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	<title>Wikippe - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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	<updated>2026-10-29T02:47:52Z</updated>
	<subtitle>利用者の投稿記録</subtitle>
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		<title>ルー・リード</title>
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		<updated>2014-08-14T18:48:07Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;2001:3B0:10:C:0:0:0:1072: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Infobox Musician&lt;br /&gt;
| Name                = ルー・リード&lt;br /&gt;
| Img                 = Lou reed.jpg&lt;br /&gt;
| Img_capt            = &lt;br /&gt;
| Background          = singer&lt;br /&gt;
| Birth_name          = ルイス・アレン・リード&lt;br /&gt;
| Alias               = &lt;br /&gt;
| Born                = [[1942年]][[3月2日]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[ニューヨーク州]][[ブルックリン]]&lt;br /&gt;
| Died                = {{死亡年月日と没年齢|1942|3|2|2013|10|27}}&amp;lt;br /&amp;gt;ニューヨーク州サウサンプトン&lt;br /&gt;
| Origin              = &lt;br /&gt;
| Instrument          = [[ボーカル]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[ギター]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[キーボード (楽器)|キーボード]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[ピアノ]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[ハーモニカ]]&lt;br /&gt;
| Genre               = [[ロック (音楽)|ロック]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[実験音楽|エクスペリメンタルロック]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[アートロック]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[パンク|プロトパンク]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[グラムロック]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[アンビエント]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[サイケデリック・ロック]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
| Occupation          = [[シンガー・ソングライター]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[ギタリスト]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[音楽プロデューサー]]&lt;br /&gt;
| Years_active        = [[1965年]] - 2013年&lt;br /&gt;
| Label               = &lt;br /&gt;
| Associated_acts     = [[ヴェルヴェット・アンダーグラウンド]]&lt;br /&gt;
| URL                 = [http://www.loureed.org/ www.loureed.org/]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;ルー・リード&#039;&#039;&#039;（&#039;&#039;&#039;Lou Reed&#039;&#039;&#039;, [[1942年]][[3月2日]] - [[2013年]][[10月27日]]&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.rollingstone.com/music/news/lou-reed-velvet-underground-leader-and-rock-pioneer-dead-at-71-20131027#ixzz2iwb2mksj rollingstone.com,  Lou Reed, Velvet Underground Leader and Rock Pioneer, Dead at 71]&amp;lt;/ref&amp;gt;）は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]][[ニューヨーク州]][[ブルックリン]]出身の[[ミュージシャン]]。本名&#039;&#039;&#039;ルイス・アレン・リード&#039;&#039;&#039; (&#039;&#039;&#039;Lewis Allen Reed&#039;&#039;&#039;) 。ユダヤ系の血を引いており、父の代にラビノヴィッツ (Rabinowitz) から改姓。[[シラキューズ大学]]在学中にデルモア・シュワルツ([[:en:Delmore Schwarz]])に師事して詩作を学ぶ。その挑戦的ながらポップさを兼ね備えた音楽性、陰翳と知性に富むヴォーカル・ポエトリーリーディング、人間の暗部を深く鋭く見つめる独特の詩世界は[[デヴィッド・ボウイ]]に多大な影響を与え、後の[[パンク・ロック]]／[[ニュー・ウェーヴ (音楽)|ニュー・ウェイヴ]]、[[オルタナティヴ・ロック]]にも大きな影響を与えた。[[ボブ・ディラン]]、[[ドアーズ]]の[[ジム・モリソン]]、[[パティ・スミス]]などと並び、ロック界における芸術性、ひいては文学性のイノベーションと向上に多大な影響を与えた音楽家の一人である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第62位&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web |url=http://www.rollingstone.com/music/lists/100-greatest-singers-of-all-time-19691231/lou-reed-20101202 |title=100 Greatest Singers: Lou Reed |author=Rolling Stone |accessdate=2013-05-26}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第52位、2011年の改訂版では第81位。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「[[Q誌]]の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第72位&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web |url=http://www.rocklistmusic.co.uk/qlistspage3.htm#100%20Greatest%20Singers |title=Rocklist.net...Q Magazine Lists.. |work=Q - 100 Greatest Singers |date=2007-04 |accessdate=2013-05-21}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
1965年に結成されたロックバンド、[[ヴェルヴェット・アンダーグラウンド]]のヴォーカル・ギタリストとして名を馳せた。同バンド時代から数多くの作詞・作曲を手がけており、主にジョン・ケイルとの個性の衝突によって、アヴァンギャルドな実験性と翳りを帯びたメロディ志向を融合させた独特の音楽性を創り上げた。リードは1970年にバンドを離れ、以後ソロ活動を開始した（バンドは途中加入のマルチ・プレイヤーであるダグ・ユールの一人バンドとなり、1972年の『スクイーズ』を最後に解散）。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドでの活動はわずか4年ほどであったが、バンド結成とリード在籍時の活動とは、ロックの歴史において、[[オルタナティヴ・ロック]]を産み出した「ビッグ・バン」と位置付けられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
リードのソロ・キャリアは多彩なものである。1972年にヴェルヴェッツ時代のレパートリーを清算した（当時のテイクは『アナザー・ビュー』『VU』として後に発表された）『[[ロックの幻想]]』（[[スティーヴ・ハウ (ギタリスト)|スティーヴ・ハウ]]や[[リック・ウェイクマン]]などがセッション参加）でソロ・デビューを果たし、同年に盟友・[[デヴィッド・ボウイ]]とそのパートナーである[[ミック・ロンソン]]と事実上共作した『[[トランスフォーマー (ルー・リードのアルバム)|トランスフォーマー]]』、シングル「ワイルド・サイドを歩け」がグラム・ロックの文脈において支持されヒットした（後にアメリカで[[本田技研工業|ホンダ]]の[[スクーター]]のCMソングに起用される）が、翌年には閉鎖的な都市における内省的かつ陰鬱な恋愛を映画的な手法で描いた[[コンセプト・アルバム]]『[[ベルリン (アルバム)|ベルリン]]』を発表し、方向性の転換によって一元的なコマーシャリズムへの迎合を避けた。しかし前作が批評家からの批判を受けたことと対照的に、リードの思惑から外れたオーヴァープロデュースの次作『死の舞踏』は自身最高のヒットを記録し、RCA時代最後の作品である次作『コニー・アイランド・ベイビー』までは人気を得ていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後のアリスタ・レコード時代は、自身のポップ観とロック観の折衷を求めて、コンスタントな活動ペースを保ちつつ試行錯誤を繰り返した。アレンジ面でもよりスタンダードなロックサウンドと非クラシカルなストリングスやホーンセクションなどとの融合を試みたり、ファンクやフリージャズ、AORなどの要素を導入したり、楽曲の長大化やアコースティック面の強調、バックバンドメンバーとの共作などがその結果として挙げられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
RCA復帰第一作となった『ブルー・マスク』では[[ロバート・クイン]]のギターを得てラフかつノイジーなロックにハードな感触を加えたサウンドに転換、ほぼ同一の布陣で更にオーソドックスなロックへ遡行した『レジェンダリー・ハーツ』を制作した。その後『ニュー・センセーションズ』『ミストライアル』ではあえて時流に歩み寄った我流のニュー・ウェーヴを展開し、リスナーを戸惑わせた。しかし『ニュー・センセーションズ』においては[[:en:L. Shankar|L. シャンカール]]や[[ブレッカー・ブラザーズ]]といったビッグ・ネームと共演しており、後年のリードのアプローチの布石ともなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1989年、自身のルーツと向き合う形となったアルバム『ニュー・ヨーク』で「復調」、翌年[[アンディ・ウォーホル]]の追悼としてかつての盟友[[ジョン・ケイル]]と『[[ソングス・フォー・ドレラ]]』を制作。以後90年代前半の断続的な[[ヴェルヴェット・アンダーグラウンド]]再結成をはさみ、『[[マジック・アンド・ロス]]』『セット・ザ・トワイライト・リーリング』『[[エクスタシー (ルー・リードのアルバム)|エクスタシー]]』を発表、かつてよりスローなペースながら健在を印象付けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2003年には[[エドガー・アラン・ポー]]、殊に「大鴉」を題材にした『ザ・レイヴン』をリリース、自身の現代文学的な詩世界と古色蒼然たる古典文学の融和をドラマティックな音楽によって表現し新境地を開いている。2011年には[[フランク・ヴェーデキント]]の「ルル二部作」をモチーフとした『ルル』を発表。スピーディかつ起伏に富んだ音楽性の[[メタリカ]]を起用しながら、ヴェルヴェッツ時代を想起させる頽廃的な酩酊感と90年代のメタリカさながらのヘヴィなグルーヴが同居するサウンドとポエトリーリーディングという異色のアプローチをとった作品となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その時代時代、またはアルバムごとにアプローチを転換しながら、その強烈な個性によって作品をあくまでポピュラーなロックサウンドとして成立させる手腕を持つリードであるが、同時にアプローチ転換の結果としてファンやプレスを当惑させるような「問題作」を発表することがある。二枚組・60分間強の間ギターの多重録音によるノイズのみが収録された『無限大の幻覚(原題：Metal Machine Music)』（70年代の人気絶頂期に発表されたことで大きな賛否を巻き起こした）、元々自身のメディテーション用にプライヴェートに制作された単調な電子音の反復によるアンビエント『Hudson River Wind Meditations』、Metal Machine Trio名義で本格的なアンビエントとノイズミュージックの双方に着手した『The Creation of the Universe』、[[ジョン・ゾーン]]・[[ローリー・アンダーソン]]との連名によるフリー・インプロヴィゼーション作品『The Stone: Issue Three』はその一例である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ロックンロール]]、[[フォーク]]、[[ソウル]]などのトラディショナルなポピュラー音楽を源流に持ちながら、（自身の特徴的なヴォーカルやギターを時に無視してまでも）時流とも向き合いつつ我が道を歩み続けている。時代ごとにパートナーを一新してはアルバムごとに特色を打ち出す、多彩な音楽性を往還しながらあくまでもそれらをロックとして成立させる、いくつかの例外を除いて一貫して自身の詩作を重視するなど、多くの偏屈とも言えるこだわりを堅持し続ける彼の信奉者はいまだに多く、現在もなおファンや音楽評論家、他のミュージシャンから広く賞賛を浴びている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
生活の大半を[[ニューヨーク]]で過ごしており、作品にも好んで取り上げられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1996年に、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドは[[ロックの殿堂]]入りを果たした。またリードは、[[1995年]]の[[フランク・ザッパ]]、[[2008年]]の[[レナード・コーエン]]が同じく殿堂入りした際に、プレゼンターとして出向いた。ザッパに於いては、[[マザーズ・オブ・インヴェンション]]と自らの[[ヴェルヴェット・アンダーグラウンド]]を対比させて、ザッパの音楽的功績を称えるスピーチをしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私生活では長らくバイセクシュアルであるとされ、結婚を三度経験している。その最も新しいパートナーであるヴァイオリニストの[[ローリー・アンダーソン]]とは、長きにわたるパートナーシップの結果、[[2008年]][[4月12日]]に正式に結婚したことが明らかとなった。挙式は[[コロラド州]]にて、ごくプライベートな形で行われたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2013年]]に入ってから肝臓の移植手術を受けたことがメディアで報じられ、予後にローリー・アンダーソンとの外出写真が出るなどしたが、[[10月27日]]、肝臓疾患の関連病のためニューヨーク州サウサンプトンにある自宅で死去&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.asahi.com/articles/TKY201310280001.html ルー・リードさん死去 米ロックミュージシャン 71歳] 朝日新聞 2013年10月28日&amp;lt;/ref&amp;gt;。71歳没。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
遺産については妻のローリー・アンダーソン、リードの妹に母親の介護資金として分配され、また、リードの作品の許認可や著作権管理などは、これまでリードを支えてきたビジネス・マネージャーと会計士に引き続き託されることになるという&amp;lt;ref&amp;gt;[http://ro69.jp/news/detail/91747　ルー・リード、遺産をローリー・アンダーソンと自身の妹に譲ったことが明らかに]　RO69 2013年11月6日&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
リードの死去のニュースを受け、多くのミュージシャンが追悼のコメントを寄せている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
追悼コメントを寄せた主なミュージシャンは、以下の通り。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[デヴィッド・ボウイ]]、[[ジョン・ケイル]]、[[ベック]]、[[ザ・フー]]、[[ライアン・アダムス]]、[[カール・バラー]]、ネイサン・フォロウィル([[キングス・オブ・レオン]])、[[ジェラルド・ウェイ]]、リー・ラナルド（[[ソニック・ユース]]）、[[サブ・ポップ・レコード|サブ・ポップ]]、[[ナイル・ロジャース]]、[[ウィーザー]]、パトリック・カーニー（[[ザ・ブラック・キーズ]]）、[[アーヴィング・ウェルシュ]]、[[トム・モレロ]]、[[ポール・エプワース]]&amp;lt;ref&amp;gt;[http://ro69.jp/news/detail/91261　ルー・リードの急死にボウイ、ストロークスのジュリアンら多数のミュージシャンが追悼] RO69 2013年10月25日&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[レッド・ホット・チリ・ペッパーズ]]&amp;lt;ref&amp;gt;[http://ro69.jp/news/detail/91557　レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、チャリティ・ライヴでルー・リードへの追悼を表明] RO69 2013年11月1日&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[ラーズ・ウルリッヒ]]([[メタリカ]])&amp;lt;ref&amp;gt;[http://ro69.jp/news/detail/91481　メタリカのラーズ・ウルリッヒ、ルー・リードとの喧嘩を振り返る] RO69 2013年10月31日&amp;lt;/ref&amp;gt; 、[[U2]]&amp;lt;ref&amp;gt;[http://ro69.jp/blog/miyazaki/91623　U2、公式サイトでルー・リード追悼。『ZOO TV』ツアー時の「共演」映像を公開中] RO69　宮嵜広司の「明るい洋楽」 2013年11月4日&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[パティ・スミス]]&amp;lt;ref&amp;gt;[http://ro69.jp/news/detail/91793　パティ・スミス、ルー・リードへの追悼文を『ザ・ニューヨーカー』誌に寄稿] RO69 2013年11月6日&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[エイドリアン・ブリュー]]&amp;lt;ref&amp;gt;https://ja-jp.facebook.com/pages/Adrian-Belew/6696764994　Adrian Belew Facebook 2013年10月29日&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[イギー・ポップ]]&amp;lt;ref&amp;gt;https://twitter.com/IggyPop/status/394535155173310464　Iggy Pop Twitter　2013年10月27日&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[モリッシー]]、[[ジュリアン・カサブランカス]]([[ザ・ストロークス]])、[[ニッキー・シックス]]([[モトリー・クルー]])&amp;lt;ref&amp;gt;http://www.mtvjapan.com/news/music/23251　ジョン・ケイル、デヴィッド・ボウイ、モリッシーら、多数のミュージシャンがルー・リードを追悼　MTV JAPAN 2013年10月29日&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==ローリー・アンダーソンとの出会い、そして結婚まで==&lt;br /&gt;
リード死去の後、妻のローリー・アンダーソンは『ローリング・ストーン』誌に寄稿して、リードとの出会い、結婚の思い出、そして死の瞬間まで語った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローリーがリードに初めて出会ったのは[[1992年]]に[[ドイツ]]の[[ミュンヘン]]で開催された音楽フェスでの共演の時だった。このフェスの企画で出演者同士での共演を行うように要請された際、ローリーはルーに声をかけられ、自分のバンド演奏に合わせてなにか朗読してほしいとリクエストを受け、これがきっかけとなって、まずは知り合いになったと語っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もともと前衛パフォーマンス・アーティストとして知られていてローリーは、ロックには疎く[[ヴェルヴェット・アンダーグラウンド]]はイギリスのバンドだと思い込んでいたという。ローリーはリードのことは最初からとても気に入っていたこともあり意気投合。その後の初めてのデートについて次のように回想している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「そして、ついにルーの方から、一緒にオーディオ・エンジニアリング協会見本市に行かないかという誘いがあったのだ。私はどっちみちいくつもりだったからと答え、マイクロフォンのブースで落ち合うことにした。この見本市は最新の機材をチェックするには最高で最大規模のもので、私たちはアンプやシールドを物色しては、エレクトロニクス・ブースのスタッフといろいろ話し込んで、楽しい午後を過ごすことになった。この時点で私はこれが実はデートだったとは思いもよらなかったが、見本市の後でコーヒーを飲みに行くと、ルーは『これから映画でも観に行かない?』と誘ってきた。もちろん、と私は答えた。するとルーは『それから一緒に夜ご飯でもどう?』と訊いてきた。いいわよ。さらにルーは『食後はさ、散歩でもしようか』と続ける。うーん……そして、その先、ルーと私が離れることはもうなくなってしまったのだ」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後二人は親友、あるいはソウルメイトとして21年間一緒に生活することになったが、2008年に結婚することになった経緯を以下のように語っている。&lt;br /&gt;
「あれは2008年の春のこと、私はカリフォルニアの道端を歩いていて、自分のことが嫌になってきてルーに携帯で話をしていたのだった。『やりたいと思ってたのにやれなかったことがたくさんあるの』とわたしはルーに話した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『やりたかったことって?』とルーは訊いてきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『だから、結局、ドイツ語も習えなかったし、物理も学べなかったし、結婚もできなかったし』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『それだったら俺たち結婚しない?』とルーは訊いてきた。『俺そっちに向かって半分まで行くから。コロラドまで行くよ。明日とかどう?』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『うーん、ねえ、明日ってちょっといきなり過ぎだとは思わない？』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『ううん、思わない』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そういうわけで、その翌日綿私たちはコロラド州ボールダーで落ち合って、土曜日に友達の家の裏庭で結婚して、私たちはいつもの土曜日の普段着のままで、おまけに挙式の直後に私はライヴに直行しなければならなかったのに、ルーはそのことを少しも気にしないでくれた（ミュージシャン同士で結婚するのはどこか弁護士同士で結婚するのと似ていて、『今日は朝の3時までスタジオで仕事なんだ』と言ってみたり、仕事を仕上げるためにそれまでの予定を全部中止にするようなことになっても、お互いどういうことかよくわかっているし、必ずしもそれで頭に来たりはしないのだ）」&amp;lt;ref&amp;gt;[http://ro69.jp/news/detail/91843　ルー・リードとの出会い、結婚、そして死を妻のローリー・アンダーソンが語る]　RO69 2013年11月7日&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 作品 ==&lt;br /&gt;
=== オリジナル・アルバム ===&lt;br /&gt;
* [[ロックの幻想]] - Lou Reed ([[1972年]])&lt;br /&gt;
* [[トランスフォーマー (ルー・リードのアルバム)|トランスフォーマー]] - Transformer (1972年)&lt;br /&gt;
* [[ベルリン (アルバム)|ベルリン]] - Berlin ([[1973年]])&lt;br /&gt;
* 死の舞踏 - Sally Can&#039;t Dance (1974年)&lt;br /&gt;
* 無限大の幻覚 - Metal Machine Music ([[1975年]])&lt;br /&gt;
* コニー・アイランド・ベイビー - Coney Island Baby ([[1976年]])&lt;br /&gt;
* ロックン・ロール・ハート - Rock And Roll Heart (1976年)&lt;br /&gt;
* ストリート・ハッスル - Street Hassle ([[1978年]])&lt;br /&gt;
* 警鐘 - The Bells ([[1979年]])&lt;br /&gt;
* 都会育ち - Growing Up in Public ([[1980年]])&lt;br /&gt;
* ブルー・マスク - The Blue Mask ([[1982年]])&lt;br /&gt;
* レジェンダリー・ハーツ - Legendary Hearts ([[1983年]])&lt;br /&gt;
* ニュー・センセーションズ - New Sensations ([[1984年]])&lt;br /&gt;
* ミストライアル - Mistrial ([[1986年]])&lt;br /&gt;
* ニューヨーク - New York ([[1989年]])&lt;br /&gt;
* [[ソングス・フォー・ドレラ]] - Songs for Dorella ([[1990年]])※[[ジョン・ケイル]]とのコラボレーション&lt;br /&gt;
* [[マジック・アンド・ロス]] - Magic and Loss ([[1992年]])&lt;br /&gt;
* セット・ザ・トワイライト・リーリング - Set the Twilight Reeling ([[1996年]])&lt;br /&gt;
* [[エクスタシー (ルー・リードのアルバム)|エクスタシー]] - Ecstasy ([[2000年]])&lt;br /&gt;
* ザ・レイヴン - The Raven ([[2003年]])&lt;br /&gt;
* ルル - Lulu ([[2011年]])※[[メタリカ]]とのコラボレーション&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ライブ・アルバム ===&lt;br /&gt;
* ロックン・ロール・アニマル - Rock &#039;n&#039; Roll Animal ([[1974年]])&lt;br /&gt;
* ルー・リード・ライブ - Lou Reed Live ([[1975年]])&lt;br /&gt;
* テイク・ノー・プリズナーズ - Live - Take No Prisoners ([[1978年]])&lt;br /&gt;
* ライブ・イン・イタリー - Live in Italy ([[1983年]])&lt;br /&gt;
* パーフェクト・ナイト - Perfect Night Live in London ([[1998年]])&lt;br /&gt;
* ライブ・イン・ニューヨーク&#039;72 - American Poet ([[2001年]])&lt;br /&gt;
* バタクラーン72 - Le Bataclan &#039;72  Lou Reed, John Cale &amp;amp; Nico ([[2003年]])&lt;br /&gt;
* アニマル・セレナーデ - Animal Serenade ([[2004年]])&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== コンピレーション ===&lt;br /&gt;
* Walk on the Wild Side - The Best of Lou Reed ([[1976年]])&lt;br /&gt;
* Wild Child ([[1987年]])&lt;br /&gt;
* Retro ([[1989年]])&lt;br /&gt;
* A Rock &amp;amp; Roll Life ([[1989年]]) *only promotional&lt;br /&gt;
* Walk on the Wild Side &amp;amp; Other Hits ([[1990年]])&lt;br /&gt;
* 思考と象徴のはざまで - Between Thought and Expression ([[1992年]])&lt;br /&gt;
* Rock and Roll Diary 1967-1980 ([[1993年]])&lt;br /&gt;
* ディファレント・タイムズ - ルー・リード70&#039;sコレクション - Different Times in the 70s ([[1996年]])&lt;br /&gt;
* The Very Best of Lou Reed ([[1999年]])&lt;br /&gt;
* ザ・ベスト・オブ・ルー・リード　1972-1996 - Lou Reed: The Definitive Collection (1999年)&lt;br /&gt;
* NYCマン　ヒストリー・オブ・ルー・リード 1967-2003 - NYC Man ([[2003年]])&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[フランク・ザッパ]]&lt;br /&gt;
*[[デヴィッド・ボウイ]]&lt;br /&gt;
*[[アンディ・ウォーホル]]&lt;br /&gt;
*[[ニコ]]&lt;br /&gt;
*[[パティ・スミス]]&lt;br /&gt;
*[[テレヴィジョン (バンド)|テレヴィジョン]]&lt;br /&gt;
*[[イギー・ポップ]]&lt;br /&gt;
*[[ストゥージズ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www.wmg.jp/artist/loureed/index.html ワーナーミュージック・ジャパン -  ルー・リード]&lt;br /&gt;
* [http://www.loureed.org/ Official Lou Reed website]&lt;br /&gt;
* [http://www.arrakis.es/~e.miquel/rnranimal/ Rock and Roll Animal], a fan site with a list of his pre-VU, Tin Pan Alley work&lt;br /&gt;
* [http://www.loureed.it/ Italian Lou Reed Site]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Music-bio-stub}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:りいと るう}}&lt;br /&gt;
[[Category:アメリカ合衆国のシンガーソングライター]]&lt;br /&gt;
[[Category:ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのメンバー]]&lt;br /&gt;
[[Category:ロックの殿堂]]&lt;br /&gt;
[[Category:ニューヨーク市出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:東欧ユダヤ系アメリカ人]]&lt;br /&gt;
[[Category:両性愛の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:アメリカ合衆国出身のLGBTの音楽家]]&lt;br /&gt;
[[Category:1942年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:2013年没]]&lt;br /&gt;
{{Link GA|cs}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>2001:3B0:10:C:0:0:0:1072</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E5%A4%A7%E5%AD%A6&amp;diff=189606</id>
		<title>中央大学</title>
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		<updated>2014-07-23T21:29:52Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;2001:3B0:10:C:0:0:0:1072: /* 新司法試験 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Otheruses}}&lt;br /&gt;
{{混同|中央学院大学}}&lt;br /&gt;
{{大学&lt;br /&gt;
|国 = 日本&lt;br /&gt;
|大学名 = 中央大学&lt;br /&gt;
|ふりがな=ちゅうおう だいがく&lt;br /&gt;
|英称 = Chuo University&lt;br /&gt;
|画像 = ChuoUniversity logo.svg&lt;br /&gt;
|大学設置年 = 1920年&lt;br /&gt;
|創立年 = 1885年&lt;br /&gt;
|学校種別 = 私立&lt;br /&gt;
|設置者 = [[学校法人中央大学]]&lt;br /&gt;
|本部所在地 = [[東京都]][[八王子市]]東中野742-1&lt;br /&gt;
|緯度度 = 35 |緯度分 =38 |緯度秒 =28.9&lt;br /&gt;
|経度度 = 139 |経度分 =24 |経度秒 =20.6&lt;br /&gt;
|キャンパス = [[中央大学多摩キャンパス|多摩]]（東京都八王子市）&amp;lt;br /&amp;gt;後楽園（東京都文京区）&amp;lt;br /&amp;gt;市ヶ谷（東京都新宿区）&amp;lt;br /&amp;gt;市ヶ谷田町（東京都新宿区）&lt;br /&gt;
|学部 = 法学部&amp;lt;br /&amp;gt;経済学部&amp;lt;br /&amp;gt;商学部&amp;lt;br /&amp;gt;理工学部&amp;lt;br /&amp;gt;文学部&amp;lt;br /&amp;gt;総合政策学部&lt;br /&gt;
|研究科 = 法学研究科&amp;lt;br /&amp;gt;経済学研究科&amp;lt;br /&amp;gt;商学研究科&amp;lt;br /&amp;gt;理工学研究科&amp;lt;br /&amp;gt;文学研究科&amp;lt;br /&amp;gt;総合政策研究科&amp;lt;br /&amp;gt;公共政策研究科&amp;lt;br /&amp;gt;国際会計研究科（アカウンティングスクール）&amp;lt;br /&amp;gt;法務研究科（ロースクール）&amp;lt;br /&amp;gt;戦略経営研究科（ビジネススクール）&lt;br /&gt;
|大学の略称 = 中大（ちゅうだい）&lt;br /&gt;
|ウェブサイト = http://www.chuo-u.ac.jp/&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概観 ==&lt;br /&gt;
=== 大学全体 ===&lt;br /&gt;
[[file:Chuo Unv Tama.JPG|thumb|right|300px|中央大学多摩キャンパス（東門付近から）]]&lt;br /&gt;
[[file:Chuo univ from Chudaieki.jpg|thumb|right|300px|中央大学多摩キャンパス（東門付近から）]]&lt;br /&gt;
[[1885年]]（明治18年）7月に[[増島六一郎]]、[[菊池武夫 (法律家)|菊池武夫]]、[[穂積陳重]]ら18人の法律家により&#039;&#039;&#039;[[英吉利法律学校]]&#039;&#039;&#039;として設立された。当初は[[英国法]]に関する教育機関であったが、日本でも近代法が整備されると順次、国内法も教授するようになり、校名も東京法学院、東京法学院大学と変更した。[[1905年]]（明治38年）8月に経済学科の設置によって中央大学と改称し、今に至っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
法曹界や官界、財界、政界に多くの卒業生を送り出している。大学付設の経理研究所は、学部の枠を越え広く会計学教育（[[中央大学経理研究所|経理研究所]]も参照）を提供している。現在、6学部・大学院7研究科・専門職大学院3研究科を擁し、卒業生数50万を超える総合大学であり、6学部10研究科がそれぞれ教育に力を入れている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 建学の精神（校訓・校是） ===&lt;br /&gt;
英吉利法律学校設立時の建学の精神は「實地應用ノ素ヲ養フ」であり、これをもとに建学の精神と[[学風]]をまとめて現在では「個人の自由の尊重と実証的・合理主義の学風」という表現にしている。「質実剛健」を校是としている。また、2010年の創立125周年に際して「行動する知性。－Knowledge into Action－」というユニバシーティ・メッセージを定めている&amp;lt;ref&amp;gt;http://www.chuo-u.ac.jp/chuo-u/about/a02_05_j.html&amp;lt;/ref&amp;gt;。&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
=== 学風および特色 ===&lt;br /&gt;
typo--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 教育および研究 ===&lt;br /&gt;
創立当初から実学教育重視の姿勢を取り、現在でも[[インターンシップ]]などの実践的教育に力を入れている。2003年度からは各学部の教育に加えて、学籍は各学部に置きながらも学部横断的に設置された課程に所属するファカルティリンケージプログラム (FLP) を導入し、学際分野でも実践的教育を行うようになった。現在、欧米・東アジアの大学を中心に約100校の派遣留学協定大学がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 通信教育課程 ====&lt;br /&gt;
戦後、[[連合国軍総司令部]](GHQ)の[[民間情報教育局]](CIE)により、イギリスの [[:en:University of London External System|University of London International Programmes]]（[[ロンドン大学]]通信教育課程）にならって、日本においても[[通信教育]]の制度を行うことが推奨され設置された。財団法人私立大学通信教育協会に加盟し、大学本部のある多摩キャンパスに事務局がある。通信教育部は、法学部の通信教育課程の実施に当たる組織であり、通信教育課程そのものは法学部に属する。大学通信教育の嚆矢と見なされているのは、英吉利法律学校が[[1885年]]（明治18年）の創設時に、通学できない人々のために講義録を郵送する校外生制度であるとされる。現在では、通年スクーリングや地方スクーリングなども行われている。なお、卒業までの平均学習年数は、1年生から入学した場合6～8年、3年生からの編入学は4～6年で、卒業率は7％程度（4年次以上の在籍者数のうち、卒業者数の占める割合）となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 沿革 ==&lt;br /&gt;
&#039;&#039;[[英吉利法律学校]]も参照のこと&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 略歴 ===&lt;br /&gt;
[[1885年]]（明治18年）に[[増島六一郎]]、[[菊池武夫 (法律家)|菊池武夫]]、[[穂積陳重]]ら当時の青年法律家有志18名によって[[英吉利法律学校]]として創立された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 年表 ===&lt;br /&gt;
[[File:Chuo University,1935.jpg|thumb|200px|学園創立50周年(1935年）]]&lt;br /&gt;
*[[1885年]]（明治18年）7月 - 英吉利法律学校設置認可。&lt;br /&gt;
*[[1885年]]（明治18年）9月 - 英吉利法律学校が[[東京府]][[神田区]][[神田錦町]]に開校し、初代校長[[増島六一郎]]、初代幹事[[渋谷慥爾]]が就任。&lt;br /&gt;
*[[1889年]]（明治22年）10月 - 東京法学院と改称。&lt;br /&gt;
*[[1903年]]（明治36年）8月 - 東京法学院大学と改称。学長制を新設し、[[菊池武夫 (法律家)|菊池武夫]]が就任。&lt;br /&gt;
*[[1905年]]（明治38年）8月 - 中央大学と改称。経済学科を開設。&lt;br /&gt;
*[[1909年]]（明治42年）9月 - 商業学科開講。&lt;br /&gt;
*[[1920年]]（大正9年）4月 - 中央大学、[[大学令]]により設立認可。法学部・経済学部・商学部、大学院、大学予科を設け、予科を第1部（法・経済）・第2部（商）に分ける。&lt;br /&gt;
*[[1926年]]（大正15年）8月 - 駿河台校舎完成、錦町より移転。&lt;br /&gt;
*[[1931年]]（昭和6年）4月 - 夜間学部開設。&lt;br /&gt;
*[[1944年]]（昭和19年）4月 - 中央工業専門学校（機械科・航空機科）設立。&lt;br /&gt;
*[[1948年]]（昭和23年）4月 - 通信教育部開設。　12月 - 経理研究所開設。&lt;br /&gt;
*[[1949年]]（昭和24年）4月 - 新制大学1部法・経済・商・工学部（土木工学・精密工学・電気工学・工業化学科）開設、2部法、経済学部開設。中央工業専門学校廃止。&lt;br /&gt;
*[[1949年]]（昭和24年）6月 - 日本比較法研究所開設。&lt;br /&gt;
*[[1951年]]（昭和26年）4月 - 文学部開設（1部文学科・史学科・2部文学科）。&lt;br /&gt;
*[[1951年]]（昭和26年）4月 - 新制大学院修士課程に法学研究科民事法・刑事法・政治学・英米法専攻、経済学研究科に経済学専攻・商学研究科に商学専攻を開設。&lt;br /&gt;
*[[1962年]]（昭和37年）4月 - 工学部を理工学部に改組。&lt;br /&gt;
*[[1963年]]（昭和38年）5月 - 創立80周年記念事業の一環として、理工学部校舎竣工。&lt;br /&gt;
*[[1964年]]（昭和39年）6月 - 経済研究所開設。&lt;br /&gt;
*[[1968年]]（昭和44年）　　- 学費値値上げ反対運動で自治会の要求が通る。全共闘運動で全国でも珍しく学生が勝利。&lt;br /&gt;
*[[1977年]]（昭和52年）11月 - [[中央大学多摩キャンパス|多摩キャンパス]]完成。&lt;br /&gt;
*[[1978年]]（昭和53年）4月 - 文系4学部、多摩キャンパスで授業開始。&lt;br /&gt;
*[[1979年]]（昭和54年）4月 - 社会科学研究所、企業研究所、人文科学研究所、保健体育研究所開設。&lt;br /&gt;
*[[1980年]]（昭和55年）3月 - 駿河台校舎完全閉鎖、後楽園キャンパスに8号館竣工。&lt;br /&gt;
*[[1985年]]（昭和60年）11月 - 創立100周年記念式典。&lt;br /&gt;
*[[1988年]]（昭和63年）11月 - 駿河台記念館落成式典。&lt;br /&gt;
*[[1992年]]（平成4年）7月 - 理工学研究所開設。&lt;br /&gt;
*[[1993年]]（平成5年）4月 - 総合政策学部開設。&lt;br /&gt;
*[[1996年]]（平成8年）4月 - 政策文化総合研究所開設。&lt;br /&gt;
*[[1999年]]（平成11年）12月 - [[アジア経済研究所]]の旧庁舎を購入。翌年4月から市ヶ谷キャンパスとして大学院の授業を開始。&lt;br /&gt;
*[[2002年]]（平成14年）4月 - 文学部に中国言語文化学科を設置。国際会計研究科（会計大学院；アカウンティングスクール）開設。&lt;br /&gt;
*[[2003年]]（平成15年）4月 - Faculty-Linkage Program（FLP）プログラム開設、創立125周年記念事業として後楽園キャンパスに新3号館竣工。&lt;br /&gt;
*[[2004年]]（平成16年）4月 - 法務研究科（法科大学院；ロースクール）開設。&lt;br /&gt;
*[[2005年]]（平成17年）4月 - 公共政策研究科（公共政策大学院）開設。&lt;br /&gt;
*[[2007年]]（平成19年）3月 - 法学部・経済学部・商学部・理工学部2部廃止（2000年度より募集停止）。&lt;br /&gt;
*[[2008年]]（平成20年）3月 - 文学部2部廃止（2001年度より募集停止）。&lt;br /&gt;
*[[2008年]]（平成20年）4月 - 理工学部に生命科学科を設置、戦略経営研究科戦略経営専攻（経営大学院；ビジネススクール）を開設、FLPに地域・公共マネジメントプログラムを開設。&lt;br /&gt;
*[[2009年]]（平成21年）4月 - 理工学部の土木工学科を都市環境学科に改称。&lt;br /&gt;
*[[2009年]]（平成21年）8月 - [[学生援護会]]の旧本社を購入。翌年4月から市ヶ谷田町キャンパス（中央大学ミドルブリッジ）として大学院の授業を開始。&lt;br /&gt;
*[[2010年]]（平成22年）4月 - 公共政策研究科、国際会計研究科を市ヶ谷田町キャンパス（中央大学ミドルブリッジ）に移設。戦略経営研究科にビジネス科学専攻（博士後期課程）を開設。&lt;br /&gt;
*[[2010年]]（平成22年）11月 - 創立125周年記念式典&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.chuo-u.ac.jp/chuo-u/news/contents_j.html?suffix=k&amp;amp;mode=top&amp;amp;topics=12536 創立125周年記念式典映像配信のご連絡]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 歴代校長・学長 ===&lt;br /&gt;
;英吉利法律学校校長&lt;br /&gt;
{|class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style&lt;br /&gt;
!代!!氏名!!就任時期&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|初代||[[増島六一郎]]||1885年9月 - 1889年10月&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
;東京法学院院長&lt;br /&gt;
{|class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style&lt;br /&gt;
!代!!氏名!!就任時期&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|初代||増島六一郎||1889年10月 - 1891年4月&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第二代||[[菊池武夫 (法律家)|菊池武夫]]||1891年4月 - 1903年8月&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
;東京法学院大学学長&lt;br /&gt;
{|class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style&lt;br /&gt;
!代!!氏名!!就任時期&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|初代||菊池武夫||1903年8月 - 1905年8月&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
*[[1903年]]（明治36年）より「専門学校令」による大学。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;学長&lt;br /&gt;
{|class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style&lt;br /&gt;
!代!!氏名!!就任時期&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|初代||菊池武夫||1905年8月 - 1912年7月&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第二代||[[奥田義人]]||1912年7月 - 1913年3月&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第三代||[[岡村輝彦]]||1913年3月 - 1914年6月&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第四代||奥田義人||1914年6月 - 1917年8月&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第五代||[[岡野敬次郎]]||1917年8月 - 1923年9月&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第六代||[[馬場愿治]]||1923年9月 - 1924年2月&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第七代||岡野敬次郎||1924年3月 - 1925年12月&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第八代||馬場愿治||1925年12月 - 1930年5月&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第九代||[[原嘉道]]||1930年5月 - 1939年3月&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第十代||[[林頼三郎]]||1939年3月 - 1947年3月&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第十一代||[[加藤正治]]||1948年7月 - 1949年3月&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第十二代||[[片山金章]]||1958年9月 - 1961年10月&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第十三代||[[升本喜兵衛]]||1961年10月 - 1967年3月&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第十四代||[[井上達雄]]||1967年4月 - 1968年4月&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第十五代||[[戸田修三]]||1968年12月 - 1969年3月&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第十六代||[[原田鋼]]||1969年5月 - 1969年8月&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第十七代||[[嶋崎昌]]||1969年11月 - 1972年11月&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第十八代||戸田修三||1972年11月 - 1981年11月&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第十九代||[[川口弘]]||1981年11月 - 1984年11月&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第二十代||[[川添利幸]]||1984年11月 - 1990年11月&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第二十一代||[[高木友之助]]||1990年11月 - 1993年11月&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第二十二代||[[外間寛]]||1993年11月 - 1999年11月&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第二十三代||[[鈴木康司]]||1999年11月 - 2002年11月&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第二十四代||[[角田邦重]]||2002年11月 - 2005年11月&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第二十五代||[[永井和之]]||2005年11月 - 2011年11月&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第二十六代||[[福原紀彦]]||2011年11月 - &lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 基礎データ ==&lt;br /&gt;
=== 所在地 ===&lt;br /&gt;
*[[中央大学多摩キャンパス|多摩キャンパス]]（東京都八王子市東中野742-1）&lt;br /&gt;
*後楽園キャンパス（東京都文京区春日1-13-27）&lt;br /&gt;
*市ヶ谷キャンパス（東京都新宿区市谷本村町42-8）&lt;br /&gt;
*市ヶ谷田町キャンパス（東京都新宿区市谷田町1-18）&lt;br /&gt;
*駿河台記念館（東京都千代田区神田駿河台3-11-5）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===象徴===&lt;br /&gt;
;校歌・応援歌・学生歌&lt;br /&gt;
*中央大学校歌「草のみどり」 （作詞：[[石川道雄]]、作曲：[[坂本良隆]]）&lt;br /&gt;
**現在歌われている校歌。歴代3番目のものである。&lt;br /&gt;
*中央大学応援歌「あゝ中央の若き日に」 （歌詞選定：中央大学学友会、作曲：[[古関裕而]]）&lt;br /&gt;
**代表的な応援歌。応援歌としては歴代2番目のものである。&lt;br /&gt;
*「[[惜別の歌]]」 （作詞：[[島崎藤村]]、作曲：[[藤江英輔]]）&lt;br /&gt;
**旧制中央大学予科の歌である。サークルや同窓会におけるコンパの締めなどによく歌われた。&lt;br /&gt;
*「首途の歌」&lt;br /&gt;
*「中大健児の歌」 （作詞：[[河尾俊雄]]、作曲：中央大学音楽研究会）&lt;br /&gt;
*「若き血潮」&lt;br /&gt;
*「伊豆逍遙歌」 （作詞作曲：[[村上道太郎]]）&lt;br /&gt;
*「中大節」&lt;br /&gt;
**[[近畿大学]]の近大節を元にしている。&lt;br /&gt;
;スクールカラー&lt;br /&gt;
*中央大学ブルー（[[藍色]]）とレッド（[[赤]]）の2色をスクールカラーとして定めている&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web |date=2009-02-23|url=http://www.chuo-u.ac.jp/visitor_alumni/kinkyo/vol_01/pdf/36p.pdf|title=中央大学の近況 創刊号|format=PDF|publisher=中央大学|accessdate=2014-06-22}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
;校章とシンボルマーク&lt;br /&gt;
*白門を表す白色で大学と中央の文字をあしらった校章のほか、「C」のシンボルマークもよく知られている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 教育および研究 ==&lt;br /&gt;
=== 組織 ===&lt;br /&gt;
==== 学部 ====&lt;br /&gt;
{{Multicol}}&lt;br /&gt;
*[[法学部]]&lt;br /&gt;
**[[法律学科]]&lt;br /&gt;
**:2014年度から、2年次からのコース制を採用。「法曹コース」、「公共法務コース」、「企業コース」を導入。&lt;br /&gt;
**[[国際企業関係法学科]]&lt;br /&gt;
**[[政治学科]]&lt;br /&gt;
**:2014年度から、2年次からのコース制を採用。「公共政策コース」、「地域創造コース」、「国際政治コース」、「メディア政治コース」を導入。&lt;br /&gt;
**通信教育課程（法律学科に相当）&lt;br /&gt;
*[[経済学部]]&lt;br /&gt;
**[[経済学科]]&lt;br /&gt;
**:学科科目は、学科基本科目のほか、経済総合クラスター科目、ヒューマンエコノミークラスター科目で構成。&lt;br /&gt;
**[[経済情報システム学科]]&lt;br /&gt;
**:学科科目には、学科基本科目のほか、企業経済クラスター科目と経済情報クラスター科目で構成。&lt;br /&gt;
**[[国際経済学科]]&lt;br /&gt;
**:学科科目には、学科基本科目のほか、貿易・国際金融クラスター科目と経済開発クラスター科目で構成。&lt;br /&gt;
**[[公共・環境経済学科]]&lt;br /&gt;
**:学科科目には、学科基本科目のほか、公共クラスター科目と環境クラスター科目で構成。&lt;br /&gt;
*[[商学部]]&lt;br /&gt;
*:各学科には、第二外国語必修のフレックスコースと、英語・中国語・朝鮮語・ドイツ語・フランス語・ロシア語のうち一言語を履修するのみで良い（第二外国語なし）フレックスPlus1コースの2コース制がある。plus1コースは募集定員が少なく（各学科30～40名程度）、一般入試での入学はフレックスコースと比較して難しい。なお、高大連携プログラム（県立岐阜商業高等学校など）による入学者は会計学科フレックスPlus1コース在籍として扱われる。また、plus1コース生は2年時よりプログラム科目と呼ばれる商学部独自の実学授業を優先的に履修することが可能（希望者は全員履修可）であり、必修科目の単位として認定される（フレックスコースの場合は抽選となる上、必修科目の単位認定とはならない等の制約がある）。会計学科生向けのアカウンタント・プログラムは経理研究所の授業との互換性があり、会計学科Plus1生のプログラム科目履修者のみ、「財務会計論」「原価計算論」は必修となる。このほか、フリーメジャー（学科自由選択）・コースというものがある。出願時に学科の指定を行わず、試験合格後の入学手続時に各学科フレックス・コースのいずれか一つを選択することができまる。また、1年次終了時には2年次以降の学科・コースを指定する機会があり、所属学科を自由に変更できる。1年次の成績によっては、フレックスPlus1・コースへの変更も可能。&lt;br /&gt;
**[[経営学科]]&lt;br /&gt;
**[[会計学科]]&lt;br /&gt;
**[[商業・貿易学科]]&lt;br /&gt;
**[[金融学科]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Multicol-break}}&lt;br /&gt;
*[[文学部]]&lt;br /&gt;
**[[人文社会学科]]&lt;br /&gt;
***国文学専攻&lt;br /&gt;
***:「上代文学」、「中古文学」、「中世文学」、「近世文学」、「近代文学」、「国語学」という専門領域がある&lt;br /&gt;
***英語文学文化専攻&lt;br /&gt;
***:入学した学生は基本的にイギリス文学、アメリカ文学、英語学の3つの分野のうちのどれかを選んで専門的に学ぶ&lt;br /&gt;
***ドイツ語文学文化専攻&lt;br /&gt;
***フランス語文学文化専攻&lt;br /&gt;
***中国言語文化専攻&lt;br /&gt;
***日本史学専攻&lt;br /&gt;
***東洋史学専攻&lt;br /&gt;
***西洋史学専攻&lt;br /&gt;
***哲学専攻&lt;br /&gt;
***:スタッフの専門領域は、大きく分けて西洋哲学と東洋哲学がある。西洋哲学は、古代ギリシア哲学、中世哲学、近世哲学、近代哲学、現代哲学（ドイツ哲学、フランス哲学、分析哲学）、科学哲学・科学史がある。一方、東洋哲学は、中国哲学（中国古代哲学、中国近世哲学）と日本思想に二分される&lt;br /&gt;
***社会学専攻&lt;br /&gt;
***社会情報学専攻&lt;br /&gt;
****情報コミュニケーションコース&lt;br /&gt;
****図書館情報学(記録情報学)コース&lt;br /&gt;
***教育学専攻&lt;br /&gt;
***心理学専攻&lt;br /&gt;
*[[理工学部]]&lt;br /&gt;
**[[数学科]]&lt;br /&gt;
**[[物理学科]]&lt;br /&gt;
**[[都市環境学科]]&lt;br /&gt;
***環境クリエーターコース&lt;br /&gt;
***都市プランナーコース&lt;br /&gt;
***:2年進級時にコース選択。3年進級時に変更も可能&lt;br /&gt;
**[[精密機械工学科]]&lt;br /&gt;
**[[電気電子情報通信工学科]]&lt;br /&gt;
**[[応用化学科]]&lt;br /&gt;
**[[経営システム工学科]]&lt;br /&gt;
**[[情報工学科]]&lt;br /&gt;
**[[生命科学科]]&lt;br /&gt;
**[[人間総合理工学科]]&lt;br /&gt;
*[[総合政策学部]]&lt;br /&gt;
*:「政策と文化の融合」を理念としている。外国語教育を重視しており、様々な第二外国語の授業を持つ。語種としては、独語・仏語・中国語・朝鮮語・アラビア語・マレーインドネシア語・露語・ペルシャ語の8種類。FPSと呼称されるが、これはFaculty of Policy Studies の略である。ただし、中央大学内部では「総政」（そーせー）などと呼ぶことのほうが多い。&lt;br /&gt;
**[[政策科学科]]&lt;br /&gt;
***プロフェッショナルコース - 法曹、国家公務員（Ｉ種）、国際機関職員など高度職業人の育成に主眼を置き、大学院進学や留学も視野に入れる&lt;br /&gt;
**[[国際政策文化学科]]&lt;br /&gt;
*教職課程&lt;br /&gt;
*:学部を問わず2年次から履修できる&lt;br /&gt;
*Faculty-linkage Program（FLP）&lt;br /&gt;
*:学部に所属しながら学際的にFLPの専攻テーマについて学ぶ。各プログラム定員は40人で、エントリーシート、1次に書類選考、2次に面接試験で選抜される。2年生から3年間、学部ゼミとは別途、FLPのゼミに所属する。プログラム修了者には卒業時に大学から修了証が授与される。&lt;br /&gt;
**国際協力プログラム&lt;br /&gt;
**環境プログラム&lt;br /&gt;
**ジャーナリズムプログラム&lt;br /&gt;
**スポーツ・健康科学プログラム&lt;br /&gt;
**地域・公共マネジメントプログラム&lt;br /&gt;
{{Multicol-end}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 大学院 ====&lt;br /&gt;
{{Multicol}}&lt;br /&gt;
*法学研究科 - 博士課程（前期・後期）&lt;br /&gt;
**公法専攻&lt;br /&gt;
**民事法専攻&lt;br /&gt;
**刑事法専攻&lt;br /&gt;
**国際企業関係法専攻&lt;br /&gt;
**政治学専攻&lt;br /&gt;
*経済学研究科 - 博士課程（前期・後期）&lt;br /&gt;
**経済学専攻&lt;br /&gt;
***前期課程の履修モデル（コース）&lt;br /&gt;
****経済学コース&lt;br /&gt;
****国際経済コース&lt;br /&gt;
****公共・地域経済コース&lt;br /&gt;
*商学研究科 - 博士課程（前期・後期）&lt;br /&gt;
**商学専攻&lt;br /&gt;
***前期課程のコース&lt;br /&gt;
****研究コース&lt;br /&gt;
****ビジネスコース&lt;br /&gt;
*文学研究科 - 博士課程（前期・後期）&lt;br /&gt;
**国文学専攻&lt;br /&gt;
**:研究分野は大きく国語学と国文学に分かれる&lt;br /&gt;
**英文学専攻&lt;br /&gt;
**:英文学、米文学、英語学の3分野にわたる講義・演習を開設&lt;br /&gt;
**独文学専攻&lt;br /&gt;
**:ドイツ語学、ドイツ文学、ドイツ思想、ドイツ文化学、ドイツ現代史の5分野を主な研究・教育の対象とする&lt;br /&gt;
**仏文学専攻&lt;br /&gt;
**中国言語文化専攻&lt;br /&gt;
**:研究分野は、中国語学、中国文学、中国文化学の3つに分かれる&lt;br /&gt;
**日本史学専攻&lt;br /&gt;
**東洋史学専攻&lt;br /&gt;
**:教育組織は、中国の古代史、中世史、近世史を専門とする3名の教員と、イスラーム（中東）、中央アジアの歴史を専門とする2名の教員から構成&lt;br /&gt;
**西洋史学専攻&lt;br /&gt;
**:古代オリエント史、ヨーロッパ中世史、ヨーロッパ近世史、社会史、アメリカ現代史を専門とする5名の専任教員がいる&lt;br /&gt;
**哲学専攻&lt;br /&gt;
**社会学専攻&lt;br /&gt;
**:政治・行政、階級・階層研究、社会病理、家族、都市・地域、社会学理論と社会学史を専門とするスタッフを擁し、隣接専攻の「社会情報学」と多くの面で協力（カリキュラムの乗り入れや協同研究）&lt;br /&gt;
**社会情報学専攻&lt;br /&gt;
**:メディア・コミュニケーション、社会意識と社会心理、社会調査とデータ解析、図書館情報学、記録情報学の5つの学問領域を柱とした教育研究を展開&lt;br /&gt;
**教育学専攻&lt;br /&gt;
**:教育哲学、教育史、教育方法学、教育社会学、教育行政学、生涯教育学という領域があり、それぞれ6人の専任教員が指導に当たっている&lt;br /&gt;
**心理学専攻&lt;br /&gt;
***前期課程のコース&lt;br /&gt;
****心理学コース&lt;br /&gt;
****:発達心理学、知覚心理学、認知心理学の教員が指導に当たる&lt;br /&gt;
****臨床心理学コース&lt;br /&gt;
****:教育臨床、司法臨床、精神医学、神経心理学の教員が指導に当たる&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Multicol-break}}&lt;br /&gt;
*理工学研究科&lt;br /&gt;
**数学専攻 - 博士課程（前期・後期）&lt;br /&gt;
**:代数学、幾何学、解析学、統計学、コンピュータ・サイエンスに大別して研究指導を展開&lt;br /&gt;
**物理学専攻 - 博士課程（前期・後期）&lt;br /&gt;
**:素粒子・宇宙物理、物性物理、生物物理、複雑系を研究課題として指導&lt;br /&gt;
**都市環境学専攻&amp;lt;ref&amp;gt;2013年度に土木工学専攻から名称変更&amp;lt;/ref&amp;gt; - 博士課程（前期・後期）&lt;br /&gt;
***前期課程のコース&lt;br /&gt;
****土木学コース&lt;br /&gt;
****環境マネジメントコース&lt;br /&gt;
****国際水環境学コース&lt;br /&gt;
**精密工学専攻 - 博士課程（前期・後期）&lt;br /&gt;
**:前期課程では、機械サイエンス系、メカトロニクス系、エコ・プロセス系に3区分した科目を配置し、各系別に履修モデルを提示&lt;br /&gt;
**電気電子情報通信工学専攻 - 博士課程（前期・後期）&lt;br /&gt;
**応用化学専攻 - 博士課程（前期・後期）&lt;br /&gt;
**:学生は機能・物性化学系（4研究室）、環境・プロセス化学系(4研究室)、生命・有機化学系(6研究室)のいずれかの研究室に配属される。おおまかに先端材料開発、バイオテクノロジー、化学反応プロセス、分析・物性解析といった分野を研究課題とする&lt;br /&gt;
**経営システム工学専攻 - 博士課程（前期・後期）&lt;br /&gt;
**:前期課程は、「経営工学」、「信頼性・安全性工学」、「数理システム工学」、「応用情報システム」の4つを中心に授業科目を系統的に配置&lt;br /&gt;
**情報工学専攻 - 博士課程（前期・後期）&lt;br /&gt;
**:前期課程では、「情報処理分野」、「情報数理分野」、「情報システム・ネットワークと情報セキュリティ分野」、「コンピュータを構成するハードウェアの高信頼性設計分野」の少なくとも1分野から課題にアプローチする&lt;br /&gt;
**生命科学専攻 - 博士課程（前期・後期）&lt;br /&gt;
**:2012年4月に開設。前期課程では生命機能解析、生命圏生物学、生命機能利用の3つの基幹分野を設置。履修モデルに沿って履修していくと各基幹分野における基礎から最先端の内容を学べるようにカリキュラムを構成。&lt;br /&gt;
**情報セキュリティ科学専攻 - 博士課程（後期）&lt;br /&gt;
**:前期課程の4つの専攻（数学専攻、電気電子情報通信工学専攻、経営システム工学専攻、情報工学専攻）に所属する専任教員を中心とした構成となっている。数学的基礎理論に関連した分野は数学専攻所属教員が、暗号理論・情報システム関連分野は情報工学専攻と電気電子情報通信専攻の所属教員が、電波・通信工学関連分野は電気電子情報通信工学専攻所属教員が、統計科学・非線形システム関連分野は経営システム工学専攻所属教員が担当&lt;br /&gt;
**副専攻&lt;br /&gt;
***環境・生命副専攻 - 博士課程（前期・後期）&lt;br /&gt;
***データ科学副専攻 - 博士課程（前期・後期）&lt;br /&gt;
***ナノテクノロジー副専攻 - 博士課程（前期・後期）&lt;br /&gt;
***電子社会・情報セキュリティ副専攻 - 博士課程（前期・後期）&lt;br /&gt;
***感性ロボティクス副専攻 - 博士課程（前期・後期）&lt;br /&gt;
*総合政策研究科 - 博士課程（前期・後期）&lt;br /&gt;
**総合政策専攻&lt;br /&gt;
**:前期課程では、「研究方法論」を学ぶ研究基礎科目に加え、「法政と経済」、「ビジネス政策」、「現代世界文明と国家」、「アジアの歴史と文化」という5つの研究指導分野の科目などからなる「研究発展科目」、演習科目からなる研究応用科目がある。後期課程の科目は、「法政策研究」、「公共政策研究」、「経営政策研究」という4つの研究指導分野の科目からなる。&lt;br /&gt;
*公共政策研究科 - 修士課程&lt;br /&gt;
**公共政策専攻&lt;br /&gt;
**:カリキュラムは「基礎科目」、「展開科目」、「リサーチプログラム」からなる。展開科目は、「法制度系」、「政治・行政系」、「経済系」、「社会工学系」の科目からなる。リサーチプログラムは演習科目などからなる。&lt;br /&gt;
*戦略経営研究科 - 博士課程（後期）&lt;br /&gt;
**ビジネス科学専攻&lt;br /&gt;
{{Multicol-end}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== [[専門職大学院]] =====&lt;br /&gt;
*アカウンティングスクール（国際会計研究科）&lt;br /&gt;
**国際会計専攻&lt;br /&gt;
*ロースクール（法務研究科）&lt;br /&gt;
**法務専攻&lt;br /&gt;
*ビジネススクール（戦略経営研究科）&lt;br /&gt;
**戦略経営専攻&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 主な附属機関・施設 ====&lt;br /&gt;
*研究所&lt;br /&gt;
**日本比較法研究所&lt;br /&gt;
**経理研究所&lt;br /&gt;
**経済研究所&lt;br /&gt;
**社会科学研究所&lt;br /&gt;
**企業研究所&lt;br /&gt;
**人文科学研究所&lt;br /&gt;
**保健体育研究所&lt;br /&gt;
**理工学研究所&lt;br /&gt;
**政策文化総合研究所&lt;br /&gt;
*研究開発機構&lt;br /&gt;
*産学官連携・知的財産戦略本部 （CLIP）&lt;br /&gt;
*図書館&lt;br /&gt;
**多摩キャンパス&lt;br /&gt;
***中央図書館&lt;br /&gt;
***法学部学生図書室&lt;br /&gt;
***経済学部学生図書室&lt;br /&gt;
***商学部学生図書室&lt;br /&gt;
***文学部専攻別図書室&lt;br /&gt;
***総合政策学部図書室&lt;br /&gt;
***大学院図書室&lt;br /&gt;
**後楽園キャンパス&lt;br /&gt;
***理工学部分館&lt;br /&gt;
***ビジネススクール図書室&lt;br /&gt;
**市ケ谷キャンパス&lt;br /&gt;
***ローライブラリー&lt;br /&gt;
**市ヶ谷田町キャンパス&lt;br /&gt;
***アカウンティングスクール図書室・文系大学院図書室&lt;br /&gt;
*映像言語メディアラボ&lt;br /&gt;
*情報環境整備センター&lt;br /&gt;
**多摩ITセンター&lt;br /&gt;
**後楽園ITセンター&lt;br /&gt;
**市ケ谷ITセンター&lt;br /&gt;
*キャリアセンター&lt;br /&gt;
*国際センター&lt;br /&gt;
*入学センター&lt;br /&gt;
*体育施設運営センター&lt;br /&gt;
*保健センター&lt;br /&gt;
*駿河台記念館&lt;br /&gt;
*寮（セミナーハウス）&lt;br /&gt;
**野尻湖セミナーハウス&lt;br /&gt;
**富浦臨海寮&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 中央大学経理研究所 =====&lt;br /&gt;
[[中央大学経理研究所]]の記事を参照。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 附属図書館 =====&lt;br /&gt;
多摩キャンパスに中央図書館、後楽園キャンパスに中央図書館理工学部分館、市ヶ谷キャンパスに市ヶ谷キャンパス図書館が置かれている。特に多摩キャンパスの中央図書館には17万冊の開架書庫と1685席の閲覧席を設けた大規模なものである。なおこのほかに各学部（文学部は各専攻・理工学部は各学科）にも図書館が設置されている。また[[1979年]]（昭和54年）にはEC資料センター（現在は[[EU情報センター]]）、[[1994年]]（平成6年）には[[国連寄託図書館]]にそれぞれ指定されており、国際機関資料を一般に公開している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 駿河台記念館 =====&lt;br /&gt;
[[Image:CUSurugadai.jpg|thumb|right|250px|[[駿河台記念館]]]]&lt;br /&gt;
1926年から[[1978年]]（昭和53年）の多摩移転まで使用されていた中央大学駿河台校舎を記念して、[[1985年]]（昭和60年）の創立100周年記念事業の一環としてその跡地に造られた中央大学の施設である。所在地は東京都[[千代田区]][[神田駿河台]]3-11-5であり、付近には[[明治大学]]や[[日本大学]]のキャンパスがある。現在は、卒業生組織である学員会が主に使用するほか、会議利用などの目的で外部貸し出しも積極的に行なわれている。施設として、レストラン・喫茶店・キャリアセンター支部などが入る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アクセス方法は、JR中央・総武線　御茶ノ水駅下車、徒歩3分・東京メトロ丸ノ内線　御茶ノ水駅下車、徒歩6分・東京メトロ千代田線　新御茶ノ水駅下車（B1出口）、徒歩3&lt;br /&gt;
分・都営地下鉄新宿線　小川町駅下車（B5出口）、徒歩5分。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
詳細は[http://www.chuo-u.ac.jp/chuo-u/kinenkan/index_j.html 中央大学駿河台記念館ホームページ]を参照のこと。&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
以下に関しては2006年1月特に特記すべき組織はないのでコメントアウト&lt;br /&gt;
===== 附属病院 =====&lt;br /&gt;
附属病院は…&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== ○○博物館 =====&lt;br /&gt;
○○博物館は…--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 研究 ===&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
※歴史的・社会的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述できる場合は、プログラムに関する列記以外に研究内容の特色を別途記すことも出来る。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 21世紀COEプログラム ====&lt;br /&gt;
[[21世紀COEプログラム]]として、1件のプロジェクトが採択された。&lt;br /&gt;
*[[2002年]]（平成14年）&lt;br /&gt;
*;情報・電気・電子&lt;br /&gt;
*:電子社会の信頼性向上と[[情報セキュリティ]]&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
==== 私立大学学術研究高度化推進事業 ====&lt;br /&gt;
※私立大学で[[私立大学学術研究高度化推進事業]]の採択がある場合はこの項目を立てて以下のように記述する。採択がない場合はこの節は立てない。ただし、書いていないのか未採択なのかの区別をつけるために「研究」節内で「&amp;lt;nowiki&amp;gt;*私立大学学術研究高度化推進事業の採択はない。&amp;lt;/nowiki&amp;gt;」と記述する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*○○事業&lt;br /&gt;
**○○センター&lt;br /&gt;
*○○事業&lt;br /&gt;
**○○センター--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 教育 ===&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
※以下のプログラムに指定されたプロジェクトがあれば、以下のように項目を作り記述する。採択がない場合、書いていないのか未採択なのかの区別をつけるために&amp;lt;nowiki&amp;gt;*○○プログラムの採択はない。&amp;lt;/nowiki&amp;gt;」と記述する。歴史的・社会的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述できる場合は、プログラムに関する列記以外に教育内容の特色を別途記すことも出来る。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
*;現代的教育ニーズ取組支援プログラム&lt;br /&gt;
**「中大・八王子方式」による地域活性化支援（2004年採択）&lt;br /&gt;
**産学連携教育による女性研究者・技術者育成（2006年採択）&lt;br /&gt;
*;[[特色ある大学教育支援プログラム]]&lt;br /&gt;
**アカデミックインターンシップの全学的展開（2003年採択）&lt;br /&gt;
**実学理念に基づく高大接続教育の展開（2004年採択）&lt;br /&gt;
*;大学教育の国際化推進プログラム&lt;br /&gt;
**中央大学長期海外留学支援プログラム（2006年採択）&lt;br /&gt;
*;法科大学院等専門職大学院形成支援プログラム&lt;br /&gt;
**法曹養成のための国際教育プログラムの形成（2004年採択）&lt;br /&gt;
**知的財産に関する先端的映像教材の開発（2004年採択）&lt;br /&gt;
**実務基礎教育の在り方に関する調査研究（2004年採択）&lt;br /&gt;
**国際的に活躍できる会計専門家の育成（2004年採択）&lt;br /&gt;
**会計大学院教育課程の国際水準への向上（2005年採択）&lt;br /&gt;
*;先導的ITスペシャリスト育成推進プログラム&lt;br /&gt;
**先導的ITスペシャリスト育成プログラム（2006年採択）&lt;br /&gt;
*;専門職大学院等における高度専門職業人養成教育推進プログラム&lt;br /&gt;
**グローバル化に対応した法曹養成プログラム（2008年採択）&lt;br /&gt;
*;グローバル人材育成推進事業&lt;br /&gt;
**グローバル人材育成推進事業（タイプＡ・全学型）（2012年採択）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 学生生活 ==&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
学生生活について記載する。学生自治会に関係する内容は、適宜下位の節に織り込む。--&amp;gt;&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
=== 部活動・クラブ活動・サークル活動 ===&lt;br /&gt;
※部活動・クラブ活動・サークル活動の概要をここで解説する。各大学によって、これら活動の呼称や範囲が異なっているので、学生組織の規約または大学事務局発行の資料などに基づいて適切な節名とする。全公認学生団体・部・サークルのリストを掲載しなければ大学に関して説明できないという特段の事情がある場合には、歴史的社会的にどのような価値を持つのかをふまえながらどのような事情であるのかを関係者以外でも理解できるように記述可能な場合のみ、事前にノートで合意を形成した上でこの節にまとめる。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
=== 学友会 ===&lt;br /&gt;
中央大学では、公認部会（サークル）及び公認を目指す未公認部会（サークル）は、すべて中央大学学友会に所属している。学友会は、大学側と学生側の双方から選出された委員により構成される中央委員会によって運営されている。会長は学長が就任している。学友会には以下の組織・機関が存在する。また、公認を目指さず、学友会に所属しないサークルも多数存在する。たとえば、[http://www.tokyo.jrc.or.jp/kyoryoku/volunteer/tokubetsu.html#shonen 学生赤十字奉仕団]は[[日本赤十字社]]から公認されているものの学友会には所属していない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、大学スポーツに関しては、原則として学友会の中でも更に体育連盟に所属する部会が、正式な代表権を有している。体育同好会連盟の部会や学友会に所属していないサークルは大学の公的な代表としてはみなされていないため、何らかの事情で体育連盟に加盟していないスポーツ競技の部会・サークルでは、対外試合を実施していないケースもある。ただし過去には、体育連盟に当該種目の部会が存在しなかった[[アメリカンフットボール]]同好会が、体育連盟の同意を得て、未公認団体（正確には設立申請団体～その後体育連盟に昇格）のまま、関東のリーグ戦に参加していた例もある。また、[[空手道]]のように流派が分かれている競技では、例外も存在する。なお、体育連盟所属部会には公欠制度があり、学長名による「課外活動にともなう授業配慮願（公欠届）」も存在するが、これは、公式試合等で授業を欠席し、通常単位取得に必要とされる出席日数に満たなかった場合に、一定の補完措置（補講受講やレポート提出等）をとった上で単位取得を認める配慮を求めるという趣旨のものであり、単に出席面で優遇するという性格のものではない。&lt;br /&gt;
*中央委員会&lt;br /&gt;
*部会長会&lt;br /&gt;
*連絡協議会&lt;br /&gt;
*連盟会議&lt;br /&gt;
*公認申請等に関する審議会&lt;br /&gt;
*インターネット運営委員会&lt;br /&gt;
*総務部&lt;br /&gt;
*監査部&lt;br /&gt;
*学術連盟&lt;br /&gt;
*文化連盟&lt;br /&gt;
*学芸連盟&lt;br /&gt;
*体育連盟（代表権を有するスポーツ部会）&lt;br /&gt;
*体育同好会連盟（体育連盟に当該種目の既存部会が存在するため、代表権を有さないスポーツ部会）&lt;br /&gt;
*理工連盟（後楽園キャンパスに本部を置く部会）&lt;br /&gt;
*学友連盟（主に二部学生を会員とする部会）&lt;br /&gt;
*未公認部会&lt;br /&gt;
（参考）[[1988年]]（昭和63年）[[1月30日]]に開催された「対学友会会長（＝学長）大衆会見」の共同宣言によって解消されることとなった「仮執行体制」下では、未公認部会の連盟である「白門連盟（白連）」と、「設立申請団体（設申）」が存在した。「仮執行体制」下では、部会公認に関するすべての手続きが凍結されていたため、「仮執行体制」開始時点での未公認部会が公認されないままで固定化していた。またこれ以降に新たに発足した部会も「設立申請書」が学友会事務室の窓口預かりのままとなっていた。前者が「白門連盟」を構成し、後者が「設立申請団体」）と呼ばれた。「仮執行体制」終焉に伴い、「白門連盟」所属部会及び「設立申請団体」の中で、既存公認連盟の公認基準を満たし、且つ当該部会が公認化を希望する部会については、既存公認連盟に移行し、それ以外の部会で、公認基準を満たし（「部会活動報告書」を基準年数以上提出し続けている部会又は、「部会活動報告書」は提出されていないものの、「白門連盟」執行部が基準年数以上の活動継続を認める証明書を発行した部会。）、且つ当該部会が公認化を希望する部会については、新設の学芸連盟又は体育同好会連盟に移行した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 学園祭 ===&lt;br /&gt;
学園祭は「白門祭」と呼ばれ、以下の3種類が存在し、多摩キャンパスにおいては白門祭実行委員会が、後楽園キャンパスにおいては理工白門祭実行委員会が、それぞれ運営する。&lt;br /&gt;
*新入生歓迎白門祭（5月中旬、多摩キャンパス）&lt;br /&gt;
*新入生歓迎文化祭・スポーツ大会（4月初旬、後楽園キャンパス）&lt;br /&gt;
*白門祭（11月初旬、多摩キャンパス・後楽園キャンパス共通）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== スポーツ ===&lt;br /&gt;
[[Image:第87回東京箱根間往復大学駅伝競走（中央大学）.JPG|thumb|right|250px|箱根駅伝での応援風景]]&lt;br /&gt;
*陸上競技部は[[東京箱根間往復大学駅伝競走|箱根駅伝]]で最多出場を誇るとともに、過去最多である14回（6連覇含む）の優勝をしている。&lt;br /&gt;
*[[中央大学硬式野球部|硬式野球部]]は[[東都大学野球連盟]]の設立時より加盟。東都リーグ24回、大学選手権3回、神宮大会1回の優勝をしている。OBには[[プロ野球]]選手も多い。早慶対抗戦に端を発する現在の[[東京六大学野球連盟]]から、かつて中央大学も加盟の誘いを受けていた。しかし当時の中央大学は様々な理由（「法科の中央が野球にうつつをぬかしていられない」「ライバル[[東京大学硬式野球部|東大]]が加入するなら加盟しない（この説には矛盾がある）」など様々な説がある）から断りを入れ、加盟しなかった。尚、東都大学野球連盟の設立経緯に関しては該当記事を参照。&lt;br /&gt;
*[[中央大学学友会サッカー部|サッカー部]]は[[関東大学サッカーリーグ]]一部所属、関東大学1部リーグ優勝5回、[[全日本大学サッカー選手権]]優勝8回、[[天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]優勝1回を誇る。また、関連チームの中大クラブにも天皇杯優勝1回がある。&lt;br /&gt;
*[[中央大学ラグビー部|ラグビー部]]は[[関東大学ラグビーリーグ戦グループ]]で1回の優勝経験がある。&lt;br /&gt;
*[[中央大学バスケットボール部|バスケットボール部]]は[[全日本学生バスケットボール選手権大会]]で3度優勝を果たしている。&lt;br /&gt;
*ボート部も強豪で毎年グリーンレガッタ等に参戦している。グリーンレガッタとは、中央大学・[[法政大学]]・[[日本体育大学]]・[[東京経済大学]]の4大学の定期戦で早慶レガッタ同様、現代の伝統の対抗戦で、毎年[[みどりの日]]（現昭和の日）に[[戸田漕艇場]]で行われている。2012年全日本ボート選手権大会団体戦種目エイト－準優勝。&lt;br /&gt;
*バレーボール部は、全日本総合6回、インカレ12回、東西インカレ1回の全国タイトル計19回を誇り、史上最多である。東日本インカレも4回制している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 大学関係者と組織 ==&lt;br /&gt;
=== 大学関係者組織 ===&lt;br /&gt;
中央大学のOB会・親睦会に「○○白門会」又は「白門○○会」という名前が付いた組織がある。関係者間では、OB組織を一般的に白門会と呼ぶことが多いが、白門会はあくまでも任意の団体である。中央大学の正式な同窓会は中央大学学員会である&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.chuo-u.ac.jp/chuo-u/gakuinkai/u05_01_05_j.html 中央大学学員会 学員会の目的・沿革]&amp;lt;/ref&amp;gt;。学員会費を支払っている学員（会員）が100名以上在籍する白門会が、学員会の正式な支部として認定される資格を持つ。支部には、地域支部、年次支部、職域等支部の3種類がある。白門会という名称は付いていないが、法曹の親睦団体である中央大学法曹会や中央大学出身の財界人による南甲倶楽部も白門会である。なお、同窓会館は、かつて中央大学が所在した神田駿河台（旧経理研究所跡）に駿河台記念館の名で置かれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 大学関係者一覧 ===&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
※大学関係者の一覧はプロジェクト‐ノート:大学/人物一覧記事についてで協議されたように大学の記事自体には挿入せず別に記事を作成する。ここでは、人物一覧記事へのリンクを列挙する。なお、大学の人物一覧記事に関してはプロジェクト:大学/人物一覧記事についての基準に従うこと。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
*[[中央大学の人物一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 施設 ==&lt;br /&gt;
=== キャンパス ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 多摩キャンパス ====&lt;br /&gt;
[[Image:Chuo univ tama.jpg|thumb|right|250px|多摩キャンパス]]&lt;br /&gt;
中央大学の本部があるメインキャンパスである。&lt;br /&gt;
{{main|中央大学多摩キャンパス}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 後楽園キャンパス ====&lt;br /&gt;
[[Image:Chuo univ korakuen.jpg|thumb|right|250px|後楽園キャンパス]]&lt;br /&gt;
理工学部が設置されているキャンパスで中央大学発祥の地である神田に近い。所在地は、東京都[[文京区]][[春日 (文京区)|春日]]である。キャンパス内には[[中央大学高等学校]],中央大学[[ビジネススクール]]なども併設されており、3号館などの一部の施設は共用となっている。[[2010年]]（平成22年）3月までは文系大学院教室も設置されていたが、市ヶ谷田町キャンパスの開校に伴い移転した。敷地面積は27,141m&amp;amp;sup2;である。[[東京ドーム]]や[[文京区]]役所に非常に近いほか、都心にありながら、[[礫川公園]]に隣接し、[[後楽園]]に近いこともあり、キャンパス周囲は緑が多い。&lt;br /&gt;
;アクセス&lt;br /&gt;
*[[東京メトロ丸ノ内線]]・[[東京メトロ南北線|南北線]]『[[後楽園駅]]』から徒歩5分&lt;br /&gt;
*[[都営地下鉄大江戸線|都営大江戸線]]『[[春日駅 (東京都)|春日駅]]』から徒歩5分&lt;br /&gt;
*[[都営地下鉄三田線|都営三田線]]『春日駅』から徒歩7分&lt;br /&gt;
*JR[[中央・総武緩行線|中央・総武線]]『[[水道橋駅]]』から徒歩15分&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 施設 =====&lt;br /&gt;
*1号館：学生生活課や保健センター、研究室や実験室がある。&lt;br /&gt;
*2号館：研究室、実験室がある。[[2011年]]（平成23年）2月に中央大学創立125周年事業の一環として7号館、屋外体育施設の位置に新2号館が竣工予定で、現2号館は[[2011年]]（平成23年）8月に解体予定である。&lt;br /&gt;
*3号館：もとは低層の建物であったが、[[2003年]]（平成15年）に中央大学創立125周年事業の一環として新たに建設された高層ビル。内部に実験施設、学生食堂、中央大学高等学校用の施設など様々な設備を備えた後楽園キャンパスのシンボル的存在である。また、中大の都心拠点としても機能している。&lt;br /&gt;
*4号館：研究室、実験施設がある低層棟である。&lt;br /&gt;
*5号館：アリーナ、学生食堂がある。&lt;br /&gt;
*6号館：理工学部事務室、図書館などがある。&lt;br /&gt;
*7号館：生協、サークル棟として使用されてきたが、新2号館の着工に伴って取り壊された。&lt;br /&gt;
*8号館：中央大学高等学校校舎として使用されている。&lt;br /&gt;
*屋外体育施設：新2号館の建設用地の一部となり廃止された。現2号館解体後にその跡地に再設置される予定である。&lt;br /&gt;
*正門(白門)：中央大学の異称である白門を模した物である。記念撮影スポットとなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 市ヶ谷キャンパス ====&lt;br /&gt;
[[ファイル:ChuoUniversity20120407.jpg|thumb|250px|市ヶ谷キャンパス（2012年4月）]]&lt;br /&gt;
大学院教育の充実と都心拠点整備のため[[2000年]]（平成12年）4月に設置され、法務研究科が使用するキャンパス。所在地は東京都[[新宿区]][[市谷本村町]]42-8、[[防衛省]]の隣に位置する。近傍の[[市谷田町]]1-18に市ヶ谷田町キャンパス（中央大学ミドルブリッジ）がある。[[2010年]]（平成22年）3月までは国際会計研究科も設置されていたが、市ヶ谷田町キャンパスの開校に伴い移転した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1999年]]（平成11年）7月のキャンパス購入から法務研究科の設置までの期間は、法職講座市ヶ谷研究室が設置され、[[司法試験]]受験者の講座や自習室が置かれていたが、法務研究科の際に駿河台記念館へ移転した。なお法務研究科1期生の修了に合わせて[[2006年]]（平成18年）4月から[[2010年]]（平成22年）3月まで市ヶ谷駅前に法職講座市ヶ谷別館（[[千代田区]][[五番町 (千代田区)|五番町]]4-7）を設置し、修了から司法試験合格までの学習拠点となる法務研修施設が使用してきたが、市ヶ谷田町キャンパスの開校に伴い移転した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当初は施設の狭隘さを指摘されたが、[[2006年]]（平成18年）4月に市ヶ谷別館を、[[2009年]]（平成21年）2月に法科大学院研究室別棟（新宿区[[本塩町]]19）を設置することで順次対応がなされてきた。これらについては[[2010年]]（平成22年）4月の市ヶ谷田町キャンパス開校によって抜本的な改善が図られた。&lt;br /&gt;
*食堂や生協施設のほか、学員の支援により設置され、室内後方には見学用座席も設けられている「模擬法廷」や、主に法科大学院学生用の書籍を中心に収蔵している図書館がある。&lt;br /&gt;
*正面入り口には中央大学創立者の[[増島六一郎]]、[[菊池武夫 (法律家)|菊池武夫]]の胸像が設置されている。&lt;br /&gt;
;アクセス&lt;br /&gt;
*[[都営地下鉄新宿線]]／[[曙橋駅]]（出口A3）下車　左手へ徒歩3分 &lt;br /&gt;
*[[東京メトロ丸ノ内線]]／[[四谷三丁目駅]]（出口4）下車　徒歩8分 &lt;br /&gt;
*[[都営地下鉄大江戸線]]／[[牛込柳町駅]]（原町一丁目出口）下車　徒歩13分 &lt;br /&gt;
*[[東京メトロ有楽町線]]・[[東京メトロ南北線|南北線]]／[[市ヶ谷駅]]下車　徒歩13分 &lt;br /&gt;
*[[総武本線|JR総武線]]／市ヶ谷駅下車　徒歩13分 &lt;br /&gt;
*JR総武線／[[四ッ谷駅]]（四ッ谷口）下車　徒歩15分&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 市ヶ谷田町キャンパス（中央大学ミドルブリッジ） ====&lt;br /&gt;
[[ファイル:中央大学市ヶ谷田町キャンパス（中央大学ミドルブリッジ）.JPG|250px|thumb|中央大学ミドルブリッジ（2012年12月）]]&lt;br /&gt;
大学院教育の充実と都心拠点整備のために設置された国際会計研究科と公共政策研究科が使用するキャンパス。所在地は市ヶ谷キャンパス（東京都[[新宿区]][[市谷本村町]]42-8）から徒歩10分ほどの[[市谷田町]]1-18。[[市ヶ谷駅]]6番出口前であり市ヶ谷キャンパスよりも利便性が高い。旧[[学生援護会]]本社ビルを[[2009年]]（平成21年）8月に取得し、[[2010年]]（平成22年）4月に開校した。市ヶ谷キャンパスから国際会計研究科、後楽園キャンパスから公共政策研究科、文系大学院教室が移転した。また[[2011年]]（平成23年）4月には公共政策研究科の多摩キャンパス開講科目も市ヶ谷田町キャンパスで行われることとなり、完全移転が実現した。ミドルブリッジとは中大創設者達が学んだイギリスの[[法曹院]]の一つ[[ミドル・テンプル]]への橋渡しと学生・教職員・学員（中大卒業生）相互の架け橋の2つの意味が込められた命名である。&lt;br /&gt;
;アクセス&lt;br /&gt;
*東京メトロ有楽町線・南北線／市ヶ谷駅（6番出口）下車　徒歩1分 &lt;br /&gt;
*JR総武線・都営地下鉄新宿線／市ヶ谷駅（A1出口）下車　徒歩5分&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====旧・錦町キャンパス====&lt;br /&gt;
[[1885年]]（明治18年）年7月の英吉利法律学校創設時より使用されたキャンパス。東京府神田区神田錦町2丁目2番地に所在していた。[[1926年]]（大正15年）[[8月]]に駿河台キャンパスを完成させ、移転した。その後、同地は電機学校（現:[[東京電機大学]]）に売却され、同大学が北千住に移転する2012年3月まで神田キャンパスとなっていた。2012年4月以降は住友商事による再開発が行われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====旧・駿河台キャンパス（現・駿河台記念館）====&lt;br /&gt;
[[ファイル:Chuo University circa 1930.JPG|thumb|250px|駿河台キャンパス（1930年頃）]]&lt;br /&gt;
1926年8月から[[1980年]]（昭和55年）3月に使用されたキャンパス。東京都心の神田駿河台地区（現・[[三井住友海上]]駿河台ビル一円）に所在していた。[[高度経済成長|高度経済成長期]]に入学者が増加して校舎が手狭となり、当時都心部にあった大学の郊外への移転が推進されていたこともあり、[[1978年]]（昭和53年）4月に多摩キャンパスに移転した。ただし新入生と在学生のうち2年生、3年生が多摩に移り、4年生は引き続き駿河台キャンパスでの就学が継続されたため、[[1980年]]（昭和55年）まで授業が行われた。現在、駿河台キャンパスの一部敷地（旧経理研究所跡）には駿河台記念館が建てられており、[[OB]]・[[OG]]の懇親会や[[大学入試]]などに利用されている。経理研究所の本部も引き続き駿河台記念館に設置されており、公認会計士試験受験対策や社会人講座を開講している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 中央大学講堂 =====&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
※講堂やホールに関する特記事項がある場合は、歴史的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述可能な場合、この節にまとめる。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[1955年]]（昭和30年）[[11月15日]]に行われた[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]の結党大会は駿河台の中央大学講堂で実施された。[[日本社会党]]も党大会を中央大学講堂で実施することが多かった。中央大学講堂は多摩への移転時に取り壊されており、現在は存在しない。&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
=== 学生会館 ===&lt;br /&gt;
○○大学には学生会館があり…&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
※学生会館に関する特記事項がある場合は、歴史的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述可能な場合、この節にまとめる。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 学生寮 ===&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
※学生寮などが設置されている場合には、歴史的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述可能な場合、この節にまとめる。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
一般学生および留学生を対象とする寮として2011年に国際寮を、2012年に国際交流寮を設置している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国際寮はJR豊田駅から北へ徒歩約8分に設置されている。ＵＲ都市機構の旧多摩平団地一棟（64戸）を借り上げ、1戸(3DK)に3人（留学生、交換留学生、日本人学生）で入居している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国際交流寮は京王線聖蹟桜ケ丘駅から徒歩8分に設置されている。国際寮とは異なり、個室タイプで一室に1名の学生が入居している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
対抗運動会を秋に開催し、両寮間の交流が図られている。&lt;br /&gt;
*国際寮&lt;br /&gt;
*国際交流寮&lt;br /&gt;
学友会体育連盟に所属部員のために下記の寮が設置されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一部専用の寮・合宿所を設置している部もあるが、スポーツ推薦入試制度を導入している部のほとんどの部員が南平寮で生活をしている。体育連盟として共同寮を設置されることも、これほどの規模で運営されることも極めて稀である。&lt;br /&gt;
*南平寮&lt;br /&gt;
*東豊田寮&lt;br /&gt;
*堀之内硬式野球部合宿所&lt;br /&gt;
*戸田ボート部合宿所&lt;br /&gt;
*葉山ヨット部合宿所&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
※そのほか、大学の施設に関する特記事項がある場合は、歴史的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述可能な場合、この節にまとめる。大学施設を独立した記事とする場合には別途設定されている基準に従う。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 対外関係 ==&lt;br /&gt;
=== 他大学との協定 ===&lt;br /&gt;
*[[東京12大学広報連絡協議会]]（[[神田五大学広報会議]]）&lt;br /&gt;
*[[学術・文化・産業ネットワーク多摩]]&lt;br /&gt;
*[[首都大学院コンソーシアム]]&lt;br /&gt;
*[[大学情報サミット]]&lt;br /&gt;
*:[[2005年]]（平成17年）に発足させた情報機関協定。他の加盟校は、五十音順に[[慶應義塾大学]]、[[法政大学]]、[[明治大学]]、[[立教大学]]、[[早稲田大学]]。&lt;br /&gt;
*[[全国私立大学FD連携フォーラム]]&lt;br /&gt;
*:[[2008年]]（平成20年）に発足させた[[ファカルティ・ディベロプメント|FD]]に関する日本で初の私立大学連携協定。発足当初からの連携校は[[関西大学]]、[[関西学院大学]]、慶應義塾大学、[[立命館大学]]、[[同志社大学]]、法政大学、明治大学、立教大学、早稲田大学。&lt;br /&gt;
*[[スーパー連携大学院]]&lt;br /&gt;
*:[[2007年]]（平成19年）に発足させた共同大学院設置を目的とする協定。2008年度に文部科学省の「戦略的大学連携支援事業（教育研究高度化型）」に採択された。他の加盟校は[[電気通信大学]]、[[北見工業大学]]、[[弘前大学]]、[[秋田県立大学]]、[[長岡技術科学大学]]、[[富山大学]]、[[信州大学]]、[[福井大学]]、[[三重大学]]、[[福岡工業大学]]、[[大分大学]]、[[崇城大学]]、[[熊本大学]]。&lt;br /&gt;
*個別に単位互換協定、図書館相互利用協定などを結んでいる大学&lt;br /&gt;
**[[日本医科大学]]&lt;br /&gt;
**[[首都大学東京]]&lt;br /&gt;
**[[東京外国語大学]]&lt;br /&gt;
**[[恵泉女学園大学]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 姉妹校 ===&lt;br /&gt;
*[[ミュンスター大学]]（ドイツ）&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
=== 関係校 ===&lt;br /&gt;
*[[○○大学]]&lt;br /&gt;
=== 系列校 ===&lt;br /&gt;
*[[○○大学]]&lt;br /&gt;
※姉妹校・関係校・系列校は大学あるいは設置者が正式に発表しているものをその表現で扱う。創立者が同一など歴史的に関係があるとしても大学あるいは設置者が正式にその事実を明確に発表していないものは掲載しない。たとえ地方公共団体やマスメディアが記事として取り上げていた内容であっても大学が正式に公表していない事例は掲載しない。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 社会との関わり ==&lt;br /&gt;
[[Image:Statue of Themis.jpg|thumb|250px|right|多摩キャンパスに設置されているテミス像]]&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
※これまでの節で言及されず、かつ特記する事象がある場合、この節を設ける。&lt;br /&gt;
※この節で取り扱う内容は、歴史的にどのような価値を持つのかがその大学をほとんど知らない人にも理解でき、かつ、学外で取り上げられた事象とする。具体的には&lt;br /&gt;
*政治・経済・国際関係・戦争&lt;br /&gt;
*哲学・科学・教育・学芸文化&lt;br /&gt;
*文学・音楽・芸術・スポーツ&lt;br /&gt;
*社会通念・制度・宗教・地域社会&lt;br /&gt;
等とその大学がどのように関わったかという事例が考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
※当該大学にとって不名誉な内容であってもそれが社会的に大きな意味を持つ場合には、その事象が大学とどのように関わり、社会的・歴史的にどのような意義を持ち、さらにWikipediaを利用する人に理解できる文章で記述できるのであれば掲載可能である。逆に大学にとって広報したい名誉な内容についてもその事象が大学とどのように関わり、Wikipediaで掲載しておく必要性を社会的・歴史的な意義をきちんと明示しながらWikipediaを利用する人に理解できる文章で記述できるのであれば掲載可能である。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 法曹養成 ===&lt;br /&gt;
==== [[高等文官試験]]司法科 ====&lt;br /&gt;
行政科・司法科・外交科に分かれていた高等文官試験において、行政科では東京大学、京都大学に次ぐ3番目の合格者数であったが、司法科では東京大学に次ぐ2番目の合格者数であり、当時から特に司法分野での実績でより優れた結果を残していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== [[旧司法試験]] ====&lt;br /&gt;
出身大学別[[司法試験]]合格者数は、[[1951年]]（昭和26年）から[[1970年]]（昭和45年）まで1位であった。しかし、学生運動の激化や多摩移転の影響もあって低迷期を迎え、1970年代から1980年代にかけて[[東京大学]]と1位を争うようになり「&#039;&#039;&#039;中東戦争&#039;&#039;&#039;」とまで言われた&amp;lt;ref&amp;gt;「東大首位に返り咲く　司法試験の合格者中大抜き20年ぶり」朝日新聞 1971年10月2日付朝刊、第23面&amp;lt;/ref&amp;gt;。その後は、3位～5位まで順位を下げていたものの、トップ5の常連としての地位を確立していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== [[新司法試験]] ====&lt;br /&gt;
第1回目の司法試験では、中央大学[[法科大学院]]出身者（受験者数239名、最終合格者数131名）が合格者数1位であった&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.moj.go.jp/SHIKEN/SHINSHIHOU/h18kekka.html 法務省/平成18年新司法試験の結果]&amp;lt;/ref&amp;gt;。その後は、2012年度に再び1位の座を獲得している。2013年度の司法試験では、中央大学は合格者数4位であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 職業会計人養成 ===&lt;br /&gt;
[[公認会計士試験]]合格者数は、試験開始年から1970年代まで1位であった。しかし、80年代頃から[[慶應義塾大学]]・[[早稲田大学]]などの都心部の大学に抜かれる低迷期が訪れることとなる。1980年代～1990年代までは[[東京大学]]や[[一橋大学]]にも抜かれ、5位～7位まで順位を下げていたものの、経理研究所の強化（専任講師の増員、WEB授業の導入）や試験制度変更により、2000年代以降は3位前後をキープしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、税理士に関しては合格者数1位を維持している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 白門 ===&lt;br /&gt;
{{Double image aside|right|Kinenstage.jpg|250|白門‐後楽園.jpg|250|多摩キャンパス 100周年記念ステージ|後楽園キャンパス 正門(白門)}}&lt;br /&gt;
「白門（はくもん）」という異称をもち、すでに[[大正]]年間には白門とよばれていた。大学の文献に初めて登場するのが、[[1928年]]（昭和3年）に学生サークルである政治学会と[[辞達学会]]（弁論部）が共同主催で募集した、学生歌の一節であるという。後に中大職員となる同歌の作者は、[[朝日新聞]]の取材に対して、「（正確には記憶していないが）大学の徽章が白かった（から白門では）」と回顧している（[[1961年]]（昭和36年）[[3月1日]]付朝日新聞夕刊4面）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実際の建造物としての白門は、[[1959年]]（昭和34年）7月に当時の[[駿河台]]校舎に幅1.2m、高さ3.6mの白御影つくりの正門が建設されている（現存せず）。また、白門の一部（かつての駿河台校舎の門柱・玄関）をイメージしたものは、多摩キャンパス内に移設され「100周年記念ステージ」として保存されている。また、後楽園キャンパス正門の色も白であり、「白門」と呼ばれている。徽章や門が白い理由は通信教育課程で教授等の話によると「何ものにも染まらないという意思の表れ」であるという。（「白」は中立公正である証）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 李登輝 前総統 インターネット講演会 ===   &lt;br /&gt;
[[2003年]]（平成15年）[[12月12日]]、中央大学の学内施設の貸出許可が取消されたことにより中央大学の学生団体が急遽「[[よみうりランド]]会館」に会場を変更、[[台湾]]とを繋いだ[[李登輝]] 前[[台湾総統]]による[[インターネット]]講演会が行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 附属学校 ==&lt;br /&gt;
学校法人中央大学では、中央大学の[[附属学校]]として4校の[[高等学校]]と2校の[[中学校]]を設置している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初めて中等教育に進出したのは[[1928年]]（昭和3年）の中央大学商業学校設置からである。この中央大学商業学校を前身として[[1948年]]（昭和23年）に中央大学高等学校が設置された。また[[1952年]]（昭和27年）には[[学校法人杉並学園]]と合併して杉並高等学校を中央大学杉並高等学校に改称するとともに杉並中学校は廃止した。この中央大学杉並高等学校は[[1963年]]（昭和38年）に小金井市に移転したのを期に中央大学附属高等学校に改称した。なおこの移転と同時に、校名と校地・校舎を引き継いで改めて中央大学杉並高等学校が設置された。[[2010年]]（平成22年）にははじめての附属中学校として中央大学附属高等学校に中学校を併設している。更に[[2010年]]（平成22年）には[[学校法人横浜山手女子学園]]と合併して横浜山手女子中学・高等学校を中央大学横浜山手中学・高等学校に改称した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 附属校 ===&lt;br /&gt;
*[[中央大学附属中学校・高等学校]]&lt;br /&gt;
*[[中央大学附属横浜中学校・高等学校]]&lt;br /&gt;
*[[中央大学杉並高等学校]]&lt;br /&gt;
*[[中央大学高等学校]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 協議中 ===&lt;br /&gt;
*[[文京区立第三中学校]]&lt;br /&gt;
**文京区教育委員会より2009年度から中央大学高等学校と隣接する区立第三中学校での[[中高一貫]]教育（教員派遣と、一定数の生徒の中大高校への受け入れ等）の提案を受け、協議を行っている。どのような関係になるのかはまだ決定していない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;div class=&amp;quot;references-small&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
== Wiki関係他プロジェクトリンク ==&lt;br /&gt;
2006年1月現在特になし&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
※Wikipedia以外の姉妹プロジェクトへのリンクはここでまとめる。具体的な姉妹プロジェクトはメインページ参照。--&amp;gt;&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
[[2006年]]（平成18年）1月現在特になし&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
※大学に関する関連項目は原則として本文中にリンクする。関連項目は原則として使用しない。たとえば何かの説明をするために創立者の出身地を紹介する必要がある場合には必要とする項目へ記載する。本文では説明できないが関連項目として他の記事にリンクをする必要がある場合には事前にノートで理由とともに提案を行い、同意が得られた場合にのみ掲載できる。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== Wiki関係他プロジェクトリンク ==&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
※Wikipedia以外の姉妹プロジェクトへのリンクはここでまとめる。具体的な姉妹プロジェクトはメインページ参照。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{Commonscat|Chuo University}}&lt;br /&gt;
*[[b:メインページ|ウィキブックス（Wikibooks）]]&lt;br /&gt;
**[[b:中央大対策|中央大対策]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 公式サイト ==&lt;br /&gt;
*[http://www.chuo-u.ac.jp/ 中央大学]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www.linkedin.com/groupInvitation?groupID=1519487&amp;amp;sharedKey=11E01F5B02D5 Chuo University Alumni in LinkedIn]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{学校法人中央大学}}&lt;br /&gt;
{{東京12大学広報連絡協議会}}&lt;br /&gt;
{{首都大学院コンソーシアム}}&lt;br /&gt;
{{大学コンソーシアム八王子}}&lt;br /&gt;
{{八王子学園都市大学}}&lt;br /&gt;
{{全国私立大学FD連携フォーラム}}&lt;br /&gt;
{{財団法人私立大学通信教育協会}}&lt;br /&gt;
{{明治時代の法律学校}}&lt;br /&gt;
{{日本の高等商業学校・旧制商科大学}}&lt;br /&gt;
{{univ-stub}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ちゆうおう}}&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;この項目は、[[プロジェクト:大学|ウィキプロジェクト 大学]]の[[プロジェクト:大学/大学テンプレート (日本国内)|テンプレート]]を使用しています。&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:中央大学|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:学校記事]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>2001:3B0:10:C:0:0:0:1072</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E8%BF%91%E9%89%84%E5%9B%9B%E6%97%A5%E5%B8%82%E9%A7%85&amp;diff=14599</id>
		<title>近鉄四日市駅</title>
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		<updated>2014-07-17T15:04:00Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;2001:3B0:10:C:0:0:0:1072: /* 利用状況 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{otheruses|近畿日本鉄道の鉄道駅|[[JR東海]]・[[JR貨物]]の鉄道駅|四日市駅}}&lt;br /&gt;
{{駅情報&lt;br /&gt;
|社色 = #cc0033&lt;br /&gt;
|文字色 = &lt;br /&gt;
|駅名 = 近鉄四日市駅*&lt;br /&gt;
|画像 = 近鉄四日市駅ビル.jpg&lt;br /&gt;
|pxl = &lt;br /&gt;
|画像説明 = 駅ビル&lt;br /&gt;
|よみがな = きんてつ よっかいち&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
|ローマ字 = KINTETSU-YOKKAICHI -&lt;br /&gt;
|電報略号 = ヨカ&lt;br /&gt;
|所属事業者 = [[近畿日本鉄道]]（近鉄）&lt;br /&gt;
|所在地 = [[三重県]][[四日市市]]安島一丁目1-56&lt;br /&gt;
|緯度度 = 34 | 緯度分 = 58 | 緯度秒 = 1.2&lt;br /&gt;
|経度度 = 136 |経度分 = 37 | 経度秒 = 7.25&lt;br /&gt;
|開業年月日 = [[1913年]]（[[大正]]2年）[[9月24日]]&amp;lt;!--四日市鉄道諏訪駅--&amp;gt;&lt;br /&gt;
|廃止年月日 =&lt;br /&gt;
|駅構造 = [[高架駅]]・[[地上駅]]&lt;br /&gt;
|ホーム = 3面6線（高架）&amp;lt;br /&amp;gt;1面2線（地上）&lt;br /&gt;
|乗車人員 = 21,103&lt;br /&gt;
|乗降人員 = &lt;br /&gt;
|統計年度 = 2012年&lt;br /&gt;
|乗入路線数 = 4&lt;br /&gt;
|所属路線1 = [[近鉄名古屋線|名古屋線]]&lt;br /&gt;
|前の駅1 = [[川原町駅|川原町]]&lt;br /&gt;
|駅間A1 = 1.2&lt;br /&gt;
|駅間B1 = 1.2&lt;br /&gt;
|次の駅1 = [[新正駅|新正]]&lt;br /&gt;
|駅番号1 =&lt;br /&gt;
|キロ程1 = 36.9&lt;br /&gt;
|起点駅1 = &amp;lt;nowiki&amp;gt;**&amp;lt;/nowiki&amp;gt;[[近鉄名古屋駅|近鉄名古屋]]&lt;br /&gt;
|所属路線2 = [[近鉄湯の山線|湯の山線]]&lt;br /&gt;
|前の駅2 = &lt;br /&gt;
|駅間A2 = &lt;br /&gt;
|駅間B2 = 1.7&lt;br /&gt;
|次の駅2 = [[中川原駅|中川原]]&lt;br /&gt;
|キロ程2 = 0.0&lt;br /&gt;
|起点駅2 = 近鉄四日市&lt;br /&gt;
|所属路線3 = [[近鉄内部線|内部線]]&amp;lt;br /&amp;gt;（[[近鉄八王子線|八王子線]]直通含む）&lt;br /&gt;
|前の駅3 = &lt;br /&gt;
|駅間A3 = &lt;br /&gt;
|駅間B3 = 1.0&lt;br /&gt;
|次の駅3 = [[赤堀駅|赤堀]]&lt;br /&gt;
|キロ程3 = 0.0&lt;br /&gt;
|起点駅3 = 近鉄四日市&lt;br /&gt;
|乗換 =&lt;br /&gt;
|備考 = ** 正式な起点は[[伊勢中川駅]]&lt;br /&gt;
|備考全幅 = * 改称経歴&amp;lt;br /&amp;gt;- [[1956年]] 諏訪駅→近畿日本四日市駅&amp;lt;br /&amp;gt;- [[1970年]] 近畿日本四日市駅→近鉄四日市駅&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
[[ファイル:近鉄四日市駅内部線のりば.jpg|thumb|270px|内部線側の駅舎]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:近鉄四日市駅ホーム（2,3番のりば）.jpg|thumb|270px|ホーム（2,3番のりば）]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:近鉄四日市駅ホーム（パノラマ）.jpg|thumb|400px|近鉄四日市駅ホーム（右より1,2,3,4,5,6番のりば）]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;近鉄四日市駅&#039;&#039;&#039;（きんてつよっかいちえき）は、[[三重県]][[四日市市]]安島一丁目にある、[[近畿日本鉄道]]（近鉄）の[[鉄道駅|駅]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
四日市市の中心部に位置し、平日は1日491本の列車が発着する三重県最大の[[ターミナル駅]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[近鉄名古屋線|名古屋線]]・[[近鉄湯の山線|湯の山線]]・[[近鉄内部線|内部線]]が乗り入れている。湯の山線・内部線は当駅が起点である。また、[[近鉄八王子線|八王子線]]の全列車は、起点の[[日永駅]]から内部線経由で当駅まで乗り入れるため、計4路線の列車が乗り入れている形になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 駅構造 ==&lt;br /&gt;
名古屋線・湯の山線が使用する高架駅舎と、内部線が使用する地上駅舎に分かれ、両者は改札外連絡となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 名古屋線・湯の山線（高架駅舎） ===&lt;br /&gt;
[[プラットホーム#形状と配置|島式ホーム]]3面6線を持つ[[高架駅]]である。地上11階・地下1階の駅ビルに接続しており、2階が改札・[[コンコース]]、3階がホームとなっている。各階にはエレベーター、上りエスカレーターが設置されている。改札口は南北に各1ヶ所が設けられている。2006年2月末までは、東側に[[近鉄百貨店]]（当時は[[中部近鉄百貨店]]）四日市店への直通の改札口が設けられていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
名古屋線のホームは内側2線（2番線と3番線）を主本線、外側2線（1番線と4番線）を待避線としている。ホーム[[有効長]]は、1 - 4番線が[[停止位置目標]]で8両（設計上は10両まで可能&amp;lt;ref&amp;gt;『最近20年のあゆみ』近畿日本鉄道株式会社編、1980年10月1日、p104&amp;lt;/ref&amp;gt;だが、ホームが10両分ない）、5番線が6両、6番線が4両である。湯の山線ホームは分岐の関係上、伊勢中川寄りにずれて設置されている。&lt;br /&gt;
=== 内部線（地上駅舎） ===&lt;br /&gt;
島式ホーム1面2線を持つ[[地上駅]]で、湯の山線の高架下にある。名古屋線・湯の山線コンコースとは改札外だが陸橋で連絡している。改札口はホーム頭端部に位置する。内部線ホームの有効長は3両である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== のりば ===&lt;br /&gt;
近鉄の中では最も[[プラットホーム|ホーム]]の番号が多い。7・8番のりばは地上駅時代に存在し、現在は欠番だが名古屋線の[[引き上げ線]]を7番線、湯の山線の引き上げ線を8番線としている。&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- 下表の行先表記は、2009年3月20日改正時点のホーム吊り下げ案内標識の記載に合わせた。同改正後時点で「神戸」の記載追加確認済 ---&amp;gt;&lt;br /&gt;
{| border=&amp;quot;1&amp;quot; cellspacing=&amp;quot;0&amp;quot; cellpadding=&amp;quot;3&amp;quot; frame=&amp;quot;hsides&amp;quot; rules=&amp;quot;rows&amp;quot; style=&amp;quot;border-top:double 3px black; border-bottom:double 3px black;&amp;quot;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!style=&amp;quot;text-align:left&amp;quot; colspan=3|高架駅舎&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 1・2&lt;br /&gt;
| {{Color|#cc0033|■}}名古屋線（下り）&lt;br /&gt;
| [[津駅|津]]・[[鳥羽駅|鳥羽]]・[[賢島駅|賢島]]・[[大阪難波駅|大阪]]・[[三宮駅|神戸]]方面（一部4・5番のりば）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 3・4&lt;br /&gt;
| {{Color|#cc0033|■}}名古屋線（上り）&lt;br /&gt;
| [[桑名駅|桑名]]・[[近鉄名古屋駅|名古屋]]方面&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!rowspan=2|5&lt;br /&gt;
|{{Color|#cc0033|■}}名古屋線（上り）&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot; | 桑名・名古屋方面（昼間の当駅発着急行）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| {{Color|#cc0033|■}}湯の山線&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot; |  [[湯の山温泉駅|湯の山温泉]]行き&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 6&lt;br /&gt;
| {{Color|#cc0033|■}}湯の山線&lt;br /&gt;
| 湯の山温泉行き&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!colspan=3 style=&amp;quot;border-top:double 3px black; text-align:left&amp;quot;|地上駅舎&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 9・10&lt;br /&gt;
| {{Color|#cc0033|■}}内部・八王子線&lt;br /&gt;
| [[内部駅|内部]]・[[西日野駅|西日野]]方面&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 構内店舗 ===&lt;br /&gt;
* 1・2番のりば - [[ファミリーマート]]（小型店舗）&lt;br /&gt;
* 3・4番のりば - ファミリーマート（小型店舗）&lt;br /&gt;
* 名古屋・湯の山線改札内コンコース - ファミリーマート(コンビニ型店舗・[[PiTaPa]]・[[iD (クレジット決済サービス)|iD]]が利用可能）、Kornblume（ベーカリーショップ）&lt;br /&gt;
* 南口改札前 - [[マツモトキヨシ]]近鉄四日市店、軽食店舗、チャオプレッソ(カフェ)&lt;br /&gt;
* 内部線改札前 - ファミリーマート&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 駅設備 ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:近鉄四日市駅南改札口.jpg|thumb|270px|近鉄四日市駅南改札口]]&lt;br /&gt;
[[日本信号]]製の自動改札機が設置されている。南改札口にICカード専用改札が1基設置されている&amp;lt;ref&amp;gt;2013年7月初頭に、近鉄名古屋線内では初めて設置。&amp;lt;/ref&amp;gt;他は、全て赤い自動改札機が設置されており、出場時2枚一括処理、[[PiTaPa]]・[[ICOCA]]など全国の交通系ICカードに対応している。また、自動精算機は北改札口と南改札口に各1台設置されている。ICカード履歴確認、高額紙幣に対応したタッチパネル式の精算機である。 [[スルッとKANSAI]]はエリア外のため、使用できない。ただし、公式にはアナウンスされていないがタッチパネル式の券売機及び内部線改札口の2台あるうちの1台の券売機にこれらを投入して切符の購入が可能である。&lt;br /&gt;
名古屋線・湯の山線と内部・八王子線の乗り換えの際、自動改札機を通した切符は回収されない。ただし、回数券カード（パールカード11・オフピークチケット・サンキューチケット）から引き換えた乗車券は回収される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[反転フラップ式案内表示機]]（ソラリー）による[[発車標]]が改札コンコースと名古屋線・湯の山線ホームに、行灯式の発車標が内部・八王子線ホームに設置されている。&lt;br /&gt;
2009年11月頃に構内アナウンスの自動放送が更新され、特急列車を除き列車接近時の放送に両数案内が行われる。特急列車の場合、到着後の放送に発車時刻を追加している。ただし当駅では[[白子駅]]、[[津駅]]などで流れる「&#039;&#039;&#039;次の、○時○分発・□□□行き・特急にご乗車のお客様は、あと暫くお待ち下さい&#039;&#039;&#039;」と言うアナウンスは省略されている。構内アナウンス更新に伴い、次の停車駅の案内がなくなっている。2011年3月3日から、近鉄百貨店営業時間帯に限り到着時の放送に「&#039;&#039;&#039;四日市、四日市、近鉄百貨店前です&#039;&#039;&#039;」というアナウンスが流れるようになった。内部・八王子線ホームは引き続き発車ベルのみとなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[駅長]]が置かれ、名古屋線の[[川原町駅]] - [[楠駅]]間と、湯の山線・内部線・八王子線の各駅を管理している&amp;lt;ref&amp;gt;『HAND BOOK 2010』、近畿日本鉄道総合企画部編、2010年9月&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ダイヤ ==&lt;br /&gt;
[[近鉄特急#名伊特急|名伊]]・[[近鉄特急#名阪特急|名阪甲特急]]（近鉄名古屋線内を途中[[津駅]]のみ停車する特急）を除き、すべての列車が停車する。また、ほぼすべての[[普通列車|普通]]が特急・急行と連絡し、一部の普通は特急・急行の2本を待避する。2本待避の際は10分程度の長時間停車となる。名古屋方面へは特急、急行の順に到着し、一部の急行は特急を待避する。塩浜で特急を待避した急行は、[[新正駅|新正]]付近から当駅付近まで徐行運転または本線上で信号待ちの停車をすることが多い。津方面へは急行、特急の順に到着する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2013年から運行開始された観光特急「しまかぜ」は当駅に停車し、津駅は通過している&amp;lt;ref&amp;gt;{{PDFlink|[http://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/20120928shimakaze.pdf 次世代新型観光特急「しまかぜ」、平成25年3月21日デビュー!]}} - 近畿日本鉄道株式会社、2012年9月28日付ニュースリリース&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
近鉄名古屋駅 - 当駅間に準急が設定されている。ほとんどの準急は当駅で普通列車に種別変更し[[伊勢中川駅]]または[[津新町駅]]まで直通する。ラッシュ時に近鉄名古屋駅 - 当駅間を4両・5両編成で走る準急は、当駅から津方面の普通となる際に2両と2両・3両に切り離され、切り離された車両は塩浜駅に回送もしくは後発の普通列車として運転される。一部の名古屋行き準急は待避線の4番線で増結を行うが、平日朝の1本については3番線で増結し、作業中は4番線で急行が客扱いを行うという逆転現象が起こる。これは、駅南方の側線から入線する増結車が4番線へ直接進入できないためである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、平日朝7時台の当駅始発の名古屋線下り（津新町行き）普通列車と、昼間の当駅始発名古屋行き急行が、本来は湯の山線ホームである5番のりばから発車する。土曜・休日の6時台には、名古屋方面ホームの4番のりばから伊勢中川行きの普通列車が発車する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平日早朝には[[近鉄鈴鹿線|鈴鹿線]]直通急行が当駅を始発として運転される。この列車は近鉄名古屋駅 - 当駅間を普通として運行し、当駅で鈴鹿線直通急行に系統変更する。&amp;lt;!--休日は側線にワンマン対応の[[近鉄1010系電車|1010系]]、[[近鉄2000系電車|2000系]]、[[近鉄2430系電車|2444系]]のいずれかが待避し、時間になってホームに入線する方式をとる。←2012年ダイヤ変更で廃止--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
内部・八王子線は、基本的に9番のりばに内部行き、10番のりばに西日野行きが発着するが、朝ラッシュ時はこの限りではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
夜間停泊が3本設定されており、名古屋線や湯の山線、内部・八王子線で各1本設定されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 利用状況 ==&lt;br /&gt;
県下最大の都市の中心部に位置することもあり、三重県内の鉄道駅ではJR・その他の私鉄も含め最多の利用客を誇る。また、中部地方の私鉄駅の利用者数では[[名鉄名古屋駅]]、[[金山駅 (愛知県)|金山駅]]、[[近鉄名古屋駅]]に次いで多く、三重県下はもとより、名古屋市以外の[[東海地方]]を走る全ての私鉄駅でも最多を誇る（ただし、[[岐阜市]]や[[豊橋市]]、[[津市]]など、東海地方の他の有力都市では私鉄駅とJR駅が中心駅において一体化していたり、至近距離にあったりすることも多く、利用者数を単純に中心市街地の賑わいと置き換えることには注意が必要である）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「三重県統計書」によると、1日の平均乗車人員は以下の通りである。&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 年度 !! 一日平均&amp;lt;br /&amp;gt;乗車人員&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 1997年 || 26,855&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 1998年 || 25,920&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 1999年 || 24,892&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2000年 || 24,345&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2001年 || 23,467&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2002年 || 22,006&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2003年 || 21,693&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2004年 || 21,375&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2005年 || 21,658&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2006年 || 21,909&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2007年 || 21,797&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2008年 || 21,642&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2009年 || 20,727&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2010年 || 20,633&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2011年 || 20,720&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2012年 || 21,103&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
近鉄四日市駅の利用状況の変遷を下表に示す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。&lt;br /&gt;
* 輸送実績（乗車人員）の単位は人/年度である。&amp;lt;!--年度間の比較に適したデータである。←当然すぎる--&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 乗降人員調査結果は任意の1日における値（単位：人）である。調査日の天候・行事等の要因によって変動が大きいので年度間の比較には注意を要する。&lt;br /&gt;
** 2012年11月13日の調査結果によると、1日の利用客は47,102人（前回2010年11月9日の調査では51,496人）。&amp;lt;!--近鉄ホームページより---&amp;gt;&lt;br /&gt;
*** 近鉄の全調査対象駅（287駅）中、10位。&amp;lt;!--最新に更新---&amp;gt;&lt;br /&gt;
*** 名古屋線の駅（44駅、他線接続駅含む）の中、近鉄名古屋駅に次いで2位。&lt;br /&gt;
*** 三重県内の近鉄の駅（116駅）の中では最多。&lt;br /&gt;
{{-}}&lt;br /&gt;
{{hidden begin&lt;br /&gt;
|title = 年度別利用状況（近鉄四日市駅）&lt;br /&gt;
|titlestyle = background:lightgrey;}}&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; border=&amp;quot;1&amp;quot; cellspacing=&amp;quot;0&amp;quot; cellpadding=&amp;quot;2&amp;quot; style=&amp;quot;font-size:90%; text-align:right; width:100%;&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! rowspan=&amp;quot;2&amp;quot;|年 度&amp;lt;br /&amp;gt;[年 度]&lt;br /&gt;
! colspan=&amp;quot;4&amp;quot;|当駅分輸送実績（乗車人員）[人/年度]&lt;br /&gt;
! colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|乗降人員調査結果&amp;lt;br /&amp;gt;[人/日]&lt;br /&gt;
! rowspan=&amp;quot;2&amp;quot;|特 記 事 項&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align: center; font-weight: normal;&amp;quot;|通勤定期&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align: center; font-weight: normal;&amp;quot;|通学定期&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align: center; font-weight: normal;&amp;quot;|定期外&lt;br /&gt;
!合 計&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;text-align: center; font-weight: normal;&amp;quot;|調査日&lt;br /&gt;
!調査結果&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;font-weight: normal;&amp;quot;|1956（昭和31）&lt;br /&gt;
|4,733,340&lt;br /&gt;
|←←←←&lt;br /&gt;
|3,432,887&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;8,166,227&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|&amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
|&amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
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|5,449,440&lt;br /&gt;
|←←←←&lt;br /&gt;
|4,352,730&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;9,802,170&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|&amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
|&amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
|&amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;font-weight: normal;&amp;quot;|1998（平成10）&lt;br /&gt;
|5,280,840&lt;br /&gt;
|←←←←&lt;br /&gt;
|4,179,985&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;9,460,825&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|&amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
|&amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
|&amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;font-weight: normal;&amp;quot;|1999（平成11）&lt;br /&gt;
|5,046,960&lt;br /&gt;
|←←←←&lt;br /&gt;
|4,063,437&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;9,110,397&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|&amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
|&amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
|&amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;font-weight: normal;&amp;quot;|2000（平成12）&lt;br /&gt;
|4,859,370&lt;br /&gt;
|←←←←&lt;br /&gt;
|4,026,573&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;8,885,943&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|&amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
|&amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
|&amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;font-weight: normal;&amp;quot;|2001（平成13）&lt;br /&gt;
|4,591,350&lt;br /&gt;
|←←←←&lt;br /&gt;
|3,974,247&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;8,565,597&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|&amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
|&amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
|&amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;font-weight: normal;&amp;quot;|2002（平成14）&lt;br /&gt;
|4,284,900&lt;br /&gt;
|←←←←&lt;br /&gt;
|3,747,268&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;8,032,168&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|&amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
|&amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
|&amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;font-weight: normal;&amp;quot;|2003（平成15）&lt;br /&gt;
|4,267,380&lt;br /&gt;
|←←←←&lt;br /&gt;
|3,672,428&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;7,939,808&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|&amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
|&amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
|&amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;font-weight: normal;&amp;quot;|2004（平成16）&lt;br /&gt;
|4,232,010&lt;br /&gt;
|←←←←&lt;br /&gt;
|3,569,965&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;7,801,975&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|&amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
|&amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
|&amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;font-weight: normal;&amp;quot;|2005（平成17）&lt;br /&gt;
|4,266,030&lt;br /&gt;
|←←←←&lt;br /&gt;
|3,639,276&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;7,905,306&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|11月8日&lt;br /&gt;
|52,309&lt;br /&gt;
|&amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;font-weight: normal;&amp;quot;|2006（平成18）&lt;br /&gt;
|4,330,680&lt;br /&gt;
|←←←←&lt;br /&gt;
|3,666,103&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;7,996,783&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|&amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
|&amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
|&amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;font-weight: normal;&amp;quot;|2007（平成19）&lt;br /&gt;
|4,309,440&lt;br /&gt;
|←←←←&lt;br /&gt;
|3,668,117&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;7,977,557&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|&amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
|&amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
|&amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;font-weight: normal;&amp;quot;|2008（平成20）&lt;br /&gt;
|4,284,750&lt;br /&gt;
|←←←←&lt;br /&gt;
|3,614,649&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;7,899,399&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|11月18日&lt;br /&gt;
|52,378&lt;br /&gt;
|&amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;font-weight: normal;&amp;quot;|2009（平成21）&lt;br /&gt;
|4,156,140&lt;br /&gt;
|←←←←&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;background-color: #ccffff;&amp;quot;|3,409,082&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;7,565,222&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|&amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
|&amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
|&amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;font-weight: normal;&amp;quot;|2010（平成22）&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;background-color: #ccffff;&amp;quot;|4,097,730&lt;br /&gt;
|←←←←&lt;br /&gt;
|3,433,433&lt;br /&gt;
| style=&amp;quot;background-color: #ccffff;&amp;quot;|&#039;&#039;&#039;7,531,163&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|11月9日&lt;br /&gt;
|51,496&lt;br /&gt;
|&amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;font-weight: normal;&amp;quot;|2011（平成23）&lt;br /&gt;
|4,104,060&lt;br /&gt;
|←←←←&lt;br /&gt;
|3,479,503&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;7,583,563&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|&amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
|&amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
|&amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;font-weight: normal;&amp;quot;|2012（平成24）&lt;br /&gt;
|4,139,850&lt;br /&gt;
|←←←←&lt;br /&gt;
|3,562,790&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;7,702,640&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|11月13日&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;background-color: #ccffff;&amp;quot;|47,102&lt;br /&gt;
|&amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
{{hidden end}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- 出展：三重県統計書各年度版 近鉄広報発行パンフレット「きんてつ」 --&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 駅周辺 ==&lt;br /&gt;
{{Double image aside|none|四日市ふれあいモール.jpg|250|四日市市立博物館.jpg|250|近鉄四日市駅前ふれあいモール|四日市市立博物館}}&lt;br /&gt;
{{Double image aside|none|ララスクエア四日市、四日市都ホテル.jpg|250|近鉄四日市駅東の西新地.jpg|250|ララスクエア四日市、四日市都ホテル|駅東（奥のビルは三重銀行本店ビル）}}&lt;br /&gt;
[[ファイル:近鉄四日市駅西口.jpg|thumb|500px|近鉄四日市駅西口方面]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:近鉄四日市駅東口方面.jpg|thumb|500px|近鉄四日市駅東口方面]]&lt;br /&gt;
当駅周辺の商業地区は三重県最大であり、[[東海地方]]では[[名古屋市]]、[[静岡市]]、[[浜松市]]に次いで多く、東海地方の[[政令指定都市]]以外ではトップで2位の[[豊橋市]]、[[豊田市]]の2倍以上の規模を有している&amp;lt;ref&amp;gt;「駅周辺型商業集積地区」年間商品販売額 経済産業省 2007年 http://www.meti.go.jp/&amp;lt;/ref&amp;gt;{{リンク切れ|date=2011年9月}}&amp;lt;!--内容を示す情報にたどり着くことができません--&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[近鉄百貨店]]四日市店 - 駅ビル&lt;br /&gt;
* [[ララスクエア四日市|LaLasquare四日市]]（ララスクエア）&lt;br /&gt;
** [[アピタ]]四日市店&lt;br /&gt;
** [[109シネマズ]]四日市&lt;br /&gt;
** [[宮脇書店]]四日市本店&lt;br /&gt;
** [[アミューズメントパーク]]&lt;br /&gt;
** [[セリア (100円ショップ)|セリア]]ララスクエア店&lt;br /&gt;
* [[じばさん三重]]（ララスクエアとつながっている）&lt;br /&gt;
* [[四日市都ホテル]]&lt;br /&gt;
* [[三交イン]]四日市駅前（1 - 2Fはテナントが入居）&lt;br /&gt;
** [[コメダ|コメダ珈琲]]&lt;br /&gt;
** 唐辛子（[[韓国料理]]）&lt;br /&gt;
** 司（[[和食]]）&lt;br /&gt;
** エメフィール（ランジェリーファンデーション）&lt;br /&gt;
** V-EX by ヴァンス（レディスファッション）&lt;br /&gt;
** レトロガール（レディスファッション）&lt;br /&gt;
** ジ・エンポリアム（レディスファッション）&lt;br /&gt;
* ふれあいモール（近鉄高架下周辺）&lt;br /&gt;
** グルメパーク（飲食）、ファッションストリート（ファッション）&lt;br /&gt;
* [[四日市スターアイランド|スターアイランド]]&lt;br /&gt;
* 四日市一番街&lt;br /&gt;
* 四日市二番街&lt;br /&gt;
* 四日市三番街&lt;br /&gt;
* 四日市市立博物館&lt;br /&gt;
* [[四日市市文化会館]]&lt;br /&gt;
* [[四日市市立図書館]]&lt;br /&gt;
* 鵜森公園・浜田城跡&lt;br /&gt;
* [[諏訪神社 (四日市市)|諏訪神社]]・諏訪公園&lt;br /&gt;
* [[四日市市役所]]&lt;br /&gt;
* [[四日市郵便局 (三重県)|四日市郵便局]]&lt;br /&gt;
* [[三重銀行]]本店&lt;br /&gt;
* [[住友電装]]本社&lt;br /&gt;
* [[レオパレス]]ホテル四日市&lt;br /&gt;
* [[アニメイト]]四日市店&lt;br /&gt;
* 近畿日本鉄道名古屋輸送統括部（旧・名古屋営業局）&lt;br /&gt;
* [[古川学園向陽台高校]]&lt;br /&gt;
* [[ヤマダ電機]]テックランド四日市店&lt;br /&gt;
* [[ニトリ]]四日市店&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== バス路線 ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:近鉄四日市駅南バスのりば.jpg|thumb|270px|近鉄四日市駅南バスのりば]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:近鉄四日市駅東バスのりば（一番街商店街）.jpg|thumb|270px|近鉄四日市駅東バスのりば]]&lt;br /&gt;
[[三重交通]]&lt;br /&gt;
* 西のりば&lt;br /&gt;
** 0番乗り場&lt;br /&gt;
*** 空港高速系統： [[中部国際空港]]&lt;br /&gt;
*** [[京都 - 四日市・津・伊勢線|京都高速系統]]： [[京都駅]]八条口 （[[土山バスストップ]]経由。[[京阪バス]]と共同運行）&lt;br /&gt;
*** [[三重交通四日市営業所#四日市大阪高速線|大阪高速系統]]： [[東梅田駅|大阪駅前]]・[[新大阪駅]]北口 （土山バスストップ経由）&lt;br /&gt;
** 1番乗り場&lt;br /&gt;
*** 41系統： 笹川団地・笹川ジャブ （南日永経由）&lt;br /&gt;
*** 41系統： 笹川テニス場 （南日永経由）&lt;br /&gt;
*** 65・66系統 高花平 （笹川通り経由）　※平日のみ&lt;br /&gt;
** 2番乗り場&lt;br /&gt;
*** 44系統： あがたハイツ （美里ヶ丘経由）&lt;br /&gt;
*** 46系統： 三重団地 （生桑町経由）&lt;br /&gt;
*** 75系統： [[高角駅|近鉄高角駅]] （神前経由） ※[[四日市市自主運行バス]]&lt;br /&gt;
** 3番乗り場&lt;br /&gt;
*** 03系統： 桜リサーチパーク （松本駅前・桜花台経由） ※1日1本&lt;br /&gt;
*** 04系統： 悠彩の里 （[[中川原駅|中川原駅前]]・松本駅前経由）&lt;br /&gt;
*** 78系統： 桜台 （大井手経由）&lt;br /&gt;
*** 80系統： 桜花台 （[[伊勢松本駅|松本駅前]]・桜台団地経由）&lt;br /&gt;
*** 80系統： 桜リサーチパーク （松本駅前・桜台団地・桜花台経由） ※1日1本&lt;br /&gt;
* 南のりば&lt;br /&gt;
** 4番乗り場&lt;br /&gt;
*** 71系統： 福王山 （川原崎経由）&lt;br /&gt;
** 5番乗り場&lt;br /&gt;
*** 01・12・43・66・94系統： 市立病院&lt;br /&gt;
*** 95・96系統： ガーデンハウス東日野&lt;br /&gt;
** 6番乗り場&lt;br /&gt;
*** 61系統： 宮妻口 （室山・高花平経由）&lt;br /&gt;
*** 62系統： 山本・[[椿大神社]] （室山・高花平経由）&lt;br /&gt;
*** 63系統： 小山田病院 （室山・高花平経由）&lt;br /&gt;
*** 64系統： 高花平 （室山経由） ※平日のみ1日1本&lt;br /&gt;
** 7番乗り場&lt;br /&gt;
*** 43系統： [[三重県立総合医療センター|県立総合医療センター]] （泊山経由）&lt;br /&gt;
*** 51系統： 和無田改善センター （[[内部駅|内部駅前]]経由）&lt;br /&gt;
*** 53系統： [[平田町駅]] （内部駅前経由）&lt;br /&gt;
*** 53系統： 佐々木記念館 （内部駅前経由）&lt;br /&gt;
** 8番乗り場&lt;br /&gt;
*** 20系統： [[鈴鹿市駅]]・三交鈴鹿 （河原田経由）&lt;br /&gt;
** 指定なし&lt;br /&gt;
*** [[大宮・東京 - 鳥羽・南紀線|東京高速系統1]]： [[西武バス大宮営業所]] （[[立川駅]]北口・[[新宿駅]]西口・[[池袋駅]]東口・[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]西口経由。[[西武観光バス]]、[[三交伊勢志摩交通]]と共同運行）&lt;br /&gt;
*** 東京高速系統1： 西武バス大宮営業所 （[[YCAT]]（[[横浜駅]]）・池袋駅東口・大宮駅西口経由。西武観光バス、三交伊勢志摩交通と共同運行）&lt;br /&gt;
*** 東京高速系統2： 「[[いが号]]」 [[品川バスターミナル]] （[[横浜駅]]東口経由）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 東のりば&lt;br /&gt;
** 10番乗り場&lt;br /&gt;
*** 61・62・63・64・65・71系統： [[四日市駅|JR四日市]]&lt;br /&gt;
*** 95系統： [[四日市港]] （JR四日市・千歳町経由）&lt;br /&gt;
*** 96系統： 四日市港 （JR四日市・曙町経由）&lt;br /&gt;
** 11番乗り場&lt;br /&gt;
*** 01系統： JR四日市 （東新町経由）&lt;br /&gt;
*** 02系統： 市内循環 （JR四日市・北条町経由） ※朝夕のみ&lt;br /&gt;
** 12番乗り場&lt;br /&gt;
*** 11系統： 新小杉・Jヒルズ ※朝一本のみ近鉄四日市発バスが東芝四日市工場まで延長&lt;br /&gt;
*** 12系統： 垂坂・Jヒルズ・[[東芝|東芝四日市工場]]・垂坂駐車場&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[三岐鉄道]]バス&lt;br /&gt;
* 南のりば&lt;br /&gt;
** 4番乗り場&lt;br /&gt;
*** [[山城駅|山城駅前]] （みたき総合病院前・坂部ヶ丘・大沢台・あさけが丘3丁目経由）&lt;br /&gt;
*** [[山城駅|山城駅前]] （みたき総合病院前・坂部ヶ丘・東芝四日市工場北門・四日市大学・あさけが丘3丁目経由）&lt;br /&gt;
*** [[暁学園前駅|暁学園駅前]] （みたき総合病院前・坂部ヶ丘経由） ※平日のみ1日1本&lt;br /&gt;
*** [[四日市大学]]前 （みたき総合病院前・坂部ヶ丘経由）&lt;br /&gt;
*** [[山城駅|山城駅前]] （末永・坂部ヶ丘・あさけが丘3丁目経由）&lt;br /&gt;
*** あさけが丘3丁目 （末永・坂部ヶ丘経由） ※深夜バス金曜日のみ&lt;br /&gt;
*** 四日市大学前 （直行）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その他&lt;br /&gt;
* 四日市市民公園前&lt;br /&gt;
** WILLER EXPRESS： [[川崎駅]] （新宿駅西口経由） （[[ベイラインエクスプレス]]）&lt;br /&gt;
** JAMJAMライナー： [[東京ディズニーランド|東京ディズニーランド・バス・ターミナル・アネックス]] （YCAT、高速バス西新宿経由） （[[ジャムジャムエクスプレス]]）&lt;br /&gt;
** コトバスエクスプレス： コトバスステーション琴平 （[[徳島駅]]、[[高松駅 (香川県)|高松駅]]経由） （[[琴平バス]]） ※ [[松山駅 (愛媛県)|松山駅]]東行、[[高知駅]]行に連絡&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
* [[1913年]]（[[大正]]2年）[[5月16日]] - 三重軌道（現・内部線）諏訪前 - 南浜田間開通時に同線の&#039;&#039;&#039;諏訪前駅&#039;&#039;&#039;開業&amp;lt;ref name=&amp;quot;kinhist&amp;quot;&amp;gt;[http://www.kintetsu.jp/kouhou/History/A20006.html 公式サイト]による。ただし駅名は『日本鉄道旅行地図帳 8号 関西1』新潮社、pp.31-32、および『[http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=43016435&amp;amp;VOL_NUM=00000&amp;amp;KOMA=105&amp;amp;ITYPE=0 全国鉄道いろは順線別駅名鑑]』鉄道公認運送取扱人組合中央会、1920年、p.187（国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより）による。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* [[1913年]]（大正2年）[[9月24日]] - [[四日市鉄道]]（現・湯の山線）諏訪 - 川島村（現・[[伊勢川島駅|伊勢川島]]）間開通時に同線の&#039;&#039;&#039;諏訪駅&#039;&#039;&#039;開業。&lt;br /&gt;
* [[1915年]]（大正4年）[[12月25日]] - 三重軌道四日市市 - 諏訪前間が延伸開業。&lt;br /&gt;
* [[1916年]]（大正5年）[[3月3日]] - 四日市鉄道四日市（後に四日市市と改称） - 諏訪間が延伸開業。&lt;br /&gt;
* 1916年（大正5年）[[7月19日]] - 三重軌道の路線が[[三重鉄道]]に移管される。&lt;br /&gt;
* [[1922年]]（大正11年）[[3月1日]] - 伊勢鉄道（現・名古屋線）海山道 - 新四日市（後に四日市と改称）間開通時に省線駅前に開業。&lt;br /&gt;
* [[1926年]]（大正15年）[[9月12日]] - 伊勢鉄道の社名変更により、伊勢鉄道四日市駅が[[伊勢電気鉄道]]の駅となる。&lt;br /&gt;
* [[1927年]]（[[昭和]]2年）[[11月29日]] - 四日市鉄道の四日市市 - 諏訪間が廃止。&lt;br /&gt;
* [[1928年]]（昭和3年）[[1月29日]] - 三重鉄道の四日市市 - 諏訪前間が廃止。諏訪前駅を廃止し四日市鉄道諏訪駅に統合。&lt;br /&gt;
* [[1929年]]（昭和4年）[[1月30日]] - 伊勢電気鉄道の桑名 - 四日市間延伸時に同線の諏訪駅開業。&lt;br /&gt;
* [[1931年]]（昭和6年）[[3月1日]] - 三重鉄道が四日市鉄道を合併。諏訪駅は伊勢電気鉄道と三重鉄道の駅となる。&lt;br /&gt;
* [[1936年]]（昭和11年）[[9月15日]] - [[参宮急行電鉄]]が伊勢電気鉄道を合併。伊勢電の諏訪駅と四日市駅が参宮急行電鉄伊勢線の駅となる。&lt;br /&gt;
* [[1938年]]（昭和13年）[[12月7日]] - 参宮急行電鉄で線路名称改定。諏訪駅と四日市駅は名古屋線所属となる。&lt;br /&gt;
* [[1941年]]（昭和16年）[[3月15日]] - [[大阪電気軌道]]が参宮急行電鉄を合併、[[関西急行鉄道]]に改称。参急の諏訪駅と四日市駅が関西急行鉄道の駅となる。&lt;br /&gt;
* [[1944年]]（昭和19年）[[2月11日]] - 会社合併により三重鉄道諏訪駅が[[三重交通]]の駅となる。&lt;br /&gt;
* [[1944年]]（昭和19年）[[6月1日]] - 関西急行鉄道と南海鉄道が合併して近畿日本鉄道が成立。関急の諏訪駅と四日市駅が近畿日本鉄道の駅となる。&lt;br /&gt;
* [[1956年]]（昭和31年）[[9月23日]] - 近鉄名古屋線の海山道 - 川原町間経路変更に伴い同線の四日市駅廃止。近鉄と三重交通の諏訪駅を現在地に移転、&#039;&#039;&#039;近畿日本四日市駅&#039;&#039;&#039;に改称。&lt;br /&gt;
* [[1964年]]（昭和39年）[[2月1日]] - 三重交通の鉄道事業が三重電気鉄道として分社され、近鉄と三重電気鉄道の駅となる。&lt;br /&gt;
* 1964年（昭和39年）[[3月23日]] - 湯の山線の[[改軌]]に伴い、同線と内部線が分断。&lt;br /&gt;
* [[1965年]]（昭和40年）[[4月1日]] - 近畿日本鉄道が三重電気鉄道を合併。近鉄単独駅となる。&lt;br /&gt;
* [[1970年]]（昭和45年）[[3月1日]] - &#039;&#039;&#039;近鉄四日市駅&#039;&#039;&#039;に改称。&lt;br /&gt;
* [[1971年]]（昭和46年）[[12月8日]] - 高架化工事開始により名古屋線 - 湯の山線の直通運転休止及び名古屋線の待避線撤去&amp;lt;ref&amp;gt;『80年のあゆみ』近畿日本鉄道株式会社編、1990年10月1日、p213&amp;lt;/ref&amp;gt;。代替として[[阿倉川駅]]に待避線設置&amp;lt;ref&amp;gt; 『鉄道ピクトリアル』（電気車研究会）1971年12月号（No.258）p.91&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* [[1973年]]（昭和48年）[[3月11日]] - 名古屋線上り線・湯の山線高架化。&lt;br /&gt;
* 1973年（昭和48年）[[10月11日]] - 名古屋線下り線高架化。&lt;br /&gt;
* [[1974年]]（昭和49年）[[6月29日]] - 内部線四日市駅移設。&lt;br /&gt;
* 1974年（昭和49年）[[7月3日]] - 高架化完成。名古屋線の待避線復活。&lt;br /&gt;
* [[1975年]]（昭和50年）[[5月9日]] - 高架下店舗「パティオ近鉄」開業。&lt;br /&gt;
* [[1979年]]（昭和54年）[[6月28日]] - 旧駅ビル跡に四日市近鉄ビル増築。&lt;br /&gt;
* [[1992年]]（[[平成]]4年）[[9月24日]] - 四日市近鉄ビル増築。&lt;br /&gt;
* [[2001年]]（平成13年）[[2月1日]] - SF（ストアードフェア）システムの導入および大阪地区における「[[スルッとKANSAI]]」対応カードの取り扱い開始に伴い、当駅における「途中下車指定駅」の制度が廃止される。&lt;br /&gt;
* [[2007年]]（平成19年）[[4月1日]] - [[PiTaPa]]使用開始。&lt;br /&gt;
* [[2008年]]（平成20年）[[1月25日]] - ホームの特急券売り場が廃止。（自動券売機はそのまま）。&lt;br /&gt;
* [[2009年]]（平成21年）[[7月28日]]･[[7月29日]] - 10番線（主に西日野方面）ホームの改装工事を実施。&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--* 2009年（平成21年）[[不明]] - 北改札口の自動券売機3台と南改札口の自動券売機3台をタッチパネル式に更新。:不明でよいか？--&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 2009年（平成21年）[[11月19日]] - 駅自動放送とソラリー表示を更新。&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--*[[2011年]]（平成23年）[[3月3日]] - 駅自動放送の到着アナウンスに「&#039;&#039;&#039;近鉄百貨店前です&#039;&#039;&#039;」と言う文言を追加したものに更新。:年譜の内容としてつりあいが取れていない？--&amp;gt;&lt;br /&gt;
===諏訪駅===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Yokkaichi hist map.png|right|250px|thumb|路線変更前後の近鉄四日市駅付近]]&lt;br /&gt;
昭和30年（[[1955年]]）までは現在の近鉄四日市駅付近には駅はなく、現在地から300メートルほど東、[[諏訪栄町]]交叉点の北西側にあたる場所に&#039;&#039;&#039;諏訪駅&#039;&#039;&#039;が存在した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1890年に市街地東縁の地に[[関西鉄道]]の[[四日市駅]]が開業したが、四日市の町の中心である諏訪神社周辺への駅設置が望まれた。大正2年（[[1913年]]）、諏訪神社近くに三重軌道（現在の近鉄内部八王子線）が諏訪前駅（後に諏訪駅に統合）を設け、続いて同年四日市鉄道（現近鉄湯の山線）も諏訪駅を開業し、四日市郊外からの鉄道網の拠点として成長した。1929年に伊勢電気鉄道（後の近鉄名古屋線）が開通し、諏訪駅は外部の鉄道網とも結ばれることになった。なお、先行して諏訪駅を経由し四日市駅まで開業した三重鉄道（旧三重軌道・内部八王子線）および四日市鉄道（湯の山線）の線路敷は、買収されて伊勢電気鉄道の線路となり、両線の四日市 - 諏訪間は廃止された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の伊勢電気鉄道の線形は、名古屋方面からの線路が現在の近鉄四日市駅北方500メートル付近からカーブを描いてほぼ直角に曲がり（天理教カーブ）そのまま東に進み、四日市駅前でまたほぼ直角にカーブして（[[善光寺カーブ]]）、南に方向転換していた。なお南側は、現在は関西本線と近鉄名古屋線が立体交差しているあたりで、現在の路線に合流していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
諏訪駅の周りには商店街が形成され、[[イオン (企業)|イオン]]グループの前身である&#039;&#039;&#039;岡田屋&#039;&#039;&#039;もすぐそばにあった。しかし、諏訪駅前後の急曲線は速度向上や車両大型化に支障し、近鉄名古屋線最大の[[線形 (路線)|線形]]上のネックであった。諏訪駅は市の中心駅にしては規模が狭く建物の老朽化もあったため、 1956年（昭和31年）に近鉄名古屋線の大幅なルート変更で現在地へ移転し、名称も「&#039;&#039;&#039;近畿日本四日市駅&#039;&#039;&#039;」に変更された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
線形変更前は、諏訪駅と川原町駅の間には&#039;&#039;&#039;西町駅&#039;&#039;&#039;が存在していた。また、線形変更の結果、近鉄名古屋線と関西本線は四日市では接続しなくなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
cf. [http://mapps.gsi.go.jp/contentsImage.do?specificationId=35427&amp;amp;dispType=1 線形変更前の四日市市内を写した航空写真]（[[国土地理院]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 隣の駅 ==&lt;br /&gt;
; 近畿日本鉄道&lt;br /&gt;
: 名古屋線&lt;br /&gt;
:* {{Color|#f04|□}}[[近鉄特急|特急停車駅]]&amp;lt;!--特急は有料列車であるため、列車記事のみのリンクでお願いいたします。---&amp;gt;&lt;br /&gt;
:: {{Color|#f80|■}}急行&lt;br /&gt;
::: [[近鉄富田駅]] - &#039;&#039;&#039;近鉄四日市駅&#039;&#039;&#039; - [[塩浜駅]]&lt;br /&gt;
:: {{Color|#093|■}}準急（蟹江まで各駅に停車）&lt;br /&gt;
::: [[川原町駅]] - &#039;&#039;&#039;近鉄四日市駅&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:: {{Color|#03f|■}}普通&lt;br /&gt;
::: 川原町駅 - &#039;&#039;&#039;近鉄四日市駅&#039;&#039;&#039; - [[新正駅]]&lt;br /&gt;
: 湯の山線（全列車各駅に停車）&lt;br /&gt;
::: &#039;&#039;&#039;近鉄四日市駅&#039;&#039;&#039; - [[中川原駅]]&lt;br /&gt;
: 内部線・八王子線（全列車各駅に停車）&lt;br /&gt;
::: &#039;&#039;&#039;近鉄四日市駅&#039;&#039;&#039; - [[赤堀駅]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[日本の鉄道駅一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
{{commonscat|Kintetsu Yokkaichi Station}}&lt;br /&gt;
* [http://www.kintetsu.co.jp/station/station_info/station17028.html 近畿日本鉄道 近鉄四日市駅]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{近鉄名古屋線}}&lt;br /&gt;
{{近鉄湯の山線}}&lt;br /&gt;
{{近鉄内部・八王子線}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:きんてつよつかいち}}&lt;br /&gt;
[[Category:四日市市の鉄道駅]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の鉄道駅 き|んてつよつかいち]]&lt;br /&gt;
[[Category:近畿日本鉄道の鉄道駅]]&lt;br /&gt;
[[Category:関西急行鉄道]]&lt;br /&gt;
[[Category:参宮急行電鉄]]&lt;br /&gt;
[[Category:伊勢電気鉄道]]&lt;br /&gt;
[[Category:三重交通の鉄道駅]]&lt;br /&gt;
[[Category:三重鉄道]]&lt;br /&gt;
[[Category:四日市鉄道]]&lt;br /&gt;
[[Category:1913年開業の鉄道駅]]&lt;/div&gt;</summary>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;2001:3B0:10:C:0:0:0:1072: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{サッカー選手&lt;br /&gt;
|名前=ディエゴ・マラドーナ&lt;br /&gt;
|画像=Maradona at 2012 GCC Champions League final.JPG&lt;br /&gt;
|画像サイズ=250px&lt;br /&gt;
|本名=ディエゴ・アルマンド・マラドーナ&lt;br /&gt;
|愛称=Pelusa（毛深い奴/縮れ髪）&amp;lt;br /&amp;gt;El Pibe de Oro（ゴールデンボーイ）&lt;br /&gt;
|カタカナ表記=&lt;br /&gt;
|アルファベット表記=Diego Armando MARADONA&lt;br /&gt;
|原語名=&lt;br /&gt;
|原語表記=&lt;br /&gt;
|国={{ARG}}&lt;br /&gt;
|誕生日={{生年月日と年齢|1960|10|30}}&lt;br /&gt;
|出身地=[[ブエノスアイレス州]][[ラヌース]]&lt;br /&gt;
|身長=165cm&lt;br /&gt;
|体重=100kg&lt;br /&gt;
|血液型=&lt;br /&gt;
|所属チーム名=&lt;br /&gt;
|ポジション=[[フォワード (サッカー)|FW]] / [[ミッドフィールダー|MF]]&lt;br /&gt;
|背番号=&lt;br /&gt;
|利き足=左足&lt;br /&gt;
|クラブ=[[アルヘンティノス・ジュニアーズ]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[ボカ・ジュニアーズ]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[FCバルセロナ]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[SSCナポリ]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[セビージャFC]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[ニューウェルズ・オールドボーイズ]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[ボカ・ジュニアーズ]]&lt;br /&gt;
|年=1976-1981&amp;lt;br /&amp;gt;1981-1982&amp;lt;br /&amp;gt;1982-1984&amp;lt;br /&amp;gt;1984-1991&amp;lt;br /&amp;gt;1992-1993&amp;lt;br /&amp;gt;1993-1994&amp;lt;br /&amp;gt;1995-1997&lt;br /&gt;
|出場（得点）={{0}}167 (115)&amp;lt;br /&amp;gt;{{0}}40 (28)&amp;lt;br /&amp;gt;{{0}}36 (22)&amp;lt;br /&amp;gt;{{0}}188 (81)&amp;lt;br /&amp;gt;{{0}}26 (5)&amp;lt;br /&amp;gt;{{0}}5 (0)&amp;lt;br /&amp;gt;{{0}}30 (7)&lt;br /&gt;
|クラブ成績更新日=2012年5月16日&lt;br /&gt;
|代表国={{ARGf}}&lt;br /&gt;
|代表年=1977-1994&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite news|title=Diego Armando Maradona - International Appearances|publisher=The Rec.Sport.Soccer Statistics Foundation|url=http://www.rsssf.com/miscellaneous/maradona-intl.html|language=英語}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
|代表出場（得点）=91 （34）&lt;br /&gt;
|監督年=1994&amp;lt;br /&amp;gt;1995&amp;lt;br /&amp;gt;2008-2010&amp;lt;br /&amp;gt;2011-2012&lt;br /&gt;
|監督チーム={{flagicon|ARG|size=20px}} [[デポルティーボ・マンディージュ・デ・コリエンテス|マンディージュ・デ・コリエンテス]]&amp;lt;br /&amp;gt;{{flagicon|ARG|size=20px}} [[ラシン・クラブ]]&amp;lt;br /&amp;gt;{{flagicon|ARG|size=20px}} [[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン]]&amp;lt;br /&amp;gt;{{flagicon|UAE|size=20px}} [[アル・ワスルFC]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;ディエゴ・アルマンド・マラドーナ&#039;&#039;&#039;（{{lang-es|Diego Armando Maradona}}、[[1960年]][[10月30日]] - ）は、[[アルゼンチン]]・[[ブエノスアイレス州]]出身の元[[プロフェッショナル (サッカー)|サッカー選手]]、サッカー指導者。現役時代のポジションは[[フォワード (サッカー)|フォワード]]または[[ミッドフィールダー]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ペレ]]、[[ヨハン・クライフ|クライフ]]、[[フランツ・ベッケンバウアー|ベッケンバウアー]]、[[アルフレッド・ディ・ステファノ|ディ・ステファノ]]、[[ジーコ]]などと共に20世紀のサッカー史に名を残すスター選手である&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.englandfootballonline.com/TeamHons/HonsWldSocPlyrsCent.html World Soccer 100 Players of the Century] 1999年、英国のワールドサッカー誌が20世紀で最も偉大な選手のランキングを公表した。結果はペレが1位、マラドーナが2位、クライフが3位、ベッケンバウアーが4位となった。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;国吉&amp;quot;&amp;gt;国吉好弘『サッカーマルチ大辞典 改討版』、[[ベースボール・マガジン社]]、2006年、469頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[プリメーラ・ディビシオン (アルゼンチン)|アルゼンチン・リーグ]]史上最年少でプロデビューし、[[ボカ・ジュニアーズ]]を経て欧州に渡った。[[FCバルセロナ]]ではさまざまな問題に悩まされたが、[[SSCナポリ]]では[[セリエA (サッカー) |セリエA]]優勝2回、[[UEFAヨーロッパリーグ|UEFAカップ]]優勝1回の立役者となり、「&#039;&#039;&#039;ナポリの王様&#039;&#039;&#039;」としてファンに愛された。[[セビージャFC]]、[[ニューウェルズ・オールドボーイズ]]、ボカ・ジュニアーズでの在籍は短期間に終わり、1997年に現役引退した。引退から時間が経った現在でも彼の信奉者はファン、選手、サッカー関係者を通じて多く特にアルゼンチンでは彼を崇拝する宗教が生まれ、ナポリでは旧市街に彼を讃える祭壇が設けられているほどである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1977年に歴代最年少でアルゼンチンA代表にデビューし、1979年にはU-20アルゼンチン代表として[[FIFAワールドユース選手権]]で優勝して大会最優秀選手に選ばれた。[[FIFAワールドカップ]]には1982年大会から4大会連続で出場し、[[1986 FIFAワールドカップ]]ではチームを牽引して優勝に導いた。準々決勝の[[サッカーイングランド代表|イングランド]]戦で見せた「&#039;&#039;&#039;神の手&#039;&#039;&#039;」ゴールと「&#039;&#039;&#039;5人抜き&#039;&#039;&#039;」ドリブルは彼のスタイルを象徴するプレーとして後世に語り継がれている。[[1994 FIFAワールドカップ]]では大会中のドーピング検査で陽性と判定され大会から追放処分を受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
選手時代からたびたび違法薬物の使用が取り沙汰され、現役引退後は入退院を繰り返した。2008年に[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン代表]]監督に就任し、[[2010 FIFAワールドカップ]]南米予選を辛くも突破したが、本大会では準々決勝で敗れ、2010年7月に解任された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
=== 幼少期 ===&lt;br /&gt;
1960年10月30日、[[ブエノスアイレス]]南部の[[ラヌース]](Lanús)に貧しい家庭の子として生まれた。幼少時から天才サッカー少年として脚光を浴び、9歳の時に[[アルヘンティノス・ジュニアーズ]]の少年チームであるセボリータス（Los Cebollitas、小さな玉葱）に入団した&amp;lt;ref&amp;gt;ウィリアムズ2007、210頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。幼少時代はペルーサ（Pelusa、毛深い奴/縮れ髪）と呼ばれるおとなしい少年だったが&amp;lt;ref&amp;gt;リベイロ・レモス2008、123頁&amp;lt;/ref&amp;gt;、10歳の時にはプロリーグ戦のハーフタイムショーでリフティングを披露して拍手喝采を浴びるほどの技術を身に付けていた&amp;lt;ref&amp;gt;バーンズ1997、29頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。1973年、12歳の時には[[リバープレート]]から契約金200万ペソでのオファーがあったが、クラブや父親が時期尚早だと反対したためセボリータスにとどまった&amp;lt;ref&amp;gt;オルティズ1994、35-36頁&amp;lt;/ref&amp;gt; &amp;lt;ref&amp;gt;バーンズ1997、36頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。少年時代の憧れの選手は[[CAインデペンディエンテ]]の[[リカルド・ボチーニ]]だった&amp;lt;ref&amp;gt;マラドーナ2002、17頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== クラブ経歴 ===&lt;br /&gt;
==== プロデビュー期 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
13歳の時に学校を辞めてサッカーに専念し&amp;lt;ref&amp;gt;クリストファー・ヒルトン、イアン・コール『南米サッカーのすべて』、野間けい子訳、DAI-X出版、2002年、3○○頁&amp;lt;/ref&amp;gt;、1974年にアルヘンティノス・ジュニアーズのトップチーム昇格を果たし&amp;lt;ref&amp;gt;バーンズ1997、36-38頁&amp;lt;/ref&amp;gt;、15歳の誕生日にはクラブからアパートが提供された&amp;lt;ref&amp;gt;バーンズ1997、39頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。在籍時にはエル・ピベ・デ・オロ（El Pibe de Oro、ゴールデンボーイ）という愛称を授かった&amp;lt;ref&amp;gt;リベイロ・レモス2008、124頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1976年10月20日、アルゼンチン・リーグ史上最年少の15歳11ヵ月で[[タジェレス・デ・コルドバ]]([[:es:Club Atlético Talleres|Talleres de Córdoba]])戦に初出場し&amp;lt;ref&amp;gt;バーンズ1997、59頁&amp;lt;/ref&amp;gt;、同年11月14日の[[CAサン・ロレンソ]]戦でプロ初ゴールを決めた&amp;lt;ref&amp;gt;マラドーナ2002、29頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[プリメーラ・ディビシオン (アルゼンチン)|プリメーラ・ディビシオン]]（国内1部リーグ）のナショナルリーグで1979年、1980年に得点王を獲得。1979～1981年に[[アルゼンチン年間最優秀選手賞]]、1979年～1980年に[[南米年間最優秀選手賞]]を受賞した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1981年2月13日、幼少時からの熱狂的なファンであった[[ボカ・ジュニアーズ]]へのレンタル移籍交渉がまとまった。アルヘンティノスへ400万ドルの移籍金が支払われ、さらにボカはアルヘンティノスの負債110万ドルを肩代わりすることになった。4月10日の[[スーペル・クラシコ]]ではボカの全3得点を挙げる活躍で[[リバープレート]]を下し、移籍してすぐにファンのアイドルになった&amp;lt;ref&amp;gt;バーンズ1997、102頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。この年にはリーグ優勝を果たしたが、マラドーナ獲得時の莫大な移籍金などが負担となってボカの財政状況は悪化し、また彼は20歳にしてリーグ戦200試合以上に出場していたことから疲労がピークに達していた。1982年5月末、約700万ドルの移籍金でスペインの[[FCバルセロナ]]に移籍することで合意に達した&amp;lt;ref&amp;gt;バーンズ1997、120頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== FCバルセロナ ====&lt;br /&gt;
1982年6月4日、FCバルセロナとの移籍契約に調印し、アルヘンティノスに移籍金510万ドル、ボカに移籍金220万ドルが分割払いで支払われた&amp;lt;ref&amp;gt;バーンズ1997、132-133頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。 [[カンプ・ノウ]]で行われたお披露目にはクラブ新記録の5万人が詰めかけた。1982-83シーズン序盤のバルセロナ・ダービーでは試合唯一となる得点を決め、その2日後の[[UEFAカップウィナーズカップ]]決勝・[[レッドスター・ベオグラード]]戦では2得点を決めて華々しいスタートを切ったが&amp;lt;ref&amp;gt;バーンズ1997、139-140頁&amp;lt;/ref&amp;gt;、度重なる夜遊びやコカイン使用疑惑で[[ホセ・ルイス・ヌニェス]]会長との関係が悪化し始めた。ウイルス性肝炎や鬱状態などの病気に悩まされリーグ4位となったが、[[コパ・デル・レイ]]決勝で[[レアル・マドリード]]に2対1で優勝を手にした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;度重なるマークによる乱闘騒ぎ&lt;br /&gt;
1983-84シーズン、[[セサル・ルイス・メノッティ]]が監督に就任し、9月の[[ハビエル・クレメンテ]]率いる[[アスレティック・ビルバオ]]戦で[[アンドニ・ゴイコエチェア・オラスコアガ|アンドニ・ゴイコエチェア]]からタックルを受けて左膝腱を損傷し、3ヵ月欠場の深手を負い、わずか勝ち点1差でビルバオに優勝を逃してしまう。&lt;br /&gt;
また、コパ・デル・レイ決勝のビルバオ戦でも度重なる激しいマークに遭い、0対1で得点のチャンスを逃した。&lt;br /&gt;
試合直後に度重なるマークに激怒し、ジャージ姿の相手選手の顔面を膝蹴りして気絶させ、乱闘騒ぎを起こしたことが決定打となり、ヌニェス会長との関係が最悪な状態にまで陥り、その後スペインサッカー連盟から3ヵ月間出場停止を言い渡される。&lt;br /&gt;
そこで副会長でヌニェス会長の右腕でもある[[ジョアン・ガスパール]]がクラブに留まる気があるかを尋ね、「残留するのなら、会長との仲を取り持つ」と5年の契約延長を提示したが、マラドーナがそれを拒否、クラブは放出の断を下した&amp;lt;ref&amp;gt;バーンズ1997、166-167頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== SSCナポリ ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1984年6月29日、イタリア・[[セリエA (サッカー)|セリエA]]の[[SSCナポリ]]への移籍が実現し、サッカー史上最高額の推定移籍金1300万ドルがFCバルセロナに支払われた&amp;lt;ref&amp;gt;バーンズ1997、175-176頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。7月5日に[[スタディオ・サン・パオロ]]で行われたお披露目会見にはヘリコプターからピッチに降り立つパフォーマンスで登場し&amp;lt;ref&amp;gt;ウィリアムズ2007、219頁&amp;lt;/ref&amp;gt;、7万人のサポーターが駆け付けたこの日の入場料収益は7000万リラに上った。彼はこの時、ナポリが前年まで残留争いを繰り広げるような弱小チームだとはまったく知らなかった。サポーターから「ナポリの王」と呼ばれて愛され、シーズンチケットが瞬く間に売れたことから、莫大な移籍金および給料を払ってもなおクラブの財政は潤った。マラドーナと[[ブルーノ･ジョルダーノ]]、[[アントニオ・デ・オリベイラ・フィーリョ|カレカ]]のアタッキングトリオは頭文字からマジカ（Ma・Gi・Ca、魔法）と呼ばれ、クラブの黄金時代を築き上げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1984-85シーズンはリーグ8位、14得点を決めて得点ランキング3位に入り、1985-86シーズンはチームをリーグ3位に押し上げた。1986-87シーズンはクラブ史上初の[[セリエA (サッカー)|セリエA]]優勝を飾り、[[コパ・イタリア]]との2冠を達成。これまで北部の2チーム（トリノ、ユベントス）しか達成していない国内2冠を南部のナポリが達成できたことを非常に誇りにしていると自伝で語っている。代表でのワールドカップMVPの活躍と合わせて[[ワールドサッカー (雑誌)|世界最優秀選手賞]]に選ばれた。一方で、愛人がマラドーナの子どもを出産したシナグラ事件（後述）などもあって気分が不安定で、子どもの認知を渋ったために地元メディアから攻撃された&amp;lt;ref&amp;gt;バーンズ1997、238-239頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。1987-88シーズンには15得点を決めてアルゼンチン人として初のセリエA得点王に輝き、1988-89シーズンには[[UEFAヨーロッパリーグ|UEFAカップ]]を制覇した。1988年以降は負傷で試合を欠場する頻度が増え、監督やクラブ会長との確執も取り沙汰された。[[1990 FIFAワールドカップ]]を控えた1989-90シーズンは2度目のセリエA優勝を飾った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1990年から1991年にかけて、麻薬使用やマフィアとの関連が報道されてマスコミから集中砲火を浴び、[[イタリアサッカー連盟]]から15ヵ月間の出場停止処分を受けた。喧嘩別れのような形になったが、後に[[SSCナポリ]]はマラドーナの功績を称えて彼の背番号10を[[永久欠番]]とした&amp;lt;ref&amp;gt;ウィリアムズ2007、240頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。SSCナポリ時代には税金を滞納し、税務局から3700万ユーロ（約40億円）もの支払いを求められており、イタリアに入国する際にはその都度金品を没収されている&amp;lt;ref&amp;gt;『週刊新潮』、新潮社、2010年7月8日号、136頁&amp;lt;/ref&amp;gt; &amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news |url=http://www.jiji.com/jc/a?g=afp_spo&amp;amp;k=20100906025618a |title=マラドーナ氏、50歳誕生日をナポリで |publisher=時事通信 |date=2010-09-06 |accessdate=2010-11-04}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 選手生活の晩年 ====&lt;br /&gt;
{{Quote_box|&lt;br /&gt;
 width=40%&lt;br /&gt;
|align=right&lt;br /&gt;
|quote=&amp;quot;&#039;&#039;&#039;俺がしたドーピングは努力だけだ&#039;&#039;&#039;&amp;quot;&lt;br /&gt;
|source=ドーピング疑惑の渦中で}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Quote_box|&lt;br /&gt;
 width=40%&lt;br /&gt;
|align=right&lt;br /&gt;
|quote=&amp;quot;&#039;&#039;&#039;俺は多くの過ちを犯したが、サッカーボールは汚れない&#039;&#039;&#039;&amp;quot;&lt;br /&gt;
|source=1997年の引退会見にて}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1991年には[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]発足に向けて補強を進めていた[[名古屋グランパスエイト]]へ、年俸や契約金を併せ総額15億円という契約で入団がほぼ内定していた&amp;lt;ref&amp;gt;木本邦彦「グラ球団草創期を西垣成美さん語る」『中日スポーツ』2010年11月26日付、5面。&amp;lt;/ref&amp;gt;。交渉は順調に運び、残すは名古屋の親会社である[[トヨタ自動車]]の決定を待つのみであったが、決まりかけた日本行きはマラドーナのコカイン使用疑惑によって立ち消えとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、[[国際サッカー連盟|FIFA]]が移籍交渉に介入したこともあり、1992年9月にスペインの[[セビージャFC]]移籍が決定した。チケットの売り上げという点ではクラブに貢献したが、荒んだ生活や怠慢な練習態度などから[[カルロス・ビラルド]]監督と対立し、26試合に出場してわずか5得点しか挙げることができなかった&amp;lt;ref&amp;gt;ウィリアムズ2007、234頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。1993年6月の[[ブルゴスCF|レアル・ブルゴスCF]]戦で後半開始早々に交代を指示され激怒し、アルゼンチンに帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1993年10月、セビージャFCとの契約の残り期間に対して400万ドルを支払う条件でアルゼンチンの[[ニューウェルズ・オールドボーイズ]]に移籍した&amp;lt;ref&amp;gt;バーンズ1997、298頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[アルフィオ・バシーレ]]監督によってアルゼンチン代表にも復帰したが、契約問題のこじれからニューウェルズでは7試合しか出場できず、練習不参加や試合欠場などの理由により1994年2月に解雇された。[[1994 FIFAワールドカップ]]のドーピング違反でFIFAから再び15ヵ月間の出場停止処分を受け、処分期間中は国内2チームの監督を務めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1995年10月、14年ぶりに[[ボカ・ジュニアーズ]]へ復帰。髪にボカのシンボルカラーである金色のメッシュを入れてプレーした。1996年にはリーグ戦で5本連続してPKを失敗し、引退騒動を起こした。スイスでの薬物依存症治療を経てボカと再契約し、1997年7月には公式戦に復帰した。同年10月25日の[[スーペルクラシコ]]への出場を最後に、自身の37歳の誕生日となる10月30日に現役引退を発表した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 代表経歴 ===&lt;br /&gt;
プロデビューから間もなくアルゼンチン代表に招集され、1977年2月16日、[[サッカーハンガリー代表|ハンガリー]]との親善試合に途中出場し、A代表の最年少出場記録を樹立した。翌年に地元開催された[[1978 FIFAワールドカップ]]には最終候補の25人に残りながら、「経験不足」という理由により大会登録メンバーから外れた。マラドーナはこの落選を「人生に永遠に残る、決定的な、一番大きな失望だった」と語る&amp;lt;ref&amp;gt;マラドーナ2002、38頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。1979年6月2日、[[サッカースコットランド代表|スコットランド]]との親善試合で代表初ゴールを決めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 1979 FIFAワールドユース選手権 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
20歳以下代表チームのキャプテンとして、[[日本]]で開催された[[1979 FIFAワールドユース選手権]]に出場。6試合中5試合で6ゴールを決め、ワールドユース初優勝に貢献した。チームメイトの[[ラモン・ディアス]]が8ゴールを挙げてゴールデンシューズ賞（得点王）となり、マラドーナはゴールデンボール賞（MVP）に選出された。圧倒的な攻撃力をみせたアルゼンチンユース代表について、マラドーナは「文句なしに、自分のキャリアの中で一番素晴らしいチームだった」と語る&amp;lt;ref&amp;gt;マラドーナ2002、43頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 1982 FIFAワールドカップ ====&lt;br /&gt;
アルゼンチン代表は1978年大会優勝メンバーにマラドーナ、ディアスらユース世代を加え、[[1982 FIFAワールドカップ]]に出場した。21歳のマラドーナは10番を付けて出場し、第1ラウンド2戦目の[[サッカーハンガリー代表|ハンガリー]]戦でワールドカップ初ゴールを含む2得点を挙げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第2ラウンド緒戦[[サッカーイタリア代表|イタリア]]戦では「殺し屋」こと[[クラウディオ・ジェンティーレ]]に徹底的にマークされた。続く[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]戦では味方選手がファウルを受けた際、バチスタ([[:pt:João Batista da Silva|João Batista da Silva]])の下腹部を蹴り、報復行為で[[レッドカード]]を受けた。マラドーナはブラジルの「[[黄金のカルテット|黄金の中盤]]」のパス回しに翻弄されており、本当は[[パウロ・ロベルト・ファルカン]]に対して怒っていたと述べている&amp;lt;ref&amp;gt;マラドーナ2002、93頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。チームは1-3で大敗して大会を去ることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 1986 FIFAワールドカップ ====&lt;br /&gt;
1985年5月に約3年ぶりに代表に復帰。[[カルロス・ビラルド]]監督はマラドーナをキャプテンに指名し、その個人能力を活かすチーム作りを行った。マラドーナは右膝に負傷を抱え、チームの成績も芳しいものではなく、当時のチームはメディアから「史上最弱」と酷評されていたが&amp;lt;ref&amp;gt;『技術力 サッカー 世界のスタープレーヤー』、出版芸術社、2005年、84頁&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[1986 FIFAワールドカップ]]が始まると一転して華々しい活躍を見せた。グループリーグ初戦[[サッカー韓国代表|韓国]]戦ではチームの3ゴールすべてをアシスト。イタリア戦ではボレーで同点ゴールを決め、[[サッカーブルガリア代表|ブルガリア]]戦でも1アシストを記録した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
準々決勝の[[サッカーイングランド代表|イングランド]]戦試合前には3年前の[[フォークランド紛争]]（マルビナス戦争）の因縁もあって両国メディアの舌戦が続いたが、その試合はいわゆる「[[神の手 (サッカー)|神の手]]」ゴールと「5人抜き」ドリブルを記録した試合として知られている。後半4分、ペナルティエリアに走りこんだマラドーナと浮き玉を処理しようとした相手GK[[ピーター・シルトン]]と交錯したが、マラドーナは空中のボールを素早く左手ではたき、ボールはそのままゴールインした。シルトンをはじめイングランドの選手はマラドーナのハンドを主張したが、審判は彼の得点を認めた。その4分後にはセンターライン付近でパスを受けると単独で60m近くドリブルし、5人を抜いて無人のゴールにボールを蹴りこんだ。前者の得点については「本当は手で触れたのだが、神の思し召しにより許された」という趣旨の発言をしたことから「神の手」ゴールという呼称が広まった&amp;lt;ref&amp;gt;バーンズ1997、228頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。2007年には後者の得点がイギリスの[[ワールドサッカー (雑誌)|ワールドサッカー]]誌によって史上最優秀得点に選ばれた&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news |url=http://members.jcom.home.ne.jp/wcup/WORLDSOCCERGreatest.htm |title=英『ワールド・サッカー』誌：史上グレーテストゴール：トップ10 |publisher=World Cup&#039;s World |accessdate=2010-11-04}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{seealso|1986 FIFAワールドカップ準々決勝 アルゼンチン対イングランド}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
準決勝のベルギー戦でも2得点を挙げ、決勝の[[サッカー西ドイツ代表|西ドイツ]]戦では[[ローター・マテウス]]のマークにあいながらも、[[ホルヘ・ブルチャガ]]に絶妙なラストパスを供給し、決勝点をアシストした。大会中チームの総シュート数のうち約半分を放ち、全14得点のうち5得点5アシストを記録&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite news|author= |url=http://www.goal.com/jp/news/2959/castrol-football-zone/2010/10/23/2179050/castrol-sp%E3%83%9A%E3%83%AC%EF%BD%96%EF%BD%93%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%8A%E6%95%B0%E5%AD%97%E3%81%AF%E8%AA%9E%E3%82%8B |title=Castrol SP：ペレ vs マラドーナ～数字は語る |work=Goal.com |date=2010-10-23 |accessdate=2011-04-04}} &amp;lt;/ref&amp;gt;。アルゼンチンを2度目のワールドカップ優勝に導いた事から大会最優秀選手に選ばれ、同大会は「&#039;&#039;&#039;マラドーナのための大会&#039;&#039;&#039;」と呼ばれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 1990 FIFAワールドカップ ====&lt;br /&gt;
本大会では不調といわれながらもグループリーグ全試合に出場し、[[サッカーソビエト連邦代表|ソビエト連邦]]戦では自陣ペナルティエリア内で手を使ってシュートを防ぐ2度目の「神の手」を見せた。決勝トーナメント1回戦のブラジル戦では、ドリブルで相手4人を引きつけながら右足で[[クラウディオ・カニーヒア]]へ絶妙のパスを送り、決勝ゴールをお膳立てした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
準決勝は所属クラブの本拠地[[ナポリ]]で、開催国イタリアと対戦した。試合前にイタリアファンを煽るような発言をしたことや、PK戦で最後に蹴って勝利を決めたのがマラドーナであったことから、イタリア国民やSSCナポリファンとの関係が悪化した。決勝の西ドイツ戦ではアルゼンチンの国歌吹奏に場内から大[[ブーイング]]が浴びせられ、マラドーナはカメラに向かって「イホス・デ・プータ（英語の『[[ビッチ|サノバビッチ]]』に相当する[[侮蔑語]]）」と吐き捨てた&amp;lt;ref&amp;gt;マラドーナ2002、258頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。試合では[[ギド・ブッフバルト]]のマークに沈黙。敗戦後は人目をはばからず号泣し、イングランド代表の[[ポール・ガスコイン]]が準決勝で流した涙とともに人々に記憶されている&amp;lt;ref&amp;gt;バーンズ1997、260-262頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 1994 FIFAワールドカップ ====&lt;br /&gt;
薬物使用によるブランクを経て、1993年2月に代表復帰。[[アルフィオ・バシーレ]]監督はマラドーナ抜きのチーム編成を進めていたが、南米予選[[サッカーコロンビア代表|コロンビア]]戦で完敗したため、[[サッカーオーストラリア代表|オーストラリア]]との大陸間プレーオフでレギュラー復帰が実現した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1994 FIFAワールドカップ]]では再びキャプテンに就任し、カニーヒアや[[ガブリエル・バティストゥータ]]と強力な攻撃陣を組んだ。1次リーグ緒戦の[[サッカーギリシャ代表|ギリシャ]]戦では豪快なミドルシュートでワールドカップ通算8ゴール目を決め、[[サッカーナイジェリア代表|ナイジェリア]]戦でも好調なプレーを見せた。しかし、試合後の[[ドーピング]]検査で尿から使用禁止薬物が検出され、大会からの即時追放と15ヵ月の出場停止処分を受けた（[[#薬物と健康問題]]の節を参照）。このニュースは世界中に衝撃を与え、選手としての華々しい代表経歴を閉じることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 引退後 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Maradona Soccer Aid 2.jpg|thumb|150px|right|2006年のマラドーナ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現役引退後は薬物依存や不摂生による体重増加などが原因で入院・手術などを繰り返し、必ずしも健康体とは言えない状態であった。2004年4月にはボカの試合観戦中に突然倒れ、集中治療室で生死の境をさまよった。このときの彼の体重は122kgにも達していたが、回復後に食を細くするための[[胃切除術]]を受け、70kg台半ばまで減量した&amp;lt;ref&amp;gt;ウィリアムズ2007、241頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2008年]]、[[伝記]][[映画]]「[[マラドーナ (映画)|マラドーナ]]」が自身主演で上映される（製作・[[スペイン]]・[[フランス]]）。これはマラドーナのこれまでのサッカー人生について取り上げると共に、マラドーナ自身のプライベートに密着取材した[[記録映画]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 監督経歴 ===&lt;br /&gt;
1994 FIFAワールドカップ後の出場停止期間中に[[プリメーラ・ディビシオン (アルゼンチン)|プリメーラ・ディビシオン]]の下位2チームの監督に就任。コーチングライセンスを獲得していないため、カルリートス・フレンとのコンビで指揮を採った。最初のデポルティーボ・マンディージュ・デ・コリエンテスでは1勝5敗6分けで、2ヵ月で解任された。古豪[[ラシン・クラブ]]では2勝3敗6分けで、クラブの会長交代に伴い辞任した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2008年10月16日に[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン代表]]の[[アルフィオ・バシーレ]]監督が辞任すると、マラドーナは後任の座に自薦し、10月28日に代表監督就任が発表された&amp;lt;ref&amp;gt;藤坂ガルシア2010、9-11頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。11月4日に就任記者会見が行われ、[[ハビエル・マスチェラーノ]]のキャプテン任命と[[カルロス・ビラルド]]のテクニカル・セクレタリー（サッカー協会とチームの架け橋役）就任が発表されたが、ヘッドコーチに人事は明かされなかった&amp;lt;ref&amp;gt;藤坂ガルシア2010、21-24頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。マラドーナの監督就任に関してアルゼンチン国内の反応は冷ややかだったが、代表選手からは期待と賛同の声が上がり、初采配となった[[サッカースコットランド代表|スコットランド]]との親善試合に1-0で勝利したことからメディアからもまずまずの評価を得た。2009年1月にはスペイン、イングランド、イタリアなどを訪問し、欧州各国に散らばるアルゼンチン代表選手を視察した&amp;lt;ref&amp;gt;藤坂ガルシア2010、54-57頁、現役時代以来25年ぶりにカンプ・ノウを訪れ、FCバルセロナのジョゼップ・グアルディオラ監督と歓談した&amp;lt;/ref&amp;gt;。2009年3月、テレビの深夜番組でチームの中心選手である[[フアン・ロマン・リケルメ]]のプレーに苦言を呈し、その発言に敏感に反応したリケルメが代表引退を表明する問題が起こった&amp;lt;ref&amp;gt;藤坂ガルシア2010、79-80頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
就任後初となる[[2010 FIFAワールドカップ・南米予選]]の[[サッカーベネズエラ代表|ベネズエラ]]戦には4-0で快勝したが、4日後の[[サッカーボリビア代表|ボリビア]]戦は高地の利を得た相手に手も足も出ず、1-6で大敗してメディアからの批判を浴びた。5月の親善試合には国内組のみから選手を招集して臨み、それ以後は海外組と国内組の融合を重要視するようになった&amp;lt;ref&amp;gt;藤坂ガルシア2010、134頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。2009年9月の南米予選では[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]に敗れ、アルゼンチンが長年継続してきたホームでの連続無敗記録（34戦）が途切れたため&amp;lt;ref&amp;gt;藤坂ガルシア2010、199頁&amp;lt;/ref&amp;gt;、元代表選手やファンから厳しい批判を受けた。[[サッカーパラグアイ代表|パラグアイ]]に敗れてついに予選の自力突破圏内（4位以内）から落ちたが、10月の[[サッカーペルー代表|ペルー]]戦では[[マルティン・パレルモ]]のロスタイム弾で辛くも勝利し、最終節の[[サッカーウルグアイ代表|ウルグアイ]]戦では虎の子の1点を守り抜いて、予選4位でのFIFAワールドカップ本大会出場を決めた&amp;lt;ref&amp;gt;藤坂ガルシア2010、243頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2010 FIFAワールドカップ]]では、ピッチ内外での一挙手一投足がメディアの注目を集めた。グループリーグ初戦の[[サッカーナイジェリア代表|ナイジェリア]]戦は90分間ベンチに座ることなく選手たちに指示を与え続け&amp;lt;ref&amp;gt;『2010 南アフリカ・ワールドカップ決算号』、ベースボール・マガジン社、2010年、114頁&amp;lt;/ref&amp;gt;、勝利後の記者会見ではリンゴをかじりながら質問に答えた&amp;lt;ref&amp;gt;『週刊文春』、文藝春秋、2010年7月8日号、144頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。2戦目の[[サッカー韓国代表|韓国]]戦では1986 FIFAワールドカップでマンマークを受けた[[許丁茂]]監督と対戦することになり、試合前には相手を「[[テコンドー|テコン]]サッカー」と挑発した&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite news|author=金志秀 |url=http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&amp;amp;d=0617&amp;amp;f=national_0617_016.shtml |title=W杯、マラドーナ監督「韓国はテコンサッカー」発言で試合前から火花 |work=サーチナ |date=2010-06-17 |accessdate=2011-04-09}} &amp;lt;/ref&amp;gt;。韓国戦に続き[[サッカーギリシャ代表|ギリシャ]]戦でも快勝し、グループリーグを3戦全勝の首位で通過。決勝トーナメント1回戦の[[サッカーメキシコ代表|メキシコ]]戦は[[カルロス・テベス]]の疑惑の残る先制点で試合の主導権を握り、3-1で勝利した&amp;lt;ref&amp;gt;『2010 南アフリカ・ワールドカップ決算号』、ベースボール・マガジン社、2010年、91頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。準々決勝の[[サッカードイツ代表|ドイツ]]戦は試合開始早々に失点し、以後は焦りから攻撃に逸るマラドーナの心が見透かされているかのように、カウンターから立て続けに失点した&amp;lt;ref name=&amp;quot;2010決算号80頁&amp;quot;&amp;gt;『2010 南アフリカ・ワールドカップ決算号』、ベースボール・マガジン社、2010年、80頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。ハーフタイムの指示や後半の選手交代でも流れを変えることができず、0-4で惨敗して大会からの敗退が決定した&amp;lt;ref name=&amp;quot;2010決算号80頁&amp;quot;&amp;gt;&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当初は[[アルゼンチンサッカー協会]]、マラドーナとも留任の意向だったが、コーチ陣の処遇を巡って対立し、2010年7月27日に解任された&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news |url=http://www.jiji.com/jc/zc?k=201007/2010072800128 |title=マラドーナ監督を解任＝コーチ刷新で協会と対立 |publisher=時事通信 |date=2010-07-28 |accessdate=2010-11-4}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。初采配から24戦を指揮して18勝6敗の成績を残し、引き分けは1試合もなかった&amp;lt;ref name=&amp;quot;2010決算号48頁&amp;quot;&amp;gt;『2010 南アフリカ・ワールドカップ決算号』、ベースボール・マガジン社、2010年、48頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。ドイツの勝利を予言したタコの[[パウル (タコ)|パウル]]が死亡した際には、&lt;br /&gt;
[[ツイッター]]に「この予言タコ野郎、おれはお前が死んでうれしいよ。W杯で負けたのはお前のせいだ!」と書き込んだ&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite news|url=http://www.sanspo.com/shakai/news/101028/sha1010280504008-n1.htm |title=マラドーナ氏、パウル君に恨み根強く |publisher=SANSPO.COM |date=2010-10-28 |accessdate=2011-04-09}} &amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2011年5月16日、マラドーナは[[UAEリーグ]]に所属する[[アル・ワスルFC]]の監督に就任することが発表された。契約期間は2年で&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite news|url=http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2011/05/17/kiji/K20110517000835060.html |title=マラドーナ氏 UAEのアルワスルで監督復帰 |publisher=スポーツニッポン |date=2011-05-17 |accessdate=2011-05-20}} &amp;lt;/ref&amp;gt;、年間990万[[ポンド (通貨)|ポンド]]（約13億5324万円）。これはgoal.comが2012年1月18日に発表した世界の監督の給料トップ10の2位に入る高額であった&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.goal.com/en/news/1717/editorial/2012/01/18/2852864/sir-alex-ferguson-pep-guardiola-the-worlds-top-10-best-paid Sir Alex Ferguson, Pep Guardiola &amp;amp; the world&#039;s Top 10 best paid football managers in pictures-goal.com国際版2012年1月18日]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2012年7月10日、アル・ワスルは監督の解任を発表した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物 ==&lt;br /&gt;
=== 家族 ===&lt;br /&gt;
; 家族&lt;br /&gt;
:母方の祖母はイタリア・[[ナポリ]]出身の移民であり&amp;lt;ref&amp;gt;オルティズ1994、25頁&amp;lt;/ref&amp;gt;、父と母はともにアルゼンチン北東部の[[コリエンテス州]]エスキーナの出身である。マラドーナは8人兄弟姉妹の5番目であり、かつ3人の男子のうちの長男である&amp;lt;ref&amp;gt;ウィリアムズ2007、210頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。実弟の[[ウーゴ・マラドーナ]]は日本の[[鳥栖フューチャーズ|PJMフューチャーズ]]、[[アビスパ福岡]]、[[コンサドーレ札幌]]などでプレーしたサッカー選手である。1987年には弟2人とともに、日本の[[アサヒ飲料|アサヒビール飲料]]の缶コーヒー「NOVA」のCMに出演した。&lt;br /&gt;
; 2人の娘たち&lt;br /&gt;
:自身の薬物乱用や育児放棄などもあり、娘たちとの間にはキスを拒まれるほど深刻な確執が存在していた。その後和解し、[[2006 FIFAワールドカップ]]ではユニフォームを頭上で振り回しながら一緒に応援する姿がテレビカメラに写された。次女は[[セルヒオ・アグエロ]]の婚約者で、2009年2月に初孫が誕生した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 交友関係 ===&lt;br /&gt;
; 女性関係&lt;br /&gt;
:15歳の時に近所に住んでいたクラウディア・ビジャファーネと知り合い、すぐに深い関係になった&amp;lt;ref&amp;gt;バーンズ1997、41-42頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[FCバルセロナ]]移籍後しばらくして家族とともにクラウディアも呼び寄せたが、[[SSCナポリ]]に所属していた1985年1月にはアメリカ人モデルと関係を持ち、クラウディアとの関係が険悪になった。同年12月にはナポリの女性と結婚まで考えた恋愛関係に陥ったが、彼女が妊娠すると中絶することを強要した&amp;lt;ref&amp;gt;バーンズ1997、196頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。その後、クラウディアとよりを戻し、1989年11月7日に盛大な結婚式を挙げた&amp;lt;ref&amp;gt;バーンズ1997、251頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。この時には既に娘をふたりもうけていた&amp;lt;ref&amp;gt;『スポーツ20世紀①サッカー 英雄たちの世紀』、ベースボール・マガジン社、2000年、11頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
:1986年9月20日、ナポリの女性が[[ディエゴ・マラドーナ・ジュニア]]を出産したが、マラドーナは自分の子どもであると認知せず、裁判で争うことになった。この時にはクラウディアも妊娠しており、それからの2年間に女児を2人授かった。クラウディアとは2004年に離婚し、同年に20歳のキューバ人女性と再婚した。ディエゴ・マラドーナ・ジュニアは2001年にU-17イタリア代表に選ばれたが、2009年からはビーチサッカーに舞台を移して活躍している。&lt;br /&gt;
; ペレとの関係&lt;br /&gt;
:自身と同じスラム街に生まれて偉大なサッカー選手になった[[ペレ]]には幼少期から憧れを抱いており、1978年にはペレを訪ねて話をするためにリオデジャネイロ巡礼の旅に出た&amp;lt;ref name=&amp;quot;バーンズ128頁&amp;quot;&amp;gt;バーンズ1997、128頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[1979 FIFAワールドユース選手権]]南米予選で活躍したことでブラジルメディアがマラドーナのことを「ペレ以来の逸材」と称賛した&amp;lt;ref&amp;gt;バーンズ1997、70頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[1982 FIFAワールドカップ]]で失望しか残せなかったことからペレ本人に批判され、この後は彼に対して嫌悪感情を抱くようになった&amp;lt;ref name=&amp;quot;バーンズ128頁&amp;quot;&amp;gt;&amp;lt;/ref&amp;gt;。折に触れて互いを批判し合っているが、『10番の夜』（後述）にペレがゲスト出演し、ペレとマラドーナのどちらが偉大だったか聞かれた際には「私の母は私だと言うし、ペレの母はペレだと言うだろう」と模範解答を答えた&amp;lt;ref&amp;gt;ウィリアムズ2007、242頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
:ペレとはしばしば比較される&amp;lt;ref&amp;gt;ウルフェルト・シュレーダー「PELE VS MARADONA 新旧キングを徹底比較 ペレVSマラドーナ」『イレブン』、日本スポーツ出版社、1988年2月号&amp;lt;/ref&amp;gt; &amp;lt;ref&amp;gt;『ペレ自伝』伊藤淳訳、白泉社、2008年、365頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。2000年にはFIFAによる20世紀最優秀選手が発表されることになったが、FIFA公式サイトによるインターネット投票ではマラドーナが1位（ペレが2位）の得票を得たのにもかかわらず、FIFAの役員を始めとしたサッカー関係者による投票では3位（ペレが1位）にとどまり、双方の結果に対しブラジルとアルゼンチンの両国間で激しい論争となった。FIFAは最終的にペレをFIFA選考委員会による最優秀選手とし、マラドーナはインターネット投票による最優秀選手として賞を分け合うことに決めた&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web|url=http://www.fcjapan.co.jp/news/001212_07.html |title=20世紀最優秀選手にペレとマラドーナ |publisher=FC JAPAN |date= |accessdate=2010-09-12}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
; フィデル・カストロとの関係&lt;br /&gt;
:1987年7月28日に[[フィデル・カストロ]][[キューバの国家元首|キューバ議長]]と初めて対面して以来&amp;lt;ref&amp;gt;陣野俊史「あなたが右? 左ウイングであるべきでしょう」『現代思想』、青土社、2008年5月臨時増刊号、192頁&amp;lt;/ref&amp;gt;友人関係を築いており、1989年の自身の結婚式にはカストロを招待した&amp;lt;ref&amp;gt;陣野俊史「あなたが右? 左ウイングであるべきでしょう」『現代思想』、青土社、2008年5月臨時増刊号、194頁、結局カストロは参列しなかった&amp;lt;/ref&amp;gt;。キューバへの敬愛の印として左脚にカストロ、右肩に[[チェ・ゲバラ]]の刺青を彫り込んでいる。&lt;br /&gt;
:2000年にウルグアイ滞在中に心臓発作を起こした時にはカストロを頼ってキューバの医療施設に入所し&amp;lt;ref&amp;gt;ウィリアムズ2007、239頁&amp;lt;/ref&amp;gt;、その後数年間はカストロの世話になった。『10番の夜』の12回目放送ではカストロにプレゼントされたジャケットを羽織って登場し、カストロに対する思いや自身の思想観を語った&amp;lt;ref name=&amp;quot;現代思想199頁&amp;quot;&amp;gt;&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
; カモッラ一家との関係&lt;br /&gt;
:[[SSCナポリ]]への移籍金はナポリのマフィア組織[[カモッラ]]一家によって捻出されたという説がある&amp;lt;ref&amp;gt;バーンズ1997、177頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。1986年にカモッラ一家の中の一族であるジュリアーノ・ファミリーと初対面し、その後はジュリアーノ家の結婚式やカモッラ一家のパーティに熱心に参加した&amp;lt;ref&amp;gt;バーンズ1997、186頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。1991年初頭、カモッラ一家の手の内にある売春宿から相当量のコカインを入手している事実が発覚し、マフィアの殺し屋とともに麻薬売買に手を出しているというマフィア側の供述とともに法的な追及がなされた&amp;lt;ref&amp;gt;バーンズ1997、273頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
; ラモン・ディアスとの関係&lt;br /&gt;
:[[ラモン・ディアス]]とマラドーナは犬猿の仲だとされ、1986 FIFAワールドカップと1990 FIFAワールドカップへのディアスの出場をマラドーナが妨げたと言われることがある。しかし、マラドーナは自伝の中で不仲説を否定し、[[カルロス・ビラルド]]監督にディアスの招集メンバー入りを進言したと主張している&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news |url=http://www.independent.co.uk/news/people/profiles/ramon-diaz-globetrotting-thoroughbred-commits-to-oxford-cause-485829.html |title=Globe-trotting thoroughbred commits to Oxford cause |publisher=The Independent |date=2005-01-01 |accessdate=2010-11-29}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
; リオネル・メッシとの関係&lt;br /&gt;
:左利きで小柄であること、ドリブルとスピードにおいてずば抜けていること、FCバルセロナでのプレー経験があること、アルゼンチン人であること、A代表デビュー戦が[[サッカーハンガリー代表|ハンガリー]]戦であることなど、[[リオネル・メッシ]]とマラドーナにはいくつかの共通点がある&amp;lt;ref&amp;gt;ルーカ・カイオーリ『メッシ -169センチの本気』、井上知訳、東邦出版、2010年、132頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。2007年4月18日の[[FCバルセロナ]]対[[ヘタフェCF]]戦において[[リオネル・メッシ]]がマラドーナの「5人抜き」ドリブルそっくりのプレーを見せ、メッシは「ゴールはディエゴ（マラドーナ）に捧げる」と発言したが、マラドーナは「比較は大げさすぎる。僕のゴールとは関係ない」と冷たくあしらった&amp;lt;ref&amp;gt;ルーカ・カイオーリ『メッシ -169センチの本気』、井上知訳、東邦出版、2010年、125-126頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。同年6月9日のバルセロナ・ダービーにおいてメッシは「神の手」ゴールそっくりのプレーを見せた&amp;lt;ref&amp;gt;ルーカ・カイオーリ『メッシ -169センチの本気』、井上知訳、東邦出版、2010年、127頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。マラドーナはメッシと自分との比較について「僕のほうが上だと思うよ」&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news |url=http://web.gekisaka.jp/388588_114488_fl |title=“絶口調”マラドーナ、「ペレ? 彼が対戦したのは動きもしない選手たち」 |publisher=ゲキサカ |date=2013-02-27 |accessdate=2013-05-23}}&amp;lt;/ref&amp;gt;と一旦は発言したが、後にこれを否定して「メッシの母親ならば、レオが一番と答えるだろうね」とペレの時と同じような発言をし、更に「僕は彼を愛している。自分の夢を語るならば、バルセロナ指揮官としてメッシを指導することだ」&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news |url=http://web.gekisaka.jp/388922_114759_fl|title=マラドーナ氏:「CR7はアニマルそのもの」 |publisher=ゲキサカ |date=2013-03-05 |accessdate=2013-05-23}}&amp;lt;/ref&amp;gt;と述べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== メディアとの関係 ===&lt;br /&gt;
1994年2月、自身の別荘に押しかけた報道陣200名に対して空気銃を乱射し、数名に軽症を負わせた。記者によって告訴され、[[アルゼンチンサッカー協会]]のフリオ・グロンドーナ会長などはマラドーナの罪を重く見たが、アルゼンチン国民や[[カルロス・メネム]]大統領はより同情的で、法的な処置は未決定となった&amp;lt;ref&amp;gt;バーンズ1997、301-303頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1996年、イギリスのフィナンシャル・タイムズ紙の記者ジミー・バーンズによってマラドーナの評伝が出版されたが&amp;lt;ref&amp;gt;ウィリアムズ2007、203頁&amp;lt;/ref&amp;gt;、薬物使用問題や[[国際サッカー連盟|FIFA]]の権力構造について踏み込んだ追及をしているため、アルゼンチン国内では出版を快く思われなかった&amp;lt;ref&amp;gt;バーンズ1997、346頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。2000年には自伝『YO SOL EL DIEGO』が出版され、それ以後もマラドーナに関する多数の著作が世に出ている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2001年にはイタリアのマルコ・ポンティ([[:en:Marco Ponti|Marco Ponti]])監督作の映画『サンタ・マラドーナ』が公開された&amp;lt;ref&amp;gt;堤康徳「聖マラドーナの奇蹟」『ユリイカ』、青土社、2002年6月5号、200頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。2009年にはフランス・スペイン合作、[[エミール・クストリッツァ]]監督作のドキュメント映画『[[マラドーナ (映画)]]』が公開された&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news |url=http://www.afpbb.com/article/entertainment/movie/2394134/2951858 |title=カンヌ映画祭『Maradona by Kusturica』上映会にクストリッツァ監督、マラドーナ登場 |publisher=AFP BB News |date=2008-05-21 |accessdate=2010-11-04}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2005年に放送されたテレビ番組『10番の夜』では司会を務め、スポーツ選手、俳優、タレント、映画監督など、マラドーナの顔が利くさまざまな分野の著名人が出演した&amp;lt;ref&amp;gt;陣野俊史「あなたが右? 左ウイングであるべきでしょう」『現代思想』、青土社、2008年5月臨時増刊号、196頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。サッカー選手では[[ペレ]]、[[ジネディーヌ・ジダン]]、[[アリエル・オルテガ]]、[[リオネル・メッシ]]などが出演している&amp;lt;ref name=&amp;quot;現代思想199頁&amp;quot;&amp;gt;陣野俊史「あなたが右? 左ウイングであるべきでしょう」『現代思想』、青土社、2008年5月臨時増刊号、199頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
政治的発言が多いことで知られ、2005年に米州機構会議が行われた際には、同市のサッカー場で行われた反[[ジョージ・ウォーカー・ブッシュ|ジョージ・W・ブッシュ]]集会に参加し、ベネズエラの[[ウーゴ・チャベス]]大統領の演説のあとに「ブッシュを倒そう!」と発言した&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news |url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/americas/4407300.stm |title=Protesters mass to confront Bush |publisher=BBC Sport |date=2005-11-04 |accessdate=2010-11-04}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代表監督として2010 FIFAワールドカップ出場を決めたウルグアイ戦後の記者会見では、これまで数々の批判を浴びせて来たメディアに対して「女性の方々には失礼するが…アレでもしゃぶってろ。お前らは好きなだけしゃぶり続けてればいいんだよ。俺をコケにしやがったからな」と最大級の侮辱語を並べたため、メディアから激しい非難の声が上がった&amp;lt;ref&amp;gt;藤坂ガルシア2010、245-247頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。記者会見での出来事は[[国際サッカー連盟|FIFA]]からも問題視され、練習参加などを含む2ヶ月間のサッカー活動禁止と、2万5000スイスフラン（約220万円）の罰金処分を受けた&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news |url=http://www.afpbb.com/article/sports/soccer/soccer-others/2664282/4916033 |title=マラドーナ監督 2か月の活動禁止と罰金、暴言騒ぎで |publisher=AFP BB News |date=2009-11-16 |accessdate=2010-11-4}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== プレースタイルと戦術 ==&lt;br /&gt;
; 選手時代のプレースタイル&lt;br /&gt;
:身長は160cm台半ばと小柄でずんぐりとした体格であるが、フィジカルが強靭で&amp;lt;ref name=&amp;quot;千田善&amp;quot;&amp;gt;千田善『ワールドカップの世界史』みすず書房、2006年、107頁&amp;lt;/ref&amp;gt;ボディバランスと洞察力に優れ&amp;lt;ref&amp;gt;クリストファー・ヒルトン、イアン・コール『南米サッカーのすべて』、野間けい子訳、DAI-X出版、2002年、304頁&amp;lt;/ref&amp;gt;、卓越したテクニックとパスセンスを持っている&amp;lt;ref&amp;gt;『スポーツ20世紀①サッカー 英雄たちの世紀』、ベースボール・マガジン社、2000年、6頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。ほとんどすべてのプレーを左足一本で行い、前述の「五人抜き」ドリブルの際も左足しかボールに触れていない&amp;lt;ref name=&amp;quot;千田善&amp;quot;&amp;gt;&amp;lt;/ref&amp;gt;。類稀な得点能力を持っており、フリーキックも得意である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:[[風間八宏]]は当時のマラドーナについて「顔の前に1メートル四方の空間を確保できれば、マラドーナにとってフリーといえる」と語った&amp;lt;ref&amp;gt;『技術力 サッカー 世界のスタープレーヤー』、出版芸術社、2005年、82頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 指導者としての戦術&lt;br /&gt;
:[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン代表]]監督時代にはDFラインにセンターバック4人を並べ、[[ミッドフィールダー|ボランチ]]の[[ハビエル・マスチェラーノ]]と共に守備を任せた。攻撃は[[リオネル・メッシ]]、[[カルロス・テベス]]、[[ゴンサロ・イグアイン]]らの個人技による局面打開を目指した&amp;lt;ref name=&amp;quot;2010決算号48頁&amp;quot;&amp;gt;&amp;lt;/ref&amp;gt;。攻守分担型のスタイルは「1930年代のサッカー」とも評された&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite news|author=柴田真宏 |url=http://www.asahi.com/worldcup/world/TKY201007050153.html |title=アルゼンチン、個人技頼みに限界  |publisher=asahi.com |date=2010-07-05 |accessdate=2011-04-09}} &amp;lt;/ref&amp;gt;。複数の戦術を使い分けるのではなく、終始一貫して攻撃的な姿勢を貫き、準々決勝・[[サッカードイツ代表|ドイツ]]戦では劣勢に陥った時に別策がないことを露呈した&amp;lt;ref name=&amp;quot;2010決算号48頁&amp;quot;&amp;gt;『2010 南アフリカ・ワールドカップ決算号』、ベースボール・マガジン社、2010年、48頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。常に選手の目線に立って物事を考えるため、選手のモチベーションを上げる人心掌握術は評価されており、選手からの信頼は厚い&amp;lt;ref name=&amp;quot;2010決算号49頁&amp;quot;&amp;gt;『2010 南アフリカ・ワールドカップ決算号』、ベースボール・マガジン社、2010年、49頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。ワールドカップ直前に[[UEFAチャンピオンズリーグ]]を制した[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]の中心選手だった[[ディエゴ・ミリート]]、[[ワルテル・サムエル]]をほとんど起用せず、同じく[[エステバン・カンビアッソ]]や[[ハビエル・サネッティ]]は招集さえもしなかったため、その起用法には疑問の声もあった&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite news|author=セルヒオ・レビンスキー |url=http://archive.sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/wcup/10southafrica/text/201005200006-spnavi_1.html |title=疑問の残るマラドーナの23名のリスト |work=SPORTNAVI |date=2010-05-22 |accessdate=2011-04-09}} &amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
== 影響 ==&lt;br /&gt;
{{要検証|元[[イタリア]]代表監督である[[アリゴ・サッキ]]が提唱し、後のサッカー界の主流となったゾーン・プレスはマラドーナを封じるために考案されたものである|date=2013年5月}}{{要検証|&amp;lt;ref&amp;gt;ACミラン(SEIBIDO MOOK)、2007年&amp;lt;/ref&amp;gt;|date=2013年5月}}。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 薬物と健康問題 ==&lt;br /&gt;
; 幼少時の人工的な筋肉増強&lt;br /&gt;
:セボリータス時代には体が小さかったことから、発育を助ける薬物やビタミンを使用して肉体改造を施した&amp;lt;ref&amp;gt;バーンズ1997、26頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。10代の頃に人工的な筋肉補強をし、その後は負傷するたびに痛み止めの注射を打って試合に出たため、トレーニングを中断するとすぐに体重が増加するという副作用が現れ&amp;lt;ref&amp;gt;バーンズ1997、250頁&amp;lt;/ref&amp;gt;、怪我しやすい体質にもつながった。&lt;br /&gt;
; コカイン使用問題&lt;br /&gt;
:[[FCバルセロナ]]時代にはコカイン使用疑惑が浮上した。クラブ役員によって隠蔽工作が行われたために在籍時には明るみにされなかったが、1996年1月に「私が初めてコカインを試したのはバルセロナにいた1982年だ」と自白した&amp;lt;ref&amp;gt;バーンズ1997、149-150頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[1986 FIFAワールドカップ]]でマラドーナは3度のドーピング検査を受け、いずれも陰性と診断されたが、アルゼンチン代表の不正薬物使用疑惑は大会期間中常に付きまとった。&lt;br /&gt;
:1991年3月17日、[[ASバーリ]]戦後のドーピング検査でコカインが検出され、[[イタリアサッカー連盟]]から15ヶ月間の出場停止処分を下された&amp;lt;ref&amp;gt;マラドーナ2002、262-263頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。同年4月にはブエノスアイレス市内でコカイン使用容疑により逮捕された&amp;lt;ref&amp;gt;マラドーナ2002、302頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。彼はのちに「ナポリでは麻薬はいたるところにあり、ウェイターがトレーに乗せて持ってくるように簡単に手に入った」と述べている&amp;lt;ref&amp;gt;バーンズ1997、278頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。1991年4月からは精神科医をともなったリハビリ作戦が進められ、限られた者しか面会できない状態で数ヶ月にも渡って治療が行われた&amp;lt;ref&amp;gt;バーンズ1997、282-283頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
:1994年には、それ以前に犯した麻薬の使用を理由に[[キリンカップ・サッカー]]アルゼンチン代表としての日本入国を拒否された（アルゼンチン代表も来日を中止）。&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web|url=http://www.soccertalk.jp/content/1994/05/no53.html|title=No.53　子どもたちにワールドカップを与えるか、麻薬を与えるか|work=サッカーの話をしよう　[[大住良之]]オフィシャルアーカイブサイト|date=1994.5.17|accessdate=2012.6.2}}&amp;lt;/ref&amp;gt;[[ボカ・ジュニアーズ]]でプレーしていた1997年8月にはまたもやコカインの陽性反応が出て、医師に「薬物の使用を続ければ命が危ない」と告げられた&amp;lt;ref&amp;gt;ウィリアムズ2007、239頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
:現役引退後も、2000年の[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|トヨタカップ]]では再び来日を拒否されたが、[[2002 FIFAワールドカップ]]では「アルゼンチン観光・スポーツ庁長官特使」という肩書きで特例措置を認められ、[[横浜国際総合競技場]]で行われた決勝戦を観戦した。&lt;br /&gt;
; ブラジル戦での睡眠薬混入事件&lt;br /&gt;
:[[1990 FIFAワールドカップ]]決勝トーナメント1回戦の[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]戦では1アシストを決めて勝利したが、敗れたブラジルが「試合中にマラドーナからブランコ([[:en:Branco (footballer)|Branco]])に渡されたコップの水に薬が入っていた」と主張した。後年のバラエティ番組でマラドーナ自身が給水ボトルに睡眠薬を混ぜていたことを暴露した&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news |url=http://archive.sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/wcup/10southafrica/text/201007070006-spnavi.html |title=涙と怒りのブラジル、心はすでに2014年へ |publisher=スポーツナビ |date=2010-07-09 |accessdate=2010-11-04}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。その後、当時代表監督のカルロス・ビラルドが番組のインタビューで「&#039;&#039;&#039;やったともやらなかったとも言えない・・・。&#039;&#039;&#039;」と曖昧な発言をしたことで騒動に拍車が掛かり物議を醸した。&lt;br /&gt;
; エフェドリン検出による大会追放&lt;br /&gt;
:1994年の[[1994 FIFAワールドカップ]]では2戦目の[[サッカーナイジェリア代表|ナイジェリア]]戦後に受けたドーピング検査で[[エフェドリン]]を含む5種類の禁止薬物が検出され&amp;lt;ref&amp;gt;ウィリアムズ2007、201頁&amp;lt;/ref&amp;gt;、特に国外のメディアから強い非難を受けた。マラドーナが政治的利用価値の高い選手であることから、彼に対するペナルティの軽重にはFIFAの内部でもさまざまな意見があったが、大会の残り試合への出場停止処分が下された&amp;lt;ref&amp;gt;バーンズ1997、320頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。その2ヶ月後の8月24日には「意図的に薬物を使用したとは認められず、薬物の構成成分が何であるかも全く知らなかった。しかし、そのような事情はあっても、マラドーナはFIFAのドーピング・コントロールに関する規則に違反している」として15ヶ月間の出場停止処分と2万フラン（約150万円）の罰金が課された&amp;lt;ref&amp;gt;バーンズ1997、324頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
:マラドーナは個人トレーナーがアメリカで購入した減量用[[サプリメント]]「Ripped Fuel」に[[ハーブ]]の一種が含まれており、そこから微量のエフェドリンが検出されたと説明し、故意の使用を否定している&amp;lt;ref&amp;gt;マラドーナ2002、297頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 所属クラブ ==&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;選手&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
* 1974-1980 {{Flagicon|ARG}} [[アルヘンティノス・ジュニアーズ]] &lt;br /&gt;
* 1981-1982 {{Flagicon|ARG}} [[ボカ・ジュニアーズ]]&lt;br /&gt;
* 1982-1984 {{Flagicon|ESP}} [[FCバルセロナ]]&lt;br /&gt;
* 1984-1991 {{Flagicon|ITA}} [[SSCナポリ]]&lt;br /&gt;
* 1992-1993 {{Flagicon|ESP}} [[セビージャFC]]&lt;br /&gt;
* 1993 {{Flagicon|ARG}} [[ニューウェルズ・オールドボーイズ]]&lt;br /&gt;
* 1995-1996 {{Flagicon|ARG}} [[ボカ・ジュニアーズ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;監督&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
* 1994 {{Flagicon|ARG}} デポルティーボ・マンディージュ・デ・コリエンテス&lt;br /&gt;
* 1995 {{Flagicon|ARG}} [[ラシン・クラブ]]&lt;br /&gt;
* 2008-2010 {{Flagicon|ARG}} &#039;&#039;&#039;[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン代表]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
* 2011-2012 {{flagicon|UAE}} [[アル・ワスルFC]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 個人成績 ==&lt;br /&gt;
; 選手としての成績&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
すべての所属クラブを合わせた場合の国内大会での得点率は0.526である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{サッカー選手国内成績表 top|yy}}&lt;br /&gt;
{{サッカー選手国内成績表 th|アルゼンチン|all}}&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1976||rowspan=&amp;quot;5&amp;quot;|[[アルヘンティノス・ジュニアーズ|アルヘンティノス]]||16||rowspan=&amp;quot;6&amp;quot;|[[プリメーラ・ディビシオン (アルゼンチン)|プリメーラ]]||11||2||colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|-||colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|-||11||2&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1977||||49||19||colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|-||colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|-||49||19&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1978||||35||25||colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|-||colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|-||35||25&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1979||||27||26||colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|-||colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|-||27||26&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1980||||45||43||colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|-||colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|-||45||43&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1981||[[ボカ・ジュニアーズ|ボカ]]||10||40||28||colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|-||colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|-||40||28&lt;br /&gt;
{{サッカー選手国内成績表 th|スペイン|all}}&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1982-83||rowspan=&amp;quot;2&amp;quot;|[[FCバルセロナ|バルセロナ]]||rowspan=&amp;quot;2&amp;quot;|10||rowspan=&amp;quot;2&amp;quot;|[[プリメーラ・ディビシオン|プリメーラ]]||20||11||5||3||4||5||29||19&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1983-84||16||11||4||1||3||3||23||15&lt;br /&gt;
{{サッカー選手国内成績表 th|イタリア|all}}&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1984-85||rowspan=&amp;quot;7&amp;quot;|[[SSCナポリ|ナポリ]]||rowspan=&amp;quot;7&amp;quot;|10||rowspan=&amp;quot;7&amp;quot;|[[セリエA (サッカー)|セリエA]]||30||14||6||3||colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|-||36||17&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1985-86||29||11||2||2||colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|-||31||13&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1986-87||29||10||10||7||2||0||41||17&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1987-88||28||15||9||6||2||0||39||21&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1988-89||26||9||21||7||12||3||50||19&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1989-90||28||16||3||2||5||0||36||18&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1990-91||18||6||3||2||4||2||25||10&lt;br /&gt;
{{サッカー選手国内成績表 th|スペイン|all}}&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1992-93||[[セビージャFC|セビージャ]]||10||プリメーラ||26||5||3||3||colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|-||29||7&lt;br /&gt;
{{サッカー選手国内成績表 th|アルゼンチン|all}}&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1993-94||[[ニューウェルズ・オールドボーイズ|ニューウェルズ]]||rowspan=&amp;quot;4&amp;quot;|10||rowspan=&amp;quot;4&amp;quot;|プリメーラ||3||0||colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|-||colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|-||3||0&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1995-96||rowspan=&amp;quot;3&amp;quot;|ボカ||11||3||colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|-||colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|-||11||3&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1996-97||13||2||colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|-||colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|-||13||2&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1997-98||6||2||colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|-||colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|-||6||2&lt;br /&gt;
{{サッカー選手国内成績表 通算始|3|アルゼンチン|プリメーラ}}240||150||colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|-||colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|-||240||150&lt;br /&gt;
{{サッカー選手国内成績表 通算行|スペイン|プリメーラ}}62||27||12||7||7||8||81||42&lt;br /&gt;
{{サッカー選手国内成績表 通算行|イタリア|セリエA}}188||81||54||29||25||5||267||115&lt;br /&gt;
{{サッカー選手国内成績表 通算終}}490||258||66||36||32||13||588||307&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 代表での年別出場試合数&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1982 FIFAワールドカップから1994 FIFAワールドカップまでの4大会に連続出場し、歴代3位タイの通算21試合に出場した。そのうち16試合でキャプテンを務めており、これはFIFAワールドカップにおける最多記録である。21試合で8得点8アシストを記録している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 指導者としての成績&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;font-size:90%; text-align: center;&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!rowspan=&amp;quot;2&amp;quot;|チーム&lt;br /&gt;
!rowspan=&amp;quot;2&amp;quot;|国&lt;br /&gt;
!rowspan=&amp;quot;2&amp;quot;|就任&lt;br /&gt;
!rowspan=&amp;quot;2&amp;quot;|退任&lt;br /&gt;
!colspan=&amp;quot;5&amp;quot;|記録&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!試合数!!勝!!負!!分!!勝率&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=left|デポルティーボ・マンディージュ&lt;br /&gt;
|align=left|{{Flagicon|Argentina}}&lt;br /&gt;
|align=left|1994年&lt;br /&gt;
|align=left|1994年&lt;br /&gt;
|12||1||6||5||{{#expr: 1/12 * 100 round 2}}%&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=left|[[ラシン・クラブ]]&lt;br /&gt;
|align=left|{{Flagicon|Argentina}}&lt;br /&gt;
|align=left|1995年&lt;br /&gt;
|align=left|1995年&lt;br /&gt;
|11||2||6||3||{{#expr: 2/11 * 100 round 2}}%&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=left|&#039;&#039;&#039;[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン代表]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|align=left|{{Flagicon|Argentina}}&lt;br /&gt;
|align=left|2008年11月&lt;br /&gt;
|align=left|2010年7月&lt;br /&gt;
|19||14||5||0||{{#expr: 14/19 * 100 round 2}}%&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=left|[[アル・ワスルFC]]&lt;br /&gt;
|align=left|{{Flagicon|UAE}}&lt;br /&gt;
|align=left|2011年5月&lt;br /&gt;
|align=left|2012年7月&lt;br /&gt;
|||||||||&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 獲得タイトル ==&lt;br /&gt;
=== 代表 ===&lt;br /&gt;
; {{Flagicon|ARG}} U-20アルゼンチン代表&lt;br /&gt;
* [[FIFA U-20ワールドカップ|FIFAワールドユース選手権]]:1回（1979）&lt;br /&gt;
* [[FIFA U-20ワールドカップ|FIFAワールドユース選手権]]最優秀選手:1回（1979）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; {{Flagicon|ARG}} アルゼンチン代表&lt;br /&gt;
* [[FIFAワールドカップ]]:1回（1986）&lt;br /&gt;
* [[FIFAワールドカップ]]最優秀選手:1回（1986）&lt;br /&gt;
* [[アルテミオ・フランキ・トロフィー]]:1回（1993）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== クラブ ===&lt;br /&gt;
; {{Flagicon|ARG}} アルヘンティノス&lt;br /&gt;
* [[プリメーラ・ディビシオン (アルゼンチン)|アルゼンチン・リーグ]]得点王:2回（1978メトロポリタン、1979メトロポリタン、1980メトロポリタン、1979全国リーグ、1980全国リーグ）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; {{Flagicon|ARG}} ボカ・ジュニアーズ&lt;br /&gt;
* [[プリメーラ・ディビシオン (アルゼンチン)|アルゼンチン・リーグ]]得点王:1回（1981全国リーグ）&lt;br /&gt;
* [[プリメーラ・ディビシオン (アルゼンチン)|アルゼンチン・リーグ]]:1回（1982）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; {{Flagicon|ESP}} FCバルセロナ&lt;br /&gt;
* [[コパ・デル・レイ]]:1回（1983）&lt;br /&gt;
* [[コパ・デ・ラ・リーガ]]:1回（1983）&lt;br /&gt;
* [[スーペルコパ・デ・エスパーニャ]]:1回（1983）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; {{Flagicon|ITA}} SSCナポリ&lt;br /&gt;
* グエリン・ドーロ:1回（1985）&lt;br /&gt;
* [[コッパ・イタリア]]:1回（1986-87）&lt;br /&gt;
* [[セリエA (サッカー)|セリエA]]:2回（1986-87、1989-90）&lt;br /&gt;
* [[セリエA (サッカー)|セリエA]] 得点王:1回（1987-88）&lt;br /&gt;
* [[UEFAヨーロッパリーグ|UEFAカップ]]:1回（1988-1989）&lt;br /&gt;
* [[スーペルコッパ・イタリアーナ]]:1回（1990）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 個人 ===&lt;br /&gt;
* [[南米年間最優秀選手賞]]（エル・ムンド紙）:6回&amp;lt;ref&amp;gt;1986年からはエル・パイス紙による選考も行われ、そちらが公式の選考扱いになっている&amp;lt;/ref&amp;gt;（1979、1980、1986、1989、1990、1992）&lt;br /&gt;
* 記者選出アルゼンチン最優秀サッカー選手賞:4回（1979、1980、1981、1986）&lt;br /&gt;
* 記者選出アルゼンチン最優秀スポーツ選手賞:1回（1986）&lt;br /&gt;
* [[ワールドサッカー (雑誌)|世界年間最優秀選手]]（ワールドサッカー誌）:1回（1986）&lt;br /&gt;
* [[オンズドール]]:2回（1986、1987）&lt;br /&gt;
* [[ワールドサッカー (雑誌)|20世紀の偉大なサッカー選手100人]]2位（ワールドサッカー誌）（1999）&lt;br /&gt;
* 記者選出20世紀アルゼンチン最優秀スポーツ選手賞（1999）&lt;br /&gt;
* FIFA20世紀最優秀選手&amp;lt;ref&amp;gt;ファン投票による結果&amp;lt;/ref&amp;gt;（2000）&lt;br /&gt;
* ゴール・オブ・ザ・センチュリー&amp;lt;ref&amp;gt;1986 FIFAワールドカップのイングランド戦で決めた2点目が選ばれた&amp;lt;/ref&amp;gt;（2002）&lt;br /&gt;
* [[ゴールデンフット賞]]All Time Legend（2003）&lt;br /&gt;
* [[FIFA 100]]（2004）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist|2}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* アリシア・オルティズ『マラドーナ --新たなる神話への挑戦-』、阪田由美子訳、徳間書店、1994年&lt;br /&gt;
* ジミー・バーンズ『ディエゴ・マラドーナの真実』、宮川穀訳、ベースボール・マガジン社、1997年&lt;br /&gt;
* ディエゴ・アルマンド・マラドーナ『マラドーナ自伝』、藤坂ガルシア千鶴訳、幻冬社、2002年&lt;br /&gt;
* リチャード・ウィリアムズ『背番号10のファンタジスタ』、町田敦夫訳、ベースボール・マガジン社、2007年&lt;br /&gt;
* アンドレ・リベイロ、ヴラジール・レモス『背番号10 -サッカーに「魔法」をかけた名選手たち』、市之瀬敦訳、白水社、2008年&lt;br /&gt;
* 藤坂ガルシア千鶴『マラドーナ -新たなる戦い-』、河出書房新社、2010年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[マラドーナ2世]] -- 育ちやプレースタイルがマラドーナと似ているアルゼンチン人選手はマラドーナ2世と形容されることがある。&lt;br /&gt;
* [[マラドーナ教]] - 1998年に創設された[[冗談宗教]]。世界中に10万人を越える信徒がいるとされている。&lt;br /&gt;
* 東欧のマラドーナ - ルーマニア出身のサッカー選手、[[ゲオルゲ・ハジ]]の愛称。そのプレースタイルがマラドーナと比較された。&lt;br /&gt;
* 砂漠のマラドーナ - サウジアラビア出身のサッカー選手、[[サイード・オワイラン]]の愛称。&lt;br /&gt;
* [[神の手 (サッカー)]]&lt;br /&gt;
* [[ストロベビー]] - 日本のお笑いコンビ。メンバーの「ディエゴ」によるマラドーナの形態模写で知られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
{{Commonscat|Diego Maradona}}&lt;br /&gt;
*{{Official website|http://www.diegomaradona.com/}}&lt;br /&gt;
*[http://soccernet.espn.go.com/manager/_/id/131/diego-maradona?cc=5739&amp;amp;ver=global ESPN Profile]&lt;br /&gt;
*[http://www.rsssf.com/miscellaneous/maradona-intl.html Complete List of International Appearances and Goals]&lt;br /&gt;
*[http://www.youtube.com/watch?v=jk-kXwjASEE Video: Maradona&#039;s &amp;quot;Goal of the Century&amp;quot;]&lt;br /&gt;
*[http://newsvote.bbc.co.uk/sport1/hi/football/4907924.stm Gary Lineker interviews Diego] – BBC News 30 April 2006&lt;br /&gt;
*[http://euro2008-blog.blogspot.com/2008/05/diego-maradona-i-have-always-admired.html Diego admires Del Piero and Lavezzi]&lt;br /&gt;
*[http://www.newkerala.com/topstory-fullnews-58718.html Maradona Wants a Soccer Project to Return to Calcutta]&lt;br /&gt;
*[http://www.goal.com/en-gb/news/2871/special/2010/10/29/2188484/diego-maradonas-50th-birthday-50-facts-about-the-argentina 50 Facts About the Argentine Legend]&lt;br /&gt;
*[http://www.ciudad.com.ar/espectaculos/98220/particular-reaccion-dalma-maradona-tras-noticia-embarazo-veronica-ojeda Maradona&#039;s new soon]&lt;br /&gt;
* {{worldcat id|lccn-n90-719108}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Navboxes|title=獲得タイトル・記録|titlestyle = background: gold;&lt;br /&gt;
|list1=&lt;br /&gt;
{{FIFA 100}}&lt;br /&gt;
{{サッカーセリエA得点王}}&lt;br /&gt;
{{FIFA U-20ワールドカップ大会MVP}}&lt;br /&gt;
{{FIFAワールドカップ大会MVP}}&lt;br /&gt;
{{南米年間最優秀選手賞}}&lt;br /&gt;
{{アルゼンチン年間最優秀選手賞}}&lt;br /&gt;
{{WTTC}}&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{Navboxes|title = &amp;lt;span style=&amp;quot;color:#FFFFFF&amp;quot;&amp;gt;アルゼンチン代表 - 出場大会&amp;lt;/span&amp;gt;&lt;br /&gt;
|titlestyle =background:#75aadb; color:#FFFFFF;&lt;br /&gt;
|list1=	&lt;br /&gt;
&amp;lt;span/&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{1979 FIFAワールドユース選手権 アルゼンチン代表}}&lt;br /&gt;
{{1982 FIFAワールドカップアルゼンチン代表}}&lt;br /&gt;
{{1986 FIFAワールドカップアルゼンチン代表}}&lt;br /&gt;
{{コパ・アメリカ1987アルゼンチン代表}}&lt;br /&gt;
{{コパ・アメリカ1989アルゼンチン代表}}&lt;br /&gt;
{{1990 FIFAワールドカップアルゼンチン代表}}&lt;br /&gt;
{{1994 FIFAワールドカップアルゼンチン代表}}&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{Navboxes|title = &amp;lt;span style=&amp;quot;color:#FFFFFF&amp;quot;&amp;gt;アルゼンチン代表監督(2008-2010)&amp;lt;/span&amp;gt;&lt;br /&gt;
|titlestyle =background:#75aadb; color:#FFFFFF;&lt;br /&gt;
|list1=	&lt;br /&gt;
&amp;lt;span/&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{2010 FIFAワールドカップアルゼンチン代表}}&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{Normdaten|PND=11916938X|LCCN=n/90/719108|VIAF=34444144}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:まらとおな ていえこ}}&lt;br /&gt;
[[Category:アルゼンチンのサッカー選手]]&lt;br /&gt;
[[Category:サッカーアルゼンチン代表選手]]&lt;br /&gt;
[[Category:アルゼンチンのサッカー指導者]]&lt;br /&gt;
[[Category:アルヘンティノス・ジュニアーズの選手]]&lt;br /&gt;
[[Category:ボカ・ジュニアーズの選手]]&lt;br /&gt;
[[Category:FCバルセロナの選手]]&lt;br /&gt;
[[Category:SSCナポリの選手]]&lt;br /&gt;
[[Category:セビージャFCの選手]]&lt;br /&gt;
[[Category:ニューウェルズ・オールドボーイズの選手]]&lt;br /&gt;
[[Category:FIFA100]]&lt;br /&gt;
[[Category:南米年間最優秀選手賞受賞者]]&lt;br /&gt;
[[Category:1982 FIFAワールドカップ出場選手]]&lt;br /&gt;
[[Category:1986 FIFAワールドカップ出場選手]]&lt;br /&gt;
[[Category:1990 FIFAワールドカップ出場選手]]&lt;br /&gt;
[[Category:1994 FIFAワールドカップ出場選手]]&lt;br /&gt;
[[Category:2010 FIFAワールドカップ監督]]&lt;br /&gt;
[[Category:ドーピング違反のサッカー選手]]&lt;br /&gt;
[[Category:イタリア系アルゼンチン人]]&lt;br /&gt;
[[Category:ブエノスアイレス州出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1960年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;br /&gt;
{{Link FA|es}}&lt;br /&gt;
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{{Link GA|fi}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>2001:3B0:10:C:0:0:0:1072</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E6%9D%BE%E5%9D%82%E5%B1%8B&amp;diff=24680</id>
		<title>松坂屋</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E6%9D%BE%E5%9D%82%E5%B1%8B&amp;diff=24680"/>
		<updated>2014-06-12T19:44:33Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;2001:3B0:10:C:0:0:0:1072: /* 概要 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Pathnav|J.フロント リテイリング|大丸松坂屋百貨店|frame=1}}&lt;br /&gt;
{{基礎情報 会社&lt;br /&gt;
|社名 = 株式会社松坂屋&lt;br /&gt;
|英文社名 = Matsuzakaya Co.,Ltd.&lt;br /&gt;
|ロゴ = [[ファイル:Matsuzakaya.svg|100px|松坂屋の商標]]&lt;br /&gt;
|画像 = &lt;br /&gt;
|画像説明 = &lt;br /&gt;
|種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]&lt;br /&gt;
|市場情報 = 非上場（以下は過去のデータ）&amp;lt;br /&amp;gt;{{上場情報 | 東証一部 | 8235 | 1949年5月16日 | 2006年8月28日}}{{上場情報 | 大証一部 | 8235 | 1949年5月14日 | 2003年11月}}{{上場情報 | 名証一部 | 8235 |  | 2006年8月28日}}&lt;br /&gt;
|略称 = マツザカヤ&lt;br /&gt;
|国籍 = {{JPN}}&lt;br /&gt;
|本社郵便番号 = 460-8430&lt;br /&gt;
|本社所在地 = [http://www.mapfan.com/m.cgi?MAP=E136.54.39.4N35.9.43.5 愛知県名古屋市中区栄三丁目16番1号]&lt;br /&gt;
|設立 = [[1910年]]（明治43年）[[2月1日]]（1611年創業）&amp;lt;br /&amp;gt;（株式会社いとう呉服店）&lt;br /&gt;
|業種 = 小売業&lt;br /&gt;
|統一金融機関コード =&lt;br /&gt;
|SWIFTコード =&lt;br /&gt;
|事業内容 = 百貨店&lt;br /&gt;
|代表者 = 岡田 邦彦（代表取締役会長）&amp;lt;br /&amp;gt;茶村 俊一（代表取締役社長）&lt;br /&gt;
|資本金 = 97億6,500万円&lt;br /&gt;
|売上高 = 連結：3,439億3,600万円&amp;lt;br /&amp;gt;単独：3,001億円&lt;br /&gt;
|総資産 = 連結：2,176億4,200万円&amp;lt;br /&amp;gt;単独：2,029億円&lt;br /&gt;
|従業員数 = 連結：4,004名&amp;lt;br /&amp;gt;単独：2,959名&lt;br /&gt;
|決算期 = 2月末日&lt;br /&gt;
|主要株主 = [[J.フロント リテイリング|J.フロント リテイリング（株）]]　100%&lt;br /&gt;
|主要子会社 = [[松坂屋ストア|（株）松坂屋ストア]]　100%&lt;br /&gt;
|関係する人物 =&lt;br /&gt;
|外部リンク = http://www.matsuzakaya.co.jp/&lt;br /&gt;
|特記事項 = 各種経営指標は2008年2月期のもの。[[2010年]][[3月1日]]付で株式会社大丸と合併。&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;松坂屋&#039;&#039;&#039;（まつざかや、[[英語|英称]]:&#039;&#039;Matsuzakaya&#039;&#039;）は、[[J.フロント リテイリング]]傘下の&#039;&#039;&#039;[[大丸松坂屋百貨店|株式会社大丸松坂屋百貨店]]&#039;&#039;&#039;が運営する[[日本の百貨店|百貨店]]の[[屋号]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在の運営会社である大丸松坂屋百貨店は、[[2010年]]2月28日に(株)松坂屋が[[大丸|(株)大丸]]を[[吸収合併]]して発足したもの。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「松&#039;&#039;&#039;阪&#039;&#039;&#039;屋」は誤表記（[[#屋号について|屋号について]]参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 沿革 ==&lt;br /&gt;
*[[1611年]]（慶長16年）- [[織田氏|織田家]]の小姓の子孫である[[伊藤祐道|伊藤蘭丸祐道]]が名古屋本町で [[呉服]]小間物商「&#039;&#039;&#039;いとう呉服店&#039;&#039;&#039;」創業。&lt;br /&gt;
:祐道はのち[[大坂夏の陣]]で[[豊臣氏|豊臣方]]について戦死し、呉服店は一旦閉店となる。&lt;br /&gt;
*[[1659年]]（慶長16年）- 祐道の遺児・伊藤次郎左衞門祐基が名古屋茶屋町に呉服小間物問屋を再開。&lt;br /&gt;
*[[1736年]]（元文元年）- 呉服太物小売商に業態転換。正札販売を開始。徳川家の呉服御用達となる。&lt;br /&gt;
*[[1740年]]（元文5年）- 尾張藩の呉服御用となる。 &lt;br /&gt;
*[[1745年]]（延亨2年）- 京都室町錦小路に仕入店を開設。1749年（寛延2年）新町通六角町に移転。 &lt;br /&gt;
*[[1768年]]（明和5年）[[4月5日 (旧暦)|4月5日]]（[[5月20日]]） - [[江戸]]進出。[[上野]]の「松坂屋」を買収し、同店を「&#039;&#039;&#039;いとう松坂屋&#039;&#039;&#039;」と改称。&lt;br /&gt;
*[[1805年]]（文化2年）- 江戸大伝馬町に木綿問屋 亀店（かめだな）を開設。問屋兼業により価格の引き下げを図った。同店の開設に伴いいとう松坂屋は鶴店と呼称した。　 &lt;br /&gt;
*[[1854年]] - 当主治朗左右衛門の婚礼。その祝儀曲として[[地歌]]曲の『花の縁』が[[吉沢検校]]により作曲される。&lt;br /&gt;
*[[1875年]]（明治8年）- [[大阪]]進出。[[高麗橋]]の呉服店「恵比須屋」を買収の上、新町通に「&#039;&#039;&#039;ゑびす屋いとう呉服店&#039;&#039;&#039;」を開店。&lt;br /&gt;
*[[1881年]]（明治14年）- 名古屋茶屋町角に[[伊藤銀行]](現.[[三菱東京UFJ銀行]])を開業。 &lt;br /&gt;
[[ファイル:Matsuzakaya_ueno.jpg|thumb|200px|right|松坂屋東京上野古絵葉書]]&lt;br /&gt;
*[[1907年]]（明治40年）- 上野店を「&#039;&#039;&#039;合資会社松坂屋いとう呉服店&#039;&#039;&#039;」に改組。 &lt;br /&gt;
*[[1910年]]（明治43年）-「&#039;&#039;&#039;株式会社いとう呉服店&#039;&#039;&#039;」を設立（資本金50万円）。&amp;lt;br /&amp;gt;名古屋・[[栄 (名古屋市)|栄町]]に百貨店を開業。&lt;br /&gt;
*[[1911年]]（明治44年）- いとう 少年音楽隊結成。後に[[東京フィルハーモニー交響楽団]]へと発展。&lt;br /&gt;
*[[1924年]]（大正13年） - 銀座店開店。全館土足入場可能な百貨店となった。&lt;br /&gt;
*[[1925年]]（大正14年）- 全店の名称を「&#039;&#039;&#039;[[松坂屋]]&#039;&#039;&#039;」に統一。この頃から[[ミャンマー|ビルマ]]独立運動家を支援する。&lt;br /&gt;
*[[1957年]]（昭和32年）- &#039;&#039;&#039;カトレヤ&#039;&#039;&#039;をシンボルフラワーに制定。 &lt;br /&gt;
*[[1961年]]（昭和36年）- &#039;&#039;&#039;[[ニナ・リッチ]]&#039;&#039;&#039;（フランスの[[オートクチュール]]）と独占契約。&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.smrj.go.jp/keiei/dbps_data/_material_/common/chushou/b_keiei/keieiseni/pdf/45880-26.pdf 中小企業基盤整備機構]&amp;lt;/ref&amp;gt;※現在は [[伊藤忠商事]]。&lt;br /&gt;
*[[1964年]]（昭和39年）- &#039;&#039;&#039;[[ヘンリー・プール]]社&#039;&#039;&#039;（イギリス紳士服テイラー）と提携 &lt;br /&gt;
: 松坂屋[[コマーシャルメッセージ|CM]]ソング「振り向けば松坂屋」誕生（作詞 [[永六輔]]、作曲 [[中村八大]]）。&amp;lt;ref&amp;gt;この曲は[[TBSラジオ&amp;amp;コミュニケーションズ|TBSラジオ]][[森本毅郎・スタンバイ!]]のスタンバイトークファイルのCMで使用されており、かつては[[CBCラジオ]]の提供番組「[[0時半です松坂屋ですカトレヤミュージックです|カトレヤミュージック]]」（放送終了）でインストゥルメンタルで聴くことができ、関東でも[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の[[目方でドーン!]]、[[NNN昼のニュース]]、[[NNNライブオンネットワーク]]、[[NNNニュースプラス1]]、[[皇室日記]]に提供していて、これらの番組でも聴くことができた。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
*[[1972年]]（昭和47年）- 名古屋店北館を増築（リビンザ）。&#039;&#039;&#039;[[大丸#セントラル・バイイング・システム|大丸CBSグループ]]&#039;&#039;&#039;に参加し共同配送等業務提携。&lt;br /&gt;
*[[1973年]]（昭和48年）- 「&#039;&#039;&#039;マツザカヤ友の会&#039;&#039;&#039;」発足。&lt;br /&gt;
*[[1985年]]（昭和60年）1月、16代 伊藤次郎左衞門会長の死去により[[鈴木正雄]]が会長に就任。同年4月、臨時取締役会で創業者一族の当時の17代 伊藤次郎左衞門（鈴三郎）社長を会長に退かせて[[鈴木正雄]]が社長に就任する。その後 1991年に再度会長就任。&lt;br /&gt;
*[[1991年]]（平成3年） - 名古屋店南館を増築。「松坂屋美術館」を開設。&lt;br /&gt;
*[[1997年]]（平成10年） 11月、鈴木正雄氏、[[総会屋]]への利益供与事件で相談役を辞任する。&lt;br /&gt;
*[[2003年]]（平成15年）- 名古屋店南館拡張。[[東武百貨店|東武百貨店池袋店]]を抜き日本最大の百貨店となった。&lt;br /&gt;
*[[2005年]]（平成17年）- 豊富な含み資産に目を付けた[[村上ファンド]]に株式の約10%を買い占められ、経営混乱。&lt;br /&gt;
*[[2006年]]（平成18年）9月1日 - 純粋持株会社「&#039;&#039;&#039;株式会社松坂屋ホールディングス&#039;&#039;&#039;」設立。株式移転方式で持ち株会社体制に移行した。&lt;br /&gt;
*[[2007年]]（平成19年）9月3日 - [[大丸]]との共同持株会社「&#039;&#039;&#039;[[J.フロント リテイリング]]株式会社&#039;&#039;&#039;」を設立し株式移転。松坂屋ホールディングスは上場廃止。11月1日 J.フロント リテイリングが松坂屋ホールディングスを吸収合併。松坂屋はJ.フロント リテイリングの直接子会社となる。&lt;br /&gt;
*2010年[[3月1日]] - 株式会社大丸を吸収合併し、「&#039;&#039;&#039;株式会社大丸松坂屋百貨店&#039;&#039;&#039;」に社名変更。高槻店が、大丸京都店の分店扱いとなる。&lt;br /&gt;
{{Main2|以降は[[J.フロント リテイリング]]を}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[東海地方]]を本拠点とし、とりわけ地元である[[名古屋市]]など[[中京圏]]では今なお最有力の[[百貨店]]である。イメージフラワーは[[カトレヤ]]で、[[キャッチフレーズ]]は「&#039;&#039;&#039;生活と文化を結ぶマツザカヤ&#039;&#039;&#039;」である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[三越]]や[[高島屋]]などを凌ぎ日本一の売上を誇る百貨店であった時期も存在する。現在の[[三菱東京UFJ銀行]]（旧[[東海銀行]]）の前身の一つである[[伊藤銀行]]や「名古屋の[[帝国ホテル]]」と呼ばれた[[名古屋観光ホテル]]、名古屋[[商工会議所]]など各企業・団体の設立にも関連した、近代の名古屋における有名企業である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
業界他社に先駆けて[[エレベーターガール]]、制服の完全洋装化を採り入れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
地元市民の高齢層では松坂屋のことを「[[伊藤]]様」と呼ぶ人もいるほど、愛知県では他店よりも松坂屋が格上の百貨店であるという認識が非常に強く、松坂屋の[[外商]]部と取引があることが一種のステイタスとみなされる場合もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2010年]]に百貨店開業から数えて100周年、[[2011年]]に「いとう呉服店」創業から数えて400周年を迎えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 屋号について ==&lt;br /&gt;
[[三重県]]にある「[[松阪市]]」と混同して、しばしば&#039;&#039;&#039;松阪屋&#039;&#039;&#039;と誤表記される（&#039;&#039;&#039;坂&#039;&#039;&#039;と&#039;&#039;&#039;阪&#039;&#039;&#039;の違い）。また、マークが[[伊勢商人|松阪商人]]の[[三井財閥|三井家]]の家紋と酷似している事も一因である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もともとこの[[百貨店]]の屋号は創業者・[[伊藤祐道|伊藤蘭丸祐道]]の苗字から採った&#039;&#039;&#039;いとう屋&#039;&#039;&#039;であった。この伊藤蘭丸祐道の祖先は[[織田信長]]の小姓をしていたとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「松坂屋」のそもそもの由来は、[[1707年]]に伊勢松坂(現・松阪市)出身の商人・太田利兵衛が今日の上野店の前身となる呉服店を開業、自分の出身地名から松坂屋と名付けたことによるもの。当時の松坂は[[木綿]]（[[松阪木綿]]）の主要な供給地で、呉服の原料として縁があった訳である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1767年]]、いとう屋が松坂屋を買収した際、江戸の屋号はそのまま「松坂屋」を使用したが、これは既に江戸市中に松坂屋の名前が知れ渡っていたため、本来の「いとう屋」に変更するよりも得策と判断したからである（同様の例に、横浜発祥の[[松屋 (百貨店)|松屋]]がある）。大阪進出の際も同様の理由により買収した「ゑびす屋」をそのまま使用したが、全店舗で屋号を統一する事となった際に全国チェーンを睨んだ結果、東京で使用されてきた「松坂屋」が採用される事となり、現在に至る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 松坂屋お家騒動 ===&lt;br /&gt;
[[第二次世界大戦]]後会社の命運を分ける二つの[[お家騒動]]が勃発した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最初のお家騒動は1980年に当時社長であった[[伊藤鈴三郎]]が兄に当たる16代[[伊藤次郎左衞門]]会長と[[鈴木正雄]]の共謀により解任させられた宮廷革命と称されるものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは伊藤鈴三郎体制下による拡大路線の反動で発生した札幌松坂屋の失敗や業績が芳しくなかった横浜野沢屋の救済で本体の悪影響を及ぼしたという点が表向きの理由ではあるが、16代次郎佐衛門会長が息子の[[伊藤洋太郎]]にいち早く後継者としたい意図に鈴木正雄が乗ったことが定説である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二のお家騒動は宮廷革命と同様に鈴木正雄によるものであった。[[1985年]]4月、名古屋の松坂屋本店で開かれた臨時取締役会で、16代伊藤次郎左衞門会長の死去によりわずか3カ月前に副社長から会長に就任したばかりの鈴木正雄が社長に収まり、松坂屋創業以来370年余りの歴史の中で起こりえなかった創業家の伊藤洋太郎（17代伊藤次郎左衞門）社長が代表権のない会長に棚上げされる人事が電撃的に決まる。鈴木本人は「私は工作などしていない。皆に推された」と否定したが、腹心の役員らと連携し自らが実権を握る事実上の[[クーデター]]であり、松坂屋のお家騒動として全国的に注目された。その後も1991年に再度会長就任、1993年から相談役と鈴木は実権を握り続けるが、1997年11月総会屋への利益供与事件で辞任する。&lt;br /&gt;
&amp;lt;ref&amp;gt;「元松坂屋社長」『[[四国新聞社]]』2007年12月12日号[http://www.shikoku-np.co.jp/national/okuyami/print.aspx?id=20071212000138]&amp;lt;/ref&amp;gt; &amp;lt;ref&amp;gt;「創業家を棚上げした剛腕」総合情報誌&lt;br /&gt;
『ザ・ファクタ』2008年2月号[http://facta.co.jp/article/200802043.html]&amp;lt;/ref&amp;gt; &amp;lt;ref&amp;gt;「松坂屋元社長、創業家排除」『[[四国新聞社]]』2007年12月12日号[http://www.shikoku-np.co.jp/national/economy/print.aspx?id=20071212000140]&amp;lt;/ref&amp;gt; &amp;lt;ref&amp;gt;「松坂屋元社長、創業家排除」『[[47NEWS]]』2007年12月12日号[http://www.47news.jp/CN/200712/CN2007121201000207.html]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 松坂屋ホールディングス設立〜経営統合 ==&lt;br /&gt;
[[2005年]]から[[2006年]]にかけて、優良資産に目を付けた[[村上ファンド]]が松坂屋の大株主となり、一時経営を揺さぶられた。そのため、機動的かつ柔軟な経営判断ができる体制を構築するとともに、グループ各社の採算性と事業責任の明確化を図ることを目的として、株式移転により「株式会社松坂屋ホールディングス」（松坂屋HD）を設立し、[[純粋持株会社]]体制へ移行した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、移行してから1年も経たないうちに[[大丸]]との経営統合を発表。そして松坂屋HD発足からちょうど1年後の[[2007年]]に共同持株会社「[[J.フロント リテイリング]]株式会社」 (JFR) が設立されると、松坂屋HDはJFRに吸収合併され、役目を終えることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 店舗 ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:Matsuzakaya north building.jpg|thumb|200px|right|名古屋店北館]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:Matsuzakaya main building.jpg|thumb|200px|right|名古屋店本館]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:Matsuzakaya south building.jpg|thumb|200px|right|名古屋店南館]]&lt;br /&gt;
;名古屋店&lt;br /&gt;
: 1611年「いとう呉服店」創業（本町）。&lt;br /&gt;
: 1659年 呉服小間物問屋を開業（茶屋町　中区丸の内二丁目5番10号　現.アイリス愛知）。 &lt;br /&gt;
: 1910年「株式会社いとう呉服店」を創立。栄町に進出（中区栄三丁目4番5号　現.[[丸栄#隣接する施設|スカイル]]&amp;lt;!--丸栄はスカイルから撤退済--&amp;gt;の位置）。ルネサンス風の3階建て洋館。　&lt;br /&gt;
: 1925年　名古屋　南大津町（現在地）へ移転。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
名古屋市中区[[栄 (名古屋市)|栄]]三丁目16番1号&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（名古屋市営地下鉄名城線[[矢場町駅]]5・6番出口）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
店舗面積86,758m&amp;amp;sup2;&amp;lt;ref&amp;gt;「ハロー名古屋」の[[語呂合わせ]]でもある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
: 旧&#039;&#039;&#039;本店&#039;&#039;&#039;。松坂屋の旗艦店で、[[大丸]]との経営統合後は本店の呼称は使われなくなった。本館・南館・北館の3館で構成され、北館はかつて[[阪急東宝グループ]]の映画館[[エンゼル東宝]]が入っていた共同ビルのため、現在でも店舗設置者に[[阪急阪神東宝グループ]]が含まれる。&lt;br /&gt;
:2003年の南館増床以降は店舗面積が[[日本一の一覧|日本一]]となったが、[[2014年]]に[[近鉄百貨店|近鉄百貨店あべのハルカス本店]](100,000m&amp;amp;sup2;)にその座を譲った&amp;lt;ref&amp;gt;[http://sankei.jp.msn.com/economy/news/140222/biz14022218200020-n1.htmef 産経ニュース- 日本最大級の売り場が開業　ハルカスの近鉄百貨店本店]2014年2月22日、2014年4月9日閲覧&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
:2011年春から大規模改装工事が行われ、翌2012年4月28日に第1期分が完了した&amp;lt;ref&amp;gt;2009年12月23日 日本経済新聞 中部経済面（大規模改装について記載）&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;2010年1月14日 中日新聞（同上）&amp;lt;/ref&amp;gt;。南館では2011年9月14日、4階に「松坂屋写真室」がオープンし、証明写真や出張撮影を含む各種記念写真を取り扱っている。さらに、翌2012年3月2日に、銀座店と大丸各店で展開されているヤングレディスファッション売場「&#039;&#039;&#039;ufufu girls（うふふガールズ）&#039;&#039;&#039;」を2階に開設、また4月21日に[[H&amp;amp;M]]が「国内最大の店舗面積」を唱って、1階と地下1階に出店した。なお、本館・南館・北館の外観はそれぞれ異なっており、南館はさらに、先にオープンした[[久屋大通]]沿いと、増床による[[大津通]]沿い（新・南館）で外観が全く異なっている（新・南館の外観は本館・大津通沿いの外観に似せてデザインされた）。&lt;br /&gt;
:名古屋市内の主要百貨店として、[[名鉄百貨店]]本店・[[丸栄]]・[[名古屋三越]]（栄店、星ヶ丘店）・[[ジェイアール名古屋タカシマヤ]]と共に[[4M1T]]と並び称される。長年にわたって市内の百貨店で最も売上の多い店舗として君臨したが、2011年3月の月間売上高において初めてジェイアール名古屋タカシマヤに逆転を許した。&lt;br /&gt;
:名古屋パルコが隣接しており、[[パルコ]]がJ.フロント リテイリングの子会社となった以降は、名古屋パルコとクリアランスセールのコラボレーションを全国に先行して行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: ギフトショップ &lt;br /&gt;
:: 安城ギフトショップ　[[安城市]]三河安城本町一丁目29番地&lt;br /&gt;
:: 半田ギフトショップ　[[半田市]]山代町一丁目106番地1&lt;br /&gt;
&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[ファイル:Matsuzakaya-toyota.jpg|豊田店（[[愛知県]][[豊田市]]）|サムネイル|右]]&lt;br /&gt;
;[[松坂屋豊田店|豊田店]]&lt;br /&gt;
: 2001年開店：[[愛知県]][[豊田市]]西町六丁目85-1　[[T-FACE]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（名鉄三河線豊田市駅・愛知環状鉄道新豊田駅間）店舗面積18,220m&amp;amp;sup2;。&lt;br /&gt;
: [[豊田そごう]]の後継として開業。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像:Ueno matsuzakaya.JPG|thumb|200px|上野店（[[東京都]][[台東区]]）]]&lt;br /&gt;
;上野店&lt;br /&gt;
: 1768年　松坂屋買収。「いとう松坂屋」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京都台東区[[上野]]三丁目29番5号&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京において[[江戸時代]]から現在まで同一の場所で続く百貨店は、日本橋[[三越]]と当店だけ。&lt;br /&gt;
: 1830年　「東都名所上野広小路之図」に記載される。&lt;br /&gt;
: 1855年　[[安政の大地震]]　直ちに再建。&lt;br /&gt;
: 1868年　[[彰義隊]]と[[明治維新#中央政府|官軍]]による[[上野戦争]]　官軍の本営になった&lt;br /&gt;
: 1907年　上野店を「合資会社松坂屋いとう呉服店」に改組。座売りを陳列式建売りに改め、呉服に加え、雑貨、家庭用品なども扱い始めた。&lt;br /&gt;
: 1917年&amp;lt;ref&amp;gt;1916年開店という説もある。　（読売新聞2013年10月29日 夕刊15面広告）&amp;lt;/ref&amp;gt;　新本館（6,600m&amp;amp;sup2;）完成。&lt;br /&gt;
: 1923年　関東大震災により全焼。1か月後に仮営業所、2か月後には仮店舗を立ち上げた&lt;br /&gt;
: 1929年　本館再建。エレベーター10基設置。わが国初の[[エレベーターガール]]を配置。民間初の自動交換式電話を設置。&lt;br /&gt;
: 1930年1月1日　地下鉄広小路駅と地下売場が直結。&lt;br /&gt;
: 1931年　[[お子様ランチ]]が登場。&lt;br /&gt;
: 1957年　南館（地下3階、地上7階）を増築。売場面積は本館と合わせて、35,213m&amp;amp;sup2;に達した。&lt;br /&gt;
: 2014年3月 南館の営業終了（予定）。南館は取り壊した上で23階建の複合ビルに建て替え、メインテナントとして[[パルコ]]と[[TOHOシネマズ]]が入居する方針&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.j-front-retailing.com/_data/news/130826_UP_JFR_J.pdf 株式会社大丸松坂屋百貨店 松坂屋上野店南館の建替えについて] - J.フロント リテイリング・2013年8月26日&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
: 2017年秋 新南館開業予定。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:Matsuzakaya-Shizuoka.jpg|thumb|200px|right|静岡店（[[静岡県]][[静岡市]][[葵区]]）]]&lt;br /&gt;
;静岡店&lt;br /&gt;
: 1932年開店：[[静岡市]][[葵区]]御幸町10番地の2&lt;br /&gt;
: JR静岡駅前　静岡駅北口から横断地下道で直結&lt;br /&gt;
: 店舗面積25,452m&amp;amp;sup2;。本館と北館で構成。&lt;br /&gt;
: 1971年　本館全面建替え完成&lt;br /&gt;
: [[1996年]][[9月]]には北館が完成し、同市最大の百貨店になった。売上高は[[1997年]]度は、347億円を計上したが、近年は長引く消費不振により減少傾向にあり、[[2011年]]度は229億円まで落ち込んでいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: ギフトショップ &lt;br /&gt;
:: 富士ギフトショップ　[[富士市]]永田町二丁目51番地の2&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:Matsuzakaya Takatsuki01n2700.jpg|thumb|200px|right|高槻店（[[大阪府]][[高槻市]]）]]&lt;br /&gt;
;高槻店&lt;br /&gt;
: 1979年開店：大阪府[[高槻市]]紺屋町2番1号&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
JR京都線高槻駅より徒歩1分&lt;br /&gt;
:店舗面積20,642m&amp;amp;sup2;。&amp;lt;!--（親会社の）J.フロントとしての--&amp;gt;運営上は[[大丸]]京都店の分店。競合相手として[[西武百貨店|西武]]高槻店があげられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 過去に存在した店舗  ==&lt;br /&gt;
=== 直営店 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Matsuzakaya Ginza branch (2007.9.11).jpg|thumb|200px|right|銀座店（2007年9月）。向かって右側に、大丸との経営統合を知らせる懸垂幕が懸けられた]]&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;銀座店&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
: 1924年開店。2013年6月30日閉店。&lt;br /&gt;
: 中央区[[銀座]]6-10-1 店舗面積25,352m&amp;amp;sup2;。本館と別館で構成。&lt;br /&gt;
: 銀座地区最古参で、初めて土足入店を試みた百貨店だった。&lt;br /&gt;
: 「J.フロント リテイリング」の登記上の本店だが、事務所は[[八重洲]]二丁目。&lt;br /&gt;
: 閉店理由は建物の老朽化による建て替えで、隣接するビルなどと一緒に再開発を実施。地上13階、地下6階建てのオフィスと商業施設が入居する複合ビルを開発する事になり、[[2014年]][[4月2日]]に工事着工した&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|url=http://www.mori.co.jp/company/press/release/2014/04/20140402093000002770.html|title=2つの街区を一体開発『銀座六丁目10地区第一種市街地再開発事業』着工 ～銀座エリア最大級となる大規模複合施設、2016年11月竣工目指す～|publisher=銀座六丁目10地区市街地再開発組合（森ビル）|date=2014-4-2|accessdate=2014-4-9}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。商業エリアについては、J.フロント リテイリングが[[森ビル]]や[[住友商事]]などと共同で、専門店を主体とする施設を共同で運営していくとしている&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|url=http://www.j-front-retailing.com/_data/news/%EF%BC%9C%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%EF%BC%9E%E9%8A%80%E5%BA%A7%E5%85%AD%E4%B8%81%E7%9B%AE10%E5%9C%B0%E5%8C%BA%E5%86%8D%E9%96%8B%E7%99%BA%E4%BA%8B%E6%A5%AD_%E5%95%86%E6%A5%AD%E6%96%BD%E8%A8%AD%E6%A6%82%E8%A6%810402.pdf|title=『銀座六丁目10地区第一種市街地再開発事業』2016年11月、ワールドクラスクオリティの商業施設が誕生 ～銀座エリア最大級の商業施設を4社で一体運営～|publisher=J.フロント リテイリング、森ビル、L Real Estate、住友商事|date=2014-4-2|accessdate=2014-4-9}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。竣工は[[2016年]][[11月]]の予定。&lt;br /&gt;
: [http://www.matsuzakaya.co.jp/ginza/index_fn.html 公式ホームページ]では「&#039;&#039;&#039;一旦&#039;&#039;&#039;営業を終了しました」と記載されており、完全閉店ではないことを匂わせる記述であるが、J.フロント リテイリングは、新商業施設に百貨店の直営売場は設けない方針である事を明らかにしている&amp;lt;ref&amp;gt;『[[東洋経済新報社|週刊東洋経済]]』2014年4月26日号71ページ。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&amp;lt;!-- &amp;lt;ref&amp;gt;低価格衣料品チェーンの台頭で売上が減少していたため、従来型百貨店で再スタートするとは限らない。[http://www.tokyo-np.co.jp/article/economics/news/CK2013070102000117.html 東京新聞2013.7.1]{{リンク切れ|date=2014年4月}}　&amp;lt;/ref&amp;gt; --&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;市川店&#039;&#039;&#039;（上野店分店）&lt;br /&gt;
: 1977年 開店。1999年8月22日 閉店。&lt;br /&gt;
:千葉県[[市川市]]市川1-5-17 道口ビル（JR総武線市川駅北口　千葉街道沿い）&lt;br /&gt;
:同ビルには2000年3月1日 [[オリンピック (企業)|オリンピック]]市川店が開店。&lt;br /&gt;
: 1999年以降　隣地に「市川ギフトショップ」として移転するも2008年閉店。現在は「外商市川出張所」及び「市川学生服プラザ」として営業。&amp;lt;br /&amp;gt;市川市市川1-3-18 明治安田生命市川ビル2階。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:Nagoya Terminal Building.jpg|thumb|名古屋駅店（現在は解体）]]&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;名古屋駅店&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
: 1974年 開店。2010年8月29日 閉店。&lt;br /&gt;
:名古屋市中村区[[名駅]]1-1-2　[[名古屋ターミナルビル]]。店舗面積16,521m&amp;amp;sup2;。&lt;br /&gt;
: 呼称は「ナゴヤエキ店」。地元では「駅店」「[[名駅]]店」とも呼ばれた。&lt;br /&gt;
: [[東海旅客鉄道|JR東海]]による同ビル建替え構想の浮上に伴い、新ビルへの再出店に向けJR東海と交渉を続けたものの売り場面積などの条件が折り合わず、ターミナルビル解体工事の着手に合わせるため、2010年に撤退した。当初、新ビルが開業する2017年前後の経営環境によっては再出店の可能性も残すとしていたが、[[バブル崩壊]]後の[[セントラルタワーズ]]の[[百貨店]]誘致問題をめぐりJR東海との間に軋轢が生じた経緯もあるためか、最終的に今回も両者が手を組むことはなかった。同時に、同地区への再出店もしないことを正式に決定した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:なお、松坂屋の再出店計画の断念を受けて、松坂屋に代わる新ビルへのテナントとして[[ジェイアール名古屋高島屋]]や[[ヨドバシカメラ]]、[[三省堂書店]]などが入居する予定である。詳細は[[JRゲートタワー]]を参照の事。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039; [[松坂屋岡崎店|岡崎店]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
: 1971年4月10日年 開店-2010年1月31日 閉店。&amp;lt;br /&amp;gt;愛知県[[岡崎市]]康生通西3-15-4　岡崎ショッピングセンター クレオ&lt;br /&gt;
&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;四日市店&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
: 1991年 開店-2001年5月31日 閉店。&amp;lt;br /&amp;gt;三重県[[四日市市]]安島1-3-31　[[アムスクエア]]　近鉄四日市駅西口。&lt;br /&gt;
: 松坂屋撤退後暫くアムスクエア単独で営業していたが、2002年7月-2004年11月は空きビルとなっていた。&lt;br /&gt;
: 2005年3月12日　三井不動産グループにより「[[ララスクエア四日市]]」が開業。[[アピタ]]四日市店、[[109シネマズ]]などが入居。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:Takashimaya osaka01 2048.jpg|thumb|高島屋東別館&amp;lt;br&amp;gt;（松坂屋大阪店～1966）]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:Tenmabashi station Osaka JPN 001.jpg|thumb|京阪シティモール&amp;lt;br&amp;gt;（松坂屋大阪店～2004）]]&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;大阪店&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
: 1875年 第1大区高麗橋1丁目（現・[[中央区 (大阪市)|中央区]][[高麗橋]]1丁目）の呉服店「恵比須屋」を買収の上、第3大区新町通3丁目（現・[[西区 (大阪市)|西区]]新町3丁目）に「ゑびす屋いとう呉服店」設置。&lt;br /&gt;
: 1909年 「ゑびす屋いとう呉服店」を閉鎖。 &lt;br /&gt;
: 1923年 [[南区 (大阪市)|南区]]日本橋筋3丁目（現・[[浪速区]][[日本橋 (大阪市)|日本橋]]3丁目）に「松坂屋いとう呉服店大阪店」を開店。&lt;br /&gt;
: 1938年 大阪店増改築工事竣工（現・[[高島屋]]東別館）。&lt;br /&gt;
: 1964年4月　京阪電鉄、松坂屋、[[竹中工務店]]の3社の出資による京阪ビル（株）を設立、京阪天満橋駅の上部と隣接地に地下4階、地上8階の京阪ビルディングの建設を発表&amp;lt;ref&amp;gt;松坂屋100年史　松坂屋発行2010年　121ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
: 1966年10月1日、[[東区 (大阪市)|東区]]京橋2丁目（現・中央区天満橋京町）に移転。&amp;lt;br /&amp;gt;1960年代前半に入って、大阪市内で市電の廃止や距離の短縮などと引き換えに、地下鉄に整備が進むようになった。さらに旧大阪店に直結する市電が難波―日本橋が廃止になったり、守口から阿倍野に至る市電も日本橋一丁目どまりとなっただけではなく、そんな堺筋の地下鉄にも大阪店近辺には駅が開設されないばかりか、地下鉄完成後には市電も廃止された。このような交通環境の悪化で業績を好転させるのは不可能であると&amp;lt;ref&amp;gt;松坂屋100年史　松坂屋発行2010年　121ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;判断。そこで、新大阪店の候補地を[[大阪城]]の北西部に当たる[[京阪電気鉄道|京阪]][[天満橋駅]]の地下化および駅ビル建設に伴い、鉄道利用客の需要を見込んだ。しかし、そもそもが[[淀屋橋駅|淀屋橋]]延伸のための地下化であり、移転時、天満橋のターミナル性はすでに低下し始めた後だった。開業当初、結婚式場をはじめ、海外旅行サロン、文化催事場、スポーツ用品センターなどを導入しながら他店との差別化を図ったり、1966年10月1日の新聞広告には、「創業360年。新幹線をネットで結ぶマツザカヤがいよいよ躍進－きょう10時天満橋に新大阪店がオープン、全フロアに若さあふれる魅力商品と新感覚のたのしい売り場設備をととのえました。大阪へお出かけの節は、ぜひお立ち寄り下さい」というふれこみであった。立地は「[[造幣局 (日本)|桜の通り抜け]]」や毎年7月に開催される[[天神祭]]の花火大会でも有名な[[旧淀川|大川]]沿いに位置し、ガラス張りの休憩室や飲食店からの展望を売りとしていた。都心から外れた落ち着きの有る店という評判も有ったものの、いわゆる展望スポットとしての集客力には欠けた。それは、天満橋周辺は商業地域というよりも、オフィス街という性格上、周辺に人をよびこむことができなかったばかりか、総面積は市内の主要百貨店と比べ狭く、また川沿いの立地が災いし、売場の増床も事実上不可能だった。その売り場面積の推移でみていくと1966年の開店時に20564平方メートルであったのに対し、1967年5月の第一次増床では25864平方メートル、1969年12月の第2次増床では30750平方メートル。大阪店では開店3年目にして1万坪（33000平方メートル）に近い規模になったものの、百貨店業界における規模では当時第6位にとどまっていた&amp;lt;ref&amp;gt;松坂屋70年史　132ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
: そんな中、1973年、1976年にそれぞれ、ファッション部門の強化、1986年から1988年にかけてもキタ・ミナミの両商業地に対抗すべく全館改装を行っていた。1987年から1988年は地下1階、地下2階にある食品フロアを改装し「グルメ館」として生まれ変わらせている。まず、1987年11月12日に地下2階の生鮮食品フロアがオープン。デイリーの目玉として、当日水揚げされた鮮魚を即売する「朝網・昼網コーナー」を全国で初めて導入し、健康志向に対応した料理研究家の店「トキノ」や「chicken左衛門」、地中海風味のスパゲティ、グラタンが人気の「メアリーポピンズ」などのユニークなショップを開設した。続いて1988年3月17日には地下1階の和洋酒、缶詰、菓子のフロアを一新したことで「グルメ館」は全面開業となった。洋菓子タウン、味の名店街、デイリーフーズプラザ、リカーワールド、軽食街、催事場の6つのゾーンに分けられ、ゆっくり歩きながら個性的な品々を選べるようになったことから、噴水効果も大きくなり大阪店の売上増大に貢献していただけではなく、のちにこの「グルメ館」の成功から名古屋店などにも導入されるようになった&amp;lt;ref&amp;gt;松坂屋100年史　松坂屋発行2010年　188‐189ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 1996年、[[大阪市営地下鉄長堀鶴見緑地線|長堀鶴見緑地線]]の[[京橋駅 (大阪府)|京橋]] - [[心斎橋駅|心斎橋]]間の開通により、多くの人が[[心斎橋]]に流れた。これを受け、1997年から1999年にかけて食料品フロアを生鮮品、話題の食材を強化した「食彩館」といった展開を図ったり、女性ファッションフロアの特化&amp;lt;ref&amp;gt;松坂屋100年史　松坂屋発行2010年　255ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;20代から40代の女性客をターゲットに地上8階、地下3階のうち5フロアを女性中心の売り場に改装し、1998年4月8日に新装開店した&amp;lt;ref&amp;gt;読売新聞大阪版　朝刊1998年3月11日　10ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、若者向けに改装し増客を図ろうとしただけではなく、人気テナントの導入や業態転換、有力テナントとして大型書店の[[ジュンク堂書店]]、CD、音楽、映像ソフト専門店の[[HMV]]を7階に導入するなどという方針がとられたが、失敗に終わったとされる。移転後にはこれまで幾多の改装などを行うなどの努力をしてきたにも関わらず、実を結ぶことはできなかった。その原因は、梅田を中心とするキタ、心斎橋・なんばを中心としたミナミといった大阪市内の二大商業地域に人口が集中していたことはおろか、1995年度の来店客数であった725万人から減少が続き2002年度には670万人まで落ち込んだために集客力の低下に歯止めをかけられなかった。そこで、岡田邦彦社長（当時）は、閉鎖の理由を「競合店が次々とでき、今後、商圏を大きく奪われる。投資しても回収が見込めない状況だ」としていた&amp;lt;ref&amp;gt;読売新聞　大阪版　朝刊2003年10月22日9ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。だが、以前から松坂屋側が京阪電気鉄道側に対し、撤退を含めて検討したい要望がだされていたのをきっかけに、この時点で閉店が正式に決定となったのである。&lt;br /&gt;
: 2004年5月5日　閉店。　移転後ただの一度も黒字化を果たせない店舗となった。&lt;br /&gt;
: 閉店後の5月26日に、松坂屋は、所有している土地、建物の売却を京阪側に働き掛け、そこで京阪側は「価格次第では買収したい」と前向きに協議を進めていた。この京阪ビルディングは京阪グループと松坂屋が共同で建設した経緯があり、松坂屋が建物の約三割、土地の約一割弱を所有していた。閉店前の3月に、すでに松坂屋跡を専門店ビルに転換することをすでに発表済みで、松坂屋の所有権を買収することによって、京阪の自社グループの裁量でテナント誘致をすすめられる利点があるとみられていた&amp;lt;ref&amp;gt;読売新聞大阪版　朝刊2004年5月27日　8ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br /&amp;gt;閉店後の跡地は、建物の外観はもとより、エレベーターやエスカレーターなどの設備がかなりの老朽化が進んでいたため、京阪により大規模な改装工事を行い、2004年11月25日に地下2階の食品売り場である「デリスタ」が先行オープンし、その後2005年5月27日に「[[京阪シティモール]]」がオープンした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;くずは店&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
: 1972年4月1日年 開店-2004年3月31日 閉店。&amp;lt;br /&amp;gt;大阪府[[枚方市]]楠葉花園町15-1　[[くずはモール]]。&lt;br /&gt;
:閉店後、建物はくずはモール西館となっていたが、くずはモールの増床リニューアルに伴い2012年6月末で閉鎖され、解体された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;ギフトショップ&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
** せんげん台ギフトショップ([[埼玉県]][[越谷市]]): 上野店の運営。&lt;br /&gt;
** 清水ギフトショップ([[静岡市]][[清水区]]): 静岡店の運営。&lt;br /&gt;
** 焼津ギフトショップ([[静岡県]][[焼津市]]): 静岡店の運営。2014年1月31日閉店&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|url=http://www.matsuzakaya.co.jp/shizuoka/promo/fair_event/s140107_01/pageindices/index1.html|title=焼津ギフトショップ閉店のお知らせ|publisher=松坂屋|accessdate=2014-4-9}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
** 豊橋ギフトショップ([[愛知県]][[豊橋市]]): 名古屋店の運営。&lt;br /&gt;
** 小牧ギフトショップ　([[愛知県]][[小牧市]]): 名古屋店の運営。&lt;br /&gt;
** 多治見ギフトショップ([[岐阜県]][[多治見市]]): 名古屋店の運営。&lt;br /&gt;
** 大垣ギフトショップ(岐阜県[[大垣市]]): 名古屋店の運営。&lt;br /&gt;
** 高山ギフトショップ(岐阜県[[高山市]]): 名古屋店の運営。&lt;br /&gt;
** 各務原ギフトショップ(岐阜県[[各務原市]]): 名古屋店の運営。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:Matsuzakaya-Kyoto.jpg|thumb|松坂屋京都仕入店（現在は解体）]]&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;京都仕入店&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:[[1745年]]、[[室町通|室町]][[姉小路通|姉小路]]に開設。[[1749年]]、現在の[[新町通|新町]][[六角通]]下ル（[[京都市]][[中京区]]）に移転。この界隈が呉服の問屋街であることから、呉服を仕入れるために設けられた店舗であるといえる。[[1902年]]に建てられた建物は、昔ながらのたたずまいを見ることができた。染織デザインの研究所（京都事業所）となった後[[2010年]]8月末で閉鎖され、2012年に解体。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:跡地には[[三井不動産ホテルマネジメント|三井ガーデンホテル京都新町 別邸]]が[[2014年]][[3月25日]]にオープンした。このホテルでは京都仕入店のファサードイメージを再生させたデザインを外観に、旧建物の梁を内装に、それぞれ取り入れている&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|url=http://www.gardenhotels.co.jp/news/pdf/MGH_News_20140314.pdf|title=伝統・継承・再生をテーマにした新しいホテル「三井ガーデンホテル京都新町 別邸」2014年3月25日（火）グランドオープン|publisher=三井不動産ホテルマネジメント|date=2014-3-14|accessdate=2014-4-9}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 提携店 ===&lt;br /&gt;
* 株式会社&#039;&#039;&#039;札幌松坂屋&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
: 1974年6月8日 開店。（100％出資子会社）　札幌市中央区南4条西4丁目1。&lt;br /&gt;
:&#039;&#039;&#039;[[アカシア]]の花白くいま開く松坂屋&#039;&#039;&#039;というキャッチフレーズのもと、道内一の歓楽街[[すすきの]]に出店し、すすきのを夜の街から昼の街へと変えるとして話題となったが　目論見ははずれ大幅な赤字が続いた。&lt;br /&gt;
: 1979年4月　[[イトーヨーカ堂]]と合弁により「&#039;&#039;&#039;[[ヨークマツザカヤ]]&#039;&#039;&#039;」に社名変更。&lt;br /&gt;
: 1994年3月　松坂屋グループを離脱。「&#039;&#039;&#039;[[ロビンソン百貨店]]&#039;&#039;&#039;」札幌店となる。&lt;br /&gt;
: 2009年3月26日　全館ファッションビル「ススキノラフィラ」としてリニューアル。&lt;br /&gt;
:地下食料品売り場はイトーヨーカ堂が入居している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;山形松坂屋&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
: 1956年（昭和31年）11月　地元商店街の出資により「丸久」として開業。&lt;br /&gt;
:山形市七日町2-7-2（羽州街道　山形市100円循環バス「七日町大沼前」現.セブンプラザ）。 &lt;br /&gt;
: 1971年 松坂屋と業務提携&lt;br /&gt;
: 1973年　隣地へ移転（山形市七日町2-7-10）。「&#039;&#039;&#039;丸久松坂屋&#039;&#039;&#039;」に社名変更。&lt;br /&gt;
:当時のイメージキャラクターは江原真一郎・中原ひとみ一家で市内には江原家ファミリーの印刷されたはがきが配布された。&lt;br /&gt;
: 1980年「&#039;&#039;&#039;山形松坂屋&#039;&#039;&#039;」に社名変更。　&lt;br /&gt;
: 2000年　閉店。&lt;br /&gt;
: 2002年6/29　東邦エンタープライズ運営の「ナナビーンズ」&amp;lt;br /&amp;gt;1-3階　民間フロア、4-8階　公共フロア。ビジネスホテル「ステイ・イン七日町」併設。&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.yamacomi.com/909.html 山形コミュニティ新聞社]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:Yokohama Matsuzakaya 001.JPG|thumb|横浜松坂屋]]&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;横浜松坂屋&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
: 1864年「&#039;&#039;&#039;野澤屋呉服店&#039;&#039;&#039;」創業。横浜市[[中区 (横浜市)|中区]]弁天通。&lt;br /&gt;
: 1910年11月1日　「&#039;&#039;&#039;野澤屋&#039;&#039;&#039;」百貨店開業。横浜市中区伊勢佐木町1-5。&lt;br /&gt;
: 1968年　松坂屋と共同配送を開始。[[#商品券での支払い|商品券の交換]]など、元来松坂屋とは友好関係を築いていた。&lt;br /&gt;
: 1974年（昭和49年）資本提携により「&#039;&#039;&#039;ノザワ松坂屋&#039;&#039;&#039;」に社名変更。&lt;br /&gt;
: 横浜駅西口の繁栄と伊勢佐木町の地盤沈下が重なり、業績は年々低迷。遂に、[[グリーンメーラー]]として知られた[[横井英樹]]が株式買い占めを行い、乗っ取り騒動となる。この時松坂屋が[[ホワイトナイト]]として防戦買いに協力した結果、松坂屋が筆頭株主となった。&lt;br /&gt;
: 1977年　[[松屋 (百貨店)|松屋]]横浜店の撤退に伴い、松屋の土地建物を買収して西館として運営し、野澤屋以来の店舗（本館）との間に連絡橋を架設。「&#039;&#039;&#039;横浜松坂屋&#039;&#039;&#039;」に社名変更。&lt;br /&gt;
: 2008年（平成20年）10月26日　閉店。2010年（平成22年）店舗解体。　&lt;br /&gt;
: 2012年（平成24年）2月8日　大丸コム開発運営の「&#039;&#039;&#039;カトレヤプラザ伊勢佐木&#039;&#039;&#039;」としてオープン。&lt;br /&gt;
{{Main2|詳細は[[野澤屋]]を}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: [[プロ野球]]・[[横浜DeNAベイスターズ|横浜大洋ホエールズ・横浜ベイスターズ]]を長年応援し、[[1998年]]の[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]優勝時には大型のクジラの模型が飾られた。また、店頭では異例ともいえる「[[神奈川新聞]]」優勝[[号外]]の再発行・再配布が行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: [[フォークソング]]デュオの「[[ゆず (音楽グループ)|ゆず]]」が無名時代、長年店頭で路上ライブを行っていた。[[2003年]]の[[第54回NHK紅白歌合戦]]に出場した時は、横浜松坂屋本館前より生中継を行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: [[2004年]]本館建物が[[横浜市]]指定の[[横浜歴史的建造物]]に認定。[[エスカレーター]]の装飾や[[エレベーター]]のアナログ時計式階数表示機、食堂の窓などが昔のまま残され、横浜に唯一現存した戦前に建設されたデパート建築であったものの、建物の老朽化が著しくなったのに加え、売り上げの減少が続いていたことから、[[2008年]][[10月26日]]をもって閉店（百貨店事業の終了）、解体。跡地には、大丸コム開発が運営する新たな商業施設[[カトレヤプラザ伊勢佐木]]として、[[2012年]][[2月8日]]開業した&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.hamakei.com/headline/6732/ ヨコハマ経済新聞]（2012年2月8日閲覧）松坂屋跡の新商業施設「カトレヤプラザ伊勢佐木」開店で長蛇の列&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: [[日本中央競馬会|JRA]][[エクセル伊勢佐木]]（[[場外勝馬投票券発売所]]）に賃貸している西館は営業を継続&amp;lt;ref&amp;gt;{{PDFlink|[http://www.j-front-retailing.com/news/080624tmatsu.pdf 横浜松坂屋の百貨店事業終了について]}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。なお[[2009年]][[1月1日]]をもって「株式会社横浜松坂屋」は松坂屋本体に吸収合併された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 昭和のはじめ頃には自前の送迎[[バス (交通機関)|バス]]を[[桜木町駅]]前から運行していたことがあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 戦後、野澤屋のシンボルフラワーにはチューリップが用いられ、包装紙等にもチューリップをモチーフにした意匠が用いられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 2009年の[[開国博Y150]]期間中には、1階玄関付近の一部が観光案内所として使用された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;その他&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
: &#039;&#039;&#039;[[扇屋 (百貨店)|扇屋]]&#039;&#039;&#039;（千葉）、&#039;&#039;&#039;[[ほていや百貨店]]&#039;&#039;&#039;（上田）とも商品提携をしていたが、2社とも[[ジャスコ]]グループ（現[[イオングループ]]）入りし関係は解消されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 海外店舗 ===&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;松坂屋百貨&#039;&#039;&#039;公司（[[香港]]）&lt;br /&gt;
: 不動産大手[[:zh:恒隆集團|恒隆グループ]]との合弁会社。恒隆は[[白洋舎]]とも業務提携。センターには[[ワタミ|和民]]なども出店している。&lt;br /&gt;
* [[銅鑼湾|銅鑼灣]]（コーズウェイベイ）店　&lt;br /&gt;
: [[:zh:百德新街|百德新街]]（パターソン・ストリート）恒隆中心（ハンルン・センター）内 1975年4月開店。1998年8月31日閉店。6,200m&amp;amp;sup2;。&lt;br /&gt;
*[[金鐘]]（アドミラリティ）店　1981年9月開店。小型店1,020m&amp;amp;sup2;。&amp;lt;ref&amp;gt;日興リサーチセンター「香港―経済・産業・主贅企業の概要」1993年12月　http://www.wako.ac.jp/souken/touzai95/tz9504hyo2.html&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
: [[香港返還]]前後の家賃高騰により1998年全面撤退。&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;パリ松坂屋&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
: Galeries Lafayette, 40 boulevard Haussmann Paris France&lt;br /&gt;
: [[パリ]] オスマン地区 [[ギャラリー・ラファイエット]]百貨店内(65m&amp;amp;sup2;) &lt;br /&gt;
: 1978年3月　日本人観光客向け「免税書類作成手続き委託契約」によりカウンター開設。&lt;br /&gt;
: 2005年8月31日　契約満了により撤退。&amp;lt;ref&amp;gt;川端基夫「日本小売業の多国籍化プロセス」2005&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;[[ロサンゼルス]]松坂屋&#039;&#039;&#039;{{要出典|date=2013年6月}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 松坂屋美術館 ==&lt;br /&gt;
松坂屋名古屋店南館7階にある[[美術館]]。[[1991年]]、南館のオープンに伴い開館した&amp;lt;ref&amp;gt;{{Twitter|museum_matsu|松坂屋美術館}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。所蔵品は保有していないが&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web |url= http://mujam.jp/search.php?did=1219292166-322416 |title= 松坂屋美術館 |publisher=ミュージャム |accessdate=2013-09-28}}&amp;lt;/ref&amp;gt;、国内外の様々なジャンルの[[展覧会]]を開催している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、同フロアには松坂屋史料室があり、こちらは松坂屋の歴史に関する展覧会を開催している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
{{Commons|Category:Matsuzakaya}}&lt;br /&gt;
*[[吉沢検校]]- 幕末、名古屋京都で活躍した音楽家、作曲家。安政元年、松坂屋当主伊藤治朗左右衛門の婚礼に際し、祝儀曲「[[花の縁]]」を作曲。&lt;br /&gt;
*[[松坂屋ストア]]&lt;br /&gt;
*[[ゆず (音楽グループ)|ゆず]]&lt;br /&gt;
*[[矢場町駅]]&lt;br /&gt;
*[[東京フィルハーモニー交響楽団]] - いとう呉服店少年音楽隊がルーツ。&lt;br /&gt;
*[[西郷隆盛]] - 上野店で、[[彰義隊]]攻略の軍議を行ったとの説がある。&lt;br /&gt;
*[[土方歳三]] - 11歳の時に上野店で[[丁稚奉公]]をしていたという説がある。&lt;br /&gt;
*[[デイリーヤマザキ]] - ギフトで連携している。&lt;br /&gt;
*[[さくらパンダ]] - 元は上野店のマスコットキャラクター。大丸松坂屋百貨店の発足後は、大丸京都店のマスコットであった「[[デッチーくん]]」とともに、同社のイメージキャラクターになった。また、同百貨店の提携[[クレジットカード]]のデザインにも採用されている。&lt;br /&gt;
*[[カトレヤ]] - 松坂屋のイメージ花。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 提供番組 ==&lt;br /&gt;
*[[0時半です松坂屋ですカトレヤミュージックです]] - 1966年から2008年まで[[CBCラジオ]]で放送されていた松坂屋1社提供の音楽番組。かつて名古屋店南館に存在したオルガン広場から公開生放送を行っていた。&lt;br /&gt;
*[[健太君の探偵]] - 1957年から1962年まで[[CBCテレビ]]で放送されていた、松坂屋提供の子供向け推理探偵番組。&lt;br /&gt;
*[[CBCニュースワイド]]（土曜日）&lt;br /&gt;
*[[FNNスーパータイム]]&lt;br /&gt;
*[[イッポウ]]（月曜日）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www.matsuzakaya.co.jp/ 松坂屋]&lt;br /&gt;
*[http://www.j-front-retailing.com/ J．フロント リテイリング]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{日本の大手百貨店}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Company-stub}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:まつさかや}}&lt;br /&gt;
[[Category:J.フロント リテイリング|*まつさかや]]&lt;br /&gt;
[[Category:大丸松坂屋百貨店|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:かつて存在した愛知県の企業]]&lt;br /&gt;
[[Category:愛知県の商業施設]]&lt;br /&gt;
[[Category:名古屋市の商業施設]]&lt;br /&gt;
[[Category:東京都の商業施設]]&lt;br /&gt;
[[Category:大阪府の商業施設]]&lt;br /&gt;
[[Category:静岡市の商業施設]]&lt;br /&gt;
[[Category:老舗企業 (江戸時代創業)]]&lt;br /&gt;
[[Category:皇室御用達の業者]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>2001:3B0:10:C:0:0:0:1072</name></author>
	</entry>
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		<title>サムシング</title>
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		<updated>2014-05-13T20:45:36Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;2001:3B0:10:C:0:0:0:1072: /* 解説 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Otheruses|[[ビートルズ]]の楽曲|その他の用法|サムシング (曖昧さ回避)}}&lt;br /&gt;
{{Infobox Single |&lt;br /&gt;
| Name           = サムシング / [[カム・トゥゲザー]]&lt;br /&gt;
| OriginalName   = Something / Come Together&lt;br /&gt;
| Type           = 両A面[[シングル]]&lt;br /&gt;
| Artist         = [[ビートルズ]]&lt;br /&gt;
| Album          = [[アビイ・ロード]]&lt;br /&gt;
| A-side         = [[カム・トゥゲザー]]（両A面）&lt;br /&gt;
| Released       = {{flagicon|UK}}[[1969年]][[10月31日]]&amp;lt;br /&amp;gt;{{flagicon|USA}}1969年[[10月6日]]&amp;lt;br /&amp;gt;{{flagicon|JPN}}1969年[[11月21日]]&lt;br /&gt;
| Recorded       = [[アビー・ロード・スタジオ]]&amp;lt;br /&amp;gt;([[1969年]][[5月2日]],[[5月5日]],[[7月11日]]，[[7月16日]]，[[8月15日]])&lt;br /&gt;
| Genre          = [[ロック (音楽)|ロック]]&lt;br /&gt;
| Length         = 3分00秒&lt;br /&gt;
| Label          = [[アップル・レコード]]&lt;br /&gt;
| Producer       = [[ジョージ・マーティン]]&lt;br /&gt;
| Reviews        = &amp;lt;!--レビュー--&amp;gt;&lt;br /&gt;
| Chart position = &lt;br /&gt;
*4位（イギリス)&lt;br /&gt;
*1位（アメリカ・[[Billboard Hot 100]])&lt;br /&gt;
| Certification  = &amp;lt;!--ゴールド等認定--&amp;gt;&lt;br /&gt;
 | Misc = {{Extra chronology 2&lt;br /&gt;
 | Artist      = [[ビートルズ]]シングル盤 [[イギリス|U.K.]]、[[アメリカ合衆国|U.S.]]&lt;br /&gt;
 | Type        = single&lt;br /&gt;
 | Last single = [[ジョンとヨーコのバラード]]&amp;lt;br /&amp;gt;b/w&amp;lt;br /&amp;gt;[[オールド・ブラウン・シュー]]&amp;lt;br /&amp;gt;([[1969年]]) &lt;br /&gt;
 | This single = &#039;&#039;&#039;サムシング&#039;&#039;&#039;&amp;lt;br/&amp;gt;両A面&amp;lt;br /&amp;gt;[[カム・トゥゲザー]]&amp;lt;br /&amp;gt;([[1969年]])&lt;br /&gt;
 | Next single = [[レット・イット・ビー (曲)|レット・イット・ビー]]&amp;lt;br /&amp;gt;b/w&amp;lt;br /&amp;gt;[[ユー・ノウ・マイ・ネーム]]&amp;lt;br /&amp;gt;([[1970年]])}} &lt;br /&gt;
{{Extra chronology 2&lt;br /&gt;
 | Artist      = [[ビートルズ]]シングル盤 日本&lt;br /&gt;
 | Type        = single&lt;br /&gt;
 | Last single = [[ジョンとヨーコのバラード]]&amp;lt;br /&amp;gt;b/w&amp;lt;br /&amp;gt;[[オールド・ブラウン・シュー]]&amp;lt;br /&amp;gt;([[1969年]])&lt;br /&gt;
 | This single = [[カム・トゥゲザー]]&amp;lt;br/&amp;gt;b/w&amp;lt;br /&amp;gt;&#039;&#039;&#039;サムシング&#039;&#039;&#039;&amp;lt;br /&amp;gt;([[1969年]])&lt;br /&gt;
 | Next single = [[レット・イット・ビー (曲)|レット・イット・ビー]]&amp;lt;br /&amp;gt;b/w&amp;lt;br /&amp;gt;[[ユー・ノウ・マイ・ネーム]]&amp;lt;br /&amp;gt;([[1970年]])}} &lt;br /&gt;
{{Extra track listing&lt;br /&gt;
| Album          = [[アビイ・ロード]]&lt;br /&gt;
| Type           = studio&lt;br /&gt;
| Tracks         = ;A面&lt;br /&gt;
# 「[[カム・トゥゲザー]]」&lt;br /&gt;
# 「&#039;&#039;&#039;サムシング&#039;&#039;&#039;」&lt;br /&gt;
# 「[[マックスウェルズ・シルヴァー・ハンマー]]」&lt;br /&gt;
# 「[[オー!ダーリン]]」&lt;br /&gt;
# 「[[オクトパス・ガーデン|オクトパスズ・ガーデン]]」&lt;br /&gt;
# 「[[アイ・ウォント・ユー]]」&lt;br /&gt;
;B面&lt;br /&gt;
# 「[[ヒア・カムズ・ザ・サン]]」&lt;br /&gt;
# 「[[ビコーズ]]」&lt;br /&gt;
# 「[[ユー・ネヴァー・ギヴ・ミー・ユア・マネー]]」&lt;br /&gt;
# 「[[サン・キング]]」&lt;br /&gt;
# 「[[ミーン・ミスター・マスタード]]」&lt;br /&gt;
# 「[[ポリシーン・パン ]]」&lt;br /&gt;
# 「[[シー・ケイム・イン・スルー・ザ・バスルーム・ウィンドー]]」&lt;br /&gt;
# 「[[ゴールデン・スランバー|ゴールデン・スランバーズ]]」&lt;br /&gt;
# 「[[キャリー・ザット・ウェイト]]」&lt;br /&gt;
# 「[[ジ・エンド (ビートルズの曲)|ジ・エンド]]」&lt;br /&gt;
# 「[[ハー・マジェスティー]]」}}}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「&#039;&#039;&#039;サムシング&#039;&#039;&#039;」（&amp;quot;Something&amp;quot;）は、[[1969年]]9月に[[ビートルズ]]が発表した[[ビートルズの作品#英国盤公式オリジナル・アルバム|イギリス盤公式オリジナル・アルバム]]『[[アビー・ロード]]』の収録曲であり、同年10月にシングル・カットされ21枚目の[[ビートルズの作品#シングル(英国) |オリジナル・シングル]]曲ともなった。シングル盤は両A面曲で片面は「[[カム・トゥゲザー]]」である。[[ローリング・ストーンの選ぶオールタイム・グレイテスト・ソング500]]では273位にランクされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 解説 ==&lt;br /&gt;
[[ジョージ・ハリスン]]の作品。リード[[ボーカル]]もジョージ。ビートルズ時代の公式発表曲の中で唯一シングルのA面収録曲となったジョージの作品であり、ビートルズ、並びに彼の代表作として知られる。この曲の最初の原型を作り始めたのは、アルバム『[[ザ・ビートルズ (アルバム)|ザ・ビートルズ]]』のレコーディング・セッション中である（[[ポール・マッカートニー]]がオーバー・ダビング作業にかかりっきりになっている間、無人のスタジオに篭って書きはじめた&amp;lt;ref&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;[http://web.archive.org/web/20060217012035/http://www.geocities.com/~beatleboy1/dba11road.html &amp;quot;Album: Abbey Road&amp;quot;]. Retrieved 30 March 2006.&amp;lt;/small&amp;gt;&amp;lt;/ref&amp;gt;）が、作業もほとんど終盤に差し掛かった時期であったため、収録に間に合わなかった。ジョージは、この曲を[[ゲット・バック・セッション]]の際にレコーディングすることも考えたが、雰囲気の悪いプロジェクトの中で粗雑に扱われることを嫌い、見送った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== レコーディング ==&lt;br /&gt;
=== パーソネル ===&lt;br /&gt;
* ジョージ・ハリスン – [[リードギター]]、[[リズムギター]]、リードボーカル&lt;br /&gt;
* ポール・マッカートニー – [[エレクトリックベース|ベース]]、バッキングボーカル&lt;br /&gt;
*[[リンゴ・スター]] – [[ドラムセット|ドラムス]]&lt;br /&gt;
※ジョン・レノンは、1969年のドキュメンタリーにおいて「自分はこの曲には参加していない」と証言している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[ジョージ・マーティン]] – [[ストリングス]]・[[編曲|アレンジ]]&lt;br /&gt;
* [[ビリー・プレストン]] – [[ハモンドオルガン]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
曲はもともと約8分あり、[[器楽曲|インストゥルメンタル]]のジャム演奏が続いていたが、その部分は後にカットされて現在の形になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== シングル盤 ==&lt;br /&gt;
アルバム『アビイ・ロード』から「カム・トゥゲザー」との両A面扱いでシングル・カットされた&amp;lt;ref&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;ビートルズの両A面シングルは過去にも『[[恋を抱きしめよう]] / [[デイ・トリッパー]]』、『[[イエロー・サブマリン (曲)|イエロー・サブマリン]] / [[エリナー・リグビー]]』、『[[ストロベリー・フィールズ・フォーエバー|ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー]] / [[ペニー・レイン]]』の3作があった（これらが両A面扱いであったのは[[イギリス]]においてのみである）。&amp;lt;/small&amp;gt;&amp;lt;/ref&amp;gt;。ビートルズにとって、アルバムで先にリリースした曲を後からシングル・カットするのは[[イギリス]]では初めてのことであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『[[ビルボード]]』誌では、1969年11月29日に週間ランキング第1位を獲得&amp;lt;ref&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ビルボード]]のチャートにおいては、両A面でないシングルのB面も単独でランクインすることが多かった。「サムシング」、「カム・トゥゲザー」とも当初それぞれ単独の曲としてランクインし、「サムシング」は3位、「カム・トゥゲザー」は2位まで到達したが、ちょうど両曲ともトップ10内にランクされていた時にビルボードのチャート集計方法が変更され、両面ヒットは単独の作品として数えられるようになったため、両曲のポイントが合算されて『カム・トゥゲザー / サムシング』として1位になった。&amp;lt;/small&amp;gt;&amp;lt;/ref&amp;gt;。1969年年間ランキングでは第83位。（「カム・トゥゲザー」も第85位に入っている。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『[[キャッシュボックス]]』誌では、両A面別々にランキングされたままで計3週2位が最高位だった。年間ランキングでは66位。イギリスの「ミュージック・ウィーク」誌では最高位第4位。アメリカでは200万枚以上のセールスを記録したが、イギリスでのセールスは20万枚を超える程度だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== プロモーション・フィルム ==&lt;br /&gt;
シングル発売が決定した時点で、既にグループとしての活動は停止していた。そのため、メンバーがそれぞれの妻と一緒に自宅の庭を散歩している様子を撮影したフィルムが作られた。このフィルムにメンバーが一緒に映っているシーンはひとつもない。フィルムは[[ニール・アスピノール]]の制作で、撮影日は1969年10月末とされている&amp;lt;ref&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;『ザ・ビートルズ・ワークス』洋泉社発行、マーク・ルイソン著、ザ・ビートルズ・クラブ翻訳、2008年、427頁&amp;lt;/small&amp;gt;&amp;lt;/ref&amp;gt;。現在は映像版『アンソロジー』Vol.8で見 ることができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== トリビア ==&lt;br /&gt;
* [[フランク・シナトラ]]はこの曲を「[[20世紀]]最高のラヴ・ソングだ。」と絶賛する一方、「一番好きな&#039;&#039;[[レノン＝マッカートニー]]&#039;&#039;の楽曲は『サムシング』だ」とコメントしていた（ジョージ作とは知らなかった）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[マイケル・ジャクソン]]がジョージとビートルズの話をしている時、「サムシング」の話になり、「え？ あなたが書いたんですか？ レノン＝マッカートニーだと思っていた」と本人の目の前で言った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* ビートルズでは「[[イエスタデイ]]」に次いで多く[[カバー]]された曲と言われており、150を超えるアーティストがカバーしたが、最もヒットしたのは[[シャーリー・バッシー]]の[[バージョン]]である（アメリカのビルボード誌では最高位55位だったが、全英では最高位4位を記録した）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* アメリカのラジオ局でも「イエスタデイ」に次いでエア・プレイ回数が多い楽曲と言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 収録アルバム ==&lt;br /&gt;
* 『[[アビイ・ロード]]』&lt;br /&gt;
* 『[[ザ・ビートルズ1967年〜1970年]]』&lt;br /&gt;
* 『[[ザ・ビートルズ・アンソロジー3]]』&lt;br /&gt;
* 『[[ザ・ビートルズ1]]』&lt;br /&gt;
* 『[[ラヴ (ビートルズのアルバム)|ラヴ]]』&lt;br /&gt;
* 『[[バングラデシュ・コンサート]]』 - &amp;lt;small&amp;gt;ジョージ・ハリスンのソロアルバム&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 『[[ザ・ベスト・オブ・ジョージ・ハリスン]]』 - &amp;lt;small&amp;gt;ジョージ・ハリスンのベストアルバム&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 『[[ライヴ・イン・ジャパン (ジョージ・ハリスンのアルバム)|ライヴ・イン・ジャパン]]』- &amp;lt;small&amp;gt;ジョージ・ハリスンのライブアルバム&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 『[[バック・イン・ザ・U.S. -ライブ2002]]』- &amp;lt;small&amp;gt;ポール・マッカートニーのライブアルバム&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 『[[バック・イン・ザ・ワールド]]』- &amp;lt;small&amp;gt;ポール・マッカートニーのライヴ・アルバム&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{ビートルズのシングル}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:さむしんく}}&lt;br /&gt;
[[Category:ビートルズの楽曲]]&lt;br /&gt;
[[Category:ジョージ・ハリスンの楽曲]]&lt;br /&gt;
[[Category:1969年のシングル]]&lt;br /&gt;
[[Category:Billboard Hot 100 1位獲得作品]]&lt;br /&gt;
[[Category:ハ長調の曲]]&lt;br /&gt;
[[Category:イ長調の曲]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Link FA|en}}&lt;br /&gt;
{{Link FA|th}}&lt;br /&gt;
{{Link GA|es}}&lt;/div&gt;</summary>
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