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	<title>Wikippe - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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	<updated>2026-09-02T21:01:19Z</updated>
	<subtitle>利用者の投稿記録</subtitle>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E5%B9%B3%E7%94%B0%E9%9D%B1%E8%B2%A0&amp;diff=202938</id>
		<title>平田靱負</title>
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		<updated>2014-05-02T13:06:50Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;153.132.85.156: /* 関連項目 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{基礎情報 武士&lt;br /&gt;
| 氏名 = 平田靱負&lt;br /&gt;
| 画像 =&lt;br /&gt;
| 画像サイズ =&lt;br /&gt;
| 画像説明 = &lt;br /&gt;
| 時代 =[[江戸時代]]中期&lt;br /&gt;
| 生誕 =[[宝永]]元年[[8月12日 (旧暦)|8月12日]]（[[1704年]][[9月10日]]）&lt;br /&gt;
| 死没 =[[宝暦]]5年[[5月25日 (旧暦)|5月25日]]（[[1755年]][[7月4日]]）&lt;br /&gt;
| 改名 =宗武、宗輔、正輔&lt;br /&gt;
| 別名 =次郎兵衛・新左衛門、掃部、靱負&lt;br /&gt;
| 諡号 =&lt;br /&gt;
| 神号 =&lt;br /&gt;
| 戒名 =&lt;br /&gt;
| 霊名 =&lt;br /&gt;
| 墓所 =[[大黒寺　(京都市伏見区)|大黒寺]]&lt;br /&gt;
| 官位 =&lt;br /&gt;
| 幕府 =&lt;br /&gt;
| 主君 =&lt;br /&gt;
| 藩   =[[薩摩藩]][[家老]]&lt;br /&gt;
| 氏族 =&lt;br /&gt;
| 父母 =&lt;br /&gt;
| 兄弟 =&lt;br /&gt;
| 妻   = [[肝付兼柄|肝付主殿兼柄]]の娘（母方の従姉妹。のち離婚）&amp;lt;br /&amp;gt;後妻：[[種子島久時 (18代)|種子島蔵人久時]]の娘&lt;br /&gt;
| 子   = 平田正温、平田正香&lt;br /&gt;
| 特記事項 =&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;平田 靫負&#039;&#039;&#039;（ひらた ゆきえ）は、[[江戸時代]]中期の[[薩摩藩]][[家老]]。[[宝暦]]3年（[[1753年]]）の[[木曽三川]]分流工事（[[宝暦治水事件]]）の責任者。父は[[平田正房]]、母は島津準3男家の島津助之丞忠守の娘。[[諱]]は宗武のち、宗輔、正輔。[[通称]]は初め次郎兵衛のち、新左衛門、掃部、靱負。宝暦治水の責任をとって自害した後に、孫の平田袈裟次郎が家督相続する（「平田靱負関係資料」参照）。その時の[[石高]]は533石（「嶋津家分限帳」参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 宝暦治水以前の経歴 ==&lt;br /&gt;
[[画像:Statue_of_Yukie_Hirata_in_Kagoshima.JPG|thumb|200px|鹿児島市平之町の平田公園内にある平田靱負像]]&lt;br /&gt;
:以下は[[鹿児島県立図書館]]所蔵の「平田靱負関係資料集」の『平田氏系図』参照&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[正徳 (日本)|正徳]]2年（1712年）4月15日：[[島津吉貴]]の加冠をうけて[[元服]]し、平蔵から兵十郎に改名。&lt;br /&gt;
*[[享保]]2年（1717年）：藩法により、将軍[[徳川吉宗]]の諱の字を避け、諱を「正輔」と改名。&lt;br /&gt;
*享保14年（1729年）12月25日：物頭に就任。なお、当時の物頭には[[示現流]][[剣術]]高弟である[[薬丸兼慶]]がいた。&lt;br /&gt;
*享保20年（[[1735年]]）：この年の旧暦2月2日に父の隠居により家督相続。また同年、[[日向国]][[諸県郡]]馬関郷[[地頭]]兼任。なお、当時の通称を次郎兵衛に改名していた。&lt;br /&gt;
*[[元文]]4年（1739年）1月11日：[[用人|御用人]]に就任。&lt;br /&gt;
*元文6年（[[1741年]]）2月21日：日向国諸県郡勝岡郷地頭に転じる。&lt;br /&gt;
*[[寛保]]3年（1743年）6月7日：大目付に就任。&lt;br /&gt;
*寛保4年（[[1744年]]）1月11日：[[薩摩国]][[阿多郡]]伊作郷《現在の[[日置市]]吹上町》地頭に転じる。当時の通称は新左衛門に改名していた。&lt;br /&gt;
*[[延享]]5年（[[1748年]]）1月21日：[[島津宗信]]より家老に任じられ、同時に薩摩国伊佐郡大口郷《現在の[[伊佐市]]大口地区》地頭職兼務。両方とも死去まで勤める。この任期中、通称を新左衛門から掃部、靱負の順に改める。また、職田1千石を賜る。&lt;br /&gt;
*[[寛延]]元年（1748年）9月9日：宗信の[[江戸]]上府に[[琉球王国]]の[[尚敬王]]の[[慶賀使]]が同行するが、この引率を命じられ、この日、[[鹿児島城]]下を発つ。&lt;br /&gt;
*同年11月11日：この日、芝藩邸に入る。また、11月15日に[[江戸城]]に登城し、将軍[[徳川家重]]に拝謁し、さらに慶賀使正使の具志川王子とともに[[徳川家治]]に拝謁。&lt;br /&gt;
*寛延4年（1751年）4月15日：4月に宗信が帰藩したために江戸留守家老となり、この日に再度、徳川家重、家治親子に拝謁。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 宝暦治水 ==&lt;br /&gt;
1753年（宝暦3年）、[[徳川幕府]]は[[琉球]]との貿易によって財力を得ていた薩摩藩を恐れて、毎年氾濫による被害が多発していた[[木曽三川]]の分流工事を薩摩藩に命じる。工事費用は薩摩藩が全額負担、[[大工]]などの専門職人を一切雇ってはならないとした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
露骨な弾圧政策に薩摩藩は幕府への反発を極め、このまま潰されるくらいなら一戦交えようという過激な意見まで噴出したが、平田が「民に尽くすもまた武士の本分」と説破して工事を引き受けることとなり、平田は総奉行となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
40万両にも上る工事費用を捻出するため[[大坂]]豪商から借金を重ね、幕府へもたびたび専門職人の雇用許可を要請するも許可は下りず、工事のやり直しを命じられることがしばしばあった。工事に派遣された薩摩藩士達の[[過労]]や[[伝染病]]による死亡が相次ぎ、また幕府に抗議して[[切腹]]する薩摩藩士達も続出した（この時には、本来監視役のはずの徳川家からも、薩摩藩に同情して抗議の切腹を行う武士が二名いたほどである）。この件に関して、平田は幕府との摩擦を回避するため、切腹した藩士たちを[[事故死]]として処理している。薩摩藩は最終的に病死33名、自殺者52名という多大な殉職者を出している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
分流工事は着工より1年3ヶ月ほどでようやく完成したが、平田は藩への多大な負担の責任を取り自害、享年50。遺体は[[山城国]][[伏見]]の[[大黒寺 (京都市伏見区)|大黒寺]]に葬られ、遺髪は鹿児島城下の妙国寺に埋められる。藩主[[島津重年]]も心労で、後を追うように翌月に27歳で病没している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
辞世の句は「住みなれし 里も今更 名残りにて 立ちぞわづらふ 美濃の大牧」。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==エピソード==&lt;br /&gt;
[[画像:治水神社01.jpg|thumb|200px|right|治水神社]]&lt;br /&gt;
[[画像:平田靭負.JPG|thumb|200px|right|桑名市にある平田靱負像]]&lt;br /&gt;
*鹿児島では「平田靱負」は小学校の道徳の副読本に掲載されており、その名を知らない人はいないと言っても過言ではない。また、岐阜県及び愛知県の郷土史および道徳の副読本にも宝暦治水のくだりでは中心人物として取り上げられており、知名度は高い。&lt;br /&gt;
*平田靱負の屋敷のあった場所（[[鹿児島県]][[鹿児島市]][[平之町]]）は現在、平田公園となり平田靱負の銅像がある。命日にあたる毎年5月25日、[[薩摩義士]]頌徳慰霊祭が行われている。&lt;br /&gt;
*[[岐阜県]]の[[海津郡]]（消滅）にかつて存在した[[平田町 (岐阜県)|平田町]]（現・[[海津市]]）は、平田靱負の功績に因んで付けられた町名である。その海津市平田町三郷にも平田公園があり、平田靱負の銅像がある。&lt;br /&gt;
*[[三重県]][[桑名市]]の海蔵寺には、桑名市指定史跡である薩摩義士墓所があり、宝暦治水事件で犠牲となった平田靱負ら薩摩義士が祀られ、21基の墓石が現存する。また、平田靱負像もある。&lt;br /&gt;
*鹿児島県と岐阜県の姉妹県盟約、鹿児島市と[[大垣市]]の[[姉妹都市]]盟約は、この平田靱負の治水工事に端を発している。&lt;br /&gt;
*遺髪は妙国寺に埋められたが、[[廃仏毀釈]]により明治の初めに妙国寺から新照院墓地に移された。さらに昭和に入って国道三号線の拡張工事に伴い、直系の子孫であった平田ハナが住む[[肝属郡]]高山町（現在の[[肝付町]]）の丸岡公園墓地へ移転。平田靱負の命日にあたる毎年5月25日には親族によって慰霊祭が行われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 妻子 ==&lt;br /&gt;
*妻：肝付主殿兼柄の娘（母方の従姉妹。のち離婚）&lt;br /&gt;
*後妻：種子島蔵人久時の娘&lt;br /&gt;
*息子：平田正温、平田正香（ともに父より先に死去。詳細不明）&lt;br /&gt;
*孫：平田袈裟次郎（のち平田正休）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[千本松原 (岐阜県)]]&lt;br /&gt;
*[[輪中]]&lt;br /&gt;
*[[御囲堤]]&lt;br /&gt;
*[[治水神社]] - 海津市[[海津町]]油島、平田ら殉職した[[薩摩藩]]士85名を祭神とする。&lt;br /&gt;
*[[ヨハニス・デ・レーケ]] - [[お雇い外国人]]で「[[木曽三川分流工事]]」を設計指導。&lt;br /&gt;
*[[杉本苑子]]『孤愁の岸』 - [[講談社文庫]]ほか、[[直木賞]]受賞作、度々舞台化。&lt;br /&gt;
*[[みなもと太郎]]『[[風雲児たち]]』 - [[潮出版社]]版[[コミック]]、最終巻の第30巻で[[宝暦治水事件]]を描く。&lt;br /&gt;
*[[平田弘史]] 劇画『[[薩摩義士]]伝』 - [[リイド社]]で新版全5巻、同社に「ワイド版風雲児たち」もある。&lt;br /&gt;
*[[その時歴史が動いた]] 『[[NHK]]』 -  平田靱負を主軸として[[宝暦治水事件]]を放送した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://kanko.city.kuwana.mie.jp/history/kaizoji/index.html 桑名市観光ガイド・海蔵寺概要]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ひらた ゆきえ}}&lt;br /&gt;
[[Category:薩摩藩の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:岐阜県の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:三重県の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:木曽川水系]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の神 (人物神 江戸時代)]]&lt;br /&gt;
[[Category:自殺した人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1704年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1755年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>153.132.85.156</name></author>
	</entry>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E5%8B%9D%E5%B0%8F%E5%90%89&amp;diff=122088</id>
		<title>勝小吉</title>
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		<updated>2014-04-21T12:29:35Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;153.132.85.156: /* 登場する作品 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;勝 小吉&#039;&#039;&#039;（かつ こきち、[[享和]]2年[[1月15日 (旧暦)|1月15日]]（[[1802年]][[2月17日]]） - [[嘉永]]3年[[9月4日 (旧暦)|9月4日]]（[[1850年]][[10月9日]]））は、[[江戸時代]]後期の[[旗本]]。左衛門太郎惟寅（これとら）と称し、幼名はもと亀松、勝家に養子に入ったのちは小吉。隠居後は夢酔（むすい）。酒はあまり好まず、博打もやらなかったという。その代わり吉原遊びをし、着道楽で、喧嘩を好んだ。腕っぷしも剣の腕も優れ、道場破りをして回り、不良旗本として恐れられた。長男は[[勝海舟]]。剣客・[[男谷信友]]は[[甥]]（兄の子・[[婿養子]]）。また、[[島田虎之助]]とは、海舟が柔道の兄弟弟子（のちに剣の師匠）だった縁から親交があった。著書『夢酔独言』で自分の奔放な人生を語り、現在も読まれている。いくつかの[[小説]]のモデルにもなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
小吉の生涯は、その著書『夢酔独言』に詳しい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[旗本]]・[[男谷平蔵|男谷平蔵忠恕]]（[[越後国]][[刈羽郡]]長島村字平沢出身の盲人・[[米山検校]]の子）の三男（[[庶子]]）として生まれる。[[文化 (元号)|文化]]5年（[[1808年]]）、旗本・[[勝甚三郎]]&amp;lt;ref&amp;gt;『姓氏』（[[丹羽基二]]著作／[[樋口清之]]監修）によると、[[勝氏]]は[[西漢氏|西漢姓]]の[[庶家]]と述べている。&amp;lt;/ref&amp;gt;（41石）の養子となるが、喧嘩好きで学問を嫌い、たびたび問題を起こす。5歳の時に喧嘩をして、相手を石で殴り口を切った。その後父親に下駄で頭を殴られた。7歳の頃、2・30人を相手に1人で喧嘩したが敵わず、悔しいので切腹しようと思って脇差を抜いたが近くにいた米屋に止められた。[[柔道]]の仲間に帯で縛られて天井につるされた。悔しいので皆が物を食べようとするとき上から小便をばらまいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文化12年（[[1815年]]）、江戸を出奔。上方を目指す。護摩の灰（旅人を騙して金品を奪う盗賊）に路銀と服を奪われ無一文になり、[[乞食]]をしながらとりあえず[[伊勢参り]]をする。旅の途中で病気になるが、乞食仲間や[[賭場]]の親分に助けられ、江戸へ帰る。野宿をしていたとき[[崖]]から落ちて、[[精巣|睾丸]]を片方つぶし、2年ばかり直らなかったという。ちなみに息子の海舟も子供の頃に野犬に襲われ、睾丸を片方を食いちぎられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[文政]]2年（[[1819年]]）、所帯を持つ。しかし文政5年（[[1822年]]）5月、再び江戸を出奔。道中「水戸の家来だ」と身分を偽り宿屋や人足をだまして旅を続けた。遠州の知り合いの処にしばらく逗留していたが、江戸から甥が迎えに来て、懇願されて7月に江戸へ帰る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸へ帰ると父親に[[座敷牢]]に入れられ、そこで21歳から24歳まで過ごしたという。その間、長男の麟太郎（後の海舟）が生まれる。「隠居して3歳になる息子に家督を譲りたい」と願うが、父に「少しは働け」と言われ、就職活動をする。しかし、日頃の行いのせいか役を得る事はできなかった。その後は喧嘩と道場破りをしながら、刀剣の売買や町の顔役のような事をして過ごす。あるとき、あまりの不行跡ゆえに長兄の男谷彦四郎に檻へ押し込められそうになった。小吉も檻に入ったら食を断って死のうと思っていたが、兄嫁や甥の[[男谷信友]]が彦四郎を説得してくれて難を逃れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[天保]]9年（[[1838年]]）、37歳にして隠居。麟太郎へ家督を譲る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天保14年（[[1843年]]）、中風発作の後遺症もあったため[[鶯谷]]に庵を結び、以前より静かな生活となる。『平子龍先生遺事』と『夢酔独言』を書く。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
嘉永3年（1850年）、49歳で死去。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== エピソード ==&lt;br /&gt;
* 小吉は生涯無役だったが、息子の麟太郎は将軍・[[徳川家慶]]の五男・[[徳川慶昌|初之丞]]の御学友に取り立てられた。小吉もこれを麟太郎の出世の端緒と期待していたようだが、初之丞は一橋家を継ぐとまもなく亡くなった。&lt;br /&gt;
* 島田虎之助を訪問したとき、不行跡の噂を聞いていた虎之助は小吉をあまり良く思っていなかったらしく、嫌味を言ってきた。小吉はかまわず吉原に連れ出して豪遊し、虎之助の度肝を抜いた。&lt;br /&gt;
* 地主の家で金が入用になったので、その[[知行地]]へ行って金策をした。村人が金を出し渋っているので「金策ができなければ面目がない。切腹する」と村人を脅し、とうとう金を出させた。首桶まで江戸から持参してみせたほどだった。&lt;br /&gt;
* ある女に惚れてそのことを女房に言うと、女房は「その女をもらってあげる」と言った。自害してももらってあげるというので、小吉は女房に短刀を渡して遊びに出た。会った知人にそのことを話したら「女房に情をかけてやれ」と意見をされ、さすがに反省して家に帰った。&lt;br /&gt;
* 甥の男谷信友は幕末の江戸において[[斎藤弥九郎|力の斎藤]]・[[桃井春蔵|位の桃井]]・[[千葉周作|技の千葉]]と称された三大道場をもってしても歯が立たないといわれた達人だが、小吉は片手で捻ったという。[[新門辰五郎]]曰く「喧嘩で右に出る者なし」。ある意味、幕末最強の男と言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 著作 ==&lt;br /&gt;
著作に『夢酔独言』『平子龍先生遺事』がある。&lt;br /&gt;
== 『夢酔独言』 ==&lt;br /&gt;
『夢酔独言』は子孫に自分のようにはなるなと伝える目的で記したもので、「けして俺のまねをするな」と書いている。『夢酔独言』では、どうやって乞食をして歩いたかまで詳しく語っている。しかし仮にも武士の子が2度も出奔し本当に箱根の関所を抜けられるのかなど疑問があり、いくらか誇張も含まれていると考えられている。しかし「俺の真似をするな」と言いつつもやりたい放題の半生を子供たちにおおっぴらに書き残し、それがしゃべり言葉のように軽快に書かれていて、八方破れな小吉本人の声が聞こえるかのような面白い作品となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 『平子龍先生遺事』 ==&lt;br /&gt;
小吉が若い頃に付き合いがあった、[[平山行蔵]]という御家人のことを書いた本。行蔵は、四谷伊賀町に道場を構えていた文武両道の豪傑で、甲冑のまま土間に寝るという常在戦場の気概をもった武芸者だった。小男ながら強力であり、7貫300匁（約27kg）のまさかりを振り回し、相撲取りの雷電と押し合って負けなかったという。長い刀を好み、常に3尺8寸（約115cm）の刀を差していた。あまりに長すぎるので小吉が「そんなに長いと急の時に抜きにくくありませんか」と聞いたところ、「抜きにくくなど無い。いざというときには脇差しもある。馬に乗って戦うときは短い刀ではどうしようもない。長いに越した事はない」と答えた。しかし行蔵自身、2人の暴漢に襲われたとき差していた3尺8寸の[[直刀]]を抜こうとしたがすぐには抜けず、半分まで抜いて受け止めたというから、実用性には疑問符が付く。行蔵の友人の堂々木柔兵衛は自らの60歳の祝いに刀を作った。長さは3尺5分（約106cm）だが、太さ6寸（約18cm）、重さ6貫目（約22.5kg）という大剣であった。行蔵もさすがに「ちょっと重すぎやしないか」と聞いたところ、柔兵衛は「刀は重い方がいい。持ち上げる力さえあれば、落とせば切れる」と答えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小吉も、行蔵から3尺2寸の刀をもらって差料にして、周囲を威圧していた。当時は大きい刀をありがたがる風潮があったようである。『平子龍先生遺事』からは、いささか[[バロック]]的な江戸末期の武芸者の姿が見て取れる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 刊本 ===&lt;br /&gt;
*『夢酔独言』[[勝部真長]]解説 [[平凡社東洋文庫]]、[[昭和]]44年（1969年）&lt;br /&gt;
* 『おれの話を心して聞け 勝海舟を育てた父夢酔の実践訓』[[角川文庫]]（1974年）、のち力富書房が昭和63年（[[1988年]]）復刊。&lt;br /&gt;
* 『夢酔独言 現代語訳勝小吉自伝』（[[勝部真長]]編訳　[[PHP研究所]]　平成7年（[[1995年]]）ISBN 9784569546650）&lt;br /&gt;
* 『勝小吉　夢酔独言』（勝部真長編　教育出版　平成15年（2003年）ISBN 9784316800356） &lt;br /&gt;
* 『夢酔独言、平子龍先生遺事』（[[平凡社東洋文庫]]、ワイド版2006年、新版 [[平凡社ライブラリー]]　[[平成]]12年（[[2000年]]）ISBN 9784582763331)&lt;br /&gt;
* 『氷川清話 夢酔独言』勝海舟、勝小吉（[[川崎宏]]編、[[中公クラシックス]]、2012年　ISBN 9784121601353 ）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 登場する作品 ==&lt;br /&gt;
*[[中里介山]]作『[[大菩薩峠 (小説)|大菩薩峠]]』の「京の夢あふ坂の夢の巻」「山科の巻」（昭和15年）のなかで登場人物の神尾主膳が写しを借りて読みながら感想を述べるという形で、『夢酔独言』の冒頭から四分の三くらいまでが採録されている。&lt;br /&gt;
* 喧嘩侍 勝小吉（[[小松重男]]）&lt;br /&gt;
* 勝小吉事件帖 - 喧嘩御家人（[[風野真知雄]]） - 座敷牢に押し込められた小吉が、事件を推理して解決する。安楽椅子型探偵という趣向。&lt;br /&gt;
* 勝海舟 第1巻（[[子母沢寛]]） - 小吉と周囲の人々が生き生きと描かれている。&lt;br /&gt;
* [[父子鷹]]（子母沢寛）&lt;br /&gt;
* おとこ鷹（子母沢寛）&lt;br /&gt;
** 『勝海舟』の後に書かれた作品。小吉が主人公。史実の束縛が希薄。&lt;br /&gt;
* 幕末浪漫剣（[[鳥羽亮]]） - 架空の主人公に勝小吉他の剣客がからむ。講談社文庫版の井家上隆幸の解説は、子母沢寛作品の記述を史実と勘違いしている。&lt;br /&gt;
* [[風雲児たち]]（[[みなもと太郎]]）&lt;br /&gt;
* とんび侍喧嘩帳（[[永井義男]]） - 小吉が大奥の女中と共謀してお家騒動を解決する。&lt;br /&gt;
* 武蔵野水滸伝（[[山田風太郎]]）&lt;br /&gt;
* [[歴史秘話ヒストリア]]（[[NHK]]　テレビ番組）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[勝海舟]]&lt;br /&gt;
*[[勝氏]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:かつ こきち}}&lt;br /&gt;
[[Category:江戸幕府旗本]]&lt;br /&gt;
[[Category:1802年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1850年没]]&lt;/div&gt;</summary>
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