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	<title>Wikippe - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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	<updated>2026-11-02T20:15:31Z</updated>
	<subtitle>利用者の投稿記録</subtitle>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E6%AD%A3%E7%B4%94&amp;diff=87322</id>
		<title>本多正純</title>
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		<updated>2014-02-25T03:22:21Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;202.151.104.121: /* その後の本多家 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{基礎情報 武士&lt;br /&gt;
| 氏名 = 本多 正純&lt;br /&gt;
| 画像 =Japanese crest Honda Tachi Aoi.svg&lt;br /&gt;
| 画像サイズ =&lt;br /&gt;
| 画像説明 = &lt;br /&gt;
| 時代 = [[安土桃山時代]] - 江戸時代前期&lt;br /&gt;
| 生誕 = [[永禄]]8年（[[1565年]]）&lt;br /&gt;
| 死没 = [[寛永]]14年[[3月10日 (旧暦)|3月10日]]（[[1637年]][[4月5日]]）&lt;br /&gt;
| 改名 = 千穂（幼名）、正純&lt;br /&gt;
| 別名 = 弥八郎（通称）&lt;br /&gt;
| 戒名 =&lt;br /&gt;
| 墓所 = [[秋田県]][[横手市]]の正平寺&lt;br /&gt;
| 官位 = [[従五位]]下、[[上野国|上野]]介&lt;br /&gt;
| 幕府 = [[江戸幕府]]&lt;br /&gt;
| 主君 = [[徳川家康]]→[[徳川秀忠|秀忠]]&lt;br /&gt;
| 藩   = 下野[[小山藩]]主→下野[[宇都宮藩]]主&lt;br /&gt;
| 氏族 = [[本多氏]]&lt;br /&gt;
| 父母 = 父：[[本多正信]]、母：正室某氏&lt;br /&gt;
| 兄弟 = &#039;&#039;&#039;正純&#039;&#039;&#039;、[[本多政重|政重]]、[[本多忠純|忠純]]&lt;br /&gt;
| 妻   = 正室：[[酒井重忠]]の娘&amp;lt;br /&amp;gt;継室：[[青木一矩]]の娘・蓮華院（お梅の方） &lt;br /&gt;
| 子   = [[本多正勝]]（長男）、娘（太田政治室）}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;本多 正純&#039;&#039;&#039;（ほんだ まさずみ）は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての[[武将]]、[[大名]]。[[江戸幕府]]の[[老中]]。[[下野国]][[小山藩]]主、同[[宇都宮藩]]主（第28代[[宇都宮城]]主）。[[本多正信]]の長男で正信系本多家宗家2代。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
宇都宮城主時代に城改修を咎められ、[[徳川秀忠]]により減封を命ぜられたが固辞したため、1,000石の知行のみで[[出羽国]][[由利郡]]にて[[佐竹氏]]預かりの身とされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 関ヶ原まで ===&lt;br /&gt;
[[永禄]]8年（[[1565年]]）、本多正信の嫡男として生まれる。当時、正信は[[三河一向一揆]]で[[徳川家康]]に反逆し、それによって[[三河国]]を追放されて[[大和国]]の[[松永久秀]]を頼っていたとされるが、正純は[[大久保忠世]]の元で母親と共に保護されていたようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父が徳川家康のもとに復帰すると、共に復帰して家康の家臣として仕えた。父と同じく智謀家であったことから家康の信任を得て重用されるようになり、[[慶長]]5年（[[1600年]]）の[[関ヶ原の戦い]]では家康に従って本戦にも参加している。戦後、家康の命令で[[石田三成]]の身柄を預かっている。また、父・正信とともに徳川家の後継者候補に[[結城秀康]]の名を挙げて、これを推挙している（「大久保家留書」）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 家康存命中 ===&lt;br /&gt;
慶長8年（[[1603年]]）、家康が[[征夷大将軍]]となって[[江戸]]に幕府を開くと、家康にさらに重用されるようになる。慶長10年（[[1605年]]）、家康が将軍職を三男の秀忠に譲って[[大御所 (江戸時代)|大御所]]となり、家康と秀忠の二元政治が始まると、江戸の秀忠には[[大久保忠隣]]が、[[駿府]]の家康には正純が、そして正純の父・正信は両者の調停を務める形で、それぞれ補佐として従うようになった。正純は家康の懐刀として吏務、交渉に辣腕を振るい、俄然頭角を現して比類なき権勢を有するようになる。慶長13年（[[1608年]]）には下野国小山藩3万3,000石の大名として取り立てられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
慶長17年（[[1612年]]）2月、正純の家臣・[[岡本大八]]は[[肥前国]][[日野江藩]]主・[[有馬晴信]]から多額の賄賂をせしめ、肥前[[杵島郡]]・[[藤津郡]]・[[彼杵郡]]の加増を斡旋すると約束したが、これが詐欺であった事が判明し、大八は火刑に処され、晴信は流刑となり後に自害へと追い込まれた（[[岡本大八事件]]）。大八がキリシタンであったため、これ以後、徳川幕府の禁教政策が本格化する事になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
慶長17年（1612年）[[12月22日 (旧暦)|12月22日]]には築城後間もない[[駿府城]]が火災で焼失したが、再建がなるまでの間、家康は正純の屋敷で暮らしている。慶長19年（[[1614年]]）には政敵であった大久保忠隣を失脚させ、幕府初期の政治は本多親子が牛耳るまでになった（[[大久保長安事件]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
慶長19年（[[1614年]]）からの[[大坂の役|大坂冬の陣]]の時、[[徳川氏]]と[[豊臣氏]]の講和交渉で、[[大坂城]]内堀埋め立ての策を家康に進言したのは、正純であったと言われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 秀忠時代 ===&lt;br /&gt;
[[元和 (日本)|元和]]2年（[[1616年]]）、家康と正信が相次いで没した後は、江戸に転任して第2代将軍・徳川秀忠の側近となり、年寄（後の老中）にまで列せられた。しかし先代からの宿老である事を恃み権勢を誇り、やがて秀忠や秀忠側近から怨まれるようになる。なお、家康と正信が死去した後、2万石を加増されて5万3,000石の大名となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元和5年（[[1619年]]）10月に[[福島正則]]の[[改易]]後、亡き家康の遺命であるとして下野国小山藩5万3,000石から宇都宮藩15万5,000石に加増を受けた。これにより、周囲からさらなる怨みを買うようになる。ただし、正純自身は、さしたる武功も立てていない自分にとっては過分な知行であり、また政敵の怨嗟、憤怒も斟酌し、加増を固辞していた&amp;lt;ref&amp;gt;山本博文『お殿様たちの出世』（新潮選書）64項&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幕僚の世代交代が進んでいたが、正純は代わらず、幕府で枢要な地位にあった。しかし、後ろ盾である家康や父・正信が没し、秀忠が主導権を握った事と、秀忠側近である[[土井利勝]]らが台頭してきたことで正純の影響力、政治力は弱まっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 失脚 ===&lt;br /&gt;
[[File:Graves of Honda Masazumi and Honda Masakatsu.jpg|thumb|本多正純とその子正勝の墓（[[秋田県]][[横手市]]）]]&lt;br /&gt;
元和8年（[[1622年]]）8月、出羽[[山形藩|山形]]の[[最上氏]]が改易された際、正純は上使として[[山形城]]の受取りに派遣された。9月上旬に最上領に入った正純は、周辺諸大名とともに無事に城を接収した。しかしそのとき数日遅れで遣わされた[[伊丹康勝]]と[[高木正次]]が正純糾問の使者として後を追っていた&amp;lt;ref&amp;gt;幕府編纂の史書『[[徳川実紀]]』には、続く糾問を8月23日のこととする。しかし最上領の受け取りのために軍勢を動かした仙台藩の史書『貞山公治家記録』（巻29）は、自藩と上使の動きにつき、書状の引用をまじえつつ詳述しており、それによれば正純も伊丹も9月上旬に伊達領を通過した。『伊達治家記録』三、平重道「解説｣44-45頁。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
伊丹らは、鉄砲の秘密製造や宇都宮城の本丸石垣の無断修理、さらには秀忠暗殺を画策したとされる[[宇都宮城釣天井事件]]などを理由に11か条の罪状嫌疑を突きつけた。正純は最初の11か条については明快に答えたが、そこで追加して質問された3か条については適切な弁明ができなかった。その3か条とは城の修築において命令に従わなかった将軍家直属の根来同心を処刑したこと、鉄砲の無断購入、宇都宮城修築で許可無く抜け穴の工事をしたこととされる&amp;lt;ref&amp;gt;「宇都宮市史 近世通史編」（1982年）23頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
先代よりの忠勤に免じ、改めて出羽の内、由利郡に5万5,000石を与える、という代命を受けた。この時、使者として赴いた高木正次、伊丹康勝らの詰問に、さらに弁明の中で、謀反に身に覚えがない正純は毅然とした態度で応じ、その5万5,000石を固辞した。これが秀忠の逆鱗に触れることとなった。高木と伊丹が正純の弁明の一部始終を秀忠に伝えると、秀忠は激怒し、本多家は改易され、身柄は[[佐竹義宣 (右京大夫)|佐竹義宣]]に預けられ、出羽国[[横手市|横手]]に流罪となった。後に1,000石の捨て扶持を与えられている。正純の失脚により、家康時代、その側近を固めた一派は完全に排斥され、土井利勝ら秀忠側近が影響力を一層強めることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この顛末は、家康・秀忠の二元政治時代、本多親子の後塵を拝して正純の存在を疎ましく思っていた土井利勝らの謀略であったとも、あるいは、秀忠の姉・加納御前（[[亀姫 (徳川家康長女)|亀姫]]）が秀忠に正純の非を直訴したためだともされる。忠隣の親戚に当たる[[大久保忠教]]（彦左衛門）は、誣告を用いて忠隣を陥れた因果を受けたと快哉を叫んだという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、秀忠自身も父・家康の代から自らの意に沿わない正純を疎ましく思っていた。ただし秀忠が関が原に遅参した際に&lt;br /&gt;
本多正純は「秀忠公が遅れられたのは参謀たるわが父正信が謀を誤った為であります。どうか父正信を処罰し、秀忠公の咎でないことを天下に明らかにして頂きとうございます」と言い、その言葉に秀忠は感謝し「よくぞ言ってくれた。そのほうの言葉、一生忘れぬぞ。」と言ったと逸話もある。秀忠は正純の処分について諸大名に個別に説明をするという異例の対応を取ったが、その説明を聞かされた当時の[[小倉藩]]藩主・[[細川忠利]]は「日比（ひごろ）ご奉公あしく」という理由であり、具体的には秀忠が[[福島正則]]を改易するのに反対したことと宇都宮を拝領してから数年たって「似合い申さず」と言って返上しようとしたことを挙げていた、と父の[[細川忠興]]に書き送っている。&amp;lt;ref&amp;gt;[[山本博文]]『江戸城の宮廷政治』（[[講談社学術文庫]]）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下の歌は、失脚した正純が幽閉された横手・上野台で詠んだものと伝えられる。&lt;br /&gt;
:&#039;&#039;&#039;日だまりを 恋しと思う うめもどき 日陰の赤を 見る人もなく&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
正純父子は、牢にこそ入らなかったものの、逃亡防止のために住居をすべて板戸で囲い、まともに日もささない状態で、軟禁と呼ぶには過酷な生活であったといわれる。&lt;br /&gt;
[[寛永]]14年（[[1637年]]）[[3月10日]]、正純は配所の横手で死去した。享年73。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== その後の本多家 ==&lt;br /&gt;
配流の際、息子の正勝も同罪として由利郡に流されている。寛永14年（1637年）3月に正純は73歳の生涯を閉じたが、息子の正勝はそれより7年前の寛永7年（[[1630年]]）、長い幽閉生活で健康を害し、35歳で死去している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
正勝には長男・[[本多正好|正好]]と次男・[[本多正之|正之]]の子息がおり、嫡男・正好は右京亮と称す。元和9年（[[1623年]]）に江戸で生まれたが、同年の本多家改易により、外祖父である[[美濃国]][[大垣藩]]主[[戸田氏鉄]]の許に母親と共に身を寄せる。幼少より学問に励み、祖父・正純と父・正勝の墓参りを願い出奔。しかし幕命により叶わず、遠戚であった[[上野国]][[高崎藩]]主[[安藤氏|安藤重長]]に客分として留め置かれていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後は和田角兵衛と名乗り、明暦3年（[[1657年]]）に旗本・安藤直政に乞われて武蔵国那珂郡に居住。知行所代官となる。孫の和田正篤の次男・正綱は、在所の安藤家家臣・木村氏から妻を娶っていたことから、子の正滕の代になった寛政年間に名跡を継承して木村姓に改め、安藤家の家臣として存続している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
正勝の次男・正之は配流の地横手にて出生。忠左衛門と称す。正純没後、[[成瀬正虎]]に迎えられ、尾張犬山に居住したという。[[寛文]]4年（[[1664年]]）に赦免され、3,000石の[[旗本]]として家を再興している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物・逸話 ==&lt;br /&gt;
*石田三成の身柄を預かったとき、三成に対して、「貴殿も忠臣なら、なぜ潔く腹を切られなんだ」と質問すると、三成は「大望ある者は、最後まであきらめず己の信念を貫くものだ。お主にはそれがわかるまい」と言い返されたとされる。&lt;br /&gt;
*大坂の陣の直後、[[千姫]]が[[本多忠刻]]に再嫁する事になった。ところが、これに激怒した[[坂崎直盛]]が面目を潰されたと屋敷に立て篭もって幕府に抵抗した事件がある。騒ぎが広がるのを恐れた幕閣からは、「直盛の家臣を買収し、直盛に自害を勧めさせてはどうか」という案が出た際、「主君の不忠を家臣の不忠をもって制するとあっては天下の政道が罷り通らぬ」と敢然と不可であるを主張した、という逸話がある。&lt;br /&gt;
*父・正信は権勢を得ると同時に大身になることは怨みや嫉みを買い、身の破滅になると自戒し、嫡男の正純にも「3万石以上の知行を受けてはならぬ」と戒めていた。&lt;br /&gt;
*異常なほど権勢欲が強かったことから、現在の歴史小説や大河ドラマなどでは、「家康の寵愛におもねる側近」として描かれることが多い。ただし、その場合でも徳川家の忠臣として描かれることは多く、石田三成と同じように周囲から疎まれていた人物と描かれることが多いようである。&lt;br /&gt;
*改易後、佐竹氏預かりとなった際、はじめは佐竹氏の好意もあり手厚くもてなされたが、後にこれが幕府に知れることとなり、晩年は厳しい監視を受けながら、釘付けにされた屋敷に幽閉状態にされたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*山本博文『お殿様達の出世』（新潮選書）&lt;br /&gt;
*藤野保『徳川幕閣』（中公新書）&lt;br /&gt;
*平重道・編『[[伊達家治家記録]]』三、宝文堂、1973年。&lt;br /&gt;
*徳田浩淳『下野歴史物語』中、（国書刊行会）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 演じた俳優 ==&lt;br /&gt;
*[[御木本伸介]]（[[春の坂道]]、[[日本放送協会|NHK]]、1971年）&lt;br /&gt;
*[[本田博太郎]]（[[徳川家康 (NHK大河ドラマ)|徳川家康]]、[[NHK大河ドラマ]]、1983年）&lt;br /&gt;
*[[伊東達広]]（[[真田太平記 (テレビドラマ)|真田太平記]]、[[NHK新大型時代劇]]、1985年）&lt;br /&gt;
*[[前田吟]]（[[春日局 (NHK大河ドラマ)|春日局]]、NHK大河ドラマ、1989年）&lt;br /&gt;
*[[久米明]]（[[本多の狐 徳川家康の秘宝]]、テレビ朝日、1992年） &lt;br /&gt;
*[[高松英郎]]（[[徳川武芸帳 柳生三代の剣]]、テレビ東京、1993年）&lt;br /&gt;
*[[松田洋治]]（[[徳川の女]]、テレビ東京、1997年）&lt;br /&gt;
*[[醍醐貢正]]（[[影武者徳川家康]]、テレビ朝日、1998年）&lt;br /&gt;
*[[渡辺いっけい]]（[[葵 徳川三代]]、NHK大河ドラマ、2000年）&lt;br /&gt;
*[[鴈龍太郎]]（[[武蔵　MUSASHI]]、NHK大河ドラマ、2003年）&lt;br /&gt;
*[[綿引勝彦]]（[[天下騒乱〜徳川三代の陰謀]]、テレビ東京、2006年）&lt;br /&gt;
*[[天宮良]]（[[功名が辻 (NHK大河ドラマ)|功名が辻]]、NHK大河ドラマ、2006年）&lt;br /&gt;
*[[市瀬秀和]]（[[寧々～おんな太閤記]]、テレビ東京、2009年）&lt;br /&gt;
*[[蟹江一平]]（[[天地人 (NHK大河ドラマ)|天地人]]、NHK大河ドラマ、2009年）&lt;br /&gt;
*[[中山麻聖]]（[[江〜姫たちの戦国〜]]、NHK大河ドラマ、2011年）&lt;br /&gt;
*[[猪野学]]（[[影武者徳川家康]]、テレビ東京、2014年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{先代次代|[[本多氏|正信流本多家]]|本多正純|[[本多正信]]|（[[本多正之]]）}}&lt;br /&gt;
{{小山藩主||1608年 - 1619年}}&lt;br /&gt;
{{宇都宮藩主|本多氏||1619年 - 1622年}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ほんた まさすみ}}&lt;br /&gt;
[[Category:本多氏|まさすみ]]&lt;br /&gt;
[[Category:宇都宮藩主]]&lt;br /&gt;
[[Category:譜代大名]]&lt;br /&gt;
[[Category:江戸幕府老中]]&lt;br /&gt;
[[category:戦国武将]]&lt;br /&gt;
[[Category:三河国の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1565年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1637年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>202.151.104.121</name></author>
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