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	<title>Wikippe - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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	<updated>2026-10-27T00:39:24Z</updated>
	<subtitle>利用者の投稿記録</subtitle>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%82%AC%E6%B2%96%E5%A4%9C%E6%88%A6&amp;diff=42598</id>
		<title>ルンガ沖夜戦</title>
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		<updated>2013-11-03T02:58:18Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;153.185.177.247: /* 日本軍側の評価 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Battlebox&lt;br /&gt;
|battle_name=ルンガ沖夜戦&lt;br /&gt;
|campaign=ソロモン諸島の戦い&lt;br /&gt;
|colour_scheme=background:#ffccaa;color:#2222cc&lt;br /&gt;
|image=[[File:Yoshio Shimizu, Night Battle off Lunga.jpg|300px]]&lt;br /&gt;
|caption={{small|[[清水良雄]]画伯 (1891-1954) 『ルンガ沖夜戦』}}&lt;br /&gt;
|conflict=[[大東亜戦争]] / [[太平洋戦争]]&lt;br /&gt;
|date=1942年11月30日&lt;br /&gt;
|place=[[ガダルカナル島]]、[[タサファロンガ沖]]&lt;br /&gt;
|result=日本軍の[[戦術]]的勝利・アメリカ軍の[[戦略]]的勝利&lt;br /&gt;
|combatant1={{JPN1889}}&lt;br /&gt;
|combatant2={{USA1912}}&lt;br /&gt;
|commander1=[[田中頼三]]少将&lt;br /&gt;
|commander2=[[カールトン・H・ライト]]少将&lt;br /&gt;
|strength1=駆逐艦8&lt;br /&gt;
|strength2=重巡洋艦4&amp;lt;br /&amp;gt;軽巡洋艦1&amp;lt;br /&amp;gt;駆逐艦6&lt;br /&gt;
|casualties1=駆逐艦1沈没&lt;br /&gt;
|casualties2=重巡洋艦1沈没&amp;lt;br /&amp;gt;重巡洋艦3大破&lt;br /&gt;
|}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;ルンガ沖夜戦&#039;&#039;&#039;（ルンガおきやせん）とは、[[1942年]][[11月30日]]夜に[[ガダルカナル島]][[ルンガ岬]]の沖にて[[大日本帝国海軍|日本海軍]]と[[アメリカ合衆国海軍|アメリカ海軍]]の間で行われた[[海戦]]である。連合軍側の名称は&#039;&#039;&#039;タサファロング沖海戦&#039;&#039;&#039;（Battle of Tassafaronga）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経緯 ==&lt;br /&gt;
[[第三次ソロモン海戦]]（1942年11月14日）後、ガダルカナル島周辺海域の制空権を失った日本海軍は、同島の日本陸軍への補給を闇夜に駆逐艦の高速に頼って行うしかなかった。この輸送は、自嘲的に[[鼠輸送]]（米軍側は「Tokyo Express（東京急行）」）と呼ばれた。この輸送をいち早く察知した米海軍は、その阻止のために[[カールトン・ライト]]少将率いる第67任務部隊（ライト部隊）をガダルカナル島沖に派遣する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、日本軍では[[田中頼三]]少将率いる[[第二水雷戦隊]]の駆逐艦8隻で構成される輸送部隊が1942年11月29日、[[ショートランド諸島|ショートランド]]を出撃し、一路ガダルカナルへ向かっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この輸送では短時間で確実に食料を日本軍陸上部隊に供給するために、洗浄したドラム缶に糧食を半分だけ詰めて密封(これでドラム缶は浮く)、これをロープで数珠つなぎにしてガダルカナル沿岸で海上に投入しロープの端を海岸の日本軍陸上部隊に渡して、ドラム缶を手繰り寄せる方法をとった。この部隊はそのために、警戒隊として参加する旗艦「長波」、「高波」を除いた駆逐艦6隻の次発装填用予備魚雷を陸揚げして、その空いたスペースも含めて各艦200 - 240個のドラム缶を積載していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
昼間は第一警戒航行序列（三列梯形）、夜間は第二警戒航行序列（単縦陣）で米軍の奇襲を警戒しつつ進撃した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参加艦艇 ==&lt;br /&gt;
=== 日本 ===&lt;br /&gt;
*第一次ガ島増援部隊（[[田中頼三]]少将）&lt;br /&gt;
**第二水雷戦隊（田中少将直卒）&lt;br /&gt;
***警戒隊&lt;br /&gt;
****第三一駆逐隊：駆逐艦「[[長波 (駆逐艦)|長波]]」「[[高波 (駆逐艦)|高波]]」&lt;br /&gt;
***第1輸送隊&lt;br /&gt;
****第一五駆逐隊：駆逐艦「[[黒潮 (駆逐艦)|黒潮]]」「[[親潮 (駆逐艦)|親潮]]」「[[陽炎 (陽炎型駆逐艦)|陽炎]]」&amp;lt;!-- [[ファイル:Kawakaze-1.jpg|200px|right|駆逐艦「江風」]] 画像は江風ではない。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
****第三一駆逐隊：駆逐艦「[[巻波 (駆逐艦)|巻波]]」&lt;br /&gt;
***第2輸送隊&lt;br /&gt;
****第二四駆逐隊：駆逐艦「[[江風 (白露型駆逐艦)|江風]]」「[[涼風 (駆逐艦)|涼風]]」&lt;br /&gt;
[[ファイル:USS New Orleans (CA-32).jpg|thumb|200px|right|重巡「ニューオリンズ」]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アメリカ ===&lt;br /&gt;
*第67任務部隊（カールトン・Ｈ・ライト少将）&lt;br /&gt;
**重巡「[[ニューオーリンズ級重巡洋艦|ミネアポリス]]」「[[ノーザンプトン (重巡洋艦)|ノーザンプトン]]」「[[ペンサコラ級重巡洋艦|ペンサコラ]]」「[[ニューオーリンズ級重巡洋艦|ニューオリンズ]]」&lt;br /&gt;
**軽巡「[[ブルックリン級軽巡洋艦|ホノルル]]」&lt;br /&gt;
**駆逐艦「[[フレッチャー_(DD-445)|フレッチャー]]」「ドレイトン」「モーリー」「パーキンス」「ラムソン」「ラードナー」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦闘経過と結果 ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:Battle_of_tassafaronga_map.jpg|thumb|300px|right|ルンガ沖夜戦図]]&lt;br /&gt;
11月30日19時40分（以後時間表記は数字のみ）、日本艦隊はガダルカナル島近海に到達する。この際の日本艦隊の隊列は田中少将座乗の旗艦「長波」が日本軍伝統の指揮官先頭に反し、隊列中央に配される形で形成されており、先頭から警戒隊の「高波」、第15駆逐隊の「黒潮」「親潮」「陽炎」、第31駆逐隊の「巻波」、旗艦「長波」、第24駆逐隊の「江風」「涼風」の順に配列されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2000、「高波」が前路警戒のため先行、艦隊から分離する。艦隊は陸上部隊の待つタサファロング泊地へ向け、速度を30[[ノット|㏏]]から減速しつつドラム缶の投入準備を始めた。この時、ガダルカナル沖合の天候は晴れ、北東の風4m、視程10km、月齢21とかなり見通しのいい夜であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2106、アメリカ艦隊が日本艦隊を発見する。ライト部隊の旗艦・重巡「ミネアポリス」のレーダーが前方20kmに日本艦隊の隊列を探知。ライト少将は攻撃をかけるべく平行反航態勢に米艦隊の針路を設定し直ちに攻撃態勢をとった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2112、日本艦隊もアメリカ艦隊を発見する。単艦で前路警戒についていた「高波」見張員が左45度、距離6000mに敵駆逐艦を発見。直ちに「高波」から日本艦隊へ「敵発見」の緊急警報が発せられたが、距離的に近すぎ、揚陸準備に入っていた日本軍としてはほぼ奇襲を受けた形になった。「高波」は艦長小倉正身中佐が即座に「左砲雷同時戦」の命令を下し襲撃運動に入った。一方で輸送隊でも2113、「黒潮」見張員が敵艦隊を発見したが、本来の輸送任務を優先して米艦隊をやり過ごそうとしていた。しかし、米艦隊の動きは明らかに輸送隊に対しての攻撃運動であることが見張員の報告から明らかになり、2116、田中少将は麾下部隊に対し「&#039;&#039;&#039;揚陸止め!戦闘、全軍突撃せよ&#039;&#039;&#039;」との命令を下す。各艦は直ちにドラム缶を固縛しなおし、固縛が間に合わなかったものや、魚雷発射の邪魔になるドラム缶は海中投棄して、増速しつつ魚雷の起動弁を開いて襲撃運動に入った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2120、ライト少将は前衛部隊の駆逐艦4隻に攻撃開始を許可する。この時点で「高波」は前衛部隊の魚雷の射界から外れており、代わりに輸送隊に対してレーダー照準で魚雷を計20本発射した。しかしこれらの魚雷は距離が遠すぎて届かなかったり、あらぬ方向に走っていったりと一本も命中しなかった。しかし、巡洋艦部隊が距離9000mで砲撃を開始。その全てが一番米艦隊に接近していた「高波」への砲撃であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
敵艦隊の猛烈な砲撃を受けた「高波」ではあったが果敢にも反撃に転ずる。主砲による初弾が敵駆逐艦に命中、更に第二斉射も別の敵駆逐艦に命中。両艦は火災となり、この火災の明かりが米艦隊をくっきりと浮かび上がらせることになる。「高波」は魚雷8本も発射したが直後に一番、二番連管に立て続けに被弾し、更に缶室にも被弾、航行不能となる。この後五十発以上の砲弾を浴び、艦橋、主砲は全滅。洋上に停止し炎上することとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「高波」が集中攻撃を浴びている間に輸送隊は態勢を立て直していた。まず旗艦「長波」が射点を捉えて魚雷を発射すると右反転して避退した。続く第二輸送隊の「江風」、「涼風」も魚雷を発射すると左反転、「長波」を追うように避退する。隊列の先頭を行く第一輸送隊の駆逐艦4隻は第十五駆逐隊司令佐藤寅治郎大佐に率いられ一旦米艦隊をやり過ごすために東進してから右反転。ここで「陽炎」と「巻波」が前続艦を見失って分離する。しかし残った「黒潮」と「親潮」は敵艦隊の左舷後方からじっくり狙い、2128、「黒潮」が魚雷を発射すると「親潮」も魚雷を発射して戦場を離脱していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうして日本軍の攻撃は終了し、次発装填魚雷が無いため戦場離脱を図った日本軍を尻目に米艦隊は「高波」に集中砲撃を浴びせ続けていた。そこへ日本軍の魚雷が襲い掛かったのである。&lt;br /&gt;
日本軍のどの艦の発射した魚雷がどの米艦に命中したのかは、余りにも日本軍の発射本数が多くまた時間も重複したため明らかではないが、とにかくこれで米巡洋艦部隊は壊滅的被害を受けた。&lt;br /&gt;
[[ファイル:USS Minneapolis after Tassafaronga.jpg|thumb|250px|被雷し大損害を被って何とかツラギに帰投した米重巡「ミネアポリス」。2本の被雷により第一砲塔直前から艦首が完全に沈下してしまっている。この後損傷修理に一年を要した。]]&lt;br /&gt;
2127、先頭を行く「ミネアポリス」が被雷したのを皮切りに、米艦隊は次々に被雷、壊滅的な損害を被ることになる。&lt;br /&gt;
*一番艦の重巡「ミネアポリス」は艦首に2本被雷。同艦は艦首が第一砲塔直前から垂れ下がって、速力が急速に低下して戦列を離脱する。&lt;br /&gt;
*二番艦の重巡「ニューオリンズ」は、速力低下を起こした旗艦を回避しようと[[面舵]]を取った直後に左舷前部に魚雷が一本命中。これが第一砲塔弾薬庫を誘爆させて二番砲塔前部から艦首が切断。「ニューオリンズ」艦尾にいた水兵が沈没していく「ミネアポリス」とすれ違ったと思い、よくよく見てみると40m近くも切断された自艦の艦首部が流れていくところだったという証言も残っている。同艦は速力が5ktまで低下し、この後必死の戦場離脱を図ることとなる。&lt;br /&gt;
*三番艦の重巡「ペンサコラ」は「ミネアポリス」を避けるため[[取舵]]をとった直後にやはり被雷。艦橋直下に命中した1本の魚雷により重油タンクに火がついた同艦は大火災を起こしたが、主砲電路と共に消防主管も破壊されたために消火活動も出来ずにこの艦もまた戦場離脱を図ることとなった。&lt;br /&gt;
*四番艦の軽巡「ホノルル」は被雷せず、前の3艦を避けて艦隊右前方に進出して避退していく日本軍に対して砲撃を仕掛けたが、一発も命中しなかった。&lt;br /&gt;
*五番艦の重巡「ノーザンプトン」は「ホノルル」のような幸運は巡ってこなかった。「ペンサコラ」被雷より10分後、第一輸送隊からはぐれて2艦のみで追撃してきた「陽炎」と「巻波」が絶好の射点から魚雷を発射。この魚雷が「ノーザンプトン」の左舷後部に2本命中。機関室に大穴をあけられた「ノーザンプトン」はたちまち航行不能となり、左舷に急速に傾斜すると転覆、艦尾から沈んでいった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:Survivors on PT boat after Tassafaronga.jpg|thumb|250px|right|ツラギに帰投したニューオリンズ（右奥）。艦首が完全に切断してしまっている]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
米駆逐艦部隊は前衛として4隻、後衛として2隻いたが巡洋艦部隊が壊滅していくのを見て戦場を離脱していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうしてこの海戦は終了した。日本駆逐艦は「高波」を除いて全て戦場を離脱しており、米艦隊も無事な艦は一旦戦場を離脱していた。戦場に残されていたのは炎上し続けていた「高波」と深刻な損傷を受けた米重巡3隻のみであった。日本軍はサボ島西方海面まで一旦離脱した後、田中少将から命令を受けた第十五駆逐隊の「黒潮」「親潮」が「高波」の生存者救出に戦闘海域に引き返す。2300、「高波」に横付け作業を始めた「黒潮」と「親潮」であったがこの直後、見張員が距離3000mに米重巡を発見。魚雷を撃ちつくした駆逐艦2隻では重巡と勝負にならないので、やむなく両艦は生存者救助を打ち切って戦場を離脱した。この米巡洋艦は「高波」に500mまで接近したが、何もせずにそのまま離れていったという。この巡洋艦は「ペンサコラ」であったといわれている。(先述したように「ペンサコラ」は主砲電路を断たれていた)「高波」はその後、急速に傾いたために生存者は次々と海に飛び込み退去したが、その直後に米駆逐艦が接近して「高波」に魚雷を発射、このうち一本が「高波」に命中して同艦は沈没。この際、搭載爆雷が誘爆して付近を泳いでいた生存者が次々と圧死した。さらに「高波」から流出していた重油に引火して火災となり、相当数の戦死者を出すこととなった。結局、ガダルカナルの日本軍基地までたどり着いた生存者は准士官以上4名、下士官兵29名の僅か33名であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 海戦後 ==&lt;br /&gt;
海戦には勝ったとはいえ、目的であった輸送には失敗した日本軍は四日後の12月3日、再び田中少将指揮の下、ルンガ沖海戦の残存艦に第四駆逐隊(「[[嵐 (駆逐艦)|嵐]]」「[[野分 (陽炎型駆逐艦)|野分]]」)と駆逐艦「[[夕暮 (初春型駆逐艦)|夕暮]]」の計10隻の駆逐艦により第二次輸送作戦を行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方米軍は先の戦訓を活かし、狭い海域に巡洋艦を投入する愚を悟り、以後は航空機（直掩の[[零戦]]隊が引き上げた後に[[薄暮攻撃]]）と魚雷艇のみによる待ち受け作戦に切り替えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二次輸送部隊は進撃中に延べ80機にも及ぶ断続的な空襲を受けたが、上空直掩の[[零式水上観測機|零観]]隊の活躍もあり、「巻波」が至近弾で小破しただけでタサファロング泊地に1500個のドラム缶を投入。12月4日に無事ショートランドに帰投した。ところが、この投入したドラム缶群は明け方になって米戦闘機部隊の銃撃によって大半が沈められてしまい、陸上部隊が回収できたのは僅か310個に過ぎなかった。本来は夜のうちに回収する予定であったが、飢えて体力の落ちた陸上部隊の兵たちが、ドラム缶引揚の重労働に耐えられなかったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
12月7日に開始された第三次輸送は空襲により「野分」が大破、航行不能となった上、タサファロング泊地で米魚雷艇の激しい妨害攻撃に遭いドラム缶投入を断念。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
12月11日に開始された第四次輸送では[[山本五十六]]連合艦隊司令長官の直々の激励電文が発せられるなど、日本海軍の威信をかけた作戦であったが、ドラム缶投入中に就役したばかりの最新鋭駆逐艦であった旗艦「[[照月 (駆逐艦)|照月]]」に魚雷2本が命中、撃沈される被害を受けた。更に1200個投入したドラム缶がやはり敵戦闘機の銃撃でわずか220個しか陸上部隊が回収できなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この作戦失敗により駆逐艦輸送は断念され空中補給及び潜水艦輸送(もぐら輸送と呼ばれた)に切り替えられたが、これも被害が多い割には成果も上がらず、12月27日、大本営で行われた図上演習で「ガ島奪回の成算無し」との結果が出るに至り、12月31日、[[御前会議]]にてガダルカナル島撤退が正式決定された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 評価 ==&lt;br /&gt;
この戦いは戦術的には日本軍の一方的勝利といってよい。これは九三式魚雷、通称[[酸素魚雷]]に拠るところが大きい。この魚雷は当時の魚雷の中では最大級の破壊力を持つものであり、直径61cm、頭部の炸薬は490kgとアメリカ軍の艦載用魚雷であったMk.15魚雷の直径53cm、炸薬375kgに比べ段違いの破壊力で、且つMk.15の射程4500m/45ktに対して酸素魚雷は射程20,000m/48ktと4倍以上の射程がある上、航跡がほとんど見えないので発見が困難という強力な兵器であった。日本軍の駆逐艦の中では[[白露型駆逐艦]]から搭載されており、この海戦に参加した日本軍の駆逐艦は白露型駆逐艦の「江風」、「涼風」を除いて全て最新鋭の水雷戦用艦隊型駆逐艦である[[陽炎型駆逐艦]]及びその改良型である[[夕雲型駆逐艦]]であり、全艦が九三式魚雷搭載艦であった。従って米巡洋艦部隊は回避する間もなく立て続けに被雷した上に、たった一本の被雷で戦闘不能に追い込まれるような大損害を被ったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、日本軍は海戦では大勝利を挙げたものの肝心の輸送作戦としては完全に失敗であった。従って日本軍の完全な戦術的勝利ではあったが、輸送作戦を阻止したということではアメリカ軍の完全な戦略的勝利でもあった。そして以後、太平洋戦争の海戦における夜戦において日本軍の完全勝利といえるものはこの海戦が最後となる&amp;lt;ref&amp;gt;この後も[[コロンバンガラ島沖海戦]]のように、日本軍の大勝利と言える海戦は散見される。しかしながら損傷艦については一般に周知されにくいため、知名度の点で大きく劣っている現状は否めない。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、この戦いでは日本軍に対する評価、特に田中少将の指揮に対して日本とアメリカでの評価が180°異なる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本軍側の評価 ===&lt;br /&gt;
日本軍側では田中少将に対して非常に批判的であった。その理由は大きく分けて三つある。&lt;br /&gt;
* 戦略目標である輸送作戦を放棄し、戦術的な戦闘を優先させた（「戦艦の１、２隻を撃沈するより、輸送任務を完遂するべきだ」&amp;lt;ref&amp;gt;日本側の戦況報告では「戦艦１撃沈」となっており、アメリカ側の戦況報告では「重巡洋艦数隻を含む日本艦隊が」となっている。双方とも夜戦という事もあいまって、正確な敵情把握ができていない&amp;lt;/ref&amp;gt;）&lt;br /&gt;
* 田中少将の旗艦「長波」は戦闘が始まると真っ先に魚雷を撃ってさっさと避退してしまい、以後二水戦司令部は全く指揮を取らなかった。これにより統制された指揮が行われず、&amp;quot;被害担任艦&amp;quot;となった「高波」が一身に米艦隊の攻撃を受けて時間を稼いでくれたおかげで他の艦は態勢を立て直して攻撃をかけることが出来、また各駆逐艦艦長及び各駆逐隊司令の適切な判断により大きな戦果を挙げられたのであり二水戦司令部の功績ではない。また、「長波」は「高波」が沈没した後では日本艦隊の中では唯一次発装填魚雷を持っていた(先述したように「長波」「高波」は警戒隊であったため次発装填魚雷を下ろしていない)にも関わらず、再攻撃を企図しようともしていない上、魚雷を撃ち尽くしたほぼ丸腰に近い第十五駆逐隊のみでの生存者救助の為の戦場再突入命令を出している。&lt;br /&gt;
* 艦隊の隊列が日本軍伝統の&#039;&#039;&#039;&amp;quot;指揮官先頭&amp;quot;&#039;&#039;&#039;ではなく旗艦「長波」は隊列中央に配置されていた。これは司令部が逃げ腰であったことの証左である。&lt;br /&gt;
消極的な戦闘指揮という点においてはこの海戦以前にも田中は[[スラバヤ沖海戦]]で同様の批判を浴びており、1番目は大本営海軍部、2・3番目は実際に戦った駆逐艦長クラス、隊司令クラスから出た批判であり、まさに上下からの批判の挟み撃ちであった。これが影響したのか海戦から一ヵ月後、田中少将は突如二水戦司令官を解任され以後二度と海上勤務に戻ることは無かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方でこういった評価に対して後世においては田中を擁護する評価もある。&lt;br /&gt;
* 日清戦争の黄海海戦、日露戦争の日本海海戦以来「指揮官先頭」は日本海軍の伝統的ルールであり、これに反すると海軍部内（特に砲術科出身）からは白い目で見られてしまう。しかし、これを墨守した為に真っ先に司令官が「戦死」するケースも散見される（[[吉川潔]]、[[佐藤康夫]]の項を参照）が、この点については特に海軍部内で問題視された形跡は無い。田中少将は、殊更に勇猛さが尊ばれ、結果よりも過程が重視される日本海軍の司令官には、気質的に向いていなかったと思われる。&lt;br /&gt;
* 航空機の力を正当に評価していた（これまでに従事した作戦において、その威力に悩まされ続けていた）為、ドラム缶輸送には当初から反対し&amp;lt;ref&amp;gt;搭載量の少ない決戦用駆逐艦を輸送任務に使う事に反対の意見具申を行っていた（半藤一利「ルンガ沖夜戦」より&amp;lt;/ref&amp;gt;、南東正面を担当した[[三川軍一]]司令官と不仲に陥った（同司令官は[[第一次ソロモン海戦]]の司令官で、航空機の護衛なしで大戦果を挙げた）。これも左遷原因の１つとされている。&lt;br /&gt;
* 脱落艦の乗員救助を「旗艦」自らが行うことはあまり例を見ない。また、これを実施した場合「脱落しなかった艦の指揮を放棄」して乗員救助を行う事になり、どちらが良いかは当時の組織の考え方による（前述の第一次ソロモン海戦においては、戦闘中は完勝だったが、帰還途中に潜水艦の雷撃を受け重巡洋艦を１隻喪失している。帰港するまでは司令官の仕事と言える。）。ただし魚雷を持っている艦が行うべきか否かは当然、議論の対象となる。&lt;br /&gt;
* 作戦自体に反対していたので「及び腰」なのは事実であろうが、「逃げ腰」であるとの批判は誤りである。田中少将は戦闘中も冷静であり、[[ノーザンプトン (重巡洋艦)|ノーザンプトン]]からの砲撃を受けている最中に「（敵艦の砲撃は）照準はいいが、修正がまずい」と、のんびりした口調で批評していたと言われる&amp;lt;ref&amp;gt;二水戦主席参謀・遠山安巳中佐の証言（半藤一利「ルンガ沖夜戦」より）&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、この時の突撃命令は「損失軽減のための一撃離脱」を目的とするものであったが（敵は戦艦１を含むと推定されていた）、駆逐艦長クラス、隊司令クラスには「戦艦襲撃」に勇躍して、命令の趣旨が理解できていなかった（彼らからは１番目の批判がなされていない）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アメリカ軍側の評価 ===&lt;br /&gt;
アメリカ軍は田中少将の指揮を絶賛している。特にアメリカ海軍の準公刊戦史とも言える「アメリカ海軍作戦史」を刊行したS・E・モリソンは、これは突撃命令を出した時期が極めて適切であって、十分敵を引き付けておいて突撃命令を出しその飽和雷撃によって米巡洋艦部隊に大打撃を与えたその判断力とよく訓練された日本の駆逐艦部隊の動きを絶賛し、アメリカ軍巡洋艦部隊は正にしてやられた、としている。むしろ被害担任艦になった「高波」は日本軍の態勢が整う前に過早に発砲したので一方的な攻撃を受けることとなった、と批判している。そして「田中こそ不屈の闘将である」と言って、田中少将に&amp;quot;redoubtable Tanaka&amp;quot;（不屈の猛将・田中）というあだ名をつけた。&lt;br /&gt;
* ただしこの評価については結果を重視するあまり過程の分析がやや不足（分析内容が日本軍側の実態と異なる）という後世の評価もある。ただ不確定要素が多過ぎる「戦場」において完全を期するのは難しいという前提をもってすれば、結果をかなり重視するのは、正当な分析の仕方とも言える（米軍司令官の行動は、レーダー読み取りの錯誤や可燃物の撤去不足を除けば、しごく当然の指揮内容であり、過程のみを見れば批判されるべき内容は少ない）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
尚、当の田中少将は解任された件に関してその後の生涯において一切語らなかった。ただ、アメリカ側からの評価については作家[[半藤一利]]のインタビューに対して「私は突撃命令を出しただけ。後は全部部下の功績」と語っており、[[1969年]]に没している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 損害 ==&lt;br /&gt;
=== 日本 ===&lt;br /&gt;
* 沈没：駆逐艦「高波」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===アメリカ===&lt;br /&gt;
* 沈没：重巡「ノーザンプトン」&lt;br /&gt;
* 大破：重巡「ミネアポリス」「ペンサコラ」「ニューオリンズ」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* [[半藤一利]]『ルンガ沖夜戦』&lt;br /&gt;
: （[[PHP研究所]]、2000年） ISBN 4-569-60943-0&lt;br /&gt;
: （PHP文庫、2003年） ISBN 4-569-57981-7&lt;br /&gt;
* ラッセル・クレンシャウ 著＼岡部いさく 訳・監修＼岩重多四郎 訳『ルンガ沖の閃光 &amp;lt;small&amp;gt;日本海軍駆逐艦部隊対アメリカ海軍巡洋鑑部隊&amp;lt;/small&amp;gt;』（大日本絵画、2008年） ISBN 978-4-499-22973-9&lt;br /&gt;
* 佐藤和正『太平洋海戦2 激闘篇』（[[講談社]]、1988年） ISBN 4-06-203742-4&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[太平洋戦争の年表]]&lt;br /&gt;
* [[大日本帝国海軍艦艇一覧]]&lt;br /&gt;
* [[第二次世界大戦]] - [[太平洋戦争]]&lt;br /&gt;
* [[海軍]] - [[大日本帝国海軍]]- [[アメリカ海軍]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Commons|Category:Battle of Tassafaronga}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:るんかおきやせん}}&lt;br /&gt;
[[Category:1942年の日本]]&lt;br /&gt;
[[Category:太平洋戦争の海戦]]&lt;br /&gt;
{{War-stub}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Link FA|en}}&lt;br /&gt;
{{Link FA|es}}&lt;/div&gt;</summary>
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