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	<title>Wikippe - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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	<updated>2026-09-05T18:52:47Z</updated>
	<subtitle>利用者の投稿記録</subtitle>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=EPSON_PC%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA&amp;diff=79037</id>
		<title>EPSON PCシリーズ</title>
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		<updated>2014-05-13T04:59:03Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;180.5.197.143: /* サードパーティー機器・OS */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;EPSON PCシリーズ&#039;&#039;&#039;は、[[セイコーエプソン]]社が販売していた[[PC-9800シリーズ]][[互換]]機である。そのソフトウェア資産をもって日本では[[コマーシャルメッセージ|広告のコピー]]で&#039;&#039;&#039;国民機&#039;&#039;&#039;のフレーズも用いられた。後にPC-9800シリーズを指す用語として用いられる事もあったが、[[日本電気]]（NEC）が広告などに用いていた語ではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
{{lang|en|EPSON PC}} シリーズは、[[インテル]]社の[[Intel 80286|i80286]]を採用した PC-9801VX/RX/DX などが主流となった[[1987年]]から、[[Microsoft Windows 95|Windows95]] が発売される前の[[1995年]]初頭にわたって生産、販売された NEC PC-9801 互換機である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初期は同等な性能の機種ではNEC製品より安く、同価格帯のNEC製品より高速であることを、末期はNEC機にはない特殊なアップグレードパスを用意することをコンセプトとして製造販売が続けられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==スペックの変遷==&lt;br /&gt;
===黎明期===&lt;br /&gt;
セイコーエプソンによるNEC98互換機の開発は1986年初めに始まった&amp;lt;ref name=&amp;quot;kimura&amp;quot;&amp;gt;{{Cite web|author=木村登志男|date=2010-02-16|url=http://www.hosei.ac.jp/fujimi/riim/img/img_res/WPNo.82_kimura.pdf|title=セイコーエプソン・国内市場エプソンブランド完成品躍進の端緒|format=PDF|work=WORKING PAPER SERIES №82|pages=ビジネスケース 資料 №3|publisher=[[法政大学]]イノベーション・マネジメント研究センター|language=日本語 |accessdate=2010年6月27日 }}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これまでセイコーエプソンは自社独自のパソコンでのビジネスにことごとく失敗に終わっており、やむなく1984年に[[IBM-PC]]互換機を開発。アメリカで発売し成功しているが、このときには企業や技術者の誇りにも関わる問題であると、セイコーエプソン内でも異論や混乱が見られていた&amp;lt;ref&amp;gt;『ヒット商品物語』 pp.44-47&amp;lt;/ref&amp;gt;。98互換機についてもこの時代からすでにその開発計画が模索されていたが、1985年秋、開発がスタートする&amp;lt;ref&amp;gt;『ヒット商品物語』 pp.47-48&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本では当時、数社に NEC PC-9801 互換機発売の噂があったが、同社は仮想競合メーカに先駆けて1番目に発売することを目標とし、[[1987年]][[元日]]の[[日本経済新聞]]に1ページ全面NEC互換機発売を暗示するカラー企業広告を掲載した&amp;lt;ref name=&amp;quot;kimura&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;『ヒット商品物語』 p.50 - によれば、[[キヤノン]]、[[シャープ]]などの参入の可能性が考えられていた。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1987年]]3月2日、同社がマスコミ各社に向けて「新製品（互換機）発表会見を3月9日に行う」と連絡したが、3月8日付けの[[朝日新聞]]に「同社が互換機の発表を中止する」との[[スクープ]]経済記事が掲載され、翌9日午前中に「会見を13日に延期」と同社より正式な通達がマスコミ各紙に伝達された&amp;lt;ref name=&amp;quot;19XX-Trip1&amp;quot;&amp;gt;[http://japan.zdnet.com/sp/feature/07timemachine/story/0,3800077407,20357346,00.htm 業界タイムマシン19XX--Trip11：セイコーエプソン vs. NEC PC-98互換機騒動〔1] / [http://japan.zdnet.com/sp/feature/07timemachine/story/0,3800077407,20357346-2,00.htm 2] / [http://japan.zdnet.com/sp/feature/07timemachine/story/0,3800077407,20357346-3,00.htm 3] / [http://japan.zdnet.com/sp/feature/07timemachine/story/0,3800077407,20357346-4,00.htm 4] / [http://japan.zdnet.com/sp/feature/07timemachine/story/0,3800077407,20357346-5,00.htm 5] / [http://japan.zdnet.com/sp/feature/07timemachine/story/0,3800077407,20357346-6,00.htm 6]〕 - [[ZDNet Japan]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。理由は同社が事前にNECに訪れた際に類似点があると指摘を受けたことで、理解を得た返答を待つ期間をとったことによるもの&amp;lt;ref name=&amp;quot;19XX-Trip1&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;『ヒット商品物語』 pp.52-53&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし、NECは同社に対し13日までには返答せず、関係者には新製品の詳細記事が7ページに渡って掲載された「[[日経パソコン]]3月16日付」の早刷りが12日段階には配布されていた影響もあり、3月13日に同社はNECからの理解を得られないまま発表会見が行われ、その中で新製品発売が4月上旬予定から急遽4月中に訂正しているなど混乱した面を見せており、更に同日夕刻にNECが会見を開き「互換機には類似点が多く、クロ」との内容を示したことで互換性と著作権の問題が表面化した&amp;lt;ref name=&amp;quot;19XX-Trip1&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当初4月中に発売予定であった「PC-286 Model &#039;&#039;&#039;1〜4&#039;&#039;&#039;」は[[CPU]]にi80286 10MHzを採用、PC-9801VX21相当の性能を持ち、内容・装備により4種類あった&amp;lt;ref name=&amp;quot;19XX-Trip1&amp;quot;/&amp;gt;。[[Basic Input/Output System|BIOS]]の開発は類似性が極小となるように細心の注意と最大の慎重さを持って長い期間をかけて取り組み、著作権保護に厳しい米国で同社はIBM互換機発売の経緯や実績から「シロ」という自信がありつつも、問題部分を修正する対応を行った&amp;lt;ref name=&amp;quot;19XX-Trip1&amp;quot;/&amp;gt;。しかし、NECが同社から提供された同機器を調査をした結果、BIOSが9801の[[リバースエンジニアリング]]によるものなどの要因から「BIOSおよびROM部分に類似点が多い」と[[著作権]]や[[知的所有権]]の侵害と見解が示され、NECは4月7日に[[東京地方裁判所|東京地裁]]に製造・販売差し止めの訴訟を起こし、再調査・検討後に発表するように同社に申し入れた&amp;lt;ref name=&amp;quot;19XX-Trip1&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;『ヒット商品物語』 p.53&amp;lt;/ref&amp;gt;。係争中となった「PC-286 Model 1〜4」は客側の不安感を見越して営業上の見地から発売を取りやめ、一度も市場に登場しないままお蔵入りとなった&amp;lt;ref name=&amp;quot;19XX-Trip1&amp;quot;/&amp;gt;。また日本では訴訟沙汰は市場に悪いイメージを抱かれかねず、また裁判で何年にも渡ってビジネスが停滞してしまうのは損害である、などと言った判断から、11月にはNECと和解、和解金を支払った&amp;lt;ref&amp;gt;『ヒット商品物語』 p.54-55 - 営業企画本部長(1988年、当時)の斎藤によれば、著作権侵害の事実関係自体については「自信があった」という。また、この騒動が連日マスコミに取り上げられ、相当な宣伝効果が得られたと語っている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。それと並行して別グループにより[[クリーンルーム設計]]で開発されていたBIOSと差し替えたり&amp;lt;ref&amp;gt;当時のNEC関係者は、なぜ最初からクリーンルーム方式で開発されたBIOSを搭載して発売しなかったのか意図が良くわからないと述べている。&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[BASIC]]を[[Read Only Memory|ROM]]で持たない仕様に変更などの対策を施した「PC-286 Model &#039;&#039;&#039;0&#039;&#039;&#039;」が実際市場に登場した量販98互換機第1号製品として4月24日に発売された&amp;lt;ref name=&amp;quot;19XX-Trip1&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
発売初期、日本では期待や関心は高かったものの、{{lang|en|BASIC}} がなくそれを利用するゲームや教育用ソフトは未対応であった影響もあり、売れ行きはいま一つ低調であった&amp;lt;ref name=&amp;quot;kimura&amp;quot;/&amp;gt;。9月10日「PC-286用 {{lang|en|ROM BASIC}}」を発売、これにより{{lang|en|BASIC}} を利用するゲームや教育用ソフトも対応となり NEC PC-9801 互換機性能も向上&amp;lt;ref name=&amp;quot;kimura&amp;quot;/&amp;gt;。翌9月11日に初代機よりコンパクトになった標準機「PC-286V」と、3.5インチFDDとFM音源採用でPC-9801UV相当&amp;lt;ref name=&amp;quot;V30&amp;quot;&amp;gt;つまり「PC-286」を名乗ってはいるが 80286 搭載ではなく、V30搭載である。&amp;lt;/ref&amp;gt;の廉価機「PC-286U」を発表&amp;lt;ref name=&amp;quot;kimura&amp;quot;/&amp;gt;。また、{{lang|en|BASIC ROM}} を最初から搭載した「{{lang|en||PRO SPEC}} PC-286」発売&amp;lt;ref name=&amp;quot;kimura&amp;quot;/&amp;gt;。この頃に同社は大量に抱えていた初代機の在庫処分を行い、[[上新電機]]が3000台一括仕入れして販売するなど関西方面から動き出したPC-286好転の流れは北上して東京方面にも波及し、10月新発売の「PC-286V」「PC-286U」はその勢いに乗り好調な販売状況となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;kimura&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1987年]][[11月]]、[[ラップトップパソコン|ラップトップ]]機の PC-286L シリーズを発表・発売。NECのラップトップ機である PC-98LT が、PC-9800 シリーズでありながらテキスト{{lang|en|VRAM}}を持たず互換性に乏しかったのに対し、ほぼPC-9801VM2 相当の互換性を持たせた&amp;lt;ref name=&amp;quot;V30&amp;quot; /&amp;gt;。また[[Cバス]]を独自に小型化した汎用バス「Lスロット」を搭載していた。ただし表示デバイスは2階調表示のSTN液晶またはNTN液晶（白色表示）で、カラー表示を前提としたアプリではやや見難い欠点があった。このシリーズはその後8階調表示の PC-286LE、高速版の PC-286 {{lang|en|Book}}、PC-386 {{lang|en|Book}}-Lなどを経て PC-286 {{lang|en|Note}} シリーズに引き継がれた。11月30日に同社がNECに和解金を支払うことなどで両社が和解すると発表し、著作権係争は決着した&amp;lt;ref name=&amp;quot;kimura&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;19XX-Trip1&amp;quot;/&amp;gt;。PC-286シリーズは16ビットパソコン販売数量シェアで9月の4.3%から10月は9.9%、11月は20.1%と急上昇し、12月には需要急増に供給が追いつかず品不足が発生するなど予想を上回る状態が続き、[[週刊ダイヤモンド]]1987年12月5日号の「特集：今年の超ヒット商品番付」で総合第5位、事務機部門では堂々の第1位にランク付けされた&amp;lt;ref name=&amp;quot;kimura&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1988年]]には、PC-9801RX相当の12MHzの286を搭載しより安価な「PC-286VE」、同様にPC-9801RA相当の20MHzの[[Intel 80386|i386DX]]を搭載した「PC-386」、NEC機には存在しない16MHz駆動の[[Am80286]]を搭載した「PC-286X」が発売されにわかに注目を浴びることとなった。この高速286路線は、[[1990年]]発売の20MHz駆動の「PC-286VX」やその普及型である16MHzの「PC-286VG」と続くこととなる。また、本体キーボード一体型のPC-{{lang|en|CLUB}}（PC-286C）、プリンタ一体型のラップトップ機 PC-{{lang|en|ONE}}（PC-286LP）などの機種も発売された。また、8MHzベースクロックのCPUを搭載するに当たっては互換性を考慮して、[[RS-232C]] 経由での通信用に別途5MHzのベースクロックを供給した。NECは当時このような対応を行わなかった影響で、14400[[ビット毎秒|bps]][[モデム]]の登場期に「NECよりエプソンの方が互換性が高い」と後に皮肉られることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この世代までの PC-386 と全ての PC-286 は、グラフィックやテキスト表示が高速で、動作中にCPU動作速度の切り替えが行える等の特色を有していたが、PC-9801VX 以降に搭載されている高機能版 GRCG である EGC の互換能力を持たず、PC-9801VM 相当の GDC と GRCG 相当であったため、EGC を使うプログラムでは互換性に問題があった。この点は、「高速なVM」の域を脱してはいなかったと言える。もっとも、当時の NEC PC-9800 シリーズ対応市販アプリケーションソフトのうち「VX以降」を要求したものでも、大半は高速性の要求か i286 命令の要求であり、EGC を必須としたものは少なかった。その意味では「高速で安価なVM」であることに徹したPC-286/386シリーズに相応の競争力があったのは事実であり、特にパソコンゲームのファンや[[同人]]ソフトの製作者たちに好まれた。また、NEC が PC-9801 として展開したハイレゾモード（高解像度モード）には追随しなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===高解像度化===&lt;br /&gt;
[[1990年]]12月発売の「PC-386S」は25MHzの i386DX と互換の EGC グラフィック処理プロセッサ&amp;lt;ref&amp;gt;{{lang-en-short|enhanced graphic charger}}。NEC PC-9800シリーズの一部（80286以降の世代）に搭載されたグラフィック処理プロセッサ。&amp;lt;/ref&amp;gt; を搭載し、同時発売の「PC-386G」では33MHzの i386DX と[[PC-9800シリーズ#高解像度（ハイレゾ）系|ハイレゾモード]]（高解像度モード）を搭載するという方針の大転換を行った。これは、NECより安価で高速な高解像度機であったが、NECは高解像度機を {{lang|en|[[NESA]]}} 搭載の [[PC-9800シリーズ#PC-H98シリーズ|PC-H98 シリーズ]]に移行している。セイコーエプソンはこの時期にNECとの間で {{lang|en|NESA}} に関するライセンス契約を結んだとされるが、これはそこに包含される一部仕様のライセンス取得が主目的であったらしく、最終的に同社は {{lang|en|NESA}} 搭載機を製造販売せずに終わっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この頃、フロッピーディスクが5インチから、ワープロ専用機等で爆発的に普及しつつあった3.5インチへと一気に移行しつつあった。その隙間のニーズを突く形で、エプソンは[[1991年]]6月の「PC-386GS」から、3.5インチ[[フロッピーディスクドライブ]]（FDD）2基と5インチ・フロッピーディスクドライブ1基を搭載するモデルを投入した。フロッピーディスクドライブを標準で3基搭載するパソコンは他社製品では日本IBMの5550シリーズの一部に見られた程度で、5インチドライブと3.5インチドライブを混載とした例は他になく、この時期の {{lang|en|EPSON PC}} の特徴として知られている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1992年]]6月発売の「PC-486GR」では、[[Intel 486|i486]]SX 25MHz、[[グラフィックアクセラレータ]]専用[[ローカルバス]]搭載、CPUをメモリコントローラーと共にドーターボード搭載とし、これを差し替えることで[[オーバードライブプロセッサ]]によるものでない正規の {{lang|en|[[Pentium]]}} へのアップグレードを保証、とNECの同世代機に比してCPUクロック、グラフィック描画性能について圧倒的な高性能を低価格で実現し、ベストセラーとなった。後から部品交換や追加することでマシンの性能を段階的に向上可能とするこの設計コンセプトは「{{lang|en|UP GRADE}} コンセプト」とよばれ、以後のエプソン製互換機の一大特徴となった。続く PC-386/486 ノートシリーズ各機種でも、CPUやハードディスクドライブ、増設フロッピーディスクドライブやカード、液晶モジュールなどのパーツを、交換できるような設計がされた（PC-386NAR、PC-486NAS以降）。また、ノートシリーズ用のハードディスクドライブパックを内蔵できるデスクトップ機もあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
性能的には高価格帯に移行していったとはいえ、それでもシステムセット価格ではNECの主流より、実売価格で2割から3割以上安価に供給されていた。また、高解像度をオプションとすることで価格を下げた「PC-486GF」も発売された。エプソンの i486 機の方がNECの i386 機より安かったのである。従前の路線である「安価なPC-9801互換機」を変えたわけではなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、変わったところで PC-486 {{lang|en|PORTABLE}}(PT)というペンコンピュータがこの時期に発売されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期のエプソンの動きとして注目されることの一つに、サウンドブラスターシリーズで知られるCreative社との共同開発による、[[Cバス]]対応版 {{lang|en|Sound BLASTER}} 16 の提供がある。これは、NEC純正のサウンドボードが低機能な PC-9801-26K と高機能だが非常に高価な PC-9801-73 しかなく、当時流行しつつあったマルチメディア対応、特に {{lang|en|Windows}} 上でのPCM音声の取り扱いに適当なサウンドボードが存在しなかったために開発されたものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もっとも、その一方でこのボードは本来のSB16相当のFM/PCMサウンド機能だけではなく、PC-9801-26ボードとのFMサウンド機能の互換性を持たせるため、オプションとして[[YM2203|OPN]]チップとその周辺チップを追加搭載するためのソケットが用意されているという大きな特徴があり、[[アイ・オー・データ機器]]の取り扱いによるボードの外販もあって本家NEC製98のユーザーにも普及し、一時は海外からの移植ゲームを中心に対応ソフトが提供されるなど、98用サウンドボード市場に一大勢力を形成した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===シリーズの終焉とその後===&lt;br /&gt;
[[1993年]][[1月]]の[[PC-9821シリーズ|PC-9821 A-mateシリーズ]]発売によって上記のアドバンテージは全て覆された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、後続のPC-486/586シリーズにおいてはPC-9821の機能拡張の中核をなす[[PEGC]]相当のVGA解像度グラフィック機能の実装や、PC-9801-86相当FM/PCMサウンド機能の搭載は行われなかった。[[1993年]]9月「PC-486HX」においては[[Peripheral Component Interconnect|PCI 1.0]]準拠のローカルバスを搭載するなど独自拡張路線を貫いたが、[[1995年]]6月の「PC-586RJ」をもってシリーズは終焉を迎えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
エプソンは、[[エプソンダイレクト]]がエンデバーシリーズを立ち上げるなど、[[PC/AT互換機]](非・国民機)路線に移行し、{{lang|en|EPSON PC}} シリーズは登録ユーザへのアップグレードパーツの優待販売と[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]（{{lang|en|EPSON PC}} シリーズ用Windows 95は、最終的に5万本を販売した&amp;lt;ref&amp;gt;『[[日経産業新聞]]』1998年4月15日付&amp;lt;/ref&amp;gt;）の販売をもって、サポートを終了した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、エプソンは「プラットフォーム・エミュレータ 98/V」を発売し、その体験版も無償で公開した。「98/V」はPC/AT互換機上でPC-9800シリーズ用ソフトウェアを動作させるための[[エミュレータ (コンピュータ)|エミュレータ]]ソフトウェアである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「98/V」は純粋なソフトウェアエミュレータ版とEGC互換チップ等を実装した[[Industry Standard Architecture|ISA]]カードと専用ソフトウェアがセットとなったハードウェアエミュレータ版の2種が提供された。前者にはGRCG相当の描画機能しかサポートしなかったものの、使用条件を満たすPC/AT互換機上であれば機種を選ばず動作するというメリットがあり、後者にはISAスロット1本の消費と引き替えに、ソフトウェア版に比して格段に高速な動作とEGC相当の描画機能が提供されるというメリットがあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とは言え、これらはいずれもPC-9801-26K以降のNEC純正[[FM音源]]を公式にはサポートしなかった（後にユーザーにより[[フリーソフト]]が作成された）ためにゲームには不向きであった。それ故、{{lang|en|EPSON PC}} ユーザーは以後Windowsの快適な環境を最優先にPC/AT互換機に乗り換えるか、それともMS-DOSゲーム環境を重視して、この時期以降急激に低価格化していったPC-9821シリーズを購入するかの二者択一を迫られる事となっていったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==本体の型番==&lt;br /&gt;
{{lang|en|EPSON PC}} シリーズはごく一部の機種を除き、搭載しているインテル製80x86系CPUの名前を冠している&amp;lt;ref&amp;gt;ただしPC-286U、最初のラップトップ機PC-286L、LE、最初のノート機PC-286NOTE executive、PC-286NOTE Fの5機種はCPUに[[V30]]を搭載している。また、Pentium搭載機はPC-586であるが、命名基準に沿っているものといえる。&amp;lt;/ref&amp;gt;。ラップトップ機には「L」、ノート機には「NOTE」、ブックタイプ機には「BOOK」と続くものの、デスクトップにおいては、アルファベットに一貫した命名基準はない模様である。&lt;br /&gt;
:※初期には当時のPC-9800シリーズの命名基準を意識した、Vが5インチFDD搭載のメインストリーム、Xが高速・拡張性重視のやや大型の筐体、Uがホビー指向の3.5インチFDD搭載の小型筐体機というグループ分けはされていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、「Pro-486」のみは命名基準から唯一逸脱している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==サードパーティー機器・OS==&lt;br /&gt;
NEC は自社の販売する[[N88-BASIC]]([[DISK-BASIC]])や[[MS-DOS]]に自社製ハードウェアであるか確認する処理([[プロテクト]])を付け加えるなどした（通称：エプソン・チェック）&amp;lt;ref group=*&amp;gt;脇 (1988) p.164によれば、ハードウェアのROM内の「NEC Corporation」等文字列の有無をチェックしているとされる&amp;lt;/ref&amp;gt;が、セイコーエプソンではそれを解除するパッチ（SIP：ソフトウェアインストレーションプログラム）を供給し、サードパーティー機器の互換性検証を行い情報提供を行っていた&amp;lt;ref name=32bit&amp;gt;{{Cite book ja-jp | title=パソコン通信 8月号別冊 32ビットパソコンのすべて | year=1990 | publisher=エーアイ出版 | author=伊藤博康 ほか | pages=36}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もっとも、逆にエプソンが開発した[[Cバス]]用グラフィックアクセラレータにはPC-9801シリーズで動作しないようになっていたという事例も存在する&amp;lt;ref name=32bit /&amp;gt;&amp;lt;!-- それ目的のプロテクトかどうかは要出典 --&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ちなみにこのエプソンチェックはPC/AT互換機が台頭してきてからのリリースとなったMS-DOS 6.2以降では廃止となっている。また、『[[一太郎]]』（[[ジャストシステム]]）も、Ver.5からEPSON PCシリーズに公式対応となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、エプソンは自社で移植した[[MS-DOS]]や、N88-BASIC と互換性のある独自の[[DISK-BASIC]]も発売していた。[[MS-DOS]]のVersion4の移植版は、エプソンから発売されたのみで、NECからは発売されていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、エプソンはWindowsについてはVer.3.1&amp;lt;ref&amp;gt;同じ NEC PC-9800 シリーズベースでも、マイクロソフト版・NEC版と異なり、スタンダードモードでもDOSプロンプトが実行できるなど、独自の機能があった。&amp;lt;/ref&amp;gt;までの各バージョンと、ハードウェア終息後にユーザーに対する事実上最後のアフターケアとなったWindows 95の提供を行い、OS/2についてもVer.2系まではサポートがあったが、Windowsでも98以降とNT系、OS/2ではWARP（Ver.3）以降については移植が行われていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==脚注==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}{{Reflist | group=*}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==出典==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==参考文献==&lt;br /&gt;
*{{Cite book ja-jp | editor=[[THE COMPUTER]]編集部 | year=1991 | title=パソコンヒット商品物語 | publisher=ソフトバンク | isbn=4-89052-194-1}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book ja-jp | author=脇英世 監修| year=1988 | title=パソコンの活用便利事典 | publisher=日本実業出版 | isbn=4-534-01387-6}}&lt;br /&gt;
*『{{lang|en|EPSON PC}} システムガイド』ISBN 4990003160&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[Cバス]]&lt;br /&gt;
*[[エプソン販売]]&lt;br /&gt;
*[[PC-9800シリーズ]]&lt;br /&gt;
*[[PC-9821シリーズ]]&lt;br /&gt;
*[[MZ-2861]]&lt;br /&gt;
*[[エプソンダイレクト]]&lt;br /&gt;
*[[:Category:PC-9800シリーズ用ゲームソフト]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
*{{産業技術史資料データベース|102090041028|エプソン PC-286V}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:パーソナルコンピュータ (製品)]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本電気のパーソナルコンピュータ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>180.5.197.143</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E8%B2%B4%E9%9B%84&amp;diff=32364</id>
		<title>中山貴雄</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E8%B2%B4%E9%9B%84&amp;diff=32364"/>
		<updated>2014-05-09T08:18:31Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;180.5.197.143: /* 略歴 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{基礎情報 アナウンサー&lt;br /&gt;
|名前=中山 貴雄&lt;br /&gt;
|ふりがな=なかやま たかお&lt;br /&gt;
|画像ファイル=&lt;br /&gt;
|画像サイズ= &amp;lt;!--ある場合のみ、220px以内--&amp;gt;&lt;br /&gt;
|画像コメント=&lt;br /&gt;
|本名=&lt;br /&gt;
|愛称=&lt;br /&gt;
|出身地={{JPN}} [[東京都]]&lt;br /&gt;
|国籍=&lt;br /&gt;
|生年月日= {{生年月日と年齢|1970|11|6}}&lt;br /&gt;
|没年月日= &lt;br /&gt;
|血液型=&lt;br /&gt;
|最終学歴=[[慶應義塾大学]][[経済学部]]&lt;br /&gt;
|在籍局= [[テレビ朝日]]&lt;br /&gt;
|所属事務所= &amp;lt;!--契約アナウンサーの場合に使用--&amp;gt;&lt;br /&gt;
|部署=&lt;br /&gt;
|職歴=&lt;br /&gt;
|活動期間=[[1994年]] - &lt;br /&gt;
|ジャンル=スポーツ&lt;br /&gt;
|配偶者=&lt;br /&gt;
|家族=&lt;br /&gt;
|公式サイト=[http://www.tv-asahi.co.jp/announcer/personal/men/nakayama/body1.html プロフィール]&lt;br /&gt;
|現在の出演番組= スポーツ中継各種&lt;br /&gt;
|過去の出演番組= [[#過去の出演番組]]参照&lt;br /&gt;
|その他=[[テレビ朝日アスク]]ゼネラルマネジャー（2013年8月 - ）&lt;br /&gt;
|備考=&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;中山 貴雄&#039;&#039;&#039;（なかやま たかお、[[1970年]][[11月6日]] - ）は、[[テレビ朝日]]の[[アナウンサー]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 略歴 ==&lt;br /&gt;
[[東京都]]出身。[[慶應義塾幼稚舎]]、[[慶應義塾普通部]]、[[慶應義塾高等学校]]、[[慶應義塾大学]][[経済学部]]を卒業後、[[1994年]]に入社した。大学時代は寺尾ゼミに所属していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
スポーツアナウンサーとして、[[野球]]や[[水泳]]にとどまらず、さまざまな競技の実況を担当している。夏季オリンピック中継では、[[2004年]][[アテネオリンピック (2004年)|アテネ]]、[[2008年]][[北京オリンピック|北京]]、[[2012年]][[ロンドンオリンピック (2012年)|ロンドン]]と、3大会連続で[[ジャパンコンソーシアム]]に参加している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、[[ホームページ]]のプロフィールでは、担当したい番組の中に「[[全国高等学校野球選手権大会|高校野球]]の実況」を挙げている。[[2005年]]から[[2011年]]までは、夏季オリンピックが開催されない年に、テレビ朝日からの派遣で系列局・[[朝日放送]]制作の[[全国高等学校野球選手権大会中継|全国大会のテレビ中継]]で[[実況]]を担当していた。なおテレビ朝日では、中山の派遣をきっかけに、後輩のスポーツアナウンサー（[[清水俊輔]]や[[大西洋平]]）も全国大会の中継で実況やインタビュアーを務めている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2013年]]8月には、先輩アナウンサー・[[田原浩史]]の後任として、[[テレビ朝日アスク]]の[[ゼネラルマネジャー]]（学校長）に就任。スポーツ実況の一線からいったん離れたが、翌[[2014年]]は要員の関係もあり再び実況を担当している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==過去の出演番組==&lt;br /&gt;
=== スポーツ中継における主な実況 ===&lt;br /&gt;
*オリンピック中継（[[アテネオリンピック (2004年)|アテネ]]、[[北京オリンピック|北京]]、[[ロンドンオリンピック (2012年)|ロンドン]]）&lt;br /&gt;
** 水泳、野球などさまざまな競技を担当&lt;br /&gt;
**アテネ五輪：野球、ソフトボール、テニス、競泳、水球、飛び込み、射撃を担当&lt;br /&gt;
**北京五輪：[[ケイリン]][[永井清史]]銅メダル実況、競泳100m平泳ぎ[[北島康介]]金メダルインタビュー、バドミントン女子3位決定戦[[末綱聡子|末綱]][[前田美順|前田]]ペア実況&lt;br /&gt;
**ロンドン五輪：競泳実況、女子マラソン中間点リポート&lt;br /&gt;
*プロ野球中継「[[スーパーベースボール (テレビ朝日系列)|スーパーベースボール]]」&lt;br /&gt;
**2002年10月29日、[[2002年の日本シリーズ|日本シリーズ]]第3戦　西武×巨人（西武ドーム）&lt;br /&gt;
**2003年10月26日、[[2003年の日本シリーズ|日本シリーズ]]第6戦　ダイエー×阪神（福岡ドーム）&lt;br /&gt;
**2004年10月19日・21日、[[2004年の日本シリーズ|日本シリーズ]]第3戦・第4戦　西武×中日（西武ドーム）&lt;br /&gt;
**2005年10月22日、[[2005年の日本シリーズ|日本シリーズ]]第1戦　ロッテ×阪神（千葉マリン）&lt;br /&gt;
**2006年3月5日、[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック|WBC]]第1ラウンド　日本×韓国（東京ドーム）&lt;br /&gt;
**2006年3月14日、[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック|WBC]]第2ラウンド　日本×メキシコ（アナハイム）&lt;br /&gt;
**2006年10月24日、[[2006年の日本シリーズ|日本シリーズ]]第3戦　日本ハム×中日（札幌ドーム）&lt;br /&gt;
**2007年10月27日、[[2007年の日本シリーズ|日本シリーズ]]第1戦　日本ハム×中日（札幌ドーム）&lt;br /&gt;
**2008年11月2日・5日、[[2008年の日本シリーズ|日本シリーズ]]第2戦・第4戦　巨人×西武（東京ドーム）、西武×巨人（西武ドーム）&lt;br /&gt;
**2009年3月5日・9日、[[2009 ワールド・ベースボール・クラシック|WBC]]第1ラウンド　日本×中国（東京ドーム）、日本×韓国（東京ドーム）&lt;br /&gt;
**2009年10月31日、[[2009年の日本シリーズ|日本シリーズ]]第1戦　日本ハム×巨人（札幌ドーム）&lt;br /&gt;
**2010年11月2日、[[2010年の日本シリーズ|日本シリーズ]]第3戦　ロッテ×中日（千葉マリン）&lt;br /&gt;
**2011年11月19日、[[2011年の日本シリーズ|日本シリーズ]]第6戦　ソフトバンク×中日（ヤフードーム）&lt;br /&gt;
**2012年11月1日、[[2012年の日本シリーズ|日本シリーズ]]第5戦　日本ハム×巨人（札幌ドーム）&lt;br /&gt;
*[[世界水泳選手権]]実況（福岡、バルセロナ、モントリオール、メルボルン、ローマ、上海）&lt;br /&gt;
*[[福岡国際マラソン]]センター1号車実況&lt;br /&gt;
*[[横浜国際女子マラソン]]スタート・ゴール実況&lt;br /&gt;
*[[ル・マン24時間レース]]実況&lt;br /&gt;
*[[東京国際女子マラソン]]スタート・ゴール実況&lt;br /&gt;
*[[全国高校野球選手権大会中継]]実況・インタビュアー（[[朝日放送|ABCテレビ]]・[[ビーエス朝日|BS朝日]]、[[2005年]] - [[2006年]]・[[2009年]] - [[2011年]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他のレギュラー番組 ===&lt;br /&gt;
*[[ステーションEYE]]&lt;br /&gt;
*[[ジャングル (情報番組)|サンデージャングル]]スポーツキャスター&lt;br /&gt;
*[[長島三奈の熱闘!スポーツM18]]キャスター&lt;br /&gt;
*[[速報!甲子園への道]]（テレビ朝日で放送される関東ローカルパートのキャスター）&lt;br /&gt;
*[[熱闘甲子園]]（朝日放送・テレビ朝日共同制作）1997年放送分でナレーターを担当&lt;br /&gt;
*[[小学生クラス対抗30人31脚]]全国大会（[[松井康真]]の後任で2代目実況アナウンサーとして出演）&lt;br /&gt;
*[[GET SPORTS]] / [[ANN NEWS&amp;amp;SPORTS]]（日曜日）スポーツコーナー担当キャスター（短縮版の場合ニュースも担当）&lt;br /&gt;
*[[中居正広のプロ野球タブーに挑戦!]]&lt;br /&gt;
*[[夢対決!とんねるずのスポーツ王は俺だ!スペシャル]]&lt;br /&gt;
*[[ANNニュース]]（日曜20時台）『ANN NEWS&amp;amp;SPORTS』『GET SPORTS』へ出演していた時期に不定期で担当&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 同期アナウンサー ==&lt;br /&gt;
*[[小久保知之進]]（現在は宣伝部員）&lt;br /&gt;
*[[野村華苗]]（退社）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[テレビ朝日]]&lt;br /&gt;
*[[日本のアナウンサー一覧]]&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.tv-asahi.co.jp/announcer/personal/men/nakayama/body1.html 中山貴雄プロフィール]&lt;br /&gt;
* [https://www.tv-asahi-ask.co.jp/tv_asahi_ask/ask_gm01.html　テレビ朝日アスク「なかやまリポート」]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{テレビ朝日アナウンサー}}&lt;br /&gt;
{{ANN NEWS&amp;amp;SPORTSキャスター}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:なかやま たかお}}&lt;br /&gt;
[[Category:テレビ朝日のアナウンサー]]&lt;br /&gt;
[[Category:スポーツアナウンサー]]&lt;br /&gt;
[[Category:慶應義塾大学出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:東京都出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1970年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:埼玉西武ライオンズ関連人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:熱闘甲子園]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>180.5.197.143</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E5%A4%A9%E8%B0%B7%E5%AE%97%E4%B8%80%E9%83%8E&amp;diff=124686</id>
		<title>天谷宗一郎</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E5%A4%A9%E8%B0%B7%E5%AE%97%E4%B8%80%E9%83%8E&amp;diff=124686"/>
		<updated>2014-05-09T07:33:35Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;180.5.197.143: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Infobox baseball player&lt;br /&gt;
|選手名             = 天谷 宗一郎&lt;br /&gt;
|所属球団           = 広島東洋カープ&lt;br /&gt;
|役職               = &lt;br /&gt;
|背番号             = 49&lt;br /&gt;
|選手写真ファイル名 = 20130818 Souichiro Amaya, outfielder of the Hiroshima Toyo Carp, at Yokohama Stadium.JPG&lt;br /&gt;
|写真のコメント     = 2013年8月18日、横浜スタジアムにて&lt;br /&gt;
|国籍               = {{JPN}}&lt;br /&gt;
|出身地             = [[福井県]][[鯖江市]]&lt;br /&gt;
|生年月日           = {{生年月日と年齢|1983|11|8}}&lt;br /&gt;
|没年月日           = &lt;br /&gt;
|身長               = 178&lt;br /&gt;
|体重               = 83&lt;br /&gt;
|利き腕             = 左&lt;br /&gt;
|打席               = 左&lt;br /&gt;
|守備位置           = [[外野手]]&lt;br /&gt;
|プロ入り年度       = {{NPBドラフト|2001}}&lt;br /&gt;
|ドラフト順位       = ドラフト9巡目&lt;br /&gt;
|初出場             = 2004年8月20日&lt;br /&gt;
|最終出場           = &lt;br /&gt;
|年俸               = 2,400万円（2014年）&lt;br /&gt;
|経歴               = &amp;lt;nowiki&amp;gt;&amp;lt;/nowiki&amp;gt;&lt;br /&gt;
*[[福井県立福井商業高等学校]]&lt;br /&gt;
*[[広島東洋カープ]] (2002 - )&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;天谷 宗一郎&#039;&#039;&#039;（あまや そういちろう、[[1983年]][[11月8日]] - ）は、[[広島東洋カープ]]に所属する[[プロ野球選手]]（[[外野手]]）。妻は[[フリーアナウンサー]]の[[坪山奏子]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
===プロ入り前===&lt;br /&gt;
[[福井県立福井商業高等学校]]時代は、バッティングセンスと俊足から「北陸の[[イチロー]]」と呼ばれていた。2年夏の選手権大会では、[[全国高等学校野球選手権福井大会|県大会]]決勝で[[内海哲也]]や[[李景一]]らを擁する[[敦賀気比高等学校|敦賀気比高]]に延長10回の死闘の末、3－2で勝利し甲子園出場を決めている。しかし[[第82回全国高等学校野球選手権大会|甲子園]]では7番[[右翼手]]で出場したが初戦敗退。この時のチームメイトには1学年上に[[山岸穣]]がいた。翌年の[[第73回選抜高等学校野球大会|春の甲子園]]では3番打者として1回戦で1本塁打を含む3安打、1イニング2盗塁の活躍を見せた。[[第83回全国高等学校野球選手権大会|夏の甲子園]]も出場し3期連続出場となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
50m走6秒0の俊足と選球眼のよさ、鋭いスイングが認められ、[[2001年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|2001年のドラフト]]で[[広島東洋カープ]]から9巡目で指名され、入団。背番号は&#039;&#039;&#039;69&#039;&#039;&#039;に決まった。福井商からのプロ入りは同僚の[[横山竜士]]以来7年ぶり。（[[2013年]]現在、カープには[[齊藤悠葵]]と合わせて3名の福井商出身の選手が在籍している）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== プロ入り後 ===&lt;br /&gt;
;&#039;&#039;&#039;{{by|2002年}} - {{by|2003年}}&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:1年目は、二軍で40打数2安打、打率.050と打球が前に飛ばない状態だったが、8四球を選び2盗塁を記録し、この頃から選球眼のよさの片鱗を見せていた。2年目は打撃が向上し、二軍で1番を任された。一時は打率4割を超え、前半戦は二軍の首位打者を独走していた。後半戦になると苦手な外角の変化球を攻められ打率を落としたが、最終的に二軍成績は打率.266、6本塁打、27盗塁で、[[ウエスタン・リーグ]]盗塁王のタイトルを獲得した。四死球が多く出塁率は3割5分を超えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;&#039;&#039;&#039;{{by|2004年}}&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:前年オフから取り組んでいた一本足打法をやめ、元のすり足打法に戻すなど打撃面で試行錯誤を続けた。初めて一軍の春季[[キャンプ (日本プロ野球)|キャンプ]]に参加したが、オープン戦打率.133と結果が残せなかった。[[8月20日]]にプロ3年目で一軍初昇格したが2打数無安打、盗塁を1つも決められず、30日に二軍降格となった。再昇格後の10月3日の対阪神戦でプロ初スタメン、第1打席でプロ初安打を放ち、積極的な走塁で二塁を陥れるなど、自慢の足も披露した。ウエスタン・リーグでは2位に20個差をつけ、42盗塁で2年連続盗塁王のタイトルを獲得するなど、快足ぶりを発揮した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;&#039;&#039;&#039;{{by|2005年}}&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:前年オフに左足靭帯を痛め、春季キャンプでは捻挫し、開幕二軍スタートとなった。[[6月14日]]のウエスタンでの対中日戦では二盗を試みスライディングした際に右肩を脱臼した。怪我に泣かされて一軍での出場は2試合に終わった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;&#039;&#039;&#039;{{by|2006年}}&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:5月に一軍へ昇格したものの、約1か月で二軍落ち。主に代走での出塁だったが、盗塁は0、打撃でも8打数0安打とアピールできなかった。一方で二軍では最高出塁率.366、24盗塁で3度目となる盗塁王の2つのタイトルを獲得した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;&#039;&#039;&#039;{{by|2007年}}&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:背番号を&#039;&#039;&#039;49&#039;&#039;&#039;に変更した。[[4月28日]]の対阪神戦でプロ初本塁打を記録。しかし5月に入り一時期一軍のレギュラーを奪うなど大きく飛躍するかと思われた矢先、牽制球で帰塁する際に左肩を痛めて戦線離脱。以後一軍に戻ることはなく、20試合の出場に終わった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;&#039;&#039;&#039;{{by|2008年}}&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:春季キャンプで監督の[[マーティ・ブラウン]]に「才能、打撃センス、スピードが魅力。ぜひ使いたい」と絶賛され、[[3月28日]]の開幕戦（対[[中日ドラゴンズ|中日]]戦）で1番・[[中堅手]]として初の開幕スタメンを果たす。[[4月5日]]の対[[横浜DeNAベイスターズ|横浜]]戦での延長10回、[[那須野巧]]から自身初となるサヨナラ安打を放ち&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2008/04/06/kiji/K20080406Z00001310.html|title=大抜てきに応えた！天谷がサヨナラ打 |newspaper=スポニチSponichi　Annex|publisher=スポーツニッポン|date=2008-04-06|accessdate=2013-04-19}}&amp;lt;/ref&amp;gt;、4月半ばには首位打者に立つなど、課題だった打撃が大きく向上した。また、前年まで凡ミスが目立った外野守備も本来の広い守備範囲が生かされるようになり、[[阪神タイガース|阪神]]から移籍してきた[[赤松真人]]とともに鉄壁の外野を形成。最終的に規定打席にわずか3打席届かず、打率も.263にまで下がったものの、自己最多の135試合に出場。飛躍のシーズンになった。[[4月5日]]の[[横浜DeNAベイスターズ|横浜]]戦では自身初となるサヨナラ安打を放ち、その試合の[[ヒーローインタビュー]]では、「おいしいお酒を飲んで明日も球場に来てください!」とユニークな発言をして球場のファンを沸かせた。翌[[4月6日]]の横浜戦でも[[長谷川昌幸]]とともにヒーローインタビューに立ち、「明日は月曜日で仕事があると思うのでお酒は控えめに」と発言した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;&#039;&#039;&#039;{{by|2009年}}&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:[[4月3日]]の開幕戦で8番・[[右翼手]]で出場。4月は調子は上がらなかったものの、5月になると調子を上げて3番打者に起用され、チーム打率が2割台前半に低迷する中で打率.400を記録して気を吐いていたが、[[5月13日]]の対阪神戦でファウルを打った際に右手[[有鈎骨]]を骨折し、長期離脱を余儀なくされた&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2009/05/14/kiji/K20090514Z00000900.html|title=天谷が右手骨折…復帰は2、3カ月後に|newspaper=スポニチSponichi Annex|publisher=スポーツニッポン|date=2009-05-14|accessdate=2013-05-01}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし、驚異的な回復力を見せ、49日後には二軍で実戦復帰、7月15日の対[[横浜DeNAベイスターズ|横浜]]戦に「3番・右翼」で先発出場し一軍復帰した&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2009/07/16/kiji/K20090716Z00001900.html|title=広島泥沼5連敗…もう精神論で行くしかないのか |newspaper=スポニチSponichi Annex|publisher=スポーツニッポン|date=2009-07-16|accessdate=2013-05-01}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。骨折の影響で94試合の出場にとどまり、前年同様に規定打席には届かなかったものの、自身初の打率3割・5本塁打・41打点をマークした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;&#039;&#039;&#039;{{by|2010年}}&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:オープン戦で打率3位の.396をマークし、3番・[[中堅手]]に抜擢されるが、いざシーズンに入ると打率1割台後半から2割前後を推移する深刻な打撃不振に陥り、打撃好調の赤松や[[廣瀬純]]にスタメンを奪われることが多くなる。後半戦からは多少持ち直したが、前半戦の不振が響き打率.245と成績を落とした。[[4月28日]]の対横浜戦で、チームでは[[正田耕三]]（{{by|1989年}}10月15日の対中日戦で1試合6盗塁を記録）以来21年ぶりとなる1試合4盗塁を記録し、[[8月27日]]の対[[読売ジャイアンツ|巨人]]戦では延長11回に[[野間口貴彦]]から逆転サヨナラ3ラン本塁打を放つなど、要所では印象的な活躍は見せたものの、赤松と投手の左右で併用されるなど完全にレギュラーに定着するには至らなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:[[8月22日]]の対横浜戦では、8回表に[[ブレット・ハーパー]]が[[齊藤悠葵]]から放ったセンターへのホームラン性の打球を、およそ1.8mのフェンスを駆け上がってエビ反り状態になりながらも好捕、観客の喝采を浴びた（この時実況は「スパイダーマンの再来（後述の赤松）」「天谷スーパー（プレイ）!」と絶賛している）。この時、齊藤はホームランを打たれたと思い込んでいたため、天谷が捕球するのを見て目を丸くして驚いていた。このようなビッグプレーは[[8月4日]]の対横浜戦でも同僚の赤松が見せており（ちなみにその時の投手も齊藤であった。打者は[[村田修一]]）、天谷はそれを「すごく意識するようになった」らしい。22日の未明、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]のスポーツニュースで赤松のプレーが特集された際に、マツダスタジアムに展示されている、天谷がフェンスによじ登ってホームランキャッチする姿を模した「激突!天谷くん」人形が紹介されており、僅か一夜明けてそれを現実の物としてしまった。なお後日、登ったフェンスのすぐ下に[[フマキラー]]が[[ベープ]]の広告を出していたため、同社から天谷にベープ、薬用ハンドソープ等が送られたことが、広報である[[比嘉寿光]]のブログで明らかになった。同様に赤松も、よじ登ったフェンスに広告を掲載していた石窯[[タカキベーカリー]]からパンの詰め合わせが贈られている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;&#039;&#039;&#039;{{by|2011年}}&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:開幕当初から打撃不振で5月には打率1割台に低迷、二軍落ちも経験した。6月に一軍復帰後は復調したかに見えたが、夏場以降に再び調子を落として代打や代走・守備固めでの起用が多くなり、打率.210と不本意な成績に終わってしまった。[[12月27日]]に坪山奏子（[[広島ホームテレビ]]アナウンサー）と結婚したことを発表&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20111228-882239.html 天谷結婚!広島女子アナの心もキャッチ] -[[日刊スポーツ]] 2011年12月28日&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;&#039;&#039;&#039;{{by|2012年}}&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:不調のため開幕二軍スタートとなり、5月になって一軍昇格。6月にかけて徐々に調子を上げ、6月は16試合連続安打を記録するなど月間打率.373をマーク、一時は打率.327まで上げた。6月中旬からは1番打者として固定して起用され、同月17日の[[埼玉西武ライオンズ|西武]]戦では[[西武ドーム]]で[[岸孝之]]から初回先頭打者初球ホームランを打つなどチームを勢いづけ、同時期に打撃好調で4番を打った[[岩本貴裕]]とともに3位浮上の原動力となった。7月までは打率3割台を維持していたが8月以降調子を落とし、打順も5番や7番に下がったり、相手左投手が先発の試合はスタメンから外れることもあった。それでも[[8月25日]]の阪神戦でチーム20年ぶりとなる[[本塁打|ランニングホームラン]]を打ったり、[[9月27日]]の[[読売ジャイアンツ|巨人]]戦で9回裏に逆転[[サヨナラゲーム|サヨナラヒット]]（記録上は安打と外野手の失策）を打つなど、印象的な活躍も見せた。最終的には打率.264に終わったものの、過去2年を上回る成績を残した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;&#039;&#039;&#039;{{by|2013年}}&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
:シーズンを通して一軍と二軍を往復する日々が続き、レギュラー定着後以降最少となる34試合の出場に留まった。また、プロ5年目の[[2006年]]以来7年ぶりのシーズン無本塁打に終わり、打率.208と打撃不振に陥った。二軍では75試合に出場し、打率.289、3本塁打の成績を残した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== プレースタイル・人物 ==&lt;br /&gt;
[[File:Amaya_Soichiro.jpg|right|thumb|キャッチボールをする天谷]]&lt;br /&gt;
自分のバッティングスタイルを守るために、バッターボックスに入る際は小声で「センター（返し）、センター…」とつぶやいているという。俊足のため[[併殺#併殺打|併殺打]]が少なく、一定以上の長打力もあるので、様々な打順をこなせるユーティリティ性をもつバッターである。[[2009年]]以降は、貧打にあえぐチーム事情もあって、同タイプの外野手である[[赤松真人]]とともに[[クリーンナップ]]を打つ機会が多くなっている。選球眼が良く、重要な場面で四球を選んで出塁するケースが多い{{要出典 |date=2013年10月}}。[[2008年]]と[[2010年]]はシーズン打率が2割5分前後で終わっているが、いずれも3割を大きく超える出塁率をマークしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一軍に定着した2008年は左翼・中堅での起用が主で、外野で最も肩力が要求される右翼での出場はほとんどなかったが、外野が広く、右翼線を抜けた打球が即[[三塁打]]につながる[[MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島|マツダスタジアム]]に本拠地が変わった2009年は、守備範囲を重視した首脳陣の意向により右翼手にコンバートされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
昔からいい選手のものはどんどん真似していこうと思っており、[[スパイク]]は[[赤星憲広]]（元阪神）、[[グラブ (野球)|グラブ]]は同僚である廣瀬のモデルを着用していると述べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
モデルとして活躍している[[伽奈]]とは実家が近く幼なじみであるが、天谷本人は「モデルというより、単なる友達」と語っている（2008年9月9日の[[中国新聞]]夕刊より）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[サンフレッチェ広島]]に所属していた[[槙野智章]]とは親交があり、実際に[[広島アスリートマガジン]]（2009年2月号）で対談したことがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 詳細情報 ==&lt;br /&gt;
=== 年度別打撃成績 ===&lt;br /&gt;
{| {{年度別打撃成績|リーグ=日本プロ野球}}&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align: center;&amp;quot;|{{by2|2004}}&lt;br /&gt;
|rowspan=&amp;quot;10&amp;quot; style=&amp;quot;text-align: center;&amp;quot;|[[広島東洋カープ|広島]]&lt;br /&gt;
|10||12||11||1||2||0||1||0||4||1||1||2||0||0||1||0||0||4||0||.182||.250||.364||.614&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align: center;&amp;quot;|{{by2|2005}}&lt;br /&gt;
|2||2||2||0||0||0||0||0||0||0||1||0||0||0||0||0||0||1||0||.000||.000||.000||.000&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align: center;&amp;quot;|{{by2|2006}}&lt;br /&gt;
|17||9||8||3||0||0||0||0||0||0||0||1||0||0||0||0||1||4||0||.000||.111||.000||.111&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align: center;&amp;quot;|{{by2|2007}}&lt;br /&gt;
|20||39||31||6||8||0||0||1||11||2||2||2||2||0||5||0||1||7||0||.258||.378||.355||.733&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align: center;&amp;quot;|{{by2|2008}}&lt;br /&gt;
|135||443||392||49||103||8||1||4||125||24||13||9||11||2||34||0||4||76||2||.263||.326||.319||.645&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align: center;&amp;quot;|{{by2|2009}}&lt;br /&gt;
|94||361||317||35||95||14||7||5||138||41||12||10||6||5||31||0||2||62||4||.300||.361||.435||.796&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align: center;&amp;quot;|{{by2|2010}}&lt;br /&gt;
|123||382||335||46||82||11||2||6||115||35||18||10||1||3||37||0||6||72||3||.245||.328||.343||.671&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align: center;&amp;quot;|{{by2|2011}}&lt;br /&gt;
|100||187||167||15||35||6||3||1||50||12||8||2||3||0||14||0||3||33||2||.210||.283||.299||.582&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align: center;&amp;quot;|{{by2|2012}}&lt;br /&gt;
|108||397||359||44||95||21||0||6||134||25||12||9||2||1||32||0||3||64||3||.264||.329||.373||.702&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align: center;&amp;quot;|{{by2|2013}}&lt;br /&gt;
|34||62||53||5||11||1||0||0||12||1||3||1||0||0||9||0||0||15||0||.208||.323||.226||.549&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|通算：10年&lt;br /&gt;
|643||1894||1675||204||431||61||14||23||589||141||70||46||25||11||163||0||20||338||14||.257||.329||.352||.680&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
* 2013年度シーズン終了時&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 年度別守備成績 ===&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;font-size: small; text-align: center; border-collapse: collapse; padding: 1px;&amp;quot;&lt;br /&gt;
!rowspan=&amp;quot;2&amp;quot;|年度!!colspan=&amp;quot;6&amp;quot;|外野&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!試合!!刺殺!!補殺!!失策!!併殺!!守備率&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2004||8||4||0||0||0||1.000&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2005||1||1||0||0||0||1.000&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2006||8||5||0||0||0||1.000&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2007||10||7||0||1||0||.875&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2008||127||184||5||3||1||.984&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2009||91||156||4||6||1||.964&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2010||93||176||6||4||1||.978&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2011||76||83||3||0||2||1.000&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2012||99||171||2||0||1||1.000&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2013||23||21||1||0||1||1.000&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!通算||536||808||21||14||7||.983&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
* 2013年度シーズン終了時&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 表彰 ===&lt;br /&gt;
* [[スカパー! ドラマティック・サヨナラ賞|サヨナラ賞]]：1回 （2010年）&lt;br /&gt;
* [[「ジョージア魂」賞]]選考委員特別賞：1回 （2010年） &lt;br /&gt;
* 「ジョージア魂」賞：1回 （2010年度第11回）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 記録 ===&lt;br /&gt;
* 初出場：2004年8月20日、対[[読売ジャイアンツ]]22回戦（[[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]]）、8回裏に[[野村謙二郎]]の代走で出場&lt;br /&gt;
* 初打席：2004年8月21日、対読売ジャイアンツ23回戦（広島市民球場）、9回裏に[[三澤興一]]から二塁ゴロ&lt;br /&gt;
* 初先発出場：2004年10月3日、対[[阪神タイガース]]27回戦（広島市民球場）、2番・[[中堅手]]で先発出場&lt;br /&gt;
* 初安打：同上、1回裏に[[杉山直久]]から中前安打&lt;br /&gt;
* 初盗塁：2004年10月6日、対[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]24回戦（広島市民球場）、6回裏に二盗（投手：[[川村丈夫]]、捕手：[[相川亮二]]）&lt;br /&gt;
* 初打点：2004年10月7日、対[[中日ドラゴンズ]]25回戦（広島市民球場）、6回裏に[[岡本真或|岡本真也]]から左中間へ適時三塁打&lt;br /&gt;
* 初本塁打：2007年4月28日、対阪神タイガース4回戦（広島市民球場）、5回裏に杉山直久から右越2ラン&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 背番号 ===&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;69&#039;&#039;&#039; （2002年 - 2006年）&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;49&#039;&#039;&#039; （2007年 - ）&lt;br /&gt;
=== 登場曲 ===&lt;br /&gt;
* [[ももいろクローバーZ]] 『[[行くぜっ!怪盗少女]]』（2012年）&lt;br /&gt;
* [[桃黒亭一門]]　『[[ニッポン笑顔百景]]』（2013年 - ）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[福井県出身の人物一覧]]&lt;br /&gt;
* [[広島東洋カープの選手一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.s-amaya.com 天谷宗一郎オフィシャルサイト]&lt;br /&gt;
* {{Twitter|amaya_49}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{広島東洋カープ}}&lt;br /&gt;
{{広島東洋カープ2001年ドラフト指名選手}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:あまや そういちろう}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の野球選手]]&lt;br /&gt;
[[Category:広島東洋カープ及び広島カープの選手]]&lt;br /&gt;
[[Category:福井県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1983年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>180.5.197.143</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=PC-100&amp;diff=159493</id>
		<title>PC-100</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=PC-100&amp;diff=159493"/>
		<updated>2014-05-09T06:19:10Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;180.5.197.143: /* ソフトウェア */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{参照方法|date=2010年7月}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;PC-100&#039;&#039;&#039;（ピーシーひゃく）は、[[日本電気]](NEC)が[[1983年]]10月13日に[[日本]]国内向けに発売した[[パーソナルコンピュータ]]、およびその商品名である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[記憶装置|メモリ]]規格の[[PC100]]とは、まったく関係ない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
日本のパソコン史上初の、[[マウス (コンピュータ)|マウス]]による[[グラフィカルユーザインターフェース]]（以下GUI）をサポートしたマシンである。[[アスキー (企業)|アスキー]]の[[西和彦]]の提案により、日本版「&#039;&#039;&#039;[[Alto]]&#039;&#039;&#039;」を目指して開発された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[PC-8800シリーズ]]を開発していたNECの電子デバイス事業グループ&amp;lt;ref&amp;gt;後に[[日本電気ホームエレクトロニクス]]へ移管。&amp;lt;/ref&amp;gt;主導で、開発をNECとアスキーおよび[[京セラ]]傘下のサイバネット工業&amp;lt;ref&amp;gt;PC-8800シリーズの製造も担当していた。1982年10月に京都セラミツク（京セラ）と合併。&amp;lt;/ref&amp;gt;の3社、製造を京セラがそれぞれ担当した。実際の設計は[[日本マイクロハード]]の[[松本吉彦]]らが担当した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ハードウェア ==&lt;br /&gt;
=== 基本仕様 ===&lt;br /&gt;
[[CPU]]として[[Intel 8086]]のNECによる[[セカンドソース]]品であるμPD8086-2（8[[メガヘルツ|MHz]]動作モデル）を搭載し、CPU[[クロック]]を7MHzに抑える事により、128[[キロバイト|KB]]を標準搭載するメイン[[Random Access Memory|RAM]]をノーウェイトアクセスで動作させる。また、容量360KBの5.25[[インチ]]2D（両面倍密度）[[フロッピーディスク]]ドライブ(FDD)を、model 10は1基、他のモデルは2基を標準搭載する。model 10についても1基を追加搭載可能である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[VRAM]]はmodel 10とmodel 30は128KB、model 30は512KBを搭載。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
GUI実現の上で重要な[[CRTC|CRTコントローラ]]や[[Direct Memory Access|DMA]]コントローラ、それに[[入出力ポート|I/O]]コントローラなどに[[ASIC]]によるカスタムチップを積極的に採用して高速化と周辺回路の簡素化を実現し、設計当時としても決して強力とは言い難いCPUで実用に足る応答性能を実現している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 画面仕様 ===&lt;br /&gt;
専用[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]は縦置き・横置きを切り替えて使用可能である。専用ディスプレイの[[ティルト|チルト]]スタンドに縦置き・横置きを検出する機械式スイッチが搭載されており、画面の表示モードもこれに合わせて自動的に切り替わる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ディスプレイ横置き時に[[画面解像度]]720×512[[ドット]]、縦置き時は512×720ドットの[[ビットマップ画像|ビットマップグラフィック]]を表示可能。論理的には1024×1024ドットのグラフィック画面を備えており、ウィンドウ機能によりグラフィック画面の一部をディスプレイに表示する。これにより画面を上下左右に自由に[[スクロール|スムーズスクロール]]可能としている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
テキストもビットマップ表示で行うため、専用のテキストVRAMを持つ[[PC-9800シリーズ]]と比べて表示速度が遅いという欠点があった。そのためVRAMを複数プレーン分重ね合わせて持ち、同時に読み書きする事により表示の高速化を図っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
model 30はカラーボードと称する増設VRAM 128KB×3プレーン[[実装]]の[[ドーターボード]]を標準搭載し、512色中16色のカラー表示が可能である。model 10とmodel 20は標準では[[モノクローム|モノクロ]]表示で、カラーボードを追加搭載することで model 30と同様のカラー表示が可能である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
GUI実現のキーデバイスであるマウスは、[[アルプス電気]]が開発して[[OEM]]供給した、初代マイクロソフトマウスの同等品を同梱する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]もアルプス電気製で、筐体デザインやこのキーボードの外装デザインなどはPC-8800シリーズと同様の意匠となっている。なお、キーボード右側面にマウス接続コネクタを装備する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ソフトウェア ==&lt;br /&gt;
当初よりアスキーが国内代理店を務めていた[[マイクロソフト]]の[[MS-DOS]]Ver.2.01 を標準[[オペレーティングシステム|OS]]として同梱し、VISUAL COMMAND INTERFACE（VISUAL SHELL、通称：VSHELL）と呼ばれるマウスオペレーションによるGUI[[シェル]]プログラムを搭載して、各種[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]もこれらの環境で動作させることを前提として操作体系を極力統一する方針で設計されている。このVSHELLは、MS-DOS上にグラフィカルなシェルを実装するアプローチとして、のちにPC-9801のMS-DOS環境にいくつかのメニューソフトを派生させたルーツとも言われ、またMS-DOS 4.0で実装された[[MS-DOS Shell]]に影響を与えたとも言われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その一方で、先進的な[[ハードウェア]]に合わせて、[[BASIC]]全盛のこの時代にあっても、[[ROM-BASIC]]を搭載していない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この様な事情から、発売開始時点では市販アプリケーションのラインナップ整備が困難と判断され、[[ジャストシステム]]が開発した[[日本語]][[ワードプロセッサ]]「JS-WORD」および単文節[[かな漢字変換|仮名漢字変換]][[FEP]]「KTIS」や[[表計算ソフト]]「[[Microsoft Multiplan|Multiplan]]」、それにマイクロソフトが標準BASICとして普及を推進していたGW-BASICを基本にマウス入力などへの対応を図ったN100-BASICなどのMS-DOS用アプリケーションが標準添付されている。「JS-WORD」と「KTIS」は後に[[一太郎]]および[[ATOK]]へと形を変えることとなる。「Multiplan」は[[Microsoft Excel]]の前身である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、マイクロソフトが標準BASICとして普及を推進していたGW-BASICを基本にマウス入力などへの対応を図ったN100-BASICなどのMS-DOS用アプリケーションが標準添付されている。また、[[ゲームソフト]]「[[ロードランナー]]」も同梱されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ユーティリティソフトウェア|ユーティリティソフト]]として、[[N88-BASIC|N88-DISK BASIC]]で作成されたプログラムをN100-BASICのプログラムに変換する「FILCON」を搭載し、従来の[[8ビットパソコン|8ビット機]]用ソフトウェアをPC-100で活用できるようにした。なお、DISK-BASICの[[ファイルフォーマット]]をサポートしているため、DISK-BASICで作成したファイルから直接MS-DOS形式のファイルに変換可能である。また、[[ラインエディタ]]である「[[EDLIN]]」の他に、[[テキストエディタ|スクリーンエディタ]]として「MS-NOTEPAD」が付属した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ワードプロセッサと表計算ソフトによる[[オフィススイート]]環境の実現、[[デバイスドライバ]]方式によるFEPの組み込み、マウスオペレーションの大胆な採用など、MS-DOS環境での日本語処理環境やGUI環境の基礎となる概念・技術を初めて実装した存在ともいえ、当時の水準では傑出した先進的な製品だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
標準でGUIに対応していたため、マイクロソフトが開発したWindows1.0をPC-100で動作するようにしデモを行った。しかし、タイルウインドウ表示のWindowsは注目されず日本向けに製品化されることはなかった&amp;lt;ref&amp;gt;PC-9800シリーズ版については別途発売された。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== PC-100の境遇 ==&lt;br /&gt;
数々の先進的な機能を装備し、様々な画期的アプリケーションソフトを同梱する一方で、PC-100の置かれた境遇は、決して恵まれていたとは言えなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時NEC社内で主導権を争っていたのは、パーソナルコンピュータ市場で発展してきた[[PC-9800シリーズ]]と、PC-9801シリーズの[[コンピュータ・アーキテクチャ|ハードウェア・アーキテクチャ]]のルーツであり[[オフィスコンピュータ|オフコン]]市場で存在感を持っていた[[N5200]]シリーズである。PC-100は社外開発という事情から社内で重視されることはなかった。また、先進的な機能を盛り込んだために、model 30と専用カラーディスプレイ、[[プリンター]]のセットでは、実に100万円近い高価格で、それがネックとなり営業面でも熱心に販売されることはなく、普及にも繋がらなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、市場はPC-100の後を追うようにアプリケーションの[[プラットフォーム (コンピューティング)|プラットフォーム]]をBASICからMS-DOSへと急速に移行し、[[1980年代]]後半には、NECが社運をかけて売り込んだ[[PC-9800シリーズ]]の全盛時代となって行く。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このような経緯から、PC-100は商業的には失敗作とされ、[[マニア]]の間で不遇の名機として語られるところとなった。[[XEROX]]の[[Xerox Star|Star]][[ワークステーション]]によって提示されたGUIを指向しながらその高価格ゆえに失敗した、同じ[[1983年]]に登場した[[アップル インコーポレイテッド|アップルコンピュータ]]の[[Lisa (コンピュータ)|Lisa]]&amp;lt;!--のちに[[Macintosh]]互換環境を搭載しMacintosh XLとして再販される--&amp;gt;とも、その広視野なコンセプトに相反する結果を辿ったことで、通じる点がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、PC-100は当初PC-9801を超えるものとしてシリーズ名をPC-10000として計画されていた。しかし、当時、PC-9800シリーズ用周辺機器は後年に統一名称となったPC-9801-xxだけではなく、PC-98xxと付番されていたものもあり、製品ラインナップ上の整合性の問題などからPC-100に変更された。周辺機器などの型番がPC-10000-xxとされていたことは当初のシリーズ名の名残である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== その後のPC-100 ==&lt;br /&gt;
一般のパソコン市場ではPC-9800シリーズ全盛となった1980年代後半、姿を消したPC-100は、[[秋葉原]]などの中古・ジャンク市場に安価に出回り、主にマニアの間で細々と取引されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マニアたちは、PC-9801用のMS-DOS（Ver2.11やVer3.10等）をPC-100で動作させるための[[パッチ]]などを作成し、CPUの8086をピン互換の[[NEC Vシリーズ|V30]]に換装して高速化、FDDを5.25インチ2DD（両面倍密度倍トラック 容量720KB）に乗せ替える等した上で、PC-9801用の[[バンク切り換え|バンクメモリ]]カードを用いてメモリをフル増設し、さらに[[ST-506|SASI]]や[[Small Computer System Interface|SCSI]]などの[[インタフェース (情報技術)|インターフェイス]]を増設して[[ハードディスクドライブ|HDD]]まで接続し、もっぱらMS-DOS互換環境として扱っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
PC-100はどのモデルでもソフト、ハードともに2DDドライブに対応しており、FDドライブを2Dから2DDに交換するだけで2DDのFDを利用できた。PC-100がその成立にまつわる事情から、ハードウェア的にPC-9801およびPC-8801シリーズのいずれかから流用した部分が多く、仕様も多分に重複していたため、心得たマニアにはこれらの増設パーツや補修部品の調達が容易だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アプリケーションについても、市販アプリケーションこそ供給されなかったものの、MS-DOSジェネリックなソフトウェアは当時の市場や[[パソコン通信]]などの世界にありふれていた。また、[[フリーウェア|フリーソフト]]や[[パブリックドメインソフトウェア|パブリックドメインソフト]]の一部には、PC-100対応版やPC-100対応モード等が専用に用意されるものや、未対応の一部のアプリケーションについてもPC-9801用の[[バイナリ]]にパッチを当てて流用する手段が提供された。そのため、PC-100をMS-DOS互換環境として扱う限り大きく不足を感じる要素は無かった。&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
もっとも、同時期に彼らからは「大多数」として興味の対象から外れていた[[PC-9821シリーズ#シリーズの終焉|PC-9800シリーズ]]は、[[1990年代]]後半以後、同じ立場に置かれることになった。&lt;br /&gt;
--&amp;gt;&lt;br /&gt;
== 派生品 ==&lt;br /&gt;
一時期、PC-100を[[コンピュータグラフィックス|CG]]用（FDDを5.25インチ2DDにアップグレード、HDDも内蔵）にカスタマイズしたものが、[[サードパーティー]]からシステム販売されていた事もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 仕様 ==&lt;br /&gt;
* CPU：μPD8086-2（[[Intel 8086]]互換）7MHz&lt;br /&gt;
* [[FPU|ALU]]：[[Intel 8087]]実装可能（本体基板にソケットを実装）&lt;br /&gt;
* メモリ&lt;br /&gt;
** [[主記憶装置|メインRAM]]：128KB標準装備（256KBまたは512KB単位で増設、最大640KB）&lt;br /&gt;
** [[VRAM]]：128KB標準装備、カラーボード（増設VRAM 128KB×3プレーン）により最大512KB&lt;br /&gt;
*** model 10,20：カラーボード・オプション&lt;br /&gt;
*** model 30：カラーボード・標準搭載&lt;br /&gt;
** [[Read Only Memory|ROM]]：32KB標準装備（[[ブート]]、診断プログラム、[[キャラクタ (コンピュータ)|キャラクター]]、[[フォント]]、[[Basic Input/Output System|BIOS]]）&lt;br /&gt;
*** [[JIS X 0208|JIS第1水準]][[漢字]]ROM搭載（文字構成16×16[[ドット]]、漢字：2,965字、非漢字：約700種）&lt;br /&gt;
* [[画面解像度]]&lt;br /&gt;
** ディスプレイ横置き時&lt;br /&gt;
*** テキスト（[[英数字|英数カナ]]表示）：80文字×25行、90文字×25行、90文字×32行、120文字×64行&lt;br /&gt;
*** テキスト（[[日本語]]表示）：80文字×25行、90文字×25行&lt;br /&gt;
*** グラフィック：720×512ドット（VRAM空間上は1024×1024ドット）&lt;br /&gt;
** ディスプレイ縦置き時&lt;br /&gt;
*** テキスト（英数カナ表示）：64文字×45行、85文字×45行、85文字×90行&lt;br /&gt;
*** テキスト（日本語表示）：64文字×45行&lt;br /&gt;
*** グラフィック：512×720ドット（VRAM空間上は1024×1024ドット）&lt;br /&gt;
* 画面表示色&lt;br /&gt;
** model 10,20：[[モノクローム|モノクロ]]（カラーボード搭載時：512色中16色指定）&lt;br /&gt;
** model 30：カラー（512色中16色指定）&lt;br /&gt;
* [[補助記憶装置]]&lt;br /&gt;
** FDD：5.25インチ2D（両面倍密度：360KB） - [[フロッピーディスク]]ドライブは、PC-8801mkII以降に用いられていたものと同一の5.25インチ2Dドライブ（[[ティアック|TEAC]]のFD55B）であるが、MS-DOSの[[File Allocation Table#FAT12|FAT12]]フォーマットを用いたため、フォーマット後の容量は360KBとなった。&lt;br /&gt;
*** model 10：1台（1台増設可）&lt;br /&gt;
*** model 20,30：2台&lt;br /&gt;
** FDC：μPD765AC&lt;br /&gt;
** [[ハードディスクドライブ|HDD]]：PC-98H33、PC-98H31を接続可能（5インチ固定ディスクインタフェースボード経由）&lt;br /&gt;
* キーボード：セパレートタイプ&lt;br /&gt;
* マウス：キーボード接続方式、マイクロソフトマウス&lt;br /&gt;
* [[Programmable Interrupt Controller|割り込み]]：[[Intel 8259|μPD8259A]]（エッジトリガー方式）&lt;br /&gt;
* [[インタフェース (情報技術)|インタフェース]]&lt;br /&gt;
** RGBアナログ信号出力&lt;br /&gt;
** プリンタインタフェース（[[パラレル通信|パラレル]]インタフェース、[[IEEE 1284|セントロニクス]]仕様に準拠）&lt;br /&gt;
** [[シリアル通信|シリアル]]インタフェース（[[RS-232|RS-232C]]規格に準拠、1チャンネル（150〜19200[[ビット毎秒|BPS]]））&lt;br /&gt;
* [[拡張スロット|汎用I/Oスロット]]&lt;br /&gt;
** 72PINボード用スロット（縦差し式：本体カバーを外して装着）&lt;br /&gt;
*** カラー使用時：2スロット（1スロットをカラーボードで占有）&lt;br /&gt;
*** モノクロ使用時：3スロット&lt;br /&gt;
* [[BASIC]]：N100-BASIC（MS-DOS上で稼動）&lt;br /&gt;
* 外形寸法&lt;br /&gt;
** 本体：幅400mm×奥行き350mm×高さ100mm&lt;br /&gt;
** キーボード：幅408mm×奥行き195mm×高さ35mm&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 型番 ==&lt;br /&gt;
=== 本体 ===&lt;br /&gt;
* PC-10010（PC-100 model 10）：398,000円（FDD1台搭載）&lt;br /&gt;
* PC-10020（PC-100 model 20）：448,000円（FDD2台搭載）&lt;br /&gt;
* PC-10030（PC-100 model 30）：558,000円（FDD2台、カラーボード搭載）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 周辺機器 ===&lt;br /&gt;
純正の周辺機器、拡張ボードには、PC-10000-nn（nnは数字）という型番が与えられている。&lt;br /&gt;
* PC-10000-03：カラーボード（増設VRAM 128KB×3プレーン、model 10,20用）&lt;br /&gt;
* PC-10000-05：256KB増設RAMボード&lt;br /&gt;
* PC-10000-06：512KB増設RAMボード&lt;br /&gt;
* PC-10000-08：5インチ固定ディスクインタフェースボード&lt;br /&gt;
* PC-10000-09：ユニバーサルボード（インタフェース自作用）&lt;br /&gt;
* PC-10000-11：増設フロッピーディスクドライブ（model 10用）&lt;br /&gt;
* PC-10000-12：PC-IN501用パラレルインタフェースボード&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 専用ディスプレイ ===&lt;br /&gt;
チルトスタンドに縦置き・横置きを検出する機械式スイッチを搭載する。デガウス（[[消磁]]）機能付き。&lt;br /&gt;
* PC-MD651：専用モノクロディスプレイ（59,800円）&lt;br /&gt;
* PC-KD651：専用カラーディスプレイ（198,000円）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 富田倫生『パソコン創世記』、[[阪急コミュニケーションズ]]、[[1994年]] ISBN 4-484-94229-1（[http://attic.neophilia.co.jp/aozora/htmlban/gopc.html 青空文庫版]）&lt;br /&gt;
* [[関口和一]]『パソコン革命の旗手たち』、[[日本経済新聞社]]、[[2000年]] ISBN 4-532-16331-5&lt;br /&gt;
*『PC-100入門―ハイテック・ビジネスへの招待』、アスキー出版局、[[1984年]] ISBN 4-87148-739-3&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[日本電気]]&lt;br /&gt;
* [[京セラ]]&lt;br /&gt;
* [[アスキー (企業)|アスキー]]&lt;br /&gt;
* [[ジャストシステム]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://121ware.com/navigate/learn/pcmuseum/84_100.html NECパソコン博物館 PC-100]、121Ware&lt;br /&gt;
* [http://homepage3.nifty.com/takeda-toshiya/pc100/index.html &amp;quot;ePC-100&amp;quot; - NEC PC-100 emulator for Win32]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{NECのパソコン}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Computer-stub}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:日本電気のパーソナルコンピュータ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>180.5.197.143</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E7%80%AC%E9%87%8E%E5%85%AB&amp;diff=63781</id>
		<title>瀬野八</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E7%80%AC%E9%87%8E%E5%85%AB&amp;diff=63781"/>
		<updated>2014-04-23T03:56:33Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;180.5.197.143: /* 運用 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Vertical images list&lt;br /&gt;
|幅=240px&lt;br /&gt;
|1=Senohachi-01.jpg&lt;br /&gt;
|2=[[八本松駅]]近辺&amp;lt;br /&amp;gt;[[2004年]]6月&lt;br /&gt;
|3=EF67 senohati.JPG&lt;br /&gt;
|4=八本松駅 - [[瀬野駅]]間&amp;lt;br /&amp;gt;[[2009年]][[3月31日]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;瀬野八&#039;&#039;&#039;（せのはち）とは、[[西日本旅客鉄道]]（JR西日本）[[山陽本線]][[八本松駅]] - [[瀬野駅]]間 (10.6km) の通称である。本区間は[[広島県]][[東広島市]]と[[広島市]][[安芸区]]にまたがっており、峠としての正式名称は&#039;&#039;&#039;大山峠&#039;&#039;&#039;である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
この区間は、[[山陽鉄道]]により[[1894年]][[6月10日]]に開通した。同社は急勾配を避ける方針で路線を敷設したが、この区間は経済性を優先して最短経路で敷設したことから、瀬野駅から八本松駅に向かって22.6[[パーミル|&amp;amp;permil;]]（パーミル）&amp;lt;ref&amp;gt;1000メートルあたり22.6メートルの高低差。&amp;lt;/ref&amp;gt;の連続急勾配区間となった。ルート決定に対し、別案として現在の[[芸備線]]沿いを通る緩勾配案や[[熊野町]]を抜けるルートも検討されていた&amp;lt;ref&amp;gt;『広島駅七十年のあゆみ』4ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。開業時の時代背景として、[[日清戦争]]開戦直前で、軍部がルート変更をしてはいけないとする強い意向も存在した事実もある&amp;lt;ref&amp;gt;中国新聞 夕刊1972年7月26日 P.6&amp;lt;/ref&amp;gt;。このため[[蒸気機関車]]時代から現在の[[電気機関車]]に至るまで、開業以来上り列車には[[補助機関車]]（補機）を連結する[[ボトルネック]]区間となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[八本松駅]]から[[瀬野駅]]の間には『JR西日本 八本松変電所』と『JR西日本 瀬野変電所』の2カ所の変電所が整備され、上り側は[[架空電車線方式|架線]]がツインシンプルカテナリー式になっている。また以前は、[[瀬野駅]]に隣接して[[1894年]]から[[1986年]]まで補機を駐在させるために[[瀬野機関区]]が、また中間地点には[[1912年]]から[[1939年]]まで[[上瀬野信号所]]が存在した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
ファイル:Seno-hendensyo-20120923.JPG|瀬野変電所&lt;br /&gt;
ファイル:Hachihommatsu-hendensyo-20121013.JPG|八本松変電所&lt;br /&gt;
ファイル:Seno-kikanku monument.jpg|瀬野機関区跡&lt;br /&gt;
ファイル:Kamiseno Shingosho 20120923-1.JPG|上瀬野信号所跡&lt;br /&gt;
ファイル:Senohachi Overhead lines 20121013.JPG|架線は下り側（手前側）はシンプルカテナリー式に対して、上り側（奥側）はツインシンプルカテナリー式になっている&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 運用 ===&lt;br /&gt;
現在は補機を連結するのは貨物列車のみであるが、かつては旅客列車や荷物列車にも補機が連結されたほか、[[2002年]]まで一部列車では走行中補機解放が八本松駅構内下関側で行われていた&amp;lt;ref&amp;gt;過去には[[1930年]]10月に運転を開始した特急「[[つばめ (列車)|燕]]」が、[[1934年]]12月の[[丹那トンネル]]開通以前は現・[[御殿場線]]の勾配区間経由とされていたため下り上りとも[[御殿場駅]]構内で、[[1943年]]10月の[[太平洋戦争]]激化による廃止まで25&amp;amp;permil;の勾配が存在していた下り[[大垣駅]] - [[関ヶ原駅]]間対応後[[柏原駅 (滋賀県)|柏原駅]]構内で、それぞれ走行中補機解放を行っていた事例がある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。このため、補機専用機関車は、[[国鉄EF67形電気機関車|EF67形]]100番台をのぞき、[[連結器]]解錠用テコにシリンダを装備して走行中解放に対応したほか、EF61形200番台・EF67形基本番台の貨車連結側となる[[東京駅|東京]]方にはデッキを装備している。&lt;br /&gt;
現在では補機の連結・解放は瀬野駅や八本松駅では行われておらず、[[広島貨物ターミナル駅]]で連結され、[[西条駅 (広島県)|西条駅]]で解放している。瀬野駅構内には、本区間で使用する補機を配置する[[瀬野機関区]]があったが[[1987年]]に廃止され、広島貨物ターミナル駅近くにある[[広島機関区]]に統合された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1962年]]の[[鉄道の電化|電化]]後は、[[国鉄EF53形電気機関車|EF53形]]・[[国鉄EF56形電気機関車|EF56形]]を改造した[[国鉄EF59形電気機関車|EF59形]]ならびに[[国鉄EF61形電気機関車|EF61形]]を投入。従来の[[動力集中方式|機関車牽引列車]]のみならず、[[動力分散方式]]の[[国鉄181系電車#151系|151系電車]]を使用した[[特別急行列車|特急]]「[[つばめ (列車)|つばめ]]」や[[国鉄153系電車|153系電車]]による[[急行列車|急行]]にも、搭載するMT46形[[主電動機]]の1時間[[定格]]出力が100[[ワット|kW]]のため[[MT比]]1:1では出力が不足することや[[オーバーロード|過負荷]]による主電動機の異常過熱が問題&amp;lt;ref&amp;gt;電動車を増やせば自力登坂も可能だが、編成が変わり他の列車と共通に使用できなくなる、電気を多く使用し不経済であるなどのデメリットや[[変電所]]容量などでも問題があるため補機連結策が採用された。&amp;lt;/ref&amp;gt;となり、補機が連結された（「[[山陽本線優等列車沿革]]」の項目も参照）&amp;lt;ref name=&amp;quot;railj20120791&amp;quot;&amp;gt;[[鉄道ジャーナル]]「国鉄車両の現在 3.115系」杉本聖一、p.91&amp;lt;/ref&amp;gt;。機関車は自動連結器、153系電車は密着連結器のため、神戸方密着連結器・下関方自動連結器としたアダプター的な意味合いの[[控車]]とした湘南色塗装の[[国鉄スハ32系客車#職用車|オヤ35形（0番台）]]を連結した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後に1時間定格出力120kWのMT54形主電動機が開発され、151系電車は181系電車に改造の際にMT54形に換装。153系電車は一部が165系電車に置き換えられた他、引き続き153系が使用された列車は付随車を減車してMT比を3：2とすることで対応し、本区間での補機連結は発展的解消を遂げた。しかし、国鉄末期の短編成化でMT比が1：1となって以降、本区間の営業運転には[[抑速ブレーキ]]とノッチ戻し制御を装備した車両に限定しているため、[[近郊形車両|近郊形電車]]は平坦線用の[[国鉄113系電車|113系電車]]ではなく[[国鉄115系電車|115系電車]]が投入されるほか&amp;lt;ref name=&amp;quot;railj20120791&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;国鉄時代末期までは6両編成が基本でMT比が2：1だったため、抑速ブレーキのない[[国鉄80系電車|80系]]・153系・111／113系が瀬野八を超えていた。&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[国鉄103系電車|103系電車]]が瀬野で[[広島駅|広島]]方面へ折り返すのも同様の理由である。また、2013年にJR西日本から発表された広島地区新車投入計画においても、関西地区に大量投入されている[[JR西日本225系電車|225系0番台]]などをそのまま投入するのではなく、瀬野八対策を考慮した別設計になることが予定されている&amp;lt;ref&amp;gt;天神川駅開業による記念列車では、特別に貸し出された223系が瀬野八を超えている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 電力設備増強工事 ===&lt;br /&gt;
本区間周辺では、2002年度より[[水島臨海鉄道]]を事業主体とした電力設備等増強工事が行われた。これは、JR貨物在籍電気機関車中で最大出力となる[[JR貨物EF200形電気機関車|EF200形]]（1時間定格出力6,000kW）を用いて本区間で最大1,300tの重量級貨物列車の運転を行うためのものであり、この工事によりEF200形は従来変電設備の制約により課せられていた出力制限を解除する目的があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
具体的な工事内容としては、八本松[[変電所]]の変電能力増強工事のほか、EF67形電気機関車の解放作業・待避を行う西条駅の[[有効長]]を1300t列車対応とするための延伸工事などである。&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--なお、これはあくまでも試作車であるEF200-901によるデータ収集で得られた1,100t牽引成功の実績に基づく計画で、実際に1,300t牽引を行うにはEF200形に加えて後押し補機（EF67形）の使用が前提にとなると見られる。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この工事は[[2007年]]2月に完成し、同年[[3月18日]]のダイヤ改正より[[国鉄EF66形電気機関車|EF66形]]・EF200形・[[JR貨物EF210形電気機関車|EF210形]]による1,300t列車の運用が開始されたが、2009年9月現在でも、EF200形の出力はEF66形・EF210形と同等に抑えられる出力制限は解除されていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 後部補機 ==&lt;br /&gt;
=== 蒸気機関車時代の補機 ===&lt;br /&gt;
* [[国鉄8350形蒸気機関車|8350形]]&lt;br /&gt;
* [[国鉄8450形蒸気機関車|8450形]]&lt;br /&gt;
* [[国鉄2100形蒸気機関車|2120形（B6）]]&lt;br /&gt;
* 2900形&lt;br /&gt;
* [[国鉄9600形蒸気機関車|9600形]]&lt;br /&gt;
* [[国鉄D50形蒸気機関車|D50形]]&lt;br /&gt;
* [[国鉄C52形蒸気機関車|C52形]]&lt;br /&gt;
* [[国鉄D52形蒸気機関車|D52形]]&lt;br /&gt;
* [[国鉄C59形蒸気機関車|C59形]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 電気機関車時代の補機 ===&lt;br /&gt;
* [[国鉄EF59形電気機関車|EF59形]]&lt;br /&gt;
* [[国鉄EF61形電気機関車|EF61形]]（0番台・200番台）&lt;br /&gt;
* [[国鉄EF67形電気機関車|EF67形]]（0番台・100番台）&lt;br /&gt;
* [[JR貨物EF210形電気機関車|EF210形]]（300番台）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ごく短期間だが、[[国鉄EF58形電気機関車|EF58形]]や[[1964年]]の山陽本線[[横川駅 (広島県)|横川]] - 小郡（現・[[新山口駅|新山口]]）間電化まで、東京 - 九州間[[寝台列車|寝台]]特急牽引運用の昼間時間帯[[間合い運用|間合い]]で[[国鉄EF60形電気機関車#500番台|EF60形500番台]]も投入された。&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
File:Bw ef59 21 push nire seno-hati.jpg|荷物列車の後補機運用中のEF59 21（1984年）&lt;br /&gt;
File:JNR ef61 204fc push seno-hati.jpg|貨物列車の後補機運用中のEF61 204（1984年）&lt;br /&gt;
File:Bw ef67 1fc push seno-hati.jpg|貨物列車の後補機運用中のEF67 1（1984年）&lt;br /&gt;
File:EF210-301 20121028-2a.JPG|イベントで展示中のEF210 301（2012年）&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 本区間を題材にした出版物 ==&lt;br /&gt;
* [[推理小説]]『特急[[さくら (列車)|さくら]]殺人事件』：[[西村京太郎]] - 本区間での走行中解放をトリックに使用。&lt;br /&gt;
* 漫画『[[カレチ]]』：池田邦彦 - 第16話「セノハチ」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 椎橋俊之「「SL甲組」の肖像 第42回 瀬野機関区 西の函嶺を押し上げる」『[[レイルマガジン|Rail Magazine]]』[[ネコ・パブリッシング]]、2007年9月号 No.288、p.51 - p.68&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[広島シティネットワーク]]&lt;br /&gt;
* [[新垂井駅]] : 勾配緩和のため増設された[[東海道本線]]の迂回経路にあった駅。&lt;br /&gt;
* [[碓氷峠]] : かつて、[[信越本線]]の列車が同区間において補機を使用していた。&lt;br /&gt;
* [[板谷峠]] : かつて、[[奥羽本線]]の列車が同区間において補機を使用していた。&lt;br /&gt;
* [[御殿場線]] : かつて、同線（当時は東海道本線）の「函嶺越え」区間において補機を使用していた。&lt;br /&gt;
* [[日本の峠一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
{{Commonscat|Senohachi}}&lt;br /&gt;
* {{外部リンク/JR西日本駅|0800609|瀬野}}&lt;br /&gt;
* {{外部リンク/JR西日本駅|0800608|八本松}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Rail-stub}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:せのはち}}&lt;br /&gt;
[[Category:広島県の峠]]&lt;br /&gt;
[[Category:安芸区の地理]]&lt;br /&gt;
[[Category:安芸区の交通]]&lt;br /&gt;
[[Category:東広島市の交通]]&lt;br /&gt;
[[Category:山陽本線]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>180.5.197.143</name></author>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E3%82%AB%E3%83%96%E3%83%88%E3%82%AC%E3%83%8B%E5%8F%B7&amp;diff=145559</id>
		<title>カブトガニ号</title>
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		<updated>2014-04-17T03:51:25Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;180.5.197.143: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
[[画像:Ikasa-RW-bus Kabutogani-go.jpg|thumbnail|260px|カブトガニ号（井笠鉄道時代）]]&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;カブトガニ号&#039;&#039;&#039;（カブトガニごう）は、[[中国バス]]が運行する、[[大阪府]][[大阪市]]と[[岡山県]][[浅口市]]・[[浅口郡]][[里庄町]]・[[笠岡市]]・[[小田郡]][[矢掛町]]・[[井原市]]・[[広島県]][[福山市]]（神辺地域）を結ぶ[[高速バス]]路線。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
愛称は、笠岡市に生息する[[カブトガニ]]から。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
全便予約制で、席は自由席（定員制）。ただし当日&#039;&#039;&#039;空席がある場合&#039;&#039;&#039;予約なしでも乗車可。&lt;br /&gt;
なお、中国バスへの移管に伴い、井笠鉄道発行の乗車券、回数券等は全て無効となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
*[[1998年]][[3月10日]] - [[井笠鉄道]]により2往復で運行開始。&lt;br /&gt;
*[[2002年]][[8月5日]] - 3往復に増便。&lt;br /&gt;
* [[2012年]][[10月31日]] - この日限りで井笠鉄道がバス事業廃止により撤退。翌日より運行本数・時刻はそのままに中国バスが路線を承継。&amp;lt;ref&amp;gt;{{PDFlink|[http://www4.ocn.ne.jp/~ikasa/pdf/203X_121011final.pdf 弊社バス事業終了のお知らせ]|井笠鉄道 2012年10月12日}}{{リンク切れ|date=2012年11月}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
*[[2013年]][[3月16日]] - [[ユニバーサル・スタジオ・ジャパン|USJ]]、[[大阪上本町駅|上本町バスセンター]]への乗り入れを廃止し、大阪市内の発着地が [[JR難波駅|なんば]]([[大阪シティエアターミナル|OCAT]]) - [[大阪駅・梅田駅周辺バスのりば#大阪駅前（地下鉄東梅田駅）停留所（近鉄バス）|大阪駅前（地下鉄東梅田）]]に変更。&lt;br /&gt;
*[[2014年]][[4月1日]] - 美の浜バスターミナル・総合卸売市場前停留所を新設、備中県民局井笠支局前・御野学校前停留所を廃止。井原バスセンター改築工事に伴い、[[井原鉄道]][[井原鉄道井原線|井原線]]・[[井原駅 (岡山県)|井原駅]]経由に変更。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 運行会社 ==&lt;br /&gt;
;[[中国バス]]&lt;br /&gt;
*2013年9月30日までは井笠バス福山カンパニー福山東営業所（旧井笠鉄道福山自動車営業所）が昼行3往復を担当しているが、同営業所が井笠バスカンパニー（中国バスの子会社）に移管される10月以降は福山営業所が担当。&lt;br /&gt;
*大阪での予約・発券・運行支援業務は[[近鉄バス]][[近鉄バス布施営業所|布施営業所]]が担当。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==停車停留所==&lt;br /&gt;
（停留所 - 停留所）でくくられた中での相互乗降はできない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*（&#039;&#039;&#039; [[JR難波駅|なんば]]([[大阪シティエアターミナル|OCAT]]) &#039;&#039;&#039; -[[大阪駅・梅田駅周辺バスのりば#大阪駅前（地下鉄東梅田駅）停留所（近鉄バス）|大阪駅前（地下鉄東梅田）]]） - （鴨方天草 - [[里庄駅]]前 - 美の浜バスターミナル - 総合卸売市場前 - [[笠岡市]]役所前 - 追分 - 新山（[[井笠鉄道記念館]]前） - 小田西 - 青木東 - [[井原駅 (岡山県)|井原駅]]2番のりば - [[子守唄の里高屋駅|高屋]] - &#039;&#039;&#039;神辺（[[福山市役所#支所|福山市役所神辺支所]]前）&#039;&#039;&#039;）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 運行経路 ==&lt;br /&gt;
*大阪市浪速区内（なんば） - 阪神高速道路 - 大阪市北区内（東梅田） - 阪神高速道路 - [[中国自動車道]] - [[山陽自動車道]] - 浅口市内 - 笠岡市内 - - 矢掛町内（小田西） - 井原市内 - 福山市（神辺地域）内&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 途中休憩 ==&lt;br /&gt;
*[[瀬戸パーキングエリア|瀬戸PA]]で休憩する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 車内設備 ==&lt;br /&gt;
*4列シート&lt;br /&gt;
*トイレ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 注釈 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
*[http://www.chugokubus.jp/01highwaybus/01highwaybus21.html カブトガニ号]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{bus-stub}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:かふとかにこう}}&lt;br /&gt;
[[Category:高速バス路線]]&lt;br /&gt;
[[Category:中国バス]]&lt;br /&gt;
[[Category:井笠鉄道]]&lt;br /&gt;
[[Category:近鉄バス]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>180.5.197.143</name></author>
	</entry>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E5%8E%9F%E7%88%86%E6%AD%BB%E6%B2%A1%E8%80%85%E6%85%B0%E9%9C%8A%E7%A2%91&amp;diff=146545</id>
		<title>原爆死没者慰霊碑</title>
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		<updated>2014-04-08T07:24:55Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;180.5.197.143: /* 建立の経緯 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Vertical_images_list&lt;br /&gt;
|幅= 240px&lt;br /&gt;
| 1=Cenotaph Hiroshima.jpg&lt;br /&gt;
| 2=原爆死没者慰霊碑（2006年4月）&lt;br /&gt;
| 3=HiroshimaCenotaph 2008 01.JPG&lt;br /&gt;
| 4=原爆死没者慰霊碑&lt;br /&gt;
| 5=Hiroshima Peace Memorial Park 1988.jpg&lt;br /&gt;
| 6=1988年の平和公園周辺。{{国土航空写真}}中央の緑部分（芝生）上に慰霊碑がある。&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;原爆死没者慰霊碑&#039;&#039;&#039;（げんばくしぼつしゃいれいひ）は、[[広島県]][[広島市]]の[[広島平和記念公園]]内に設置されている慰霊碑の名称。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
正式な名称は「&#039;&#039;&#039;広島平和都市記念碑&#039;&#039;&#039;」であるが、通称の「原爆死没者慰霊碑」として、よく知られている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 建立の経緯 ==&lt;br /&gt;
[[慰霊碑]]は1949年に成立した[[広島平和記念都市建設法]]の精神に則り、建立が計画された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
慰霊碑の設計は[[丹下健三]]（当時[[東京大学]]助教授）が担当。平和記念公園の敷地内の、[[広島平和記念資料館]]と[[原爆ドーム]]を結ぶ直線上に設置されている。原爆犠牲者の霊を雨露から守りたいという趣旨から、屋根の部分が[[埴輪|はにわ]]の家型をしている。中央の石室（石棺）には、国内外を問わず、亡くなった原爆被爆者すべての[[人名|氏名]]を記帳した名簿が納められている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
慰霊碑のデザインは、丹下健三が推薦した前衛彫刻家[[イサム・ノグチ]]の案に一旦は内定した。ノグチのデザインは、原爆ドームを望む巨大なアーチ型の碑で、地上部分だけでなく大きな地下空間をも擁するものであった。しかし、丹下の恩師でもある[[岸田日出刀]]らが、[[日系アメリカ人]]というノグチの出自を理由に難色を示す意見を強硬に主張したため、ノグチ案を生かした形で丹下が再デザインすることになった。建設当時の屋根は[[コンクリート]]製であったが、老朽化のため1985年に一時撤去ののち&amp;lt;ref&amp;gt;改築期間中は、前方に木製で同型の慰霊碑と碑文入り奉安箱を仮設した。&amp;lt;/ref&amp;gt;現在の御影石製に改築されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の広島市長[[浜井信三]]は、米国[[アーリントン国立墓地|アーリントン公園]]の[[無名戦士の墓]]の慰霊碑に感動し、広島の慰霊碑にもぜひ碑文を刻みたいと思ったが、この碑に盛り込もうとしたのは「誓い」と「祈り」であった。&lt;br /&gt;
石碑の碑文は、雑賀忠義[[広島大学]]教授が浜井の依頼を受けて提案、揮毫した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 原爆死没者名簿 ==&lt;br /&gt;
原爆死没者慰霊碑に納められる「[[原爆死没者名簿]]」は、関係者の申し出により毎年書き加えられている。記載数27万5230人（2011年8月6日現在）&amp;lt;ref&amp;gt;広島市／原爆死没者名簿について[http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/0000000000000/1283234802275/index.html]2011年10月26日閲覧&amp;lt;/ref&amp;gt;は、広島市により確認された「死没者総数」である。新規登録者数の推移を見ると、存命する[[被爆者]]が少なくなりつつあることがわかる。&amp;lt;ref&amp;gt;なお原爆による「犠牲者数」については、今日に至るまでさまざまな議論や検討がなされている。1976年11月 国連報告では、原爆による死者・行方不明者：広島14万±1万人（1945年12月末まで）としている。（国連報告に記載された犠牲者数は、1945年末までの限定であり、また[[被爆]]から数年後に発症し死亡した[[白血病]]患者を含まない）&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
* 1949年、 広島平和記念都市建設法公布。&lt;br /&gt;
* 1952年7月22日、慰霊碑碑文の決定。&lt;br /&gt;
* 1952年8月6日、原爆死没者慰霊碑の除幕式。&lt;br /&gt;
* 1969年、碑文論争。&lt;br /&gt;
* 1970年、被爆死した捕虜米兵（ロンサム・レディ号射撃手ジョン・ロング伍長）の名が原爆死没者名簿に記帳され奉納される。&lt;br /&gt;
* 1971年4月16日、[[昭和天皇]]が初めて参拝する。&lt;br /&gt;
* 1971年8月6日、[[佐藤栄作]]が歴代の総理大臣で初めて平和式典に出席する。&lt;br /&gt;
* 2005年、[[原爆慰霊碑破損事件]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 碑文論争 ==&lt;br /&gt;
慰霊碑の石碑前面には、「&#039;&#039;&#039;安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから&#039;&#039;&#039;」と刻まれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この文章は、自身も被爆者である雑賀忠義広島大学教授（当時）が撰文・揮毫したもの。浜井信三広島市長が述べた「この碑の前にぬかずく1人1人が過失の責任の一端をにない、犠牲者にわび、再び過ちを繰返さぬように深く心に誓うことのみが、ただ1つの平和への道であり、犠牲者へのこよなき手向けとなる」に準じたものであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この「『過ち』は誰が犯したものであるか」については、建立以前から議論があった。[[1952年]]8月2日、[[広島市議会]]において浜井市長は「原爆慰霊碑文の『過ち』とは戦争という人類の破滅と文明の破壊を意味している」と答弁している。同年8月10日の中国新聞には「碑文は原爆投下の責任を明確にしていない」「原爆を投下したのは米国であるから、過ちは繰返させませんからとすべきだ」との投書が掲載された。これにはすぐに複数の反論の投書があり、「広く人類全体の誓い」であるとの意見が寄せられた。浜井市長も「誰のせいでこうなったかの詮索ではなく、こんなひどいことは人間の世界にふたたびあってはならない」と、主語は人類全体とする現在の広島市の見解に通じる主張がなされている&amp;lt;ref&amp;gt;浜井信三追想録&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[インド人]][[法学者]]の[[ラダ・ビノード・パール]]（[[極東国際軍事裁判]]の判事）は、同年11月3日から4日間、講演のため広島を訪問した。慰霊碑を訪れる前日4日の講演(世界連邦アジア会議)でも、「広島、長崎に原爆が投ぜられたとき、どのようないいわけがされたか、何のために投ぜられなければならなかったか。」&amp;lt;ref&amp;gt;毎日新聞1952年11月4日&amp;lt;/ref&amp;gt;と、原爆投下と、投下を正当化する主張を強く批判していた。そして5日に慰霊碑を訪れた際、献花と黙祷の後に、通訳を介して碑文の内容を聞くと「&#039;&#039;原爆を落としたのは[[日本人]]ではない。落とした[[アメリカ合衆国#国民|アメリカ人]]の手は、まだ清められていない&#039;&#039;」と、日本人が日本人に謝罪していると解釈し非難した。{{main2|詳細は[[ラダ・ビノード・パール]]を}}これを聞いた雑賀は、同年11月10日パールに「広島市民であると共に世界市民であるわれわれが、過ちを繰返さないと誓う。これは全人類の過去、現在、未来に通ずる広島市民の感情であり良心の叫びである。『原爆投下は広島市民の過ちではない』とは世界市民に通じない言葉だ。そんなせせこましい立場に立つ時は過ちを繰返さぬことは不可能になり、霊前でものをいう資格はない。」&amp;lt;ref&amp;gt;『ヒロシマの記録―年表・資料編』／『アメリカの影』(p323)&amp;lt;/ref&amp;gt;との抗議文を送った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このことをきっかけとして、主語は原爆死没者か日本人かアメリカ人もしくは世界人類か、「誰」が過ちを繰り返さないといっているのか。「繰返しませぬから」か「繰り返させませぬ」かといった碑文論争が行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお雑賀による碑文の英訳は「Let all the souls here rest in peace ; For we shall not repeat the evil」で、主語は“We”（われわれは）、これは「広島市民」であると同時に「全ての人々」（世界市民である人類全体）を意味すると、雑賀が1952年11月に広島大学教養部での講義などで述べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*開戦時の雑賀&lt;br /&gt;
:[[真珠湾攻撃]]の報道を受けたとき、当時の大多数の日本国民は開戦に狂喜したのが実情だった。&lt;br /&gt;
:雑賀忠義もその一人で、[[山田風太郎]]は『同日同刻』において、「その朝の授業は、鬼のあだ名で文科生にもっとも畏怖された雑賀教授の英語だった。廊下のマイクが臨時ニュースを伝えると、教授は廊下に飛び出して、頓狂な声で『万歳』を叫んだ」と記している&amp;lt;ref&amp;gt;名越二荒之助/拳骨拓史共著『これだけは伝えたい武士道のこころ』p234,235&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像:HiroshimaCenotaphDefaced Japanese.JPG|thumb|240px|以前設置されていた慰霊碑碑文の説明板。現在は8ヶ国語表記になったためアクリル板表記になっているが、主旨は同じ]]&lt;br /&gt;
[[1970年]]2月11日には、「碑文は犠牲者の霊を冒涜している」と主張する「原爆慰霊碑を正す会」（岩田幸雄会長、[[児玉誉士夫]]顧問、[[荒木武]]相談役）なる市民グループによって碑文の抹消・改正を要求する運動が盛り上がった事があった。また、この運動を[[軍国主義]]的・[[民族主義]]的主張であると反発する市民グループが対抗して「碑文を守る会」を結成し、激しい論戦が繰り広げられた。この運動に対して、時の市長[[山田節男]]は「再びヒロシマを繰返すなという悲願は人類のものである。主語は『世界人類』であり、碑文は人類全体に対する警告・戒めである」という見解を示した。この見解が出されて以降、碑文の意図するところは、「[[日本]]」「[[アメリカ合衆国|アメリカ]]」といった特定の国の枠を超えて、全ての人間が再び[[核戦争]]をしないことを誓うためのものである、とする解釈が公式見解となった&amp;lt;ref&amp;gt;日本原爆論大系第7巻第2章&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、[[1983年]]には、慰霊碑に主語として[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]と記された札が貼り付けられる事件が発生、これを受けて広島市は、浜井市長の答弁を基にした説明版（日本語と英語で表記）を慰霊碑西側の池の中に設置した。説明板では「&#039;&#039;碑文はすべての人びとが、原爆犠牲者の冥福を祈り、戦争という過ちを再び繰り返さないことを誓う言葉である。&#039;&#039;」とあり、犠牲者への冥福と不戦の誓いの言葉であると解説されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上の経緯を経て、「碑文の主語は人類」が公式見解となり、大きな論争は無くなったと見られたが、現在も碑文は「日本人の過ち」と解釈される、もしくは「世界市民」という思想に批判的などの理由で、広島市側の見解が受け入れられていない事例も存在している。&amp;lt;ref&amp;gt;[[産経新聞]]は、2005年の原爆慰霊碑破損事件を受けた[[広島市長平和宣言]]で碑文の文言が触れられた事に対し、パール判事の言葉を引用し「（すべて日本が悪かったと）謝罪の呪縛にとらわれているとすれば残念である」と、碑文を[[自虐史観]]に基づく指向であると批判している（2005年[[8月7日]]付[[社説]]『主張』）。また、2007年に[[久間章生]][[防衛大臣]]（当時）の「原爆投下はしようがない」発言が問題となった際にも、原爆慰霊碑の碑文が「素直に読めば、原爆投下は、日本人に責任があるということになる」と批判した（2007年[[7月2日]]付[[コラム]]『産経抄』）。&amp;lt;/ref&amp;gt;また、碑文の解釈に大きな論争が起きること自体、碑文の文章に問題があるという意見や、現在もアメリカ人の過半数は広島原爆投下を正しいと考えているのだから&amp;lt;ref&amp;gt;アメリカ人に「広島・長崎原爆投下」について聞いた最新の世論調査が、「正しかった」と答えたアメリカ人は61％、「間違いだった」は22％、「分からない」「答えない」が16％となっている。http://sankei.jp.msn.com/world/america/100403/amr1004031802002-n3.htm&lt;br /&gt;
&amp;lt;/ref&amp;gt;碑文の主語にアメリカ人を含めるのは妥当でないという意見も存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 事件 ==&lt;br /&gt;
[[画像:HiroshimaCenotaphDefaced7006.jpg|thumb|240px|傷つけられた慰霊碑（2005年8月）]]&lt;br /&gt;
{{main2|事件の詳細については[[原爆慰霊碑破損事件]]を}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
慰霊碑への犯罪行為は何度か繰り返されている。慰霊碑に塗料がかけられたり、主語として[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]大統領と書かれた札が貼り付けられたりした。[[2002年]]3月5日にかけられた赤ペンキは中の死没者名簿にまで達した。[[2005年]][[7月26日]]にも、27歳の右翼団体構成員が、慰霊碑の碑文「安らかに眠って下さい 過ちは 繰（くり）返しませぬから」の「過ちは」の部分に[[原爆慰霊碑破損事件|ハンマーで傷を付ける事件]]が起き、初めて慰霊碑そのものを新造交換することとなり、[[戦後]]60年を経てもなお癒えない、原爆という災禍の日本に与えた複雑な影響を内外に知らしめることとなった。2009年にも同じ動機で&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp0-20091019-557208.html 誠臣塾構成員が原爆慰霊碑の花投げ捨てる] 日刊スポーツ2009年10月19日&amp;lt;/ref&amp;gt;慰霊碑にささげられた花束を投げ捨てたため、[[礼拝所及び墳墓に関する罪|礼拝所不敬罪]]で検挙される事件も発生した。さらに2012年1月4日には、慰霊碑に金色の塗料が噴きかけられる事件が発生する&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120104-OYT1T00145.htm 広島の原爆死没者慰霊碑、金色の塗料かけられる] YOMIURI ONLINE 2012年1月4日&amp;lt;/ref&amp;gt;等、過去{{いつ|date=2012年9月}}5回の破壊行為に遭っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 皇族の原爆慰霊碑への訪問 ==&lt;br /&gt;
[[昭和天皇]]は、戦後初の[[ヨーロッパ]]歴訪を前に1971年4月15日に広島を訪れ、[[永野厳雄]]広島県知事の説明に対し「原爆にあった被爆患者には、今後も援助、援護の手をさしのべるよう一層の努力をするように」 と述べ、4月16日に昭和天皇・皇后夫妻が初めて原爆慰霊碑に参拝した。天皇は被爆者に対し「昭和22年に原爆を受けた当地を訪ね、親しく被災者に面接し、同情に耐えず、世界平和の続く事を思いましたが、今なお療養を続けている多数の市民のある事を聞き、胸のせまる思いがします。今後は互いに明るい気持ちを持って療養を続け、すみやかに元気な姿になる事を希望してやみません」と述べた&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20100715100357973_ja ヒロシマの記憶1971年4月]&amp;lt;/ref&amp;gt;。『[[はだしのゲン]]』の作者・[[中沢啓治]]は[[昭和天皇の戦争責任]]を主張しており、これらの行為を「広島の式典に参列する事によって天皇の戦争責任を[[免罪符]]にする行為」「大人しい被爆者を選んで天皇の前に座らせて儀式をしている」と激しく非難している&amp;lt;ref&amp;gt;「はだしのゲン　自伝」の207・208ページ。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時、天皇来広に反発する被爆者青年同盟などと原爆慰霊碑の「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」の抹消を求める右翼グループの鋭い対立を生んだ。右翼は「両陛下が慰霊碑に参拝されるのは屈辱だ」 と述べた。同年の3月に被爆者青年同盟、広島部落解放研究連合、広島青年アジア研究会の「三団体連絡会議」（土屋稔代表）の三団体は「天皇の来広は被爆者の怨念を慰撫することにより、被爆者に対する国家責任をあいまいにし、核アレルギーを解消させようとするものだ」と述べ、一方 広島県被団協の森滝市郎理事長は「原爆の問題が人々の記憶から遠のきかけているとき、両陛下においでいただくことは大きな意味がある。できれば原爆資料館を見学していただきたい」 と述べた&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20100715100357973_ja ヒロシマの記憶1971年3月]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1974年秋の園遊会で昭和天皇は重藤文夫広島原爆病院長に伝言し「患者の方々によろしく伝えて下さい」と激励した&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20100712141420221_ja ヒロシマの記憶1974年10月]&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし翌年1975年10月31日、昭和天皇は記者会見の際に「この原子爆弾が投下されたことの対して遺憾に思っていますが、こういう戦争中であることですから広島市民に対して気の毒であるが、やむをえないことと思います。」と返答し、問題となった。広島県被団協の森滝市郎は宮内庁に抗議文を出し[[宇佐美毅 (宮内庁長官)|宇佐美毅]]がそれに返答している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[明仁|今上天皇]]は皇太子時代に戦後4度も広島市を訪問しており、その内の3回[[1960年]]の8月、[[1968年]]の7月、[[1978年]]の7月に原爆慰霊碑・広島赤十字・原爆病院に訪問している&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20100525100726945_ja ヒロシマの記憶1989年1月]&amp;lt;/ref&amp;gt;。「私は終戦記念日、8月6日の広島、9日の長崎の原爆の日、そして沖縄戦が終わった6月23日の4回、毎年、黙とうをしている」「遺族のことなどを考えるとやはり黙とうしてしまいます。広島原爆投下の日にはテレビをつけて一緒に黙とうします。戦争は2度とあってはならないことです」と述べている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20100618104048869_ja ヒロシマの記憶1981年8月]&amp;lt;/ref&amp;gt;。天皇の即位後の[[1995年]]に原爆慰霊碑に訪問した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また[[皇太子徳仁親王]]や、秩父宮、高松宮、三笠宮、常陸宮、秋篠宮などの皇族が訪れている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連論文 ==&lt;br /&gt;
* [[竹村信治]]（広島大学教育学部教授） 『北畠豊彦氏寄託「原爆死没者慰霊碑碑文色紙」（昭和32年末〜33年初頃） 解題』&lt;br /&gt;
** [http://home.hiroshima-u.ac.jp/takenokonome/pu.htm 『プロブレマティーク（Proble&#039;mati&#039;que） 文学／教育』] VI （第6号） 2005年10月、所収。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 注釈 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[広島市への原子爆弾投下]]&lt;br /&gt;
* [[原爆慰霊碑破損事件]]&lt;br /&gt;
* [[長崎市への原子爆弾投下]]&lt;br /&gt;
* [[平和祈念像]]&lt;br /&gt;
* [[太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊塔]]&lt;br /&gt;
* [[戦争祈念施設]]&lt;br /&gt;
* [[いしぶみ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
{{Commonscat|Hiroshima Cenotaph}}&lt;br /&gt;
* [http://www.city.hiroshima.jp/www/contents/0000000000000/1110964099229/index.html 原爆死没者名簿について]（広島市）&lt;br /&gt;
* [http://yutaka901.web.infoseek.co.jp/page2ax2.html 2a2 原爆死没者慰霊碑]&lt;br /&gt;
* [http://web.archive.org/20030907090922/homepage.mac.com/misaon1/hamayuu/hibunronso.html 原爆慰霊碑碑文論争]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{広島平和記念公園}}&lt;br /&gt;
{{ウィキ座標2段度分秒|34|23|34.7|N|132|27|9.2|E|type:landmark_scale:1000_region:JP|display=title}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:けんはくしほつしやいれいひ}}&lt;br /&gt;
[[Category:広島平和記念公園]]&lt;br /&gt;
[[Category:慰霊碑]]&lt;br /&gt;
[[Category:広島市の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:丹下健三]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本のモニュメントと記念建造物]]&lt;br /&gt;
{{Peace-stub}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>180.5.197.143</name></author>
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		<title>田丸仁</title>
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		<updated>2014-03-21T07:15:12Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;180.5.197.143: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Infobox baseball player&lt;br /&gt;
|選手名             = 田丸 仁&lt;br /&gt;
|英語表記           = &lt;br /&gt;
|所属球団           = &lt;br /&gt;
|背番号             = &lt;br /&gt;
|選手写真ファイル名 = &lt;br /&gt;
|写真サイズ         = &lt;br /&gt;
|写真のコメント     = &lt;br /&gt;
|国籍               = &lt;br /&gt;
|出身地             = [[神奈川県]][[川崎市]]&lt;br /&gt;
|生年月日           = {{生年月日と年齢|1926|10|14|no}}&lt;br /&gt;
|没年月日           = {{死亡年月日と没年齢|1926|10|14|1993|2|2}}&lt;br /&gt;
|身長               = &lt;br /&gt;
|体重               = &lt;br /&gt;
|利き腕             = &lt;br /&gt;
|打席               = &lt;br /&gt;
|守備位置           = [[二塁手]]&lt;br /&gt;
|プロ入り年度       = &lt;br /&gt;
|ドラフト順位       = &lt;br /&gt;
|初出場             = &lt;br /&gt;
|最終出場           = &lt;br /&gt;
|年俸               = &lt;br /&gt;
|経歴               = &amp;lt;nowiki&amp;gt;&amp;lt;/nowiki&amp;gt;&lt;br /&gt;
* [[立正中学校・高等学校|立正中]]&lt;br /&gt;
* [[法政大学野球部|法政大学]]&lt;br /&gt;
|経歴補足題         = 監督・コーチ歴&lt;br /&gt;
|経歴補足           = &amp;lt;nowiki&amp;gt;&amp;lt;/nowiki&amp;gt;&lt;br /&gt;
* [[法政大学第二中・高等学校|法政二高]]&lt;br /&gt;
* 法政大学&lt;br /&gt;
* [[千葉ロッテマリーンズ|東京オリオンズ&amp;lt;br&amp;gt;ロッテオリオンズ]] (1965 - 1967, 1974 - 1975)&lt;br /&gt;
|選出国             = &lt;br /&gt;
|選出年             = &lt;br /&gt;
|得票率             = &lt;br /&gt;
|選出方法           = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;田丸 仁&#039;&#039;&#039;（たまる ひとし、 [[1926年]][[10月14日]] - [[1993年]][[2月2日]]）は、[[神奈川県]][[川崎市]]出身の[[プロ野球監督]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 来歴・人物 ==&lt;br /&gt;
立正中（現・[[立正中学校・高等学校|立正高]]）から[[法政大学]]に進んだ。[[アキレス腱]]断裂の重傷を負ったため選手を断念。[[法政大学第二中・高等学校|法政二高]]の監督として[[1960年]]の甲子園大会、[[1961年]]の選抜大会で連覇。1961年に[[法政大学野球部]]の監督、[[1965年]]に[[千葉ロッテマリーンズ|東京オリオンズ]]の二軍監督となった。[[本堂保次]]監督の代理として指揮を執っていた[[濃人渉]]の後任として、[[1966年]]の1シーズンだけ監督を務めた。田丸の1966年の東京オリオンズ一軍監督就任は、プロ選手の経験が無い人物がプロ野球の一軍監督に初めて就任した最後の例である&amp;lt;ref&amp;gt;プロ選手の経験が無い人物がプロ野球の一軍監督が在任した最後の例としては、[[藤本定義]]が1936年の東京巨人軍監督経験を最初の監督経験として1968年の阪神タイガース一軍監督に在任した例がある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後コーチ・チームスタッフ・スカウト等で東京～ロッテに残留し、退団後は[[阪神タイガース|阪神]]に移籍してスカウトを務め、多くの優れた選手を発掘した。野球理論にも優れており、[[落合博満]]の打撃理論に多大な影響を与えた。1993年2月2日死去、[[享年]]66。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==詳細情報==&lt;br /&gt;
=== 年度別監督成績 ===&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;text-align: right; font-size: small;&amp;quot;&lt;br /&gt;
![[年度]]!![[チーム]]!![[野球の背番号|背番号]]!!順位!![[試合]]!![[勝利]]!![[敗戦]]!![[引き分け|引分]]!![[勝率]]!![[ゲーム差]]!!チーム&amp;lt;br /&amp;gt;本塁打!!チーム&amp;lt;br /&amp;gt;打率!!チーム&amp;lt;br /&amp;gt;防御率!![[年齢]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[1966年]]||rowspan=&amp;quot;1&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:center;&amp;quot;|[[千葉ロッテマリーンズ|東京]]||style=&amp;quot;text-align:center;&amp;quot;|30||4位||134||61||69||4||.469||18.0||112||.240||2.93||40歳&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 通算監督成績 ===&lt;br /&gt;
*134試合 61勝 69敗 4分 勝率.469&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 背番号 ===&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;64&#039;&#039;&#039; （1965年）&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;30&#039;&#039;&#039; （1966年）&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;56&#039;&#039;&#039; （1967年）&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;85&#039;&#039;&#039; （1974年 - 1975年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[法政大学の人物一覧]]&lt;br /&gt;
* [[柴田勲]]（法政二高時代の教え子）&lt;br /&gt;
* [[村上雅則]]（法政二高時代の教え子で、自らスカウトした）&lt;br /&gt;
* [[永田雅一]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{千葉ロッテマリーンズ歴代監督|東京オリオンズ|1966}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たまる ひとし}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の野球選手]]&lt;br /&gt;
[[Category:野球監督]]&lt;br /&gt;
[[Category:高校野球指導者]]&lt;br /&gt;
[[Category:大学野球指導者]]&lt;br /&gt;
[[Category:法政大学野球部の選手]]&lt;br /&gt;
[[Category:神奈川県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の監督]]&lt;br /&gt;
[[Category:阪神タイガース関連人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1926年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1993年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>180.5.197.143</name></author>
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