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	<title>Wikippe - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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	<updated>2026-08-16T12:31:19Z</updated>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%82%B9&amp;diff=6704</id>
		<title>ウイルス</title>
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		<updated>2014-07-30T20:21:42Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;175.104.252.127: /* 歴史 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Otheruses|生物に感染するウイルス}}&lt;br /&gt;
{{参照方法|date=2011年8月}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;ウイルス&#039;&#039;&#039;（{{lang-la|virus}} {{IPA|ˈwiːrus}} ウィールス、{{lang-en|virus}} {{ipa|vairəs}} ヴァイラス）は、他の[[生物]]の[[細胞]]を利用して、自己を[[コピー|複製]]させることのできる微小な構造体で、[[タンパク質]]の殻とその内部に入っている[[核酸]]からなる。[[生命]]の最小単位である[[細胞]]をもたないので、非生物とされることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[File:Human_Immunodeficency_Virus_-_stylized_rendering.jpg|thumb|200px|right|[[ヒト免疫不全ウイルス]]の模式図]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 名称 ==&lt;br /&gt;
「ウイルス」は、「毒液」または「粘液」を意味するラテン語 {{lang|la|virus}} に由来して命名された。[[古代ギリシア]]の[[ヒポクラテス]]は病気を引き起こす毒という意味でこの言葉を用いている{{要出典|date=2012年12月}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本語での名称 ===&lt;br /&gt;
日本では当初、[[日本細菌学会]]によって「病毒」と訳され（現在でも[[中国語]]では「病毒」と呼ばれている）てから、ビールス、ヴィールス、バイラスなどとよばれていた。その後、[[1953年]]に[[日本ウイルス学会]]が設立されたのを機に、本来のラテン語発音に近い「ウイルス」という表記が日本語の正式名称として採用された。その後、[[日本医学会]]が[[ドイツ語]]発音に由来する「ビールス」を用いたため混乱があったものの、現在は宿主に関わらず「ウイルス」が正式名称である&amp;lt;ref&amp;gt;http://jsv.umin.jp/about_jsv/about_jsv.html&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite book|author=日本植物病理学会編|title=植物病理学事典|publisher=養賢堂|year=1995|pages=p.91}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 特徴 ==&lt;br /&gt;
ウイルスは[[細胞]]を構成単位としないが、[[遺伝子]]を有し、他の生物の細胞を利用して増殖できるという、[[生物]]の特徴を持っている。現在でも自然科学は生物・生命の定義を行うことができておらず、便宜的に、細胞を構成単位とし、[[代謝]]、増殖できるものを生物と呼んでおり、細胞をもたないウイルスは、非細胞性生物として位置づけられる。あるいは、生物というよりむしろ&amp;quot;生物学的存在&amp;quot;といわれる&amp;lt;ref name=&amp;quot;生化学&amp;quot;&amp;gt;マシューズ、ホルダ、アハーン『カラー生化学』西村書店刊、2003年5月15日発行（16ページ）&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし、遺伝物質を持ち、生物の代謝系を利用して増殖するウイルスは生物と関連があることは明らかである。感染することで宿主の[[恒常性]]に影響を及ぼし、[[病原体]]としてふるまうことがある。ウイルスを対象として研究する分野は[[ウイルス学]]と呼ばれる。ウイルスの起源にはいくつかの説があるが、[[トランスポゾン]]のような動く遺伝子をその起源とする説が有力である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
遺伝物質の違いから、大きく[[DNAウイルス]]と[[RNAウイルス]]に分けられる。詳細は[[ウイルスの分類]]を参照。[[真核生物]]、[[真正細菌]]、[[古細菌]]、いずれの[[ドメイン (分類学)|ドメイン]]にもそれぞれウイルスが発見されており、ウイルスの起源は古いことが示唆されている。[[細菌]]に感染するウイルスは[[ファージ|バクテリオファージ]]と呼ばれ、[[分子生物学]]の初期に遺伝子発現研究の[[モデル生物|モデル系]]として多く用いられた。しかし、今日の[[分子生物学]]・[[医学]]の分野では「ウイルス」という表現は動植物に感染するものを指して用いることが多く、細菌に感染するバクテリオファージとは区別して用いることが多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
[[微生物学]]の歴史は、[[1674年]]に[[オランダ]]の[[アントニ・ファン・レーウェンフック|レーウェンフック]]が顕微鏡観察によって[[細菌]]を見出したことに始まり、その後[[1860年]]に[[フランス]]の[[ルイ・パスツール]]が[[生物学]]や醸造学における意義を、[[1876年]]に[[ドイツ]]の[[ロベルト・コッホ]]が医学における意義を明らかにしたことで大きく展開した。特にコッホが発見し提唱した「感染症が病原性細菌によって起きる」という考えが医学に与えた影響は大きく、それ以降、感染症の原因は[[寄生虫]]を除いて全て[[細菌]]によるものだと考えられていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1892年]]、[[タバコモザイク病]]の病原が細菌濾過器を通過しても感染性を失わないことを[[ロシア]]の[[ディミトリー・イワノフスキー]]が発見し、それが[[細菌]]よりも微小な[[顕微鏡]]では観察できない存在であることを報告した。またこの研究とは別に、[[1898年]]にドイツの[[フリードリッヒ・レフラー]]と[[ポール・フロッシュ]]が[[口蹄疫]]の病原体の分離を試み、これが同様の存在であることをつきとめ、「filterable virus（濾過性病原体）」とも呼ばれた。同じ年にオランダの[[マルティヌス・ベイエリンク]]はイワノフスキーと同様な研究を行って、同じように見出された未知の性質を持つ病原体を「Contagium vivum fluidum（生命を持った感染性の液体）」と呼んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
レフラーは濾過性病原体を小さな細菌と考えていたが、ベイエリンクは[[分子]]であると考え、この分子が細胞に感染して増殖すると主張した。ベイエリンクの主張はすぐには受け入れられなかったが、同様の性質をもった病原体や[[ファージ]]が発見されていくことで、一般にもウイルスの存在が信じられるようになった。その後、物理化学的な性質が徐々に解明され、ウイルスはタンパク質からできていると考えられていた。[[1935年]]にアメリカの[[ウェンデル・スタンレー]]が[[タバコモザイクウイルス]]の[[結晶]]化に成功し、この結晶は感染能を持っていることを示した。化学物質のように結晶化できる生物の存在は科学者に衝撃を与えた。スタンレーはこの業績により[[1946年]]に[[ノーベル化学賞]]を受賞した。スタンレーはウイルスが自己触媒能をもつ巨大なタンパク質であるとしたが、翌年に少量のRNAが含まれることも示された。当時は[[遺伝子]]の正体はまだ不明であり、遺伝子タンパク質説が有力とされていた。&amp;lt;!--[[1939年]]に[[電子顕微鏡]]が発明されたことで、ウイルスが見つかった。--&amp;gt;当時は、病原体は能動的に病気を引き起こすと考えられていたので、分子ロボット（今で言う[[ナノマシン]]）のようなもので我々が病気になるということに当時の科学者たちは驚いた。それでも当時はまだ、病原体であるには細菌ほどの複雑な構造、少なくとも自己のタンパク質をコードする遺伝子ぐらいは最低限持っていなくては病原体になりえない、と思われていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ハーシーとチェイスの実験]]は、バクテリオファージにおいてDNAが遺伝子の役割を持つことを明らかにし、これを契機にウイルスの繁殖、ひいてはウイルスの性質そのものの研究が進むようになった。同時に、この実験は生物の遺伝子がDNAであることを示したものと解せられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 一般的な生物との違い ==&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:center;&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!&lt;br /&gt;
! 一般的な原核生物&amp;lt;br /&amp;gt;（例：[[大腸菌]]）&lt;br /&gt;
! [[マイコプラズマ]]&lt;br /&gt;
! [[ナノアーケウム・エクイタンス|ナノアーケウム&amp;lt;br /&amp;gt;・エクインタンス]]&lt;br /&gt;
! [[リケッチア]]&lt;br /&gt;
! [[クラミジア]]&lt;br /&gt;
! [[ファイトプラズマ]]&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#ffadad;&amp;quot; | ウイルス&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 構成単位&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;6&amp;quot; | [[細胞]]&lt;br /&gt;
| ウイルス粒子&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 遺伝情報の担体&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;6&amp;quot; | [[デオキシリボ核酸|DNA]]&lt;br /&gt;
| DNAまたは[[リボ核酸|RNA]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 増殖様式&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;6&amp;quot; | [[対数増殖]]（[[分裂]]や[[出芽]]）&lt;br /&gt;
| [[一段階増殖]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[暗黒期]]の存在&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! [[アデノシン三リン酸|ATP]]の合成&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;6&amp;quot; | できる&lt;br /&gt;
| できない&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! タンパク質の合成&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;6&amp;quot; | できる&lt;br /&gt;
| できない&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! [[細胞壁]]&lt;br /&gt;
| ある&lt;br /&gt;
| ない&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;3&amp;quot; | ある&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot; | ない&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 単独で増殖&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot; | できる&lt;br /&gt;
| できない&amp;lt;br /&amp;gt;（他生物に付着）&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;4&amp;quot; | できない（偏性細胞内寄生性）&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウイルスは様々な点で一般的な生物と大きく異なる。&lt;br /&gt;
#ウイルスは非細胞性で[[細胞質]]などは持たない。基本的には[[タンパク質]]と[[核酸]]からなる粒子である。（→[[ウイルス#構造|ウイルスの構造]]）&lt;br /&gt;
#大部分の生物は細胞内部に[[デオキシリボ核酸|DNA]]と[[リボ核酸|RNA]]の両方の核酸が存在するが、ウイルス粒子内には基本的にどちらか片方だけしかない。&lt;br /&gt;
#他のほとんどの生物の細胞は2&amp;lt;sup&amp;gt;n&amp;lt;/sup&amp;gt;で指数関数的に増殖するのに対し、ウイルスは一段階増殖する。またウイルス粒子が見かけ上消えてしまう暗黒期が存在する。&lt;br /&gt;
#ウイルスは単独では増殖できない。他の生物の細胞に寄生したときのみ増殖できる。&lt;br /&gt;
#ウイルスは自分自身でエネルギーを産生しない。宿主細胞の作るエネルギーを利用する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお4の特徴はウイルスだけに見られるものではなく、[[リケッチア]]や[[クラミジア]]、[[ファイトプラズマ]]など一部の真正細菌や真核生物にも同様の特徴を示すものがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
細胞は生きるのに必要なエネルギーを作る製造ラインを持っているが、ウイルスはその代謝を行っておらず、代謝を宿主細胞に完全に依存し、宿主の中でのみ増殖が可能である。彼らに唯一できることは他の生物の遺伝子の中に彼らの遺伝子を入れる事である。厳密には自らを入れる能力も持っておらず、ただ細胞が正常な物質と判別できずウイルスタンパクを増産し病気になる。これらの違いからウィルスは生物学上、生物とは見做されないことも多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、[[メガウイルス]]など細菌に非常に近い構造を持つウイルスの発見により、少なくとも一部のウイルスは遺伝子の大部分を捨て去り寄生に特化した生物の一群であることが強く示唆されている。また、[[レトロウイルス]]と[[トランスポゾン]]の類似性は、これまた少なくとも一部のウイルスは機能性核酸が独立・進化したものである可能性を強く示唆している。つまり、「ウイルス」として纏められている物は多元的であり、人為分類群である可能性が非常に高い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 構造 ==&lt;br /&gt;
[[File:Virion.png|thumb|right|400px|ウイルスの基本構造（上）エンベロープを持たないウイルス&amp;lt;br /&amp;gt;（下）エンベロープを持つウイルス]]&lt;br /&gt;
ウイルスの基本構造は、粒子の中心にある&#039;&#039;&#039;ウイルス核酸&#039;&#039;&#039;と、それを取り囲む&#039;&#039;&#039;[[カプシド]]&#039;&#039;&#039; (capsid) と呼ばれるタンパク質の殻から構成された粒子である。その大きさは小さいものでは数十nmから、大きいものでは数百nmのものまで存在し、他の一般的な生物の細胞（数〜数十µm）の100〜1000分の1程度の大きさである。ウイルス核酸とカプシドを併せたものを&#039;&#039;&#039;[[ヌクレオカプシド]]&#039;&#039;&#039;と呼ぶ。ウイルスによっては、[[エンベロープ (ウイルス)|エンベロープ]]と呼ばれる膜成分など、ヌクレオカプシド以外の物質を含むものがある。これらの構成成分を含めて、そのウイルスにとって必要な構造をすべて備え、宿主に対して感染可能な「完全なウイルス粒子」を&#039;&#039;&#039;[[ビリオン]]&#039;&#039;&#039;と呼ぶ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ウイルス核酸 ===&lt;br /&gt;
ウイルスの核酸は、通常、[[デオキシリボ核酸|DNA]]か[[リボ核酸|RNA]]のどちらか一方である。すなわち、他の生物が一個の細胞内にDNA（遺伝子として）とRNA（[[伝令RNA|mRNA]]、[[リボソームRNA|rRNA]]、[[転移RNA|tRNA]]など）の両方の分子を含むのに対して、ウイルスの一粒子にはその片方しか含まれない（ただしDNAと共にRNAを一部含む[[B型肝炎ウイルス]]のような例外も稀に存在する）。そのウイルスが持つ核酸の種類によって、ウイルスはDNAウイルスとRNAウイルスに大別される。さらに、それぞれの核酸が一本鎖か二本鎖か、一本鎖のRNAであればmRNAとしての活性を持つか持たないか（プラス鎖RNAかマイナス鎖RNAか）、環状か線状か、などによって細かく分類される。ウイルスのゲノムは他の生物と比べてはるかにサイズが小さく、またコードしている遺伝子の数も極めて少ない。例えば、ヒトの遺伝子が数万あるのに対して、ウイルスでは3〜100個ほどだと言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウイルスは基本的にタンパク質と核酸からなる粒子であるため、ウイルスの複製（増殖）のためには少なくとも&lt;br /&gt;
# タンパク質の合成&lt;br /&gt;
# ウイルス核酸の複製&lt;br /&gt;
# 1. 2.を行うために必要な、材料の調達とエネルギーの産生&lt;br /&gt;
が必要である。しかしほとんどのウイルスは、1や3を行うのに必要な酵素の遺伝情報を持たず、宿主細胞の持つタンパク合成機構や代謝、エネルギーを利用して、自分自身の複製を行う。ウイルス遺伝子には自分の遺伝子（しばしば宿主と大きく異なる）を複製するための酵素の他、宿主細胞に吸着・侵入したり、あるいは宿主の持つ免疫機構から逃れるための酵素などがコードされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウイルスによっては、カプシドの内側に、核酸と一緒にカプシドタンパク質とは異なるタンパク質を含むものがある。このタンパク質とウイルス核酸を合わせたものをコアと呼び、このタンパク質をコアタンパク質と呼ぶ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== カプシド ===&lt;br /&gt;
カプシド (capsid) は、ウイルス核酸を覆っているタンパク質であり、ウイルス粒子が細胞の外にあるときに内部の核酸をさまざまな障害から守る「殻」の役割をしていると考えられている。ウイルスが宿主細胞に侵入した後、カプシドが壊れて（脱殻、だっかく）内部のウイルス核酸が放出され、ウイルスの複製がはじまる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[カプシド]]は、同じ構造を持つ小さなタンパク質（&#039;&#039;&#039;カプソマー&#039;&#039;&#039;）が多数組み合わさって構成されている。この方式は、ウイルスの限られた遺伝情報量を有効に活用するために役立っていると考えられている。小さなタンパク質はそれを作るのに必要とする遺伝子配列の長さが短くてすむため、大きなタンパク質を少数組み合わせて作るよりも、このように小さいタンパク質を多数組み合わせる方が効率がよいと考えられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ヌクレオカプシド ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Nucleocapsids.png|thumb|240px|right|[[ヌクレオカプシド]]の対称性（左）正二十面体様（中）らせん構造（右）構造の複雑なファージ]]&lt;br /&gt;
ウイルス核酸とカプシドを合わせたものを&#039;&#039;&#039;ヌクレオカプシド&#039;&#039;&#039; (nucleocapsid) と呼ぶ。エンベロープを持たないウイルスではヌクレオカプシドはビリオンと同じものを指す。言い換えればヌクレオカプシドは全てのウイルスに共通に見られる最大公約数的な要素である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヌクレオカプシドの形はウイルスごとに決まっているが、多くの場合、正二十面体様の構造、またはらせん構造をとっており、立体対称性を持つ。ただし、[[天然痘]]の原因であるポックスウイルスやバクテリオファージなどでは、ヌクレオカプシドは極めて複雑な構造であり、単純な対称性は持たない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== エンベロープ ===&lt;br /&gt;
ウイルスの中にはカプシドの外側に[[エンベロープ (ウイルス)|エンベロープ]]（外套、envelope）を持つ物がある。エンベロープは[[脂質]]二重膜であり、宿主の細胞から飛び出す（出芽する）時に宿主の細胞質膜や核膜の一部をまとったものである。エンベロープ上には、[[スパイク]]あるいはエンベロープタンパク質と呼ばれる糖タンパク質が突出していることがある。スパイクはウイルスの遺伝子から作られたそのウイルス独自のタンパク質であり、宿主細胞に吸着・侵入したり、宿主の免疫機構から逃れるための生理的な作用を持つものが多い。また、ウイルスによってはエンベロープとヌクレオカプシドの間に、マトリクスあるいはテグメントとよばれるタンパク質を含むものがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 増殖 ==&lt;br /&gt;
[[File:Virus_growth_curve.png|thumb|right|200px|細胞（左）とウイルス（右）の増殖様式]]&lt;br /&gt;
ウイルスは、それ自身単独では増殖できず、他の生物の細胞内に感染して初めて増殖可能となる。このような性質を&#039;&#039;&#039;偏性細胞内寄生性&#039;&#039;&#039;と呼ぶ。&lt;br /&gt;
また、一般的な生物の細胞が2分裂によって2&amp;lt;sup&amp;gt;n&amp;lt;/sup&amp;gt;で対数的に数を増やす（対数増殖）のに対し、ウイルスは1つの粒子が、感染した宿主細胞内で一気に数を増やして放出（一段階増殖）する。また感染したウイルスは細胞内で一度分解されるため、見かけ上ウイルス粒子の存在しない期間（&#039;&#039;&#039;暗黒期&#039;&#039;&#039;）がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウイルスの増殖は以下のようなステップで行われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
細胞表面への&#039;&#039;&#039;吸着&#039;&#039;&#039; → 細胞内への&#039;&#039;&#039;侵入&#039;&#039;&#039; → &#039;&#039;&#039;脱殻&#039;&#039;&#039;（だっかく） → 部品の合成 → 部品の集合 → 感染細胞からの放出&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 細胞表面への吸着 ===&lt;br /&gt;
ウイルス感染の最初のステップはその細胞表面に吸着することである。ウイルスが宿主細胞に接触すると、ウイルスの表面にあるタンパク質が宿主細胞の表面に露出しているいずれかの分子を標的にして吸着する。このときの細胞側にある標的分子をそのウイルスに対する&#039;&#039;&#039;[[受容体|レセプター]]&#039;&#039;&#039;と呼ぶ。ウイルスが感染するかどうかは、そのウイルスに対するレセプターを細胞が持っているかどうかに依存する。代表的なウイルスレセプターとしては、[[インフルエンザウイルス]]に対する[[呼吸器|気道]][[上皮細胞]]のシアル酸糖鎖や、[[ヒト免疫不全ウイルス]]に対する[[T細胞|ヘルパーT細胞]]表面のCD4分子などが知られている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 細胞内への侵入 ===&lt;br /&gt;
細胞表面に吸着したウイルス粒子は、次に実際の増殖の場になる細胞内部へ侵入する。侵入のメカニズムはウイルスによってさまざまだが、代表的なものに以下のようなものがある。&lt;br /&gt;
;[[エンドサイトーシス]]による取り込み&lt;br /&gt;
:細胞自身が持っているエンドサイトーシスの機構によって、エンドソーム小胞として細胞内に取り込まれ、その後でそこから細胞質へと抜け出すもの。エンベロープを持たないウイルスの多くや、インフルエンザウイルスなどに見られる。&lt;br /&gt;
;膜融合&lt;br /&gt;
:吸着したウイルスのエンベロープが細胞の細胞膜と融合し、粒子内部のヌクレオカプシドが細胞質内に送り込まれるもの。多くの、エンベロープを持つウイルスに見られる。&lt;br /&gt;
;能動的な遺伝子の注入&lt;br /&gt;
:Tファージなどのバクテリオファージに見られ、吸着したウイルスの粒子から尾部の管を通してウイルス核酸が細胞質に注入される。注入とは言っても、ウイルス粒子の尾部が細菌の細胞壁を貫通した後の遺伝子の移動は、細菌細胞が生きていないと起こらないため、細菌の細胞自体の作用によって吸い込まれるのではないかと言われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 脱殻 ===&lt;br /&gt;
細胞内に侵入したウイルスは、そこで一旦カプシドが分解されて、その内部からウイルス核酸が遊離する。この過程を脱殻と呼ぶ。脱殻が起こってから粒子が再構成までの期間は、ビリオン（感染性のある完全なウイルス粒子）がどこにも存在しないことになり、この時期を&#039;&#039;&#039;[[暗黒期]]&#039;&#039;&#039;、あるいは[[日食|日蝕]]や[[月食|月蝕]]になぞらえて&#039;&#039;&#039;[[Eclipse|エクリプス]]&#039;&#039;&#039;（蝕、eclipse）と呼ぶ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 部品の合成 ===&lt;br /&gt;
脱殻により遊離したウイルス核酸は、次代のウイルス（娘ウイルス）の作成のために大量に複製されると同時に、さらにそこから[[伝令RNA|mRNA]]を経て、カプソマーなどのウイルス独自のタンパク質が大量に合成される。すなわちウイルスの合成は、その部品となる核酸とタンパク質を別々に大量生産し、その後で組み立てるという方式で行われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウイルス核酸は宿主細胞の核酸とは性質的に異なる点が多いために、その複製は宿主の持つ酵素だけではまかなえないため、それぞれのウイルスが独自に持つDNAポリメラーゼ、RNAポリメラーゼなど、転写・複製に関わる酵素が使われる。また[[逆転写酵素]]を持つレトロウイルスでは、宿主のDNAに自分の遺伝子を組み込むことで、宿主の[[DNA複製]]機構も利用する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
タンパク質の合成には、そのタンパク質をコードするmRNAを作成するためにウイルス独自の酵素を必要とする場合がある。mRNAからタンパク質への翻訳は、宿主細胞の持つ、リボソームなどのタンパク質合成系を利用して行われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 部品の集合とウイルス粒子の放出 ===&lt;br /&gt;
別々に大量生産されたウイルス核酸とタンパク質は細胞内で集合する。最終的にはカプソマーがウイルス核酸を包み込み、ヌクレオカプシドが形成される。この機構はウイルスによってまちまちであり、まだ研究の進んでないものも多い。細胞内で集合したウイルスは、細胞から出芽したり、あるいは感染細胞が死ぬことによって放出される。このときエンベロープを持つウイルスの一部は、出芽する際に被っていた宿主の細胞膜の一部をエンベロープとして獲得する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 宿主に与える影響 ==&lt;br /&gt;
ウイルスによる感染は、宿主となった生物に細胞レベルや個体レベルでさまざまな影響を与える。その多くの場合、ウイルスが病原体として作用し、宿主にダメージを与えるが、一部のファージやレトロウイルスなどに見られるように、ウイルスが外来遺伝子の運び屋として作用し、宿主の生存に有利に働く例も知られている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 細胞レベルでの影響 ===&lt;br /&gt;
[[File:CPE_rounding.jpg|thumb|200px|right|&#039;&#039;&#039;細胞変性効果（円形化）&#039;&#039;&#039;培養フラスコの底に敷石状に生育している培養細胞がウイルスの感染によって円く変形し、やがてフラスコからはがれてプラーク（空隙、写真中央）を形成する。]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:CPE_syncytium.jpg|thumb|200px|right|&#039;&#039;&#039;細胞変性効果（合胞体）&#039;&#039;&#039;敷石状に生育した培養細胞同士がウイルス感染によって細胞膜の融合を起こし、細胞核が中央に凝集して（写真中央）多核巨細胞様の形態になる。]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウイルスが感染して増殖すると、宿主細胞が本来自分自身のために産生・利用していたエネルギーや、アミノ酸などの栄養源がウイルスの粒子複製のために奪われ、いわば「ウイルスに乗っ取られた」状態になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これに対して宿主細胞はタンパク質や遺伝子の合成を全体的に抑制することで抵抗しようとし、一方でウイルスは自分の複製をより効率的に行うために、さまざまなウイルス遺伝子産物を利用して、宿主細胞の生理機能を制御しようとする。またウイルスが自分自身のタンパク質を一時に大量合成することは細胞にとって生理的なストレスになり、また完成した粒子を放出するときには宿主の細胞膜や細胞壁を破壊する場合もある。このような原因から、ウイルスが感染した細胞ではさまざまな生理的・形態的な変化が現れる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この現象のうち特に形態的な変化を示すものを&#039;&#039;&#039;[[細胞変性効果]]&#039;&#039;&#039; (cytopathic effect, CPE) と呼ぶ。ウイルスによっては、特定の宿主細胞に形態的に特徴のある細胞変性効果を起こすものがあり、これがウイルスを鑑別する上での重要な手がかりの一つになっている。代表的な細胞変性効果としては、細胞の円形化・細胞同士の融合による合胞体 (synsitium) の形成・封入体の形成などが知られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さまざまな生理機能の変化によって、ウイルスが感染した細胞は最終的に以下のいずれかの運命を辿る。&lt;br /&gt;
;ウイルス感染による細胞死&lt;br /&gt;
:ウイルスが細胞内で大量に増殖すると、細胞本来の生理機能が破綻したり細胞膜や細胞壁の破壊が起きる結果として、多くの場合、宿主細胞は死を迎える。ファージ感染による[[溶菌]]現象もこれにあたる。多細胞生物の細胞では、ウイルス感染時に[[細胞周期]]を停止させたり、MHCクラスIなどの抗原提示分子を介して[[キラーT細胞|細胞傷害性T細胞]]を活性化して、[[アポトーシス]]を起こすことも知られている。感染した細胞が自ら死ぬことで周囲の細胞にウイルスが広まることを防いでいると考えられている。&lt;br /&gt;
;持続感染&lt;br /&gt;
:ウイルスによっては、短期間で大量のウイルスを作って直ちに宿主を殺すのではなく、むしろ宿主へのダメージが少なくなるよう少量のウイルスを長期間に亘って持続的に産生（持続感染）するものがある。宿主細胞が増殖する速さと、ウイルス複製による細胞死の速さが釣り合うと持続感染が成立する。テンペレートファージによる溶原化もこれにあたる。持続感染の中でも、特にウイルス複製が遅くて、ほとんど粒子の複製が起こっていない状態を&#039;&#039;&#039;[[潜伏感染]]&#039;&#039;&#039;と呼ぶ。&lt;br /&gt;
;細胞の不死化とがん化&lt;br /&gt;
:多細胞生物に感染するウイルスの一部には、感染した細胞を[[細胞老化|不死化]]したり、がん化したりするものが存在する。このようなウイルスを&#039;&#039;&#039;[[腫瘍ウイルス]]&#039;&#039;&#039;あるいは&#039;&#039;&#039;がんウイルス&#039;&#039;&#039;と呼ぶ。ウイルスが宿主細胞を不死化あるいはがん化させるメカニズムはまちまちであるが、宿主細胞が感染に抵抗して起こす細胞周期停止やアポトーシスに対抗して、細胞周期を進行させたりアポトーシスを抑制する遺伝子産物を作る場合（DNAがんウイルス）や、細胞の増殖を活性化する場合、また[[レトロウイルス]]では宿主のゲノムにウイルス遺伝子が組み込まれる際、[[がん遺伝子|がん抑制遺伝子]]が潰された結果、がん化することも知られている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 個体レベルでの影響 ===&lt;br /&gt;
ウイルス感染は、細胞レベルだけでなく多細胞生物の個体レベルでも、さまざまな病気を引き起こす。このような病気を総称してウイルス感染症と呼ぶ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、動物ではウイルス感染が起きると、それに抵抗して免疫応答が引き起こされる。血液中や粘液中のウイルス粒子そのものに対しては、ウイルスに対する中和抗体が作用する（[[液性免疫]]）ことで感染を防ぐ。感染した後の細胞内のウイルスに対しては抗体は無効であるが、細胞傷害性T細胞やNK細胞などが感染細胞を殺す（[[細胞性免疫]]）ことで感染の拡大を防ぐ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウイルス感染症における症状の中には、ウイルス感染自体による身体の異常もあるが、むしろ発熱、感染細胞のアポトーシスなどによる組織傷害のように、上記のような免疫応答を含む、対ウイルス性の身体の防御機構の発現自体が健康な身体の生理機構を変化させ、さらには身体恒常性に対するダメージともなり、疾患の症状として現れるものが多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 公衆衛生 ==&lt;br /&gt;
エンベロープを持つウイルスはエンベロープが無くなると感染性を失うので、[[石鹸]]などの脂質溶解剤を用いれば、脂質でできたエンベロープを壊すことができ、これで[[消毒]]ができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--{{reflist}}--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*『STEP内科 2 感染症・血液』松岡健 他 監修　海馬書房 1998年11月27日 初版 P.107〜P.109&lt;br /&gt;
*『医科ウイルス学』大里外誉郎編集、南江堂　1992年12月&lt;br /&gt;
*『医学ウイルス学』David O. White, Frank J. Fenner&lt;br /&gt;
*『ウイルス図鑑』保坂康弘ほか&lt;br /&gt;
*『医学細菌学』中野昌康 菜根出版&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
{{sisterlinks|commons=Category:Viruses|species=Virus}}&lt;br /&gt;
*[[DNAウイルス]]&lt;br /&gt;
*[[RNAウイルス]]&lt;br /&gt;
*[[インフルエンザ]]&lt;br /&gt;
*[[後天性免疫不全症候群]] ([[AIDS]])&lt;br /&gt;
*[[重症急性呼吸器症候群]]（[[新型肺炎]]、[[SARS]]）&lt;br /&gt;
*[[ウイルス性肝炎]]&lt;br /&gt;
*[[ウイロイド]]&lt;br /&gt;
*[[サテライトウイルス]]&lt;br /&gt;
*[[ウイルスフリー]]&lt;br /&gt;
*[[ウイルス学]]&lt;br /&gt;
*[[ウイルスの分類]]&lt;br /&gt;
*[[ウイルス治療]]&lt;br /&gt;
*[[コンピュータウイルス]]&lt;br /&gt;
*[[ウイルス進化論]]&lt;br /&gt;
*[[生物兵器]]&lt;br /&gt;
*[[ミーム#マインド・ウイルス]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://jsv.umin.jp/index.html 日本ウイルス学会]&lt;br /&gt;
*[http://protist.i.hosei.ac.jp/virus/top.html ウイルス図鑑]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{自然}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ういるす}}&lt;br /&gt;
[[Category:ウイルス|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:ラテン語の語句]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Link FA|te}}&lt;br /&gt;
{{Link FA|en}}&lt;br /&gt;
{{Link FA|gl}}&lt;br /&gt;
{{Link FA|zh}}&lt;br /&gt;
{{Link FA|ca}}&lt;br /&gt;
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		<title>楼蘭</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;175.104.252.127: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{coor title dms|40|31|39.48|N|89|50|26.32|E}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;楼蘭&#039;&#039;&#039;（ろうらん，Loulan，推定されている現地名はクロライナ Kroraina）は、[[中央アジア]]、[[タリム盆地]]の[[タクラマカン砂漠]]北東部（現在の[[中国]]・[[新疆ウイグル自治区]]チャルクリク）に、かつて存在した[[都市]]、及びその都市を中心とした[[国家]]である。「さまよえる湖」[[ロプノール]]の西岸に位置し、[[シルクロード]]が西域南道と天山南路に分岐する要衝にあって、交易により栄えた。[[紀元前1世紀|紀元前77年]]に漢の影響下で国名を&#039;&#039;&#039;鄯善&#039;&#039;&#039;（中国語名併音shàn shàn・日本語名ぜんぜん）と改称したが、楼蘭の名はその後も長く用いられ続けた。[[4世紀]]頃からロプノールが干上がるのとほぼ時を同じくして国力も衰え、やがて砂漠に呑み込まれたが、[[1900年]]に[[スウェーデン]]の探検家[[スヴェン・ヘディン|ヘディン]]によって遺跡が発見された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:Western Regions in The 1st century BC (ja).png|thumb|450px|[[紀元前1世紀]]の西域諸国。]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
[[画像:LoulanCarvedWoodenBeam.JPG|thumb|right|200px|楼蘭出土の木製の梁（[[3世紀]]-[[4世紀]]頃）。西方の影響を受けたと思しき装飾がなされている。]]&lt;br /&gt;
楼蘭と呼ばれる都市、またその名を持つ国家がいつ、どのようにして成立したのかは定かではない。古くは新石器時代から居住が始まったことが考古学的に確認されており、いわゆる「[[楼蘭の美女]]」として知られる[[ミイラ]]は、纏っていた衣服の[[放射性炭素年代測定|炭素年代測定]]によって[[紀元前19世紀]]頃の人物であると推定されている。しかし、文献史料に楼蘭の名が現れるのは『[[史記]]』匈奴列伝に収録された手紙の中で触れられているのが最初（[[紀元前2世紀]]）であり、その間の歴史は空白である。その手紙は[[匈奴]]の君主である[[冒頓単于]]が[[前漢]]の[[文帝 (漢)|文帝]]に宛てて送ったもので、この中で冒頓単于は[[月氏]]に対して勝利し、楼蘭，[[烏孫]]，[[呼掲]]及び近隣の26国を平定したと宣言している。この手紙は文帝の4年（[[紀元前2世紀|紀元前176年]]）に送られたものであるため、楼蘭は少なくとも紀元前176年以前に形成され、月氏の勢力圏にあったこと。そして紀元前176年頃匈奴の支配下に入ったことが推定されうる。『[[漢書]]』西域伝によれば、西域をことごとく支配下にいれた匈奴は[[焉耆]]、[[危須]]、[[尉黎]]の間に僮僕都尉を置き、楼蘭を含む西域諸国に賦税し、[[河西回廊]]に数万の軍勢を置いてその交易を支配した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 小国は大国の間にあり ===&lt;br /&gt;
[[紀元前141年]]に[[前漢|漢]]で[[武帝 (漢)|武帝]]が即位すると漢は対匈奴積極策に転じた。この時期に匈奴を攻撃するために西方に移動していた月氏（大月氏）と同盟を結ぶことを目的として[[張騫]]が派遣され、彼の往路の見聞の中で楼蘭にも触れられている。また張騫はその行き帰りで二度匈奴に捕えられており、当時西域に匈奴の支配が広く行き届いていたことがうかがわれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
漢は[[紀元前2世紀|紀元前121年]]に[[衛青]]と[[霍去病]]の指揮で大規模な対匈奴の軍事行動を起こした。彼は[[紀元前2世紀|紀元前119年]]には漠北の匈奴本拠地を攻撃して大きな戦果を上げた。この結果、漢は本格的に西域経営に乗り出した。[[紀元前2世紀|紀元前115年]]の河西四郡設置は漢の西域進出の端緒ともいえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうして西域の交通路を抑えた漢は西域諸国や更に西方へと遣使や隊商を数多く派遣するようになった。しかし、大挙増大した漢の人々（中には新興の交易市場に活路を見出した貧民も多かったといわれている）と西域諸国との間ではトラブルが頻発し、西域諸国では反漢感情が増大した。特に楼蘭と[[姑師]]は、漢の進出を嫌い匈奴と接近して漢使の往来を妨害するなどの挙に出た。これを憂慮した漢の武帝は[[紀元前2世紀|紀元前109年]]、[[従驃将軍]][[趙破奴]]と、楼蘭に遣使として派遣された経験を持つ[[王恢]]に命じ、数万人を動員して楼蘭と姑師に軍事介入を行った。[[騎兵]]700騎とともに先行した趙破奴の攻撃を受けて楼蘭は占領され、国王が捕えられた。このため楼蘭は王子の1人を漢に人質として出し漢に服属した。ところが西域の要衝楼蘭の漢への服属は匈奴にとっては座視できない事件であった。間もなく匈奴も楼蘭を攻撃したので、楼蘭は匈奴へも人質として王子を送り貢納を収めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした漢と匈奴の西域を巡る争いは長く続き、楼蘭の政治はその動きに激しく左右された。やがて再び漢の軍事介入を招く事件が発生した。武帝は[[大宛]]の[[汗血馬]]を入手することを望んで代価の財物を持たせて使者を大宛に送ったが、大宛は漢使の態度が無礼であるとしてこれを追い返し、その帰途に大宛の東方の[[郁成城]]でこれを襲撃して殺し財物を奪った。これは漢の大規模な報復を招き、漢は将軍[[李広利]]の指揮の下で2度にわたって大軍を派遣した（[[紀元前2世紀|紀元前104年 - 紀元前101年]]）。この漢の大宛遠征の際に楼蘭王は再び漢に捕えられて武帝の詰問を受けることとなり、武帝は楼蘭が匈奴にも人質を送り服属している事を責めた。楼蘭王はそれに答えて「&#039;&#039;&#039;小国は大国の間にあり、両属せねば安んずることは出来ない&#039;&#039;&#039;」と答え、両属を認めないならば漢の領土に土地を与え移住させて欲しい旨を伝えたという。武帝はこれを聞いて納得し、楼蘭王は帰国を許された。以後、漢は楼蘭方面の軍勢を強化し続けたため、匈奴の影響力は次第に後退していく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 鄯善国 ===&lt;br /&gt;
[[紀元前1世紀|紀元前92年]]に上述の楼蘭王が死去したため、楼蘭は漢に人質として出していた王子の帰国を要請したが、彼は漢で法律に触れて[[宮刑]]に処せられていたために漢は帰国を許可しなかった。このため別の人物が王となり、彼も漢の下に王子[[尉屠耆]]を人質として出し、匈奴にも王子[[安帰]]を人質として送った。しかし、この新王も間もなく死去すると、匈奴に人質として出されていた王子安帰が帰国して王座を得た。これに対し漢は入朝を要求して使者を送ったが、安帰王の後妻らは漢が人質として出した王子を帰国させないことを理由として反対し、結局入朝しなかった。そして相変わらず続く漢使とのトラブルもあり、楼蘭では次第に漢の使節を殺害するという事件も起きるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
漢は[[紀元前77年]]に大将軍[[霍光]]の指示によって平楽監[[傅介子]]に親匈奴派の安帰王を暗殺させ、人質として[[長安]]にいた王弟尉屠耆を新たな国王とした。また国名を「鄯善」と改称させ、漢軍が楼蘭に駐屯することになった。そして尉屠耆に対し宮女を妻として与え、印章を与えた。ここでわざわざ「鄯」という新字を作って楼蘭の名を改称させ、印章と妻の授与は楼蘭王国が漢の傀儡となったことを如実に示すものである。特に国内への漢軍駐屯については、尉屠耆が自分の立場の弱いのを心配して自ら漢に依頼したと伝えられる。漢軍は尉屠耆王の進言によって[[伊循城]]に駐屯することになり、ここは間もなく西域南道における漢の拠点の1つとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
楼蘭が漢の支配下に入って間もなく、匈奴の僮僕都尉であった[[日逐王]]が漢に降るという事件が発生した（[[紀元前1世紀|紀元前60年]]）。この結果漢は西域南道に加えて西域北道の全域を支配するに至り、新たに[[西域都護]]を置いて[[鄭吉]]を都護とした。以後漢の西域支配は[[王莽]]によって前漢が終焉するまで継続し、鄯善と名を改めた楼蘭も傀儡王国としてその支配下にあり続けたと考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 西域の動乱 ===&lt;br /&gt;
漢の繁栄による東西貿易の発展は西域の経済を大いに潤した。26ないし36国といわれた西域諸国は前漢末には55国に増加している。これは既存の王国が細分化したのではなく、交易の活況に伴って新たなオアシス都市国家が形成されたものであると言われている。漢の力による政治状況の安定もこういった経済の活況に拍車をかけた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こういった中で漢では王莽のクーデターによって新たに[[新]]が成立した。王莽の西域政策は現地で不評だったといわれ、楼蘭を含む西域諸国の大半（[[莎車]]国を除く）は再び匈奴（[[北匈奴]]）に帰順した（ただし、間もなく新は倒れ[[後漢]]が成立する）。しかし、北匈奴は西域諸国が漢の支配下にあって貢納がなかった事を責め、「未納」となっていた貢納品を取り立てたために西域諸国は再度漢に服属することを求めるようになった。また、西域諸国の中でも最も強勢を誇った莎車国（現在の[[ヤルカンド県]]）の王[[賢]]は、当初鄯善王[[安]]などと共に[[後漢]]に朝貢を行い、その結果[[光武帝]]から西域都護の印綬を受けたが、[[敦煌郡|敦煌]]太守[[裴遵]]が「&#039;&#039;&#039;夷狄に大権を与えるべからず&#039;&#039;&#039;」としてこの印綬を奪った。このため賢は漢と敵対するようになり、独自に&#039;&#039;&#039;大都護&#039;&#039;&#039;を称し、北匈奴の影響力を排除して西域諸国を服属させたが、重税を課したために西域の18国が漢への帰順を求めたという。これらの事情により西域諸国では漢の支援を求める機運が高まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし漢の光武帝は国内の不安定を理由に積極的な介入に出る事はなかった。敦煌太守裴遵はあたかも漢が新しく西域都護を派遣するかのように偽装工作を行ったが効果はなく、賢は漢の介入の無いのを確信して、漢に近い鄯善国に対し漢との国境の交通路を封鎖するように命令した。しかし中継貿易で国を成す鄯善国にとってこれは従える命令ではなく、鄯善王安は莎車国の使者を惨殺して命令を拒否した。これに対し賢は鄯善を攻撃して1000人あまりを虐殺したと伝えられる。鄯善国王安は南の山岳へと逃れ、重ねて漢の支援を要請した。しかし光武帝が再び兵を送ることは出来ないという返信を送ったため、鄯善国は他のいくつかの諸国と共に匈奴との同盟を再開した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像:Loulan.png|thumb|left|300px|鄯善国（楼蘭国）最大勢力範囲。1世紀頃に形成され、途中変動しつつもこれに近い領域は3世紀頃まで維持された。]]西暦[[61年]]に莎車王賢が[[于闐]]国（現在の[[ホータン市]]）との争いの中で暗殺されると西域の政治情勢は一変した。莎車国の支配下にあった諸国は殆どが独立して相互に争ったが、鄯善国はこの争いの中で数ヶ国を併合して西域の一角に勢力を築くことに成功した。同じ時期に于闐国，[[車師]]国（現在の[[トルファン市]]），[[亀茲]]国（現在の[[クチャ県]]），[[焉耆]]国（現在の[[焉耆回族自治県]]）などが強国として割拠した。この時期に鄯善国で作成された[[漢文]]文書には、昔ながらの名前である楼蘭が使用されていることが確認されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 後漢の西域経営 ===&lt;br /&gt;
勢力を拡大した鄯善国はロプノール湖畔から西は[[精絶]]国（[[チャドータ]]）まで、西域南道沿いの領域を東西900km余りに渡って支配するまでになり、[[1世紀]]末頃から全盛期を迎えた。交易も活発になり、発見された遺物はこの時期の経済的繁栄を明らかにしている。この鄯善国の繁栄は長く[[3世紀]]まで続くことになるが、必ずしも順風満帆の時代であったわけではなかった。その国力の増大によって政治的地位は上昇したが、漢や匈奴に比して弱小であることには代わりはなかった。やがて漢の介入が本格化すると、鄯善国はその覇権を認めざるをえなくなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
光武帝の跡を継いだ[[明帝 (漢)|明帝]]（[[57年]]-[[75年]]）の時代になると、再び漢が西域に本格的に介入するようになった。西暦[[73年]]に漢は匈奴への攻勢に打って出たほか、ほぼ同じ時期に西域にも出兵して車師国が制圧された。西方の見聞を残した[[甘英]]を派遣したことで名高い[[班超]]が活躍したのもこの時期であり、彼に纏わる逸話は鄯善国（楼蘭）がなおも複雑な立場に置かれていたことと、その立場の弱さを示す。『[[後漢書]]』班超伝によれば、73年に班超が36人の部下とともに鄯善国に派遣された際、鄯善王の広は当初班超を丁重にもてなした。しかし匈奴の使者が鄯善国に訪れると、広は匈奴使の心証を悪くするのを恐れて班超の待遇を落とした。匈奴使のために待遇が悪化したのを聞いた班超は憤激し、ある日の夜、密かに匈奴使の帳幕（[[ゲル (家屋)|ゲル]]）を焼き討ちしてその使者33人と家来100人余りを虐殺した。この時の彼の言葉として知られているのが「&#039;&#039;&#039;虎穴に入らずんば虎子を得ず&#039;&#039;&#039;」である。翌朝匈奴使の首を突きつけられた広は驚愕し、ひたすら漢に対する忠誠を約束して許しを請うことになった。この結果、鄯善国は再び漢に王子を人質として出すことになった。更に班超は西域諸国の大半を支配下にいれ、この功績によって西域都護に任じられて31年余りにわたって西域経営に従事した。鄯善国はその覇権下で王統をつないだ。後漢の西域経営は班超の死後若干の断絶の後、[[123年]]には班超の息子[[班勇]]によって継続された。班超にしても班勇にしても、投入した兵力は少なく、時折の本国からの援軍を除けば西域諸国の兵を用いて軍事活動に充てていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期以降、鄯善国は後漢の従属下にあって主だった反抗や事件も少なかったらしく、中国側の記録にはあまり登場しなくなる。しかし考古学的見地から、経済的な繁栄は後漢の影響下にあっても継続したと考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== カローシュティー文字の時代 ===&lt;br /&gt;
[[2世紀]]前半以降、楼蘭（鄯善国）に関する記録が乏しい時代が続く。上述の如くこの時代の鄯善国は後漢の影響下にあって経済的には繁栄した。2世紀後半に入ると、後漢末の動乱（いわゆる[[三国時代_(中国)|三国時代]]）のため、西域への中華王朝の影響力は低下した。このため漢籍に鄯善国の情報が求められなくなるが、[[3世紀]]前半に入ると鄯善国自身が記した文書史料が豊富に出土するようになる。これらは[[プラークリット語]]の一種である[[ガンダーラ語]]を[[カローシュティー文字]]で記したものである。こういった文書の様式や、その中に登場する王号が[[クシャーナ朝]]のそれに類似することなどから、鄯善国（楼蘭）がクシャーナ系の移住者によって征服されたという説もある。実態は全く不明であるが、中華王朝の影響力の低下やクシャーナ朝の隆盛に伴って、楼蘭が西方の文化の影響を強く受けたことが推察される。このカローシュティー文字文書の解析から、この時期の鄯善国がロプノール周辺から精絶国に至る領域を維持していたことが知られている。一方で漢文で書かれた実用文書も多数発見されており、三国時代の騒乱の間も漢人商人らは鄯善国を訪れて交易に従事していたこともわかる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただし、こういった文書書類は商業文書や命令書、徴税記録等が大半で政治的事件の記録は乏しく、3世紀の鄯善国の政治史はあまりわかっていない。わずかに知りうるのは、当時鄯善国は、西隣の于闐（ホータン、当時の文書ではコータンナ）と国境を巡って争っていたことと、[[チベット]]系である[[羌]]の一派といわれている[[スピ]]の侵入と略奪に悩まされたことなどである。一方でこういった実用文書類から、鄯善国の国政や社会についての知見は、この時代に関する物が多くを占める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 鄯善国の滅亡 ===&lt;br /&gt;
やがて、三国時代の動乱も終結し、[[晋 (王朝)|晋]]が中国を統一した3世紀後半には晋が漢と同じように西域へ影響力を拡大したと見られ、楼蘭で出土した漢文文書の中には晋代の物と見られる戸籍の断片が発見されている。晋は間もなく[[華北]]の支配権を失い、いわゆる[[五胡十六国時代]]が到来した。この時代に[[涼州]]の支配者となった[[前涼]]は西域への勢力拡大を図った。[[335年]]、前涼の将軍[[楊宣]]の攻撃を受けた鄯善国は、亀茲国などと共に前涼に入朝し、時の鄯善国王[[元孟]]は女を献じたという。前涼は西域長史を置いてこの地方への統制を強めた。以後、鄯善国は恒常的に河西の支配者に入朝を続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前涼は[[前秦]]によって滅ぼされたが、鄯善国王[[休密駄]]は自ら西域都護の設置を求めて[[382年]]に前秦に入朝した。休密駄の次の王、[[故員叱]]は前秦と[[後秦]]の戦いにおいて前秦に援軍を送っている。[[422年]]には鄯善国[[比竜]]が[[北涼]]に入朝した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし北涼は後に鄯善国の敵となった。[[439年]]に北魏の北涼侵攻が始まると北涼は敗北し、その支配者[[沮渠無諱]]や[[沮渠安周]]は敦煌を経由して[[高昌]]へ後退しようとした。この結果、その途上の重要拠点である鄯善国（楼蘭）を制圧しようと目論み、[[441年]]に安周が鄯善国を攻撃した。楼蘭は最初の攻撃を撃退したが、翌年には沮渠無諱も数万の軍勢を持って鄯善国に殺到し、敗北を悟った鄯善国王比竜は4000家余りとともに[[且末]]（[[チェルチェン]]）へと逃れた。『[[魏書]]』によればこれは楼蘭の人口の約半数に上る数であったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本国には公子[[真達]]が残り、北涼の下で一応王号を称したが、北涼の鄯善占領によって交易路が封鎖されるのを恐れた北魏は将軍[[万度帰]]の指揮の下で[[445年]]に鄯善を占領し、鄯善国王真達は連れ去られた。そして[[448年]]に[[交趾]]公[[韓牧]]が鄯善国王に封じられた。その統治は郡県に対するそれと変わらなかったと伝えられる。こうして独立王国としての鄯善国（楼蘭）の歴史は完全に終了した。楼蘭の都市は[[7世紀]]頃までは存続していたといわれているが、もはや往時のように複数の西域諸国を統治下に置くようなことはありえなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 楼蘭の位置 ==&lt;br /&gt;
楼蘭の名は史料や時代によって異なる用いられ方をした。楼蘭はオアシス都市の名であったが、その国名が漢によって鄯善と改められた後も、楼蘭の名はその「地方」を現す語として使用され続けた。また鄯善国内で作られた漢文文書の中には楼蘭の名を継続使用しているものもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
楼蘭時代の遺跡が探検家[[スヴェン・ヘディン]]や[[オーレル・スタイン]]らの活動によって発見され、発掘調査が行われるようになった後、同地から発見された漢文文書の分析によってスタインがL.Aと名づけた都市遺跡が楼蘭の王城であるという説が唱えられた。この説は現在でも有力説の一つであり、また現在、「楼蘭」、「楼蘭遺跡」、「楼蘭故城」などと呼ばれる場合にはほぼこのL.A遺跡を指す。しかし、L.A遺跡は3世紀頃に形成された都市であり、少なくとも前漢代の記録に登場する「楼蘭」とは同一でないともいわれている。楼蘭王国の王都としての楼蘭の位置は未だ諸説入り乱れる分野である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 楼蘭の名称 ==&lt;br /&gt;
楼蘭という漢字表記は、現地名である&#039;&#039;&#039;クロライナ&#039;&#039;&#039;（クロラインナ Kroraina, Kroraimna）の音訳である。3世紀のカローシュティー文字文書では、王都を意味する語として用いられており、元来都市の名であったものが国全体を指す語として用いられるようになった後も、王都を指す語として継続使用されていたことが知られる。一説にはその原名は[[インド]]の地名に由来するとも言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方漢によって命名された鄯善という名前は、一説には漢にとって「善い国」という意味で「善善」とし、同じ字が続くのを避けるために新字を作って「鄯善」としたといわれる。または楼蘭の南部を流れたチェルチェン河（チェルチェン・ダリヤ）の名をとったものであるともいわれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 王城の名称 ===&lt;br /&gt;
この楼蘭（クロライナ）とは別には、王都を指す言葉として&#039;&#039;&#039;扜泥&#039;&#039;&#039;という言葉があった。『漢書』などでは鄯善国の首都としてこの名を用いている。これはカローシュティー文字文書に登場する&#039;&#039;&#039;クヴァニ&#039;&#039;&#039;（クハニ Kuvani, Kuhani）の音訳であると考えられ、城砦を意味する語が王都の意味に転用されて用いられたものである。また、カローシュティ文字文書の中には&#039;&#039;&#039;マハームタ・ナガラ&#039;&#039;&#039;（Mahamta Nagara）という言葉で王都を呼んでいるものもある。これは「大きな都市」を意味する語であり、やはり後に王城を意味する語として転用された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 国制 ==&lt;br /&gt;
楼蘭の国制に関する知見はその多くをカローシュティー文字文書や現地で作成された漢文文書に依存する。こういった文書類が多く見つかっているのは主に3世紀頃であるため、この時代についての研究が進んでいる。以下に述べる国制の概要も基本的には3世紀の記録に基づいて復元されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中央 ===&lt;br /&gt;
楼蘭はその記録が残る全時代を通じて国王を頂点とする国家であった。しかし、国王の権力がどの程度強力なものであったのか、又は制約されていたのかはまだ不明な点が多い。少なくとも現存する史料からは、高位役人の人事権を国王が掌握していたらしいことがうかがわれる。王妃はしばしば周辺国との政略結婚によって楼蘭王と結婚した。漢から宮女が与えられて楼蘭王の妻となったことが『漢書』に記録されている他、3世紀頃には隣国の于闐（ホータン、またはコータンナ）の王女が王妃として迎えられた。于闐国と鄯善国は国境を巡って争っていたが、一方で鄯善王妃となった于闐の王女が、故郷へ里帰りした事なども記録にのこっており、当時の外交交渉の複雑さを今に伝える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中央政府の官制は『漢書』西域伝には鄯善国王を頂点として輔国公、郤胡公、鄯善都尉、撃車師都尉、左右且渠、撃車師君、訳長という官名が記録されている。この時期の官職を知る事の出来る現地史料は乏しく、詳細は不明であるが、3世紀の官職についてはカローシュティー文字文書類からかなり詳細に知る事が出来る。そこからわかる楼蘭の官僚機構は『漢書』西域伝の記録よりも遥かに複雑であるが、時代の開きがあるため単純比較は難しい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3世紀の楼蘭（鄯善国）には、大王（マハーラーヤ Maharaya）の下で最も高位の役人としてキツァイツァ（Kitsaitsa）がいた。キツァイツァ職にある者の署名は各種の公文書に必ず存在し、各種の裁判で判決を下していた事が知られている。キツァイツァに次ぐ高位官職としてカラ（Kala）があり、この役職には王子（マハーラーヤプトラ Maharayaputra）がついていた。一説には王子の称号ではないかともいわれる。他にオグ（Ogu）、グスラ（Gusura）、キュヴァライナ（Cuvalayina）などの役職があり、これらの職権などについては未だ不明点が多いが、各州の長官よりも上位に置かれる高級官吏であった。こういった高級官吏には、王から&#039;&#039;&#039;荘園&#039;&#039;&#039;（キルメ Kilme）が与えられ、彼らはそこから得られる収入で生計を立てた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 地方 ===&lt;br /&gt;
楼蘭（鄯善国）の地方統治については、文書史料が多く出土しているチャドータ（精絶）についてのものが良く知られている。チャドータには、地方長官（チョジボー Cojhbo）が置かれた。チョジボーの任免権は基本的には国王にあったと考えられている。3世紀のチャドータの長官[[ソームジャカ]]に当てた王の命令書などが多数出土しており、その中には「大王はチャドータの全権をソームジャカに与えたのであって、何人もソームジャカに背いてはならない。」と記したものもあり、地方長官（チョジボー）が、担当地域の全権を握っていたと考えられる。王の使者の護衛等は各地方の長官が、それぞれの担当地域内で受け持ち、責任を持った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
各州に対し王は&#039;&#039;&#039;[[ダルマ]]&#039;&#039;&#039;（法）に基づいた決定を行うよう度々指示を出しているが、ここでいうダルマとは各州の伝統的な慣習に基づいたものであったと言われ、特に民事事件に関しては領域内に必ずしも統一した法律のようなものは制定されなかったと考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
チョジボーの下にはトームガ（Tomga）、アプス（Apsu）、ソータムガ（Sothamga）、タスチャ（Tasuca）、ヴルヤガ（Vuryaga）、チャムクラ（Camkura）等の役人がいた。この中でもソータムガ（徴税官）はしばしばチョジボーと並んで文書に登場し、重要な役人であったと考えられる。他に、徴税に携わる役職がいくつもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 税制 ===&lt;br /&gt;
カローシュティー文字文書の中には徴税に関する文書が数多く含まれている。鄯善国（楼蘭）が支配した各地方の長官（チョジボー）に対して国王が徴税を命じる文書や、税の着服を非難する文書などである。地方長官は、配下の徴税官（ソータムガ）を使ってその担当地域から税を徴収した。税は物納が基本であり、[[穀物]]、[[ワイン]]、[[ラクダ]]、[[ウマゴヤシ]]、[[バター]]、[[ヒツジ|羊]]、[[フェルト]]、[[カーペット]]など様々な種類の物品が徴収された。こうした税として集められる物品は20種類を超える。最も主要な税は穀物とワインであり、それぞれ都市の役所などに一旦集められた後、機を見て中央へと送付された。ラクダ税は、国の使節や駅伝のためのラクダの供出であった。これには借り賃が支払われたが庸役の一種であったと考えられる。また各地で徴収された税はラクダを使って中央に運ばれたため、ラクダの飼料としてウマゴヤシが徴収されたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
各オアシスはナガラ（都市 Nagara）とアヴァナ（村 Avana）によって構成され、ナガラとアヴァナは更にサダ（百戸 Sada）とプラデサム（地方 Pradesam）などに細分されていた。これが徴税の最小区分であり、納税額の計算はこれらを基礎として行われた。また税の徴収は&#039;&#039;&#039;王領&#039;&#039;&#039;（ラージャデー rajade）と&#039;&#039;&#039;荘園&#039;&#039;&#039;（キルメ Kilme）とで別々に行われたが、詳細はよくわかっていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こういった徴税の処理において最も問題となるのが、役人による横領や着服、未納、そして輸送中の略奪被害などであった。現存する税務文書の殆どが滞納に対する督促状や、着服した官吏の罷免を命令する文書などであることは、こういった問題に当時の鄯善国（楼蘭）中央政府が如何に苦慮したかを現代に伝える。税の未納が発覚すれば基本的には未納分全てが徴収対象となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 宗教 ==&lt;br /&gt;
楼蘭は早い段階から[[仏教]]の強い影響を受けた。楼蘭の仏教についての知見も、やはりカローシュティー文字文書が多数出土する3世紀の事情がよく知られている。3世紀の楼蘭（鄯善国）の仏教は極めて組織化されていた。僧団（サンガ）は楼蘭支配下の各オアシス毎に設立されていたが、これらは中央の大僧団によって統制されていた。このことは[[マヒリ]]王治世下で首都の僧団がチャドータ（精絶）の僧団の風紀が乱れていることを叱責し、新たな規則を定める文書が出土していることから知られている。チャドータ以外の事情についてはあまり知られていないが、チャドータに関する限り、仏僧の風紀の乱れがしばしば問題になっていたようである。[[400年]]に楼蘭を訪れた中国の僧侶[[法顕]]は、鄯善国に4000人の僧侶がおり、悉く[[小乗]]を学んでいたと記している。この時代の楼蘭は既に全盛期を過ぎており、3世紀には更に規模の大きかった可能性もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
楼蘭の領域各地からは夥しい数の仏教遺物が出土している。チャドータやミーランなどからは[[ストゥーパ]]や仏教壁画、[[仏像]]が発見された。これらの中には若干の[[ヘレニズム]]の影響が見られるものも存在し、また絵の製作者の名前と報酬額が記された文書も発見された。その製作者の中に[[ローマ]]風の名前であるティタサ（ティトゥス）が発見されたことは、楼蘭に見られるヘレニズムの影響と相まって興味深いものである。仏教以外の痕跡として、[[アテナ]]や[[エロス]]、[[ヘラクレス]]像を刻印した[[封泥]]も発見されている。スタインらはこうした楼蘭に見られるグレコ・ローマン風やイラン風の美術品を見た感動を記し、「トルキスタンというよりはローマ領[[歴史的シリア|シリア]]や、他のローマ東方領の邸宅跡にいるようだった」と語っているが、こういった西方の宗教がどの程度楼蘭で一般的であったのかは明らかではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 後世の記録と発掘 ==&lt;br /&gt;
[[李延寿]]は「[[北史]]」の中で、かつての楼蘭として鄯善について記述しているが、これは都市としてではなく国家としての楼蘭を指しているのであり、その内容は別の都市に関するものであるとする説が強い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、[[7世紀]]に[[玄奘三蔵]]が[[インド]]からの帰途、廃墟となった楼蘭に立ち寄ったと『[[大唐西域記]]』に記されているが、これも都市としての楼蘭なのか、あるいはその頃には廃城となった旧鄯善国の別の都市なのか不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中央アジア探検 ===&lt;br /&gt;
近代的な調査は[[19世紀]]の[[ヨーロッパ]]人探検家による調査によって始まる。その始まりは[[1893年]][[10月]]から行われたスウェーデンの探検家、ヘディンによる[[中央アジア]]探検である。最初の探検では水不足のために一時は探検キャラバンが壊滅し彼自身も死の淵を彷徨うこともあった難旅行であったが、ヘディンは[[1897年]][[3月]]まで西域各地を回った。そして2度目の探検旅行が[[1899年]][[6月]]に開始され、翌[[1900年]][[3月23日]]、楼蘭遺跡を偶然発見した。その翌年彼は楼蘭を再訪し若干の調査を行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Main|スヴェン・ヘディン}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヘディンの私的な探検旅行とほぼ同時期に[[タクラマカン砂漠]]を調査する探検隊がもう1つ存在した。それは[[インド帝国|イギリス領インド帝国]]の考古学調査局が派遣した[[オーレル・スタイン]]が率いる探検隊であった。スタインの探検隊に先立つ[[1889年]]にイギリス領インド帝国に勤務していたイギリス軍人バワー大尉は、かつてイギリス人の案内人を勤めていたヤルカンドの商人デルグライシュが、[[カラコルム峠]]で商売上のトラブルによって殺されたため、その犯人の調査を命令されていた。犯人を追ってクチャまで達したバワー大尉は、そこで現地人が廃墟から拾ってきたという古写本を購入し持ち帰った。（蛇足であるがこの時の殺人犯はその後[[サマルカンド]]で捕えられた。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
バワー大尉の持ち帰った古写本を調査したウェーバーやヘルンレといった学者達は直ちにこれが価値ある考古学遺物であることを認め、インド政庁に写本の収集を依頼した。インド政庁はこれを受けて各地で写本の収集を始め、またこの噂を聞いた[[ロシア帝国]]の[[カシュガル]]領事ペトロフスキーも古写本の収集を始めた。そしてこういった古写本の中にそれまでほとんど知られていなかったカローシュティー文字文書が見つかったため、ヨーロッパの学会において中央アジアの探検調査の重要性が認識されるに至った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした中でスタインの探検隊も[[1900年]]から西域へと派遣され大きな成果を上げた。この時は直接楼蘭の首都は調査していないが、[[ニヤ]]の町で現地人イブラヒムが見つけた木簡を見て重要性を認識し、彼の案内で[[ニヤ遺跡]]（チャドータ 精絶）の調査を行い100枚を超える木簡文書を発見した。そしてこの中に楼蘭王が出した命令書を見出したのである。スタインは同時期にヘディンが楼蘭遺跡を発掘していることは全く知らなかったが、インドに戻った後この発見を知った彼は2度目の調査を企画し、[[1906年]][[12月]]には楼蘭の遺跡を調査し、数多くの古文書を発見した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Main|オーレル・スタイン}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1908年]]には[[日本]]の[[大谷探検隊]]（第2次）が楼蘭を訪れた。西本願寺の[[大谷光瑞]]は非常な情熱を持って数次にわたる中央アジア調査を企画し、彼によって派遣された[[橘瑞超]]は楼蘭故城を訪れた。この時の調査によって『[[李柏文書]]』と呼ばれる有名な文書が発見されている。彼は[[1911年]]にもかつての楼蘭王国の領域を訪れて壁画などを収集した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本の探検隊はその後長く途絶えたが、ヘディンやスタインは繰り返し楼蘭の調査を行っている。彼らの調査は当時新しく成立した[[中華民国]]政府や文献の国外流出に怒る中国人学者達の強い反対を受けて難航したが、全ての調査に中国人を同行させることで同意を取り付けたり、道路建設のための調査依頼を受ける形での調査を行った。こうした苦労に報いるに十分な発見が[[1934年]]にヘディンによってなされた。[[新疆]]で発生していた[[回族]]の反乱のために彼は拘禁されていたが、偶然にもロプノール地方で[[灌漑]]の可能性の調査を命ぜられ現地の調査を行う事ができた。このとき彼は女性のミイラを発見したのである。この発見に興奮した彼はそのミイラに「ロプの女王」と言う名をつけたが、実際にこのミイラが女王のミイラであったかはわからない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 番組『シルクロード』の取材と中国の調査 ===&lt;br /&gt;
この時の調査以降、[[第二次世界大戦]]や[[国共内戦]]、更に中国の共産化などのため、暫くの間楼蘭の調査は途絶えた。再び楼蘭に大規模な調査隊が訪れるのは[[1979年]]の事である。これは日本の[[日本放送協会|NHK]]と中国の[[中央電視台]]による共同制作番組[[NHK特集 シルクロード|『シルクロード』]]の取材によるもので、この時中央電視台の要請によって中国人学者による調査隊が組まれたのである。このとき新たに[[楼蘭の美女|女性のミイラ]]が発見されている。翌年には更に大規模な調査が行われ大きな成果を上げた。この調査では初めて楼蘭の[[水源]]も明らかとなっている。その後も大規模な調査が繰り返し行われ、多くの知見が得られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1986年]]以降は[[新疆文化庁]]によって恒常的に調査が行われ、膨大な量の遺物が収集されている。[[1988年]]の日中共同調査では[[早稲田大学]]教授の[[長澤和俊]]や[[ジャーナリスト]]の[[轡田隆史]]も楼蘭故城の調査にあたり、外国人としては54年ぶりの楼蘭調査となった。しかし、現在は外国人による調査がほとんど許可されないため、中国人学者の手によって行われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
{{Commons|Loulan}}&lt;br /&gt;
* 長澤和俊 『楼蘭古城にたたずんで』（[[朝日新聞社]]、1989年 ISBN 4022560207）&lt;br /&gt;
* [[長澤和俊]] 『楼蘭王国史の研究』（[[雄山閣]]、[[1996年]] ISBN 4639013477）&lt;br /&gt;
* 赤松明彦 『楼蘭王国　ロプ・ノール河畔の四千年』（[[中公新書]]、[[2005年]] ISBN 4121018230） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:シルクロード|ろうらん]]&lt;br /&gt;
[[Category:中国の歴史的地名|ろうらん]]&lt;br /&gt;
[[Category:中国史に現れる周辺民族|ろうらん]]&lt;br /&gt;
[[Category:オアシス都市|ろうらん]]&lt;br /&gt;
[[Category:新疆ウイグル自治区の歴史|ろうらん]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>175.104.252.127</name></author>
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