還]]が72年に実現した。その頃から準備と工作を続け、74年にノーベル平和賞である」&amp;lt;ref name=&amp;quot;nishio&amp;quot;&amp;gt;[[西尾幹二]]「三島由紀夫の死と日本の核武装」（[[WiLL (雑誌)|WILL]] 2011年2月号に掲載） [http://www.nishiokanji.jp/blog/wp-trackback.php?p=1034]&amp;lt;/ref&amp;gt;と述べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三島の『「変革の思想」とは ― 道理の実現』（[[読売新聞]] 1970年1月19・21・22日に連載）という文章には、檄文や演説では言い尽くされていなかった三島の自衛隊に対する考えが、余すところなく書かれている&amp;lt;ref&amp;gt;『三島由紀夫―没後35年・生誕80年』（[[河出書房新社]]、2005年）に再録。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;hyouron36&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この中で三島は、「[[改憲]][[サボタージュ]]」が自民党政権の体質となっている以上、「改憲の可能性は右からの[[クーデター]]か、左からの暴力革命によるほかはないが、いずれもその可能性は薄い」と指摘。そして、本来、[[祭政一致]]的な国家であった日本は、現在、「統治的国家（[[行政権]]の主体）」と「[[祭祀]]的国家（国民精神の主体）」の二極分化を起こし、「後者が前者の背後に影のごとく揺曳してゐる」と指摘し、国民に対しそのどちらかに忠誠を誓うかを問うた。それに合わせて、“現憲法下で”という条件付であるが、&lt;br /&gt;
# [[航空自衛隊]]の9割、[[海上自衛隊]]の7割、[[陸上自衛隊]]の1割で「[[国際連合|国連]]警察予備軍」を編成し、対直接侵略を主任務とすること。この軍は統治国家としての日本に属し、[[安保条約]]によって[[集団安全保障]]体制にリンクする。根本理念は[[国際主義]]的であり、身分は[[国連事務局]]における日本人職員に準ずる。&lt;br /&gt;
# 陸上自衛隊の9割、海上自衛隊の3割、航空自衛隊の1割で「国土防衛軍」を編成し、絶対自立の軍隊としていかなる外国とも軍事条約を結ばない。その根本理念は祭祀国家の長としての[[天皇]]への忠誠である。対間接侵略を主任務とし、[[治安出動]]も行う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
という「自衛隊二分論」の提案をおこなっている&amp;lt;ref group=&amp;quot;注釈&amp;quot;&amp;gt;この理論は既に[[1968年]][[11月16日]]に[[茨城大学]]で行った学生とのティーチインで明らかにされているが、その際には海上自衛隊を6:4に分割することを主張していた（出典：『文化防衛論』文庫版323頁）&amp;lt;/ref&amp;gt;。2.の「国土防衛軍」には多数の[[民兵]]が含まれるとし、「[[楯の会]]」はその[[パイオニア]]であるとしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『[[文化防衛論]]』（[[中央公論]] 1968年7月号に掲載）&amp;lt;ref name=&amp;quot;hyouron35&amp;quot;&amp;gt;『決定版 三島由紀夫全集第35巻・評論10』（[[新潮社]]、2003年）に所収。&amp;lt;/ref&amp;gt;では、[[天皇]]が自衛隊の[[儀仗]]を受けることと、[[連隊旗]]を直接下賜することを提言し、自衛隊の名誉回復を主張している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように、三島が自衛隊に望んでいたことは以下の2点に集約される。&lt;br /&gt;
# 自衛隊の名誉回復、国軍化&lt;br /&gt;
# [[日米安保]]体制からの将来的な脱却と自主防衛&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 天皇論 ===&lt;br /&gt;
一方、三島の[[天皇]]に対する態度は複雑であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三島は、最期の日の演説や檄文などで、「歴史と文化の伝統の中心」、「[[祭祀]]国家の長」として天皇を絶対視していた。さらに『[[文化防衛論]]』においては、「文化概念としての天皇」という概念を主張し、日本の文化の中心であった天皇は、「国と民族の非分離の象徴であり、その時間的連続性と空間的連続性の[[座標軸]]である」としている&amp;lt;ref name=&amp;quot;hyouron35&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、[[伊勢神宮]]の造営や、[[歌道]]における「[[本歌取り]]」の法則などに例をみるように、本来、オリジナルとコピーの弁別を持たない日本文化では、「各代の天皇が、正に天皇その方であつて、[[天照大神]]（あまてらすおほみかみ）とオリジナルとコピーの関係にはない」とし、天皇は宗教的で、神聖な、インパーソナルな存在であると主張した。そして、「文化概念の定義は、おのづから文化を防衛するにはいかにあるべきか、文化の真の敵は何かといふ考察を促すであらう」と述べ、「“守る”とはつねに剣の原理である」とし、「菊と刀の栄誉が最終的に帰一する根源が天皇なのであるから、軍事上の栄誉も亦、文化概念としての天皇から与へられなければならない。（中略）天皇に栄誉大権の実質を回復し、軍の[[儀仗]]を受けられることはもちろん、[[連隊旗|聨隊旗]]も直接下賜されなければならない」、「天皇と軍隊を栄誉の絆でつないでおくことが急務」であると主張している&amp;lt;ref name=&amp;quot;hyouron35&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
インパーソナルな天皇像を希求するがゆえ、1966年（昭和41年）の[[林房雄]]との対談では、「僕はどうしても天皇というのを、現状肯定の[[シンボル]]にするのはいやなんですよ」、「天皇というのは、僕の観念のなかでは世界に比類のないもので、現状肯定のシンボルでもあり得るが、いちばん先鋭な[[革新]]のシンボルでもあり得る二面性をもっておられる」&amp;lt;ref name=&amp;quot;taiwa&amp;quot;&amp;gt;[[林房雄]]との対談『対話・日本人論』（番町書房、1966年。夏目書房で新版、2002年）&amp;lt;/ref&amp;gt;などと発言し、天皇イコール「革新のシンボル」との位置づけを頻繁に試みるようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その流れから、国民と天皇を現代的感覚で結びつけようという、大衆社会化に追随した戦後の[[象徴天皇制]]を、「&#039;&#039;&#039;週刊誌的天皇制&#039;&#039;&#039;」（皇室が週刊誌のネタにされるほど貶められた、という意味）として唾棄し、「国民に親しまれる天皇制」のイメージ作りに多大な影響力を及ぼし、民主化しようとしてやり過ぎた[[小泉信三]]を、[[皇室]]からディグニティ（威厳）を奪った「大逆臣」と呼んで痛罵するなどした&amp;lt;ref name=&amp;quot;taiwa&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、[[昭和天皇]]に対しては、「ぼくは、むしろ（昭和）天皇個人にたいして反感を持っているんです。ぼくは戦後における天皇人間化という行為を、ぜんぶ否定しているんです」&amp;lt;ref name=&amp;quot;saigo&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;taidan40&amp;quot;/&amp;gt;と死の1週間前に行なわれた対談で発言している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[昭和天皇]]に対する否定的な感情は、[[二・二六事件]]三部作の最後を飾る『[[英霊の声|英霊の聲]]』で端的に表されている。三島はその作中で、「たつたお孤りで、あらゆる辛苦をお忍びになりつつ、陛下は人間であらせられた。清らかに、小さく光る人間であらせられた。それはよい。誰が陛下をお咎めすることができよう」と前置きした上で、昭和天皇に、「だが、昭和の歴史においてただ二度だけ、陛下は神であらせられるべきだつた。何と云はうか、人間としての義務（つとめ）において、神であらせられるべきだつた」と批判する。「二度」のケースとは、&lt;br /&gt;
# 「兄神たちの蹶起の時」。すなわち、誠忠の士であった[[二・二六事件]]の青年[[将校]]らを、人間的な感情から、「叛逆の徒」として[[銃殺刑|銃殺]]の[[極刑]]にはずかしめたこと。&lt;br /&gt;
# 「われらの死のあと、国の敗れたあとの時」。すなわち、戦後の「[[人間宣言]]」により、「神としての天皇のために死んだ」[[神風]][[特別攻撃隊|特攻隊]]隊員らの至誠を裏切ったこと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
であり、三島は、二・二六事件の蹶起将校と特攻隊隊員の[[霊]]に「などて天皇（すめろぎ）は人間（ひと）となりたまひし」と、ほとんど呪詛に近い言葉を語らせている。また同時に、昭和天皇の信頼が厚かった[[幣原喜重郎]]を批判している&amp;lt;ref&amp;gt;三島由紀夫『[[英霊の声|英霊の聲]]』（[[文藝]] 1966年6月号に掲載）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[高橋睦郎]]によると、三島は昭和天皇について、「彼には[[エロティシズム]]を感じない、あんな老人のために死ぬわけにはいかない」と発言し、さらに当時の人気歌手を引き合いに出し「[[三田明]]が天皇だったらいつでも死ぬ」と発言したことがあったという&amp;lt;ref&amp;gt;[[中条省平]]編『続・三島由紀夫が死んだ日』（[[実業之日本社]]、2005年）p.185&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だが、その一方で、[[学習院高等科 (旧制)|旧制学習院高等科]]を首席で卒業した際、[[恩賜の銀時計]]を拝受し昭和天皇に謁見したことを感慨深く回想している。1969年（昭和44年）5月13日に、[[駒場]]の東大教養学部でおこなわれた[[全学共闘会議|全共闘]]との討論集会においても、学習院高等科の卒業式に臨席した昭和天皇が「3時間（の式の間）、木像のごとく全然微動もしない」御姿が大変ご立派であったと、敬意を表することも一再ならずあった。同討論集会で三島は、「天皇を天皇と諸君が一言、言ってくれれば、私は喜んで諸君と手をつなぐ（共闘する）のに、言ってくれないから、いつまでたっても“殺す、殺す”といっているだけのことさ」&amp;lt;ref name=&amp;quot;kyoutou&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;taidan40&amp;quot;/&amp;gt;と言い放ち、全共闘学生を挑発した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三島は[[福田恆存]]との対談『文武両道と死の哲学』（論争ジャーナル 1967年11月号に掲載）&amp;lt;ref name=&amp;quot;samurai&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;gensen&amp;quot;/&amp;gt;において、[[井上光晴]]の「三島さんは、おれよりも天皇に苛酷なんだね」との評を引用し、天皇に過酷な要求をすることこそが天皇に対する一番の忠義であると語っている。また同対談では、理想の天皇制とは没我の精神であり、国家的[[エゴイズム]]や国民のエゴイズムを掣肘するファクターだと述べ、「天皇はあらゆる近代化、あらゆる工業化によるフラストレイションの最後の[[救世主]]として、そこにいなけりゃならない、いまから準備していなければならない」、「天皇というのは、国家のエゴイズム、国民のエゴイズムというものの、一番反極のところにあるべきだ。そういう意味で、天皇は尊いんだから、天皇が自由を縛られてもしかたがない。その根元にあるのは、とにかく“お祭”だ、ということです。天皇がなすべきことは、お祭、お祭、お祭、お祭、― それだけだ。これがぼくの天皇論の概略です」と三島は語っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、[[鈴木邦男]]によると、[[楯の会]]の「憲法研究会」において、{{要出典範囲|三島は自身の持論をメモに残しているという。その中では、天皇は国体であり、「神勅を奉じて祭祀を司り」、「国軍の栄誉の源」であるという原則とともに「皇位は世襲であって、その継承は男系子孫に限ることはない」と書かれており、三島が女系天皇を容認していたことが分かるという&amp;lt;!--と記述できる出典・資料を明記して下さい--&amp;gt;|date=2012年3月}}。また、当時この持論はほとんど賛同を得られなかったが、近年[[皇位継承問題 (平成)|皇位継承問題]]が表面化したことから注目を集めているという見解を鈴木邦男は示し、戦後昭和天皇が[[側室]]制度を廃止し、十一家あった旧[[宮家]]を[[臣籍降下]]させたことなどにより、将来皇統問題が必ず起こることを三島は予見していたのではないかと推測し、これらの点でも昭和天皇への批判を含んでいたのではないかとしている&amp;lt;ref&amp;gt;[[鈴木邦男]]「『[[女帝]]』を認めた三島の真意」（『遺魂 三島由紀夫と[[野村秋介]]の軌跡』）（無双舎、2010年） ISBN 4864084394&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし実際には、[[鈴木邦男]]が主張している「三島が[[女系天皇]]を容認していたことを示すメモ」なるものの存在は確認されていない&amp;lt;ref&amp;gt;[[松本徹 (学者)|松本徹]]「三島は女系天皇をみとめていなかった―男系天皇論者であることは、三島の作品を読んで、その男女観からも明らか」（三島由紀夫の総合研究、2012年6月24日号） [http://melma.com/backnumber_149567_5592012/]&amp;lt;/ref&amp;gt;。鈴木が見解の元としている出典の[[松藤竹二郎]]の著書『血滾ル 三島由紀夫「憲法改正」』、『日本改正案 三島由紀夫と楯の会』、『三島由紀夫「残された手帳」』にも、三島が女系天皇を容認していたことを示すようなメモや記述、あるいは伝言の提示はない。松藤の著書で示された三島が残した憲法改正案は、第一・「新憲法に於ける『日本』の欠落」と、第二・「戦争の放棄」と、第三・「[[非常事態法]]について」の3章から成る『問題提起』&amp;lt;ref name=&amp;quot;hyouron36&amp;quot;/&amp;gt;という論文のみである。そこには、天皇の[[皇位継承]]の男系・女系については一切触れられていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
松藤竹二郎の著書では、鈴木邦男が言う「皇位は世襲であって、その継承は男系子孫に限ることはない」という案は、三島の死後に「憲法研究会」で討議案をまとめた中の、あくまで一会員の一つの意見であるにすぎず、それに異議を唱える会員の意見もあり、楯の会の「憲法研究会」の総意ですらない。よって「憲法研究会」の話し合いの結論も、「“継承は男系子孫に限ることはない”という文言は憲法に入れる必要ない」という結論となっている。さらに、「憲法研究会」のリーダー的役割であり、改正案の話し合いの記録を保管していた班長・[[阿部勉 (民族主義者)|阿部勉]]の提案した「[[女帝]]を認める」という意見に関しても、「皇統には複数の女帝がおられたんで、女帝は絶対だめだというような意見には反対だという意味ですよ、消極的な」と阿部勉は語り、「積極的な一つの主義として確立しろという意味ではない」と述べている&amp;lt;ref&amp;gt;[[松藤竹二郎]]『日本改正案 三島由紀夫と[[楯の会]]』（毎日ワンズ 2005年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その天皇主義的な側面から、三島を[[右翼]]と評する向きもあるが、生前には『[[風流夢譚]]』事件で右翼の攻撃対象となるなど、必ずしも既存右翼と常に軌を一にしていたわけではない（もっとも、1965年（昭和40年）頃に[[毛呂清輝]]らとの交流があったことが、書簡等で明らかとなっている）が、その右翼陣営も三島の自決後は彼をみずからの模範として崇敬（もしくは政治利用）するようになる。しかし、三島自身は「愛国心」に関しては、官製のイメージが強いとして「自分がのがれやうもなく国の内部にゐて、国の一員であるにもかかはらず、その国といふものを向こう側に対象に置いて、わざわざそれを愛するといふのが、わざとらしくてきらひである」と険悪している。その上で「日本人の情緒的表現の最高のものは『恋』であって『愛』ではない。もしキリスト教的な愛であるなら、その愛は無限定無条件でなければならない。従って、『人類愛』というなら多少筋が通るが、『愛国心』というのは筋が通らない。なぜなら愛国心とは、国境を以て閉ざされた愛だからである」と述べている。&amp;lt;ref&amp;gt;三島由紀夫「愛国心−官製のいやなことば」（[[朝日新聞]]1968年1月8日に掲載）&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、[[磯田光一]]は三島が亡くなる1か月前に三島から言われた言葉として、本当は腹を切る前に[[宮中]]で天皇を殺したいが、宮中に入れないので自衛隊にした、と聞かされたと[[島田雅彦]]との対談で述べているが&amp;lt;ref&amp;gt;[[島田雅彦]]・[[磯田光一]]「模造文化の時代」（[[新潮]] 1986年8月号に掲載）&amp;lt;/ref&amp;gt;、これに対しては、用心深かった三島が事前に決起や自決を漏らすようなことを部外者に言うはずがないと指摘されている&amp;lt;ref name=&amp;quot;mochimaru&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長く昭和天皇に側近として仕えた[[入江相政]]の日記（『[[入江相政日記]]』）の記述から、昭和天皇自身が三島や三島事件に少なからず意を及ぼしていたのではないかとの指摘がある&amp;lt;ref&amp;gt;[[松本健一]]『三島由紀夫の[[二・二六事件]]』（[[文春新書]]、2006年）、『畏るべき昭和天皇』（[[毎日新聞社]]、2007年。新潮文庫、2011年）、[[原武史]]『昭和天皇』（[[岩波新書]]、2008年）など。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 国語教育論 ===&lt;br /&gt;
三島は、戦後の政府により1946年（昭和21年）に改定された「[[現代かなづかい]]」を使わず、自身の原稿は終生、「[[歴史的仮名遣|旧仮名遣ひ]]」を貫いた。三島は、ことばにちょっとでも実用的な原理や合理的な原理を導入したら、もうだめだと主張し、中国人は[[簡体字|漢字を全部簡略化した]]ため古典が読めなくなったと述べている&amp;lt;ref name=&amp;quot;taiwa&amp;quot;/&amp;gt;。また敗戦後に日本語を廃止して[[フランス語]]を[[公用語]]にすべきと発言した[[志賀直哉]]については、「私は、日本語を大切にする。これを失つたら、日本人は魂を失ふことになるのである。戦後、日本語をフランス語に変へよう、などと言つた文学者があつたとは、驚くにたへたことである」&amp;lt;ref&amp;gt;三島由紀夫『日本への信条』（[[愛媛新聞]] 1967年1月1日に掲載）&amp;lt;/ref&amp;gt;と批判している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国語教育についても、「現代の教育で絶対にまちがつてゐることが一つある。それは[[古典主義]]教育の完全放棄である。[[古典]]の暗誦は、決して捨ててならない教育の根本であるのに、戦後の教育はそれを捨ててしまつた。ヨーロッパでもアメリカでも、古典の暗誦だけはちやんとやつてゐる。これだけは、どうでもかうでも、即刻復活すべし」&amp;lt;ref&amp;gt;三島由紀夫「生徒を心服させるだけの腕力を――[[スパルタ教育]]のおすすめ」（文芸朝日 1964年7月号に掲載）&amp;lt;/ref&amp;gt;と述べている。そして、中学生には原文でどんどん古典を読ませなければならないとし、古典の安易な[[現代語]]訳に反対を唱え、日本語の伝統や歴史的背景を無視した利便・実用第一主義を唾棄している&amp;lt;ref name=&amp;quot;taiwa&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;hassha&amp;quot;&amp;gt;三島由紀夫「発射塔　古典現代語訳絶対反対」（[[読売新聞]]夕刊コラム 1960年7月6日 - 10月26日連載）&amp;lt;/ref&amp;gt;。三島は、「美しからぬ現代語訳に精出してゐるさまは、[[教科書ガイド|アンチョコ]]製造よりもつと罪が深い。みづから進んで、日本人の語学力を弱めることに協力してゐる」&amp;lt;ref name=&amp;quot;hassha&amp;quot;/&amp;gt;と、[[文部省]]の役人や教育学者を批判し、自身の提案として、「ただカナばかりの原本を、漢字まじりの読みやすい版に作り直すとか、[[ルビ]]を入れるとか、おもしろいたのしい脚注を入れるとか、それで美しい本を作るとか、さういふ仕事は先生方にうんとやつてもらひたい」&amp;lt;ref name=&amp;quot;hassha&amp;quot;/&amp;gt;と述べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 漫画・映画・サブカルチャーに対して ===&lt;br /&gt;
三島は[[水木しげる]]、[[つげ義春]]や[[好美のぼる]]らの[[漫画]]を複数所蔵していたことが明らかになっている&amp;lt;ref&amp;gt;[[島崎博]]・[[平岡瑤子|三島瑤子]]『定本三島由紀夫書誌』（[[薔薇十字社]]、[[1971年]]）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[手塚治虫]]や水木しげるについて三島は、「[[劇画]]や漫画の作者がどんな思想を持たうと自由であるが、[[啓蒙思想|啓蒙]]家や教育者や図式的風刺家になつたら、その時点でもうおしまひである。かつて颯爽たる『[[鉄腕アトム]]』を想像した手塚治虫も、『[[火の鳥 (漫画)|火の鳥]]』では[[日本教職員組合|日教組]]の御用漫画家になり果て、『[[宇宙虫]]』ですばらしい[[ニヒリズム]]を見せた水木しげるも『[[ガロ (雑誌)|ガロ]]』の『こどもの国』や『[[宮本武蔵|武蔵]]』連作では見るもむざんな政治主義に堕してゐる。一体、今の若者は、図式化されたかういふ浅墓な政治主義の劇画・漫画を喜ぶのであらうか。『[[もーれつア太郎]]』のスラップスティックスを喜ぶ精神と、それは相反するではないか」、「折角『[[ゲゲゲの鬼太郎|お化け漫画]]』にみごとな才能を揮ふ水木しげるが、偶像破壊の『新講談 [[宮本武蔵]]』（1965年）を描くときは、[[芥川龍之介]]と同時代に逆行してしまふ」&amp;lt;ref name=&amp;quot;gekiga&amp;quot;/&amp;gt;と辛辣な評を残す一方、[[赤塚不二夫]]に関しては、「いつのころからか、私は自分の小学生の娘や息子と、少年週刊誌を奪い合つて読むやうになつた。『もーれつア太郎』は毎号欠かしたことがなく、私は猫の[[ニャロメ]]と毛虫の[[ケムンパス]]と奇怪な生物[[ベシ]]のファンである。このナンセンスは徹底的で、かつて[[時代物]]劇画に私が求めてゐた破壊主義と共通する点がある。それは[[ヒーロー]]が一番ひどい目に会ふといふ主題の扱ひでも共通してゐる」&amp;lt;ref name=&amp;quot;gekiga&amp;quot;/&amp;gt;と絶賛している。このことから当時の同世代人の中では三島は相当量の漫画の読み手であったことが窺える。また、「[[平田弘史]]の時代物劇画がなどに、そのあくまで真摯でシリアスなタッチに、古い[[紙芝居]]の[[ノスタルジア|ノスタルジヤ]]と“[[弘瀬金蔵|絵金]]”的[[幕末]]趣味を発見してゐたのである」&amp;lt;ref name=&amp;quot;gekiga&amp;quot;/&amp;gt;と述べ、[[白土三平]]はあまり好まないと述べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ボクシング]]観戦好きで、自身も1年間ほどジムに通った経験のあった三島は、雑誌「[[週刊少年マガジン]]」に連載されていた『[[あしたのジョー]]』を愛読していたという。夏のある日の深夜、[[講談社]]のマガジン編集部に三島が突然現れ、今日発売されたばかりのマガジンを売ってもらいたいと頼みに来たという。理由を聞くと、三島は毎週マガジンを買うのを楽しみにしていたが、その日に限って映画の撮影（『[[黒蜥蜴]]』）で、帰りが夜中になり買うところもなくなったため、編集部で売ってもらおうとやって来たという。三島は、「『あしたのジョー』を読むために、毎週水曜日に買っている」と答えた。財布を出した三島に対して、編集部ではお金のやりとりができないから、1冊どうぞと差し出すと嬉しそうに持ち帰ったという。当時は24時間営業のコンビニなどはなかったため、夜になって書店が閉店してしまうと、もう雑誌を買うことができなかった。三島は『あしたのジョー』が読みたくて翌日まで待てなかった&amp;lt;ref&amp;gt;[[大野茂]]『[[別冊少年サンデー|サンデー]]と[[週刊少年マガジン|マガジン]] 創刊と死闘の15年』（[[光文社新書]]、2009年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1954年]]の映画『[[ゴジラ (1954年の映画)|ゴジラ]]』について、公開時の日本のジャーナリズムの評価は概ね低く、「ゲテモノ映画」、「キワモノ映画」と酷評する向きも多かった。各新聞の論評でも、特撮面では絶賛されているものの、「人間ドラマの部分が余計」として、[[本多猪四郎]]監督の意図したものを汲んだ批評はみられなかったが、[[田中友幸]]によれば、三島のみが「&#039;&#039;&#039;[[原子爆弾|原爆]]の恐怖がよく出ており、着想も素晴らしく面白い映画だ&#039;&#039;&#039;」として、ドラマ部分を含めた全てを絶賛してくれたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「好きなテレビ番組は？」というアンケートの問いに『[[ウルトラマン]]』と答えている{{要出典|date=2014年6月}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 裁判 ==&lt;br /&gt;
=== 『宴のあと』裁判 ===&lt;br /&gt;
三島は、日本で最初の[[プライバシー]]の侵害裁判の[[被告]]となった。もの珍しさから、「プライバシーの侵害」という言葉は当時、流行語となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;inose&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1961年]]（昭和36年）[[3月15日]]、元[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]・[[東京都知事]]候補の[[有田八郎]]は、三島の『宴のあと』という小説が自分の[[プライバシー]]を侵すものであるとして、三島と出版社である[[新潮社]]を相手取り、[[損害賠償]]100万円と[[謝罪広告]]を求める訴えを[[東京地方裁判所]]で起した。裁判は、「[[表現の自由]]」と「私生活をみだりに明かされない権利」という論点で進められたが、[[1964年]]（昭和39年）[[9月28日]]に東京地方裁判所で判決&amp;lt;ref&amp;gt;「宴のあと」事件 第一審判決 損害賠償請求事件（1964年（昭和39年）9月28日）判決 [http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~suga/hanrei/10-1.html]&amp;lt;/ref&amp;gt;が出て、三島側は80万円の損害賠償の支払いを命じられた（ただし謝罪広告の必要はなし）。三島は、[[芸術]]的表現の自由が原告のプライバシーに優先すると主張したが、第一審、東京地裁の[[1964年|昭和39年]]9月28日&#039;&#039;&#039;石田哲一&#039;&#039;&#039;裁判長は判決において以下の論述を出した。 &lt;br /&gt;
[[File:Ishida Tetsuichi.JPG|thumb|150px|right|裁判長・&#039;&#039;&#039;[[石田哲一]]&#039;&#039;&#039;]]&lt;br /&gt;
:「[[小説]]なり[[映画]]なりがいかに芸術的価値においてみるべきものがあるとしても、そのことが当然にプライバシー侵害の違法性を阻却するものとは考えられないそれはプライバシーの価値と芸術的価値の基準とはまったく異質のものであり、法はそのいずれが優位に立つものとも決定できないからであるたとえば、無断で特定の女性の裸身をそれと判るような形式、方法で表現した芸術作品が、芸術的にいかに秀れていても、通常の女性の感受性として、そのような形の公開を欲しない社会では、やはりプライバシーの侵害であって、違法性を否定することはできない」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
石田裁判長は、「言論、表現の自由は絶対的なものではなく、他の名誉、信用、プライバシー等の法益を侵害しないかぎりにおいてその自由が保障されているものである」との判断を示し、「プライバシー権侵害の要件は次の4点である」と判示した。 &lt;br /&gt;
# 私生活上の事実、またはそれらしく受け取られるおそれのある事柄であること &lt;br /&gt;
# 一般人の感受性を基準として当事者の立場に立った場合、公開を欲しないであろうと認められるべき事柄であること &lt;br /&gt;
# 一般の人にまだ知られていない事柄であること&lt;br /&gt;
# このような公開によって当該私人が現実に不快や不安の念を覚えたこと &lt;br /&gt;
三島側は10月に[[控訴]]するが、この後、[[1965年]]（昭和40年）3月4日に有田が死去したため、[[1966年]]（昭和41年）11月28日、有田の遺族と三島・新潮社との間に和解が成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当初、この件で友人である[[吉田健一 (英文学者)|吉田健一]]（父親・[[吉田茂]]が[[外務省]]時代に有田の同僚であった）に仲介を依頼したものの上手くいかず、吉田健一が有田側に立った発言をしたため、後に両者は絶交に至る機縁になったといわれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三島は、自決1週間前に行なった[[古林尚]]との対談『三島由紀夫 最後の言葉』&amp;lt;ref&amp;gt;1989年4月に新潮社で、カセット「三島由起夫・最後の言葉」が、新版は2002年6月に、〈新潮CD〉で出されている。&amp;lt;/ref&amp;gt;において、この裁判で三島は裁判というものを信じなくなったという。法廷で弁護人から、「三島に著名入りで本（有田八郎著『馬鹿八と人はいう』）をやったか」と質問が出たとき、有田は、「とんでもない、三島みたいな男にだれが本なんてやるもんか…（後略）」と答え、弁護人が、「もしやっていらっしゃったら、ある程度三島の作品を認めたか、あるいは書いてもらいたいというお気持があったと考えてよろしいですね？」と念押しされ、「そのとおりですよ」と有田は、断固、本は渡していないと主張したという。ところが、三島は有田から、「三島由紀夫様、有田八郎」と著名された本を貰っていた。それを三島側が提示すると、傍聴席が驚いたという。三島は、あの裁判がもし[[陪審制度]]だったら、自分は勝っていただろうと述べている。裁判所の判断は、有田が老体であるとか、社会的地位や名声を配慮して有田に有利に傾き、[[民事裁判]]にもかかわらず、[[刑事訴訟]]のように、被告は「三島」と呼び捨てにされていたという。ときどき気が付いて「さん」付けになるものの、ほぼ呼び捨てだったという&amp;lt;ref name=&amp;quot;saigo&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;taidan40&amp;quot;/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 『三島由紀夫－剣と寒紅』裁判 ===&lt;br /&gt;
[[1998年]]（[[平成]]10年）3月20日、[[福島次郎]]が[[文藝春秋]]社から小説『三島由紀夫－剣と寒紅』を発売した。内容は三島と福島の[[同性愛]]の関係を描いた[[センセーショナル]]なものであった。三島から福島に送られた15通の書簡の全文も掲載されているなど話題を呼んだ。ただし、この本は著者自身が巻末に、「この“小説”を書くに当って」と書いているように、決して[[ノンフィクション]]であるとはどこにも断られておらず、出版社も「文学」、「自伝小説」を強調する宣伝をしていた。これについて[[板坂剛]]は、内容がすべて事実であると言い切る自信が出版社にないからだと述べ、同性愛行為を描いている文章部分も、意識を失っていたはずの福島が克明に描写するのはおかしいと矛盾点を指摘している。また、「明らかなことは福島次郎も結局は三島に対するストーカーでしかなかった」という見解を示し、「文藝春秋の人間でさえ、福島には[[妄想癖]]と[[虚言癖]]がある、と認めている」と述べている。板坂剛は、「[[スーパースター]]との過去をひけらかすことで売名に成功した[[松田聖子]]の元愛人を自称する外国人たちと、福島次郎は結局同類である」と述べ、三島研究者にとって参考になるのは、小説中に掲載された三島の書簡だけという見解を示している&amp;lt;ref name=&amp;quot;newitaska&amp;quot;&amp;gt;[[板坂剛]]『真説 三島由紀夫 謎の原郷』（夏目書房、1998年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1998年（平成10年）3月24日、小説中に掲載された三島の書簡について、「手紙を無断で掲載・公表、複製するのは[[著作権侵害]]」である」として、三島由紀夫の相続人である三島の長女・[[平岡紀子|冨田紀子]]と、長男・[[平岡威一郎]]の2人は、著者・[[福島次郎]]と出版元である[[文藝春秋]]社に出版差し止めを求める仮処分を[[東京地方裁判所]]に申請し、[[民事裁判]]を起こした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1998年（平成10年）3月30日の一審、1999年（平成11年）10月18日の二審ともに、[[東京地方裁判所|東京地裁]]は、[[文藝春秋]]社側の主張である「手紙の内容は実用的な通信文であり[[著作物]]にあたらない」との言い分を退け、「書簡は事務的な内容の他、三島の自己の作品に対する感慨、抱負や折々の[[人生観]]などが、[[文芸作品]]とは異なる飾らない言葉で述べられている」とし、書簡を著作物であるという判決を下し、原告が勝訴した。被告側は500万円の[[損害賠償]]などを命じられ、控訴した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2000年]]（平成12年）5月23日、[[東京高等裁判所]]は、被告側の主張は、事実誤認や単なる法令違反で上告理由にあたらないとし、[[福島次郎]]と[[文藝春秋]]側の控訴を棄却した。判決文の「[[著作権侵害]]による[[損害賠償]]は、文学的価値ではなく財産的価値の侵害による賠償であって、三島由紀夫と控訴人福島の知名度や文学者としての名声を比較すれば、本件各手紙が本件書籍において、財産的に重要なものであること、すなわち、本件書籍購入の意欲をそそり、本件書籍の商業的成功をもたらすという点で重要なものであることは明らかである」&amp;lt;ref&amp;gt;三島由紀夫の手紙無断使用事件 判例全文 [http://www.translan.com/jucc/precedent-2000-05-23.html]&amp;lt;/ref&amp;gt;により、書簡も著作物にあたる場合があるとの高裁判決が確定した。なお、裁判は著作権上の判断であり、争点は福島の著書の内容に関しての真偽についてではなかった。というのは、あらかじめこの著書にはアリバイ的に巻末の中で「小説」と銘うっていたからである。当初より異例の初版10万部の発行を行なっており、判決にもかかわらず大半は流通し9万部が販売された。[[板坂剛]]はこれについて、「遺族に無断で書簡を公表してはならないことぐらいプロの出版人なら知らないはずはない。（中略）最初から裁判沙汰は予定の宣伝戦略であり、その効果を考えれば平岡家に対して支払う謝罪金など安いものだと内心では計算ずくだったのだろう」と述べている&amp;lt;ref name=&amp;quot;newitaska&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 家族 親族 ==&lt;br /&gt;
&#039;&#039;[[#出自|出自]]も参照のこと。&#039;&#039;&lt;br /&gt;
; 実家&lt;br /&gt;
;; 祖父・[[平岡定太郎|定太郎]]（[[内務省 (日本)|内務省]][[官僚]]）&lt;br /&gt;
: [[1863年]]（[[文久]]3年）[[6月4日 (旧暦)|6月4日]]生 - [[1942年]]（[[昭和]]17年）[[8月26日]]没&lt;br /&gt;
: 1892年（明治25年）、[[帝国大学]]法科大学（現・[[東京大学法学部]]）卒業。[[内務省 (日本)|内務省]]に入省。その後、[[徳島県]][[参事官]]、[[栃木県]][[警部]]長、[[衆議院]][[書記官]]、衆議院書記官兼内務省参事官、内務省参事官兼内務[[事務官]]、[[高等文官試験]]官、[[広島]]･[[宮城]]･[[大阪府]]内務部長を歴任。1906年（明治39年）7月、[[福島県知事]]に就任。1908年（明治41年）6月11日、[[樺太]]庁長官に就任。1914年（大正3年）6月、反[[政友会]]の[[農商務大臣]]・[[大浦兼武]]の策謀による公金流用疑惑のため樺太庁長官を辞任（のちに無罪判決）。1930年（昭和5年）8月、定太郎を顕彰する[[銅像]]が[[樺太神社]]に建立される。1942年（昭和17年）8月26日、79歳で死亡。[[菩提寺]]は[[愛宕]]の[[青松寺]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[File:Ｈｉｒａｏｋａ Ｔｅｉｔａｒｏｕ ａｎｄ Ｎａｔｕ.jpg|thumb|200px|right|&amp;lt;center&amp;gt;平岡定太郎と妻夏子&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;/center&amp;gt;]]&lt;br /&gt;
: 「三島由紀夫の無視された家系」（『[[月刊噂]]』1972年8月号）59-60頁によれば、「祖父の定太郎が永井奈徒と結婚したのは[[1893年|明治二六年]]、大学を卒業した翌年のことである。何と言っても[[帝国大学|帝大]]出の“[[法学士|学士]]さま”である。“学士さまならお嫁にやろか”と言われた時代だから、奈徒も不自然なく嫁いできたものと思われる。奈徒は、父は[[永井尚志|永井玄番頭]]の嗣子、その母は[[宍戸藩]]の[[松平頼位]]の娘、[[松平頼徳|松平大炊守]]の妹というれっきとした名流の[[士族]]であった。[[百姓]]の定太郎が士族の娘を嫁にもらえたのも“学士さま”のお蔭であったろう。平岡家の家系には、この時はじめて名血と結びついた。しかし奈徒という女性は非常に気位が高く気性も激しかった。[[徳川氏|徳川家]]重臣の[[嫡流]]という意識を強く持ち、その上に美貌であったから、一介の百姓生まれの定太郎を内心では軽蔑していたようである。つね日頃から、『お殿様と[[駿河]]へ行って……』という話をし始めると、それは永井家が家臣として最後まで[[徳川慶喜]]と行動を共にしたというプライドからくるものであった。語学にも堪能で、ドイツ語、フランス語を七十歳すぎても流暢に読んだり話したりすることができたともいう。定太郎は[[原敬]]に重用された性格でわかるように、[[能吏]]というよりは[[事業家]]肌であった」という&amp;lt;ref name=&amp;quot;uwasa&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
;; 祖母・[[平岡なつ|夏子]]（戸籍名・なつ）（東京府[[士族]]・[[大審院]]判事・[[永井岩之丞]]の長女。[[幕臣]]・[[玄蕃寮|玄蕃頭]]・[[永井尚志]]の孫）&lt;br /&gt;
: [[1876年]]（[[明治]]9年）[[6月27日]]生 - [[1939年]]（昭和14年）[[1月18日]]没&lt;br /&gt;
: なつの母・高は、[[水戸]]の[[支藩]]・[[宍戸藩]]の[[藩主]][[松平頼位]]とその[[側室]]との間に生まれた。なつは1888年（明治21年）の12歳から1893年（明治26年）11月27日、17歳で[[平岡定太郎]]と結婚するまでの期間、[[有栖川宮熾仁親王]]の屋敷に行儀見習いとして仕える。定太郎との間に一人息子の[[平岡梓|梓]]を儲ける。1939年（昭和14年）1月18日、[[潰瘍]]出血のため62歳で死亡。&lt;br /&gt;
: [[野坂昭如]]の著書『赫奕たる逆光』129-130頁によれば、「[[1893年|明治二六年]]、なつは満十七で定太郎の[[妻]]となった。ほんの二十年前までは、名門の武家の娘と[[町人]]、ましてや[[百姓]]の男が結婚するなど、考えられぬ仕儀、[[江戸時代]]なら直参と[[陪臣]]、御目見（おめみえ）以上と以下の縁組もない。[[士分]]以上の者が、百姓に娘を与える場合、これは捨てたことで、それにしても、間に仮親をつくり、その[[養女]]として後、嫁がせた。[[鹿鳴館]]時代を過ぎ、[[教育勅語]]も発布された。[[文明開化]]の波は日増しに高まるとはいえ、母方の祖父は[[徳川氏|徳川]]の枝に連なり、父方のそれは幕府[[若年寄]]である娘と、[[播州]]の、二代前は所払いとなっている百姓の倅（せがれ）、いかに帝大出とはいえ、卒業は八年おくれているのだ、まことに不自然」という&amp;lt;ref name=&amp;quot;nosaka&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
: [[平岡梓|梓]]によれば、「…子供が僕一人というのは、あながち母の邪推を待つまでもなく、その平常の振舞いからして父があるいは[[淋病|トリッペル]]にとっつかれていたためかと思われます。母自身も猛烈な[[坐骨神経痛]]にかかり、一生を苦しみ通したのですが、これも父のしわざだとの医者のひそひそ話を小耳にはさんだことがありました。大家族の中における長女たる自分の身分、家柄を過信するプライド、父の天衣無縫の行動、坐骨神経痛等々が重なり合って、母は精神肉体両面からの激痛でひどい[[ヒステリー]]になる。この大型台風はたちまち家中をところせましと吹きまくり、その被害や以て想うべしという惨状でした」という&amp;lt;ref name=&amp;quot;azusa&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
;; 父・[[平岡梓|梓]]（[[農商務省 (日本)|農商務省]][[官僚]]）&lt;br /&gt;
: [[1894年]]（明治27年）[[10月12日]]生 - [[1976年]]（昭和51年）[[12月16日]]没&lt;br /&gt;
: 1920年（大正9年）、[[東京帝国大学]]法学部（現・[[東京大学法学部]]）[[法律学]]科（独法）卒業。[[農商務省 (日本)|農商務省]]（現・[[農林水産省]]）に入る。1942年（昭和17年）3月、[[水産庁|水産局]]長を最後に、農林省を退官。日本瓦斯用木炭株式会社社長に就任するが、終戦で会社は機能停止、1948年（昭和23年）1月に政府命令で閉鎖される。1976年（昭和51年）12月16日、肺に溜まった[[膿]][[漿液|漿]]による呼吸困難のため82歳で死亡。&lt;br /&gt;
: 農林省で梓の7年後輩の[[楠見義男]]によれば、「私は[[蚕糸]]局の繭糸課でしたが、平岡さんはすでに蚕業課に2年おられた。（中略）入って一か月くらいのとき僕は繭糸課長に呼ばれ“隣の課の平岡君はあまり仕事熱心でなく業務が滞りがちなので手伝ってやってくれんかね”と言われた」、「退庁時間が近づくとソワソワするような人だった。同期の[[岸信介|岸さん]]も“あいつは駄目だからなぁ”と放ってました」という&amp;lt;ref name=&amp;quot;inose&amp;quot;/&amp;gt;。一方、[[増村保造]]（三島が主演した映画『[[からっ風野郎]]』の監督）は映画完成後、三島邸に招待された際、梓から、「下手な役者をあそこまできちんと使って頂いて」と礼を言われ驚いたという。増村は三島に怪我をさせて申し訳ないと思っていたのに逆に礼を言われ、帰り道に、「明治生まれの男は偉い」と梓をほめていたという&amp;lt;ref name=&amp;quot;fujii&amp;quot;&amp;gt;[[藤井浩明]]「座談会 映画製作の現場から」（『三島由紀夫と映画 三島由紀夫研究2』）（鼎書房、2006年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
;; 祖父・[[橋健三]]（[[漢学者]]）&lt;br /&gt;
: [[1861年]]（[[万延]]2年）[[1月2日 (旧暦)|1月2日]]生 - [[1944年]]（昭和19年）[[12月5日]]没&lt;br /&gt;
: [[加賀藩]]士の父・[[瀬川朝治]]と母・ソトの間に二男として生まれ、[[武士]]の血をひく。健三は幼少より漢学者・[[橋健堂]]に学んだ。1873年（明治6年）、12歳のとき、学才を見込まれて健堂の三女・こうの[[婿養子]]となり、橋健三と名乗る。健三は14、5歳にして、養父の健堂に代わり、藩主・[[前田直行]]に講義を行うほどの秀才だったという。やがて健三は妻子を連れて上京し、[[小石川]]に学塾を開く。1888年（明治21年）、[[共立学校]]に招かれて漢文と倫理を教え、幹事に就任する。妻・こうの死亡により、健堂の五女・トミ（を後妻とした。1894年（明治27年）、学校の共同設立者に加わる。1910年（明治43年）、[[第二開成中学校]]（神奈川県[[逗子町]]）の分離独立に際して、健三は[[開成中学校・高等学校|開成中学校]]の第5代[[校長]]に就任した。校長を辞職後は、[[昌平高等学校 (1948-1969)|昌平中学]]（[[夜間中学]]）の校長として、勤労青少年の教育に尽力した。1944年（昭和19年）12月5日、故郷の金沢で84歳にて死亡&amp;lt;ref name=&amp;quot;hashike&amp;quot;&amp;gt;[[岡山典弘]]「三島由紀夫と橋家 もう一つのルーツ」（『三島由紀夫と編集 三島由紀夫研究11』）（鼎書房、2011年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
;; 伯父・[[橋健行]]（[[精神科医]]）（漢学者・橋健三の長男。倭文重の兄）&lt;br /&gt;
: [[1884年]]（明治17年）[[2月6日]]生 - [[1936年]]（昭和11年）[[4月18日]]没&lt;br /&gt;
: 健行は、[[開成中学校・高等学校|開成中学]]、[[第一高等学校 (旧制)|一高]]、[[東京帝国大学]]医科大学（現・東大医学部）[[精神医学]]科と進むが、常に首席であったという&amp;lt;ref group=&amp;quot;注釈&amp;quot;&amp;gt;斎藤茂吉は『回顧』のなかで、「橋君は、中学でも秀才であつたが、第一高等学校でもやはり秀才であつた。大学に入つてからは、[[解剖学]]の[[西成甫]]君、[[生理学]]の[[橋田邦彦]]君、[[精神学]]の橋健行君といふ按配に、人も許し、本人諸氏も大望をいだいて進まれた」と記している&amp;lt;/ref&amp;gt;。1925年（大正14年）、東大精神科の付属病院の東京府[[巣鴨病院]]（のちの[[松沢病院]]）の講師から副院長に就任。その後、1927年（昭和2年）、[[千葉医科大学]]（現在の[[千葉大学]]医学部）[[助教授]]に就任した。歌人の[[斎藤茂吉]]とは親友同士であった。1936年（昭和11年）4月18日、[[肺炎]]をこじらせ52歳で急逝する&amp;lt;ref name=&amp;quot;hashike&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
;; 母・[[平岡倭文重|倭文重]]（漢学者・橋健三の次女。加賀藩学問所・「壮猶館」教授・橋健堂の孫）&lt;br /&gt;
: [[1905年]]（明治38年）[[2月18日]]生 - [[1987年]]（昭和62年）[[10月21日]]没&lt;br /&gt;
: 倭文重の母・トミは、[[加賀藩]]学問所、「[[橋健堂#学問所「壮猶館」|壮猶館]]」教授・[[橋健堂]]の五女。橋家は[[加賀藩主]]・[[前田家]]に代々仕えた。倭文重は1922年（大正11年）、[[三輪田学園中学校・高等学校|三輪田高等女学校]]を卒業後、1924年（大正13年）4月19日、[[平岡梓]]と結婚。梓との間に、公威、美津子、千之の二男一女を儲ける。1987年（昭和62年）10月21日、[[心不全]]のため82歳で死亡。&lt;br /&gt;
;; 妹・[[平岡美津子|美津子]]&lt;br /&gt;
: [[1928年]]（昭和3年）[[2月23日]]生 - [[1945年]]（昭和20年）[[10月23日]]没&lt;br /&gt;
: [[聖心女子学院中等科・高等科|聖心女学院]]専門部在学中の1945年（昭和20年）10月10日、[[学徒動員]]で疎開されていた図書館の本の運搬作業中、菌を含んだなま水を飲んだのが原因で[[腸チフス]]を発病する。母・倭文重と三島が交代で看病するが、同月23日、大久保の避病院で17歳にて死亡。三島は号泣したという。&lt;br /&gt;
: [[三輪田学園中学校・高等学校|三輪田高等女学校]]時代の同級生に板谷諒子（[[湯浅あつ子]]の妹）、聖心女学院の同級生に[[紀平悌子|佐々悌子]]（[[佐々淳行]]の姉）がいた。美津子の死後、三島は佐々悌子と1947年（昭和22年）から1948年（昭和23年）頃&amp;lt;ref&amp;gt;[[紀平悌子]]「三島由紀夫の手紙」（[[週刊朝日]] 1974年12月13日号連載手記）&amp;lt;/ref&amp;gt;、板谷諒子とは1950年（昭和25年）から1951年（昭和26年）頃、親交を持つ&amp;lt;ref&amp;gt;解題・[[岸田今日子]]との対話「25周年 最後の秘話」（[[猪瀬直樹]]『ペルソナ 三島由紀夫伝』）（小学館、2001年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
;; 弟・[[平岡千之|千之]]（[[外交官]]）&lt;br /&gt;
: [[1930年]]（昭和5年）[[1月19日]]生 - [[1996年]]（[[平成]]8年）[[1月9日]]没&lt;br /&gt;
: 1954年（昭和29年）、[[東京大学法学部]][[政治学]]科卒業。同年、[[外務省]]に入省。[[フランス]]や[[セネガル]]など各国に駐在。1987年（昭和62年）3月31日、4月2日付で駐[[モロッコ]]大使に任命される。駐[[ポルトガル]]大使などを歴任した。引退後、1996年（平成8年）1月9日、[[肺炎]]のため65歳で死亡。&lt;br /&gt;
; 自家&lt;br /&gt;
;; 妻・[[平岡瑤子|瑤子]]（[[画家]]・[[杉山寧]]の長女）&lt;br /&gt;
: [[1937年]]（昭和12年）[[2月13日]]生 - [[1995年]]（平成7年）[[7月31日]]没&lt;br /&gt;
: [[日本女子大学]]英文科2年在学中の1958年（昭和33年）6月1日、三島と結婚（大学は2年で中退する）。三島との間に、紀子、威一郎の一男一女を儲ける。1995年（平成7年）7月31日、[[心不全|急性心不全]]のため58歳で死亡。&lt;br /&gt;
;; 長女・[[平岡紀子|紀子]]（[[演出家]]）&lt;br /&gt;
: [[1959年]]（昭和34年）[[6月2日]]生 - &lt;br /&gt;
: 1990年（平成2年）9月24日、冨田浩司（[[外交官]]）と結婚。富田との間に二女一男がいる。&lt;br /&gt;
;; 長男・[[平岡威一郎|威一郎]]（元[[実業家]]）&lt;br /&gt;
: [[1962年]]（昭和37年）[[5月2日]]生 -&lt;br /&gt;
: 映画の助監督を経て、1988年（昭和63年）9月9日、[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[銀座]]に宝飾店「アウローラ」を開店したが、後に閉店。映画『[[春の雪 (映画)|春の雪]]』、『三島由紀夫映画論集成』（ワイズ出版、1999年）の監修、編集に携わる。&lt;br /&gt;
;; 孫・[[マヒトゥ・ザ・ピーポー|真人]]（[[音楽家]]）&lt;br /&gt;
: [[1989年]]（平成元年）[[11月4日]]生 - &lt;br /&gt;
: ロックバンド[[下山 (バンド)|下山]]のギタリスト兼ボーカル。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 系譜 ==&lt;br /&gt;
=== 平岡家 ===&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;祖父・平岡定太郎の故郷、兵庫県[[加古川市]]志方地区&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
: 祖父・[[平岡定太郎|定太郎]]の[[本籍]]は、兵庫県[[印南郡]][[志方村]]上富木（現在の[[加古川市]]志方町上富木）で、その昔、まだ村と呼ばれていた頃、ここは[[農業]]、[[漁業]]、[[塩田]]が盛んであった。附近には[[景行天皇]]の皇后・[[播磨稲日大郎姫]]の[[御陵]]があり、その皇子・[[日本武尊]]の誕生の地という古代史上、意義のある地でもある。この地は古代において港であったので、[[三韓征伐]]の折、[[神功皇后]]が龍船を泊めた。皇后は野鹿の群が多いのを見て、この地を「鹿多」と呼んだ。のちに、この「鹿多」を「志方」と改めたというのが地名の由来である。1573年 - 1591年頃（[[天正]]の頃）[[櫛端左京亮]]が観音城（別名、志方城）を築城したため、港町から城下町となる。[[豊臣秀吉|秀吉]]の[[中国征伐]]にあたり、城主・櫛橋は、[[播磨国|東播]]の[[三木城]]主・[[別所長治]]と共に抗戦し落城した。このため多くの武士、学者は土着化し、城下町志方の様子は著しく変化したという&amp;lt;ref name=&amp;quot;etugu&amp;quot;&amp;gt;[[越次倶子]]『三島由紀夫 文学の軌跡』（広論社、1983年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。またこの地は地盤が強く震災の被害が少ないことから、[[関東大震災]]のあとに登場した[[遷都]]論で候補地の一つに挙がった&amp;lt;ref&amp;gt;[[今村均]]『今村均回顧録』（芙蓉書房出版、新版1993年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[阪神大震災]]のときも加古川流域はほとんど被害がなかったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;家系&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:“平岡”姓について、[[安藤武]]によれば、「平岡姓は平岡[[連]]、[[河内国]][[讃良郡]]枚岡郷（ひらおかごう）か、[[河内郡 (大阪府)|河内郡]]枚岡邑（ひらおかむら）より起こりしか。武士は出身地の[[名田]]の名から[[姓]]をつけたが[[明治維新]]後は農民もならい姓とした。津速魂一四世孫胴身臣の後継。『[[大和物語]]』で奈良猿沢の池に身投げをした猿沢采女は平岡の人。農民の平岡家も[[明治時代|明治]]になってから土地の名をとって、平岡姓を太左衛門（たざえもん）から名乗った」&amp;lt;ref name=&amp;quot;andou&amp;quot;&amp;gt;[[安藤武]]『三島由紀夫の生涯』（夏目書房、1998年）ISBN 4931391397&amp;lt;/ref&amp;gt;という。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 平岡家の[[菩提寺]]、真福寺は1652年（[[承応]]元年）の建立である。[[過去帳]]によれば、初代は1688年 - 1703年（[[元禄]]時代）の孫左衛門である。二代目は孫左衛門を襲名し、次は利兵衛が三代続く。その次は太左衛門（六代）、[[平岡太吉|太吉]]（七代）、[[平岡萬次郎|萬次郎]]（八代）となり、三島の祖父・[[平岡定太郎|定太郎]]は太吉（七代）の二男である。初代の孫左衛門には[[屋号]]として「しおや」（[[塩屋]]）と付いているという。志方は同じ兵庫県の[[赤穂市|赤穂]]に次いで塩田が盛んであった&amp;lt;ref name=&amp;quot;kakochou&amp;quot;&amp;gt;小野繁『平岡家系図解説』（1971年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。この屋号については、「三島由紀夫の無視された家系」（『[[月刊噂]]』1972年8月号）でも初代に屋号が付いているとされているが、 [[猪瀬直樹]]によれば、屋号の「しおや」は三代目・利兵衛のところに付いており、塩屋ではなく塩物屋であるという。これは三代目利兵衛（五代）のとき、農業のかたわら商売を始めたということだという&amp;lt;ref name=&amp;quot;inose&amp;quot;&amp;gt;[[猪瀬直樹]]『ペルソナ 三島由紀夫伝』（[[文藝春秋]]、1995年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:さらに、[[板坂剛]]によると、平岡家は当初、真福寺の近くの西神吉村宮前（現在の加古川市西神吉町宮前）に住んでいて、家はほとんど[[バラック|あばらや]]と呼んでいいくらいの粗末なものであったという。板坂剛は、｢住職夫人や、後で地元の教育関係者等から聞いた話では、宮前で店を構えていたのは酒屋一軒だけであり、その家は[[庄屋]]だった。平岡家の先祖がやっていたことは“塩屋”ではなく塩をまぶした魚介類等を仕入れて、路上で売り歩いた程度の小商いだった、ともいう。あるいは、塩そのものを販売していたとしても、当時の状況を考えれば、それは天秤棒の両端に二つの塩桶をぶら下げて運んでいた姿を想像した方が当たっているだろう｣&amp;lt;ref name=&amp;quot;itasaka&amp;quot;&amp;gt;[[板坂剛]]『極説・三島由紀夫』（夏目書房、1997年）&amp;lt;/ref&amp;gt;と述べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:「三島由紀夫の無視された家系」（『[[月刊噂]]』1972年8月号）によると、兵庫県の平岡家（[[平岡定太郎|定太郎]]の弟・久太郎の家）とは、父・[[平岡梓]]の代からほとんど[[絶縁]]状態で、三島は兵庫県[[加古川市]]にある平岡家の墓には生涯一度も参らなかったという。多くの作品でも三島は故郷をとりあげていない。このため、地元民の一部からは批判の声もあり、現地の三島に対する評価も高いものでないという&amp;lt;ref name=&amp;quot;uwasa&amp;quot;/&amp;gt;。兵庫の墓参りをしていなかったことについては、三島の祖父・定太郎の墓が東京にあったから足が遠のいたことも考慮されるが、[[猪瀬直樹]]は、三島が[[本籍]]での徴兵検査の際も、故郷の平岡家に立ち寄っていないことの理由については、梓のいとこにあたる平岡義一（久太郎の二男）が変わり者で奇行癖のあった（上半身裸、[[褌]]ひとつで歩き回ったり、暗い土蔵で[[春画]]を描くことに没頭していた）人物であったことに触れ、梓の配慮で三島と義一を会わせないようにしていたと述べている&amp;lt;ref name=&amp;quot;inose&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 三島は、[[近畿方言]]が嫌いであり、東京弁・共通語以外を用いた戯曲を嫌ってもいたいう。[[中村光夫]]宛ての1963年（昭和38年）9月2日の書簡では、「関西へ久々に来てみると、関西弁は全くいただけず、世態人情、すべて関西風は性に合はず、外国へ来たやうです。尤も、小生純粋の江戸ッ子でなく、祖父が[[播州]]ですから、同属嫌悪の気味があるのかもしれません」&amp;lt;ref name=&amp;quot;tegami&amp;quot;&amp;gt;『決定版 三島由紀夫全集第38巻・書簡』（[[新潮社]]、2004年）&amp;lt;/ref&amp;gt;と語っている。しかし、そうは言いつつも実際は、近畿地方が舞台で主人公が方言で話している芝居や小説は、『鰯売恋曳網』、『[[潮騒 (小説)|潮騒]]』、『[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]』、『絹と明察』など、いくつか書いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: かつて作家の[[杉森久英]]が編集者だった時に、｢われわれの仲間では三島由紀夫は[[貴族]]の出であると思い込んでいた。三島由紀夫に会ったとき『あなたは[[三島通庸|三島子爵]]の子孫ですか?』と聞いたところ三島は即座にこれを否定したが、自分の家柄というものは、そのへんのものではないのだということを暗に匂わせていた｣と述懐しているという&amp;lt;ref name=&amp;quot;uwasa&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: [[仲野羞々子]]（元[[産経新聞]]四国支社の記者で男性。仲野羞々子はペンネームであるという&amp;lt;ref name=&amp;quot;itasaka&amp;quot;/&amp;gt;）は、雑誌『[[農民文学]]』のなかで、「世間では三島のことを貴族だといい、貴族に間違いないことを信じている。本人もそれを信じ、敢えてそのようにふるまってきたところから、間違いがはじまっているように思えてならない。平岡三代目の彼は貴族であっても、初代の祖父定太郎は[[水呑百姓|貧農]]出身の成り上がり者であることを、彼は知りつくしておりながら、とことんまでそれをかくし通して、優雅な家系のように誇示したあとが気になる。胸の底にうごめく貧農[[コンプレックス]]を、貴族のポーズで克服しようとしたとしか思えないふしがある」&amp;lt;ref name=&amp;quot;noumin&amp;quot;&amp;gt;[[仲野羞々子]]「農民の劣等感 三島由紀夫の虚勢」（『[[農民文学]]』第九十三号、1971年2月号所載）&amp;lt;/ref&amp;gt;と述べている。このように仲野羞々子は、三島が兵庫県という自らのルーツを殊更に無視していると主張し、それは、夫の定太郎を忌み嫌っていた三島の祖母・[[永井なつ|夏子]]の影響が関係していると述べている&amp;lt;ref name=&amp;quot;noumin&amp;quot;/&amp;gt;。しかしその一方、仲野羞々子は、「三島の作品なんてほとんど読んでいない」&amp;lt;ref name=&amp;quot;noumin&amp;quot;/&amp;gt;とも述べている。三島は実際にはインタビューなどで、「私は血すぢでは[[百姓]]と[[サムライ|サムラヒ]]の末裔だが、仕事の仕方はもつとも勤勉な百姓である」&amp;lt;ref&amp;gt;三島由紀夫「フランスのテレビに初主演 文壇の[[若大将]]三島由紀夫氏」（[[毎日新聞]] 1966年3月10日に掲載）&amp;lt;/ref&amp;gt;と、はっきり述べており、祖先に百姓がいたことを隠してはいない。また、主な作品の主人公も、[[同性愛者]]、漁師、放火犯、殺人者、事務所の老小使、元芸者、料亭の女将、殉教者、魚の[[行商人]]、宝石泥棒、少年犯罪者、[[テロリスト]]などで、その作風も特に[[貴族階級]]賛美の傾向でもなく、三島自身が貴族のポーズで貧農コンプレックスを克服していたというような単純な作家傾向とは言えない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;曽祖父・平岡太吉&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
: [[平岡太吉|太吉]]（七代）の子は、[[平岡萬次郎|萬次郎]]、[[平岡定太郎|定太郎]]、[[平岡久太郎|久太郎]]の3人の息子と、娘・むめである。三島の自決に衝撃を受けた父[[平岡梓|梓]]は急に思い立って自らの[[家系]]を調査する気になるが、ただし自分ではやらずに従弟の小野繁に託した&amp;lt;ref name=&amp;quot;inose&amp;quot;/&amp;gt;。小野繁は定太郎の妹むめの息子である&amp;lt;ref name=&amp;quot;inose&amp;quot;/&amp;gt;。小野繁はただちに志方町へ赴き菩提寺の住職から[[過去帳]]を閲覧させてもらい、郷土史なども集め、翌年2月、手書きの報告書にまとめ、報告書は控えを取ったうえで梓へ送られた&amp;lt;ref name=&amp;quot;inose&amp;quot;/&amp;gt;。小野繁が住職から聞き出してまとめた報告書には定太郎の父親太吉（七代）の人物像は次のように記されている&amp;lt;ref name=&amp;quot;inose&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::「平岡太吉は裕福な[[地主]]兼[[農家]]で、田舎ではいわゆる風流な知識人で腰には[[矢立]]を帯び[[短冊]]を持ち歩いた」、「萬次郎、定太郎両名を[[明石]]の[[橋本関雪]]の[[岳父]]の漢学習字の塾に入れ勉学させ、次いで[[東京|東都]]へ遊学させた」、「太吉の妻（つる）もすこぶる賢夫人として土地では有名であった」&amp;lt;ref name=&amp;quot;inose&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 太吉の孫の嫁（久太郎の二男・平岡義一の妻）である平岡りきによると、太吉は幼少（5、6歳）の頃に、[[領主]]から禁じられていた[[鶴]]（一説には[[雉子]]）を射ったため、一家に“[[所払い]]”が命じられ、志方村上富木へ移り住んだという&amp;lt;ref name=&amp;quot;uwasa&amp;quot;&amp;gt;「三島由紀夫の無視された家系」（[[梶山季之]]責任編集『[[月刊噂]]』1972年8月号所載）&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、板坂剛によると、成長した太吉は[[金融業|金貸し業]]で成功し、さらには畑仕事を一手に引き受けていた妻・つるの農業的な才覚やアイデア（果実の栽培の成功）により、平岡家に莫大な利益がもたらしたという&amp;lt;ref name=&amp;quot;itasaka&amp;quot;/&amp;gt;。[[野坂昭如]]は太吉について、「所払い以後、にわかに顕（あら）われた太左衛門の才覚は、太吉に継がれた。（中略）農作業は妻にゆだね、太吉は商いと金貸しに打こんだ。丹精こめて作物を育てるより、これを扱って利ざやを稼ぐ、父より手広く金融業を営み、[[安政]]四年、太左衛門が病に臥すと、二十数年間[[バラック|掘立小屋]]につぎはぎして暮した住いを、近隣の眼をそばだてしめる[[豪邸]]に建て直した」&amp;lt;ref name=&amp;quot;nosaka&amp;quot;&amp;gt;[[野坂昭如]]『赫奕たる逆光 私説・三島由紀夫』（文藝春秋、1987年）&amp;lt;/ref&amp;gt;と述べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;「赤門事件」と「豪農“塩屋”」の真相&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:三島の父・[[平岡梓]]は、自著『倅・三島由紀夫』において、「僕の家は、[[家系図]]を開けば、なるほど父方は百姓風情で[[御守殿|赤門]]事件という反体制的のことをやらかして、お上に痛い目に会うし…」&amp;lt;ref name=&amp;quot;azusa&amp;quot;&amp;gt;平岡梓『倅・三島由紀夫』（文藝春秋、1972年）&amp;lt;/ref&amp;gt;と述べている。志方町中央[[農業協同組合|農協組合]]の元組合長の好田光伊によると、赤門事件とは、[[加賀藩|加賀]]の[[前田家]]が[[徳川将軍家|徳川将軍]]から姫君を迎えるにあたって上屋敷の正門に赤い門を構えたが、平岡太左衛門はこれを真似て、[[菩提寺]]の真福寺に赤門を寄進し、それはほんのしるし程度のものであったが、この行為が“お上をおそれぬ、ふとどきもののおこない”として[[所払い]]になったという昔からのいい伝えの話だという&amp;lt;ref name=&amp;quot;jyuurou&amp;quot;&amp;gt;[[福島鋳郎|福島鑄郎]]『再訂資料・三島由紀夫』（朝文社、2005年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: しかし、『月刊噂』は、「この梓の発言はいささか反骨の家系であることを胸を張っていう口吻（こうふん）が感じられるが、これを事実だと信じることはできない。梓のいとこ・平岡義一の妻りきの記憶によれば、赤門事件など聞いたおぼえもなく、『太左衛門の息子である太吉が、領主から禁じられている鶴を射った。その行為が表沙汰になって“所払い”を命じられた』というものだった。また梓は『平岡家も田舎の[[豪農]]“塩屋”としての誇りを堅持していた』&amp;lt;ref name=&amp;quot;azusa&amp;quot;/&amp;gt;と書いているがこれも事実ではない。“反骨の赤門事件”といい、“豪農塩屋”といい、三島由紀夫亡きあとにつくられた家系としかいいようがない」&amp;lt;ref name=&amp;quot;uwasa&amp;quot;/&amp;gt;という主張している。また、[[野坂昭如]]は、「“しおや”の屋号があって不思議はない。元禄以前から[[印南郡]]の南は、一帯が[[塩田]]だった。（中略）[[播磨国|播磨]]の塩は“花塩”といい、特に珍重された。だが“塩屋”を“豪農”とするのは無理。“折ふしは塩屋まで来る物もらひ”と路通の句があるが、粗末な小屋、苫屋（とまや）の謂（い）い、誇るに足る屋号ではない。“塩屋まで”は、貧しい塩屋までもの意味」&amp;lt;ref name=&amp;quot;nosaka&amp;quot;/&amp;gt;だと述べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:『月刊噂』の赤門事件否定に対し、平岡梓から直接その伝承話を聞いたことがあるという[[越次倶子]]は、実際にその事件があったかどうかは、真福寺に赤門寄進の記録がないため事実であるかは真偽不明だが、「三島も幼い時からそういった伝承話を耳にしていたにちがいない」、「赤門事件を起こした太左衛門という高祖父がいた、と三島の意識に刻まれていたと思われる」&amp;lt;ref name=&amp;quot;etugu&amp;quot;/&amp;gt;という見解を示している。また、「今の時代、昔[[平民]]であっても[[士族]]であっても、それを問題にすることはどんな場合でもなかろう。家系を追求することを仕事にしたり、研究対象にしている一握の人々にとっては大問題であろうが。“豪農塩屋”と“反骨精神の太左衛門”は平岡家に語り伝えられた事柄かもしれないが、三島が父方の高祖父をそう理解していたことは事実のようである」&amp;lt;ref name=&amp;quot;etugu&amp;quot;/&amp;gt;と述べている。また、[[板坂剛]]は、この赤門事件は祖父・定太郎の創作で、それが梓に信じられ、またその子の三島にも伝えられたと推測している&amp;lt;ref name=&amp;quot;itasaka&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;平岡家部落民説&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
: 平岡家の本来の居住地は志方村ではなく、平岡太左衛門（六代）までは西神吉村だったが、『月刊噂』によると、志方村に移住したそもそもの理由は、三島の曽祖父・[[平岡太吉]]が幼少の頃、[[領主]]から禁じられている[[鶴]]を射るという不祥事を起こし、“所払い”にされたためだという。また52頁では、「岡住職は[[過去帳]]から平岡家の祖をたどった結果、およそ二百五十年間つづいた家だと判明したという。真福寺で明らかにされた平岡家の先代はまず[[元禄]]時代の“孫左衛門”から始まっている。しばらくは[[姓]]がなく（中略）以後はじめて平岡太左衛門、平岡太吉とつづくのである。過去帳には名前のそばに“[[非人]]”、“非人の子”、“番人”、“水番”という汚名の肩書もついているが、平岡家の初代である“孫左衛門”の肩にはもちろんそんな濁点は付されていない。記されているものは”しおや”という[[屋号]]のようなものである。（中略）初代の“孫左衛門”の俗名に“しおや”の肩書きが付されている以外は、太左衛門にいたるまでの戒名はすべて一般の農民と同程度の[[身分]]を示している。“ごくふつうの百姓だったのですよ”と岡住職はきっぱりと断言している」&amp;lt;ref name=&amp;quot;uwasa&amp;quot;/&amp;gt;と、主張している。しかし、この屋号に関して猪瀬直樹は、屋号の「しおや」は三代目・利兵衛のところに付いていると述べている&amp;lt;ref name=&amp;quot;inose&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: [[安藤武]]によると、平岡家[[部落民]]説は、三島が[[杉山瑤子]]と結婚した時にも問題となり、一度は杉山家が結婚解消を申し出たこともあるとされ、父・梓がこの風説を断固として否定し、結局、梓が志方町に赴いて杉山家に戸籍を確認させ、東京都[[目黒区]]に本籍を移すことで決着がついているという&amp;lt;ref name=&amp;quot;andou&amp;quot;/&amp;gt;。しかし一方、見合いの仲人をした[[湯浅あつ子]]によると、杉山瑤子との結婚の際、特に名門の家柄ではない杉山家が平岡家の家系のことで結婚解消を申し出たことも、家系調査を依頼した事実もなく、実際には、見合い後に縁談を断っていたのは三島の方であったという&amp;lt;ref name=&amp;quot;hitamen&amp;quot;&amp;gt;[[岩下尚史]]『ヒタメン 三島由紀夫が女に逢う時…』（雄山閣 、2011年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、[[本籍]]を東京に移したという件については、[[三島事件]]の[[警視庁]]調査報告書の中の、被疑者・平岡公威（三島由紀夫）の本籍地の欄には兵庫県印南郡上富木と記されているという&amp;lt;ref name=&amp;quot;date&amp;quot;&amp;gt;[[伊達宗克]]編『裁判記録「三島由紀夫事件」』（[[講談社]]、1972年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: [[福島鋳郎|福島鑄郎]]の『資料・三島由紀夫』（1982年版）によると、真福寺の過去帳には「知られたくないものが書かれてあった」、「それぞれの祖先の肩書きには、とうてい文字にして書き表せないような汚名が書きしるされているからである」&amp;lt;ref&amp;gt;[[福島鋳郎|福島鑄郎]]『資料・三島由紀夫』（双柿舎、1982年増補改訂版）&amp;lt;/ref&amp;gt;と、推測されていたが、この福島鑄郎の見解に対して[[村松剛]]は、平岡梓の言い分を裏付ける次のような反論を述べている。「問題の平岡家の過去帳は、三島研究家の越次倶子が真福寺（平岡家の菩提寺である[[曹洞宗]]真福寺）に行って調べ、写真にもとって来ている。これで見るかぎり、“文字にして書き表せないような”ことばなどどこにも出て来ない。（中略）福島鑄郎は実際には過去帳を見たことがなく、何かの思いちがいからこんな断定的な文章を書いてしまったらしい。越次倶子は平岡家の[[壬申戸籍]]の写しも昭和三十九年（1964年）ころに入手していて、これによっても格別変わった箇所は見あたらない。もしも定太郎の出自に何らかの問題があったら、[[差別]]意識がきわめてつよかった明治の中期に、夏子との結婚は成立しなかったろう。（中略）いまとちがって身許の調査はきびしく行われた」&amp;lt;ref name=&amp;quot;muramatu&amp;quot;/&amp;gt;と述べ、いずれの資料も平岡家が被差別[[階級]]に属していたことを示す内容ではなかったという見解を示している。後に[[安藤武]]は[[曹洞宗]]青龍山真福寺の過去帳を、実地に検証しこれらの情報の真偽を確かめようとしたが、そのときは真福寺住職の西超三が過去帳の公開を拒んだため、ついに真相は不明のままたったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: しかし、[[板坂剛]]は[[村松剛]]を批判し、「村松が切り札のように持ち出している越次倶子の写真の件だが、私はこれを信用することができない。というのも差別問題に関係する家系には、複数の過去帳が存在すると言われているからだ。もともと過去帳が家系を美化するためのものであるのなら、&#039;&#039;さしさわりのある&#039;&#039;部分を残した過去帳とは別の&#039;&#039;さしさわりのない&#039;&#039;ように書き換えられたものが存在するのも当然である。そして、外部の人間に写真を撮らせるようなことがあったとしたら、それが&#039;&#039;さしさわりのある&#039;&#039;ものであったはずがないのだ」&amp;lt;ref name=&amp;quot;itasaka&amp;quot;/&amp;gt;と述べている。また板坂剛は、地元の噂に平岡家の祖先が“[[刑場]]の役人の下働き”をしていたというものがあることに触れているが、「平岡家の祖先が“刑場の役人の下働き”をしていた、といってもそれが即、“被差別部落民だった”ということに繋がるわけではない」&amp;lt;ref name=&amp;quot;itasaka&amp;quot;/&amp;gt;という意見も同時に述べている。真福寺の住職夫人も、「どうして差別が生まれたのか、私らには理解できんですね。その地域の出身の人の方が、優秀な人が多いみたいですしね」と語っているという。また、この件についての様々な憶測に対して、住職夫人は、「ただ名前が書いてあるだけですよ。他には何も書いてないですよ。いろんなことを言う人がいますけどね」&amp;lt;ref name=&amp;quot;itasaka&amp;quot;/&amp;gt;と述べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 近年、過去帳を見ることができた[[福島鋳郎|福島鑄郎]]は、新版の『再訂資料・三島由紀夫』（2005年版）の中で、平岡姓は四代目利兵衛から名のっているとし、「仲野羞々子が言うような情報は見つからなかった」、「刑場の役人の下働きをしていたという地元の噂であるが、根拠については定かでない。ただ、事件と何かを結びつけたいという心理がそうさせたともうかがえる。いずれにしても平岡家の代になってからは何事もない」&amp;lt;ref name=&amp;quot;jyuurou&amp;quot;/&amp;gt;と述べている。また、「（赤門事件が本当なのか、鶴を射った話の方が本当なのかは判らないが）いずれにせよ、“おかみをおそれぬ行為”は、三島由紀夫の血の中に受けつがれていった」&amp;lt;ref name=&amp;quot;jyuurou&amp;quot;/&amp;gt;という見解を示している。なお板坂剛は、福島鑄郎が唯一、仲野羞々子に直接取材したことのある三島研究者だと著書で書いていたが、福島鑄郎は仲野羞々子からは直接事情を聞くことができなかったと書いている。福島鑄郎が直接取材できたのは、『農民文学』に登場する志方町農協組合の元組合長である&amp;lt;ref name=&amp;quot;jyuurou&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 平岡家系図&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;font-size:80%&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{familytree/start}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1|1mago|-|2mago|-|1rihe|-|2rihe|-|3rihe|-|hitaz|.|1mago=初代孫左衛門|2mago=2代目孫左衛門|1rihe=初代利兵衛|2rihe=2代目利兵衛|3rihe=3代目利兵衛|hitaz=太左衛門}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | |,|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|&#039;}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | |`|hitak|,|himan|,|hikot| | | | | | | | | |hitak=[[平岡太吉|太吉]]|himan=[[平岡萬次郎|萬次郎]]|hikot=こと}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | |}|-|(| |}|-|(| | | |,|hikim|,|tonor| |hikim=&#039;&#039;&#039;公威（三島由紀夫）&#039;&#039;&#039;|tonor=[[平岡紀子|紀子]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | |hitsu|!|hihis|`|himas|!| |}|-|(| | | | |hitsu=寺岡つる|hihis=桜井ひさ|himas=[[平岡萬寿彦|萬壽彦]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | |)|hisad| | | | |!|hiyou|`|hiiic| |hisad=[[平岡定太郎|定太郎]]|hiyou=[[平岡瑤子|杉山瑤子]]|hiiic=威一郎}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | |!| |}|-|-|hiazu|+|himit| | | | | |hiazu=[[平岡梓|梓]]|himit=[[平岡美津子|美津子]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | |!|hinat| | | | |`|hichi| | | | | |hinat=[[平岡なつ|永井なつ]]|hichi=[[平岡千之|千之]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | |!| | | |,|hiyos| | | | | | | | | |hiyos=義夫}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | |)|hikyu|(| | | | | | | | | | | | |hikyu=久太郎}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | |!| | | |`|higii| | | | | | | | | |higii=義一}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | |`|tamum|,|tayoy| | | | | | | | | |tamum=むめ|tayoy=義之}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | | | |}|-|+|tayoa| | | | | | | | | |tayoa=義顕}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | | |tatoy|)|tashi| | | | | | | | | |tatoy=田中豊蔵|tashi=繁}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |`|tagii| | | | | | | | | |tagii=儀一}}&lt;br /&gt;
{{familytree/end}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;br/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;font-size:80%&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{familytree/start}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | | |suyas|-|hiyou|,|tonor|suyas=[[杉山寧]]|hiyou=[[平岡瑤子|瑤子]]|tonor=[[平岡紀子|紀子]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | |hisad| | | | | | |}|-|(| | | |hisad=[[平岡定太郎]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | |}|-|-|hiazu|,|hikim|`|hiiic|hiazu=[[平岡梓]]|hikim=&#039;&#039;&#039;平岡公威（三島由紀夫）&#039;&#039;&#039;|hiiic=平岡威一郎}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1|naiwa|-|hinat| | |}|-|+|himit| | | | |naiwa=[[永井岩之丞]]|hinat=[[平岡なつ|なつ]]|himit=[[平岡美津子|美津子]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | |haken|-|hishi|`|hichi| | | | |haken=[[橋健三]]|hishi=[[平岡倭文重|倭文重]]|hichi=[[平岡千之]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | | | |:| | | | | }}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | |kosab|-|koshi|,|hinat| | | | |kosab=近藤三郎|koshi=近藤晋一|hinat=夏美}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | | | |}|-|(| | | | | | | }}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | |,|kosum|`|sakum| | | | |kosum=寿美|sakum=久美}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | |!| | | | | |:| | | | | }}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | |!| | | | |satos| | | | |satos=斎木俊男}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | |tatoh|(| | | | | | | | | | | |tatoh=14代目竹中藤右衛門}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | |)|takoh|-|tayuu| | | | |takoh=竹中宏平|tayuu=竹中祐二}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | |!| | | | | |:| | | | | }}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | |`|taren|,|takim| | | | |taren=[[竹中錬一]]|takim=公子}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | | | |:| |!| | | | | | | }}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | |yomit|-|takaz|)|namar|,|naeik|yomit=[[米内光政]]|takaz=和子|namar=まる子|naeik=[[影木栄貴|栄子（影木栄貴）]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |!| |}|-|(| | | }}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | | |tanob|(|natak|`|nadai|tanob=[[竹下登]]|natak=[[内藤武宣]]|nadai=[[DAIGO|内藤大湖（DAIGO）]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |!| | | | | | | }}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |`|kakaz| | | | |kakaz=一子}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | | | |:| | | | | }}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | | |kashi|-|kayas| | | | |kashi=[[金丸信]]|kayas=金丸康信}}&lt;br /&gt;
{{familytree/end}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 永井家 ===&lt;br /&gt;
[http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tk_nagai.html 永井氏系譜（武家家伝）]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[安藤武]]『三島由紀夫「日録」』（未知谷）、7-8頁によると、｢（三島は『[[花ざかりの森]]』で）祖母[[平岡なつ]]の祖父[[永井尚志]]を武家の血縁とし、なつの行儀見習先の[[有栖川宮熾仁親王]]宅を[[公家]]と表現している」&amp;lt;ref name=&amp;quot;nichiroku&amp;quot;&amp;gt;安藤武『三島由紀夫「日録」』（未知谷、1996年）&amp;lt;/ref&amp;gt;という。ちなみに『花ざかりの森』では、「わたしはわたしの憧れの在処を知つてゐる。憧れはちやうど川のやうなものだ。川のどの部分が川なのではない。なぜなら川はながれるから。きのふ川であつたものはけふ川ではない。だが川は永遠にある。ひとはそれを指呼することができる。それについて語ることはできない。わたしの憧れもちやうどこのやうなものだ、そして祖先たちのそれも。 珍しいことにわたしは武家と公家の祖先をもつてゐる。そのどちらのふるさとへ赴くときも、わたしたちの列車にそうて、美くしい河がみえかくれする」と、表現されているが、この作品は自伝小説というわけではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[File:Nagai naoyuki.jpg|thumb|200px|right|&amp;lt;center&amp;gt;[[永井尚志]]&amp;lt;/center&amp;gt;]]&lt;br /&gt;
[[平岡なつ|夏子]]の祖父・[[永井尚志]]は、[[松平乗真]]（[[奥殿藩]]初代城主）から五代[[松平乗尹|乗尹]]の子として[[1806年]]（文化3年）[[11月3日 (旧暦)|11月3日]]に誕生。尚志は父の晩年に生まれた息子であった。すでに[[家督]]（六代）を養子[[松平乗羨|乗羨]]に定めた後に生まれた。[[1840年]]（[[天保]]11年）、25歳の時、[[永井尚徳]]の養子となった。[[1854年]]（[[安政]]元）に[[長崎海軍伝習所]]の総監理（所長）として[[長崎]]に赴き、[[長崎製鉄所]]の創設に着手するなど活躍した。[[徳川幕府]]海軍創設に甚大な貢献をなし、[[1855年]]（[[安政]]2年）、[[従五位|従五位下]]・[[玄蕃寮|玄蕃頭]]に叙任。[[1860年]]（安政5年）7月に[[外国奉行]]、[[1861年]]（安政6年）2月に[[軍艦奉行]]、[[1862年]]（[[文久]]2年）8月に[[京都町奉行]]となる。京摂の間、[[坂本龍馬]]等志士とも交渉を持った。[[1864年]]（[[元治]]元年）に[[大目付]]。[[1867年]]（慶応3年）に[[若年寄]]。[[1868年]]（慶応4年）8月、[[榎本武揚]]と共に[[函館]]に走り、[[函館]]奉行となる。維新後は、[[1875年]]（明治8年）に[[元老院 (日本)|元老院]]権大書記官。1891年（明治24年）7月1日没、享年76。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
尚志の孫・[[大屋敦]]（[[平岡なつ|夏子]]の弟。元[[住友財閥|住友]]本社理事、[[日本銀行政策委員会|日銀政策]]委員）は、祖父・[[永井尚志]]について『[[私の履歴書]]』（[[日本経済新聞]] 1964年に連載）の中で、「[[軍艦奉行]]として日本海軍の創設者であったゆえをもって、[[烏帽子]]に[[直垂]]といったいでたちの写真が、元の[[海軍記念館]]に飾られていたことを記憶している。（中略）そういう波乱に富んだ一生を送った祖父は、政治家というより、[[文人]]ともいうべき人であった。[[徳川慶喜]]公が[[大政奉還]]する際、その[[奏上]]文を草案した人として名を知られている。[[勝海舟]]なども詩友として祖父に兄事していたため、私の昔の家に、海舟のたくさんの遺墨のあったことを記憶している」&amp;lt;ref name=&amp;quot;ooya&amp;quot;&amp;gt;『[[私の履歴書]] 第22集』（[[日本経済新聞社]]、1964年）、『私の履歴書 経済人7』（日本経済新聞社出版局、1980年）&amp;lt;/ref&amp;gt;と語っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永井亨（夏子の弟。[[経済学]][[博士]]）によると、祖父・尚志は京都では守護職の[[松平容保]]（[[会津]]藩主）の下ではたらき、[[近藤勇]]、[[土方歳三]]以下の[[新撰組]]の面々にも人気があったという&amp;lt;ref name=&amp;quot;touru&amp;quot;&amp;gt;『永井亨博士回顧録 思い出話』&amp;lt;/ref&amp;gt;。尚志の晩年については、「向島の[[岩瀬忠震|岩瀬肥後守]]という、若くして死にましたが偉い人物がおりました。その人の別荘に入り、その親友の岩瀬を邸前に祭って死ぬまで祀をたたず、明治二十四年七月一日に七十六歳で死んでおります。私は数え年十四の年でしじゅう遊びに参っておりましたのでよく覚えております」&amp;lt;ref name=&amp;quot;touru&amp;quot;/&amp;gt;と語っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三島は映画『[[人斬り (映画)|人斬り]]』（監督・[[五社英雄]]）に[[薩摩藩]]士・[[田中新兵衛]]の役で出演した際のことを、[[林房雄]]宛の書簡（1969年6月13日付）の中で、「明後日は大[[殺陣]]の撮影です。新兵衛が腹を切つたおかげで、不注意の咎で[[閉門]]を命ぜられた永井[[主水正]]の[[玄孫|曾々孫]]が百年後、その新兵衛をやるのですから、先祖は墓の下で、目を白黒させてゐることでせう」&amp;lt;ref name=&amp;quot;tegami&amp;quot;/&amp;gt;と記している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[平岡なつ|夏子]]の父・[[永井岩之丞]]は、[[1846年]]（[[弘化]]2年9月）、永井家一族の[[幕臣]]・三好山城守幽雙の二男として生まれ、[[永井尚志]]の[[養子]]となる。[[水戸]]の[[支藩]]・[[宍戸藩]]の[[藩主]]・[[松平頼位]]の三女・松平鷹（のちに高）と結婚し、六男六女を儲ける。松平高の母は佐々木氏の娘で、松平頼位の[[側室]]であった。[[新門辰五郎]]の姪でもある。岩之丞は[[戊辰戦争]]では、父・[[永井尚志]]と共に品川を脱出し、[[函館]]の[[五稜郭]]に立て籠もり、共に戦う。維新後、[[1873年]]（明治6年）7月に[[司法省]]十等出仕を命ぜられ、[[1880年]]（明治13年）5月に[[判事]]。[[1883年]]（明治16年）1月に[[控訴院]][[判事]]。[[1894年]]（明治27年）4月に[[大審院]][[判事]]となる。1907年（明治40年）5月25日に没、享年62。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父・[[永井岩之丞]]について、六男・[[大屋敦]]は、｢父は融通など全くきかぬ厳格そのもののような人だった。子供の教育については、なにひとつ干渉しなかったが日常の起居は古[[武士]]のようであぐらなどかいた姿を、ただの一度も見たことはなかった。当時の[[判事]]は[[行政官]]に比べるときわめて簿給で、それで十二人の子女を養わねばならなかったから、当然清貧であった。私どもと同じ[[上野桜木町]]に住む父の実弟[[三好晋六郎]]は日本の造船界黎明期の[[権威]]者で、[[東京大学|東京帝大]]の[[教授]]であり、産業界にも深いつながりを持っていた関係で、今の大学の先生など想像のできぬ豊かな暮らしをしていたが、兄弟仲はすこぶるむつまじかったようである」&amp;lt;ref name=&amp;quot;ooya&amp;quot;/&amp;gt;と語っている。母・高については、「私の母の生まれた家もやはり小大名で、[[徳川斉昭|水戸烈公]]の弟の家であります。長兄松平大炊頭、[[松平頼徳|頼徳]]は有名な[[武田耕雲斎]]の[[天狗党の乱|乱]]のときに幕府から[[切腹]]を仰せつかり、家系ともどもみな切腹してしまいました。私の母は、家は貧しかったのでありますが、そこの家の娘として育って、十六歳ぐらいのころに私のおやじのところへ嫁に参りまして、その間に初めて十二人の子供ができたのであります。（中略）そんな訳で、母は水戸の[[宍戸藩]]の[[藩主]]の家でありますが、私の血筋には[[江戸っ子]]と[[水戸]]っ子の両方が伝わっておるのであります」、「かように母の家は格式は高いが小藩で、維新後は貧乏[[華族]]の一つであった。（中略）十二人の子を産み、貧乏暮らしに一生を終わった。母はそういうことをうらみにも思わず、不平もこぼさず、父なき後は、たくさんの子供たちとその友だちにかこまれ、[[関東大震災]]後、[[上野東照宮]][[社務所]]の一室で安らかに世を去った」&amp;lt;ref name=&amp;quot;ooya&amp;quot;/&amp;gt;と語っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 永井家系図&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;font-size:80%&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{familytree/start}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | | | | | |,|tayos|-|tamas| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |tayos=[[平良将|良将]]|tamas=[[平将門|将門]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1|katen|-|kazra|-|takam|-|tatak|(| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |katen=[[桓武天皇]]|kazra=[[葛原親王]]|takam=[[高見王]]|tatak=[[平高望]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | | | | | |`|tayok|-|takim|-|tachr|-|tachk|-|tachb|-|osgyo|.| | | |tayok=[[平良兼|良兼]]|takim=[[平公雅|公雅]]|tachr=[[平致頼|致頼]]|tachk=致経|tachb=致房|osgyo=長田行致}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | |,|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|&#039;| | | }}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | |`|osmas|-|6dary|-|osnao|-|oshak|-|osshi|7| | | | | | | | | | | | | | | | | | | |osmas=政俊|6dary=（6代略）|osnao=直重|oshak=白広|osshi=重広}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1|goten|-|muney|-|okiyo|-|yoshi|-|ohnob|-|ohsad|i|oshir|-|osshi|.| | | | | | | | | | | |goten=[[後醍醐天皇]]|muney=[[宗良親王]]|okiyo=[[興良親王]]|yoshi=良王|ohnob=大橋信重|ohsad=定広|oshir=広正|osshi=重元}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | |,|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|&#039;| | | | | | | | | | | }}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | |!|yurih| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |yurih=由利姫}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | |!| |}|-|-|namas|-|nanao|-|naman|-|namah|-|namts|-|5dary|~|namta|-|nakyu|-|nakaf|namas=正直|nanao=直隆|naman=正似|namah=正治|namts=正次|5dary=（5代略）|namta=匡威|nakyu=[[永井久一郎|匡温]]|nakaf=[[永井荷風|壮吉（荷風）]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | |`|nanao| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |nanao=[[永井直勝]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | |}|-|-|nanam|-|nants|-|nanta|-|nahit|-|nashj|-|nanto|-|nanan|~|nanay|7| | | |nanam=[[永井尚政|尚政]]|nants=[[永井尚庸|尚庸]]|nanta=[[永井直敬|直敬]]|nahit=尚方|nashj=尚恕|nanto=尚友|nanan=尚徳|nanay=[[永井尚志|尚志]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1|abmas|-|abmus|F|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|J| | | |abmas=[[阿部正勝]]|abmus=女}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | |L|naiwa|,|nasou| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |naiwa=[[永井岩之丞|岩之丞]]|nasou=壮吉}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | | | |}|-|+|hinat| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |hinat=[[平岡なつ|なつ]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | | |natak|!| |}|-|-|hiazu|-|hikim| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |natak=高|hiazu=[[平岡梓]]|hikim=&#039;&#039;&#039;平岡公威（三島由紀夫）&#039;&#039;&#039;}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |!|hisad| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |hisad=[[平岡定太郎]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |)|natoh| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |natoh=亨}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |)|nahir| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |nahir=啓}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |)|nashi| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |nashi=繁}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |)|ohats| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |ohats=[[大屋敦]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |)|nakan| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |nakan=鐘}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |)|nagai| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |nagai=愛}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |)|nachi| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |nachi=千恵}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |)|nakiy| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |nakiy=清子}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |`|nafum| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |nafum=文子}}&lt;br /&gt;
{{familytree/end}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 永井尚志系図&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;font-size:80%&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{familytree/start}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1|fukam|-|fufuh|-|fufus|-|18dai|-|hosuk|-|27dai|.|fukam=[[藤原鎌足]]|fufuh=[[藤原不比等|不比等]]|fufus=[[藤原房前|房前]]|18dai=（18代略）|hosuk=本多助秀|27dai=（27代略）}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | |,|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|&#039;}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | |!| | | | | | | | | | | |,|manot|-|manoy| |manot=[[松平乗友|乗友]]|manoy=[[松平乗羨|乗羨]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | |`|manos|-|mamin|-|manoy|(| | | |,|musum| |manos=[[松平乗真]]|mamin=[[松平盈乗|盈乗]]|manoy=[[松平乗穏|乗穏]]|musum=女}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | | | | | |`|manot|+|musum| |manot=[[松平乗尹|乗尹]]|musum=女}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | | | | | | | | | |`|nanao| |nanao=[[永井尚志]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree/end}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 永井岩之丞系図&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;font-size:80%&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{familytree/start}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1|katoh|-|ognag|-|ognaf|-|22dai|-|miyuu|j|naiwa|katoh=[[加賀美遠光]]|ognag=[[小笠原長清]]|ognaf=[[小笠原長房|長房]]|22dai=（22代略）|miyuu=三好幽雙|naiwa=[[永井岩之丞|岩之丞]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | | | | | | |nanao|J| | | |nanao=[[永井尚志]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree/end}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 松平家系図&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;font-size:80%&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{familytree/start}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | |,|tohid|-|toiem|-|toiet|~|totsu|~|9dair|~|toyos|tohid=[[徳川秀忠|秀忠]]|toiem=[[徳川家光|家光]]|toiet=[[徳川家綱|家綱]]|totsu=[[徳川綱吉|綱吉]]|9dair=（九代略）|toyos=[[徳川慶喜|慶喜]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1|toiey|+|toyos|,|mayos| | | | | | | | | | | | | | | | |toiey=[[徳川家康]]|toyos=[[徳川義直|義直]]|mayos=[[松平頼重]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | |)|toyon|)|tomit| | | | | | | | | | | | | | | | |toyon=[[徳川頼宣|頼宣]]|tomit=[[徳川光圀|光圀]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | |`|toyof|+|mayom| | | | | | | | | | | | | | | | |toyof=[[徳川頼房|頼房]]|mayom=[[松平頼元]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | |)|mayot| | | | | | | | | | | | | | | | |mayot=[[松平頼隆]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | |)|mayto|j|mayom|-|mayon|-|mayot|7| | | |mayto=松平頼利|mayom=[[松平頼道|頼道]]|mayon=[[松平頼慶|頼慶]]|mayot=[[松平頼多|頼多]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | |`|mayoo|J| | | | | | | | | | | |:| | | |mayoo=[[松平頼雄 (宍戸藩主)|松平頼雄]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | |F|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|J| | | }}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | |:| | | |,|mayoy|~|mayok|,|nasou| | | | | | | | |mayoy=[[松平頼敬|頼敬]]|mayok=[[松平頼かた|頼筠]]|nasou=壮吉}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | |L|mayos|+|ohsuk|,|mayon|)|hinat| | | | | | | | |mayos=[[松平頼救|頼救]]|ohsuk=太田資原|mayon=[[松平頼徳|頼徳]]|hinat=[[平岡なつ|なつ]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | |)|matei|)|mayuk|!| |}|-|-|hiazu|,|hikim|matei=定三郎|mayuk=雪|hiazu=[[平岡梓]]|hikim=&#039;&#039;&#039;平岡公威（三島由紀夫）&#039;&#039;&#039;}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | |`|mayot|+|katei|!|hisad| | |}|-|+|himit|mayot=[[松平頼位|頼位]]|katei=珽|hisad=[[平岡定太郎]]|himit=[[平岡美津子|美津子]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |)|mayoy|)|natoh| |hishi|`|hichi|mayoy=[[松平頼安|頼安]]|natoh=亨|hishi=[[平岡倭文重|橋倭文重]]|hichi=[[平岡千之]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |)|natak|)|nahir| | | | | | | | |natak=高|nahir=啓}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |!| |}|-|+|nashi| | | | | | | | |nashi=繁}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |!|naiwa|)|ohats| | | | | | | | |naiwa=[[永井岩之丞|岩之丞]]|ohats=[[大屋敦]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |)|mayoh|)|nakan| | | | | | | | |mayoh=[[松平頼平|頼平]]|nakan=鐘}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |)|istsu|)|nagai| | | | | | | | |istsu=艶|nagai=愛}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |`|matei|)|nachi| | | | | | | | |matei=鋭|nachi=千恵}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | | | | | |)|nakiy| | | | | | | | |nakiy=清子}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | | | | | |`|nafum| | | | | | | | |nafum=文子}}&lt;br /&gt;
{{familytree/end}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 橋家 ===&lt;br /&gt;
母方の祖父・[[橋健三]]、曽祖父・[[橋健堂]]、高祖父・[[橋一巴]]は、[[加賀藩]]藩主・[[前田家]]に代々仕えた[[漢学者]]、[[書家]]であった。[[名字帯刀]]を許され、学塾においては藩主・前田家の人々に講義をしていた。橋一巴は「鵠山」と号した。一巴の長男で、健堂の兄・往来も漢学者、書家で、「石甫」「対蘭軒」と号した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高祖父・一巴以前の橋家は、[[近江八幡市|近江八幡]]（滋賀県にある[[琵琶湖]]畔、[[日野川 (滋賀県)|日野川]]の近く）の広大な山林の持主である[[賀茂氏|賀茂]]（橋）一族である。1970年（昭和45年）、滋賀県の調査により、この土地が賀茂（橋）一族の橋一巴 - 橋健堂 - 橋健三の流れを汲む直系の子孫に所有権があることが判明した。近江八幡に移り居城していた賀茂（橋）家は、約一千年の歴史をもつ古い家柄の京都の橋家が元であり、島根県の[[出雲]]の出身だという&amp;lt;ref name=&amp;quot;etugu&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
曽祖父・健堂は、[[夜学]]や[[女子教育]]の充実など、教育者として先駆的であった。また、「[[橋健堂#学問所「壮猶館」|壮猶館]]」「[[集学所]]」など、その出処進退は藩の重要プロジェクトと連動し、健堂が出仕した「壮猶館」は、単なる[[儒学]]を修める[[藩校]]ではなく、1853年（[[嘉永]]6年）の[[ペリー]]率いる[[黒船来航|黒船の来航]]に刺激された加賀藩が、命運を賭して創設した[[軍事機関]]であった。健堂は市井の漢学者ではなく、軍事拠点の中枢にあって、海防論を戦わせ、[[佐野鼎]]から洋式[[兵学]]を吸収する立場にあった人物であったという&amp;lt;ref name=&amp;quot;hashike&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三島の『[[春の雪 (小説)|春の雪]]』には、松枝侯爵家の別邸として「[[終南別業]]」が登場する。[[王摩詰]]の詩の題をとって号した「終南別業」は、旧加賀藩主・前田本家第16代目当主・[[前田利為]]侯爵家の広壮な別邸をモデルとしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 橋家系図&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;font-size:80%&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{familytree/start}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | |,|haohr|-|hasen| | | | | | | | | | | | |haohr=往来|hasen=船次郎}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1|haich|(| | | |,|hatsu| | | | | | | | | | | | |haich=橋一巴|hatsu=つね}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | |`|haken|+|hafus| | | | | | | | | | | | |haken=[[橋健堂|健堂]]|hafus=ふさ}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | |)|hakou| | | | | | | | | | | | |hakou=こう}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | |!| |}|-|-|haken| | | | | | | | |haken=[[橋健行]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | |!|haken|,|hayuk| | | | | | | | |haken=[[橋健三|瀬川健三]]|hayuk=雪子}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | |!| |}|-|+|hamas| | | | | | | | |hamas=橋正男}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | |)|hatom|)|hatak|,|hikim|,|tonor|hatom=トミ|hatak=橋健雄|hikim=&#039;&#039;&#039;平岡公威（三島由紀夫）&#039;&#039;&#039;|tonor=[[平岡紀子|紀子]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | |)|hayor|)|hakou|!| |}|-|(| | | |hayor=より|hakou=橋行蔵}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | |`|hahin|)|hishi|!|hiyou|`|hiiic|hahin=ひな|hishi=[[平岡倭文重|倭文重]]|hiyou=[[平岡瑤子|杉山瑤子]]|hiiic=平岡威一郎}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |!| |}|-|+|himit| | | | |himit=[[平岡美津子|美津子]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |!|hiazu|`|hichi| | | | |hiazu=[[平岡梓]]|hichi=[[平岡千之]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |`|hashi| | | | | | | | |hashi=重子}}&lt;br /&gt;
{{familytree/end}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主な作品 ==&lt;br /&gt;
=== 長編小説 ===&lt;br /&gt;
* 『[[盗賊 (小説)|盗賊]]』1947年（昭和22年） - 1948年（昭和23年）&lt;br /&gt;
* 『[[仮面の告白]]』1949年（昭和24年） &lt;br /&gt;
* 『[[純白の夜]]』1950年（昭和25年）&lt;br /&gt;
* 『[[愛の渇き]]』1950年（昭和25年）&lt;br /&gt;
* 『[[青の時代 (小説)|青の時代]]』1950年（昭和25年）&lt;br /&gt;
* 『[[禁色 (小説)|禁色]]』1951年（昭和26年） - 1953年（昭和28年）&lt;br /&gt;
* 『[[夏子の冒険]]』1951年（昭和26年）&lt;br /&gt;
* 『[[にっぽん製|につぽん製]]』1952年（昭和27年）&lt;br /&gt;
* 『[[恋の都]]』1954年（昭和29年）&lt;br /&gt;
* 『[[潮騒 (小説)|潮騒]]』1954年（昭和29年） &lt;br /&gt;
:: 第1回[[新潮社文学賞]]受賞。&lt;br /&gt;
* 『[[女神 (小説)|女神]]』1954年（昭和29年） - 1955年（昭和30年）&lt;br /&gt;
* 『[[沈める滝]]』1955年（昭和30年）&lt;br /&gt;
* 『[[幸福号出帆]]』1955年（昭和30年）&lt;br /&gt;
* 『[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]』1956年（昭和31年） &lt;br /&gt;
:: 第8回[[読売文学賞]]小説部門賞受賞。&lt;br /&gt;
* 『[[永すぎた春]]』1956年（昭和31年）&lt;br /&gt;
* 『[[美徳のよろめき]]』1957年（昭和32年） &lt;br /&gt;
:: 「よろめき」という言葉は男女の[[不倫]]を指す[[流行語]]となった。&lt;br /&gt;
* 『[[鏡子の家]]』1959年（昭和34年）&lt;br /&gt;
* 『[[宴のあと]]』1960年（昭和35年）&lt;br /&gt;
:: 1964年[[フォルメントール国際文学賞]]第2位受賞。 &lt;br /&gt;
* 『[[お嬢さん (三島由紀夫)|お嬢さん]]』1960年（昭和35年）&lt;br /&gt;
* 『[[獣の戯れ]]』1961年（昭和36年）&lt;br /&gt;
* 『[[美しい星 (三島由紀夫)|美しい星]]』1962年（昭和37年）&lt;br /&gt;
* 『[[愛の疾走]]』1962年（昭和37年）&lt;br /&gt;
* 『[[肉体の学校]]』1963年（昭和38年）&lt;br /&gt;
* 『[[午後の曳航]]』1963年（昭和38年） &lt;br /&gt;
:: 1967年[[フォルメントール国際文学賞]]候補作品。&lt;br /&gt;
* 『[[絹と明察]]』1964年（昭和39年）  &lt;br /&gt;
:: 第6回[[毎日芸術賞]]文学部門賞受賞。&lt;br /&gt;
* 『[[音楽 (小説)|音楽]]』1964年（昭和39年）&lt;br /&gt;
* 『[[春の雪 (小説)|春の雪]]』（『[[豊饒の海]]・第一巻』）1965年（昭和40年） - 1967年（昭和42年）&lt;br /&gt;
* 『[[複雑な彼]]』1966年（昭和41年）&lt;br /&gt;
* 『[[三島由紀夫レター教室]]』1966年（昭和41年） - 1967年（昭和42年）&lt;br /&gt;
:: 出来事をすべて手紙形式で表現した異色の小説。&lt;br /&gt;
* 『[[夜会服 (小説)|夜会服]]』1966年（昭和41年） - 1967年（昭和42年） &lt;br /&gt;
* 『[[奔馬 (小説)|奔馬]]』（『豊饒の海・第二巻』）1967年（昭和42年） - 1968年（昭和43年）&lt;br /&gt;
* 『[[命売ります]]』1968年（昭和43年）&lt;br /&gt;
* 『[[暁の寺 (小説)|暁の寺]]』（『豊饒の海・第三巻』）1968年（昭和43年） - 1970年（昭和45年）&lt;br /&gt;
* 『[[天人五衰 (小説)|天人五衰]]』（『豊饒の海・第四巻』）1970年（昭和45年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 短編小説 ===&lt;br /&gt;
* 『酸模（[[スカンポ|すかんぽう]]）―秋彦の幼き思ひ出』1938年（昭和13年）&lt;br /&gt;
* 『彩絵硝子（だみえガラス）』1940年（昭和15年）&lt;br /&gt;
* 『[[花ざかりの森]]』1941年（昭和16年）&lt;br /&gt;
* 『[[苧菟と瑪耶]]（おっとお と まや）』1942年（昭和17年）&lt;br /&gt;
* 『みのもの月1942年（昭和17年）&lt;br /&gt;
* 『世々に残さん』1943年（昭和18年）&lt;br /&gt;
* 『夜の車』1944年（昭和19年）　&lt;br /&gt;
:: のち『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』と改題。&lt;br /&gt;
* 『[[中世 (小説)|中世]]』1945年（昭和20年） - 1946年（昭和21年）&lt;br /&gt;
* 『エスガイの狩』1945年（昭和20年）&lt;br /&gt;
* 『菖蒲前』1945年（昭和20年）&lt;br /&gt;
* 『[[煙草 (小説)|煙草]]』1946年（昭和21年）&lt;br /&gt;
* 『[[岬にての物語]]』1946年（昭和21年）&lt;br /&gt;
* 『恋と別離と』1947年（昭和22年）&lt;br /&gt;
* 『[[軽王子と衣通姫]]（かるのみこ と そとおりひめ）』1947年（昭和22年）&lt;br /&gt;
* 『夜の仕度』1947年（昭和22年）&lt;br /&gt;
* 『春子』1947年（昭和22年）&lt;br /&gt;
* 『サーカス』1948年（昭和23年）&lt;br /&gt;
* 『白鳥』1948年（昭和23年）&lt;br /&gt;
* 『哲学』1948年（昭和23年）&lt;br /&gt;
* 『殉教』1948年（昭和23年）&lt;br /&gt;
* 『家族合せ』1948年（昭和23年）&lt;br /&gt;
* 『人間喜劇』1948年（昭和23年）&lt;br /&gt;
* 『頭文字』1948年（昭和23年）&lt;br /&gt;
* 『慈善』1948年（昭和23年）&lt;br /&gt;
* 『[[宝石売買]]』1948年（昭和23年）&lt;br /&gt;
* 『罪びと』1948年（昭和23年）&lt;br /&gt;
* 『好色』1948年（昭和23年）&lt;br /&gt;
* 『不実な洋傘』1948年（昭和23年）&lt;br /&gt;
* 『山羊の首』1948年（昭和23年）&lt;br /&gt;
* 『獅子』1948年（昭和23年）&lt;br /&gt;
* 『大臣』1949年（昭和24年）&lt;br /&gt;
* 『[[魔群の通過]]』1949年（昭和24年）&lt;br /&gt;
* 『侍童』1949年（昭和24年）&lt;br /&gt;
* 『訃音』1949年（昭和24年）&lt;br /&gt;
* 『親切な機械』1949年（昭和24年）&lt;br /&gt;
* 『火山の休暇』1949年（昭和24年）&lt;br /&gt;
* 『怪物』1949年（昭和24年）&lt;br /&gt;
* 『花山院』1950年（昭和25年）&lt;br /&gt;
* 『果実』1950年（昭和25年）&lt;br /&gt;
* 『鴛鴦』1950年（昭和25年）&lt;br /&gt;
* 『修学旅行』1950年（昭和25年）&lt;br /&gt;
* 『日曜日』1950年（昭和25年）&lt;br /&gt;
* 『遠乗会（とおのりかい）』1950年（昭和25年）&lt;br /&gt;
* 『孤閨悶々』1950年（昭和25年）&lt;br /&gt;
* 『牝犬』1950年（昭和25年）&lt;br /&gt;
* 『家庭裁判』1951年（昭和26年）&lt;br /&gt;
* 『偉大な姉妹』1951年（昭和26年）&lt;br /&gt;
* 『箱根細工』1951年（昭和26年）&lt;br /&gt;
* 『椅子』1951年（昭和26年）&lt;br /&gt;
* 『死の島』1951年（昭和26年）&lt;br /&gt;
* 『翼』1951年（昭和26年）&lt;br /&gt;
* 『手長姫』1951年（昭和26年）&lt;br /&gt;
* 『朝顔』1951年（昭和26年）&lt;br /&gt;
* 『離宮の松』1951年（昭和26年）&lt;br /&gt;
* 『クロスワード・パズル』1952年（昭和27年）&lt;br /&gt;
* 『金魚と奥様』1952年（昭和27年）&lt;br /&gt;
* 『[[真夏の死]]』1952年（昭和27年）&lt;br /&gt;
:: 1967年[[フォルメントール国際文学賞]]第2位受賞。&lt;br /&gt;
* 『二人の老嬢』1952年（昭和27年）&lt;br /&gt;
* 『美神』1952年（昭和27年）&lt;br /&gt;
* 『江口初女覚書』1953年（昭和28年）&lt;br /&gt;
* 『[[雛の宿]]』1953年（昭和28年）&lt;br /&gt;
* 『旅の墓碑銘』1953年（昭和28年）&lt;br /&gt;
* 『急停車』1953年（昭和28年）&lt;br /&gt;
* 『卵』1953年（昭和28年）&lt;br /&gt;
* 『不満な女たち』1953年（昭和28年）&lt;br /&gt;
* 『花火』1953年（昭和28年）&lt;br /&gt;
* 『[[ラディゲの死]]』1953年（昭和28年）&lt;br /&gt;
* 『[[鍵のかかる部屋]]』1954年（昭和29年）&lt;br /&gt;
* 『復讐』1954年（昭和29年）&lt;br /&gt;
* 『[[詩を書く少年]]』1954年（昭和29年）&lt;br /&gt;
* 『志賀寺上人の恋』1954年（昭和29年）&lt;br /&gt;
* 『水音』1954年（昭和29年）&lt;br /&gt;
* 『海と夕焼』1955年（昭和30年）&lt;br /&gt;
* 『新聞紙』1955年（昭和30年）&lt;br /&gt;
* 『屋根を歩む』1955年（昭和30年）&lt;br /&gt;
* 『牡丹』1955年（昭和30年）&lt;br /&gt;
* 『十九歳』1956年（昭和31年）&lt;br /&gt;
* 『施餓鬼舟』1956年（昭和31年）&lt;br /&gt;
* 『[[橋づくし]]』1956年（昭和31年）&lt;br /&gt;
* 『女方』1957年（昭和32年）&lt;br /&gt;
* 『貴顕』1957年（昭和32年）&lt;br /&gt;
* 『百万円煎餅』1960年（昭和35年）&lt;br /&gt;
* 『愛の処刑』1960年（昭和35年） &lt;br /&gt;
* 『スタア』1960年（昭和35年）&lt;br /&gt;
* 『[[憂国]]』1961年（昭和36年）&lt;br /&gt;
* 『苺』1961年（昭和36年）&lt;br /&gt;
* 『帽子の花』1962年（昭和37年）&lt;br /&gt;
* 『魔法瓶』1962年（昭和37年）&lt;br /&gt;
* 『月』1962年（昭和37年）&lt;br /&gt;
* 『葡萄パン』1963年（昭和38年）&lt;br /&gt;
* 『真珠』1963年（昭和38年）&lt;br /&gt;
* 『可哀さうなパパ』1963年（昭和38年）&lt;br /&gt;
* 『[[雨のなかの噴水]]』1963年（昭和38年）&lt;br /&gt;
* 『切符』1963年（昭和38年）&lt;br /&gt;
* 『[[剣 (小説)|剣]]』1963年（昭和38年）&lt;br /&gt;
* 『[[月澹荘綺譚]]』1965年（昭和40年）&lt;br /&gt;
* 『[[三熊野詣]]』1965年（昭和40年）&lt;br /&gt;
* 『孔雀』1965年（昭和40年）&lt;br /&gt;
* 『朝の純愛』1965年（昭和40年）&lt;br /&gt;
* 『仲間』1966年（昭和41年）&lt;br /&gt;
* 『悪臣の歌』1966年（昭和41年）&lt;br /&gt;
* 『[[英霊の聲]]』1966年（昭和41年）&lt;br /&gt;
* 『[[荒野より (小説)|荒野より]]』1966年（昭和41年）&lt;br /&gt;
* 『[[蘭陵王 (小説)|蘭陵王]]』1969年（昭和44年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 戯曲・歌舞伎 ===&lt;br /&gt;
* 『路程』1939年（昭和14年）&lt;br /&gt;
* 『東の博士たち』1939年（昭和14年）&lt;br /&gt;
* 『基督降誕記』1939年（昭和14年）&lt;br /&gt;
* 『館』1939年（昭和14年） 中断。&lt;br /&gt;
* 『やがてみ楯と』1943年（昭和18年） 学習院輔仁会春季文化大会で上演。&lt;br /&gt;
* 『あやめ』1948年（昭和23年）&lt;br /&gt;
* 『火宅』1948年（昭和23年）&lt;br /&gt;
* 『愛の不安』1949年（昭和24年）&lt;br /&gt;
* 『灯台』1949年（昭和24年）&lt;br /&gt;
* 『聖女』1949年（昭和24年）&lt;br /&gt;
* 『[[邯鄲 (戯曲)|邯鄲]]（かんたん）』1950年（昭和25年） &lt;br /&gt;
:: [[能楽]] 『[[邯鄲の枕#能『邯鄲』|邯鄲]]』をもとにした戯曲。 &amp;lt;ref name=&amp;quot;kinndai&amp;quot;&amp;gt;のち戯曲集『[[近代能楽集]]』1956年（昭和31年）に所収。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 『[[綾の鼓 (戯曲)|綾の鼓]]（あやのつづみ）』1951年（昭和26年） &lt;br /&gt;
:: 能楽『[[綾鼓]]』をもとにした戯曲。 &amp;lt;ref name=&amp;quot;kinndai&amp;quot;/&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 『艶競近松娘』1951年（昭和26年） &lt;br /&gt;
:: [[柳橋 (神田川)|柳橋]]みどり会のために書いた[[舞踊]]劇台本。&lt;br /&gt;
* 『[[卒塔婆小町 (戯曲)|卒塔婆小町]]（そとばこまち）』1952年（昭和27年） &lt;br /&gt;
:: 能楽『[[卒塔婆小町]]』をもとにした戯曲。&amp;lt;ref name=&amp;quot;kinndai&amp;quot;/&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 『只ほど高いものはない』1952年（昭和27年） &lt;br /&gt;
* 『夜の向日葵』1953年（昭和28年）&lt;br /&gt;
* 『室町反魂香』1953年（昭和28年）&lt;br /&gt;
:: 柳橋みどり会のために書いた舞踊劇台本。&lt;br /&gt;
* 『[[地獄変 (歌舞伎)|地獄変]]』1953年（昭和28年） &lt;br /&gt;
:: [[芥川龍之介]]作の短編『[[地獄変]]』をもとにした[[歌舞伎]]台本。&lt;br /&gt;
* 『[[葵上 (戯曲)|葵上]]（あおいのうえ）』1954年（昭和29年） &lt;br /&gt;
:: 能楽『[[葵上]]』をもとにした戯曲。 &amp;lt;ref name=&amp;quot;kinndai&amp;quot;/&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 『若人よ蘇れ』1954年（昭和29年）&lt;br /&gt;
* 『[[鰯売恋曳網]]』1954年（昭和29年）&lt;br /&gt;
* 『ボクシング』1954年（昭和29年）&lt;br /&gt;
:: ラジオドラマ脚本。芸術祭放送部門参加。&lt;br /&gt;
* 『[[班女 (戯曲)|班女]]（はんじょ）』1955年（昭和30年） &lt;br /&gt;
:: 能楽『[[班女]]』をもとにした戯曲。 &amp;lt;ref name=&amp;quot;kinndai&amp;quot;/&amp;gt; &lt;br /&gt;
* 『[[熊野 (歌舞伎)|熊野]]（ゆや）』1955年（昭和30年） &lt;br /&gt;
:: 能楽『[[熊野 (能)|熊野]]』をもとにした歌舞伎台本。&lt;br /&gt;
* 『三原色』1955年（昭和30年）&lt;br /&gt;
* 『船の挨拶』1955年（昭和30年）&lt;br /&gt;
* 『[[白蟻の巣]]』1955年（昭和30年）&lt;br /&gt;
:: 第2回[[岸田演劇賞]]受賞。&lt;br /&gt;
* 『芙容露大内実記』1955年（昭和30年）&lt;br /&gt;
:: [[エウリピデス]]作の『[[ヒッポリュトス]]』と、[[ジャン・ラシーヌ]]作の『[[フェードル]]』をもとにした歌舞伎台本。&lt;br /&gt;
* 『大障碍』1956年（昭和31年）&lt;br /&gt;
* 『[[近代能楽集]]』1956年（昭和31年） &lt;br /&gt;
:: 戯曲「邯鄲」、「綾の鼓」、「卒塔婆小町」、「葵上」、「班女」を所収。&lt;br /&gt;
* 『[[鹿鳴館 (戯曲)|鹿鳴館]]』1956年（昭和31年）&lt;br /&gt;
* 『[[道成寺 (戯曲)|道成寺]]（どうじょうじ）』1957年（昭和32年） &lt;br /&gt;
:: 能楽『[[道成寺]]』をもとにした戯曲。 &amp;lt;ref name=&amp;quot;nougaku&amp;quot;&amp;gt;のち戯曲集『近代能楽集』文庫版1968年（昭和43年）に所収。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 『朝の躑躅』1957年（昭和32年） &lt;br /&gt;
* 『[[附子 (戯曲)|附子]]』1957年（昭和32年） &lt;br /&gt;
:: [[狂言]]『[[附子]]』をもとにした戯曲。『葵上』と『卒塔婆小町』の間にはさむ狂言として創作。未上演。&lt;br /&gt;
* 『[[Long After Love]]』1957年（昭和32年） &lt;br /&gt;
:: 『卒塔婆小町』、『葵上』、『班女』の3つの戯曲を繋ぐ場面を新たに創作し、統一的な芝居にした3幕物。&lt;br /&gt;
* 『[[薔薇と海賊]]』1958年（昭和33年） &lt;br /&gt;
:: [[週刊読売]]新劇賞受賞。&lt;br /&gt;
* 『むすめごのみ帯取池』1958年（昭和33年） &lt;br /&gt;
:: [[山東京伝]]作の『[[桜姫全伝曙草紙]]』をもとにした歌舞伎台本。&lt;br /&gt;
* 『[[熊野 (戯曲)|熊野]]』1959年（昭和34年） &lt;br /&gt;
:: 能楽『[[熊野 (能)|熊野]]』をもとにした戯曲。 &amp;lt;ref name=&amp;quot;nougaku&amp;quot;/&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 『女は占領されない』1959年（昭和34年）&lt;br /&gt;
* 『[[熱帯樹 (戯曲)|熱帯樹]]』1960年（昭和35年）&lt;br /&gt;
* 『[[弱法師 (戯曲)|弱法師]]（よろぼし）』1960年（昭和35年） &lt;br /&gt;
:: 能楽『[[弱法師]]』をもとにした戯曲。 &amp;lt;ref name=&amp;quot;nougaku&amp;quot;/&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 『[[十日の菊]]』1961年（昭和36年） &lt;br /&gt;
:: 第13回[[読売文学賞]]戯曲部門賞受賞。&lt;br /&gt;
* 『[[黒蜥蜴 (戯曲)|黒蜥蜴]]』1961年（昭和36年） &lt;br /&gt;
:: [[江戸川乱歩]]作の長編『[[黒蜥蜴]]』をもとにした戯曲。&lt;br /&gt;
* 『[[源氏供養 (戯曲)|源氏供養]]』1962年（昭和37年） &lt;br /&gt;
:: 能楽『[[源氏供養]]』をもとにした戯曲。近代能楽集の9曲目。のちに廃曲とした。&lt;br /&gt;
* 『[[喜びの琴]]』1964年（昭和39年）&lt;br /&gt;
:: この戯曲が原因で[[文学座]]分裂騒動（[[喜びの琴事件]]）が起きる。&lt;br /&gt;
* 『美濃子』1964年（昭和39年） &lt;br /&gt;
:: オペラ劇台本。[[黛敏郎]]の作曲が間に合わず、未上演。&lt;br /&gt;
* 『恋の帆影』1964年（昭和39年）&lt;br /&gt;
* 『[[サド侯爵夫人]]』1965年（昭和40年） &lt;br /&gt;
:: [[芸術祭 (文化庁)|文部省芸術祭]]演劇部門芸術祭賞受賞。&lt;br /&gt;
* 『[[聖セバスティアンの殉教|聖セバスチァンの殉教]]』1966年（昭和41年） &lt;br /&gt;
:: [[池田弘太郎]]との共訳で翻訳。原作：[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ|ガブリエレ・ダンヌンツィオ]]。&lt;br /&gt;
* 『[[朱雀家の滅亡]]』（[[1967年]]）（昭和42年）&lt;br /&gt;
:: [[エウリピデス]]作の『[[ヘラクレス]]』をもとにした戯曲。&lt;br /&gt;
* 『ミランダ』1968年（昭和43年） &lt;br /&gt;
:: [[バレエ]]劇台本。&lt;br /&gt;
* 『[[わが友ヒットラー]]』1968年（昭和43年） &lt;br /&gt;
* 『[[癩王のテラス]]』1969年（昭和44年） 3幕7場&lt;br /&gt;
* 『[[椿説弓張月 (歌舞伎)|椿説弓張月]]』1969年（昭和44年） 3幕8場  &lt;br /&gt;
:: [[曲亭馬琴|馬琴]]作の『[[椿説弓張月]]』をもとにした歌舞伎台本。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 随筆・日誌・紀行 ===&lt;br /&gt;
* 『芝居日記』1942年（昭和17年） - 1947年（昭和22年） &lt;br /&gt;
:: 没後21年の1991年（平成3年）に初刊行された。&lt;br /&gt;
* 『[[平岡公威]]伝』1944年（昭和19年）&lt;br /&gt;
* 『重症者の兇器』1948年（昭和23年）&lt;br /&gt;
* 『反時代的な芸術家』1948年（昭和23年）&lt;br /&gt;
* 『[[アポロの杯]]』1952年（昭和27年） &lt;br /&gt;
:: 「航海日記」、「北米紀行」、「南米紀行」、「欧州紀行」、「旅の思ひ出」から成る。&lt;br /&gt;
* 『遠視眼の旅人』1952年（昭和27年）&lt;br /&gt;
* 『女ぎらひの弁』1954年（昭和29年）&lt;br /&gt;
* 『好きな女性』1954年（昭和29年）&lt;br /&gt;
* 『終末感からの出発―昭和二十年の自画像』1955年（昭和30年）&lt;br /&gt;
* 『[[小説家の休暇]]』1955年（昭和30年） 公開日記・随筆。&lt;br /&gt;
* 『[[新恋愛講座]]』1955年（昭和30年） - 1956年（昭和31年） 「[[Myojo|明星]]」に連載。&lt;br /&gt;
* 『わが漫画』1956年（昭和31年）&lt;br /&gt;
* 『わが魅せられたるもの』1956年（昭和31年）&lt;br /&gt;
* 『[[ボディビル|ボディ・ビル]]哲学』1956年（昭和31年）&lt;br /&gt;
* 『わが思春期』1957年（昭和32年） 「明星」に連載。&lt;br /&gt;
* 『きのふけふ』1957年（昭和32年） 「[[朝日新聞]]」[[コラム]]に連載。&lt;br /&gt;
* 『旅の絵本』1958年（昭和33年）　ニューヨーク紀行。&lt;br /&gt;
* 『[[裸体と衣裳]]』1958年（昭和33年）－1959年（昭和34年） 公開日記・随筆。「[[新潮]]」に連載。&lt;br /&gt;
* 『[[不道徳教育講座]]』1958年（昭和33年）－1959年（昭和34年） 「[[週刊明星]]」に連載。&lt;br /&gt;
* 『同人雑記』1958年（昭和33年）－1959年（昭和34年） 季刊雑誌「声」に連載。&lt;br /&gt;
* 『憂楽帳』1959年（昭和34年） 「[[毎日新聞]]」コラムに連載。&lt;br /&gt;
* 『十八歳と三十四歳の肖像画』1959年（昭和34年）&lt;br /&gt;
* 『巻頭言』1960年（昭和35年） 「[[婦人公論]]」に連載。&lt;br /&gt;
* 『[[社会料理三島亭]]』1960年（昭和35年） 「[[婦人倶楽部]]」に連載。&lt;br /&gt;
* 『発射塔』1960年（昭和35年） 「[[読売新聞]]」コラムに連載。&lt;br /&gt;
* 『[[ピラミッド]]と麻薬』1961年（昭和36年）&lt;br /&gt;
* 『美に逆らふもの』1961年（昭和36年） 香港・[[タイガーバームガーデン (香港)|タイガーバームガーデン]]紀行。&lt;br /&gt;
* 『[[第一の性]]』1962年（昭和37年） - 1963年（昭和38年） 「[[女性明星]]」に連載。&lt;br /&gt;
* 『[[私の遍歴時代]]』1963年（昭和38年）  「[[東京新聞]]」に連載。&lt;br /&gt;
* 『踊り』1963年（昭和38年） &lt;br /&gt;
* 『小説家の息子』1963年（昭和38年） &lt;br /&gt;
* 『[[芸術断想]]』1963年（昭和38年） - 1964年（昭和39年） 「芸術生活」に連載。&lt;br /&gt;
* 『[[熊野]]路―新日本名所案内』1964年（昭和39年） &lt;br /&gt;
* 『秋冬随筆』1964年（昭和39年） - 1965年（昭和40年） 「こうさい」に連載。 &lt;br /&gt;
* 『実感的スポーツ論』1964年（昭和39年） 「読売新聞」に連載。&lt;br /&gt;
* 『男のおしやれ』1964年（昭和39年） &lt;br /&gt;
* 『[[反貞女大学]]』1965年（昭和40年） 「[[産経新聞]]」に連載。&lt;br /&gt;
* 『英国紀行』1965年（昭和40年） &lt;br /&gt;
* 『[[おわりの美学|をはりの美学]]』1966年（昭和41年） 「[[女性自身]]」に連載。&lt;br /&gt;
* 『闘牛士の美』1966年（昭和41年）&lt;br /&gt;
* 『私の遺書』1966年（昭和41年）&lt;br /&gt;
* 『私のきらひな人』1966年（昭和41年）&lt;br /&gt;
* 『[[ビートルズ]]見物記』1966年（昭和41年）&lt;br /&gt;
* 『男の美学』1967年（昭和42年）&lt;br /&gt;
* 『紫陽花の母』1967年（昭和42年）&lt;br /&gt;
* 『インドの印象』1967年（昭和42年） 「毎日新聞」インタビュー。&lt;br /&gt;
* 『「[[仙洞御所]]」序文』1968年（昭和43年）&lt;br /&gt;
* 『電灯のイデア―わが文学の揺籃期』1968年（昭和43年）&lt;br /&gt;
* 『軍服を着る男の条件』1968年（昭和43年）&lt;br /&gt;
* 『怪獣の私生活』1968年（昭和43年）&lt;br /&gt;
* 『「[[人斬り (映画)|人斬り]]」出演の記』1969年（昭和44年）&lt;br /&gt;
* 『劇画における若者論』1970年（昭和45年） &lt;br /&gt;
* 『愛するといふこと』1970年（昭和45年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 評論・批評 ===&lt;br /&gt;
* 『[[王朝]]心理文学小史』1942年（昭和17年） &lt;br /&gt;
:: [[学習院]]図書館の第4回懸賞論文に入選。&lt;br /&gt;
* 『[[檀一雄]]「花筐」―覚書』1944年（昭和19年）&lt;br /&gt;
* 『詩論その他』1945年（昭和20年）&lt;br /&gt;
* 『戦後語録』1945年（昭和20年）&lt;br /&gt;
* 『わが世代の革命』1946年（昭和21年）&lt;br /&gt;
* 『招かれざる客』1947年（昭和22年）&lt;br /&gt;
* 『[[澤村宗十郎 (7代目)|宗十郎]]覚書』1947年（昭和22年）&lt;br /&gt;
* 『[[相聞]]歌の源流』1948年（昭和23年）&lt;br /&gt;
* 『[[川端康成]]論の一方法―「作品」について』1949年（昭和24年）&lt;br /&gt;
* 『[[中村歌右衛門 (6代目)|中村芝翫]]論』1949年（昭和24年）&lt;br /&gt;
* 『[[オスカー・ワイルド|オスカア・ワイルド]]論』1950年（昭和25年）&lt;br /&gt;
* 『批評家に小説がわかるか』1951年（昭和26年）&lt;br /&gt;
* 『死の分量』1953年（昭和28年）&lt;br /&gt;
* 『新[[ファシズム|ファッシズム]]論』1954年（昭和29年）&lt;br /&gt;
* 『[[横光利一]]と川端康成』1955年（昭和30年）&lt;br /&gt;
* 『欲望の充足について―幸福の心理学』1955年（昭和30年）&lt;br /&gt;
* 『空白の役割』1955年（昭和30年）&lt;br /&gt;
* 『電気洗濯機の問題』1956年（昭和31年）&lt;br /&gt;
* 『永遠の旅人―川端康成氏の人と作品』1956年（昭和31年）&lt;br /&gt;
* 『亀は兎に追ひつくか？―いはゆる後進国の諸問題』1956年（昭和31年）&lt;br /&gt;
* 『楽屋で書かれた演劇論』1957年（昭和32年）&lt;br /&gt;
* 『川端康成の東洋と西洋』1957年（昭和32年）&lt;br /&gt;
* 『現代小説は古典なり得るか』1957年（昭和32年）&lt;br /&gt;
* 『[[心中]]論』1958年（昭和33年）&lt;br /&gt;
* 『[[文章読本#三島由紀夫|文章読本]]』1959年（昭和34年）&lt;br /&gt;
* 『川端康成氏再説』1959年（昭和34年）&lt;br /&gt;
* 『[[中村歌右衛門 (6代目)|六世中村歌右衛門]]序説』1959年（昭和34年）&lt;br /&gt;
* 『[[春日井建]]氏の「未青年」の序文』1960年（昭和35年）&lt;br /&gt;
* 『アメリカ人の日本神話』1961年（昭和36年） &lt;br /&gt;
:: ”Japan： The Cherished Myths” と英訳され、米誌「HOLIDAY」に掲載された。&lt;br /&gt;
* 『魔―現代的状況の象徴的構図』1961年（昭和36年）&lt;br /&gt;
* 『現代史としての小説』1962年（昭和37年）&lt;br /&gt;
* 『[[谷崎潤一郎]]論』1962年（昭和37年）&lt;br /&gt;
* 『川端康成読本序説』1962年（昭和37年）&lt;br /&gt;
* 『[[林房雄]]論』1963年（昭和38年） &lt;br /&gt;
* 『[[細江英公]]序説』1963年（昭和38年） &lt;br /&gt;
* 『[[市川雷蔵|雷蔵]]丈のこと』 1964年（昭和39年） &lt;br /&gt;
* 『解説（「日本の文学38 川端康成」）』 1964年（昭和39年） &lt;br /&gt;
* 『解説（「現代の文学20 [[円地文子]]集」）』 1964年（昭和39年） &lt;br /&gt;
* 『文学における硬派―日本文学の男性的原理』1964年（昭和39年）&lt;br /&gt;
* 『生徒を心服させるだけの腕力を―[[スパルタ教育]]のおすすめ』1964年（昭和39年）&lt;br /&gt;
* 『現代文学の三方向』1965年（昭和40年） &lt;br /&gt;
* 『谷崎朝時代の終焉』1965年（昭和40年）&lt;br /&gt;
* 『[[文武両道]]』1965年（昭和40年）&lt;br /&gt;
* 『[[太陽と鉄]]』1965年（昭和40年） - 1968年（昭和43年） 「批評」に連載。&lt;br /&gt;
* 『日本人の誇り』1966年（昭和41年）&lt;br /&gt;
* 『危険な芸術家』1966年（昭和41年）&lt;br /&gt;
* 『お茶漬ナショナリズム』1966年（昭和41年）&lt;br /&gt;
* 『法律と餅焼き』1966年（昭和41年）&lt;br /&gt;
* 『わが育児論』1966年（昭和41年）&lt;br /&gt;
* 『映画的肉体論』1966年（昭和41年）&lt;br /&gt;
* 『[[ナルシシズム]]論』1966年（昭和41年）&lt;br /&gt;
* 『[[市川團蔵 (8代目)|団蔵]]・芸道・再軍備』1966年（昭和41年）&lt;br /&gt;
* 『谷崎潤一郎、芸術と生活』1966年（昭和41年）&lt;br /&gt;
* 『谷崎潤一郎について』1966年（昭和41年）&lt;br /&gt;
* 『[[伊東静雄]]の詩―わが詩歌』1966年（昭和41年）&lt;br /&gt;
* 『谷崎潤一郎頌』1966年（昭和41年）&lt;br /&gt;
* 『序（[[舩坂弘]]著「英霊の絶叫」）』1966年（昭和41年）&lt;br /&gt;
* 『日本への信条』1967年（昭和42年）&lt;br /&gt;
* 『[[古今集]]と[[新古今集]]』1967年（昭和42年）&lt;br /&gt;
* 『「道義的革命」の論理―[[磯部浅一|磯部]]一等主計の遺稿について』1967年（昭和42年）&lt;br /&gt;
* 『私の中のヒロシマ―[[原爆の日]]によせて』1967年（昭和42年）&lt;br /&gt;
* 『人生の本―[[末松太平]]著「私の昭和史」』1967年（昭和42年）&lt;br /&gt;
* 『[[葉隠入門]]』1967年（昭和42年）&lt;br /&gt;
* 『祖国防衛隊はなぜ必要か？』1968年（昭和43年）&lt;br /&gt;
* 『[[愛国心]]』1968年（昭和43年）&lt;br /&gt;
* 『[[円谷幸吉|円谷]]二尉の自刃』1968年（昭和43年）&lt;br /&gt;
* 『ポップコーンの心霊術―[[横尾忠則]]論』1968年（昭和43年）&lt;br /&gt;
* 『[[二・二六事件]]について』1968年（昭和43年）&lt;br /&gt;
* 『[[小説とは何か]]』1968年（昭和43年） - 1970年（昭和45年） 「[[波 (雑誌)|波]]」に連載。&lt;br /&gt;
* 『[[若きサムライのための精神講話|若きサムラヒのための精神講話]]』1968年（昭和43年） - 1969年（昭和44年） 「[[マガジンハウス#略史|Pocket パンチOh!]]」に連載。&lt;br /&gt;
* 『[[文化防衛論]]』1968年（昭和43年） &lt;br /&gt;
* 『解説（「日本の文学40 林房雄・[[武田麟太郎]]・[[島木健作]]」）』1968年（昭和43年） &lt;br /&gt;
* 『[[日沼倫太郎|日沼]]氏と死』1968年（昭和43年）&lt;br /&gt;
* 『機能と美』1968年（昭和43年）&lt;br /&gt;
* 『栄誉の絆でつなげ菊と刀』1968年（昭和43年）&lt;br /&gt;
* 『[[篠山紀信]]論』1968年（昭和43年）&lt;br /&gt;
* 『自由と権力の状況』1968年（昭和43年） &lt;br /&gt;
* 『解説（「日本の文学4 [[尾崎紅葉]]・[[泉鏡花]]」）』1969年（昭和44年） &lt;br /&gt;
* 『「[[戦塵録]]」について』1969年（昭和44年） &lt;br /&gt;
* 『現代青年論』1969年（昭和44年） &lt;br /&gt;
* 『反革命宣言』1969年（昭和44年） &lt;br /&gt;
* 『[[鶴田浩二]]論―「[[博奕打ち 総長賭博|総長賭博]]」と「[[人生劇場 飛車角と吉良常|飛車角と吉良常]]」のなかの』1969年（昭和44年） &lt;br /&gt;
* 『自衛隊二分論』1969年（昭和44年） &lt;br /&gt;
* 『砂漠の住人への論理的弔辞―討論を終へて』1969年（昭和44年） &lt;br /&gt;
* 『[[北一輝]]論―「[[日本改造法案大綱]]」を中心として』1969年（昭和44年） &lt;br /&gt;
* 『日本文学小史』1969年（昭和44年）- 1970年（昭和45年） 「[[群像]]」に連載。 &lt;br /&gt;
:: 第六章で中断され未完。&lt;br /&gt;
* 『日本文化の深淵について』1969年（昭和44年） &lt;br /&gt;
:: ”A problem of culture” と英訳され、英国紙「[[THE TIMES]]」に掲載された。&lt;br /&gt;
* 『[[行動学入門]]』1969年（昭和44年） -  1970年（昭和45年） 「Pocket パンチOh!」に連載。&lt;br /&gt;
* 『「[[楯の会]]」のこと』1969年（昭和44年）&lt;br /&gt;
* 『「国を守る」とは何か』1969年（昭和44年） &lt;br /&gt;
* 『解説（「日本の文学52 [[尾崎一雄]]・[[外村繁]]・[[上林暁]]」）』1969年（昭和44年） &lt;br /&gt;
* 『「変革の思想」とは―道理の実現』1970年（昭和45年） &lt;br /&gt;
* 『新知識人論』1970年（昭和45年） &lt;br /&gt;
* 『「[[眠れる美女]]」論』1970年（昭和45年） &lt;br /&gt;
* 『「[[蓮田善明]]とその死」序文』1970年（昭和45年） &lt;br /&gt;
* 『問題提起』1970年（昭和45年） &lt;br /&gt;
* 『解説（「日本の文学34 [[内田百間|内田百{{CP932フォント|閒}}]]・[[牧野信一]]・[[稲垣足穂]]」）』1970年（昭和45年） &lt;br /&gt;
* 『士道について―[[石原慎太郎]]への公開状』1970年（昭和45年） &lt;br /&gt;
* 『[[柳田國男|柳田国男]]「[[遠野物語]]」―名著再発見』1970年（昭和45年）&lt;br /&gt;
* 『[[果たし得ていない約束―私の中の二十五年|果たし得てゐない約束―私の中の二十五年]]』1970年（昭和45年） &lt;br /&gt;
* 『[[武士道]]と[[軍国主義]]』1970年（昭和45年） &lt;br /&gt;
* 『正規軍と不正規軍』1970年（昭和45年） &lt;br /&gt;
* 『革命哲学としての[[陽明学]]』1970年（昭和45年） &lt;br /&gt;
* 『独楽』1970年（昭和45年） &lt;br /&gt;
* 『武士道に欠ける現代のビジネス』1970年（昭和45年） &lt;br /&gt;
* 『わが同志観』1970年（昭和45年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 対談・座談・討論 ===&lt;br /&gt;
* 『美のかたち―「[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]」をめぐって』1957年（昭和32年） 対：[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]] &amp;lt;ref name=&amp;quot;gensen&amp;quot;&amp;gt;のち『[[源泉の感情]] 三島由紀夫対談集』（[[河出書房新社]]、1970年。[[河出文庫]]で2006年再刊）に所収。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 『劇作家のみたニッポン』1959年（昭和34年） 対：[[テネシー・ウィリアムズ]]&lt;br /&gt;
* 『[[捨身飼虎]]』1961年（昭和36年） 対：[[千宗興]] &amp;lt;ref name=&amp;quot;gensen&amp;quot;/&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 『七年目の対話』 1964年（昭和39年） 対：[[石原慎太郎]] &amp;lt;ref name=&amp;quot;gensen&amp;quot;/&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 『現代作家はかく考える』 1964年（昭和39年） 対：[[大江健三郎]] &amp;lt;ref name=&amp;quot;gensen&amp;quot;/&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 『戦後の日本文学』 1965年（昭和40年） 対：[[伊藤整]]、[[本多秋五]]&lt;br /&gt;
* 『二十世紀の文学』 1966年（昭和41年） 対：[[安部公房]] &amp;lt;ref name=&amp;quot;gensen&amp;quot;/&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 『[[ニーチェ]]と現代』 1966年（昭和41年） 対：[[手塚富雄]]&lt;br /&gt;
* 『対話・日本人論』 1966年（昭和41年） 対：[[林房雄]]&lt;br /&gt;
* 『[[エロチシズム]]と国家権力』 1966年（昭和41年） 対：[[野坂昭如]] &amp;lt;ref name=&amp;quot;gensen&amp;quot;/&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 『われわれはなぜ声明を出したか―芸術は政治の道具か？』1967年（昭和42年） 対：[[川端康成]]、[[石川淳]]、安部公房&lt;br /&gt;
* 『[[文武両道]]と死の哲学』1967年（昭和42年） 対：[[福田恆存]] &amp;lt;ref name=&amp;quot;gensen&amp;quot;/&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 『[[ファシスト]]か革命家か』1968年（昭和43年） 対：[[大島渚]] &amp;lt;ref name=&amp;quot;gensen&amp;quot;/&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 『天皇と現代日本の風土』1968年（昭和43年） 対：石原慎太郎&lt;br /&gt;
* 『文武の達人 国防を語る―国防対談』1968年（昭和43年） 対：[[源田実]]&lt;br /&gt;
* 『私の文学を語る』1968年（昭和43年） 対：[[秋山駿]]&lt;br /&gt;
* 『対談・人間と文学』1968年（昭和43年） 対：[[中村光夫]]&lt;br /&gt;
* 『[[デカダンス]]意識と生死観』1968年（昭和43年） 対：[[埴谷雄高]]、[[村松剛]]&lt;br /&gt;
* 『負けるが勝ち』1968年（昭和43年） 対：[[福田赳夫]]&lt;br /&gt;
* 『天に代わりて』1968年（昭和43年） 対：[[小汀利得]] &amp;lt;ref name=&amp;quot;naotake&amp;quot;&amp;gt;のち『[[尚武のこころ]] 三島由紀夫対談集』（日本教文社、1970年。1986年再刊）に所収。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 『戦後の[[デモクラシー]]と反抗する世代』1968年（昭和43年） 対：[[エドワード・G・サイデンステッカー]]、村松剛&lt;br /&gt;
* 『肉体の運動 精神の運動―芸術におけるモラルと技術』1968年（昭和43年） 対：石川淳&lt;br /&gt;
* 『原型と現代小説』1968年（昭和43年） 対：[[山本健吉]]、[[佐伯彰一]]&lt;br /&gt;
* 『[[安全保障|安保]]問題をどう考えたらよいか―腹の底から話そう』1969年（昭和44年） 対：[[猪木正道]]&lt;br /&gt;
* 『「[[葉隠]]」の魅力』1969年（昭和44年） 対：[[相良亨]]&lt;br /&gt;
* 『政治行為の象徴性について』1969年（昭和44年） 対：[[いいだもも]]&lt;br /&gt;
* 『国家革新の原理―学生とのティーチ・イン』1969年（昭和44年） &lt;br /&gt;
:: [[一橋大学]]、[[早稲田大学]]、[[茨城大学]]での講演、討論会。&lt;br /&gt;
* 『[[サムライ]]』1969年（昭和44年） 対：[[中山正敏]] &amp;lt;ref name=&amp;quot;naotake&amp;quot;/&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 『[[討論 三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争]]』1969年（昭和44年）、東京大学教養学部での討論会。&lt;br /&gt;
* 『[[刺客]]と組長―男の盟約』1969年（昭和44年） 対：[[鶴田浩二]] &amp;lt;ref name=&amp;quot;naotake&amp;quot;/&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 『おじさまは男として魅力あるわ』1969年（昭和44年） 対：[[神津カンナ]]&lt;br /&gt;
* 『十年後、[[バイセクシュアル|BIセクシャル]]時代がやってくる?!』1969年（昭和44年） 対：[[美輪明宏|丸山明宏]]&lt;br /&gt;
* 『軍隊を語る』1969年（昭和44年） 対：[[末松太平]]&lt;br /&gt;
* 『日本は国家か―「権力なき国家」の幻想』1969年（昭和44年） 対：[[江藤淳]]、[[高坂正尭]]、[[山崎正和]]、[[武藤光朗]]&lt;br /&gt;
* 『大いなる過渡期の論理―行動する作家の思弁と責任』1969年（昭和44年） 対：[[高橋和巳]] &amp;lt;ref name=&amp;quot;naotake&amp;quot;/&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 『守るべきものの価値―われわれは何を選択するか』1969年（昭和44年） 対：石原慎太郎 &amp;lt;ref name=&amp;quot;naotake&amp;quot;/&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 『現代における右翼と左翼』1969年（昭和44年） 対：林房雄 &amp;lt;ref name=&amp;quot;naotake&amp;quot;/&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 『戦争の谷間に生きて―青春を語る』1969年（昭和44年） 対：[[徳大寺公英]] &amp;lt;ref name=&amp;quot;cd&amp;quot;/&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 『剣か花か―70年代乱世・男の生きる道』1970年（昭和45年） 対：野坂昭如 &amp;lt;ref name=&amp;quot;naotake&amp;quot;/&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 『[[二・二六事件]]と[[全学連]]学生との断絶』1970年（昭和45年） 対：[[堤清二]] &amp;lt;ref name=&amp;quot;naotake&amp;quot;/&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 『尚武の心と憤怒の抒情―文化・ネーション・革命』1970年（昭和45年） 対：[[村上一郎]] &amp;lt;ref name=&amp;quot;naotake&amp;quot;/&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 『&amp;quot;菊と刀&amp;quot;と論ずる』1970年（昭和45年） 対：[[伊沢甲子麿]]&lt;br /&gt;
* 『三島文学の背景』1970年（昭和45年） 対：[[三好行雄]]&lt;br /&gt;
* 『エロスは抵抗の拠点になり得るか』1970年（昭和45年） 対：[[寺山修司]] &amp;lt;ref name=&amp;quot;naotake&amp;quot;/&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 『[[世阿弥]]の築いた世界』1970年（昭和45年） 対：[[ドナルド・キーン]]、[[小西甚一]]&amp;lt;ref&amp;gt;この鼎談自体は、1967年（昭和42年）に行われた&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 『現代歌舞伎への絶縁状』1970年（昭和45年） 対：[[武智鉄二]]&lt;br /&gt;
* 『文学は空虚か』1970年（昭和45年） 対：[[武田泰淳]]&lt;br /&gt;
* 『破裂のために集中する』1970年（昭和45年） 対：石川淳&lt;br /&gt;
* 『三島由紀夫 最後の言葉』1970年（昭和45年） 対：[[古林尚]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 講演・声明 ===&lt;br /&gt;
* 『私はいかにして日本の作家となつたか』1966年（昭和41年）4月18日&lt;br /&gt;
:: [[日本外国特派員協会]]での英語によるスピーチ・質疑応答。&amp;lt;ref name=&amp;quot;cd&amp;quot;&amp;gt;『決定版 三島由紀夫全集第41巻・音声（CD）』（新潮社、2004年）に収録。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 『[[文化大革命]]に関する声明』1967年（昭和42年）3月1日&lt;br /&gt;
:: [[川端康成]]、[[石川淳]]、[[安部公房]]と共同執筆。&lt;br /&gt;
* 『私の自主防衛論』1968年（昭和43年）10月24日&lt;br /&gt;
:: [[日本経済団体連合会|日経連]]臨時総会での特別講演。&lt;br /&gt;
* 『日本の歴史と文化と伝統に立つて』1968年（昭和43年）12月1日&lt;br /&gt;
:: 東京都学生自治体連絡協議会、関東学生自治体連絡協議会主催の講演&amp;lt;ref&amp;gt;この講演｢日本の歴史と伝統に立って｣は、『憂国の論理』（日本教文社、1970年）に収録。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 『日本とは何か』1969年（昭和44年）10月15日&lt;br /&gt;
:: [[大蔵省]]100年記念での講演。&lt;br /&gt;
* 『現代日本の思想と行動』1970年（昭和45年）4月27日&lt;br /&gt;
:: [[政策科学研究所 (派閥)|山王経済研究会]]例会での講演。&lt;br /&gt;
* 『私の聞いて欲しいこと』1970年（昭和45年）5月28日&lt;br /&gt;
:: [[皇宮警察 (宮内省)|皇宮警察]]創立84周年記念講演。&lt;br /&gt;
* 『悪の華―歌舞伎』1970年（昭和45年）7月3日&lt;br /&gt;
:: [[国立劇場]]歌舞伎俳優養成所での特別講演。&amp;lt;ref name=&amp;quot;cd&amp;quot;/&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 『孤立のススメ』1970年（昭和45年）6月11日 &lt;br /&gt;
:: 尚史会主催講演。&lt;br /&gt;
* 『我が国の自主防衛について』1970年（昭和45年）9月3日 &lt;br /&gt;
:: 第3回[[政策科学研究所 (派閥)|新政同志会]]青年政治研修会での講演。&amp;lt;ref name=&amp;quot;cd&amp;quot;/&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 『[[檄 (三島由紀夫)|檄]]』1970年（昭和45年）11月25日&lt;br /&gt;
:: 自衛隊[[市ヶ谷駐屯地]]・[[東部方面総監部]]室のバルコニーから撒かれた声明文と、決起を呼びかける演説。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 詩歌・献句・小品===&lt;br /&gt;
* 『大内先生を想ふ』1934年（昭和9年） &lt;br /&gt;
* 『我が国旗』1936年（昭和11年） &lt;br /&gt;
* 『九官鳥（森たち、第五の喇叭 [[黙示録]]第九章、独白 廃屋のなかの女、星座、九官鳥）』1939年（昭和14年）&lt;br /&gt;
* 『凶ごと（まがごと）』1940年（昭和15年） &lt;br /&gt;
* 『小曲集』1940年（昭和15年） &lt;br /&gt;
* 『青城詩抄』1940年（昭和15年） - 1941年（昭和16年） &lt;br /&gt;
* 『抒情詩抄』1941年（昭和16年） &lt;br /&gt;
* 『[[東文彦|東徤]]兄を哭す』1943年（昭和18年）&lt;br /&gt;
* 『廃墟の朝』1944年（昭和19年）&lt;br /&gt;
* 『別れ』1945年（昭和20年）&lt;br /&gt;
* 『故・[[蓮田善明]]への献詩』1946年（昭和21年） &lt;br /&gt;
* 『新しきコロンブス』1955年（昭和30年）  &lt;br /&gt;
:: [[ニーチェ]]の詩の翻訳。『小説家の休暇』に所収。&lt;br /&gt;
* 『理髪師の衒学的欲望とフットボールの食慾との相関関係』1957年（昭和32年）&lt;br /&gt;
* 『狂女の恋唄』1958年（昭和33年）&lt;br /&gt;
* 『祝婚歌 [[カンタータ]]』1959年（昭和34年） &lt;br /&gt;
:: [[皇太子]]ご結婚祝賀演奏会での祝婚歌。&lt;br /&gt;
* 『[[からっ風野郎|からつ風野郎]]』（同名映画の主題歌）1960年（昭和35年） &lt;br /&gt;
* 『[[お嬢さん (三島由紀夫)|お嬢さん]]』（同名映画の主題歌）1961年（昭和36年）&lt;br /&gt;
* 『黒蜥蜴の歌』、『黒とかげの恋の歌』、『用心棒の歌』1962年（昭和37年） &lt;br /&gt;
:: [[ミュージカル映画]]『[[黒蜥蜴]]』（監督：[[井上梅次]]、主演：[[京マチ子]]）主題歌と挿入歌。&lt;br /&gt;
* 『造花に殺された舟乗りの歌』1966年（昭和41年） &lt;br /&gt;
:: [[美輪明宏|丸山明宏]]チャリティー・リサイタルで、マドロス（船乗り）スタイルで歌唱した。作曲：丸山明宏。&lt;br /&gt;
* 『[[イカロス]]』1967年（昭和42年） &amp;lt;ref name=&amp;quot;taiyou&amp;quot;&amp;gt;のち評論『[[太陽と鉄]]』エピロオグに収録。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 『[[F-104 (戦闘機)|F104]]』1968年（昭和43年） &lt;br /&gt;
:: 自衛隊戦闘機・F104試乗体験の小品。&amp;lt;ref name=&amp;quot;taiyou&amp;quot;/&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 『隊歌―祖国防衛隊』1968年（昭和43年）&lt;br /&gt;
* 『起て! 紅の若き獅子たち―[[楯の会]]の歌』1970年（昭和45年）&lt;br /&gt;
* 『[[辞世の句]]』1970年（昭和45年） &lt;br /&gt;
:: 「益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜」と、&lt;br /&gt;
:: 「散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて 散るこそ花と 吹く小夜嵐」 の2首。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 写真集 ===&lt;br /&gt;
* 『[[薔薇刑]]』1963年（昭和38年） 撮影：[[細江英公]]。1500部限定版。&lt;br /&gt;
* 『男の死』1970年（昭和45年） 撮影：[[篠山紀信]]。未発売。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 映画作品 ==&lt;br /&gt;
=== 原作 ===&lt;br /&gt;
{|class=&amp;quot;prettytable&amp;quot; style=&amp;quot;margin:0 auto&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!nowrap|制作年&lt;br /&gt;
!作品名&lt;br /&gt;
!制作（配給）&lt;br /&gt;
!監督名&lt;br /&gt;
!主な出演者&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[1951年]]&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;[[純白の夜#映画化|純白の夜]]&#039;&#039;&amp;lt;br/&amp;gt;（※[[モノクロ]]映画）&lt;br /&gt;
| [[松竹]]大船&lt;br /&gt;
| [[大庭秀雄]]&lt;br /&gt;
| [[木暮実千代]] [[河津清三郎]]&amp;lt;br/&amp;gt;三島由紀夫（端役）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[1953年]]&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;[[夏子の冒険#映画化|夏子の冒険]]&#039;&#039;&amp;lt;br/&amp;gt;（※[[カラー]]映画）&lt;br /&gt;
| [[松竹]]大船&lt;br /&gt;
| [[中村登]]&lt;br /&gt;
| [[角梨枝子]] [[若原雅夫]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[高橋貞二]] [[桂木洋子]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[淡路恵子]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[1953年]]&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;[[にっぽん製#映画化|にっぽん製]]&#039;&#039;&amp;lt;br/&amp;gt;（※[[モノクロ]]映画）&lt;br /&gt;
| [[大映]]東京&lt;br /&gt;
| [[島耕二]]&lt;br /&gt;
| [[山本富士子]] [[上原謙]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[三田隆]] &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[1954年]]&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;[[潮騒 (1954年の映画)|潮騒]]&#039;&#039;&amp;lt;br/&amp;gt;（※[[モノクロ]]映画）&lt;br /&gt;
| [[東宝]]&lt;br /&gt;
| [[谷口千吉]]&lt;br /&gt;
| [[久保明]] [[青山京子]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[三船敏郎]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[1957年]]&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;[[永すぎた春#映画化|永すぎた春]]&#039;&#039;&amp;lt;br/&amp;gt;（※[[カラー]]映画）&lt;br /&gt;
| [[大映]]東京&lt;br /&gt;
| [[田中重雄]]&lt;br /&gt;
| [[若尾文子]] [[川口浩 (俳優)|川口浩]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[船越英二]] [[角梨枝子]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[1957年]]&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;[[美徳のよろめき#映画化|美徳のよろめき]]&#039;&#039;&amp;lt;br/&amp;gt;（※[[モノクロ]]映画）&lt;br /&gt;
| [[日活]]&lt;br /&gt;
| [[中平康]]&lt;br /&gt;
| [[月丘夢路]] [[葉山良二]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[三國連太郎]] [[宮城千賀子]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[1958年]]&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;[[炎上 (映画)|炎上]]&#039;&#039;&amp;lt;br/&amp;gt;（※[[モノクロ]]映画）&lt;br /&gt;
| [[大映]]京都&lt;br /&gt;
| [[市川崑]]&lt;br /&gt;
| [[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]] [[仲代達矢]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[中村鴈治郎]] [[新珠三千代]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[中村玉緒]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[1959年]]&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;燈台&#039;&#039;&amp;lt;br/&amp;gt;（※[[モノクロ]]映画）&lt;br /&gt;
| [[東宝]]&lt;br /&gt;
| [[鈴木英夫]]&lt;br /&gt;
| [[津島恵子]] [[久保明]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[河津清三郎]] &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[1959年]]&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;[[不道徳教育講座#映画化|不道徳教育講座]]&#039;&#039;&amp;lt;br/&amp;gt;（※[[モノクロ]]映画）&lt;br /&gt;
| [[日活]]&lt;br /&gt;
| [[西河克己]]&lt;br /&gt;
| [[月丘夢路]] [[大坂志郎]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[信欣三]]&amp;lt;br/&amp;gt;三島由紀夫（ナビゲーター）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[1961年]]&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;[[お嬢さん (三島由紀夫)#映画化|お嬢さん]]&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| [[大映]]東京&lt;br /&gt;
| [[弓削太郎]]&lt;br /&gt;
| [[若尾文子]] [[川口浩 (俳優)|川口浩]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[田宮二郎]] &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[1962年]]&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;[[黒蜥蜴#映画化|黒蜥蜴]]&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| [[大映]]東京&lt;br /&gt;
| [[井上梅次]]&lt;br /&gt;
| [[京マチ子]] [[大木実]] [[叶順子 (女優)|叶順子]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[川口浩 (俳優)|川口浩]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[1964年]]&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;[[剣 (小説)#映画化|剣]]&#039;&#039;&amp;lt;br/&amp;gt;（※[[モノクロ]]映画）&lt;br /&gt;
| [[大映]]京都&lt;br /&gt;
| [[三隅研次]]&lt;br /&gt;
| [[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]] [[長谷川明男]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[藤由紀子]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[1964年]]&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;[[潮騒 (1964年の映画)|潮騒]]&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| [[日活]]&lt;br /&gt;
| [[森永健次郎]]&lt;br /&gt;
| [[吉永小百合]] [[浜田光夫]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[1964年]]&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;[[獣の戯れ#映画化|獣の戯れ]]&#039;&#039;&amp;lt;br/&amp;gt;（※[[モノクロ]]映画）&lt;br /&gt;
| [[大映]]東京&lt;br /&gt;
| [[富本壮吉]]&lt;br /&gt;
| [[若尾文子]] [[河津清三郎]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[伊藤孝雄]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[1965年]]&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;[[肉体の学校#映画化|肉体の学校]]&#039;&#039;&amp;lt;br/&amp;gt;（※[[モノクロ]]映画）&lt;br /&gt;
| [[東宝]]&lt;br /&gt;
| [[木下亮]]&lt;br /&gt;
| [[岸田今日子]] [[山崎努]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[山村聰]] [[東恵美子]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[1966年]]&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;[[複雑な彼#映画化|複雑な彼]]&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| [[大映]]東京&lt;br /&gt;
| [[島耕二]]&lt;br /&gt;
| [[田宮二郎]] [[高月毬子|高毬子]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[若山弦蔵]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[1967年]]&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;[[愛の渇き#映画化|愛の渇き]]&#039;&#039;&amp;lt;br/&amp;gt;（※パート[[カラー]]映画）&lt;br /&gt;
| [[日活]]&lt;br /&gt;
| [[蔵原惟繕]]&lt;br /&gt;
| [[浅丘ルリ子]] [[中村伸郎]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[石立鉄男]] [[山内明]] &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[1968年]]&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;[[黒蜥蜴#映画化|黒蜥蜴]]&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| [[松竹]]大船&lt;br /&gt;
| [[深作欣二]]&lt;br /&gt;
| [[美輪明宏|丸山明宏]] [[木村功]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[川津祐介]]&amp;lt;br/&amp;gt;三島由紀夫（端役）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[1971年]]&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;[[潮騒 (1971年の映画)|潮騒]]&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| [[東宝]]&lt;br /&gt;
|[[森谷司郎]]&lt;br /&gt;
|[[朝比奈逸人]] [[小野里みどり]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[1972年]]&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;[[音楽 (小説)#映画化|音楽]]&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| 行動社/[[日本アート・シアター・ギルド|ATG]]&lt;br /&gt;
| [[増村保造]]&lt;br /&gt;
| [[黒沢のり子]] [[細川俊之]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[森次浩司]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[1975年]]&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;[[潮騒 (1975年の映画)|潮騒]]&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| [[東宝]]/ホリ企画制作&lt;br /&gt;
| [[西河克己]]&lt;br /&gt;
| [[山口百恵]] [[三浦友和]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[1976年]]&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;[[金閣寺 (映画)|金閣寺]]&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| たかばやし&amp;lt;br/&amp;gt;よういちプロ/&amp;lt;br/&amp;gt;[[映像京都]]/[[日本アート・シアター・ギルド|ATG]]&lt;br /&gt;
| [[高林陽一]]&lt;br /&gt;
| [[篠田三郎]] [[柴俊夫]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[島村佳江]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[1976年]]&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;[[午後の曳航#映画化|午後の曳航]]&#039;&#039;&amp;lt;br/&amp;gt;英題：The Sailor who&amp;lt;br/&amp;gt; fell from grace with the sea&lt;br /&gt;
| マーティン・ポール＋&amp;lt;br/&amp;gt;ルイス・ジョン・&amp;lt;br/&amp;gt;カルリーノ・プロ/&amp;lt;br/&amp;gt;日本ヘラルド映画&lt;br /&gt;
| [[ルイス・ジョン・カルリーノ]]&lt;br /&gt;
| [[サラ・マイルズ]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[クリス・クリストファーソン]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[1980年]]&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;[[幸福号出帆#映画化|幸福号出帆]]&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| 関文グループ/&amp;lt;br/&amp;gt;三宝プロダクション&amp;lt;br/&amp;gt;/東映セントラル&amp;lt;br/&amp;gt;フィルム&lt;br /&gt;
| [[斎藤耕一]]&lt;br /&gt;
| [[藤真利子]] [[倉越一郎]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[加藤治子]] [[岸田今日子]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[江波杏子]] [[高峰三枝子]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[1983年]]&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;愛の処刑&#039;&#039;&amp;lt;br/&amp;gt;（※榊山保名義）&lt;br /&gt;
| ENKプロモーション&lt;br /&gt;
| [[野上正義]]&lt;br /&gt;
| [[御木平介]] [[石神一]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[1985年]]&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;[[潮騒 (1985年の映画)|潮騒]]&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| [[東宝]]/ホリ企画&lt;br /&gt;
| [[小谷承靖]]&lt;br /&gt;
| [[堀ちえみ]] [[鶴見辰吾]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[1986年]]&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;[[鹿鳴館#映画化|鹿鳴館]]&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| MARUGEN-FILM/&amp;lt;br/&amp;gt;[[東宝]]&lt;br /&gt;
| [[市川崑]]&lt;br /&gt;
| [[浅丘ルリ子]] [[菅原文太]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[沢口靖子]] [[三橋達也]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[2005年]]&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;[[春の雪 (映画)|春の雪]]&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| [[東宝]]&lt;br /&gt;
| [[行定勲]]&lt;br /&gt;
| [[妻夫木聡]] [[竹内結子]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[高岡蒼佑]] [[若尾文子]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[真野響子]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[1998年]]&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;[[肉体の学校#映画化|肉体の学校]]&#039;&#039;&amp;lt;br/&amp;gt;仏題：L&#039;Ecole de la Chair&amp;lt;br/&amp;gt;英題：The School of Flesh&lt;br /&gt;
| ORSANS プロダクション&amp;lt;br/&amp;gt;Pyramide&lt;br /&gt;
| [[ブノワ・ジャコ]]&lt;br /&gt;
| [[イザベル・ユペール]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[ヴァンサン・マルチネス]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[ヴァンサン・ランドン]]&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 主演・出演 ===&lt;br /&gt;
{|class=&amp;quot;prettytable&amp;quot; style=&amp;quot;margin:0 auto&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!nowrap|制作年&lt;br /&gt;
!作品名&lt;br /&gt;
!制作（配給）&lt;br /&gt;
!監督名&lt;br /&gt;
!三島の役柄&lt;br /&gt;
!主な出演者&lt;br /&gt;
!備考&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[1951年]]&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;[[純白の夜#映画化|純白の夜]]&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| [[松竹]][[大船]]&lt;br /&gt;
| 大庭秀雄&lt;br /&gt;
| 端役で特別出演&amp;lt;br/&amp;gt;ダンスパーティーのシーン&lt;br /&gt;
| [[河津清三郎]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[木暮実千代]]&lt;br /&gt;
| ※原作&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[1959年]]&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;[[不道徳教育講座#映画化|不道徳教育講座]]&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| [[日活]]&lt;br /&gt;
| [[西河克己]]&lt;br /&gt;
| 特別出演&amp;lt;br/&amp;gt;冒頭と最後のナビゲーター&lt;br /&gt;
| [[大坂志郎]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[信欣三]]&lt;br /&gt;
| ※原作&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[1960年]]&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;[[からっ風野郎]]&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| [[大映]]東京&lt;br /&gt;
| [[増村保造]]&lt;br /&gt;
| 朝比奈武夫&lt;br /&gt;
| [[若尾文子]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[船越英二]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[志村喬]]&lt;br /&gt;
| ※主演&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[1968年]]&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;[[黒蜥蜴#映画化|黒蜥蜴]]&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| [[松竹]][[大船]]&lt;br /&gt;
| [[深作欣二]]&lt;br /&gt;
| 端役で特別出演&amp;lt;br/&amp;gt;日本人青年の生人形&lt;br /&gt;
| [[美輪明宏|丸山明宏]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[木村功]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[川津祐介]]&lt;br /&gt;
| ※劇化・戯曲作&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[1969年]]&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;[[人斬り (映画)|人斬り]]&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| [[フジテレビジョン|フジテレビ]]&amp;lt;br/&amp;gt;/勝プロ&lt;br /&gt;
| [[五社英雄]]&lt;br /&gt;
| [[田中新兵衛]]&lt;br /&gt;
| [[勝新太郎]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[仲代達矢]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[石原裕次郎]]&lt;br /&gt;
| ※出演&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 監督 ===&lt;br /&gt;
{|class=&amp;quot;prettytable&amp;quot; style=&amp;quot;margin:0 auto&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!nowrap|制作年&lt;br /&gt;
!作品名&lt;br /&gt;
!制作（配給）&lt;br /&gt;
!三島の役柄&lt;br /&gt;
!主な出演者&lt;br /&gt;
!備考&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[1966年]]&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;[[憂国#映画化|憂国]]&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| [[東宝]]/[[日本アート・シアター・ギルド|ATG]]&lt;br /&gt;
| 武山信二中尉&lt;br /&gt;
| 三島由紀夫  [[鶴岡淑子]]&lt;br /&gt;
| ※制作は[[1965年]]&amp;lt;br/&amp;gt;原作・製作・脚色・美術：三島&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 三島本人を題材 ===&lt;br /&gt;
{|class=&amp;quot;prettytable&amp;quot; style=&amp;quot;margin:0 auto&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!nowrap|制作年&lt;br /&gt;
!作品名&lt;br /&gt;
!制作（配給）&lt;br /&gt;
!監督名&lt;br /&gt;
!三島の役&lt;br /&gt;
!他の出演者&lt;br /&gt;
!備考&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[1985年]]&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;[[ミシマ:ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ]]&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| フィルムリンク・&amp;lt;br/&amp;gt;インターナショナル&amp;lt;br/&amp;gt;[[アメリカン・ゾエトロープ]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[ルーカスフィルム]]&lt;br /&gt;
| [[ポール・シュレイダー]]&lt;br /&gt;
| [[緒形拳]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[利重剛]]&amp;lt;br/&amp;gt;(18-19歳)&lt;br /&gt;
| [[坂東三津五郎 (10代目)|坂東八十助]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[佐藤浩市]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[沢田研二]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[永島敏行]]&lt;br /&gt;
| 日本未公開&amp;lt;br/&amp;gt;音楽：&amp;lt;br/&amp;gt;[[フィリップ・グラス]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[2005年]]&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;[[みやび 三島由紀夫]]&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| [[パンドラ (映画会社)|パンドラ]]&lt;br /&gt;
| [[田中千世子]]&lt;br /&gt;
| &lt;br /&gt;
| [[平野啓一郎]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[関根祥人]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[野村万之丞 (5世)|野村万之丞]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[柳幸典]]&lt;br /&gt;
| [[ドキュメンタリー]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[2012年]]&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;[[11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち]]&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| [[若松プロダクション]]&amp;lt;br/&amp;gt;スコーレ株式会社&lt;br /&gt;
| [[若松孝二]]&lt;br /&gt;
| [[井浦新]]&lt;br /&gt;
| [[満島真之介]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[寺島しのぶ]]&lt;br /&gt;
| &lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== テレビドラマ作品 ==&lt;br /&gt;
=== 原作 ===&lt;br /&gt;
* 名作劇場『[[永すぎた春]]』（[[TBSテレビ|KRテレビ]]）、1957年（昭和32年）8月28日 - 9月25日&lt;br /&gt;
* 文学座アワー『灯台』（[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]）、1958年（昭和33年）4月24日&lt;br /&gt;
* [[東芝日曜劇場]]『[[橋づくし]]』（KRテレビ）、1958年（昭和33年）9月7日&lt;br /&gt;
* 『[[卒塔婆小町 (戯曲)|卒塔婆小町]]』（[[NHK総合テレビジョン|NHKテレビ]]）、 1958年（昭和33年）10月30日 &lt;br /&gt;
** [[プロローグ]]に語り部として三島が出演。昭和33年度[[芸術祭]]参加。&lt;br /&gt;
* 木曜観劇会『[[鹿鳴館 (戯曲)|鹿鳴館]]』（[[フジテレビジョン|フジテレビ]]）、1959年（昭和34年）7月9日&lt;br /&gt;
* 『[[不道徳教育講座]]』（フジテレビ）、1959年（昭和34年）10月15日 - 1960年（昭和35年）8月4日&lt;br /&gt;
* お母さん『大障碍』（KRテレビ）、1959年（昭和34年）12月10日&lt;br /&gt;
* 女の四季『[[女神 (小説)|女神]]』（[[テレビ朝日|日本教育テレビ]]）、1960年（昭和35年）10月4日、11日&lt;br /&gt;
* 田辺劇場『[[美徳のよろめき]]』（フジテレビ）、1961年（昭和36年）7月4日 - 9月26日&lt;br /&gt;
* 女の劇場『[[純白の夜]]』（[[ABCテレビ|朝日テレビ]]）、1961年（昭和36年）7月26日&lt;br /&gt;
* [[近鉄金曜劇場]]『鹿鳴館』（[[TBSテレビ]]）、1961年（昭和36年）12月1日、8日&lt;br /&gt;
* 舞踊ホール『[[地獄変 (歌舞伎)|地獄変]]』（[[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]]）、1962年（昭和37年）6月2日&lt;br /&gt;
** 舞踊劇として放映。終了後に三島が出演、アナウンサーと対談。&lt;br /&gt;
* 『[[お嬢さん (三島由紀夫)|お嬢さん]]』（[[関西テレビ放送|関西テレビ]]）、1962年（昭和37年）6月20日 - 7月25日&lt;br /&gt;
* 『[[鏡子の家]]』（TBSテレビ）、1962年（昭和37年）7月4日 - 8月29日&lt;br /&gt;
* バラ劇場『[[潮騒 (小説)|潮騒]]』（TBSテレビ）、1962年（昭和37年）7月10日 - 31日&lt;br /&gt;
* 文芸アワー『[[葵上 (戯曲)|葵上]]』（日本テレビ）、1962年（昭和37年）8月10日&lt;br /&gt;
* 文芸劇場『[[にっぽん製]]』（NHKテレビ）、1963年（昭和38年）1月11日&lt;br /&gt;
* 文芸劇場『潮騒』（NHKテレビ）、1963年（昭和38年）7月5日&lt;br /&gt;
* 近鉄金曜劇場『十九歳』（TBSテレビ）、1963年（昭和38年）11月15日&lt;br /&gt;
* 近鉄金曜劇場『[[剣 (小説)|剣]]』（TBSテレビ）、1964年（昭和39年）5月8日&lt;br /&gt;
* NHK劇場『真珠』（NHKテレビ）、1964年（昭和39年）6月19日&lt;br /&gt;
* ゴールデン劇場『[[美しい星 (三島由紀夫)|美しい星]]』（[[テレビ東京|東京12チャンネル]]）、1964年（昭和39年）8月17日 - 21日&lt;br /&gt;
* 『お嬢さん』（フジテレビ）、1967年（昭和42年）10月8日～1968年（昭和43年）3月31日&lt;br /&gt;
* 東芝日曜劇場『橋づくし』（TBSテレビ）、1968年（昭和43年）9月8日&lt;br /&gt;
* [[おんなの劇場]]『[[春の雪 (小説)|春の雪]]』（フジテレビ）、1970年（昭和45年）2月27日 - 4月3日&lt;br /&gt;
* ドラマ『鹿鳴館』（NHKテレビ）、1970年（昭和45年）4月25日&lt;br /&gt;
* [[銀河テレビ小説]]『永すぎた春』（NHKテレビ）、1975年（昭和50年）3月3日 - 14日&lt;br /&gt;
* [[土曜グランド劇場]]『近眼ママ恋のかけひき』（『[[三島由紀夫レター教室]]』）（日本テレビ）、1977年（昭和52年）6月25日 - 7月23日&lt;br /&gt;
* 青春アニメ『潮騒』（日本テレビ）、1986年（昭和61年）5月2日、9日&lt;br /&gt;
* [[月曜・女のサスペンス]]『復讐・死者からの告発状』（『復讐』）（[[テレビ東京]]）、1988年（昭和63年）10月24日&lt;br /&gt;
* 月曜・女のサスペンス『花火・身代わり首の男』（『花火』）（テレビ東京）、1988年（昭和63年）12月12日&lt;br /&gt;
* 月曜・女のサスペンス『侯爵殺人事件・呪われた別荘』（『[[月澹荘綺譚]]』）（テレビ東京）、1990年（平成2年）12月3日&lt;br /&gt;
* 日本名作ドラマ『美徳のよろめき』（テレビ東京）、1993年（平成5年）6月28日、7月5日&lt;br /&gt;
* [[文學ト云フ事]]『美徳のよろめき』（フジテレビ）、1994年（平成6年）8月9日&lt;br /&gt;
* 朗読紀行 にっぽんの名作『潮騒』（[[NHKデジタル衛星ハイビジョン|NHKハイビジョン]]）、2001年（平成13年)2月4日&lt;br /&gt;
*テレビ朝日開局50周年記念ドラマスペシャル 『鹿鳴館』（テレビ朝日）、2008年（平成20年）1月5日&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
* 『[[皇太子]]ご結婚祝賀演奏会』（NHKテレビ）、1959年（昭和34年）4月10日（[[NHKラジオ第一放送|NHKラジオ第一]]と同時放送）&lt;br /&gt;
** 作詞-三島。作曲-[[黛敏郎]]。演奏-[[NHK交響楽団]]。指揮-[[ウィルヘルム・シュヒター]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ラジオドラマ作品 ==&lt;br /&gt;
=== 原作 ===&lt;br /&gt;
* 連続放送劇『[[潮騒 (小説)|潮騒]]』（[[文化放送]]）、1954年（昭和29年）7月11日 - 9月26日&lt;br /&gt;
* 現代劇場『ボクシング』（文化放送）、1954年（昭和29年）11月21日 （台本構成-三島）&lt;br /&gt;
* 続[[高峰秀子]]ドラマ集『遠乗会』（[[ニッポン放送]]）、1956年（昭和31年）4月13日&lt;br /&gt;
* ラジオ小説『[[女神 (小説)|女神]]』（文化放送）、1956年（昭和31年）6月25日 - 7月20日&lt;br /&gt;
* 大映アワー『[[永すぎた春]]』（[[TBSラジオ&amp;amp;コミュニケーションズ|ラジオ東京]]）、1957年（昭和32年）3月20日 - 5月22日&lt;br /&gt;
* 国際演劇月参加特別番組『[[道成寺 (戯曲)|道成寺]]』（ラジオ東京）、1957年（昭和32年）6月18日&lt;br /&gt;
* 人情夜話『[[橋づくし]]』（ラジオ東京）、1957年（昭和32年）7月1日 - 3日&lt;br /&gt;
* [[淡島千景]]ドラマ集『[[美徳のよろめき]]』（ニッポン放送）、1957年（昭和32年）9月15日、22日&lt;br /&gt;
* 現代劇場『[[班女 (戯曲)|班女]]』（文化放送）、1957年（昭和32年）12月27日&lt;br /&gt;
* シネマ劇場『[[炎上 (映画)|炎上]]』（『[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]』）（ニッポン放送）、1958年（昭和33年）7月27日 - 8月17日 &lt;br /&gt;
* 現代日本文学特集 第5夜『金閣寺』（[[NHKラジオ第2放送|NHKラジオ第二]]）、1959年（昭和34年）6月27日&lt;br /&gt;
** 第二部座談会「作品をめぐって」に三島が出演。&lt;br /&gt;
* 『[[鏡子の家]]』（[[アール・エフ・ラジオ日本|ラジオ関東]]）、1959年（昭和34年）10月19日～1960年（昭和35年）3月16日&lt;br /&gt;
* ラジオのためのオペラ『あやめ』（[[CBCラジオ|中部日本放送]]）、1960年（昭和35年）11月27日 &lt;br /&gt;
** 昭和35年度芸術祭賞。&lt;br /&gt;
* 連続ラジオ小説『潮騒』（[[NHKラジオ第1放送|NHKラジオ第一]]）、1961年（昭和36年）6月26日 - 7月29日&lt;br /&gt;
* ラジオ小説『[[夏子の冒険]]』（NHKラジオ第一）、1962年（昭和37年）10月1日 - 31日&lt;br /&gt;
* お茶の間名作集『潮騒』（ニッポン放送）、1964年（昭和39年）9月1日 - 30日&lt;br /&gt;
* 朝のラジオ小説『[[肉体の学校]]』（[[TBSラジオ&amp;amp;コミュニケーションズ|TBSラジオ]]）、1964年（昭和39年）10月27日 - 11月14日&lt;br /&gt;
* ドラマ・スタジオ8『[[モノローグ]]・ドラマ 船の挨拶』（中部日本放送）、1965年（昭和40年）7月20日&lt;br /&gt;
* 東西傑作文学『美徳のよろめき』（TBSラジオ）、1968年（昭和43年）9月9日 - 10月5日&lt;br /&gt;
* 日曜名作座『[[美しい星 (三島由紀夫)|美しい星]]』（NHKラジオ第一）、1975年（昭和50年）5月25日 - 6月15日&lt;br /&gt;
* 文芸劇場『[[沈める滝]]』（NHKラジオ第一）、1976年（昭和51年）2月28日&lt;br /&gt;
* 名作をたずねて『潮騒』（NHKラジオ第二）、1976年（昭和51年）4月23日、30日&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 朗読 ===&lt;br /&gt;
* 小説『夏子の冒険』（ラジオ東京）、1952年（昭和27年）6月2日 - 30日&lt;br /&gt;
* 連続物語『夏子の冒険』（文化放送）、1953年（昭和28年）6月1日 - 27日&lt;br /&gt;
* 自作朗読『美神』（ラジオ東京）、1954年（昭和29年）7月1日 （朗読-三島）&lt;br /&gt;
* [[私の本棚]]『[[真夏の死]]』（NHKラジオ第一）、1954年（昭和29年）7月15日 - 24日&lt;br /&gt;
* 文学サロン『潮騒』（ラジオ東京）、1955年（昭和30年）5月2日&lt;br /&gt;
* ドラマ自由席『[[熊野 (戯曲)|熊野]]―[[近代能楽集]]のうち』（ラジオ東京）、1961年（昭和36年）11月5日&lt;br /&gt;
* 物語り『真珠』（NHKラジオ第一）、1963年（昭和38年）5月23日&lt;br /&gt;
* ラジオ劇場『[[卒塔婆小町 (戯曲)|卒塔婆小町]]』（ニッポン放送）、1963年（昭和38年）9月15日&lt;br /&gt;
* 自作朗読『サーカス』（[[NHK-FM放送|NHK-FM]]）、1965年（昭和40年）5月1日 （朗読-三島）&lt;br /&gt;
* 朝の朗読『真夏の死』（中部日本放送）、1965年（昭和40年）5月4日 - 25日&lt;br /&gt;
* 朗読『沈める滝』（NHK-FM）、1968年（昭和43年）11月11日 - 30日&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 音楽作品 ==&lt;br /&gt;
* 『[[からっ風野郎]]』（同名の[[大映]]映画の主題歌）&amp;lt;ref name=&amp;quot;cd&amp;quot;/&amp;gt; （[[EPレコード]]）&lt;br /&gt;
: [[キングレコード]]、1960年（昭和35年）3月20日発売。&lt;br /&gt;
: 作詞・歌唱：三島由紀夫。作曲・ギター演奏：[[深沢七郎]]。編曲：[[江口浩司]]。演奏：キングオーケストラ。&lt;br /&gt;
: ※ [[A面/B面|B面]]は[[春日八郎]]の『東京モナリザ』となっている。&lt;br /&gt;
* 『[[お嬢さん (三島由紀夫)|お嬢さん]]』（同名の大映映画の主題歌） （EPレコード）&lt;br /&gt;
: キングレコード、1961年（昭和36年）1月31日発売。&lt;br /&gt;
: 作詞：三島由紀夫。作曲：[[飯田三郎]]。歌唱：[[中原美紗緒]]、キング合唱団。演奏：キングオーケストラ。&lt;br /&gt;
: ※ B面は[[青山ヨシオ]]の『たった一つの花』となっている。&lt;br /&gt;
* 『ポエムジカ 天と海―英霊に捧げる七十二章』 （[[LPレコード]]）&lt;br /&gt;
: タクトレコード、1967年（昭和42年）5月1日発売。&lt;br /&gt;
: 詩：[[浅野晃]]。作曲・指揮：[[山本直純]]。朗読：三島由紀夫。演奏：[[新室内楽協会]]。&lt;br /&gt;
: ※ のちに[[日本コロンビア]]からも1970年（昭和45年）12月に発売。&lt;br /&gt;
* 『英霊の声―三島由紀夫作「[[英霊の聲]]」より』&amp;lt;ref name=&amp;quot;cd&amp;quot;/&amp;gt; （EPレコード）&lt;br /&gt;
: [[クラウンレコード]]、1970年（昭和45年）4月29日発売。&lt;br /&gt;
: 作曲・編曲：[[越部信義]]。朗読：三島由紀夫。竜笛：[[関河真克]]。演奏：クラウン[[弦楽四重奏団]]。&lt;br /&gt;
: 題字「英霊の声」（ジャケット）：三島由紀夫。&lt;br /&gt;
: ※ [[A面/B面|A面]]は『起て! 紅の若き獅子たち―[[楯の会]]の歌』&lt;br /&gt;
* 『起て! 紅の若き獅子たち―[[楯の会]]の歌』&amp;lt;ref name=&amp;quot;cd&amp;quot;/&amp;gt; （EPレコード）&lt;br /&gt;
: クラウンレコード、1970年（昭和45年）4月29日発売。&lt;br /&gt;
: 作詞：三島由紀夫。作曲・編曲：越部信義。歌唱：三島由紀夫と楯の会。&lt;br /&gt;
: ※ B面は『英霊の声―三島由紀夫作「[[英霊の聲]]」より』&lt;br /&gt;
* 『[[軍艦行進曲|軍艦マーチ]]のすべて』 （CD）&lt;br /&gt;
: キングレコード、1998年（平成10年）4月24日発売。演奏・録音日は1968年（昭和43年）3月18日。&lt;br /&gt;
: 作詞：[[鳥山啓]]。作曲：[[瀬戸口藤吉]]。指揮：三島由紀夫。演奏：[[読売日本交響楽団]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== DVDオリジナル作品 ==&lt;br /&gt;
=== 原作 ===&lt;br /&gt;
*『[[近代能楽集]]』ノ内「卒塔婆小町」（株式会社ポルケ）『三島由紀夫DVD戯曲全集』シリーズ、2013年（平成25年）10月31日&lt;br /&gt;
**監督：[[根岸吉太郎]]　出演：[[寺島しのぶ]]、[[北村有起哉]]　音楽：[[吉松隆]] 美術：小川富美夫　衣装：[[黒澤和子]]&lt;br /&gt;
*『[[近代能楽集]]』ノ内「葵上」（株式会社ポルケ）『三島由紀夫DVD戯曲全集』シリーズ、2013年（平成25年）10月31日&lt;br /&gt;
**監督：[[根岸吉太郎]]　出演：[[中谷美紀]]、[[柄本佑]]、[[市川実和子]]　音楽：[[吉松隆]] 美術：小川富美夫　衣装：[[黒澤和子]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連人物 ==&lt;br /&gt;
; [[東文彦]]:年長の友人で『三島由紀夫十代書簡集』（[[新潮社]]、1999年。[[新潮文庫]]、2002年）の大半は東宛である、戦時中の1943年（昭和18年）10月8日に23歳で夭折。三島は、『東文彦作品集』（[[講談社]]、1971年。[[講談社文芸文庫]]で2007年再刊）の出版に尽力し、自決する1ヶ月前に序文を記した。文彦の父・[[東季彦]]によると、三島は死ぬまで、文彦の命日に毎年欠かさず墓前参りに来ていたという&amp;lt;ref name=&amp;quot;mochimaru&amp;quot;/&amp;gt;。なお、東文彦の母方の祖父は[[石光真清]]である。&lt;br /&gt;
; [[安部譲二]]:作家で元ボクサー、暴力団員、[[日本航空]][[客室乗務員]]、[[バー (酒場)|バー]]経営など。三島にボクシングジムを紹介するなどした。当時の安部の半生を題材に、三島は『[[複雑な彼]]』（[[集英社]]、1968年。[[角川文庫]]で2009年再刊）を執筆。この物語の主人公の名前「宮城譲二」は、安部が作家デビューするにあたってペンネームの一部とした。&lt;br /&gt;
; [[天知茂]]:俳優。生涯の持ち役だった[[明智小五郎]]を初めて演じたのは、三島本人から指名され、[[丸山明宏]]初主演でもある1968年（昭和43年）の舞台『[[黒蜥蜴]]』である。三島は劇場プログラムの中で、「もう一人の問題は、相手役の明智小五郎だつた。この[[ダンディ]]、この理智の人、この永遠の恋人を演ずるには、風貌、年恰好、技術で、とてもチンピラ人気役者では追ひつかない。種々勘考の末、天知茂君を得たのは大きな喜びである。映画『[[四谷怪談]]』の、近代味を漂はせたみごとな伊右衛門で、夙に私は君のファンになつてゐたのであつた」&amp;lt;ref&amp;gt;三島由紀夫「『[[黒蜥蜴]]』」（[[東横劇場]]プログラム 1968年4月に掲載）&amp;lt;/ref&amp;gt;と記している。&lt;br /&gt;
; [[伊東静雄]]:[[日本浪曼派]]の詩人。1942年（昭和17年）の三島宛の葉書で、「これからも沢山書いて、新しき星になつて下さい、それを信じて待ちます」と、三島を励ましている。1944年（昭和19年）5月に三島の訪問（序文の依頼）を受けた際のことを、伊東は日記で、「学校に三時頃平岡来る。夕食を出す。俗人、神堀来る。リンゴを呉れる。九時頃までゐる。駅に送る」と記し、リンゴを持参した自分の中学校の教え子と、手ぶらで来て夕食まで食べ、駅まで見送った三島を比べていた。また、その月末の日記では、「平岡からの手紙、面白くない。背のびした無理な文章」と記した（但し三島自身の弁にも、初期の自身の文章を同じように難じる記述がある）。[[小高根二郎]]は『詩人 伊東静雄』の中で、「魚棚の[[丁稚]]あがりの父をもった静雄は、かなり激しい階級的な反発心を秘めていた。（中略）上流の階級に属していた、その[[ボンボン]]（三島）に、なぜ貧乏な俺がサービスしなければならないのか？（中略）静雄は二少年を天秤にかけた常識―自分の俗物性を、日記で由紀夫に押しつけたのである」&amp;lt;ref&amp;gt;[[小高根二郎]]『詩人 伊東静雄』（新潮社、1971年）&amp;lt;/ref&amp;gt;と述べている。伊東歿後、三島は伊東を回想し、「あの人は一個の小人物だつた。それでゐて、飛び切りの詩人だつた」&amp;lt;ref&amp;gt;三島由紀夫「伊東静雄の詩―わが詩歌」（文芸誌・[[新潮]] 1966年11月号に掲載）&amp;lt;/ref&amp;gt;と述べ、その世俗に汚れなかった繊細な魂と詩を哀悼、賞賛した。『伊東静雄全集推薦の辞』でも、「伊東静雄氏は私のもつとも敬愛する詩人であり、客観的に見ても、一流中の一流だと思ふ」と述べている。&lt;br /&gt;
; [[石原慎太郎]]:作家。政治家、[[東京都知事]]。デビュー当時、三島に作家としての先進性を評価される。石原の作品『[[完全な遊戯]]』が文壇で全批判された際も、三島は音楽的で、詩的な文体であると評価する。石原が政界に進出し、三島が石原に対し批判を強めるようになると徐々に離れた。1970年（昭和45年）6月に三島は、石原の政治姿勢を批判する文章『士道について―石原慎太郎への公開状』を、[[毎日新聞]]に発表し、[[村上一郎]]との対談『尚武の心と憤怒の抒情―文化・[[ネーション]]・革命』（[[日本読書新聞]] 1969年12月29日 - 1970年1月5日合併号に掲載）&amp;lt;ref name=&amp;quot;naotake&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;taidan40&amp;quot;/&amp;gt;の中では、「石原と[[小田実]]って、全然同じ人間だよ、全く一人の人格の表裏ですな」と発言し、三島は著名人との対談などで石原の人格を否定する発言を繰り返していた。石原は、三島事件直後の文章『三島由紀夫への弔辞』（[[週刊現代]] 1970年12月10日号に掲載）&amp;lt;ref&amp;gt;『近代作家追悼文集成（42）三島由紀夫』（[[ゆまに書房]]、1999年）に所収。&amp;lt;/ref&amp;gt;の中では、「三島氏も友人に宛てた遺書の中で、たとえ他がこれを狂気といおうとも、と断っている。ということは、氏自身が社会的政治的に見て、あの行動が他から眺めれば、狂気とも愚行ともとれ得ることを承知した上で行なった、他が何といおうと氏にとっては、絶対に社会的政治的な行為であったに違いない」と述べていた。[[野坂昭如]]との対談や自著『三島由紀夫の日蝕』（1991年）などでは、三島に対して否定的な見解も示し、市ヶ谷のバルコニーで絶叫する三島の写真を「グロテスク」、死に方を「奇矯な死に方」&amp;lt;ref&amp;gt;石原慎太郎『三島由紀夫の日蝕』（新潮社、1991年）&amp;lt;/ref&amp;gt;、三島の肉体を「所詮フェイクなものでしかなかった」とも述べており&amp;lt;ref&amp;gt;石原慎太郎「肉体の哲学―老いについて」（[[プレジデント社|プレジデント]] 2001年7月13日号に掲載）&amp;lt;/ref&amp;gt;、そういった石原の見解は、「浅墓な三島理解」だと[[宮崎正弘]]に批判的に書かれた&amp;lt;ref&amp;gt;[[宮崎正弘]]『三島由紀夫の現場』（[[並木書房]]、2006年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。石原は2010年の『別冊太陽 日本のこころ175 三島由紀夫』の中でも、「ゲテモノの肉体」「パフォーマンス」などという物言いをしている&amp;lt;ref&amp;gt;石原慎太郎「今、蘇る危うい予告」（『別冊太陽 三島由紀夫』）（[[平凡社]]、2010年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。{{要出典範囲|石原が三島の死後に、「自分は（三島と）友人だ」と公言していることについて、[[美輪明宏]]からは「政治利用」であると批判されている。|date=2014年4月}}三島自身は晩年のインタビューで、「文壇、編集者に友人は一人もいない」と述べた。また、1970年（昭和45年）11月の[[清水文雄]]宛の書簡にも三島は、「文壇に一人も友人がなくなり、今では信ずべき友は伊沢氏（伊沢甲子麿）一人になりました」と記している。&lt;br /&gt;
; [[伊沢甲子麿]]:教育評論家。1947年（昭和22年）3月、[[国学院大学]]在学中だった伊沢は、豊川登（[[学習院]]教諭、[[ドイツ文学者|ドイツ文学]]）と[[磯部忠正]]（元学習院長、[[磯部俶]]の兄）を介し三島と知り合い、終生の友人となる。初対面の際、伊沢は三島から、「伊沢さんは[[保田與重郎]]さんが好きですか、嫌いですか？」と聞かれ、「保田さんは私の尊敬する人物です。（中略）戦後、保田さんを[[右翼]]だとか[[軍国主義]]だとか言って非難するものがありますが、私はそのような意見とは真向から戦っています」と答えた。その時、三島は、「今、伊沢さんが言われたことで貴方を信頼できる方だと思いました」と言ったという&amp;lt;ref&amp;gt;伊沢甲子麿「思い出の三島由紀夫」（『決定版 三島由紀夫全集第39巻・対談』、付録月報より）(新潮社、2004年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。憂国忌の発起人でもある。&lt;br /&gt;
; [[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]]:歌舞伎出身の映画俳優。大映作品『[[炎上 (映画)|炎上]]』（『[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]』が原作）と『剣』で主役を演じている。撮影現場を見学した日の三島の日記『「炎上」撮影見学 日記（5）―[[裸体と衣裳]]』には、「頭を五分刈にした雷蔵君は、私が前から主張してゐたとほり、映画界を見渡して、この人以上の適り役はない」&amp;lt;ref&amp;gt;三島由紀夫『[[裸体と衣裳]]』（公開日誌で「新潮」 1958年4月 - 1959年9月号に連載）&amp;lt;/ref&amp;gt;と記している。三島自身の信頼も厚く、歌舞伎公演に際しては「目の美しい、清らかな顔に淋しさの漂ふ、さういふ貴公子を演じたら、容姿に於て、君の右に出る者はあるまい。君の演技に、今まで映画でしか接することのなかつた私であるが、『炎上』の君には全く感心した。[[市川崑]]監督としても、すばらしい仕事であつたが、君の主役も、リアルな意味で、他の人のこの役は考へられぬところまで行つていた。ああいふ孤独感は、なかなか出せないものだが、君はあの役に、君の人生から汲み上げたあらゆるものを注ぎ込んだのであらう」&amp;lt;ref&amp;gt;三島由紀夫「[[市川雷蔵 (8代目)|雷蔵]]丈のこと」（[[日生劇場]]プログラム 1964年1月に掲載）、序文として、市川雷蔵『雷蔵、雷蔵を語る』 （飛鳥新社、1995年）に再録されている。&amp;lt;/ref&amp;gt;と激励の文章を送っている。『[[獣の戯れ]]』の映画主演は多忙で、『[[春の雪 (小説)|春の雪]]（『[[豊饒の海]]』第1巻）』の舞台公演は病いで実現しなかった。雷蔵自身、[[増村保造]]監督に、[[二・二六事件]]の青年将校の役もやりたいと相談していたという&amp;lt;ref&amp;gt;[[大西望 (学者)|大西望]]「[[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]]の『微笑』―三島原作映画の市川雷蔵」（『三島由紀夫と映画 三島由紀夫研究2』）（鼎書房、2006年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。1969年（昭和44年）7月に癌で没したが、[[池上本門寺]]での葬儀には、三島も夫妻で参列している。今日でも映画館でリバイバル上映され、関連書籍が多く出版されている。&lt;br /&gt;
; [[江藤小三郎]]:1969年（昭和44年）2月11日、三島自決の前年の[[建国記念の日|建国記念日]]に、[[国会議事堂]]前で遺書「覚醒書」を残して世を警め同胞の覚醒を促すべく[[自決]]した青年。[[明治維新]]の功労者[[江藤新平]]の[[曾孫]]。その至誠と壮絶な諫死は後の[[新右翼]]・[[民族派]]運動に多大な影響を及ぼす。三島は『[[若きサムライのための精神講話|若きサムラヒのための精神講話]]』&amp;lt;ref name=&amp;quot;samurai&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;hyouron35&amp;quot;/&amp;gt;において、｢私は、この[[焼身自殺]]をした江藤小三郎青年の『本気』といふものに、夢あるひは芸術としての政治に対する最も強烈な批評を読んだ一人である｣と記し、その自決の決意に大きな影響を与えたことをうかがわせる。&lt;br /&gt;
; [[遠藤周作]]:作家。[[憂国忌]]発起人として名を連ねるなど、生命を賭して三島が投げかけたメッセージにはファナティックな意図なしに一定の理解を示していた。晩年の代表作『[[深い河]]』は、『[[豊饒の海]]』の影響も多分に受けている。&lt;br /&gt;
; [[川端康成]]:三島の師にして、先輩作家。三島は（かつて[[太宰治]]が[[谷崎潤一郎]]令嬢との結婚を考えたように）川端令嬢との結婚を考えたことがあると言われているが、この件に関しては1951年（昭和26年）3月に、夫人の川端秀子が、「さりげなく、しかし、きっぱりとお断りした」という&amp;lt;ref name=&amp;quot;nichiroku&amp;quot;/&amp;gt;。三島は自決約1年前辺りから、[[楯の会]]に対する川端の冷淡さに失望していたとの証言がある&amp;lt;ref&amp;gt;[[村松剛]]『西欧との対決―[[夏目漱石|漱石]]から三島、[[遠藤周作|遠藤]]まで』（新潮社、1994年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。1971年（昭和46年）1月24日に[[築地本願寺]]で行なわれた三島の葬儀の委員長は川端が務めた。なお、1971年（昭和46年）の[[1971年東京都知事選挙|都知事選挙]]に立候補した[[秦野章]]の応援のため宣伝車に乗るなどの選挙戦に参加した川端は、瑚ホテルで[[按摩]]を取っている時に、突然と起き上がって扉を開けて、「やあ、[[日蓮]]様ようこそ」と挨拶したり、風呂場で音がすると言いながら、再び飛び出していって、「おう、三島君。君も応援に来てくれたか」と言い出したために、按摩は鳥肌が立ち、早々と逃げ帰ったという&amp;lt;ref name=&amp;quot;kontouko&amp;quot;&amp;gt;[[今東光]]「本当の自殺をした男」（[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]] 1972年6月号に掲載）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
; [[北杜夫]]:作家。年齢も近く、同じ山の手生まれから交友が始まり、三島は北の作品を好んで推薦するなどした。ちなみに北の父親の歌人・[[斎藤茂吉]]と三島の伯父で精神科医の[[橋健行]]（母・[[平岡倭文重|倭文重]]の兄）は親友同士であった&amp;lt;ref name=&amp;quot;hashike&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
; [[越路吹雪]]:三島と交友関係にあり&amp;lt;ref&amp;gt;三島由紀夫『現代女優論――[[越路吹雪]]』（[[朝日新聞]] 1961年7月15日号に掲載）。『決定版 三島由紀夫全集第31巻・評論6』（新潮社、2003年）に所収。&amp;lt;/ref&amp;gt;、三島の書いた戯曲『女は占領されない』（1959年9月、[[芸術座]]で上演）の主役・伊津子も演じた。独身時代の三島の恋人だという噂があったが、その時期の三島の本命の恋人は別の一般女性だった&amp;lt;ref&amp;gt;『三島由紀夫の総合研究』（三島由紀夫研究会メルマガ会報、2012年3月19日号）&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;hitamen&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
; [[小島千加子]]:文芸誌「[[新潮]]」での三島担当の編集者。三島事件の当日朝10時30分に、最後の作品の原稿『[[天人五衰]]』（『[[豊饒の海]]』第4巻）を取りに自宅へ行った。その時三島は既に出立しており、お手伝いさんから受け取った。経緯は『三島由紀夫と[[檀一雄]]』（構想社、1980年。[[ちくま文庫]]で再刊、1996年）に詳しい。&lt;br /&gt;
; [[佐々淳行]]:[[警察庁]]官僚。後に初代[[内閣官房]][[内閣安全保障室]]長。[[新左翼]]による暴動鎮圧に警察官僚として従事していたこともあり、三島と意見を交わすことも多く、さらに実姉の[[紀平悌子]]が三島と恋愛関係にあったほか、[[粕谷一希]]や[[石原慎太郎]]など共通の知人もいた。&lt;br /&gt;
; [[清水文雄]]:[[日本浪曼派]]系の国文学者で、[[和泉式部]]研究で著名。学習院時代の恩師で、主宰する「[[文芸文化|文藝文化]]」で、1941年（昭和16年）に筆名「三島由紀夫」を提案し、著作活動を促した。没後に、三島が清水へ送った書簡集『師清水文雄への手紙』（新潮社、2003年）が出版されている。戦前は、学習院在学時の[[皇太子]]（現：[[明仁|今上天皇]]）の担当教師でもあったが、戦後は、発足間もない[[広島大学]]に赴任し終生在住した。&lt;br /&gt;
; [[澁澤龍彦]]:作家・[[フランス文学者]]。1956年（昭和31年）、澁澤が訳した[[マルキ・ド・サド]]の作品集序文を三島に依頼し、快諾を受けてからその没年に至るまで親交があり、公私ともに三島のよき理解者だった。澁澤は追悼文『三島由紀夫氏を悼む』（雑誌・[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ]] 1971年1月号に掲載）の中で、「自分の同世代者のなかに、このようにすぐれた文学者を持ち得た幸福を一瞬も忘れたことはなかった」と三島を賞賛し、一方、三島も澁澤を高く評価していた。三島戯曲の代表作『[[サド侯爵夫人]]』は、澁澤龍彦著『サド侯爵の生涯』（桃源社、1964年。[[中公文庫]]、1983年。他）に始まる一連の著作に想を得ており、澁澤自身序文を書いている。また三島に面と向かって、「近ごろ、兵隊ごっこ（[[楯の会]]）はいかがですか」と（半ば皮肉を交えて）言えるほど親しい間柄だった。親交と信頼の深さを伝える著書・対談『三島由紀夫おぼえがき』（[[立風書房]]、1983年。中公文庫、1986年）がある。三島の死後は、憑かれたように古寺[[巡礼]]の旅に出たという&amp;lt;ref&amp;gt;[[宮崎正弘]]「書評」（『三島由紀夫の総合研究』（三島由紀夫研究会メルマガ会報 2006年12月18日号）[http://melma.com/backnumber_149567_3470670/]。[[澁澤龍彦]]・澁澤龍子『澁澤龍彦の古寺巡礼』（[[平凡社]]コロナ・ブックス、2006年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
; [[篠山紀信]]:写真家。処女出版『篠山紀信と28人のおんなたち』（[[毎日新聞社]]、1968年）に、三島が序文『篠山紀信論』を書いている&amp;lt;ref name=&amp;quot;dansou&amp;quot;&amp;gt;のち『芸術断想 三島由紀夫のエッセイ（4）』（[[ちくま文庫]]、1995年。復刊2010年）に所収。&amp;lt;/ref&amp;gt;。1970年（昭和45年）9月に薔薇十字社で企画が上がり、三島の指名で篠山が撮影した写真集『男の死』が、自決の直前の11月17日に撮影完了し出版が決定した。当初は、[[横尾忠則]]も被写体に加わる予定だったが、病気で入院中の横尾の症状が回復せず三島のみとなった。数点が公開されたのみで、その全容は篠山側の意向もあり、現在にもいたって封印されている。なお自宅書斎・庭園を多数撮影した『三島由紀夫の家』（[[美術出版社]]、1995年。普及版2000年）がある。 &lt;br /&gt;
; [[高橋和巳]]:作家・[[中国文学者]]。三島とは、1969年（昭和44年）に『大いなる過渡期の論理―行動する作家の思弁と責任』（雑誌・潮1969年11月号に掲載）&amp;lt;ref&amp;gt;高橋和巳『生涯にわたる阿修羅として』（徳間書店、1970年）に所収。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;naotake&amp;quot;/&amp;gt;で対談している。三島自決時には、自宅の病床で[[通信社]]のインタビューに応じ、「『[[豊饒の海]]』を書き終わった三島さんはもう書くものが無くなるのでないか。作家として三島さんはどうなるのか、心配だった…」と述べた。文芸誌で、三島の自殺を主題にした談話筆記『自殺の[[形而上学]]』（[[文藝]] 1971年2月号に掲載）と、[[野間宏]]・[[秋山駿]]との座談会『文学者の生きかたと死にかた』（[[群像]] 1971年2月号に掲載）&amp;lt;ref&amp;gt;遺著『自立の思想』（文和書房、1971年）に所収。&amp;lt;/ref&amp;gt;を発表した。なお三島による高橋の作品・人物論は無いが、高橋が訳した[[唐代]]詩人『[[李商隠]] （中国詩人選集15）』（[[岩波書店]]、初版1958年）は、『[[李賀]] （中国詩人選集14）』（[[荒井健]]訳注、初版1959年）と並び三島の蔵書にある。1971年（昭和46年）5月にガンの悪化で、39歳の若さで亡くなっている。&lt;br /&gt;
; [[太宰治]]:三島と太宰の対面の有名なエピソードについて、その場に居合わせた編集者の[[野原一夫]]によれば、酒を飲めない三島が、[[森鴎外]]の文学について太宰治に質問したが、太宰はまともに答えず、なにかはぐらかすように、「鴎外もいいが、全集の口絵のあの軍服姿は、どうもねえ」と顔を横に向けて呟いた。すると、三島は、「ぼくは、太宰さんの文学はきらいなんです」とまっすぐ太宰の顔を見て、にこりともせずに言ったという。そして一瞬、座が静かになり、「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」と吐き捨てるように太宰は言って、顔をそむけたのだという&amp;lt;ref&amp;gt;[[野原一夫]]『回想 [[太宰治]]』（[[新潮社]]、1980年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし、他のその場に居合わせた詩人の[[中村稔 (詩人)|中村稔]]によると、太宰はそう言ったあとで、それがきっかけで場がしらけてしまったのをまずいと思ったのか、「そんなこといったって、ここに来ているんだからやっぱり好きなんだよなあ」と、誰へ言うともなく、あわてて言ったという。また、宴会が終わったあとで、「あの三島という学生はいろんな雑誌で作品を出していますよ」というのを太宰は聞いて、「彼の小説を読んでいたら俺も話もできていたのになあ」と、事前に三島を紹介されていれば応対も違い、文学の話もできたと残念がっていたという&amp;lt;ref name=&amp;quot;andou&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;nichiroku&amp;quot;/&amp;gt;。この挿話のように、三島は太宰嫌いを公言し、そのことは夙に有名だが、その一方、翌年の1947年（昭和22年）10月の[[川端康成]]宛の書簡の中では、「太宰治氏『[[斜陽]]』第三回も感銘深く読みました。滅亡の抒事詩に近く、見事な芸術的完成が予見されます。しかしまだ予見されるにとどまつてをります。完成の一歩手前で崩れてしまひさうな太宰氏一流の妙な不安がまだこびりついてゐます」 とも述べていた。&lt;br /&gt;
; [[田宮二郎]]:俳優。田宮本人の希望で『[[複雑な彼]]』（[[大映]]、1968年）に主演、学習院の後輩でもある。1978年（昭和53年）12月28日、自宅で猟銃自殺を遂げている。43歳没。&lt;br /&gt;
; [[堤清二]]:[[実業家]]。自身も筆名「辻井喬」などで小説や詩などを書き、三島とも交友が深かった。三島が「[[楯の会]]」の制服を制作するにあたり、五十嵐九十九（[[シャルル・ド・ゴール|ドコール]]の制服の[[デザイナー]]）を手配するなどの便宜をはかった。また[[三島事件]]直後に開かれた三島の追悼会には、ポケットマネーから資金を提供した他、三島映画上映企画などでも会場を提供するなど、三島の死後も協力&amp;lt;ref name=&amp;quot;merututumi&amp;quot;&amp;gt;『三島由紀夫の総合研究』（三島由紀夫研究会メルマガ会報 2013年11月29日号）&amp;lt;/ref&amp;gt;している。なお堤が逝去した日は、三島の命日（[[憂国忌]]）と同日であった&amp;lt;ref name=&amp;quot;merututumi&amp;quot;/&amp;gt;。86歳没。&lt;br /&gt;
; [[手塚治虫]]:[[漫画家]]。三島がモデルと思われる作家が主人公の中編『[[ばるぼら]]』（[[ビッグコミック]] 1973年 - 1974年に連載）を描いており、三島を終生のライバルの一人として見なしていたとされる。これに対して三島は生前、『[[劇画]]における若者論』&amp;lt;ref name=&amp;quot;gekiga&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;hyouron36&amp;quot;/&amp;gt;の中で、「劇画や漫画の作者がどんな思想を持たうと自由であるが、[[啓蒙思想|啓蒙]]家や教育者や図式的風刺家になつたら、その時点でもうおしまひである。かつて颯爽たる『[[鉄腕アトム]]』を想像した手塚治虫も、『[[火の鳥 (漫画)|火の鳥]]』では[[日教組]]の御用漫画家になり果て…」と手塚の作風的変遷を辛辣に批判した。&lt;br /&gt;
; [[徳川義恭]]:[[学習院]]の先輩。1949年（昭和24年）12月12日、若くして病没した。享年28。[[尾張徳川家]]分家の出身で、[[皇族]]との縁戚関係があり、実兄[[徳川義寛]]は、半世紀にわたり[[昭和天皇]]の[[侍従]]・侍従長を務めた。なお三島の短編『貴顕』は徳川義恭をモデルにしている。&lt;br /&gt;
; [[中村歌右衛門 (6代目)|中村歌右衛門（六世）]]:三島が終生讃辞を惜しまなかった[[歌舞伎役者]]。六世中村歌右衛門をモデルにした短編に『女方』がある。『女方』は、最初の歌舞伎台本『[[地獄変 (歌舞伎)|地獄変]]』を上演したときの体験をもとにして書かれたとされる&amp;lt;ref name=&amp;quot;jiten&amp;quot;&amp;gt;『三島由紀夫事典』（[[明治書院]]、1976年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。これ以後も三島は、歌右衛門のために、『[[熊野 (歌舞伎)|熊野]]』、『[[芙容露大内実記]]』などの台本を書き、また、『中村芝翫論』、『六世中村歌右衛門序説』などの評論も書いている。&lt;br /&gt;
; [[中村伸郎]]:俳優。三島が劇団「[[文学座]]」を脱退した際、当時劇団の主要幹部でありながら三島に追随して「文学座」を離れ、以降、「[[劇団NLT]]」「[[浪曼劇場]]」と、演劇面においては三島が自決するまで行動を共にした。後年、「三島の政治信条には全く共鳴しなかったが、あの人の書く戯曲の美しさには心底惚れ込んでいた。だから文学座も迷うことなく辞めた」と語っている。『[[わが友ヒットラー]]』ではクルップを演じた。&lt;br /&gt;
; [[長沢節]]:画家。若き日の三島が、彼に興味を持ち池袋椎名町のアトリエにしょっちゅう現れ、片隅で紙に絵を描いていた。{{要出典範囲|彼が書いた小説を三島がほめ、[[鎌倉文庫]]発行の文芸誌「[[人間 (雑誌)|人間]]」の臨時増刊号のために、編集長・[[木村徳三]]に原稿を持ち込んだが、時を置かず鎌倉文庫がつぶれたため実現せず、その後の三島が右翼的言動を強めたので距離を置くようになる。|date=2014年4月}}&lt;br /&gt;
; [[西尾幹二]]:[[ドイツ文学者]]、[[ニーチェ]]研究家。評論家。西尾の最初期の著作『ヨーロッパ像の転換』（新潮選書、1969年）に、三島は、[[手塚富雄]]（西尾の師のドイツ文学者）と共に推薦文を書いている。また三島は、[[三好行雄]]との対談『三島文学の背景』（「国文学」 1970年5月臨時増刊号に掲載、至文堂）の中で、「新潮の二月号に西尾幹二さんがとてもいい評論を書いている。芸術と生活の二元論というものを、私がどういうふうに扱ったか、だれがどういうふうに扱ったかについて書いている」と、西尾の『文学の宿命―現代日本文学にみる終末意識』（「新潮」 1970年2月号に掲載）に言及し評価していた。西尾は三島の死の直後も、三島論『不自由への情熱―三島文学の孤独』（「新潮」 1971年2月号に掲載）&amp;lt;ref&amp;gt;[[西尾幹二]]『三島由紀夫の死と私』（[[PHP研究所]]、2008年）に収録。&amp;lt;/ref&amp;gt;を執筆した。[[憂国忌]]の代表発起人でもある。&lt;br /&gt;
; [[林房雄]]:尊敬し交流していた作家、評論家。『林房雄論』（限定版 新潮社、1963年）&amp;lt;ref&amp;gt;のち『作家論』（中央公論社、1970年。中公文庫、1974年）に収録。&amp;lt;/ref&amp;gt;を書き、共著『対話・日本人論』（番町書房、1966年）がある。東大法学部の先輩でもある。三島の自決後は、[[憂国忌]]の運営に積極的に参加し、『悲しみの琴 三島由紀夫への鎮魂歌』（[[文藝春秋]]、1972年）ほか多数の論考を著した。&lt;br /&gt;
; [[蓮田善明]]:[[日本浪曼派]]系の[[国文学者]]で「[[文芸文化|文藝文化]]」を主宰した。元[[陸軍中尉]]。三島の少年時代の「感情教育の師」。敗戦時の1945年（昭和20年）8月19日、駐屯地の[[マレー半島]]の[[ジョホールバル]]で、天皇を愚弄した上官を射殺し、自決した。『全集』（全1巻）（島津書房、1989年）が刊行されている。&lt;br /&gt;
; [[土方巽]]:[[舞踏家]]、[[振付家]]。 [[暗黒舞踏|暗黒舞踏派]]の創始者であり、三島に深く傾倒していた。1959年（昭和34年）には、三島の小説『[[禁色 (小説)|禁色]]』と同名の舞踏作品を発表している。三島も土方の存在感に「震撼させられていた形跡があり」（[[澁澤龍彦]]談）、土方同様、三島の肉体を被写体とする写真集『[[薔薇刑]]』（限定版 [[集英社]]、1963年）&amp;lt;ref name=&amp;quot;bara&amp;quot;&amp;gt;のち、横尾忠則装幀による『新輯 薔薇刑』（集英社、1971年）、復刻版『薔薇刑』（新版 集英社、1984年）が出版されている&amp;lt;/ref&amp;gt;の製作につながっていく。『薔薇刑』の撮影では、土方は、自らのスタジオを提供し、後に夫人となる元藤燁子と共に撮影に参加している。&lt;br /&gt;
; [[福田恆存]]:英文学者、[[劇作家]]・[[演出家]]、保守派の論客。鉢の木会の同人仲間として三島と親しかった。福田が、「[[文学座]]」から分裂し「[[劇団雲]]」結成を発表する前夜に、三島にも参加を呼びかけたが、大勢が決した後に声がかかったことが不服だったためか、三島はこれを拒否し、以後は共に演劇活動はしなかった。一方で三島は「劇団雲」の機関紙に寄稿し、1967年（昭和42年）に対談『文武両道と死の哲学』（論争ジャーナル11月号に掲載）&amp;lt;ref name=&amp;quot;samurai&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;gensen&amp;quot;/&amp;gt;も行うなど、関係断絶には至ってはない&amp;lt;ref&amp;gt;双方の弟子による対論、[[持丸博]]・佐藤松男『証言 三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決』（文藝春秋、2010年）があり、冒頭に上記対談も収録されている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
; [[藤原岩市]]:三島由紀夫を自衛隊体験入隊に導いた人物で、元[[陸将|陸軍将官]]、[[陸上自衛隊小平学校|自衛隊調査学校]]学校長。三島の自衛隊体験入隊から深く関与している。&lt;br /&gt;
; [[細江英公]]:写真家。昭和30年代半ば、当時新進気鋭の若手写真家であった細江が、舞踏家・[[土方巽]]を撮影した写真を、三島はいたく気に入り、自身の評論集『美の襲撃』（[[講談社]]、1961年）の口絵写真を依頼する。これを契機に、[[ボディービル]]に傾倒していた三島自身の肉体を被写体とした写真集『[[薔薇刑]]』』（限定版 [[集英社]]、1963年）&amp;lt;ref name=&amp;quot;bara&amp;quot;/&amp;gt;の一連の撮影が行なわれた。『薔薇刑』は、細江自身のみならず、戦後昭和を代表する写真集になり、英語版も数度出版された。&lt;br /&gt;
; [[増村保造]]:映画監督。東大法学部の同窓生で、三島主演の映画『[[からっ風野郎]]』を監督するに際し、三島の未熟な演技を遠慮なく罵倒し、三島を徹底的にしごいた。撮影中の事故で三島が頭部を強打して[[脳震盪]]で病院に担ぎ込まれたとき、[[平岡梓]]は、「息子の頭をどうしてくれるんだ!」と激怒し、三島自身は友人[[ロイ・ジェームス]]に向かって「増村を殴ってきてくれよ、ロイ!」と喚いたと伝えられる&amp;lt;ref&amp;gt;湯浅あつ子『ロイと鏡子』（[[中央公論社]]、1984年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし一方で、映画が完成し三島邸に招待された際、増村は梓から、「下手な役者をあそこまできちんと使って頂いて」と礼を言われたという。三島に怪我をさせて申し訳ないと思っていたのに逆に礼を言われ、帰り道、増村は、「明治生まれの男は偉い」と、梓をほめていたという&amp;lt;ref name=&amp;quot;fujii&amp;quot;/&amp;gt;。また[[岸田今日子]]と共に、晩年の増村保造も三島への回想文&amp;lt;ref&amp;gt;「[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ 詩と批評]] 特集三島由紀夫」（1986年5月号、青土社）に掲載&amp;lt;/ref&amp;gt;を書いている。&lt;br /&gt;
; [[美輪明宏]]:歌手、俳優。10代の時、美輪の[[アルバイト]]先の[[シャンソン]]喫茶『[[銀巴里]]』に客としてやってきた、当時若き新進気鋭の作家だった三島と出会い、「天上界の美」とその美貌を絶賛される。以降、三島の戯曲に多く出演し、『[[卒塔婆小町 (戯曲)|卒塔婆小町]]』&amp;lt;ref name=&amp;quot;kinndai&amp;quot;/&amp;gt;、『双頭の鷲』、三島が脚本を手がけた『[[黒蜥蜴]]』は今でも定番であり、近年では演出も手がけている。三島は[[自決]]決行に先駆けて、永訣として「[[バラ|薔薇]]の花束」を持って[[楽屋]]の美輪を訪れ、胸に秘めた別れを惜しんだという。三島の衝撃的な自決後、一気に髪が白髪になったといわれる。なお自伝著作『紫の履歴書』の初版（大光社、1968年）には、三島が序文を寄せている。&lt;br /&gt;
; [[村上一郎]]:作家、文芸評論家。[[クリスチャン]]で右派的な思想も持ち、独自視線の戦争批判が冴える。三島と頻繁に会談した。二人の対談は『尚武の心と憤怒の抒情―文化・[[ネーション]]・革命』（[[日本読書新聞]] 1969年12月29 - 1970年1月5日合併号に掲載）&amp;lt;ref name=&amp;quot;naotake&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;taidan40&amp;quot;/&amp;gt;に詳しい。村上の『[[北一輝]]論』（[[三一書房]]、1970年）は三島に高く評価された。村上は、三島の決起のニュースを聞き、[[市ヶ谷駐屯地]]に駆けつけ門衛に誰何された際、「自分の官姓名は[[正七位]][[海軍]][[主計]][[大尉]]村上一郎である」と叫んだという。1975年（昭和50年）自宅で[[自刃]]した。&lt;br /&gt;
; [[村松英子]]:女優。三島と友人であった実兄・[[村松剛]]を介し三島と知り合い師事。三島戯曲の舞台に多数出演した。1963年（昭和38年）、「[[喜びの琴事件]]」では、三島、[[中村伸郎]]らと共に「[[文学座]]」を脱退し、「[[劇団雲]]」を経て「[[劇団NLT]]」に所属。1968年（昭和43年）には、再び三島らと共に「劇団NLT」を脱退し、「劇団[[浪曼劇場]]」の旗揚げに参加した。三島との思い出を綴った『三島由紀夫 追想のうた』（阪急コミュニケーションズ、2007年）がある。[[憂国忌]]の代表発起人でもある。&lt;br /&gt;
; [[山本舜勝]]:[[陸上自衛隊小平学校|陸上自衛隊調査学校]]情報教育課長。三島らを自衛隊調査学校で直接指導した陸上自衛官、元[[陸軍少佐]]。元[[陸軍中野学校]]研究部員兼教官。三島の決起に至るまでの過程に深く関与し、「[[楯の会]]」の事実上の指導官であった。[[陸将補]]で退官後に、三島に関する著書を回想&amp;lt;ref&amp;gt;山本舜勝『三島由紀夫・憂悶の祖国防衛賦―市ケ谷決起への道程と真相』（日本文芸社、1980年）、『自衛隊「影の部隊」―三島由紀夫を殺した真実の告白』 （講談社、2001年）&amp;lt;/ref&amp;gt;など数冊出している。&lt;br /&gt;
; [[矢頭保]]:写真家。三島は、矢頭の作品集『体道・日本のボディビルダーたち』（ウェザヒル出版社、1966年）に序文を寄せており、自身でモデルも務めている。また、『[[裸祭り]]』（[[美術出版社]]、1969年）にも序文を寄せている。&lt;br /&gt;
; [[保田與重郎]]:[[日本浪曼派]]の作家、[[文芸評論家]]。1942年（昭和17年）11月に三島は、学習院の講演依頼のため[[清水文雄]]と共に保田を初訪問する。以後、何度か三島は保田を訪れる。三島の死後、その時の回想『天の時雨』（新潮 1971年1月臨時増刊号に掲載）&amp;lt;ref&amp;gt;『保田與重郎全集第10巻』（講談社、1986年）に所収。&amp;lt;/ref&amp;gt;などを保田は綴っている。&lt;br /&gt;
; [[横尾忠則]]:[[美術家]]、[[グラフィックデザイナー]]。三島は横尾の絵を気に入り、1968年（昭和43年）に『ポップコーンの心霊術―[[横尾忠則]]論』&amp;lt;ref name=&amp;quot;dansou&amp;quot;/&amp;gt;を書いている。1970年（昭和45年）9月に薔薇十字社で企画が上がり、三島の指名で篠山が撮影した写真集『男の死』が、自決直前の11月17日までに撮影されたが、当初は、横尾忠則自身も被写体になる予定だった。しかし、病気で入院中の横尾の症状が回復せず、三島だけとなった。これら写真は数点が公開されたのみである。また、横尾の装幀による『新輯 [[薔薇刑]]』（集英社、1971年）の装画を見た三島は、自死の直前の11月22日の夜、横尾に電話を入れ、「この絵は俺の[[涅槃]]像だろう？ これは間違いなく俺の涅槃像だ」、「足の病気は俺が治して歩けるようにしてやる」、「これで君はいつ[[インド]]へ行ってもいいだろう」と言っていたという&amp;lt;ref&amp;gt;横尾忠則「三島由紀夫氏のこと」『横尾忠則 画境の本懐（道の手帳）』（河出書房新社、2008年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。それ以前に三島は横尾に、「人間にはインドに行ける者と行けない者があり、さらにその時期は運命的な[[カルマ]]が決定する」と言っていたという&amp;lt;ref&amp;gt;横尾忠則『インドへ』（文藝春秋、1977年、文春文庫、1983年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
; [[吉田健一 (英文学者)|吉田健一]]:[[英文学者]]、作家。父は首相・[[吉田茂]]、母方の祖父は[[宮内大臣]]・[[牧野伸顕]]、曽祖父は[[大久保利通]]。[[鉢の木会]]の同人仲間として一時期は交流があったが、不和を生じ断交。その原因は、三島の転居に際して、平岡家の家具の値段を次々と大声で値踏みした吉田の無神経さに三島が立腹したためとも、同時期に力作『[[鏡子の家]]』を酷評したためという説もあるが&amp;lt;ref name=&amp;quot;nathan&amp;quot;&amp;gt;[[ジョン・ネイスン]]『三島由紀夫―ある評伝』（新潮社、2000年）&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[都知事]]選を舞台にした『宴のあと』刊行に際し、訴訟を起こした元外相・[[有田八郎]]と旧知の仲だった吉田が、有田側に立った発言をしたため、三島と互いに感情的な反撥になったというのが原因とされ&amp;lt;ref name=&amp;quot;inose&amp;quot;/&amp;gt;、実際に三島が「[[鉢の木会]]」を脱退した日も、『宴のあと』第5回公判後となっている&amp;lt;ref name=&amp;quot;nenpu&amp;quot;/&amp;gt;。三島自決に際し追悼記は「三島さんのこと」、「文士」があり、著書『詩と近代』（[[小沢書店|小澤書店]]、1975年）に収録された。&lt;br /&gt;
; [[アーサー・C・クラーク]]:[[20世紀]]を代表する著名な[[SF作家]]。三島は[[サイエンス・フィクション|SF]]好きとしても知られており、1962年（昭和37年）、SF的な小説『[[美しい星 (三島由紀夫)|美しい星]]』にも挑戦し、1963年（昭和38年）9月にはSF同人誌「[[宇宙塵 (同人誌)|宇宙塵]]」第71号の中で、「私は心中、近代[[ヒューマニズム]]を完全に克服する最初の文学はＳＦではないか、とさへ思つてゐるのである」&amp;lt;ref&amp;gt;三島由紀夫『一Ｓ・Ｆファンのわがままな希望』（[[宇宙塵 (同人誌)|宇宙塵]]」第71号に掲載）&amp;lt;/ref&amp;gt;と述べていた。また、[[荒井欣一]]・[[北村小松]]等が主宰する「[[日本空飛ぶ円盤研究会]]」にも所属していた。三島はクラークの大ファンでもあり、著作はほとんど読んでいて、[[アポロ計画]]華やかなりし[http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0168.html 1968年]公開の映画『[[2001年宇宙の旅]]』も鑑賞した&amp;lt;ref&amp;gt;[http://norisugi.com 『三島由紀夫会見記』（乗杉綜合法律事務所ホームページ・エッセー欄 参照のこと）]&amp;lt;/ref&amp;gt;。晩年に『[[幼年期の終り]]』に関する感想を、「私の読んだおよそ百篇に余るSFのうち、随一の傑作と呼んで憚らない」、「不快な傑作」として、評論『小説とは何か』&amp;lt;ref name=&amp;quot;nanika&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;hyouron34&amp;quot;/&amp;gt;の中で語っている。また、三島は、随想『[[F-104 (戦闘機)|F104]]』（1968年）&amp;lt;ref name=&amp;quot;taiyou&amp;quot;/&amp;gt;や、[[澁澤龍彦]]との対談『[[稲垣足穂|タルホ]]の世界』（1970年5月）&amp;lt;ref&amp;gt;澁澤龍彦『三島由紀夫おぼえがき』（[[立風書房]]、1983年。中公文庫、1986年）に所収。&amp;lt;/ref&amp;gt;などで宇宙飛行に触れ、澁澤との対談では、「宇宙の深淵の中に、男性原理の根本的なものとのつながりがある」と言及し、4月の[[アポロ13号]]の[[アポロ計画|月面探査]][[ミッション]]失敗に触れている。同対談では、映画『[[2001年宇宙の旅]]』の持つ[[神話学|神話学的]]含意を仄めかしていると思われる箇所も見受けられる。[[宇宙船]]「[[ディスカバリー]]号」が「[[精子]]」の形をしているのは有名な話であるが、随想『F104』にも類似の表現が見られる。また一方で、クラークの長編『グランド・バンクスの幻影』には、三島の『[[仮面の告白]]』への言及がある。&lt;br /&gt;
; [[アイヴァン・モリス]]:友人の[[日本文学者]]。三島の『[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]』英訳者であり、モリスの著書『[[光源氏]]の世界』が1965年（昭和40年）、イギリスで文学賞を受賞した際、三島も訪英しており授賞式に立ち会った。&lt;br /&gt;
; [[エドワード・G・サイデンステッカー]]:日本文学者。三島作品の翻訳を手がけるが、政治的傾向を深めて行く三島とは、徐々に疎遠になっていったようである。&lt;br /&gt;
; [[ドナルド・キーン]]:友人の日本文学者。三島の良き理解者で、高く評価していた。たびたび回想・作家論を出している。キーン宛ての三島書簡を公開した『三島由紀夫未発表書簡―ドナルド・キーン氏宛の97通』（中央公論社、1998年。中公文庫、2001年）&amp;lt;ref&amp;gt;『決定版 三島由紀夫全集第38巻・書簡』(新潮社、2004年）にも所収。&amp;lt;/ref&amp;gt;が出されている。&lt;br /&gt;
; [[ビョーク]]:[[アイスランド]]出身の歌手。少女時代からの三島の熱心なファンと伝えられる。三島の初版本を集めているともいう。来日した際に、「ミシマの作品くらいは読まなくてはね」と述べた。&lt;br /&gt;
; [[フランシス・フォード・コッポラ]]:『[[ゴッドファーザー]]』『[[地獄の黙示録]]』等で知られる[[サンフランシスコ]]在住の映画監督。[[ジョージ・ルーカス]]と共に『[[Mishima: A Life In Four Chapters|MISHIMA]]』をプロデュース。『[[鏡子の家]]』の映画化権を取得。コッポラは、『地獄の黙示録』構想時、各所にちりばめられた神話的[[メタファー]]、ラストの東洋的[[ニヒリズム]]など、三島の『[[豊饒の海]]』から[[モチーフ]]のヒントを得たと語っている。また、現代文明に疑問を抱き[[アメリカ陸軍特殊部隊群|グリーンベレー]]に志願した38歳の中年カーツ大佐の人物造型は三島が原型にあるともいわれている。&lt;br /&gt;
; [[ヘンリー・スコット・ストークス|ヘンリー・スコット＝ストークス]]:イギリスの[[ジャーナリスト]]。[[ロンドン]]の「[[タイムズ]]」東京支局長だった。1970年（昭和45年）9月3日に三島を食事に招いた。その時の三島の様子を、「食事の後、三島は再び暗い話を始めた。日本にはいろんな呪いがあり、歴史上に大きい役割を果たしてきたと言う。[[近衛家]]は、九代にわたって[[嗣子]]が夭折した云云。今夜は様子が違う。延々とのろいの話。日本全体が[[呪い]]にかかっていると言い出す。日本人は金に目がくらんだ。精神的伝統は滅び、[[物質主義]]がはびこり、醜い日本になった…と言いかけて、奇妙な比喩を持ち出した。『日本は緑色の蛇の呪いにかかっている』 これを言う前に、一瞬だが、躊躇したような気がした。さらにこう説明した。『日本の胸には、緑色の蛇が喰いついている。この呪いから逃れる道はない』 ブランデーを飲んでいたが、酔って言ったのではないことは確実だ。どう解釈すればいいのか」とヘンリー・スコット＝ストークスは述べている&amp;lt;ref&amp;gt;[[ヘンリー・スコット・ストークス|ヘンリー・スコット＝ストークス]]『三島由紀夫 生と死』[[徳岡孝夫]]訳（清流出版、1998年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
; [[マルグリット・ユルスナール]]:フランスの女性作家。深い[[西洋古典学]]の教養を有し、[[多田智満子]]の訳による硬質かつ格調高い作品群で知られる。欧米における三島の深い理解者の一人で作家論『三島あるいは空虚のヴィジョン』訳・澁澤龍彦（河出書房新社、1982年。河出文庫、1995年）がある&amp;lt;ref&amp;gt;新版は、『澁澤龍彦翻訳全集15巻』（河出書房新社、2003年）や、『ユルスナール・セレクション5．空間の旅・時間の旅』（[[白水社]]、2002年）にも収録、ISBN 4560047154。&amp;lt;/ref&amp;gt;。女性初の[[アカデミー・フランセーズ]]会員でもあった。&lt;br /&gt;
; [[シガニー・ウィーバー]]:『[[エイリアン]]』で知られる[[ハリウッド]]の女優。映画『[[黒蜥蜴]]』を鑑賞後、[[リメイク]]化権を取得。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 憂国忌 ==&lt;br /&gt;
1970年（昭和45年）12月11日、「三島由紀夫氏追悼の夕べ」が、[[林房雄]]を発起人総代とした実行委員会により、池袋の[[豊島公会堂]]で行われた。これが後に追悼集会「憂国忌」となる。司会は[[川内康範]]と[[藤島泰輔]]、実行委員は[[民族派]]学生（[[日本学生同盟]]）で、集まった人々は3,000人以上となる。500人収容の会場に入りきれず、近くの中池袋公園に集まった。この時は、事件に対する政府首脳やマスコミの反応に同調し、追悼参加を躊躇した文化人が多かったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌年1971年（昭和46年）11月25日、「憂国忌」（第2回追悼の夕べ）が、林房雄を発起人代表として[[九段会館]]で行なわれた。[[乃木神社]]宮司・高山貢を斎主にした[[鎮魂祭]]、[[黛敏郎]]ほかの追悼挨拶・献花、映画『[[炎上 (映画)|炎上]]』の上演、空手や剣道の奉納演武などが催された。楽屋には三島の父・[[平岡梓]]が林房雄を訪ね、礼を述べにやって来たという&amp;lt;ref name=&amp;quot;yuukokuki&amp;quot;&amp;gt;三島由紀夫研究会編『「憂国忌」の四十年 三島由紀夫氏追悼の記録と証言』）（並木書房、2010年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。以降、「憂国忌」は毎年行なわれている。福岡でも1971年（昭和46年）から毎年、[[新嘗祭]]の11月23日には「福岡憂国忌」が行なわれているという。また、「憂国忌」のほか、毎年11月24日には「野分祭」という[[森田必勝]]の[[辞世の句]]にちなんで名づけられた追悼会も、[[一水会]]主催により行なわれているという&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.issuikai.jp/katudou_file/katudou2008nowaki.html 一水会公式サイト]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
名称が「憂国忌」に決まるまでには、「潮騒忌」、「金閣忌」などの案もあったという&amp;lt;ref name=&amp;quot;yuukokuki&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== おもな発起人 ===&lt;br /&gt;
; 追悼の夕べ（初回追悼会）&lt;br /&gt;
* 総代：[[林房雄]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 代表発起人&lt;br /&gt;
: [[川内康範]]、[[五味康祐]]、[[佐伯彰一]]、[[滝原健之]]、[[武田繁太郎]]、[[中山正敏]]、[[藤島泰輔]]、[[舩坂弘]]、&lt;br /&gt;
: [[北条誠]]、[[黛敏郎]]、[[保田與重郎]]、[[山岡荘八]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 発起人 &lt;br /&gt;
: [[会田雄次]]、[[阿部正路]]、[[伊藤桂一]]、[[宇野精一]]、[[大石義雄]]、[[大久保典夫]]、[[大島康正]]、[[桶谷繁雄]]、&lt;br /&gt;
: [[小野村資文]]、[[川上源太郎]]、[[岸興祥]]、[[倉橋由美子]]、[[小山いと子]]、[[坂本二郎]]、[[佐古純一郎]]、&lt;br /&gt;
: [[清水崑]]、[[杉森久英]]、[[曽村保信]]、[[高鳥賢司]]、[[多田真鋤]]、[[立野信之]]、[[田中美知太郎]]、[[田辺貞之助]]、&lt;br /&gt;
: [[中河与一]]、[[中村菊男]]、[[林武]]、[[平林たい子]]、[[福田信之]]、[[水上勉]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 憂国忌 （2014年（平成26年）2月現在。五十音順）&lt;br /&gt;
* 代表発起人 &lt;br /&gt;
: [[井尻千男]]、[[入江隆則]]、[[桶谷秀昭]]、[[佐伯彰一]]、[[篠沢秀夫]]、[[竹本忠雄]]、&lt;br /&gt;
: [[富岡幸一郎]]、[[中村彰彦]]、[[西尾幹二]]、[[細江英公]]、[[松本徹 (学者)|松本徹]]、[[村松英子]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 発起人 &lt;br /&gt;
: [[浅田次郎]]、[[井川一久]]、[[池田憲彦]]、[[伊澤甲子麿]]、[[石原萌記]]、[[井上隆史]]、[[猪瀬直樹]]、[[植田剛彦]]、[[潮匡人]]、&lt;br /&gt;
: [[大久保典夫]]、[[大蔵雄之助]]、[[小田村四郎]]、[[小埜裕二]]、[[小山和伸]]、[[門田隆将]]、[[川口マーン恵美]]、[[河内孝]]、[[久保田信之]]、[[倉田信靖]]、&lt;br /&gt;
: [[黄文雄 (評論家)|黄文雄]]、[[後藤俊彦]]、[[小林よしのり]]、[[桜林美佐]]、[[佐藤和男 (法学者)|佐藤和男]]、[[佐藤秀明 (批評家)|佐藤秀明]]、[[佐藤雅美]]、[[清水馨八郎]]、[[新保祐司]]、&lt;br /&gt;
: [[杉原志啓]]、[[ヘンリー・スコット・ストークス|ヘンリー・スコット＝ストークス]]、[[石平 (評論家)|石平]]、[[関岡英之]]、[[高橋克彦]]、[[高山亨]]、[[高山正之]]、[[竹田恒泰]]、[[多田真鋤]]、&lt;br /&gt;
: [[田中英道]]、[[田中秀雄]]、[[田中健五]]、[[田中卓]]、[[田中美代子]]、[[玉利齊]]、[[池東旭]]、&lt;br /&gt;
: [[柘殖久慶]]、[[堤堯]]、[[堂本正樹]]、[[戸川昌子]]、[[都倉俊一]]、&lt;br /&gt;
: [[長岡實]]、[[中川八洋]]、[[中西輝政]]、[[西部邁]]、[[西村幸祐]]、[[西村眞悟]]、[[丹羽春喜]]、&lt;br /&gt;
: [[花田紀凱]]、[[浜田和幸]]、[[東中野修道]]、[[福井義高]]、[[福田逸]]、[[福田和也]]、[[藤井厳喜]]、&lt;br /&gt;
: [[フランソワーズ・モレシャン]]、[[古田博司]]、[[松本道弘]]、[[水島総]]、[[南丘喜八郎]]、[[三輪和雄 (社会運動家)|三輪和雄]]、[[宮崎正弘]]、[[室谷克実]]、&lt;br /&gt;
: [[森三十郎]]、[[八木秀次 (法学者)|八木秀次]]、[[山川京子]]、[[山崎行太郎]]、[[吉田好克]]、[[吉原恒雄]]、&lt;br /&gt;
: [[湯澤貞]]、[[ロマノ・ヴィルピッタ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 発起人物故者 &lt;br /&gt;
: [[会田雄次]]、[[相原良一]]、[[浅野晃]]、[[葦津珍彦]]、[[麻生良方]]、[[阿部正路]]、[[天野貞祐]]、[[荒木俊馬]]、&lt;br /&gt;
: [[荒木精之]]、[[安津素彦]]、[[飯守重任]]、[[池田弘太郎]]、[[池田彌三郎]]、[[石川忠雄]]、[[石堂淑朗]]、&lt;br /&gt;
: [[市原豊太]]、[[伊東深水]]、[[井上源吾]]、[[井上友一郎]]、[[伊吹一]]、[[伊部恭之助]]、[[今泉篤男]]、[[入江通雅]]、&lt;br /&gt;
: [[岩田専太郎]]、[[岩淵辰雄]]、[[内海洋一]]、[[宇野精一]]、[[浦野匡彦]]、[[江藤淳]]、[[江藤太郎]]、[[遠藤浩一]]、[[遠藤周作]]、&lt;br /&gt;
: [[大石義雄]]、[[大島康正]]、[[太田静六]]、[[大橋完造]]、[[大浜信泉]]、[[大平善悟]]、[[岡潔]]、[[岡崎功]]、[[緒方浩]]、&lt;br /&gt;
: [[岡村光康]]、[[岡本成蹊]]、[[荻原井泉水]]、[[奥野健男]]、[[桶谷繁雄]]、[[小高根二郎]]、[[小田村寅二郎]]、&lt;br /&gt;
: [[小野村資文]]、[[小汀利得]]、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: [[嘉悦康人]]、[[景山哲夫]]、[[影山正治]]、[[春日井薫]]、[[片岡鉄哉|片岡鐵哉]]、[[堅山南風]]、[[勝部真長]]、[[加藤芳郎]]、&lt;br /&gt;
: [[金井兼造]]、[[神川彦松]]、[[神谷不二]]、[[川内康範]]、[[河上徹太郎]]、[[川口松太郎]]、[[川副国基]]、[[川端康成]]、&lt;br /&gt;
: [[上林暁]]、[[木内信胤]]、[[気賀健三]]、[[菊地藤吉]]、[[岸田今日子]]、[[木下一雄]]、[[木下和夫]]、[[木俣秋水]]、&lt;br /&gt;
: [[金田一春彦]]、[[草野心平]]、[[久住忠男]]、[[楠本憲吉]]、[[久世光彦]]、[[工藤重忠]]、[[倉橋由美子]]、[[倉林和男]]、&lt;br /&gt;
: [[倉前盛通]]、[[栗原広美]]、[[呉茂一]]、[[黒岩一郎]]、[[黒川紀章]]、[[桑原寿二]]、[[源田実]]、[[河野司]]、&lt;br /&gt;
: [[越路吹雪]]、[[五社英雄]]、[[古関裕而]]、[[小谷豪治郎]]、[[近衛秀麿]]、[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]、[[小室直樹]]、[[今東光]]、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: [[エドワード・G・サイデンステッカー]]、[[齋藤五郎]]、[[斎藤忠]]、[[酒井忠夫]]、[[酒枝義旗]]、[[坂西志保]]、&lt;br /&gt;
: [[嵯峨根辰彦]]、[[佐藤欣子]]、[[佐藤誠三郎]]、[[サトウハチロー]]、[[佐藤亮一]]、[[篠喜八郎]]、[[篠田康雄]]、&lt;br /&gt;
: [[柴田勝治]]、[[柴田錬三郎]]、[[清水崑]]、[[清水文雄]]、[[進藤純孝]]、[[神保光太郎]]、[[末次一郎]]、[[助野健太郎]]、&lt;br /&gt;
: [[杉森久英]]、[[世耕政隆]]、[[相馬雪香]]、[[曽村保信|曾村保信]]、[[高田好胤]]、[[高田博厚]]、[[高鳥賢司]]、[[高橋健二]]、&lt;br /&gt;
: [[高山貴]]、[[滝口宏]]、[[滝口直太郎]]、[[滝原健之]]、[[武智鉄二]]、[[立松和平]]、[[田中澄江]]、[[田中直吉]]、&lt;br /&gt;
: [[田中正明]]、[[田辺貞之助]]、[[田辺茂一]]、[[田村幸策]]、[[田村泰次郎]]、[[辻美沙子]]、[[角田時雄]]、&lt;br /&gt;
: [[鶴田浩二]]、[[寺内大吉]]、[[寺川知男]]、[[遠山景久]]、[[富木謙治]]、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: [[中井勝彦]]、[[中川一郎]]、[[中河幹子]]、[[中河与一]]、[[永井正]]、[[永田雅一]]、[[中谷孝雄]]、[[中西旭]]、&lt;br /&gt;
: [[永野茂門]]、[[中村粲]]、[[中村歌右衛門 (6代目)|六代目中村歌右衛門]]、[[中村勘三郎 (17代目)|十七代目中村勘三郎]]、[[中村鴈治郎 (2代目)|二代目中村鴈治郎]]、&lt;br /&gt;
: [[中村菊男]]、[[中村草田男]]、[[中村泰三郎]]、[[中村汀女]]、[[中山優]]、[[中村和敬]]、[[名越二荒之助]]、[[奈須田敬]]、&lt;br /&gt;
: [[南原宏治]]、[[西泰蔵]]、[[西内雅]]、[[西川鯉二郎]]、[[西高辻信貞]]、[[西山廣喜]]、[[西脇順三郎]]、[[野島秀勝]]、&lt;br /&gt;
: [[野田福雄]]、[[野村喬]]、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: [[萩原龍洋]]、[[橋本芳契]]、[[長谷川泉]]、[[長谷川才次]]、[[花岡信昭]]、[[林三郎]]、[[林武]]、[[林忠彦]]、[[林房雄]]、[[林富士馬]]、&lt;br /&gt;
: [[弘津恭輔]]、[[平林たい子]]、[[平山重正]]、[[福田恆存]]、[[福田清人]]、[[福田信之]]、[[福地重孝]]、[[藤浦洸]]、&lt;br /&gt;
: [[藤島泰輔]]、[[藤原義江]]、[[二村富久]]、[[舩坂弘]]、[[北条秀司]]、[[北条誠]]、[[坊城俊民]]、[[保昌正夫]]、&lt;br /&gt;
: [[細川隆一郎]]、[[細川隆元]]、[[堀信夫]]、[[堀口大学]]、[[本多顕彰]]、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: [[前川佐美雄]]、[[町春草]]、[[松浦竹夫]]、[[松下正寿]]、[[松本白鸚 (初代)|初代松本白鸚]]、[[松本明重]]、[[黛敏郎]]、[[三浦重周]]、&lt;br /&gt;
: [[水谷八重子 (初代)|水谷八重子]]、[[光岡明]]、[[三潴信吾]]、[[宮崎清隆]]、[[三好行雄]]、[[三原淳雄]]、[[三輪知雄]]、[[武藤光明]]、[[村尾次郎]]、&lt;br /&gt;
: [[村上元三]]、[[村上兵衛]]、[[村野四郎]]、[[村松剛]]、[[村松定孝]]、[[森克己]]、[[森下泰]]、[[森下元晴]]、[[諸井薫]]、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: [[安岡正篤]]、[[保田與重郎]]、[[矢野潤]]、[[山田五十鈴]]、[[山室静]]、[[山本卓眞]]、[[山本夏彦]]、[[夜久正雄]]、[[吉田精一]]、&lt;br /&gt;
: [[吉村正]]、[[横山泰三]]、[[渡辺公夫]]、[[渡辺茂]]、[[渡辺銕蔵]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
=== 注釈 ===&lt;br /&gt;
{{Reflist|group=&amp;quot;注釈&amp;quot;}}&lt;br /&gt;
=== 出典 ===&lt;br /&gt;
{{Reflist|2}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* {{Citebook|和書|author=荒木精之|authorlink=荒木精之|date=1971-11|title=初霜の記　三島由紀夫と神風連|publisher=日本談義社}}&lt;br /&gt;
* {{Citebook|和書|author=磯田光一|authorlink=磯田光一|date=1990-06|title=三島由紀夫全論考・比較転向論序説|series=磯田光一著作集1|publisher=[[小沢書店]]|isbn=}}&lt;br /&gt;
* {{Citebook|和書|author=井上豊夫|date=2006-10|title=果し得ていない約束--三島由紀夫が遺せしもの|publisher=コスモの本|isbn=4-906380-80-8}} - 学生時代に楯の会に所属し、三島由紀夫の薫陶を間近で受けた著者が、誤解されがちな三島の素顔をありのままに語る。&lt;br /&gt;
* 井上隆史 『三島由紀夫 虚無の光と闇』 試論社、2006年。 ISBN 978-4903122069 &lt;br /&gt;
* {{Citebook|和書|author=猪瀬直樹|authorlink=猪瀬直樹|date=1995-11|title=ペルソナ 三島由紀夫伝|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=4-16-350810-4}}&lt;br /&gt;
** {{Citebook|和書|author=猪瀬直樹|date=1999-11|title=ペルソナ 三島由紀夫伝|series=[[文春文庫]]|publisher=文藝春秋|isbn=4-16-743109-2}}&lt;br /&gt;
** 改訂版 『日本の近代 猪瀬直樹著作集2 ペルソナ　三島由紀夫伝』（[[小学館]]、2001年11月）　 	&lt;br /&gt;
* {{Citebook|和書|author=川島勝|date=1996-02|title=三島由紀夫|publisher=文藝春秋|isbn=4-16-351280-2}} - 著者は[[講談社]]の三島担当編集者。&lt;br /&gt;
* {{Citebook|和書|author=小島千加子|authorlink=小島千加子|date=1996-04|title=三島由紀夫と[[檀一雄]]|series=ちくま文庫|publisher=筑摩書房|isbn=4-480-03182-0}}（元版は構想社、1980年5月）&lt;br /&gt;
* {{Citebook|和書|author=佐伯彰一|authorlink=佐伯彰一|year=1978|title=評伝三島由紀夫|publisher=[[新潮社]]|isbn=}}&lt;br /&gt;
** {{Citebook|和書|author=佐伯彰一|date=1988-11|title=評伝三島由紀夫|series=[[中公文庫]]|publisher=[[中央公論社]]|isbn=4-12-201567-7}}&lt;br /&gt;
* {{Citebook|和書|author=澁澤龍彦|authorlink=澁澤龍彦|date=1983-12|title=三島由紀夫おぼえがき|publisher=立風書房|isbn=}}&lt;br /&gt;
** {{Citebook|和書|author=澁澤龍彦|date=1986-11|title=三島由紀夫おぼえがき|series=中公文庫|publisher=中央公論社|isbn=4-12-201377-1}}&lt;br /&gt;
* {{Citebook|和書|author=青海健|authorlink=青海健|date=1992-09|title=三島由紀夫とニーチェ 悲劇的文化とイロニー|publisher=青弓社|isbn=4-7872-9066-5}} - 三島文学を日本ポストモダン文学の先駆と位置付け、「物語の死」からの再生を試みる。&lt;br /&gt;
* {{Citebook|和書|author=青海健|date=2000-01|title=三島由紀夫の帰還　青海健評論集|publisher=小沢書店|isbn=4-7551-0393-2}} - [[島田雅彦]]、[[吉本ばなな]]、[[村上龍]]、[[村上春樹]]、[[中上健次]]の作品評論を含む。&lt;br /&gt;
* {{Citebook|和書|editor=[[中条省平]]編・監修|date=2005-04|title=三島由紀夫が死んだ日 あの日、何が終り何が始まったのか|publisher=実業之日本社|isbn=4-408-53472-2}}&lt;br /&gt;
* {{Citebook|和書|editor=中条省平編・監修|date=2005-11|title=続・三島由紀夫が死んだ日 あの日は、どうしていまも生々しいのか|publisher=実業之日本社|isbn=4-408-53482-X}}&lt;br /&gt;
* {{Citebook|和書|author=徳岡孝夫|authorlink=徳岡孝夫|date=1996-11|title=五衰の人 三島由紀夫私記|publisher=文藝春秋|isbn=4-16-352230-1}}&lt;br /&gt;
** {{Citebook|和書|author=徳岡孝夫|date=1999-11|title=五衰の人　三島由紀夫私記|series=文春文庫|publisher=文藝春秋|isbn=4-16-744903-X}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書|author=西部邁|authorlink=西部邁|title=学問|year=2004|publisher=講談社|isbn=4-06-212369-X|pages=351-353|chapter=109　三島由紀夫}}&lt;br /&gt;
* {{Citebook|和書|author=林房雄|authorlink=林房雄|year=1972|title=悲しみの琴 三島由紀夫への鎮魂歌|publisher=文藝春秋|isbn=}}&lt;br /&gt;
* {{Citebook|和書|author=平岡梓|authorlink=平岡梓|year=1972|title=伜・三島由紀夫|publisher=文藝春秋|isbn=}}－続編 『伜・三島由紀夫 没後』 （同、1974年）も出版した。&lt;br /&gt;
** {{Citebook|和書|author=平岡梓|date=1996-11|title=伜・三島由紀夫|series=文春文庫|publisher=文藝春秋|isbn=4-16-716204-0}}&lt;br /&gt;
* {{Citebook|和書|author=坊城俊民|authorlink=坊城俊民|year=1972|title=焔の幻影　回想三島由紀夫|publisher=[[角川書店]]|isbn=}} - 若き日の先輩としての回想、晩年の三島からの書簡3通を収録。&lt;br /&gt;
* {{Citebook|和書|author=三谷信|authorlink=三谷信|year=1985|title=級友 三島由紀夫|publisher=[[笠間書院]]|isbn=}} - 三島からの書簡と若き日の三島の回想。&lt;br /&gt;
** {{Citebook|和書|author=三谷信|year=1999|title=級友 三島由紀夫|series=中公文庫|publisher=中央公論新社|isbn=}}&lt;br /&gt;
* {{Citebook|和書|author=村松剛|authorlink=村松剛|date=1990-09|title=三島由紀夫の世界|publisher=新潮社|isbn=4-10-321402-3}}&lt;br /&gt;
** {{Citebook|和書|author=村松剛|date=1996-10|title=三島由紀夫の世界|series=[[新潮文庫]]|publisher=新潮社|isbn=4-10-149711-7}}&lt;br /&gt;
* {{Citebook|和書|date=2012-4|title=三島由紀夫　没後35年・生誕80年 &amp;lt;small&amp;gt;増補新版&amp;lt;/small&amp;gt;|series=KAWADE夢ムック　文藝別冊|publisher=[[河出書房新社]]|isbn=4-309-97770-7}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* {{Citebook|和書|author=吉田和明|authorlink=吉田和明|year=1985|title=三島由紀夫|series=フォー・ビギナーズ・シリーズ 35|publisher=現代書館|isbn=4-7684-0035-3}}&lt;br /&gt;
* {{Cite journal|和書|author=[[梶山季之]]責任編集|date=1972-08|title=三島由紀夫の無視された家系|journal=月刊 噂 八月号|volume=2|issue=8|pages=48-62頁|publisher=噂発行所}}&lt;br /&gt;
* {{Citebook|和書|author=佐藤朝泰|authorlink=佐藤朝泰|year=2001|title=豪閥 地方豪族のネットワーク|publisher=立風書房|isbn=|pages=pp. 214, 297}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 外国人著者による三島論 === &lt;br /&gt;
* {{Citebook|和書|author=ヘンリー・スコット=ストークス|authorlink=ヘンリー・スコット・ストークス|others=[[徳岡孝夫]]訳|year=1985|title=三島由紀夫　生と死|publisher=ダイヤモンド社|isbn=}}&lt;br /&gt;
** {{Citebook|和書|author=ヘンリー・ストークス|others=徳岡孝夫訳|date=1998-11|title=三島由紀夫 生と死|edition=改訂版|publisher=[[清流出版]]|isbn=4-916028-52-X}}&lt;br /&gt;
::（原題&amp;quot;The Life nad Death of Yukio Mishima&amp;quot;、1975年刊、英語。著者は、ファイナンシャル・タイムズ元日本支局長)&lt;br /&gt;
*[[ジョン・ネイスン]]『三島由紀夫──ある評伝』[[野口武彦]]訳、新潮社 新版2000年&lt;br /&gt;
::（原題&amp;quot;Mishima: A Biography&amp;quot;、1974年刊、英語。 上記は遺族の意向で一旦絶版になった)&lt;br /&gt;
*ジェニフェール・ルシュール『三島由紀夫』鈴木雅生訳、祥伝社新書　2012年&lt;br /&gt;
::（原題&amp;quot;Mishima&amp;quot;、2011年刊、フランス語。上記2冊を下敷きにしてまとめたもの)&lt;br /&gt;
*[[マルグリット・ユルスナール]]『三島あるいは空虚のヴィジョン』[[澁澤龍彦]]訳、河出書房新社、1982年&lt;br /&gt;
::（原題&amp;quot;Mishima ou la vision du vide&amp;quot;、1981年刊、フランス語)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 主な研究目録・書誌文献 === &lt;br /&gt;
* 『定本三島由紀夫書誌』 [[島崎博]]・三島瑶子共編、薔薇十字社、1972年 - 序文は瑤子夫人&lt;br /&gt;
: 自決直前の三島自身に依頼を受け編まれた。生前までの書誌目録の他に、[[蔵書目録]]（一部）を収録。&lt;br /&gt;
* 『再訂資料・三島由紀夫』 [[福島鋳郎|福島鑄郎]]編・著、朝文社、2005年 - 編者は1975年以来、5度改訂刊行した。&lt;br /&gt;
* 『三島由紀夫 古本屋の書誌学』 大場啓志、[[ワイズ出版]]、1998年 - 編者は[[古書店]]「龍生書林」店主。&lt;br /&gt;
* 『三島由紀夫全文献目録』 安藤武編、夏目書房、2000年、※同書房は2007年に倒産&lt;br /&gt;
: 編者は大部の伝記『三島由紀夫の生涯』（夏目書房）、『三島由紀夫「日録」』（未知谷）などがある。&lt;br /&gt;
* 『決定版 三島由紀夫全集第42巻・年譜・書誌』 佐藤秀明・井上隆史・山中剛史編、新潮社、2005年&lt;br /&gt;
: 編者らは、『三島由紀夫事典』（[[勉誠出版]]、2000年）、『三島由紀夫研究』（鼎書房）など多数の関連著作を出版。&lt;br /&gt;
* 『三島由紀夫研究文献総覧』 山口基編、出版ニュース社、2009年&lt;br /&gt;
: 編者は三島と親しかった[[古書]]店「山口書店」店主で、私家版で数度刊行した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
{{Col-begin}}&lt;br /&gt;
{{Col-2}}&lt;br /&gt;
* [[三島由紀夫賞]] - 三島を記念した文学賞&lt;br /&gt;
* [[ミシマ:ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ]] - 三島を描いた米国映画&lt;br /&gt;
* [[三嶋大社]] - 三嶋大社に因んだペンネームであるという説がある&lt;br /&gt;
* [[加古川市]] - 平岡家の郷里&lt;br /&gt;
* [[保守革命]]&lt;br /&gt;
* [[二・二六事件]]&lt;br /&gt;
* [[志士]] - 三島は晩年自らの行動を幕末の志士にならぞえた&lt;br /&gt;
* [[三島事件]]&lt;br /&gt;
* [[磯崎叡]] - [[日本国有鉄道]]総裁で三島の父梓のいとこ&lt;br /&gt;
{{Col-2}}&lt;br /&gt;
* [[民族主義]]&lt;br /&gt;
* [[赤尾敏]]&lt;br /&gt;
* [[山口二矢]] &lt;br /&gt;
* [[小森一孝]]&lt;br /&gt;
{{Col-end}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
{{Wikibooks|三島由紀夫}}&lt;br /&gt;
{{Commonscat|Yukio Mishima}}&lt;br /&gt;
* {{Yahoo!百科事典|author=[[磯田光一]]}}&lt;br /&gt;
* [http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/M/mishima_y.html 三島由紀夫墓所]&lt;br /&gt;
* [http://mishima.xii.jp/ 三島由紀夫研究会]&lt;br /&gt;
* [http://www.vill.yamanakako.yamanashi.jp/bungaku/mishima/index.html 三島由紀夫電子博物館]&lt;br /&gt;
* [http://www.photohighway.co.jp/AlbumPage.asp?key=1870353&amp;amp;un=59053&amp;amp;m=2&amp;amp;s=0 三島由紀夫が徴兵検査を受けた加古川公会堂（現 加古川図書館）]&lt;br /&gt;
* [http://www.mishimayukio.jp/ 三島由紀夫文学館]&lt;br /&gt;
*{{imdb|0592758}}&lt;br /&gt;
* [http://www.yukiomishima.jp/ 2015年 三島由紀夫生誕90年・没後45年記念プロジェクト 公式サイト]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{三島由紀夫}}&lt;br /&gt;
{{毎日芸術賞}}&lt;br /&gt;
{{Normdaten|NDL=00043882|PND=118582755|LCCN=n/79/56062|VIAF=122035954}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:みしま ゆきお}}&lt;br /&gt;
[[Category:三島由紀夫|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:楯の会|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の芸術家]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の小説家]]&lt;br /&gt;
[[Category:LGBTの著作家]]&lt;br /&gt;
[[Category:両性愛の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の劇作家]]&lt;br /&gt;
[[Category:岸田國士戯曲賞受賞者]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の学生運動]]&lt;br /&gt;
[[Category:能に関連する人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:歌舞伎作者]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の作詞家]]&lt;br /&gt;
[[Category:キングレコードのアーティスト]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の保守思想家]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の右翼活動家]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本のテロリスト]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の財務官僚]]&lt;br /&gt;
[[Category:東京大学出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:剣道家]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本のボディビルダー]]&lt;br /&gt;
[[Category:自殺した人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:平岡家]]&lt;br /&gt;
[[Category:東京都出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1925年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1970年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E7%AB%B9%E8%85%B0%E6%AD%A3%E5%AE%9A&amp;diff=221400</id>
		<title>竹腰正定</title>
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		<updated>2014-08-12T02:00:47Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;竹腰 正定&#039;&#039;&#039;（たけのこし まささだ（まさやす）、[[寛政]]3年（[[1791年]]） - [[嘉永]]5年[[12月9日 (旧暦)|12月9日]]（[[1853年]][[1月18日]]））は、[[尾張藩]]の[[附家老]]、[[美濃国|美濃]][[今尾藩]]の第8代当主。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第7代当主・[[竹腰睦群|睦群]]の長男。正室は[[三日市藩]]主・[[柳沢里之]]の娘。子は[[竹腰正富|正富]]（長男）、娘（[[井上正域]]正室）、娘（[[安部信古]]正室）。官位は従五位下、[[山城国|山城]]守。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[文化 (元号)|文化]]元年（[[1804年]]）10月26日、睦群の死去により、同年12月16日に14歳で跡を継ぐ。文化4年（[[1833年]]）10月、将軍の[[徳川家慶]]に初[[御目見得]]し、12月に[[従五位下]]山城守に叙任。文化10年4月には尾張藩主・[[徳川斉朝]]の名代で江戸へ上る&amp;lt;ref&amp;gt;小山譽城『徳川御三家付家老の研究』（清文堂出版、2006年） ISBN 4-7924-0617-X&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[天保]]8年（[[1837年]]）11月21日、病気のために家督を長男の正富に譲って隠居し[[出雲国|出雲]]守に改め晴山と号した。嘉永5年（1852年）12月9日に62歳で死去した。法号は正定院殿朝散大夫聚徳晴山日円大居士。墓所は[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]虎ノ門の天徳寺。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{今尾藩主|8代|1804年 - 1837年}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たけのこし まささた}}&lt;br /&gt;
[[Category:竹腰氏|まささた]]&lt;br /&gt;
[[Category:今尾藩主|*08]]&lt;br /&gt;
[[Category:1791年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1853年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
	</entry>
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		<title>嬬恋村</title>
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		<updated>2014-08-11T02:05:22Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{日本の町村&lt;br /&gt;
|自治体名=嬬恋村&lt;br /&gt;
|区分=村&lt;br /&gt;
|画像=Tsumagoi Cabbage&amp;amp;Asamayama.JPG&lt;br /&gt;
|画像の説明=きゃべつ畑と浅間山（2010年7月）&lt;br /&gt;
|都道府県=群馬県&lt;br /&gt;
|支庁=&lt;br /&gt;
|郡=[[吾妻郡]]&lt;br /&gt;
|コード=10425-6&lt;br /&gt;
|隣接自治体=[[吾妻郡]][[草津町]]、[[長野原町]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[長野県]]：[[上田市]]、[[小諸市]]、[[東御市]]、[[須坂市]]、&amp;lt;br /&amp;gt;[[北佐久郡]][[軽井沢町]]、[[御代田町]]、&amp;lt;br /&amp;gt;[[上高井郡]][[高山村 (長野県)|高山村]]&lt;br /&gt;
|木=[[シラカバ]]&lt;br /&gt;
|花=[[リンドウ]]&lt;br /&gt;
|シンボル名=村の魚&lt;br /&gt;
|鳥など=[[ヤマメ]]&lt;br /&gt;
|郵便番号=377-1692&lt;br /&gt;
|所在地=吾妻郡嬬恋村大字大前110番地&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;{{ウィキ座標度分秒|36|31|0.6|N|138|31|48.5|E|region:JP}}&amp;lt;/small&amp;gt;&amp;lt;br/&amp;gt;[[ファイル:Tsumagoi village office.JPG|250px]]&lt;br /&gt;
|外部リンク=[http://www.vill.tsumagoi.gunma.jp/ 嬬恋村の公式サイト]&lt;br /&gt;
|位置画像={{基礎自治体位置図|10|425}}&lt;br /&gt;
|特記事項=&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;嬬恋村&#039;&#039;&#039;（つまごいむら）は[[群馬県]]の西端に位置する[[村]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
夏の冷涼な気候を活かした[[高原野菜]]の栽培が盛んで、高原[[キャベツ]]の産地として知られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
[[上信越高原国立公園]]の一角を占め[[浅間山]]、[[四阿山]]、[[本白根山]]などの山々に囲まれた高原地帯には[[万座温泉]]、[[鹿沢温泉]]など数多くの[[温泉]]が湧出し[[ゴルフ場]]や[[別荘地]]、[[スキー場]]、[[キャンプ場]]などの[[レジャー施設]]も数多く存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[三角点#二等三角点|二等三角点]]「白根山」TR25438743201（{{ウィキ座標度分秒|36|37|06.0337|N|138|31|40.0897|E||}}）以北、長野県境までは[[草津町]]との境界未定地域である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
村歌「嬬恋村の歌」が存在する。[[1972年]]に嬬恋村の村歌という位置づけで、嬬恋村観光協会が主導で制作した。広大で観光資源も豊富で、のんびりとした嬬恋村の雰囲気を[[大川栄策]]と[[青山和子]]が歌うもので、[[シングル#シングル・レコード|シングルレコード]]として[[日本コロムビア]]（当時）により制作された。現在は歌われることは少ないが、村主催の成人式やイベントなどで流されており、限定ながらも聞くことはできる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2013年に嬬恋村文化協会より、『嬬恋村の歌』の他、「嬬恋小唄」｢嬬恋慕情」「つまごい音頭」の4曲のご当地ソングがカップリングされた[[コンパクトディスク|CD]]が発売された。一般の店舗では販売されていないが、嬬恋村文化協会で購入することができる。1枚500円&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==地理==&lt;br /&gt;
*山岳：[[浅間山]]、[[四阿山]]、[[本白根山]]、[[草津白根山]]&lt;br /&gt;
*河川：[[吾妻川]]&lt;br /&gt;
*湖沼：田代湖（[[鹿沢ダム]]）、[[バラギ湖]]&lt;br /&gt;
===隣接自治体===&lt;br /&gt;
*[[群馬県]]&lt;br /&gt;
**[[吾妻郡]]：[[草津町]]、[[長野原町]]&lt;br /&gt;
*[[長野県]]&lt;br /&gt;
**[[小諸市]]、[[須坂市]]、[[上田市]]、[[東御市]]&lt;br /&gt;
**[[北佐久郡]]：[[軽井沢町]]、[[御代田町]]&lt;br /&gt;
**[[上高井郡]]：[[高山村 (長野県)|高山村]]&lt;br /&gt;
=== 気候 ===&lt;br /&gt;
JR[[吾妻線]]沿線地域を除く全地域が標高1000m以上の高地に位置するため、[[亜寒帯湿潤気候]]である。夏は湿度が低く冷涼で避暑地としてにぎわう一方、冬は非常に寒さが厳しく北海道並みとなり、最低気温はマイナス20度を下回ることもある。&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;width: 80%; text-align:center; margin: 0 auto 0 auto;&amp;quot;&lt;br /&gt;
|+ &#039;&#039;&#039;嬬恋村（田代）の平均気温と平均降水量&#039;&#039;&#039;&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/nml_amd_ym.php?prec_no=42&amp;amp;prec_ch=%8CQ%94n%8C%A7&amp;amp;block_no=0348&amp;amp;block_ch=%93c%91%E3&amp;amp;year=&amp;amp;month=&amp;amp;day=&amp;amp;elm=normal&amp;amp;view= 気象庁（田代の平年値）]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!&lt;br /&gt;
! [[1月]] !! [[2月]] !! [[3月]] !! [[4月]] !! [[5月]] !! [[6月]] !! [[7月]] !! [[8月]] !! [[9月]] !! [[10月]] !! [[11月]] !! [[12月]] !! 年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 平均気温（[[摂氏|C]]）&lt;br /&gt;
| -4.4 || -4.6 || -1.1 || 5.6 || 10.8 || 14.7 || 18.4 || 19.4 || 15.1 || 9.0 || 3.7 || -1.4 || 7.1&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 降水量（[[ミリメートル|mm]]）&lt;br /&gt;
| 44.7 || 61.3 || 102.9 || 111.1 || 136.3 || 185.8 || 199.5 || 178.9 || 233.9 || 120.1 || 76.0 || 32.4 || 1482.7&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==歴史 ==&lt;br /&gt;
===先史時代===&lt;br /&gt;
村内各所で[[新石器時代]]の土器・石器が出土する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===縄文時代===&lt;br /&gt;
村内で出土する[[縄文式土器]]は前期から晩期まで縄文時代全般に渡り、その様式は多彩で中部日本の様式と関東地方の様式が混在し長野県・新潟県との県境に位置する地勢からも交易や交流の中継地であったことが伺われる。[[1993年]]に今井地区東平遺跡から発掘された2つの[[黒色磨研注口土器]]（[[嬬恋郷土資料館]]所蔵、群馬県指定重要文化財）は成型後にへらなどを使用してその表面を滑らかに磨き上げ、酸化炎を用いた焼成技術によって炭素を吸着させて黒光りさせる技法が用いられている。これは大陸の影響を受けて九州から西日本を中心に広がった黒色磨研土器の様式を受け継いでいるものであり、縄文後期東日本の社会構成や技術文化の波及を考察する重要な資料とされる。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
===弥生時代===&lt;br /&gt;
稲作に適さない寒冷な気候によるものか稲作に関連する弥生時代の遺構・道具等は嬬恋村では出土していないが弥生式土器等弥生文化の痕跡は縄文時代に引き続き出土しており、狩猟採取生活と共に畑作中心の農耕が営まれていたと推察される。なお干俣地区[[万座温泉]]の熊四郎洞窟遺跡において弥生式土器や木炭が発見されており、標高1,800mの険阻な山岳地帯での定住が考え難いことからも狩猟や交易の為の峠越え等の一時利用が推察されると共に古代における温泉利用を伺わせる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==沿革==&lt;br /&gt;
*[[1889年]][[4月1日]] [[町村制]]施行に伴い、吾妻郡に嬬恋村が成立する。&lt;br /&gt;
*[[1971年]][[3月7日]] [[日本国有鉄道]]（現[[JR]][[東日本旅客鉄道]]）[[吾妻線]]長野原駅～[[大前駅]]間が開通。村内に[[袋倉駅]]、[[万座・鹿沢口駅]]、[[大前駅]]が開業。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==人口==&lt;br /&gt;
{{人口統計|code=10425|name=嬬恋村}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==行政==&lt;br /&gt;
*村長：熊川 栄（くまがわ さかえ）（2007年5月1日 就任）&lt;br /&gt;
==警察==&lt;br /&gt;
*長野原警察署&lt;br /&gt;
==消防==&lt;br /&gt;
*吾妻広域消防本部 西部消防署&lt;br /&gt;
**嬬恋分署（吾妻郡嬬恋村大前125-1）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==経済==&lt;br /&gt;
===産業===&lt;br /&gt;
嬬恋村の中心的な産業は農業とサービス業である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
農業ではキャベツを中心にした高原野菜の高冷地栽培が盛んであり、キャベツの村として有名である（夏から秋にかけて生産・出荷されるキャベツの量は日本一を誇る）。近年では出荷量のみならず、その品質においても更なる向上を目指しJA嬬恋を中心に減農薬・減化学肥料栽培などに取り組んでいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、観光業を中心としたサービス業は雄大な景観や温泉などの自然環境と軽井沢・草津温泉・志賀高原の中間に位置する好立地条件に恵まれ、近年では就業者数においても農業を上回る形で推移している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;産業人口&lt;br /&gt;
:産業別就業者数上位5位まで、単位・人。カッコ内は構成比。[[2010年]]の[[国勢調査]]による。&lt;br /&gt;
#サービス業 2,077（36.7%）&lt;br /&gt;
#農林漁業 1,823（32.2%）&lt;br /&gt;
#卸小売業 537（9.5%）&lt;br /&gt;
#建設業 444（7.9%）&lt;br /&gt;
#運輸・通信業 256（4.5%）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==姉妹都市・提携都市==&lt;br /&gt;
===国内===&lt;br /&gt;
*[[千代田区]]（[[東京都]]）&lt;br /&gt;
**[[1988年]]姉妹提携&lt;br /&gt;
*[[座間味村]]（[[沖縄県]]）&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--**姉妹提携&lt;br /&gt;
*[[波崎町]]（[[茨城県]]）- 交流都市 合併により消滅&lt;br /&gt;
--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==地域==&lt;br /&gt;
===教育===&lt;br /&gt;
嬬恋村には現在小学校4校、中学校1校、高等学校が1校ある。小学校と中学校は全て村立、高等学校は県立である。2013年4月現在も、児童・生徒数の減少に伴う小学校の統廃合計画がある。平成24年4月1日より嬬恋村立東中学校と嬬恋村立西中学校&lt;br /&gt;
を統合し、嬬恋村立嬬恋中学校を新設、平成25年4月1日より東小学校と鎌原小学校を統合し、東部小学校を新設した。&lt;br /&gt;
*小学校&lt;br /&gt;
**嬬恋村立東部小学校&lt;br /&gt;
**嬬恋村立西小学校&lt;br /&gt;
**嬬恋村立干俣小学校&lt;br /&gt;
**嬬恋村立田代小学校&lt;br /&gt;
*中学校&lt;br /&gt;
**嬬恋村立嬬恋中学校&lt;br /&gt;
*高等学校&lt;br /&gt;
**[[群馬県立嬬恋高等学校]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==交通==&lt;br /&gt;
[[ファイル:Kazawayuhi.JPG|thumb|220px|東御嬬恋線から見た鹿沢スノーエリアと夕日]]&lt;br /&gt;
===鉄道路線===&lt;br /&gt;
*[[東日本旅客鉄道]]（JR東日本）&amp;lt;span style=&amp;quot;color:#0F5474&amp;quot;&amp;gt;■&amp;lt;/span&amp;gt;[[吾妻線]]&lt;br /&gt;
**[[袋倉駅]] - [[万座・鹿沢口駅]] - [[大前駅]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===バス===&lt;br /&gt;
*[[西武高原バス]]&lt;br /&gt;
*[[JRバス関東]]（路線バス 高峰高原－小諸駅・佐久平駅）、（高速バス 高峰高原－新宿駅）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===道路===&lt;br /&gt;
*有料道路&lt;br /&gt;
**浅間-白根火山ルート[[万座ハイウェー]]&lt;br /&gt;
**浅間-白根火山ルート[[鬼押ハイウェー]]&lt;br /&gt;
*一般国道&lt;br /&gt;
**[[国道144号]]&lt;br /&gt;
**[[国道146号]]&lt;br /&gt;
**[[国道292号]]&lt;br /&gt;
**[[国道406号]]&lt;br /&gt;
*県道&lt;br /&gt;
**[[長野県道・群馬県道94号東御嬬恋線]]&lt;br /&gt;
**[[群馬県道・長野県道112号大前須坂線]]&lt;br /&gt;
**[[長野県道・群馬県道466号牧干俣線]]&lt;br /&gt;
**[[群馬県道59号草津嬬恋線]]&lt;br /&gt;
**[[群馬県道235号大笹北軽井沢線]]&lt;br /&gt;
**[[群馬県道241号嬬恋大桑線]]&lt;br /&gt;
*主要村道&lt;br /&gt;
**[[つまごいパノラマライン北ルート]]&lt;br /&gt;
**[[つまごいパノラマライン南ルート]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==観光==&lt;br /&gt;
[[ファイル:Mt.Asama 05.jpg|thumb|220px|浅間高原地区：鬼押出しと浅間山]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:Kendou94.JPG|thumb|220px|鹿沢地区]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:Manza Onsen Tsumagoi Gunma01bs4272.jpg|thumb|220px|万座温泉地区：[[万座温泉]]と[[万座山]]]]&lt;br /&gt;
*浅間高原地区&lt;br /&gt;
**[[浅間山熔岩樹型]]（特別[[天然記念物]]）&lt;br /&gt;
**[[鬼押し出し]][[溶岩流]]（自然景観）&lt;br /&gt;
**[[鬼押出し園]]（自然景観）&lt;br /&gt;
**軽井沢おもちゃ王国（遊園地）&lt;br /&gt;
**[[鎌原観音堂]]（史跡）&lt;br /&gt;
**嬬恋郷土資料館（資料館）&lt;br /&gt;
**六里ヶ原（自然景観）&lt;br /&gt;
*[[万座温泉]]地区&lt;br /&gt;
**[[万座温泉]]（温泉）&lt;br /&gt;
**空吹き（自然景観）&lt;br /&gt;
**[[万座温泉スキー場]]（スキー場）&lt;br /&gt;
**[[表万座スノーパーク]]（旧称表万座スキー場）&lt;br /&gt;
**嬬恋牧場（牧場）&lt;br /&gt;
*[[鹿沢温泉]]地区&lt;br /&gt;
**[[鹿沢温泉]]（温泉）&lt;br /&gt;
**[[新鹿沢温泉]]（温泉）&lt;br /&gt;
**[[田代温泉]]つつじの湯（温泉）&lt;br /&gt;
**[[鹿沢スノーエリア]]（スキー場）&lt;br /&gt;
**雪山賛歌の碑（史跡）&lt;br /&gt;
*[[湯ノ丸高原]]地区&lt;br /&gt;
**[[レンゲツツジ]]群落（[[天然記念物]]）&lt;br /&gt;
*高峰高原地区&lt;br /&gt;
**[[アサマ2000パーク]]（スキー場）&lt;br /&gt;
*バラギ高原地区&lt;br /&gt;
**[[パルコール嬬恋スキーリゾート]]（スキー場）&lt;br /&gt;
**[[嬬恋バラギ温泉]] 湖畔の湯（温泉）&lt;br /&gt;
**無印良品カンパーニャ嬬恋（キャンプ場）&lt;br /&gt;
**県立バラギ高原青少年野外活動センター（キャンプ場）&lt;br /&gt;
**[[石樋]]（自然景観）&lt;br /&gt;
*その他嬬恋村&lt;br /&gt;
**[[半出来温泉]]（温泉）&lt;br /&gt;
**[[つま恋温泉]]（温泉）&lt;br /&gt;
**[[平治温泉]]（温泉）&lt;br /&gt;
**[[嬬恋温泉]]（温泉）&lt;br /&gt;
**[[奥嬬恋温泉]]（温泉）&lt;br /&gt;
**愛妻の丘&lt;br /&gt;
*嬬恋村フィルムコミッション&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==出身有名人==&lt;br /&gt;
*[[黒岩彰]]（[[スピードスケート]]選手、元[[西武ライオンズ]]球団代表）&lt;br /&gt;
*[[黒岩敏幸]]（スピードスケート選手）&lt;br /&gt;
*[[小林和朗]]（スピードスケート選手）&lt;br /&gt;
*[[干川玄]]（スノーボード選手）&lt;br /&gt;
*[[小林正人]]（[[プロ野球]]選手）&lt;br /&gt;
*[[南木佳士]]（[[小説家]]、[[佐久総合病院]]医師）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==参考文献== &lt;br /&gt;
嬬恋村の歴史については、次のとおり。&lt;br /&gt;
*嬬恋村誌編集委員会 『嬬恋村誌 上下巻』 嬬恋村役場、[[1977年]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
{{commons}}&lt;br /&gt;
*[[北軽井沢]]&lt;br /&gt;
*[[スリーピングフラワー]]&lt;br /&gt;
*[[宮崎守]]&lt;br /&gt;
*[[地熱発電]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
*[http://www.vill.tsumagoi.gunma.jp/ 嬬恋村の公式サイト]&lt;br /&gt;
*[http://www.tsumagoi-kankou.jp/ 嬬恋村観光協会の公式サイト]&lt;br /&gt;
*[http://www.kazawaonsen.com/ 鹿沢温泉観光協会の公式サイト]&lt;br /&gt;
*[http://manzaonsen.gr.jp/ 万座温泉観光協会の公式サイト]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{群馬県の自治体}}&lt;br /&gt;
{{Japan-area-stub}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:つまこいむら}}&lt;br /&gt;
[[Category:嬬恋村|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:群馬県の市町村]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E5%83%A7%E5%85%B5&amp;diff=63399</id>
		<title>僧兵</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E5%83%A7%E5%85%B5&amp;diff=63399"/>
		<updated>2014-08-08T05:35:46Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: /* その他 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{出典の明記|date=2013年9月}}&lt;br /&gt;
[[Image:Yoshitsune with benkei.jpg|thumb|right|180px|僧兵弁慶と[[源義経]]]]&lt;br /&gt;
[[Image:Yamabushi2.jpg|thumb|180px|right|僧兵の古写真]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;僧兵&#039;&#039;&#039;（そうへい）とは、[[日本]]の[[古代]]後期から[[中世]]、[[近世]]初頭にかけて存在した僧形の[[武者]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
[[京都]]・[[奈良市|奈良]]の大寺院の雑役に服する大衆（[[堂衆]]）が自衛武装したもの。法師武者あるいは武装した僧侶を僧衆、悪僧と同時代でいうが、それを江戸時代以降「僧兵」と呼称した言葉である。ちなみに悪僧の「悪」は[[悪党]]の悪と同じで「強い」という意味合いである。主に[[寺社勢力]]に所属する武装集団である。その風貌は[[絵巻物]]などに描かれ、[[裹頭]]（かとう〈頭を包む布〉）や、[[高下駄]]、[[薙刀]]などが特徴とされる。髪は剃っていなかった可能性が高い。なお、これに対し、神社に所属する武装集団を[[神人]]（じにん）という。また、日本以外にも[[嵩山少林寺]]のように僧兵として武装集団を組織する仏教僧の集団がおり、広義には武装した宗教集団を指すこともある。その場合はヨーロッパの[[騎士修道会]]も含まれることがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
僧兵や神人が活躍した時代は社会が乱れる一方で、広大な[[寺領]]・[[神領]]を経営する立場にある寺社は、盗賊のみならず、[[国府]]や[[権門]]・在地領主らの武装勢力など、さまざまな勢力との紛争を抱えることとなった。よって境内と荘園の治安維持や他勢力への対抗のため、他の荘園と同様に寺院・神社も武装する事になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[平安時代]]末期には強大な武力集団となり、[[興福寺]]・[[延暦寺]]・[[園城寺]]（三井寺）、[[東大寺]]などの[[寺院]]を拠点として、寺院同士の勢力争いや、[[朝廷]]や[[摂家|摂関家]]に対して[[強訴]]をくりかえした。特に、興福寺（南都）は衆徒（奈良法師）、延暦寺（北嶺）は山法師と呼ばれた。宗教的権威を背景とする強訴は僧兵の武力以上の威力をもち、しばしば朝廷や院を屈服させることによって、国府や他領との紛争を自らに有利に解決させた。また寺社同士の抗争も激しく、しばしば焼き討ちも行われた。延暦寺と園城寺（「山門」と「寺門」）の抗争などが著名である。[[白河天皇|白河法皇]]は、自分の意のままにならないもの（天下の三不如意）として「[[鴨川 (淀川水系)|賀茂川]]の水（[[鴨川 (淀川水系)|鴨川]]の流れ）・[[双六]]の[[さいころ|賽]]（の目）・山法師（比叡山の僧兵）」を挙げており、僧兵の横暴が朝廷の不安要素であったことがうかがえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中央から離れた地域でも有力寺社は軍事力を持ったり地元軍事力と結びつき、当時のパワーバランスに大きな影響を及ぼしていた。[[以仁王の挙兵]]では平家とも争う。『[[平家物語]]』の[[武蔵坊弁慶]]などにも、その描写がみられる。[[治承・寿永の乱|源平の争乱]]の時には[[熊野水軍]]を取り仕切っていた[[熊野別当]]にたいし双方から政治的な取引がなされた例などが著名である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[室町時代]]に、かつて義円と名乗り[[天台座主]]だった[[足利義教]]が、僧兵の軍事力と粗暴さを熟知しているため、延暦寺討伐に動き出して大規模の[[弾圧]]を実施した（後年の[[織田信長]]も同様のことをやっている）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
各地の有力寺社が軍事力を保持する傾向は[[豊臣秀吉]]による[[刀狩]]まで続いた。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の有力僧兵団として以下の例がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===南都北嶺===&lt;br /&gt;
* [[興福寺]]・・・奈良法師と称された多数の僧兵を抱え大和一国を治める実力を持つに至る。戦国時代は織田信長と同盟を結びながら、勢力を維持し続けた。[[宝蔵院流槍術]]の開祖・[[胤栄]]なども有名。&lt;br /&gt;
* [[延暦寺]]・・・天台宗の開祖・伝教大師[[最澄]]が開山した。王城鎮護の霊山として君臨しながら、山法師と称された数千人の僧兵を擁したが、1571年に織田信長による[[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山焼き討ち]]に遭い、軍事力を喪失した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===その他===&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;[[東北地方]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
*[[出羽三山]]・・・[[修験道|修験道場]]として隆盛し、最盛期には8千人の僧兵を擁した。[[豊臣秀吉]]の[[刀狩り]]に応じて武具を供出。&lt;br /&gt;
*[[恵日寺 (磐梯町)]]・・・真言宗豊山派の寺院で、3000人ともいわれる僧兵を擁し、実質的に会津を支配下に置いていた。しかし、1589年（天正17年）の摺上原の戦いに勝利した[[伊達政宗]]が会津へ侵入した際にその戦火に巻き込まれ、軍事力を喪失した。&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;[[関東地方]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
*[[日光山]][[輪王寺]]・・・多数の僧兵を抱え、[[下野国|下野]]でも有数の武装勢力になる。[[後北条氏]]に荷担したため、[[豊臣秀吉]]により弾圧され、寺領を没収され衰退。関東に移封された徳川家康の保護により、勢力を回復する。&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;[[北陸地方]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
*[[平泉寺白山神社|白山平泉寺]]・・・延暦寺末寺として、最盛期には8千人の僧兵を抱えて[[越前国|越前]]に勢力を伸ばす。天正2年（[[1574年]]）、一向一揆との抗争で全山が焼失。勢力が弱まる。[[織田信長]]、[[豊臣秀吉]]と早くから結び、寺領を回復する。&lt;br /&gt;
* [[石動山]]天平寺・・・真言宗の寺院で、山岳信仰の拠点霊場として栄えた。3千にも及ぶ僧兵を抱えた能登有数の勢力であった。[[1582年]]（天正10年）本能寺の変直後の混乱に乗じて、越後の上杉方についていた[[能登畠山氏]]旧臣が蜂起し、天平寺衆徒と共に石動山に立て籠った為、[[前田利家]]、[[佐久間盛政]]、[[長連龍]]らの織田軍に焼き討ちされ、壊滅した。&lt;br /&gt;
* [[真宗大谷派井波別院瑞泉寺]]・・・一向宗の寺院で、[[越中一向一揆]]の拠点であった。天正9年（1581年）、織田信長の北陸方面軍、[[佐々成政]]の焼き討ちに遭い、軍事力を喪失した。&lt;br /&gt;
* [[勝興寺]]・・・一向宗の寺院で、越中一向一揆の拠点であった。[[瑞泉寺]]と並んで越中一向一揆の中心勢力として猛威を振るったが、天正9年（1581年）に[[石黒成綱]]に焼き討ちされ、軍事力を喪失した。&lt;br /&gt;
* [[尾山御坊]]・・・一向宗の寺院で、[[加賀一向一揆]]の拠点であった。織田信長の北陸方面軍、[[佐々成政]]に敗れ、軍事力を喪失した。&lt;br /&gt;
* [[吉崎御坊]]・・・一向宗の寺院で、加賀・越中などの門徒を集め北陸における一向一揆の拠点となったが、永正3年（1506年）、[[九頭竜川の戦い]]で[[朝倉宗滴]]に敗れ、勢力を失った。&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;[[東海地方]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
* [[諏訪大社]]・・・[[武田信玄]]に制圧され、軍事力を喪失した。大名家としては江戸時代に再興したが、神官家とは分かれることになった。&lt;br /&gt;
* [[浅間大社]]・・・武田信玄による[[駿河侵攻]]に巻き込まれる。武田を相手に頑強に抵抗したが、[[穴山信君]]を通して降伏し、軍事力を失った。&lt;br /&gt;
* [[本證寺 (安城市)]]・・・一向宗の寺院で、[[三河一向一揆]]の際には上宮寺・勝鬢寺などとともに一向宗門徒の拠点の1つとなり徳川家康に対して頑強に抵抗したが、1564年の小川の戦いで敗れ勢力を失った。&lt;br /&gt;
* [[照蓮寺]]・・・一向宗の寺院で、[[帰雲城]]・城主内ヶ島氏と手を結んだことにより照蓮寺の勢力は拡大し、全盛期には大名に匹敵するほどの大勢力を築いた。三木氏の後に飛騨国を治めた[[金森長近]]はそれを恐れ、1588年（天正16年）、高山城城下に移転させるなどの弾圧政策を取り、勢力を失った。&lt;br /&gt;
* [[願証寺]]・・・一向宗の寺院で、[[長島一向一揆]]の拠点として伊勢湾一帯を治める大勢力であった。[[織田信長]]に対して3度に渡って激しく抵抗したが、天正2年（1574年）の第三次長島侵攻で激戦の末に壊滅した。&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;[[近畿地方]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
* [[石山本願寺]]・・・独自の僧兵集団ではなく、各地の門徒（多くは[[国人]]や庶民）を動員した[[一向一揆]]を通じて絶大な影響力・軍事力を誇ったが、[[石山合戦]]に敗れ壊滅、軍事力を喪失した。&lt;br /&gt;
* [[高野山]]・・・[[真言宗]]の開祖・[[空海]]（弘法大師）が開山した。高野衆と称された大規模な僧兵集団を擁し、天正9年（[[1581年]]）の際には[[紀州征伐]]の際は信長勢を撃退している。信長の死後、天正13年（[[1585年]]）に[[豊臣秀吉]]によって行われた紀州征伐の際には秀吉の降伏勧告に応じ、軍事力を喪失した。&lt;br /&gt;
*[[聖衆寺 (桑名市)]]・・・千人もの僧兵を抱える[[真言宗]]の大寺院であったが、[[天正]]年間（[[1573年]] - [[1593年]]）に[[織田信長]]の家臣[[滝川一益]]の北伊勢侵攻の際に焼き討ちされて壊滅的な被害を受けた。江戸時代になってから焼け残った堂宇で復興したが、かつての面影は無い。&lt;br /&gt;
* [[根来寺]]・・・[[真言宗]]から独立した[[新義真言宗]]の寺院で、根来衆とよばれる僧兵1万を擁した紀州屈指の大勢力であった。また、根来寺僧によって種子島から伝来したばかりの火縄銃一挺が持ち帰られたことをきっかけに、津田流砲術の開祖・[[津田算長]]をはじめ、強力な[[火縄銃|鉄炮]]隊で保持していた。天正13年（[[1585年]]）、[[豊臣秀吉]]による[[紀州征伐]]で制圧され、軍事力を喪失した。&lt;br /&gt;
*[[三岳寺]]・・・[[平安時代]]初期の[[大同 (日本)|大同]]2年([[807年]])に[[最澄]]（伝教大師）によって開かれたと伝わる[[天台宗]][[山門派]]の大寺院で、元々鈴鹿山脈の国見岳にあったが、織田信長が[[比叡山焼き討ち]]を行う3年前の[[永禄]]11年([[1568年]])に織田信長の命により、滝川一益の軍勢が押し寄せ、当時三岳寺には数百人もの僧兵が居て勇敢に戦ったものの多くの堂宇が悉く兵火により灰塵に帰した。三岳寺の近くの[[湯の山温泉 (三重県)|湯の山温泉]]では、毎年10月初旬には織田信長の軍勢に立ち向かい勇敢に戦った僧兵を忍んで[[僧兵まつり]]が行われている。&lt;br /&gt;
* [[粉河寺]]・・・天台宗系の寺院で、粉河衆と称された中小規模の僧兵集団を擁していた。天正13年（[[1585年]]）、[[豊臣秀吉]]による[[紀州征伐]]で制圧され、軍事力を喪失した。&lt;br /&gt;
* [[日前神宮・國懸神宮]]・・・広大な社領を有し、地方大名に匹敵するほどの武力をもっていた。実際に、[[雑賀衆]]と度々武力衝突を起こしている。天正13年（[[1585年]]）、[[豊臣秀吉]]による[[紀州征伐]]で制圧され、軍事力を喪失した。&lt;br /&gt;
*[[談山神社|多武峰妙楽寺]]・・・[[興福寺]]と度々武力衝突を起こす。[[天正]]13年（[[1585年]]）、[[大和国|大和]]に入国した[[豊臣秀長]]の武装解除要求に応じ、武具を供出。&lt;br /&gt;
* [[金峯山寺]]・・・多くの僧兵（吉野大衆と呼ばれた）を抱え、その勢力は南都北嶺（興福寺と延暦寺の僧兵を指す）にも劣らないといわれた。天正13年（1585年）、[[大和国|大和]]に入国した[[豊臣秀長]]の武装解除要求に応じ、武具を供出。&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;[[中国地方]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
* [[大山寺 (大山町)]]・・・[[天台宗]]の寺院で、鎌倉時代には3千人の僧兵を擁していたが、度々僧兵同士の武力衝突を起こした。戦国時代も勢力を維持したが、豊臣秀吉の[[刀狩り]]により軍事力を喪失。&lt;br /&gt;
* [[鰐淵寺]]・・・天台宗の寺院で、広大な寺領と多数の僧兵を抱えた出雲有数の勢力となる。戦国時代は[[毛利元就]]の手厚い保護のもと勢力を維持したが、豊臣秀吉の[[刀狩り]]により軍事力を喪失。毎年10月には弁慶まつりが行われている。&lt;br /&gt;
* [[出雲大社]]・・・鰐淵寺と関係が深く、同寺と並ぶ出雲有数の勢力であった。豊臣秀吉の[[刀狩り]]により軍事力を喪失。&lt;br /&gt;
* [[厳島神社]]・・・[[厳島神主家]]は広島湾一帯を支配する水軍を備えた国人勢力として活動したが、[[天文 (元号)|天文]]9年（[[1540年]]）の[[吉田郡山城の戦い]]で[[大内氏]]・[[毛利氏]]に反旗を翻して、[[尼子氏]]に付いた。しかし翌年、吉田郡山城の戦いは毛利・大内連合軍の勝利すると、大内氏に制圧され、軍事力を喪失した。&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;[[四国地方]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
* [[八坂寺 (松山市)]]・・・[[真言宗]]の寺院で、[[熊野権現]]を勧進して十二社権現とともに祀り、修験道の根本道場として栄え、僧兵も擁していた大寺であったが、天正年間（1573年 - 1592年）に焼失してからは寺域も縮小し、勢力が弱まる。&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;[[九州地方]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
* [[宗像大社]]・・・大宮司であった[[宗像氏貞]]の時代に最大の版図を築くが、氏貞が後継がないまま急死した後、[[豊臣秀吉]]の[[九州の役]]の際に社領を没収されて軍事力を失った。&lt;br /&gt;
* [[阿蘇神社]]・・・肥後国一宮とされて崇敬を受け、広大な社領を有していた。当主・阿蘇氏は戦国大名としても活躍したが、[[豊薩合戦]]の際、真っ先に島津氏の侵略を受けて降伏、さらに[[豊臣秀吉]]の[[九州の役]]の際に社領を没収され、大名としては終焉した。&lt;br /&gt;
* [[宇佐神宮]]・・・豊前国一宮として厚い崇敬を受け、九州一の荘園領主として、また実質的に宇佐郡を中心とした国人領主の盟主として繁栄を誇った。家末社にあたる[[八幡奈多宮]]出身の[[田原親賢]]が[[方分]]（守護代）となって以降、大友氏と敵対するようになり、焼き討ちされるに及んで勢力を失った。のちに宇佐神宮の社家出身の[[時枝鎮継]]（[[九州征伐]]後、[[黒田氏]]の家臣となっていた）は[[石垣原の戦い]]で大友氏滅亡に一役買うことになった。&lt;br /&gt;
*[[英彦山]]・・・[[修験道|修験道場]]として隆盛し、最盛期には数千名の僧兵を擁した。英彦山が[[秋月種実]]と軍事同盟を結んだため、[[天正]]9年（[[1581年]]）、敵対する[[大友義統]]による[[彦山焼き討ち]]を受けて敗れ、勢力が弱まる。&lt;br /&gt;
*[[求菩提山]]護国寺・常在山[[如法寺 (豊前市)|如法寺]]・・・求菩提山護国寺は修験道場で、常在山如法寺はもともとその末寺の一つ。13世紀頃から所領を巡って対立を続け、16世紀には[[大内氏]]の介入を招く。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連書籍==&lt;br /&gt;
*日置英剛「僧兵の歴史―法と鎧をまとった荒法師たち」 （戎光祥出版）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[寺社勢力]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
*[http://www2.town.komono.mie.jp/menu1478.html　僧兵まつり　三重県菰野町]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Japanese-history-stub|そうへい}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:そうへい}}&lt;br /&gt;
[[Category:平安時代]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の僧]]&lt;br /&gt;
[[Category:軍人]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E6%B6%88%E9%98%B2%E6%93%8D%E6%B3%95&amp;diff=197994</id>
		<title>消防操法</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E6%B6%88%E9%98%B2%E6%93%8D%E6%B3%95&amp;diff=197994"/>
		<updated>2014-08-02T06:44:10Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: /* 問題点 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;消防操法&#039;&#039;&#039;（しょうぼうそうほう）とは、[[日本の消防]]訓練における基本的な器具操作・動作の方式。[[総務省]][[消防庁]]の定める『消防操法の基準』に基づく[[火災]]消火を想定した基本操作の訓練である。[[第二次世界大戦後]]から、主に[[消防団]]の訓練形式として本格的に行われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
消防操法は常備の消防職員や消防団の訓練の一つであり、基本的な操作の習得を目指すための手順であり、小型可搬ポンプ操法と、ポンプ車操法がある。設置された[[防火水槽]]から、給水し、火災現場を意識した火点(かてん)と呼ばれる的にめがけて放水し、撤収するまでの一連の手順を演じる。防火水槽・火点の位置、台詞、動きがあらかじめ決められている。全国規模で大会（郡市大会・都道府県大会・全国大会）が行われ、ポンプ・ホースなどの操作を速く正確に行うとともに、動きの綺麗さを競う。採点は各個動作の正確さ及び火点の的が倒れるまでのタイムなどが減点法で採点され、減点が少ないチームほど上位となる。以前は実際に放水を行わず展開～収納・撤収までの速さと正確さを競ういわゆる「空(カラ)操法（現実的ではないの意）」も行われていたが、現在は多少なりとも現実的な訓練になるよう、一連の行為（選手の格好）を大会基準として決められた要領通りに行ったうえで、ホースを伸ばし【火】と書かれた的に放水をあてる競技が主になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 意義 ==&lt;br /&gt;
基本的な操作の習得を目指すことを目的としている。&lt;br /&gt;
* 規律ある動作及び的確な命令・行為の伝達:騒音、火災で混乱しがちな現場において正確な操作と、命令系統を遵守した行動を行う&lt;br /&gt;
* ポンプの基本的操作の習得:正確なポンプ操作・水圧管理（過剰な水圧で送水しないことは筒先員の安全確保にもつながる）、給水時の給管接続・投入における落水、ずれ落ちへの注意点&lt;br /&gt;
* 火点への正確な放水:危険を伴う放水中の筒先員交代の手順&lt;br /&gt;
* 乗車時、降車時の動き:現場における安全確認&lt;br /&gt;
* ホースに沿って走るということは、何本もホースが走っている現場において自分たちの出しているホースを見失わないため&lt;br /&gt;
等々である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 統一基準によらない操法 ==&lt;br /&gt;
消防団レベルでは、上記概要にある二種の他に、寒冷地地方で消防団にも配備されているタンク付き消防ポンプ自動車を使用した、防火水槽を使用しない操法、ポンプではなく消火栓をつかい、消火栓からの放水の正確さを競う消火栓操法、女性消防団員向けに若干変更した操法等々、独自の操法を導入しているところや、全国大会で使用される操法を実際の有事に近づける意味等もあり独自に改変し、自動ボタン等の最新装置を使用してよいとしたり、通常の操法では使用できないが実際の有事の際に実際に使用する機材（リアカー積載ホースや背負いホース、レバー式の筒先等）の使用の許可、さらに積載車両から降ろすところ始まるもの、複数ポンプを使用した中継も競技として取り入れたり等、一部ローカルルールを用いているところも存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらには、狭義の操法とは異なるが、一般的に操法と同列に扱われ基本的な手順の取得を目指すものとして、救命救急の正確さを目指すもの、礼式・指揮等の正確さ・美しさを目指すものなどもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 問題点 ==&lt;br /&gt;
消防操法は、速さと正確さを競うほか、規律と呼ばれる動きや、2名以上の動きをそろえて(シンクロして)見せるなど動きの綺麗さが要求される。消防団の中にはこの訓練を重点的に行っている地域もあるが、次のような批判がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 練習時間の大半が規律やシンクロした動きの習得に当てられるが、これらの動作は&#039;&#039;&#039;様式化した形式主義&#039;&#039;&#039;に堕しており、実際の火災現場において役立つとは言い難い。&lt;br /&gt;
* 県大会や全国大会の出場を目指す地域では、練習期間が長期間、時には年間を通じて常時行われる場合もある。消防団員は本来&#039;&#039;&#039;正業に就いているのが原則であるにも関わらず、幹部やOBなどの圧力により過剰な練習を強要&#039;&#039;&#039;され、自分や家族の生活にまで多大な負担をかける。また、習得した技術は活動に応用されねばならないのに、本来とはかけ離れた「&#039;&#039;&#039;大会のための訓練&#039;&#039;&#039;」になるケースもあり、現場での応用ができなくなってしまう。そのため、操法（大会）不要論を持つものもいる。&lt;br /&gt;
* 過剰な訓練を行った後、心筋梗塞等により死者が出るケースも存在する。最近では平成17年5月、操法訓練後に心筋梗塞に陥り消防団員が死亡する事故が発生している。訓練には大変無理な動きも多く、練習期間も長期に及ぶために、練習の過程で怪我をする消防団員も多い。平成17年度における操法訓練に伴うけが人は、災害認定されたケースだけで500件を超えている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.syouboukikin.jp/kouhou0710/12-02.pdf 消防団員の公務災害発生状況（平成17年度発生事故認定分）] 消防団員等公務災害補償等共済基金サイトより&amp;lt;/ref&amp;gt; 。また、消防団員は本業を持っている団員がほとんどのため、怪我をした際には仕事や家庭にも多大な支障をきたし、大変多くの犠牲を負うことになる 。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.fdma.go.jp/concern/law/kokuji/hen51/51020003020.htm 消防操法の基準] - （消防庁サイト）&lt;br /&gt;
* [http://www.nissho.or.jp/ 財団法人 日本消防協会]- (消防操法大会を主催する組織)&lt;br /&gt;
* [http://www.e-college.fdma.go.jp/firebrigade/chu/chu.html eカレッジ]- (目で見る消防操法)&lt;br /&gt;
* [http://www.signalos.co.jp/html_topics/list_pump_competition.html FIRE RESCUE EMS 全国消防操法大会レポート]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:日本の消防]]&lt;br /&gt;
[[Category:消防団]]&lt;br /&gt;
[[Category:消防]]&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しようほうそうほう}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
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	<entry>
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		<title>警防団</title>
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		<updated>2014-08-01T02:48:16Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: /* 制服 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;警防団&#039;&#039;&#039;（けいぼうだん）とは、[[第二次世界大戦]]勃発直前の昭和14年（[[1939年]]）に「警防団令」&amp;lt;ref&amp;gt;昭和14年1月24日[[勅令]]第20号「警防団令」&amp;lt;/ref&amp;gt;を根拠として主に[[空襲]]或いは[[災害]]から市民を守るために作られた[[団体]]である。[[日本の警察|警察]]および[[日本の消防|消防]]{{refnest|group=注釈|戦前の日本の消防は警察の一部門であった。}}の補助[[組織 (社会科学)|組織]]としての任務が課されていた&amp;lt;ref&amp;gt;「警防団令」第1条および『大日本警防』昭和15年4月号6-7頁参照&amp;lt;/ref&amp;gt;{{refnest|group=注釈|この当時はまだ用語も概念も無かったが、現在ならば[[ジュネーヴ諸条約第一追加議定書]]第6章に規定されている「文民保護組織」がほぼ相当すると考えられる。詳細はジュネーヴ諸条約第一追加議定書第6章の条文を参照のこと。}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本の降伏|日本の敗戦]]に伴って存在意義が薄くなったため昭和22年（[[1947年]]）に廃止され、[[消防団]]に改組移行された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
警防団の設立以前には現在の消防団に相当する「[[消防組]]」という組織があり、水火[[消防]]の任務を担っていた。警防団令施行に伴い、従来の「水火消防」&amp;lt;ref&amp;gt;「警防団令」第1条、『大日本警防』昭和15年4月号6-7頁&amp;lt;/ref&amp;gt;に加え「[[防空]]監視」&amp;lt;ref&amp;gt;「警防団令」第1条、『大日本警防』昭和15年4月号6-7頁&amp;lt;/ref&amp;gt;、「[[警報]]発令」、「[[灯火管制]]」&amp;lt;ref&amp;gt;昭和16年法律第91号「防空法」第1条&amp;lt;/ref&amp;gt;、「警戒・警護」&amp;lt;ref&amp;gt;『大日本警防』昭和15年4月号6-7頁&amp;lt;/ref&amp;gt;、「[[交通整理]]」、「被災者の[[応急処置|応急救護]]」&amp;lt;ref&amp;gt;昭和16年法律第91号「防空法」第1条&amp;lt;/ref&amp;gt;、「[[毒ガス]]に対する防護」、「被災者の避難所の管理」&amp;lt;ref&amp;gt;昭和16年法律第91号「防空法」第1条&amp;lt;/ref&amp;gt;等の役割を追加して改組された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==組織と階級==&lt;br /&gt;
警防団は原則として団本部―各分団―部―班という編成とすることとなっていたが、設置権者である地方長官（現在の[[都道府県知事|知事]]）および設置主体である[[市町村]]や監督指導する[[府県警察部]]の規模により編成には相当の地域差があった。このため、「典型的な警防団の組織編成」といったものを例示することは困難である{{refnest|group=注釈|各組織などが発行している「警察史」・「消防史」・「都道府県史」・「市町村史」などに断片的な記述が見られることがあるが、軍や警察と異なり全国の組織を実際に統括指揮する官公庁も無かったため、記録や資料自体が軍や警察と比較した場合の絶対数が少ない。}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、警防団令によって定められた警防団員の[[階級 (公務員)|階級]]は上位から順に団長、副団長、分団長、部長、班長、警防員であったが、実際には団の編成により副分団長や副部長、副班長といった階級が設けられている場合もあった&amp;lt;ref&amp;gt;『大日本警防誌』116-118頁による&amp;lt;/ref&amp;gt;。この場合、副分団長は分団長、副部長は部長、副班長は班長と同じ[[階級章]]（[[襟章]]）を用い、「&#039;&#039;&#039;副&#039;&#039;&#039;」の[[腕章]]を着用することとされた&amp;lt;ref&amp;gt;『大日本警防誌』116-118頁による&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、分団長、部長、班長が置かれず、団長と副団長以外は全員の階級が警防員という場合もあった&amp;lt;ref&amp;gt;「警防団令」第5条参照&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==制服==&lt;br /&gt;
警防団の[[制服]]には甲種と乙種の2種類が制定されていた。警防団員服制&amp;lt;ref&amp;gt;昭和14年7月19日内務省訓令第12号「警防団員服制」&amp;lt;/ref&amp;gt;によれば詳細は以下の通りである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
甲種制服は[[帝国陸軍]][[軍服 (大日本帝国陸軍)|軍服]]の[[軍服 (大日本帝国陸軍)#昭和13年制式|折襟・立折襟軍衣]]をモチーフにしたと思われるデザインであり、上衣、袴（[[ズボン]]）とも服地の色は濃茶褐色（[[カーキ色]]）で上衣の襟部分の色は黒色、胸の物入れ（[[ポケット]]）はプリーツ付き釦留め蓋付きの貼付型、腰の物入れは釦無し蓋付きの切れ込み型。[[階級章]]は独自のデザインの[[襟章]]と上着の袖章。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
袴は短袴（乗馬ズボン）と長袴（スラックス）の2種類。腰には上衣の上から幅広のベルトを締めており、ベルトの[[バックル]]に警防団の徽章が入っていた。[[制帽]]{{refnest|group=注釈|服制では単に「[[帽子|帽]]」と呼んでいるだけだが、いわゆる「略帽」の定めはなく、「帽」が名実ともに制帽である。}}は黒色で陸軍の[[戦闘帽]]とほぼ同型の物に警防団のマークの[[帽章]]が付く（帽は全階級共通のデザイン・材質で階級や役職による差は一切ない）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[靴]]は規定では黒色革製短靴であるが、実際には[[長靴]]や[[地下足袋]]なども使用された。また、[[ゲートル]]は黒色または濃紺色の物である（ただし、甲種制服のデザイン自体は警防団の前身である消防組の制服とも共通点が多く、消防組の制服を「[[国防色]]」と呼ばれた[[カーキ色]]に変えて階級章等のデザインを追加変更したとの見方もできる&amp;lt;ref&amp;gt;『日本服制史　中巻』262-267頁参照&amp;lt;/ref&amp;gt;）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、甲種制服は現存する実物では資源の不足からか濃緑色や灰褐色等様々な色や雑多な材質の物が見られる。ポケットの形状についても制式とは異なる例が散見される&amp;lt;ref&amp;gt;『大日本帝国陸海軍　軍装と装備』230-231頁参照&amp;lt;/ref&amp;gt;。乙種制服は黒色の[[法被]]、[[股引]]、[[腹掛]]であり、法被の左襟と背面に警防団名（例:○○町警防団）、右襟に職名（階級）を白色で染め出すこととされていた。警防団員の制服は繊維製品配給消費統制規則の適応外とされており、衣料切符なしで作製・購入が可能とされていた&amp;lt;ref&amp;gt;『大日本警防』昭和17年4月号53頁参照&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし実際には前述の通り戦時下の物資不足から作製は思うように進まなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==警防団員の法的身分==&lt;br /&gt;
現在の[[消防団員]]は[[地方公務員法]]において[[特別職]][[公務員]]（非常勤の公務員）であるとの法的身分が明示されているが、警防団員の法的身分については警防団令等に明確な規定がなかった。このため、私怨から警防団員の活動を妨害した者が[[公務執行妨害]]容疑で逮捕、起訴されたが「警防団員は公務員であるとの法的根拠がないので公務執行妨害には該当しない」として争った裁判がある。この裁判は最終的に「警防団員は公務員であり、その職務を妨害することは公務執行妨害である」との判決が確定した。この判例により警防団員の法的身分がはじめて明確なものとなった&amp;lt;ref&amp;gt;『大日本警防』昭和15年5月号40-41頁参照&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==備考==&lt;br /&gt;
[[愛知県]][[西尾市]]は昭和37年（[[1962年]]）に消防団を解団し、[[水防団]]と警防団に改編した。2団は同一のものであり水・警防団とも呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==参考文献==&lt;br /&gt;
* [[官報]]　第3760号　昭和14年7月19日水曜日（[[国立国会図書館]]所蔵）&lt;br /&gt;
* 官報　第4239号　昭和16年5月3日土曜日（国立国会図書館所蔵）&lt;br /&gt;
* 株式会社警防通信社刊『大日本警防誌』（昭和16年発行、国立国会図書館所蔵）&lt;br /&gt;
* 財団法人大日本警防協会刊『大日本警防』各号（国立国会図書館所蔵）&lt;br /&gt;
* 太田臨一郎『日本服制史　中巻』[[文化出版局]]　1989年&lt;br /&gt;
* [[中田商店|中田忠夫]]製作『大日本帝国陸海軍　軍装と装備』[[潮書房]]　1997年&lt;br /&gt;
* [[日本赤十字社]]刊『赤十字条約集』　2005年&lt;br /&gt;
* 近代消防社刊『新訂　がんばれ消防団！』　2006年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
=== 注釈 ===&lt;br /&gt;
{{reflist|group=&amp;quot;注釈&amp;quot;}}&lt;br /&gt;
=== 出典 ===&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
* [[消防組]]　/ [[特設消防署]]　/ [[防護団]]&lt;br /&gt;
* [[消防団]]　/ [[水防団]]　/ [[海防団]]&lt;br /&gt;
* [[民間防衛]]　/ [[国民保護]]　/ [[民兵]]&lt;br /&gt;
* [[自警団]]&lt;br /&gt;
* [[東京上野憲兵隊事件]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
*[http://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/Detail_F0000000000000036637 警防団令制定消防組規則廃止・御署名原本・昭和十四年・勅令第二〇号]-[[国立公文書館]]デジタルアーカイブ&lt;br /&gt;
*[http://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/MetSearch.cgi 警防団員服制中改正]-国立公文書館デジタルアーカイブ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{戦前の日本警察}}&lt;br /&gt;
{{Japanese-history-stub}}&lt;br /&gt;
{{gunji-stub}}&lt;br /&gt;
{{Police-stub}}&lt;br /&gt;
{{Firefighting-stub}}&lt;br /&gt;
{{Disaster-stub}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:けいほうたん}}&lt;br /&gt;
[[Category:第二次世界大戦終了以前の昭和時代]]&lt;br /&gt;
[[Category:戦前の日本警察]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の消防]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の防災]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の軍事史]]&lt;br /&gt;
[[Category:戦時下の日本]]&lt;br /&gt;
[[Category:戦時体制]]&lt;br /&gt;
[[Category:防災組織]]&lt;br /&gt;
[[Category:治安制度]]&lt;br /&gt;
[[Category:防犯]]&lt;br /&gt;
[[Category:現存しない日本の組織|+]]&lt;br /&gt;
[[Category:民兵]]&lt;br /&gt;
[[Category:民間防衛]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E6%9C%B1%E9%8E%94%E5%9F%BA&amp;diff=24383</id>
		<title>朱鎔基</title>
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		<updated>2014-07-29T23:49:59Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: /* 経歴 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{政治家&lt;br /&gt;
|人名 = 朱鎔基&lt;br /&gt;
|各国語表記 = 朱镕基&amp;lt;br /&amp;gt;Zhu Rongji&lt;br /&gt;
|画像 = Zhu Rongji 2001.jpg&lt;br /&gt;
|画像説明 =朱鎔基（[[2001年]][[9月11日]]）&lt;br /&gt;
|国略称 = {{PRC}}&lt;br /&gt;
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1928|10|1}}&lt;br /&gt;
|出生地 = {{ROC}}、[[湖南省]][[長沙]]&lt;br /&gt;
|没年月日 = &lt;br /&gt;
|死没地 = &lt;br /&gt;
|出身校 = [[清華大学]]電機製造学科&lt;br /&gt;
|前職 = &lt;br /&gt;
|現職 = &lt;br /&gt;
|所属政党 = [[File:Flag of the Chinese Communist Party.svg|25px]] [[中国共産党]] &lt;br /&gt;
|称号・勲章 = &lt;br /&gt;
|親族（政治家） = &lt;br /&gt;
|配偶者 = 労安&lt;br /&gt;
|サイン = Zhu Rongji Sign.png&lt;br /&gt;
|ウェブサイト = &lt;br /&gt;
|サイトタイトル = &lt;br /&gt;
|国旗 = 中華人民共和国&lt;br /&gt;
|職名 = 第5代[[国務院総理]]&lt;br /&gt;
|内閣 = 朱鎔基内閣&lt;br /&gt;
|就任日 = [[1998年]][[3月17日]] &lt;br /&gt;
|退任日 = [[2003年]][[3月16日]]&lt;br /&gt;
|元首職 = [[中華人民共和国主席|国家主席]] &lt;br /&gt;
|元首 = [[江沢民]]&lt;br /&gt;
|国旗2 = 中華人民共和国&lt;br /&gt;
|職名2 = [[中華人民共和国国務院|国務院]]常務副総理&lt;br /&gt;
|内閣2 = [[李鵬]]内閣&lt;br /&gt;
|就任日2 = [[1993年]][[3月29日]] &lt;br /&gt;
|退任日2 = [[1998年]][[3月17日]]&lt;br /&gt;
|元首職2 = [[中華人民共和国主席|国家主席]] &lt;br /&gt;
|元首2 = [[江沢民]]&lt;br /&gt;
|国旗3 = 中華人民共和国&lt;br /&gt;
|職名3 = [[中華人民共和国国務院|国務院]]副総理&lt;br /&gt;
|内閣3 = [[李鵬]]内閣&lt;br /&gt;
|就任日3 = [[1991年]][[4月8日]] &lt;br /&gt;
|退任日3 = [[1993年]][[3月29日]]&lt;br /&gt;
|元首職3 = [[中華人民共和国主席|国家主席]] &lt;br /&gt;
|元首3 = [[楊尚昆]]&lt;br /&gt;
|国旗4 = &lt;br /&gt;
|職名4 = &lt;br /&gt;
|内閣4 = &lt;br /&gt;
|就任日4 =  &lt;br /&gt;
|退任日4 = &lt;br /&gt;
|元首職4 = &lt;br /&gt;
|元首4 = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{中華圏の人物&lt;br /&gt;
| 名前=朱鎔基&lt;br /&gt;
| 画像=&lt;br /&gt;
| 画像の説明=&lt;br /&gt;
| 出生=&lt;br /&gt;
| 死去=&lt;br /&gt;
| 出身地=&lt;br /&gt;
| 職業=&lt;br /&gt;
| 簡体字=朱镕基&lt;br /&gt;
| 繁体字=朱鎔基&lt;br /&gt;
| ピン音=Zhū Róngjī&lt;br /&gt;
| 注音=&lt;br /&gt;
| 和名=しゅ ようき&lt;br /&gt;
| 発音=ヂュー・ロンチー&lt;br /&gt;
|}}&lt;br /&gt;
{{中華人民共和国}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;朱 鎔基&#039;&#039;&#039;（しゅ ようき、ヂュー・ロンチー、[[1928年]][[10月1日]] - ）は[[中華人民共和国]]の政治家。第5代[[国務院総理]]（[[首相]]）、第14期・第15期[[中国共産党中央政治局常務委員会|中国共産党中央政治局常務委員]]などを務めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
[[湖南省]][[長沙市]]に生まれる。先祖は[[明|明王朝]]の開祖[[朱元璋]]だと伝えられているが、堂坡朱氏。父親は朱鎔基が生まれる前に他界し、母親も早くに病没した。そのために奨学金を得て苦学し、[[1947年]]、[[清華大学]]電機製造学科に入学。在学中、学生会の主席を務める。中華人民共和国が建国された[[1949年]]10月に[[中国共産党]]へ入党する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1951年]]、大学を卒業して東北人民政府に入り、工業部生産計画室に配属される。その後、同室の副主任となる。翌[[1952年]]11月、ソ連方式の計画経済を主導する機関として国家計画委員会が新設され、[[中華人民共和国副主席|中央人民政府副主席]]兼東北人民政府主席の[[高崗]]が同委員会主席に就任した。高崗の北京入りにともない、翌月、朱鎔基も中央に呼び寄せられて、同委員会の動燃局に所属し、組長となった。[[1953年]]には同委員会総合局に転属し、組長となる。[[1954年]]、「[[高崗・饒漱石事件]]」が起こり、高崗が失脚したが、朱に累が及ぶことはなかった。[[1958年]]には国家計画委員会主任弁公室副処長となったが、[[毛沢東]]が発動した[[大躍進政策]]を批判したことで、右派の烙印を押されて失脚、国家計画委員会付属学校の教員に左遷された。大躍進政策の破綻を受け、[[劉少奇]]・[[鄧小平]]らが実権を握り、実務官僚を重用して経済再建に乗り出していくと、朱も[[1962年]]に「赦免」され、国家計画委員会国民経済総合局の工程師として復帰する。しかし、[[文化大革命]]において再び粛清され、[[1970年]]に下放、五七幹部学校で労働改造を受ける。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1975年]]に復帰し、石油化学工業部に配属される。[[1978年]]に鄧小平（同年、[[華国鋒]]から主導権を奪い、事実上の最高指導者となった）が経済改革を始めると、朱鎔基は名誉回復されて党籍を回復し、[[中国社会科学院]]の工業経済研究所に入った。[[1979年]]、国家経済委員会に移り、動燃局処長に就任。翌[[1980年]]には副局長となっている。[[1982年]][[5月24日]]、国家経済委員会委員兼技術改革局長に任命され、[[1983年]]8月、国家経済委員会副主任（次官）に昇進。[[1984年]]5月、母校の清華大学経済管理学部長兼教授となる。同年9月、国家経済委員会党組副書記。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1987年]]10月、第13期[[中国共産党中央委員会|党中央委員会]]候補委員に選出される。12月に[[上海市]]党委員会副書記に任命され、中央から上海へ移る。上海では市党委書記兼市長の[[江沢民]]を補佐。江が市党委書記に専念するにともない、[[1988年]][[4月25日]]、江の後任として上海市長に就任。当時、[[中国共産党中央委員会総書記|党総書記]]だった[[趙紫陽]]が後に口述したところによると、これらの人事は趙の後押しによってなされたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1989年]][[6月4日]]、[[六四天安門事件|第二次天安門事件]]が勃発。朱鎔基は、党総書記候補として北京にいた江沢民に代わって上海市を取り仕切り、「中共上海市委員会、上海市人民政府の全市共産党員、市民に告げる書」から反革命動乱という表現を削除させ、市民の正常な生活と労働の権利を守るとした。8日、テレビ演説で「歴史的事実は誰も隠せない。事実の真相はやがて明らかになるだろう」と宣言、上海市を流血事件から回避させた。8月、江沢民の後任の上海市党委書記に昇進し、浦東新区の発展や外資導入と[[汚職]]の取り締まりに辣腕を振るう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鄧小平は朱鎔基の行政能力と実行力を評価し、[[1991年]][[4月8日]]の第7期[[全国人民代表大会]]第4回会議で[[中華人民共和国国務院|国務院]]副総理に、[[1992年]]の第14回党大会において三階級特進で中央政治局常務委員に抜擢した&amp;lt;ref&amp;gt;[[天児慧]]『巨龍の胎動　毛沢東VS鄧小平』＜中国の歴史11＞（講談社、2004年）、306ページ。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;朱鎔基は1987年10月の第13回党大会で中央候補委員に選ばれた。当時の中央委員は175人、中央候補委員は110人で、序列91位の候補委員（得票順）である朱鎔基は中央委員会全体の序列では266位。1991年に副総理に、1992年の第14回党大会で中央委員に選出され、その直後の第14期1中全会で政治局常務委員に就任し、三階級特進を果たした。[[曽慶紅]]が政治局候補委員（第15期）から政治局常務委員（第16期）に二段跳びしたことはあるが、三段跳びは珍しい。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1993年]][[3月29日]]、[[李鵬]]に代わって総理就任が予想されるなか、経済担当の常務副総理（第一副首相）に就任。朱鎔基の経済政策に期待されたことは改革開放の推進と経済の高成長の持続であったが、一方でこの頃から顕著になってきた「経済過熱」を冷却し、物価上昇の抑制を図ることも求められた&amp;lt;ref&amp;gt;天児慧、前掲書、309ページ。&amp;lt;/ref&amp;gt;。朱は経済成長を維持するために外資導入を奨励し、健全な国債を大量に発行する一方、地方が乱発する不良債権の抑制・整理に着手、地方政府や国有企業に対して投資を控えさせた。さらに銀行改革にも乗り出し、[[7月2日]]、李貴鮮[[中国人民銀行]]総裁を解任して自ら兼務し、乱発される債券の発行、無担保の銀行融資などを強く取り締まって、「過熱経済」の軟着陸を図った&amp;lt;ref&amp;gt;天児慧、前掲書、311ページ。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1997年]]9月の第15期党中央委員会第1回全体会議（第15期1中全会）で政治局常務委員に再任され、[[1998年]][[3月17日]]、国務院総理に就任した。朱鎔基は前年の全国金融工作会議と中央経済工作会議で表明した国有企業改革・金融改革・政府機構改革を、「[[2000年]]までに実現すべき三大改革」と位置づけて、経済改革と国務院改革に着手した。朱は経済の開放政策をさらに加速させることで外資を取り込み、また「外圧」を利用して改革を推進しようと考えた&amp;lt;ref&amp;gt;天児慧、前掲書、316ページ。&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[2001年]]11月には、中国の[[世界貿易機関]]加盟を実現させた。同年3月の全人代において朱は政府報告を行い、「国有企業改革の達成目標は基本的に実現し、金融改革の歩調は速まっている」と改革の成果を主張している。ただし、国有企業改革で多くの失業者を出したことなどについては批判も多かった。一方の政府機構改革では、国務院の省庁再編を行うとともに、汚職に対して厳しく臨んだ。[[遠華密輸事件]]はその内の1つである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2002年]]11月に中央委員から退き、翌年3月には国務院総理を退任して政界から引退した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 評価 ==&lt;br /&gt;
朱鎔基は清廉で決断力と指導力に富む政治家であり、その大胆な経済改革は国内外から高く評価されている。その豪腕ぶりから、海外のメディアからは「&#039;&#039;&#039;経済[[ツァーリ]]&#039;&#039;&#039;」「&#039;&#039;&#039;中国の[[ミハイル・ゴルバチョフ|ゴルバチョフ]]&#039;&#039;&#039;」と呼ばれた。直截的な発言家で、形式主義を嫌い、政敵を作ってでも必要な経済改革を推進するという強い意志の持ち主であり、中国国内では畏敬の念を持たれ「朱鎔基が怖れるのは妻の労安さんだけ」といわれた。その一方、政治面では高度経済成長を通じて共産党の独裁を維持することを積極的に唱えるなど保守派としての顔も世界に見せ、民主活動家から批判を受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「当代中国きっての高官」と謳われ、「中国経済改革の旗手」を自他ともに任じた朱鎔基ではあるが、彼を「中国国内で蔓延する腐敗と汚職・環境破壊を招いた張本人」と否定的に評価する論者もいる&amp;lt;ref&amp;gt;陳惠運・野村旗守共著『中国は崩壊しない ― 毛沢東（ビッグブラザー）が生きている限り ― 』（文藝春秋社、2010年）、156ページ。&amp;lt;/ref&amp;gt;。朱鎔基は総理就任の際、「赤字国有企業問題を3年以内に解決する」と表明し、鉄道や基幹産業以外の国有企業の大部分を民間に払い下げたが、その売却先は、共産党幹部の縁故者のみに限定され、[[太子党]]の有力幹部の子弟たちには破格の安値で払い下げられた。中国の国民の共有の財産であった国有企業が、ごく一部の人間に二束三文で売り払われ、中華人民共和国建国時の理念から大きく逸脱したことになる。その代償として、労働者4000万人が突如解雇され、補償も与えられず、さらに国有企業がなくなったことで、医療保険、住宅手当、その他福利厚生の一切合財が消滅した。さらに民間への払い下げの促進のため、朱鎔基は国有企業に38パーセントという法外な税率を課し、外資を呼び込むために外国との合弁企業には税金を免除した。さらに金融・通信・鉄道などの基幹産業企業以外には一切の融資を禁止したことで国有企業は次々に経営不振となり、民間に払い下げられた。こうして出てきたのが、中国で栄華の限りを尽くす「新富人」と4000万人の中高年失業者であり、朱鎔基の政策が中国の貧富の格差と失業者問題を引き起こしたとする見解もある&amp;lt;ref&amp;gt;陳惠運・野村旗守、前掲書、156 - 158ページ。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== エピソード ==&lt;br /&gt;
* [[1995年]]に[[陳希同]]が汚職容疑で北京市党委書記を解任されると、「腐敗退治はまずトラを退治して、次に狼を退治する。虎に対しては絶対に姑息な手段を使ってはいけない。棺おけを100個準備する。私にも1つだ。私は彼らを道連れに国家に長期的な安定発展と、庶民のわれわれの事業に対する信頼を獲得するのだ」と発言、党員の汚職に対する厳しい姿勢を強調した。&lt;br /&gt;
* [[2000年]][[10月15日]]の[[TBSテレビ|TBS]]の『[[NEWS23|筑紫哲也 NEWS23]]の特別版』（司会は[[筑紫哲也]]、録画である）にて[[タウンミーティング]]に参加、出演したことがある。このとき「私の対日政策が弱腰だと、国務院に批判のメールが殺到して、夜も眠れないことがある」と発言した。しかし、この部分は放送はされなかった&amp;lt;ref&amp;gt;清水美和『中国はなぜ「反日」になったか』（文藝春秋社〈文春新書〉）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==脚注==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;margin:0 auto&amp;quot;&lt;br /&gt;
|- &lt;br /&gt;
! {{Flagicon|CHN}}[[中華人民共和国]]&lt;br /&gt;
{{先代次代|[[国務院総理]]|[[1998年]] - [[2003年]]|[[李鵬]]|[[温家宝]]}}&lt;br /&gt;
{{先代次代|[[中華人民共和国国務院|国務院]]常務副総理|[[1993年]] - [[1998年]]|[[姚依林]]|[[李嵐清]]}}&lt;br /&gt;
{{先代次代|[[中国人民銀行]]総裁|[[1993年]] - [[1995年]]|[[李貴鮮]]|[[戴相竜]]}}&lt;br /&gt;
{{先代次代|[[上海市長]]|[[1988年]] - [[1991年]]|[[江沢民]]|[[黄菊]]}}&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!　[[File:Flag of the Chinese Communist Party.svg|25px]][[中国共産党]]&lt;br /&gt;
{{先代次代|[[上海市]]党委書記|[[1989年]] - [[1991年]]|[[江沢民]]|[[呉邦国]]}}&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{中華人民共和国国務院総理}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しゆ　ようき}}&lt;br /&gt;
[[Category:中華人民共和国の政治家]]&lt;br /&gt;
[[Category:国務院総理]]&lt;br /&gt;
[[Category:上海市長]]&lt;br /&gt;
[[Category:中国共産党の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:中国人民銀行の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:中国社会科学院の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:長沙出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1928年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E5%A6%99%E8%A6%8B%E8%8F%A9%E8%96%A9&amp;diff=90311</id>
		<title>妙見菩薩</title>
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		<updated>2014-07-28T08:29:58Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: /* 概要 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{出典の明記|date=2010年9月}}&lt;br /&gt;
{{統合文字|薩}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;妙見菩薩&#039;&#039;&#039;（みょうけんぼさつ）は、[[仏教]]における信仰対象である[[天部]]の一つ。妙見尊星王（みょうけんそんしようおう）、北辰（ほくしん）妙見菩薩とも呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
妙見信仰は、古代[[バビロニア]]にはじまり、[[インド]]を経て、中国で仏教と道教と習合し、仏教と共に日本に伝来したという。&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.chichibu-jinja.or.jp/saijin/index.htm 秩父神社]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[http://ensenji.or.jp/myouken.html 妙見菩薩と全国の妙見菩薩・平将門資料集] 埼玉県　円泉寺&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「[[菩薩]]」とは、本来[[サンスクリット]]の「ボーディ・サットヴァ」の音写で、「悟り（真理）を求める者」の意であり、[[十界]]では上位である四聖（仏･[[菩薩]]･[[声聞]]・[[縁覚]]）の一つだが、妙見菩薩は他のインド由来の菩薩とは異なり、中国の[[星宿]]思想から[[北極星]]を神格化したものであることから、通常は[[大黒天]]や[[毘沙門天]]・[[弁才天]]と同じ[[天部]]に分類されている。&lt;br /&gt;
[[Image:Myouken.jpg|190px|right|thumb|妙見菩薩の例（兵庫県美方郡香美町 [[法雲寺 (香美町)|法雲寺]]）]]&lt;br /&gt;
[[Image:honkouji_15.jpg|200px|right|thumb|妙見菩薩の例（千葉県市川市大野町 [[本光寺 (市川市)|本光寺]]）]]&lt;br /&gt;
古代中国の思想では、[[北極星]]（北辰とも言う）は天帝（[[天皇大帝]]）と見なされた。これに仏教思想が流入して「菩薩」の名が付けられ、妙見菩薩と称するようになった。「妙見」とは「優れた視力」の意で、善悪や真理をよく見通す者ということである。七仏八菩薩所説大陀羅尼神呪経には「我れ、北辰菩薩にして名づけて妙見という。今、神呪を説きて諸の国土を擁護せんと欲す」とある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
妙見菩薩信仰には星宿信仰に[[道教]]、[[密教]]、[[陰陽道]]などの要素が混交しており、像容も一定していない。&lt;br /&gt;
他に甲冑を着けた武将形で[[玄武]]（亀と蛇の合体した想像上の動物で北方の守り神）に乗るもの、唐服を着て[[笏]]を持った陰陽道系の像など、さまざまな形がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本で[[重要文化財]]に指定されている妙見菩薩の彫像は、[[読売新聞社]]所有（[[よみうりランド]]内聖地公園保管）の1体のみである。この像は、正安3年（1301年）の銘があり、もと[[伊勢神宮]]外宮の妙見堂にあったものとされる。しかし、この像は甲冑を着け、右手に剣を持ち、頭髪を美豆良（[[角髪|みずら]]）に結った特殊な像容を示し、所伝とおり妙見菩薩と呼ぶべきかどうか若干疑問の残るものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、[[中世]]においては[[千葉氏]]や[[九戸氏]]が妙見菩薩を一族の守り神としており、千葉氏の氏神とされる[[千葉市]]にある[[千葉神社]]では今日でも妙見菩薩と同一と見なされている[[天之御中主神]]を祭神としている。これは、[[明治維新]]の際の[[神仏分離令]]によって、「菩薩」を公然と祀れなくなってしまった為に採られた措置である。&lt;br /&gt;
同様の経緯による神社化は、[[岩手県]][[奥州市]]にある[[日高神社]]や九戸氏の氏神とされている[[岩手県]][[九戸郡]]にある[[九戸神社]]、[[大阪府]]の[[小松神社 (交野市)|星田妙見宮]]、[[秩父市]]の[[秩父神社]]、[[千葉県]][[君津市]]の人見神社、[[埼玉県]][[飯能市]]の喜多川神社、[[茨城県]][[竜ケ崎市]]の星宮神社および我野神社（あがのじんじゃ）の例など多数ある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、[[千葉神社]]（当時の「千葉妙見宮」）は[[源頼朝]]から崇拝を受けた。また、[[日蓮]]も重んじており、この縁により妙見菩薩が[[日蓮宗]]寺院に祀られることが多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[三大妙見]]&lt;br /&gt;
**[[妙見山 (能勢)|能勢妙見]]（大阪府）、[[相馬妙見]]（福島県）、[[八代神社|八代妙見]]（熊本県）&lt;br /&gt;
*[[能勢妙見山]]&lt;br /&gt;
*[[天之御中主神]]&lt;br /&gt;
*[[天皇大帝]]&lt;br /&gt;
*[http://www.yanagishima-myouken.net/ 柳嶋妙見山] - [[葛飾北斎]] は柳嶋妙見山を篤く信仰し北辰妙見菩薩信仰に基づき「北斎辰政」と号した。&lt;br /&gt;
*[[北辰一刀流]] - 北辰妙見菩薩を信奉する[[千葉氏]]の流れを汲む剣術流派。&lt;br /&gt;
*[[星まつり]]&lt;br /&gt;
*[[酉の市]]（東京都[[長国寺]]）&lt;br /&gt;
*但馬妙見（[[名草神社]]・[[日光院]]）&lt;br /&gt;
*[[洛陽十二支妙見めぐり]]&lt;br /&gt;
*[[妙見山]]&lt;br /&gt;
*[[妙見寺]]&lt;br /&gt;
*[[妙見宮]]&lt;br /&gt;
*[[星宮神社]] - 妙見信仰の神社&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www.yomiuriland.co.jp/institution/park.html よみうりランド|聖地公園]&lt;br /&gt;
*[http://www.eonet.ne.jp/~jyunisimyouken/ 開運厄除 洛陽十二支妙見めぐり]&lt;br /&gt;
*[http://www.ensenji.or.jp/myouken.html 全国の妙見菩薩]&lt;br /&gt;
*[http://www.ensenji.or.jp/img/pdf/07.pdf 別冊 妙見菩薩 平将門関連]（PDFファイル）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Buddhism2}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:みようけんほさつ}}&lt;br /&gt;
[[category:天部]]&lt;br /&gt;
[[category:星神]]&lt;br /&gt;
[[Category:陰陽道の神]]&lt;br /&gt;
[[Category:陰陽道]]&lt;br /&gt;
[[Category:道教]]&lt;br /&gt;
[[Category:密教]]&lt;br /&gt;
[[Category:法華系仏教]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E7%9B%9B%E5%B2%A1%E8%97%A9&amp;diff=15902</id>
		<title>盛岡藩</title>
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		<updated>2014-07-28T04:43:21Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: /* 寛政11年 - 文政 4年 蝦夷地幕領化にともなう一揆 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;盛岡藩&#039;&#039;&#039;（もりおかはん）は、[[陸奥国]]北部（[[明治]]以降の[[陸中国]]および[[陸奥国 (1869-)|陸奥国]]東部）、すなわち現在の[[岩手県]]中部から[[青森県]]東部にかけての地域を治めた[[藩]]。一般に「&#039;&#039;&#039;[[南部藩]]&#039;&#039;&#039;」とも呼ばれるが、後に八戸藩と七戸藩が分かれるなどの変遷を経る。藩主は[[南部氏]]で、居城は[[盛岡城]]（[[陸中国]][[岩手郡]]、現在の[[岩手県]][[盛岡市]]）である。家格は[[外様大名]]で、石高は当初[[表高]]10万[[石 (単位)|石]]であったが、[[内高]]は多く[[幕末]]に表高20万石に高直しされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同じ南部氏領の[[八戸藩]]、支藩の[[#七戸藩（盛岡新田藩）|七戸藩]]（盛岡新田藩）があるが、八戸藩の詳細を除き、ここにまとめて記述する。&lt;br /&gt;
{{ external media&lt;br /&gt;
| align  = right&lt;br /&gt;
| width  = 300px&lt;br /&gt;
| topic  = 南部氏領（盛岡藩と[[八戸藩]]）&lt;br /&gt;
| image1 = [http://www.hachinohe.ed.jp/haku/image/date/r_tanjo_il_2.jpg 黄色が盛岡藩領（＋七戸藩領）&amp;lt;br /&amp;gt;ピンク色が八戸藩領]&amp;lt;br /&amp;gt;（[[八戸市博物館]]「[http://www.hachinohe.ed.jp/haku/rekisi_tanjo.html 八戸藩の誕生]」）&lt;br /&gt;
| image2 = &lt;br /&gt;
| image3 = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
[[甲斐国]]（現在の[[山梨県]]）に栄えた[[甲斐源氏]]の流れを汲んだ[[南部氏]]の始祖・[[南部光行]]が、[[平泉]]の[[奥州藤原氏]]征討の功で現在の[[青森県]][[八戸市]]に上陸し、現在の[[南部町 (青森県)]]相内地区に宿をとった。それから、奥州南部家の最初の城である[[平良崎城]]（現在の[[南部町立南部中学校 (青森県)|南部町立南部中学校]]旧校舎跡地）を築いた。後に現在の青森県[[三戸町]]に[[三戸城]]を築城し移転している（現在、城跡は城山公園となっている）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 鎌倉以来 ===&lt;br /&gt;
[[鎌倉時代]]に[[源頼朝]]に出仕して以来、700年間も同じ土地を領有し続けた大名は、[[薩摩国|薩摩]]の[[島津氏|島津家]]と南部家の2家のみである（薩摩藩も江戸時代に万石級の家臣を抱えていた）&amp;lt;ref group=&amp;quot;†&amp;quot;&amp;gt;[[相馬氏]]（[[相馬中村藩]]）も鎌倉時代以来の同じ土地を領有し続けたとの説もある&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
{{Main|南部氏|南部氏歴史年表}}&lt;br /&gt;
ちなみに、盛岡市の市章は「違菱（たがいびし）」と呼ばれ、南部氏の家紋「向鶴（むかいづる）」にあしらわれた鶴と、甲斐源氏を出自とすることの表れである元来の家紋「菱」を連想させるものである。現在の市章が使われるようになった経緯は明らかでないが、菱を重ねた紋は、少なくとも江戸時代には既に南部家で使われていたものと言われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 安土桃山時代 ===&lt;br /&gt;
* [[天正]]18年（[[1590年]]）7月、「南部家中興の祖」とも呼ばれる南部家第26代[[南部信直]]（初代盛岡藩主・[[南部利直]]の父）が[[豊臣秀吉]]の[[小田原征伐]]に参陣しそのまま[[奥州仕置]]に従軍中、秀吉から[[宇都宮]]において7月27日付で南部の所領の内7ヶ郡（[[糠部郡]]、[[閉伊郡]]、[[鹿角郡]]、[[久慈郡]]、[[岩手郡]]、[[紫波郡|志和郡]]、そして[[遠野]][[保]]）についての覚書の朱印状を得る&amp;lt;ref&amp;gt;{{PDFlink|[http://www.pref.aomori.lg.jp/soshiki/kyoiku/e-kyodokan/files/2010-0604-1454.pdf 天正20年（1500）7月27日付豊臣秀吉朱印状南部信直宛（盛岡市中央公民館蔵）]}}　&amp;lt;/ref&amp;gt;ことによって、豊臣大名として公認された。&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
さらに、翌天正19年（[[1591年]]）[[九戸政実の乱]]の後本拠を、[[三戸城]]から[[九戸城]]（のち「福岡城」と改める。現在の[[二戸市]][[福岡町 (岩手県)|福岡]]に当たる。）に移したが、[[津軽為信]]に安堵されたことで失領した[[津軽郡 (陸奥国)|津軽3ヶ郡]]（[[平賀郡]]、[[鼻和郡]]、[[田舎郡]]）の代替地として[[和賀郡]]、[[稗貫郡]]の2ヶ郡が加増され、9ヶ郡におよぶ版図が確立し、このとき安堵された9ヶ郡は、現在の[[岩手県]]、[[青森県]]・[[秋田県]]の3県にまたがっており、[[蒲生氏郷]]や[[浅野長政]]より九戸では北辺に過ぎるとの助言を受け[[不来方]]の地を本拠とすべく、仮住まいの[[郡山城 (陸奥国)|郡山城]]（現在の岩手県[[紫波町]]日詰高水寺）を経て、文禄元年（[[1592年]]）、[[盛岡城]]を中心とした[[城下町]]の建設を始めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 江戸時代 ===&lt;br /&gt;
* [[慶長]] 5年（[[1600年]]）、[[関ヶ原の戦い]]で覇権を確立した[[徳川家康]]からもそのまま所領が安堵され、表高（軍役高）10万石の大名として認められた。&lt;br /&gt;
* [[元和 (日本)|元和]] 3年（[[1617年]]）3月、盛岡藩主南部利直、[[南部氏#根城南部氏（遠野南部氏）|八戸氏（根城南部氏）]]から下北の支配権を接収。&lt;br /&gt;
* [[寛永]] 4年（[[1627年]]）3月、[[阿曽沼氏]]の旧領だった遠野地区が仙台藩との領境を接する防御上の用地であったため、藩主利直は南部一族の[[八戸直栄]]（直義）を八戸根城から遠野横田城へ&#039;&#039;&#039;陸奥国代&#039;&#039;&#039;として転封させて、中世以来の八戸の根城南部氏から、&#039;&#039;&#039;[[南部氏#根城南部氏（遠野南部氏）|遠野南部氏]]&#039;&#039;&#039;となった。&lt;br /&gt;
* 寛永10年（[[1633年]]）3月、盛岡へ[[福岡藩#黒田騒動|黒田騒動]]で[[筑前国]][[福岡藩]]家老・[[栗山利章]]が南部家御預りとなる。この年、[[盛岡城]]が度重なる水害を経ておよそ40年の歳月を掛けて完成し、盛岡は正式な南部氏の[[城下町]]となった。&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
:::江戸時代の250年間に76回もの[[飢饉]]があった。&lt;br /&gt;
城から仰ぐ[[岩手山]]・[[早池峰山]]・[[姫神山 (岩手県)|姫神山]]の「南部三山」に大権現を勧請し、城を中心として、上級武士（高知）を住まわせ、その周りに町人を、さらにそれらを、取り囲むように一般の侍町をつづけ、市中の平均した発展を図るために「五の字割」と呼ばれる町割りを行い、周辺の村々に通じる城下はずれの街道沿いには、警護の必要から足軽（同心）を住まわせた。さらに城下北東の山麓には、防護上の配慮から、、城の真北に祖霊を祀る「大光山聖壽禅寺（[[臨済宗妙心寺派]]）」を建立した。[[京都]]にならって、北部丘陵を「北山」と呼んで領内の寺社を集め、大寶山東禅寺（臨済宗）、擁護山無量院教浄寺（[[時宗]]）、瑞鳩峰山報恩寺（[[曹洞宗]]）、大智山法泉寺（臨済宗）と合わせ特に「盛岡五山（盛岡五ヶ寺、北山五山）」と定め、東には[[八幡宮]]、[[天満宮]]、[[住吉神社]]などの神社を配した。&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 寛永11年（[[1634年]]）8月、糠部郡が[[北郡|北]]、[[三戸郡|三戸]]、[[二戸郡|二戸]]、[[九戸郡|九戸]]の4ヶ郡に分割されて、[[徳川家光]]により、領内10郡10万石の領知判物拝領。&lt;br /&gt;
* 寛永12年（[[1635年]]）3月、[[朝鮮通信使]]を巡る[[柳川一件]]で[[対馬府中藩]]（[[長崎県]][[対馬市]]）から、当時の有識者である[[規伯玄方]]（「方長老」と呼ばれた）が、遠く[[九州]]からお預けの身となったが、当時の藩主は[[茶道|茶の湯]]や[[漢文]]を始めとする文化の師として厚遇し、京や西国、大陸の文化を取り入れることに成功した。また、これが地場工芸の[[南部鉄器]]や作庭、後世の菓子創作などに影響し、盛岡における芸術文化の土壌を生み出したと考えられている。この頃、藩主は「[[蛭子屋三衛門]]」（現・小野染彩所）を御用染司として京都から招いた。&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
物流は[[北上川]]舟運による輸送が主流であり、[[仙台藩]]の[[石巻]]を経由して[[江戸]]・[[上方]]と結ばれていたが、西には[[鹿角街道]]（[[流霞道]]）があり、遠国との海運を果たす重要ルートであった。盛岡藩は砂金、紫紺、良馬の産地であり、城下には大店が並び[[上方]]からの下り物取引があって、飢饉の頻発した農村と比べれば経済的には豊かであった。時に町人の生活は華美になり、過度に山車の壮麗さを競う風潮も生まれ、奢移品を禁ずる法令もが出されたという。それは開府に先立って招聘した[[近江商人]]をはじめとする「領外商人」進出による影響が大きい。うち有力な者は現在の[[滋賀県]][[高島市]]大溝周辺から進出した村井氏・小野氏ほか一族で、現在の[[大阪府]]から「平野[[杜氏]]」を招き、清酒醸造の技術を盛岡の南郊「志和」に伝えた。この技術を今に伝えるのが、「[[南部杜氏]]」である。城下には近江商人のほか、山城（[[京都府]]）・大坂（[[大阪府]]）・伊勢（[[三重県]]）・美濃（[[岐阜県]]）・常陸（[[茨城県]]）・富山など主に西日本から多くの商人が定住し、後にその末裔は後世に企業や銀行の創設に関わるなど、盛岡の文化・経済を大きく動かすこととなる。&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
殊に京都（京）からの移住者は城下の要地に集住し、ここは「京町」（現在の本町通）と呼ばれのちには勧業銀行が置かれるなど、近代まで盛岡の主要な商店街であった。また[[上方]]（[[関西]]地方）出身の武士が集まって住んだ町は「上衆小路」と呼ばれ、仙北町（[[秋田県]][[仙北市]]からの移住者が集住）、津軽町（[[青森県]][[津軽]]地方からの移住者が集住、現在の津志田）のほか、「岩手町・久慈町」（現在の材木町）など、領内各地からの移住者による町も生まれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[万治]] 2年（[[1659年]]）、茶道に造詣の深い第2代藩主南部重直は、甲州から鋳物師の「[[鈴木家綱|鈴木縫殿&amp;lt;small&amp;gt;（ぬいと）&amp;lt;/small&amp;gt;家綱]]」（現・鈴木盛久工房）を、京都より釜師「[[小泉仁五郎七|小泉仁左衛門五郎七]]」（現・御釜屋）を召抱え、領内の良質な砂鉄を元に鉄瓶の製作を進めた。以後、南部釜と称される[[南部鉄器]]の本格的な生産が開始される。&lt;br /&gt;
* [[寛文]] 4年（[[1664年]]）9月、第3代藩主の[[南部重直]]が、[[江戸幕府]]第4代将軍・[[徳川家綱]]に後継者選定と家の存続を事前に願って[[江戸]]で死去した。&lt;br /&gt;
重直の将軍への願いを知らされていなかったためか、国元は相続人と家の存続を巡って一時不穏となる。同年12月、家綱は裁定して、2万石減封した上で盛岡8万石を異母弟の[[南部重信|七戸重信]]に与えて家を継がせ、重直・重信双方の異母弟の[[南部直房|中里直好]]に八戸2万石を新規に与えて家を興させ、事実上の分割相続を行った。&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- * 寛文13年（[[1673年]]）、盛岡において北上川を直進させる新川開削工事に着手。延宝 3年（[[1675年]]）、完成。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
* [[天和 (日本)|天和]] 3年（[[1683年]]）、重信は新田開発高を幕府に届け出て高直しを願い出たが、領内各村に一定の割合を乗じて算出した増加分で盛岡藩の領地域はそのままで10万石に復した。&lt;br /&gt;
* [[元禄]] 7年（[[1694年]]）、盛岡藩第5代藩主[[南部行信]]は弟の[[南部政信]]（麹町候）に5,000石、同じく[[南部勝信]]（三田候）に3,000石を分知して、それぞれを旗本として出仕させる。&lt;br /&gt;
* 元禄16年（[[1703年]]）、[[越前国]]金剛院の僧「[[空念]]」の推挙により、南に「南部の繁昌」を願い、毒ケ森を[[南昌山]]と改名した。&lt;br /&gt;
* [[文化 (元号)|文化]] 5年（[[1808年]]）には、盛岡藩第11代藩主[[南部利敬]]は[[蝦夷地]]警備の功により、幕府によって領地加増を伴わない20万石への高直し（文化の高直り&amp;lt;ref&amp;gt;『弘前城築城四百年』[[長谷川成一]]著など&amp;lt;/ref&amp;gt;）が行われる。さらに格式も、[[城主大名]]から[http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%E0%B9%F1%BC%E7 准国主大名]をとびこえて「[[国主|国持大名]]」に準じたことを記念し、以後領国を「南部」から「盛岡」へ改めるよう通達した。これにより、城下町盛岡と領国名とが同一となった。&amp;lt;!--「国統大年譜」によると、南部が単に甲州の村落名であるという理由から、文化14年（[[1817年]]）に南部藩も改称したとされる。--&amp;gt;&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
石高が上がり藩の格式は高くなったものの、実収入の増加が全く伴わない上、参勤交代や[[蝦夷地]]（現在の[[北海道]]）警衛など、より多くの兵力準備と動員を義務づけられ、負担が倍増する事態を招いた。以後、盛岡藩の財政は[[新渡戸傳]]（[[新渡戸稲造]]の曽祖父）によって立ち直されるまで慢性的な赤字体質となり、破綻寸前まで追い詰められる。&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
* [[文政]] 2年（[[1819年]]）、盛岡藩から[[新田分知|新田分]]5,000石を支給されていた[[内分分知|分知]][[旗本]]家（当時の当主・[[南部信誉]]）に新たに6,000石を支給し、支藩の七戸藩（別名：盛岡新田藩）を立てる（ただし、盛岡藩から蔵米を支給され、実体領を持たない大名で、七戸に藩の政庁を置くのは[[明治維新]]後の[[明治]]2年（[[1869年]]）のことである）。&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期の商業として特筆されるのは、創始を元和年間に遡る「菊の司」（現・菊の司酒造）以下、明和4年（1767年）に醸造業「近江屋」（現・[[平金商店]]）、文化13年（[[1816年]]）に荒物商「茣蓙九」（現・茣蓙九森九商店）、安政4年（1857年）に薬種商「村源」、慶応2年（1866年）鉈屋町に興された木綿商が「川徳呉服店」（現・[[川徳]]）として発展するなど、形態を変えながらも、藩政時代創業の商家が現在にまで存続している例が多いことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 文政 4年（[[1821年]]）4月、[[相馬大作事件]]が起こる。この史実は、250年前に津軽氏（[[弘前藩]]主）が南部氏に対して謀反を起こしたことを発端とするもので、[[南部氏]]やその家臣の[[津軽氏]]に対する遺恨の深さを示すものである。[[下斗米秀之進]]は「[[赤穂浪士|赤穂義士]]の再来」と[[江戸]]市民に称えられ、[[藤田東湖]]に影響を与えたほか、のちに[[歌舞伎]]の演目として用いられた。&lt;br /&gt;
* [[天保]]11年（[[1840年]]）、「順正書院」を設けたことで知られる蘭方医の[[新宮涼庭]]が京都から来盛、御稽古場を基に[[藩校]]「明義堂」設立。[[八角高遠]]（後に明義堂教授）がオランダ医学を学ぶため上京。&lt;br /&gt;
* [[嘉永]] 2年（[[1849年]]）、元禄、宝暦、天明、天保の飢饉供養のため、祗陀寺14世・[[天然]]和尚により、宗龍寺に「五智如来・十六羅漢」（現・らかん公園）が完成。&lt;br /&gt;
* [[安政]] 4年（[[1857年]]）、盛岡藩第14代藩主・[[南部利剛]]に[[水戸藩]]主・[[徳川斉昭]]の三女・明子姫が輿入れした。在任中に[[戊辰戦争]]が勃発、幕府方として[[奥羽越列藩同盟]]に加わったことにより、後にその責を負うこととなった。&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
* [[文久]] 3年（[[1863年]]）、八角高遠・[[大島高任]]により洋学校「日新堂」設立。&lt;br /&gt;
* [[慶応]]元年（[[1865年]]）、明義堂を拡充し「作人館」へ改称（後の盛岡市立仁王小学校）。&lt;br /&gt;
* 慶応 3年（[[1867年]]）10月、&#039;&#039;&#039;[[大政奉還]]&#039;&#039;&#039;。12月、&#039;&#039;&#039;[[王政復古 (日本)|王政復古の大号令]]&#039;&#039;&#039;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===明治維新===&lt;br /&gt;
[[明治]]元年（[[1868年]]）、当初、藩内は新政府方・反新政府方に意見が対立していたが、最終的に[[楢山佐渡]]が藩論を[[奥羽越列藩同盟]]への参加継続で一致させ、途中から新政府側についた[[久保田藩]]に攻め込んだ[[秋田戦争#南部・秋田戦線|秋田戦線]]において大館城を落したが、その後は新政府側による大量の補給物資が久保田藩に到達して戦況は一変し、多くの戦闘を繰り返しながら元の藩境まで押されてしまう。盛岡藩領内へ戻った楢山佐渡以下の秋田侵攻軍は、留守中に藩を掌握した朝廷側勢力によって捕縛され、盛岡藩は朝廷側へと態度を変更しはじめた。&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
なお、遠野南部家は藩の大評定で強硬に新政府側につくことを主張し、八戸藩は藩主[[南部信順]]が[[薩摩藩]]主[[島津重豪]]からの養子であり、ともに秋田戦争に参加していない。&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
以下日付は全て旧暦。&lt;br /&gt;
* 明治元年（[[1868年]]）&lt;br /&gt;
: 9月24日 盛岡藩、新政府軍に全面降伏。&lt;br /&gt;
:10月10日 盛岡藩の帰順嘆願が受理される。同日、新政府軍が[[盛岡城]]に入城する。&lt;br /&gt;
:10月14日 奥羽鎮撫総督府から[[沢宣種]]が入城、戦後処置を行う。&lt;br /&gt;
:11月11日 東征大総督府の命を受けた監察使、[[藤川能登]]（藤川三渓）が入城。南部利剛、利恭の[[東京]]への護送、[[楢山佐渡]]・[[那珂通高|江幡五郎]]・[[佐々木直作]]ら首謀者の捕縛といった処分を執り行う。&lt;br /&gt;
:11月14日 奥羽鎮撫総督府の行政機関となる、[[久保田藩]]兵を中心とした鎮撫行政司庁の管理下となる。&lt;br /&gt;
:12月 7日 南部利剛は奥羽越列藩同盟に加わったかどで隠居差控を命じられ、盛岡藩領20万石を明治政府直轄地として没収。&lt;br /&gt;
:12月17日 南部家第41代当主・[[南部利恭]]が家名相続許されて、[[白石]]への減転封を課せられる。（&#039;&#039;&#039;白石藩&#039;&#039;&#039;）&lt;br /&gt;
:12月23日 「諸藩取締奥羽各県当分御規則」により盛岡藩領は[[松代藩]]、[[松本藩]]、[[弘前藩]]の管理下となる。&lt;br /&gt;
* 明治2年（[[1869年]]）&lt;br /&gt;
: 1月15日 新政府の会計官権判事、[[林友幸]]が領地引渡し準備のため盛岡に着任。鎮撫行政司を解散し久保田藩兵らを帰国させる。&lt;br /&gt;
: 2月 8日 弘前藩の支配を嫌う二戸、三戸、九戸郡領民の反対運動が激しく、取締が同藩から[[黒羽藩]]へと変更される。&lt;br /&gt;
: 3月 4日 [[東政図]]の献策により、白石藩主であった南部利恭により[[版籍奉還]]の[[建白書]]が[[正親町三条実愛]]に提出される。&lt;br /&gt;
: 4月24日 盛岡藩から松代、松本、黒羽の各藩から赴任した権知県事に土地、人民、諸帳簿の類を引き渡す。以後松代藩取締地を&#039;&#039;&#039;盛岡県&#039;&#039;&#039;（第一次）、松本藩取締地を&#039;&#039;&#039;花巻県&#039;&#039;&#039;、黒羽藩取締地を&#039;&#039;&#039;[[三戸県]]&#039;&#039;&#039;と称する。（黒羽藩取締地においては北奥県の名称は用いられなかった。）&lt;br /&gt;
: 5月 3日 松代藩取締地において「盛岡県御役所」が開庁する。 &lt;br /&gt;
: 5月20日 目付や近習頭といった旧来の職制を廃し、藩治機構を一新する。&lt;br /&gt;
: 6月17日 南部利恭が白石[[藩知事]]に任命される。&lt;br /&gt;
: 6月23日 楢山佐渡、盛岡・報恩寺において刎首。&lt;br /&gt;
: 7月22日 南部利恭の旧領盛岡への復帰が認められる。盛岡県（第一次）が廃県し&#039;&#039;&#039;盛岡藩&#039;&#039;&#039;（[[府藩県三治制]]）となる。&lt;br /&gt;
: 8月 7日 旧領内において&#039;&#039;&#039;[[九戸県]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[江刺県]]&#039;&#039;&#039;が設置される。取締各藩より新県へ支配地を移管。&lt;br /&gt;
: 8月10日 南部利恭が盛岡藩知事に任命される。&lt;br /&gt;
: 9月13日 九戸県が八戸県（第一次）へ名称変更する。&lt;br /&gt;
: 9月19日 八戸県が三戸県へ名称を再度変更する。&lt;br /&gt;
:10月 8日 東政図が[[大参事]]に、[[野田親孝]]が権大参事に任命される。&lt;br /&gt;
:10月10日 盛岡県から盛岡藩への事務引継ぎが行われ、盛岡城内に正式に藩庁を設置。領域は[[岩手郡]]、[[紫波郡]]、[[稗貫郡]]（[[八戸藩]]支配地を除く）、[[和賀郡]]の一部からなる13万石。&lt;br /&gt;
:10月19日 [[白石城]]に残っていた盛岡藩の役人から、後任の県知事の[[武井守正]]に事務引き継ぎがなされる。&lt;br /&gt;
:11月 3日 三戸県の内3万石をもって、[[会津松平氏]]の家名存続を目的とした&#039;&#039;&#039;[[斗南藩]]&#039;&#039;&#039;が立藩。&lt;br /&gt;
:11月29日 三戸県が江刺県に編入される。&lt;br /&gt;
* 明治3年（[[1870年]]）&lt;br /&gt;
: 7月10日 財政難により、南部利恭が[[廃藩置県]]の断行と藩知事の辞任を願い出ていたものが許可される。盛岡藩は廃藩し&#039;&#039;&#039;盛岡県&#039;&#039;&#039;（第二次）が設置される。&lt;br /&gt;
: 7月12日 東政図、野田親孝が盛岡県大参事に任命される。&lt;br /&gt;
* 明治4年（[[1871年]]）&lt;br /&gt;
: 7月14日 廃藩置県により[[八戸藩]]が[[八戸県]]となる。江刺県管理下の[[九戸郡]]が八戸県となる。&lt;br /&gt;
:11月 2日 第一次府県統合。江刺県及び八戸県の九戸郡、紫波郡内の八戸県管理地を編入した新置の&#039;&#039;&#039;盛岡県&#039;&#039;&#039;となる（第三次）。江刺県の内、旧領の[[鹿角郡]]は[[秋田県]]に編入。新たに[[島惟精]]が盛岡県[[参事]]に、野田親孝が県権参事に任命される。 &lt;br /&gt;
:12月 4日 盛岡城が[[兵部省]]の管轄になったため、[[県庁]]を広小路の元南部邸に置く。&lt;br /&gt;
* 明治5年（[[1872年]]）&lt;br /&gt;
: 1月 8日 盛岡県を&#039;&#039;&#039;岩手県&#039;&#039;&#039;と改称する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* その後明治九年（[[1876年]]）に、[[青森県]]に編入されていた[[二戸郡]]と旧[[仙台藩]]領の[[磐井郡]]、[[胆沢郡]]、[[江刺郡]]、[[気仙郡]]を編入し現在に至る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[戊辰戦争]]の戦後処理として、途中から新政府側に参加した久保田藩、津軽藩が論功行賞を受ける一方で、転封を命じられたのは、盛岡藩と[[会津藩]]、[[庄内藩]]、それに近江国朝日山５万石で移された[[山形藩]]などがあり、減封を命じられたのは、明治元年12月7日、仙台藩は62万石から28万石に、米沢藩は4万石を削減され14万7000石などがあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 白石藩 ====&lt;br /&gt;
利恭は明治政府が[[仙台藩]]から没収した所領の一部、白石13万石（[[刈田郡]]・[[柴田郡]]・[[伊具郡]]・[[亘理郡]]および[[宇多郡]]の一部）への減転封を命じられた。明治2年（[[1869年]]）4月、旧城主[[片倉氏]]から[[白石城]]が南部氏側に引き渡され、6月17日の[[版籍奉還]]にともない白石藩知事に任命されたが、その間も重臣達が中心となって国替停止と盛岡城地安堵の運動が続けられ、領民達も政府に対して藩主・利恭の盛岡復帰請願を続けた。その結果7月22日に上納金70万両の献納を条件に盛岡復帰が認められ、（実際は一部を納めたのみ）、8月10日に利恭は盛岡藩知事を拝命し、陸中四郡（[[岩手郡]]・[[紫波郡]]・[[稗貫郡]]・[[和賀郡]]の一部）13万石を管轄した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
白石藩領はその後政府直轄の白石県となり、10月に南部氏から後任の県知事に引き継がれた後、11月県庁を[[角田城]]に移し[[角田県]]となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 廃藩 ====&lt;br /&gt;
念願の盛岡復帰を果たした南部家とその家臣達であったが、その条件として課せられた70万両もの大金は明らかに献納不能なものであった。また凶作で税収が見込めない中、前藩主・[[南部利剛]]の娘の郁子が[[華頂宮博経親王]]に嫁ぐことになり多額の出費を余儀なくされるなど、藩財政は完全に破綻していた。藩を取り仕切っていた大参事の[[東政図]]は、この状況を切り抜けるには南部利恭の藩知事辞任と[[廃藩置県]]を実行する他にないと考え新政府に嘆願していた。明治 3年（[[1870年]]）4月、70万両の献納は撤回されたものの、他藩への影響などを考慮して藩知事の辞任は許可されずにいた。しかし藩の再三の嘆願を受けた新政府により明治 3年7月10日、盛岡藩を廃して&#039;&#039;&#039;[[盛岡県]]&#039;&#039;&#039;が設置された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
盛岡県は明治 5年（[[1872年]]）[[1月8日 (旧暦)|1月8日]]に&#039;&#039;&#039;岩手県&#039;&#039;&#039;と改称され、後に[[江刺県]]と[[磐井県]]の一部を編入し現在に至る。盛岡県成立時の領地は[[陸中国]][[岩手郡]]、[[稗貫郡]]および[[紫波郡]]、[[和賀郡]]の一部のみであり、旧領のうち[[陸奥国]][[北郡]]、[[二戸郡]]および[[三戸郡]]の一部と陸中国[[鹿角郡]]および[[九戸郡]]の一部は&#039;&#039;&#039;[[三戸県]]&#039;&#039;&#039;に（三戸県の大部分は後に江刺県に、鹿角郡は[[秋田県]]にそれぞれ編入された）、陸中国[[閉伊郡]]および和賀郡の一部は&#039;&#039;&#039;[[江刺県]]&#039;&#039;&#039;に、[[岩代国]][[伊達郡]]の一部は&#039;&#039;&#039;[[福島県]]&#039;&#039;&#039;にそれぞれ移管されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
盛岡城の城郭は明治元年（[[1868年]]）に新政府に接収され、当初は[[廃城令]]の存城とされたものの、建物の老朽化が著しく、明治7年（[[1874年]]）に廃城となり、建造物はことごとく破却、民間に払い下げられた。現在、[[盛岡城]]の地上建造物が残されていないのはこのためである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴代藩主 ==&lt;br /&gt;
* 初代 [[南部利直|南部信濃守利直]]（としなお）&lt;br /&gt;
* 2代 [[南部重直|南部山城守重直]]（しげなお）&lt;br /&gt;
* 3代 [[南部重信|南部大膳大夫重信]]（しげのぶ）&lt;br /&gt;
* 4代 [[南部行信|南部信濃守行信]]（ゆきのぶ）&lt;br /&gt;
* 5代 [[南部信恩|南部備後守信恩]]（のぶおき）&lt;br /&gt;
* 6代 [[南部利幹|南部大膳亮利幹]]（としとも）&lt;br /&gt;
* 7代 [[南部利視|南部大膳大夫利視]]（としみ）&lt;br /&gt;
* 8代 [[南部利雄|南部大膳大夫利雄]]（としかつ）&lt;br /&gt;
* 9代 [[南部利正|南部大膳大夫利正]]（としまさ）&lt;br /&gt;
* 10代 [[南部利敬|南部大膳大夫利敬]]（としたか）&lt;br /&gt;
* 11代 (1)[[南部利用 (吉次郎)|南部吉次郎利用]]（としもち）&lt;br /&gt;
* 11代 (2)[[南部利用 (大膳大夫)|南部大膳大夫利用]]（としもち、吉次郎利用が将軍家初見前に死んだため身代わりで襲封した）&lt;br /&gt;
* 12代 [[南部利済|南部信濃守利済]]（としただ）&lt;br /&gt;
* 13代 [[南部利義|南部甲斐守利義]]（としとも）、藩主時代は信候（のぶとも）と称していたが、隠居後の利義が有名。&lt;br /&gt;
* 14代 [[南部利剛|南部美濃守利剛]]（としひさ）&lt;br /&gt;
* 15代 [[南部利恭|南部甲斐守利恭]]（としゆき）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 藩の職制 ==&lt;br /&gt;
藩の行政組織は10万石の軍役組織によるもので、中央の職制は幕府を模倣し、藩主の下に家老のほか諸役をおいた。&lt;br /&gt;
=== 家老・加判役 ===&lt;br /&gt;
藩行政の最高機関であり、常時は数人の家老の合議制によって大綱が決定された。日常中丸に登城して庶務を決議し、連署に応ずる。&lt;br /&gt;
==== 御席詰 ====&lt;br /&gt;
藩主の常勤する御用の間に出仕する、家格が高く、家老の経験を積んだ老練な人が選任される。&lt;br /&gt;
==== 御大老 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 北地御用所 ===&lt;br /&gt;
北方警備の監督部署。分轄された蝦夷地の警備・下北半島から釜石浦に至る海岸の防備についての費用調達、動員計画、陣屋説定、配備計画などを行う。&lt;br /&gt;
=== 御用人所 ===&lt;br /&gt;
城内中丸の御用人所に常勤し、その庶務を執る。&lt;br /&gt;
=== 目付所 ===&lt;br /&gt;
御目付所は司法、検察等、主として治安方面を総轄し、その大目付は高知格についても検察の権があり、常時二人とされた。勘定所、寺社町奉行とともに公示三役と称されて、広汎にわたっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
御目付所の所管には、寺社町奉行、表目付、牛馬目付、武具奉行、御境奉行等があり、監査・検察を要するものは、目付所の管轄に置かれている。&lt;br /&gt;
=== 勘定所 ===&lt;br /&gt;
城内に設置されてあった出納事務所で、目付所、寺社町奉行とともに公示三役と称された職掌であった。御郡支配方、御代官方、御支配方、山林方、御土蔵方の七つの分掌となって、領内の地方行政に係わていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 家臣団構成 ==&lt;br /&gt;
盛岡藩士の家系を調べる際の必須の書とされている『&#039;&#039;&#039;[[参考諸家系図]]&#039;&#039;&#039;』が岩手県立図書館等に架蔵されており、復刻版も出版されている。&lt;br /&gt;
=== 格と職 ===&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- ;藩政安定後 --&amp;gt;&lt;br /&gt;
家格として、&#039;&#039;&#039;高知&#039;&#039;&#039;（たかち）・&#039;&#039;&#039;高家&#039;&#039;&#039;・&#039;&#039;&#039;本番組&#039;&#039;&#039;・&#039;&#039;&#039;加番組&#039;&#039;&#039;・&#039;&#039;&#039;新番組&#039;&#039;&#039;などが決められていた&amp;lt;ref&amp;gt;『藩史大事典』&amp;lt;/ref&amp;gt;。高知衆は後期には細分化したほか、藩主一族のための身分も設けられている。&lt;br /&gt;
また1000石以上が高知衆に対し、1000石以下は&#039;&#039;&#039;平士&#039;&#039;&#039;と呼ばれた[http://www.bunka.pref.iwate.jp/seikatsu/jyutaku/data/buke.html]。&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;Background:white; font-size:smaller&amp;quot;&lt;br /&gt;
|+ &#039;&#039;&#039;主な家格&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;width:8em&amp;quot; |&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; colspan=&amp;quot;2&amp;quot; | 天保15年（[[1844年]]）&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; colspan=&amp;quot;2&amp;quot; | 明治元年（[[1868年]]）&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;| 明治2年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;4&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |&#039;&#039;&#039;高　知&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; | 御家門 &lt;br /&gt;
|　 3 家&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; | 御家門&lt;br /&gt;
|　 2 家&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;4&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |上　士&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; rowspan=&amp;quot;3&amp;quot; | 高　知 &lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;3&amp;quot; |　28 家&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;| 御三家&lt;br /&gt;
|　 3 家&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;| 着座高知 &lt;br /&gt;
|　 7 家&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;| 高　知 &lt;br /&gt;
|　20 家&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |&#039;&#039;&#039;高　家&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;width:8em&amp;quot; |　御新丸御番頭&lt;br /&gt;
|　21 家&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;width:8em&amp;quot; |　御新丸御番頭&lt;br /&gt;
|　19 家&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;2&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |中　士&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |&#039;&#039;&#039;本番組&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot; | 平士 100石以上&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot; | 平士 150石以上&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |&#039;&#039;&#039;加番組&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot; | 平士  50石以上&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot; | 平士  50石以上&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;4&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |下　士&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |&#039;&#039;&#039;新番組&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot; | 平士  50石以下&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot; | 平士  50石以下&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;2&amp;quot; | &lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot; | 一生御給人&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot; | 一生御給人&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot; | 勤中御給人&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot; | 勤中御給人&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;3&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |御医師茶道&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot; | 100石以上御医師&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot; | 100石以上御医師&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |中　士&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot; | 100石以下御医師&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot; | 100石以下御医師&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;2&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |下　士&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot; | 御茶道&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot; | 御茶道&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |在々御給人&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot; | 在々御給人&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot; | 在々御給人&lt;br /&gt;
| 平民のち士族&amp;lt;!--冥加金献上による名字帯刀等のケースがあった --&amp;gt;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;2&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |その他&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot; | 御同朋から御同心&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot; | 御同朋から御同心&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;2&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |卒　族&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot; | 在々御与力・御同心&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot; | 在々御与力・御同心&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「天保十五年御国住居緒士」「明治二年身帯帳」&lt;br /&gt;
=== 家臣在郷制 ===&lt;br /&gt;
通常の武士身分で在郷している&#039;&#039;&#039;御給人制&#039;&#039;&#039;があり、また、陪臣は在郷のものが多い。&lt;br /&gt;
==== 在々御給人 ====&lt;br /&gt;
代官の下に下役以下各種奉行その他の役職を務めさせるため「御給人」を置いた。&amp;lt;!--（半農半士または半商半士の人、他藩でいう郷士身分に属する地方在住の人））--&amp;gt;&amp;lt;!--南部藩における御給人とは、藩士ではなく。--&amp;gt;藩士とは区別され、城下を離れた在町に土着して、自ら農業もしくは商業を営みつつ士分に準ずる待遇を受けている者のことである。形式的には苗字帯刀を許され、知行が与えられるが、この知行地は自己所有の石高の全部または一部を知行地として認められたものである&amp;lt;ref name = むつ市近&amp;gt;(むつ市史) 近世編&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;!-- p.46 --&amp;gt;。&lt;br /&gt;
その居住地を支配している代官の置かれた地域名を冠して「七戸御給人」、「野辺地御給人」などと称された。&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- むつ市史 p.46&lt;br /&gt;
盛岡藩の地方行政を語るにあたって、「御給人制」という特色のある制度にふれないわけにはいかない。田名部代官所の役方の多くはこの御給人階層の人々である。御給人制の意義について的確にのべている論考があるので次にあげてみたい。盛田稔氏は盛岡藩の地方支配機構としての御給人制度について次のようにのべている。&lt;br /&gt;
「御給人」とは、城下を離れた在町に士着し、相当の知行地の保有を認められ、それからの年貢収人に依存して生活するか、あるいは自らその士地に依拠して農業を営むか、あるいはまた時には商業を営むかしながら、同時に藩士に準ずる待遇（名字・帯刀・年貢取得権等）を与えられ、その反対給付として一定の軍役に従事する者、つまりは半農半士、あるいは半商半士的生活を営んでいた者を指す名称であり、一般にいう「郷士」に近い概念に属する。&lt;br /&gt;
とのべつつさらに次のようにいう。 これらの御給人は、いわゆる藩士と厳然と区別され（中略）、その居住地を支配している代官の置かれた地域名を冠して「七戸御給人」、「野辺地御給人」などと称された。（中略）これらの御給人は、藩の地方行政機構である代官所の役人として、あるいは藩の財政窮乏打開に貢献する等、藩政に寄与する処多人なものがあったと同時に、在町における各方面の指導者でもあった。（『七戸町史』２） このように、御給人は正規の藩士とは区別されていながらも、藩政にとっては重要な存在であり、在町においては指導的な役割を果していた人々であるとする。&lt;br /&gt;
--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
藩の行政組織は幕府から指定された、10万石の軍役組織によるものであった。&amp;lt;ref&amp;gt;『むつ市史』、1988&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中央の職制は幕府のそれをほぼ模倣し、藩主の下に家老のほか諸役をおいた。常時は数人の家老の合議制によって大綱が決定された。&lt;br /&gt;
{| &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;15&amp;quot; | 藩主&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;15&amp;quot; | －&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;15&amp;quot; | 家老&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;15&amp;quot; | －&lt;br /&gt;
|┌&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot; |御近習頭&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|├&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot; |御留守居&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|├&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot; |御用人所&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|│&lt;br /&gt;
|　├&lt;br /&gt;
|御用人&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|│&lt;br /&gt;
|　└&lt;br /&gt;
|御側御用人&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|├&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot; |御目付所&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|│&lt;br /&gt;
|　└&lt;br /&gt;
|大目付&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|┼&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot; |御勘定所&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|│&lt;br /&gt;
|　└&lt;br /&gt;
|元締&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|├&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot; |北地御用所&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|│&lt;br /&gt;
|　└&lt;br /&gt;
|北地御用大番頭&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|├&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot; |御中丸御番頭&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|├&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot; |御新丸御番頭&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|├&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot; |加番組&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|└&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot; |新番組&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 家老 ===&lt;br /&gt;
;藩政初期&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;家老&#039;&#039;&#039;には大身の老臣が就いていた。また戦国期の規律を引き継ぎ、大身は[[陪臣]]を持っていたり、その[[家禄]]に応じて役職に任じられたり軍備を担っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[慶長]]5年（[[1600年]]）時点では1000石以上の家臣が22家あった&amp;lt;ref&amp;gt;『岩手県史』&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
*[[八戸氏]] - 1万3000石、後の遠野南部氏。&lt;br /&gt;
*[[北信愛]] - 8000石、子息がすべて別家し信愛が名跡継承を願わず絶家。&lt;br /&gt;
*[[浄法寺氏]] - 5000石、[[岩崎一揆]]鎮圧の際に当主・[[浄法寺重好]]が軍令違反を起こし改易。&lt;br /&gt;
*[[大光寺氏]]・[[南氏]] - 3000石。&lt;br /&gt;
*[[北愛一]] - 2500または2000石、2代目の直愛が藩主[[南部重直]]の鹿狩で不祥事を起こし500石に、後年直系が無嗣断絶。&lt;br /&gt;
*[[北直継]] - 2000石、[[慶長]]18年（[[1613年]]）以後の石高、後の大湯南部氏。&lt;br /&gt;
*[[毛馬内氏]]・桜庭氏・[[中野氏 (陸奥国)|中野氏]]（後の花輪南部氏）・石井氏・[[東氏]]・大湯氏（[[正保]]年間に無嗣断絶）・江刺氏 - 2000石。&lt;br /&gt;
*日戸氏・[[楢山氏]]・沢田氏 - 1000石以上。&lt;br /&gt;
*梁田氏・葛巻氏・野田氏・又重氏・内堀氏 - 1000石。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 高知 ====&lt;br /&gt;
[[明治]]2年（[[1869年]]）には&#039;&#039;&#039;上士&#039;&#039;&#039;となった。&#039;&#039;&#039;家老&#039;&#039;&#039;（後期に改名して&#039;&#039;&#039;加判役&#039;&#039;&#039;）・御近習頭・北地大番頭・御中丸御番頭などに就任した。&lt;br /&gt;
;御家門&lt;br /&gt;
[[文政]]元年（[[1818年]]）10月に藩の家格向上を祝して藩主一族の3家（南部利視の子、信居・信駕・信周の家）と、族臣とされる八戸氏・中野氏・北氏・南氏・東氏が南部姓の名乗りを許されたことに始まる。ただし東氏が一旦改易され南部姓の名乗れなくなったほか、初期の御家門衆はすべて家格が変更されている。&lt;br /&gt;
*新屋敷南部家 - [[南部信居]]が興した家。のち着座高知。&lt;br /&gt;
*角屋敷南部家 - [[三戸信駕]]が興した家。のち着座高知。&lt;br /&gt;
*中屋敷南部家 - [[南部信周]]が興した家。のち着座高知。&lt;br /&gt;
*下屋敷南部家 - [[文政]]3年（1820年）から高知、翌年10月より御家門。後の藩主[[南部利済]]、利済の本家相続で消滅。&lt;br /&gt;
*南部出羽 - [[弘化]]4年（[[1847年]]）より、[[南部利済]]4男の[[南部栄枝]]。&lt;br /&gt;
*南部伯耆 - 弘化4年より、[[南部利剛]]の弟・[[南部剛弘]]。&lt;br /&gt;
*[[南部剛確]]・[[南部剛融|剛融]]・[[南部剛護|剛護]] - 全て南部利剛の子。明治2年（1869年）より。&lt;br /&gt;
*遠野南部氏・大湯南部氏・花輪南部氏 - [[文政]]御支配帳に記載。後に御三家。&lt;br /&gt;
*[[南氏]]・[[東氏]] - 文政御支配帳に記載。南部姓を名乗る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;御三家（[[慶応]]以前は高知、[[文政]]御支配帳では御家門）&lt;br /&gt;
*[[八戸氏|遠野南部氏（八戸氏）]] - 陸奥[[遠野市|遠野]]領1万2700石、維新後[[男爵]]。&lt;br /&gt;
*[[北氏|大湯南部氏（北氏）]] - 陸奥[[大湯温泉 (鹿角市)|大湯]]領2760石&lt;br /&gt;
*[[中野氏 (陸奥国)|花輪南部氏（中野氏）]] - 陸奥[[花輪]]領3370石、[[九戸氏]]の一族。&lt;br /&gt;
**[[中野元康]]（[[九戸政実]]の甥孫）－[[中野直保]]－[[中野永州]]－[[中野光康]]－[[中野康貞]]＝[[中野康敬]]＝[[中野康房]]－[[南部康孝]]－[[南部済愛]]－[[南部康彊]]＝[[南部康直]]＝[[南部康保]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;着座高知（慶応以後）&lt;br /&gt;
*新屋敷南部家・角屋敷南部家・中屋敷南部家 - [[安政]]2年（[[1855年]]）11月より高知に引き下げ。&lt;br /&gt;
*[[南氏]] - 南部姓を名乗る。文政御支配帳では御家門、寛政・天保期以後は高知。&lt;br /&gt;
*[[桜庭氏]]&lt;br /&gt;
*[[楢山氏]] - 石亀氏の支流&lt;br /&gt;
*[[三戸式部]]家 - 戸沢氏、角屋敷南部家の分家&lt;br /&gt;
;高知&lt;br /&gt;
*[[石亀氏]]&lt;br /&gt;
*八戸氏 - 遠野南部氏の分家：小八戸家&lt;br /&gt;
*奥瀬氏 - [[小笠原安芸]]の後裔&lt;br /&gt;
*[[桜庭氏]] - [[桜庭光康]]の家系&lt;br /&gt;
*[[毛馬内氏]]&lt;br /&gt;
*漆戸氏&lt;br /&gt;
*野田氏 - [[一戸氏]]の後裔の一つ。&lt;br /&gt;
*内堀氏 - [[浅井氏]]旧臣、[[天正]]年間に加賀[[前田氏|前田家]]より移籍。&lt;br /&gt;
*下田氏 - 南氏の支流&lt;br /&gt;
*[[新渡戸氏]]&lt;br /&gt;
*藤枝氏&lt;br /&gt;
*岩間氏&lt;br /&gt;
*黒沢氏&lt;br /&gt;
*向井氏&lt;br /&gt;
*山本氏&lt;br /&gt;
*安宅氏&lt;br /&gt;
*花輪氏&lt;br /&gt;
==== 高家 ====&lt;br /&gt;
明治2年には本番組とあわせて&#039;&#039;&#039;中士&#039;&#039;&#039;となった。加番組御番頭・御側御用人・[[花巻城]]代・寺社奉行・御勘定所元締・新番組御番頭などに就任した。&lt;br /&gt;
;御新丸御番頭&lt;br /&gt;
*中野氏 - 花輪南部氏の分家&lt;br /&gt;
*[[七戸氏]] - 南氏の支流で北氏の血筋&lt;br /&gt;
*[[東氏]] - 文政御支配帳では御家門、嘉永年間には高知&lt;br /&gt;
*北氏 - 大湯南部氏と同族、北愛一の系統&lt;br /&gt;
*北守氏 - 北愛一系の北氏の分家&lt;br /&gt;
*辛氏 - 花輪南部氏分家&lt;br /&gt;
*三上氏&lt;br /&gt;
*日戸氏&lt;br /&gt;
*織笠氏 - [[板垣氏]]の後裔で[[福士氏]]の庶流&lt;br /&gt;
*沢田氏&lt;br /&gt;
==== 本番組 ====&lt;br /&gt;
御用人・花巻城代・寺社奉行・御勘定所元締・新番組御番頭などのほか、御境奉行・代官・御船手頭・町奉行・郡奉行などに就任した。&#039;&#039;&#039;平士&#039;&#039;&#039;のうち100石以上（天保15年時点）または150石以上（明治元年時点）の者が該当した。&lt;br /&gt;
==== 加番組 ====&lt;br /&gt;
御金奉行・御銅山吟味役・御作事奉行・万所奉行・御勝手方などに就任した。&#039;&#039;&#039;平士&#039;&#039;&#039;のうち50石以上が該当。明治2年、新番組とあわせて&#039;&#039;&#039;下士&#039;&#039;&#039;となった。&lt;br /&gt;
==== 新番組 ====&lt;br /&gt;
諸御山奉行・大納戸奉行・新田奉行・御国産方などに就任した。&#039;&#039;&#039;平士&#039;&#039;&#039;のうち50石以下に当たる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 領内の統治 ==&lt;br /&gt;
=== 諸城破却書上 ===&lt;br /&gt;
[[天正]]18年([[1590年]])7月、[[豊臣秀吉|秀吉]]より所領安堵の五カ条からなる朱印状が交付され、南部信直は領内にある家中の城館の破棄を命ぜられ、また家中の妻は、南部氏の居城下に集合を厳命されている。地方の諸城にいたものは従来の在地地主から、その城館を破却して大名城下に出仕して、不在地主という性格に変わっていった。&amp;lt;!--県史5P195-196--&amp;gt;&lt;br /&gt;
同20年6月には、その処理を報告している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Main|南部大膳大夫分国之内諸城破却共書上}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 盛岡藩 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 代官 ====&lt;br /&gt;
大目付は司法、警察、軍事を総轄し、勘定奉行の下に御代官、御山奉行などが配置され、代官は100石以上の本番組士。各通ごとに2人を置かれ当番非番制により、民政関係の庶務に従事していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 通制 ====&lt;br /&gt;
盛岡・八戸両藩の独特の行政組織としての「&#039;&#039;&#039;通制&#039;&#039;&#039;」である。領内の郷村支配のため、代官統治地区を「&#039;&#039;&#039;通&#039;&#039;&#039;（とおり）」と称しているが、藩政初期は単に方面とか、その地方を表現した言葉であったが、[[天和 (日本)|天和]]年間（[[1681年|1681]] - [[1683年|83年]]には、代官所統治区域を指した。&amp;lt;/br&amp;gt;&lt;br /&gt;
「通」には原則として代官を置き、盛岡で藩士の中から任命し、任期を2年として2人を任用、半年交替勤務とした。その下に下役・物書を2、3人を任用した。&lt;br /&gt;
下役は代官が地方の給人から任用し。代官は地方行政・司法・警察・租税の一切を執行する権限をもち、その経費は村高に&amp;lt;!--比例--&amp;gt;応じて地方付加税として徴収した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Main|[[通 (南部藩)#盛岡藩|通 (盛岡藩)]]}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 盛岡町奉行 ====&lt;br /&gt;
藩の諸機関の整備に寛永年間に基礎が定まり、地方統治は城代統治が城の廃絶に伴って、代官統治へと移行していった。&lt;br /&gt;
大目付所の下に盛岡町奉行（天和元年（[[1681年]]）以降、寺社奉行と兼務し、寺社町奉行と称した。）が置かれ、市内取締まりのため特に任命され、創設の年代は盛岡城下開市にともなって、慶長年間といわれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　（盛岡城下）検断頭(六検断) － 町検断役 － 書留役 － 宿老役&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
盛岡城下六検断は苗字帯刀が許され&amp;lt;ref&amp;gt;文化7年11月15日条 藩日記&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;!-- 県史5 P.607 --&amp;gt; ており、通例中津川を挟んで、向い町（河南）方向に3人、川北に3人常置され、藩からの任命で任期は終身であり、町吏の最高機関として、直接町奉行の支配に属していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 郷村三役 ====&lt;br /&gt;
南部藩の村政は肝煎（村長格）、老名（助役格 2,3人）、組頭（五人組組頭）を持って構成され、その下に本百姓、水呑百姓がいた&amp;lt;ref name = &amp;quot;むつ市&amp;quot;&amp;gt;（むつ市史）近世編&amp;lt;/ref&amp;gt;。&amp;lt;!-- p.34,44 --&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 肝煎 － 宿老 － 組頭&lt;br /&gt;
町と村との区別は、町は宿駅伝馬の有る市街地で、村にはそのような設備がないところである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
領内の町と称されているところでは、&amp;lt;!--には町検断が置かれていた。--&amp;gt;町検断&amp;lt;!--は村の肝煎に対応し、--&amp;gt;を通して日常の町政が運営された。軽犯罪の処罰権をもっていたので、各村肝煎より以上の権限があった。土地の売買に立ち会い、これに認印するのもしごとの一つであった。&lt;br /&gt;
村肝入の役も同様に、多くはその町の名家で検断役宅はその自宅があてられていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
町検断も村肝入も代官所の配下に属し、任免もその所管区の代官の権限内にあり、任期も定まっていなく、事故がない限り終身勤務しており、多くは世襲でその村の生活の安定している旧家などが務めていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
老名は年寄ともいい、肝煎・検断の補助役であり村政担当者のひとりとして処理に当たった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
村内20石を単位に検地帳に登録された[[本百姓]]を中心に、[[五人組 (日本史)|五人組]]を組織し、五人組の長を組頭と呼んだ。肝煎・検断などからの通知を通達し、相互に連帯し相互互助に務め、売買質入れ手形の連印犯罪防止その他の義務を負った。なお、幕領のような[[地方三役|村方三役]]のうち農民の代表である百姓代はおかなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
村肝煎の職務内容については『紫波郡矢巾町教育委員会　矢巾町文化財報告第31集　「間野々村肝煎緒帳面改引請目録」[[延享]]元年([[1744年]])』に記載がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--代表する組頭の主立ちを老名（おとな）と称し、その老名の中から選出された後世の村長にあたる肝煎（きもいり）（肝入、他藩の[[庄屋|名主、庄屋]]に相当）が代官の支配下にあって村政を担当した。&lt;br /&gt;
村役と称されるもののうち、後世の村長にあたるものに村肝煎&amp;lt;ref&amp;gt;村肝煎の職務内容について『紫波郡矢巾町教育委員会　矢巾町文化財報告第31集　「間野々村肝煎緒帳面改引請目録」[[延享]]元年（[[1744年]]）』&amp;lt;/ref&amp;gt;があり、後年には肝入とだけ記録されている。宿老は肝入の諮問に応じ、村内の諸経費の賦課徴収を協議したりする後年の村会議員に酷似していた。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 八戸藩 ===&lt;br /&gt;
==== 通制 ====&lt;br /&gt;
八戸藩の領内の行政区分は盛岡藩と同様に「通制」を用い&amp;lt;!--、勘定頭が代官を指揮して民政の当たる。各区域には各2名ずつ代官が置かれていたが、領外（飛地）の志和については4名に増員され--&amp;gt;た。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Main|[[通 (南部藩)#八戸藩|通 (八戸藩)]]}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[元禄]]元年([[1688年]])正月、領内の郷村に庄屋名主制度&amp;lt;ref name=&amp;quot;こもんじょ01&amp;quot;&amp;gt;[http://www.komonjokan.net/cgi-bin/komon/report/report_view.cgi?mode=details&amp;amp;code_no=119 （近世こもんじょ館）八戸藩の村役人制度－名主・大下書・田屋について]&amp;lt;/ref&amp;gt;を採用し、元禄7年([[1694年]])10月に実施し、町検断を庄屋に、肝入を名主と改称した。盛岡藩とは異なっている。&amp;lt;!--県史5 P.1538--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 領内の主要交通路 ==&lt;br /&gt;
=== 陸路の主要街道 ===&lt;br /&gt;
目的地の地名を冠して街道名と呼ぶため、&amp;lt;!--終点側や --&amp;gt;街道沿いの別の土地では、別名称で呼ばれているのが常態であった。&lt;br /&gt;
==== 南部藩 ====&lt;br /&gt;
*慶安2年（[[1649年]] 、「[[大道筋]]（奥州之内南部領海陸道規帳）&amp;lt;ref name=&amp;quot;青森史02&amp;quot;&amp;gt;「青森県史」資料編 近世篇 4 南部1盛岡藩&amp;lt;/ref&amp;gt;」&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;Background:white; font-size:smaller&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;3&amp;quot;  | &lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;| 街道名&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;| 起　点&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;width:5em&amp;quot; |&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;| 終　点&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;| 備　考&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:left&amp;quot; colspan=&amp;quot;3&amp;quot; |&#039;&#039;&#039;大 道 筋&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:left&amp;quot; |[[奥州街道]]&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |&amp;lt;small&amp;gt;仙台境&amp;lt;/small&amp;gt;鬼　柳&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |&amp;lt;small&amp;gt;津軽境&amp;lt;/small&amp;gt;馬　門&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; | &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:left&amp;quot; colspan=&amp;quot;3&amp;quot; |&#039;&#039;&#039;小道井山道&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:left&amp;quot; |[[秋田街道|秋田往来]]	&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |盛　岡&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |橋　場&lt;br /&gt;
|　&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;4&amp;quot;  style=&amp;quot;width:2em&amp;quot; | &lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;3&amp;quot;  colspan=&amp;quot;2&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |小　道&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:left&amp;quot; |[[沢内街道]]&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |雫　石&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |太　田&lt;br /&gt;
|&amp;lt;small&amp;gt;出羽うとう村へ出ル道筋&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:left&amp;quot; |[[鹿角街道]]&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |盛　岡&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |花　輪&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |楢　柏&amp;lt;small&amp;gt;境目&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:left&amp;quot; |&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |花　輪&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |松　山&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |横　道&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:left&amp;quot; |&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |花　輪&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |小　坂&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;5&amp;quot; colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|　　 &lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;4&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |小　道&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |[[三戸鹿角街道]]&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |三　戸&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |大　湯&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:left&amp;quot;&amp;quot; |[[三戸街道]]&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |三　戸&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |八　戸&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:left&amp;quot; |&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |七　戸&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |平　沼&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:left&amp;quot; |[[登り街道]]&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |福　岡&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |八　戸&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |山　道&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:left&amp;quot; |&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |三　戸&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |大　湯&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;3&amp;quot; colspan=&amp;quot;3&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:left&amp;quot; |&#039;&#039;&#039;海 辺 道&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:left&amp;quot; |[[三陸浜街道#盛岡藩|浜街道]]	&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |平田坂&amp;lt;small&amp;gt;石塚境目&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |八　戸&lt;br /&gt;
|　&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:left&amp;quot; |[[北浜街道]]&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |八　戸&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |大　畑&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:left&amp;quot; |[[北通]]&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |大　畑&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |長　後&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;2&amp;quot; colspan=&amp;quot;3&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:left&amp;quot; |&#039;&#039;&#039;入 海 辺 道&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:left&amp;quot; |[[田名部街道]]	&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |野辺地&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |田名部&lt;br /&gt;
|　&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:left&amp;quot; |[[西通]]&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |田名部&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |脇ノ沢&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 盛岡藩 ====&lt;br /&gt;
*  [[奥州街道筋]]&lt;br /&gt;
*  [[秋田街道|秋田街道筋]]&lt;br /&gt;
*  [[鹿角街道|津軽街道筋]]&lt;br /&gt;
*  [[三戸鹿角街道|三戸・鹿角街道筋]]&lt;br /&gt;
*  [[釜石街道]][[海辺道|・海辺筋]]&lt;br /&gt;
*  [[宮古街道|宮古街道筋]]&lt;br /&gt;
*  [[小本街道|小本街道筋]]&lt;br /&gt;
*  [[野田街道|野田・沼宮内街道]]&lt;br /&gt;
*  [[遠野街道|花巻・遠野街道筋]]&lt;br /&gt;
*  [[浄法寺街道]]&lt;br /&gt;
*  [[北浜街道]]&lt;br /&gt;
*  [[田名部街道]]&lt;br /&gt;
*  [[北通]]&lt;br /&gt;
*  [[西通]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 八戸藩 ====&lt;br /&gt;
八戸領内の主な街道は八戸城下を起点としていた。&lt;br /&gt;
*  [[上り街道]]&lt;br /&gt;
*  [[九戸街道]]&lt;br /&gt;
*  [[久慈街道]]&lt;br /&gt;
*  [[三戸街道]]&lt;br /&gt;
*  [[五戸街道]]&lt;br /&gt;
*  [[市川街道]]&lt;br /&gt;
*  [[浜街道]]&lt;br /&gt;
*  [[新井田街道|新井田・種市街道]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 明治期における国道・県道・里道の区別（岩手県） ====&lt;br /&gt;
国道・県道・里道の分類は、修繕費について、国道は官費支弁、県道は地方費支弁となったものと考えられ、それに次ぐ重要路線は里道（村道）となっていた。&amp;lt;/br&amp;gt;&lt;br /&gt;
明治14年の県記録に、一等国道として1路線、三等国道として1路線、県道の名称は17線あり、内一等県道1路線、三等県道16路線をあげられている。&lt;br /&gt;
* 一等国道&lt;br /&gt;
** 函舘街道　管内の中央部を南北に貫通する管内陸上交通の幹線。&lt;br /&gt;
* 三等国道　　　　　　&lt;br /&gt;
** 浜街道　　宮城県下気仙沼を経て岩手県に入り、三陸海岸を経過して青森県下に通ずる沿岸郡村の陸上交通線。&lt;br /&gt;
　　　　　　　　宮城県下気仙沼－気仙-氷上-盛-吉浜-小白浜-釜石-大槌-船越-山田-津軽石-宮古-田老-小木-田ノ畑-普代-宇部-久慈－青森県　十七駅が設置&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 一等県道&lt;br /&gt;
** 秋田街道　　　　　盛岡－雫石－橋場－秋田県生保内、途中二駅&lt;br /&gt;
* 三等県道 &lt;br /&gt;
** 山形街道（其一）　盛岡－繋－南畑－川舟－秋田県　途中七駅&lt;br /&gt;
** 山形街道（其二）　黒沢尻－川尻－越中畑－秋田県　途中四駅&lt;br /&gt;
** 津軽街道　　　　　盛岡－一木木－寺田－秋田県、途中五駅&lt;br /&gt;
** 　同新道　　　　　田頭－松尾－兄川－秋田県、途中三駅&lt;br /&gt;
** 宮古街道　　　　　盛岡－築川－川井－宮古、途中七駅&lt;br /&gt;
** 釜石街道　　　　　盛岡－大迫－遠野－釜石、途中七駅&lt;br /&gt;
** 　同古道　　　　　達曾部－遠野&lt;br /&gt;
** 小本街道　　　　　盛岡－藪川－岩泉－小本、途中三駅&lt;br /&gt;
** 久慈街道　　　　　沼宮内－葛巻－久慈、途中二駅&lt;br /&gt;
** 八戸街道　　　　　福岡－観音林－八戸&lt;br /&gt;
** 遠野街道（其一）　花巻－土沢－下宮守－遠野&lt;br /&gt;
** 　同街道（其二）　伊手－人首－鮎貝－遠野&lt;br /&gt;
** 気仙沼街道　　　　磐井－薄衣－手厩－気仙沼、途中三駅&lt;br /&gt;
** 石巻街道　　　　　磐井－金沢－涌津－宮城県、途中二駅&lt;br /&gt;
** 気仙街道（其一）　磐井－長坂－大原－気仙、途中四駅&lt;br /&gt;
** 　同街道（其二）　水沢駅－岩谷堂－世円米－盛、途中四駅&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- （明治十四年）県史10-p121-122 --&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 主要な港 ===&lt;br /&gt;
当時の海上輸送ルートは、田名部湊（[[むつ市]]）や野辺地湊（[[上北郡]][[野辺地町]]）を利用して日本海を経由して西国に至る[[北前船|日本海海運（西廻り航路）]]と、宮古湊（[[宮古市]]）から三陸沖を経由したり、北上川舟運を通じた仙台領石巻湊（宮城県[[石巻市]]）を利用して[[銚子市#銚子漁港|銚子]]に陸揚げする太平洋海運があった。&amp;lt;!-- 青森県史　資料編 近世4 P193-195 --&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|閉伊郡　&lt;br /&gt;
|釜石・両石・大槌・吉里吉里・山田・宮古&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|北　郡&lt;br /&gt;
|泊・野辺地・横浜・[[田名部七湊]]（川内・安渡・大畑・大間・奥戸・佐井・牛滝 『郷村古実見聞記』&amp;lt;small&amp;gt;時代により変化した&amp;lt;/small&amp;gt;）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|八戸領　&lt;br /&gt;
|久慈・鮫&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 北上川水運 ===&lt;br /&gt;
盛岡藩では江戸藩邸への物資を廻送は、慶安期以降に北上川舟運（しゅううん）&amp;lt;ref name=&amp;quot;岩手博02&amp;quot;&amp;gt;[http://www.pref.iwate.jp/~hp0910/korenaani/h/023.html （岩手県博物館）北上川の舟運]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;日財図02&amp;quot;&amp;gt;[http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2005/00085/contents/0001.htm  （日本財団）郡山河岸と小操舟]&amp;lt;/ref&amp;gt;と[[太平洋]]の[[海運]]を利用し、[[仙台藩|仙台領]]石巻に米倉を設置した。米雑穀類のほかに、鹿角地方で産出された銅も新山河岸からも積み出されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、八戸藩の飛地である志和郡四ヵ村の米穀類も郡山河岸を利用して江戸廻米を行っていた。&lt;br /&gt;
{{Main|[[北上回漕会社#北上回漕会社前史|北上回漕会社]]}}&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;Background:white; font-size:smaller&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;2&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |河　岸&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |盛　岡&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |日　詰&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--  | style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |石鳥谷河岸 --&amp;gt;&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |花　巻&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |黒沢尻&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;2&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |（藩　境）&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |仙台藩領&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--  | style=&amp;quot;width:5em&amp;quot; | --&amp;gt;&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;width:5em&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |新山河岸&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;width:5em&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |郡山河岸&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--  | style=&amp;quot;width:5em&amp;quot; | --&amp;gt;&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;width:5em&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |花巻河岸&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;width:5em&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |和賀川舟場&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;width:5em&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; |石巻湊&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 盛岡領 番所の所在地 ===&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;Background:white; font-size:smaller&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:left&amp;quot; colspan=&amp;quot;9&amp;quot; |&#039;&#039;&#039;境目番所&#039;&#039;&#039;　（他領との境界警護）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;width:6em&amp;quot; |&#039;&#039;&#039;[[和賀郡]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;width:6em&amp;quot; | 鬼柳番所 &lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;width:6em&amp;quot; | 立花番所&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;width:6em&amp;quot; | 黒岩番所&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;width:6em&amp;quot; | 浮田番所&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;width:6em&amp;quot; | 田瀬番所&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;width:6em&amp;quot; | 倉沢番所&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;width:6em&amp;quot; | 越中畑番所&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;width:6em&amp;quot; | 岩崎番所&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;&#039;[[閉伊郡]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| 鮎貝番所 &lt;br /&gt;
| 荒屋番所 &lt;br /&gt;
| 赤羽根番所 &lt;br /&gt;
| 平田番所 &lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;4&amp;quot; |&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;&#039;[[岩手郡]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| 橋場番所 &lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;7&amp;quot; |&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;&#039;[[鹿角郡]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| 熊沢番所 &lt;br /&gt;
| 土深井番所 &lt;br /&gt;
| 松山番所 &lt;br /&gt;
| 濁川番所 &lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;4&amp;quot; |&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;&#039;[[北郡]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| 馬門番所 &lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;7&amp;quot; |&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:left&amp;quot; colspan=&amp;quot;9&amp;quot; |&#039;&#039;&#039;物留番所&#039;&#039;&#039;　（領内の商品流通の統制）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;&#039;[[和賀郡]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| 煤々孫番所 &lt;br /&gt;
| 沢内番所 &lt;br /&gt;
| 下中島番所 &lt;br /&gt;
| 黒沢尻番所 &lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;4&amp;quot; |&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;&#039;[[閉伊郡]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| 遊井名田番所 &lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;7&amp;quot; |&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;&#039;[[稗貫郡]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| 野沢番所 &lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;7&amp;quot; |&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;&#039;[[岩手郡]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| 簗川番所 &lt;br /&gt;
| 尾入番所 &lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;6&amp;quot; |&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;&#039;[[鹿角郡]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| 湯瀬番所 &lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;7&amp;quot; |&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;&#039;[[二戸郡]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| 小繋番所 &lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;7&amp;quot; |&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;&#039;[[三戸郡]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| 夏坂番所 &lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;7&amp;quot; |&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align:left&amp;quot; colspan=&amp;quot;9&amp;quot; |&#039;&#039;&#039;遠見番所&#039;&#039;&#039;　（船舶を監視）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;&#039;[[閉伊郡]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| 小谷鳥&lt;br /&gt;
| 重茂 &lt;br /&gt;
| 箱ヶ崎 &lt;br /&gt;
| 下ノ崎&lt;br /&gt;
| 羅賀崎 &lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;3&amp;quot; |&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;&#039;[[九戸郡]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| 山の上 &lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;7&amp;quot; |&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;&#039;[[北郡]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| 泊ノ崎 &lt;br /&gt;
| 尻屋崎 &lt;br /&gt;
| 黒岩 &lt;br /&gt;
| 牛滝 &lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;4&amp;quot; |&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
「郷村古実見聞記」（[[文化 (元号)|文化]]元年（[[1804年]]）書上）&lt;br /&gt;
=== 八戸領 番所の所在地 ===&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;Background:white; font-size:smaller&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;width:10em&amp;quot; | &#039;&#039;&#039;城下&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;width:6em&amp;quot; | 沢里惣門&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;width:6em&amp;quot; | 売市惣門&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;&#039;[[久慈街道|久慈街道筋]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot; | 田代番屋&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;&#039;[[登り街道|登り街道筋]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot; | 天狗沢番屋&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| &#039;&#039;&#039;[[市川街道|市川]]・五戸街道筋&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot; | 大橋番屋&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
このほかに、必要に応じて改所が設置された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 城地 ==&lt;br /&gt;
=== 要害屋敷 ===&lt;br /&gt;
はじめは、伊達、佐竹、津軽藩に対する国境警備のための城館であったが、文化年間になると地方統治の一拠点に変質し、役所が要害屋敷にあり、年貢（金穀や現物）を収納する藩庫（土蔵）があってその土地の人々が年貢を上納する便宜上の理由もあり、代官所とは異なった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 居城　[[岩手郡]] [[盛岡城|盛岡]]&lt;br /&gt;
* 抱城　[[稗貫郡]] [[花巻城|花巻]]&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- 慶長20年（[[1615年]]）に江戸幕府が制定した一国一城令に則り、支城の性格を帯びている代官屋敷を館（たて）と称し、要害屋敷と公称した。  --&amp;gt;&lt;br /&gt;
** 要害屋敷 [[鹿角郡]] [[花輪館|花輪]]&lt;br /&gt;
** 要害屋敷 　　〃　[[柏崎館|毛馬内]]&lt;br /&gt;
** 要害屋敷 [[閉伊郡]] [[横田城 (陸奥国)|遠野]]&lt;br /&gt;
** 要害屋敷 [[北郡|北　郡]] [[七戸城|七戸]]&lt;br /&gt;
** 要害屋敷 　〃　　[[野辺地城|野辺地]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 江戸城の詰間 ==&lt;br /&gt;
* 柳間　（寛政期）&lt;br /&gt;
* 大広間　（天保期、文化2年（[[1805年]]）以降　大広間詰）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 藩邸および江戸での菩提寺 ==&lt;br /&gt;
宗藩盛岡藩の[[江戸藩邸]]は、外桜田に上屋敷、麻布南部坂に下屋敷があった。後に鉄砲洲&amp;lt;!-- 三田寺町 という資料もあり --&amp;gt;に中屋敷を設けるが品川大崎村に移転。また、江戸[[蔵屋敷]]は芝田町に、[[京都]]藩邸は東岡崎村に、[[大坂]]藩邸は北浜過書町におかれた。&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
江戸における菩提寺は芝切通しにあった五山派の勝林山金地院であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、江戸藩邸は[[元禄]]16年（[[1703年]]）の[[元禄大地震]]では1度すべて全壊している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 飢饉 ==&lt;br /&gt;
古来、この地方では[[飢饉]]が非常に多く、その度に多大な死者を出していた。特に、慶長5年（1600年）から明治3年（1870年）の盛岡廃藩までの270年間を通じて断続的に飢饉が続き、その間に、記録に残っているだけでも不作が28回、凶作が36回、大凶作が16回、水害が5回あった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
特に沿岸部（[[閉伊]]・[[九戸]]・[[三戸]]地方）においては、[[やませ]]と呼ばれる冷風による被害が甚大で、[[天明]]3年（[[1783年]]）から天明7年（[[1787年]]）にかけて起った全国的な大飢饉（[[天明の大飢饉]]）では収穫が0という惨状であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、藩経営が潤滑に進まなかったため備蓄が少ないばかりか、農地も農作物も無いという状態に陥ったことから、死者がさらに増えた原因であるとされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 飢饉による一揆 ===&lt;br /&gt;
盛岡藩での[[一揆]]は記録にあるものだけでも133回（次点の[[久保田藩]]（秋田藩）は87回）あり、その大半は18世紀末以降であり、時代が下るにつれて、盛岡以南の稲作地帯と、製鉄・水産業の盛んな三陸沿岸地域での一揆が多く発生している&amp;lt;!--面積は広いものの江戸時代では一揆が最も多い藩であった--&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
原因としては以下の諸点が考えられる。&lt;br /&gt;
* 水稲北限地域外で無理に水稲生産を強制したため、連年凶作に見舞われ、代換品による食事を奨励したが、代換品すらも備蓄が無かったこと。&lt;br /&gt;
* [[寛政]]5年（[[1793年]]）の松前（蝦夷地）出兵が原因の財政負担増。&lt;br /&gt;
* 目安箱の設置が、罪人を糾明する証拠集めのために用いられたこと。&lt;br /&gt;
* 負債を次から次へと作る新税・重税で解消しようとしたこと。&lt;br /&gt;
* 海産業を主とする三閉伊地方（[[三陸海岸]]沿岸部）に、水稲の基準で重課税。&lt;br /&gt;
* 三閉伊地方の産業（海産、材木、製鉄）に御用金制度を用い、無理な課税を行ったこと。&lt;br /&gt;
* 「軒別税」（人頭税）を実施したこと。&lt;br /&gt;
* [[藩札]]の大量発行による[[インフレーション]]。&lt;br /&gt;
* 幕府の手伝い普請（公共工事手伝い命令）による臨時課税。&lt;br /&gt;
* 財政難から藩士の禄を長期にわたって借上したこと。&lt;br /&gt;
* [[戦国時代_(日本)|戦国時代]]以来のライバルである[[弘前藩]]、[[仙台藩]]に対抗するために恒常的に高直しや[[官位]]の叙任工作を幕府有力者に働きかけていたための出費。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、農民たちはこのような原因から起こった貧困を脱するため、偽金（密銭）を鋳造したが、藩側は原因となる問題を放置のまま、偽金の製造に関わる者、使用した者を重罪人として扱い、厳重に処罰した。それまで何とか偽金で食べ繋いで来た農民たちは、1万人規模の一揆を起こすようになり、それを成功させたのである。&lt;br /&gt;
盛岡藩百姓一揆の中で最も大規模かつ組織的で、その要求が政治的であったものが弘化4年（[[1847年]]）と嘉永6年（[[1853年]]）の&#039;&#039;&#039;三閉伊一揆&#039;&#039;&#039;であった。&lt;br /&gt;
{{Main|三閉伊一揆}}&lt;br /&gt;
天保期の一揆・騒動は盛岡以南の穀倉地帯の買米制度とその停止を要求して行われており、田名部・野辺地・七戸の各通は買米の対象となる穀倉地帯ではなく、他領からの移入米によって生活をまかなう地区であったため、対立を引き起こさなかった。そして、寛永期以降の蝦夷地幕領化の中で「松前稼」と呼ばれた、蝦夷地への労働力移動が可能であり、飢餓期の困窮を一時的に回避することができた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 飢饉・一揆 ==&lt;br /&gt;
東北地方の太平洋側では、初夏になると、「[[やませ]]」と呼ばれる冷涼な北東風が吹き、夏でも気温が上がらず、明治以降においても、冷害が凶作をひきおこしたことがある。北奥に位置する南部藩は領域は広大であっても、そのほとんどが山林原野によって占められて耕地が少なく、また水稲生産の限界地的な地域で、当時の幕藩社会が石高制に基づいて、つねに財政的基盤を畑作より水稲生産力に求めていたが、天候不順に起因する冷害と、旱舷・風水害・霜害・病虫害を原囚とする凶作を契機にして、食糧の欠乏が原因で多数の飢人と餓死者を出していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
盛岡・八戸両藩で発生した百姓一揆は132回を数え&amp;lt;ref name=&amp;quot;南部一揆の研究&amp;quot;&amp;gt;「森嘉兵衛著作集 七 南部藩百姓一揆の研究（昭和10年（1935年））」 ([[法政大学出版局]] 1992出版) &amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;岩手博03&amp;quot;&amp;gt;[http://www.pref.iwate.jp/~hp0910/korenaani/h/074.html （岩手県博物館）百姓一揆を禁じた制札]&amp;lt;/ref&amp;gt;、徳川期の最多発生地であった。その中でも「稗貫・和賀」（花巻・北上）地方が最多発地域だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元禄・宝暦・天明・天保の飢饉は被害が甚大で盛岡藩の四大飢饉といわれ、凶作・飢饉の続発で藩財政を圧迫し、重税とそれに反対する一揆が繰り返されてきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 元禄の飢饉 ===&lt;br /&gt;
&amp;lt;small&amp;gt;（元禄4年（1691年） - 8年（1695年））&amp;lt;/small&amp;gt; &lt;br /&gt;
　[[元禄]]年間（[[1688年|1688]]～[[1704年|1704年]]）の盛岡藩は、元禄6（[[1693年]]）年・10年・11年・16年の四ヵ年を除くと、あとは連年不作と凶作が続き、元禄8年と15年には飢饉となった。&lt;br /&gt;
元禄8年、典型的な霖雨・早冷による冷害がもとで作柄も悪く、年貢収納が例年の28.6％しか見込めず、ついに飢饉となって米価が高騰した。&lt;br /&gt;
11月、藩では幕府に「領内不作の儀」について報告した結果、来春の参勤が免除され、その費用をもって飢饉対策に充当した。&lt;br /&gt;
米雑穀等の他領移出禁止、貯穀奨励、他領者の領内逗留禁止、酒造の禁止、火の用心などを命令するとともに、城下の庶民救済のため払米をし、紺屋町と寺町では盛岡御蔵米を小売させた。さらに城下の寺院や富豪の協力を得て、長町梨子本丁出口辺と束顕寺門前の二ヵ所に御救小屋を設け、飢人の救済にあたった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 寛延2年 猪飢饉&amp;lt;small&amp;gt;（イノシシけがづ）&amp;lt;/small&amp;gt;  ===&lt;br /&gt;
当時関東周辺で、田畑を木綿や養蚕などの収益の上がる作目に転換したため、大豆が不足し、盛岡藩や八戸藩が大豆生産のため、焼き畑を繰り返し放棄地に餌が生い茂ることで猪が異常繁殖して、[[寛延]]2年（[[1749年]]）、凶作で里に下りてきた畑の作物を食い荒らし、多くの農民を餓死に追いやった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 宝暦の飢饉 ===&lt;br /&gt;
&amp;lt;small&amp;gt;（宝暦3年（[[1753年]]） - 宝暦7年（[[1757年]]））&amp;lt;/small&amp;gt;&amp;lt;/br&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[宝暦]]4年（[[1754年]]）が大豊作であったので約10万石の江戸廻米を行った結果、藩内に米が払底し、宝暦5年（[[1755年]]）の大凶作を契機に大飢饉に発展した。藩では城下の富豪からの御用金を資金として、翌宝暦6年（[[1756年]]）正月、城下の永祥院と円光寺に茅葺きの御救小屋を建て、飢人の収容救済に乗り出した。&lt;br /&gt;
宝暦6年に代官所が提出した報告書によると、餓死者 49,594人、空家 7,043軒であり、なかでも三戸郡五戸通、次いで岩手郡の雫石通・沼宮内通の被害が激甚を極めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 天明の飢饉 ===&lt;br /&gt;
&amp;lt;small&amp;gt;（[[天明]]2年（[[1782年]]） - 天明8年（[[1788年]]））&amp;lt;/small&amp;gt; &amp;lt;/br&amp;gt;&lt;br /&gt;
天明3年、土用になっても「[[やませ]]」よって夏でも気温が上がらず、稲の成長が止まり、加えて、大風、霜害によって収穫ゼロという未曾有の大凶作となり、その年の秋から翌年にかけて大飢饉となり、多くの餓死者を生じた。また、気象不順という自然災害だけに原因があるわけでなく、農村に対する年貢収取が限度を超え、農業における再生産が不可能な状態に陥った。&amp;lt;!--『岩手県史』5_858-9 --&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 寛政 2年 長岡通久保村知行地一揆 ===&lt;br /&gt;
=== 寛政 7 - 8年 盛岡南方税制改革一揆  ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 寛政11年 - 文政 4年 蝦夷地幕領化にともなう一揆 ===&lt;br /&gt;
下北地区の一揆13件の内8件までは、寛政11年（[[1799年]]）から文政4年（[[1821年]]）までの蝦夷地幕領化にともなう時期に集中している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[寛政]]11年（[[1799年]]）2月の東蝦夷地の幕領化によって、[[享和]]2年（[[1802年]]）の東蝦夷地の永久直轄化と、課役負担の固定化という危機感を増幅させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[文化 (元号)|文化]]元年（[[1804年]]）の佐井－箱舘間の航路にともなう夫役・伝馬役にかかわる課役負担の増加に、人馬通行役の軽減を求めた愁訟が起こり、文化5年（[[1808年]]）12月に、盛岡藩は東西蝦夷地を永久に警護するため1,000人の藩兵を蝦夷地へおくることになったが、代わりに領地加増を伴わない20万石への高直しが行われる。それにより増俸なしに軍役負担だけが倍になって&amp;lt;!-- 以下、大畑町史 --&amp;gt;藩財政は枯渇状態であるという過重な結果をまねいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文化9年（[[1812年]]）農民が従来負担してきた賦役を貨幣で賦課した「定役銭」を農民に転嫁したため、北通の関根村、下風呂村、易国間村、蛇浦村、大間村、奥戸村、牛滝村、佐井村の各肝入と大畑村険断が連名で田名部代官所に愁訴に及び免除された（文化9年定役銭一揆）が、西通と東通の村々は負担が重くなった。また、文化12年（[[1815年]]）にも新役銭の微収免除の愁訴が行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 天保の飢饉 ===&lt;br /&gt;
&amp;lt;small&amp;gt;（[[天保]]3年（[[1832年]]） - 天保10年（[[1839年]]））&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
霖雨・早冷・降霜などの気象条件を主な原因とし、天保3年（[[1832年]]）から同9年（[[1838年]]）まで&amp;lt;!--の七ヶ年は--&amp;gt;連続的に凶作が続き、これを七年「飢渇（けかつ）」と呼ばれた&amp;lt;ref name=&amp;quot;大間&amp;quot; /&amp;gt;、また藩財政の窮乏による重税政策がその度を高めた。&lt;br /&gt;
天保期、盛岡藩領では凶作がうち続き、にもかかわらず、盛岡藩領からは藩財政の補填のために米価の高い江戸を目標としての米の移出が強行されていた。それは百姓からの年貢の通常の取り立てでまかなうことはできず、来年の耕作のための種籾や、食料としての蓄えにも及ぶものさえ取り立てて廻送していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天保期の一揆・騒動は盛岡以南の穀倉地帯の買米制度とその停止を要求して行われており、田名部・野辺地・七戸の各通は買米の対象となる穀倉地帯ではなく、他領からの移入米によって生活をまかなう地区であったため、対立を引き起こさなかった。そして、寛永期以降の蝦夷地幕領化の中で「松前稼」と呼ばれた、蝦夷地への労働力移動が可能であり、飢餓期の困窮を一時的に回避することができた。&amp;lt;!--『岩手県史』5_859 --&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 天保 5年 久慈・軽米通 稗三合一揆 ====&lt;br /&gt;
[[天保]]4年([[1833年]])の飢饉に際して、八戸藩は一切の救済を行うことなく、領民の一日の食料を精白しない稗三合と定め、それ以外の穀物は市場の実勢を無視し、強制的にすべて藩札で安く買い上げることを布告した。&lt;br /&gt;
天保5年([[1834年]])12月に入って是川村を皮切りに、久慈・軽米・嶋守に広がり、最初集結した2千人の一揆勢が[[久慈街道]]を、法螺貝の音轟かせながら八戸城下鍛治町および周辺村々に結集した時には人数8千になっていたと言われる。一揆の訴願書には、70以上の願書を出して、[[野村軍記]]の引き渡しと稗三合一件の撤回を要求した。&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--天保5年([[1834年]])、--&amp;gt;野村軍記は起こった総百姓一揆の責任を負わされて入牢して八戸で獄死した。&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--http://soumai.p-kit.com/page202651.html--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 天保 7年 盛岡南方一揆 盛岡越訴 ====&lt;br /&gt;
天保7年（[[1836年]]）11月に新税・増税反対一揆として、現大迫町（花巻市）の農民数千人が決起して、盛岡城下に押しかけ（盛岡強訴）の一揆側の要求を一度受入れたが、解散をすると、前言を取消した。&lt;br /&gt;
==== 天保 8年 盛岡南方一揆 仙台越訴 ====&lt;br /&gt;
天保8年（[[1837年]]）には、昨年の一揆に対し稗貫・和賀の農民2千人以上が　[[仙台藩|仙台領]]に越訴する事態に発展し、南部藩を非難した。南部藩は一揆衆を取り戻すため、首謀者を処罰しないことを約束し、仙台藩は幕府に内密にすることを約束した。しかし南部藩は一揆衆を取り戻した後、許可したものを破棄し、首謀者を処刑した。これで領民からは軽蔑するようになった。その後、南部藩は目安箱を設置した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 三閉伊一揆  ===&lt;br /&gt;
三陸東海岸では水稲生産力には恵まれず、江戸市場輸出・長崎俵物輸出、魚粕・魚油の商品生産化によって、他領からの移入米によって生活をまかなう地区であった。&lt;br /&gt;
{{Main|三閉伊一揆}}&lt;br /&gt;
==== 弘化4年 遠野強訴  ====&lt;br /&gt;
盛岡藩は,、天保10年（[[1839年]]）、今後、御用金など&amp;lt;!-- 他の新税や御用金は課税しないと --&amp;gt;一切の租税を廃止するとして、全領内に一軒あたり1貫800匁を基準に全戸に割り当てた&#039;&#039;&#039;軒別役&#039;&#039;&#039;という新たな税を課した。&amp;lt;!--商品生産として有効な水産資源に狙いをつけたので、--&amp;gt;三陸沿岸の大槌・宮古通の三閉伊地域は、特に課税額が多く、全領の合計は2万9180両に及んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[弘化]]4年([[1847年]])10月に、新たな課税はしないという先の約束を破り、財政難に窮した藩は、外船警備のための&#039;&#039;&#039;特別御用金&#039;&#039;&#039;5万2500両を課した。これが契機となって11月17日、野田通の安家村（下閉伊郡岩泉町）から起きた一揆が周辺も村々を巻き込んで小本、田老、宮古、山田、大槌と南下し各地の一揆と合流して[[笛吹峠 (岩手県)|笛吹峠]]を越えて、遠野に強訴した。&lt;br /&gt;
上納金の不払いを要求するものではなく、大挙して仙台領へ出稼ぎにでてその労賃をもって支払うという経緯のため、南部藩の恥を天下にさらすこととなり、鎮圧一点ばりの鎮撫は行えなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　12月4日、遠野早瀬川原において、不信極まる本藩上席家老&#039;&#039;&#039;南部土佐&#039;&#039;&#039;に何を問われても口を開かず終始無言で相手とせず、遠野南部家家老&#039;&#039;&#039;新田小十郎&#039;&#039;&#039;に、一揆の代表は集会の25ヶ条の要求を願書で提出した。要求は、御用金の免除、大豆・塩の買い上げ免除、いままでの定役と年貢以外の新税の免除などであった。ついに、盛岡藩は、これらの要求の12条を認めて事態を収拾しようとしたざるを得なかった。&lt;br /&gt;
遠野南部家では一揆の農民に帰路の食料を支給したので、12月5日から各村々に散っていって、伊達領への越藩もかろうじてまぬがれ、ひとまず鎮撫するにいたった。&lt;br /&gt;
『[[内史略]]』によれば、一揆の代表弥五兵衛は花巻で逮捕され、盛岡で牢死している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　また、これに呼応し、同年12月1日に鬼柳・黒沢尻通、同15日には徳田・伝法寺通と八幡・寺林通でも一揆発生したが、当局によって鎮圧された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（藩の対応）&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--幕府老中阿部伊勢守正弘のの内意ということで、--&amp;gt;[[嘉永]]元年（[[1848年]]）6月、責任を取る形で南部利済は病気在国中であったため病気隠退を願いで、南部利義が第13代藩主となるが、利済は家督は譲ったものの官位も返上せず「大太守」の名で院政が行われた。&lt;br /&gt;
嘉永2年（[[1849年]]）7月、利済は藩主位を譲っていた南部利義が江戸滞在中に南部土佐を派遣して退位するように圧力をかけられて、11月に隠居した。この廃立に反対した[[東堂一堂|東堂学派]]一派は翌1850年に弾圧され、南部利剛を第14代藩主に相続させて院政を継続した。&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--利済の院政がしばらく行われる。さらに利済の重臣で近習頭である田鎖左膳は嘉永2年10月に利道と改名している。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 嘉永6年 仙台強訴 ====&lt;br /&gt;
嘉永6年（[[1853年]]）2月、藩は&amp;lt;!--経済的に参勤交代費と累積赤字に苦しみ、--&amp;gt;行きづまった財政はいかんともしがたく、&#039;&#039;&#039;郷割御用金&#039;&#039;&#039;の徴収が強制されたことを契機にして、各種の新税に反対する流通商人を中心に、同年5月、野田通の田野畑村から一斉に蜂起をはじめ、 [[三陸浜街道|浜通り]]を南下して田老・宮古・山田の各村を押し出すにつれ大群衆となっていった。&lt;br /&gt;
6月4日、大槌通に押し寄せ、&amp;lt;!--盛岡藩当局は警備の役人を派遣したものの、かえって一揆の勢いを恐れて逃げ出 し、大槌代官所の役人達は船で逃げたという。--&amp;gt;翌5日に釜石に集合した一揆の人数は一万六千余人にも達し&amp;lt;!-- た。浜通りをここで一揆は遠野に強訴すると言いふらしながら--&amp;gt;、仙台領への越訴を画策し、盛岡領平田番所から仙台領&amp;lt;!--唐丹番所を--&amp;gt;へ押し通ろうしたが、&amp;lt;!-- 一方--&amp;gt;唐丹番所側では&amp;lt;!--、既にこの動きを察知し、高田代官を通して藩へ報告。--&amp;gt; 藩境警備を厳重に取り締まっていたため、間道を進み&amp;lt;!--篠倉峠を越えるルートを通り、--&amp;gt;気仙郡唐丹村に八千人余が越訴し、仙台藩の役人に訴え出るという、前代未聞の自体になっていた。&lt;br /&gt;
これに対して、盛岡藩が策を練るすべもなく混乱しているうちに、6月17日に一揆の代表45人を残して帰国した。村々は、この代表に何らかの不幸が起きた場合には共同で子孫養育料をだすことなどの約束を取り交わしていたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その訴状によれば、三閉伊を幕領化か、仙台藩領化を願い出たもので、仙台藩では政治的要求であるから返答は出来ないとし、具体的な要求を尋ね&amp;lt;!--盛岩寺で願文をつくる　盛岩寺において三閉伊通り（野田・宮古・大槌の各通り）の幹部45人の寄り合いが開かれ--&amp;gt;、商品経済の発達によって賦課された重税に対する反対行動であったが、答えた47箇条の願文をつくりあげ、伊達藩へ差し出した。伊達藩と南部藩の話し合いは5ヶ月も話し合われ、ようやく三閉伊通りの農漁民の願いが叶ったのであった。6ヶ月間にわたった押し出し一揆は成功の内に終わる&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（藩の対応）&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
嘉永7年（[[1854年]]）、この一揆は幕府に知られ、藩主利剛はお構いなし、隠居の利済には参府の上、永久閉居が申し付けられた。&amp;lt;!--、翌安政2年（1855年）4月に江戸の下屋敷で病死した。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
領袖を失った利済派は、家老 南部土佐、[[横沢兵庫]]を、御役御免のうえ家祿半減、永久閉居。参政[[石原汀]]、[[田鎖左膳|田鎖茂左衛門]]、川島杢左衛門らも家祿屋敷を没収のうえ、召しかかえを放たれる。&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- 盛岡藩に三奸といわれる若年寄がおりました。石原汀、田鎖左膳、川島杢左衛門でございます。とくに石原汀は、利済さまの生母である油の御前といわれる町家出身の「お米の方」の血縁筋にあたり、利済さまの寵愛（ちょうあい）このうえないのであります。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
南部利義は隠居の身になっており、父利済が公儀から謹慎を命ぜられたときも、遊興遊猟を続けていたため、譴責を受け、江戸家老の毛馬内典膳、[[東政図|東中務]]は責任を負って免職されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 他地域との関わり ==&lt;br /&gt;
=== 蝦夷地との関わり ===&lt;br /&gt;
江戸幕府が成立すると[[徳川家康]]は[[アイヌ人]]の往来を自由とする[[黒印状]]を発布した。そこで17世紀、盛岡藩領のアイヌ人の[[津軽半島]]往来は自由に行われ、盛岡藩領内には公式なアイヌ人居住地の[[戎村]]や、ほかにもアイヌ人の非公式な交易拠点があった。東北アイヌは和人風俗を身に着け、逆に和人の領民の中にもアイヌ風俗が一部普及したため、日常ではアイヌと非アイヌの境界はあいまいだった。これを利用して、盛岡藩はアイヌ人を仲介とした北方貿易の担い手にもなっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[寛文]] 8年（[[1668年]]）、[[シャクシャインの戦い]]の際、翌寛文 9年　アイヌ蜂起の鎮圧のため、幕命により[[弘前藩]]・[[久保田藩]]とともに蝦夷地へ出兵し、また、領内において下北アイヌの監視をも兼ねて田名部・野辺地に藩士を派遣した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
18世紀には、盛岡藩領内の[[飛騨屋]]が[[蝦夷地]]での材木業、のちに[[漁業]]にも進出した。飛騨屋には[[下北半島]]や[[宮古市|宮古]]周辺から出稼ぎ労働者が集まり、アイヌ人を酷使しながら大きな利益を上げた。やがて反発したアイヌ人が蜂起（[[クナシリ・メナシの戦い|国後目梨の戦い]]）したが、[[松前藩]]が鎮圧に成功した。このとき盛岡藩の出稼ぎ労働者の一部がアイヌ側に保護され、盛岡藩に引き渡されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[寛政]]11年（[[1799年]]）、幕府は千島列島に進出しつつあった[[ロシア帝国|ロシア]]に対抗して蝦夷地の直轄領化が試みられた。このとき幕府より蝦夷地経営、警備の名目によって東北諸藩が出兵を命じられ、盛岡藩は後の[[渡島国]]（[[松前藩]]領を除く）・[[胆振国]]・[[択捉島]]の領域を担当した。特に[[ニコライ・レザノフ|レザノフ]]の部下による択捉島攻撃の際は矢面に立ち、敗北している。盛岡藩はその後も対ロシア警備の前線を担当し、[[ヴァーシリー・ゴローニン|ゴローニン]]の逮捕も盛岡藩兵が行ったものである。&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
当初、幕命により[[箱館]]に陣屋を建設して警備に当たったが、[[新渡戸十次郎]]らの建策より[[1857年]]に[[室蘭郡|室蘭]]に移った。これらは1868年の[[戊辰戦争]]の際に引き払ったが、跡地は現在でも残っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 盛岡藩領と青森県 ===&lt;br /&gt;
廃藩置県により、盛岡藩は岩手県だけではなく、青森県にも編入された。現在の青森県域については、江戸時代中期以降の盛岡藩領と八戸藩領が共存している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いわゆる「[[南部地方 (青森県)|南部地方]]」と呼ばれる地域は、ほとんどが旧盛岡藩領である。また、[[下北地方]]も旧盛岡藩領であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[八戸市]]周辺から岩手県久慈市に到る海岸に沿った九戸郡を含む領域と志和4ヵ村は、旧八戸藩領であった。志和4ヵ村は収穫量5000石の飛び領で、周辺の盛岡藩領の農民が八戸藩領農民を圧迫し、八戸の役人がたびたび交渉に赴き、ついには討って出ると迫って八戸藩領の農民の権益を保護するなど、盛岡藩と八戸藩の係争地であった。八戸藩では領内において代官が各2名ずつ置かれていたが、領外（飛地）の志和については4名に増員された&amp;lt;ref&amp;gt;[[工藤祐董]]著『八戸藩の歴史』八戸市、1999&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 弘前藩との遺恨 ===&lt;br /&gt;
盛岡藩南部氏は、戦国時代から[[弘前藩]][[津軽氏]]と確執を抱えていた。津軽氏は、元々南部氏の分家・大浦氏であったが南部宗家への従属意識が薄く、[[津軽為信|大浦為信]]のときに独立した。その際に南部氏重臣[[石川高信]]（盛岡藩初代藩主となる[[南部利直]]の祖父にあたる）らが討たれている。その後の中央工作によって大浦氏が津軽氏と名乗り[[豊臣政権]]から大名として認められてしまったため、南部氏の領地は大幅に減少することになった。この遺恨は江戸時代も続き、弘前藩主津軽氏の参勤交代は南部領を一切通らずに行なわれたし、江戸在府期間も原則として両家は重ならないように配慮され同席させられなかった。&lt;br /&gt;
江戸後期には南部家の家臣による津軽当主暗殺未遂事件([[相馬大作事件]]）の遠因にもなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 産業構造 ==&lt;br /&gt;
=== 畜産 ===&lt;br /&gt;
古代・中世に糠部と呼ばれた地域は名馬の産地として知られ、糠部の駿馬と称されており、その中心は北奥の三郡（北、三戸、九戸）であった。平安末期には東西南北の4つの「門」（かど）と、9つの「戸」（へ）に分けられ、&#039;&#039;&#039;[[糠部郡#九ヵ部四門の制|&#039;&#039;&#039;九ヵ部四門の制&#039;&#039;&#039;（くかのぶ しかどのせい）]]が成立し馬牧・駿馬の産地として知られていた。糠部の公田に課せられた年貢は馬で納められていた&amp;lt;ref name = azm01&amp;gt;「吾妻鏡」文治5年9月17日条&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--戦国の頃まで、山野の適地を選定し、そこに野馬を飼育し、年一度宛、野馬捕りをやっていた証があり、捲き堀の名が、それに起因して発生したことが考えられる。--&amp;gt;&amp;lt;!--岩手県史3　P1016--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 南部駒  ====&lt;br /&gt;
近世期に入ると、、南部藩の馬制は、藩直営の牧野で飼う「御野馬（おのま）」と、民牧の「里馬（さとうま）」との二本建になっている。南部藩内の（九牧を含む）すべての牛馬の総轄したのが、「牛馬掛御用人」&amp;lt;ref name=&amp;quot;岩手大&amp;quot;&amp;gt;[http://ir.iwate-u.ac.jp/dspace/bitstream/10140/1780/4/erar-v61n2p149-168.pdf （岩手大学研究年報） 第61巻第2号, 2001 公儀御馬買衆と盛岡藩]&amp;lt;/ref&amp;gt;であって、その下に「野馬掛」と「里馬掛」がおかれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、民間の馬であっても藩の許可なく移動することも売却することも禁止されており、藩は馬産による収益を確保していた。&lt;br /&gt;
藩から貸与された種牡馬によって生れた若駒（牡馬を「駒」、牝馬は「駄」と呼ばれた。）は、牝なら馬主に与えたが、牡はすべて二歳駒で「掫駒（せりごま）市」にかけて廉価で微収して種馬や群軍用馬にして、馬商人も取引区域が限られ、他国人は取引が制限されていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;大間&amp;quot;&amp;gt;『大間町史』&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
盛岡城下の成立とともに産馬の掫(せり)市が始められたといわれているが、詳細は明らかではない。&amp;lt;!--『地方史事典』 弘文館--&amp;gt;&lt;br /&gt;
田名部では季節的に早い馬市が毎年ひらかれていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;大間&amp;quot; /&amp;gt;。&amp;lt;!-- p.180 --&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[貞享]]元年（[[1684年]]）、御掫駒奉行が9組20人任命され、領内30カ所近くの馬市を開催している。&amp;lt;!--『地方史事典』 弘文館--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 南部九牧 ====&lt;br /&gt;
藩政期を通じ、南部九牧（なんぶくまき）&amp;lt;ref name=&amp;quot;岩手図02&amp;quot;&amp;gt;[http://www.library.pref.iwate.jp/ihatov/no6/html6/b26/index.html （岩手県図書館） 岩手の古地図 南部九牧之図]&amp;lt;/ref&amp;gt;と総称される「&#039;&#039;&#039;御野&#039;&#039;&#039;（藩営牧場）」を整備して、&amp;lt;!--藩牧は御用人支配に属したが、牧経営の--&amp;gt;実務は三戸に御野馬役所を設けて、総括責任者は「御野馬別当」と呼ばれ、各牧には「馬責（調教）」「馬医」&amp;lt;!-- 「野守」「馬責（調教）」「馬医」「猟師（害獣防除）」「馬見」「木戸番」「野掛」などの属吏が配置されて監督にあたらせた。 --&amp;gt;が配置されて補佐する一方、藩牧が存在する各代官所には牛馬役が置かれた。&lt;br /&gt;
* 大間野（青森県下北郡大間町）（現 [[むつ市]]）&lt;br /&gt;
* 奥戸野（　〃　　〃　　〃　）&lt;br /&gt;
* 蟻渡野（　〃　上北郡横浜町および野辺地町北部）&lt;br /&gt;
* 木崎野（　〃　　〃　三沢市）&lt;br /&gt;
* 又重野（　〃　三戸郡新郷村）&lt;br /&gt;
* 住谷野（　〃　　〃　三戸町）&lt;br /&gt;
* 相内野（　〃　　〃　南部町）&lt;br /&gt;
* 北野　（岩手県九戸郡侍浜村）（現 [[久慈市]]）&lt;br /&gt;
* 三崎野（　〃　九戸郡宇部村）&lt;br /&gt;
他に田鎖野・妙野・広野・立崎野があって、公牧は計13カ所。住谷野は中世から牧が存在したが他の牧は多くが[[寛永]]から[[正保]]期に整備されている。この他に[[寛文]]4年（[[1664年]]）の八戸藩分立によって盛岡藩は妙野（青森県[[八戸市]]）と広野（岩手県[[久慈市]]）の二牧を譲渡した&amp;lt;!-- 青森県史　資料編 近世4 P394 --&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実際の藩牧経営は地元農民に転嫁され、夫役を微収して&amp;lt;!--「野守」として野馬の飼育・管理を命じられ--&amp;gt;行われていた&amp;lt;!--大間町史--&amp;gt;。牧場に飼育さえている馬は、冬期には、積雪や寒凍を避けて、&amp;lt;!--舎飼と呼ばれる--&amp;gt;周辺&amp;lt;!--各村--&amp;gt;の農家に課役として預けて保護している。また、牧場により、積雪の少ないところは、四季を通じて放牧のまま&amp;lt;!-- 大間町史 四季放飼 p.176 --&amp;gt;であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治維新後、盛岡藩の減転封に伴ない、各牧は後継の斗南藩・七戸藩に引き継がれたが、廃藩置県後は廃止された&amp;lt;!-- 青森県史　資料編 近世4 P394 --&amp;gt;。&lt;br /&gt;
[[明治]]3年（[[1870年]]）9月、、旧盛岡藩の産馬事業は直接政府が管轄することとなり、盛岡に民部省養馬掛出張所が置かれた。&amp;lt;!-- 青森県史－資料編近現代２近代成立期p.458--&amp;gt;&lt;br /&gt;
明治5年([[1872年]])10月　岩手県は九戸郡侍浜村北野と宇部村三崎野の旧盛岡藩の牧場廃止を行った&amp;lt;!--岩手県史9-Ｐ764--&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 里馬 ====&lt;br /&gt;
里馬は飼育にあたって、村単位に春から秋まで共同の牧野&amp;lt;!--に放ち--&amp;gt;や、冬場の舎飼のための草刈り場も共同利用の入会秣場であり、村ごとに「馬組」が結成されて、「馬肝入」がそれを統括し、藩の牛馬方役人につながっていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;大間&amp;quot; /&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
藩有の「野馬」は藩の乗用や贈答用にあてられていたほかに、郷村に無償で父馬として預けて「里馬」の改良に役立つ貸付種馬の育成を目的としており、藩の「牛馬改役」のほか、各代官所の「牛馬役」が巡回して郷村の農家の飼食する牡馬の調査を行なった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[宝永]]3年（[[1706年]]）、領内の里馬に関して、牝馬（母駄）を上中下の三等級に区分して本帳（馬籍帳）に登録し、その区別を何人も判別するために、髪を切り父馬も髪を切り一般牡馬と区別の明確化を図り、上駒、中駒は一切他領に出すことは禁じられていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 御馬買衆 ====&lt;br /&gt;
毎年秋に江戸幕府から「公儀御馬買衆」、諸大名から「わき馬買」と呼ばれる軍馬買い入れの役人が派遣されており、江戸幕府は軍馬購入のために、刈田郡宮（宮城県）から出羽国に出て、途中の横手の馬市で仕入れた後、六郷・角館・生保内を経由して国見峠を越え、主産地の盛岡入りするのが通例だった。&lt;br /&gt;
公儀御馬買衆は寛永2年（[[1625年]]）にはじめられ、元禄3年（[[1690年]]）を最後に廃止されたが、ある年の記録によれば一行の人数は御馬買衆は2人で従者を含めると50人におよんだという。軍馬の購入は例年二百頭前後で、11月には奥羽街道を経て江戸に帰ったという&amp;lt;ref name=&amp;quot;あきた通巻121号&amp;quot;&amp;gt;[http://common.pref.akita.lg.jp/koholib/search/html/121/121_039.html あきた（秋田県広報誌）通巻121号、1972年（昭和47年）6月1日発行]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
元禄4年（[[1691年]]）4月、老中&amp;lt;!--大久保忠朝--&amp;gt;より、盛岡・仙台両藩の留守居役に対して、御馬買衆の派遣は中止するが、歳、毛色、性別を目録に認めて、幕府&amp;lt;!--の若年寄り--&amp;gt;に提出するよう求められ、目録をもとに注文して馬を購入するようにした。この仕組みを「御買馬」と呼ぶようになった。享保4年（[[1719年]]）まで続き、毎年7-8疋が購入された。&amp;lt;!-- その後、享保5年からは「御用御馬」とし、購入方法も目録を無用とするなど改められた。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 牛の飼育 ====&lt;br /&gt;
南部領の牛飼育の産地は偏っておらず、北上川流域以外で行われ、閉伊郡の北方や九戸郡北部方面に飼育され、峻嶮な山谷の運搬のためなど、民間の駄&amp;lt;!--物資搬出交易--&amp;gt;用に利用され、農耕に使役された形跡がない。北上谷の米穀地帯への塩とその他の海産物を、おおむね閉伊・九戸の海岸に近い山間部から「野田ベコ」と呼ばれる牛方によって搬入されて来る例があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
藩における牛の飼育は、馬に比較すると後れていたため、馬における諸制度のような完備が見受けられなく統制も緩やかであった。官職には目付役監督下に馬牛改役があり、各代官所毎に牛馬役があって、各村の馬牛肝煎を指揮していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 鉄器、鉄製品 ===&lt;br /&gt;
今でも「南部鉄器」として鉄瓶などが有名であるが、その歴史は[[17世紀]]中頃からとされ、上述の南部重直が、甲州から鈴木縫殿を鋳物師として、京都から小泉五郎七を釜師として呼び寄せたのが始まりである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、八戸藩領の九戸郡でも、十分な産出量の砂鉄を利用した鉄器があり、上記項目「飢饉による一揆」でも説明されたように、盛岡藩に出回った偽金の製造はこの地方が主流であったという。もっとも、悪貨が良貨を駆逐し、その後の藩札乱発もあって激しい物価高となり一揆の原因ともなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 支藩等 ==&lt;br /&gt;
=== 八戸藩 ===&lt;br /&gt;
{{Main|八戸藩}}&lt;br /&gt;
八戸藩は[[陸奥国]][[三戸郡]]八戸（[[青森県]][[八戸市]]内丸）に存在した南部氏族の藩である。前述の通り、将軍の裁定により成立した藩であるため支藩ではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
寛文4年(1664年)に八戸藩が分立され、藩庁は[[八戸城]]である。盛岡藩との関係については、独立した関係とされる。[[文化 (元号)|文化]]9年（[[1812年]]）八戸藩の上屋敷が類焼した際に財政支援を行っているが、盛岡藩主[[南部利敬]]より「八戸藩は独立した藩であり、心得違いがあってはならない」という趣旨の見解を示している&amp;lt;ref&amp;gt;『新編八戸市史 近世資料編1』八戸市、2007、426P&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
領内人口は寛延2年(1749年)に7万1352人で([[江戸時代の日本の人口統計#盛岡藩 (南部藩)]]参照)、領地の内訳は[[三戸郡]]41ヶ村、[[九戸郡]]38ヶ村、[[志和郡]]（現在の[[岩手県]][[紫波郡]]）4ヶ村の計83ヶ村&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.hachinohe.ed.jp/haku/rekisi_tanjo.html 八戸藩の範囲]（[[八戸市博物館]]）&amp;lt;/ref&amp;gt;。志和は周囲を盛岡藩に囲まれた[[飛び地]]である一方、九戸郡内には周囲を八戸藩に囲まれた盛岡藩の飛び地があった&amp;lt;ref&amp;gt;{{PDFlink|[http://www.pref.iwate.jp/~hp0910/tayori/101p6.pdf 岩手県の誕生]}}（[[岩手県立博物館]]だよりNo.101 2004年4月）&amp;lt;/ref&amp;gt;。現在の[[八戸市]]域と比較すると、現在の八戸市市川町の一部分などは[[盛岡藩]]域に属している。[[貞享]]元年（[[1687年]]）に盛岡・八戸両藩の間で侍浜村・白前村と七崎村が領地の交換がされ、七崎村が八戸藩領に編入された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
藩庁である八戸城の一部は角御殿表門が市内南部会館の表門として移築され現存する。&amp;lt;!-- {{Main2|詳細は[[八戸城]]の項目を}} --&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 七戸藩（盛岡新田藩） ===&lt;br /&gt;
{{Main|七戸藩}}&lt;br /&gt;
別名、盛岡新田藩と言われる盛岡藩の支藩。元々は江戸幕府[[旗本寄合席]]の石高5000石の旗本であったが、本家より加増を受けて成立したもの。[[定府]]（江戸住まい）大名であるが、南部信鄰が幼少の[[南部利用 (吉次郎)|南部吉次郎利用]]を補佐する際には幕府の許可をもらって盛岡に下向し、本家藩政に参画した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[陸奥国]][[北郡]]（現在の[[青森県]][[上北郡]][[七戸町]]周辺）に領地があったと言われるが、書面上のものであったとも言われる。藩主は定府であったが、[[戊辰戦争]]後の戦後処理の際、盛岡藩重臣の新渡戸傳によって[[1863年]]に分知が実施されたとする書類が提示され（書類が本物であるかについては不詳）、これに基づく実際の領地が確定し、藩主が七戸に下った。陣屋門が1棟移築され現存する。&lt;br /&gt;
当初より七戸南部氏であったわけではなく、居所を[[七戸城]]とする分知大名の創設を幕府に願って認められて以後の呼称である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
七戸藩の江戸藩邸上屋敷は、[[江戸城]]半蔵門外（大手より10町。現在の「ふくおか会館（[[福岡県]]東京事務所）」（[[東京都]][[千代田区]]麹町）附近）にあり、これは旗本時代以来からのものである。また、天保年間には青山五十人町に下屋敷を設けた。ちなみに江戸の菩提寺は宗藩と同じ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、盛岡藩主となった[[南部重信]]が養嗣子となって継いでいた七戸を知行地とする一族家臣[[七戸氏]]の跡は、重信の子の1人英信が名跡を継ぎ、七戸氏を称した。またそれ以外の重信の子（[[七戸秀信]]・[[七戸定信]]・[[七戸愛信]]）も七戸を称している。七戸愛信は盛岡藩家老職を務めている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 幕末の領地 ==&lt;br /&gt;
=== 盛岡藩 ===&lt;br /&gt;
* [[陸奥国]]（[[陸奥国 (1869-)|陸奥国]]）&lt;br /&gt;
** [[二戸郡]] - 68村（うち8村は[[会津藩#斗南藩|斗南藩]]に編入）&lt;br /&gt;
** [[北郡]]&lt;br /&gt;
* 陸奥国（[[陸中国]]）&lt;br /&gt;
** [[岩手郡]] - 85村&lt;br /&gt;
** [[稗貫郡]] - 68村&lt;br /&gt;
** [[和賀郡]] - 69村（うち52村は[[江刺県]]に編入）&lt;br /&gt;
** [[閉伊郡]] - 138村（江刺県に編入）&lt;br /&gt;
** [[鹿角郡]] - 70村（江刺県に編入）&lt;br /&gt;
** [[紫波郡]]のうち - 71村&lt;br /&gt;
** [[九戸郡]]のうち - 11村（江刺県に編入）&lt;br /&gt;
* 陸奥国（[[岩代国]]）&lt;br /&gt;
** [[伊達郡]]のうち - 8村（[[福島県]]に編入）&lt;br /&gt;
* [[蝦夷地|東蝦夷地]]（[[胆振国]]。いずれも[[開拓使]]直轄領に編入）&lt;br /&gt;
** エトモ場所（[[室蘭郡]]の南東部）&lt;br /&gt;
** ホロベツ場所（[[幌別郡]]）&lt;br /&gt;
** アブタ場所の一部（[[虻田郡]]の南西部）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 八戸藩 ===&lt;br /&gt;
* 陸奥国&lt;br /&gt;
** [[三戸郡]]のうち - 67村&lt;br /&gt;
* 陸奥国（陸中国）&lt;br /&gt;
** 九戸郡のうち - 48村&lt;br /&gt;
** 紫波郡のうち - 4村&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 七戸藩 ===&lt;br /&gt;
* 陸奥国&lt;br /&gt;
** [[北郡]]のうち - 35村&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
=== 注釈 ===&lt;br /&gt;
{{Reflist|group=&amp;quot;†&amp;quot;|}}&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
=== 出典 ===&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=菊池悟郎&lt;br /&gt;
|title=南部史要&lt;br /&gt;
|date=1910-8-28&lt;br /&gt;
|publisher=菊池悟郎&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=青森県史編さん中世部会&lt;br /&gt;
|title=青森県史 資料編 中世 1　南部氏関係資料&lt;br /&gt;
|date=2004-3-31&lt;br /&gt;
|publisher=青森県&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=青森県史編さん中世部会&lt;br /&gt;
|title=青森県史 資料編 中世 2　安藤氏・津軽氏関係資料&lt;br /&gt;
|date=2005-3-31&lt;br /&gt;
|publisher=青森県&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=青森県史編さん近世部会&lt;br /&gt;
|title=青森県史 資料編 近世篇 2 津軽1　前期津軽領&lt;br /&gt;
|date=2002-3-31&lt;br /&gt;
|publisher=青森県&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=青森県史編さん近世部会&lt;br /&gt;
|title=青森県史 資料編 近世篇 3 津軽2　後期津軽領&lt;br /&gt;
|date=2006-3-31&lt;br /&gt;
|publisher=青森県&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=青森県史編さん近世部会&lt;br /&gt;
|title=青森県史 資料編 近世篇 4 南部1　盛岡藩&lt;br /&gt;
|date=2003-3-3&lt;br /&gt;
|publisher=青森県&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=青森県史編さん近世部会&lt;br /&gt;
|title=青森県史 資料編 近世篇 5 南部2　八戸藩&lt;br /&gt;
|date=2011-3-31&lt;br /&gt;
|publisher=青森県&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=青森県史編さん近現代部会&lt;br /&gt;
|title=青森県史 資料編 近現代 2 近代成立期&lt;br /&gt;
|date=2000-3-31&lt;br /&gt;
|publisher=青森県&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=青森県史編さん民俗部会&lt;br /&gt;
|title=青森県史 民俗編 資料 南部&lt;br /&gt;
|date=2001-3-31&lt;br /&gt;
|publisher=青森県&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=青森県史編さん民俗部会&lt;br /&gt;
|title=青森県史 民俗編 資料 下北&lt;br /&gt;
|date=2007-3-31&lt;br /&gt;
|publisher=青森県&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|title=岩手県史 第2巻 中世篇 上&lt;br /&gt;
|date=1961-3-25&lt;br /&gt;
|publisher=岩手県&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|title=岩手県史 第3巻 中世篇 下&lt;br /&gt;
|date=1961-10-20&lt;br /&gt;
|publisher=岩手県&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|title=岩手県史 第5巻 近世篇 2&lt;br /&gt;
|date=1963-1-30&lt;br /&gt;
|publisher=岩手県&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|title=岩手県史 第9巻 近代篇 4 岩手県篇（その2）&lt;br /&gt;
|date=1964-3-30&lt;br /&gt;
|publisher=岩手県&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|title=岩手県史 第10巻 近代篇 5 岩手県篇（その3）&lt;br /&gt;
|date=1965-3-30&lt;br /&gt;
|publisher=岩手県&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|title=岩手県史 第12巻 年表&lt;br /&gt;
|date=1966-11-1&lt;br /&gt;
|publisher=岩手県&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|title=秋田県史 第1巻 古代・中世編&lt;br /&gt;
|date=1977-4-30&lt;br /&gt;
|publisher=秋田県&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=むつ市史編さん委員会&lt;br /&gt;
|title=むつ市史 近世 編&lt;br /&gt;
|date=1988-3-31&lt;br /&gt;
|publisher=青森県むつ市&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=むつ市史編さん委員会&lt;br /&gt;
|title=むつ市史 年表 編&lt;br /&gt;
|date=1988-2-20&lt;br /&gt;
|publisher=青森県むつ市&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=工藤睦男&lt;br /&gt;
|title=大畑町史&lt;br /&gt;
|date=1992-2-1&lt;br /&gt;
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}}&lt;br /&gt;
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|author=川内町史編さん委員会&lt;br /&gt;
|title=川内町史 原始・古代 中世 近世 編&lt;br /&gt;
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}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|title=五所川原市史 通史編Ⅰ&lt;br /&gt;
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|title=矢巾町文化財報告書第31集 久慈文書&lt;br /&gt;
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* {{Cite book|和書&lt;br /&gt;
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|date=1985-12-1&lt;br /&gt;
|publisher=角川書店&lt;br /&gt;
|isbn=4-04-001020-5&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書&lt;br /&gt;
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* {{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=「角川日本地名大辞典」編纂委員会&lt;br /&gt;
|title=角川日本地名大辞典 5 秋田県&lt;br /&gt;
|date=1980-3-8&lt;br /&gt;
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}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=（有）平凡社地方資料センター&lt;br /&gt;
|title=日本歴史地名大系 第2巻 青森県の地名&lt;br /&gt;
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|isbn=4-582-49002-6&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=（有）平凡社地方資料センター&lt;br /&gt;
|title=日本歴史地名大系 第3巻 岩手県の地名&lt;br /&gt;
|date=1990-7-13&lt;br /&gt;
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|isbn=4-582-91022-X&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=（有）平凡社地方資料センター&lt;br /&gt;
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|date=1980-6-6&lt;br /&gt;
|publisher=平凡社&lt;br /&gt;
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}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=児玉　幸阿・坪井　清足&lt;br /&gt;
|title=日本城郭大系　第2巻　青森・岩手・秋田&lt;br /&gt;
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}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=「角川日本姓氏歴史人物大辞典」編纂委員会&lt;br /&gt;
|title=角川日本姓氏歴史人物大辞典 第3巻 「岩手県姓氏歴史人物大辞典」&lt;br /&gt;
|date=1998-5-18&lt;br /&gt;
|publisher=角川書店&lt;br /&gt;
|isbn=4-04-002030-8&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=木村　礎、藤野　保、村上　直&lt;br /&gt;
|title=藩史大辞典　第1巻　北海道・東北編&lt;br /&gt;
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|publisher=[[雄山閣]]&lt;br /&gt;
|isbn=4-639-10033-7&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--　9784582490053　--&amp;gt;&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=松岡孝一&lt;br /&gt;
|title=青森県百科事典&lt;br /&gt;
|date=1981-3-1&lt;br /&gt;
|publisher=[[東奥日報|株式会社東奥日報社]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=岩手放送&lt;br /&gt;
|title=新版 岩手百科事典&lt;br /&gt;
|date=1988-10-15&lt;br /&gt;
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}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=[[秋田魁新報|秋田魁新報社]]&lt;br /&gt;
|title=秋田大百科事典&lt;br /&gt;
|date=1981-9-1&lt;br /&gt;
|publisher=秋田魁新報社&lt;br /&gt;
|isbn=4-87020-007-4&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=細井計、伊藤博幸、菅野文夫、鈴木宏&lt;br /&gt;
|title=岩手県の歴史&lt;br /&gt;
|date=1999-8-17&lt;br /&gt;
|publisher=山川出版社&lt;br /&gt;
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}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=浪川健治&lt;br /&gt;
|title=街道の日本史 4 下北・渡島と津軽海峡&lt;br /&gt;
|date=2001-7-10&lt;br /&gt;
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}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書&lt;br /&gt;
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}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=細川計&lt;br /&gt;
|title=街道の日本史 6 南部と奥州道中&lt;br /&gt;
|date=2002-05-20&lt;br /&gt;
|publisher=吉川弘文館&lt;br /&gt;
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}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=西ヶ谷恭弘&lt;br /&gt;
|title=国別 戦国大名城郭事典&lt;br /&gt;
|date=1999-12-05&lt;br /&gt;
|publisher=東京堂出版&lt;br /&gt;
|isbn=4-490-10533-9&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=地方史研究協議会&lt;br /&gt;
|title=地方史事典&lt;br /&gt;
|date=1997-04-30&lt;br /&gt;
|publisher=弘文館&lt;br /&gt;
|isbn=4-335-25056-8&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=大正十三造&lt;br /&gt;
|title=不来方の賦 -南部藩主物語-&lt;br /&gt;
|date=1987-4-10&lt;br /&gt;
|publisher=岩手日報社&lt;br /&gt;
|isbn=4-87201-015-9&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[南部氏]]&lt;br /&gt;
** [[八戸氏]]&lt;br /&gt;
* [[藩の一覧]]&lt;br /&gt;
** [[八戸藩]]&lt;br /&gt;
** [[七戸藩]]&lt;br /&gt;
* [[諸賞流]]&lt;br /&gt;
* [[柳生心眼流]]&lt;br /&gt;
* [[自剛天真流]]（盛岡藩では「自得天真流」と呼ばれていた）&lt;br /&gt;
* [[盛岡弁]]&lt;br /&gt;
* [[下北弁]]&lt;br /&gt;
* [[田名部おしまこ]]&lt;br /&gt;
* [[南部街道]]&lt;br /&gt;
* [[南部大膳大夫分国之内諸城破却共書上]]&lt;br /&gt;
* [[通 (南部藩)]]&lt;br /&gt;
* [[平成・南部藩]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*国立公文書館 - デジタル・ギャラリー「[http://jpimg.digital.archives.go.jp/jpg_prg/jgmWeb?%TmpFileDisp%env=jpeg2k_images/ezu/kuniezu_tenpo/049_mutsu.env 天保国絵図 陸奥国（南部領）]」&lt;br /&gt;
* [http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763427 国立国会図書館 近代デジタルライブラリー 南部史要]&lt;br /&gt;
* [http://www.bunka.pref.iwate.jp/ 岩手県庁 政策地域部NPO・文化国際課]&lt;br /&gt;
* [http://www.city.morioka.iwate.jp/ 盛岡市役所]&lt;br /&gt;
* [http://www.komonjokan.net/ 近世こもんじょ館]&lt;br /&gt;
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* [http://www.city.mutsu.lg.jp/index.cfm むつ市役所]&lt;br /&gt;
* [http://nippon.zaidan.info/index.html 日本財団 図書館]&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- ** [http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2005/00085/mokuji.htm （日本財団 図書館）記念誌　郡山河岸と小操舟] --&amp;gt;&lt;br /&gt;
===自治体史===&lt;br /&gt;
* [http://www.town.shichinohe.lg.jp/ 青森県上北郡七戸町]&lt;br /&gt;
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** [http://www.vill.yomogita.lg.jp/profile/profile_1_sonshi.html 蓬田村 村のあらまし]&lt;br /&gt;
* [http://www.vill.takizawa.iwate.jp/ 岩手県岩手郡滝沢村]&lt;br /&gt;
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&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{s-start}}&lt;br /&gt;
{{s-bef|before=（[[陸奥国]]）|表記=前}}&lt;br /&gt;
{{s-ttl|title=行政区の変遷&lt;br /&gt;
|years=[[1600年]] - [[1868年]] / [[1870年]]&amp;lt;br&amp;gt;|years2=盛岡藩→盛岡県}}&lt;br /&gt;
{{s-aft|after=[[岩手県]]&amp;lt;hr /&amp;gt;[[三戸県|八戸県]]（第1次）・[[江刺県]]|表記=次}}&lt;br /&gt;
{{s-bef|before=（陸奥国）|表記=前}}&lt;br /&gt;
{{s-ttl|title=行政区の変遷&lt;br /&gt;
|years=[[1664年]] - [[1871年]]&amp;lt;br&amp;gt;|years2=八戸藩・七戸藩→八戸県・七戸県}}&lt;br /&gt;
{{s-aft|after=[[青森県]]|表記=次}}&lt;br /&gt;
{{end}}&lt;br /&gt;
{{奥羽越列藩同盟}}&lt;br /&gt;
{{江戸時代の藩}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:もりおかはん}}&lt;br /&gt;
[[Category:藩]]&lt;br /&gt;
[[Category:南部藩|藩]]&lt;br /&gt;
[[Category:南部氏|藩]]&lt;br /&gt;
[[Category:陸中国|藩]]&lt;br /&gt;
[[Category:陸奥国|藩]]&lt;br /&gt;
[[Category:岩手県の歴史|藩]]&lt;br /&gt;
[[Category:青森県の歴史|藩]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E6%A6%8A%E5%8E%9F%E6%94%BF%E9%82%A6&amp;diff=210425</id>
		<title>榊原政邦</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E6%A6%8A%E5%8E%9F%E6%94%BF%E9%82%A6&amp;diff=210425"/>
		<updated>2014-07-28T01:31:10Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{統合文字|榊}}&lt;br /&gt;
{{基礎情報 武士&lt;br /&gt;
| 氏名 = {{JIS90フォント|榊}}原 政邦 &lt;br /&gt;
| 時代 = [[江戸時代]] &lt;br /&gt;
| 生誕 = [[延宝]]3年[[9月21日 (旧暦)|9月21日]]（[[1675年]][[11月8日]]）&lt;br /&gt;
| 死没 = [[享保]]11年[[11月14日 (旧暦)|11月14日]]（[[1726年]][[12月7日]]）&lt;br /&gt;
| 改名 = &lt;br /&gt;
| 別名 = 虎之助、勝乗、政辰&lt;br /&gt;
| 諡号 =&lt;br /&gt;
| 戒名 =  &lt;br /&gt;
| 墓所 = [[兵庫県]][[姫路市]]の[[増位山 (兵庫県)|増位山]][[随願寺]]&lt;br /&gt;
| 官位 = &lt;br /&gt;
| 幕府 = [[江戸幕府]]&lt;br /&gt;
| 主君 = &lt;br /&gt;
| 藩   = &lt;br /&gt;
| 氏族 = &lt;br /&gt;
| 父母 = 父：[[榊原勝直]]、養父：&#039;&#039;[[榊原政倫]]&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| 兄弟 = &#039;&#039;&#039;政邦&#039;&#039;&#039;、[[榊原勝治|勝治]]&lt;br /&gt;
| 妻   = 正室：[[鍋島綱茂]]の娘、側室：実相院&lt;br /&gt;
| 子   = 長男、&#039;&#039;&#039;[[榊原政祐|政祐]]&#039;&#039;&#039;、国姫（[[南部利視]]正室）、&amp;lt;br/&amp;gt;孝子（[[酒井忠恭]]正室）、娘（[[青山忠朝]]正室）、&amp;lt;br/&amp;gt;娘（[[水野勝庸]]正室）&lt;br /&gt;
| 特記事項 =&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;榊原 政邦&#039;&#039;&#039;（さかきばら まさくに）は、[[江戸時代]]中期の[[大名]]。[[越後国|越後]][[村上藩]]第2代藩主。[[播磨国|播磨]][[姫路藩]]初代藩主。榊原家6代当主。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
分家の旗本1,000石・[[榊原康勝]]の庶子・[[榊原勝政]]の子の[[榊原勝直]]の長男として誕生する。榊原本家の政倫の養嗣子となり、越後村上藩を相続、その後に姫路藩に転封となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
*[[1675年]]（[[延宝]]3年） - 生まれ&lt;br /&gt;
*[[1683年]]（[[天和 (日本)|天和]]3年） - 榊原家相続&lt;br /&gt;
*[[1704年]]（[[宝永]]元年） - [[播磨国|播磨]][[姫路藩|姫路]]に国替（[[5月28日 (旧暦)|5月28日]]）&lt;br /&gt;
*[[1716年]]（[[正徳 (日本)|正徳]]6年） - [[男山八幡宮 (姫路市)|男山八幡宮]]社殿を建て替え新築。&lt;br /&gt;
*[[1726年]]（[[享保]]11年） - 死去、享年52&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 官位位階 ==&lt;br /&gt;
*[[1689年]]（[[元禄]]2年） ：従五位下式部大輔&lt;br /&gt;
*[[1692年]]（元禄5年） ：従四位下&lt;br /&gt;
*[[1711年]]（[[正徳 (日本)|正徳]]元年）：侍従&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 榊原政邦の墓所 ==&lt;br /&gt;
榊原政邦およびその夫人と側室実相院の墓は、[[兵庫県]][[姫路市]]の[[増位山 (兵庫県)|増位山]][[随願寺]]にある。政邦と夫人の希望によりここに葬られ、また側室実相院の墓もあり、実相院の墓は夫人病治癒祈願の墓としても祀られている&amp;lt;ref&amp;gt;随願寺にある政邦の墓所についての案内板より。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
image:Grave of Sakakibara Masakuni and wife 01.jpg|政邦夫妻の墓。&lt;br /&gt;
image:Grave of Sakakibara Masakuni 03.jpg|政邦の墓。&lt;br /&gt;
image:Grave of Sakakibara Masakuni and wife 02.jpg|手前が夫人の墓、奥が政邦の墓。&lt;br /&gt;
image:Grave gate of Sakakibara Masakuni and wife 02.jpg|夫妻の墓の前の石扉。&lt;br /&gt;
image:Grave of Jissouin 04.jpg|側室、実相院の墓。&lt;br /&gt;
image:Grave of Jissouin 02.jpg|実相院の墓に刻まれた戒名。&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www.city.himeji.lg.jp/s110/2212786/_5222/_5250/_5256/_8218.html 榊原政邦墓所]－姫路市のウェブサイト&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{村上藩主|榊原氏|2代|1683年 - 1704年}}&lt;br /&gt;
{{姫路藩主|榊原氏|初代|1704年 - 1726年}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:さかきはら まさくに}}&lt;br /&gt;
[[Category:榊原氏|まさくに]]&lt;br /&gt;
[[Category:譜代大名]]&lt;br /&gt;
[[Category:姫路藩主]]&lt;br /&gt;
[[Category:村上藩主]]&lt;br /&gt;
[[Category:1675年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1711年没]]&lt;br /&gt;
{{Japanese-history-stub}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%AE%97%E7%9C%8B_(3%E4%BB%A3)&amp;diff=194342</id>
		<title>伊藤宗看 (3代)</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%AE%97%E7%9C%8B_(3%E4%BB%A3)&amp;diff=194342"/>
		<updated>2014-07-28T01:28:45Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: /* 経歴 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{出典の明記|date=2013年2月|ソートキー=人1761年没}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;三代伊藤宗看&#039;&#039;&#039;（さんだいいとうそうかん、[[1706年]]（[[宝永]]3年）－[[1761年]][[6月2日]]（[[宝暦]]11年[[4月29日 (旧暦)|4月29日]]））は[[江戸時代]]の[[将棋指し]]。&#039;&#039;&#039;[[名人 (将棋)|七世名人]]&#039;&#039;&#039;。将棋三家の一つである[[伊藤家]]当主。別名に政長、印寿。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父は五世名人[[伊藤宗印 (2代)|二代伊藤宗印]]（次男）。兄に伊藤印達（五段）。弟に[[大橋宗桂 (8代)|八代大橋宗桂]]（八段）、伊藤看恕（七段）、[[伊藤看寿|初代伊藤看寿]]（八段、贈名人）。子に四代伊藤得寿（五段）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
指し将棋、[[詰将棋]]ともに優れ、「鬼宗看」とも呼ばれる。[[御城将棋]]では、18勝6敗1持将棋と圧倒的な強さを誇った（名人就位前の戦績は10勝1敗）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
兄の印達は四世名人[[大橋宗桂 (5代)|五代大橋宗桂]]の時代である[[正徳 (日本)|正徳]]2年（[[1712年]]）に夭折したため、次男の印寿が伊藤家の後継となる。それまでの印寿は将棋に関心を示さず、武事のみに熱中していたが、印達の死後には見違えるように将棋に打ち込むようになったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父の二代宗印は正徳3年（[[1713年]]）に五代宗桂の死を受けて五世名人となった。印寿は[[享保]]元年（[[1716年]]）に11歳・初段で[[御城将棋]]に初出勤し、[[大橋宗与 (3代)|三代大橋宗与]]に飛車落とされで対戦し勝利した。享保8年（[[1723年]]）、父の二代宗印が死去し、18歳で伊藤家を継ぐ。翌享保9年（[[1724年]]）に三代宗看を襲名した。享保12年（[[1727年]]）に八段に昇段。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父の死後に名人位を襲っていた六世名人三代大橋宗与は実子の宗民（後の四代宗与）を宗看と競わせるように御城将棋に出勤させたため、宗看の初期の対戦は宗民とのものが多い。三代宗与が享保13年（[[1728年]]）4月5日に死去すると、同年のうちに図式献上のないまま23歳で七世名人を就位した&amp;lt;ref&amp;gt;『象戯作物』序文を書いた[[林信充]]は、図式献上前の公命での名人襲位は三代宗看のみであるとする。&amp;lt;/ref&amp;gt;。享保19年（[[1734年]]）に『象戯作物』を提出&amp;lt;ref&amp;gt;門脇芳雄は、名人襲位前後に図式の創作を開始したのではないか、と推測している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
享保20年&amp;lt;ref&amp;gt;対局日時は角落ち番は5月17日、香落ち番は6月2日で、既に元文年号に改元している。&amp;lt;/ref&amp;gt;（[[1735年]]）には、[[名村立摩]]と七段昇段をかけて角香交じりで対戦し、香落ち番では「立摩流」に敗れたものの角落ち番で勝利し、立摩に七段昇段を断念させたという&amp;lt;ref&amp;gt;宗看に香落ち番で勝利した翌日に、八代宗桂と平手で対戦している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[元文]]2年（[[1737年]]）5月には「碁将棋席次争い」を起こした。それまでは御城碁将棋の席順（つまり上下関係）は伝統として[[囲碁|碁]]の[[家元]]が上、将棋の家元を下とするものであったが、宗看らはそれを変更しようとしていた。その頃は碁の家元は傑出した人物が出ず、低迷していたのに対し、将棋の家元は宗看を筆頭に、弟の宗桂、看寿らがおり、さらに奉行側のうち、[[井上正之|井上河内守]]・[[松平信岑|松平紀伊守]]が宗看の門人であったため、勢いとしては、宗看の意見が通りそうであった。が、旧守派の[[大岡忠相|大岡越前守]]が「そのまま」の判決を下したため、碁の家元側は命拾いした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元文5年（[[1740年]]）に実子の得寿が誕生する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[延享]]2年（[[1745年]]）に、後継者と定めた弟の看寿と、八段で宗看に次ぐ実力者の四代宗与が右香落ちで対戦し、看寿が勝利した。この時に看寿が放った金底の歩の名手を見て、看寿の勝ちを確信した宗看が魚釣りに出かけたという逸話がある（魚釣りの歩）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長く御城将棋では手明が続いていた宗看であったが&amp;lt;ref&amp;gt;寛保2年（[[1742年]]）に宗看の自宅で四代宗与と左香落ちで対戦した棋譜が存在するが、御城将棋の内調譜とはみなされていないという。&amp;lt;/ref&amp;gt;、寛延元年（[[1748年]]）に久しぶりに御城将棋に出勤している（右香落ちで四代宗与に勝利。）。宝暦2年（[[1752年]]）に5年ぶりに出勤し八代宗桂に右香落ちで勝利。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[宝暦]]3年（[[1753年]]）に兄の八代宗桂との平手戦に勝利した看寿は翌宝暦4年（[[1754年]]）に宗桂に先んじて八段に昇段し、翌宝暦5年（[[1755年]]）には献上図式（[[将棋図巧]]）を作成した。こうして看寿が次期将棋所に内定したとされる。同年には甥の大橋印寿（八代宗桂の子、後の[[大橋宗桂 (9代)|九代宗桂]]）が御城将棋に初出勤するなど全盛期を迎えていた伊藤家であったが、宝暦10年（[[1760年]]）には弟の看恕と看寿が相次いで没し、翌宝暦11年（[[1761年]]）4月29日には宗看もまた56歳で没する。法名は玉将院宗看源立日盤。墓所は東京本所の本法院にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
晩年は権勢の高さに溺れて棋力も衰え勝ちであったといわれる&amp;lt;ref&amp;gt;山本享介は、継母との関係が悪く酒色に溺れていたのではないかとしている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
名人位は初めての空位となった。伊藤家は実子の得寿が継いだが、宝暦13年（[[1763年]]）10月29日に24歳で没したため、鳥飼忠七が養子に迎えられ五代伊藤宗印を名乗ることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『将棋営中日記』によると、十一代大橋宗桂は「代々の名人の内にては三代宗看第一の由」「宗看の将棋はすがたいかにも位高きといへり」と高く評価している。また同書の別の項では、[[大橋宗英 (6代)|六代大橋宗英]]に次ぐ第二位とされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 詰将棋 ==&lt;br /&gt;
宗看の残した[[詰将棋]]作品集『象戯作物』（俗称：『詰むや詰まざるや』『将棋無双』）は、詰将棋史上の傑作とされる。これにより、詰将棋の水準は格段に上がったとされる。『象戯作物』は、八段昇段が早かったため異例の名人就位6年後に献上された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==象戯作物（将棋無双）==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
古今で最も難解とも言われるほどの作品集で、弟の看寿の「将棋図巧」と並んで詰将棋の最高峰とまでいわれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、「象戯作物」の解答本はほとんど世に出回らなかったため、詰むかどうか長年棋界の謎とされてきた（解答は載っていなかった）が、[[昭和]]40年代に、[[征夷大将軍|将軍]]に献上した原本が[[皇居]]内の[[内閣文庫]]で発見されるに至り、解決に至った（原本には解答が付いていた）。これにより、最初から詰まない何題かがあったことが分かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===代表的な作品===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;十二番&#039;&#039;&#039;：盤上に攻め方がない「無仕掛」&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;三十番&#039;&#039;&#039;：古来より神局とよばれた奇跡のように美しい傑作&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;百番&#039;&#039;&#039;：象戯作物のトリを飾る超大作。「大迷路」の名の通り超難解である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==棋譜==&lt;br /&gt;
{{Shogi diagram|tright|=&lt;br /&gt;
|大橋宗民|=&lt;br /&gt;
|lg|  |  |  |  |  |kg|ng|lg|=&lt;br /&gt;
|  |  |  |  |  |  |gg|  |  |=&lt;br /&gt;
|  |  |  |  |  |gg|  |pg|  |=&lt;br /&gt;
|pg|rg|  |  |pg|pg|ps|  |pg|=&lt;br /&gt;
|  |  |  |  |  |ps|  |ps|  |=&lt;br /&gt;
|ps|ps|pg|bg|ps|  |  |  |  |=&lt;br /&gt;
|  |gs|ps|sg|  |  |  |  |  |=&lt;br /&gt;
|  |ks|  |  |  |  |rs|  |  |=&lt;br /&gt;
|ls|ns|  |  |  |  |  |ns|ls|=&lt;br /&gt;
|伊藤宗看}}&lt;br /&gt;
[[1725年]]（[[享保]]10年）、20歳の宗看は17歳の大橋宗民（後の四代宗与）と指した御城将棋の一局で宗看が指した▲3五桂という一着について、その将棋を収録した『日本将棋大系』で該当巻の解説担当の[[大山康晴]]十五世名人は「絶妙手である」と断言した。さらに『将棋世界』で連載された「イメージと読みの将棋観」でもこの将棋が取り上げられ、[[羽生善治]]、[[谷川浩司]]、[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]、[[佐藤康光]]、[[森内俊之]]、[[藤井猛]]という現代のトップクラスの棋士たちは一様に驚嘆の声を上げ、絶賛している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「局面も現代風だし、今の実戦譜だとしても全然おかしくない。江戸時代の将棋はほとんど知らないんですが、強い部分はけた違いに強いという気がする」（羽生）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[名人 (将棋)]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考資料 ==&lt;br /&gt;
*[[大山康晴]]『日本将棋大系　第5巻　三代伊藤宗看』（[[筑摩書房]]、1978年）&lt;br /&gt;
**山本享介「人とその時代五（三代伊藤宗看）」（同書247頁所収）&lt;br /&gt;
*原田泰夫『日本将棋大系　第6巻　伊藤看寿』（筑摩書房、1979年）&lt;br /&gt;
**山本享介「人とその時代六（伊藤看寿）」（同書249頁所収）&lt;br /&gt;
*鈴木宏彦『イメージと読みの将棋観』（[[日本将棋連盟]]、2008年）169-180頁&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://park6.wakwak.com/~k-oohasi/shougi/ 詰将棋博物館] 象戯作物（館では将棋無双）の全作品。&lt;br /&gt;
*[http://www.shogi.or.jp/kansai/museum/ito.html 伊藤家の紹介]（関西将棋会館ホームページ）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{将棋永世名人|七世|1728 - 1761}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:いとう そうかん}}&lt;br /&gt;
[[Category:江戸時代の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:歴史上の将棋指し]]&lt;br /&gt;
[[Category:詰将棋]]&lt;br /&gt;
[[Category:1706年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1761年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E4%BA%95%E4%BC%8A%E7%9B%B4%E8%88%88&amp;diff=188666</id>
		<title>井伊直興</title>
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		<updated>2014-07-28T01:27:24Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{基礎情報 武士&lt;br /&gt;
| 氏名 = 井伊 直興&lt;br /&gt;
| 画像 = Naooki Ii.jpg&lt;br /&gt;
| 画像サイズ =&lt;br /&gt;
| 画像説明 = &lt;br /&gt;
| 時代 = [[江戸時代]]前期 - 中期&lt;br /&gt;
| 生誕 = [[明暦]]2年[[3月6日 (旧暦)|3月6日]]（[[1656年]][[3月31日]]）&lt;br /&gt;
| 死没 = [[享保]]2年[[4月20日 (旧暦)|4月20日]]（[[1717年]][[5月30日]]）&lt;br /&gt;
| 改名 = 吉十郎（幼名）、直興、直治、直該&lt;br /&gt;
| 別名 = 長寿公（渾名）、覚翁、全翁（法名）&lt;br /&gt;
| 戒名 = 長寿院覚翁知性&lt;br /&gt;
| 墓所 = [[永源寺]]（[[滋賀県]][[東近江市]]）&lt;br /&gt;
| 官位 = [[正四位|正四位上]][[近衛府|左中将]]、[[掃部寮|掃部頭]]&lt;br /&gt;
| 幕府 = [[江戸幕府]][[大老]]&lt;br /&gt;
| 主君 = [[徳川家綱]]→[[徳川綱吉|綱吉]]→[[徳川家宣|家宣]]→[[徳川家継|家継]]&lt;br /&gt;
| 藩   = [[近江国|近江]][[彦根藩]]主（第4代、第7代）&lt;br /&gt;
| 氏族 = [[井伊氏]]&lt;br /&gt;
| 父母 = 父：[[井伊直縄]]、母：桜井氏&amp;lt;br/&amp;gt;養父：&#039;&#039;[[井伊直澄]]&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| 兄弟 = &#039;&#039;&#039;直興&#039;&#039;&#039;、妹（[[阿部正武]]正室）&amp;lt;br/&amp;gt;妹（[[中野清三]]正室）&lt;br /&gt;
| 妻   = [[正室]]：なし&amp;lt;br/&amp;gt;[[側室]]：平石氏、田山氏、玉米氏、大橋氏&lt;br /&gt;
| 子   = [[井伊直通|&#039;&#039;&#039;直通&#039;&#039;&#039;]]、[[井伊直恒|直恒]]、[[井伊直矩|直矩]]、[[井伊直惟|&#039;&#039;&#039;直惟&#039;&#039;&#039;]]、[[井伊直定|直定]]、娘（[[井伊直朝]]室）、娘（[[阿部正喬]]室）、娘（[[三条公充]]室）、娘（[[木俣守吉]]室、後に[[木俣守嘉]]室）、娘（松平康弘室）、娘（印具保重室）&lt;br /&gt;
| 特記事項 = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;井伊 直興&#039;&#039;&#039;（いい なおおき）は、[[江戸時代]]前期から中期の[[譜代大名]]。[[江戸幕府]][[大老]]。[[近江国|近江]][[彦根藩]]の第4代藩主および第7代藩主。&#039;&#039;&#039;直治&#039;&#039;&#039;（なおはる）、&#039;&#039;&#039;直該&#039;&#039;&#039;（なおもり）とも名乗る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[井伊直縄]]（第2代藩主・[[井伊直孝]]の四男）の長男。母は桜居氏。正室はなし。側室は平石氏、田山氏、玉米氏、大橋氏。子に[[井伊直通|直通]]（次男）、[[井伊直恒|直恒]]（三男）、[[井伊直矩|直矩]]（四男）、[[井伊直惟|直惟]]（五男）、[[井伊直定|直定]]（六男）、娘（[[井伊直朝]]正室）、娘（[[阿部正喬]]正室）、娘（[[三条公充]]室）、娘（[[木俣守吉]]室、後に[[木俣守嘉]]室）、娘（松平康弘室）、娘（印具保重室）ら。幼名は吉十郎。官位は[[正四位|正四位上]][[近衛府|左中将]]、[[掃部寮|掃部頭]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
明暦2年（1656年）3月6日生まれ。父・直縄は伯父の[[井伊直滋]]が[[万治]]元年（[[1658年]]）に祖父直孝に廃嫡された後に世子とされたが、同年に間もなく逝去した。その後、叔父の[[井伊直澄]]が世子となり祖父の死後家督を継いだ。直澄には子（[[中野宣明]]）はいたが、直孝が遺言で直縄の子である直興に後を継がせるように言い残していたため、[[寛文]]12年（[[1672年]]）[[11月27日 (旧暦)|11月27日]]に直澄の養子になり、[[延宝]]4年（[[1676年]]）の直澄の死去により家督を継いだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彦根での治世は、延宝6年（[[1678年]]）に困窮と拝借金の支給を訴えた藩士76人を追放、翌7年（[[1679年]]）に家中法度を定め、家臣に対して厳しく統制を行った。また、下屋敷（欅御殿）に[[楽々園]]、[[瀟湘八景]]や[[近江八景]]を模した[[玄宮園]]を建造し&amp;lt;ref&amp;gt;欅御殿のうち建物部分を楽々園、庭園部分を玄宮園とする。[[昭和]]26年（[[1951年]]）、国名勝に指定。&amp;lt;/ref&amp;gt;、領内の[[琵琶湖]]に面した松原港・長曾根港を改築するなど土木事業に熱心であった。藩士への救済・引き締めも図り、[[貞享]]2年（[[1685年]]）には一転して藩士に対する融資制度を開始、[[元禄]]4年（[[1691年]]）には家老の[[木俣守長]]に命じて藩士の家系や由緒を集めて「侍中由緒書」を編纂、元禄6年（[[1693年]]）に藩士に対して上米を命じた。元禄10年（[[1697年]]）[[1月11日 (旧暦)|1月11日]]には追放した藩士76人に帰参を命じたり&amp;lt;ref&amp;gt;但し、すぐに帰参できた者は23人で、残りの53人は病気、既に死去、行方不明になっていた。[[山上降太]]『元禄・正徳期の御大老 井伊直興と直該』（[[郁朋社]]、2009年）P88 - P95。&amp;lt;/ref&amp;gt;、元禄12年（[[1699年]]）に彦根藩で飢饉が発生した時は救米支援をしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
延宝8年（[[1680年]]）、[[伺候席|溜間詰]]となり、[[徳川綱吉]]が第5代[[征夷大将軍|将軍]]に任じられた[[朝廷]]への返礼の使者を務めた。また元禄元年（[[1688年]]）11月には[[日光東照宮]]の改修総奉行に任命され、翌2年（[[1689年]]）7月から3年（[[1690年]]）7月にかけて[[仙台藩]]主・[[伊達綱村]]と協力して大規模な修復を果たして功を挙げたため、元禄8年（[[1695年]]）[[11月28日 (旧暦)|11月28日]]に江戸城御用部屋入りを命ぜられ[[老中]]待遇となり、元禄10年[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]には大老となった。しかし、3年後の元禄13年（[[1700年]]）[[3月2日 (旧暦)|3月2日]]に病を理由に辞任して国に帰り&amp;lt;ref&amp;gt;辞任の理由は、元禄10年2月に計画されていた日光社参の財源確保のために大老に登用されながら実現できなかったためとしている。また、延宝8年から務めていた将軍・綱吉の参詣先導役が元禄11年（[[1698年]]）[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]から途絶えているが、任務を達成できないため病気になったともされている。山上（2009年）P198 - P203、P221 - P226、P235 - P238。&amp;lt;/ref&amp;gt;、翌14年（[[1701年]]）[[3月5日 (旧暦)|3月5日]]に次男の[[井伊直通|直通]]に家督を譲って隠居した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年12月に直治と名を改めたが、直通が[[宝永]]7年（[[1710年]]）7月に22歳で早世したため、三男の[[井伊直恒|直恒]]に跡を継がせたが、彼も同年10月に間もなく早世した。このため次の男子が成長するまで、剃髪して覚翁と号していたのを[[還俗]]して直該と改め、再び家督を継いで藩主となった。さらに翌年の[[正徳 (日本)|正徳]]元年（[[1711年]]）[[2月13日 (旧暦)|2月13日]]に大老に再任し、官位も正四位上中将まで進んでいる。これは当時、[[徳川家宣]]が第6代将軍に就任して間もない時期で、幕臣筆頭の立場である井伊家が政権に加わることで安定化を図る目的があったことが理由の1つと考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
正徳2年（[[1712年]]）10月14日に家宣が死去、翌3年（[[1713年]]）[[3月26日 (旧暦)|3月26日]]に家宣の息子・[[徳川家継|家継]]が元服すると[[烏帽子親]]を務めた。正徳4年（[[1714年]]）[[2月15日 (旧暦)|2月15日]]に5男の[[井伊直惟|直惟]]が[[元服]]すると[[2月23日 (旧暦)|2月23日]]に大老を辞任、直惟に家督を譲って隠居し、名を直興に戻した後、翌5年（[[1715年]]）12月に出家して全翁と改めた。また末子の[[井伊直定|直定]]にも1万石を分知し、[[彦根藩#彦根新田藩|彦根新田藩]]を創設した。享保2年（1717年）4月20日、彦根にて62歳で死去した。遺骸は歴代藩主とは別に永源寺（[[東近江市]]）に葬られた。戒名は長寿院覚翁知性。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
四男の[[井伊直矩|直矩]]は同族の[[遠江国|遠江]][[掛川藩]]主・[[井伊直朝]]の養嗣子となり、宝永3年（[[1706年]]）に[[越後国|越後]][[与板藩]]に移封された。また、家臣と娘との間に生まれた[[外孫]]の[[井伊直員]]も与板藩主になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
※日付＝旧暦&lt;br /&gt;
* [[1672年]]（[[寛文]]）12年&lt;br /&gt;
**11月26日、世継ぎとなる。&lt;br /&gt;
**12月28日、従四位下に叙位。侍従に任官し、玄蕃頭を兼任。諱は直之。&lt;br /&gt;
* [[1676年]]（[[延宝]]4年）2月23日、家督相続し、藩主となる。&lt;br /&gt;
*[[1678年]]（延宝8年）&lt;br /&gt;
**9月6日、玄蕃頭を掃部頭に任替。&lt;br /&gt;
**10月14日、左近衛権少将に転任。掃部頭の兼任は留任。&lt;br /&gt;
* [[1697年]]（[[元禄]]10年）6月13日、幕府の大老となる。&lt;br /&gt;
* [[1700年]]（元禄13年）3月2日、大老は御役御免。&lt;br /&gt;
* [[1701年]]（元禄14年）&lt;br /&gt;
**3月5日、隠居。&lt;br /&gt;
**5月、諱を直治と改める。&lt;br /&gt;
**12月18日、掃部頭を右衛門大夫に任替。&lt;br /&gt;
* [[1710年]]（[[宝永]]7年）&lt;br /&gt;
**5月、出家し、覚翁を号す。&lt;br /&gt;
**11月13日、再家督相続。右衛門大夫を掃部頭に任替。&lt;br /&gt;
* [[1711年]]（[[正徳 (日本)|正徳]]元年）&lt;br /&gt;
**2月13日、再度、大老となる。&lt;br /&gt;
**5月21日、諱を直該と改める。&lt;br /&gt;
**10月1日、正四位上に昇叙し、左近衛権中将に転任。掃部頭の兼任は留任。&lt;br /&gt;
* [[1714年]]（正徳4年）&lt;br /&gt;
**2月13日、大老を辞職。&lt;br /&gt;
**2月23日、隠居し、掃部頭を右衛門督に任替し、諱を直興と改める。&lt;br /&gt;
**12月23日、出家し、全翁を号す。&lt;br /&gt;
* [[1717年]]（[[享保]]2年）4月20日、卒去（享年62）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
※参考資料＝「柳営補任」、児玉幸多監修・新田完三編「内閣文庫蔵　諸侯年表」東京堂出版、「系図纂要」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物 ==&lt;br /&gt;
* 2度大老を務め、家督を継ぐことも2度、改名することは4度とめまぐるしい生涯を送った。また、歴代藩主の中では長命であったため「長寿公」と称され、[[井伊直政]]・直孝父子に次ぐ[[井伊氏]]の中興の祖と評価されている。[[幕末]]の[[井伊直弼]]も尊敬し、手本としていた。&lt;br /&gt;
* 元禄8年に領内全ての領民（約27万人）から1文ずつの奉加金を集めて彦根城の北東方向（[[鬼門]]）に長寿院&amp;lt;ref&amp;gt;真言宗醍醐派の寺。[[日本三大弁天|日本三大弁財天]]の1つとされる弁財天坐像を安置。楼門の扉を額縁に見立てたように真正面に[[彦根城]]を臨める。&amp;lt;/ref&amp;gt;（大洞弁財天）を建立し、甲良大工によって東照宮修復で得た技術が惜しみなく注がれ、極彩色で欄間に眠り猫や象の彫刻があることから「彦根日光」と称される壮麗な造りとなった。&lt;br /&gt;
* 譜代大名で[[能楽]]に興味がある家は珍しかったが、第5代将軍・[[徳川綱吉|綱吉]]が大の能楽好きであったため、直興は貞享3年（[[1686年]]）に55人もの[[能役者]]を一斉に召し抱えている。しかし後に元禄14年の隠居の時に1人を除いて全員解雇している。&lt;br /&gt;
* 大老在任中には第7代将軍・[[徳川家継|家継]]の継嗣問題や[[江島生島事件]]などに対処している。また天和元年（[[1681年]]）には不行跡を咎められて改易された[[酒井忠能]]を預かっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* [[山上降太]]『元禄・正徳期の御大老 井伊直興と直該』（[[郁朋社]]、2009年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[土芥寇讎記]]&lt;br /&gt;
* [[正徳の治]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{彦根藩主|4、7代|1676年 - 1701年、1710年 - 1714年}}&lt;br /&gt;
{{江戸幕府大老}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:いい なおおき}}&lt;br /&gt;
[[Category:井伊氏|なおおき]]&lt;br /&gt;
[[Category:彦根藩主|*04]]&lt;br /&gt;
[[Category:江戸幕府大老]]&lt;br /&gt;
[[Category:還俗した人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1656年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1717年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E6%9C%B1%E8%88%9C%E6%B0%B4&amp;diff=182563</id>
		<title>朱舜水</title>
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		<updated>2014-07-28T01:19:29Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: /* 略歴 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[画像:Shu Shunsui.jpg|thumb|朱舜水像]]&lt;br /&gt;
[[File:Zhu Zhi-Yu.jpg|thumb|朱舜水像]]&lt;br /&gt;
[[File:Zhu Shunshi&#039;s monument in Tokyo University.jpg|thumb|[[東京大学]]農学部内には“朱舜水先生終焉之地”と記された碑がある]]&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;朱 舜水&#039;&#039;&#039;（しゅ しゅんすい、[[万暦]]28年[[10月12日 (旧暦)|10月12日]]（[[1600年]][[11月17日]]） - [[天和 (日本)|天和]]2年[[4月17日 (旧暦)|4月17日]]（[[1682年]][[5月24日]]））は、[[明]]の[[儒学]]者である。[[江戸時代]]初期に来日。舜水は号。[[諱]]は&#039;&#039;&#039;之瑜&#039;&#039;&#039;、[[字]]は楚嶼・魯璵。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 略歴 ==&lt;br /&gt;
[[浙江省]][[餘姚]]に生まれる。中国では[[李自成]]の乱により[[崇禎]]17年（[[1644年]]）に明朝が滅亡し、李自成は満州民族に駆逐され新王朝である[[清]]朝が成立する。舜水は仕官はしていなかったものの鄭親子など明朝遺臣が華南を中心に明朝再興のため活動を開始すると運動に参加し、軍資金を得るため日本やヴェトナムへも渡り貿易などを行い、[[南明]]政権の[[朱以海|魯王]]や、台湾に拠った[[鄭成功]]を支援し、[[永暦 (南明)|永暦]]13年（[[1659年]]）7月の[[南京]]攻略戦にも参加している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
舜水は鄭成功が鎖国政策下の日本へ救援を求める日本請援使として派遣されていたが、南京攻略戦の敗退後、[[万治]]2年（[[1659年]]）冬に復明運動を諦めて日本の[[長崎]]へ亡命する。万治3年（1660年）には[[筑後国|筑後]][[柳河藩]]の儒者・[[安東省菴]]に援助され、流寓生活を送る。明末清初の時期には中国から日本へ多くの[[文人]]が渡来し、大名家では彼らを招聘することが行われていたが、[[寛文]]5年（1665年）6月には[[常陸国|常陸]][[水戸藩]]主の[[徳川光圀]]が[[彰考館]]員の小宅処斎を派遣して舜水を招聘し、同年7月には[[江戸]]に移住する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
光圀は舜水を敬愛し、[[水戸学]]へ思想的影響を与えたほか、光圀の就藩に際しては水戸へも赴いており、光圀の修史事業（後に『[[大日本史]]』と命名）の編纂に参加した[[安積澹泊]]や、[[木下道順]]、[[山鹿素行]]らの学者とも交友し、漢籍文化を伝える。83歳で死去。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
死後には光圀により遺稿の編纂が行われ、[[正徳 (日本)|正徳]]5年（[[1715年]]）には『舜水先生文集』全28巻としてまとめられる。[[東京大学]]農学部内には“朱舜水先生終焉之地”と記された碑がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
墓所は水戸藩主累代の墓地である[[瑞龍山]]（[[茨城県]][[常陸太田市]]）で、明朝様式の墓が建てられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 著作 ==&lt;br /&gt;
*朱謙之 編『朱舜水集』上、下（[[中華書局]]、[[昭和]]56年（[[1981年]]）） ISBN 7-101-00708-2&lt;br /&gt;
*徐興慶 編『新訂朱舜水集補遺』（[[台湾大学]]出版中心、[[平成]]16年（[[2004年]]）） ISBN 957-01-8826-X&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 伝記 ==&lt;br /&gt;
*[[石原道博]]『朱舜水』（[[吉川弘文館]]人物叢書、平成元年（[[1989年]]）新装版） ISBN 4-642-05179-1&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 朱舜水記念館 ==&lt;br /&gt;
*日本に亡命するまで暮らした[[上海市]][[松江区]]に「[[朱舜水記念館]]」がある。朱舜水を日中友好交流の先駆者として、[[1990年]]に開館した。&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[日本乞師]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しゆ しゆんすい}}&lt;br /&gt;
[[Category:中国の儒学者]]&lt;br /&gt;
[[Category:17世紀の学者]]&lt;br /&gt;
[[Category:明代の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:江戸時代の外国人]]&lt;br /&gt;
[[Category:水戸学]]&lt;br /&gt;
[[Category:水戸藩の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:寧波出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1600年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1682年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
	</entry>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E5%8C%97%E5%89%8D%E8%88%B9&amp;diff=135531</id>
		<title>北前船</title>
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		<updated>2014-07-28T01:12:12Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: /* 北前船の寄港地 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[File:Michinoku Maru 01.jpg|thumb|200px|復元北前船 みちのく丸]]&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;北前船&#039;&#039;&#039;（きたまえぶね）とは、[[江戸時代]]から[[明治]]時代にかけて活躍した主に買積み[[廻船]]の名称。買積み廻船とは商品を預かって[[運送]]をするのではなく、航行する[[船主]]自体が商品を買い、それを売買することで利益を上げる廻船のことを指す。当初は[[近江商人]]が主導権を握っていたが、後に船主が主体となって[[貿易]]を行うようになる。上りでは[[対馬海流]]に抗して、[[北陸地方|北陸]]以北の[[日本海]]沿岸諸[[港]]から[[下関]]を経由して[[瀬戸内海]]の[[大坂]]に向かう[[航路]]（下りはこの逆）及び、この航路を行きかう[[船]]のことである。&#039;&#039;&#039;西廻り航路&#039;&#039;&#039;の通称でも知られ、航路は後に[[蝦夷地]]（[[北海道 (令制)|北海道]]・[[樺太]]）にまで延長された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[File:Kitamaekan01s3900.jpg|thumb|200px|[[千石船]]の1/5複製「天神丸」]]&lt;br /&gt;
[[畿内]]に至る[[水運]]を利用した[[物流]]・人流ルートには、[[古代]]から[[瀬戸内海]]を経由するものの他に、[[若狭湾]]で陸揚げして、[[琵琶湖]]を経由して[[淀川]]水系で[[難波津]]に至る内陸水運ルートも存在していた。この内陸水運ルートには、日本海側の若狭湾以北からの物流の他に、若狭湾以西から[[対馬海流]]に乗って来る物流も接続していた。この内陸水運ルート沿いの[[京都]]に[[室町幕府]]が開かれ、再び畿内が日本の中心地となった[[室町時代]]以降、若狭湾以北からの物流では内陸水運ルートが主流となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸時代になると、例年70,000石以上の[[米]]を大阪で換金していた[[加賀藩]]が、[[寛永]]16年（[[1639年]]）に[[神戸港|兵庫]]の[[北風家]]の助けを得て、西廻り航路で100石の米を大坂へ送ることに成功した。これは、在地の[[流通]]業者を繋ぐ形の内陸水運ルートでは、[[大津市|大津]]などでの米差し引き料の関係で割高であったことから、[[中間マージン]]を下げるためであるとされる。また、外海での船の[[海難事故]]などの[[リスク]]を含めたとしても、内陸水運ルートに比べて米の損失が少なかったことにも起因する。さらに、各藩の[[一円知行]]によって[[資本]]集中が起き、その大資本を背景に大型船を用いた[[国際貿易]]を行っていたところに、[[江戸幕府]]が[[鎖国]]政策を持ち込んだため、大型船を用いた流通ノウハウが国内流通に向かい、対馬海流に抗した航路開拓に至ったと考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、[[寛文]]12年（[[1672年]]）には、江戸幕府も当時[[天領]]であった[[出羽国|出羽]]の米を大坂まで効率よく大量輸送するべく[[河村瑞賢]]に命じたこともこの航路の起こりとされる。前年の[[東廻り航路]]の開通と合わせて西廻り航路の完成で大坂市場は天下の台所として発展し、北前船の発展にも繋がった。江戸時代に北前船として運用された船は、はじめは北国船と呼ばれる漕走・[[帆船|帆走]]兼用の[[和船]]であったが、[[18世紀]]中期には帆走専用で経済性の高い和船である[[弁才船]]が普及した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#石井a|石井（1995年a）]]、125頁。&amp;lt;/ref&amp;gt;。北前船用の弁才船は、18世紀中期以降、[[菱垣廻船]]などの標準的な弁才船に対し、学術上で日本海系として区別される独自の改良が進んだ。日本海系弁才船の特徴として、船首・船尾のそりが強いこと、根棚（かじき）と呼ばれる舷側最下部の板が航（船底兼[[竜骨 (船)|竜骨]]）なみに厚いこと、[[はり部材]]のうち中船梁・下船梁が統合されて航に接した肋骨風の配置になっていることが挙げられる&amp;lt;ref&amp;gt;[[#石井a|石井（1995年a）]]、127頁。&amp;lt;/ref&amp;gt;。これらの改良により、構造を簡素化させつつ船体強度は通常の弁才船よりも高かった。通常は年に1航海で、2航海できることは稀であった。こうした不便さや海難リスク、航路短縮を狙って、[[播磨国]]の[[市川 (兵庫県)|市川]]と[[但馬国]]の[[円山川]]を通る航路を開拓する計画（[[柳沢淇園]]らが推進）や、[[由良川]]と[[桂川 (淀川水系)|保津川]]を経由する案が出たこともあったが、様々な利害関係が介在する複数の領地を跨る工事の困難さなどから実現はしなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治時代に入ると、1隻の船が年に1航海程度しかできなかったのが、年に3航海から4航海ずつできるようになった。その理由は、[[松前藩]]の入港制限が撤廃されたことにある。[[スクーナー]]などの西洋式帆船が登場した影響とする見解もあるが、運航されていた船舶の主力は西洋式帆船ではなく、在来型の弁才船か一部を西洋風に改良した合の子船であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[明治維新]]による[[封建制]]の崩壊や[[電信]]・[[郵便]]の登場は相場の地域的な格差が無くなり、一攫千金的な意味が無くなった。さらに日本全国に[[鉄道]]が敷設されることで国内の輸送は鉄道へシフトしていき、北前船は消滅していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 北前船の一年 ==&lt;br /&gt;
1年1航海の場合&lt;br /&gt;
*下り（[[対馬海流]]に対して順流）&lt;br /&gt;
**3月下旬頃、大坂を出帆。&lt;br /&gt;
**4 - 5月、航路上の瀬戸内海・日本海で、途中商売をしながら北上。&lt;br /&gt;
**5月下旬頃、蝦夷が島（北海道）に到着。&lt;br /&gt;
*上り（対馬海流に対して逆流）&lt;br /&gt;
**7月下旬頃、蝦夷が島を出帆。&lt;br /&gt;
**8 - 10月、航路上の寄港地で商売をしながら南下。&lt;br /&gt;
**11月上旬頃、大坂に到着。&lt;br /&gt;
北陸など各地の北前船の船員は、大坂から徒歩で地元に帰って正月を迎え、春先にまた徒歩で大坂に戻ってきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 北前船の荷 ==&lt;br /&gt;
下り荷（北国方面）に関しては以下の通りである。&lt;br /&gt;
*蝦夷地の人々への日常生活品（酒類・飲食品類・衣服用品・煙草）、瀬戸内海各地の塩（漁獲物処理に不可欠）、紙、砂糖、米、わら製品（縄・ムシロ）・[[蝋燭]]（原産地は瀬戸内）米・酒など&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上り荷（畿内方面）は殆どが海産物で下り荷ほど種類は多くない。[[鰊粕]]（[[商品作物]]栽培のための肥料）、[[数の子]]、[[身欠きニシン]]、干し[[ナマコ]]、[[コンブ|昆布]]、[[干鰯]]など。特に昆布は大坂から薩摩を経て、沖縄経由で中国にまで密輸出された。富山藩には「薩摩組」と呼ばれる担当の部署があり、中国からは漢方の材料を輸入して、富山売薬を支えた。北海道、越中、薩摩、琉球（沖縄）、清（中国）までのルートを「昆布ロード」&amp;lt;ref&amp;gt;読売新聞北陸支社『北前船ー日本海こんぶロード』、北日本新聞社『昆布ロードと越中ー海の架け橋』などがある。&amp;lt;/ref&amp;gt;ということがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 北前船の地域への影響 ==&lt;br /&gt;
北前船の往来は周辺地域に大きな影響を与えた。1つは周辺農村の生産力の増加である。積荷のなかには冬の間の農閑期を利用した副業（[[プロト工業化]]）によるものもある。それらの需要が高まるにつれ、商品が優先的効率的に生産された。もう1つは造船基地の発生という可能性で、港地が船修理、船建造の作事を任されていたという。これらのことが周辺地域にも流通面を超えた影響を及ぼしたと思われる。また寄港地周辺では近畿の文化が伝わり、言葉・食文化等に影響がみられ、本州日本海側における文化の伝播役としての役割もあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 北前船の寄港地 ==&lt;br /&gt;
{{節stub}}&lt;br /&gt;
{{要出典範囲|最速達では以下の港に寄っていた。各地に見張り役人を置き、途中の要所には毎夜薪を上げて船からの目標とさせた。&lt;br /&gt;
*[[北海道 (令制)|北海道]]では[[函館港|箱館]]、[[松前町 (北海道)|松前]]、[[江差町|江差]]、[[熊石町|熊石]]、[[上ノ国町|上ノ国]]（以上[[渡島国]]）、[[紗那郡|紗那]]、[[国後郡|泊]]（以上[[千島国]]）、[[根室市|根室]]（以上[[根室国]]）、[[厚岸町|厚岸]]、[[釧路市|釧路]]（以上[[釧路国]]）、[[様似町|様似]]、[[門別町|門別]]（以上[[日高国]]）、[[苫小牧市|苫小牧]]、[[室蘭市|室蘭]]（以上[[胆振国]]）、[[小樽市|小樽]]、[[余市町|余市]]、[[寿都町|寿都]]（以上[[後志国]]）、[[久春古丹]]（以上[[樺太]]）&lt;br /&gt;
*[[奥羽]]では[[深浦町|深浦]]、[[十三湊]]、[[青森港|青森]]&lt;br /&gt;
*[[西海道]]では[[長崎]]（以上[[肥前国]]）、[[津屋崎]]（以上[[筑前国]]）、[[田野浦]]（以上[[豊前国]]）&lt;br /&gt;
*[[酒田港|酒田]]以南の寄港地は[[佐渡国|佐渡]]、[[能登国|能登]]、[[但馬国|但馬]]、[[石見国|石見]]、[[長門国|長門]]、[[下関]]、[[備後国|備後]]、[[大阪港|大坂]]&lt;br /&gt;
*大坂以東の寄港地は[[紀伊国|紀伊]]、[[伊勢国|伊勢]]、[[駿河国|駿河]]、[[伊豆国|伊豆]]、[[江戸]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほかに[[明石]]、[[大間港|大間]]、[[佐井村|佐井]]、[[脇野沢村|脇野沢]]、[[大畑漁港|大畑]]、[[川内町 (青森県)|川内]]、[[むつ市|田名部]]、[[野辺地町|野辺地]]、[[蟹田町|蟹田]]、[[三厩村|三厩]]、[[鰺ヶ沢町|鰺ヶ沢]]（以上[[陸奥国]]）、[[村上市|岩船]]、[[中条町|桃崎浜]]、[[新潟港|新潟]]、[[寺泊町|寺泊]]、[[出雲崎町|出雲崎]]、[[柏崎港|柏崎]]、[[直江津港|直江津]]、[[能生町|能生]]、[[姫川港|糸魚川]]（以上[[越後国]]）、[[赤泊港|赤泊]][[大川港｜大川]]（以上[[佐渡国]]）、[[水橋町|水橋]]、[[伏木富山港|岩瀬]]、[[放生津]]、[[伏木富山港|伏木]]（以上[[越中国]]）、[[七尾港|七尾]]、[[輪島港|輪島]]、[[門前町 (石川県)|黒島]]、[[福浦港|福浦]]（以上能登国）、[[加賀橋立|橋立]]、[[美川町 (石川県)|本吉湊]]（以上[[加賀国]]）、[[福井港|三国湊]]、[[河野村 (福井県)|河野]]、[[敦賀市|敦賀]]（以上[[越前国]]）、[[小浜市|小浜]]（以上[[若狭国]]）、[[舞鶴港|神崎港]]（[[丹後国]]）、[[境港市|境港]]（[[伯耆国]]）、[[鞆町|鞆]]（備後国）、[[玉島地域|玉島]]（[[備中国]]）、[[下津井]]（[[備前国]]）、[[神戸港|兵庫津]]（[[摂津国]]）などにも寄っていた。|date=2012年11月9日}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸期の百科に記載された大坂から奥州・田南部間の海路の地名は次のとおり&amp;lt;ref&amp;gt;[[寺島良安]]『[[和漢三才図絵]]』[[吉川弘文館]]、1906年復刻（原著は[[1713年]]（[[正徳 (日本)|正徳]]3年））、1032～1033頁・『大坂より西国および北国に至る海路』の項&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;[[大阪港|大坂]]&#039;&#039;&#039;、[[尼崎西宮芦屋港|尼崎]]、[[尼崎西宮芦屋港|西宮]]、[[神戸港|兵庫]]、須磨、鳥崎、（播州）[[東播磨港|明石]]、江崎（えがさき）、[[東播磨港|高砂]]、亀島、鞍掛、[[室津]]、赤穂水崎、（備前）大田武（おおたふ）、[[牛窓|牛磨津]]（うしまづ）、寄木崎、[[犬島]]、出崎、潮通（しおとおし）、日比、[[下津井]]、（備中）[[水島港|水島]]、（備後）[[白石島|白石]]、[[福山港|鞆]]（とも）、穴太（あぶと）、[[百島|桃島]]、江崎、海布苅（めかり）、（安芸）野内（のうち）、多田文（ただみ）、高崎、唐船（とうせん）、日門泊（ひもんとまり）、高鳶（たかとび）、[[蒲刈港|蒲刈]]（がまかり）、亀首（かめがくび）、加呂宇土、津和野、（周防）由宇、[[沖家室島|家室]]（かむろ）、上関（かみのせき）、蔵司（そうし）、[[室積海岸|室積]]（むろづみ）、向島、花香（はなか）、岩屋、丸尾、水崎（みさき）、（長門）本山、艫崎（へざき）、&#039;&#039;&#039;[[下関港|下関]]&#039;&#039;&#039;（しものせき）、稟受（ひんしゅ）、瀬戸崎、萩（はぎ）、須佐、江須、（石見）[[浜田港|浜田]]、護府（ごふ）、猪津（いのづ）、（出雲）瓜生（うりう）、可嘉、[[七類港|三保関]]（みほのせき）、泊（とまり）、（因幡）加留（かる）（但馬）諸崎、芝山、朝日、夕日、泰座（たいざ）、（丹後）経崎、宮津、名料、（若狭）小浜（こばま）、常上（つねかみ）、丹生浦（にううら）、立石、伊呂、（越前）[[敦賀港|敦賀]]、[[河野村 (福井県)|河野]]、米良（めら）、[[福井港|三国]]、堀切、（加賀）安宅（あたか）、本吉、宮腰、（能登）阿武屋（あぶや）、[[福浦港|福浦]]、伊木須、[[輪島港|和島]]（わじま）、塩津、（越後）今町、[[柏崎港|柏崎]]、出雲崎、[[新潟港|新潟]]、瀬波（せば）、（出羽）[[念珠ヶ関|鼠関]]（ねずのせき）、加茂、[[酒田港|酒田]]、小刀津、[[本荘港|本庄]]（ほんじょう）、[[秋田港|湊]]（みなと）、[[船川港|舟川]]、栂島（とがしま）、[[能代港|野代]]（のしろ）、（奥州）津軽・[[深浦町|深浦]]、[[鰺ヶ沢漁港|鯵沢]]（あじかざわ）、小泊（ことまり）、今別（いまべち）、赤根沢（あかねざわ）、&#039;&#039;&#039;[[大湊港|田南部]]（たなぶ）&#039;&#039;&#039;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 北前船で活躍した主な船主 ==&lt;br /&gt;
[[File:北前船主久保邸.jpg|240px|thumb|right|[[加賀市]][[加賀橋立|橋立]]港の船主久保家邸（移築）]]&lt;br /&gt;
日本海航路で海運を行った船のうち、狭義に「北前船」と呼ばれるのは日本海在地資本によるものに限る見解もある。この見解によれば、[[高田屋嘉兵衛]]のような上方資本で日本海航路で廻船を運航した場合は北回り地船として区別する&amp;lt;ref&amp;gt;[[#石井a|石井（1995年b）]]、36-37頁。&amp;lt;/ref&amp;gt;。以下では、広義の北前船に関わった船主を挙げる。&lt;br /&gt;
* [[大和田荘七]]&lt;br /&gt;
* [[銭屋五兵衛]]&lt;br /&gt;
* [[広海二三郎]]（[[廣海家]]）&lt;br /&gt;
* [[右近権左衛門]]（右近家一族） - 明治期に海上保険に進出し成功を収める&lt;br /&gt;
* [[高田屋嘉兵衛]]&lt;br /&gt;
* [[本間四郎三郎|本間光丘]]（[[本間氏#酒田本間氏|酒田本間氏]]）&lt;br /&gt;
* [[北風家|北風荘右衛門]]&lt;br /&gt;
* [[久保彦兵衛]]&lt;br /&gt;
* [[西出孫左衛門]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 北前船を主要テーマとする博物館 ==&lt;br /&gt;
* [[北前館]] - 兵庫県豊岡市&lt;br /&gt;
* [[なにわの海の時空館]] - 大阪府大阪市&lt;br /&gt;
* [[高田屋顕彰館・歴史文化資料館]] - 兵庫県洲本市。「辰悦丸」の2分の1の大きさの模型がある。&lt;br /&gt;
* [[淡路ワールドパークONOKORO]] - 兵庫県淡路市。原寸大で復元された「辰悦丸」がある。ただし、鉄船に木の板を張るなどしたもので、帆柱も極端に短いなど正確なレプリカではない&amp;lt;ref&amp;gt;[[#石井b|石井（1995年b）]]、40-41頁。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* [[佐渡国小木民俗博物館]] - 新潟県佐渡市。原寸大で復元された「白山丸」があり、中に入ることもできる。&lt;br /&gt;
* [[北前船回船問屋森家]] -　富山県富山市岩瀬。「旧森家住宅」として国の[[重要文化財]]に指定。北前船の回船問屋の様式が残されている&amp;lt;ref&amp;gt;富山で北前船は「バイ船（せん）」と呼ばれていて、これは「倍、倍」儲かるからだと森家では紹介される。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* [[高岡市伏木北前船資料館]] - 富山県高岡市伏木。&lt;br /&gt;
* [[石川県銭屋五兵衛記念館]] - 石川県金沢市&lt;br /&gt;
* [[北前船の里資料館]] - 石川県加賀市&lt;br /&gt;
* [[輪島市黒島天領北前船資料館]] - 石川県輪島市&lt;br /&gt;
* [[みくに龍翔館]] - 福井県坂井市&lt;br /&gt;
* [[北前船主の館・右近家]] - 福井県南越前町&lt;br /&gt;
* [[みちのく北方漁船博物館]] - 青森県青森市。原寸大で復元され、帆走も可能な「みちのく丸」がある。&lt;br /&gt;
* [[むかし下津井回船問屋]] - 岡山県倉敷市。当時の回船問屋の1軒を修理・復元した資料館。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 北前船を題材とする作品 ==&lt;br /&gt;
[[堀田善衛]]『鶴のいた庭』&amp;lt;br/&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[浅見光彦シリーズ]]『化生の海』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 備考 ==&lt;br /&gt;
* [[新日本海フェリー]]が舞鶴・敦賀・新潟・秋田・小樽・苫小牧に寄港することから、現代の北前船と呼ぶことがある。&lt;br /&gt;
* 歌手の[[鳥羽一郎]]は新日本海フェリーの小樽 - 新潟航路をテーマにして『昭和北前船』という歌を歌った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist|2}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書|author=石井謙治|title=和船 I|publisher=[[法政大学出版局]]|series=ものと人間の文化史|date=1995|isbn=978-4588207617|ref=石井a}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書|author=同上|title=和船 II|publisher=同上|series=同上|date=1995年|isbn=978-4588207624|ref=石井b}}&lt;br /&gt;
* 小納弘 『荒海の北前船』 ほるぷ出版、1982年。&lt;br /&gt;
* 加藤貞仁 『北前船 &amp;lt;small&amp;gt;寄港地と交易の物語&amp;lt;/small&amp;gt;』 無明舍出版、2002年。 ISBN 4-89544-317-5&lt;br /&gt;
* 加藤貞仁 『&amp;lt;small&amp;gt;海の総合商社&amp;lt;/small&amp;gt; 北前船』 無明舍出版、2003年。ISBN 4-89544-328-0&lt;br /&gt;
* 清水金二 『北前船と日本海の時代』 校倉書房、1997年。 ISBN 4-7517-2730-3&lt;br /&gt;
* [[高田宏]] 『日本海繁盛記』 [[岩波新書]]、1992年。 ISBN 4-00-430208-0&lt;br /&gt;
* 高田宏 『海と川の物語』 [[学陽書房]]、1996年。 ISBN 4-313-47007-7&lt;br /&gt;
* [[牧野隆信]] 『北前船の研究』 法政大学出版局、2005年、OD版。ISBN 4-588-92026-X&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[為替手形]]&lt;br /&gt;
* [[堂島米会所]]&lt;br /&gt;
* [[廻船]]&lt;br /&gt;
* [[場所請負制]]&lt;br /&gt;
* [[三津七湊]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
{{commonscat|Kitamaebune}}&lt;br /&gt;
* [http://shofu.pref.ishikawa.jp/shofu/kitamae/index.html 北前船～未来海道ものがたり～]（石川県）&lt;br /&gt;
* [http://www.notohantou.net/other/rekishi/index.html 能登半島北前船ものがたり]（のとねっと）&lt;br /&gt;
* [http://www.nihonkaigaku.org/library/group/i050401-t1.html 「とやまの北前船」普及啓発事業]（日本海学推進機構）&lt;br /&gt;
* [http://www.net.pref.aomori.jp/seikan_db/rekishi/rekisi_kinsei.html 歴史 北前船と近世文化]（青函地域大事典）&lt;br /&gt;
* [http://www.nihonkai-nigiwai.com/know/kitamaefune/ 日本海を知る 北前船]（日本海にぎわい・交流海道ネットワーク）&lt;br /&gt;
* [http://inoues.net/museum/otaru_museum.html 小樽市博物館]（小樽市）&lt;br /&gt;
* [http://www.web-sanin.co.jp/orig/news7/4-0512.html 美保神社に樺太太鼓－2004年５月１２日（水）山陰中央新報より転載－]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:きたまえふね}}&lt;br /&gt;
[[Category:船舶の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:江戸時代の水運]]&lt;br /&gt;
[[Category:和船]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E5%B0%8F%E6%97%A5%E5%90%91&amp;diff=93472</id>
		<title>小日向</title>
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		<updated>2014-07-28T01:11:14Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: /* 江戸時代 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Otheruses|[[東京都]][[文京区]]の地名|その他}}&lt;br /&gt;
{{Pathnav|日本|東京都|文京区|frame=1}}&lt;br /&gt;
{{Infobox Settlement&lt;br /&gt;
|official_name =  水道&lt;br /&gt;
|native_name = &lt;br /&gt;
|image_skyline = Kohinata 2 chome in Bunkyo.jpg&lt;br /&gt;
|imagesize = 250px&lt;br /&gt;
|image_caption = 小日向二丁目&lt;br /&gt;
|image_flag = &lt;br /&gt;
|image_seal = &lt;br /&gt;
| image_map = &lt;br /&gt;
| map_caption = &lt;br /&gt;
|subdivision_type = [[国の一覧|国]]&lt;br /&gt;
|subdivision_name = [[File:Flag of Japan.svg|border|25px]] [[日本]]&lt;br /&gt;
|subdivision_type1 = [[都道府県]]&lt;br /&gt;
|subdivision_name1 = [[東京都]]&lt;br /&gt;
|subdivision_type2 = [[東京都区部|特別区]]&lt;br /&gt;
|subdivision_name2 = [[文京区]]&lt;br /&gt;
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|footnotes =&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;小日向&#039;&#039;&#039;（こひなた）は、[[東京都]][[文京区]]の[[町丁|町名]]&amp;lt;ref name=&amp;quot;kado&amp;quot;&amp;gt;『角川日本地名大辞典 13　東京都』、[[角川書店]]、1991年再版、PP989-990&amp;lt;/ref&amp;gt;。現行行政地名は小日向一丁目から小日向四丁目。居住[[人口]]は7,109人（2011年2月1日現在、[[住民基本台帳]]人口による&amp;lt;ref&amp;gt;文京区役所区民課調査統計係&amp;quot;[http://www.city.bunkyo.lg.jp/sosiki_busyo_kumin_jigyou_toukei_zinko_tyotyo2302.html 文京区 町丁別 世帯数・人口23年2月]&amp;quot;2011年2月10日更新.（2011年3月6日閲覧。）&amp;lt;/ref&amp;gt;。）。[[郵便番号]]は112-0006。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 地理 ==&lt;br /&gt;
小日向台という台地があり、坂が多い。坂には「切支丹坂」・「薬罐（やかん）坂」など江戸期からの名称がついている。閑静な住宅街。[[石川啄木]]・[[安部公房]]・[[横溝正史]]などの旧居があった。&amp;lt;br /&amp;gt;旧・茗荷谷町付近はその地形の美しさから、「茗渓」（めいけい）という美称でも呼ばれていた。現在でも「茗渓」という名の会館などを目にする事が出来る。地元では「こ&#039;&#039;&#039;び&#039;&#039;&#039;なた」と「ひ」の濁音で発音されていることが多く、行政上の表記/発音「こひなた」については異論も多い。1965年前後の[[住居表示]]に伴う調査の際「濁音なし」を採用したが、他方、学校名や町会名などが古くからの「濁音あり」で呼ばれ/書かれ続けている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.city.bunkyo.lg.jp/kugikai_kaigiroku_144teirei_soumukumin021203.html 「文京区議会 総務区民委員会会議録（平成14年12月3日）」（2002年12月3日）]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.city.bunkyo.lg.jp/kugikai_kaigiroku_143teirei_kessan4021007.html 「文京区議会 決算審査特別委員会会議録（平成14年10月7日）」（2002年10月7日）]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--なお、小日向3丁目は犯罪発生率が100人当たり0.157件と非常に低く、[[東京23区]]で最も治安が良好な地域である[http://www.jyukankyo.co.jp/ranking/index.html]。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 地価 ===&lt;br /&gt;
[[住宅地]]の地価は[[2014年]]（[[平成]]26年）[[1月1日]]に公表された[[公示地価]]によれば小日向2-28-16の地点で58万3000円/m{{sup|2}}となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
=== 日頭郷 ===&lt;br /&gt;
[[山岡浚明]]以来、[[平安時代]]の『[[和名類聚抄]]』所載の[[武蔵国]][[豊島郡]]日頭（ひのと）郷を小日向と関連付ける説がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 小日向氏 ===&lt;br /&gt;
中世、[[江戸氏]]庶流に小日向氏が存在した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[応永]]27年（1420年）5月9日「江戸名字書立」（[[熊野那智大社]][[米良文書]]）に「こひなたとの（小日向殿）」とある。『[[小田原衆所領役帳]]』には小日向の地名及び小日向弥三郎、小日向弾正の名が記載される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 江戸時代 ===&lt;br /&gt;
[[江戸時代]]初期には[[農村]]で、[[代官]]野村彦太夫と[[町年寄]]三家[[樽屋藤左衛門]]、[[奈良屋市右衛門]]、[[喜多村彦右衛門]]支配、[[寛文]]12年（1672年）より代官支配となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[明暦]]頃より市街化し、[[正徳 (日本)|正徳]]3年（1713年）11ヶ町が[[町奉行]]支配に加わった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 小日向五軒町 - [[元禄]]11年（1698年）西丸表六尺根本角兵衛等5人の大縄拝領地となった。&lt;br /&gt;
* 小日向三軒町 - [[万治]]年間長兵衛等3人により成立。&lt;br /&gt;
* 小日向清水谷町 - 弓矢鎗奉行同心14人の拝領地となった。&lt;br /&gt;
* 小日向生智院前町&lt;br /&gt;
* 小日向水道町 - 明暦2年（1656年）成立。&lt;br /&gt;
* 小日向台町 - 小日向村鼠ヶ谷小松原に小日向新町として成立、元禄頃改称。&lt;br /&gt;
* 小日向東古川町 - 寛永元年成立。&lt;br /&gt;
* 小日向西古川町 - 寛文元年成立。&lt;br /&gt;
* 小日向八幡坂町&lt;br /&gt;
* 小日向松ヶ枝町 - 寛永3年成立。&lt;br /&gt;
* 小日向茗荷谷町&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後以下の門前町が成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 小日向第六天前町 - [[承応]]以前に成立。&lt;br /&gt;
* 小日向清岸寺門前 - 寺名は清巌寺&lt;br /&gt;
* 小日向智願寺門前&lt;br /&gt;
* 小日向清光院門前&lt;br /&gt;
* 小日向竜興寺門前&lt;br /&gt;
* 小日向林泉寺門前&lt;br /&gt;
* 小日向金剛寺門前&lt;br /&gt;
* 小日向川添屋敷&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 明治時代 ===&lt;br /&gt;
[[明治]]初年、以下の町丁に整理された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 小日向台町 - 明治2年小日向五軒町、小日向八幡坂町、明治5年賄組屋敷を合併。明治14年一～三丁目に分割。&lt;br /&gt;
* 小日向三軒町 - 明治2年小日向正智院前町を合併するも再分離、明治4年小日向西三軒町と改称、明治5年小石川薬園屋敷、武家地を合併。&lt;br /&gt;
* 小日向水道町 - 明治2年小日向川添屋敷、小日向智願寺門前、小日向清光院門前、小日向竜興寺門前、明治5年[[下総国|下総]][[関宿藩]][[久世氏|久世家]]屋敷、寺地を合併。&lt;br /&gt;
* 小日向水道端一、二丁目 - 明治5年持筒組屋敷、武家地、寺地が合併して成立。&lt;br /&gt;
* 小日向武島町 - 明治5年武家地に成立。&lt;br /&gt;
* 小日向町 - 明治5年武家地に成立。&lt;br /&gt;
* 小日向東古川町&lt;br /&gt;
* 小日向西古川町&lt;br /&gt;
* 小日向第六天町 - 小日向第六天前町、小石川称名寺門前、[[相模国|相模]][[荻野山中藩|荻野山中藩]][[大久保氏|大久保家]]下屋敷、先手組屋敷が合併して成立。&lt;br /&gt;
* 小日向松ヶ枝町 - 明治5年武家地を合併。&lt;br /&gt;
* 小日向茗荷谷町 - 明治2年小日向林泉寺門前、明治5年武家地、寺地を合併。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治11年に[[小石川区]]を属する。明治44年、小日向町、小日向台町、小日向水道町以外は小日向の冠称を外された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 住居表示 ===&lt;br /&gt;
昭和41年（1966年）の住居表示により、旧来の小日向地域は[[小日向]]、[[水道 (文京区)|水道]]、[[春日 (文京区)|春日]]、[[音羽]]、[[関口]]の各一部となった。小日向一～四丁目は、茗荷谷町、小日向台町一、二丁目、清水谷町、三軒町の全部と、小日向台町三丁目、水道端二丁目、第六天町、小日向水道町、桜木町、音羽町五丁目、同心町、竹早町の各一部に成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時、区は読みから濁点を外し「こひなた」としたため、後に住民と軋轢を生んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 地名の由来 ===&lt;br /&gt;
『[[江戸砂子]]』によれば、当地は鶴高日向守善仁寺の所領で、家が絶えたあと、「古日向」といっていたのがいつしかこの名になったという。鶴高日向は名主飯塚三四郎家の遠祖といい、小日向水道端鶴高山善仁寺の開基とされる。また、『[[十方庵遊歴雑記]]』は、[[大塚 (文京区)|大塚]]大慈寺（現在廃寺）が昔[[日向国]]にあり、[[徳川家康]]に従い当地に移転し、火災後大塚に移転したと伝わることから、この意味の「古日向」の可能性もあるとする。いずれにせよ「ひゅうが」と「ひなた」で読みが一致しないので、『[[御府内備考]]』以下後の考証家からは否定されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『[[大日本地名辞書]]』は、[[神奈川県]]日向山、[[青梅市]]日向和田・日陰和田と同様に向陽の意とした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 交通 ==&lt;br /&gt;
=== 鉄道 ===&lt;br /&gt;
* [[東京メトロ]][[丸ノ内線]] - [[茗荷谷駅]]&lt;br /&gt;
== 施設 ==&lt;br /&gt;
[[File:切支丹屋敷跡.jpg|x250px|thumb|切支丹屋敷跡]]&lt;br /&gt;
* [[東京地下鉄|東京メトロ]][[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]][[茗荷谷駅]]&lt;br /&gt;
* [[拓殖大学]]文京キャンパス&lt;br /&gt;
* [[貞静学園短期大学]]&lt;br /&gt;
* [[文京区立小日向台町小学校]]&lt;br /&gt;
* [[伝明寺 (文京区)|伝明寺]]&lt;br /&gt;
* [[林泉寺 (文京区)|林泉寺]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考資料 ==&lt;br /&gt;
* [[井沢宣子]] 2000 『東郷館の人びと―東京「小日向台」物語』  [[三一書房]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.city.bunkyo.lg.jp/ 文京区役所ホームページ]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{文京区の町名}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:こひなた}}&lt;br /&gt;
[[Category:文京区の町名]]&lt;br /&gt;
{{Japan-block-stub}}&lt;br /&gt;
{{Pref-stub|pref=東京都}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E7%9C%9F%E7%9F%A2_(%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%BC)&amp;diff=172982</id>
		<title>真矢 (ドラマー)</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E7%9C%9F%E7%9F%A2_(%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%BC)&amp;diff=172982"/>
		<updated>2014-07-25T02:05:05Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: /* 性格・嗜好 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Otheruses|[[LUNA SEA]]のドラマー|[[DIR EN GREY]]のドラマー|Shinya}}&lt;br /&gt;
{{出典の明記|date=2011年2月}}&lt;br /&gt;
{{Infobox Musician &amp;lt;!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照--&amp;gt;&lt;br /&gt;
| Name = 真矢&lt;br /&gt;
| Img = Ryuichi &amp;amp; Shinya 2013.jpg&lt;br /&gt;
| Img_capt = 真矢 (右) 2010&lt;br /&gt;
| Background = instrumentalist&lt;br /&gt;
| Birth_name = 山田真矢&lt;br /&gt;
| Alias = SHINYA&lt;br /&gt;
| Born = {{生年月日と年齢|1970|1|13|}}&lt;br /&gt;
| Blood = [[ABO式血液型|O型]]&lt;br /&gt;
| School_background = [[神奈川県立伊勢原高等学校]]&lt;br /&gt;
| Died =&lt;br /&gt;
| Origin = {{JPN}} [[神奈川県]][[秦野市]]&lt;br /&gt;
| Instrument = [[ドラムセット|ドラムス]]&lt;br /&gt;
| Genre = [[ロック (音楽)|ロック]]&lt;br /&gt;
| Occupation = [[ドラマー]]、[[歌手]]&lt;br /&gt;
| Years_active =&lt;br /&gt;
| Label =&lt;br /&gt;
| Production =&lt;br /&gt;
| Associated_acts = [[LUNA SEA]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[YELLOW FRIED CHICKENz]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[秋元康]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[後藤次利]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[井上鑑]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[西平彰]]&lt;br /&gt;
| Influences =&lt;br /&gt;
| URL = [http://www.shinyashinya.com 公式サイト]&lt;br /&gt;
| Current_members =&lt;br /&gt;
| Past_members =&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;真矢&#039;&#039;&#039;（しんや、[[1970年]][[1月13日]] - ）は、[[日本]]の[[バンド (音楽)#ロックバンド|ロックバンド]]・[[LUNA SEA]]の[[ドラマー]]、[[タレント]]。本名は&#039;&#039;&#039;山田 真矢&#039;&#039;&#039;（やまだ しんや）。[[神奈川県]][[秦野市]]出身。ラーメン店「天雷軒」プロデューサー、宝石店「Re:soul（リソール）」代表取締役社長。[[日本芸術専門学校]]特別講師。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 来歴 ==&lt;br /&gt;
=== 幼少期 ===&lt;br /&gt;
* [[1970年]] - [[1984年]]、幼い頃より、能楽師の親の影響もあり、早くから[[能]]に親しむ。一方、祭りにも興味を示し、[[和太鼓]]もこなしていた。車で外出する時には能に関する録音を再生し、それを父親が解説していたのが面白かったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 青年期 ===&lt;br /&gt;
* [[1985年]] - [[1988年]]、[[神奈川県立伊勢原高等学校]]に進学。この高校時代に[[ドラムセット|ドラム]]に初めて触れる。当時、バイクとドラムセットに興味を示しており、どちらかを貯金から買うかを迷っていた。結局、ドラムセットを購入するが、教わる人にも付かず、独学で[[ドラム・ビート#8ビート|8ビート]]や16ビートや[[ルーディメンツ#ダブルストロークオープンロールルーディメンツ|ダブルストロークロール]]を叩いていた。基礎練習も無く簡単に叩けたため、「自分は天才だ」と思ったらしい。以降、一時は15組ものバンドを掛け持ちするほどになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== LUNA SEA時代 ===&lt;br /&gt;
* [[1989年]]、LUNA SEAとして初ライブを行う。活動初期は、リボンを頭につけるなど、いかにも[[ヴィジュアル系]]らしい女性のような格好をしていたが、ダイエットがバスドラムの音の破壊力を失わせたことを契機に、容貌へのこだわりを捨てて体重を増やす。&lt;br /&gt;
* [[1992年]]、LUNA SEAがメジャー・デビューを果たす。&lt;br /&gt;
* [[2000年]]、[[12月26日]]・[[12月27日]]の両日に[[東京ドーム]]で行われたラスト[[ライブ]]を以て、LUNA SEAが終幕する。&lt;br /&gt;
* [[2007年]][[12月24日]]、東京ドームで一夜限りのLUNA SEA復活ライブを行う。&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--&amp;gt;* [[2008年]][[7月10日]]、X JAPANのTOSHIが率いるバンドTOSHI with T-EARTHへの参加が同バンドの公式ホームページで発表される&amp;lt;--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ソロ活動時代 ===&lt;br /&gt;
* [[1997年]]、活動休止中にソロ歌手としてデビュー。[[椎名へきる]]とデュエットを行う。&lt;br /&gt;
* [[2000年]]、[[5月12日]]にアイドルグループ・[[モーニング娘。]]の元メンバーで、タレントの[[石黒彩]]と入籍する。同日は石黒の22歳の誕生日でもあった。LUNA SEAの終幕後は[[パール楽器製造]]と契約、シグネチャーモデルの[[ドラムスティック]]を発売した。&lt;br /&gt;
* [[2001年]]から、[[ソロ]]活動を本格的に開始する。[[大黒摩季]]や[[吉川晃司]]など)の[[ライブ]]・[[レコーディング]]に主に参加し、数多くの[[ミュージシャン]]と[[セッション]]活動をしている。&lt;br /&gt;
* [[2005年]]、入籍5年を記念し、[[出雲大社]]で結婚式を行う。&lt;br /&gt;
* [[2009年]]、[[3月26日]]に[[東京都]]・[[中野区]]にあるラーメン店「ラーメン龍」のプロデュースを担当し、新店名「ラーメン天雷軒」として開店する。[[10月7日]]より、同店が東日本橋にてリニューアル・オープン。&lt;br /&gt;
* 東京・[[代官山]]にある、パワーストーン・水晶・天然石・アクセサリー専門店「Re:soul（リソール）」をプロデュースし、代表取締役社長も兼任している。&lt;br /&gt;
* [[2011年]]、[[GACKT]]率いる「[[YELLOW FRIED CHICKENz]]」のメンバーに加入する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== POTBELLY時代 ===&lt;br /&gt;
* [[2005年]]、ボーカルに沖縄出身のMILKYを迎え、&#039;&#039;&#039;POTBELLY&#039;&#039;&#039;（ポトベリー）として始動する。ミニアルバム『CRASH! CRASH! CRASH!』でデビュー。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物 ==&lt;br /&gt;
=== 性格・嗜好 ===&lt;br /&gt;
* 幼い頃からの祭り好きで、自宅に小型の[[御輿]]を所有するほどである。&lt;br /&gt;
* 明るい性格で話し上手のため、テレビ番組の司会や、バラエティー番組への出演なども多い。[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系音楽番組『[[HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP]]』では、司会の漫才師である[[ダウンタウン (お笑いコンビ)|ダウンタウン]]とトークで互角に渡り合った。また、番組内では「&#039;&#039;&#039;ブーちゃん&#039;&#039;&#039;」「&#039;&#039;&#039;悪徳プロモーター&#039;&#039;&#039;」と称されるほど親しまれた。&amp;lt;BR&amp;gt;また、[[日本テレビ]]のモノマネ番組では、真矢と同じLUNA SEAのメンバーである[[河村隆一]]をゲストに迎えた際に、内緒で登場し、河村のマネを披露した。&lt;br /&gt;
* SUGIZO曰く、シャイな性格。結婚の報告もメンバーには直接言わず、スケジュール表に書いて知らせた。&lt;br /&gt;
* 右腕いっぱいにタトゥーを入れている。本人曰く「一生モノの洋服」&lt;br /&gt;
* 高所恐怖症で、絶叫マシンはもちろん、1メートルほどの塀の上に立つだけでも怖がっていた。&lt;br /&gt;
* 車好きで、[[ジャガー (自動車)|ジャガー]]のファン。[[ジャガー・Eタイプ|Eタイプ]]を特に好んでおり、2台所有していた。今まで30台以上も乗り換えており、[[ジャガー・XK|XKRシルバーストーン]]や[[フォルクスワーゲン・タイプ2]]など、外車が中心。&lt;br /&gt;
* テレビ番組の企画で身長の公称は168cmであるが、実寸は165cmであることが判明した&amp;lt;ref&amp;gt;テレビ朝日　『中居正広の怪しい噂の集まる図書館』2012年9月4日放送&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 音楽性 ===&lt;br /&gt;
* [[そうる透]]は、師匠にあたる。&amp;lt;!--&amp;gt;元[[SIAM SHADE]]の[[淳士]]は、真矢の[[ローディー]]をしていた時期があり、[[弟子]]的存在である。&amp;lt;--&amp;gt;&amp;lt;!--「弟子的存在」であるという発言が当事者からあったのでしょうか？あったのであれば再表記の際に出典を明示してください。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
* LUNA SEAの活動初期から中期（アルバム『[[STYLE (LUNA SEAのアルバム) |STYLE]]』発表前後）にかけては、[[ツーバス]]に加えて多数の[[タム]]、[[シンバル]]を並べ、頭上にもタムを設置するなど大掛かりなセットを組んでいたが、後期はワンバスに少数のタム類など、一転して必要最低限のシンプルなセッティングになった。&lt;br /&gt;
* LUNA SEAのライヴにおいて、空中で回転するドラムセットを使用したパフォーマンスを行ったことがあり、その費用は3,500万円もかかった。当初はドラムセットが前傾するのみだったが、後には[[トミー・リー]]（[[モトリー・クルー]]）や[[ジョーイ・ジョーディソン]]（[[スリップノット]]）の様に頑丈に固定されたドラムセットが回転する大掛かりなセットで行った。&lt;br /&gt;
* [[バスドラム]]の音量・音圧を確保するため、ペダルを踏む際には中央を踏まず、ペダルの端を斜めに蹴り出すように踏むスタイルをとっている（リズム&amp;amp;ドラムマガジンインタビューより）。&lt;br /&gt;
* 当時、[[エンドースメント契約]]していたドラムメーカーは[[ヤマハ]]。ドラムのヘッドに墨汁を塗って[[ミュート]]として利用する奇抜なテストを行ったことがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 家族 ===&lt;br /&gt;
* 妻は元[[モーニング娘。]]の[[石黒彩]]。&lt;br /&gt;
* 1男2女の子供がおり、ドラムの部位の名称を捩った名前をつけているとのこと。&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--&amp;gt;*真矢は、女性誌に子煩悩な父として登場し、昨今の社会的な[[児童虐待]]についてコメントをする。&lt;br /&gt;
*: 「子供がかわいくて仕方ない。どうして社会で虐待などが起こるのか全く信じられない。」&amp;lt;--&amp;gt;&amp;lt;!--「女性誌」などという漠然とした記述は避けてください。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ディスコグラフィー ==&lt;br /&gt;
=== シングル ===&lt;br /&gt;
* 落下する太陽([[1997年]][[9月26日]]・PHDL-1101)&lt;br /&gt;
* 漂流者(1997年[[11月21日]]・PHDL-1103)[[声優]]の[[椎名へきる]]とのデュエット曲&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アルバム ===&lt;br /&gt;
* No Sticks(1997年[[12月10日]]・PHCL-5077)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ビデオ・DVD ===&lt;br /&gt;
* Melody(1997年[[8月21日]]・MVVH-3)&lt;br /&gt;
* SHINYA LONDON CALLING(1998年2月)&lt;br /&gt;
* 真矢 直伝 プロ・ドラマーの心得(ATDV-81)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== サポートしているミュージシャン ==&lt;br /&gt;
* [[SUGIZO]]&lt;br /&gt;
* [[INORAN]]&lt;br /&gt;
* [[J (ミュージシャン)|J]]&lt;br /&gt;
* The FLARE&lt;br /&gt;
* [[FAKE?]]&lt;br /&gt;
* [[尾崎亜美]]&lt;br /&gt;
* [[松本孝弘]]&lt;br /&gt;
* [[氷室京介]]&lt;br /&gt;
* [[大黒摩季]]&lt;br /&gt;
* [[相川七瀬]]&lt;br /&gt;
* [[雅-miyavi-]]&lt;br /&gt;
* [[吉川晃司]]&lt;br /&gt;
* [[Creature Creature]]&lt;br /&gt;
* レナード衛藤&lt;br /&gt;
* [[LM.C]]&lt;br /&gt;
* [[大友康平]]&lt;br /&gt;
* [[Toshl|TOSHI]]（[[TOSHI with T-EARTH]]）&lt;br /&gt;
* [[筋肉少女帯]]&lt;br /&gt;
* [[Ken]]&lt;br /&gt;
* [[DEAD END (バンド)|DEAD END]]&lt;br /&gt;
* [[GACKT]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ドラマ ==&lt;br /&gt;
* [[東京少女|東京少女真野恵里菜]] 第4話「やさしい拳」（2009年2月28日、[[BS-TBS|BS-i]]） - 陽介 役。&lt;br /&gt;
* [[ケータイ刑事 銭形命]] 第11話「交響曲第28番 タ聞調 作品194《ボム》〜世界ペア音楽祭爆弾予告事件」（2009年2月28日、[[BS-TBS]]） - スネア 役。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[LUNA SEA]]&lt;br /&gt;
**[[河村隆一|RYUICHI]]&lt;br /&gt;
**[[SUGIZO]]&lt;br /&gt;
**[[INORAN]]&lt;br /&gt;
**[[J (ミュージシャン)|J]]&lt;br /&gt;
* [[キス・ミス・チック]]&lt;br /&gt;
* [[ここにシャチあり!]]&lt;br /&gt;
* [[歌笑HOTヒット10]]&lt;br /&gt;
* [[POTBELLY]]&lt;br /&gt;
* [[J-Hits Cowntdown]]（[[歌謡ポップスチャンネル]]）&lt;br /&gt;
* [[さんまのSUPERからくりTV]]（[[小倉優子]]音楽隊-サザエオールスターズのコーナー）&lt;br /&gt;
* [[宇宙一せまい授業!]]（ドラム講座）&lt;br /&gt;
* [[オフィスウォーカー]]&lt;br /&gt;
* [[クイズ☆タレント名鑑]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.shinyashinya.com/ 真矢町三丁目]&lt;br /&gt;
* [http://www.tenraiken.jp/ ラーメン天雷軒]&lt;br /&gt;
* [http://ameblo.jp/shinya-777/ 真矢オフィシャルブログ]（ブログ）&lt;br /&gt;
* {{Twitter|331shinya|真矢}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{LUNA SEA}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しんや}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本のドラマー]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本のタレント]]&lt;br /&gt;
[[Category:LUNA SEAのメンバー]]&lt;br /&gt;
[[Category:神奈川県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1970年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:ヴィジュアル系ミュージシャン]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
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	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%B6%99%E8%B1%8A&amp;diff=153861</id>
		<title>島津継豊</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%B6%99%E8%B1%8A&amp;diff=153861"/>
		<updated>2014-07-25T01:20:30Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{基礎情報 武士&lt;br /&gt;
| 氏名 = 島津継豊&lt;br /&gt;
| 画像 =&lt;br /&gt;
| 画像サイズ =&lt;br /&gt;
| 画像説明 = &lt;br /&gt;
| 時代 = [[江戸時代]]中期&lt;br /&gt;
| 生誕 = [[元禄]]14年[[12月22日 (旧暦)|12月22日]]（[[1702年]][[1月19日]]）&lt;br /&gt;
| 死没 = [[宝暦]]10年[[9月20日 (旧暦)|9月20日]]（[[1760年]][[10月28日]]）&lt;br /&gt;
| 改名 = 鍋三郎（幼名）→忠休（初名）→継豊&lt;br /&gt;
| 別名 = 又三郎（通称）&lt;br /&gt;
| 神号 = 常隆眞秀香彦命&lt;br /&gt;
| 戒名 = 宥邦院殿円鑑享盈大居士&lt;br /&gt;
| 墓所 = [[鹿児島県]][[鹿児島市]][[池之上町]]の[[福昌寺 (鹿児島市)|島津家墓地]]&lt;br /&gt;
| 官位 = [[従四位]]上、左近衛中将、[[大隅国|大隅]]守&lt;br /&gt;
| 幕府 = [[江戸幕府]]&lt;br /&gt;
| 主君 =&lt;br /&gt;
| 藩   = [[薩摩国|薩摩]][[薩摩藩|鹿児島藩]]主&lt;br /&gt;
| 氏族 = [[奥州家 (島津氏)|島津氏]]&lt;br /&gt;
| 父母 = 父：[[島津吉貴]]&amp;lt;br /&amp;gt;母：側室・須磨（名越恒渡（右膳）&amp;lt;ref&amp;gt;子孫には[[お由羅騒動]]で遠島の憂き目にあった[[名越左源太]]がいる。&amp;lt;/ref&amp;gt;の妹）&lt;br /&gt;
| 兄弟 = 多数（[[島津吉貴]]の項参照）&lt;br /&gt;
| 妻   = 正室：&#039;&#039;&#039;皆姫&#039;&#039;&#039;（[[毛利吉元]]の娘）&amp;lt;br /&amp;gt;継室：&#039;&#039;&#039;[[浄岸院|竹姫]]&#039;&#039;&#039;（[[徳川綱吉]]の養女、[[清閑寺熈定]]の娘）&lt;br /&gt;
| 子   = &#039;&#039;&#039;[[島津宗信|宗信]]&#039;&#039;&#039;、[[島津重年|重年]]、[[島津久峰|久峰]]、[[入来院定勝]]、&amp;lt;br /&amp;gt;[[眞含院|菊姫]]、娘（[[樺山久倫]]室）、娘（[[肝付兼伯]]室）、&amp;lt;br /&amp;gt;娘（[[島津久隆]]室）他&lt;br /&gt;
| 特記事項 =&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;島津 継豊&#039;&#039;&#039;（しまづ つぐとよ）は、[[江戸時代]]の[[島津氏]]第22代当主。[[薩摩藩]]の第5代藩主。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
元禄14年（1701年）12月、[[島津吉貴]]の長男として生まれた。[[正徳 (日本)|正徳]]5年（[[1715年]]）4月5日、当時7歳の第7代[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川家継]]）より、「松平」の名字と偏[[諱]]（「継」の一字）を与えられ、初名の&#039;&#039;&#039;忠休&#039;&#039;&#039;（ただやす）から&#039;&#039;&#039;継豊&#039;&#039;&#039;（「松平大隅守継豊」）に改名&amp;lt;ref&amp;gt;村川浩平「松平氏下賜の授受具体像と基本的性格」『日本近世武家政権論』185～189頁。尚、（詳しい事情は不明だが）継豊の代からの歴代藩主は最後の藩主・[[島津忠義|茂久（忠義）]]が使用するまで[[通字]]の「久」や「貴」を避けるようになっている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[享保]]6年（[[1721年]]）6月、父・吉貴の隠居に伴って家督を継ぎ、5代目の藩主となる。同年12月、左近衛少将に叙任する。享保14年（[[1729年]]）には従四位下。左近衛中将を叙任した。[[元文]]2年（[[1737年]]）3月、四弟の[[島津忠紀|忠紀]]に[[重富家|越前家]]を再興させた。[[延享]]元年（[[1744年]]）5月、同じく七弟の[[島津忠卿|忠卿]]に断絶した支族和泉家の門跡を継がせて、再興させた。なお、この家を「今代の和泉家」という意味で[[今和泉島津家|今和泉家]]という。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[元文]]3年（[[1738年]]）に藩主が嗣子なくして死去したときに藩主を輩出する[[家格]]として一門家を新設。当時、家格一所持だった同母弟の垂水島津家当主[[島津貴儔]]や、次男の加治木家当主[[島津重年|久門]]をこの家格とする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当初、継豊は毛利吉元の娘を正室としていたが、彼女が早世した後に第8代将軍・[[徳川吉宗]]の斡旋もあって、第5代将軍・[[徳川綱吉]]の養女・竹姫と再婚した。竹姫は吉宗と恋愛関係があるのではないかという憶測があり、継豊の父・吉貴はじめ薩摩藩では好意的にはとっていなかったという。しかし、吉貴の友人である老中・[[松平乗邑]]の斡旋もあって、継豊には既に側室のお嘉久（渋谷氏）との間に嫡男が生まれていることから、竹姫との間に子が生まれても嫡子としないなど様々な条件をつけた上で受け入れたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
延享3年（[[1746年]]）11月、長男・[[島津宗信|宗信]]に家督を譲って隠居したが、その後藩主となった宗信と次男・[[島津重年|重年]]が継豊に先立って死に、孫（重年の子）である[[島津重豪]]（初めは忠洪）が11歳で8代目の藩主となったため、自身も病弱の身を押し、その後見を行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
宝暦10年（1760年）9月、60歳で死去。この年は[[徳川家治]]が第10代将軍となった年（死去から半年ほど前）であり、当時としてはかなりの長寿であったといえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 補注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{島津氏歴代当主||第22代|1721年 - 1746年}}&lt;br /&gt;
{{薩摩藩主|第5代|1721年 - 1746年}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しまつ つくとよ}}&lt;br /&gt;
[[Category:奥州島津氏|つくとよ]]&lt;br /&gt;
[[Category:薩摩藩主|つくとよ]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の神 (人物神 江戸時代大名)]]&lt;br /&gt;
[[Category:1702年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1760年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E5%B0%BC%E5%AD%90%E5%8D%81%E5%8B%87%E5%A3%AB&amp;diff=73534</id>
		<title>尼子十勇士</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E5%B0%BC%E5%AD%90%E5%8D%81%E5%8B%87%E5%A3%AB&amp;diff=73534"/>
		<updated>2014-07-25T01:14:07Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: /* 十勇士の成立 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[File:清水寺の絵馬「尼子十勇十介」.JPG|300px|thumb|[[清水寺 (安来市)|清水寺]]の根本堂に掲示される奉納絵馬「尼子十勇十介」。天保9年閏4月、伯耆国会見郡車尾に住む深田稲保之助が奉納した。]]&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;尼子十勇士&#039;&#039;&#039;（あまごじゅうゆうし）とは、[[戦国大名]][[尼子氏]]滅亡後、尼子氏の復興に勤めたとされる10人の[[勇士]]である。この10人は、[[尼子晴久]]が部下4万人余りの中から選び出した勇力の優れた人物という&amp;lt;ref&amp;gt;『後太平記』地部巻第四十　山中鹿之助品川狼介勝負之事&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;『[[名将言行録]]』巻三　山中幸盛&amp;lt;/ref&amp;gt;。山中鹿之助（[[山中幸盛]]）を筆頭とするが、その構成員は幸盛を除けば不定であり、時代によっても異なる。また、名前の最後に皆「介（助）」が付くことから「尼子十勇十介」ともいう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 十勇士の成立 ==&lt;br /&gt;
尼子十勇士は、[[明治]]時代に[[立川文庫]]から発刊された『武士道精華　山中鹿之助』によって有名になったが、立川文庫の創作ではない。それ以前から、その存在は知られていた。&lt;br /&gt;
しかしながら、幸盛が活躍していた当時の[[史料]]には「尼子十勇士」の名称は見られない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
十勇士の存在がいつ頃から信じられえていたか定かでないが、[[史料]]に初めて出てくるのは、[[延宝]]5年（[[1677年]]）に発行された『後太平記&amp;lt;ref name=&amp;quot;後太平記&amp;quot;&amp;gt;「多々良 一龍」が編纂した、『[[太平記]]』の後の時代、[[応安]]元年（[[1368年]]）[[足利義満]]の時代から[[天正]]6年（[[1578年]]）尼子再興軍の滅亡までを記した軍記物語。[[延宝]]5年（[[1677年]]）刊行。[[元禄]]5年（[[1692年]]）に発行された「井上家正」校正の『後太平記』には、「多々良 一龍」の原選80巻を「多々良 一吹」が[[元和 (日本)|元和]]3年（[[1617年]]）より集録して42巻としてまとめたと著されるため、[[1617年]]には草案ができていたという説もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;』である。ただし、十勇士と明記されている人物は、五月早苗介（助）&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot; name=&amp;quot;後太平記＿早苗&amp;quot;&amp;gt;「尼子家三軍の中にて十勇と選出されたる」。地部巻第三十八 雲州志賀城没落之事 並 高瀬城明去事&amp;lt;/ref&amp;gt;、寺元生死助&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot; name=&amp;quot;後太平記＿生死&amp;quot;&amp;gt;「（尼子）晴久朝臣選出されたる十勇の兵」。地部巻第四十 寺本生死助借前立物事&amp;lt;/ref&amp;gt;、横道兵庫介&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot; name=&amp;quot;後太平記＿兵庫&amp;quot;&amp;gt;「尼子十勇士の内に横道兵庫介と言ふ者あり」。地部巻第四十 雲州富部合戦之事&amp;lt;/ref&amp;gt;、山中鹿之助幸盛&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot; name=&amp;quot;後太平記＿鹿&amp;quot;&amp;gt;「尼子晴久、四萬余騎の群下の中より大勇十騎を選出し、その第一に定められる」。地部巻第四十 山中鹿之助品川狼介勝負之事&amp;lt;/ref&amp;gt;の4人だけであり、その他の人物が十勇士であったかどうかは判断できない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
十勇士すべての名が史料に出てくるのは、[[享保]]2年（[[1717年]]）に刊行された『和漢音釈 書言字考節用集&amp;lt;ref name=&amp;quot;書言字考&amp;quot;&amp;gt;正式な名称は『和漢音釈 書言字考節用集』。「槇島昭武」編纂。[[享保]]2年（[[1717年]]）刊行。日常語の用字、語釈、語源などを示した書で、いわゆる国語辞典のようなもの。「第10巻 数量、性氏」に「尼子十勇十介（あまごじゅうゆうじゅっすけ）」の項目がある。&amp;lt;/ref&amp;gt;』である。この書は、日常語の用字、語釈、語源などを示した、いわゆる[[国語辞典]]のようなものである。そのため、この時代に「尼子十勇士」という名称が一般的に通用するものであったことが分かる。[[正徳 (日本)|正徳]]3年（1713年）10月、[[備中松山藩|松山藩]]士であった前田市之進時棟と佐々木軍六が、幸盛の死を哀れみ建立した墓碑&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot;&amp;gt;阿井の渡し（現在の[[岡山県]][[高梁市]]）に建つ幸盛の墓&amp;lt;/ref&amp;gt;にも「尼子十勇」の文字が刻まれている。[[明和]]4年（1767年）に[[湯浅常山]]が発行した[[戦国武将]]の[[逸話]]集、『[[常山紀談]] &amp;lt;ref name=&amp;quot;常山紀談&amp;quot;&amp;gt;岡山藩士「[[湯浅常山]]」がまとめた戦国武将の逸話集。[[明和]]4年（[[1767年]]）に完成したが、発刊は[[文政]]（[[1818年]]から[[1830年]]）年間の後半とされる。巻六に「尼子十勇士」について記載がある。&amp;lt;/ref&amp;gt;』にも10名の勇士の名が連ねてある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、これら史料は、幸盛以外の人物の記載は乏しく、十勇士の面々がどういった性格で、どんな活躍をしたか等を知ることができなかった。十勇士の人物像について始めて具体的に記述された史料は、[[文化 (元号)|文化]]8年（1811年） - [[文政]]4年（1821年）にかけて刊行された『絵本更科草紙&amp;lt;ref name=&amp;quot;更科草紙&amp;quot;&amp;gt;[[文化 (元号)|文化]]8年（[[1811年]]）から[[文政]]4年[[1821年]]にかけて発行された、鹿之助の母、更科姫と、尼子十勇士による活躍を描いた物語。初編、後編、第三篇それぞれ5冊からなる全15巻。著者は栗杖亭鬼卵。画は、初編、後編が石田玉山。第三編の画は一峰斎馬円が担当した。&amp;lt;/ref&amp;gt;』である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この書は、幸盛の母である更科姫と、尼子十勇士による活躍を描いた物語である。書と共にこの話は全国的に広まったようであり、この後には、十勇士を題材にした[[浮世絵]]の描画&amp;lt;ref name=&amp;quot;芳虎の浮世絵&amp;quot;&amp;gt;表題は「尼子十勇士之図」。江戸時代に活躍した錦朝楼芳虎（[[歌川芳虎]]）＜生没不明＞の浮世絵。芳虎は[[歌川国芳]]の門下生。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;国周の浮世絵&amp;quot;&amp;gt;表題は「尼子十勇士面々会合主家再興評定図」。江戸時代に活躍した[[豊原国周]]＜1835年－1900年＞の浮世絵。国周は[[歌川豊国]]の門下生。幸盛の妻とされる九重姫も共に描かれる。&amp;lt;/ref&amp;gt;や[[歌舞伎]]の上演&amp;lt;ref&amp;gt;[[文化 (元号)|文化]]10年（[[1813年]]）8月27日　[[京都]][[平等寺 (京都市下京区)|因幡薬師]]『絵本更科話』、[[天保]]3年（[[1832年]]）8月吉日　[[京都]]北座『絵本更科話』ほか&amp;lt;/ref&amp;gt;、また十勇士が描かれた[[絵馬]]が神社に奉納される&amp;lt;ref name=&amp;quot;清水寺&amp;quot;&amp;gt;[[天保]]9年閏4月（[[1838年]]5月）、[[伯耆国]]会見郡車尾（現在の[[鳥取県]][[米子市]]車尾）に住む深田稲保之助が[[清水寺 (安来市)|清水寺]]へ奉納した絵馬。表題は「尼子十勇十介」。現在は清水寺の根本堂に掲示される。&amp;lt;/ref&amp;gt;など、世間一般にこの話が浸透していったことが分かる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[明治]]時代に入ると、先の『絵本更科草紙』と同じ内容で、表題を『尼子十勇士伝&amp;lt;ref name=&amp;quot;尼子十勇士伝&amp;quot;&amp;gt;[[明治]]16年（[[1883年]]）4月21日、[[春陽堂書店|春陽堂]]より発刊。上巻、中巻、下巻からなる全3巻。内容は『絵本更科草紙』と同じ。編集は出版人でもある「和田篤太郎」。&amp;lt;/ref&amp;gt;』とした書が刊行される。[[明治]]44年（[[1911年]]）12月、『絵本更科草紙』の内容を簡略化し、大衆向けに噛み砕いた文で表した書、『武士道精華　山中鹿之助&amp;lt;ref name=&amp;quot;立川文庫&amp;quot;&amp;gt;[[明治]]44年（[[1911年]]）12月10日、[[立川文庫|立川文明堂]]より発刊。表題は、『立川文庫 第十七編 武士道精華 山中鹿之助』。著者は「雪花散（山）人」。内容は、『絵本更科草紙』の話をほぼ踏襲するが、処所に脚色や簡易化が見られる。&amp;lt;/ref&amp;gt;』が[[立川文庫]]より発行されると、尼子十勇士の名は一躍有名になる。[[昭和]]26年（[[1951年]]）には『[[世界大百科事典|大百科事典]]』にも掲載された&amp;lt;ref&amp;gt;『尼子盛衰人物記』P270より。『大百科辞典 全16巻・縮刷版』（[[平凡社]]　1951年）か。なお、現在の『世界大百科辞典』には記載がない。&amp;lt;/ref&amp;gt;。現在は、『[[広辞苑]]&amp;lt;ref name=&amp;quot;広辞苑&amp;quot;&amp;gt;『広辞苑－第五版』新村出 編（岩波書店　1998年11月11日）。&amp;lt;/ref&amp;gt;』にもその項目がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 構成員 ==&lt;br /&gt;
尼子十勇士の構成員は、山中幸盛を除けば不定であり、時代によっても異なる。&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
! 年 !! 史料 !! 1 !! 2 !! 3 !! 4 !! 5 !! 6 !! 7 !! 8 !! 9 !! 10 !! 11 !! 12&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! [[延宝]]5年（[[1677年]]） !! 後太平記&amp;lt;ref name=&amp;quot;後太平記&amp;quot; /&amp;gt;&lt;br /&gt;
| 山中 鹿之助 幸盛&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot; name=&amp;quot;後太平記＿鹿&amp;quot; /&amp;gt; || 五月 早苗介（助）&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot; name=&amp;quot;後太平記＿早苗&amp;quot; /&amp;gt; || 秋宅 庵助&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot; name=&amp;quot;庵・道理助&amp;quot;&amp;gt;「当家三軍の中より選出されたる庵助、道理助の両助」と記載され、尼子十勇士とは明記されていない。　地部巻第四十　雲州多久和城明退事　並　月山城囲解事&amp;lt;/ref&amp;gt; || 尤 道理助&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot; name=&amp;quot;庵・道理助&amp;quot; /&amp;gt;&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot; name=&amp;quot;鹿傍&amp;quot;&amp;gt;「尼子十勇士の1人、寺本生死助と共に鹿之助の傍に控えたる人物として、「尤 道理助」「薮中 荊助」「植田 稲葉助」「今川 鮎助」「五月 早苗助」の記載があるため、これら面々も十勇士であると読み取れる可能性はある。地部巻第四十　寺本生死助借前立物事&amp;lt;/ref&amp;gt; || 寺本 生死助&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot; name=&amp;quot;後太平記＿生死&amp;quot; /&amp;gt; || 薮中 荊助&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot; name=&amp;quot;鹿傍&amp;quot; /&amp;gt; || 植田 稲葉助&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot; name=&amp;quot;鹿傍&amp;quot; /&amp;gt; || 今川 鮎助&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot; name=&amp;quot;鹿傍&amp;quot; /&amp;gt; || 横道 兵庫介&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot; name=&amp;quot;後太平記＿兵庫&amp;quot; /&amp;gt; || 柴橋 大力介&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot; name=&amp;quot;十勇士？&amp;quot;&amp;gt;鹿之助と共に、[[上月城]]に籠もった人物。尼子十勇士についての記載はない。地部巻第四十二　山中鹿之助被誅事&amp;lt;/ref&amp;gt; || 大谷 古猪介&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot; name=&amp;quot;十勇士？&amp;quot; /&amp;gt; || 穴内　狐狸介&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot; name=&amp;quot;十勇士？&amp;quot; /&amp;gt;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! [[享保]]2年（[[1717年]]）!! 書言字考&amp;lt;ref name=&amp;quot;書言字考&amp;quot; /&amp;gt;&lt;br /&gt;
| 山中 鹿助 || 秋宅 庵助 || 寺本 生死助 || 尤 道理助 || 今川 鮎助 || 薮中 荊助 || 横道 兵庫助 || 小倉 鼠助 || 深田 泥助 || 植田 草苗助 ||  || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! [[明和]]4年（[[1767年]]） !! [[常山紀談]] &amp;lt;ref name=&amp;quot;常山紀談&amp;quot; /&amp;gt;&lt;br /&gt;
| 山中 鹿之介 || 藪原 茨之介 || 五月 早苗之介 || 上田 稲葉之介 || 尤 道理之介 || 早川 鮎之介 || 川岸 柳之介 || 井筒 女之介 || 阿波 鳴戸之介 || 破骨 障子之介 ||  || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! [[文化 (元号)|文化]]8年（[[1811年]]） !! 絵本更科草紙&amp;lt;ref name=&amp;quot;更科草紙&amp;quot; /&amp;gt;&lt;br /&gt;
| 山中 鹿之助&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot; name=&amp;quot;鹿之助&amp;quot;&amp;gt;父は村上家の将「相木 森之助 幸雄」。後に武田家の将「馬場 美濃守 信房」の影武者を勤めた。母は「更科姫」。村上家の将「楽岩寺 右馬助」の娘。「鹿之助」の名は、父森之助の伯父「相木 市兵衛」が命名。市兵衛は、山の中で赤子（鹿之助）を拾ってくるが、出会ったとき、その赤子は鹿の背中に乗っていたため「鹿之助」と名づけた（鹿之助は、赤ん坊の時いろいろあって母と別れ、森の中で迷子となっていた。）。また、苗字の「山中」は、山中村（「今の安田村」と記載される。）で育ったため。鹿之助は、父母の師匠でもあった「井上 九郎 光興」の下で、15歳まで軍法剣術を学んでいた。その師匠が住んでいたのが山中村。&amp;lt;/ref&amp;gt; || 大谷 古猪之助&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot; name=&amp;quot;古猪之助&amp;quot;&amp;gt;元の名は「大谷 猪之助」。父は信州の「木曾 右馬之助」に仕えた「大谷 半左衛門」（『尼子十勇士伝』では「大谷 半右衛門」。フリガナは「はんざえもん」であるため、半右衛門は間違いか。）。木曾家が没落後、半右衛門は鉄砲が得意であったため狩人となったが、後に病死。猪之助は樵（きこり）となり、母を養いながら暮らしていた。他人の山の木を切り盗み、薪にして売っていたため、村人から火あぶりで殺されそうになっていたところを、鹿之助に助けられ配下となる。奉公始めに、鉄砲も効かない、牛と同じほどの大きさもある古猪を素手で打ち殺し、鹿之助からこの名をもらった。&amp;lt;/ref&amp;gt; ||早川 鮎之助&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot; name=&amp;quot;鮎之助&amp;quot;&amp;gt;元の名は「吉田 七助」。先祖は、山陰中納言の家臣「吉田 某」であったが、落ちぶれて漁師となっていた。鹿之助に声をかけられ配下となる。長さ2[[間]]ばかりの板を使って急流の川をせき止め、川上へ板を押すことで鮎を取っていたことから、鹿之助にこの名をもらった。&amp;lt;/ref&amp;gt; || 横道 兵庫之助&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot; name=&amp;quot;兵庫之助&amp;quot;&amp;gt;元の名前は不明。兵庫の横町で「熊井 大五郎」に太刀打ちの勝負を挑まれ、窮地に陥っていた場面で鹿之助と出会う。争いの理由は、兵庫之助が[[遊女]]「浮船」と恋仲になり駆け落ちをしたところ、浮船の馴初めの主人、大五郎が浮船を取り返そうと追ってきたため。窮地に陥っていた理由は、金のため刀を売り払い、[[竹光]]しか持っていなかったため。鹿之助から刀を借り、太刀打ちの勝負に勝利すると、恩人である鹿之助に「優れた武芸の持ち主なのに、女性に執心していることが残念だ」と諭され、改心して配下となる。名前の由来は、「今まで色情に溺れていたが、本日より心を改める。生まれ変わるにあたり、名を賜りたい」と鹿之助に願い、鹿之助が「兵庫の土地の横道で苦難に会い、心を改めたため」という理由から「横道 兵庫之助」と名づけたため。&amp;lt;/ref&amp;gt; || 寺本 生死之助&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot; name=&amp;quot;生死之助&amp;quot;&amp;gt;元の名は「寺元 半四郎」。尼子の家臣「尼子 九郎左エ門」が、謀叛を起して尼子家をのっとったとき、偽って九郎左エ門の家臣となった。このとき「寺元 半四郎は、九郎左エ門殿の家臣となって生死を共にせん。半四郎は尼子義久公の為に死んだ。今日より九郎左エ門の臣下に生まれ出たる心をもって、寺元 生死之助と名乗る」と言って自ら名を変えた。&amp;lt;/ref&amp;gt; || 五月 早苗之助&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot; name=&amp;quot;早苗之助&amp;quot;&amp;gt;元の名は不明。新田開発を行う際、大人数でも動かせない大石を、当時13・14歳であった早苗之助が1人で取り除いた。たまたま城下を巡視していた「尼子 義久」が、これを見て早苗之助を気に入り、家来にして「五月 早苗之助」と命名した。&amp;lt;/ref&amp;gt; || 高橋 渡之助&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot; name=&amp;quot;渡之助&amp;quot;&amp;gt;元の名は不明。尼子 晴久の代に、坂豊島の合戦に名をあげた「高橋 太郎」の嫡子。&amp;lt;/ref&amp;gt; || 秋宅 庵之助&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot; name=&amp;quot;庵之助&amp;quot;&amp;gt;元の名は「秋宅 甚助」。&amp;lt;/ref&amp;gt; || 薮中 茨之助&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot; name=&amp;quot;茨之助&amp;quot;&amp;gt;元の名は「藪中 卯之助」。播州室の明神の神主「藪中 主水」の子。幼少より喧嘩を好み、あぶれ者となっていたため、皆に“触るに痛い”人物であるから「茨之助」と呼ばれた。&amp;lt;/ref&amp;gt; || 荒波 碇之助&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot; name=&amp;quot;碇之助&amp;quot;&amp;gt;元の名は「徳蔵」。船の船頭。数十人がかりでも引き上げることが出来なかった碇を1人で引き上げる。その怪力をたたえて、鹿之助が「荒浪 碇之助」と命名した。なお、碇が上がらなかったのは、「早川 鮎之助」が碇を掴んでいたため。鮎之助は、龍宮城で3年間過ごし、この碇に取り付いて地上へ戻ってきた。&amp;lt;/ref&amp;gt; ||  || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! [[天保]]9年（[[1838年]]）!! [[清水寺 (安来市)|清水寺]]の[[絵馬]] &amp;lt;ref name=&amp;quot;清水寺&amp;quot; /&amp;gt;&lt;br /&gt;
| 山中 鹿之助 || 秋上 伊織之助 || 横道 兵庫之助 || 寺本 生死之助 || 植田 早苗之助 || 今川 鮎之助 || 小倉 鼠之助 || 尤 道理之助 || 薮中 荊之助 || 深田 泥之助 ||  || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 江戸時代（19世紀）!! [[歌川芳虎]]の[[浮世絵]] &amp;lt;ref name=&amp;quot;芳虎の浮世絵&amp;quot; /&amp;gt;&lt;br /&gt;
| 山中 鹿之助&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot;&amp;gt;鹿之助は信州塩尻山の麓に出生して父は相木森之助とゆふ　母は更科姫と云ふて世にまれなる勇婦なり　幼きときより山中に有て鹿猿のたすけを得て成長　力強武芸に達して雲州富田の城主尼子式部太夫義久にきてより雷名を轟かす　尼子十勇士の随一なり&amp;lt;/ref&amp;gt; || 大谷 古猪之助&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot;&amp;gt;古猪の介は信州木曽左馬之助の臣大谷半左衛門の子なり　父浪人して鉄砲上手なれば遠州の山里の狩人となり生業とする　幼名を猪之助と呼なり　強弓にして樵夫（きこり）の業をなして母につくす孝行なり　古猪を手捕にして打ち殺せしより大谷古猪の助と名乗　山中鹿之助に従いて勇名をあらわせり&amp;lt;/ref&amp;gt; ||早川 鮎之助&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot;&amp;gt;鮎之助は播州の産なり　家貧しく漁をするにあみ（網）なければ小川の流れを川下より板をうって水を瀬ぎり押しあげて鮎を取る　鹿之助その力の豪傑なるを見て武士に取立　早川鮎之助と号し　其の所を鮎川村と云いて古跡となりしと云いつたふ&amp;lt;/ref&amp;gt; || 横道 兵庫之助&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot;&amp;gt;兵庫の介はまずしき浪人なり　色情に泥み遊女のために冷落して漂泊なし途中にして口論なし　鹿之助の刀をかり闘争に及ひし　働き武芸の達人なりければ尼子の臣となす　鹿之助にあいしたがいしところ兵庫之横みちなりとて横道兵庫之助となりけし&amp;lt;/ref&amp;gt; || 五月 早稲之介&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot;&amp;gt;早苗之助は尼子義久上月城の城主たりし時釣りに出しに農家の童怪力有りて大石を転倒せしを見て家臣となしける　其の時五月なり　早苗を取り植付の時節なりけらば斯く号たりしとぞ　幼君勝丸を補佐して勇名を挙たり&amp;lt;/ref&amp;gt; || 高橋 渡之助&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot;&amp;gt;鹿之助か尼子晴久の代に坂豊島の合戦に高名せし高はし太郎の嫡子なり　生まれつき力量強く武術に達して万夫不当の勇士とよばれ君に忠を励み同盟の士に信なる義気猛勇の士なり&amp;lt;/ref&amp;gt; || 秋宅 庵之助&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot;&amp;gt;庵之助は始め甚助と呼われしに改名して庵之介といふ　武芸に達して比類なき忠臣なり　婦女を扶け勝丸の幼雅を守護なし尼子再興の軍議をなし英勇の名践あらわせし豪傑なり&amp;lt;/ref&amp;gt; || 寺本 生死之助&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot;&amp;gt;生死の助は始め半四郎といえり　尼子九郎左エ門上月の城代山中鹿の助を殺して再び城をうばひ（奪い）返さんと　座頭徳市に毒酒を持たせて　酒宴の時是を鹿の助はじめ勇士等に呑ましめ皆ごろしにす　其の時半四郎はこのまざりしゆえ毒に中ず　義久の為に死なんとなし九郎左エ門の臣下となりて再び生れたかが如く往来生死をともにせんと誓いしよう名を更たり&amp;lt;/ref&amp;gt; || 薮中 茨之助&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot;&amp;gt;茨之助は播州室の明神の神主藪中主水の倅なり　幼名を卯之助といふ　放蕩無頼にして親の家に居ず常に喧嘩をこのみ人に傷を蒙らしめ痛るゆえに渾名して茨の助といふ　尼子にしたかつて勇士の一人と呼すけり&amp;lt;/ref&amp;gt; || 荒波 錠之助&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot;&amp;gt;荒なみいかりの助は尼子の勇士等勝丸を守護なし家再興の合戦に船出なさんとせしに　錠の引きあげかたかりしを船頭徳蔵苦もなく挙げたりし　早川鮎之助竜宮城に三年ありて此の錠に付きてあがりしゆえ勇士の烈をなせしかば船頭とく蔵を武士に取立十勇士に加たり　力量すぐれし豪傑とつげし&amp;lt;/ref&amp;gt; ||  || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 江戸時代（19世紀）!! [[豊原国周]]の[[浮世絵]] &amp;lt;ref name=&amp;quot;国周の浮世絵&amp;quot; /&amp;gt;&lt;br /&gt;
| 山中 鹿之助|| 大谷 古猪之助||早川 鮎之助|| 横道 兵庫之助|| 皐月 早苗之介|| 高橋 亘之助|| 秋宅 庵之助 || 寺本 生死之助 || 薮中 茨之助 || 荒波 碇之助 ||  || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! [[文久]]3年（[[1863年]]）!! 城安寺の絵画&amp;lt;ref&amp;gt;表題は「尼子十勇士図」。[[文久]]3年（[[1863年]]）、広瀬藩9代藩主、[[松平直諒]]の命により、藩お抱えの絵師であった堀江友声が描いたもの。尼子経久も共に描かれる。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
| 山中 鹿之助 幸盛 || 秋上 伊織之助 || 横道 兵庫之助 || 寺本 生死之助 || 植田 早苗之助 || 今川 鮎之助 || 小倉 鼠之助 || 尤 道理之助 || 薮中 荊之助 || 深田 泥之助 ||  || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! [[明治]]16年（[[1883年]]） !! 尼子十勇士伝&amp;lt;ref name=&amp;quot;尼子十勇士伝&amp;quot; /&amp;gt;&lt;br /&gt;
| 山中 鹿之助&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot; name=&amp;quot;鹿之助&amp;quot; /&amp;gt; || 大谷 古猪之助&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot; name=&amp;quot;古猪之助&amp;quot; /&amp;gt; ||早川 鮎之助&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot; name=&amp;quot;鮎之助&amp;quot; /&amp;gt; || 横道 兵庫之助&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot; name=&amp;quot;兵庫之助&amp;quot; /&amp;gt; || 寺本 生死之助&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot; name=&amp;quot;生死之助&amp;quot; /&amp;gt; || 五（皐）月 早苗之助&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot; name=&amp;quot;早苗之助&amp;quot; /&amp;gt; || 高橋 渡之助&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot; name=&amp;quot;渡之助&amp;quot; /&amp;gt; || 秋宅 庵之助&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot; name=&amp;quot;庵之助&amp;quot; /&amp;gt; || 薮中 茨之助&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot; name=&amp;quot;茨之助&amp;quot; /&amp;gt; || 荒波 碇（錠）之助&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot; name=&amp;quot;碇之助&amp;quot; /&amp;gt; ||  || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! [[明治]]44年（[[1911年]]） !! [[立川文庫]] &amp;lt;ref name=&amp;quot;立川文庫&amp;quot; /&amp;gt;&lt;br /&gt;
| 山中 鹿之助 幸盛&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot;&amp;gt;父は村上家の将「相木 森之助 幸雄」。後に武田家の将「馬場 美濃守 信房」の影武者を勤めた。母は「更科姫」。村上家の将「楽岩寺 右馬助 信高」の娘。父森之助の伯父「相木 市兵衛 幸安」に拾われ育てられた（鹿之助は、赤ん坊のとき諸所の事情があって母と別れ、森の中で迷子となっていた。）。名づけ親は伯父の市兵衛。名前の由来は、拾われた場所が山の中で、そのとき鹿の背に乗っていたため「山中 鹿之助」。また、自らの名の1文字（幸安の「幸」）と「この先人生、幸が盛んになるように」と願いをこめて「幸盛」と名づけた。&amp;lt;/ref&amp;gt; || 大谷 古猪之助 幸虎&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot;&amp;gt;元の名は「大谷 猪之助」。父は信州の「木曾 右馬助」に仕えた「大谷 半左衛門」。木曾家が没落後、半左衛門は猟師となったが、後に病死。猪之助は樵（きこり）となり、母を養いながら暮らしていた。山の木を切り盗んだため、村人から火あぶりで殺されそうになっていたところを、鹿之助に助けられ配下となった。奉公始めに、人を何人も撥ね殺した、牛と同じほどの大きさもある古猪を仕留め、鹿之助からこの名をもらった。&amp;lt;/ref&amp;gt; ||早川 鮎之助 幸高&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot;&amp;gt;元の名は「吉田 七助」。先祖は、山陰中納言の家臣「吉田 八郎」であったが、落ちぶれて漁師となっていた。長さ２[[間]]ばかりの板を使って急流の川をせき止め、川上へ板を押すことで鮎を取っていた。その怪力に感心した鹿之助に、声をかけられ配下となった。名前の由来は、この早川をものともせず、鮎を捕る大力をひとつの名として、鹿之助が命名した。&amp;lt;/ref&amp;gt; || 横道 兵庫之助 幸晴&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot;&amp;gt;元の名前は不明。兵庫の横町で、「熊井 大九郎」に太刀打ちの勝負を挑まれ窮地に陥っていた場面で、鹿之助と出会う。争いの理由は、兵庫之助が[[遊女]]「浮船」と恋仲になり駆け落ちをしたところ、同じく浮船に心を寄せる大九郎が浮船を取り返そうと追ってきたため。窮地に陥っていた理由は、金のため刀を売り払い、[[竹光]]しか持っていなかったため。鹿之助から刀を借り、太刀打ちの勝負に勝利すると、恩義を感じ鹿之助の配下となる。名前の由来は、「今まで色情に溺れていたが、本日より心を改める。生まれ変わるにあたり、名を賜りたい」と鹿之助に願い、鹿之助が「兵庫の土地の横道で出会った」という理由から「横道 兵庫之助」と名づけたため。&amp;lt;/ref&amp;gt; || 寺本 生死之助&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot;&amp;gt;元の名は「寺元 半四郎」。尼子の家臣「尼子 九郎左エ門」が、謀叛を起して尼子家をのっとったとき、偽って九郎左エ門の家臣となった。このとき「半四郎は毒酒を飲んで死去し（九郎左エ門は謀叛をおこすにあたり、城を守っていた鹿之助、鮎之助、兵庫之助、半四郎を毒殺しようとした。この中で、半四郎は下戸であったため毒酒を飲まなかった。）、今日より生まれ出でたる拙者である。よって、寺元 生死之助と名を改め、九郎左エ門殿の家臣となり忠勤を励みたい」と言って自ら名を変えた。&amp;lt;/ref&amp;gt; || 皐月 早苗之助&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot;&amp;gt;元の名は「寅蔵」。水呑百姓の寅右衛門の子。川の中にある大きな石を取り除く際、50人がかりでも動かせない大石を、当時12・13歳であった早苗之助が1人で取り除いた。この場面に、たまたま領内を巡視していた「尼子 義久」が早苗之助を気に入り、家来にして鹿之助に預けた。名前の由来は、性は皐月村の者であったから「皐月」。名の「早苗之助」の由来は明記されていない。鹿之助が命名した。&amp;lt;/ref&amp;gt; || 高橋 渡之助&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot; name=&amp;quot;記載なし&amp;quot;&amp;gt;名前についての説明記載なし。&amp;lt;/ref&amp;gt; || 秋宅 庵之助&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot; name=&amp;quot;記載なし&amp;quot; /&amp;gt; || 薮中 茨之助&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot; name=&amp;quot;記載なし&amp;quot; /&amp;gt; || 荒波 碇之助&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot;&amp;gt;元の名は「新井 徳蔵」。南蛮鉄の徳蔵。飲んだくれの徳蔵とも。父は、大友家の家臣「新井 一角」。両親が死亡した後に浪人となり、鐵丸（くろがねまる）という船の船頭となっていた。大勢の船頭でも引き上げることが出来なかった碇を、1人で引き上げる。また「早川 鮎之助」と互角の力比べをしたことにより、その怪力を見込まれ、鹿之助が「荒浪 碇之助」と命名し配下とした。&amp;lt;/ref&amp;gt; ||  || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! [[昭和]]8年（[[1933年]]） !! 読史備要&amp;lt;ref&amp;gt;[[昭和]]8年（[[1933年]]）7月15日、内外書籍より発刊。編集・著者は、[[東京帝国大学史料編纂所]]。大日本資料・大日本古文書を調べる際の手引となることを目的に作成された集成資料集。P729、第一類、名数一覧の〔十〕に「尼子十勇士（尼子十介）」として記載。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
| 山中 鹿介 || 秋宅 庵介 ||横道 兵庫介 || 早川 鮎介 || 尤 道理介 || 寺本 生死介 || 植田 早苗介 || 深田 泥介 || 薮中 荊介 || 小倉 鼠介 ||  || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! [[昭和]]60年（[[1985年]]）？ !! 広瀬少年剣士会&amp;lt;ref&amp;gt;[[島根県]][[安来市]]（[[尼子氏]]の拠点、[[月山富田城]]のあった地）に現在残っている性（山中・秋上・寺本・早川・大谷・高橋・深田・植田・小倉）と、『[[雲陽軍実記]]』や『[[陰徳太平記]]』に確実に出でくる名前を取り上げて、広瀬少年剣士会がまとめた十勇士。”広瀬少年剣士会”とは、地元の少年剣道団体。『尼子盛衰人物記』妹尾豊三郎　編（広瀬町観光協会　[[昭和]]60年（[[1985年]]）12月刊行）P271。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
| 山中 鹿介 || 秋上 庵介 || 横道 兵庫介 || 寺本 生死介 || 植田 早苗介 || 小倉 鼠介 || 早川 鮎介 || 薮中 荊介 || 深田 泥介 || 大谷 古猪介 ||  || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! [[平成]]10年（[[1998年]]） !! [[広辞苑]] &amp;lt;ref name=&amp;quot;広辞苑&amp;quot; /&amp;gt;&lt;br /&gt;
| 山中 鹿介 || 秋宅 庵之介 ||横道 兵庫之介 || 早川 鮎之介 || 尤 道理之介 || 寺本 生死之介 || 植田 早稲之介 || 深田 泥之介 || 薮中 荊之介 || 小倉 鼠之介 ||  || &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物の信憑性 ==&lt;br /&gt;
構成員の名前はすべて駄洒落じみたものとなっており、その実在性が疑問視されていた。しかし、自ら著した書状等が現存しており、実在することが確実な人物もいる。また、十勇士が活躍していた当時の資料にその名が確認でき、存在の可能性を否定できない人物もいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 実在する人物 ===&lt;br /&gt;
次の3名は、自ら著した書状等が現存しており、実在することが確実な人物である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;[[山中幸盛]]&amp;lt;ref&amp;gt;（[[天正]]6年（[[1578年]]））7月8日 遠藤勘介宛 山中幸盛書状「吉川家文書」ほか&amp;lt;/ref&amp;gt;（山中鹿之助、山中鹿助、山中鹿之介、山中鹿介）&lt;br /&gt;
;[[秋上宗信]]&amp;lt;ref&amp;gt;（[[永禄]]12年（[[1569年]]））12月5日 坪内（次郎右衛門尉）宛 秋上宗信書状「坪内家文書」ほか&amp;lt;/ref&amp;gt;（秋宅庵助、秋上伊織之助、秋宅庵之助、秋宅庵介、秋上庵介、秋宅庵之介）&lt;br /&gt;
;[[横道秀綱]]&amp;lt;ref&amp;gt;（[[永禄]]12年（[[1569年]]））10月1日 富兵部大夫宛 尼子氏家臣連著奉書「富家文書」ほか&amp;lt;/ref&amp;gt;（横道兵庫介、横道兵庫助、横道兵庫之助、横道兵庫之介）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 実在の可能性がある人物 ===&lt;br /&gt;
現存する当時の書状等では存在が確認できないが、軍記史料や江戸時代初期の書状等にその名が記載され、実在の可能性がある人物もいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;五月早苗介（五月早苗之助、植田稲葉助、植田早苗助、上田稲葉之介、植田早苗之助、五月早稲之介、皐月早苗之介、皐月早苗之助、植田早苗介、植田早稲之介、植田早稲之介）&lt;br /&gt;
*[[元亀]]元年6月8日、[[吉川元春]]から掘立壱岐守宛への書状に、「上田早苗助」が同年6月3日に佐陀勝間城を攻撃して討ち死にしたと記載される&amp;lt;ref&amp;gt;（[[元亀]]元年（[[1570年]]））6月8日　掘立壱岐守宛　吉川元春書状「掘立家証文写」&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
*[[尼子氏]]の家臣の[[知行]]高を記した文書、『尼子家分限牒（あまごけぶんげんちょう）』に「五月早苗之介」の名前がある&amp;lt;ref&amp;gt;佐々木文書二三六『尼子氏分限牒』。この書は江戸時代に入ってから作成されたとされ、その信憑性については諸説ある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[備中国]]の内、8,013石を所領した。&lt;br /&gt;
*『[[雲陽軍実記]]』に「五月早苗介」の名が記載されている&amp;lt;ref&amp;gt;『雲陽軍実記』第四巻　山中鹿之助、品川大膳、富田川中嶋合戦の事。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;藪中荊助（薮原茨之介、藪中茨之助、藪中荊之助、藪中荊介、藪中荊之介）&lt;br /&gt;
*『[[雲陽軍実記]]』に「藪中荊之助」の名が記載されている&amp;lt;ref&amp;gt;『雲陽軍実記』第四巻　山中鹿之助、品川大膳、富田川中嶋合戦の事。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;寺本生死助（寺本生死之助、寺本生死介、寺本生死之介）&lt;br /&gt;
*『[[太閤記]]』にその名が記載される&amp;lt;ref&amp;gt;『太閤記』巻十九 山中鹿助伝。&amp;lt;/ref&amp;gt;。元の名を寺本半四郎といって、山中甚次郎（[[山中幸盛]]）、秋宅甚介（[[秋上宗信]]）と共に、名前を山中鹿介、秋宅庵之助、寺本障子之助と変えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;井筒女之介&lt;br /&gt;
;*『[[陰徳太平記]]』に[[吉川元春]]配下の境又平春久の注釈に「後に井筒女助と号す」と記載がある&amp;lt;ref&amp;gt;『陰徳太平記』巻四十六　出雲国布部合戦之事。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist|group=&amp;quot;注&amp;quot;}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出典 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*槇島昭武『和漢音釈 書言字考節用集 第十巻 数量、性氏』（1717年）&lt;br /&gt;
*早稲田大学編集部　編集『通俗日本全史 第六巻』（早稲田大学出版部 1913年） 中に『後太平記』を含む&lt;br /&gt;
*早稲田大学編集部　編集『通俗日本全史 第七巻』（早稲田大学出版部 1913年） 中に『後太平記』を含む&lt;br /&gt;
*[[湯浅常山]] 原著『戦国武将逸話集-注釈『常山紀談』巻一～七』大津雄一・田口寛　訳注（勉誠出版 2010年） ISBN 978-4-585-05441-2&lt;br /&gt;
*栗杖亭鬼卵 著・[[石田玉山]] 画『勇婦全伝 絵本更科草紙 初編 巻一之～五』（群玉堂河内屋 1811年）&lt;br /&gt;
*栗杖亭鬼卵 著・[[石田玉山]] 画『勇婦全伝 絵本更科草紙 後編 巻一之～五』（群玉堂河内屋 1812年）&lt;br /&gt;
*栗杖亭鬼卵 著・一峰斎馬円　画『勇婦全伝　絵本更科草紙 三編 巻一之～五』（河内屋茂兵衛 1821年）&lt;br /&gt;
*和田篤太郎 編纂『尼子十勇士伝 上巻』（春陽堂 1883年）&lt;br /&gt;
*和田篤太郎 編纂『尼子十勇士伝 中巻』（春陽堂 1883年）&lt;br /&gt;
*和田篤太郎 編纂『尼子十勇士伝 下巻』（春陽堂 1883年）&lt;br /&gt;
*雪花散人『武士道精華 山中鹿之助』（立川文明堂 1911年）&lt;br /&gt;
*東京帝国大学史料編纂所 編著『読史備用』（内外書籍 1933年）&lt;br /&gt;
*新村出 編『[[広辞苑]]－第五版』（岩波書店 1998年）&lt;br /&gt;
*妹尾豊三郎『尼子盛衰人物記』（広瀬町観光協会　1985年）&lt;br /&gt;
*島根県立古代出雲歴史博物館『戦国大名 尼子氏の興亡－平成二十四年度企画展』（島根県立古代出雲歴史博物館 2012年）&lt;br /&gt;
*[[宣阿|香川景継]]『陰徳太平記 全6冊』米原正義　校注（東洋書院、1980年） ISBN 4-88594-252-7&lt;br /&gt;
*河本隆政『尼子毛利合戦 雲陽軍実記』勝田勝年　校注（新人物往来社 1978年）&lt;br /&gt;
*[[小瀬甫庵]]『太閤記-新日本古典文学大系60』檜谷昭彦・江本裕　校注（岩波書店 1996年） ISBN 4-00-240060-3&lt;br /&gt;
*[[岡谷繁実]]『[[名将言行録]]（一）〔全8冊〕』（岩波書店 1943年） ISBN 4-00-331731-9&lt;br /&gt;
*[[広瀬町 (島根県)|広瀬町]]教育委員会 編集『尼子氏関係資料調査報告書』（広瀬町教育委員会　2003年）&lt;br /&gt;
*広瀬町教育委員会 編集『出雲尼子史料集（下巻）』（広瀬町教育委員会　2003年）&lt;br /&gt;
*[[米原正義]] 編『山中鹿介のすべて』（新人物往来社 1989年） ISBN 4-404-01648-4&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:あまこしゆうゆうし}}&lt;br /&gt;
[[Category:尼子氏]]&lt;br /&gt;
[[Category:文学の登場人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:島根県の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本史の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:名数10]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E7%B2%89%E6%B2%B3%E5%AF%BA&amp;diff=67157</id>
		<title>粉河寺</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E7%B2%89%E6%B2%B3%E5%AF%BA&amp;diff=67157"/>
		<updated>2014-07-25T01:11:54Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{otheruses|和歌山県紀の川市にある粉河寺|かつて栃木県宇都宮市にあった粉河寺|粉河寺 (宇都宮市)}}&lt;br /&gt;
{{日本の寺院|&lt;br /&gt;
名称 = 粉河寺|&lt;br /&gt;
画像 = [[画像:Kokawadera13s3872.jpg|260px]]&amp;lt;br /&amp;gt;本堂|&lt;br /&gt;
所在地 = 和歌山県紀の川市粉河2787|&lt;br /&gt;
位置 = {{ウィキ座標2段度分秒|34|16|51.46|N|135|24|21.27|E|region:JP-30_scale:20000|display=inline,title}}|&lt;br /&gt;
山号 = 風猛山（ふうもうざん）|&lt;br /&gt;
宗派 = 粉河観音宗（[[天台宗]]系）|&lt;br /&gt;
寺格 = 総本山|&lt;br /&gt;
本尊 = [[千手観音|千手千眼観音菩薩]]|&lt;br /&gt;
創建年 = （伝）[[宝亀]]元年（[[770年]]）|&lt;br /&gt;
開基 = （伝）[[大伴孔子古]]|&lt;br /&gt;
正式名 = |&lt;br /&gt;
別称 = |&lt;br /&gt;
札所等 = [[西国三十三所]]第三番|&lt;br /&gt;
文化財 = 粉河寺縁起絵巻（[[国宝]]）&amp;lt;br /&amp;gt;大門・中門・本堂・千手堂（国の[[重要文化財]]）&amp;lt;br /&amp;gt;粉河寺庭園（国の[[名勝]]）|&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;粉河寺&#039;&#039;&#039;（こかわでら）は、[[和歌山県]][[紀の川市]]粉河にある天台系の[[寺院]]。[[西国三十三所]]第三番札所。山号は風猛山（ふうもうざん、かざらぎさん）。宗派は[[天台宗]]系の[[粉河観音宗]]総本山。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本尊は、[[千手観音|千手千眼観音菩薩]]。伝承によれば創建は[[宝亀]]元年（[[770年]]）、[[大伴孔子古]]（おおとものくじこ）によるとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
[[File:The Legendary Origins of Kokawadera 1.jpg|thumb|right|300px|粉河寺縁起絵巻 第三段 河内国の長者宅を訪れる童行者（実は千手観音の化身）]]&lt;br /&gt;
[[File:The Legendary Origins of Kokawadera 2.jpg|thumb|right|300px|粉河寺縁起絵巻 第五段 粉河へ向けて出立の準備をする長者の一族]]&lt;br /&gt;
草創の縁起は『[[粉河寺縁起絵巻]]』（[[国宝]]）に伝えられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「粉河寺縁起」には2つの説話が語られている。1つ目の話は粉河寺の草創と千手観音の由来に関するものである。紀伊国の猟師・大伴孔子古は宝亀元年（770年）のある日、山中に不思議な光を発する場所を見つけて、そこに小さな庵を営んだ。これが粉河寺の始まりという。その後のある日、孔子古の家に一人の童子（童男行者）が訪ねて来て、一晩泊めてくれと言う。童子は宿を借りたお礼にと言って、7日かけて千手観音の像を刻んだ。8日目の朝、孔子古が見てみると童子の姿はなく、金色の千手観音の像だけがあった。孔子古は殺生をやめて観音を信仰するようになったとのことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2つ目の話は千手観音の霊験説話である。河内国の長者・佐太夫の娘は重い病で明日をも知れぬ命であった。そこへどこからともなく現れた童行者が千手千眼陀羅尼を称えて祈祷したところ、娘の病は全快した。喜んだ長者がお礼にと言って財宝を差し出すが童行者は受け取らず、娘の提鞘（さげざや、小太刀）と緋の袴だけを受け取り、「私は紀伊国[[那賀郡 (和歌山県)|那賀郡]]におります」と言って立ち去った。長者一家が那賀郡を尋ねて行くと、小さな庵に千手観音像が立ち、観音の手には娘の提鞘と緋の袴があった。長者一家は、あの行者が観音の化身であったことを知ってその場で出家し、孔子古とともに粉河寺の繁栄に尽くしたとのことである&amp;lt;ref&amp;gt;ここまで2つの説話について次のウェブサイトによる。{{Cite web|url=http://www.kokawadera.org/history.html|title=粉河寺の草創と沿革|publisher=[http://www.kokawadera.org/ 粉河寺]|accessdate=2014-07-23}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上の説話がどこまで史実を反映したものかは定かでないが、粉河寺は平安時代には朝廷や貴族の保護を得て栄えたことは確かである。[[清少納言]]の『[[枕草子]]』194段には「寺は壺坂、笠置、法輪（中略）石山、粉川、志賀」とあり、『[[梁塵秘抄]]』に載せる[[今様]]には、「観音験（しるし）を見する寺、清水、石山、長谷の御山、粉河（後略）」とある。[[西行]]の『[[山家集]]』や、架空の物語である『[[うつほ物語]]』『[[狭衣物語]]』にも粉河寺への言及があるなど、遅くとも平安時代中期・10世紀には観音霊場として著名であったことがわかる。平安時代後期には、その頃から始まった西国三十三所観音霊場巡りの札所の1つとして栄えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[天正]]13年（[[1585年]]）、[[豊臣秀吉]]が紀州に攻め入り、[[根来寺]]や[[雑賀衆]]とともに抵抗したものの全山焼失した。この時、粉河寺縁起絵巻も焼損した。[[正徳 (日本)|正徳]]3年（1713年）にも火災があり、現在の伽藍はほとんどがそれ以降の[[江戸時代]]の再建である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大門から南に約1キロメートル続くJR[[粉河駅]]前通は、[[門前町]]として栄えたが、県道の拡幅工事により、かつての面影はなくなってしまっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 御詠歌 ==&lt;br /&gt;
: 父母の&lt;br /&gt;
: 恵みも深き&lt;br /&gt;
: 粉河寺&lt;br /&gt;
: ほとけの誓ひ&lt;br /&gt;
: たのもしの身や&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 本尊 ==&lt;br /&gt;
粉河寺の本尊千手観音像は絶対の秘仏とされ、公開された記録はない。日本の仏教寺院では、本尊が秘仏である場合、「お前立ち」と称する代わりの像を本尊厨子の手前に安置する場合があるが、粉河寺においては「お前立ち」像も秘仏である。本尊像は火災を避けるために本堂下の地中に容器に入れて埋められているとされる。「お前立ち」像は年に一度、12月31日に僧籍にある関係者が掃除のために開扉するのみで、在家の者が拝観する機会はない&amp;lt;ref&amp;gt;毎日新聞社編・刊行『秘仏』、1991、p201&amp;lt;/ref&amp;gt;。なお、内陣背面に安置された「裏観音」と称する千手観音像は拝観可能である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2008年から2010年にかけて、[[花山天皇|花山法皇]]一千年忌を記念して、西国三十三所のすべての札所寺院において秘仏の結縁開扉が行われているが、粉河寺の本尊像はこの際にも開扉されることはなく、2008年10月に特別開扉されたのは、本堂の隣の千手堂の千手観音像である。なお、寺には高さ33センチメートルほどの木造の菩薩像頭部（11世紀頃の作）が所蔵され、これが旧本尊像の頭部であるともいわれている&amp;lt;ref&amp;gt;この菩薩像頭部は、2008年8月から11月にかけて奈良国立博物館および名古屋市博物館で開催された特別展「西国三十三所 観音霊場の祈りと美」に出展された。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 伽藍 ==&lt;br /&gt;
{{右|&lt;br /&gt;
[[画像:Kokawadera-N0176.JPG|thumb|none|220px|本堂]]&lt;br /&gt;
[[画像:Kokawadera01s3200.jpg|thumb|none|220px|大門]]&lt;br /&gt;
[[画像:Kokawadera09s3872.jpg|thumb|none|220px|中門]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
JR粉河駅から徒歩10分ほどのところに大門が建つ。境内南西に南面した大門をくぐると参道は右手に曲がり、参道の右側は川、左側には本坊、童男堂（どうなんどう）などの諸堂が並ぶ。参道の先には西面して中門が建ち、そこからさらに一段高く造成された平地に本堂、千手堂、六角堂、丈六堂などが建つ&amp;lt;ref name=&amp;quot;Pref_Kokawadera&amp;quot;&amp;gt;{{Cite web|url=http://wave.pref.wakayama.lg.jp/bunkazai/cgi/search.cgi?action=view_id&amp;amp;view_id=180|title=粉河寺/4棟|work=[http://wave.pref.wakayama.lg.jp/bunkazai/index.html わかやま文化財ガイド]|publisher=和歌山県|accessdate=2014-07-22}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。本堂前の斜面は巨石を並べた庭園（国の名勝）になっている（[[#庭園|後述]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===本堂===&lt;br /&gt;
西国三十三所の寺院の中で最大級の堂で、中門の先、一段高くなった敷地に建つ。享保5年（[[1720年]]）上棟。本尊千手観音（秘仏）を安置する正堂（しょうどう）と、礼拝のための礼堂（らいどう）を前後に並べた形式になり、西国札所として、多数の参詣者を収容する必要から、礼堂部分を広く取っている。外観は高さの違う入母屋屋根を前後に並べ、千鳥破風を付し、さらに唐破風造の向拝を正面に付した複雑な構成になる。礼堂は入母屋造単層、本瓦葺き。柱間は正面9間、側面4間で、前半分の2間分を建具を設けない吹き放しとし、参詣者用の空間としている。正堂は入母屋造重層、本瓦葺き。柱間は正面7間、側面6間で、前方の2間分は礼堂に組み込まれている。様式的には、虹梁形の頭貫や台輪を使用する点、正堂の組物を詰組とする点など、細部に禅宗様の要素がみられる。正堂内部には正面3間、側面3間の内陣を設ける。内陣の正面1間分は須弥壇とし、千手観音の眷属である[[二十八部衆]]像と[[風神]][[雷神]]像計30体を左右15体ずつ安置する。その奥の正面2間、側面2間は千手観音像の安置場所で、扉と壁で囲まれた閉鎖的なスペースとする。その内部は公開されていないが、土間床とし、中央に六角形の厨子を安置する&amp;lt;ref&amp;gt;本堂内の様子については参考文献の『月刊文化財』400号所収「新指定の文化財」による。&amp;lt;/ref&amp;gt;。ここに安置する千手観音像は「お前立ち」像とされ、真の本尊は本堂下の地中に埋められているという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===その他の堂宇===&lt;br /&gt;
*大門（重要文化財） - 境内入口に建つ。宝永4年（[[1707年]]）建立。入母屋造、本瓦葺きの楼門（2階建て門）。仏師春日作と伝える金剛力士像を安置。&lt;br /&gt;
*中門（重要文化財） - 入母屋造、本瓦葺きの楼門。左右の間に四天王像を安置する。棟札によれば明和（[[1764年|1764]] - [[1772年]]）頃から長い年月をかけて天保3年（[[1832年]]）に完成した。「風猛山」の扁額は紀州十代藩主[[徳川治宝]]の筆&lt;br /&gt;
*千手堂（重要文化財） - 宝暦10年（[[1760年]]）建立。本堂の左に建つ宝形造（ピラミッド形屋根）の小堂である。本尊の千手観音立像は秘仏で、2008年10月1日から10月31日までの間、217年ぶりに開扉された。&lt;br /&gt;
*童男堂 - 県指定文化財、延宝7年（[[1679年]]）の建立。&lt;br /&gt;
*不動堂&lt;br /&gt;
*本坊 - 内陣には八代将軍[[徳川吉宗]]寄進の「野荒らしの虎」がある。&lt;br /&gt;
*念仏堂（光明殿） - 江戸時代後期築、総欅造&lt;br /&gt;
*太子堂&lt;br /&gt;
*六角堂&lt;br /&gt;
*丈六堂&lt;br /&gt;
*地蔵堂&lt;br /&gt;
*行者堂&lt;br /&gt;
*薬師堂&lt;br /&gt;
*出現池&lt;br /&gt;
*粉河寺[[阿弥陀如来]]像（露座仏） - 市指定文化財、[[1862年]]作、鐫字、総長210cm、像長144cm。紀州八代藩主[[徳川重倫]]らの寄進。&lt;br /&gt;
*盥漱盤（荷葉鉢） - 市指定文化財、[[1775年]]、粉河鋳物師蜂屋薩摩掾五代目源正勝の作。総高240cm、幅185cm&lt;br /&gt;
*[[産土神社]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 塔頭 ===&lt;br /&gt;
*円解院&lt;br /&gt;
*修徳院&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
Image:Kokawa-dera Temple - Dai-mon Gate - Kongôrikishi - Agyô.jpg|大門の金剛力士像&lt;br /&gt;
Image:Kokawa-dera Temple - Dônan-dô.jpg|童男堂&lt;br /&gt;
Image:Kokawa-dera Temple - Taishi-dô.jpg|太子堂&lt;br /&gt;
Image:Kokawa-dera Temple - Rokkaku-dô.jpg|六角堂&lt;br /&gt;
Image:Kokawa-dera Temple - Gyôja-dô.jpg|行者堂&lt;br /&gt;
Image:Kokawa-dera Temple - Yakushi-dô.jpg|薬師堂&lt;br /&gt;
Image:Kokawa-dera Temple - Shutsugen-ike Pond.jpg|出現池&lt;br /&gt;
Image:Kokawadera08s3872.jpg|盥漱盤&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 庭園 ==&lt;br /&gt;
[[画像:Kokawadera10s3200.jpg|thumb|300px|粉河寺庭園]]&lt;br /&gt;
*粉河寺庭園 - 国指定の[[名勝]]。中門から約3メートルの高さの石段を経て本堂に至る、その両翼に土留め石垣を兼ねた石組の庭である。緑泥片岩を主とし、琴浦（ことうら）の紫石、龍門石（りゅうもんいし）などの紀州の名石を含む、多数の巨大な岩石が変化に富む手法で堅固に、美しく組まれている。ツツジの刈込みで石の間隙をうずめ、さらにビャクシン・シダレザクラ・ソテツなどの植栽が組み合わされている。石組全体の構成は向かって左手に重点をおき、枯れ滝・石橋・鶴亀の島などを象徴的に表現し、右手にゆくに従って石の扱いは軽くなっている。このような構成は庭園としては異例のものである。作庭の年代も不明であるが、手法からみて桃山時代の豪華な作風が如実にあらわれており、江戸時代初期を下らないころの作であると推定される&amp;lt;ref name=&amp;quot;Kokawadera_teien&amp;quot;&amp;gt;次のウェブサイトによる。{{国指定文化財等データベース2|name = 粉河寺庭園|register = 401|item = 2086|year = 1970|jyear = 昭和45|month = 4|date = 23|cat1 = 名勝|accessdate = 2014-07-22}}{{Cite web|url=http://wave.pref.wakayama.lg.jp/bunkazai/cgi/search.cgi?action=view_id&amp;amp;view_id=182|title=粉河寺庭園|work=[http://wave.pref.wakayama.lg.jp/bunkazai/index.html わかやま文化財ガイド]|publisher=和歌山県|accessdate=2014-07-22}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--本堂の擁壁を兼ねた前庭は、豪壮な石組みに植栽を合わせた座視式の[[枯山水]][[蓬莱]][[庭園]]である。[[桃山時代]]・[[上田重安|上田宗箇]]の作庭とされる先例のない様式。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
*粉河寺御池坊庭園 - 市指定文化財。[[江戸時代]]初期築造の池泉鑑賞式庭園。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 文化財 ==&lt;br /&gt;
=== 国宝（美術品） ===&lt;br /&gt;
*[[粉河寺縁起絵巻|紙本著色粉河寺縁起絵巻]] 1巻（絵画） - 1953年（昭和28年）3月31日指定&amp;lt;ref&amp;gt;{{国指定文化財等データベース2|name = 紙本著色粉河寺縁起|register = 201|item = 83|year = 1953|jyear = 昭和28|month = 3|date = 31|cat1 = 国宝|class = 美術品|accessdate = 2014-07-22}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。内容については本ページの「歴史」の項で述べた。鎌倉時代初期の作と思われる。当時の生活の様子がわかる風俗資料としても貴重なものである。全巻にわたり、料紙の上端と下端に焼損痕があり、絵や詞書の一部が失われている。[[京都国立博物館]]に寄託。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 重要文化財 ===&lt;br /&gt;
*粉河寺 4棟（建造物） - 1996年（平成8年）12月10日指定&amp;lt;ref name=&amp;quot;Pref_Kokawadera&amp;quot;/&amp;gt;。本堂（1棟 附 指図3枚および文書1紙）&amp;lt;ref name=&amp;quot;Hondou&amp;quot;&amp;gt;{{国指定文化財等データベース2|name = 粉河寺本堂|register = 102|item = 2855|year = 1996|jyear = 平成8|month = 12|date = 10|cat1 = 重要文化財|class = 建造物|accessdate = 2014-07-22}}&amp;lt;/ref&amp;gt;、千手堂（1棟）&amp;lt;ref name=&amp;quot;Senjudo&amp;quot;&amp;gt;{{国指定文化財等データベース2|name = 粉河寺千手堂|register = 102|item = 2856|year = 1996|jyear = 平成8|month = 12|date = 10|cat1 = 重要文化財|class = 建造物|accessdate = 2014-07-22}}&amp;lt;/ref&amp;gt;、中門（1棟 附 棟札1枚）&amp;lt;ref name=&amp;quot;Chumon&amp;quot;&amp;gt;{{国指定文化財等データベース2|name = 粉河寺中門|register = 102|item = 2857|year = 1996|jyear = 平成8|month = 12|date = 10|cat1 = 重要文化財|class = 建造物|accessdate = 2014-07-22}}&amp;lt;/ref&amp;gt;、大門&amp;lt;ref name=&amp;quot;Daimon&amp;quot;&amp;gt;{{国指定文化財等データベース2|name = 粉河寺大門|register = 102|item = 2858|year = 1996|jyear = 平成8|month = 12|date = 10|cat1 = 重要文化財|class = 建造物|accessdate = 2014-07-22}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。今日の粉河寺境内を構成する堂舎群で、[[正徳 (日本)|正徳]]3年（[[1713年]]）の火災の後に再建された&amp;lt;ref name=&amp;quot;Pref_Kokawadera&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 名勝 ===&lt;br /&gt;
*粉河寺庭園 - 1970年（昭和45年）4月23日指定&amp;lt;ref name=&amp;quot;Kokawadera_teien&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===和歌山県有形文化財===&lt;br /&gt;
*粉河寺童男堂 1棟（建造物） - 1965年（昭和40年）4月14日指定。千手観音の化身とされる童男大士を祀る。三間四方の正堂の前方に五間二間の礼堂を設け、奥行一間の合の間を増築し、宝暦5年（1755年）に現状のような屋根に変更したことが、棟札によってわかる。当寺の草創にかかわる重要な建物だけに時代の要請によってその都度改良を加えていったものと考えられる&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|url=http://wave.pref.wakayama.lg.jp/bunkazai/cgi/search.cgi?action=view_id&amp;amp;view_id=181|title=粉河寺童男堂|work=[http://wave.pref.wakayama.lg.jp/bunkazai/ わかやま文化財ガイド]|publisher=和歌山県|accessdate=2014-07-22}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 前後の札所 ==&lt;br /&gt;
;[[西国三十三所]]&lt;br /&gt;
:2 [[紀三井寺]]（護国院）　-&amp;lt;small&amp;gt;&amp;lt;/small&amp;gt;-　&#039;&#039;&#039;3 粉河寺 &#039;&#039;&#039;　-&amp;lt;small&amp;gt;&amp;lt;/small&amp;gt;-　4 [[施福寺]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 交通アクセス ==&lt;br /&gt;
*[[西日本旅客鉄道|JR西日本]][[和歌山線]][[粉河駅]]下車徒歩10分&lt;br /&gt;
*[[阪和自動車道|阪和道]]の[[和歌山インターチェンジ|和歌山IC]]から国道24号を東へ、粉河交差点を左折、1.1kmで大門前&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 所在地 ==&lt;br /&gt;
〒649-6531　和歌山県紀の川市粉河2787&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 周辺情報 ==&lt;br /&gt;
*[[慈尊院]]&lt;br /&gt;
*[[真田庵]]&lt;br /&gt;
*[[根来寺]]&lt;br /&gt;
*[[高野山]]&lt;br /&gt;
*[[十禅律院]]（隣接）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*「新指定の文化財」『月刊文化財』400号、第一法規、1997（建造物の解説あり）&lt;br /&gt;
*奈良国立博物館・NHKプラネット近畿編『西国三十三所 観音霊場の祈りと美』（特別展図録）、発行:奈良国立博物館、名古屋市博物館、NHKプラネット近畿、NHKサービスセンター、2008（解説執筆は頼富本宏、清水健ほか）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[日本庭園]]&lt;br /&gt;
*[[日本の寺院一覧]]&lt;br /&gt;
*[[日本国指定名勝の一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
{{Commons|Category:Kokawadera}}&lt;br /&gt;
*[http://www.kokawadera.org/ 粉河寺]&lt;br /&gt;
*[http://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/000200/photomuseum/010.html 粉河寺] - [http://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/000200/photomuseum/index.html 和歌山県フォト博物館]（和歌山県）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:こかわてら}}&lt;br /&gt;
[[Category:天台系仏教]]&lt;br /&gt;
[[Category:和歌山県の寺]]&lt;br /&gt;
[[Category:西国三十三所]]&lt;br /&gt;
[[Category:和歌山県にある国指定の名勝]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本庭園]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の国宝 (絵画)]]&lt;br /&gt;
[[Category:和歌山県の重要文化財]]&lt;br /&gt;
[[Category:江戸時代の建築]]&lt;br /&gt;
[[Category:紀の川市の歴史]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E5%86%85%E5%B9%B8%E7%94%BA&amp;diff=51165</id>
		<title>内幸町</title>
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		<updated>2014-07-25T01:09:46Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: /* 歴史 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Pathnav|日本|東京都|千代田区|frame=1}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;内幸町&#039;&#039;&#039;（うちさいわいちょう）は、[[東京都]][[千代田区]]の[[地名]]で、旧[[麹町区]]の[[地域]]内である。[[郵便番号]]は、100-0011。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 地理 ==&lt;br /&gt;
東京都千代田区の南東端に位置し、[[中央区 (東京都)|中央区]]（[[銀座]]）・[[港区 (東京都)|港区]]（[[新橋 (東京都港区)|新橋]]・[[西新橋]]）との区境にあたる。[[帝国ホテル]]、[[富国生命保険|富国生命保険相互会社]]、[[みずほ銀行]]をはじめ、多数の企業本社などを有する[[オフィス街]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
[[江戸時代]]以前は全域が[[日比谷入江]]に含まれたと考えられている。その後埋め立てられ[[大名屋敷]]として整備されたが、北東南の三方は水路が埋め残され、[[江戸城]][[外濠 (東京都)|外濠]]の内側に面する形となっていた。東に山下橋、南に幸橋が架けられていたが、それぞれ山下御門、幸橋御門が設置され、濠外からの警備が厳重になされていた。武家地のため町名はなく、橋を目印に山下門内、幸橋内などと俗称されていた。なお、両者共に門外の町名に由来する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
内幸町の町名は明治5年からのものだが、昭和13年以前と以降では指す範囲が異なる。現在の内幸町は帝国ホテルなどがある一丁目1番地が旧内山下町一丁目、一丁目のそれ以外及び二丁目全域が旧内幸町一丁目である。なお、旧内山下町二丁目は[[日比谷公園]]内、旧内幸町二丁目は[[経済産業省]]・[[日本郵政]]のある[[霞が関]]一丁目3番地にあたる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 旧内山下町一丁目 ===&lt;br /&gt;
北側のほぼ帝国ホテルに相当する区域には、[[寛永]]期当初は[[陸奥国|陸奥]][[仙台藩]][[伊達氏|伊達家]]中屋敷があった。[[明暦の大火]]後、[[遠江国|遠江]][[横須賀藩]][[本多氏|本多家]]上屋敷、[[出羽国|出羽国]][[上山藩]][[土岐氏|土岐家]]上屋敷に分割、[[天和 (日本)|天和]]2年（[[1682年]]）に[[備後国|備後]][[備後福山藩|福山藩]][[阿部氏|阿部家]]上屋敷、その後[[奏者番]]を務める者に順次受け継がれ、[[幕末]]には[[陸奥国|陸奥]][[白河藩]][[阿部氏 (徳川譜代)|阿部家]]上屋敷、後[[備中国|備中]][[備中松山藩|松山藩]][[板倉氏|板倉家]]上屋敷となった。明治初年には一時的に[[清水徳川家]]の手に渡った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在NTTやみずほ銀行・東京電力がある南部は、西側が[[薩摩国|薩摩]][[薩摩藩|鹿児島藩]][[島津氏|島津家]]中屋敷（通称装束屋敷）、北東部に[[肥前国|肥前]][[佐賀藩]][[鍋島氏|鍋島家]]下屋敷、南東部に[[肥前国|肥前]][[小城藩]][[鍋島氏|鍋島家]]上屋敷があったが、[[寛文]]年間に島津家が佐賀藩邸を兼併し、小城藩邸を取り囲む形となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
旧松山・薩摩藩邸には明治6年（[[1873年]]）博覧会事務局が移転し、明治8年（[[1875年]]）[[内務省 (日本)|内務省]]管轄の博物館となり、動物園・植物園等が併設された。明治14年（[[1881年]]）[[上野公園]]へ移転し、[[東京国立博物館]]や[[上野動物園]]となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
跡地は南部は[[外務省]][[鹿鳴館]]、北東部が[[農商務省]]農産陳列所、北西部が[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]官舎となった。明治23年（[[1890年]]）、鹿鳴館は廃止され、建物は[[華族会館]]となり、南側の前庭部には[[日本勧業銀行]]、[[台湾総督府]]東京出張所が建った。同時に農産陳列所跡に[[帝国ホテル]]が開業した。帝国ホテルは[[大正]]の建替えの際、内務大臣官舎地を合併し、ほぼ現在の土地となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
華族会館は昭和2年（[[1927年]]）[[日本徴兵保険会社]]に払い下げられ、建物取壊し後も同社の新社屋が建ち、戦後も[[大和生命保険]]として存続した。台湾総督府はその後[[東洋拓殖]]ビルとなったが、日本勧業銀行は長く当地存続し、戦後東洋拓殖ビル地を兼併し、現在[[みずほ銀行]]本社となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、東南角にあった旧鍋島邸は帝国五二会館、[[南満州鉄道]]東京支店等を経て、[[関東大震災]]後[[立憲政友会]]本部となった。戦後[[東京電力]]本社となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 旧内幸町一丁目 ===&lt;br /&gt;
現在この区域は[[日比谷通り]]によって東西に分断され、東側が内幸町一丁目に含まれ、西側が二丁目となっているが、江戸時代にはこの通りは日比谷公園南端の内幸町交差点で止まっており、一つのまとまった街区であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
寛永期には、東から順に[[陸奥国|陸奥]][[盛岡藩]][[南部氏|南部家]]、[[肥前国|肥前]][[唐津藩]][[寺沢氏|寺沢家]]、陸奥[[会津藩]][[加藤氏|加藤家]]、[[日向国|日向]][[飫肥藩]][[伊東氏|伊東家]]、[[肥後国|肥後]][[人吉藩]][[相良氏|相良家]]の各上屋敷が存在した。このうち、東部の南部・寺沢・加藤の三邸は[[正徳 (日本)|正徳]]3年（[[1713年]]）[[柳沢吉保]]の手に渡り、以降[[大和国|大和]][[郡山藩]]上屋敷となった。また、相良邸は[[石見国|石見]][[津和野藩]][[亀井氏|亀井家]]上屋敷となり、東から柳沢邸、伊東邸、相良邸として幕末まで続いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治元年（[[1868年]]）、柳沢屋敷は[[東京府]]に転用された。明治27年（[[1894年]]）[[有楽町]]に移転後、[[夏目漱石]]が入院したことで知られる長与胃腸病院や、[[仁壽生命保険]]本社、[[東京倶楽部]]などがあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
伊東邸は島津家に渡った後分譲され、[[都新聞]]、病院や法律事務所が立ち並んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
亀井邸は明治元年、すぐ北の陸奥[[相馬中村藩|中村藩]][[相馬氏|相馬家]]の所有となった。相馬家は大正4年（[[1915年]]）に御留山に越したが、その後も家令志賀直道（[[志賀直哉]]の祖父）が住んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 地域 ==&lt;br /&gt;
; 企業&lt;br /&gt;
* [[NTTコミュニケーションズ]] - 本社所在地（[[NTT日比谷ビル]]）&lt;br /&gt;
* [[JFEスチール]] - 本社所在地&lt;br /&gt;
* [[マツダ]] - 東京本社所在地&lt;br /&gt;
* [[新生銀行]] - 本店所在地（2010年まで。2011年より、[[日本橋室町]]に所在）&lt;br /&gt;
* [[新日本有限責任監査法人]] - 本部所在地&lt;br /&gt;
* [[東京電力]] - 本店所在地&lt;br /&gt;
* [[富国生命保険]] - 本社所在地&lt;br /&gt;
* [[みずほ銀行]] - 東京営業部（[[みずほ銀行内幸町本部ビル]]）&lt;br /&gt;
* [[双日]] - 本社所在地&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 報道機関&lt;br /&gt;
* [[中日新聞社]] - [[中日新聞東京本社|東京本社]]所在地（[[東京新聞]]発行母体）&lt;br /&gt;
* [[日本記者クラブ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 観光 ==&lt;br /&gt;
; 名所&lt;br /&gt;
* [[帝国ホテル]]東京&lt;br /&gt;
; 旧跡&lt;br /&gt;
* [[東京府|東京府庁]] - [[1868年]]（[[慶応]]4年・[[明治]]元年）に[[大和郡山藩]]上屋敷を接収して使用した。[[1894年]]（明治27年）に麹町区[[有楽町]]に新庁舎が完成したため移転した。&lt;br /&gt;
* [[鹿鳴館]] - 旧[[薩摩藩]]装束屋敷跡に建設され、[[1883年]]完成。のちに[[華族会館]]への払い下げ、徴兵生命保険（現・[[大和生命保険]]）への売却を経て[[1940年]]に取り壊された。跡地はNBF日比谷ビル（旧大和生命ビル）。隣接する帝国ホテルとの間に記念碑が設置されている。&lt;br /&gt;
* [[日本放送協会]] (NHK) - 本部・[[NHK東京放送会館|東京放送会館]]が[[1938年]]に愛宕山から移転。現在の[[渋谷区]][[神南]]の[[NHK放送センター|放送センター]]に移転した[[1973年]]まで存在していた。日比谷通り沿いには小さな放送記念碑が設置されている。跡地は[[日比谷シティ]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 交通 ==&lt;br /&gt;
; [[鉄道]]&lt;br /&gt;
* [[都営地下鉄]] [[内幸町駅]]（&amp;lt;span style=&amp;quot;color: #0079c2&amp;quot;&amp;gt;&#039;&#039;&#039;○&#039;&#039;&#039;&amp;lt;/span&amp;gt;[[都営地下鉄三田線|三田線]]）&lt;br /&gt;
* [[東京地下鉄]] [[霞ケ関駅 (東京都)|霞ケ関駅]]（&amp;lt;span style=&amp;quot;color: #e60012&amp;quot;&amp;gt;&#039;&#039;&#039;○&#039;&#039;&#039;&amp;lt;/span&amp;gt;[[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]]、&amp;lt;span style=&amp;quot;color:#95989F&amp;quot;&amp;gt;&#039;&#039;&#039;○&#039;&#039;&#039;&amp;lt;/span&amp;gt;[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]、&amp;lt;span style=&amp;quot;color: #009944&amp;quot;&amp;gt;&#039;&#039;&#039;○&#039;&#039;&#039;&amp;lt;/span&amp;gt;[[東京メトロ千代田線|千代田線]]） - 出入口が設けられている。（所在地：[[霞が関]]）&lt;br /&gt;
* 東京地下鉄 [[新橋駅]]（&amp;lt;span style=&amp;quot;color:orange&amp;quot;&amp;gt;&#039;&#039;&#039;○&#039;&#039;&#039;&amp;lt;/span&amp;gt;[[東京メトロ銀座線|銀座線]]） - 出入口が設けられている。（所在地：[[港区 (東京都)|港区]][[新橋 (東京都港区)|新橋]]）&lt;br /&gt;
; バス&lt;br /&gt;
* [[東急バス]]：[[東急バス目黒営業所#自由が丘線|東98系統]] 経済産業省前 / 内幸町（等々力操車所行） - [[東京駅]][[丸の内]]南口行は[[日比谷公園]] / [[霞が関]]に設けられている。&lt;br /&gt;
* [[都営バス]]：[[都営バス小滝橋営業所#橋63系統|橋63系統]] 内幸町&lt;br /&gt;
; [[道路]]&lt;br /&gt;
* [[東京都道301号白山祝田田町線]]（祝田通り）&lt;br /&gt;
* [[日比谷通り]]（[[東京都道409号日比谷芝浦線]]）&lt;br /&gt;
; 首都高速道路・出入口&lt;br /&gt;
* [[首都高速都心環状線]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.city.chiyoda.lg.jp/ 千代田区ホームページ]&lt;br /&gt;
* [http://www.city.chiyoda.tokyo.jp/service/00087/d0008710.html 大手町・丸の内・有楽町・永田町地域 - 千代田区ホームページ内]&lt;br /&gt;
* [http://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/uchisaiwaicho/i07.html 内幸町駅 | 東京都交通局]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{千代田区の町名}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:うちさいわいちよう}}&lt;br /&gt;
[[Category:日比谷]]&lt;br /&gt;
[[Category:千代田区の町名]]&lt;br /&gt;
[[Category:江戸城]]&lt;br /&gt;
{{japan-block-stub}}&lt;br /&gt;
{{Pref-stub|pref=東京都}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=7%E6%9C%886%E6%97%A5_(%E6%97%A7%E6%9A%A6)&amp;diff=50248</id>
		<title>7月6日 (旧暦)</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=7%E6%9C%886%E6%97%A5_(%E6%97%A7%E6%9A%A6)&amp;diff=50248"/>
		<updated>2014-07-25T01:05:07Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: /* 忌日 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{旧暦7月}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;旧暦7月6日&#039;&#039;&#039;（きゅうれきしちがつむいか）は[[7月 (旧暦)|旧暦7月]]の6日目である。六曜は[[六曜#赤口|赤口]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== できごと ==&lt;br /&gt;
* [[天長]]2年（[[ユリウス暦]][[825年]][[7月24日]]） - [[桓武天皇]]の孫・高棟王が臣籍に下り[[平氏|平姓]]を賜る&lt;br /&gt;
* [[永禄]]6年（ユリウス暦[[1563年]][[7月25日]]） - [[徳川家康|松平元康]]が[[今川氏]]と絶縁して家康に改名&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 誕生日 ==&lt;br /&gt;
* [[天保]]8年（[[グレゴリオ暦]][[1837年]][[8月6日]]） - [[津田仙]]、農学者・[[津田梅子]]の父（+ [[1908年]]）&lt;br /&gt;
*[[安政]]2年（グレゴリオ暦 [[1855年]][[8月18日]]）- [[田原良純]]、日本初の[[薬学]]博士（+ [[1935年]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 忌日 ==&lt;br /&gt;
* [[養老]]7年（ユリウス暦[[723年]][[8月11日]]） - [[太安万侶]]、『[[古事記]]』編纂（生年不明）&lt;br /&gt;
* [[宝永]]5年（グレゴリオ暦[[1708年]][[8月21日]]） - [[黒田綱之]]、[[筑前国|筑前]][[福岡藩]]第3代藩主・[[黒田光之]]の長男（* [[1655年]]）&lt;br /&gt;
* [[正徳 (日本)|正徳]]5年（グレゴリオ暦[[1715年]][[8月4日]]） - [[稲生若水]]、[[医学者]]・[[本草学]]者（* [[1655年]]）&lt;br /&gt;
* [[宝暦]]11年（グレゴリオ暦[[1761年]][[8月6日]]） - [[野呂元丈]]、本草学者（* [[1694年]]）&lt;br /&gt;
* [[弘化]]2年（グレゴリオ暦[[1845年]][[8月8日]]） - [[徳川斉荘]]、[[尾張徳川家]]第12代目当主（* [[1810年]]）&lt;br /&gt;
* [[安政]]5年（グレゴリオ暦[[1858年]][[8月14日]]） - [[徳川家定]]、[[江戸幕府]]13代[[征夷大将軍|将軍]]（* [[1824年]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 記念日・年中行事 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
{{旧暦360日|7|5|7|7|6|6|8|7|0706}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E5%86%85%E9%96%A3%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E5%A3%AB&amp;diff=45383</id>
		<title>内閣大学士</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E5%86%85%E9%96%A3%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E5%A3%AB&amp;diff=45383"/>
		<updated>2014-07-25T01:02:54Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: /* 明朝の大学士（首輔） */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;内閣大学士&#039;&#039;&#039;（ないかくだいがくし）は[[中国]][[明]]朝および[[清]]朝に存在した官職名。&#039;&#039;&#039;殿閣大学士&#039;&#039;&#039;とも呼称され、任官者は&#039;&#039;&#039;中堂&#039;&#039;&#039;という尊称を受けていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、日本の[[内閣 (日本)|内閣]]制度の呼称はここに由来する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 明朝 ==&lt;br /&gt;
[[1380年]]に[[中書令|中書省]]が廃止され、皇帝の親政を望んだ[[朱元璋|洪武帝]]は代わりに&#039;&#039;&#039;殿閣大学士&#039;&#039;&#039;を皇帝の秘書役、&#039;&#039;&#039;文華殿大学士&#039;&#039;&#039;を[[皇太子]]の教育係として設置させたほか、&#039;&#039;&#039;華蓋殿&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;武英殿&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;文淵閣&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;東閣&#039;&#039;&#039;の諸大学士を置いた。当初は単なる相談役で権限はあまりなく、官位も正五品と中堅官僚の待遇と同等に過ぎなかったが、[[永楽帝]]が内閣をつくり、[[翰林院]]出身者から大学士を選抜して入閣させるようになった。この時期にはまだ相談役とあまり変わらなかったが、その後の[[洪熙帝]]期には内閣大学士と[[尚書]]（大臣）が兼任されるようになり、公式な場での発言権を持つようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、[[宣徳帝]]期には、内閣大学士は&#039;&#039;&#039;票擬&#039;&#039;&#039;を行うようになる。票擬とは皇帝がすべての[[上奏|上奏文]]に対応するのは無理があるので、それほど重要ではない案件を内閣が検討し、それに対する皇帝の返答の草稿を内閣が作成することで、本来は皇帝がその草稿に目を通して修正するのだが、草稿がそのまま勅令になることが多く、実質上、内閣が皇帝の権限の一部を代行することになり、極めて強い権限を持つようになった。特に、政治を省みない[[万暦帝]]のような皇帝のときは、ほとんど皇帝に代わり政治を行っていた。このころから内閣の筆頭閣臣である首輔が[[丞相]]に例えられるようになり、[[三省六部|六部]]の上に立ち国政を行うとされ、古代の丞相に匹敵する大権を行使するようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もっとも、洪武帝の[[皇明祖訓|祖法]]によって丞相あるいはそれに準じる役職の設置は事実上タブーとなっていたため、内閣大学士が国政を主導する法的根拠を立てることはできなかった。その任免は皇帝の個人的意向によるところが大きく、皇帝の信任を失えばたちまち辞職に追い込まれるなど政治的立場はかならずしも強くはなかった。むしろ、政治的立場においては[[宦官]]や佞倖（皇帝個人の側近）のそれに近いものにならざるを得なかった。そのため、宦官などの讒言で解任されたり処罰されたりする者や、それを恐れてひたすら皇帝の意向に追従する者もあった&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author=阪倉篤秀&lt;br /&gt;
|authorlink=阪倉篤秀&lt;br /&gt;
|title=山根幸夫教授追悼記念論叢 明代中国の歴史的位相&lt;br /&gt;
|origyear=2007&lt;br /&gt;
|publisher=[[汲古書院]]&lt;br /&gt;
|isbn=9784762928154&lt;br /&gt;
|volume=上巻&lt;br /&gt;
|chapter=内閣大学士費宏 -三度の入閣を巡って-&lt;br /&gt;
}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 清朝 ==&lt;br /&gt;
[[清]]にもこの制度は受け継がれ、制度も概ね明朝のものを踏襲していたが、清朝初期は議政王大臣会議が政治の実権を握っていたため、当初の内閣は単なる伝達機関にまで地位を落としてしまった。しかし[[雍正帝]]が[[軍機処]]を設立すると皇帝の実権が強化され、諮問機関と位置づけられた軍機処は政治における中枢機関となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この制度の中では、内閣が名目上官制の頂点とされたため、上奏文の名義や詔書の公布などは（実質的に軍機処が決済するが）内閣が行うようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主要官制（清朝） ==&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[大学士]]&#039;&#039;&#039;、満・漢それぞれ定員二名。正一品。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[協弁大学士|協辦大学士]]&#039;&#039;&#039;、満・漢それぞれ定員一名。従一品。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;学士&#039;&#039;&#039;、満州人六名、漢人四名。従二品。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;侍読学士&#039;&#039;&#039;、満州人四名、蒙・漢それぞれ定員二名。従四品。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;侍読&#039;&#039;&#039;、満州人十名、蒙古・[[漢軍八旗]]・漢人それぞれ定員二名。正六品。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;典籍&#039;&#039;&#039;、満・漢・漢軍八旗それぞれ定員二名。正七品。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;中書&#039;&#039;&#039;、満州人七十名、蒙古十六名、漢軍八旗八名、漢人三十名。正七品。&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;貼寫中書&#039;&#039;&#039;、満州人四十名，蒙古六名&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==明朝の大学士（首輔）==&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
! 任期 || 姓名 || 任官 || 離任 || 西暦&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| - || [[黄淮]] || [[建文]]四年八月進 || 十一月降 || 1402年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 1 || [[解縉]] || 建文四年十一月進 || [[永楽]]五年二月罷 || 1402年－1407年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2 || [[胡廣 (明朝)|胡廣]] || 永楽五年二月進 || 十六年五月卒 || 1407年－1418年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 3 || [[楊榮]] || 永楽十六年五月進 || 二十二年八月降 || 1418年－1424年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 4 || [[楊士奇]] || 永楽二十二年八月進 || [[正統 (明)|正統]]九年三月卒 || 1424年－1444年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 5 || [[楊溥 (明朝)|楊溥]] || 正統九年三月進 || 十一年七月卒 || 1444年－1446年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 6 || [[曹鼐]] || 正統十一年七月進 || 十四年八月卒 || 1446年－1449年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 7 || [[陳循]] || 正統十四年八月進 || [[天順]]元年正月罷 || 1449年－1457年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| - || [[高榖]] || 天順元年正月代 || 二月致仕 || 1457年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 8 || [[徐有貞]] || 天順元年二月進 || 六月罷 || 1457年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 9 || [[許彬 (明朝)|許彬]] || 天順元年六月進 || 七月罷 || 1457年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 10 || [[李贤 (大学士)|李賢]] || 天順元年七月進 || [[成化]]二年三月[[丁憂]] || 1457年－1466年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 11 || [[陳文 (明大臣)|陳文]] || 成化二年三月進 || 五月降 || 1466年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 12 || [[李贤 (大学士)|李賢]] || 成化二年五月復 || 十二月卒 || 1466年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 13 || [[陳文 (明大臣)|陳文]] || 成化二年十二月進 || 四年四月卒 || 1466年－1468年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 14 || [[彭時]] || 成化四年四月進 || 十一年三月卒 || 1468年－1475年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 15 || [[商輅]] || 成化十一年三月進 || 十三年六月致仕 || 1475年－1477年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 16 || [[萬安 (明朝官員)|萬安]] || 成化十三年六月進 || 二十三年十月罷 || 1477年－1487年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 17 || [[劉吉]] || 成化二十三年十月進 || [[弘治]]五年八月致仕 || 1487年－1492年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 18 || [[徐溥]] || 弘治五年八月進 || 十一年七月致仕 || 1492年－1498年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 19 || [[劉健 (明朝)|劉健]] || 弘治十一年七月進 || [[正徳 (明)|正徳]]元年十月致仕 || 1498年－1506年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 20 || [[李東陽]] || 正徳元年十月進 || 七年十二月致仕 || 1506年－1512年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 21 || [[楊廷和]] || 正徳七年十二月進 || 十年三月丁憂 || 1512年－1515年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 22 || [[梁儲]] || 正徳十年三月進 || 十二年十一月降 || 1515年－1517年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 23 || [[楊廷和]] || 正徳十二年十一月復 || [[嘉靖]]三年二月致仕 || 1517年－1524年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 24 || [[蔣冕]] || 嘉靖三年二月進 || 五月致仕 || 1524年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 25 || [[毛紀]] || 嘉靖三年五月進 || 七月致仕 || 1524年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 26 || [[費宏]] || 嘉靖三年七月進 || 五年五月降 || 1524年－1526年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 27 || [[楊一清]] || 嘉靖五年五月進 || 七月降 || 1526年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 28 || [[費宏]] || 嘉靖五年七月進 || 六年二月致仕 || 1526年－1527年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 29 || [[楊一清]] || 嘉靖六年二月進 || 八年九月致仕 || 1527年－1529年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 30 || [[張璁]] || 嘉靖八年九月進 || 十年二月易名孚敬，七月致仕 || 1529年－1531年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 31 || [[翟鑾]] || 嘉靖十年七月進 || 十月降 || 1531年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 32 || [[張孚敬]] || 嘉靖十年十月復 || 十一年八月致仕 || 1531年－1532年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 33 || [[方獻夫]] || 嘉靖十一年八月進 || 十二年四月降 || 1532年－1533年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 34 || [[張孚敬]] || 嘉靖十二年四月復 || 十四年四月致仕 || 1533年－1535年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 35 || [[李時 (大學士)|李時]] || 嘉靖十四年四月進 || 十七年十二月卒 || 1535年－1538年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 36 || [[夏言]] || 嘉靖十七年十二月進 || 十八年五月致仕 || 1538年－1539年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| - || [[顧鼎臣]] || 嘉靖十八年五月代 || 同月降 || 1539年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 37 || [[夏言]] || 嘉靖十八年五月復 || 二十年八月致仕 || 1539年－1541年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 38 || [[翟鑾]] || 嘉靖二十年八月進 || 十月降 || 1541年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 39 || [[夏言]] || 嘉靖二十年十月復 || 二十一年七月罷 || 1541年－1542年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 40 || [[翟鑾]] || 嘉靖二十一年七月進 || 二十三年八月罷 || 1542年－1544年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 41 || [[嚴嵩]] || 嘉靖二十三年八月進 || 二十四年十二月降 || 1544年－1545年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 42 || [[夏言]] || 嘉靖二十四年十二月復 || 二十七年正月致仕 || 1545年－1548年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 43 || [[嚴嵩]] || 嘉靖二十七年正月進 || 四十一年五月罷 || 1548年－1562年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 44 || [[徐階]] || 嘉靖四十一年五月進 || [[隆慶]]二年七月致仕 || 1562年－1568年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 45 || [[李春芳]] || 隆慶二年七月進 || 五年五月致仕 || 1568年－1571年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 46 || [[高拱]] || 隆慶五年五月進 || 六年六月罷 || 1571年－1572年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 47 || [[張居正]] || 隆慶六年六月進 || [[万暦]]十年六月卒 || 1572年－1582年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 48 || [[張四維]] || 万暦十年六月進 || 十一年四月丁憂 || 1582年－1583年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 49 || [[申時行]] || 万暦十一年四月進 || 十九年九月致仕 || 1583年－1591年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 50 || [[王家屏]] || 万暦十九年九月進 || 二十年三月致仕 || 1591年－1592年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 51 || [[趙志皋]] || 万暦二十年三月進 || 二十一年正月降 || 1592年－1593年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 52 || [[王錫爵]] || 万暦二十一年正月進 || 二十二年五月致仕 || 1593年－1594年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 53 || [[趙志皋]] || 万暦二十二年五月進 || 二十九年九月卒 || 1594年－1601年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 54 || [[沈一貫]] || 万暦二十九年九月進 || 三十四年七月致仕 || 1601年－1606年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 55 || [[朱賡]] || 万暦三十四年七月進 || 三十六年十一月卒 || 1606年－1608年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 56 || [[李廷機]] || 万暦三十六年十一月進 || 四十年九月致仕 || 1608年－1612年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 57 || [[葉向高]] || 万暦四十年九月進 || 四十二年八月致仕 || 1612年－1614年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 58 || [[方從哲]] || 万暦四十二年八月進 || [[泰昌]]元年十二月致仕 || 1614年－1620年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 59 || [[劉一燝]] || 泰昌元年十二月進 || [[天啓]]元年十月降 || 1620年－1621年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 60 || [[葉向高]] || 天啓元年十月復 || 四年七月致仕 || 1621年－1624年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 61 || [[韓爌]] || 天啓四年七月進 || 十一月致仕 || 1624年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 62 || [[朱国祯]] || 天啓四年十一月進 || 十二月致仕 || 1624年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 63 || [[顧秉謙]] || 天啓四年十二月進 || 六年九月致仕 || 1624年－1626年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 64 || [[黃立極]] || 天啓六年九月進 || 七年十一月致仕 || 1626年－1627年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 65 || [[施凤來]] || 天啓七年十一月進 || [[崇禎]]元年三月致仕 || 1627年－1628年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 66 || [[李國𣚴]] || 崇禎元年三月進 || 五月致仕 || 1628年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 67 || [[來宗道]] || 崇禎元年五月進 || 六月致仕 || 1628年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 68 || [[周道登]] || 崇禎元年六月進 || 十二月降 || 1628年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 69 || [[韓爌]] || 崇禎元年十二月進 || 三年正月致仕 || 1628年－1630年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 70 || [[李標]] || 崇禎三年正月進 || 三月致仕 || 1630年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 71 || [[成基命]] || 崇禎三年三月進 || 九月致仕 || 1630年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 72 || [[周延儒]] || 崇禎三年九月進 || 六年六月罷 || 1630年－1633年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 73 || [[溫體仁]] || 崇禎六年六月進 || 十年六月致仕 || 1633年－1637年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 74 || [[張至發]] || 崇禎十年六月進 || 十一年四月罷 || 1637年－1638年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 75 || [[孔貞运]] || 崇禎十一年四月進 || 六月罷 || 1638年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 76 || [[劉宇亮]] || 崇禎十一年六月進 || 十二年二月罷 || 1638年－1639年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 77 || [[薛國觀]] || 崇禎十二年二月進 || 十三年六月致仕 || 1639年－1640年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 78 || [[范復粹]] || 崇禎十三年六月進 || 十四年五月罷 || 1640年－1641年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| - || [[張四知]] || 崇禎十四年五月代 || 九月降 || 1641年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 79 || [[周延儒]] || 崇禎十四年九月進 || 十六年五月罷 || 1641年－1643年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 80 || [[陳演]] || 崇禎十六年五月進 || 十七年二月罷 || 1643年－1644年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| - || [[蒋德璟]] || 崇禎十七年二月代 || 三月罷 || 1644年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 81 || [[魏藻德]] || 崇禎十七年三月進 || 本月卒 || 1644年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| - || [[李建泰]] || 崇禎十七年三月代 || 五月罷 || 1644年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 弘1 || [[史可法]] || 崇禎十七年五月進 || 八月出 || 1644年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 弘2 || [[高弘圖]] || 崇禎十七年八月進 || 十月罷 || 1644年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 弘3 || [[馬士英]] || 崇禎十七年十月進 || [[弘光]]元年閏六月罷 || 1644年－1645年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 弘4 || [[黃道周]] || 弘光元年閏六月進 || [[隆武]]元年七月出 || 1645年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 隆1 || [[路振飛]] || 隆武元年七月進 || 二年十月降 || 1645年－1646年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 隆2 || [[丁魁楚]] || 隆武二年十月進 || [[永暦 (南明)|永暦]]元年正月畔 || 1646年－1647年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| - || [[瞿式耜]] || 永暦元年正月代 || 二月降 || 1647年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 永1 || [[吴炳]] || 永暦元年二月進 || 八月卒 || 1647年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| - || [[瞿式耜]] || 永暦元年八月代 || 九月降 || 1647年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 永2 || [[嚴起恒]] || 永暦元年九月進 || 三年正月降 || 1647年－1649年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 永3 || [[黃士俊]] || 永暦三年正月進 || 四年正月罷 || 1649年－1650年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 永4 || [[嚴起恒]] || 永暦四年正月進 || 四月罷 || 1650年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 永5 || [[文安之]] || 永暦四年四月進 || 五年二月出 || 1650年－1651年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 永6 || [[吴貞毓]] || 永暦五年二月進 || 八年三月卒 || 1651年－1654年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 永7 || [[丁繼善]] || 永暦八年四月進 || 十四年罷 || 1654年－1660年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 永8 || [[馬吉翔]] || 永暦十四年進 || 十五年七月卒 || 1660年－1661年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 永9 || [[張煌言]] || 永暦十五年七月代 || 十八年九月卒 || 1661年－1664年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 弘5 || [[方逢年]] || 弘光元年閏六月進 || [[監國魯]]元年六月畔 || 1645年－1646年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 監1 || [[熊汝霖]] || 監國魯二年十月進 || 三年正月卒 || 1647年－1648年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 監2 || [[馬思理]] || 監國魯三年正月進 || 十月卒 || 1648年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 監3 || [[張肯堂]] || 監國魯四年十月進 || 六年九月卒 || 1649年－1651年&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 監4 || [[沈宸荃]] || 監國魯六年九月代 || 七年正月卒 || 1651年－1652年&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ないかくたいかくし}}&lt;br /&gt;
[[category:明朝の政治]]&lt;br /&gt;
[[category:清朝の官職]]&lt;br /&gt;
[[category:中国の制度史]]&lt;br /&gt;
[[category:中国の官名]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E7%9A%BF%E5%B1%8B%E6%95%B7&amp;diff=35665</id>
		<title>皿屋敷</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E7%9A%BF%E5%B1%8B%E6%95%B7&amp;diff=35665"/>
		<updated>2014-07-25T00:52:01Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: /* 牛込の皿屋敷 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[Image:Yoshitoshi_Ogiku.jpg|thumb|right|200px|『[[新形三十六怪撰]]』より「新形三十六怪撰　皿やしき於菊乃霊」（[[月岡芳年]]画、[[1890年]]）]]&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;皿屋敷&#039;&#039;&#039;（さらやしき）は、お菊の[[亡霊]]が井戸で夜な夜な「イチマーイ、ニマーイ..」と皿を数える情景が周知となっている[[怪談]]話の総称。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[播磨国|播州]][[姫路市|姫路]]が舞台の『&#039;&#039;&#039;播州皿屋敷&#039;&#039;&#039;』（ばんしゅう-）、[[江戸]][[番町]]が舞台の『&#039;&#039;&#039;番町皿屋敷&#039;&#039;&#039;』（ばんちょう-、ばんまち-）が広く知られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本各地にその[[#類話]]がみられ、[[出雲国]][[松江]]の皿屋敷、[[土佐国]][[幡多郡]]の皿屋敷、さらに尼崎を舞台とした（皿ではなく針にまつわる）異聞が江戸時代に記録される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[江戸時代]]、[[歌舞伎]]、[[浄瑠璃]]、[[講談]]等の題材となった。[[明治]]には、数々の手によって怪談として発表されている。[[大正]]、[[岡本綺堂]]の[[#戯曲『番町皿屋敷』]]は、恋愛悲劇として仕立て直したものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
古い原型に、播州を舞台とする話が室町末期の『竹叟夜話』にあるが、皿ではなく盃の話であり、一般通念の皿屋敷とは様々な点で異なる。皿や井戸が関わる怨み話としては、18世紀の初頭ころから、江戸の[[牛込#牛込見附|牛込御門]]あたりを背景にした話が散見される。[[1720年]]、大阪で歌舞伎の演目とされたことが知られ、そして[[1741年]]に浄瑠璃『播州皿屋敷』が上演され、お菊と云う名、皿にまつわる処罰、井筒の関わりなど、一般に知られる皿屋敷の要素を備えた物語が成立する。[[1758年]]に[[講釈師]]の[[馬場文耕]]が『弁疑録』において、江戸の牛込御門内の[[番町]]を舞台に書き換え、これが講談ものの「番町皿屋敷」の礎石となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸の番町皿屋敷は、天樹院（[[千姫]]）の屋敷跡に住居を構えた[[火付盗賊改]]青山主膳（架空の人物）の話として定番化される。よって時代は17世紀中葉以降の設定である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、播州ものでは、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の事件としている。姫路市の[[十二所神社 (姫路市)|十二所神社]]内のお菊神社は、江戸中期の浄瑠璃に言及があって、その頃までには祀られているが、戦国時代までは遡れないと考察される&amp;lt;ref name=&amp;quot;hyogo-densetsu-kiko&amp;quot;&amp;gt;{{cite web|url=http://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/legend3/html/pdf/001-h.pdf|title=播州皿屋敷―姫路のお菊井戸―|author=Hyogo Prefectural Museum of History|work=歴史博物館ネットミュージアム:ひょうご歴史ステーション|accessdate=2014年5月|series=ひょうご伝説紀行：妖怪・自然の旅}}&amp;lt;/ref&amp;gt;{{Refn|18世紀末～19世紀初頭に姫路在住の福本勇次が著した『村翁夜話集』に「是ハ近年祭リヨシ」と記される&amp;lt;ref name=&amp;quot;hyogo-densetsu-kiko&amp;quot;/&amp;gt;}}。[[#お菊虫|お菊虫]]については、播州[[1795年]]におこった虫（アゲハチョウの蛹）の大発生がお菊の祟りであるという巷間の俗説で、これもお菊伝説に継ぎ足された部分である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 播州皿屋敷 ==&lt;br /&gt;
[[画像:ShunsenOkikumushi.jpg|right|thumb|200px|お菊虫&amp;lt;br /&amp;gt;『[[絵本百物語]]』[[竹原春泉斎|竹原春泉]]画]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
播州皿屋敷の題材は、早くは歌舞伎として演じられた。1720年6月 (享保5年) 、京都の榊山四郎十郎座が、歌舞伎『播州錦皿九枚館』を上演している。台本は現存しないが、その役割番付（天理図書館所蔵）から人物・背景がうかがえ、この歌舞伎がすでに「皿屋敷伝説を完全なかたちで劇化した」ものだと考察される&amp;lt;ref name=&amp;quot;moriyama005&amp;quot;/&amp;gt;。また、同年に金子吉左衛門座が題名も内容不詳の皿屋敷を上演している{{Refn|group=&amp;quot;注&amp;quot;|name=&amp;quot;kaneko&amp;quot;|豊竹座の浄瑠璃は、この金子吉左衛門作の歌舞伎の系統にあたるという&amp;lt;ref&amp;gt;{{Harvnb|諏訪|1974|pp=148}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===浄瑠璃・播州皿屋敷===&lt;br /&gt;
浄瑠璃『播州皿屋敷』は、[[寛保]]元年（[[1741年]]）大阪の豊竹座で初演がおこなわれた{{Refn|group=&amp;quot;注&amp;quot;|name=&amp;quot;kaneko&amp;quot;|豊竹座の浄瑠璃は、この金子吉左衛門作の歌舞伎の系統にあたるという&amp;lt;ref&amp;gt;{{Harvnb|諏訪|1974|pp=148}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。}}。室町時代、細川家のお家騒動を背景としており、一般に知られる皿屋敷伝説に相当する部分は、この劇の下の巻「鉄山館」に仕込まれている、次のようなあらすじである&amp;lt;ref name=&amp;quot;moriyama005&amp;quot;&amp;gt;{{Harvnb|森山|1991|loc=通号6、5-頁}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;suwa&amp;quot;&amp;gt;{{Harvnb|諏訪|1974|pp=146&amp;amp;ndash;153}}&amp;lt;/ref&amp;gt;：&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:細川家の国家老、青山鉄山は、叛意をつのらせ姫路の城主にとってかわろうと好機をうかがっていた。そんなおり、細川家の当主、巴之介が家宝の唐絵の皿を盗まれ、足利将軍の不興を買って、流浪の憂き目にあう。鉄山は、細川家の宿敵、[[山名宗全]]と結託して、細川の若殿を毒殺しようと談義中に、委細をお菊に聞かれてしまい、お菊を抹殺にかかる。お菊が管理する唐絵の皿の一枚を隠し、その紛失の咎で攻め立てて切り捨てて井戸に投じた。とたんに、井筒の元からお菊の死霊が現れ、鉄山を悩ます。現場に駆けつけたお菊の夫、舟瀬三平に亡霊は入れ知恵をし、皿を取り戻す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
浄瑠璃では、家宝の皿が以前にも盗難などに遭う話や、その因縁がもりこまれた経歴が、上の巻の前半「冷光院館」&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot;&amp;gt;管領[[山名宗全]]は、細川家の家宝の唐絵の皿を召し上げて足利将軍家に献上しようとするが、皿の1枚が21年前に盗まれていた。その探索に、当時はまだ細川の若殿だった巴之介と、舟瀬三平と、当時は恋人のお菊が遣わされる。{{Harvnb|森山|1991|loc=通号6、6-7頁}}&amp;lt;/ref&amp;gt;、および上の巻の後半「壬生村、楽焼家弥五兵衛住家」&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot;&amp;gt;盗人は、唐絵を写して模作したいがために1枚を盗んだ楽焼家弥五兵衛、つまりお菊の父であった。弥五兵衛は盗みの功により、武士の地位を回復し、宗全の家来に召し抱えられた。{{Harvnb|森山|1991|loc=通号6、6-7頁}}&amp;lt;/ref&amp;gt;に収録される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====西播怪談実記====&lt;br /&gt;
播州[[佐用郡]]の春名忠成による宝暦4年（[[1754年]]）の『西播怪談実記』に「姫路皿屋敷の事」の一篇が所収される&amp;lt;ref name=&amp;quot;bansyu_densetu&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===お菊虫===&lt;br /&gt;
[[Image:ジャコウアゲハ蛹-2.jpg|200px|thumb|ジャコウアゲハの蛹、いわゆる「お菊虫」]]&lt;br /&gt;
お菊虫の元になったのは[[1795年]]に大量発生した[[ジャコウアゲハ]]のサナギではないかと考えられている。 [[暁鐘成]]『雲錦随筆』では、お菊虫が、「まさしく女が後手にくくりつけられたる形態なり」と形容し、その正体は「蛹（よう）」であるとし、さらには精緻な挿絵もされている。[[十二所神社 (姫路市)|十二所神社]]では戦前に「お菊虫」と称してジャコウアゲハのサナギを箱に収めて土産物として売っていたことがあり、[[中山太郎 (民俗学者)|中山太郎]]も姫路で売られていた種をジャコウアゲハと特定する&amp;lt;ref&amp;gt;{{Harvnb|中山|1933|loc=「紅皿塚から皿屋敷へ」、181-2頁、註2}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。ただ、江戸期の随筆などには蛹以外の虫の説明も存在する&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot; name=&amp;quot;kikumishi-ibun&amp;quot;&amp;gt;お菊虫をアゲハの蛹以外とする異聞としては、[[蜀山人]]『石楠堂随筆』（1800年）では女が裸体で縛られたような小虫が葉先や枝について死んでいる、としており、『[[耳嚢]]』では、タマムシやコガネムシのような虫で、飛んでいるのを捕獲して虫眼鏡で調べると、女が縛られた模様がある、とする。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
菊虫の件と最初の姫路藩主[[池田氏]]の家紋が平家由来の揚羽蝶であることとにちなんで、[[姫路市]]では[[1989年]]にジャコウアゲハを市蝶として定めた&amp;lt;ref&amp;gt;{{Harvnb|相坂|2009|loc=『ジャコウアゲハ（お菊虫）と播州皿屋敷の民俗文化誌』、24頁}}。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;姫路市ホームページ「[http://www.city.himeji.lg.jp/info/profile/various.html 姫路市 | 姫路の雑学]」。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===お菊井戸===&lt;br /&gt;
[[画像:Himejijo Okiku well.jpg|200px|thumb|お菊井戸]]&lt;br /&gt;
姫路城の本丸下、「上山里」と呼ばれる一角に「お菊井戸」と呼ばれる井戸が現存する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===播州皿屋敷実録===&lt;br /&gt;
『播州皿屋敷実録』は、成立時は明らかではないが&amp;lt;ref name=&amp;quot;moriyama-p10&amp;quot;/&amp;gt;、江戸後期に書かれた、いわば好事家の「戯作（げさく）」であり&amp;lt;ref name=&amp;quot;hyogo-densetsu-kiko&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;『姫路城史』&amp;lt;/ref&amp;gt;、脚色部分が多く加わっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:姫路城第9代城主[[小寺則職 (戦国時代)|小寺則職]]の代（[[永正]]16年[[1519年]]&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot;&amp;gt;現在の姫路城が出来る前&amp;lt;/ref&amp;gt;以降）、家臣青山鉄山が主家乗っ取りを企てていたが、これを衣笠元信なる忠臣が察知、自分の妾だったお菊という女性を鉄山の家の女中にし鉄山の計略を探らせた。そして、元信は、青山が[[増位山 (兵庫県)|増位山]]の花見の席で則職を毒殺しようとしていることを突き止め、その花見の席に切り込み、則職を救出、家島に隠れさせ再起を図る。&lt;br /&gt;
:乗っ取りに失敗した鉄山は家中に密告者がいたとにらみ、家来の町坪弾四郎に調査するように命令した。程なく弾四郎は密告者がお菊であったことを突き止めた。そこで、以前からお菊のことが好きだった弾四郎は妾になれと言い寄った。しかし、お菊は拒否した。その態度に立腹した弾四郎は、お菊が管理を委任されていた10枚揃えないと意味のない家宝の毒消しの皿「こもがえの具足皿」のうちの一枚をわざと隠してお菊にその因縁を付け、とうとう責め殺して古井戸に死体を捨てた。&lt;br /&gt;
:以来その井戸から夜な夜なお菊が皿を数える声が聞こえたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:やがて衣笠元信達小寺の家臣によって鉄山一味は討たれ、姫路城は無事、則職の元に返った。その後、則職はお菊の事を聞き、その死を哀れみ、[[十二所神社 (姫路市)|十二所神社]]の中にお菊を「お菊大明神」として祀ったと言い伝えられている。その後300年程経って城下に奇妙な形をした虫が大量発生し、人々はお菊が虫になって帰ってきたと言っていたといわれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このほか、幕末に姫路同心町に在住の福本勇次（村翁）編纂の『村翁夜話集』（[[安政]]年間）などに同様の話が記されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 番町皿屋敷 ==&lt;br /&gt;
[[Image:Hokusai Sarayashiki.jpg|thumb|right|200px|[[葛飾北斎]]「百物語・さらやしき」]]&lt;br /&gt;
江戸の「皿屋敷」ものとして最も人口に膾炙している&amp;lt;ref&amp;gt;{{Harvnb|伊藤|2010|loc=『日本の皿屋敷伝説』、87頁}}。&amp;lt;/ref&amp;gt;のは、[[1758年]]（宝暦8年）の講釈士・[[馬場文耕]]の『皿屋敷弁疑録』が元となった怪談芝居の『番町皿屋敷』である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:牛込御門内五番町にかつて「吉田屋敷」と呼ばれる屋敷があり、これが赤坂に移転して空き地になった跡に[[千姫]]の御殿が造られたという。それも空き地になった後、その一角に[[火付盗賊改]]・青山播磨守主膳の屋敷があった。ここに菊という下女が奉公していた。[[承応]]二年（[[1653年]]）正月二日、菊は主膳が大事にしていた皿十枚のうち1枚を割ってしまった。怒った奥方は菊を責めるが、主膳はそれでは手ぬるいと皿一枚の代わりにと菊の中指を切り落とし、手打ちにするといって一室に監禁してしまう。菊は縄付きのまま部屋を抜け出して裏の古井戸に身を投げた。まもなく夜ごとに井戸の底から「一つ……二つ……」と皿を数える女の声が屋敷中に響き渡り、身の毛もよだつ恐ろしさであった。やがて奥方の産んだ子供には右の中指が無かった。やがてこの事件は公儀の耳にも入り、主膳は所領を没収された。&lt;br /&gt;
:その後もなお屋敷内で皿数えの声が続くというので、公儀は小石川伝通院の了誉上人に鎮魂の読経を依頼した。ある夜、上人が読経しているところに皿を数える声が「八つ……九つ……」、そこですかさず上人は「十」と付け加えると、菊の亡霊は「あらうれしや」と言って消え失せたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時代考証にあたっては、青山主膳という火附盗賊改は存在せず（『定役加役代々記』による&amp;lt;ref name=&amp;quot;mitamura433&amp;quot;&amp;gt;{{Harvnb|三田村|1921|loc=『足の向く儘』、433頁}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;{{Harvnb|今野|1969|p=155}}&amp;lt;/ref&amp;gt;）、火付盗賊改の役職が創設されたのは[[1662年]]（寛文2年）と指摘されている&amp;lt;ref name=&amp;quot;mitamura433&amp;quot;/&amp;gt;。その他の時代錯誤としては、向坂甚内が盗賊として処刑されたのは1613年であり&amp;lt;ref name=&amp;quot;mitamura433&amp;quot;/&amp;gt;、[[聖冏|了誉上人]]にいたっては250年前の[[1420年]]（応永27年）に没した人物である&amp;lt;ref&amp;gt;{{Harvnb|小二田|1987|p=56}}、「いかにもこれは不自然であつたと見えて、狩野文庫蔵の「番町皿屋敷故実」ではこの[了誉の]部分が省かれ、明治期に今古実録の一冊として刊行された」&amp;lt;/ref&amp;gt;。また千姫が姫路城主・[[本多忠刻]]と死別した後に移り住んだのは五番町から北東に離れた竹橋御殿であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京都内にはお菊の墓というものがいくつか見られる。現在[[東海道本線]][[平塚駅]]近くにも[[お菊塚]]と刻まれた自然石の石碑がある。元々ここに彼女の墓が有ったが、戦後近隣の晴雲寺内に移動したという。これは「[[元文]]6年（[[1741年]]）、平塚宿の宿役人眞壁源右衛門の娘・菊が、奉公先の旗本青山主膳の屋敷で家宝の皿の紛失事件から手打ちにされ、[[長持]]に詰められて平塚に返されたのを弔ったもの」だという&amp;lt;ref&amp;gt;「江戸の皿屋敷伝説」『日本の皿屋敷伝説』pp.81 - 94。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[市ヶ谷駅]]近辺、[[千代田区]][[九段南]]四丁目と[[五番町 (千代田区)|五番町]]の境界の[[靖国通り]]から番町方面へ上る坂は、&#039;&#039;&#039;帯坂&#039;&#039;&#039;と呼称されるが、お菊が、髪をふり乱し、帯をひきずりながらここを通ったという伝説に付会されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 皿屋敷伝説の発生 ==&lt;br /&gt;
皿屋敷の伝説がいつ、どこで発生したのか、「いずれが原拠であるかは近世（江戸時代より）の随筆類でもしかとはわからぬし、また簡単に決定できるものでもあるまい」とされる&amp;lt;ref&amp;gt;{{Harvnb|越智|1970|p=1}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[三田村鳶魚]]は、本来、皿の要素がないため播州や尼崎伝説の由来を排すが&amp;lt;ref&amp;gt;{{Harvnb|三田村|1921|loc=『足の向く儘』、434頁}}&amp;lt;/ref&amp;gt;、播州を推す者もあり、橋本政次は『[[姫路城]]史』において太田垣家に起こった事件が原点ではないかとしている&amp;lt;ref&amp;gt;「あるいはこれ[竹叟夜話]が姫路皿屋敷の伝説の骨子になつたものではないかと橋本政次は述べている」（{{Harvnb|森山|1991|loc=通号6、6頁}}）&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot; name=&amp;quot;otagaki&amp;quot;&amp;gt;『姫路城史』（1952年）では太田垣主殿佐、『[[播磨鏡]]』では大田垣主殿佐。（『日本の皿屋敷伝説』p.111）。『竹叟夜話』の「小田垣」という改称は、実名をはばかってのものと思われる。太田垣が[[山名宗全|山名持豊]]によって青山に配されたのは[[1441年]]（嘉吉元年）、その後[[1443年]]（嘉吉3年）には[[赤松教祐]]・[[赤松則尚|則尚]]に攻められ但馬[[竹田城]]に逃れている。2年という短い期間であったが、妾を囲って政務に不熱心であったという。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===竹叟夜話===&lt;br /&gt;
大田垣にまつわる事件については、播磨国永良荘（現兵庫県[[市川町]]）の永良竹叟が天正5年（[[1577年]]）に著した『竹叟夜話』に記述があり、執筆より更に130年前の事件を語っている。あらましは以下の通り：&amp;lt;ref name=&amp;quot;bansyu_densetu&amp;quot;&amp;gt;{{Harvnb|伊藤|2010|loc=「播州姫路の皿屋敷伝説」『日本の皿屋敷伝説』、100 - 115頁}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;{{Harvnb|今野|1969}}。154頁に原典を『竹叟夜話』と指定；164頁に読売新聞社社会部 編『わたくしたちの伝説』、1959年 (280頁)よりの要約を転載。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot;&amp;gt;竹叟夜話と同等の話、およびお菊神社の由来は、『播陽万宝智恵袋』（宝暦十年 1760年編纂）にも記載される。{{Harvnb|森山|1991|loc=通号6、6, 10頁}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
:[[嘉吉の乱]]（[[1441年]]）の後、小田垣主馬助&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot; name=&amp;quot;otagaki&amp;quot;/&amp;gt;という[[山名氏|山名家]]の家老が播磨国青山（現・姫路市青山）の館代をしていた頃、花野という脇妾を寵愛していた。ここに出入りしていた笠寺新右衛門という若い郷士が花野に恋文を送り続けていたが拒絶され続けていた。&lt;br /&gt;
:ある時、小田垣が山名家から拝領していた[[アワビ|鮑]]貝の五つ杯の一つが見あたらないことに気づき、花野に問いただしてもただ不思議なことと答えるだけ、怒った彼は杯を返せと彼女を責め立てた。&lt;br /&gt;
:実は笠寺がその一個を密かに隠していたのだが、彼は意趣返しに「杯が見つからなければ小田垣家も滅びる」と脅しながら花野を折檻し、ついには松の木にくくり上げて殺してしまった。その後、花野の怨念が毎夜仇をなしたという。やがてこの松は「首くくりの松」と呼ばれるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『竹叟夜話』の挿話は、[[室町時代|室町]]末と成立年代が古いが、皿ではなく盃用のアワビだったり、女性がお菊ではなく花野であり、青山氏の名もない等、後の『皿屋敷』と符合しない点も多々みられる&amp;lt;ref&amp;gt;{{Harvnb|今野|1969|p=154}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;hyogo-densetsu-kiko&amp;quot;/&amp;gt;。同じく播磨を舞台に、近世の形態にちかい物語は「播州皿屋敷実録」に書きとどめられるが、これは成立年代不詳&amp;lt;ref name=&amp;quot;moriyama-p10&amp;quot;&amp;gt;{{Harvnb|森山|1991|loc=通号6、10頁}}&amp;lt;/ref&amp;gt;（あるいは江戸後期&amp;lt;ref name=&amp;quot;hyogo-densetsu-kiko&amp;quot;/&amp;gt;）のものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===牛込の皿屋敷===&lt;br /&gt;
皿屋敷伝説の、重要要素である10枚の皿のうちの1枚を損じて命を落とす部分は、江戸に起こったという逸話にみつかる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
早い例は、[[正徳 (日本)|正徳]]2年 ([[1712年]]) の宍戸円喜『当世智恵鑑』という書物に収録される。要約すると、次のような話である&amp;lt;ref name=&amp;quot;mitamura-chiekagami&amp;quot;&amp;gt;{{Harvnb|三田村|1921|loc=『足の向く儘』、435-6頁}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;{{Harvnb|今野|1969}}。154頁に原典を『当世智恵鑑』と指定；162-3頁に三田村『江戸ばなし』の要約を転載&amp;lt;/ref&amp;gt;：&lt;br /&gt;
:江戸[[牛込]]の服部氏の妻は、きわめて妬み深く、夫が在番中に、妾が南京の皿の十枚のうち一枚を取り落として割ってしまったことにつけ、それでは接客用に使い物にならないので、買換えろと要求するが、古い品なので、もとより無理難題であった。更に罪を追及して、その女を幽閉して餓死させようとしたが、5日たっても死なない。ついに手ずから絞め殺して、[[中間]]に金を渡して骸を棺に入れて運ばせたが、途中で女は蘇生した。女は隠し持った200両があると明かして命乞いするが、4人の男たちはいったん金を懐にしたものの、後で事が知れたらまずいと、女を縊りなおして殺し野葬にする。後日、その妻は喉が腫れて塞がり、咀嚼ができずに危険な状態に陥り、その医者のところについに怨霊が出現し、自分に手をかけた男たち既に呪い殺したこと、どう治療しようと服部の妻は死ぬことを言い伝えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三田村鳶魚は、この例「井戸へ陥ったことが足りないだけで、宛然皿屋敷の怪談である」としている&amp;lt;ref name=&amp;quot;mitamura-chiekagami&amp;quot;/&amp;gt;。また、「牛込の御門内、むかし物語に云[う]、下女あやまって皿を一ツ井戸におとす、その科により殺害せられたり、その念ここの井戸に残りて夜ごとに彼女の声して、一ツより九ツまで、十を[言わずに]泣けさけぶ、声のみありてかたちなしとなり、よって皿屋敷と呼び伝えたり..」と[[享保]]17年（[[1732年]]）の「皿屋敷」の項に見当たる。牛込御門台の付近の稲荷神社に皿明神を祀ると、怪奇現象はとだえたと伝わる&amp;lt;ref name=&amp;quot;mitamura-chiekagami&amp;quot;&amp;gt;{{Harvnb|三田村|1921|loc=『足の向く儘』、432-3頁}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;{{Harvnb|今野|1969|p=155-6}}。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===皿屋舗弁疑録===&lt;br /&gt;
江戸を舞台とした皿屋敷の各要素のまとまった物語は、宝暦8年（[[1758年]]）、[[馬場文耕]]が表した『皿屋舗辨疑録』（皿屋敷弁疑録とも表記）を嚆矢とする&amp;lt;ref name=&amp;quot;miyata&amp;quot;&amp;gt;{{citation|和書|last=宮田|first=登 (Miyata, Noboru)|authorlink=宮田登|title=日本「神話・伝説」総覧 |publisher=新人物往来社|year=1993|url=http://books.google.co.jp/books?id=ghYRAQAAMAAJ|pages=260-|isbn=4404020112}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
牛込で起きた事件については、その皿屋敷にまつわる前歴が綿密と語られ、その後は一般に知られる皿屋敷の内容である。その前歴とは概要すると&amp;lt;ref&amp;gt;{{Harvnb|小二田|1987|pp=50-}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;{{Harvnb|森山|1991|loc=通号6、12頁}}&amp;lt;/ref&amp;gt;、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:将軍[[徳川家光|家光]]の代に、[[小姓組]]番頭の吉田大膳亮の屋敷を召し上げ、将軍の姉である天樹院（[[千姫]]）に住まわせた。この「吉田御殿」の天樹院のふるまいは、酒色に耽溺するなど悪い風聞が立つほどで、そのうち愛人の花井壱岐と女中の竹尾を恋仲と疑って虐殺し、井戸に捨てた。他にも犠牲者は累々とで、「小路町の井戸」と恐れられた。天樹院の死後、この吉田屋敷は荒廃し妖怪屋敷と呼ばれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「弁疑録」では、この屋敷は、吉田屋敷からいったん空屋敷となったので、そもそも「更屋敷（サラ屋敷）」という名で、皿事件とは関係なしにそう呼ばれる所以があったのだとしているが&amp;lt;ref&amp;gt;{{Harvnb|森山|1991|loc=通号6、12頁}}&amp;lt;/ref&amp;gt;、その語呂合わせについては「西鶴の『懐硯』に&amp;quot;荒屋敷&amp;quot;、『西播怪談実記』にも&amp;quot;明屋敷&amp;quot;」とあると考察されている&amp;lt;ref&amp;gt;{{Harvnb|小二田|1987|p=52}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===その他の発生論===&lt;br /&gt;
[[中山太郎 (民俗学者)|中山太郎]]は播州ではないと断ずるものの、江戸説に肯定的であるわけではなく、独自の「紅皿缺皿」の民話を起源とする説を展開している。そうした民話の痕跡として、[[佐々木喜善]]が記憶からたどって中山に口述した宮城県亘理郡の言い伝えを引いている&amp;lt;ref&amp;gt;{{Harvnb|中山|1933|loc=「紅皿塚から皿屋敷へ」181頁、註1}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot;&amp;gt;「九枚筵」の伝説。[[#類話]]に詳述。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幕末の[[喜多村信節]]『嬉遊笑覧』では、土佐の子供の鬼遊び「手々甲（セセガコウ）」の皿数えに由来をもとめている&amp;lt;ref&amp;gt; {{Harvnb|中山|1969|p=181}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==類話==&lt;br /&gt;
日本各地に類似の話が残っている。北は[[岩手県]][[滝沢市]]や[[江刺市]]、南は[[鹿児島県]][[南さつま市]]までと、分布は広い&amp;lt;ref&amp;gt;「皿屋敷伝説分布図」『日本の皿屋敷伝説』pp.26 - 27。ここでは南さつま市は合併前の[[坊津町]]として記されている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのほか、[[群馬県]][[甘楽郡]]の2町1村、[[滋賀県]][[彦根市]]&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot;&amp;gt;「滋賀県彦根市の馬場町にも皿屋敷があって長久寺には、お菊の欠け皿と称するものが ある」{{Harvnb|Konno|1969|p=159}}、武田清澄（1962年）『日本伝説の旅』下巻を典拠とする&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[島根県]][[松江市]]、兵庫県[[尼崎市]]、[[高知県]][[幡多郡]]の2町1村、[[福岡県]][[嘉麻市]]、[[宮城県]][[亘理郡]]、[[長崎県]][[五島列島]]の[[福江島]]&amp;lt;ref&amp;gt;「長崎県[[南松浦郡]]、五島列島の福江島にも」{{Harvnb|Konno|1969|p=159}}、久保清・橋浦泰雄（1934年）『五島民族図誌』を典拠&amp;lt;/ref&amp;gt;などに例がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[正保]]の頃、[[出雲国]][[松江]]の武士が秘蔵していた十枚皿の一枚を下女が取り落として砕き、怒った武士は下女を井戸に押し込んで殺す。だが「此ノ女死シテ亡魂消へズ」夜毎に一から九まで数え、ワッと泣き叫ぶ。そこで知恵者の僧が、合いの手で「十」と云うと、亡霊はそれ以来消滅した（[[元禄]]二年『本朝故事因縁集』） &amp;lt;ref&amp;gt;{{Harvnb|小二田|1987|p=55}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;（現代訳）{{citation|和書|last=藤沢|first=衛彦|authorlink=藤沢衛彦|chapter=本朝故事因緣集の傳說 13松江の皿屋敷|title=日本神話と伝説|publisher=趣味の教育普及会|year=1935|url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1717909|pages=532-3}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 幡多郡に元・伊予松山藩士山瀬新次郎が移り住んだが、妻の瀧が名主に奉公しているうち、名主の縁者の青山鉄三郎が、名主の妾と通ずるだけではあきたらず、瀧にも横恋慕したがみのらず、瀧が管理する秘蔵の皿の一枚を隠した。名主は青山に取調べさせたが、青山の折檻に耐えられずに、滝のなかに投身自殺した。その怨念が皿の数を数える（[[土佐国]][[幡多郡]]の「播多郡誌」）&amp;lt;ref&amp;gt;{{Harvnb|中山|1933|loc=「紅皿塚から皿屋敷へ」、181頁、註1}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 宮城県亘理郡。亘理駅の近くに九枚筵という地名がある。その昔、継母が「缺皿」という名の娘をいじめ、ある時、搗き麦を十枚の筵で干せと言いつけておいて、その一枚を隠した。娘は井戸の身を投げた。（[[佐々木喜善]]談）&amp;lt;ref&amp;gt;{{Harvnb|中山|1933|loc=「紅皿塚から皿屋敷へ」、181頁。遠野の[[佐々木喜善]]の記憶による。}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 尼崎のお菊伝説 ===&lt;br /&gt;
以下にあげる「お菊」の物語は、「皿屋敷異聞」に分類されてもいるが&amp;lt;ref name=&amp;quot;konno-amagasaki&amp;quot;/&amp;gt;、皿ではなく食事にまぎれた針が悶着のもとである。蜀山人こと[[太田南畝]]『石楠堂随筆』上 1800年（寛政12年）にあるが&amp;lt;ref&amp;gt;{{Harvnb|三田村|1921|loc=『足の向く儘』、429-431頁}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;konno-amagasaki&amp;quot;&amp;gt;{{Harvnb|今野|1969}}。154頁に原典を]『石楠堂随筆』と指定；162頁に三田村『江戸ばなし』の要約を転載。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:元禄9年（[[1696年]]）、尼崎の城主青山氏の老臣、木田玄蕃（喜多玄蕃&amp;lt;ref name=&amp;quot;mimibukuro&amp;quot;/&amp;gt;）の屋敷に奉公していたお菊が食事を進めたとき、飯の中に針がまぎれており、殺意ととがめたてて菊を井戸に投げ込んだ。謝りにかけつけた母は、時遅しと知って後を追って井戸に飛び込んだ。その後、木田家では怪異や祟りが連発したが、一件が不祥事として尼崎侯の耳に入り、木田は改易、屋敷は祟りがあると恐れられ廃屋となった。のちに青山氏にかわり尼崎侯となった松平遠州侯が、木田宅の跡地に建てたのが尼崎の源正院であり、おかげで浄霊はかなって怪奇はおさまったが、菊を植えても花が咲かなかったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほぼ同様の内容で、[[根岸鎮衛]]『耳嚢』にも書かれてるが、旧木田邸の古井戸の場所が「播州岸和田」と記されている&amp;lt;ref name=&amp;quot;mimibukuro&amp;quot;&amp;gt;{{cite web|url=http://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/2012/09/post-46f8.html|title=耳嚢　巻之五　菊蟲の事|author=藪野直史|work=Blog鬼火～日々の迷走|date=2012/09/05|accessdate=April-2014}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。いずれの史料も寛政7年（[[1795年]]）の[[#お菊虫]]の大量出現を、お菊の100年忌に定めている&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot; name=&amp;quot;kikumishi-ibun&amp;quot;/&amp;gt;。尼崎の伝説は、[[津村淙庵]]『譚海』にも詳しく書かれている。元禄の頃は、[[青山幸督|青山播磨守幸督]]が尼崎の城主であった&amp;lt;ref&amp;gt;{{Harvnb|三田村|1921|loc=『足の向く儘』、431頁}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戯曲『番町皿屋敷』 ==&lt;br /&gt;
[[岡本綺堂]]による[[1916年]]（大正5年）作の戯曲。怪談ではなく悲恋物語の形を取る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
旗本青山播磨と腰元は相思相愛の仲であったが身分の違いから叶わない。やがて播磨に縁談が持ち込まれる。彼の愛情を試そうとしたお菊は青山家の家宝の皿を一枚割るが、播磨はお菊を不問に付す。ところが周りの者が、お菊がわざと皿を割った瞬間を目撃していた。これを知った播磨は、自分がそんなに信じられないのかと激怒、お菊を斬ってしまう。そして播磨の心が荒れるのに合わせるかのように、青山家もまた荒れ果ててゆくのだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1963年]]（昭和38年）に[[大映]]で[[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]]、[[藤由紀子]]主演で『手討』が製作された。ただしすぐお菊の後を追う形で、青山播磨も切腹に向かう所で終わる、より悲恋物語の性格が強い作品である。ビデオ、DVDになっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 落語の『皿屋敷』 ==&lt;br /&gt;
落語の中に皿屋敷を題材にした話がある。題名は『[[お菊の皿]]』、またはそのままの『皿屋敷』。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
町内の若者達が番町皿屋敷へお菊の幽霊見物に出かける。出かける前に隠居からお菊の皿を数える声を九枚まで聞くと死んでしまうから六枚ぐらいで逃げ出せと教えられる。若者達は隠居の教えを守り、六枚まで聞いたところで皿屋敷から逃げ出してきたが、お菊があまりにもいい女だったので若者達は翌日も懲りずに皿屋敷へ出かけていく。数日もすると人々に噂が伝わり、見物人は百人にまで膨れ上がった。&lt;br /&gt;
それだけ人が増えると六枚目で逃げるにも逃げられず、九枚まで数える声をまで聞いてしまう。しかし聞いた者は死なず、よく聞くとお菊が九枚以降も皿を数え続けている。お菊は十八枚まで数えると「これでおしまい」と言って井戸の中に入ろうとするので見物人の一人が「お菊の皿は九枚と決まっているだろう。何故十八枚も数えるんだ」と訊くと、お菊は「明日は休むので二日分数えました」と答えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
より古典的なところでは、旅の僧がお菊の霊を慰めようとして「[[南無阿弥陀仏|なんまいだー]]（何枚だ＝南無阿弥陀）」と[[念仏]]を唱えると、お菊が「どう勘定しても、九枚でございます」と返す、という駄洒落（だじゃれ）落ちのものもある&amp;lt;ref&amp;gt;『古典落語大系　第八巻』p.153。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==脚注==&lt;br /&gt;
===補注===&lt;br /&gt;
{{Reflist|group=&amp;quot;注&amp;quot;|2}}&lt;br /&gt;
===出典===&lt;br /&gt;
{{Reflist|3}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出典・参考文献 ==&lt;br /&gt;
{{Refbegin}}&lt;br /&gt;
*{{citation|和書|last=相坂|first=耕作|editor=赤松の郷昆虫文化館|title=ジャコウアゲハ(お菊虫)と播州皿屋敷の民俗文化誌: 姬路市「市蝶」制定20周年記念。ジャコウアゲハ(お菊虫)のフォークロア|publisher=姬路城下町街づくり協議会|year=2009}}&lt;br /&gt;
*{{citation|和書|last=伊藤|first=篤|title=日本の皿屋敷伝説|publisher=海鳥社|year=2001|isbn=4-87415-402-6}}&lt;br /&gt;
*{{citation|和書|editor-last=江國|first=滋|chapter=皿屋敷|title=古典落語大系|volume=第八巻　上方編|publisher=三一書房|year=1989|pages=145-153}}&lt;br /&gt;
*{{citation|和書|last=越智|first=治雄|title=皿屋敷の末流|journal=文學|volume=38(9)|year=1970|url=http://books.google.co.jp/books?id=eUVDAQAAIAAJ|pages=1-18}}&lt;br /&gt;
**{{citation|和書|last=越智|first=治雄|title=明治大正の劇文学: 日本近代戯曲史への試み|publisher=塙書房|year=1971|url=http://books.google.co.jp/books?id=XS1OAAAAMAAJ|pages=55}}に収録&lt;br /&gt;
*{{citation|和書|last=小二田|first=誠二 (Konita, Seiji)|authorlink=小二田誠二|title=実録体小説の原像--「皿屋舗弁疑録」をめぐって|journal= 日本文学 / 日本文学協会 編|volume=36|number=12|year=1987|url=http://books.google.co.jp/books?id=Pb4fAQAAMAAJ|pages=48-59|isbn=4404020112}}&lt;br /&gt;
*{{cite book|和書|last=今野|first=円輔|title=日本怪談集 幽霊篇|origyear=1969|year=2004|publisher=[[中央公論新社]]|series=中公文庫|volume=上|isbn=978-4-12-204464-7|ref={{SfnRef|今野|1969}}}}&lt;br /&gt;
*{{citation|和書|last=中山|first=太郎, 1876-1947|chapter=紅皿塚から皿屋敷へ|title=古典落語大系|publisher=一誠社|year=1933|url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1466419|pages=169-184}}&lt;br /&gt;
*{{citation|和書|last=橋本|first=政次|title=姫路城史|volume=上巻|publisher=姫路城史刊行会|year=1952}}&lt;br /&gt;
*{{citation|和書|last=三田村|first=鳶魚 (Mitamura, Engyo)|authorlink=三田村鳶魚|title=足の向く儘|chapter=怪談の皿屋敷|publisher=国史講習会|year=1921|url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/964414|chapter=第3章|pages=427-}}&lt;br /&gt;
** [http://books.google.co.jp/books?id=5QpAAQAAIAAJ 『江戸ばなし』1巻]、「史實と芝居と」、青蛙房、1966年&lt;br /&gt;
*{{citation|和書|last=森山|first=重雄|title=皿屋敷の系譜と『彩入御伽草』|journal=（季刊）江戸文学|volume=通号6|publisher=ぺりかん社|year=1991|isbn=4-8315-0523-4|url=http://books.google.co.jp/books?id=ZuczAQAAIAAJ|pages=2-17}}; 「-続-」、通号7、38-49頁&lt;br /&gt;
*{{citation|和書|editor=読売新聞社社会部|title=わたくしたちの伝説|publisher=読売新聞社|year=1959|url=http://books.google.co.jp/books?id=h0oEAAAAMAAJ|pages=280-}}&lt;br /&gt;
{{Refend}}  &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
{{commonscat|Bancho Sarayashiki}}&lt;br /&gt;
*[http://www.aozora.gr.jp/cards/000154/card4484.html 『皿屋敷』田中貢太郎：新字新仮名]（[[青空文庫]]）&lt;br /&gt;
*[http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/card1309.html 『番町皿屋敷』岡本綺堂：新字旧仮名]（[[青空文庫]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:さらやしき}}&lt;br /&gt;
[[Category:怪談]]&lt;br /&gt;
[[Category:井戸]]&lt;br /&gt;
[[Category:姫路市の文化]]&lt;br /&gt;
[[Category:姫路城]]&lt;br /&gt;
[[Category:千代田区]]&lt;br /&gt;
[[Category:江戸城]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%A6&amp;diff=21483</id>
		<title>ライチョウ</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%A6&amp;diff=21483"/>
		<updated>2014-07-25T00:51:23Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: /* 名前の変遷 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{生物分類表&lt;br /&gt;
|名称 = ライチョウ&lt;br /&gt;
|省略=鳥綱&lt;br /&gt;
|画像=[[ファイル:Rock Ptarmigan (Lagopus Muta).jpg|250px|ライチョウ（手前：オス、奥：メス）]]&lt;br /&gt;
|画像キャプション = ライチョウ（手前：オス、奥：メス）&amp;lt;br /&amp;gt;&#039;&#039;Lagopus muta muta&#039;&#039; &lt;br /&gt;
|status = LC&lt;br /&gt;
|status_ref =&amp;lt;ref name=&amp;quot;IUCN&amp;quot;&amp;gt;{{Cite web |url=http://www.iucnredlist.org/apps/redlist/details/100600291/0 |title=IUCN 2012. IUCN Red List of Threatened Species. Version 2012.1. (&#039;&#039;Lagopus muta&#039;&#039;) |publisher=[[IUCN]] |accessdate=2012-07-28 |language=英語 }}&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
|目 = [[キジ目]] {{Sname||Galliformes}}&lt;br /&gt;
|科 = [[ライチョウ科]] {{Sname||Grouse|Tetraonidae}}&lt;br /&gt;
|属 = [[#ライチョウ属|ライチョウ属]] {{Snamei||Lagopus}}&lt;br /&gt;
|種 = &#039;&#039;&#039;ライチョウ&#039;&#039;&#039; &#039;&#039;L. muta&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|学名 = &#039;&#039;Lagopus muta&#039;&#039; {{AU|Montin}}, [[1781年|1781]] &amp;lt;ref name=&amp;quot;IGS2012&amp;quot;&amp;gt;{{Cite web |url=http://cert.shinshu-u.ac.jp/eco_lab/modules/wordpress0/attach/PROGRAM_120717_All_Small.pdf |title=12TH INTERNATIONAL GROUSE SYMPOSIUM（第12回国際ライチョウシンポジウム） |publisher=The Conference Committee of the IGS2012 |format=PDF |language=英語 |accessdate=2012-07-28}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;!-- アメリカや学会ではこの学名が多く用いられている？ --&amp;gt;&lt;br /&gt;
|シノニム = &#039;&#039;Lagopus mutus&#039;&#039; Montin, 1781&amp;lt;ref name=&amp;quot;GSG&amp;quot;&amp;gt;{{Cite web |url=http://www.galliformes-sg.org/grousg/grousesp/ROCK.HTM |title=Lagopus mutus Montin, 1776 |publisher=GSG |language=英語 |accessdate=2012-07-28}}&amp;lt;/ref&amp;gt; &amp;lt;!-- 日本ではこの学名が多く用いられている？ --&amp;gt;&lt;br /&gt;
&#039;&#039;Tetrao mutus&#039;&#039;  Montin, 1781&lt;br /&gt;
|和名 = ライチョウ&lt;br /&gt;
|英名 = [[:en:Rock Ptarmigan|Rock Ptarmigan]]&amp;lt;ref name=&amp;quot;GSG&amp;quot; /&amp;gt;&lt;br /&gt;
|下位分類名 = [[亜種]]&lt;br /&gt;
|下位分類 = *[[#ライチョウ属|詳細は本文のライチョウ属を参照]]&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;Lagopus muta japonica&#039;&#039; [[:en:Hubert Lyman Clark|Clark]], 1907 ニホンライチョウ　など&amp;lt;ref name=&amp;quot;IGS2012&amp;quot; /&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;biodic&amp;quot;&amp;gt;{{Cite web|url=http://www.biodic.go.jp/cgi-db/gen/RDB_G2000_DO.RDB_DETAIL?wamei=%a5%e9%a5%a4%a5%c1%a5%e7%a5%a6&amp;amp;bunrui_c=&amp;amp;rank=&amp;amp;search_str=%a5%e9%a5%a4%a5%c1%a5%e7%a5%a6&amp;amp;gaku_n=&amp;amp;start_row=1 |title=RDB種情報（動物）種の詳細情報 - ライチョウ |publisher=[[環境省]] |accessdate=2011-07-28}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;雷鳥が語りかけるもの (2006)、19-21頁&amp;quot;&amp;gt;[[#雷鳥が語りかけるもの|雷鳥が語りかけるもの (2006)、19-21頁]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;ライチョウ&#039;&#039;&#039;（&#039;&#039;&#039;雷鳥&#039;&#039;&#039;、学名：&#039;&#039;Lagopus muta&#039;&#039;）は、[[キジ目]][[ライチョウ亜科 (Sibley)|ライチョウ科]]ライチョウ属の[[鳥類|鳥]]の一種である。日本の[[固有種]]である[[亜種]]ニホンライチョウ（&#039;&#039;Lagopus muta japonica&#039;&#039; ）は、国指定の[[特別天然記念物]]であり、[[長野県]]・[[岐阜県]]・[[富山県]]の県鳥である&amp;lt;ref name=&amp;quot;ひと目でわかる野鳥&amp;quot;&amp;gt;{{Cite book|和書 |editor=中川雄三（監修） |date=2010-01 |title=ひと目でわかる野鳥 |publisher=成美堂出版 |isbn=978-4415305325 |pages=136}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
季節が変わってもすみかを移動せず丸一年を同じ地域で過ごす[[留鳥]]であり、気温が激しく低下する冬場においても、それ以外の季節と同様、高山で暮らす。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
英語圏では、冬に白い羽となるライチョウ属の種を&#039;&#039;Ptarmigan&#039;&#039;、羽の色を変化させない種は&#039;&#039;Grouse&#039;&#039; と呼び区別される&amp;lt;ref name=&amp;quot;ライチョウ・生活と飼育への挑戦 (1992)、159頁&amp;quot;&amp;gt;[[#ライチョウ・生活を飼育への挑戦|ライチョウ・生活と飼育への挑戦 (1992)、159頁]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 分布 ==&lt;br /&gt;
ライチョウ科の鳥は世界に6 属17種が生息し（但し分類には諸説ある）、ライチョウの仲間では最も寒冷な気候に適応した種である。[[ユーラシア大陸]]と[[北アメリカ]]の[[北極海]]沿岸、[[ヨーロッパ]]と[[アジア]]の一部の高山帯に広く分布する&amp;lt;ref name=&amp;quot;IUCN&amp;quot; /&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;GSG&amp;quot; /&amp;gt;。[[ピレネー山脈]]、[[アルプス山脈]]、[[日本]]には隔離分布している&amp;lt;ref name=&amp;quot;ライチョウ・生活と飼育への挑戦 (1992)、184-185頁&amp;quot;&amp;gt;[[#ライチョウ・生活と飼育への挑戦|ライチョウ・生活と飼育への挑戦 (1992)、184-185頁]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。Johsgardによる1983年の報告で、[[フィンランド]]で約8,000羽、[[イギリス]]で2,000-20,000羽が生息していると推定されている&amp;lt;ref name=&amp;quot;ライチョウ・生活と飼育への挑戦 (1992)、163頁&amp;quot;&amp;gt;[[#ライチョウ・生活を飼育への挑戦|ライチョウ・生活と飼育への挑戦 (1992)、163頁]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ライチョウ属 ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:WillowPtarmigan23.jpg|150px|サムネイル|default|&#039;&#039;Lagopus lagopus&#039;&#039;&amp;lt;br /&amp;gt;[[カラフトライチョウ]]]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:White-tailed Ptarmigan, Rocky Mountains, Alberta.jpg|150px|サムネイル|default|&#039;&#039;Lagopus leucurus&#039;&#039;&amp;lt;br /&amp;gt;[[オジロライチョウ]]]]&lt;br /&gt;
{{Wikispecies|Lagopus|ライチョウ属}}&lt;br /&gt;
{{Commonscat|Lagopus|ライチョウ属}}&lt;br /&gt;
ライチョウ亜科には7[[属 (分類学) |属]]17[[種 (分類学)|種]]があり&amp;lt;ref&amp;gt;6属17種とする分類例もある。[[#ライチョウ・生活と飼育への挑戦|ライチョウ・生活と飼育への挑戦 (1992)、169頁]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite book|和書 |editor=C.M.ペリンズ、A.L.A.ミドルトン |date=1986-06 |title=動物大百科　鳥類Ⅰ |publisher=[[平凡社]] |isbn=4582545076  |pages=154}}&amp;lt;/ref&amp;gt;、ライチョウ属には以下の3種がある。&lt;br /&gt;
; &#039;&#039;Lagopus lagopus&#039;&#039; [[カラフトライチョウ]]&lt;br /&gt;
: 北極圏のツンドラ地帯などに分布する。生息地にはヤナギやカンバなどの潅木がある。アラスカ、カナダ、アメリカ北部、[[スカンジナビア半島]]、[[シベリア]]、[[カムチャッカ半島]]などの15の亜種に分類される&amp;lt;ref&amp;gt;[[#ライチョウ・生活と飼育への挑戦|ライチョウ・生活と飼育への挑戦 (1992)、186-187頁]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
; &#039;&#039;Lagopus leucurus&#039;&#039; [[オジロライチョウ]]&lt;br /&gt;
: アメリカ大陸西北部に分布し、以下の5亜種に分類される&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web |url=http://www.itis.gov/servlet/SingleRpt/SingleRpt?search_topic=TSN&amp;amp;search_value=677541 |title=&#039;&#039;Lagopus leucura&#039;&#039; (Richardson, 1831) |publisher=[[ITIS]] |language=英語 |accessdate=2012-07-28}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ライチョウ・生活と飼育への挑戦 (1992)、180-182頁&amp;quot;&amp;gt;[[#ライチョウ・生活と飼育への挑戦|ライチョウ・生活と飼育への挑戦 (1992)、190-192頁]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。繁殖地は森林限界より上部の標高約3,500 mの高地で、[[一夫一妻]]であり、メスだけで雛を育てる&amp;lt;ref name=&amp;quot;ライチョウ・生活と飼育への挑戦 (1992)、180-182頁&amp;quot; /&amp;gt;。[[シノニム]]が&#039;&#039;Lagopus leucura&#039;&#039;。&lt;br /&gt;
: &#039;&#039;L. l. altipetens&#039;&#039; {{AU|Osgood}}, 1901 - [[ロッキー山脈]]中南部に分布&lt;br /&gt;
: &#039;&#039;L. l. leucurus&#039;&#039; ({{AU|Richardson}}, 1831) - ユーコン半島、カナダのロッキー山脈、海岸山地に分布&lt;br /&gt;
: &#039;&#039;L. l. peninsularis&#039;&#039; {{AU|Chapman}}, 1902 - アラスカからケナイ半島に分布&lt;br /&gt;
: &#039;&#039;L. l. rainierensis&#039;&#039; {{AU|Taylor}}, 1920 - [[レーニア山]]周辺に分布&lt;br /&gt;
: &#039;&#039;L. l. saxatilis&#039;&#039; {{AU|Cowan}}, 1939 - 海岸山地南部と[[バンクーバー島]]に分布&lt;br /&gt;
; &#039;&#039;Lagopus muta&#039;&#039; &#039;&#039;&#039;ライチョウ&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
: 北極を中心とした周極地方の以下の亜種に分類されていて&amp;lt;ref name=&amp;quot;雷鳥が語りかけるもの (2006)、19-21頁&amp;quot; /&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web |url=http://www.worldbirdnames.org/n-pheasants.html |title=IOC World Bird List 3.2 (Pheasants &amp;amp; allies [Landfowl]) |publisher=[[国際鳥類学会議|国際鳥類学会議（IOC）]] |language=英語 |accessdate=2012-12-28}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web |url=http://avibase.bsc-eoc.org/species.jsp?lang=EN&amp;amp;avibaseid=79B161B7017DD7ED |title=Rock Ptarmigan (&#039;&#039;Lagopus muta&#039;&#039;) (Montin, 1781) |publisher=[[バードライフ・インターナショナル]] |language=英語 |accessdate=2012-12-28}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ITIS&amp;quot;&amp;gt;{{Cite web |url=http://www.itis.gov/servlet/SingleRpt/SingleRpt?search_topic=TSN&amp;amp;search_value=677542 |title=&#039;&#039;Lagopus muta&#039;&#039; (Montin, 1781) |publisher=[[ITIS]] |language=英語 |accessdate=2012-07-28}}&amp;lt;/ref&amp;gt;、スカンジナビア半島から[[コラ半島]]までのヨーロッパ大陸と[[スコットランド]]に分布する秋に翼が秋に灰色になるグループと、これ以外のグループ（北シベリア、アラスカ、北部[[ユーコン準州|ユーコン地域]]、[[アリューシャン列島]]に分布する）に分類される&amp;lt;ref name=&amp;quot;ライチョウ・生活と飼育への挑戦 (1992)、184-185頁&amp;quot; /&amp;gt;。日本の固有種の亜種ニホンライチョウ（&#039;&#039;Lagopus muta japonica&#039;&#039;）は、後者である。シノニムが&#039;&#039;Lagopus mutus&#039;&#039;。&lt;br /&gt;
: &#039;&#039;L. m. muta&#039;&#039; (Montin, 1781) - [[スカンジナビア半島]]北部と[[ロシア]]北西部のコラ半島に分布する。&lt;br /&gt;
: &#039;&#039;L. m. millaisi&#039;&#039; {{AU|Hartert}}, 1923 - スコットランドに分布する。&lt;br /&gt;
: &#039;&#039;L. m. helvetica&#039;&#039; ({{AU|Thienemann}}, 1829) - [[アルプス山脈]]に分布する。&lt;br /&gt;
: &#039;&#039;L. m. pyrenaica&#039;&#039; Hartert, 1921 - [[ピレネー山脈]]に分布する。&lt;br /&gt;
: &#039;&#039;L. m. pleskei&#039;&#039; {{AU|Serebrovski}}, 1926 - [[シベリア]]北部に分布する。&lt;br /&gt;
: &#039;&#039;L. m. nadezdae&#039;&#039; Serebrovski, 1926 - シベリア南部と[[モンゴル国]]北部に分布する。&lt;br /&gt;
: &#039;&#039;L. m. gerasimovi&#039;&#039; {{AU|Red&#039;kin}}, 2005 - ロシアのカラキン島（[[:en:Karaginsky Island|Karaginsky Island]]）に分布する。&lt;br /&gt;
: &#039;&#039;L. m. ridgwayi&#039;&#039; {{AU|Stejneger}}, 1884 - ロシアの[[コマンドルスキー諸島]]に分布する。&lt;br /&gt;
: &#039;&#039;L. m. kurilensis&#039;&#039; {{AU|Kuroda}}, 1924 - [[千島列島]]に分布する。&lt;br /&gt;
: &#039;&#039;L. m. japonica&#039;&#039; [[:en:Hubert Lyman Clark|H. L. Clark]], 1907 - &#039;&#039;&#039;ニホンライチョウ&#039;&#039;&#039;。日本の本州のみに隔離分布、シノニムが&#039;&#039;Lagopus mutus japonicus&#039;&#039;&amp;lt;ref name=&amp;quot;雷鳥が語りかけるもの (2006)、19-21頁&amp;quot; /&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ishikawa_report38-5&amp;quot; /&amp;gt;。&lt;br /&gt;
: &#039;&#039;L. m. evermanni&#039;&#039; {{AU|Elliot}}, 1896 - [[アラスカ]]の[[ニア諸島]][[アッツ島]]に分布する。&lt;br /&gt;
: &#039;&#039;L. m. townsendi&#039;&#039; Elliot, 1896 - アラスカの[[ラット諸島]][[キスカ島]]に分布する。&lt;br /&gt;
: &#039;&#039;L. m. gabrielsoni&#039;&#039; {{AU|Murie}}, 1944 - アラスカのラット諸島の[[アムチトカ島]]とリトルシットキン島（[[:en:Little Sitkin Island|Little Sitkin Island]]）に分布する。&lt;br /&gt;
: &#039;&#039;L. m. sanfordi&#039;&#039; {{AU|Bent}}, 1912 - アリューシャン列島の[[アトカ島]]に分布する。&lt;br /&gt;
: &#039;&#039;L. m. chamberlaini&#039;&#039; Clark, {{AU|AH}}, 1907 - アラスカの[[アンドリアノフ諸島]][[アダック島]]に分布する。&lt;br /&gt;
: &#039;&#039;L. m. atkhensis&#039;&#039; {{AU|Turner}}, 1882 -アンドリアノフ諸島の[[アトカ島]]に分布する。&lt;br /&gt;
: &#039;&#039;L. m. yunaskensis&#039;&#039; {{AU|Gabrielson}} &amp;amp; {{AU|Lincoln}}, 1951 - アリューシャン列島のユナスカ島（[[:en:Yunaska Island|Yunaska Island]]）に分布する。&lt;br /&gt;
: &#039;&#039;L. m. nelsoni&#039;&#039; {{AU|Stejneger}}, 1884 - アリューシャン列島のユニマック島（[[:en:Unimak Island|Unimak Island]]）とウナラスカ島（[[:en:Unalaska Island|Unalaska Island]]）に分布する。&lt;br /&gt;
: &#039;&#039;L. m. dixoni&#039;&#039; {{AU|Grinnell}}, 1909 - アラスカ南東部の[[グレイシャー湾]]島に分布する。&lt;br /&gt;
: &#039;&#039;L. m. rupestris&#039;&#039; ({{AU|Gmelin}}, {{AU|JF}}, 1789) - [[北アメリカ]]北部と[[グリーンランド]]に分布する。&lt;br /&gt;
: &#039;&#039;L. m. welchi&#039;&#039; {{AU|Brewster}}, 1885 - [[カナダ]]の[[ニューファンドランド島]]に分布する。&lt;br /&gt;
: &#039;&#039;L. m. saturata&#039;&#039; {{AU|Salomonsen}}, 1950 - グリーンランド北西部に分布する。&lt;br /&gt;
: &#039;&#039;L. m. capta&#039;&#039; {{AU|Peters}}, {{AU|JL}}, 1934 - グリーンランド北東部に分布する。&lt;br /&gt;
: &#039;&#039;L. m. hyperborea&#039;&#039; {{AU|Sundevall}}, 1845 - スバールバルライチョウ。[[ノルウェー]]の[[スヴァールバル諸島|スバールバル諸島]]とロシアの[[ゼムリャフランツァヨシファ|フランツ・ヨーゼフ諸島]]の最北に分布する最大亜種&amp;lt;ref name=&amp;quot;IGS2012&amp;quot; /&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;toyama-familypark&amp;quot; /&amp;gt;。&lt;br /&gt;
: &#039;&#039;L. m. islandorum&#039;&#039; ({{AU|Faber}}, 1822) - [[アイスランド]]に分布する。&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery widths=&amp;quot;100&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
ファイル:Lagopus Muta- Male in summer plumage.JPG|&#039;&#039;L. m. muta&#039;&#039;&amp;lt;br /&amp;gt;夏羽のオス、ノルウェー&lt;br /&gt;
ファイル:Ptarmingan in Scottish Highlands.JPG|&#039;&#039;L. m. millaisi&#039;&#039;&amp;lt;br /&amp;gt;夏羽のオス、スコットランド&lt;br /&gt;
ファイル:Alpenschneehuhn, Lagopus muta 5.JPG|&#039;&#039;L. m. helvetica&#039;&#039;&amp;lt;br /&amp;gt;夏羽のオス、[[オーストリア]]&lt;br /&gt;
ファイル:Lagopus mutus in Akaishi Mountains.jpg|&#039;&#039;L. m. japonica&#039;&#039;&amp;lt;br /&amp;gt;ニホンライチョウ&amp;lt;br /&amp;gt;夏羽のオス、[[小河内岳|前小河内岳]]&lt;br /&gt;
ファイル:Evermann&#039;s Rock Ptarmigan male.jpg|&#039;&#039;L. m. evermanni&#039;&#039;&amp;lt;br /&amp;gt;夏羽のオス、アラスカのアッツ島&lt;br /&gt;
ファイル:Lagopus muta Alaska 2.jpg|&#039;&#039;L. m. rupestris&#039;&#039;&amp;lt;br /&amp;gt;冬羽のオス、アラスカ&lt;br /&gt;
ファイル:Svalbard rock ptarmigan svalbardrype pho w 5266.jpg|&#039;&#039;L. m. hyperborea&#039;&#039;&amp;lt;br /&amp;gt;スバールバルライチョウ&amp;lt;br /&amp;gt;夏羽、スバールバル諸島&lt;br /&gt;
ファイル:Lagopus muta -Iceland-8.jpg|&#039;&#039;L. m. islandorum&#039;&#039;&amp;lt;br /&amp;gt;冬羽、アイスランド&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 亜種ニホンライチョウ ==&lt;br /&gt;
日本には亜種ニホンライチョウが[[本州]][[中部地方]]の高山帯（[[頸城山塊]]、[[飛騨山脈]]、[[御嶽山 (長野県)|御嶽山]]、[[赤石山脈]]）のみに生息する。日本の生息地が、ライチョウの南限である。日本国内の、現在の分布北限は[[新潟県]]頸城山塊の[[火打山]]と[[新潟焼山|焼山]]、分布南限は赤石山脈（南アルプス）のイザルガ岳である&amp;lt;ref name=&amp;quot;日本動物大百科&amp;quot;&amp;gt;{{Cite book|和書 |author=中村浩志 |editor=[[日高敏隆]]（監修） |date=1997-03 |title=日本動物大百科　鳥類II |publisher=[[平凡社]] |isbn=4582545548 |pages=10-11}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。なお、北海道には別属(&#039;&#039;Bonasa 属&#039;&#039;)の[[エゾライチョウ]]（&#039;&#039;Tetrastes bonasia&#039;&#039;）が生息する。北海道に&#039;&#039;Lagopus属&#039;&#039; が生息しない理由は分かっていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{右|{{Habitat|現在のニホンライチョウの生息地|Mts.Kubiki|Mts.Hida|Mts.Akaishi}}}}&lt;br /&gt;
{{右|{{Habitat|19世紀中頃のニホンライチョウの生息地|Mts.Kubiki|Mts.Hida|Mts.Akaishi|Mt.Haku|Mts.Kiso|Mts.Yatsugatake}}}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本の過去の生息地 ===&lt;br /&gt;
[[江戸時代]]以前の文献では[[蓼科山]]、[[八ヶ岳]]、[[白山]]&amp;lt;ref name=&amp;quot;ishikawa_report38-5&amp;quot;&amp;gt;{{Cite web |url=http://www.pref.ishikawa.lg.jp/hakusan/publish/report/documents/report38-5.pdf |author=上馬康生、佐川貴久 |title=白山におけるライチョウの生息可能数の推定と絶滅について |format=PDF |date=2011 |publisher=石川県自然保護センター |accessdate=2012-07-28}}&amp;lt;/ref&amp;gt;にライチョウが生息していたと記録されているが、現在は生息していない&amp;lt;ref name=&amp;quot;日本動物大百科&amp;quot; /&amp;gt;。また、岩手県と(1969年)、群馬県尾瀬で過去に観察報告があるが、詳細は不明である&amp;lt;ref&amp;gt;[[日本鳥学会]](目録編集委員会) 編集，『日本鳥類目録 改訂第7版』、日本鳥学会、2012年、ISBN 978-4-930975-00-3&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[岐阜県|岐阜]]・[[石川県]]境に位置する白山は[[大正]]初期を最後に確認が途絶え、絶滅したとされた。しかし70年後の[[2009年]][[6月2日]]に石川県白山自然保護センターが雌1羽を確認し&amp;lt;ref name=&amp;quot;ishikawa&amp;quot;&amp;gt;{{Cite web |url=http://www.pref.ishikawa.lg.jp/hakusan/raicyou/index.html |title=ライチョウ 白山で70年ぶりに確認 |publisher=石川県 |date=2010-09-28 |accessdate=2011-03-27}}&amp;lt;/ref&amp;gt;、3年間生存が確認されている&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web |url=http://www.pref.ishikawa.lg.jp/hakusan/raicyou/raicyou8.html |title=ライチョウ  白山で70年ぶりに確認（ライチョウのDNA分析結果とその後の観察について）|date=2011-03-04 |publisher=石川県 |accessdate=2012-07-28}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。このライチョウは[[石川県立大学]]による[[デオキシリボ核酸|DNA]]の解析などで飛騨山脈方面から飛来したものと推定されている&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web |url=http://www.pref.ishikawa.lg.jp/hakusan/raicyou/raicyou5.html |title=白山でのライチョウの再々確認（平成23年6月1日に確認されたライチョウ） |publisher=石川県 |accessdate=2012-07-28}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[木曽山脈|中央アルプス]]も[[1960年代]]まで生息が確認されていたが、[[駒ヶ岳ロープウェイ]]の開通後数年で絶滅したとみられている（[[因果]]関係は不明）&amp;lt;ref name=&amp;quot;biodic&amp;quot; /&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;日本動物大百科&amp;quot; /&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本来ライチョウの繁殖活動が確認されていない[[八ヶ岳]][[天狗岳|東天狗岳]]、[[飯縄山]]や[[戸隠連峰]][[高妻山]]で、1960年代以降数回にわたり登山者により写真撮影されたり、糞が確認されたことがある。これは、本来の生息地である高山帯の生息環境が悪化した事によって、新しい生息場所を求めて飛来した個体と考えられる&amp;lt;ref name=&amp;quot;JJE24-261&amp;quot;&amp;gt;[http://ci.nii.ac.jp/naid/110001881510/ 山岳地帯の環境破壊による鳥類の分布と生態の変化について : 特にライチョウを中心として] 日本生態学会誌 24(4)  pp.261-264 19741231&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1980年代]]に行われた縄張りの垂直分布調査から、「年平均気温が3℃上昇した場合、日本のライチョウは絶滅する可能性が高い」ことが指摘されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本に生息する種の起源 ===&lt;br /&gt;
ライチョウが日本にやってきたのはおよそ2万年前の[[氷河期]]で、カラフト、カムチャッカを経由し本州中央部の高山帯に定住したが、氷河期が終わり温暖になったことで大半のライチョウは寒い北へ戻ったがごく一部が日本の高山に残った&amp;lt;ref name=&amp;quot;雷鳥が語りかけるもの (2006)、19-21頁&amp;quot; /&amp;gt;。現在は北極周辺が主な生息地域である。日本のライチョウは一番南の端ということになる。ミトコンドリアDNAの解析結果では、北アルプスに2系統、南アルプスに2系統の種が生息している&amp;lt;ref&amp;gt;[http://wwwsoc.nii.ac.jp/osj/japanese/katsudo/taikai/2005Nagano/oral/A-1-10.pdf ニホンライチョウの遺伝的多様性と分化] ニホン鳥類学会&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、年平均気温は現在より2-4℃高かった 6000年前から9000年前のヒプシサーマル期の前半に著しく個体数を減少させた事が遺伝的多様性に欠けた個体群を形成させた&amp;lt;ref&amp;gt;[http://dx.doi.org/10.3838/jjo.50.53 ニホンライチョウ(&#039;&#039;Lagopus mutus japonicus&#039;&#039;)におけるミトコンドリアDNAコントロール領域の遺伝変異性]日本鳥学会誌 Vol. 50 (2001) No. 2 P 53-64,107&amp;lt;/ref&amp;gt;。南部の生息地ほど遺伝的多様性に欠けている。同属の &#039;&#039;Lagopus属&#039;&#039;の分布で物理的な距離が最も近いのはカラフトであり、日本に生息する種は物理的にも隔絶されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本の生息数 ===&lt;br /&gt;
[[2005年]]の調査によれば新潟県頸城山塊の火打山と新潟焼山に約25羽、[[飛騨山脈|北アルプス]][[朝日岳 (飛騨山脈)|朝日岳]]から[[穂高岳]]にかけて約2000羽、[[乗鞍岳]]に約100羽、[[御嶽山 (長野県)|御嶽山]]に約100羽、南アルプス[[甲斐駒ヶ岳]]から[[光岳]]にかけて約700羽生息しているとみられる。日本国内では合わせて約3000羽程度が生息していると推測されている&amp;lt;ref name=&amp;quot;ひと目でわかる野鳥&amp;quot; /&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;日本動物大百科&amp;quot; /&amp;gt;。[[2007年]]には南アルプス[[北岳]]で絶滅したとの報告があったが[[2008年]]には生息が再確認されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天敵の[[猛禽類]]や動物に捕食される以外に、山小屋などから排出されるゴミに混じる病原体やヒトが持ち込む[[サルモネラ菌]]や[[ニワトリ]]などの感染症である[[ニューカッスル病]]、ロイコチトゾーン感染により国内のライチョウが減少することが懸念されている。また、登山者の増加に伴い登山道周辺のハイマツ帯が踏み荒らされ劣勢となり次第に減少しており、それに伴いライチョウの生息数も減少している。卵及び幼鳥やメスは[[オコジョ]]、[[テン]]や[[キツネ]]などの天敵に捕食されやすいと考えられ、オスの比率が高い地域は絶滅の前兆とされている&amp;lt;ref name=&amp;quot;JJE24-261&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
温暖化に伴い、[[ニホンジカ]]や[[キツネ]]、[[ニホンザル]]の生息域が高山帯に拡大することでシカ、ニホンサルとの餌の競合や、キツネに捕食されることにより生息数は減少している&amp;lt;ref&amp;gt;[[#雷鳥が語りかけるもの|雷鳥が語りかけるもの (2006)、153頁]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 生態・形態 ===&lt;br /&gt;
[[File:Rock Ptarmigan in Mount Akaishi 1994-7-30.jpg|thumb|right|240px|[[ハイマツ]]帯に生息するライチョウの母と子]]&lt;br /&gt;
[[夏]]は褐色・[[冬]]は純白と[[季節]]によって[[羽毛]]の色が変化するのが特徴である。夏期は標高2,000-3,000 [[メートル|m]]のハイマツ帯に分布し、繁殖期にはつがい毎に直径300-400 m程度の縄張りを形成する。日本ではライチョウの分布と[[ハイマツ]]の分布には正の相関関係があるが、世界の別な地域に生息するライチョウ科にはこのような特徴はみられない。厳冬期は餌を確保するために[[森林限界]]付近まで降下し、[[ダケカンバ]]の冬芽や[[オオシラビソ]]の葉を餌としている姿が観察されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
冬は羽毛の中に空気をたっぷり蓄えて体温を逃さないようにしている。羽毛は軸が2つに分かれその軸に突いた細かい羽毛の密度が高いため、空気をたくさん含むことができる。冬のライチョウはめったに飛ばない。ゆっくり歩いて雪の中で体力を温存する。夜、休む時には雪を掘り首だけ出して休む。また、脚に羽毛を持つのは他のキジ類にない特徴である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一般的に登山者の間では「ガスの出ているような天候の時に見ることが多い」と言われている。&lt;br /&gt;
もともと寒冷な地域を生活圏とする鳥であるため夏場の快晴時には暑さのために[[ハイマツ]]群落内、岩の隙間、雪洞の中などに退避しているという可能性、天敵から身を隠しているという2つの可能性からこのようなことが言われていると考えられる。寒さが得意なライチョウは逆に夏の暑さが苦手で気温が26[[セルシウス度|℃]]以上になると呼吸が激しくなり、体調を崩したという報告もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 生態 ===&lt;br /&gt;
[[File:Lagopède Alpin MHNT.jpg|thumb|200px|ライチョウの卵]]&lt;br /&gt;
[[File:Ptarmigan Raicyou Male eating bud in kogouchidake 2007 6 8.jpg|thumb|right|200px|若芽をついばむライチョウ（雄）]]&lt;br /&gt;
体重は400-600 [[グラム|g]]程度（ヨーロッパのものがオス375-610 g、メス347-475 g&amp;lt;ref name=&amp;quot;ライチョウ・生活と飼育への挑戦 (1992)、184-185頁&amp;quot; /&amp;gt;）。&amp;lt;!--ニホンライチョウの（対象は未確認）--&amp;gt;全長は約37 [[センチメートル|cm]]、[[翼幅|翼開長]]は約59 cm&amp;lt;ref name=&amp;quot;ひと目でわかる野鳥&amp;quot; /&amp;gt;。成鳥の採食物は植物食で主に木本の高山植物の冬芽、葉、果実、草本の高山植物の葉、花、種子、蘚苔類、昆虫など多種多様な採食物が報告されている。幼鳥は動物質の餌も多く採食していると考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヨーロッパと日本の亜種は定住性であるが、北方の亜種は広範囲の移動を行う&amp;lt;ref name=&amp;quot;ライチョウ・生活と飼育への挑戦 (1992)、184-185頁&amp;quot; /&amp;gt;。飛ぶことはあまり得意ではないといわれており、基本的には地上を徘徊する。飛翔能力については、十分に解明されていないが、前述のように本来の生息域外の山塊で発見されていることから、低山帯を中継しながら15-30 [[キロメートル|km]]程度の距離を飛ぶ能力は有していると考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
産卵用の巣は30 [[センチメートル|cm]]程度の比較的背の低いハイマツやシャクナゲ類の陰に作られることが多く、産卵は5月下旬-7月上旬、淡黄灰色の暗褐色の大小の斑点がある25 g程度の卵を5個から10個程度産み、メスのみが抱卵を行う。抱卵の時期にはメスは通常より10倍ほど大きな糞をする&amp;lt;ref&amp;gt;[[#雷鳥が語りかけるもの|雷鳥が語りかけるもの (2006)、31頁]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。孵化日数は3週間程度で孵化後は巣には戻らない。孵化から1か月で100 gを越える大きさに成長し、幼鳥は4か月程度メスに保護され、10月には親鳥と同じ程度まで成長し親離れすると共に白色の冬羽へと変化を始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
孵化直後のヒナは背丈およそ6 cmほどで、足は体と比較して大きい。他のキジ類の鳥類と同じように生まれて半日も経たないうちに巣を離れ自分の足で歩き出し産卵用の巣は放棄される。また、親鳥からの給餌は行われず、自力で採餌も始める。柔らかい新芽が好物である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
春は黒い羽毛が混じりはじめる。目の上には赤色の肉冠がある。これはオスの特徴で興奮しているサインである。ハイマツやお花畑の周辺に集まり採食する。鳴き声はカエルに似ている。ハイマツ周辺ではオス同士の縄張り争いが行われ、5-6月のハイマツの縄張り形成期に縄張りに侵入してくるオスと激しい空中戦を行うことがある。メスは背中が茶色になる。オスは黒い尾羽を広げるときは求愛のポーズである。孵化後はオスの縄張り活動はなくなり、単独またはオスだけの群れを形成する。&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[File:Ptarmigan Raicyou in Arakawadake Mother and child 1994 7 29.jpg|x110px]]&lt;br /&gt;
|[[File:Lagopus muta immature.jpg|x110px]]&lt;br /&gt;
|[[File:Raichou_01.JPG|x110px]]&lt;br /&gt;
|[[File:Ptarmigan Raicyou Male in kamikouchidake 2003 11 23.jpg|x110px]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|&amp;lt;small&amp;gt;ライチョウの親子と&amp;lt;br&amp;gt;[[高山植物]]、[[荒川岳]]にて&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|&amp;lt;small&amp;gt;砂浴びするライチョウの&amp;lt;br&amp;gt;幼鳥、[[間ノ岳]]南稜コルにて&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|&amp;lt;small&amp;gt;ライチョウ&amp;lt;br&amp;gt;冬毛に変わる途中&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|&amp;lt;small&amp;gt;ライチョウ（雄・晩秋）&amp;lt;br&amp;gt;[[上河内岳]]にて&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 日本人とライチョウ ==&lt;br /&gt;
[[イヌワシ]]など[[猛禽類]]の[[天敵]]を避けるため朝夕のほかに[[雷]]の鳴るような空模様で活発に活動することが名前の由来と言われているが&amp;lt;ref&amp;gt;[[#ライチョウ・生活と飼育への挑戦|ライチョウ・生活と飼育への挑戦 (1992)、161頁]]&amp;lt;/ref&amp;gt;、実際のところははっきりしていない。古くは「らいの鳥」と呼ばれており[[江戸時代]]より[[火災|火]]難、雷難よけの信仰があったが&amp;lt;ref name=&amp;quot;雷鳥が語りかけるもの (2006)、101-102頁&amp;quot;&amp;gt;[[#雷鳥が語りかけるもの|雷鳥が語りかけるもの (2006)、101-102頁]]&amp;lt;/ref&amp;gt;、「らい」がはじめから「雷」を指していたかは不明である&amp;lt;ref name=&amp;quot;ライチョウ・生活と飼育への挑戦 (1992)、159頁&amp;quot; /&amp;gt;。&amp;lt;ref name=&amp;quot;ライチョウ・生活と飼育への挑戦 (1992)、162頁&amp;quot;&amp;gt;[[#ライチョウ・生活と飼育への挑戦|ライチョウ・生活と飼育への挑戦 (1992)、162頁]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ヨーロッパや北アメリカでライチョウ類は重要な狩猟対象の鳥として古くから利用されていて、信仰の対象として崇められていた日本とは対照的である&amp;lt;ref name=&amp;quot;ライチョウ・生活と飼育への挑戦 (1992)、162頁&amp;quot; /&amp;gt;。狩猟文化があるイギリス人の[[ウォルター・ウェストン]]が日本に長期滞在した際の[[1894年]]（明治27年）8月8日に[[常念岳]]周辺でライチョウの狩猟を行っていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ライチョウ・生活と飼育への挑戦 (1992)、163頁&amp;quot; /&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 名前の変遷 ===&lt;br /&gt;
文献上での最初の登場は[[1200年]]（[[正治]]2年）にまとめられた歌集「夫木和歌抄」での、[[後白河天皇|後白河法皇]]が詠んだ「しら山の松の木陰にかくろひてやすらにすめるらいの鳥かな」と従二位[[藤原家隆 (従二位)|藤原家隆]]が詠んだ「あわれなり越の白根にすむ鳥も松をたのみて夜をあかすらむ」で、当時の[[白山]]登山者から伝わった話が京の、[[後白河法皇]]に伝わり、「らいの鳥」の名で詠んだとされている&amp;lt;ref name=&amp;quot;ライチョウ・生活と飼育への挑戦 (1992)、157頁&amp;quot;&amp;gt;[[#ライチョウ・生活と飼育への挑戦|ライチョウ・生活と飼育への挑戦 (1992)、157頁]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。江戸時代初期に中国の[[明]]から渡来した[[高泉性敦]]が『鶆（らい）』を著した名称も用いらるようになった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ライチョウ・生活と飼育への挑戦 (1992)、157頁&amp;quot; /&amp;gt;。[[1711年]]（[[正徳 (日本)|正徳]]元年）に[[加賀藩]]がライチョウを見た白山と立山の登拝者から調査した調査では、「らいの鳥」が用いられ、[[1720年]]（[[享保]]5年）の調査では「らいの鳥」と「雷鳥」の両方が用いられていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ライチョウ・生活と飼育への挑戦 (1992)、157頁&amp;quot; /&amp;gt;。江戸時代には立山、白山、御嶽山にライチョウが生息していることが、登拝者により広く知られていて、江戸時代後期に[[牧野貞幹]]が『野鳥写生図』でライチョウのオスとメスを写生し「鶆鳥」と表記し、毛利梅園が『毛利禽譜』で白山のライチョウのオスと雛を写生し「雷鳥」と表記している&amp;lt;ref name=&amp;quot;雷鳥が語りかけるもの (2006)、101-102頁&amp;quot; /&amp;gt;。[[1779年]]（[[安永 (元号)|安永]]8年）に葛山源吾兵衛の「木の下陰」などにあるように長野県の諏訪や[[上伊那]]では『岩鳥』と呼ばれていて、[[1834年]]（[[天保]]5年）の「信濃奇勝録」の[[乗鞍岳]]のものには『がんてう』の[[振り仮名]]が付けられていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ライチョウ・生活と飼育への挑戦 (1992)、159頁&amp;quot; /&amp;gt;。[[1813年]]（[[文化 (元号)|文化]]10年）の小原文英による「白山紀行」の写生図では「雷鳥」と「鶆鳥」の両方を記している&amp;lt;ref name=&amp;quot;ライチョウ・生活と飼育への挑戦 (1992)、159頁&amp;quot; /&amp;gt;。地方名では富山県で『閑古鳥』、木曽の御嶽山で『御鳥』などの記録がある&amp;lt;ref name=&amp;quot;ライチョウ・生活と飼育への挑戦 (1992)、159頁&amp;quot; /&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本のライチョウに学名『&#039;&#039;Lagopus muta japonica&#039;&#039;』が付けられたのは、[[1907年]]（[[明治]]40年）である&amp;lt;ref name=&amp;quot;ライチョウ・生活と飼育への挑戦 (1992)、159頁&amp;quot; /&amp;gt;。[[1916年|1916]]-18年（[[大正]]5-7年）の百科事典「[[広文庫]]」で『雷鳥に鶆に作るは誤、本邦の神鳥にして支那になし』と記載され、『雷鳥（ライチョウ）』の名称が一般的となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ライチョウ・生活と飼育への挑戦 (1992)、159頁&amp;quot; /&amp;gt;。現在は[[和名]]で『ライチョウ』と表記され、識別のために日本の亜種が『ニホンライチョウ』と表記される場合がある&amp;lt;ref name=&amp;quot;雷鳥が語りかけるもの (2006)、19-21頁&amp;quot; /&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#ライチョウ・生活と飼育への挑戦|ライチョウ・生活と飼育への挑戦 (1992)、5頁]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 亜種ニホンライチョウの保護 ==&lt;br /&gt;
=== 保護の歴史 ===&lt;br /&gt;
[[File:Ptarmigan Raicyou Female in kogouchidake 2008 11 26.jpg|thumb|right|135px|ライチョウ(冬毛・雌)&amp;lt;br&amp;gt;[[赤石山脈|南アルプス]][[小河内岳]]にて]]&lt;br /&gt;
日本のライチョウは江戸時代までは信仰の対象として保護され、明治時代に一時乱獲され、以後の以下年表の法律で保護され現在に至っている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#雷鳥が語りかけるもの|雷鳥が語りかけるもの (2006)、104-105頁]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 古代山岳信仰 - 江戸時代よりずっと以前から[[山岳信仰]]登拝者に知られ、神秘性を帯びた「神の使者」の鳥とされていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ライチョウ・生活と飼育への挑戦 (1992)、6-7頁&amp;quot;&amp;gt;[[#ライチョウ・生活と飼育への挑戦|ライチョウ・生活と飼育への挑戦 (1992)、6-7頁]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* [[江戸時代]] - 明治以前は、宗教的な殺生禁断の戒律により人により捕獲されることは少なかったと考えられている&amp;lt;ref name=&amp;quot;ライチョウ・生活と飼育への挑戦 (1992)、6-7頁&amp;quot; /&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* [[明治時代]] - 西洋思想の流入と、[[狩猟]]具の発達に伴い狩猟が行われていた。&lt;br /&gt;
* [[1895年]]（明治28年）[[3月27日]] - [[狩猟法]]施行細則により、雷鳥および[[エゾライチョウ|松鶏]]の狩猟停止期間が4月16日から8月14日までと定められた&amp;lt;ref&amp;gt;1895年（明治28年）3月27日[[農商務省 (日本)|農商務省]]令第4号「狩猟法施行細則」&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* [[1901年]]（明治34年） - 狩猟法が改定されその狩猟停止期間が4月16日から10月14日までと定められた。&lt;br /&gt;
* [[1910年]]（明治43年） - ライチョウが、狩猟法の[[保護鳥]]に指定されて、捕獲禁止となった。&lt;br /&gt;
* [[1923年]]（[[大正]]12年） - ライチョウが、[[史蹟名勝天然紀念物保存法]]により[[天然記念物]]に指定された&amp;lt;ref&amp;gt;1923年（大正12年）3月7日内務省告示第57号「史蹟名勝天然記念物保存ニ依リ指定」&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* [[1955年]]（[[昭和]]30年）[[2月15日]] - 雷鳥が、[[文化財保護法]]により[[特別天然記念物]]に指定された&amp;lt;ref name=&amp;quot;bunka&amp;quot;&amp;gt;{{Cite web |url=http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp?register_id=401&amp;amp;item_id=3103 |title=国指定文化財等データベース・ライチョウ|publisher=[[文化庁]] |accessdate=2012-07-27}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;1955年（昭和30年）2月15日文化財保護委員会告示第20号「特別天然記念物春日山原始林等指定」&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* [[1969年]]（昭和44年）[[3月31日]] - [[鳥獣の保護及び狩猟の適正化に関する法律|鳥獣保護及狩猟ニ関スル法律]]により、[[白山]]周辺の山域が白山[[鳥獣保護区]]に指定された&amp;lt;ref&amp;gt;1969年（昭和44年）3月26日農林省告示第357号「鳥獣保護区を設定した件」&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* [[1972年]]（昭和47年）[[11月30日]] - ニホンライチヨウが、[[特殊鳥類の譲渡等の規制に関する法律]]により特殊鳥類に指定された&amp;lt;ref&amp;gt;1972年（昭和47年）11月27日総理府令第71号「特殊鳥類の譲渡等の規制に関する法律施行規則」&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* [[1984年]]（昭和59年）[[11月1日]] - 鳥獣保護及狩猟ニ関スル法律により、北アルプス鳥獣保護区が拡大され、[[飛騨山脈|北アルプス]]の主要な山域が指定された&amp;lt;ref&amp;gt;1984年（昭和59年）10月23日環境庁告示第64号「鳥獣保護区を設定する件」&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* [[1993年]]（[[平成]]5年）[[4月1日]] - 特殊鳥類の譲渡等の規制に関する法律が廃止され&amp;lt;ref&amp;gt;1992年（平成4年）6月5日法律第75号「絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律」&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律|種の保存法]]により、国内希少野生動植物種に指定された&amp;lt;ref&amp;gt;1993年（平成5年）2月10日政令第17号「絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律施行令」&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* [[1999年]]（平成11年）[[9月15日]] - 鳥獣保護及狩猟ニ関スル法律により、保護繁殖を特に図る必要がある鳥獣に指定される&amp;lt;ref&amp;gt;1999年（平成11年）9月14日環境庁告示第43号「保護繁殖を特に図る必要がある鳥獣を定める件」&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* [[2003年]]（平成15年）[[4月15日]] - 鳥獣保護及狩猟ニ関スル法律を全部改正した[[鳥獣の保護及び狩猟の適正化に関する法律]]により、希少鳥獣に指定される&amp;lt;ref&amp;gt;2002年（平成14年）12月26日環境省令第28号「鳥獣の保護及び狩猟の適正化に関する法律施行規則」&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* [[2012年]]（平成24年）[[9月18日]] - 中央環境審議会野生生物部会において、「ライチョウの保護増殖事業計画の策定について」答申がなされた&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web |url=http://www.env.go.jp/press/press.php?serial=15699 |title=「ライチョウ保護増殖事業計画の策定について」及び「国指定鳥獣保護区及び特別保護地区の指定について」に関する中央環境審議会答申について（お知らせ） |publisher=環境省 |date=2012-09-18 |accessdate=2012-12-28}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 近年の飼育活動 ===&lt;br /&gt;
日本のライチョウが[[トキ]]や[[コウノトリ]]のように[[絶滅]]することが危惧されていて、以下年表の飼育研究活動が行われている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#ライチョウ・生活と飼育への挑戦|ライチョウ・生活と飼育への挑戦 (1992)、58頁]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* [[1960年]]（昭和35年）8月 - 生息地拡大のために[[白馬岳]]で捕獲したオス1羽、メス2羽、ヒナ4羽の合計7羽のライチョウが[[富士山]]に運ばれた。一時期は繁殖に成功し1966年に10羽が確認されたが[[1970年]]以降の目撃情報はない&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|url=http://www.keiryou-keisoku.co.jp/other/yachou/raityou03.html |title=ライチョウ（雷鳥）（3） |publisher=日本計量新報社 |accessdate=2011-03-27}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* [[1963年]]（昭和38年） -　生態研究のため、長野県大町市の[[大町山岳博物館]]が飼育研究を開始した。&lt;br /&gt;
* [[1966年]]（昭和41年） - 富山県も飼育研究を開始した。&lt;br /&gt;
* [[1967年]]（昭和42年）7月 - 南アルプス北岳から山梨県[[金峰山 (山梨県・長野県)|金峰山]]に5羽が移植されたが、定着しなかった。定着しなかった理由として、隠れ家や営巣場所となるハイマツ帯の面積が小さかったことや、山体の形成年代が新しく餌となる高山植物が十分に無かったため、とされている。&lt;br /&gt;
* [[1969年]]（昭和44年） - 山梨県も飼育研究を開始した。しかし各県の飼育は、寄生虫や[[家禽]]類起源の感染症、[[サルモネラ菌]]、トリアデノウイルスなどにより死滅する例が多く、安定した増殖には繋がっていない。&lt;br /&gt;
* [[2004年]]（平成16年） - 大町山岳博物館で飼育鳥の全てが死滅し、現在は飼育されていない。&lt;br /&gt;
* [[2008年]]（平成20年）[[12月5日]] - [[ノルウェー]][[スヴァールバル諸島|スバールバル諸島]]産の大型亜種スバールバルライチョウが、[[恩賜上野動物園|上野動物園]]で公開されており、そこで生まれた個体が[[長野市茶臼山動物園]]や[[富山市ファミリーパーク]]&amp;lt;ref name=&amp;quot;toyama-familypark&amp;quot;&amp;gt;{{Cite web |url=http://www.toyama-familypark.jp/animal/category/cat109/ |title=スバールバルライチョウ |publisher=[[富山市ファミリーパーク]] |accessdate=2012-07-28}}&amp;lt;/ref&amp;gt;でも公開されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 種の保全状態評価 ==&lt;br /&gt;
[[国際自然保護連合]]（IUCN）により、[[軽度懸念]]（LC）の指定を受けている&amp;lt;ref name=&amp;quot;IUCN&amp;quot; /&amp;gt;。ヨーロッパのいくつかの国、[[中国]]、日本で[[レッドリスト]]の指定を受けていて、その他の地域では[[狩猟]]対象となっているところがある&amp;lt;ref name=&amp;quot;GSG&amp;quot; /&amp;gt;。[[スウェーデン]]では、1978-1980年に年間11,700羽ほどのライチョウが捕獲されている&amp;lt;ref name=&amp;quot;ライチョウ・生活と飼育への挑戦 (1992)、163頁&amp;quot; /&amp;gt;。[[アイスランド]]では、狩猟による生息数への影響調査が行われている&amp;lt;ref name=&amp;quot;GSG&amp;quot; /&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本では亜種ニホンライチョウ（&#039;&#039;Lagopus muta japonica&#039;&#039;）が[[環境省]]により、絶滅危惧IB類 (EN) の指定を受けている&amp;lt;ref name=&amp;quot;4thedbird&amp;quot; /&amp;gt;。日本国指定の[[特別天然記念物]]であり&amp;lt;ref name=&amp;quot;bunka&amp;quot; /&amp;gt;、国内希少野生動植物種（[[絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律|種の保存法]]、[[1993年]]）の対象である。また以下の[[都道府県]]により、レッドリストの指定を受けている&amp;lt;ref&amp;gt;「都道府県指定状況を一覧表で表示」をクリックすると、出典元の各都道府県のレッドデータブックのカテゴリー名が一覧表示されます。{{Cite web |url=http://jpnrdb.com/search.php?mode=map&amp;amp;q=02080010129 |title=日本のレッドデータ検索システム（ライチョウ） |publisher=エンビジョン環境保全事務局 |accessdate=2012-07-28}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。富山県の[[立山]]の生息地で[[立山黒部アルペンルート]]の開発前後で生息数が約250羽から約150羽（1983年）に減少したと調査報告されている&amp;lt;ref name=&amp;quot;biodic&amp;quot; /&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#ライチョウ・生活と飼育への挑戦|ライチョウ・生活と飼育への挑戦 (1992)、7頁]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
*{{絶滅危惧IB類|ref=&amp;lt;ref name=&amp;quot;4thedbird&amp;quot;&amp;gt;{{cite web|url=http://www.env.go.jp/press/file_view.php?serial=20551&amp;amp;hou_id=15619|title=【鳥類】環境省第4次レッドリスト（2012）＜分類群順＞|format=PDF|publisher=環境省|date=2012-08-28|accessdate=2012-09-09}}&amp;lt;/ref&amp;gt;}}&lt;br /&gt;
* 絶滅 - 石川県&amp;lt;ref name=&amp;quot;ishikawa&amp;quot; /&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 絶滅危惧IA類 - 山梨県&lt;br /&gt;
* 絶滅危惧I類 - 新潟県&amp;lt;ref name=&amp;quot;niigata&amp;quot;&amp;gt;{{Cite web |url=http://www.pref.niigata.lg.jp/HTML_Article/rdb10_tyorui.pdf |title=レッドデータブックにいがた |format=PDF |publisher=新潟県 |pages=44 |date=2001-03 |accessdate=2012-07-28}}&amp;lt;/ref&amp;gt;、富山県、岐阜県&amp;lt;ref name=&amp;quot;gifu&amp;quot;&amp;gt;{{Cite web |url=http://www.pref.gifu.lg.jp/kankyo/shizen/red-data-dobutsu/cho-rui/raityou.html |title=岐阜県レッドデータブック（ライチョウ）|publisher=岐阜県 |date=2009-08 |accessdate=2012-07-28}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 絶滅危惧II類 - 長野県、静岡県&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 国際ライチョウシンポジウム ==&lt;br /&gt;
ライチョウ属などの研究に関する国際的な[[シンポジウム]]がほぼ3年ごとに開催されている。2012年7月20日-24日に長野県[[松本市]]で「第12回国際ライチョウシンポジウム」が開催された&amp;lt;ref name=&amp;quot;IGS2012&amp;quot; /&amp;gt;。&lt;br /&gt;
=== 開催地 ===&lt;br /&gt;
* 第9回 - {{CHN}}[[北京]]、2002年&amp;lt;ref name=&amp;quot;雷鳥が語りかけるもの (2006)、173頁&amp;quot;&amp;gt;[[#雷鳥が語りかけるもの|雷鳥が語りかけるもの (2006)、173頁]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 第10回 - {{FRA}}、2005年9月26日-30日&amp;lt;ref name=&amp;quot;雷鳥が語りかけるもの (2006)、173頁&amp;quot; /&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 第11回 - {{CAN}}、2008年&lt;br /&gt;
* 第12回 - {{JPN}}長野県松本市、2012年7月20日-24日&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 地方公共団体の鳥に指定している自治体 ==&lt;br /&gt;
以下の自治体の鳥に指定されている。&lt;br /&gt;
=== 都道府県 ===&lt;br /&gt;
* [[岐阜県]]&lt;br /&gt;
* [[長野県]]&lt;br /&gt;
* [[富山県]]&lt;br /&gt;
=== 市町村 ===&lt;br /&gt;
* [[大町市]]　（長野県）&lt;br /&gt;
* [[関ケ原町]]　（岐阜県、町のシンボル）&lt;br /&gt;
* [[小坂町 (岐阜県)|小坂町]]　（のちの岐阜県[[下呂市]]）&lt;br /&gt;
* [[芦安村]]　（のちの[[山梨県]][[南アルプス市]]）&lt;br /&gt;
* [[三岳村 (長野県)|三岳村]]　（のちの長野県[[木曽郡]][[木曽町]]）&lt;br /&gt;
* [[長谷村 (長野県)|長谷村]]　（のちの長野県[[伊那市]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本国外 ===&lt;br /&gt;
* [[カナダ]][[ヌナブト準州]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出典 ==&lt;br /&gt;
* [http://dx.doi.org/10.2326/jjo.56.93  中村 浩志 (2007) ライチョウLagopus mutus japonicus] 日本鳥学会誌 Vol. 56 (2007) , No. 2 pp.93-114&lt;br /&gt;
* [http://www.keiryou-keisoku.co.jp/other/yachou/raityou.html 野鳥歳時記 ライチョウ（雷鳥）]&lt;br /&gt;
* [http://hp.brs.nihon-u.ac.jp/~wildlife/newpage7.htm 第4回ライチョウ会議資料（2003年9月6 - 7日、東京農業大学）] 日本大学・生物資源科学部&lt;br /&gt;
* {{PDFlink|[https://soar-ir.shinshu-u.ac.jp/dspace/bitstream/10091/2062/1/Shiga40-01.pdf 火打山におけるライチョウのなわばり分布と生息個体数]}} 信州大学教育学部生態研究室&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
{{Reflist|3}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== メディア ==&lt;br /&gt;
=== 参考文献 ===&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書 |author=[[大町山岳博物館]] |date=1992-02 |title=ライチョウ・生活と飼育への挑戦 |publisher=[[信濃毎日新聞社]] |isbn=4784092056 |ref=ライチョウ・生活と飼育への挑戦}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書 |author=中村浩志 |date=2006-08 |title=雷鳥が語りかけるもの |publisher=[[山と渓谷|山と溪谷社]] |isbn=4635230066 |ref=雷鳥が語りかけるもの}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書 |author=[[畑正憲]] |date=1993-05 |title=雷鳥の山―天然記念物の動物たち |publisher=[[角川書店]] |isbn=4041319234}}&lt;br /&gt;
=== 写真集 ===&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書 |author=水越武 |date=1991-07 |title=雷鳥―日本アルプスに生きる |publisher=[[平凡社]] |isbn=4582529275}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書 |author=高木清和 |date=1994-05 |title=雷鳥 |publisher=山と溪谷社 |isbn=4635590305}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書 |author=若林繁 |date=1994-09 |title=らいちょう 厳しい自然の中に生きる立山の雷鳥 |publisher=光村印刷 |isbn=4896158296}}&lt;br /&gt;
=== 絵本 ===&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書 |author=天野明 |date=1980-01-20 |title=ライチョウの四季―200万年を生きた鳥 |publisher=[[大日本図書]] |isbn=4477165552 }}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書 |author=遠藤和子 |date=1988-07 |title=ライチョウは生きる |publisher=[[小峰書店]] |isbn=4338069090 }}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
{{Wikispecies|Lagopus muta}}&lt;br /&gt;
{{Commons&amp;amp;cat|Lagopus muta|Lagopus muta}}&lt;br /&gt;
* [[矢澤米三郎]]（生物学者）&lt;br /&gt;
* [[大町山岳博物館]]&lt;br /&gt;
* [[恩賜上野動物園]]&lt;br /&gt;
* [[長野市茶臼山動物園]]&lt;br /&gt;
* [[富山市ファミリーパーク]]&lt;br /&gt;
* [[サンダーバード (列車)|雷鳥 (列車)]]&lt;br /&gt;
* [[マスコット]] - [[ライカくん|カターレ富山]]、[[富山サンダーバーズ]]、[[富山グラウジーズ]]、[[松本山雅FC]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.city.omachi.nagano.jp/sanpaku/raichou-houkokusho.htm ライチョウに関連した報告書]、 [http://www.city.omachi.nagano.jp/sanpaku/raichou-hyoushi.htm#eizoukan ライチョウ映像館] - 大町山岳博物館&lt;br /&gt;
* [http://halki.web.infoseek.co.jp/raichow/raichou.index.html NPO法人ライチョウ保護研究会]&lt;br /&gt;
* [http://hac.cside.com/afcw/culture/98/miyanodo.htm 大町山岳博物館／その生い立ちとライチョウ研究] - 山小舎カルチャー 講演資料 1998年6月 宮野典夫&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:らいちよう}}&lt;br /&gt;
[[Category:ライチョウ科]]&lt;br /&gt;
[[Category:絶滅危惧II類]]&lt;br /&gt;
[[Category:鳥類天然記念物]]&lt;br /&gt;
[[Category:特別天然記念物]]&lt;br /&gt;
[[Category:国内希少野生動植物種]]&lt;br /&gt;
{{Link GA|sv}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E7%94%B2%E5%B7%9E%E8%A1%97%E9%81%93&amp;diff=20887</id>
		<title>甲州街道</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E7%94%B2%E5%B7%9E%E8%A1%97%E9%81%93&amp;diff=20887"/>
		<updated>2014-07-24T01:23:18Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: /* 概要 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{出典の明記|date=2013年3月|ソートキー=道国020こうしゆうかいとう}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;甲州街道&#039;&#039;&#039;（こうしゅうかいどう）は、[[甲斐国]]（[[山梨県]]）へつながる道。[[江戸幕府]]によって整備された[[五街道]]のひとつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
江戸幕府によって整備された五街道の1つとして、5番目に完成した街道である。[[江戸]]（[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]）から[[内藤新宿]]、[[八王子宿|八王子]]、甲府を経て[[信濃国]]の下諏訪宿で[[中山道]]と合流するまで38の[[宿場]]が置かれた。近世初頭には「甲州海道」と呼称され、[[正徳 (日本)|正徳]]6年（[[1716年]]）4月の街道呼称整備で「甲州道中」に改められる。[[中馬]]による陸上運送が行われた。江戸の町において[[陰陽道]]の[[四神相応]]で言うところの[[白虎]]がいるとされる街道である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
甲州街道の開設や各宿の起立時期は明確ではなく、甲州街道は一時に整備されたのではなく、戦国期から段階的に整備されたと考えられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
近世には諸街道の整備が行われるが、甲州街道は[[徳川家康]]の江戸入府に際し、[[江戸城]]陥落の際の甲府までの将軍の避難路として使用されることを想定して造成されたという。そのため、街道沿いは砦用に多くの寺院を置き、その裏に同心屋敷を連ねた、また短い街道であるにもかかわらず、小仏・鶴瀬に関所を設けている。これは、[[甲府城]]を有する[[甲府藩]]が[[親藩]]であることと、沿道の四谷に伊賀組・根来組・甲賀組・青木組（二十五騎組）の4組から成る鉄砲百人組が配置されており、鉄砲兵力が将軍と共に甲府までいったん避難した後に江戸城奪還を図るためであるという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[参勤交代]]の際に利用した[[藩]]は[[信濃国|信濃]][[高遠藩]]、[[諏訪藩|高島藩]]、[[信濃飯田藩|飯田藩]]である。それ以外の藩は[[中山道]]を利用した。下諏訪宿から江戸までは甲州街道が距離はより短いが、物価が高いことや街道沿線のインフラ整備状況がその主な理由と言われる。尚、[[宇治採茶使]]は甲州街道を利用した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
近世には旅の大衆化に伴い甲州道中上の名所旧跡などを紹介した地誌類や視覚化した絵図類が製作されており、絵図では『[[甲州道中分間延絵図]]』や『[[甲州道中図屏風]]』が知られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 宿場 ==&lt;br /&gt;
* [[内藤新宿]]（[[東京都]][[新宿区]]）&lt;br /&gt;
* [[高井戸宿]]（東京都[[杉並区]]）（※下高井戸・上高井戸と2つあり、半月ごとで交替）&lt;br /&gt;
* [[調布市|布田五宿]]（東京都[[調布市]]）&lt;br /&gt;
** 国領&lt;br /&gt;
** 下布田&lt;br /&gt;
** 上布田&lt;br /&gt;
** 下石原&lt;br /&gt;
** 上石原&lt;br /&gt;
* [[府中宿 (甲州街道)|府中宿]]（東京都[[府中市 (東京都)|府中市]]）&lt;br /&gt;
** 新宿&lt;br /&gt;
** 番（馬）場町&lt;br /&gt;
** [[府中本町駅#府中本町|本町]]&lt;br /&gt;
** 本宿&lt;br /&gt;
* [[日野宿]]（東京都[[日野市]]）&lt;br /&gt;
* [[八王子宿]]（東京都[[八王子市]]）&lt;br /&gt;
** 十王堂宿（新町）&lt;br /&gt;
** 横山宿&lt;br /&gt;
** 八日市宿&lt;br /&gt;
** 本宿&lt;br /&gt;
** 八幡宿&lt;br /&gt;
** 八木宿&lt;br /&gt;
** 子安宿&lt;br /&gt;
** 馬乗宿&lt;br /&gt;
** 小門宿&lt;br /&gt;
** 本郷宿&lt;br /&gt;
** 上野（上野原）宿&lt;br /&gt;
** 横町&lt;br /&gt;
** 寺町&lt;br /&gt;
** 久保宿&lt;br /&gt;
** 嶋坊（嶋野坊）宿&lt;br /&gt;
* 駒木野宿（東京都八王子市）&lt;br /&gt;
* [[小仏宿]]（東京都八王子市）&lt;br /&gt;
* [[小原宿]]（[[神奈川県]][[相模原市]][[緑区 (相模原市)|緑区]]）&lt;br /&gt;
* 与瀬宿（神奈川県相模原市緑区）&lt;br /&gt;
* 吉野宿（神奈川県相模原市緑区）&lt;br /&gt;
* 関野宿（神奈川県相模原市緑区）&lt;br /&gt;
* [[上野原宿]]（[[山梨県]][[上野原市]]）&lt;br /&gt;
* 鶴川宿（山梨県上野原市）&lt;br /&gt;
* 野田尻宿（山梨県上野原市）&lt;br /&gt;
* 犬目宿（山梨県上野原市）&lt;br /&gt;
* 鳥沢宿（山梨県[[大月市]]）&lt;br /&gt;
* 猿橋宿（山梨県大月市）&lt;br /&gt;
* 駒橋宿（山梨県大月市）&lt;br /&gt;
* [[大月宿]]（山梨県大月市）&lt;br /&gt;
* 花咲宿（山梨県大月市）&lt;br /&gt;
* 下初狩宿（山梨県大月市）&lt;br /&gt;
* 中初狩宿（山梨県大月市）&lt;br /&gt;
* 白野宿（山梨県大月市）&lt;br /&gt;
* 阿弥陀海道宿（山梨県大月市）&lt;br /&gt;
* 黒野田宿（山梨県大月市）&lt;br /&gt;
* 駒飼宿（山梨県[[甲州市]]）&lt;br /&gt;
* 鶴瀬宿（山梨県甲州市）&lt;br /&gt;
* 勝沼宿（山梨県甲州市）&lt;br /&gt;
* [[栗原宿]]（山梨県[[山梨市]]）&lt;br /&gt;
* 石和宿（山梨県[[笛吹市]]）&lt;br /&gt;
* 甲府宿（山梨県[[甲府市]]）&lt;br /&gt;
* 韮崎宿（山梨県[[韮崎市]]）&lt;br /&gt;
* 台ヶ原宿（山梨県[[北杜市]]）&lt;br /&gt;
* 教来石宿（山梨県北杜市）&lt;br /&gt;
* 蔦木宿（長野県[[諏訪郡]][[富士見町]]）&lt;br /&gt;
* 金沢宿（長野県[[茅野市]]）&lt;br /&gt;
* 上諏訪宿（長野県[[諏訪市]]）&lt;br /&gt;
* [[下諏訪宿]]（長野県諏訪郡[[下諏訪町]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 現在 ==&lt;br /&gt;
現在は[[国道20号]]がこの街道を継承している。特に[[新宿区]][[四谷]]4丁目交差点よりも西の区間が、[[1962年]][[4月25日]]に[[東京都通称道路名]]として指定されている（設定公告番号15）。[[日野バイパス]]の全通により、[[2007年]][[4月1日]]から[[国立市]][[国立府中インターチェンジ|国立インター]]入口交差点 - [[立川市]]日野橋交差点 - [[八王子市]]高倉町西交差点が[[東京都道256号八王子国立線]]となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ルート解説 ==&lt;br /&gt;
本来の甲州街道は現在の甲州街道（[[国道20号]]）と同一の部分もあるが、バイパスの完成などにより、並行する別の道となっている所がある。この場合、旧来の道を「[[旧甲州街道]]」、新しい道を「新甲州街道」や「新道」とも呼ぶ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本橋から新宿まで ===&lt;br /&gt;
起点は昔も今も[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]で変わりはない。[[四谷大木戸]]、現在の四谷4丁目までの道筋も変わっていない。四谷大木戸から先で若干道筋が異なっている。現在の甲州街道は、南寄りに走り[[新宿御苑]]の下を[[新宿御苑トンネル|トンネル]]で通過する。かつての甲州街道は現在の[[新宿通り]]を[[内藤新宿|新宿追分]]（現在の新宿3丁目）まで進む。そして、現在の「追分だんご本舗」（[[追分]]は分岐点の意）の店がある辺りで[[脇街道]]のひとつである[[青梅街道]]と分かれていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[新宿御苑]]は、高遠藩内藤家の[[江戸藩邸|下屋敷]]跡でその一隅に宿場が設けられたので&#039;&#039;&#039;内藤新宿&#039;&#039;&#039;と言われた。現在も御苑一帯は内藤町と呼ばれ、町名に名残を残している。また、内藤新宿は少し遅れて作られ、その後廃され、さらに復活した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 新宿から府中まで ===&lt;br /&gt;
現在の甲州街道は[[新宿駅]]南口前の陸橋で山手線を越えた後、国道20号として環八通り（[[東京都道311号環状八号線]]）の上高井戸1丁目交差点まで続いている。この交差点を越えてすぐに旧甲州街道が国道20号から分岐し、京王線[[仙川駅]]の東方の仙川三叉路交差点まで国道20号と分かれて走っている。仙川三叉路からしばらくの間、甲州街道は国道20号とほぼ重なるが、仙川駅と[[つつじヶ丘駅]]との間にある[[国分寺崖線]]を駆け下りる斜面では、短い区間だが旧街道が国道20号と離れて残っている。この坂道は&#039;&#039;&#039;滝坂&#039;&#039;&#039;と呼ばれ、古くから急坂として有名であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国道20号が[[野川]]を渡ってすぐ、[[国領駅]]の少し手前で、旧街道は再び国道20号から分かれる。その先は下石原1丁目交差点で[[鶴川街道]]と交差し、調布市上石原の[[西調布駅]]入口交差点手前で[[東京都道229号府中調布線]]に繋がっている。この区間の旧街道は現在は[[東京都道119号北浦上石原線]]となっており、途中に&#039;&#039;&#039;布田宿&#039;&#039;&#039;の跡がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
都道229号となった旧道は引き続き国道20号の南側を並行に走り、[[府中市 (東京都)|府中市]]本宿町の本宿町交差点で再び国道20号と合流する。この区間の旧道の中ほどにはかつて&#039;&#039;&#039;府中宿&#039;&#039;&#039;があった。現在の[[京王線]][[府中駅 (東京都)|府中駅]]・[[大國魂神社]]界隈である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 府中から日野橋まで ===&lt;br /&gt;
府中市本宿町を出た甲州街道が[[国立市]]に入るとすぐに国立インター入口交差点がある。ここから南側に[[日野バイパス]]が分岐しており、現在の国道20号はそちらを経由するルートとなっている。一方、甲州街道はこの交差点を直進して[[東京都道256号八王子国立線]]となる&amp;lt;ref&amp;gt;ふたたび合流する八王子市高倉町西交差点までは甲州街道と国道20号は別の道である。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国立市谷保の[[谷保天満宮]]（やぼてんまんぐう）の北側を通り日野橋交差点へ続く道筋は往時とほとんど変わっていない&amp;lt;ref&amp;gt;ただしこの道筋は[[多摩川]]の渡船場が後述の「日野の渡し」に固定された後の道筋であると考えられ、それ以前は多摩川の流路が変わるたびに道筋も変わっており、初期の甲州街道は天満宮の南側を通っていたと考えられている{{要出典|date=2009年12月}}。今日、甲州街道側から天満宮にお参りするとダラダラした長い坂を下り、階段を下って本殿に行き着く。南側からなら入ってすぐのところに本殿がある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在の甲州街道は日野橋交差点で直角に左折し[[新奥多摩街道]]と分岐しているが、かつては右手奥の[[奥多摩街道]]を少し進んだところで左に折れ、南に下がって多摩川を渡っていた。今日の[[東京都道149号立川日野線]]立日橋のやや下流のところで、これを「日野の渡し」という。「日野の渡し」は当初は日野宿、その後は日野町（現・[[日野市]]）が経営し、[[1926年]]（[[大正]]15年）に[[日野橋]]が掛けられるまで存続していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日野市内 ===&lt;br /&gt;
現在の日野警察署の辺りから日野駅前東交差点まではかつての道筋のままで、この一帯が&#039;&#039;&#039;日野宿&#039;&#039;&#039;の跡で、[[川崎街道]]を過ぎたところに&#039;&#039;&#039;[[本陣]]&#039;&#039;&#039;跡（旧[[佐藤彦五郎]]宅）が残っている。この建物は本陣としては東京都内で唯一現存するものである。その後、蕎麦屋として利用されていたものであるが、[[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]]『[[新選組!]]』放映に合わせて日野市が買い取り一般公開されるようになった。向かいの[[日野図書館]]の敷地は、かつての問屋場と高札場である。日野駅前東交差点を左折すると旧道となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 八王子市内 ===&lt;br /&gt;
[[八王子市]]に入るとすぐに高倉町西交差点がある。ここで甲州街道は日野バイパスと合流し、ふたたび国道20号となる。高倉町西交差点からの八王子市内は、ほぼ現在の国道20号と旧甲州街道は一致する。現甲州街道は[[浅川 (東京都)| 浅川]]を大和田橋で渡るが、かつての大和田の渡しはより上流側であったという{{要出典|date=2009年12月}}。浅川を渡ると八王子横山宿である。&lt;br /&gt;
大和田橋南詰交差点からは、「北大通り」を進み、市立五中交差点からは左手の一方通行路を進む。そして突き当たった丁字路を左折し、八王子駅入口東交差点へ抜ける。このルートが鍵の手に曲がる八王子横山宿の入口に相当する。このルートの途中には竹の鼻公園があり、ここには日本橋から11里を示す「竹の鼻一里塚」が残る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日でも国道20号沿いには商店が並んでおり、八日町には「&#039;&#039;&#039;八日市宿跡&#039;&#039;&#039;」の碑が建つ。八王子横山宿は、横山宿と八日市宿を中心に15の宿があったため、&#039;&#039;&#039;八王子横山十五宿&#039;&#039;&#039;と呼ばれた。この内、横山宿と八日市宿には本陣および脇本陣があった。この宿は[[大久保長安]]が建設に尽力した街道中最大の宿である。八日市・横山・八幡などの地名は[[北条氏照]]の[[八王子城]]の城下町、元八王子に由来するものである。また、八王子は[[徳川家康]]が武田氏の遺臣を召抱えて組織した[[八王子千人同心]]の本拠であったが、追分交差点付近に千人町という地名として名残を留めている。新旧の道が交わり、脇街道の陣馬街道も分かれていく。八王子千人同心が日光勤番のために整備した[[千人同心街道]]もここから分岐する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国道20号沿いには追分町交差点から[[高尾駅 (東京都)|高尾駅]]入口交差点まで[[イチョウ]][[並木]]が続いているがこれは[[大正天皇]]の[[武蔵陵墓地|多摩陵]]造営時に植えられたものである。その多摩陵のある[[武蔵陵墓地]]へ向かう東浅川町の「多摩御陵入口」交差点の1つ先の信号で国道20号から右に分かれる路地があり、陵南大橋まで続いている。そこが旧甲州街道であり、八王子千人同心の屋敷であった家々が残っているため往時を偲ぶことができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 大垂水峠と小仏峠 ===&lt;br /&gt;
相模湖方面へ抜けるルートは、現在では[[大垂水峠]]経由になっているが、かつては北寄りの[[小仏峠]]経由だった（[[中央自動車道]]や[[中央本線]]は小仏峠の真下を[[小仏トンネル]]で通過している）。現在は小仏峠手前まで[[東京都道・神奈川県道516号浅川相模湖線]]となって続いている。沿道の駒木野には、「&#039;&#039;&#039;小仏関所跡&#039;&#039;&#039;」の碑がある。これは、もともと小仏峠にあった小仏関所（最初は富士見関所と言われたが、その後小仏関所となった）を、1616年（[[元和 (日本)|元和]]2年）、駒木野に移したものである。駒木野移転後の関所も通称として小仏関所と呼ばれた。関所跡の公園は「&#039;&#039;&#039;駒木野宿跡&#039;&#039;&#039;」でもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京都道・神奈川県道516号浅川相模湖線を西に進むと、[[中央自動車道]]と[[首都圏中央連絡自動車道]]を結ぶ[[八王子ジャンクション|八王子JCT]]が見える。ここを過ぎたあたりからが「&#039;&#039;&#039;小仏宿跡&#039;&#039;&#039;」である。道は[[景信山]]登山口付近から林道となり、次第に砂利道、登山道となる。この小仏峠までの登山道はハイカーも多く、舗装されていなかった時代の旧甲州街道を偲ばせる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 神奈川県内 ===&lt;br /&gt;
小仏峠は[[東京都]]と[[神奈川県]]の県境となっており、この先は[[相模原市]][[緑区 (相模原市)|緑区]]である。小仏峠より先の旧甲州街道は[[中央自動車道]]の工事時に埋没してしまったため、登山道は底沢沿いに進み、国道20号の底沢橋へと続いている。底沢橋より国道20号を少し進むと、「&#039;&#039;&#039;小原宿跡&#039;&#039;&#039;」に着く。ここも日野宿同様本陣が残されている。神奈川県内唯一の&#039;&#039;&#039;本陣&#039;&#039;&#039;の建物で、[[津久井郡]][[相模湖町]]（当時）が買い取り一般公開している。毎年11月3日には「小原宿本陣祭」が開催され大名行列なども行われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神奈川県相模原市緑区吉野で国道20号から左に分かれ、[[相模川]]を渡り相模川右岸の名倉地区を通る[[神奈川県道・山梨県道520号吉野上野原停車場線]]が旧甲州街道である。道は再度相模川を渡り、そこに架かる境川橋が、神奈川県と[[山梨県]]の県境である。山梨県側である[[上野原市]]には[[相模国]]と[[甲斐国]]の国境の防衛のために[[武田氏]]が築いた「&#039;&#039;&#039;諏訪の関&#039;&#039;&#039;」跡碑がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 上野原から猿橋まで ===&lt;br /&gt;
上野原市街地を抜けた甲州街道は、今では[[相模川|桂川]]の河岸段丘を急坂で下り左に折れ、[[鶴川 (山梨県)|鶴川]]から桂川沿いに進んでいる。かつての甲州街道は本町交差点の先にある国道20号・[[山梨県道・東京都道33号上野原あきる野線]]の分岐点の左手にある脇道に入り、さらに右に曲がって鶴川を渡り急峻な山間部を通って鳥沢に至る、現在の[[山梨県道30号大月上野原線]]のルートに相当する。一部は中央道の工事に際し埋没してしまったが、急峻な地形が仇となって整備を免れたところも多く、現在も往時の面影を残すものも多い。野田尻の東には甲斐・武蔵・相模の三国の境目に立てられた「&#039;&#039;&#039;長峰砦跡&#039;&#039;&#039;」がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
山間部を抜け鳥沢まで下りて来た旧甲州街道は、四方津・梁川経由の国道20号と再び合流する。ここから猿橋辺りまでは甲州街道は国道20号とほぼ同じルートを辿る。&#039;&#039;&#039;鳥沢宿&#039;&#039;&#039;付近は宿場制定当初から広道幅で整備されたとされ、国道が整備された現在も宿場の名残を強く残している。鳥沢駅を少し過ぎた所にある鳥沢宿の本陣跡には「&#039;&#039;&#039;明治天皇駐蹕地碑&#039;&#039;&#039;」がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;猿橋宿&#039;&#039;&#039;の前で甲州街道は桂川を渡る。今日の甲州街道は直進して新猿橋を渡っているが、旧道はこの新猿橋の手前で右手の脇道に入り、さらに左に曲がって桂川を渡って現道に合流する。この桂川に架かる橋こそ日本三大奇橋の一つ、&#039;&#039;&#039;[[猿橋]]&#039;&#039;&#039;である。[[刎橋]]（はねばし）という珍しい形式の橋で（同形式の橋で唯一現存する橋でもある）、周囲の渓谷美から甲州街道随一の名勝と言われ、[[歌川広重]]や[[富岡鉄斎]]、[[荻生徂徠]]ほか多くの文人が訪れ数々の作品を生み出している。国の[[名勝]]に指定されており、現在の橋は1984年（[[昭和]]59年）に基盤のコンクリート保護・鋼材の使用等安全性への考慮をしつつ復元したものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
猿橋宿付近も鳥沢宿と同様、現在も旧街道筋を国道20号が通過しているが、宿場の面影は大きく薄れてしまっている。宿場の面影を伝えるのは猿橋や、猿橋駅入口を過ぎて少し進んだ先にある「猿橋一里塚」程度である。一里塚を過ぎて少し行くと国道20号は中央本線を跨線橋で渡っている。旧甲州街道は少し手前の山梨中央自動車の脇から右に分かれる脇道に入っていく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
旧道からは桂川の対岸に「&#039;&#039;&#039;岩殿山&#039;&#039;&#039;」を一望する。急峻な山上に築城された[[岩殿山城]]は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に東国屈指の堅固を誇ったことで知られており、武田氏の家臣で後に武田氏を滅亡に追いやった[[小山田氏]]の居城であった。[[甲州征伐]]後の[[小山田信茂]]処刑後江戸時代初期に廃城となったが、以降も甲府方面の要塞としてその地位を保った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
旧道にはその先[[東京電力]]の関連施設が立ち並んでおり、途中には日本で初めて長距離送電技術を利用した「&#039;&#039;&#039;駒橋発電所&#039;&#039;&#039;」がある。駒橋発電所を過ぎると、発電所の導水管を跨ぐ橋から左に分かれる脇道に入り、中央本線を渡って国道20号に合流する。ところが、合流点のすぐ先で旧甲州街道は右に分かれる脇道に入ってゆく。約300m続くこの旧道付近が&#039;&#039;&#039;駒橋宿&#039;&#039;&#039;の跡にあたる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
再び国道20号に合流した少し先に[[デイリーヤマザキ]]がある。かつての甲州街道はこの辺りから右に分かれていたが、現在この旧道部分が消滅してしまったため、現道を進み、「高月橋入口」交差点手前から右に分かれる脇道に入る。その先[[国道139号]]の跨線橋を潜ると再び旧道となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 笹子峠と笹子トンネル ===&lt;br /&gt;
今日の甲州街道は[[笹子隧道|新笹子トンネル]]を通過するが、旧道は[[笹子峠]]を経由していた。現在、峠への道筋は[[山梨県道212号日影笹子線]]として残っている。また、この県道にほぼ平行して「笹子峠自然遊歩道」がある。この遊歩道が旧来の甲州街道にほぼ相当すると考えられる{{要出典|date=2009年12月}}。街道を通る武士が武運を祈ったという「矢立の杉」もこの遊歩道沿いにある。県道の頂上にある[[笹子隧道|笹子隧道]]の直上が甲州街道最大の難所と言われた「&#039;&#039;&#039;笹子峠&#039;&#039;&#039;」（標高：1,096m）である。峠を越えると[[甲州市]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;上諏訪宿&#039;&#039;&#039;からの道筋は、現在の[[諏訪市]]大手の[[上諏訪駅]]前の国道20号の北東側を通り、吉田の松の前から山沿いの道として残っている。[[下諏訪町]]境を越えて下諏訪町高木に入ってしばらくすると、南側に諏訪湖を見ることができる。高木には通称「政屋」「橋本屋」と呼ばれた茶屋跡があり、明治天皇が巡幸の際に石を投げたと言われる石投げ場などがある。富部（とんべ）地区の五官地籍には、一里塚跡が残っている。[[諏訪大社]]秋宮前を通過し、&#039;&#039;&#039;下諏訪宿本陣&#039;&#039;&#039;の問屋場跡前（現在は聴泉閣かめやホテル前）で中山道に合流する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== その他の甲州街道 ==&lt;br /&gt;
江戸と甲府を結ぶ新旧の甲州街道のほか、甲州へ向かう次の街道が甲州街道と呼ばれることがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[静岡県]][[静岡市]][[清水区]]と[[山梨県]][[甲府市]]を結ぶ街道（甲州道）。[[国道52号]]。&lt;br /&gt;
* 静岡県[[御殿場市]] - 須走 - [[籠坂峠]] - [[山中湖]]を結ぶ街道。[[国道138号]]。&lt;br /&gt;
* [[山梨県]][[韮崎市]]から[[長野県]][[小諸市]]を結ぶ街道。（佐久甲州街道）。[[国道141号]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 画像一覧 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
ファイル:Koushukaido-nenju-saka.jpg|旧甲州街道、念珠坂（[[東京都]][[八王子市]]裏高尾町）&lt;br /&gt;
ファイル:hino-juku.jpg|日野宿本陣跡&lt;br /&gt;
ファイル:The_Koshu_Highway_Youkaichi.jpg‎|八王子宿・八日市宿跡碑&lt;br /&gt;
ファイル:Komagino-juku.jpg|駒木野宿跡碑&lt;br /&gt;
ファイル:Kobotoke-juku.jpg|小仏宿跡付近&lt;br /&gt;
ファイル:Koshu_kaido_nodajiri-juku_P1010008.jpg|野田尻宿&lt;br /&gt;
ファイル:Koshu_kaido_inume-juku_P1010052.jpg|犬目宿&lt;br /&gt;
ファイル:Kisokaido29 Shimosuwa.jpg|下諏訪宿&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
{{Commonscat|Kōshū Kaidō}}&lt;br /&gt;
* [[街道てくてく旅]]&lt;br /&gt;
* [[甲州街道の一里塚一覧]]&lt;br /&gt;
* [[中央本線]]（[[東京駅]] - [[下諏訪駅]]で甲州街道と併走）&lt;br /&gt;
* [[旧甲州街道]]&lt;br /&gt;
* [[甲州街道 (街道をゆく)]] - [[司馬遼太郎]]の紀行集『[[街道をゆく]]』第1巻より。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{甲州街道}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:こうしゆうかいとう}}&lt;br /&gt;
[[Category:甲州街道|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:街道]]&lt;br /&gt;
[[Category:東京都の道路]]&lt;br /&gt;
[[Category:神奈川県の道路]]&lt;br /&gt;
[[Category:山梨県の道路]]&lt;br /&gt;
[[Category:長野県の道路]]&lt;br /&gt;
[[Category:東京都の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:神奈川県の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:山梨県の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:長野県の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:江戸時代の交通]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の道100選]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E4%BA%95%E5%8E%9F%E8%A5%BF%E9%B6%B4&amp;diff=44567</id>
		<title>井原西鶴</title>
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		<updated>2014-07-24T01:08:30Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{複数の問題&lt;br /&gt;
|出典の明記=2014年7月&lt;br /&gt;
|独自研究=2014年7月}}&lt;br /&gt;
{{Infobox 作家&lt;br /&gt;
| name            = 井原西鶴&lt;br /&gt;
| image           = Statue of Ihara Saikaku.jpg&lt;br /&gt;
| image_size      = 220px&lt;br /&gt;
| caption         = 井原西鶴像（[[生國魂神社]]）&lt;br /&gt;
| birth_date      = [[1642年]]&lt;br /&gt;
| birth_place     = [[大坂]]・[[難波]]&lt;br /&gt;
| death_date      = [[1693年]][[9月9日]]&lt;br /&gt;
| occupation      = [[浮世草子]]の作者・[[俳諧師]]&lt;br /&gt;
| nationality      = &lt;br /&gt;
| period          =&lt;br /&gt;
| genre           = 浮世草子・俳句&lt;br /&gt;
| subject         =&lt;br /&gt;
| notable_works   = 『[[好色一代男]]』（1682年）&amp;lt;br&amp;gt;『[[好色一代女]]』（1686年）&amp;lt;br&amp;gt;『[[日本永代蔵]]』（1688年）&amp;lt;br&amp;gt;『[[世間胸算用]]』（1692年）&lt;br /&gt;
| awards          = &lt;br /&gt;
| debut_works     =&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;井原 西鶴&#039;&#039;&#039;（いはら さいかく、[[1642年]]（[[寛永]]19年）&amp;lt;ref&amp;gt;生年は没年と没年齢からの逆算。&amp;lt;/ref&amp;gt; - [[1693年]][[9月9日]]（[[元禄]]6年[[8月10日 (旧暦)|8月10日]]））は、[[江戸時代]]の[[大坂]]の[[浮世草子]]・[[人形浄瑠璃]]作者、[[俳諧師]]。別号は鶴永、二万翁、西鵬。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『&#039;&#039;&#039;[[好色一代男]]&#039;&#039;&#039;』をはじめとする[[浮世草子]]の作者として知られる。[[談林派]]を代表する俳諧師でもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 小伝 ==&lt;br /&gt;
[[1642年]][[大坂]]・[[難波]]に生れ、15歳頃から俳諧師を志し[[談林派]]を代表する[[俳諧師]]として名をなした。一昼夜の間に発句をつくる数を競う&#039;&#039;&#039;矢数俳諧&#039;&#039;&#039;の創始を誇り、またそれを得意とした（最高記録は23,500句）。その奇矯な句風から&#039;&#039;&#039;阿蘭陀流&#039;&#039;&#039;（オランダりゅう）と腐される。[[1682年]]（[[天和 (日本)|天和]]2年）に『&#039;&#039;&#039;[[好色一代男]]&#039;&#039;&#039;』を出版し好評を得、その後様々なジャンルの作品を出版。従来の[[仮名草子]]とは一線を画する物として、現在では以後の作品を[[浮世草子]]と区別している。[[1693年]]没。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代表作は『一代男』の他に『&#039;&#039;&#039;[[好色五人女]]&#039;&#039;&#039;』、『&#039;&#039;&#039;[[日本永代蔵]]&#039;&#039;&#039;』、『&#039;&#039;&#039;[[世間胸算用]]&#039;&#039;&#039;』など。また代表的な発句に、&lt;br /&gt;
* 長持に春かくれゆく衣がへ&lt;br /&gt;
* 鯛は花は見ぬ里もあり今日の月&lt;br /&gt;
* 大晦日定なき世の定かな&lt;br /&gt;
* 浮世の月見過しにけり末二年&lt;br /&gt;
がある&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
[[1642年]]（[[寛永]]19年）、[[大坂]]・[[難波]]に生れる&amp;lt;ref&amp;gt;団水編『団袋』の西鶴序に「ふるさと難波にて」とあり、団水は『こゝろ葉』に「摂ノ浪速ノ産」と書き、西鶴と面識のあった[[宝井其角]]も『句兄弟』に「されば難波江に生れて」と書いており、[[難波]]生まれ説が有力である。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
本名を&#039;&#039;&#039;平山藤五&#039;&#039;&#039;という説があるが、定かではない&amp;lt;ref&amp;gt;伊藤梅宇（[[伊藤仁斎]]の次男で、福山藩儒）の『見聞談叢』巻六に「平山藤五ト云フ町人」という記述（享保15年頃長兄伊藤東涯からの聞書き）があるが、他には見えないので本名か否かは不詳。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
裕福な[[町人]]の出と言われているが推測の域を出ない&amp;lt;ref&amp;gt;水雲子撰『懐中難波すゞめ』（[[1679年]]（[[延宝]]7年））の俳諧点者付に「鑓屋町 井原西鶴」とあるので、その頃は鑓屋町に住んでいたと思われる。そこは屋敷町に接した寂しい場所であったらしく、商売を営んでいたとすれば生家は別にあると考えられる。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 俳諧師として名を成す ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:井原西鶴3935.JPG|thumb|200px|井原西鶴句碑、[[京都市]][[中京区]]二条寺町]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:Ikukunitama-jinja Haiden.jpg|thumb|200px|一昼夜独吟4000句を成し遂げた生國魂神社（大阪市天王寺区）]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『西鶴大矢数』（[[1681年]]（[[天和 (日本)|天和]]元年））の自跋に「予俳諧正風初道に入て二十五年」とある事から、[[1656年]]（[[明暦]]2年）、15歳の頃に俳諧を志したことになる。これは『誹諧石車』（[[1691年]]（[[元禄]]4年））の「西鵬誹道に入て三十餘年の執行」と矛盾しない。入門の師は不明だが貞門の俳人か。また同じ『誹諧石車』に「西鵬詞に、俳諧程の事なれども、我三十年点をいたせしに」とあるので、その自身の言葉を信用すれば、[[1662年]]（[[寛文]]2年）、21歳頃に俳諧の点者として立っていたことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
貞門の西村長愛子撰『遠近集』（[[1666年]]（寛文6年））に見える3句が現在残る西鶴句の初見で、その時の号は&#039;&#039;&#039;鶴永&#039;&#039;&#039;。[[1673年]]（延宝元年）、32歳の春、大坂・[[生國魂神社]]の南坊で万句俳諧の興行し、後日『生玉万句』として出版。おそらく処女撰集と考えられるこの自序に「世こぞつて濁れり、我ひとり清（すめ）り」「賤（やつがれ）も狂句をはけば、世人&#039;&#039;&#039;阿蘭陀流&#039;&#039;&#039;などさみして、かの万句の数にものぞかれぬ」「雀の千こゑ鶴の一声」と自らの新風を強調。[[西山宗因]]の『蚊柱百句』に先立つこと1年、談林俳諧成立の記念碑的作品と見る見方もある。また、その興行の出句者を見ると宗因の影が濃く、既に師・宗因と出会っていた可能性が高い。宗因の号・西翁の一字をもらった&#039;&#039;&#039;西鶴&#039;&#039;&#039;号が、翌年正月の『歳旦発句集』に初めて見える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1675年]]（延宝3年）、34歳の時に妻を亡くし1,000句の追善興行、後に『誹諧独吟一日千句』と題し出版。大坂俳壇の重鎮の多くを含む105名の俳諧師の追善句も載せる。西鶴がこの年に法体になっていることは、翌年出版された『誹諧大坂歳旦』の西鶴句の詞書に「法躰をして」とあり、妻の死を受けてのことと思われる。またその句につけた鶴爪の「自由にあそばせ誹諧は花」から、この時に西鶴が隠居したという考えもある。なお誓願寺の日牌と月牌には[[1692年]]（[[元禄]]5年）に「西鶴妻」が亡くなったとあるので、再婚した可能性がある。ただ後妻については他に見えず、「西鶴妻」は「西鶴女」の誤記だろうとして再婚を否定する意見も多いが、いずれにせよ真相は不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1677年]]（延宝5年）3月、大坂・生國魂神社で一昼夜1,600句独吟興行し、5月にそれを『俳諧大句数』と題して刊行。序文にて「今又俳諧の大句数初て、我口拍子にまかせ」と矢数俳諧（cf.[[通し矢]]）の創始を主張し「其日数百人の連衆耳をつぶして」と自慢気に語ったが、9月に[[月松軒紀子]]が1,800句の独吟興行でその記録を抜く。しかも翌年『俳諧大矢数千八百韵』と題して刊行されたが、点を加えた[[菅野谷高政]]が序で西鶴を皮肉るような物言いをする。翌[[1679年]]（延宝7年）、[[大淀三千風]]が独吟3,000句を達成し『仙台大矢数』として出版、その跋文に西鶴は「紀子千八百はいざ白波の跡かたもなき事ぞかし」「其上かゝる大分の物、執筆もなく判者もなし、誠に不都合の達者だて」と紀子の一昼夜独吟に疑いをかけ、「中々高政などの口拍子にては、大俳諧は及ぶ事にてあらず」と返す刀で高政をも切る。[[1680年]]（延宝8年）、39歳の[[6月3日]]（[[5月7日 (旧暦)|5月7日]]）に大坂・生國魂神社内で4,000句独吟を成就、翌年4月に『西鶴大矢数』と題して刊行。[[1684年]]（[[貞享]]元年）には摂津住吉の社前で一昼夜23,500句の独吟、以後時に二万翁と自称。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 作家への転進 ===&lt;br /&gt;
[[1682年]]（天和2年）10月、浮世草子の第一作『&#039;&#039;&#039;[[好色一代男]]&#039;&#039;&#039;』を出板。板下は西吟、挿絵は西鶴。好評だったのか板を重ね、また翌々年には挿絵を[[菱川師宣]]に変えた江戸板も出板、[[1686年]]（[[貞享]]3年）には師宣の絵本仕立にした『大和絵のこんげん』と『好色世話絵づくし』も刊行された。さらに『一代男』の一場面が描かれた役者絵が残っていることから、歌舞伎に仕組まれたこともあるようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以後、後に『一代男』とともに&#039;&#039;&#039;好色物&#039;&#039;&#039;と括られる『諸艶大鑑』（[[1684年]]（貞享元年））、『[[好色五人女]]』（1686年（貞享3年））、『[[好色一代女]]』（同年）が立て続けに書かれるが、それから方向転換して、いわゆる&#039;&#039;&#039;雑話物&#039;&#039;&#039;や&#039;&#039;&#039;武家物&#039;&#039;&#039;と呼ばれるジャンルの物に手を染めるようになる。この変化から、好色本の禁令が出たのではないかという考えもあるが&amp;lt;ref&amp;gt;『浮世草子目録』（『[[新群書類従]]』第七）貞享三丙寅年「西鶴が超凡雄健の筆になりし好色本は、流行其極に達し、翁が最得意の全盛期なりしに、本年遂に好色本差止の令は當路の有司より下されぬ」&amp;lt;/ref&amp;gt;、『色里三所世帯』（[[1688年]]（元禄元年）））や『好色盛衰記』（同年）また遺稿の『西鶴置土産』など好色物は書き続けられているので、その説は信じがたく、またそのような禁令があったという証拠も存在しない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1683年]]（天和3年）正月、役者評判記『難波の貌は伊勢の白粉』を刊行（現存するのは巻二巻三のみ）。[[1685年]]（貞享2年）には浄瑠璃『暦』をつくる。この作品は、浄瑠璃太夫の宇治加賀掾のために書かれたもので、自分の許を飛び出し道頓堀に竹本座を櫓揚げした[[竹本義太夫]]を潰すために、京都から一座を引き連れて乗り込んだ加賀掾が西鶴に依頼した作品。敗北した加賀掾はさらなる新作を依頼し、西鶴は『凱陣八島』をもって応え、対する義太夫側は当時まだ駆け出しの[[近松門左衛門]]の新作『[[出世景清]]』で対抗。今度は加賀掾側に分があったが、[[4月27日]]（[[3月24日 (旧暦)|3月24日]]）に火事にあい&amp;lt;ref&amp;gt;『土橋宗静日記』&amp;lt;/ref&amp;gt;帰京したという。この道頓堀競演については西沢一風の『[[今昔操年代記]]』に記されている。なお、『歌舞妓始記評林』（[[1775年]]（安永4年））に「往古の狂言作者には西鶴、杉三安、安達三郎左衛門、金子吉右衛門等ありといへども」とある。これについては西鶴による歌舞伎台本が残っておらず、また100年後の資料なので扱いは難しいが、現存する文献証拠で推測される以上に演劇界と深い関わりを持っていた可能性は十分に存在する。しかし、竹内玄玄一『俳家奇人談』（[[1816年]]（[[文化 (元号)|文化]]13年））にある近松が西鶴門だという言い伝え&amp;lt;ref&amp;gt;{{Harv|竹内玄々一|1892|pp=48-49}} 27コマ&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;上之巻 井原西鶴「近代戯作者の逸なる近松門左衛門は此門にいづるといひ伝ふ」&amp;lt;/ref&amp;gt;は信じがたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 死とその後 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Tomb of Ihara Saikaku.jpg|thumb|200px|西鶴の墓（大阪市中央区・誓願寺内）]]&lt;br /&gt;
[[1693年]][[9月9日]]（[[元禄]]6年[[8月10日 (旧暦)|8月10日]]）に西鶴は没し、誓願寺に葬られた。法名は仙皓西鶴信士、寺の日牌と月牌との記載に「鎗ヤ町 松寿軒井原西鶴 五十二」とあり、『難波雀』に記された鎗屋町で亡くなったことが分かる。墓は現存するものの、場所を転々として元のままではないらしい。墓石側面に「下山鶴平　北条団水建」とあるが下山鶴平については不詳。遺族の一人ならば、西鶴も下山姓であった可能性が高くなる。『見聞談義』の「平山藤五」は「下山藤五」の誤記かも知れない。同年冬に遺稿集として『西鶴置土産』が出版される。口絵に西鶴の肖像を載せるが、そこには「辞世、人間五十年の究り、それさへ我にはあまりたるに、ましてや」と詞書した&lt;br /&gt;
:浮世の月見過しにけり末二年&lt;br /&gt;
の句がある。遺稿集の出版は翌年以後も続く。『西鶴織留』（[[1694年]]（元禄7年））、『西鶴俗つれづれ』（[[1695年]]（元禄8年））、『西鶴文反古』（[[1696年]]（元禄9年））、『西鶴名残の友』（[[1699年]]（元禄12年））。『名残の友』の奥には、『筆蔵』という書の予告がされているが、それは刊行されなかったらしい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
団水が中心となって催した西鶴の13回忌歌仙を載した『こゝろ葉』（[[1706年]]（[[宝永]]3年））の団水による「心葉緒」（序）は、おそらく西鶴の伝記の最初で、「摂ノ浪速ノ産」「西山梅芲ノ門」「世ニ矢数俳諧ト称スル濫觴ハ西鶴ニ始リケル」「[[貞享]]元年六月五日摂ノ住吉ノ神前ニ於テ西鶴亦一日一夜ノ独吟二万三千五百首ヲ唱テ」「元禄六年八月十日浮世ノ月ノ句ヲ唱テ哦然トシテ世ヲ辞ス」などとある。眼を引くのは「靍且餘力ノ日撰述ノ和書八十餘部」という箇所で、この「八十餘部」は実数ではなく「多数」程度の意味だろうが、西鶴の関わった書物がおおく失われただろうことを思わせる。また、湖梅の追善句詞書の「下戸なれは飲酒の苦をのかれて」を見るに、西鶴は飲めなかったようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 同時代の評価 ==&lt;br /&gt;
=== 俳諧師として ===&lt;br /&gt;
『生玉万句』（[[1673年]]（延宝元年））の自序に「世人阿蘭陀流などさみして」とあり、貞門俳人・[[中島随流]]は『誹諧破邪顕正』（[[1679年]]（延宝7年））で[[西山宗因]]を「紅毛（ヲランダ）流の張本」、西鶴を「阿蘭陀西鶴」と難じ、同じ談林の岡西惟中は『誹諧破邪顕正返答』（[[1680年]]（延宝8年））で「師伝を背」いていると批難、松江維舟は『俳諧熊坂』（[[1679年]]（延宝7年））で「ばされ句の大将」と謗ったように西鶴は多く批判されたが、それはむしろ当時の[[談林派]]でのまた俳壇での西鶴の存在の大きさを証する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただ、西鶴は阿蘭陀流という言葉が気に入ったのか、『俳諧胴骨』（[[1678年]]（延宝6年））の序に「爰にあらんだ流のはやふねをうかめ」、『三鉄輪』（[[1678年]]（延宝6年））の序に「阿蘭陀流といへる俳諧は、其姿すぐれてけだかく、心ふかく詞新しく」などと言っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また西国撰の『見花数寄』&amp;lt;ref&amp;gt;「けんかずき」とよむ、つまり「喧嘩好き」&amp;lt;/ref&amp;gt;（[[1679年]]（延宝7年））に載る西国と西鶴の両吟では、西国の「桜は花阿蘭陀流とは何を以て」という発句に西鶴が「日本に梅翁その枝の梅」とつけ、阿蘭陀流の幹に宗因（梅翁）を位置づける。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 作家として ===&lt;br /&gt;
都の錦が西鶴没後に書いた『元禄大平記』（[[1702年]]（元禄15年））の「写本料にてめいわくに候」には、&lt;br /&gt;
{{quotation|西鶴存生の時、池野屋二郎右衛門より、好色浮世躍といふ草子を六冊にたのまれ、いまだ写本を一巻も渡さずして、前銀三百匁かり、五日が間に南の色茶屋、木やの左吉が所江打込、其後池野やより、写本をさいそくするに、いついつは出来して渡そふ、これこれの日は埒が明くよしをけいやくする。其日になりて請取んといへば、すこしさはる事がありて、草案を仕直すによつて思ひの外隙をとる。当月中には埒が明と間似合の方便ばかりいふて、半年ほど引しらふ内に、西鶴此世をさり、}}&lt;br /&gt;
と、西鶴が原稿料を前借りして踏み倒したというゴシップが載るが、都の錦という人物は信用するのは難く、また西鶴への対抗意識が強い人でもあったので、この話自体は眉唾。ただ、当時の資料で原稿料については他には見えず、また通俗作家に限っても原稿料がある程度一般化するのは100年後なので、前借りは作り話であるとしても稿料を貰っていたとすれば、西鶴はかなりの人気作家であったということになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 西鶴の再発見 ==&lt;br /&gt;
同時代では、有名人であり、人気のある作者であったが、江戸末期には西鶴は忘れられていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治以後の西鶴再評価は[[淡島寒月]]に始まる。彼の「明治十年前後」&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.aozora.gr.jp/cards/000388/files/4907_8650.html 青空文庫]、また『梵雲庵雑話』に収録されている。&amp;lt;/ref&amp;gt;によると、寒月は[[山東京伝]]の考証本『骨董集』を読み西鶴に興味をいだき、古本を漁って[[幸田露伴]]・[[尾崎紅葉]]などに紹介したという。当時[[山田美妙]]や[[二葉亭四迷]]によって推し進められていた[[言文一致#日本語における言文一致|言文一致]]体の文章への違和感もあり、紅露の二人や[[樋口一葉]]などは西鶴調の雅俗折衷文体の小説を発表した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治30年代は[[ロマン主義#日本|ロマン主義]]の隆盛に伴い埋没するが、[[自然主義文学#日本|自然主義文学]]が起こるなかで、みたび注目を浴びる。例えば[[島村抱月]]は「西鶴の思想は多くの点に於いて却つて近代欧州の文芸に見えたる思想と接邇する。個人性の寂寞、感情の不満、快楽性の悲哀、これ併しながらやみがたき人生の真相である」&amp;lt;ref&amp;gt;島村抱月、淡島寒月、水谷不倒、徳田秋声「五人女合評」、『[[早稲田文学]]』明治39年12月号。&amp;lt;/ref&amp;gt;と、また[[田山花袋]]は「馬琴の稗史滅び、近松の人情物すたれ、一九、三馬の滑稽物は顧る者の無い今の時に当つて、西鶴の作品に自然派の面影を発見するのは、意味の深いことではないであらうか」&amp;lt;ref&amp;gt;田山花袋「西鶴について」　『インキツボ』（[[1909年]]（明治42年））所収&amp;lt;/ref&amp;gt;と言ったように、紅露一葉の時代は主に西鶴の文体が注目されていたが、この時代になると自然主義に寄せつつその描写や思想的側面に注目が集まるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 森銑三説 ==&lt;br /&gt;
[[森銑三]]は、浮世草子の中で西鶴作品として扱われているもののうち実際に西鶴が書いたのは『好色一代男』ただひとつであり、それ以外は西鶴が関与したに過ぎない作品（西鶴関与作品）、または西鶴に擬して書かれてだけで関与もしていない作品（摸擬西鶴作品）だと主張した。既に江戸末期には[[柳亭種彦]]が『好色五人女』を西鶴の作品ではないとしているし（『好色本目録』&amp;lt;ref&amp;gt;「西鶴が作に似て面白し」（『[[新群書類従]]』第七書目所収）。&amp;lt;/ref&amp;gt;）、また[[幸田露伴]]は『本朝桜陰比事』に、明治時代の国文学者である藤岡東圃は『万の文反古』に疑いを挟んでいるが、森は西鶴作品とされるもの総てを俎上に載せ、主に使用語句の検討から『好色一代男』以外を西鶴作品として認められないとしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
森が西鶴関与作品とするのは以下の21作品&lt;br /&gt;
:『諸艶大鑑』、『大下馬』、『近代艶隠者』、『好色五人女』、『好色一代女』、『本朝二十不孝』、『男色大鑑』、『懐硯』、『武道伝来記』、『日本永代蔵』、『武家義理物語』、『新可笑記』、『本朝桜陰比事』、『胸算用』、『置土産』、『織留』、『俗つれづれ』、『万の文反古』、『名残の友』、『暦』（浄瑠璃）、『人目玉鉾』（絵入地誌）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また定本西鶴全集収録のうち摸擬西鶴作品と考えるのは、&lt;br /&gt;
:『椀久一世の物語』、『椀久二世の物語（新小夜物語）』、『好色盛衰記』、『色里三所世帯』、『新吉原常々草』、『浮世栄華一代男』、『嵐無常物語』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
森は上記21作品には共通する語句があること、そしてそれが『一代男』には見出されないことを端緒として疑いを持ち、それらの語句が西鶴門下の北条団水の作品である『昼夜用心記』や『日本新永代蔵』には次々と見出されることから、それらは団水が主に関わった作品であると考える。この使用語句について検討は『西鶴本叢考』&amp;lt;ref&amp;gt;中村幸彦他編　『森銑三著作集続編　第四巻　人物編四』　中央公論社、1993年所収。&amp;lt;/ref&amp;gt;の「諸艶大鑑用語句考」などに詳しいが、簡単にいえば関与作品には共通して衒学趣味があり、こなれぬ単語や流行語などを用いているが、それらは『一代男』には見られないと言う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その上で森は、文の質まで筆を進め、『一代男』は俳諧趣味に基づく詩趣のある清新溌剌な散文詩だと絶賛する一方、その余の作品は悪文・拙劣・月並・常套・ぎこちない・死んでる・詩の精神を欠いた・粗雑・単なる散文・侮蔑癖・誇耀癖などと罵倒。しかし、それらの作品の中でも光る部分（『胸算用』の序など）については西鶴の手柄にしている。森はさらに作品の思想的部分にも触れ、関与作品の道徳的臭味の強さは『一代男』をもって道徳から隔絶した文学を創始した西鶴と矛盾するとも言う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
森説は近世文学研究者の間ではほとんど無視されており（後に[[中村幸彦]]らによって再評価されたが）、『新編 西鶴全集』（[[勉誠出版]]、[[2000年]]（平成12年） - [[2007年]]（平成19年））『決定版 対訳西鶴全集』（[[明治書院]]、[[1992年]]（平成4年） - [[2007年]]（平成19年））でも採用されていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 作品リスト ==&lt;br /&gt;
=== 好色物 ===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[好色一代男]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:[[1682年]]（[[天和 (日本)|天和]]2年）11月刊（一説翌年正月刊）。版下は西吟、挿絵は西鶴。西鶴の署名なく序文もないが、落月庵西吟の跋文から西鶴作は確実。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;諸艶大鏡&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:[[1684年]]（[[貞享]]元年）4月刊。書名に「好色二代男」の肩書。版下挿絵も西鶴だが、版下には異説も。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;椀久一世の物語&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:[[1685年]]（貞享2年）2月刊。唯一伝存した版本は関東大震災で焼失。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[好色五人女]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:[[1686年]]（貞享3年）2月刊。作者の記載はなく、江戸時代には西鶴作と明記したものは一つもないが、明治以降西鶴作品として扱われている。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[好色一代女]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:[[1686年]]（貞享3年）6月刊。作者の記載はないが、天保時代の『誹家大系』に西鶴の著作として挙げられている。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;男色大鑑&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:[[1687年]]（貞享4年）正月刊。副題「本朝若風俗」。署名のない序文に「鶴永」「松寿」の2印。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;色里三所世帯&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:[[1688年]]（貞享5年）年6月刊。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;好色盛衰記&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:[[1688年]]（貞享5年）年9月以前刊。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;浮世栄花一代男&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:[[1693年]]（[[元禄]]6年）正月刊。序文は西鶴自筆。西鶴作かどうか疑問あり。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;西鶴置土産&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:[[1693年]]（元禄6年）冬刊。遺稿。序文に「難波西鶴」の署名があるが、『胸算用』の序文の署名の彫直し。団水の序文に、西鶴の反古の内に見出したとある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 武家物 ===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[武道伝来記]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:[[1687年]]（貞享4年）4月刊行。復讐譚。署名のない序文に「鶴永」「松寿」の2印。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;武家義理物語&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:[[1688年]]（元禄元年）2月刊。署名のない序文に「鶴永」「松寿」の2印。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;新可笑記&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:[[1688年]]（元禄元年）年11月刊。「難波俳林西鵬」の署名、序文には「松寿」の印。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 町人物 ===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;[[日本永代蔵]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:[[1688年]]（元禄元年）正月刊か。到富譚。『織留』の序文に西鶴作として載る。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;胸算用&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:[[1692年]]（元禄5年）正月刊。題簽には「世間胸算用」目次の面にはただ「胸算用」とあり、ともに「大晦日は一日千金」の注記。序は「難波西鶴」の署名と「松寿」の印の入った自筆。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;西鶴織留&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:[[1694年]]（元禄7年）刊。遺稿。団水の序に『永代蔵』とともに3部作の予定だった未完の『本朝町人鑑』と『世の人心』を併せたものだとある。西鶴署名の序文も有する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 雑話物 ===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;大下馬&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:[[1685年]]（貞享2年）正月刊。書名は題簽に「西鶴諸国はなし」とあるが、目次の項には「大下馬」として「近年諸国咄」の肩書。挿絵版下は西鶴。序文に署名はないが、「難波西鶴」の署名があるものが現存する。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;本朝二十不孝&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:[[1686年]]（貞享3年）11月刊（または翌年正月刊）。署名のない序文に「鶴永」「松寿」の2印。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;懐硯&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:[[1687年]]（貞享4年）3月成立、刊期不明。作者の記載はないが、西鶴作品として扱われている。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;本朝桜陰比事&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:[[1689年]]（元禄2年）正月刊。裁判物。作者の記載はないが、西鶴作品として扱われている。[[幸田露伴]]は西鶴作品であることに疑義を挟んでいる。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;椀久二世の物語&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:[[1691年]]（元禄4年）正月刊か。初版本は現在不詳。1715（正徳5）年刊の『新小夜物語』が本書の改題再版本と推定されている。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;西鶴俗つれづれ&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:[[1695年]]（元禄8年）刊。遺稿。団水の序にとりまぎれたる冊子の中より発見したとある。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;万の文反古&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:[[1696年]]（元禄9年）刊。遺稿。書簡体小説。西鶴自筆の序文に「西鶴」の署名と「松寿」の印。ただしその署名は『織留』の彫直しか。版下西鶴。執筆時期は不明だが、『懐硯』と関連する所がある。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;西鶴名残の友&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:[[1699年]]（元禄12年）刊。遺稿。版下西鶴。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 俳書 ===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;生玉万句&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:[[1673年]]（寛文13年）6月刊。同年3月頃に行われた万句俳諧。処女撰集か。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;哥仙大坂俳諧師&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:[[1673年]]（延宝元年）9月初撰本刊、翌月再撰本刊。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;誹諧独吟一日千句&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:[[1675年]]（延宝3年）刊。同年4月に亡くなった妻の追善独吟千句に師友弟子などから集めた追善発句を加えたもの。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;古今誹諧師手鑑&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:[[1676年]]（延宝4年）10月刊。貞門談林の俳人の短冊を網羅して模刻したもの。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;誹諧大句数&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:[[1677年]]（延宝5年）5月刊か。生玉本覚寺での1600句独吟興行。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;西鶴大矢数&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:[[1681年]]（延宝9年）4月刊。前年5月の4000句独吟。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;俳諧本式百韻　精進膾&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:[[1683年]]（天和3年）刊。宗因一周年追善俳諧。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;俳諧女哥仙&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:[[1684年]]（貞享元年）10月刊。女俳諧師36人を選びその句と姿と小伝とを載せる。序文に「難波俳林西鶴」の署名と「鶴永」の印、画像と版下の文字も西鶴。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;俳諧石車&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:[[1691年]]（元禄4年）8月刊。可休の『物見車』への反駁で、難波松魂軒と署名し別人を装う。挿絵版下も西鶴。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;独吟百韻自註絵巻&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:[[1692年]]（元禄5年）刊か。秋紀州で巻いた独吟百韻に自註を施した画巻。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;難波の貌は伊勢の白粉&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:[[1681年]]（天和元年）正月刊か。役者評判記。挿絵は西鶴、版下は西吟。首冊が残らないため著者は不明だが、西鶴と推定されている。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;暦&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:[[1685年]]（貞享2年）正月刊。浄瑠璃。西沢一風『[[今昔操年代記]]』（1727年）に西鶴作という記述あり。現存は巻二巻三のみ。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;凱陣八島&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:[[1685年]]（貞享2年）3月頃上演。浄瑠璃。同じく『今昔操年代記』に西鶴作と明記。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;嵐は無常物語&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:[[1688年]]（貞享5年）3月刊。嵐三郎四郎の自害からわずか2ヶ月でなった役者の最後物語のはしり。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;一目玉鉾&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:[[1689年]]（元禄2年）正月刊。絵入地誌。序文に「難波俳林」として、「松寿」と「鶴」の2印。&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;近代艶隠者&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:[[1686年]]（貞享3年）正月刊。現在は西鷺軒橋泉の作とされているが、西鶴作だと言われていた時もあった。序文に「難波俳林西鶴」の署名、挿絵版下ともに西鶴。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 西鶴に関連する小説等 ==&lt;br /&gt;
* 西鶴くずし 好色六人女 （[[藤本義一 (作家) |藤本義一]]） 立風書房 [[1974年]]（[[昭和]]49年）&lt;br /&gt;
* 西鶴くずし 好色一代男 （藤本義一） 徳間書店 [[1978年]]（[[昭和]]53年）[[8月]] &lt;br /&gt;
* 元禄流行作家 わが西鶴 （藤本義一） 新潮社 [[1980年]]（[[昭和]]55年）[[7月]]&lt;br /&gt;
* 小説・好色世之介 （[[宇野信夫]]） 平凡社 [[1982年]]（[[昭和]]57年）[[9月]]&lt;br /&gt;
* ちょんがれ西鶴 （[[浅黄斑]]） 双葉社 [[2001年]]（[[平成]]13年）[[1月]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 映画化 ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:The Life Of Oharu.0-45-36.732.jpg|thumb|200px|『西鶴一代女』のワンシーン]]&lt;br /&gt;
* [[西鶴一代女]] ([[1952年]]（[[昭和]]27年）)  監督：[[溝口健二]] &lt;br /&gt;
* [[好色一代男]] ([[1961年]]（[[昭和]]36年）)  監督：[[増村保造]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* [[暉峻康隆]]・[[東明雅]]訳 [[日本古典文学全集|新編日本古典文学全集]]「井原西鶴集」（[[小学館]]） &lt;br /&gt;
* [[冨士昭雄]]訳「決定版 対訳西鶴全集」全18巻　（[[明治書院]]）　西鶴の全小説を収蔵し、口語訳を対置した初めての全集。&lt;br /&gt;
* [[暉峻康隆]]著「西鶴傑作選」（[[明治書院]]）&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書&lt;br /&gt;
|author    = 竹内玄々一&lt;br /&gt;
|year      = 1892&lt;br /&gt;
|title     = 俳家奇人談&lt;br /&gt;
|publisher = 今古堂&lt;br /&gt;
|series    = 俳諧叢書&lt;br /&gt;
|url       = http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993059&lt;br /&gt;
|ref       = harv&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[仮名草子]]&lt;br /&gt;
* [[日本の近世文学史]]&lt;br /&gt;
* [[元禄文化]]&lt;br /&gt;
* [[浮世絵]]&lt;br /&gt;
* [[藤本義一 (作家)]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
{{Commonscat|Ihara Saikaku}}&lt;br /&gt;
{{Wikiquote|井原西鶴}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [http://kateibunko.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/katei/cgi-bin/srch.cgi?no=&amp;amp;title=&amp;amp;yomi=&amp;amp;cls=030100 霞亭文庫3-1浮世草子西鶴本]&lt;br /&gt;
* [http://www.eonet.ne.jp/~log-inn/04chosya_ai.htm#井原西鶴 電子図書館] {{ja icon}}&lt;br /&gt;
* {{青空文庫著作者|1216}}&lt;br /&gt;
* [http://www.daiunji.org/ 好色一代女の舞台＝洛北大雲寺] {{ja icon}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Writer-stub}}&lt;br /&gt;
{{Normdaten|TYP=p|GND=118986317|LCCN=n/79/74490|NDL=00269930|VIAF=59088917}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:いはら さいかく}}&lt;br /&gt;
[[Category:井原西鶴|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:江戸時代の俳人]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の著作家]]&lt;br /&gt;
[[Category:江戸時代の文学]]&lt;br /&gt;
[[Category:江戸時代の文人]]&lt;br /&gt;
[[Category:摂津国の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1642年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1693年没]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Link FA|es}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E4%BD%90%E7%AB%B9%E7%BE%A9%E6%98%8E&amp;diff=211981</id>
		<title>佐竹義明</title>
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		<updated>2014-07-23T23:57:20Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Otheruses|久保田藩の藩主|家老の家である佐竹北家の当主|佐竹義明 (北家)}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;佐竹 義明&#039;&#039;&#039;（さたけ よしはる、[[享保]]8年[[11月5日 (旧暦)|11月5日]]（[[1723年]][[12月2日]]）- [[宝暦]]8年[[3月18日 (旧暦)|3月18日]]（[[1758年]][[4月25日]]））は、[[出羽国|出羽]][[久保田藩]]の第7代藩主。出羽[[久保田藩#岩崎藩|岩崎藩]]主・[[佐竹義道]]の長男。生母は[[佐竹義長]]の娘・昆（[[明鏡院 (佐竹家)|明鏡院]]）。初名は&#039;&#039;&#039;義局&#039;&#039;&#039;。幼名は延寿丸。通称は求馬。官位は従四位下侍従、右京大夫。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
[[元文]]2年（1737年）3月28日、義道の世嗣として[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川吉宗]]に[[御目見]]する。宝暦3年（[[1753年]]）9月3日、先代の[[久保田藩]]主・[[佐竹義真]]の死去により、[[末期養子]]として家督を相続した。同年11月1日、将軍・[[徳川家重]]に御目見する。同年12月18日、従四位下侍従、右京大夫に叙任される。宝暦5年4月15日、初めてお国入りする許可を得る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
宝暦4年（[[1754年]]）7月、昨年来の米の凶作の対策として、幕府の許可のもと、[[藩札|銀札]]の発行を開始する。米の値上げを見込んだ商人らに銀札による米の買い上げを拒否されため、銀札の兌換資金である銀正貨による買い上げに切替え、銀札発行は事実上失敗した。宝暦7年（[[1757年]]）、銀札発行をめぐり家中で推進派と反対派の抗争が激化する。いわゆる[[秋田騒動]]である。推進派は処罰されて、銀札の発行は中止される。宝暦8年（[[1758年]]）3月18日、[[久保田城]]において死去、享年36。跡を長男の[[佐竹義敦|義敦]]が継いだ。法号は恭温院徳岩玄光。墓所は[[秋田県]][[秋田市]]の[[天徳寺]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
正室は第5代藩主・[[佐竹義峯]]の娘・直。子は[[佐竹義敦]]（長男）、[[佐竹義方]]（次男）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 偏諱を与えた人物 ==&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;義局時代&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
*[[久保田藩#廻座（一部）|渋江&#039;&#039;&#039;局&#039;&#039;&#039;光]]（家臣）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;義明時代&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
*[[久保田藩#廻座（一部）|渋江&#039;&#039;&#039;明&#039;&#039;&#039;光]]（家臣、局光の養子）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{久保田藩主|7代|1753年 - 1758年}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:さたけ よしはる}}&lt;br /&gt;
[[Category:佐竹氏|よしはる]]&lt;br /&gt;
[[Category:久保田藩主|*07]]&lt;br /&gt;
[[Category:1723年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1758年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E4%BC%8A%E9%81%94%E5%90%89%E6%9D%91&amp;diff=149556</id>
		<title>伊達吉村</title>
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		<updated>2014-07-21T07:55:58Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: /* 偏諱を与えた人物 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{基礎情報 武士&lt;br /&gt;
| 氏名 = 伊達 吉村&lt;br /&gt;
| 画像 =&lt;br /&gt;
| 画像サイズ =&lt;br /&gt;
| 画像説明 = &lt;br /&gt;
| 時代 = [[江戸時代]]&lt;br /&gt;
| 生誕 = [[延宝]]8年[[6月28日 (旧暦)|6月28日]]（[[1680年]][[7月23日]]）&lt;br /&gt;
| 死没 = [[宝暦]]元年[[12月24日 (旧暦)|12月24日]]（[[1752年]][[2月8日]]）&lt;br /&gt;
| 改名 = 村房（初名）→吉村&lt;br /&gt;
| 別名 = 助三郎、袖崎隠公&lt;br /&gt;
| 諡号 =&lt;br /&gt;
| 戒名 = 続燈院殿獅山元活大居士&lt;br /&gt;
| 墓所 =&lt;br /&gt;
| 官位 = [[従四位|従四位上]]、[[近衛府|左近衛権中将]]、[[陸奥守]]&lt;br /&gt;
| 幕府 = [[江戸幕府]]&lt;br /&gt;
| 主君 = [[伊達綱村]]→[[徳川綱吉]]→[[徳川家宣|家宣]]→[[徳川家継|家継]]→[[徳川吉宗|吉宗]]&lt;br /&gt;
| 藩   = [[仙台藩]]第5代藩主&lt;br /&gt;
| 氏族 = [[田手氏|宮床伊達氏]]→[[伊達氏]]&lt;br /&gt;
| 父母 = 父：[[伊達宗房]]、母：まつ（[[片倉景長]]の娘）&amp;lt;br /&amp;gt;養父：&#039;&#039;[[伊達綱村]]&#039;&#039;&lt;br /&gt;
| 兄弟 = &#039;&#039;&#039;吉村&#039;&#039;&#039;、[[伊達村興|村興]]&lt;br /&gt;
| 妻   = 正室：[[久我通名]]の娘・&#039;&#039;&#039;[[長松院 (伊達吉村正室)|冬姫]]&#039;&#039;&#039;&amp;lt;br /&amp;gt;側室：高橋氏ほか&lt;br /&gt;
| 子   = 村匡、村風、&#039;&#039;&#039;[[伊達宗村 (仙台藩主)|宗村]]&#039;&#039;&#039;、[[田村村隆]]、[[伊達村良|村良]]、&amp;lt;br /&amp;gt;和姫（[[池田継政]]室）、富姫（[[伊達村年]]室）、&amp;lt;br /&amp;gt;三保姫（[[稲葉正益]]室）、郷姫（[[片倉村廉]]室）&lt;br /&gt;
| 特記事項 =&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;伊達 吉村&#039;&#039;&#039;（だて よしむら）は、[[仙台藩]]第5代藩主。[[伊達氏]]宗家第21代当主。はじめ仙台藩一門[[宮床伊達氏]]第2代藩主。仙台藩で初の一門出身で賜姓伊達氏&amp;lt;ref&amp;gt;出身の宮床伊達氏は元々、伊達崎氏、[[田手氏]]を称していた。伊達氏初代当主[[伊達朝宗]]の六男・実綱を祖とする伊達一門の家柄であるが、江戸時代初期に第2代藩主伊達忠宗の子・宗房が名跡を継承していた。その子が吉村である。&amp;lt;/ref&amp;gt;出身の藩主であり、歴代仙台藩主中、最長の在職の藩主。就任時点で破綻状態にあった仙台藩の財政を建て直したことから「&#039;&#039;&#039;中興の英主&#039;&#039;&#039;」と呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 誕生から藩主就任まで ===&lt;br /&gt;
[[延宝]]8年（[[1680年]]）6月28日、宮床伊達氏初代当主・[[伊達宗房]]（仙台藩第2代藩主[[伊達忠宗]]の八男）の[[嫡男]]として生まれる。[[幼名]]は&#039;&#039;&#039;助三郎&#039;&#039;&#039;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[貞享]]3年（[[1686年]]）1月13日、父の死により家督を相続。[[元禄]]3年（[[1690年]]）12月、[[元服]]し、従兄で藩主の[[伊達綱村]]から[[偏諱]]を賜り&#039;&#039;&#039;村房&#039;&#039;&#039;（むらふさ）と名乗る。元禄6年（[[1693年]]）の一門による藩主・伊達綱村への諫言書提出には年少のため名を連ねていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元禄8年（[[1695年]]）3月、[[一関藩]]主[[田村建顕]]の養嗣子に迎えられることになると、一家・小梁川氏を継いでいた弟の宗辰（[[伊達村興]]）を呼び戻して宮床伊達氏の家督を譲り、村房は一門上座の家格を与えられて5月には江戸の一関藩邸に入ったが、正式に養子縁組を幕府に届出る前に、跡取りのいなかった仙台本藩の綱村の養嗣子に迎えられることになった。また、[[田辺希賢]]が侍講となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元禄9年（[[1696年]]）11月に藩主家の慣例により[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川綱吉]]から偏諱を賜って&#039;&#039;&#039;吉村&#039;&#039;&#039;に改名し、元禄15年（[[1702年]]）4月26日には[[久我通名]]の娘・[[長松院 (伊達吉村正室)|冬姫]]と結婚した（冬姫は通名の弟・[[久我通誠|通誠]]の養女として嫁ぐ）。元禄16年（[[1703年]]）に養父・綱村が隠居に追い込まれると、家督を継いで第5代仙台藩主となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 藩主としての治世 ===&lt;br /&gt;
==== 襲封当初の状況 ====&lt;br /&gt;
[[宝永]]元年（[[1704年]]）5月21日、吉村は藩主となって初めて仙台に入ったが、この時点で仙台藩の財政は綱村の浪費と乱脈政治によって完全に破綻しており、吉村はただちにその建て直しに取り組まねばならなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず対応を迫られたのが、綱村押込の直接の原因となった藩札の後始末である。宝永2年（[[1705年]]）1月に藩札の発行を停止したものの、既に出回っている藩札を回収するためにはその代価となる正金を用意しなければならず、翌宝永3年（[[1706年]]）9月には、このままでは[[参勤交代]]の免除を幕府に願い出る他ないとして知行高30石以上の藩士に対して手伝金の供出を命じ、年貢の半額を物納するか石高に応じた額の銭を納めるかを選択させた。こうして10月に藩札の通用がようやく停止したが、この年の仙台藩の赤字額は単年度で12万3千両にも達した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように吉村襲封当初の仙台藩の財政状態は、綱村が残した莫大な負債に加えて、その尻拭いに要する費用がさらに赤字を雪だるま式に増幅させるという悪循環に陥っており、また財政再建の最中にあっても[[正徳 (日本)|正徳]]元年（[[1711年]]）11月には幕府から命じられた[[日光東照宮]]普請のため、さらに江戸・京都の商人から7万3,700両の追加借入を余儀なくされるなど、極めて厳しいものであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 領内総検地計画とその失敗 ====&lt;br /&gt;
こうした状況を少しでも改善するため、享保10年（[[1725年]]）年頭には寛永以来実施されなかった領内総検地「大改」を行なうことを表明した。これは、耕地所有者の異動・[[新田]]の隠田化・[[普請]]や荒れ地化による耕地面積の変化などを正常化することで土地制度の根本的立て直しと年貢増徴を目指したものであった。しかし、隠田が不作時に年貢負担の不足分を補う機能を果たしていること、一門など上級家臣のみならず中・下級家臣に対しても[[地方知行]]制が行なわれていた仙台藩においては下級給人や[[陪臣]]が知行地の一部を直接耕作することで家計を維持していることから、「保国寺」名義の意見書に代表される一門層をはじめとする家臣側の反発が強く半年後に事実上中止となり、翌年には検地の担当者であった出入司の岩淵安次・木戸有延が責任を取らされる形で処罰されている。以後、仙台藩においては領内総検地は実施されないまま幕末を迎えることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 役職整理、貨幣鋳造、買米仕法 ====&lt;br /&gt;
一方で役職の整理を進め、[[享保]]11年（[[1726年]]）に屋敷奉行と兵具奉行を兼務とし、[[普請奉行]]を廃止して、その配下の普請方を出入司の直轄とした。また、享保14年（[[1729年]]）には[[郡奉行]]を8人から4人に減員し、享保16年（[[1731年]]）には龍ヶ崎奉行を廃して職務を郡奉行の兼役とした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これと平行して享保12年（[[1727年]]）に仙台領産の銅を使用することを条件に、幕府の許可を得て[[銅銭]]（[[寛永通宝]]）を[[石巻市|石巻]]で鋳造し、それを領内で流通させることで利潤を得た。また、買米仕法を再編強化し、農民から余剰米を強制的に供出させ[[江戸]]に廻漕して換金した。18世紀初めから中頃にかけての江戸市中に出回った米のほとんどが、仙台産であったと言われているほどである。享保17年（[[1732年]]）、西国で[[享保の大飢饉]]が発生すると、この年奥州は豊作であったため、大量の米を江戸に送って売りさばき50万両を超える収益を上げた。このため藩財政は一気に好転し、ようやく単年度での黒字を実現できるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 隠居後 ===&lt;br /&gt;
[[寛保]]3年（[[1743年]]）7月、四男・[[伊達宗村 (仙台藩主)|久村（宗村）]]に家督を譲って隠居し、袖ヶ崎の下屋敷に移った。[[宝暦]]元年[[12月24日 (旧暦)|12月24日]]（[[1752年]][[2月8日]]）死去。享年72。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 官位履歴 ==&lt;br /&gt;
* [[元禄]]8年（[[1695年]]）12月 - [[従五位]]下越前守に叙任。&lt;br /&gt;
* 元禄9年（[[1696年]]）11月2日 - [[従四位]]下に昇叙し、侍従を兼任。&lt;br /&gt;
* 元禄16年（[[1703年]]） - 陸奥守・左近衛権少将に転任。&lt;br /&gt;
* [[正徳 (日本)|正徳]]元年（[[1711年]]） - 従四位上に昇叙し、左近衛権中将に転任。&lt;br /&gt;
* [[昭和]]3年（[[1928年]]） - [[従三位]]追贈。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物・逸話 ==&lt;br /&gt;
* 綱村は吉村の性格について、性格的にも物事を深く考え思慮深く、政治に対する取り組みも人並みに優れ、以前の姿に戻したいという志を持ち、仁愛をもって人に接しうる人柄であるが、他方で理詰めで考えすぎ、とかくすると理屈に過ぎることが欠点であると評価している。&lt;br /&gt;
* 吉村は[[和歌]]・書画など芸術面にも優れた才能を示した。絵は[[大和絵]]に習った繊細な画風に特色があり、専門絵師でもあまり描かない[[自画像]]すら手掛けるほどの画力をもっていた&amp;lt;ref&amp;gt;『お殿様の遊芸』展図録、[[板橋区立美術館]]発行、2006年。&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[享保]]9年（[[1724年]]）には長谷川養辰に命じて、伊達氏初代・[[伊達朝宗|朝宗]]から自分に至るまでの歴代当主21人の肖像画集『伊達家歴代画真』を制作させているが、その下絵は吉村が手ずから描いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 作品 ==&lt;br /&gt;
;歌集&lt;br /&gt;
*『隣松集』&lt;br /&gt;
*『続隣松集』&lt;br /&gt;
;絵画&lt;br /&gt;
*「自画像」 絹本著色 [[仙台市博物館]]蔵&lt;br /&gt;
*「六所玉河和歌御手鑑」 紙本著色 1帖  仙台市博物館蔵&lt;br /&gt;
*「源氏八景御手鑑」 絹本著色 1帖 仙台市博物館蔵&lt;br /&gt;
*「[[藤原定家|京極定家]]・[[九条良経|後京極良経]]像」 双幅 [[福島美術館]]蔵&lt;br /&gt;
*「たかがり・すなどり図」 2巻 仙台市博物館蔵&lt;br /&gt;
*「竹梅図」 紙本墨画 仙台市博物館蔵&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 系譜 ==&lt;br /&gt;
*祖父：[[伊達忠宗]] - 仙台藩第2代藩主。&lt;br /&gt;
*父：[[伊達宗房]] - 伊達忠宗の八男。宮床伊達氏初代当主。&lt;br /&gt;
*母：貞樹院（[[片倉景長]]の娘・まつ）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*養父：[[伊達綱村]] - 仙台藩第4代藩主。同じく忠宗の孫で血縁的には吉村の従兄にあたる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*正室：冬姫（[[久我通名]]の娘、[[久我通誠]]養女） &lt;br /&gt;
**英姫 - 長女。早世&lt;br /&gt;
**和姫（村子） - 二女。[[岡山藩]]主[[池田継政]]室&lt;br /&gt;
**富姫（徳子） - 三女。[[宇和島藩]]主[[伊達村年]]室&lt;br /&gt;
**橘姫 - 四女。早世&lt;br /&gt;
**敏姫 - 五女。早世&lt;br /&gt;
**[[伊達宗村 (仙台藩主)|伊達宗村]] - 四男。初め久村。兄たちの早世に伴い嫡子となり第6代藩主となる&lt;br /&gt;
*側室：清涼院（岡村氏。於隆の方）&lt;br /&gt;
**伊達村匡 - 長男。享保7年（[[1722年]]）没（享年14）&lt;br /&gt;
**三保姫（琨子） - 六女。[[淀藩]]主[[稲葉正益]]室&lt;br /&gt;
*側室：円球院（鈴木氏。於曽恵の方）&lt;br /&gt;
**伊達菊次郎 - 二男。早世&lt;br /&gt;
**伊達村風 - 三男。一門・伊達右京家（3,000石）を興すも一代で無嗣断絶&lt;br /&gt;
*側室：恵心院（高橋治昌の娘・倫。於多智の方）&lt;br /&gt;
**百合姫（藤子） - 七女&lt;br /&gt;
**郷姫（昌子） - 八女。[[片倉村廉]]室&lt;br /&gt;
**[[田村村隆]]（伊達村勝） - 五男。はじめ[[白石氏|登米]][[伊達村倫 (登米伊達氏)|伊達村倫]]養子となり登米伊達氏第8代当主、のち[[田村村顕]]養子となり[[一関藩]]第4代藩主&lt;br /&gt;
**伊達某 - 六男。早世&lt;br /&gt;
**伊達富之助 - 七男。早世&lt;br /&gt;
**[[伊達村良]] - 八男。同母兄・村勝養子、登米伊達氏第9代当主&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*養子&lt;br /&gt;
**孝姫（道子） - 久我通名の娘、宮床伊達村胤室&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
伊達忠宗━┳伊達綱宗━━伊達綱村&lt;br /&gt;
　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　　　┃　　　　　┏伊達村興━━伊達村胤&lt;br /&gt;
　　　　　┗伊達宗房━┫　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　┗伊達吉村　　　┃&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　┃　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　┏冬姫　　　　　┃&lt;br /&gt;
　　　　　┏久我通名━┫　　　　　　　┃&lt;br /&gt;
久我広通━┫　　　　　┗━━━━━━孝姫&lt;br /&gt;
　　　　　┗久我通誠&lt;br /&gt;
&amp;lt;/pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 偏諱を与えた人物 ==&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;吉村時代&#039;&#039;&#039;（仙台藩主在任中、[[1703年]] - [[1743年]]）&lt;br /&gt;
*[[伊達村匡|伊達&#039;&#039;&#039;村&#039;&#039;&#039;匡]]（長男）&lt;br /&gt;
*[[伊達村風|伊達&#039;&#039;&#039;村&#039;&#039;&#039;風]]（三男）&lt;br /&gt;
*[[伊達宗村 (仙台藩主)|伊達宗&#039;&#039;&#039;村&#039;&#039;&#039;]]（四男・嫡子）&lt;br /&gt;
*[[田村村隆|伊達&#039;&#039;&#039;村&#039;&#039;&#039;侯]]（五男、のち兄・宗村の1字を受け伊達村勝、田村村隆に改名）&lt;br /&gt;
*[[伊達村良|伊達&#039;&#039;&#039;村&#039;&#039;&#039;良]]（八男）&lt;br /&gt;
*[[伊達村胤|伊達&#039;&#039;&#039;村&#039;&#039;&#039;胤]]（[[宮床伊達氏]]、吉村の甥（実弟・村興の子））&lt;br /&gt;
*[[伊達村茂|伊達&#039;&#039;&#039;村&#039;&#039;&#039;茂]]（初め片倉&#039;&#039;&#039;村&#039;&#039;&#039;信、吉村の甥（実弟・村興の子）、のち実兄・村胤の早世に伴い実家の宮床伊達氏を継承）&lt;br /&gt;
*[[伊達村年|伊達&#039;&#039;&#039;村&#039;&#039;&#039;年]]（[[伊予国|伊予]][[宇和島藩]]第4代藩主、吉村の従兄弟・娘婿）&lt;br /&gt;
*[[伊達村候|伊達&#039;&#039;&#039;村&#039;&#039;&#039;候]]（伊予宇和島藩第5代藩主、村年の子で吉村の外孫にあたる）&lt;br /&gt;
*[[伊達村豊|伊達&#039;&#039;&#039;村&#039;&#039;&#039;豊]]（伊予[[宇和島藩#伊予吉田藩|吉田藩]]第3代藩主）&lt;br /&gt;
*[[伊達村澄|伊達&#039;&#039;&#039;村&#039;&#039;&#039;澄]]（村豊の長男、早世）&lt;br /&gt;
*[[伊達村信|伊達&#039;&#039;&#039;村&#039;&#039;&#039;信]]（伊予吉田藩第4代藩主、村澄の弟）&lt;br /&gt;
*[[伊達村実|伊達&#039;&#039;&#039;村&#039;&#039;&#039;実]]（[[亘理伊達氏]]）&lt;br /&gt;
*[[伊達村定|伊達&#039;&#039;&#039;村&#039;&#039;&#039;定]]（[[涌谷伊達氏]]）&lt;br /&gt;
*[[伊達村盛|伊達&#039;&#039;&#039;村&#039;&#039;&#039;盛]]（村定の子、初め&#039;&#039;&#039;村&#039;&#039;&#039;重）&lt;br /&gt;
*[[伊達村胤|伊達&#039;&#039;&#039;村&#039;&#039;&#039;胤]]（村定の子、村盛の実弟・養嗣子）&lt;br /&gt;
*[[伊達村景|伊達&#039;&#039;&#039;村&#039;&#039;&#039;景]]（村定の実弟、[[水沢伊達氏]]を継承）&lt;br /&gt;
*[[伊達村倫 (登米伊達氏)|伊達&#039;&#039;&#039;村&#039;&#039;&#039;倫]]（[[登米伊達氏]]）&lt;br /&gt;
*[[伊達村望|伊達&#039;&#039;&#039;村&#039;&#039;&#039;望]]（[[岩谷堂伊達氏]]）&lt;br /&gt;
*[[伊達村緝|伊達&#039;&#039;&#039;村&#039;&#039;&#039;緝]]（[[岩出山伊達氏]]）&lt;br /&gt;
*[[伊達村通|伊達&#039;&#039;&#039;村&#039;&#039;&#039;通]]（村緝の子）&lt;br /&gt;
*[[伊達村敏|伊達&#039;&#039;&#039;村&#039;&#039;&#039;敏]]（村緝の実弟、初め中村&#039;&#039;&#039;村&#039;&#039;&#039;高、のち[[川崎伊達氏]]を継承）&lt;br /&gt;
*[[石川村満|石川&#039;&#039;&#039;村&#039;&#039;&#039;満]]&lt;br /&gt;
*[[石川村俊|石川&#039;&#039;&#039;村&#039;&#039;&#039;俊]]（村満の子）&lt;br /&gt;
*[[片倉村休|片倉&#039;&#039;&#039;村&#039;&#039;&#039;休]]&lt;br /&gt;
*片倉&#039;&#039;&#039;村&#039;&#039;&#039;信（のちの伊達村茂、吉村の甥（実弟・村興の子）、一時片倉村休の養子となるが、前述の通り実家の宮床伊達氏を継承）&lt;br /&gt;
*[[片倉村定|片倉&#039;&#039;&#039;村&#039;&#039;&#039;定]]（初め遠藤氏に養子入りしていたが、村信が実家に戻ったのに伴い実家の[[片倉氏]]を継承）&lt;br /&gt;
*[[白河村広|白河&#039;&#039;&#039;村&#039;&#039;&#039;広]]（[[白河結城氏|真坂白河家]]第5代当主）&lt;br /&gt;
*[[田村村顕|田村&#039;&#039;&#039;村&#039;&#039;&#039;顕]]（従弟、[[一関藩]]主、伊達村侯（田村村隆）の養父）&lt;br /&gt;
*[[三沢村為|三沢&#039;&#039;&#039;村&#039;&#039;&#039;為]]（[[三沢宗直]]の子で伊達村望の実兄）&lt;br /&gt;
*[[三沢村清|三沢&#039;&#039;&#039;村&#039;&#039;&#039;清]]（村為の養子）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*平成『仙台市史』通史編4〔近世2〕（宮城県仙台市、2003年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{伊達氏宗家歴代当主}}&lt;br /&gt;
{{仙台藩主|5代|1703 - 1743}}&lt;br /&gt;
{{先代次代|[[田手氏|宮床伊達氏]]|第2代：1686 - 1695|[[伊達宗房]]|[[伊達村興]]}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たて よしむら}}&lt;br /&gt;
[[Category:伊達氏|よしむら]]&lt;br /&gt;
[[Category:仙台藩主|よしむら]]&lt;br /&gt;
[[Category:江戸時代の歌人]]&lt;br /&gt;
[[Category:1680年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1752年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
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	<entry>
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		<title>虻田郡</title>
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		<updated>2014-07-20T23:36:10Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: /* 郡発足までの沿革 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&amp;lt;div class=&amp;quot;pathnavbox&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
*{{Pathnav|令制国一覧|[[北海道 (令制)]]|胆振国}}&lt;br /&gt;
*{{Pathnav|日本|北海道|[[胆振総合振興局]]・[[後志総合振興局]]}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[画像:Hokkaido Abuta-gun.png|thumb|265px|北海道虻田郡の位置（1.豊浦町 2.洞爺湖町 3.ニセコ町 4.真狩村 5.留寿都村 6.喜茂別町 7.京極町 8.倶知安町 薄黄：後に他郡に編入された地域）]]&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;虻田郡&#039;&#039;&#039;（あぶたぐん）は、[[北海道]]（[[胆振国]]）[[胆振総合振興局]]・[[後志総合振興局]]の[[郡]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{郡データ換算|北海道|豊浦町|洞爺湖町|ニセコ町|真狩村|留寿都村|喜茂別町|京極町|倶知安町}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下の6町2村を含む。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;胆振管内&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
* [[豊浦町]]（とようらちょう）&lt;br /&gt;
* [[洞爺湖町]]（とうやこちょう）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;後志管内&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
* [[ニセコ町]]（にせこちょう）&lt;br /&gt;
* [[真狩村]]（まっかりむら）&lt;br /&gt;
* [[留寿都村]]（るすつむら）&lt;br /&gt;
* [[喜茂別町]]（きもべつちょう）&lt;br /&gt;
* [[京極町]]（きょうごくちょう）&lt;br /&gt;
* [[倶知安町]]（くっちゃんちょう）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 郡域 ==&lt;br /&gt;
[[1879年]]（[[明治]]12年）に行政区画として発足した当時の郡域は、上記6町2村から洞爺湖町の一部（川東・岩屋・早月）を除き、[[山越郡]][[長万部町]]の一部（静狩）を加えた区域にあたる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
「虻田」の由来については[[虻田町]]の項目を参照。なお、「虻田」の「虻」の字は[[常用漢字]]に加える予定はない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 郡発足までの沿革 ===&lt;br /&gt;
[[江戸時代]]の虻田郡域は[[蝦夷地|東蝦夷地]]に属し、[[松前藩]]によってアブタ[[場所]]が開かれていた。[[寛政]]年間になり、それまで地形が険しく道が途絶え舟に乗り換えていた区間を、幕命をうけた松前藩によって[[山越郡]]と虻田郡の境を越える礼文華、弁辺等の山道（[[国道37号]]静狩峠の前身）が開削され、[[渡島国]]の[[函館市|箱館]]から[[道東]]や[[千島国]]方面に至る陸路が繋がっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[江戸時代#江戸時代後期|江戸時代後期]]、国防のため寛政11年虻田郡域は[[天領]]とされ、後に蝦夷地各地に馬を供給する馬産牧場であった有珠・虻田牧場が開かれ[[馬頭観音]]碑が入江地区に建立されている。享和3年には幕命で警固にあたった[[陸奥国|陸奥]][[弘前藩]]によって長万部 - 虻田間の道路が改修されている。また、虻田場所請負人和田茂平によって[[文化 (元号)|文化]]元年には恵比須神社が、文化4年には[[稲荷神社 (洞爺湖町)|稲荷神社]]が建立される。後世、恵比須神社は稲荷神社に合祀されている。[[文政]]4年には一旦松前藩領に復したものの、[[安政]]2年再び天領となり陸奥[[盛岡藩]]が警固を行った。安政6年の6藩分領以降、虻田郡南西部は盛岡藩領となり、東部は箱館奉行「御預所」のままであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
虻田郡域では古くから[[火山活動]]が盛んで、[[有珠山]]は[[寛文]]3年、[[明和]]6年、[[文政]]5年、[[嘉永]]6年と江戸時代だけでも頻繁に[[噴火]]しており、特に文政5年の噴火では[[火砕流]]によって[[虻田町|虻田]]の集落が壊滅的な被害を受け多数の犠牲者を出し、有珠・虻田牧場も多くの馬を失う被害を受けた。[[慶応]]3年4月漁場請負人和田屋茂兵衛によって[[豊浦神社]]が創建される。[[戊辰戦争]]（[[箱館戦争]]）終結直後の[[1869年]]、[[大宝律令]]の[[国郡里制]]を踏襲して[[胆振国]]虻田郡が置かれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 郡発足以降の沿革 ===&lt;br /&gt;
[[画像:Muroran-shicho.png|thumb|350px|北海道一・二級町村制施行時の虻田郡の町村（2.虻田村 3.弁辺村 15.倶知安村 16.真狩村［第1次］ 17.狩太村 青：区域が発足時と同じ町村および合併を経ていない町村 水色：分立して現存する町村 21.東倶知安村 22.喜茂別村 23.真狩別村）]]&lt;br /&gt;
* [[明治]]2年&lt;br /&gt;
** [[8月15日 (旧暦)|8月15日]]（[[1869年]][[9月20日]]） - [[北海道 (令制)|北海道]]で[[国郡里制]]が施行され、&#039;&#039;&#039;[[胆振国]]&#039;&#039;&#039;および&#039;&#039;&#039;虻田郡&#039;&#039;&#039;が設置される。&#039;&#039;&#039;[[開拓使]]&#039;&#039;&#039;が管轄。&lt;br /&gt;
** [[9月7日 (旧暦)|9月7日]]（1869年[[10月11日]]） - &#039;&#039;&#039;[[大泉藩]]&#039;&#039;&#039;の領地となる（[[北海道の分領支配]]）。&lt;br /&gt;
* 明治3年9月 - 再び&#039;&#039;&#039;開拓使&#039;&#039;&#039;の管轄となる。&lt;br /&gt;
* 明治4年&lt;br /&gt;
** [[3月14日 (旧暦)|3月14日]]（[[1871年]][[5月3日]]） - [[伊達邦成]]の領地となる。&lt;br /&gt;
** [[8月20日 (旧暦)|8月20日]]（1871年[[10月4日]]） - [[廃藩置県]]により再び&#039;&#039;&#039;開拓使&#039;&#039;&#039;の管轄となる。&lt;br /&gt;
* 明治5年 - 黒松内村の所属郡が[[後志国]][[寿都郡]]に変更&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.kuromatsunai.com/kuro_immig/img_youran/history.pdf]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 明治12年（[[1879年]]）[[7月23日]] - [[郡区町村編制法]]の北海道での施行により、行政区画としての&#039;&#039;&#039;虻田郡&#039;&#039;&#039;が発足。&lt;br /&gt;
* 明治13年（[[1880年]]）3月 - [[室蘭郡]]外三郡役所（室蘭虻田[[有珠郡|有珠]][[幌別郡|幌別]]郡役所）の管轄となる。&lt;br /&gt;
* 明治15年（[[1882年]]）[[2月8日]] - [[三県一局時代#廃使置県|廃使置県]]により&#039;&#039;&#039;[[札幌県]]&#039;&#039;&#039;の管轄となる。&lt;br /&gt;
* 明治19年（[[1886年]]）[[1月26日]] - [[三県一局時代#廃県置庁|廃県置庁]]により&#039;&#039;&#039;[[北海道庁 (1886-1947)|北海道庁]]&#039;&#039;&#039;札幌本庁の管轄となる。&lt;br /&gt;
* 明治22年（[[1888年]]）1月 - 室蘭郡外五郡役所（室蘭虻田有珠幌別[[勇払郡|勇払]][[白老郡|白老]]郡役所）の管轄となる。&lt;br /&gt;
* 明治30年（[[1897年]]）[[11月5日]] - 郡役所が廃止され、&#039;&#039;&#039;[[室蘭支庁]]&#039;&#039;&#039;の管轄となる。 &lt;br /&gt;
* 明治32年（[[1899年]]）[[5月20日]] - 倶知安村が&#039;&#039;&#039;[[岩内支庁]]&#039;&#039;&#039;の管轄となる。&lt;br /&gt;
* 明治35年（[[1902年]]）[[4月1日]] - [[北海道一・二級町村制|北海道二級町村制]]の施行により、以下の町村が発足。（2村）&lt;br /&gt;
** &#039;&#039;&#039;[[虻田町|虻田村]]&#039;&#039;&#039;（二級村、単独村制、現・虻田町）&lt;br /&gt;
** &#039;&#039;&#039;[[豊浦町|弁辺村]]&#039;&#039;&#039;（二級村） ← 弁辺村、礼文村（現・豊浦町）&lt;br /&gt;
* 明治39年（[[1906年]]）4月1日 - 北海道二級町村制の施行により、&#039;&#039;&#039;[[留寿都村|真狩村]]&#039;&#039;&#039;（第1次）、&#039;&#039;&#039;[[ニセコ町|狩太村]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[倶知安町|倶知安村]]&#039;&#039;&#039;（いずれも二級村、単独村制）が発足。倶知安村は岩内支庁が管轄。（5村）&lt;br /&gt;
* 明治43年（[[1910年]]）&lt;br /&gt;
** [[3月1日]]&lt;br /&gt;
*** 岩内支庁管轄の倶知安村、室蘭支庁管轄の真狩村・狩太村が&#039;&#039;&#039;[[後志支庁]]&#039;&#039;&#039;の管轄となる。&lt;br /&gt;
*** 倶知安村の一部（字ニセコアン）が狩太村に編入。&lt;br /&gt;
** 4月1日 - 倶知安村の一部（ワッカタサップ・カシプニ・ペーペナイ・下目名）が分立して&#039;&#039;&#039;[[京極町|東倶知安村]]&#039;&#039;&#039;（二級村）が発足。（6村）&lt;br /&gt;
* [[大正]]4年（[[1915年]]）4月1日 - 倶知安村が[[北海道一・二級町村制|北海道一級町村制]]を施行。&lt;br /&gt;
* 大正5年（[[1916年]]）&lt;br /&gt;
** 4月1日 - 倶知安村が町制施行して&#039;&#039;&#039;[[倶知安町]]&#039;&#039;&#039;（一級町）となる。（1町5村）&lt;br /&gt;
** 人口：63,425名、[[マラリア]]患者数：8名。&lt;br /&gt;
* 大正6年（[[1917年]]）4月1日 - 真狩村の一部（キモベツ）が分立して&#039;&#039;&#039;[[喜茂別町|喜茂別村]]&#039;&#039;&#039;（二級村）が発足。（1町6村）&lt;br /&gt;
* 大正7年（[[1918年]]）[[7月10日]] - 弁辺村の一部（字静狩）が[[山越郡]][[長万部町|長万部村]]に編入。&lt;br /&gt;
* 大正9年（[[1920年]]）&lt;br /&gt;
** [[6月1日]] - 虻田村の一部が分立して&#039;&#039;&#039;[[洞爺村]]&#039;&#039;&#039;（二級村）が発足。（1町7村）&lt;br /&gt;
** 6月 - 喜茂別村が[[有珠郡]][[大滝村 (北海道)|徳舜瞥村]]の一部を編入。&lt;br /&gt;
* 大正11年（[[1922年]]）&lt;br /&gt;
** 4月1日 - 真狩村の一部（字真狩別・知来別・御保内）が分立して&#039;&#039;&#039;[[真狩村|真狩別村]]&#039;&#039;&#039;（二級村）が発足。（1町8村）&lt;br /&gt;
** [[8月1日]] - 室蘭支庁が改称して&#039;&#039;&#039;[[胆振支庁]]&#039;&#039;&#039;となる。&lt;br /&gt;
* 大正12年（[[1923年]]）&lt;br /&gt;
** 4月1日 - 東倶知安村が北海道一級町村制を施行。&lt;br /&gt;
** [[8月20日]] - 洞爺村が壮瞥村の一部（字ピリカベツ以北）を編入。&lt;br /&gt;
* 大正14年（[[1925年]]）&lt;br /&gt;
** 4月1日 - 弁辺村の一部（字中昆布・桂の沢・柳の沢）が狩太村に編入。&lt;br /&gt;
** [[2月1日]] - 真狩村（第1次）が改称して&#039;&#039;&#039;[[留寿都村]]&#039;&#039;&#039;（二級村）となる。&lt;br /&gt;
* [[昭和]]7年（[[1932年]]）6月1日 - 弁辺村が改称して&#039;&#039;&#039;[[豊浦町|豊浦村]]&#039;&#039;&#039;（二級村）となる。&lt;br /&gt;
* 昭和13年（[[1938年]]）&lt;br /&gt;
** 4月1日 - 虻田村が北海道一級町村制を施行。&lt;br /&gt;
** [[10月1日]] - 虻田村が町制施行して&#039;&#039;&#039;[[虻田町]]&#039;&#039;&#039;（一級町）となる。（2町7村）&lt;br /&gt;
* 昭和15年（[[1940年]]）4月1日 - 東倶知安村が改称して&#039;&#039;&#039;[[京極町|京極村]]&#039;&#039;&#039;（二級村）となる。&lt;br /&gt;
* 昭和16年（[[1941年]]）[[12月1日]] - 真狩別村が改称して&#039;&#039;&#039;[[真狩村]]&#039;&#039;&#039;（第2次、二級村）となる。&lt;br /&gt;
* 昭和18年（[[1943年]]）[[6月1日]] - [[北海道一・二級町村制]]が廃止され、北海道で[[町村制]]を施行。二級町村は[[指定町村]]となる。&lt;br /&gt;
* 昭和21年（[[1946年]]）[[10月5日]] - 指定町村を廃止。&lt;br /&gt;
* 昭和22年（[[1947年]]）&lt;br /&gt;
** [[5月3日]] - [[地方自治法]]の施行により&#039;&#039;&#039;[[北海道]]&#039;&#039;&#039;胆振支庁・後志支庁の管轄となる。&lt;br /&gt;
** [[7月1日]] - 豊浦村が町制施行して&#039;&#039;&#039;[[豊浦町]]&#039;&#039;&#039;となる。（3町6村）&lt;br /&gt;
* 昭和25年（[[1950年]]）[[9月1日]] - 狩太村が町制施行して&#039;&#039;&#039;[[ニセコ町|狩太町]]&#039;&#039;&#039;となる。（4町5村）&lt;br /&gt;
* 昭和27年（[[1952年]]）7月1日 - 喜茂別村が町制施行して&#039;&#039;&#039;[[喜茂別町]]&#039;&#039;&#039;となる。（5町4村）&lt;br /&gt;
* 昭和37年（[[1962年]]）[[5月1日]] - 京極村が町制施行して&#039;&#039;&#039;[[京極町]]&#039;&#039;&#039;となる。（6町3村）&lt;br /&gt;
* 昭和39年（[[1964年]]）10月 - 狩太町が改称して&#039;&#039;&#039;[[ニセコ町]]&#039;&#039;&#039;となる。&lt;br /&gt;
* [[平成]]18年（[[2006年]]）[[3月27日]] - 虻田町・洞爺村が合併して&#039;&#039;&#039;[[洞爺湖町]]&#039;&#039;&#039;が発足。（6町2村）&lt;br /&gt;
* 平成22年（[[2010年]]）4月1日 - 胆振支庁・後志支庁がそれぞれ廃止され、&#039;&#039;&#039;[[胆振総合振興局]]&#039;&#039;&#039;・&#039;&#039;&#039;[[後志総合振興局]]&#039;&#039;&#039;の管轄となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* [[角川日本地名大辞典]] 1 北海道&lt;br /&gt;
* 内務省衛生局保健衛生調査室編『各地方ニ於ケル「マラリア」ニ関スル概況』1919年（大正8年）発行（2008年1月21日現在、国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で閲覧可能）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[松前藩]]&lt;br /&gt;
* [[箱館奉行#箱館奉行・松前奉行|箱館奉行]]&lt;br /&gt;
* [[地方知行#商場知行制|商場（場所）知行制]]&lt;br /&gt;
* [[場所請負制]]&lt;br /&gt;
* [[北海道の分領支配]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{胆振国の郡}}&lt;br /&gt;
{{胆振支庁の自治体}}&lt;br /&gt;
{{後志支庁の自治体}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:あふたくん}}&lt;br /&gt;
[[Category:胆振国|郡あふた]]&lt;br /&gt;
[[Category:北海道の郡]]&lt;br /&gt;
[[Category:胆振管内]]&lt;br /&gt;
[[Category:支笏洞爺国立公園]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E9%9A%86&amp;diff=212417</id>
		<title>松平頼隆</title>
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		<updated>2014-07-18T06:16:31Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;松平 頼隆&#039;&#039;&#039;（まつだいら よりたか、[[寛永]]6年[[11月29日 (旧暦)|11月29日]]（[[1630年]][[1月12日]]） - [[宝永]]4年[[11月30日 (旧暦)|11月30日]]（[[1707年]][[12月23日]]））は、[[江戸時代]]の[[大名]]。[[常陸国|常陸]][[保内藩]]主、[[常陸府中藩]]の初代藩主。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
常陸[[水戸藩]]初代藩主・[[徳川頼房]]の五男。[[徳川光圀]]の弟。母は[[興正寺]]18世・[[准尊]]（藤原昭玄）の娘。側室に高橋氏。片岡氏。子に[[松平頼方 (常陸府中藩嫡子)|頼方]]（長男）、[[松平頼寧|頼寧]]（次男）、[[松平頼如|頼如]]（三男）、娘（[[水谷勝美]]正室のち[[毛利元次]]継室）、娘（[[池田仲澄]]正室）。官位は従四位下、侍従、[[播磨国|播磨]]守。母方の祖父は[[石山戦争]]で知られる[[本願寺]]門主・[[顕如]]の孫にあたる。叙位任官前は、右近また、頼母を称し、[[諱]]は頼安から頼隆に改める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
寛永6年（1629年）11月29日生まれ。[[寛文]]元年（[[1661年]]）9月、兄・光圀より保内郷33ヶ村、およそ2万[[石 (単位)|石]]を分与されて水戸藩の[[支藩]]である保内藩を立藩した。[[元禄]]13年（[[1700年]]）9月[[江戸幕府|幕府]]によって所領を吹上から府中に移されたため、常陸府中藩を立藩する。宝永2年（[[1705年]]）9月28日、三男の頼如に家督を譲って隠居し、宝永4年（1707年）11月30日に79歳で死去した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
※日付は旧暦で記されている。&lt;br /&gt;
*[[1646年]]（[[正保]]3年）[[12月30日 (旧暦)|12月30日]]、従四位下侍従兼播磨守に叙任。&lt;br /&gt;
*[[1661年]]（[[寛文]]元年）[[9月26日 (旧暦)|9月26日]]、常陸国久慈郡保内ほか常陸水戸藩領より父の遺領2万石を賜う。&lt;br /&gt;
*[[1700年]]（[[元禄]]13年）[[9月25日 (旧暦)|9月25日]]、常陸府中藩（[[茨城県]][[石岡市]]）2万石藩主となる。なお、従前の2万石は水戸藩に返還。&lt;br /&gt;
*[[1705年]]（[[宝永]]2年）[[9月28日 (旧暦)|9月28日]]、隠居。&lt;br /&gt;
*[[1707年]]（宝永4年）[[11月30日 (旧暦)|11月30日]]、卒去。[[法名]]は長徳院梅峯無極。墓所は茨城県[[常陸太田市]]の瑞龍山。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{保内藩主|水戸松平氏||1661年 - 1700年}}&lt;br /&gt;
{{常陸府中藩主|水戸松平氏|初代|1700年 - 1705年}}&lt;br /&gt;
{{水戸徳川家|[[水戸徳川家]]御連枝 [[常陸府中藩|府中松平家]]当主|初代：1700年 - 1705年}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:まつたいら よりたか}}&lt;br /&gt;
[[Category:水戸連枝松平氏|よりたか]]&lt;br /&gt;
[[Category:徳川頼房の子女|よりたか]]&lt;br /&gt;
[[Category:親藩]]&lt;br /&gt;
[[Category:常陸府中藩主]]&lt;br /&gt;
[[Category:1630年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1707年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
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		<title>会津藩</title>
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		<updated>2014-07-18T02:47:12Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: /* 斗南藩 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[画像:March_2011_The_Aizu-Wakamatsu_Castle.jpg|thumb|200px|若松城]]&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;会津藩&#039;&#039;&#039;（あいづはん）は、[[陸奥国|陸奥]]（後の[[岩代国|岩代]]）[[会津郡]]を中心に現在の[[福島県]]西部と[[新潟県]]および[[栃木県]]の一部を治めた[[藩]]。藩庁は[[若松城]]（[[会津若松市]]）。最大版図は陸奥国[[北会津郡]]、[[耶麻郡]]、[[河沼郡]]、[[大沼郡]]及び[[越後国|越後]][[東蒲原郡]]、栃木県[[日光市]]の一部(旧[[塩谷郡]][[三依村]])。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
=== 戦国時代 ===&lt;br /&gt;
[[画像:Gamo Ujisato.jpg|thumb|200px|会津の基礎を作った蒲生氏郷]]&lt;br /&gt;
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]、[[会津]]地方は後の[[会津若松市|会津若松]]である&#039;&#039;&#039;黒川&#039;&#039;&#039;を本拠とする戦国大名の[[蘆名氏|蘆名家]]の領国であった。蘆名氏は会津守護を自称して勢威をふるったが、後継者争いや家臣団の権力闘争など内紛を繰り返して次第に衰微し、[[天正]]17年（[[1589年]]）6月5日に[[蘆名義広]]が[[摺上原の戦い]]で[[伊達政宗]]に大敗して&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩10&amp;quot;&amp;gt;野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P10&amp;lt;/ref&amp;gt;義広は実家の[[常陸国|常陸]][[佐竹氏|佐竹家]]を頼って落ち延び、ここに蘆名家は滅亡して会津は政宗の支配下に入り&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩11&amp;quot;&amp;gt;野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P11&amp;lt;/ref&amp;gt;、政宗は黒川を新たな本拠とした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正18年（[[1590年]]）7月に[[小田原征伐]]で[[後北条氏|北条家]]を滅ぼした[[豊臣秀吉]]は、8月9日に会津黒川に入って[[奥州仕置]]を行なう。政宗は小田原征伐に参陣していたものの、前年の合戦が秀吉の出した[[惣無事令]]違反と見なされて会津地方及び周辺地域は政宗から没収された&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩12&amp;quot;&amp;gt;野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P12&amp;lt;/ref&amp;gt;。秀吉は仕置において検地や[[刀狩]]、寺社政策など諸事を定めて帰洛し&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩12&amp;quot;/&amp;gt;、会津には[[蒲生氏郷]]が42万石で入封することとなった&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩14&amp;quot;&amp;gt;野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P14&amp;lt;/ref&amp;gt;。後に検地と加増で氏郷は92万石&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩14&amp;quot;/&amp;gt;を領有することになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
氏郷は[[織田信長]]にその非凡な才能を評価されて信長の次女[[冬姫]]を正室に迎えることを許され、信長没後は秀吉に従い[[伊勢国|伊勢]]松坂に12万石の所領を得ていた人物である&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩13&amp;quot;&amp;gt;野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P13&amp;lt;/ref&amp;gt;。秀吉も氏郷の才能を認め、[[東北地方|東北]]の伊達政宗や[[関東地方|関東]]の[[徳川家康]]を抑える枢要の地に大領を与えて入封させたのである&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩14&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
氏郷は黒川を&#039;&#039;&#039;若松&#039;&#039;&#039;と改め&amp;lt;ref group=&amp;quot;注釈&amp;quot;&amp;gt;氏郷が出世の端緒となった伊勢松ヶ島（松坂）以来、「松」は縁起の良い字として採用された。&amp;lt;/ref&amp;gt;、故郷の[[近江国|近江]]日野から商人や職人を呼び寄せ&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩15&amp;quot;&amp;gt;野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P15&amp;lt;/ref&amp;gt;。、城下町の建設、武家屋敷を分離させた町割、黒川城を新たに7層の[[天守]]を持つ城を築いて現在の会津若松の基盤を築いた&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩15&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref group=&amp;quot;注釈&amp;quot;&amp;gt;会津[[若松城]]は鶴ヶ城ともいわれるが蒲生家の家紋は舞鶴紋であるため名づけられた。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[文禄]]4年（[[1595年]]）2月7日に氏郷は死去した&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩16&amp;quot;&amp;gt;野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P16&amp;lt;/ref&amp;gt;。嫡子の[[蒲生秀行 (侍従)|蒲生秀行]](数え13歳)が跡を継ぎ、家康の娘振姫（[[正清院]]） を正室に娶わせた&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩17&amp;quot;&amp;gt;野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P17&amp;lt;/ref&amp;gt;。だが蒲生家中で重臣間の内紛が起こるようになり、[[慶長]]3年（[[1598年]]）1月、秀吉は家中騒動を理由にして秀行を[[宇都宮藩|宇都宮]]12万石へ減封した&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩17&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;宇都宮・高徳藩13&amp;quot;&amp;gt;坂本『シリーズ藩物語、宇都宮藩・高徳藩』、P13。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;二本松藩12&amp;quot;&amp;gt;糠澤『シリーズ藩物語、二本松藩』、P12&amp;lt;/ref&amp;gt;。ただし秀行の母、すなわち[[織田信長]]の娘の[[冬姫]]が美しかったため、氏郷没後に秀吉が側室にしようとしたが冬姫が尼になって貞節を守ったことを不愉快に思った説&amp;lt;ref name=&amp;quot;宇都宮・高徳藩13&amp;quot;&amp;gt;坂本『シリーズ藩物語、宇都宮藩・高徳藩』、P13。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩17&amp;quot;/&amp;gt;、秀行が家康の娘（三女の振姫（[[正清院]]））を娶っていた親家康派のため[[石田三成]]が重臣間の諍いを口実に減封を実行したとする説&amp;lt;ref name=&amp;quot;宇都宮・高徳藩13&amp;quot;&amp;gt;坂本『シリーズ藩物語、宇都宮藩・高徳藩』、P13。&amp;lt;/ref&amp;gt;もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 上杉家の時代 ===&lt;br /&gt;
[[画像:Uesugi_Kagekatsu.jpg|thumb|200px|上杉景勝]]&lt;br /&gt;
代わって[[越後国|越後]][[春日山城|春日山]]から[[上杉景勝]]が入封した&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩19&amp;quot;&amp;gt;野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P19&amp;lt;/ref&amp;gt;。領地は蒲生旧領と[[出羽国|出羽]]庄内に[[佐渡国|佐渡]]を加えた120万石であった&amp;lt;ref name=&amp;quot;二本松藩13&amp;quot;&amp;gt;糠澤『シリーズ藩物語、二本松藩』、P13&amp;lt;/ref&amp;gt;。景勝は戦国時代に「軍神」の異名をとった[[上杉謙信]]の養子（実は甥、生母が謙信の姉[[仙桃院]]）である&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩19&amp;quot;/&amp;gt;。しかし入封してから間もない8月18日に秀吉が死去し&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩19&amp;quot;/&amp;gt;、次の覇権を狙って徳川家康が台頭する。これに対抗しようと[[豊臣氏|豊臣家]][[五奉行]]の[[石田三成]]は[[上杉氏|上杉家]]の[[家老]]である[[直江兼続]]に接近し、直江は景勝と慶長4年（[[1599年]]）8月に会津に帰国すると、領内の山道を開き、武具や浪人を集め、28の支城を整備するという軍備増強に出た&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩20&amp;quot;&amp;gt;野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P20&amp;lt;/ref&amp;gt;。景勝・兼続主従は慶長5年（[[1600年]]）2月から若松城に代わる新たな城として、若松の北西およそ3キロの地点に位置する神指村に[[神指城]]の築城を開始した&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩21&amp;quot;&amp;gt;野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P21&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかしこの軍備増強は隣国[[越後国|越後]]の[[堀秀治]]や[[出羽国|出羽]]の[[最上義光]]らにより家康に報告され、また上杉家中でも和平を唱える[[藤田信吉]]が出奔して[[江戸]]に落ち延びたため、家康は景勝に弁明を求める使者を出したが景勝は拒絶し、家康は諸大名を集めて[[会津征伐]]を開始した&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩21&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像:Naoe Kanetsugu02.jpg|thumb|200px|上杉家家老の直江兼続]]&lt;br /&gt;
神指城築城は6月まで続けられたが、家康率いる討伐軍が江戸にまで来たため中止し、[[白河城]]の修築が急がれた&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩22&amp;quot;&amp;gt;野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P22&amp;lt;/ref&amp;gt;。7月、[[下野国|下野]][[小山城 (下野国)|小山]]で石田三成らの挙兵を知った家康は&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩22&amp;quot;/&amp;gt;、次男の[[結城秀康]]や娘婿の蒲生秀行らを[[宇都宮城]]に牽制として残し、8月に西上を開始した&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩23&amp;quot;&amp;gt;野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P23&amp;lt;/ref&amp;gt;。直江兼続は家康を追撃しようとしたが、上杉領の北に位置する最上義光や伊達政宗らの攻勢もあって追撃は断念した&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩23&amp;quot;/&amp;gt;。9月15日、[[関ヶ原の戦い]]で石田三成の西軍は壊滅したため、家康ら東軍の圧勝に終わった&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩23&amp;quot;/&amp;gt;。景勝は11月に家康と和睦するために重臣の[[本庄繁長]]を上洛させて謝罪させ、自らも慶長6年（[[1601年]]）8月8日に結城秀康に伴われて[[伏見城]]において家康に謝罪した結果、8月17日に家康は上杉家の存続を許したが、会津など90万石を没収して出羽[[米沢藩|米沢]]30万石へ減封した&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩23&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像:Kouzashi castle site.JPG|thumb|200px|神指城跡周辺]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 蒲生家の時代 ===&lt;br /&gt;
慶長6年（1601年）8月24日、景勝に代わって関ヶ原の戦いで東軍に与した蒲生秀行が60万石の上で入封した&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩24&amp;quot;&amp;gt;野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P24&amp;lt;/ref&amp;gt;。この加増は東軍の中ではトップクラスであり、正室が家康の娘ということが作用したといわれる&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩24&amp;quot;/&amp;gt;。秀行は執政に[[津川城]]代2万石の[[岡重政]]を任命したが、これが原因で以前から続いていた家中内紛が再燃した&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩24&amp;quot;/&amp;gt;。特に[[三春城]]代の[[蒲生郷成]]に至っては、岡と激しく対立して、遂には出奔するほどだった&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩25&amp;quot;&amp;gt;野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P25&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
慶長16年（[[1611年]]）8月21日には[[会津地震]]が藩内を襲った&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩25&amp;quot;/&amp;gt;。震源地は柳津町滝谷付近でマグニチュードは7と推定、若松城天守の石垣が崩れ、天守は傾き、城下町では2万戸余が倒壊、死者は3700名に上り、山崩れのために23の村が没したという。秀行は家中内紛と地震のためか、この地震の翌年5月14日に30歳の若さで死亡した&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩26&amp;quot;&amp;gt;野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P26&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
跡を継いだのは秀行と振姫の間に生まれた長男の[[蒲生忠郷|忠郷]]で、忠郷は[[寛永]]元年（[[1624年]]）に将軍[[徳川家光|家光]]（従兄弟）、[[大御所 (江戸時代)|大御所]][[徳川秀忠|秀忠]]を[[江戸]]屋敷に招くなど幕府との関係を強化した&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩26&amp;quot;/&amp;gt;。一方、会津領内の産金は蒲生家再封時代に全盛期を迎え、280万両の採掘が行なわれた&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩27&amp;quot;&amp;gt;野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P27&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし忠郷は寛永4年（[[1627年]]）に25歳で若くして急死する&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩27&amp;quot;/&amp;gt;。忠郷には子がおらず会津蒲生家は[[改易]]となったが&amp;lt;ref name=&amp;quot;二本松藩14&amp;quot;&amp;gt;糠澤『シリーズ藩物語、二本松藩』、P14&amp;lt;/ref&amp;gt;、母が徳川家康の娘であるため、同母弟で出羽[[上山藩]]主の[[蒲生忠知|忠知]]を当主として[[伊予松山藩|伊予松山]]へ24万石で減封されて蒲生家の存続は許された&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩27&amp;quot;/&amp;gt;。しかし忠知もこの7年後に子が無いまま30歳で急死している&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩27&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 加藤家の時代 ===&lt;br /&gt;
[[画像:Katō Yoshiaki.jpg|thumb|right|200px|加藤嘉明]]&lt;br /&gt;
寛永4年（1627年）、忠知と入れ替わりで[[伊予松山藩|伊予松山]]から[[加藤嘉明]]が倍の加増の40万石で入封した&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩27&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;二本松藩15&amp;quot;&amp;gt;糠澤『シリーズ藩物語、二本松藩』、P15&amp;lt;/ref&amp;gt;。嘉明は豊臣秀吉の下で[[賤ヶ岳七本槍]]の1人に数えられ、[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]では水軍の将として活躍し、関ヶ原の戦いでは本戦で東軍の将として武功を立てた勇将である。この抜擢は縁戚の蒲生家に代わる奥羽の鎮守に信頼に足る人物は誰かと迷っていた大御所秀忠が最初は[[藤堂高虎]]を選ぼうとしたが、高虎が辞退して嘉明を推挙したため、秀忠は嘉明を会津に加増して入れたという。ただし所領が倍増されたとはいえ、既に嘉明は65歳の高齢の上、伊予松山で藩政の基礎を固めていたことに加えて、温暖な瀬戸内から寒冷の会津盆地への移封はうれしいことではなかったといわれる&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩28&amp;quot;&amp;gt;野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P28&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
嘉明は積極的に藩内の整備を行ない、[[白河街道]]の整備、蒲生氏郷が名づけた日野町、火玉村を「火」を連想させることから甲賀町、福永村と改名する&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩28&amp;quot;/&amp;gt;。しかし嘉明は、藩内整備の道半ばで寛永8年（[[1631年]]）に死去した&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩28&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第2代藩主は嫡子の[[加藤明成|明成]]が継ぐ&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩28&amp;quot;/&amp;gt;。だが寛永13年（[[1636年]]）の[[江戸城]]手伝い普請における堀の開削費用、蒲生秀行時代の地震で傾いていたままだった自らの居城若松城の天守を5層へ改める工事、出丸工事など多額の出費が相次ぎ、加藤家の財政は逼迫した&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩29&amp;quot;&amp;gt;野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P29&amp;lt;/ref&amp;gt;。このため加藤家は領民にかける年貢を厳しく取り立て、寛永19年（[[1642年]]）から翌年にかけて飢饉が藩を襲った際、農民2000人が土地を捨てて他藩に逃げる騒動にまで発展した&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩29&amp;quot;/&amp;gt;。また明成は、その激しい気性から嘉明の時代からの[[家老]]である堀主水との対立を引き起こし、寛永16年（[[1639年]]）4月には堀が一族300余人を引き連れて若松城に向けて発砲し、橋を焼き、芦野原の関所を突破して出奔して激怒した明成が血眼になって主水を追うという御家騒動（[[会津騒動]]）にまで発展した&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩30&amp;quot;&amp;gt;野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P30&amp;lt;/ref&amp;gt;。主水は幕府に嘆願してまで[[高野山]]に逃げ込んだ主水の身柄引き渡しを求め&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩30&amp;quot;/&amp;gt;、寛永18年（[[1641年]]）に進退に窮した主水は高野山を下りて3月に江戸に赴き、城の無断改築や関所の勝手な新設など7か条を挙げて、明成を幕府に訴えでた&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩31&amp;quot;&amp;gt;野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P31&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし将軍家光自らの裁断により、主に非があるのは認めたが、それを諌めずあるいは自らの生命をもって諫死せず、主家に叛いて訴え出るのは義に外れており、非は主水にあるとして、主水の身柄は明成に引き渡され、激しい拷問が行なわれて主水は殺害された&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩31&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
寛永20年（[[1643年]]）5月、明成は幕府に会津40万石を返上し、幕府はこれを受けて加藤家から所領を没収して改易としたが、明成の嫡子[[加藤明友|明友]]に[[石見国|石見]][[吉永藩]]1万石を与えて家の存続は許した&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩31&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;二本松藩23&amp;quot;&amp;gt;糠澤『シリーズ藩物語、二本松藩』、P23&amp;lt;/ref&amp;gt;。この際に加藤家の支藩[[二本松藩]]も改易されており、幕府は会津騒動や悪政が原因で改易したとされている&amp;lt;ref name=&amp;quot;二本松藩23&amp;quot;&amp;gt;糠澤『シリーズ藩物語、二本松藩』、P23&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 会津松平家の時代 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Hoshina Masayuki.jpg|thumb|180px|会津松平家初代の保科正之]]&lt;br /&gt;
==== 保科正之の時代 ====&lt;br /&gt;
加藤氏改易後の寛永20年（[[1643年]]）、[[出羽国|出羽]][[山形藩]]より3万石加増の23万石で[[保科正之]]が入封し&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩34&amp;quot;&amp;gt;野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P34&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩40&amp;quot;&amp;gt;野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P40&amp;lt;/ref&amp;gt;、以後会津藩は[[会津松平家]]（保科家）の支配が定着する。会津松平家は幕末までに[[内高]]は40万石を突破して、表高より内高が下回ることすらあった徳川御三家の[[水戸藩]]より実収入が多い藩となり、藩の軍事力もこれを上回っていた。また、南山御蔵入領5万石も預かり地として任されたが、実質的には会津藩領同様に扱われており&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩41&amp;quot;&amp;gt;野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P41&amp;lt;/ref&amp;gt;、実質28万石といってよかった（28万石では御三家の水戸藩を超えてしまうことからの配慮のためであるとされる）&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩34&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
保科正之は第2代将軍徳川秀忠の落胤で、第3代将軍[[徳川家光|家光]]の異母弟である&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩35&amp;quot;&amp;gt;野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P35&amp;lt;/ref&amp;gt;。家光の信頼を受けて幕政に重きをなした。家光没後、11歳の嫡子[[徳川家綱|家綱]]が第4代将軍になると、正之は叔父として後見を務めた&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩43&amp;quot;&amp;gt;野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P43&amp;lt;/ref&amp;gt;。正之は[[大老]]として江戸で幕政を統括したため、会津に帰国したのは[[正保]]4年（[[1647年]]）と晩年の数年間のみであった&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩43&amp;quot;/&amp;gt;。この間、正之は幕政において[[明暦の大火]]における対策で敏腕を発揮しているが&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩47&amp;quot;&amp;gt;野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P47&amp;lt;/ref&amp;gt;、藩政でも手腕を発揮して正之の時代に会津藩の藩政はほぼ確立された。なお、正之は山形藩主時代に保科家の家宝類を保科家の血を引く[[保科正貞]]に譲って、徳川一門として認められており&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩40&amp;quot;/&amp;gt;、正之は幕府より葵紋の使用と松平姓を称することを許されていたが、正之は保科家の恩義と家臣に対する心情を思いやって辞退した&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩57&amp;quot;&amp;gt;野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P57&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 保科から松平への改姓 ====&lt;br /&gt;
正之の没後、藩主の座は子の[[保科正経|正経]]、そしてその弟の[[松平正容|正容]]が継いだ&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩56&amp;quot;&amp;gt;野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P56&amp;lt;/ref&amp;gt;。正容の時代に姓を松平に改めて葵紋の使用も許され、名実共に徳川一門としての会津松平家が誕生した。この時、歴代藩主の通字も保科家の「正」から「容」に改められることになった&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩56&amp;quot;/&amp;gt;。家格は[[親藩]]・[[御家門]]で、家紋は[[会津葵]]を用いた。旗印は漢字1文字で「會」である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 財政危機 ====&lt;br /&gt;
第4代藩主の[[松平容貞|容貞]]の時代である[[寛延]]2年（[[1749年]]）に、不作と厳しい年貢増徴を原因として会津藩最大の百姓一揆が勃発する&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩87&amp;quot;&amp;gt;野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P87&amp;lt;/ref&amp;gt;。藩は鎮定する代わりに年貢減免、首謀者の処刑と入牢などを行っている&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩88&amp;quot;&amp;gt;野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P88&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[宝暦]]年間における会津藩の財政事情は借金が36万4600両であり、毎年4万2200両の返済を迫られていたが財政的に返済は困難であり&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩88&amp;quot;/&amp;gt;、藩は農政改革や年貢を[[定免法]]に改定するなどして対応するが財政は好転せず、かえって藩の借金を40万両に増やすことになった&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩89&amp;quot;&amp;gt;野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P89&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[明和]]4年（[[1767年]]）には財政再建を任されていた井深主水が俸禄や借金問題から藩を捨てて逃亡するという事件まで起こっており&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩91&amp;quot;&amp;gt;野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P91&amp;lt;/ref&amp;gt;、その後も手形の発行などを繰り返すという自転車操業状態で藩の借金は総額57万両にも及び&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩92&amp;quot;&amp;gt;野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P92&amp;lt;/ref&amp;gt;、会津の藩財政は実質的に破綻しているに近かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 田中玄宰の藩政改革 ====&lt;br /&gt;
第5代藩主[[松平容頌|容頌]]は財政危機に対処するため、家老の田中玄宰を登用した。玄宰は保科正之の名家老と称された[[田中正玄]]から数えて6代目にあたる人物である&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩86&amp;quot;&amp;gt;野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P86&amp;lt;/ref&amp;gt;。玄宰は殖産興業政策の導入と農村復興、教育の革新による有為な人材の登用や役人の不正の処罰、教化主義による刑罰制度の改正など大規模な藩政改革を断行して成功させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 会津松平家の血の変遷 ====&lt;br /&gt;
田中玄宰の晩年、彼を用いた容頌の死後、跡を継いだ[[松平容住|容住]]が早世し、わずか3歳の[[松平容衆|容衆]]が第7代藩主になるという事態になった&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩112&amp;quot;&amp;gt;野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P112&amp;lt;/ref&amp;gt;。玄宰は自らも老齢で容衆を見守ることはできず、また容衆が夭折することで会津松平家が断絶することを恐れ、[[水戸徳川家]]の出身で[[美濃国|美濃]][[高須藩]]の養子になった[[松平義和]]の三男等三郎を容住の側室の子として貰い受けることで対処した&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩112&amp;quot;/&amp;gt;。容衆は玄宰の死から14年後に20歳で嗣子に恵まれずに死去したため、玄宰により生前に万一の事態のために用意されていた等三郎が[[松平容敬|容敬]]として第8代藩主を継ぐこととなった&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩113&amp;quot;&amp;gt;野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P113&amp;lt;/ref&amp;gt;。このため保科正之の血統は断絶したが、会津藩は断絶の危機を免れた&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩113&amp;quot;/&amp;gt;。なお、容敬も継嗣に恵まれなかったため、甥の[[松平容保|容保]]を婿養子にして跡を継がせている&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩157&amp;quot;&amp;gt;野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P157&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 戊辰戦争 ====&lt;br /&gt;
[[ファイル:Matudaira Katamori.jpg|thumb|180px|松平容保]]&lt;br /&gt;
[[File:Flag of Aizu early Meiji Bakumatsu.svg|right|thumb|180px|会津藩の軍旗にある會文字]]&lt;br /&gt;
第8代容敬は養子藩主であったが、英明な藩主で[[親政]]して改革を行ない&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩153&amp;quot;&amp;gt;野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P153&amp;lt;/ref&amp;gt;、幕末における会津藩の基礎を築き上げている。容敬は[[嘉永]]5年（[[1852年]]）2月に死去し、容保が第9代藩主を継いで&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩153&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩157&amp;quot;/&amp;gt;幕末の動乱期を迎えた。[[安政]]6年（[[1859年]]）、北方警備のため徳川幕府から[[根室]]・[[紋別]]を譲渡される。[[文久]]2年（[[1862年]]）閏8月に容保は[[京都守護職]]となり&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩159&amp;quot;&amp;gt;野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P159&amp;lt;/ref&amp;gt;、更に[[新撰組]]を麾下に置いて（新撰組は、その後会津戦争まで会津藩の隷下にあった）会津藩士ともども尊攘派[[志士]]の取り締まりや京都の治安維持を担った。そして[[禁門の変]]では、[[孝明天皇]]を奪取しようとした[[長州藩]]勢から御所を守り抜いた。後に容保は、会津藩を頼りとしている旨が記された「御[[宸翰]]&amp;lt;small&amp;gt;（ごしんかん）&amp;lt;/small&amp;gt;」を孝明天皇より賜った&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩162&amp;quot;&amp;gt;野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P162&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
慶応2年12月（1867年1月）に[[孝明天皇]]が崩御すると、既に[[薩長同盟]]を締結していた[[薩摩藩]]や[[長州藩]]との敵対が激化した。慶応3年10月14日（1867年新暦[[11月9日]]）の[[大政奉還]]、慶応3年12月9日（新暦：[[1868年]][[1月3日]]）[[王政復古 (日本)|王政復古の大号令]]を経て、慶応4年（1868年）には[[鳥羽・伏見の戦い]]により[[戊辰戦争]]が勃発した。会津藩は徳川幕府軍の中心と見なされ、主に[[薩摩藩]]と[[長州藩]]が率いる明治政府軍の仇敵となった。この戊辰戦争で、まだ少年期の[[明治天皇]]を奉じる明治政府軍により、会津藩には孝明天皇よりの御宸翰があったにも拘わらず、「[[朝敵]]」呼ばわりされたのである。会津藩は[[奥羽越列藩同盟]]の支援を受け、[[庄内藩]]と会庄同盟を結ぶなどして明治政府軍に抵抗したが、会津若松城下での戦い（[[会津戦争]]）に敗北して降伏した。近年では、列藩同盟総裁中将の役職に松平容保が就いていたとする説もある&amp;lt;ref&amp;gt;会津若松市観光公社『えっ！？会津が首都？？』。&amp;lt;/ref&amp;gt;。なお、戊辰戦争直前には、庄内藩とともに、当時の[[プロイセン王国]]との提携を模索していことが分かった&amp;lt;ref&amp;gt;2011年2月7日の朝日新聞朝刊10面&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
降伏により、会津藩領は会津松平氏から没収された。藩主の容保は[[鳥取藩]]預かりの禁錮刑となった。明治2年（[[1869年]]）に容保の嫡男[[松平容大|容大]]は家名存続が許され、陸奥国斗南（現在：[[青森県]][[むつ市]]）に[[#斗南藩|斗南藩]]を立てた&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩197&amp;quot;&amp;gt;野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P197&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、藩士数名はカリフォルニアに移民した。一方、[[廃藩置県]]を前に、会津藩の旧領は明治政府民政局による直轄地とされ、若松城下に明治政府民政局が設置された。明治4年7月14日（1871年新暦[[8月29日]]）の廃藩置県では、会津地方は[[若松県]]となったものの、明治9年（[[1876年]]）[[8月21日]]には[[福島県]]1876年以前（旧の[[二本松藩]]など）と[[磐前県]]（旧の[[磐城平藩]]と[[相馬中村藩|中村藩]]）と合併され、福島県に入れられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 戊辰戦争後 ===&lt;br /&gt;
容保の家系からは初代[[参議院議長]]の[[松平恒雄]]・[[雍仁親王妃勢津子]]父子、[[福島県知事]]の[[松平勇雄]]や、現：徳川宗家当主[[徳川恒孝]]が出ている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
惣領家の家系は、容保の孫である松平保定が、[[農林中央金庫]]職員を務めた後に、[[靖国神社]]宮司に推薦されたが、「薩長が祀られ、賊軍とされた会津の戦死者が祀られていないのに、会津人として、お受けするわけには、まいりません」と、固辞し、2007年から、[[猪苗代湖]]近くにある藩祖の墓の近くに住む。その長男の松平保久は、[[NHKエンタープライズ]]のプロデューサーである&amp;lt;ref&amp;gt;『朝日新聞』2009年9月15日 夕刊 第一面&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 福祉 ==&lt;br /&gt;
会津藩は日本初となる老齢[[年金]]制度を創設した藩であった&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩45&amp;quot;&amp;gt;野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P45&amp;lt;/ref&amp;gt;。開始されたのは[[寛文]]3年（[[1663年]]）で保科正之の時代であり、正之は藩内の90歳以上の老人に対して金銭ではなく米で1日5合、年間では約1石8斗、米俵で4俵半（約270キログラム）を支給した&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩45&amp;quot;/&amp;gt;。当時の会津藩で90歳以上の高齢者は町人で男子は4人、女子は7人、村方では140人と合計すると155人以上おり決して少ない負担ではない&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩45&amp;quot;/&amp;gt;。また正之は支給すべき者が高齢なため、歩行できたりする健常者は自ら支給を受け取りに来るよう命じたが、健常者でない者は子や孫が受け取りに来ることも認めていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩45&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 危機管理 ==&lt;br /&gt;
保科正之は凶作による飢饉に備えて明暦元年（[[1655年]]）に社倉制度を開始した&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩44&amp;quot;&amp;gt;野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P44&amp;lt;/ref&amp;gt;。これは藩で米を7000俵余り買い入れて各代官に預け、翌年から通常よりかなり低率の2割の利子で困った百姓に貸し付け、その利子で年々蓄えるべき米を増やして凶作の備えとしたのである&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩44&amp;quot;/&amp;gt;。また実際に飢饉が起こり、病人や工事人足、新田開発者や火災被害者などには無償で提供する例もあった&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩44&amp;quot;/&amp;gt;。保科正之は各村に社倉と呼ばれる倉を創設して収納し、備蓄米は最大で5万俵になり、領内の23箇所に社倉が建設された&amp;lt;ref name=&amp;quot;会津藩44&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 江戸時代以前の若松城主 ==&lt;br /&gt;
=== 蒲生家 ===&lt;br /&gt;
91万9千石（1590年 - 1598年）&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; border=&amp;quot;1&amp;quot; frame=&amp;quot;box&amp;quot; rules=&amp;quot;all&amp;quot; cellspacing=&amp;quot;0&amp;quot; cellpadding=&amp;quot;3&amp;quot; &lt;br /&gt;
|- style=&amp;quot;background:#eee&amp;quot;&lt;br /&gt;
! 代&lt;br /&gt;
! 氏名&lt;br /&gt;
! よみ&lt;br /&gt;
! 官位・官職&lt;br /&gt;
! 在任期間&lt;br /&gt;
! 備考&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#eee&amp;quot;|1&lt;br /&gt;
|[[蒲生氏郷|氏郷]]&lt;br /&gt;
|うじさと&lt;br /&gt;
|[[正四位|正四位下]]&amp;lt;br&amp;gt;[[参議]]&lt;br /&gt;
|[[天正]]18年 - [[文禄]]4年&amp;lt;br&amp;gt;[[1590年]] - [[1595年]]&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#eee&amp;quot;|2&lt;br /&gt;
|[[蒲生秀行 (侍従)|秀行]]&lt;br /&gt;
|ひでゆき&lt;br /&gt;
|[[従三位]]&amp;lt;br&amp;gt;[[飛騨国|飛騨守]]・[[侍従]]&lt;br /&gt;
|文禄4年 - [[慶長]]3年&amp;lt;br&amp;gt;1595年 - [[1598年]]&lt;br /&gt;
|先代の次男&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 上杉家 ===&lt;br /&gt;
120万石（1598年 - 1601年）&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; border=&amp;quot;1&amp;quot; frame=&amp;quot;box&amp;quot; rules=&amp;quot;all&amp;quot; cellspacing=&amp;quot;0&amp;quot; cellpadding=&amp;quot;3&amp;quot; &lt;br /&gt;
|- style=&amp;quot;background:#eee&amp;quot;&lt;br /&gt;
! 代&lt;br /&gt;
! 氏名&lt;br /&gt;
! よみ&lt;br /&gt;
! 官位・官職&lt;br /&gt;
! 在任期間&lt;br /&gt;
! 備考&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#eee&amp;quot;|1&lt;br /&gt;
|[[上杉景勝|景勝]]&lt;br /&gt;
|かげかつ&lt;br /&gt;
|[[従三位]]&amp;lt;br&amp;gt;[[参議]]&lt;br /&gt;
|[[慶長]]3年 - 慶長6年&amp;lt;br&amp;gt;[[1598年]] - [[1601年]]&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴代藩主 ==&lt;br /&gt;
=== 蒲生家 ===&lt;br /&gt;
[[外様大名|外様]] - 60万石（1601年 - 1627年）&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; border=&amp;quot;1&amp;quot; frame=&amp;quot;box&amp;quot; rules=&amp;quot;all&amp;quot; cellspacing=&amp;quot;0&amp;quot; cellpadding=&amp;quot;3&amp;quot; &lt;br /&gt;
|- style=&amp;quot;background:#eee&amp;quot;&lt;br /&gt;
! 代&lt;br /&gt;
! 氏名&lt;br /&gt;
! よみ&lt;br /&gt;
! 官位・官職&lt;br /&gt;
! 在任期間&lt;br /&gt;
! 前藩主との続柄・備考&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#eee&amp;quot;|1&lt;br /&gt;
|秀行&lt;br /&gt;
|ひでゆき&lt;br /&gt;
|[[従三位]]&amp;lt;br&amp;gt;[[参議]]&lt;br /&gt;
|[[慶長]]6年 - 慶長17年&amp;lt;br&amp;gt;[[1601年]] - [[1612年]]&lt;br /&gt;
|再封&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#eee&amp;quot;|2&lt;br /&gt;
|[[蒲生忠郷|忠郷]]&lt;br /&gt;
|たださと&lt;br /&gt;
|従三位&amp;lt;br&amp;gt;参議&lt;br /&gt;
|慶長17年 - [[寛永]]4年&amp;lt;br&amp;gt;1612年 - [[1627年]]&lt;br /&gt;
|先代の長男&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 加藤家 ===&lt;br /&gt;
外様 - 40万石　（1627年 - 1643年）&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; border=&amp;quot;1&amp;quot; frame=&amp;quot;box&amp;quot; rules=&amp;quot;all&amp;quot; cellspacing=&amp;quot;0&amp;quot; cellpadding=&amp;quot;3&amp;quot; &lt;br /&gt;
|- style=&amp;quot;background:#eee&amp;quot;&lt;br /&gt;
! 代&lt;br /&gt;
! 氏名&lt;br /&gt;
! よみ&lt;br /&gt;
! 官位・官職&lt;br /&gt;
! 在任期間&lt;br /&gt;
! 前藩主との続柄・備考&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#eee&amp;quot;|1&lt;br /&gt;
|[[加藤嘉明|嘉明]]&lt;br /&gt;
|よしあき&lt;br /&gt;
|[[従四位|従四位下]]&amp;lt;br&amp;gt;[[馬寮|左馬頭]]&lt;br /&gt;
|[[寛永]]4年 - 寛永8年&amp;lt;br&amp;gt;[[1627年]] - [[1631年]]&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#eee&amp;quot;|2&lt;br /&gt;
|[[加藤明成|明成]]&lt;br /&gt;
|あきなり&lt;br /&gt;
|従四位下&amp;lt;br&amp;gt;[[式部省|式部少輔]]・[[侍従]]&lt;br /&gt;
|寛永8年 - 寛永20年&amp;lt;br&amp;gt;1631年 - [[1643年]]&lt;br /&gt;
|先代の長男&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 会津松平（保科）家 ===&lt;br /&gt;
[[親藩]] - 23万石（1643年 - 1868年）&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; border=&amp;quot;1&amp;quot; frame=&amp;quot;box&amp;quot; rules=&amp;quot;all&amp;quot; cellspacing=&amp;quot;0&amp;quot; cellpadding=&amp;quot;3&amp;quot; &lt;br /&gt;
|- style=&amp;quot;background:#eee&amp;quot;&lt;br /&gt;
! 代&lt;br /&gt;
! 氏名&lt;br /&gt;
! よみ&lt;br /&gt;
! 官位・官職&lt;br /&gt;
! 在任期間&lt;br /&gt;
! 前藩主との続柄・備考&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#eee&amp;quot;|1&lt;br /&gt;
|[[保科正之|正之]]&lt;br /&gt;
|まさゆき&lt;br /&gt;
|[[正四位|正四位下]]&amp;lt;br&amp;gt;[[肥後国|肥後守]]&lt;br /&gt;
|[[寛永]]20年 - [[寛文]]9年&amp;lt;br&amp;gt;[[1643年]] - [[1669年]]&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#eee&amp;quot;|2&lt;br /&gt;
|[[保科正経|正経]]&lt;br /&gt;
|まさつね&lt;br /&gt;
|[[従四位|従四位下]]&amp;lt;br&amp;gt;[[筑前国|筑前守]]&lt;br /&gt;
|寛文9年 - [[天和 (日本)|天和]]元年&amp;lt;br&amp;gt;1669年 - [[1681年]]&lt;br /&gt;
|先代の四男&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#eee&amp;quot;|3&lt;br /&gt;
|[[松平正容|正容]]&lt;br /&gt;
|まさかた&lt;br /&gt;
|正四位下&amp;lt;br&amp;gt;肥後守&lt;br /&gt;
|天和元年 - [[享保]]16年&amp;lt;br&amp;gt;1681年 - [[1731年]]&lt;br /&gt;
|先代の弟&amp;lt;br&amp;gt;初代正之の六男&amp;lt;br&amp;gt;&#039;&#039;&#039;松平&#039;&#039;&#039;に改姓&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#eee&amp;quot;|4&lt;br /&gt;
|[[松平容貞|容貞]]&lt;br /&gt;
|かたさだ&lt;br /&gt;
|従四位下&amp;lt;br&amp;gt;肥後守&lt;br /&gt;
|享保16年 - [[寛延]]3年&amp;lt;br&amp;gt;1731年 - [[1750年]]&lt;br /&gt;
|先代の三男&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#eee&amp;quot;|5&lt;br /&gt;
|[[松平容頌|容頌]]&lt;br /&gt;
|かたのぶ&lt;br /&gt;
|正四位下&amp;lt;br&amp;gt;肥後守&lt;br /&gt;
|寛延3年 - [[文化 (元号)|文化]]2年（[[享保]]元年）&amp;lt;br&amp;gt;1750年 - [[1805年]]&lt;br /&gt;
|先代の長男&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#eee&amp;quot;|6&lt;br /&gt;
|[[松平容住|容住]]&lt;br /&gt;
|かたおき&lt;br /&gt;
|従四位下&amp;lt;br&amp;gt;肥後守&lt;br /&gt;
|文化2年&amp;lt;br&amp;gt;1805年&lt;br /&gt;
|[[松平容詮]]の長男&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#eee&amp;quot;|7&lt;br /&gt;
|[[松平容衆|容衆]]&lt;br /&gt;
|かたひろ&lt;br /&gt;
|従四位下&amp;lt;br&amp;gt;肥後守&lt;br /&gt;
|文化3年 - [[文政]]5年&amp;lt;br&amp;gt;[[1806年]] - [[1822年]]&lt;br /&gt;
|先代の次男&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#eee&amp;quot;|8&lt;br /&gt;
|[[松平容敬|容敬]]&lt;br /&gt;
|かたたか&lt;br /&gt;
|正四位下&amp;lt;br&amp;gt;肥後守&lt;br /&gt;
|文政5年 - [[嘉永]]5年&amp;lt;br&amp;gt;1822年 - [[1852年]]&lt;br /&gt;
|[[美濃国|美濃]][[高須藩|高須藩主]][[松平義和]]の三男&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#eee&amp;quot;|9&lt;br /&gt;
|[[松平容保|容保]]&lt;br /&gt;
|かたもり&lt;br /&gt;
|[[正三位]]&amp;lt;br&amp;gt;[[参議]]&lt;br /&gt;
|嘉永5年 - [[慶応]]4年&amp;lt;br&amp;gt;1852年 - [[1868年]]&lt;br /&gt;
|先代の甥&amp;lt;br&amp;gt;美濃高須藩主[[松平義建]]の六男&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#eee&amp;quot;|10&lt;br /&gt;
|[[松平喜徳|喜徳]]&lt;br /&gt;
|のぶのり&lt;br /&gt;
|従四位下&amp;lt;br&amp;gt;若狭守&lt;br /&gt;
|慶応4年&amp;lt;br&amp;gt;1868年&lt;br /&gt;
|水戸藩主・徳川斉昭の十五男、徳川慶喜の実弟&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 家老 ==&lt;br /&gt;
*[[西郷氏#三河西郷氏|西郷氏]]（1700石・藩主一門・筆頭家老） 称:保科姓&lt;br /&gt;
:保科正勝（[[保科正俊]]の次男）&lt;br /&gt;
:－正近－正長＝[[西郷近房]]（[[西郷元次]]の次男・正近の外孫）&lt;br /&gt;
:近方－近張－近致＝近義－近寧－[[西郷近光|近光]]－[[西郷近思|近思]]－[[西郷頼母|保科近悳(西郷頼母)]]＝[[西郷四郎]]（会津藩士・志田貞二郎の三男） &lt;br /&gt;
*田中氏（会津藩内2000石）&lt;br /&gt;
:[[田中正玄]]…[[田中玄宰|玄宰]]…玄良－[[田中玄清|玄清]]&lt;br /&gt;
*[[神保氏]]（重臣）&lt;br /&gt;
:[[神保内蔵助]] - [[神保修理|修理]]&lt;br /&gt;
*[[横山氏]]&lt;br /&gt;
:横山常元＝[[横山常守#父・常徳|常徳]]（横山常明の二男・常元の甥）＝[[横山常守|常守]]（常徳の養子・常道の遺子）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 斗南藩 ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:Matsudaira_Kataharu.jpg|thumb|180px|松平容大]]&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;斗南藩&#039;&#039;&#039;（となみはん）は、[[明治]]2年（[[1869年]]）11月3日に松平容保の嫡男・容大に家名存続が許されて成立した、[[盛岡藩#七戸藩|七戸藩]]を挟む形で現青森県の東部にあった藩である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
会津藩を没収された[[会津松平家]]は、改めて元[[盛岡藩]]（南部藩）領に設置された旧[[三戸県]]5万2,339石の内、[[北郡]]・三戸郡・二戸郡内に3万石を与えられて立藩した(旧三戸県の残部は[[江刺県]]に編入)、&amp;lt;ref&amp;gt;[http://opac.ndl.go.jp/recordid/00001094242/jpn/ 野口信一著『会津えりすぐりの歴史』平成22年6月歴史春秋社]&amp;lt;/ref&amp;gt;。斗南藩に与えられた村数、石高は、明治4年に青森県から大蔵省へ送られた文書によると以下の通りである。&lt;br /&gt;
{|class=&amp;quot;wikitable sortable&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:right;font-size:small&amp;quot;&lt;br /&gt;
|+斗南藩の石高&amp;lt;ref&amp;gt;『青森県史 第8巻』 161頁&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
!郡名&lt;br /&gt;
!村数&lt;br /&gt;
!石高(石.斗升合)&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=left|二戸郡||12||3,969.416&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=left|三戸郡||50||22,048.680&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=left|北郡||46||8,729.369&lt;br /&gt;
|-style=&amp;quot;background:lightgrey;&amp;quot;&lt;br /&gt;
|align=left|総計||108||34,747.465&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
但し旧会津藩士4700名余が謹慎を解かれたのは翌年の明治3年（[[1870年]]）1月5日のことである。当初は三戸藩と称していたが、明治3年6月4日付の七戸藩宛書簡に「猶々藩名斗南藩と唱ヘ候間、以来ハ右藩名ニ而及御懸合候」とあり、名称を斗南藩と改めた。[[柴五郎]]によると「斗南」は漢詩の「北斗以南皆帝州」（北斗星より南はみな帝の治める州）からとったもので、この説が広く受け入れられているが、該当する古典漢詩が存在せず、会津藩士[[秋月悌次郎]]が慶応元年(1865年)に蝦夷へ左遷された際に詠んだ「唐太以南皆帝州」との類似が指摘されている。一方当時斗南藩の大属として藩政の中枢にいた竹村俊秀の『北下日記』には「「斗南」トハ外南部ノ謂ナリ」と記されており、当初「外南部」の略称に過ぎなかったものを大義名分に立って「北斗以南」の意義付けが行われたとも解釈される&amp;lt;ref&amp;gt;『野辺地町史 通説編第二巻』 48頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。また葛西富夫は、「南、すなわち[[明治政府|薩長政府]]と斗(闘)う」という意味が隠されているという口伝を紹介している&amp;lt;ref&amp;gt;[http://opac.ndl.go.jp/recordid/000001212250/jpn/ 葛西富夫著『斗南藩史』昭和46年8月斗南会津会]&amp;lt;/ref&amp;gt;。同年4月18日、南部に移住する者の第一陣として倉沢平治右衛門&amp;lt;ref&amp;gt;[http://opac.ndl.go.jp/recordid/000001209430/jpn/ 『五戸町誌下巻』五戸町誌刊行委員会]&amp;lt;/ref&amp;gt;の指揮のもと第一陣300名が八戸に上陸した。藩主となった松平容大は、藩士の冨田重光の懐に抱かれて駕籠に乗り、[[五戸]]に向かった。旧五戸代官所が最初の藩庁になり、後に現在の[[青森県]][[むつ市]]田名部の[[円通寺 (むつ市)|円通寺]]に移った。また[[北海道 (令制)|北海道]][[後志国]]の[[歌棄郡|歌棄]]（うたすつ）・[[瀬棚郡|瀬棚]]・[[太櫓郡|太櫓]]（ふとろ）及び[[胆振国]][[山越郡|山越]]の計4[[郡#日本の郡|郡]]も支配地となった。実際に入植したのは50戸あまり、220余人であった。明治3年閏10月までには旧会津藩士約2万人の内、4,332戸1万7,327人が斗南藩に移住したが、若松県内で帰農した者約2,000人を始めとし、残りは族籍を平民に移した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
斗南藩の表高は3万石、内高は3万5,000石であったが、藩領の多くは火山灰地質の厳寒不毛の地であり、実際の税収である収納高(現石)は7,380石に過ぎなかった&amp;lt;ref&amp;gt;『秩禄処分顛末略』 229頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。森林は豊富であったものの、隣藩のように林業を有効活用することが出来なかった。また南部藩時代から元々住んでいた約6万人の領民との軋轢も生じた。とりわけ下北半島に移住した旧会津藩士は苦しい生活を強いられ、その時の体験は[[柴五郎]]によって語られている。&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--旧会津藩士は着替える服もなく、みすぼらしい格好で[[シラミ]]がわき、草の根や木の皮までも食していたことから、下北地方では「会津のゲダガ（毛虫）」と侮蔑されていた。下北半島では、斗南藩士の子[[柴五郎]]が凄絶な言葉で叱咤されたことを記憶している。「ここは戦場なるぞ。戦場なれば犬肉なりとて食らうものぞ。やれやれ会津の乞食藩士ども下北に餓死して絶えたるよと。薩長の下郎武士どもに笑わるるぞ！生き抜け！生きて残れ！会津の国辱雪ぐまでは生きてあれよ！ここはまだ戦場なるぞ！」と。こうして犬肉を手にしたが、食料に事欠いていた他の斗南藩士に分けてくれと泣きつかれ、肉の半分を持ち帰らせた。犬の肉は塩茹でにして食したものの、四、五日もすると臭いが鼻につき、喉を通らなくなるが、他に食べるものはない。我慢して20日ほど食い続けたら、兄嫁は頭髪が抜け落ち、薄禿げになったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
斗南藩士の妻娘はさらに悲惨であった。病臥の家族を養うため、売春婦や妾として糊口をしのいだが、仲間から糾弾され「生活の糧に肉体は売っても、魂までは売りませぬ」と慟哭したという。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
その後、斗南藩は明治4年（1871年）7月14日の廃藩置県で斗南県となり、その際斗南県少参事[[広沢安任|廣澤安任]]らによる明治政府への建言により、同年9月4日に[[弘前藩|弘前県]]・[[弘前藩#黒石藩|黒石県]]・[[盛岡藩#七戸藩|七戸県]]・[[盛岡藩#八戸藩|八戸県]]・[[松前藩#館藩|館県]]との合併を経て青森県に編入され斗南の地名は消滅した。また、二戸郡の一部は[[岩手県]]に編入された。青森県発足時点では、会津からの移住人員1万7,327人の内3,300人は既に他地域への出稼ぎで離散してしまっており、青森県内には1万4,000人余の斗南藩士卒族が残留していた。&amp;lt;ref&amp;gt;『会津若松史』 240頁&amp;lt;/ref&amp;gt;その後も廃藩置県による旧藩主の上京により、移住してきた者の送籍・離散が相次ぎ、明治7年（1874年）末までには約1万人が会津に帰郷している。当地に留まった者では、明治5年（1872年）に広沢らが日本初の民間洋式牧場が開設したほか、入植先の戸長・町村長・吏員・教員となった者が多く、子孫からは、[[北村正哉]]（元青森県知事）をはじめ衆議院議員、郡長・県会議員・市町村長や青森県内の各学校長などが出ている。容大は明治17年（1884年）[[子爵]]となり、[[華族]]に列した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*藩主：[[松平容大]]（まつだいら かたはる）〔従五位 知藩事〕&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 藩邸及び江戸での菩提寺 ==&lt;br /&gt;
[[文政]]年間の[[江戸藩邸]]は上屋敷は和田蔵御門内にあり、中屋敷は源助丁海手に、下屋敷は三田綱坂にあった。また江戸での菩提寺は下谷の[[臨済宗大徳寺派]]寺院の円満山[[広徳寺 (練馬区)|広徳寺]]&amp;lt;ref&amp;gt;現在は練馬区へ移転している&amp;lt;/ref&amp;gt;で[[加賀藩]]や[[常陸国]][[谷田部藩]]も江戸での菩提寺として使用していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 領地 ==&lt;br /&gt;
=== 会津藩（幕末） ===&lt;br /&gt;
* [[陸奥国]]（[[岩代国]]）&lt;br /&gt;
** [[河沼郡]] - 181村（ほか[[天領|幕府領]]67村を預かる）&lt;br /&gt;
** [[会津郡]] - 309村&lt;br /&gt;
** [[大沼郡]] - 57村（ほか幕府領104村を預かる）&lt;br /&gt;
** [[耶麻郡]] - 242村（ほか幕府領68村を預かる）&lt;br /&gt;
** [[安積郡]]のうち - 11村&lt;br /&gt;
* [[下野国]]&lt;br /&gt;
** [[塩谷郡]]のうち - 6村（[[真岡知県事]]に編入）&lt;br /&gt;
* [[越後国]]&lt;br /&gt;
** [[魚沼郡]]のうち157村（ほか幕府領79村を預かる。[[柏崎県]]に編入）&lt;br /&gt;
** [[三島郡 (新潟県)|三島郡]]のうち4村（柏崎県に編入）&lt;br /&gt;
** [[蒲原郡]]のうち221村（一部を[[越後府|新潟県]]、[[村上県]]、[[黒川県]]、[[三日市県]]、[[新発田県]]、[[村松県]]に分割編入）&lt;br /&gt;
** [[岩船郡]]のうち59村（村上県に編入）&lt;br /&gt;
* [[蝦夷地|東蝦夷地]]（[[根室国]]。いずれも[[開拓使]]直轄領に編入）&lt;br /&gt;
** ネモロ場所（[[目梨郡]]）&lt;br /&gt;
** ネモロ場所（[[標津郡]]）&lt;br /&gt;
* [[蝦夷地|西蝦夷地]]（[[北見国]]。いずれも開拓使直轄領に編入）&lt;br /&gt;
** モンベツ場所（[[紋別郡]]）&lt;br /&gt;
** モンベツ場所（[[常呂郡]]）&lt;br /&gt;
** シャリ場所（[[斜里郡]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上記のほか、京都守護職の役知領が[[河内国]][[河内郡 (大阪府)|河内郡]]（8村）、[[讃良郡]]（13村）、[[茨田郡]]（1村）、[[交野郡]]（8村）、[[若江郡]]（6村）、[[和泉国]][[南郡]]（4村）、[[日根郡]]（15村）にあり、河内国内は[[河内県 (日本)|河内県]]、和泉国内は[[堺県]]に編入された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 斗南藩（廃藩時） ===&lt;br /&gt;
* [[陸奥国]]&lt;br /&gt;
** [[二戸郡]] - 16村&lt;br /&gt;
** [[三戸郡]] - 67村&lt;br /&gt;
** [[北郡]] - 48村&lt;br /&gt;
* [[後志国]]&lt;br /&gt;
** [[太櫓郡]]&lt;br /&gt;
** [[瀬棚郡]]&lt;br /&gt;
** [[歌棄郡]]&lt;br /&gt;
* [[胆振国]]&lt;br /&gt;
** [[山越郡]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
=== 注釈 ===&lt;br /&gt;
&amp;lt;references group=&amp;quot;注釈&amp;quot;/&amp;gt;&lt;br /&gt;
=== 引用元 ===&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書|author=[[坂本俊夫]]|title=宇都宮藩・高徳藩|series=シリーズ藩物語|publisher=[[現代書館]]|date=2011年9月|isbn=978-4-7684-7128-9}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書|editor=[[阿部猛]]|others=西村圭子|title=戦国人名事典コンパクト版|publisher=[[新人物往来社]]|date=1990年9月|isbn=4-404-01752-9}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書|author=[[村山和夫]]|title=高田藩|series=シリーズ藩物語|publisher=現代書館|date=2008年3月|isbn=978-4-7684-7112-8}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書|author=[[野口信一]]|title=会津藩|series=シリーズ藩物語|publisher=現代書館|date=2005年6月|isbn=4-7684-7102-1}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書|author=[[糠澤章雄]]|title=二本松藩|series=シリーズ藩物語|publisher=現代書館|date=2010年4月|isbn=978-4-7684-7120-3}}&lt;br /&gt;
*『藩史総覧』 [[児玉幸多]]・[[北島正元]]/監修　[[新人物往来社]]、[[1977年]]&lt;br /&gt;
*『別冊歴史読本㉔ 江戸三百藩 藩主総覧 歴代藩主でたどる藩政史』 新人物往来社、1977年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[白虎隊]]&lt;br /&gt;
*[[玄武隊]]&lt;br /&gt;
*[[朱雀隊]]&lt;br /&gt;
*[[青龍隊]]&lt;br /&gt;
*[[幼少隊]]&lt;br /&gt;
*[[日新館]]&lt;br /&gt;
*[[什 (会津藩)]]&lt;br /&gt;
*[[会津藩の北方警備]]&lt;br /&gt;
*[[溝口派一刀流]]・[[大東流合気柔術]] - 会津藩ゆかりの武術&lt;br /&gt;
*[[若松コロニー]] - [[アメリカ合衆国]]最初の日本人のコロニーだったといわれる場所&lt;br /&gt;
*[[松平保男#稚松会]] - 稚松会は会津藩ゆかりの高等武官の団体&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[[国立公文書館]][http://jpimg.digital.archives.go.jp/kouseisai/index.html デジタル・ギャラリー]「[http://jpimg.digital.archives.go.jp/jpg_prg/jgmWeb?%TmpFileDisp%env=jpeg2k_images/ezu/kuniezu_tenpo/052_mutsu.env 天保国絵図　陸奥国（会津領）]」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{s-start}}&lt;br /&gt;
{{s-bef|before=（[[陸奥国]]）|表記=前}}&lt;br /&gt;
{{s-ttl|title=行政区の変遷|years=[[1590年]] - [[1869年]]&amp;lt;br&amp;gt;|years2=会津藩}}&lt;br /&gt;
{{s-aft|after=[[若松県]]|表記=次}}&lt;br /&gt;
{{s-bef|before=[[盛岡藩]]の一部|表記=前}}&lt;br /&gt;
{{s-ttl|title=行政区の変遷|years=1869年 - [[1871年]]&amp;lt;br&amp;gt;|years2=斗南藩→斗南県}}&lt;br /&gt;
{{s-aft|after=[[青森県]]|表記=次}}&lt;br /&gt;
{{end}}&lt;br /&gt;
{{江戸時代の藩}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:あいつはん}}&lt;br /&gt;
[[Category:会津藩|!]]&lt;br /&gt;
[[Category:藩]]&lt;br /&gt;
[[Category:陸奥国]]&lt;br /&gt;
[[Category:蒲生氏|藩]]&lt;br /&gt;
[[Category:三河加藤氏|藩]]&lt;br /&gt;
[[Category:会津松平氏|藩]]&lt;br /&gt;
[[Category:福島県の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:会津地方]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[en:Aizu#History]]&lt;br /&gt;
[[zh:會津藩#會津藩主的歷史]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
	</entry>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%AF%BF%E5%BA%B5&amp;diff=806</id>
		<title>後藤寿庵</title>
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		<updated>2014-07-18T02:37:26Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Otheruses||日本の漫画家|後藤寿庵 (漫画家)}}&lt;br /&gt;
[[画像:Juan Gotoh&#039;s mausoleum.jpg|thumb|right|200px|後藤寿庵廟堂(岩手県奥州市)]]&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;後藤 寿庵&#039;&#039;&#039;（ごとう じゅあん、[[天正]]5年（[[1577年]]）? - [[寛永]]15年（[[1638年]]）?）は[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]初期の人物。[[キリスト教]]信者（[[キリシタン]]）。[[陸奥国]][[磐井郡]]藤沢城主・岩淵秀信の次男で本名は岩淵又五郎。[[伊達政宗]]の家臣。一説には[[葛西氏]]の旧臣。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
天正年間（[[1573年]]〜[[1591年]]）、[[豊臣秀吉]]によって主家葛西氏と共に滅びる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[慶長]]初年（[[1596年]]）、[[出島|長崎]]に住みキリシタンとなるが、迫害によって[[五島列島]][[宇久島]]に逃れ、ここで洗礼を受け、寿庵と名乗り五島氏に改名する。寿庵とは[[洗礼者ヨハネ]]の意。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
慶長16年（[[1611年]]）、京都の商人[[田中勝介]]と知り合い、その推薦によって、[[支倉常長]]を通じて伊達政宗に仕える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
慶長17年（[[1612年]]）、[[後藤信康]]の義弟として、見分村（[[岩手県]][[奥州市]]水沢区福原）1,200石を給される。寿庵は原野だった見分村を開墾しようと、大規模な用水路を造った。これが「寿庵堰」であり、現在もその跡が残る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[大坂の役|大坂冬の陣・夏の陣]]では、伊達政宗の配下として鉄砲隊の隊長を務めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
寿庵は熱心なキリシタン領主であり、[[天主堂]]・マリア堂などを建てた。家臣らのほとんどが信徒となり、全国から[[宣教師]]や信徒がその地に訪れたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[元和 (日本)|元和]]7年（[[1621年]]）、[[奥羽]]信徒17名の筆頭として署名し、前年の[[パウルス5世 (ローマ教皇)|ローマ教皇パウルス5世]]の教書への返事を送った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[徳川家光]]の代になってキリスト教の禁止が厳しくなり、伊達政宗も取り締まりを命ぜられた。政宗は、有能な家臣である寿庵を惜しみ、布教をしない・宣教師を近づけないことを条件に信仰を許そうとした。しかし寿庵はこの条件を拒み、[[陸奥国|陸奥]][[盛岡藩|南部藩]]に逃亡したとも、[[出羽国|出羽]][[久保田藩|秋田藩]]に渡って果てたとも伝えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[大正]]3年（[[1923年]]）、治水の功により[[従五位]]が贈られた。[[昭和]]6年（[[1931年]]）には彼の館跡に寿庵廟堂が建てられ、毎年[[9月11日]]に寿庵祭が行なわれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
昭和26年（[[1951年]]）、[[宮城県]][[登米市]]（東和町米川西上沢）で後藤寿庵の墓が発見されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 異説 ==&lt;br /&gt;
元和8年（1620年）頃、[[陸奥国|陸奥]][[仙台藩]]領から[[出羽国|出羽]][[久保田藩|秋田藩]]領内[[稲庭]]付近に厳中と名乗る男がやってきた。厳中によりこの地域に、日月崇拝を教義とした（と伝わる）宗教が伝わった。信者らは太陽と月を崇拝し、眼の紋の入った羽織を着用した。元々は畿内が発祥であったとされているが、当時仙北地方から内陸南部にかけて、秋田藩領の鉱夫の間に瞬く間に広がったこの宗教は「&#039;&#039;&#039;大眼宗&#039;&#039;&#039;（大岩宗、大願宗とも）」と呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
秋田藩は大眼宗を、キリスト教と同義であるとして弾圧した。元和8年（1622年）に[[横手城]]の副城代格（搦手城代）であった[[伊達宣宗]]は、領内に住んでいた教祖厳中を横手城三の丸の屋敷に招き、捕縛した。教祖捕縛の報を受けた信者百人以上が屋敷に押しかけ、役人らの乱闘の末に教祖を奪い返されてしまい、そのまま教祖は逐電した。[[妹尾兼忠]]らが活躍し一揆は鎮圧され、藩主・[[佐竹義宣 (右京大夫)|佐竹義宣]]は宗徒らを処断しない方針であったが、横手城代の[[須田盛秀]]は宗徒を数十人、磔にしている。&lt;br /&gt;
また、教祖捕縛の失敗の責任を取り、宣宗は秋田藩を致仕し、江戸に移り住んで逼塞した。藩は数年後に佐竹南家出身の妻を持つ彼を呼びしたが、以降領内にやはり逼塞した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この大眼宗一揆の主導者（教祖）の厳中が、寿庵と同一人物である、とする説がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
キリスト教と同一視されたこと、また、当時の鉱山とキリスト教（南蛮技術）との関連もあり、興味深い説ではあるが、厳中と寿庵は同一人物である、ないしは寿庵がこの宗派に何らかの関わりを持っていた、とする確実な史料的裏付けはない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[日本のキリシタン一覧]]&lt;br /&gt;
* [[横澤吉久|横澤将監]]&lt;br /&gt;
* [[将監堤]]&lt;br /&gt;
* [[大籠キリシタン殉教公園]]&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ことう しゆあん}}&lt;br /&gt;
[[Category:戦国武将]]&lt;br /&gt;
[[Category:仙台藩士]]&lt;br /&gt;
[[Category:キリシタン]]&lt;br /&gt;
[[Category:1577年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1638年没]]&lt;br /&gt;
{{people-stub}}&lt;br /&gt;
{{Japanese-history-stub}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%AE%B6&amp;diff=96147</id>
		<title>三条家</title>
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		<updated>2014-07-17T09:15:33Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: /* 歴史 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{日本の氏族&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- |家紋= 家紋の画像 --&amp;gt;&lt;br /&gt;
|家名=三条家&lt;br /&gt;
|家紋名称=唐菱花（三条花角、三条家花角）&lt;br /&gt;
|本姓=[[藤原北家]][[閑院流]][[嫡流]]&lt;br /&gt;
|家祖=[[三条実行]]&lt;br /&gt;
|種別=[[公家]]（[[清華家]]）&amp;lt;br/&amp;gt;[[華族]]（[[公爵]]）&lt;br /&gt;
|出身地=[[山城国]]&lt;br /&gt;
|根拠地=[[山城国]]&lt;br /&gt;
|人物=[[三条実房]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[三条公頼]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[三条実万]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[三条実美]]&lt;br /&gt;
|支流=[[正親町三条家]]（[[大臣家]]）&amp;lt;br/&amp;gt;[[三条西家]]（[[大臣家]]）&amp;lt;br/&amp;gt;[[滋野井家]]（[[羽林家]]）&amp;lt;br/&amp;gt;[[姉小路家]]（[[羽林家]]）&amp;lt;br/&amp;gt;[[花園家]]（[[羽林家]]）&amp;lt;br/&amp;gt;[[鹿園家]]（[[奈良華族]]）&amp;lt;br/&amp;gt;[[東三条家]]（[[華族]]（[[男爵]]））&amp;lt;br/&amp;gt;[[宇喜多氏]]（[[武家]]）&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;三条&#039;&#039;&#039;（さんじょう、正字体：三條）家は、[[藤原氏]][[藤原北家|北家]][[閑院流]]の[[嫡流]]にあたる[[日本]]の[[公家]]。公家としての家格は[[清華家]]。明治にいたって華族として[[公爵]]を授けられた。家業は笛と[[香道]]。家紋は[[唐菱花]]（三条花角、三条家花角とも言う）を使用。[[通字]]は『&#039;&#039;&#039;公&#039;&#039;&#039;』と『&#039;&#039;&#039;実&#039;&#039;&#039;』を交互に用いる。分家ではあるが、家号を略して単に「三条」と称することが多かった[[正親町三条家]]・[[三条西家]]と区別して&#039;&#039;&#039;転法輪三条&#039;&#039;&#039;（てぼりさんじょう）家とも称す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[明治維新]]までに三条家が輩出した[[公卿]]の数は39名。うち[[太政大臣]]まで昇った者が5名、[[左大臣]]まで昇った者が5名、[[右大臣]]まで昇った者が8名、[[内大臣]]まで昇った者が7名となっている。[[大臣家]]の[[正親町三条家]]と[[三条西家]]を筆頭に分流も多くある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==歴史==&lt;br /&gt;
[[閑院流]]は、[[白河天皇|白河院政]]・[[鳥羽天皇|鳥羽院政]]期に[[太上天皇|上皇]]・[[天皇]]の[[外戚]]たる地位をほぼ独占し、外戚として廟堂に重きをなした。[[閑院流]]の[[嫡流]]である[[藤原公実]]の二男[[三条実行|実行]]を祖とするのが三条家である。実行は、三条の他、八条とも称したが、子の[[三条公教|公教]]、孫の[[三条実房|実房]]の[[嫡流]]が京都三条の北、高倉に邸を構えたことから、家名が定まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２代[[三条公教|公教]]は[[鳥羽天皇|鳥羽上皇]]の後見役として権勢をふるった。3代[[三条実房|実房]]は「[[愚昧記]]」の著者として知られ、公事の師と仰がれていた。実房の後、[[嫡流]]は[[長男]]の[[三条公房|公房]]が継ぎ三条を称したが、三男の[[正親町三条公氏|公氏]]も三条を称したため、嫡流を&#039;&#039;&#039;転法輪三条&#039;&#039;&#039;（てぼりさんじょう）、公氏の流を正親町三条（おおぎまちさんじょう）と呼び区別するようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の当主[[三条公頼]]は山口の[[戦国大名]][[大内義隆]]の元に滞在中、義隆家臣の[[陶晴賢]]の反乱に巻き込まれ、殺害されている。公頼の跡を継いだ[[三条実教|実教]]も早世し、後継者を失った転法輪三条家は一時断絶を余儀なくされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[江戸時代]]の家禄ははじめ269石余、のちに469石余。代々、[[笛]]と装束の調達を家業とした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[幕末]]にいたって、[[孝明天皇]]の側近として活躍した[[三条実万]]を輩出する。実万は天皇の攘夷主義の実現をめざして奔走したが、[[安政の大獄]]で処罰され、復権できないまま死去している。実万の子息[[三条実美|実美]]は、孝明天皇に触発されて尊王攘夷運動に加わったが、やがて長州藩の軍事力を背景に天皇の統制にも従わない過激な行動に走って権力をほしいままにした。ついには[[薩摩藩]]・[[会津藩]]のクーデタにより失脚し、京を追われて長州に亡命することになった。[[明治維新]]で長州藩が政権を掌握したことにより復権し、新政府では長く首相に相当する地位を勤めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1884年]]の[[華族令]]の施行に当たり、旧[[清華家]]の当主たちはいずれも[[侯爵]]とされたが、三条家のみは、当主[[三条実美|実美]]が維新に勲功があったとして、特に[[公爵]]とされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br clear=&amp;quot;both&amp;quot; /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴代当主 ==&lt;br /&gt;
# [[三条実行]]&lt;br /&gt;
# [[三条公教]]&lt;br /&gt;
# [[三条実房]]&lt;br /&gt;
# [[三条公房]]&lt;br /&gt;
# [[三条実親]]&lt;br /&gt;
# [[三条公親]]&lt;br /&gt;
# [[三条実重]]&lt;br /&gt;
# [[三条公茂]]&lt;br /&gt;
# [[三条実忠]]&lt;br /&gt;
# [[三条公忠]]&lt;br /&gt;
# [[三条実冬]]&lt;br /&gt;
# [[三条公量]]&lt;br /&gt;
# [[三条実量]]&lt;br /&gt;
# [[三条公敦]]&lt;br /&gt;
# [[三条実香]]&lt;br /&gt;
# [[三条公頼]]&lt;br /&gt;
# [[三条実教]]&lt;br /&gt;
# [[三条実綱]]&lt;br /&gt;
# [[三条公広]]&lt;br /&gt;
# [[三条実秀]]&lt;br /&gt;
# [[三条公富]]&lt;br /&gt;
# [[三条実治]]&lt;br /&gt;
# [[三条公兼]]&lt;br /&gt;
# [[三条公充]]&lt;br /&gt;
# [[三条実顕]]&lt;br /&gt;
# [[三条季晴]]&lt;br /&gt;
# [[三条実起]]&lt;br /&gt;
# [[三条公修]]&lt;br /&gt;
# [[三条実万]]&lt;br /&gt;
# [[三条公睦]]&lt;br /&gt;
# [[三条実美]]&lt;br /&gt;
# [[三条公美]]&lt;br /&gt;
# [[三条実憲]]&lt;br /&gt;
# [[三条公輝]]&lt;br /&gt;
# [[三条実春]]&lt;br /&gt;
# [[三条公隆]]&lt;br /&gt;
# [[三条実久]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==系譜==&lt;br /&gt;
 &#039;&#039;&#039;凡例&#039;&#039;&#039;　当主は太字、実線は実子、点線は養子。&amp;lt;!--構成の都合で出生順より組み替え--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{familytree/start|style=&amp;quot;font-size:120%&amp;quot;}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0|01||||| 01=[[藤原公実]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| |!||||||}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0|01||||| 01=&#039;&#039;&#039;[[三条実行]]&amp;lt;sup&amp;gt;1&amp;lt;/sup&amp;gt;&#039;&#039;&#039;}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| |)|-|-|.|||}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0|01|02|||| 01=&#039;&#039;&#039;[[三条公教|公教]]&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt;&#039;&#039;&#039;|02=[[三条公行|公行]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| |)|-|-|v|-|-|.|||}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0|01|02|03||| 01=実綱|02=[[滋野井実国]]|03=&#039;&#039;&#039;[[三条実房|実房]]&amp;lt;sup&amp;gt;3&amp;lt;/sup&amp;gt;&#039;&#039;&#039;|}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| |,|-|-|v|-|-|+|-|-|v|-|-|.}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0|01|02|03|04|05| 01=&#039;&#039;&#039;[[三条公房|公房]]&amp;lt;sup&amp;gt;4&amp;lt;/sup&amp;gt;&#039;&#039;&#039;|02=[[姉小路公宣]]|03=[[正親町三条公氏]]|04=公兼|05=公俊}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| |)|-|-|.}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0|01|02|| 01=&#039;&#039;&#039;[[三条実親|実親]]&amp;lt;sup&amp;gt;5&amp;lt;/sup&amp;gt;&#039;&#039;&#039;|02=実平}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| |)|-|-|.}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0|01|02|| 01=&#039;&#039;&#039;[[三条公親|公親]]&amp;lt;sup&amp;gt;6&amp;lt;/sup&amp;gt;&#039;&#039;&#039;|02=[[三条公泰|公泰]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| |!|}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0|01||| 01=&#039;&#039;&#039;[[三条実重|実重]]&amp;lt;sup&amp;gt;7&amp;lt;/sup&amp;gt;&#039;&#039;&#039;|02=実盛}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| |)|-|-|.|}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0|01|02|| 01=&#039;&#039;&#039;[[三条公茂|公茂]]&amp;lt;sup&amp;gt;8&amp;lt;/sup&amp;gt;&#039;&#039;&#039;|02=&#039;&#039;&#039;[[三条実忠|実忠]]&#039;&#039;&#039;&amp;lt;sup&amp;gt;9&amp;lt;/sup&amp;gt;}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| ||||!|}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0||||01|| 01=&#039;&#039;&#039;[[三条公忠|公忠]]&amp;lt;sup&amp;gt;10&amp;lt;/sup&amp;gt;&#039;&#039;&#039;}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| ||||!|}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0||||01|| 01=&#039;&#039;&#039;[[三条実冬|実冬]]&amp;lt;sup&amp;gt;11&amp;lt;/sup&amp;gt;&#039;&#039;&#039;}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| |,|-|-|(|}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0|01|02| 01=公宣|02=&#039;&#039;&#039;[[三条公量|公量]]&amp;lt;sup&amp;gt;12&amp;lt;/sup&amp;gt;&#039;&#039;&#039;}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| |,|-|-|(|}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0|01|02| 01=&#039;&#039;&#039;[[三条実量|実量]]&amp;lt;sup&amp;gt;13&amp;lt;/sup&amp;gt;&#039;&#039;&#039;|02=水無瀬季兼}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| |)|-|-|.|}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0|01|02| 01=&#039;&#039;&#039;[[三条公敦|公敦]]&amp;lt;sup&amp;gt;14&amp;lt;/sup&amp;gt;&#039;&#039;&#039;|02=[[大炊御門信量]]}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| |!|}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0|01|| 01=&#039;&#039;&#039;[[三条実香|実香]]&amp;lt;sup&amp;gt;15&amp;lt;/sup&amp;gt;&#039;&#039;&#039;|}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| |!|}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0|01|| 01=&#039;&#039;&#039;[[三条公頼|公頼]]&amp;lt;sup&amp;gt;16&amp;lt;/sup&amp;gt;&#039;&#039;&#039;|}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| |D|~|~|V|-|-|.}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0|01|02|03| 01=&#039;&#039;&#039;[[三条実教|実教]]&amp;lt;sup&amp;gt;17&amp;lt;/sup&amp;gt;&#039;&#039;&#039;&amp;lt;ref&amp;gt;[[正親町三条公兄]]の子。歴代に数えないこともある。&amp;lt;/ref&amp;gt;|02=&#039;&#039;&#039;[[三条実綱|実綱]]&amp;lt;sup&amp;gt;18&amp;lt;/sup&amp;gt;&#039;&#039;&#039;&amp;lt;ref&amp;gt;[[三条西実枝]]の子。&amp;lt;/ref&amp;gt;|03=[[三条の方]]&amp;lt;ref&amp;gt;[[武田晴信|武田信玄]]の継室。&amp;lt;/ref&amp;gt;}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0|||||:|||}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0||||01||| 01=&#039;&#039;&#039;[[三条公広|公広]]&amp;lt;sup&amp;gt;19&amp;lt;/sup&amp;gt;&#039;&#039;&#039;&amp;lt;ref&amp;gt;[[三条西公国]]の子、[[三条実綱|実綱]]の甥。&amp;lt;/ref&amp;gt;|}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| ||||!|||}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0||||01||| 01=&#039;&#039;&#039;[[三条実秀|実秀]]&amp;lt;sup&amp;gt;20&amp;lt;/sup&amp;gt;&#039;&#039;&#039;|}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| ||||!|||}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0||||01||| 01=&#039;&#039;&#039;[[三条公富|公富]]&amp;lt;sup&amp;gt;21&amp;lt;/sup&amp;gt;&#039;&#039;&#039;|}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| ||||!|||}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0||||01||| 01=&#039;&#039;&#039;[[三条実治|実治]]&amp;lt;sup&amp;gt;22&amp;lt;/sup&amp;gt;&#039;&#039;&#039;|}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| ||||)|-|-|.}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0||||01|02|| 01=&#039;&#039;&#039;[[三条公兼|公兼]]&amp;lt;sup&amp;gt;23&amp;lt;/sup&amp;gt;&#039;&#039;&#039;|02=&#039;&#039;&#039;[[三条公充|公充]]&amp;lt;sup&amp;gt;24&amp;lt;/sup&amp;gt;&#039;&#039;&#039;}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| ||||!|||:}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0||||01|02|| 01=[[三条実顕|実顕]]|02=&#039;&#039;&#039;[[三条実顕|実顕]]&amp;lt;sup&amp;gt;25&amp;lt;/sup&amp;gt;&#039;&#039;&#039;}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| ||||,|-|-|(}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0||||01|02|| 01=&#039;&#039;&#039;[[三条季晴|季晴]]&amp;lt;sup&amp;gt;26&amp;lt;/sup&amp;gt;&#039;&#039;&#039;|02=河鰭実祐}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| ||||)|-|-|.}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0||||01|02|| 01=&#039;&#039;&#039;[[三条実起|実起]]&amp;lt;sup&amp;gt;27&amp;lt;/sup&amp;gt;&#039;&#039;&#039;|02=武者小路実純}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| ||||)|-|-|v|-|-|-|-|-|-|-|.}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0||||01|02|||||||03| 01=&#039;&#039;&#039;[[三条公修|公修]]&amp;lt;sup&amp;gt;28&amp;lt;/sup&amp;gt;&#039;&#039;&#039;|02=押小路実茂|03=空晁}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| ||||)|-|-|.||||||||:}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0||||01|02|||||||03| 01=&#039;&#039;&#039;[[三条実万|実万]]&amp;lt;sup&amp;gt;29&amp;lt;/sup&amp;gt;&#039;&#039;&#039;|02=実師|03=鹿園実博&amp;lt;ref&amp;gt;[[下総国|下総]][[曾我野藩|曾我野藩主]]・[[戸田忠綱]]の子。&amp;lt;/ref&amp;gt;}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| |,|-|-|+|-|-|.||||||||:}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0|01|02|03|||||||04| 01=&#039;&#039;&#039;[[三条公睦|公睦]]&amp;lt;sup&amp;gt;30&amp;lt;/sup&amp;gt;&#039;&#039;&#039;|02=&#039;&#039;&#039;[[三条実美|実美]]&amp;lt;sup&amp;gt;31&amp;lt;/sup&amp;gt;&#039;&#039;&#039;|03=[[河鰭実文]]|04=博仲&amp;lt;ref&amp;gt;伯爵・[[林博太郎]]の子。&amp;lt;/ref&amp;gt;}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| |!|||D|-|-|v|-|-|v|-|-|.||:}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0|01|01|02|03|04|05| 01=東三条公恭|02=&#039;&#039;&#039;[[三条公美|公美]]&amp;lt;sup&amp;gt;32&amp;lt;/sup&amp;gt;&#039;&#039;&#039;|03=[[三条公輝|公輝]]|04=河鰭実英|05=直治&amp;lt;ref&amp;gt;[[陸奥国|陸奥]][[盛岡藩|盛岡藩主]]・[[南部利克]]の子。&amp;lt;/ref&amp;gt;}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| ||||!|||!||||||||!}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| |||01|02|||||||03| 01=実敏|02=&#039;&#039;&#039;[[三条実憲|実憲]]&amp;lt;sup&amp;gt;33&amp;lt;/sup&amp;gt;&#039;&#039;&#039;|03=直基}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| ||||!|||:}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| |||01|02|| 01=公博|02=&#039;&#039;&#039;[[三条公輝|公輝]]&amp;lt;sup&amp;gt;34&amp;lt;/sup&amp;gt;&#039;&#039;&#039;|}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| |||||||!}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0|||||||01|| 01=&#039;&#039;&#039;[[三条実春|実春]]&amp;lt;sup&amp;gt;35&amp;lt;/sup&amp;gt;&#039;&#039;&#039;|}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| |||||||!}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0|||||||01|| 01=&#039;&#039;&#039;[[三条公隆|公隆]]&amp;lt;sup&amp;gt;36&amp;lt;/sup&amp;gt;&#039;&#039;&#039;|}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0| |||||||!}}&lt;br /&gt;
{{familytree |border=0|||||||01|| 01=&#039;&#039;&#039;[[三条実久|実久]]&amp;lt;sup&amp;gt;37&amp;lt;/sup&amp;gt;&#039;&#039;&#039;|}}&lt;br /&gt;
{{familytree/end}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--系譜参考&lt;br /&gt;
*[http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02010.htm#001 日本の名字七千傑]&lt;br /&gt;
*[http://www.geocities.jp/okugesan_com/sanjyo.htm 公卿類別譜]&lt;br /&gt;
*[http://reichsarchiv.jp/house/家系リスト/三条（三條）家（清華家） 世界帝王事典]--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[藤原氏]]&lt;br /&gt;
* [[藤原北家]]&lt;br /&gt;
* [[閑院流]]&lt;br /&gt;
* [[西園寺家]]&lt;br /&gt;
* [[徳大寺家]]&lt;br /&gt;
* [[正親町三条家]]&lt;br /&gt;
* [[三条西家]]&lt;br /&gt;
* [[滋野井家]]&lt;br /&gt;
* [[姉小路家]]&lt;br /&gt;
* [[花園家]]&lt;br /&gt;
* [[清華家]]&lt;br /&gt;
* [[宇喜多氏]]&lt;br /&gt;
* [[二尊院]]（&#039;&#039;&#039;三条家&#039;&#039;&#039;の菩提所）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{三条家}}&lt;br /&gt;
{{堂上家一覧}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:さんしようけ}}&lt;br /&gt;
{{Japanese-history-stub|さんしようけ}}&lt;br /&gt;
[[Category:三条家|*]]&lt;br /&gt;
[[category:日本貴族の家系]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E5%B1%B1%E5%86%85%E5%BF%A0%E8%B1%8A&amp;diff=155706</id>
		<title>山内忠豊</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E5%B1%B1%E5%86%85%E5%BF%A0%E8%B1%8A&amp;diff=155706"/>
		<updated>2014-07-17T00:11:26Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{出典の明記|date=2011年3月}}&lt;br /&gt;
{{基礎情報 武士&lt;br /&gt;
| 氏名 = 山内忠豊&lt;br /&gt;
| 画像 = Yamauchi Tadatoyo.JPG&lt;br /&gt;
| 画像サイズ = 200px&lt;br /&gt;
| 画像説明 = 山内忠豊像(土佐山内家宝物資料館蔵)&lt;br /&gt;
| 時代 = [[江戸時代]]前期&lt;br /&gt;
| 生誕 = [[慶長]]14年[[10月29日 (旧暦)|10月29日]]（[[1609年]][[11月25日]]）&lt;br /&gt;
|死没  = [[寛文]]9年[[8月5日 (旧暦)|8月5日]]（[[1669年]][[8月31日]]）&lt;br /&gt;
| 別名 = 国松（幼名）、伊（猪）右衛門（通称）&lt;br /&gt;
| 戒名 = 徳昌院傑山京英&lt;br /&gt;
| 官位 = [[従四位|従四位下]]、[[侍従]]兼[[対馬国|対馬]]守&lt;br /&gt;
| 藩= [[土佐国|土佐]][[土佐藩|高知藩]]主&lt;br /&gt;
| 氏族 = [[土佐山内氏|山内氏]]&lt;br /&gt;
| 父母 = 父：[[山内忠義]]&amp;lt;br /&amp;gt;母：久松[[松平定勝]]の娘・[[阿姫]]&amp;lt;br /&amp;gt;（光照院、[[徳川家康]]養女）&lt;br /&gt;
| 兄弟 = &#039;&#039;&#039;山内忠豊&#039;&#039;&#039;、[[山内忠直]]、[[山内一安]]、[[山内之豊]]&lt;br /&gt;
| 妻   = 正室：[[池田利隆]]の娘・長光院&lt;br /&gt;
| 子   =1 男5女：[[山内豊昌]]（長男）、&amp;lt;br /&amp;gt;フウ（[[本多政長]]正室）、松（[[真田信利]]正室）、&amp;lt;br /&amp;gt;椎（[[山内一輝]]室）&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;山内 忠豊&#039;&#039;&#039;（やまうち ただとよ）は、[[江戸時代]]前期の[[大名]]。[[土佐国|土佐]][[土佐藩|高知藩]]の第3代藩主。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
慶長14年（1609年）10月29日、第2代藩主・[[山内忠義]]の長男として生まれる。通称は伊（猪）右衛門。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[明暦]]2年（[[1656年]]）7月3日、父の忠義が中風を患って隠居したため、その後を継いで藩主となった。忠豊は父の命に従って引き続き[[野中兼山]]を登用し、[[伊予国|伊予]][[宇和島藩]]との境界線をめぐる争いにも決着をつけた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ところが、忠豊は兼山のことをあまり快く思っていなかった。そのため、父が重病に倒れた頃から兼山の改革に対する反対派である[[生駒木工]]らと結託して兼山を弾劾したのである。そしてさらに叔父の[[伊予松山藩]]主・[[松平定行]]の助けを受けて、寛文3年（[[1663年]]）7月に兼山を失脚させてしまったのである。これを、「寛文の改替」という。ちなみに兼山は、わずか3ヵ月後の10月、失意のうちに49歳で病死した。父の忠義も翌年に亡くなり、忠豊はいよいよ自らが政治を行なうようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしわずか5年後の寛文9年（1669年）6月15日、長男・[[山内豊昌]]に家督を譲って[[隠居]]し、直後の8月5日に死去。享年61。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
墓所は[[高知県]][[高知市]]天神町の真如寺。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{土佐藩主|3代|1656年 - 1669年}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:やまうち たたとよ}}&lt;br /&gt;
[[Category:土佐藩主|たたとよ]]&lt;br /&gt;
[[Category:土佐山内氏|たたとよ]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の神 (人物神 江戸時代大名)]]&lt;br /&gt;
[[Category:1609年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1669年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
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		<title>白岩焼</title>
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		<updated>2014-07-16T23:14:55Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: /* 歴史 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;白岩焼&#039;&#039;&#039;（しらいわやき）は、[[秋田県]][[仙北市]]角館町白岩で焼かれる陶器。県内最古の窯元であり、重ね掛けされた褐色の鉄釉と、青みの強い藁灰釉（海鼠釉）の対比に特徴がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
白岩焼の陶祖は江戸時代の[[陸奥国|陸奥]][[相馬中村藩]]浪人&#039;&#039;&#039;松本運七&#039;&#039;&#039;である。運七は[[大堀相馬焼]]の関係者であり、[[出羽国|出羽]][[久保田藩|秋田藩]]によって鉱山の陶製ルツボ製作のために招聘された技術者であった。藩の仕事のかたわら開窯を志すも、諸事情でうまくいかず適地を求めるうちに秋田藩の支藩・[[角館]]の東、白岩に良質の陶土を発見する。角館に仕える武士らの協力を得て、[[1771年]]（明和8年）秋田藩初の窯元として開窯した。運七のもとには白岩の住人である、山手儀三郎、千葉伝九郎、多郎助、菅原助左衛門の4人の弟子が集まった。白岩焼を地場産業として庇護するとともに技術の流出を防ぎたいという秋田藩の意向により、「陶技については親子のあいだでさえ他言無用」の誓約書を交わしたうえでの弟子入りであった。とくに一番弟子であった山手儀三郎はのちに京都に上り、上絵、[[楽焼]]などの技術を持ち帰り、その後の白岩焼発展の基礎を作った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
需要の増大ととともに、最盛期には6つの窯に5千人の働き手を抱える一大窯業地となり、窯の集まる山の斜面地域は白岩瀬戸山と呼ばれた。白岩焼は製品の多種多様さに特徴があり、秋田藩主や角館城主の注文による献上品、庶民の生活日用品、特産品であった濁酒（どぶろく）の保存容器のスズ（長頸の壷）やカメなど、御用窯と民窯を兼ねた生産体制であった。また、白岩焼の作品には、陶工の個人名を示す刻印が刻まれたものがあり、江戸期には珍しい、個人作家として自負の萌芽が見られる。それらの陶工のなかには、藩内の他所で独立して窯をもつものが現れ、菅沢焼、寺内焼、大神成窯、栗沢焼など、その後の秋田藩の[[窯業]]に与えた影響は大きい。しかし、幕末から明治にいたる時代の動乱と[[廃藩置県]]で藩の庇護を失ったこと、藩外からのやきものの流入による競争の激化により、衰退期を迎える。廃窯する窯が続く中、[[1896年]]（明治29年）の[[陸羽地震|真昼山地震]]によりすべての窯が壊滅状態となり、わずかに復興した窯も[[1900年]]（明治33年）、窯の火を消した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 現代の白岩焼 ==&lt;br /&gt;
白岩焼の復興の機運が訪れたのは、およそ70年後の昭和時代に入ってからである。江戸期の窯元のひとり、渡邊勘左衛門の末裔であった&#039;&#039;&#039;渡邊すなお&#039;&#039;&#039;（1953‐）は大学在学中から、白岩焼の築窯を志していた。折から角館は白岩焼とともに桜の皮を用いる木工芸・[[樺細工]]でも知られており、そのふたつの県産品を訪ねて[[民芸運動]]の提唱者・[[柳宗悦]]（1889‐1961）と陶芸家であり人間国宝の[[浜田庄司]]（1894‐1978）がたびたび同地を訪ねていた。1974年（昭和49）当時の秋田県知事[[小畑勇二郎]]の依頼により[[浜田庄司]]が、白岩の土の陶土適正の検査を行う。陶土としての質の良さが判明し、助言を受けた渡辺すなおは翌[[1975年]]（昭和50年）白岩に&#039;&#039;&#039;和兵衛窯&#039;&#039;&#039;を築窯、白岩焼復興を果たす。その後、すなおは大学で同じ研究室に学んだ渡邊敏明（1950‐）と結婚、[[1993年]]（平成5年）には敏明による四室の[[登り窯|登窯]]が完成し、現在にいたる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 白岩焼所蔵施設 ==&lt;br /&gt;
* 仙北市立角館樺細工伝承館（[[秋田県]][[仙北市]]角館町表町下丁）&lt;br /&gt;
* [[日本民藝館]]（[[東京都]][[目黒区]][[駒場 (目黒区)|駒場]]）&lt;br /&gt;
* 東北陶磁文化館（[[宮城県]][[加美町]]裏）&lt;br /&gt;
* [[秋田ふるさと村]]（秋田県[[横手市]]赤坂）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 渡邊爲吉著『白岩瀬戸山』（復刻版）満留善&lt;br /&gt;
* 小野正人著『北国　秋田・山形　の陶磁』[[雄山閣]]&lt;br /&gt;
* デヴィッド・ヘイル著『東北のやきもの』雄山閣&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.waheegama.com/ 白岩焼和兵衛窯]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しらいわやき}}&lt;br /&gt;
[[category:日本の陶芸]]&lt;br /&gt;
[[category:仙北市]]&lt;br /&gt;
[[Category:久保田藩]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E7%9B%B8%E9%A6%AC%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E7%9B%B8%E9%A6%AC%E5%B8%82)&amp;diff=138756</id>
		<title>相馬神社 (相馬市)</title>
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		<updated>2014-07-16T23:13:05Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: /* 概要 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{神社|&lt;br /&gt;
名称=相馬神社|&lt;br /&gt;
所在地= 福島県相馬市中村字北町101|&lt;br /&gt;
位置={{ウィキ座標2段度分秒|37|47|53.7|N|140|54|52.2|E|scale:20000}}|&lt;br /&gt;
祭神=相馬師常、天之御中主大神、平将門|&lt;br /&gt;
創建=明治13年（1880年）|&lt;br /&gt;
社格=県社|&lt;br /&gt;
例祭=御神楽大会（10月第1日曜日）|&lt;br /&gt;
本殿=|&lt;br /&gt;
画像=[[File:Soma Shrine.JPG|250px]]&amp;lt;br /&amp;gt;拝殿([[2011年]][[1月7日]])}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;相馬神社&#039;&#039;&#039;（そうまじんじゃ）は[[相馬中村城]]跡に奉られた[[福島県]][[相馬市]]にある[[神社]]。[[近代社格制度|旧社格]]は県社。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
祭神として[[妙見菩薩]]こと[[天之御中主大神]]（あめのみなかぬしのおおかみ）と[[相馬氏]]の[[氏神]]である[[平将門]]が[[勧請]]されている。&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
相馬家の始祖[[相馬師常|師常]]を祭神として[[1880年|明治13年（1880年）]]に建立された。[[馬陵公園]]（中村城址）には相馬家の氏神としての&#039;&#039;&#039;妙見中村神社&#039;&#039;&#039;と&#039;&#039;&#039;相馬神社&#039;&#039;&#039;の2社がある。妙見中村神社は[[相馬中村神社]]ともよばれるため相馬神社と混同されるが別物である。相馬家は[[相馬中村藩]]領内に居城した[[原町市|原町]]、[[小高町|小高]]にもそれぞれ妙見太田神社と妙見小高神社を建立したものが現在も残っており、一般的には&#039;&#039;&#039;中村神社&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;太田神社&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;小高神社&#039;&#039;&#039;と表現される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[神社一覧]]&lt;br /&gt;
*[[相馬野馬追]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.somanakamurajinjya.or.jp/ 相馬中村神社ホームページ]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{shinto-stub}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:そうましんしや}}&lt;br /&gt;
[[Category:福島県の神社]]&lt;br /&gt;
[[Category:福島県の旧県社]]&lt;br /&gt;
[[Category:相馬市の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:相馬氏|社]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
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		<title>原町市</title>
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		<updated>2014-07-16T05:46:53Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: /* 概要 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{日本の市 (廃止)|&lt;br /&gt;
廃止日=2006年1月1日|&lt;br /&gt;
廃止理由=新設合併|&lt;br /&gt;
廃止詳細=&#039;&#039;&#039;原町市&#039;&#039;&#039;、[[鹿島町 (福島県)|鹿島町]]、[[小高町]]→[[南相馬市]]|&lt;br /&gt;
現在の自治体=[[南相馬市]]|&lt;br /&gt;
自治体名=原町市|&lt;br /&gt;
都道府県=福島県|&lt;br /&gt;
支庁=|&lt;br /&gt;
コード=07206-1|&lt;br /&gt;
面積=198.49|&lt;br /&gt;
境界未定=なし|&lt;br /&gt;
人口=47,458|&lt;br /&gt;
人口の時点=2006年1月1日|&lt;br /&gt;
人口の出典=[[推計人口]]|&lt;br /&gt;
花=[[ユリ|白ユリ]]|&lt;br /&gt;
木=[[ケヤキ]]|&lt;br /&gt;
シンボル名=市の鳥|&lt;br /&gt;
鳥など=[[ヒバリ]]|&lt;br /&gt;
隣接自治体=[[相馬郡]][[小高町]]、[[鹿島町 (福島県)|鹿島町]]、[[飯舘村]]&amp;lt;br&amp;gt;[[双葉郡]][[浪江町]]|&lt;br /&gt;
郵便番号=975-8686|&lt;br /&gt;
所在地=原町市本町2丁目27番地|&lt;br /&gt;
外部リンク=[http://web.archive.org/web/*/http://www.city.haramachi.fukushima.jp/ 原町市] ([[Internet Archive]]) |&lt;br /&gt;
座標={{ウィキ座標2段度分秒|37|38|30.5|N|140|57|25.8|E|}}|&lt;br /&gt;
位置画像=[[ファイル:Map.Haramachi-City.Fukushima.PNG|300px|原町市の県内位置図]]|&lt;br /&gt;
特記事項=|&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;原町市&#039;&#039;&#039;（はらまちし）は、[[太平洋]]に面し、[[福島県]][[浜通り]]の北部に存在していた[[市]]である。市の玄関口であった[[原ノ町駅]]の駅名の読みは「はらのまち」だが、市名は「はらまち」となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2006年]]（平成18年）に[[相馬郡]][[鹿島町 (福島県)|鹿島町]]および[[小高町]]と[[日本の市町村の廃置分合|合併]]し、[[南相馬市]]となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[江戸時代]]には、[[相馬中村藩]]の陣屋が置かれていた。[[相馬市]]を初めとする[[浜通り]]北部で行われる[[相馬野馬追]]では、雲雀ヶ原（二日目メイン会場）と[[太田神社]]の二箇所を抱える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
南の[[いわき市]][[平市|平]]と、北の[[仙台市]]の中間（両市まで75km）に位置する。このため、浜通り北部の中心地はかつては相馬市だったが、後に原町市に中心地が移るようになった。[[地方紙]]の[[福島民報]]・[[福島民友]]の2紙ともに、支社を置いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 地理 ==&lt;br /&gt;
* 河川：新田川、太田川&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
* [[1889年]]（[[明治]]22年） - 町村制施行により、[[行方郡 (福島県)|行方郡]]原町村、太田村、高平村、大甕村、石神村の5村が成立する。&lt;br /&gt;
* [[1896年]]（明治29年） - 行方郡が[[宇多郡]]と合併し、[[相馬郡]]となる。&lt;br /&gt;
* [[1897年]]（明治30年） - 町制施行により、原町村が&#039;&#039;&#039;[[原町 (福島県)|原町]]&#039;&#039;&#039;となる。&lt;br /&gt;
* [[1921年]]（[[大正]]10年） - 磐城無線電信局原町送信所が設置される。この送信所は、[[1923年]]には、[[関東大震災]]の第一報を世界中に打電した。&lt;br /&gt;
* [[1954年]]（[[昭和]]29年） - 原町、[[太田村 (福島県相馬郡)|太田村]]、[[大甕村]]、[[高平村 (福島県)|高平村]]の1町3村が合併・市制施行し、&#039;&#039;&#039;原町市&#039;&#039;&#039;となる。&lt;br /&gt;
* [[1956年]]（昭和31年） - 相馬郡[[石神村 (福島県)|石神村]]を編入する。&lt;br /&gt;
* [[2006年]]（[[平成]]18年） - 相馬郡[[鹿島町 (福島県)|鹿島町]]、[[小高町]]と合併し、[[南相馬市]]となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 行政 ==&lt;br /&gt;
* 原町村長&lt;br /&gt;
** [[1889年]]（明治22年）原町村初代村長山岡隆剛。&lt;br /&gt;
* 歴代原町市長&lt;br /&gt;
** 初代 - 青田栄（[[1954年]]-1958年）&lt;br /&gt;
** 2代 - 渡辺敏（[[1958年]]-1962年）&lt;br /&gt;
** 3-5代 - 山田貢（[[1962年]]-1974年）&lt;br /&gt;
** 6-7代 - 渡辺敏（[[1974年]]-1982年）&lt;br /&gt;
** 8-11代 - 門馬直孝（[[1982年]]-1998年）&lt;br /&gt;
** 12代 - 鈴木寛林（[[1998年]]-2002年）&lt;br /&gt;
** 13代 - 渡辺一成（[[2002年]]-[[2006年]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経済 ==&lt;br /&gt;
=== 産業 ===&lt;br /&gt;
* 主な産業&lt;br /&gt;
* 産業人口（2000年国勢調査）&lt;br /&gt;
** 第一次産業就業人口　1,599人&lt;br /&gt;
** 第二次産業就業人口　8,994人&lt;br /&gt;
** 第三次産業就業人口　11,291人&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 姉妹都市・提携都市 ==&lt;br /&gt;
* {{Flagicon|USA}} [[ペンドルトン市]]（[[アメリカ合衆国]][[オレゴン州]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 教育 ==&lt;br /&gt;
; [[高等学校]]&lt;br /&gt;
: [[福島県立原町高等学校|原町高等学校]]&lt;br /&gt;
: [[福島県立相馬農業高等学校|相馬農業高等学校]]&lt;br /&gt;
: [[松栄高等学校]]&lt;br /&gt;
; [[中学校]]&lt;br /&gt;
: 原町第一中学校&lt;br /&gt;
: 原町第二中学校&lt;br /&gt;
: 原町第三中学校&lt;br /&gt;
: 石神中学校&lt;br /&gt;
; [[小学校]]&lt;br /&gt;
: 原町第一小学校&lt;br /&gt;
: 原町第二小学校&lt;br /&gt;
: 原町第三小学校&lt;br /&gt;
: 高平小学校&lt;br /&gt;
: 大甕小学校&lt;br /&gt;
: 太田小学校&lt;br /&gt;
: 石神第一小学校&lt;br /&gt;
: 石神第二小学校&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 交通 ==&lt;br /&gt;
=== 鉄道路線 ===&lt;br /&gt;
* 中央駅：[[原ノ町駅]]&lt;br /&gt;
* [[東日本旅客鉄道]]（JR東日本）&lt;br /&gt;
** [[常磐線]]：[[磐城太田駅]]、[[原ノ町駅]]&lt;br /&gt;
* 隣接市町村への連絡：常磐線&lt;br /&gt;
* 広範囲な連絡：常磐線[[特別急行列車|特急]][[ひたち (列車)|スーパーひたち]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 主な道路 ===&lt;br /&gt;
* [[常磐自動車道]]：（[[南相馬インターチェンジ|南相馬IC]]、予定）&lt;br /&gt;
* [[国道6号]]&lt;br /&gt;
* [[福島県道12号原町川俣線]]&lt;br /&gt;
* [[福島県道34号相馬浪江線]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 路線バス ===&lt;br /&gt;
* [[福島交通]]&lt;br /&gt;
* [[常磐交通]]（当時）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 空港 ===&lt;br /&gt;
* [[仙台空港]]（[[岩沼市]]）が最も近い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 観光・祭事 ==&lt;br /&gt;
* [[相馬野馬追]]（国の[[重要無形民俗文化財]]）&lt;br /&gt;
* 桜井古墳（東北最大規模の[[前方後方墳]]、国の[[史跡]]）&lt;br /&gt;
* [[高倉文殊堂]]&lt;br /&gt;
* 雲雀ヶ原&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出身有名人 ==&lt;br /&gt;
* [[松岡佑子]]：[[翻訳家]]。[[ハリー・ポッターシリーズ]]を担当。&lt;br /&gt;
* [[松鶴家千とせ]]：[[漫談|漫談家]]&lt;br /&gt;
* [[西内洋行]]：[[トライアスロン]]選手&lt;br /&gt;
* [[木幡初広]]：[[競馬]][[騎手]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[福島県の廃止市町村一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Japan-area-stub}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:はらまちし}}&lt;br /&gt;
[[Category:福島県の市町村 (廃止)]]&lt;br /&gt;
[[Category:南相馬市の歴史]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>210.162.60.12</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E4%BC%8A%E9%81%94%E8%BC%9D%E5%AE%97&amp;diff=61589</id>
		<title>伊達輝宗</title>
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		<updated>2014-07-16T05:42:48Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;210.162.60.12: /* 生涯 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{基礎情報 武士&lt;br /&gt;
| 氏名 = 伊達輝宗&lt;br /&gt;
| 画像 = Date Terumune.JPG&lt;br /&gt;
| 画像サイズ = 200px&lt;br /&gt;
| 画像説明 = 長谷川養辰「伊達輝宗像」&amp;lt;br /&amp;gt;（[[仙台市博物館]]蔵）&lt;br /&gt;
| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]&lt;br /&gt;
| 生誕 = [[天文 (元号)|天文]]13年（[[1544年]]）&lt;br /&gt;
| 死没 = [[天正]]13年[[10月8日 (旧暦)|10月8日]]（[[1585年]][[11月29日]]）&lt;br /&gt;
| 改名 = &lt;br /&gt;
| 別名 = [[仮名 (通称)|仮名]]：彦太郎、総次郎&lt;br /&gt;
| 諡号 = &lt;br /&gt;
| 神号 = &lt;br /&gt;
| 戒名 = 覚範寺殿性山受心大居士&lt;br /&gt;
| 霊名 = &lt;br /&gt;
| 墓所 = [[覚範寺 (米沢市)|覚範寺]]（[[山形県]][[米沢市]]）&amp;lt;br&amp;gt;[[資福寺 (高畠町)|資福寺]]（山形県[[東置賜郡]][[高畠町]]）&lt;br /&gt;
| 官位 = [[従四位下]]、[[左京大夫]]&lt;br /&gt;
| 幕府 = &lt;br /&gt;
| 主君 = &lt;br /&gt;
| 藩   = &lt;br /&gt;
| 氏族 = [[伊達氏]]&lt;br /&gt;
| 父母 = 父：[[伊達晴宗]]、母：[[久保姫]]（[[岩城重隆]]の娘）&lt;br /&gt;
| 兄弟 = [[岩城親隆]]、&#039;&#039;&#039;輝宗&#039;&#039;&#039;、[[留守政景]]、&amp;lt;br&amp;gt;[[石川昭光]]、[[国分盛重]]、[[杉目直宗]]&amp;lt;br&amp;gt;[[阿南姫]]（[[二階堂盛義]]室）、女子（[[伊達実元]]室） 、女子（[[小梁川盛宗]]室）、彦姫（[[蘆名盛興]]室→[[蘆名盛隆]]室）、女子（[[佐竹義重 (十八代当主)|佐竹義重]]室）&lt;br /&gt;
| 妻   = 正室：&#039;&#039;&#039;[[義姫]]&#039;&#039;&#039;（[[最上義守]]の娘）&lt;br /&gt;
| 子   = &#039;&#039;&#039;[[伊達政宗|政宗]]&#039;&#039;&#039;、[[伊達政道|政道]]、秀雄、千子姫、女子&lt;br /&gt;
| 特記事項 = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;伊達 輝宗&#039;&#039;&#039;（だて てるむね）は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]・[[戦国大名]]。[[伊達氏]]第16代当主。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
[[天文 (元号)|天文]]13年（[[1544年]]）9月、[[伊達晴宗]]の次男として生まれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長兄の[[岩城親隆|親隆]]は母方の祖父である[[岩城重隆]]の養子となっていたため、次男の輝宗が世子となる。天文24年（[[1555年]]）3月19日、[[元服]]し、将軍・[[足利義輝]]の[[偏諱]]を受けて輝宗と名乗る。[[永禄]]7年（[[1564年]]）、[[最上義守]]の娘（[[最上義光]]の妹）・[[義姫]]を娶り、同年末頃に父・晴宗より家督を譲り受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしこの時点では、家中の実権を、隠居の晴宗と[[天文の乱]]に際して家中最大の実力者となった重臣[[中野宗時]]・[[牧野久仲]]父子に握られていた。そのため、家中の統制を図った輝宗は、永禄13年（[[1570年]]）4月、中野宗時に謀反の意志有りとして久仲の居城・[[小松城（出羽国）|小松城]]を攻め落とし、中野父子を追放する。この際に輝宗に非協力的であったとして、[[小梁川盛宗]]・[[白石宗利]]・[[宮内宗忠]]らが処罰されている。同年、義姫の実家・最上家でも、義守・義光父子の間で抗争が始まると、輝宗は義守に与して義光を攻めたが、義姫が輝宗に対して撤兵を促したため兵を引いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
家中の実権を掌握した輝宗は、[[鬼庭良直]]を評定役に抜擢して重用し、また、中野宗時の家来であった[[遠藤基信]]の才覚を見込んで召し抱え、外交を担当させた。この両名を中軸とする輝宗政権は、晴宗の方針を引き継いで[[蘆名氏]]との同盟関係を保つ一方で、南奥羽諸侯間の紛争を調停した。また幅広い外交活動を展開し、[[天正]]3年（[[1575年]]）7月には中央の実力者[[織田信長]]に鷹を贈ったのをはじめとして、遠藤基信に命じて[[北条氏政]]・[[柴田勝家]]と頻繁に書簡・進物をやりとりして友好関係を構築した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正6年（[[1578年]]）に[[上杉謙信]]が没し[[御館の乱]]が勃発すると、輝宗は対相馬戦を叔父・[[亘理元宗]]に一任し、北条との同盟に基づいて蘆名盛氏と共に[[上杉景虎|景虎]]方として参戦したが、乱は[[上杉景勝|景勝]]方の勝利に終わり、蘆名・伊達軍は[[新発田長敦]]・[[新発田重家|重家]]兄弟の奮闘に阻まれて得るところが無かった。しかし、御館の乱における論功行賞において新発田勢の軍功が蔑ろにされ、さらには仲裁を図った[[安田顕元]]が自害するに及んで、天正9年（[[1581年]]）に重家が景勝に叛旗を翻すと、輝宗は盛氏の後継・[[蘆名盛隆]]と共に重家を支援し、柴田勝家とも連携して越後への介入を続けた。このため新発田の乱は泥沼化し、7年にもわたる長期戦となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、対相馬戦においては、[[相馬盛胤 (十五代当主)|相馬盛胤]]・[[相馬義胤 (十六代当主)|義胤]]父子の戦上手さに苦しみ、戦局がなかなか好転しなかったが、天正7年（[[1579年]]）には田村清顕の娘・[[愛姫]]を嫡男・[[伊達政宗|政宗]]の正室に迎えて相馬方の切り崩しを図り、天正10年（[[1582年]]）には[[小斎城]]主・[[佐藤為信]]の調略に成功すると、天正11年（[[1583年]]）5月17日、ついに天文の乱以降最大の懸案事項であった要衝・[[丸森城]]の奪還に成功し、翌天正12年（[[1584年]]）1月11日には[[金山城 (陸奥国)|金山城]]をも攻略した&amp;lt;ref&amp;gt;[[寛文]]7年（[[1667年]]）に[[相馬中村藩]]士・中津幸政が編纂した『奥相茶話記』では、天正11年（[[1583年]]）2月に田村清顕の仲介により丸森・金山両城の返還が決まったとしている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[伊具郡]]全域の回復が成ったことで輝宗は停戦を決め、同年5月に祖父・[[伊達稙宗|稙宗]]隠居領のうち伊具郡を伊達領、[[宇多郡]]を相馬領とすることで和平が成立した。ここに至って伊達家は稙宗の頃の勢力圏11郡余をほぼ回復し、南奥羽全域に多大な影響力を行使する立場となった。このことは、天正11年（1583年）4月の[[賤ヶ岳の戦い]]で盟友・柴田勝家が[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に敗れて滅亡したことを受け、同年6月5日付の甥・[[岩城常隆]]に宛てた書状の中で、秀吉の勢力が東国に及ぶような事態に至れば奥羽の諸大名を糾合してこれに対抗する意思を示している&amp;lt;ref&amp;gt;『性山公治家記録』同日条所載。『大日本史料』もこれを同日付の書状としている。一方、小林清治は『米沢市史』資料篇1（1985）でこの書状の日付を天正10年（[[1582年]]）に書換えているが、明確な根拠を示していない。&amp;lt;/ref&amp;gt;ことからもうかがえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正12年（1584年）10月6日、蘆名盛隆が男色関係のもつれから家臣に殺害されると、生後わずか1ヶ月で当主となった盛隆の子・[[蘆名亀王丸|亀王丸]]の後見となる。輝宗はこれを期に政宗に伊達家の家督を譲ることを決め、修築した[[館山城 (出羽国)|舘山城]]に移った。以後自らは越後介入に専念するつもりであったという。ところが、家督を継いだ政宗はは上杉景勝と講和して伊達・蘆名・最上による共同での越後介入策を放棄したため、蘆名家中において伊達家に対する不信感を増大させるに至った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌天正13年（[[1585年]]）春に、岳父・田村清顕の求めに応じて伊達・蘆名方に服属して[[田村氏]]から独立していた[[小浜城 (陸奥国)|小浜城]]主・[[大内定綱]]に対して[[田村氏]]の傘下に戻れと命令した。田村氏は前年に[[陸奥大内氏|大内氏]]との争いに際して輝宗より示された調停案を不服として従わず、大内氏に加勢した[[石川昭光]]・岩城常隆・[[伊達成実]]らの攻撃を受けており、輝宗の裁許に従ったまでであるとして定綱がこの命令を拒否すると、政宗は同年4月に大内氏に対する討伐命令を下した。定綱は蘆名盛隆未亡人（輝宗妹・[[彦姫]]。亀王丸の母）にとりなしを求めたものの、政宗は5月に突如として蘆名領に侵攻し（[[関柴合戦]]）、これに失敗すると定綱とその姻戚である[[二本松城]]主・[[二本松義継|畠山義継]]へ攻撃を加えた。こうした政宗の急激な戦略方針の転換により、輝宗によって築かれた南奥羽の外交秩序は破綻の危機を迎えることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年10月、義継が政宗に降伏を申し入れると、政宗は当初義継に対し苛烈な態度で臨み、所領を大幅に削減すると宣告したが、調停にあたった輝宗が政宗の決定に対して難色を示したので（義継が輝宗に処分の軽減を依頼したともいわれる）、政宗は処分の軽減を決定したという。同月8日、義継は調停に謝意を表すべく[[宮森城]]に滞在していた輝宗を訪れた際に（一説によれば館内で刀を研ぐ兵士を見て義継が態度を変えたともいわれる）、輝宗を拉致して二本松城に戻ろうとした。政宗が義継に追いついたのは阿武隈川河畔の安達郡平石村高田あたりと伝わる（付近に畠山義継供養塔がある）。この時に政宗の命令による銃撃で義継も輝宗も死亡したとも、最期を悟った義継が輝宗を殺害したあと割腹したともいわれるが定かではない（粟之巣の変事）。享年42。なおこの事件については、輝宗の存在を疎ましく思った政宗が謀殺した等の異説&amp;lt;ref&amp;gt;[[高柳光寿]]『青史端紅』165〜172頁（朝日新聞社、1962）&amp;lt;/ref&amp;gt;もある。輝宗の亡骸は寿徳寺（[[福島県]][[福島市]]。現・[[慈徳寺]]）で[[荼毘]]に付され、[[資福寺]]（[[山形県]][[高畠町]]）に埋葬された。輝宗の温厚な性格は家臣の人望を集めており、遠藤基信らが[[殉死]]した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
輝宗の死は、伊達家と近隣勢力との関係を一挙に悪化させた。殊に[[佐竹義重 (十八代当主)|佐竹義重]]による本格的な奥州介入を招き、石川昭光をはじめとする同盟勢力の離反、同年11月の[[人取橋の戦い]]での苦戦、天正15年（[[1587年]]）3月の亀王丸没後の蘆名家継承問題における敗北などの様々な軍事的・外交的不利をもたらし、天正16年（[[1588年]]）の[[郡山合戦]]に勝利するまで、政宗は窮地の連続に追い込まれることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物・逸話 ==&lt;br /&gt;
*嫡男・政宗の教育にはとても熱心であり、元亀3年（[[1572年]]）に[[甲斐国]]から[[快川紹喜]]の弟子である[[臨済宗]]の[[虎哉宗乙]]禅師を招いたのをはじめ、多くの高名な儒学者・僧を伊達家の居城である[[米沢城]]に招き（政宗も[[川村重吉]]などを他国から招いている）、さらに[[片倉景綱]]・[[屋代景頼]]・[[湯目景康]]ら多くの有望な若手家臣を家中から選んで、早くから政宗に仕えさせた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 系譜 ==&lt;br /&gt;
*正室：[[義姫]]（[[最上義守]]の娘。保春院） &lt;br /&gt;
**[[伊達政宗]]&lt;br /&gt;
**[[伊達政道]]（小次郎）&lt;br /&gt;
**千子姫&lt;br /&gt;
**女子&lt;br /&gt;
*妾：不詳&lt;br /&gt;
**秀雄（[[大悲願寺]]15世[[住職]]、[[江戸]][[中野]][[宝仙寺]]14世[[法印]]）&lt;br /&gt;
*養女：彦姫（伊達晴宗の四女。[[蘆名盛興]]室→[[蘆名盛隆]]室。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*小林宏『伊達家塵芥集の研究』（創文社、1970）&lt;br /&gt;
*『性山公治家記録』 - [[仙台藩]]による公式記録。『伊達治家記録』1（宝文堂、1972）所収&lt;br /&gt;
*『米沢市史』資料篇1（山形県米沢市、1985）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* 『[[独眼竜政宗 (NHK大河ドラマ)|独眼竜政宗]]』（1987年[[NHK大河ドラマ]]、演：[[北大路欣也]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{伊達氏宗家歴代当主}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たて てるむね}}&lt;br /&gt;
[[Category:伊達氏|てるむね]]&lt;br /&gt;
[[category:戦国大名]]&lt;br /&gt;
[[Category:山形県の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:宮城県の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:1544年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1585年没]]&lt;/div&gt;</summary>
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