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	<title>Wikippe - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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		<title>荻野吟子</title>
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		<updated>2014-06-19T19:53:36Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;126.15.109.23: /* 生涯 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{出典の明記|date=2013年4月|ソートキー=人1913年没}}&lt;br /&gt;
{{Infobox 人物&lt;br /&gt;
|氏名=荻野 吟子&lt;br /&gt;
|画像=Ogino Ginko2.jpg&lt;br /&gt;
|画像サイズ=250px&lt;br /&gt;
|画像説明= &lt;br /&gt;
|生年月日= [[嘉永]]4年[[3月3日 (旧暦)|3月3日]]&amp;lt;br&amp;gt;（[[1851年]][[4月4日]]）&lt;br /&gt;
|生誕地= [[武蔵国]][[幡羅郡]]俵瀬村&lt;br /&gt;
|没年月日= [[1913年]][[6月23日]]（62歳）&lt;br /&gt;
|死没地= &lt;br /&gt;
|職業= [[医師]]&lt;br /&gt;
|配偶者= &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;荻野 吟子&#039;&#039;&#039;（おぎの ぎんこ（本名：荻野ぎん）、[[1851年]][[4月4日]]（[[嘉永]]4年[[3月3日 (旧暦)|3月3日]]） - [[1913年]]（[[大正]]2年）[[6月23日]]）は、近代日本における[[日本初の一覧|最初]]の女性の[[医師]]である。[[フェミニスト|女性運動家]]としても知られる。なお、日本人女性初の国家資格を持った医師であるが、[[医術開業試験]]制度がなかった時代から、[[榎本住]]（[[1816年]] - [[1893年]]）ほか何人かの女性医師が開業していた。西洋医学を学んだ女性医師としては[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|シーボルト]]の娘・[[楠本イネ]]（[[1827年]] - [[1903年]]）がいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==生涯==&lt;br /&gt;
*[[1851年]]（[[嘉永]]4年） - [[武蔵国]][[幡羅郡]]（はたらぐん）俵瀬（たわらせ）村（現在の[[埼玉県]][[熊谷市]]俵瀬、[[2005年]]（[[平成]]17年）[[9月30日]]までは[[大里郡]][[妻沼町]]大字俵瀬）に、代々[[苗字帯刀]]を許された[[名主]]の荻野綾三郎、嘉与（かよ）の五女（末娘）として生をうける。&lt;br /&gt;
*[[1867年]]（[[慶応]]3年） - 望まれて武蔵国[[北埼玉郡]][[上川上村]]（現在の熊谷市上川上）の名主の長男[[稲村貫一郎]]と[[結婚]]。&lt;br /&gt;
*[[1870年]]（[[明治]]3年） - 夫からうつされた[[淋病]]がもとで[[離婚]]。上京し[[順天堂大学医学部附属順天堂医院|順天堂医院]]に入院し[[婦人科]]治療をうけるが、そのとき治療にあたった[[医師]]がすべて[[男性]]で、男性医師に下半身を晒して診察される屈辱的な体験から、[[女医]]となって同じ羞恥に苦しむ女性たちを救いたいという決意により、女医を志す。&lt;br /&gt;
*[[1873年]]（明治6年） - [[上京]]し、[[国学]]者で皇漢医の[[井上頼圀]]（よりくに）に師事。頼圀より後妻に望まれる。&lt;br /&gt;
*[[1874年]]（明治7年） - [[甲府]]の[[内藤満寿子]]の私塾の教師となる。&lt;br /&gt;
*[[1875年]]（明治8年） - [[東京女子高等師範学校|東京女子師範学校]]（[[お茶の水女子大学]]の前身）の一期生として入学。&lt;br /&gt;
*[[1879年]]（明治12年） - [[首席]]で卒業。同学校の[[永井久一郎]]教授紹介により[[軍医]]監で[[子爵]]の[[石黒忠悳]]（ただのり）に女医の必要性を説き、石黒を介して、[[典薬寮]]出身で[[侍医]]の[[高階経徳]]が経営する下谷練塀（ねりべい）町（現在の[[秋葉原]]）の私立医学校・好寿院に特別に入学を許される。男子学生に混じり様々な[[いじめ]]や苦労の艱難辛苦を舐めつつ3年間で優秀な成績で修了する。しかし、かつての日本に女医は一人もおらず前例がないことにより、[[東京府]]に[[医術開業試験]]願を提出したが却下、翌年も同様であった。つづいて[[埼玉県]]にも提出したが同じ結果だった&amp;lt;ref&amp;gt;この頃のことを、吟子は『[[女学雑誌]]』354号にこのように書いている。&lt;br /&gt;
:「…願書は再び呈して再び却下されたり。思うに余は生てより斯の如く窮せしことはあらざりき。恐らくは今後もあらざるべし。時方に孟秋の暮つかた、籬落の菊花綾を布き、万朶の梢錦をまとうのとき、天寒く霜気瓦を圧すれども誰に向かってか衣の薄きを訴えん。満月秋風　独り悵然として高丘に上れば、烟は都下幾万の家ににぎはへども、予が為めに一飯を供するなし。 …親戚朋友嘲罵は一度び予に向かって湧ぬ、進退是れ谷まり百術総て尽きぬ。肉落ち骨枯れて心神いよいよ激昂す。見ずや中流一岩の起つあるは却て是れ怒涛盤滑を捲かしむるのしろなるを。」&lt;br /&gt;
この文面より吟子の万策尽きた様子が伺われるが、開業への思いは強く最後の手段として外国での資格取得も考えていたようである。　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前例がない理由で開業試験願を却下され窮地に陥っている吟子に同情した[[実業家]]の[[高島嘉右衛門]]は、[[井上頼圀]]に依頼して内務省衛生局局長、[[長与専斎]]を紹介。吟子は好寿院に入る際にいろいろの書物を捜した末『[[令義解]]』という奈良時代の書物に、日本でも[[古代]]から女医らしい者があったことを突きとめ、このことを強調し請願をした。併せて高島嘉右衛門は、井上頼圀に依頼して、古代からの女医の史実を調査してもらい、この資料を添えて長与局長への紹介状を吟子に持たせた。吟子に依頼を受けた石黒忠悳も、責任があるので衛生局へ行き、局長に会って頼んだところ、女は困ると言われ「女が医者になってはいけないという条文があるか。無い以上は受けさせて及第すれば開業させてもよいではないか。女がいけないのなら、『女は医者になる可らず』と書き入れておくべきだ」と食いさがったそうである。こうして吟子と支援者との熱意にうたれた長与局長の計らいで「学力がある以上は、開業試験を受けることを許可して差し支えない」ということになり、[[1884年]]（[[明治]]17年）に「女医公許」が決定しようやく受験が認められる。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
*[[1884年]]（明治17年）9月 - [[医術開業試験]]前期試験を他の女性3人と受験、吟子1人のみ合格。&lt;br /&gt;
*[[1885年]]（明治18年）3月 - 後期試験を受験し合格。同年5月、[[湯島]]に診療所「産婦人科荻野医院」を開業。34歳にして、近代日本初の公許女医となる。女医を志して 15年が経過していた。そのときすでに父はもとより、母も前月に他界していた。吟子のことは新聞や雑誌で「女医第一号」として大きく扱われる。診療所は、繁盛し場所が手狭なため、翌年[[下谷]]に移転する&amp;lt;ref&amp;gt;開業当初は第1号女医と新聞や雑誌にもてはやされ、一時は患者にあふれたものの、当時は[[中産階級]]以下の者は医者にかかることなく[[祈祷師]]や[[民間療法]]に頼る時代で、また[[保険医療]]もなく、たとえ患者として受診した者に対しても、高額になる医療費を全ての者に全部支払ってもらうことなど出来ない時代であった。その上、女性医師は信頼できないという者が多く、医業では成功しなかったとされる。しかし、女性に対して医術開業試験への門戸を開いたという意味で、荻野は重要な人物である。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
*[[1886年]]（明治19年） - [[海老名弾正]]から『[[日本開化小史]]』の著書で有名な[[田口卯吉]]らとともに[[キリスト教]]の洗礼を受ける。[[日本キリスト教婦人矯風会|キリスト教婦人矯風会]]にも参加し、その風俗部長に就任するとともに、[[廃娼運動]]にも取り組む。&lt;br /&gt;
*[[1888年]]（明治21年） - [[大日本婦人衛生会]]幹事。&lt;br /&gt;
*[[1890年]]（明治23年）[[11月25日]] - 39歳の時、13歳年下の[[同志社]]の学生で、[[新島襄]]から洗礼を受け敬虔な[[キリスト教徒]]だった[[志方之善]]（しかたゆきよし）と周囲の反対を押し切り[[再婚]]する。&lt;br /&gt;
[[Image:Ogino Ginko.jpg|260px|thumb|荻野吟子]]&lt;br /&gt;
:キリスト教や[[理想社会]]を求める互いの熱意に共感し合って幸せな[[新婚]]生活であったのも束の間、夫の之善はキリスト教徒の理想郷をつくるという信念から[[北海道]]へ渡る決意を吟子に告げる。&lt;br /&gt;
*[[1891年]]（明治24年） 5月 - 之善は同志とともに[[利別]]原野[[開拓]]のために吟子を残し単身で渡道するが、現地の状況は厳しく冬季を前に、一旦離道した。&lt;br /&gt;
*[[1892年]]（明治25年） - 之善、再び渡道し利別原野のイマヌエル（今金町）開拓をつづけた。北海道の密林と原野を開拓して理想郷を創造するというこの仕事は、実際には困難を極め、さまざまな経緯はあるが、結果的には之善の試みは挫折に終る。之善は国縫の[[マンガン鉱]]の開発にも失敗に終わることになる。&lt;br /&gt;
*[[1896年]]（明治29年） 5月 - 吟子は之善のいるイマヌエル（今金町）へ渡り之善と同居する。この時点では、吟子は開業をしていない。&lt;br /&gt;
*[[1897年]]（明治30年）- 之善は国縫の鉱山開発に見切りをつけ、利別での伝道に専念し、吟子は海辺の瀬棚の会津町（現　本町の一部）で診療所を開業する。（開業地には、後に荻野吟子開業の地碑が建立された。）&lt;br /&gt;
*[[1903年]]（明治36年）- 之善は[[京都]]の[[同志社]]へ再入学し相国寺に隣接する寄宿舎に移り、吟子は札幌（南一条西五丁目一番地）へ一時転住する。吟子は新聞に札幌での開業広告を掲載するが、実際に診療を行ったかは明確ではない。&lt;br /&gt;
*[[1904年]]（明治37年）- 之善は同志社大学を卒業して[[牧師]]として北海道浦河教会に赴任した。&lt;br /&gt;
*[[1905年]]（明治38年）- 之善は、牧師の職を辞し、瀬棚にもどり自給伝道を志すも、病を得て9月23日瀬棚で逝去。吟子はその後も 3年間瀬棚で過ごし、診療をつづけた。&lt;br /&gt;
*[[1908年]]（明治41年） - 帰京、[[本所区]][[小梅町]]に医院を開業し晩年を送る。&lt;br /&gt;
*[[1913年]]（[[大正]]2年） - [[肋膜炎]]にかかり、ついで脳溢血により逝去した。62歳。墓所は東京都の雑司ヶ谷霊園&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==備考==&lt;br /&gt;
*女医になる前の3年間の通学は、はかま姿で高下駄を履いていた。その頃は女医は認められていないため、ヘアスタイルはショートカットで、男性と同じ髪型であった。&lt;br /&gt;
*埼玉県にある「埼玉郷土かるた」には荻野吟子に関する札が存在する。&lt;br /&gt;
*旧俵瀬村の葛和田の渡し（赤岩の渡し・・・千代田町）の対岸の[[光恩寺 (群馬県千代田町)|光恩寺]]に、荻野家の長屋門が「瓦葺き」（本来は藁葺き）で復元されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==参考文献==&lt;br /&gt;
*『荻野吟子　日本女医第一号』荻野吟子女史顕彰碑建設期成会編 昭和42年初版　[[瀬棚町]]発行 ISBN なし　（北海道医報の連載をもとに編集された資料。平成16年の8刷は瀬棚町開基120周年記念として刊行 ）&lt;br /&gt;
*『日本女医史』日本女医会編 昭和37年 日本女医会本部発行　&lt;br /&gt;
*『[[花埋み]]』（[[渡辺淳一]]による伝記的小説） ISBN 4-10-117601-9（[[新潮文庫]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==補注==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[荻野吟子 (小惑星)]]（10526 Ginkogino）：[[小惑星番号]]10526番の[[小惑星]]。彼女にちなみ命名された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
{{Commons|Category:Ogino Ginko}}&lt;br /&gt;
*[http://www.city.kumagaya.lg.jp/shisetsu/koukyo/bunka/ta220201.html 熊谷市立荻野吟子記念館]（生家の長屋門を模した、瓦葺屋根・漆喰一部下見板の和風建築。出生地付近に建設された）&lt;br /&gt;
*[http://www.town.setana.lg.jp/modules/tinycontents/index.php?id=40 荻野吟子の生涯] （[[久遠郡]][[せたな町]]によるサイト）&lt;br /&gt;
*[http://www.pref.saitama.lg.jp/site/danjyo-ginko/index.html さいたま輝き荻野吟子賞]（埼玉県による賞）&lt;br /&gt;
*{{CRD|1000033249|「荻野吟子」または「花埋み」についての映像資料は、発行されているか。}}&lt;br /&gt;
*{{CRD|1000023779|日本で最初に国家資格をもって医師になった女性の伝記が読みたい。}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Normdaten|LCCN=n/84/120836|VIAF=53091000}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:おきの きんこ}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の医学者]]&lt;br /&gt;
[[Category:戦前日本の学者]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の医師]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本のフェミニスト]]&lt;br /&gt;
[[Category:お茶の水女子大学出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:埼玉県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:武蔵国の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:明治時代の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1851年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1913年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>126.15.109.23</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E5%8E%9F%E8%99%8E%E8%83%A4&amp;diff=72994</id>
		<title>原虎胤</title>
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		<updated>2014-04-14T20:40:24Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;126.15.109.23: /* 人物 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{基礎情報 武士&lt;br /&gt;
| 氏名 = 原虎胤&lt;br /&gt;
| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]&lt;br /&gt;
| 生誕 = [[明応]]6年（[[1497年]]）&lt;br /&gt;
| 死没 = [[永禄]]7年[[1月28日 (旧暦)|1月28日]]（[[1564年]][[3月11日]]）&lt;br /&gt;
| 改名 =&lt;br /&gt;
| 別名 = 虎種（別名）、鬼美濃、夜叉美濃（渾名）&lt;br /&gt;
| 諡号 = 清岩&lt;br /&gt;
| 戒名 =&lt;br /&gt;
| 墓所 =&lt;br /&gt;
| 官位 = [[美濃国|美濃]]守&lt;br /&gt;
| 幕府 =&lt;br /&gt;
| 主君 = [[千葉勝胤]]→[[武田信虎]]→[[武田信玄|信玄]]&amp;lt;br /&amp;gt;→[[北条氏康]]→武田信玄&lt;br /&gt;
| 氏族 = [[原氏]]&lt;br /&gt;
| 父母 = 父：[[原友胤]]&lt;br /&gt;
| 兄弟 =&lt;br /&gt;
| 妻   =&lt;br /&gt;
| 子   = [[横田康景]]、&#039;&#039;&#039;[[原盛胤|盛胤]]&#039;&#039;&#039;、[[原重胤|重胤]]&amp;lt;br /&amp;gt;娘（[[初鹿野忠次]]室）&lt;br /&gt;
| 特記事項 =&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;原 虎胤&#039;&#039;&#039;（はら とらたね）は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。はじめ[[千葉氏]]当主[[千葉勝胤]]の家臣、後に[[甲斐国]][[武田氏]]の家臣で[[足軽大将]]。「虎胤」は[[諱]]で、ほかに信知とする記録もある。美濃守、後に剃髪して清岩と[[号]]す。[[武田の五名臣]]の一人。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
明応6年（1497年）、原友胤の子として生まれる。元は[[下総国]]千葉氏重臣である千葉一族[[原氏]]の一門。[[永正]]14年（[[1517年]]）、小弓城合戦にて[[足利義明]]軍に敗北。居城である[[小弓城]]を奪われ、父・原友胤とともに[[甲斐国|甲斐]]に落ち延び武田信虎に仕え、[[甲斐源氏]][[武田氏]]の家臣となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
友胤は信虎の下で功績を挙げ、虎胤も主君・信虎から「虎」の一字を貰い受けて[[足軽大将]]として活躍した。[[大永]]元年（[[1521年]]）の甲斐飯田河原戦では[[今川氏|今川]]軍の[[福島正成]]（[[北条綱成]]の実父、但し別人説あり）を討ち取る功績を挙げる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信虎追放後は信玄に仕える。一般には[[武田二十四将]]の中に数えられる事も多く、また[[武田の五名臣|甲陽五名臣]]としても名があげられていることからすると、当代きっての優れた人物であることがうかがえる（なお、彼の子の[[横田康景|康景]]は甲陽五名臣の一人[[横田高松]]の養子となっている）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[小笠原氏]]との戦いで活躍し、[[平瀬城]]の城代を任されるなど重用されていた。[[天文 (元号)|天文]]22年（[[1553年]]）、宗旨問題（虎胤は[[法華宗]]信者であった）で信玄に[[浄土宗]]に改宗するように迫られて拒絶したため、一時期甲斐を追放され、[[相模国|相模]][[後北条氏|北条氏]]に身を寄せ[[甲相駿三国同盟|善得寺の会盟]]の際に帰参。以後引き続き武田氏の勇将として活躍する。帰参の際も、[[北条氏康]]は虎胤に対し惜別の念を表したという。永禄2年（[[1559年]]）に信玄が剃髪すると、同じく剃髪して清岩と号した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄4年（[[1561年]]）[[信濃国]][[割ヶ嶽城]]攻略で負傷し、同年に行われた第4次[[川中島の戦い]]には参戦せず、以後は第一線を退いている。永禄7年（1564年）1月28日に病死。享年68。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物 ==&lt;br /&gt;
*信虎時代に登用された新参の家臣だけに[[板垣信方]]ら国人衆と違い信虎との関係は良好であった。信虎が追放されたときは虎胤は信濃にいたが追放の知らせを受けて急ぎ甲斐に帰国、板垣信方や[[甘利虎泰]]に猛抗議したと言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*死後、虎胤が称した美濃守の官位を[[馬場信春]]が引き継いだことも知られている。「（武名の高かった）鬼美濃に肖るべし」という意味もあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*武勇名高い猛将で&#039;&#039;&#039;鬼美濃&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;夜叉美濃&#039;&#039;&#039;と渾名されて畏怖されたが、戦場で負傷した敵将を敵陣まで肩を貸して送り届けたと言う逸話も残る情け深い大将でもあった。攻城戦の名手としても名高く虎胤の落とした城は補修が最低限で済んだと言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*子孫である現在の原家には信玄から賜ったと伝えられる軍配が400年以上にわたり家宝として受け継がれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連作品 ==&lt;br /&gt;
* [[武田信玄 (NHK大河ドラマ)|武田信玄]]（1988年、[[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]]、演：[[宍戸錠]]）&lt;br /&gt;
* [[風林火山 (NHK大河ドラマ)|風林火山]]（2007年、NHK大河ドラマ、演：[[宍戸開]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[戦国時代の人物一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Shiro/Kantou/Chiba/Oyumi/index.htm 小弓城　埋もれた古城]&lt;br /&gt;
*[http://srtutsu02.hp.infoseek.co.jp/shiro216.html 小弓城～城と古戦場～]&lt;br /&gt;
*[http://www2.harimaya.com/sengoku/html/c_hara_k.html 戦国武将列伝～下総原氏]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:はら とらたね}}&lt;br /&gt;
[[Category:武田二十四将]]&lt;br /&gt;
[[Category:原氏|とらたね]]&lt;br /&gt;
[[Category:1497年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1564年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:下総国の人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>126.15.109.23</name></author>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E8%8F%8A%E6%B1%A0%E5%A4%A7%E9%BA%93&amp;diff=77331</id>
		<title>菊池大麓</title>
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		<updated>2014-04-04T18:02:01Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;126.15.109.23: /* 逸話 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{政治家&lt;br /&gt;
|人名 = 菊池大麓&lt;br /&gt;
|各国語表記 = &lt;br /&gt;
|画像 = Kikuchi Dairoku.jpg&lt;br /&gt;
|画像説明 = &lt;br /&gt;
|国略称 ={{JPN}}&lt;br /&gt;
|生年月日 =[[1855年]][[3月17日]]&lt;br /&gt;
|出生地 = {{JPN1603}} [[江戸]]&lt;br /&gt;
|没年月日 ={{死亡年月日と没年齢|1855|3|17|1917|8|19}}&lt;br /&gt;
|死没地 = {{JPN}} [[東京府]]&lt;br /&gt;
|出身校 = &lt;br /&gt;
|前職 = &lt;br /&gt;
|所属政党 =&lt;br /&gt;
|称号・勲章 = &lt;br /&gt;
|配偶者 = &lt;br /&gt;
|サイン = &lt;br /&gt;
|国旗 = JPN&lt;br /&gt;
|職名 = [[文部大臣]]&lt;br /&gt;
|就任日 = [[1901年]]&lt;br /&gt;
|退任日 = [[1903年]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;菊池 大麓&#039;&#039;&#039;（きくち だいろく、[[1855年]][[3月17日]]（[[安政]]2年[[1月29日 (旧暦)|1月29日]]） - [[1917年]]（[[大正]]6年）[[8月19日]]）は、[[明治]]・[[大正]]期の[[日本]]の[[数学者]]、[[政治家]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
[[箕作秋坪]]・つね夫妻の次男として[[江戸]]に生まれ、父の実家・菊池家の養嗣子となった。父・秋坪は[[箕作阮甫]]の弟子で[[蘭学者]]であり、母・つねは阮甫の三女にあたる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[蕃書調所]]（[[東京大学]]の前身）で英語を学び、[[1867年]]（[[慶応]]3年）と[[1870年]]（[[明治]]3年）の2度に渡り英国に留学した。2度目の留学では[[ケンブリッジ大学]]で[[数学]]と[[物理学]]を学び学位を取得、帰国後[[1877年]]（明治10年）、[[東京大学|東京大学]][[理学部]]教授となり、近代数学を初めて日本にもたらした。同大学総長、[[学校法人学習院|学習院]]院長、[[京都大学|京都帝国大学]]総長、[[理化学研究所]]初代所長等を歴任し、[[1902年]]（明治35年）には[[男爵]]を授けられた。1874年（明治6年）には[[福澤諭吉]]に招待され[[明六社]]に参加。その後の[[交詢社]]にも参加し、知己の仲であった。1889年（明治22年）[[東京学士会院]]会員に任命された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
英国留学中、高校大学を通じて、相関係数で有名な[[カール・ピアソン]]と同窓で親友となり、帰国後、ピアソンの編集した本を日本で翻訳出版している。&amp;lt;ref&amp;gt;『ナイチンゲールは統計学者だった！－統計の人物と歴史の物語－』丸山健夫　日科技連出版社 2008年 ISBN 9784817192738&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[数学者]]・[[教育者]]であるとともに[[政治]]的手腕もあったので[[帝国学士院]]会員及び同第8代院長、[[貴族院 (日本)#勅選議員|貴族院勅選議員]]（1890年9月-1912年5月15日&amp;lt;ref&amp;gt;『官報』第8670号、明治45年5月16日。&amp;lt;/ref&amp;gt;）、[[文部省]]専門学務局長、文部[[次官]]、[[文部大臣 (日本)|文部大臣]]、[[枢密院 (日本)|枢密顧問官]]等を歴任した。なお、孫の[[美濃部亮吉]]も政治家である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1913年]]6月21日に京都帝国大学[[名誉教授]]となる&amp;lt;ref&amp;gt;『官報』第269号、大正2年6月23日。&amp;lt;/ref&amp;gt;。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==逸話==&lt;br /&gt;
[[ケンブリッジ大学]]時代は[[数学]]で常に首席を占めていたため、他のイギリス人学生から嫉視されていた。あるとき大麓が風邪をこじらせて入院すると、イギリス人学生たちは示し合わせて、大麓が欠席中の講義ノートを彼に貸さないことにした。それによって、いつも二番目の成績だったブラウンという秀才を首席に押し出そうという企みだったが、ブラウンは病院の大麓を毎日見舞い、当日のノートを清書して彼に渡していたため、大麓の首位は動かなかった。このため、大麓は生前「ブラウンの高潔なイギリス魂ほど私を深く感動させたものはない」と洩らしていたという&amp;lt;ref&amp;gt;[[本田靖春]]『現代家系論』p.40（[[文藝春秋社]]、[[1973年]]）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
また留学中の1872年にUniversity college schoolにてラグビーの試合に出場したことが文献に残っており、これは日本人初のラグビープレイヤーを意味する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 家族・親族 ==&lt;br /&gt;
たつ夫人との間に4男5女をもうけた。&lt;br /&gt;
*長女・[[美濃部多美子|多美子]]は[[憲法|憲法学者]]の[[美濃部達吉]]と結婚。&lt;br /&gt;
*次女・千代子は[[民法|民法学者]]の[[鳩山秀夫]]と結婚。&lt;br /&gt;
*三女・冬子は[[法学者]]の[[末弘厳太郎]]と結婚。&lt;br /&gt;
*四女・英子は[[鉄道省]][[技官]]の[[平山復二郎]]と結婚。&lt;br /&gt;
*五女・百合子は[[官僚]]の[[川村秀文]]と結婚。&lt;br /&gt;
*長男は夭折。&lt;br /&gt;
*次男・泰二は[[物理学者]]となり、大麓の死後爵位と家督を継いだ。&lt;br /&gt;
*三男・健三は[[東京大学]]教授。&lt;br /&gt;
*四男・[[菊池正士]]は戦後日本を代表する[[原子物理学|原子物理学者]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[動物学|動物学者]]の[[箕作佳吉]]と[[歴史家]]の[[箕作元八]]は大麓の弟にあたる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==著書==&lt;br /&gt;
*『論理略説』同盟舎　1882&lt;br /&gt;
*『初等幾何学教科書 平面幾何学』文部省編輯局　1889&lt;br /&gt;
*『初等平面三角法教科書』[[沢田吾一]]共編　大日本図書　1893&lt;br /&gt;
*『菊池前文相演述九十九集』[[田所美治]]編　大日本図書　1903&lt;br /&gt;
*『幾何学初歩教科書』編　大日本図書　1904&lt;br /&gt;
*『平面三角法小教科書』沢田吾一共編　大日本図書　1905　&lt;br /&gt;
*『幾何学講義 初等幾何学教科書随伴』大日本図書　1897-1906&lt;br /&gt;
*『新日本』富山房　1910&lt;br /&gt;
*『日米教育時言』弘道館　1913&lt;br /&gt;
*『平面解析幾何学』大日本図書　1913　&lt;br /&gt;
*『米国所観』弘道館　通俗学芸文庫 1913&lt;br /&gt;
*『普通幾何学大要』大日本図書　1918&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===翻訳===&lt;br /&gt;
*ジェー・スコット・ラッセル『職業教育論』文部省　1884&lt;br /&gt;
*英国幾何学教授法改良協会編『平面幾何学教授条目』博聞社　1887&lt;br /&gt;
*ウィリアム・クリッフォード『数理釈義』博聞社　1888&lt;br /&gt;
*オラウス・ヘンリシ『平面幾何学 合同図形論』[[森外三郎]]共訳　金港堂　1892&lt;br /&gt;
*リチャードソン, ラムジー『近世平面幾何学』[[数藤斧三郎]]共訳　大日本図書　1894&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[田中舘愛橘]]&lt;br /&gt;
* [[大森房吉]]&lt;br /&gt;
*[[明六社]]&lt;br /&gt;
*[[箕作家]]&lt;br /&gt;
*[[交詢社]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;[http://www.dhs.kyutech.ac.jp/~ruxton/hatenkou.html Japanese Students at Cambridge University in the Meiji Era, 1868-1912: Pioneers for the Modernization of Japan]&#039;&#039;, by Noboru Koyama, translated by Ian Ruxton, Lulu Press, September 2004, ISBN 1411612566&lt;br /&gt;
* 早川隆 『日本の上流社会と閨閥（&amp;lt;small&amp;gt;菊池･鳩山･石橋家&amp;lt;/small&amp;gt; 個性豊かな人物群）』 [[角川書店]] 1983年 165-168頁&lt;br /&gt;
*衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年、117頁。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==脚注==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://gos.but.jp/kikud.htm 菊池家]&lt;br /&gt;
* [http://gos.but.jp/genpo.htm 箕作阮甫とその子孫]&lt;br /&gt;
* [http://www.tsuyama-ct.ac.jp/honkou/moyooshi/senjyou99/pamphlet/mitu_07.htm 箕作家関係の系図]&lt;br /&gt;
* [http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/64.html 菊池大麓 近代日本の肖像]&lt;br /&gt;
* [http://www.tvt.ne.jp/~yougaku/mimasakanoyougaku/mimasakanoyougaku-kikutidairoku.html 菊池大麓]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{先代次代|[[東京帝国大学|帝国大学]]理科大学長|1886年 - 1893年| - |[[山川健次郎]]}}&lt;br /&gt;
{{先代次代|[[文部大臣]]|第18代：1901年 - 1903年|[[松田正久]]|[[児玉源太郎]]（兼任）}}&lt;br /&gt;
{{先代次代|[[帝国学士院]]長|第9代：[[1909年]] - [[1917年]]|[[加藤弘之]]|[[穂積陳重]]}}&lt;br /&gt;
{{先代次代|[[理化学研究所]]長|初代：[[1917年]]| - |[[古市公威]]}}&lt;br /&gt;
{{文部科学大臣}}&lt;br /&gt;
{{東京大学総長|東京帝国大学総長：第5代：1898年 - 1901年}}&lt;br /&gt;
{{京都大学総長|京都帝国大学総長：第3代：1908年 - 1912年}}&lt;br /&gt;
{{学校法人学習院院長|第8代：1908年 - 1912年}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:きくち たいろく}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の閣僚経験者]]&lt;br /&gt;
[[Category:貴族院勅選議員]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の枢密顧問官]]&lt;br /&gt;
[[Category:戦前日本の文部官僚]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の数学者]]&lt;br /&gt;
[[Category:帝国学士院会員]]&lt;br /&gt;
[[Category:19世紀の数学者|550317]]&lt;br /&gt;
[[Category:20世紀の数学者|-550317]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の男爵]]&lt;br /&gt;
[[Category:東京大学の教員]]&lt;br /&gt;
[[Category:理化学研究所の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:明六社の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:東京学士会院の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:武蔵国の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:東京都出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1855年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1917年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:数学に関する記事]]&lt;/div&gt;</summary>
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