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	<title>Wikippe - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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	<updated>2026-10-29T02:03:10Z</updated>
	<subtitle>利用者の投稿記録</subtitle>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=P-2J_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)&amp;diff=88032</id>
		<title>P-2J (航空機)</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=P-2J_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)&amp;diff=88032"/>
		<updated>2014-08-04T15:11:17Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;125.197.11.28: /* 発展型 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ Infobox 航空機&lt;br /&gt;
| 名称=川崎/ロッキード P-2J「おおわし」&lt;br /&gt;
| 画像=File:P-2J-1.JPG&lt;br /&gt;
| キャプション=川崎 P-2J 4782号機&amp;lt;br/&amp;gt;[[かかみがはら航空宇宙博物館]]の展示機&lt;br /&gt;
| 用途=[[対潜哨戒機]]&lt;br /&gt;
| 分類=&lt;br /&gt;
| 設計者=&lt;br /&gt;
| 製造者=[[川崎重工業]]（[[ロッキード]]）&lt;br /&gt;
| 運用者={{JPN}}（[[海上自衛隊]]）&lt;br /&gt;
| 初飛行年月日=1966年7月21日（P2V-7改）&lt;br /&gt;
| 生産数=83機（1機はP2V-7からの改造）&lt;br /&gt;
| 生産開始年月日=&lt;br /&gt;
| 運用開始年月日=1971年2月&lt;br /&gt;
| 退役年月日=1994年5月26日&lt;br /&gt;
| 運用状況=&lt;br /&gt;
| ユニットコスト=&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;P-2J&#039;&#039;&#039;（ピーにジェイ）は、[[日本]]の[[海上自衛隊]]が採用した[[対潜哨戒機]]。原型は[[アメリカ合衆国]]の[[航空機メーカーの一覧|航空機メーカー]]、[[ロッキード]]社が開発した[[P-2 (航空機)|P2V-7]]で、[[川崎重工業]]が改造開発した&amp;lt;ref name=&amp;quot;nenkan1988&amp;quot;&amp;gt;世界航空機年鑑1988 酣燈社 1988年 P112&amp;lt;/ref&amp;gt;。愛称はP2Vと同じく「&#039;&#039;&#039;おおわし&#039;&#039;&#039;」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 開発経緯 ==&lt;br /&gt;
[[海上自衛隊]]では[[1956年]]（昭和31）から[[アメリカ海軍]]に供与された[[ロッキード]][[P-2 (航空機)|P2V-7]]ネプチューン[[対潜哨戒機]]60機を使用してきたが、飛行性能は優秀であったものの、すでに[[アメリカ合衆国]]では、脅威を増しつつあった[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[原子力潜水艦]]に対抗出来ないとして、[[1962年]]（昭和37）から[[P-3 (航空機)|P-3A]]へと更新を行っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
海上自衛隊部内に於いても昭和30年代中頃（[[1960年]]頃）から次期対潜哨戒機&#039;&#039;&#039;P-X&#039;&#039;&#039;の研究と機種選定を開始し、P2V-7の[[エンジン]]を[[レシプロエンジン]]から[[ターボプロップエンジン]]に換装し、日本の状況に合わせて対潜機器を更新した機体を開発することに決定、&amp;lt;!--ロッキードにライセンス料を支払って--&amp;gt;日本が独自に開発・生産を行うことになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
P2V-7の4637号機から改造された&#039;&#039;&#039;P2V-7改&#039;&#039;&#039;は[[1966年]]（昭和41）[[7月21日]]に初飛行、各種試験を経て、&#039;&#039;&#039;P-2J&#039;&#039;&#039;として制式採用された。量産1号機は[[1969年]]（昭和44）[[8月8日]]に初飛行、[[10月7日]]に海上自衛隊に納入され、実用試験を経て[[1971年]]（昭和46）2月に部隊配備が始まった。なお、同時期に[[新明和工業]]が独自開発した[[PS-1|PS-1哨戒飛行艇]]も海上自衛隊に配備されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 改良点 ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:P2J_KASM001.jpg|thumb|250px|right|P-2Jの機首&amp;lt;br/&amp;gt;[[かかみがはら航空宇宙博物館]]にて撮影]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:P2J_KASM039.jpg|thumb|250px|right|P-2Jの主翼下ハードポイント]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== エンジン ===&lt;br /&gt;
P-2Jは、P2V-7が搭載していた[[カーチス・ライト|ライト]] [[R-3350]]が[[レシプロエンジン]]から、PS-1用にライセンス生産されていた [[ゼネラル・エレクトリック]]&#039;&#039;&#039;T64-IHI-10&#039;&#039;&#039;[[ターボプロップエンジン]]に換装してタービン化を図り、[[プロペラ]]も4翅から径を大きくした3翅のものに変更、補助ジェットエンジンはJ34から[[T-1 (練習機)|T-1B]][[練習機]]搭載エンジンをベースに耐食性を向上させた、[[IHI|石川島播磨重工業]]の&#039;&#039;&#039;[[J3 (エンジン)|J3-IHI-7C]]&#039;&#039;&#039;（後に推力を増大させた-7D型）に転換した。これにより巡航速度が上昇、性能も向上し、タービンエンジンのみになったことから整備性も大幅に向上した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、P-2J退役後にT64-IHI-10は再利用され、[[航空自衛隊]]の[[YS-11#航空自衛隊|YS-11EA/EB]]に搭載された（スーパーYS）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 機体の改造 ===&lt;br /&gt;
ラダーの増積に伴って垂直尾翼の形状を変更、重量増とエンジン排気管の変更に対応して、主車輪はシングルタイヤから直径の小さいダブルタイヤとなった&amp;lt;ref name=&amp;quot;nenkan1988&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
胴体は居住性に問題があり、隊員に不評だったP2V-7を改め、胴体を1.3m延長、機内の床が30cm下げられ、機内の空間拡大に努め、隊員は通路を立って歩けるようになった。洋上哨戒時の熱気を考慮して、胴体上面の白色塗装を残す一方で新たに[[エア・コンディショナー|冷房装置]]が装備された。また、1回の任務が10時間を越える哨戒飛行に備え、機内には[[冷蔵庫]]も設置された。これらの大幅な改良により、任務の成果に影響する隊員の士気の向上が図られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 哨戒機器 ===&lt;br /&gt;
[[潜水艦]]の能力向上に合わせて、哨戒用電子機器も最新の機器に更新された。洋上索敵レーダーは、P2V-7のAPS-20から小形かつより強力な[[Xバンド]]の&#039;&#039;&#039;APS-80&#039;&#039;&#039;に換装。潜水艦探知[[ソノブイ]]は新鋭の&#039;&#039;&#039;AQA-5&#039;&#039;&#039;ジェゼベル・パッシブ・ソノブイ・システムになり、索敵海域に撒かれたブイによって、潜水艦の音紋を感知して上空のP-2Jに送信、レコーダーに記録し潜水艦を特定するものとなった。米国の[[P-3 (航空機)|P-3B]]と同等の能力を保有していたと言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、P2V-7には無かった[[戦術航空士|&#039;&#039;&#039;TACCO&#039;&#039;&#039;（&#039;&#039;&#039;戦術航空士&#039;&#039;&#039;）]]席が新設され、より効率的に対潜任務がこなせる様になった。TACCO席は後継のP-3Cおよび[[P-1 (哨戒機)|P-1]]にも引き継がれており、成功であったと言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 発展型 ==&lt;br /&gt;
派生型である多用途機 &#039;&#039;&#039;UP-2J&#039;&#039;&#039; は用途の違う機体が2機ずつ計4機ある。最初に、標的曳航型の多用途機[[S-2 (航空機)|S2F-U]]の後継機として1機のP-2Jが改造を受け、[[1979年]]（昭和54）[[12月19日]]に UP-2J として納入された。この機体は後に1機が改造されて2機となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
続いて別の2機が電子戦データ収集（ELINT）機に改造されたが、こちらも名称はUP-2Jであった。[[標的曳航機]]は[[リアジェット35|U-36A]]へ、ELINT機は[[P-3 (航空機)|EP-3]]に更新され、[[1991年]]（平成3）[[12月]]に全機が退役した。これら4機は全て第51航空隊で試験を受けた後に第61航空隊に配備され、[[1983年]]（昭和58）[[3月30日]]に第81航空隊が編成される共に移動した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらとは別に、1機が可変特性実験機（VSA：Variable Stability Test Aircraft）に改造されたが、機首に試験用の標準ピトー管が設置された以外に外見上の違いは無く、P2V-7によるVSAのような派手さや宣伝は無かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 運用 ==&lt;br /&gt;
P-2Jは、[[P-2 (航空機)|P2V-7]]より大幅に性能が向上し、同時期の[[アメリカ海軍]]の[[P-3 (航空機)|P-3B]][[対潜哨戒機]]と同程度の能力を有していた。しかし、それゆえにP2V-7より改善されたとはいえP-3に比べると機体に余裕が無く居住性に劣った。そもそもP2Vでは機体規模が不足していたのが、アメリカ海軍がP-3を開発した動機であり、海上自衛隊はそれを承知で不便を忍んでいた事になる。また、[[原子力潜水艦]]への対処能力も不足していた。よって[[1968年]]（昭和43）から選考が始まった次期対潜哨戒機PX-Lを導入するまでの繋ぎと見なされていた。しかし、PX-Lの選定に手間取ったことや、PX-Lに最有力視されていたP-3Cの導入が[[ロッキード事件]]の煽りを受けて白紙に戻されたこともあり、主力対潜哨戒機として[[1979年]]（昭和54）[[3月14日]]までに82機が生産（1号機はP2V-7から改造、計83機）され、7個対潜航空隊に配属された。[[第十雄洋丸事件]]にも出動した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1981年]]（昭和56）からはP-3Cが導入され始めたが、その後も能力向上を図り改造が加えられ、P-3Cの戦力が整備されるまで第一線で使用された。[[1994年]]（平成6）[[5月26日]]付で全機退役した。上述の通り機体規模の不足から、乗組員は不自由を強いられたものの、[[軍用機]]としては珍しく安全性が極めて高く、総飛行時間が61万時間におよぶにもかかわらず、&#039;&#039;&#039;生産・配備された全機が無事故で無事に退役した&#039;&#039;&#039;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 配備部隊 ===&lt;br /&gt;
; P-2J&lt;br /&gt;
* 第1航空群 - 第1航空隊、第7航空隊&lt;br /&gt;
* 第2航空群 - 第2航空隊、第4航空隊&lt;br /&gt;
* 第4航空群 - 第3航空隊&lt;br /&gt;
* 第5航空群 - 臨時沖縄航空隊→沖縄航空隊→第5航空隊&lt;br /&gt;
* 航空集団 - 第51航空隊第511飛行隊&lt;br /&gt;
* 第203教育航空隊 鹿屋教育航空群&lt;br /&gt;
* 第205教育航空隊 下総教育航空群&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; UP-2J&lt;br /&gt;
* 航空集団 - 第51航空隊→第61航空隊→第31航空群 - 第81航空隊&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; VSA 可変特性実験機&lt;br /&gt;
* 航空集団 - 第51航空隊 - 第511飛行隊&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:P2J-Kanoya2007.JPG|[[鹿屋航空基地]]にて屋外展示されているP-2J 4783号機&amp;lt;br/&amp;gt;&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size:90%&amp;quot;&amp;gt;（[[2007年]][[9月2日]]撮影）&amp;lt;/span&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:P-2J_in_cherry_blossoms.JPEG|[[厚木海軍飛行場|厚木基地]]にて後方より撮影されたP-2J&amp;lt;br/&amp;gt;&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size:90%&amp;quot;&amp;gt;手前には櫻が、遠方には[[丹沢山地]]と[[富士山]]が写っている&amp;lt;br/&amp;gt;[[1984年]]春の撮影&amp;lt;/span&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== スペック ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:Kawasaki P-2J two-view silhouette.png|thumb|250px|right|川崎 P-2J 上面及び側面図]]&lt;br /&gt;
* 乗員：12名&lt;br /&gt;
* 全長：29.7m&lt;br /&gt;
* 全幅：30.9m&lt;br /&gt;
* 全高：8.9m&lt;br /&gt;
* 翼面積：&lt;br /&gt;
* 全備重量：36,288kg&lt;br /&gt;
* エンジン：[[ゼネラル・エレクトリック|GE]] T64-IHI-10×2・[[石川島播磨重工業|IHI]] [[J3 (エンジン)|J3-IHI-7D]]×2&lt;br /&gt;
* 出力： GE - 3,060[[馬力]]×2、IHI-1,550kgf×2&lt;br /&gt;
* 最大速度：635km/h（高度3,050m）&lt;br /&gt;
* 航続距離：&lt;br /&gt;
* 実用上昇限度：&lt;br /&gt;
* 武装：[[Mk34 (魚雷)|Mk34ホーミング]][[魚雷]]×4、150kg[[爆雷#航空爆雷|対潜爆弾]]×16、128mm[[ロケット弾]]×8&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 登場作品 ==&lt;br /&gt;
* 『[[日本沈没]]』&lt;br /&gt;
: 原作で空中からの地質探査に活躍。&lt;br /&gt;
* 『[[大鉄人17]]』&lt;br /&gt;
: 実写で登場。巨大ロボットを[[ロケット弾]]で攻撃。&lt;br /&gt;
* 『[[西部警察 PART-III]]』&lt;br /&gt;
: 地方ロケ福島編にて「防衛隊」の哨戒機としてライブフィルムで登場。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[航空機メーカーの一覧]]&lt;br /&gt;
* [[日本製航空機の一覧]]&lt;br /&gt;
* [[P-3 (航空機)|P-3C]] - P-2Jの後継機&lt;br /&gt;
* [[P-1 (哨戒機)|P-1]] - P-3Cの後継機である純国産哨戒機&lt;br /&gt;
* [[SH-60K (航空機)|SH-60K]] - P-2J同様に米国機を大幅改造した機体&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.khi.co.jp/ 川崎重工業公式サイト] - [http://www.khi.co.jp/aero/airplanes/airplanes.html 固定翼機ページ]&amp;lt;!--今はP-2Jはないですがそのうちできるかも--&amp;gt;&lt;br /&gt;
* [http://www.mod.go.jp/msdf/kanoya/sryou/msdf-ks/ 海上自衛隊鹿屋航空基地史料館サイト] - [http://www.mod.go.jp/msdf/kanoya/sryou/msdf-ks/planes_htmls/index1.html 屋外展示航空機のページ]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:対潜哨戒機|P-2J]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>125.197.11.28</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E5%B2%A9%E5%9B%BD%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E5%A0%B4&amp;diff=132522</id>
		<title>岩国飛行場</title>
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		<updated>2014-08-04T15:08:54Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;125.197.11.28: /* 海上自衛隊 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Infobox 空港&lt;br /&gt;
| 名前 = 岩国飛行場&amp;lt;br /&amp;gt;岩国錦帯橋空港&lt;br /&gt;
| 画像 = [[File:岩国錦帯橋空港.JPG|280px|岩国錦帯橋空港]]&lt;br /&gt;
| IATA = IWK&lt;br /&gt;
| ICAO = RJOI&lt;br /&gt;
&amp;lt;center&amp;gt;{{Location map|Japan|width=240|float=center&lt;br /&gt;
|caption=|mark=Airplane_silhouette.svg|marksize=10&lt;br /&gt;
|label=IWK/RJOI|position=right&lt;br /&gt;
|lat_deg=34|lat_min=08|lat_sec=42|lat_dir=N&lt;br /&gt;
|lon_deg=132|lon_min=14|lon_sec=49|lon_dir=E&lt;br /&gt;
}}岩国飛行場の位置&amp;lt;/center&amp;gt;&lt;br /&gt;
| 国 = {{JPN}}&lt;br /&gt;
| 設置場所 = [[山口県]][[岩国市]]&lt;br /&gt;
| タイプ = 軍民共用&lt;br /&gt;
| 運営者 = [[アメリカ海兵隊]]&lt;br /&gt;
| 運営時間=&lt;br /&gt;
| 標高 m = 3&lt;br /&gt;
| 標高 ft = 10&lt;br /&gt;
| 緯度度 = 34 |緯度分 = 08 |緯度秒 = 42 |N(北緯)及びS(南緯) = N&lt;br /&gt;
| 経度度 = 132 |経度分 = 14 |経度秒 = 49 |E(東経)及びW(西経) = E&lt;br /&gt;
| 地図国コード = JP-35&lt;br /&gt;
| ウェブサイト =&lt;br /&gt;
| 方向 滑走路1 = 02/20&lt;br /&gt;
| 全長 滑走路1 m = 2,440&lt;br /&gt;
| 全幅 滑走路1 = 60&lt;br /&gt;
| ILS 滑走路1 = Yes&lt;br /&gt;
| 表面 滑走路1 = コンクリート&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;岩国飛行場&#039;&#039;&#039;（いわくにひこうじょう、MCAS IWAKUNI/JMSDF Iwakuni Air Base）は、[[山口県]][[岩国市]]三角町2丁目に所在する、[[アメリカ海兵隊]]と[[海上自衛隊]]が使用する官有の[[飛行場]]・[[軍事基地|基地]]である。&#039;&#039;&#039;岩国基地&#039;&#039;&#039;（いわくにきち）あるいは&#039;&#039;&#039;岩国空港&#039;&#039;&#039;（いわくにくうこう）と呼ばれることもある、公書面では「岩国飛行場」となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
民間機就航空港としては&#039;&#039;&#039;岩国錦帯橋空港&#039;&#039;&#039;（いわくにきんたいきょうくうこう）の愛称が付けられている（後述）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
=== 旧海軍時代 ===&lt;br /&gt;
* [[1938年]]（[[昭和]]13年）4月 - [[大日本帝国海軍]]の飛行場として建設を開始。&lt;br /&gt;
* [[1939年]]（昭和14年）12月 - [[呉鎮守府]]所属練習隊が配置。&lt;br /&gt;
* [[1940年]]（昭和15年）7月 - [[岩国海軍航空隊]]が開設。以後主として教育隊、練習隊の基地として使用。&lt;br /&gt;
* [[1943年]]（昭和18年）11月 - [[海軍兵学校]]岩国分校が開設。&lt;br /&gt;
* [[1945年]]（昭和20年） - [[イギリス軍]]や[[アメリカ軍]]を中心とした[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍機より空襲や機銃掃射を受け、基地の施設の多くが損害を受けた。最後の空襲は[[8月14日]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 占領 ===&lt;br /&gt;
* 1945年（昭和20年）[[8月15日]] - 終戦。その後[[アメリカ海兵隊]]により接収される。&lt;br /&gt;
* [[1946年]]（昭和21年）2月 - 連合国の1国として[[中国地方]]および[[四国]]の占領に当たった[[イギリス連邦占領軍]]の空軍基地となり、[[イギリス連邦]]空軍司令官であるサー・セシル・バウチャー[[少将]]の指揮下にある[[イギリス空軍]]や[[オーストラリア空軍]]、[[ニュージーランド空軍]]、[[インド空軍]]などの[[イギリス連邦占領軍]] (BCOF)、およびアメリカ空軍が駐留した。&lt;br /&gt;
* [[1948年]]（昭和23年） - オーストラリア空軍へ移管。&lt;br /&gt;
* 1948年（昭和23年）[[3月19日]] - [[英国海外航空]] (BOAC)が定期乗り入れを開始。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 朝鮮戦争以降 ===&lt;br /&gt;
* [[1950年]]（昭和25年）[[6月25日]] - [[朝鮮戦争]]勃発。本飛行場も[[国連軍]]の中枢をなすアメリカ軍とイギリス軍により使用される。&lt;br /&gt;
* [[1952年]]（昭和27年）[[4月1日]] - 日本の占領解除と同時に[[アメリカ空軍]]へと移管。&lt;br /&gt;
* [[1954年]]（昭和29年）1月 - アメリカ海軍第6艦隊航空団(FLEET AIR WING 6)が移駐を開始。&lt;br /&gt;
* [[1954年]]（昭和29年）[[10月1日]] - [[アメリカ海軍]]へと移管。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日米共用以降 ===&lt;br /&gt;
* [[1957年]]（昭和32年）3月 - [[航空自衛隊]]とアメリカ海軍の共用基地となる。&lt;br /&gt;
* [[1958年]]（昭和33年）[[7月20日]] - アメリカ側で[[アメリカ海兵隊]]へと移管。&lt;br /&gt;
* [[1967年]]（昭和42年）[[12月1日]] - 日本側で航空自衛隊から[[海上自衛隊]]に移管。&lt;br /&gt;
* [[1970年]]（昭和45年）[[7月4日]] - [[ベトナム戦争]]に参戦中のアメリカ軍基地内で、[[アフリカ系アメリカ人]]兵士や反戦兵士による[[暴動]]が発生し、[[営倉]]などが一時占拠される。&lt;br /&gt;
* [[1970年]]（昭和45年）12月 - [[極東放送]] (FEN-TV)が設立（[[米軍放送送信所]]も参照）。&lt;br /&gt;
* [[1971年]]（昭和46年）4月 - [[ダナン]]より[[第1海兵航空団]]が撤収。本飛行場に司令部を再設。&lt;br /&gt;
* [[1976年]]（昭和51年）10月 - [[ベトナム戦争]]終結後の海兵隊再編に伴い、第1海兵航空団司令部が[[普天間飛行場]]近郊の[[キャンプ・バトラー]]（[[沖縄県]][[中城村]]）に移駐&amp;lt;ref&amp;gt;『沖縄の基地』沖縄タイムス社 1984年9月 p23&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* [[2012年]]（平成24年）12月13日 - 民間機による定期便が48年ぶりに再開される&amp;lt;ref name =&amp;quot;yamaguchi-np20121214&amp;quot;&amp;gt;{{Cite web|url=http://www.minato-yamaguchi.co.jp/yama/news/digest/2012/1213/1p.html|title=岩国錦帯橋空港きょう開港 岩国-羽田1日4往復|work=[[山口新聞]]|publisher=[[みなと山口合同新聞社]]|date=2012-12-13|accessdate=2011-12-13}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 今後 ===&lt;br /&gt;
[[在日米軍再編]]に伴って、[[厚木飛行場|厚木基地]]の[[第5空母航空団 (アメリカ海軍)|第5空母航空団]]（[[空母]][[艦載機]]の[[F/A-18E/F (航空機)|F/A-18E/F スーパーホーネット]]、[[EA-18G (航空機)|EA-18Gグラウラー]]、[[E-2 (航空機)|E-2Cホークアイ飛行隊]]）が移転してくる計画がある。また、[[普天間飛行場|普天間基地]]の[[空中給油機]][[C-130 (航空機)|KC-130ハーキュリーズ]]も、[[飛行隊]]司令部、整備施設等とともに移転してくる予定である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これにより、 [[嘉手納飛行場]]（空軍）にかわり、岩国基地が[[極東]]最大の米軍基地となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 周辺対策 ==&lt;br /&gt;
本飛行場に関係する周辺対策事業は他の自衛隊・在日米軍施設同様「[[防衛施設周辺の生活環境の整備等に関する法律]]」を根拠法とし（以下本節で同法と呼ぶ）、旧[[防衛施設庁]]の主導により下記が実施されてきた&amp;lt;ref&amp;gt;周辺対策の主な出典は&amp;lt;br /&amp;gt;広島防衛施設局「岩国飛行場－その運用と周辺対策－」『調和 基地と住民』1999年12月&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一般的に、周辺対策事業は下記のように区分され、その他にも名目をつけて予算措置がなされることがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 障害防止工事の助成&lt;br /&gt;
* 住宅防音工事の助成&lt;br /&gt;
* 移転措置による土地の買い入れ&lt;br /&gt;
* 民生安定施設の助成&lt;br /&gt;
* 調整交付金の交付&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
基地周辺対策の実施対象自治体は広域自治体としては山口県、広島県、基礎自治体としては岩国市（旧[[由宇町]]含む）、[[玖珂郡]][[和木町]]、[[柳井市]]（旧[[大畠町]]のみ）、[[大島郡 (山口県)|大島郡]][[周防大島町]]、[[大竹市]]など3市2町に及んでいる。本飛行場の場合対策の主眼は騒音対策であり、1種、2種、3種の全ての種別の区域設定がなされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 障害防止工事 ===&lt;br /&gt;
障害防止対策事業（同法3条に基づく）の内一般障害防止については、[[河川]]改修工事、排水施設工事などの助成があり、1999年時点までで70億9000万円の助成を実施している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 騒音防止工事 ===&lt;br /&gt;
学校等の公共施設の騒音防止対策事業としては、航空機騒音の防止・軽減対策として1954年度（特損法時代）より学校法人、幼稚園、医療施設などに防音工事を実施し、1999年時点で172億3000万円となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 住宅防音工事 ===&lt;br /&gt;
住宅[[防音工事]]については同法4条に基づいて指定した第一種区域（75WECPNL以上&amp;lt;ref&amp;gt;防衛施設庁算出法によるWECPNL&amp;lt;/ref&amp;gt;）に所在する住宅を対象として、1978年度に岩国市を告示し、航空機の性能と運用の変化を勘案しつつ1982年に由宇町、1992年に大竹市阿多田島が追加された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
住宅への防音工事は1975年度以降1999年時点で約22000世帯に対して405億円が投じられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 移転措置 ===&lt;br /&gt;
同法第5条に基づく第二種区域（WECPNL90以上）からの移転補償については1968年度から実施しており、1999年までの総計で建物16戸（約9億6000万円）、土地約5.9haとなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二種区域内の移転措置で購入した土地は「周辺財産」として防衛施設庁が管理していた。内、植栽を実施した面積は2.4haである。この他、周辺財産の一部を岩国市に使用を許可し、3.1haが広場、[[花壇]]敷地などに使われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 民生安定施設の助成 ===&lt;br /&gt;
民生安定施設の助成は同法8条に基づき、一般助成と防音助成に分かれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一般助成事業としては、市民会館、体育館、漁業用施設（船溜まり）、[[ゴミ処理施設]]などに助成し、1999年までに総計107億円となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
防音助成事業は公共施設に対して1999年までに33億円3000万円、道路改修等の事業には17億円が使われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 特定防衛施設周辺整備調整交付金 ===&lt;br /&gt;
更に、同法9条に基づき、[[特定防衛施設周辺整備調整交付金]]を特定防衛施設関連市町村に指定されている岩国市に対して交付している。1975年度の開始から1999年までで約65億4000万円となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 漁業補償 ===&lt;br /&gt;
基地に隣接する海面を米軍に提供し漁業制限を実施しており、沖合移設事業の前はその面積は2000haであった。これに対する漁業補償を関係する36の漁業組合に毎年実施している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 滑走路の沖合移設 ==&lt;br /&gt;
=== 移設に至る経緯 ===&lt;br /&gt;
旧滑走路での運用を行っていた時代には幾つかの問題があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 延長線上に大規模な[[石油]][[コンビナート]]があり、飛行ルートは[[石油コンビナート等災害防止法]]により制約を受けていた。具体的にはコンビナートが同法による特別防災区域に指定されているため、離陸後に急旋回で距離をとるように運用しなければならなかった。&lt;br /&gt;
* 飛行場が岩国市商店街、住宅街に隣接しており、ジェット化に伴う騒音公害の影響を受けやすかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1968年、[[九州大学電算センターファントム墜落事故]]が発生すると事故に対する地元の危機感は高まった。そして1971年以降、岩国市は滑走路の沖合移設・埋立を求めるようになった。当飛行場の施設は日本の税金によって建設されているので（米軍負担は兵器本体と軍人給与のみ）、日本政府の負担で滑走路を移設することになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[防衛施設庁]]は1973年度より予備調査を開始し、種々の検討を加えた上で1982年7月に防衛施設中央審議会は答申を出し、「岩国飛行場周辺における安全を確保し騒音の軽減を図るためには、飛行場の東側の海面を[[埋立]]て、滑走路を約一千メートル移設する方法が適当である」と結論した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1983年からは1985年度にかけて[[環境影響評価]]に係る基礎調査が実施され、1986年度から1988年度にかけて移設のための工法試験（試験埋立）を実施し、その後の沈下状況を10年以上に渡って観測した&amp;lt;ref&amp;gt;試験埋立地は8角形の形状で面積は7100平方メートル。地盤改良は[[サンドドレーン工法]]にて実施し、改良結果の確認を実施した。&amp;lt;/ref&amp;gt;。その間、1989年には基本設計、1991年から1995年にかけて環境影響評価を実施した。また、1993年には[[ボーリング]]を実施している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
基本設計と環境影響評価では、1992年までに下記の2案を作成・調査を実施した&lt;br /&gt;
&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.icci.or.jp/html/project/2000.html Ⅰ.岩国基地沖合移設] 主要プロジェクトの動き 岩国商工会議所ウェブサイト&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;A案：&#039;&#039;&#039;沖合1000mへ滑走路を平行移設。建設費見積2000億円&lt;br /&gt;
*&#039;&#039;&#039;B案：&#039;&#039;&#039;在来滑走路に交差する形で新滑走路を建設し東側一部埋立。建設費見積500億円。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした検討の結果、1992年8月、防衛施設庁はA案を採用し、かつて「巨額な工事費を要する非現実的な構想」&amp;lt;ref&amp;gt;キーパーソンの証言18：「岩国飛行場滑走路の移設着工について」 『防衛施設庁史 第1部第6章』2007年3月&amp;lt;br /&amp;gt;「非現実的な構想」と言われた件についても回顧&amp;lt;/ref&amp;gt;とも言われた沖合移設を正式に決定した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 移設事業計画 ===&lt;br /&gt;
移設計画の実現に立ちはだかったのは事業費と技術的条件であった。しかし、米軍駐留経費（[[思いやり予算]]）の提供施設整備費を充当することで費用面の目途がつき予算1600億円、工期8年（当初から10年として計画していたとする資料もある&amp;lt;ref name =&amp;quot;iwakunishi-kiti-isetsu&amp;quot;&amp;gt;起工当初の工期、芸予地震の影響等についての出典は下記&amp;lt;br /&amp;gt;[http://www.city.iwakuni.yamaguchi.jp/www/contents/1142594479651/files/taisaku1.pdf 岩国市の基地対策1 （基地沖合移設事業）] 岩国市 3ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;）の計画が立てられた。1997年6月1日には起工式を実施した&amp;lt;ref name =&amp;quot;yomiuri19970601&amp;quot;&amp;gt;[http://web.archive.org/web/20080216030414/http://kyushu.yomiuri.co.jp/news-spe/iwakuni/04/iw_04_97060201.htm 岩国基地、滑走路沖合移設に着工…面積1.4倍に] 『読売新聞』1997年6月2日&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 計画概要&lt;br /&gt;
* 埋立区域面積:215[[ヘクタール|ha]]（南地区:88ha、北地区:72ha、中央地区:55ha）&lt;br /&gt;
* [[護岸]]延長:約7450m&lt;br /&gt;
* [[岸壁]]:約360m、水深13m&lt;br /&gt;
* [[防波堤]]:約1940m&lt;br /&gt;
* 埋立土量:2225万立方メートル&amp;lt;ref&amp;gt;『防衛施設庁史』2007年による数値。他文献で多少の変動あり。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 滑走路:2440m×60m&lt;br /&gt;
* 付帯施設:誘導路、航空保安施設、管理施設、艦船係留施設等&lt;br /&gt;
* 第1種区域（WECPNL75以上&amp;lt;ref&amp;gt;防衛施設庁方式によるWECPNL&amp;lt;/ref&amp;gt;）:移設前約1600ha、移設後300ha（計画当初、後に500ha）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 技術的検討 ===&lt;br /&gt;
埋立海域は[[錦川]]の[[三角州]]に位置しており、[[沖積層]]が堆積しこれが正確な沈下量の予測を難しくしていた。特に、上部沖積砂層（As1層と呼称）以深に堆積する層厚20m程度の沖積[[粘土]]層（Ac層と呼称）が問題&amp;lt;ref&amp;gt;20mは試験埋立海域での値であり、各工区等で海底地盤の地層構成には変化がある。&amp;lt;/ref&amp;gt;であり、埋立時の厚密沈下の対象層であった。具体的な課題点として防衛施設技術協会は下記を挙げている&amp;lt;ref name =&amp;quot;bouei-shisetsu199804&amp;quot;&amp;gt;「岩国飛行場滑走路移設に伴う埋立造成と舗装の設計について」『防衛施設と技術』1998年4月&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
#大きな[[圧密]]沈下が予想される埋立地に、極めて高い平坦性を要求される滑走路を建設する。&lt;br /&gt;
#このような地盤条件下で[[コンクリート]][[舗装]]を行った事例が過去に無い。&lt;br /&gt;
#埋立地盤の[[不同沈下|不同残留沈下]]に対するコンクリート舗装の追従性が技術的に未知である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このため、防衛施設庁は1993年、経済的で信頼性の高い設計を実施するため専門家からなる「岩国飛行場埋立造成・舗装研究委員会」を組織した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
試験埋立の結果、上記委員会の埋立造成部会は埋立地盤の沈下特性&amp;lt;ref&amp;gt;例えば、沖積粘土層は正規圧密として設計上の取り扱いをする、などの結論を得ている。&amp;lt;/ref&amp;gt;、沈下の制御方法、残留・不同沈下量の推定などを研究した。その結果は下記のような工事工程として反映された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 南地区:圧密放置期間4年&lt;br /&gt;
* 中央地区:圧密放置期間1年6ヶ月&lt;br /&gt;
* 北地区:圧密放置期間2年2ヶ月&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
試験埋立と各種調査の結果より必要土量と沈下量が予測された。異種の埋め立て工法を使用すると境界部分にて沈下量、沈下速度に違いが出る&amp;lt;ref&amp;gt;最終的な沈下量が揃っていても沈下中の速度に違いがあれば地表面には相対変位が生じる。&amp;lt;/ref&amp;gt;可能性があることから基本的にはサンド・ドレーン工法を使用し、護岸など一部で[[サンドコンパクションパイル工法]]による埋立が実施されることとなった&amp;lt;ref&amp;gt;『防衛施設庁史』（2007年3月）ではサンドコンパクションパイル工法しか紹介していないが、ここでは埋立技術面に特化した下記の文献の説明に従う。&amp;lt;br /&amp;gt;「岩国飛行場滑走路移設に伴う埋立造成と舗装の設計について」『防衛施設と技術』1998年4月&amp;lt;/ref&amp;gt;。岸壁では当時一般化しつつあった浚渫軟泥土の再利用も実施されている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.kanmon-const.co.jp/kenkyu/tec/shunsetu.htm 浚渫軟泥土のプレミックス工法] [[関門港湾建設]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
舗装条件については上記委員会の舗装部会で検討された。米軍からは運用所要として、「舗装工事はコンクリート舗装を基本とし、併せて運用開始後は運用停止を伴うような大規模な補修工事を必要としないような構造とすること」という条件が提示されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを具体化すると滑走路の機能に関する条件は次のようになった&amp;lt;ref name =&amp;quot;bouei-shisetsu199804&amp;quot; /&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
#縦断[[勾配]]の変化に対する規定は厳しい&amp;lt;ref&amp;gt;具体的条件は下記。&amp;lt;br /&amp;gt;滑走路端部3000[[フィート]]区間で縦断勾配0.8%以下、滑走路中央部で1%以下であること&amp;lt;br /&amp;gt;不同沈下によって舗装表面の雨水排水等に支障を生じない）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
#将来に渡って、滑走路の全面閉鎖を伴う補修は困難であり、選定される舗装種別はメンテナンスフリーであることが要求される。&lt;br /&gt;
#戦闘機が使用するために、FOD([[軍事略語一覧#F|Foreign Object Damage]])のリスクがあり、舗装面の段差が特に問題となるため、破損による欠片の飛散、不同沈下による目地のずれがあってはならない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
コンクリート舗装の耐用年数として設定された20年間、上記の条件を満たすことが要求された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらの仕様から種々の舗装種別を比較し、CRC舗装（連続鉄筋コンクリート舗装、ダブル配筋）を採用した。不同沈下に対する追従が良く、弱点となる横目地が無いなどの利点が評価された&amp;lt;ref&amp;gt;なお、舗装構造設計に際しては、下記諸仕様（いずれも当時）に準拠している。&amp;lt;br /&amp;gt;『飛行場施設等の設計要領』 防衛庁&amp;lt;br /&amp;gt;『空港コンクリート舗装構造設計要領』 運輸省&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、その他護岸・岸壁についても、軟弱地盤上の建設であり、水深の変化が大きく&amp;lt;ref&amp;gt;埋立海域の水深は0～20mとかなりの幅がある。&amp;lt;/ref&amp;gt;、地盤条件も一様ではないため、設計には慎重な検討が必要と委員会で結論された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、本工事は思いやり予算での負担工事に当たるのは上述したが、具体的には更にその下の提供施設整備計画 (FIP)に当たる。アメリカ側のカウンターパートは[[アメリカ陸軍工兵隊|陸軍工兵隊]]建設技術本部下の在日米陸軍建設技術本部であった&amp;lt;ref&amp;gt;ジョン・R・マクマーン（米陸軍大佐）「JED（在日米陸軍建設技術本部）-DFAA（防衛施設庁）との協調関係は、永遠に固く」『防衛施設と技術』2003年10月&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 工事着手後 ===&lt;br /&gt;
水深や沈下速度の違いを考慮して工事は三工区（南→北→中央）の順に実施した。なお、土源には岩国市[[愛宕山 (岩国市)|愛宕山]]地区での住宅地再開発事業で発生した残土が採用されている&amp;lt;ref name =&amp;quot;yomiuri19970601&amp;quot; /&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1990年代後半より顕在化した[[普天間基地移設問題]]において、2000年より設置された『普天間飛行場代替施設に関する協議会』で本飛行場の沖合移設が技術的な参考に提示されたことがある&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.kantei.go.jp/jp/singi/hutenma/dai3/3gaiyou.html 第3回代替施設協議会協議概要] 2000年10月31日&amp;lt;br /&amp;gt;[http://www.kantei.go.jp/jp/singi/hutenma/dai5/5gaiyou.html 第5回代替施設協議会協議概要] 2001年1月16日&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
沈下の終息後舗装工事等を実施することでたことなどにより、工事は上述のように長期間で計画されたが、期間、事業費は増加していった。節目としては3回ある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず、2001年に公表された防衛施設庁による[[政策評価]]では&lt;br /&gt;
#[[阪神・淡路大震災]]で発生した[[液状化]]の教訓を取り入れ埋立土砂の液状化対策工事、地盤改良工事を追加&lt;br /&gt;
#岩国市の都市計画に従い返還した土地の代替施設を米軍が希望し遊水地5haの埋立を追加&lt;br /&gt;
が加わり、事業費は2000億円、完成は2007年度末に延長された&amp;lt;ref&amp;gt;{{PDFlink|[http://www.mod.go.jp/j/approach/hyouka/seisaku/results/13/chukan/honbun/28.pdf 平成13年度政策評価書（中間段階の事業評価）]}} （担当部局：防衛施設庁施設部施設計画課、評価実施時期：2001年6月～8月）3ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その直後、2001年3月に発生した[[芸予地震]]により再度水深の深い埋立地における液状化対策が認識され、2002年8月30日、防衛施設庁は対策工事の追加で事業費が2400億円に増加すること、工期が3年程度延びることを発表した&amp;lt;ref name =&amp;quot;iwakunishi-kiti-isetsu&amp;quot; /&amp;gt;&amp;lt;ref name =&amp;quot;chugoku20080928&amp;quot;&amp;gt;[http://www.chugoku-np.co.jp/iwakuni/News/In08092801.html 岩国基地、沖合移設2年遅れ 民間空港再開にも影響か] 『中国新聞』2008年9月28日&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、着工時点で土質定数等の推定値が全て確定していた訳ではなかった為、液状化の検討を実施した際は当初から埋立後に再調査を実施し、液状化の可能性が高いと判定された地域では対策を実施する方針であった。また、着陸帯では地盤改良を実施しない計画であるなど、一口に埋立地と言っても滑走路などとは扱いに違いも見られる。&amp;lt;br /&amp;gt;「岩国飛行場滑走路移設に伴う埋立造成と舗装の設計について」『防衛施設と技術』1998年4月 P87&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、更に次の要因で更に2年の時間を要した&amp;lt;ref name =&amp;quot;chugoku20080928&amp;quot; /&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 滑走路西側平行誘導路となる場所にある市の[[し尿処理場]]の土地を国への引き渡すのが遅れ、その間の調査で当該地にてサンドドレーンによる地盤改良が必要と判明した。&lt;br /&gt;
* 新管制塔の入札が不調でその間に[[構造計算書偽造問題]]から[[建築基準法]]が改正され、強度計算が新基準に適合するか確認作業が必要になった。&lt;br /&gt;
* 航空保安無線施設の設置場所に調整が必要となった&lt;br /&gt;
* 新滑走路北側誘導路建設で既存の[[火薬庫]]の移設が必要であったが、米軍の内部事情で手続きに時間を要し、1年9ヶ月工期が遅れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうして、2010年5月29日には新滑走路の運用が開始され、旧滑走路は閉鎖された&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.mod.go.jp/j/press/news/2010/04/15a.html 岩国飛行場における新滑走路の運用開始に係る施設の提供等について] 防衛省 2010年4月14日&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;「岩国基地、沖合移設の新滑走路を前倒し運用」『読売新聞』 2010年5月29日付&amp;lt;/ref&amp;gt;。最終的な総事業費は2500億円となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方で、[[防衛施設周辺の生活環境の整備等に関する法律]]による第1種区域は計画当初300haに減少する計画であったものが、艦載機移転に伴い500haとなった。このことを見越し、一部住民により完成前年の2009年、爆音訴訟が[[提訴]]されている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.minato-yamaguchi.co.jp/yama/news/digest/2010/0529/1p.html 米軍岩国基地の新滑走路、きょうから運用 地元は期待と反発交錯] 『山口新聞』2010年5月29日掲載&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、[[在日米軍再編#岩国基地への空母艦載機部隊移転|岩国基地への空母艦載機部隊移転]]の関係で更なる沖合への滑走路新設が岩国商工会議所などにより構想されたことがある。この際の工法には[[メガフロート]]が候補であり、事業費として4000～5000億円程度を想定している旨報じられた&amp;lt;ref&amp;gt;「米軍NLP実施、岩国沖に「メガフロート」検討」『読売新聞』2005年8月28日&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 空母艦載機部隊移転問題 ===&lt;br /&gt;
{{main|在日米軍再編#岩国基地への空母艦載機部隊移転}}&lt;br /&gt;
現在{{いつ|date=2013年1月}}計画中の[[在日米軍再編]]の中で、[[厚木飛行場|厚木基地]]からの空母艦載機移転が計画されており、これを巡って[[2006年]][[3月12日]]、旧岩国市に於いて[[住民投票]]が行われ、反対票が賛成票を大きく上回る結果となった。しかし、その後の国の強硬姿勢もあって岩国市内では様々な議論を呼んでいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
愛宕山地域開発事業は当初の総事業費850億円、宅地供給数1500戸の計画で、1998年頃より着手した。しかし2002年に実施した需要予測では戸建て住宅の需要推計は当初計画の19%に過ぎなかった。当時の岩国市の年間歳入は400億円程度で、事業のため設立した公社の借入金残高は260億円に達し、県と分担して処理した場合、重い負担になることが懸念された。それを解消するために、米軍再編を利用して艦載機部隊の隊員・家族の住宅に充て、債務を国に肩代わりさせる構想もあるが、賛否に割れている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/okinawa/kikaku/019/4.htm ＜4＞岩国沖埋め立て関連造成事業]{{リンク切れ|date=2011年10月}} 『読売新聞』企画・連載:沖縄&amp;lt;/ref&amp;gt;。2006年に実施された予測では184億～492億円の赤字発生が予想されている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://web.archive.org/web/20080216030545/http://kyushu.yomiuri.co.jp/news-spe/iwakuni/06/iw_06_06112101.htm 岩国基地沖合移設関連の宅地造成…赤字492億円見通し] 2006年11月21日&amp;lt;/ref&amp;gt;。2007年9月には、山口県の希望が通り、国は用地の75%の買取に応じた。米軍住宅の有力な候補地として検討しているが、米軍住宅への転用を前提としない名目であるという&amp;lt;ref&amp;gt;「岩国・愛宕山の宅地予定地、国、買い取り基本合意」『日経新聞』地方経済面 中国A版 2007年11月9日&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、有力な漁場ともなっていた[[干潟]]を埋め立てたため&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、埋立前は基地に隣接する2000haの海域で常時漁業制限を実施しており、その補償を地元の漁業組合に行っている。&amp;lt;br /&amp;gt;「岩国飛行場－その運用と周辺対策－」『調和 基地と住民』1989年12月15日&amp;lt;/ref&amp;gt;、その代替として10年程度の期間で人工干潟を創生する計画が実施されている。ただし、着手当時は[[ミティゲーション]]の概念が日本に入ってきて間もなく、建設業界でも日本の環境に即した干潟創生のための技術開発は模索の段階であった。そのこともあり、着工間もない頃から環境団体により維持費と効果に批判的な意見が寄せられている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.chugoku-np.co.jp/setouti/newseto/980616/980616.html 環境創造の虚実 －開発の免罪符色濃く－] 『中国新聞』1998年6月16日&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、2006年には、[[防衛施設庁談合事件]]に絡んで、中央地区の工事で[[大林組]]などが関係した談合があったのではないかと赤旗などに報じられた&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-02-03/2006020315_02_0.html 岩国基地でも談合か 施設庁 滑走路沖合移設工事で] 『赤旗』2006年2月3日&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 所在部隊 ==&lt;br /&gt;
=== 海兵隊 ===&lt;br /&gt;
* [[佐世保基地 (アメリカ海軍)|佐世保基地]]を母港としている[[強襲揚陸艦]]「[[ボノム・リシャール (強襲揚陸艦)|ボノム・リシャール]]」艦載機の基地として、[[SH-60 シーホーク|MH-60S]]・[[V-107|HH-46]]など一部のヘリやハリアーなどが佐世保入港時に駐留している（ボノム・リシャール艦載機は、佐世保入港時は岩国基地と[[普天間飛行場|普天間基地]]に分散していると見られる）。&lt;br /&gt;
* [[第1海兵航空団]]の第12海兵航空群が駐留し[[F/A-18 (航空機)|F/A-18戦闘攻撃機]]や[[ハリアー II (航空機)|AV-8ハリアー II攻撃機]]、[[EA-6 (航空機)|EA-6電子戦機]]などを運用している。後述するVMFA (AW)-242以外の部隊は基本的に6ヶ月の[[ローテーション]]配備が行われているため、時期によって岩国基地に所属する飛行隊が変わる。&lt;br /&gt;
* その他、[[在日米軍]]や[[在韓米軍]]航空機が相互の部隊の移動やアメリカ本土への帰還の際に途中給油を行う中継点としても良く使用される。&lt;br /&gt;
* [[航空管制]]を受け持つ。ちなみに、[[松山空港]]の[[進入・ターミナルレーダー管制|進入レーダー管制]]は岩国で行われている。&lt;br /&gt;
; 常駐部隊（海兵隊航空部隊）&lt;br /&gt;
* 第12海兵航空群（MAG-12、[[:en:Marine Aircraft Group 12|Marine Aircraft Group]]） - [[第1海兵航空団]] (1stMAW - Marine Air Wing)の直轄部隊。岩国海兵隊基地を管轄。&lt;br /&gt;
** 海兵第242全天候戦闘攻撃飛行隊（VMFA (AW)-242）”Bats” - MAG-12の傘下で[[F/A-18|F/A-18D]]を装備する飛行隊。[[2008年]][[3月]]よりローテーション配備の原則から離れて、恒久的に岩国基地に配備されている部隊。&lt;br /&gt;
** 第152海兵給油輸送飛行隊（VMGR-152）&amp;quot;Sumos&amp;quot; - [[C-130J (航空機)|KC-130J]]等を配備。2014年7月15日付を以って沖縄県[[普天間基地]]より異動。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 海上自衛隊 ===&lt;br /&gt;
; 岩国航空基地&lt;br /&gt;
（[[航空集団]]）&lt;br /&gt;
* [[第31航空群]]司令部&lt;br /&gt;
** 第71航空隊 - 救難飛行艇[[US-1|US-1A]]、[[US-2 (航空機)|US-2]]を保有し日本近海や洋上での海難事故に対応する（分隊は[[厚木航空基地]]に救難待機）。&lt;br /&gt;
** 第81航空隊 - 電子戦機[[P-3 (航空機)|EP-3]]と情報収集機OP-3Cを運用。&lt;br /&gt;
** 第91航空隊 - 多用途機UP-3D、[[リアジェット35|U-36A]]を運用。&lt;br /&gt;
** 第31整備補給隊&lt;br /&gt;
** 岩国航空基地隊&lt;br /&gt;
* [[航空集団]]直轄&lt;br /&gt;
** 第111航空隊 - 掃海・輸送ヘリコプター[[CH-53E (航空機)|MH-53E]]、[[アグスタウェストランド EH101|MCH-101]]を運用。[[1989年]]に[[下総航空基地]]から当基地へ移駐。&lt;br /&gt;
* （[[システム通信隊群]]呉システム通信隊）岩国システム通信分遣隊&lt;br /&gt;
* （呉地方警務隊）岩国警務分遣隊&lt;br /&gt;
* 南極観測船「[[しらせ (砕氷艦・2代)|しらせ]]」直轄&lt;br /&gt;
** しらせ飛行科 - 「しらせ」搭載輸送ヘリコプター[[アグスタウェストランド EH101|CH-101]]を運用。「しらせ飛行科」は第111航空隊の分遣隊ではなく、独立した艦所属部隊で部品調達の関係から岩国航空基地に置かれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
海上自衛隊の救難飛行艇用の揚陸斜路（滑り台）が設けられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--== 航空管制 ==&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
!CLR&lt;br /&gt;
|135.7MHz,310.6MHz&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!GND&lt;br /&gt;
|121.3MHz,360.2MHz&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!TWR&lt;br /&gt;
|123.8MHz,340.2MHz&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!APP&lt;br /&gt;
|128MHz,236.2MHz&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!PTD&lt;br /&gt;
|134.1MHz,258.6MHz&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!MET&lt;br /&gt;
|344.6MHz&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!ATIS&lt;br /&gt;
|128.4MHz,283MHz&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
航空管制は、米海兵隊が担当&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 航空保安無線施設 ==&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
!局名!!種類!!周波数!!識別信号&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[岩国TACAN|岩国]]||TACAN||996.0MHz||NEU&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
保守は、米海兵隊が担当--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 岩国錦帯橋空港 ==&lt;br /&gt;
[[file:Iwakuni kintaikyo Airport.JPG|right|300px]]&lt;br /&gt;
上述のとおり岩国飛行場（岩国空港）は永きにわたりアメリカ海兵隊・海上自衛隊による運用が行われてきたが、[[2012年]][[12月13日]]から軍民共用空港としての活用が始まり、[[民間機]]による定期便が就航している&amp;lt;ref name =&amp;quot;yamaguchi-np20121214&amp;quot;/&amp;gt;。日本国内で米軍基地に民間機の定期便が就航するのは[[三沢飛行場]]（[[アメリカ空軍]]三沢基地）に次いで2例目、山口県内では[[山口宇部空港]]に次ぐ民間機就航空港となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 英国海外航空の乗入れ ===&lt;br /&gt;
[[1948年]]（昭和23年）[[3月19日]]には、イギリス連邦占領軍への物資補給を目的に、[[英国海外航空]] (BOAC)の[[ショート サンダーランド|ショート・サンドリンガム]]「プリマス型」[[飛行艇]]が、[[イギリス]]南海岸のプールと[[香港]]を結ぶ路線を延長し定期乗り入れを開始した。これはイギリスの[[航空会社]]による初の日本乗り入れであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、英国海外航空が岩国基地を最初の定期乗り入れ地にした理由の1つに、定期乗り入れ開始に先立つ[[1946年]]3月に、イギリス連邦占領軍のバウチャー少将が、英国海外航空機の[[東京国際空港]]沖への乗り入れを[[連合国軍最高司令部]]の[[ダグラス・マッカーサー]]最高司令官に求めたが、拒否されたという背景があった&amp;lt;ref&amp;gt;『英国空軍少将の見た日本占領と朝鮮戦争』P.17 サー・セシル・バウチャー著 社会評論社 [[2008年]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのため、かつては[[国際航空運送協会|IATA]][[空港コード]]&#039;&#039;&#039;IWJ&#039;&#039;&#039;（現在は[[石見空港]]に転用）があった。現在のIATAコードは&#039;&#039;&#039;IWK&#039;&#039;&#039;であり、2012年の民間機就航に併せて再取得されたものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 軍民共用化 ===&lt;br /&gt;
その後、1952年から初代広島空港（現・[[広島西飛行場|広島ヘリポート]]）が出来る前の1964年までの間、民間機の定期便が就航していた。以後は米軍関係者の移動にチャーター機が運航されることがあった程度だが、地元自治体は軍民共用化の再開を強く要望していた。要望の一環として、[[日本航空]]により、地元商工団体（岩国ハワイチャーターフライト実行委員会）主催による[[ホノルル国際空港]]往復のチャーター便が1992年・1996年・1999年・2007年の4回就航している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2005年10月、日米合同委員会において米軍の運用を妨げないとの条件付きで民間機就航に合意&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite news|url=http://mainichi.jp/feature/news/20121214ddm008040072000c.html|title=岩国錦帯橋空港:米軍共用で開港−−山口|work=[[毎日jp]]|publisher=毎日新聞社|date=2012年12月14日|accessdate=2012年12月14日}}&amp;lt;/ref&amp;gt;、滑走路の沖合移転後に軍民共用化を行い1日最大4往復程度の民間機が運航されることが計画された。2007年5月には[[防衛施設庁]]がターミナルビルなどの配置計画などを示したマスタープランを示していた。ただし、地元岩国市では[[井原勝介]]前市長を筆頭に[[在日米軍再編]]の一環である[[厚木海軍飛行場|厚木基地]]からの空母艦載機部隊の移転に反対の立場を示す意見が多く、軍民共用化は在日米軍再編の地元対策と考えている[[防衛省]]・防衛施設庁との意見の相違が見られた（ちなみに軍民共用化の決定は在日米軍再編の決定前だったため、軍民共用化と在日米軍再編は別の問題ととらえる地元の意見も根強い）ため計画の実現に向けては紆余曲折が見られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、[[2008年]]に行われた岩国市長選挙で在日米軍再編に一定の理解を示す[[福田良彦]]が当選したことで当時の[[冬柴鐵三]][[国土交通大臣]]や[[石破茂]][[防衛大臣]]が民間空港再開（軍民共用化）の推進に前向きな姿勢を示し&amp;lt;ref&amp;gt;[http://web.archive.org/web/20090422170136/http://www.pref.yamaguchi.lg.jp/press/200804/009661.html 岩国基地民間空港再開に係る要望結果について（2008年4月10日付山口県報道発表）]&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[2009年]]2月には政府が民間航空の再開を発表した&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.kantei.go.jp/jp/tyoukanpress/rireki/2009/02/16_p.html 岩国飛行場における民間航空の再開について] 首相官邸 [[2009年]][[2月16日]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2010年]]2月17日に[[全日本空輸]] (ANA) の上席[[執行役員]]が[[山口県庁]]を訪れ、沖合移転滑走路を使用した[[東京国際空港|羽田]]便を[[2012年]]から1日4往復就航することを二井山口県知事と福田岩国市長に正式表明した&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite news|url=http://www.47news.jp/CN/201002/CN2010021701000412.html|title=全日空、羽田―岩国就航 12年から、1日4往復|work=[[47NEWS]]|publisher=[[共同通信社]]|date=2010-02-17|accessdate=2010-08-08}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。ANAでは岩国市に工場を持つ[[帝人]]や[[日本製紙]]などへのビジネス需要や空港近郊の[[錦帯橋]]や[[厳島|宮島]]など観光需要を想定し、年間で30-40万人の利用客を見込んでいる。この計画に従い、ANAは2012年1月17日に発表した2012年度ANAグループ航空輸送事業計画において、「2012年下期から羽田 - 岩国線を1日4往復就航」を明記&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite pressrelease|url=http://www.ana.co.jp/pr/12-0103/11a-150.html|title=2012年度ANAグループ航空輸送事業計画を策定|publisher=ANAグループ|date=2012年1月17日|accessdate=2012年1月18日}}&amp;lt;/ref&amp;gt;、2012年6月8日に[[羽田雄一郎]]国交相が岩国錦帯橋空港について「2012年[[12月13日]]を開港目標日としたい」と表明した&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite news|url=http://www.47news.jp/CN/201002/CN2010021701000412.html|title=岩国空港が12月13日開港へ 岩国錦帯橋空港の愛称|work=[[47NEWS]]|publisher=[[共同通信社]]|date=2012-06-08|accessdate=2012-06-09}}&amp;lt;/ref&amp;gt;ことを受け、同日開港に向けての準備が進められ、2012年12月13日から軍民共同利用が始まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ターミナルエリアの整備 ===&lt;br /&gt;
民間機用の駐機場などの整備は、国土交通省が2010年度からの3年間で実施し、事業費は約46億円。また[[空港ターミナルビル]]については、国土交通省[[大阪航空局]]が実施した[[公募型プロポーザル方式|公募型プロポーザル]]の結果、唯一応募した県・岩国市及び周辺の市町が出資した第三セクター「岩国空港ビル」が担うこととなり、鉄骨2階建で延べ床面積3000-4000平方メートル規模のターミナルビルが10億-15億円程度の事業費で整備された&amp;lt;ref&amp;gt;「米軍岩国基地：民空再開 空港ターミナルビル、営業者に3セク選定--国交省／山口」『毎日新聞』2010年7月15日&amp;lt;/ref&amp;gt;。民間利用時の空港の愛称についても一般公募が行われ、最も投票数が多かった、近傍の[[名勝]]に由来する『岩国[[錦帯橋]]空港』の愛称が与えられることになった&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|url=http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201012090077.html|title=民空は「岩国錦帯橋空港」|publisher=[[中国新聞]]|date=2010-12-09|accessdate=2011-02-10|deadlinkdate=2011-11-12}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ターミナルエリア（駐車場・空港ターミナルビル・エプロン）は敷地の北西部にある「ノースサイドレクリエーションセンター」の一角を取り壊し、隣接する民有地の一部を取り込んで建設された。これらのエリアは基地エリアと分離され、一般客が自由に行き来できるようになる。離着陸する民間航空機は、ターミナルエリアのエプロンから専用ゲート（航空機通行時にのみ開閉される）を通過し、誘導路を経由して滑走路と行き来することになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ターミナルビルは2階建てだが、搭乗カウンター・待合フロア（ゲートラウンジ）など主要施設はすべて1階に集約され、2階は[[ボーディングブリッジ]]へのコンコースと展望デッキのみが設けられるという比較的シンプルな構造になっている。ゲートラウンジは駐機エプロンのすぐそばに設けられており、搭乗待合中の真横に飛行機が駐機するという構造となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 問題点 ===&lt;br /&gt;
当飛行場の滑走路は米軍管理下にあり、滑走路上での事故については日本所有の航空機の人身事故であっても、米軍が消火活動、救命救急活動、事故調査活動を行う&amp;lt;ref&amp;gt;山口の海自機墜落4人死亡 航空事故調査委を岩国基地に設置 『読売新聞』2003年05月22日 西部朝刊 1頁 写有 (全685字)&amp;lt;/ref&amp;gt;。2003年に滑走路で自衛隊機が横転炎上し4名の隊員が死亡する事故があったが&amp;lt;ref&amp;gt;海自機炎上、4人死亡 離着陸訓練中に横転 岩国基地 2003年05月22日 産経新聞 東京朝刊 31頁 第1社会 写有 (全470字)&amp;lt;/ref&amp;gt;、日本は事故に関する一切の活動に参加できず、滑走路に立ち入ることも出来なかった&amp;lt;ref&amp;gt;海自機墜落事故 近くに弾薬庫「あわや…」 山口・岩国基地 軍民共用化に警鐘 『読売新聞』2003年05月22日 西部朝刊 29頁 写有 (全1,088字)&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 就航路線 ===&lt;br /&gt;
* &#039;&#039;&#039;[[全日本空輸]] (ANA)&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
**[[東京国際空港|東京国際空港（羽田空港）]]&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.ana.co.jp/dom/promotion/iwakuni-info/ 2012年12月13日から東京（羽田）⇔岩国線を開設！]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name =&amp;quot;yamaguchi-np20121214&amp;quot;/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アクセス ===&lt;br /&gt;
; 空港連絡バス・高速バス&lt;br /&gt;
:* 交通局・[[岩国駅]] - 岩国錦帯橋空港（[[いわくにバス]]）&lt;br /&gt;
:* [[広島バスセンター]] - [[錦帯橋]] - 岩国錦帯橋空港・岩国駅・交通局（「[[防長交通#岩国・周防大島発着便|錦帯ブルーライナー]]」・いわくにバス）&lt;br /&gt;
:** 広島発着は11往復のうち2往復が空港経由。&lt;br /&gt;
:** 2013年3月30日までは[[徳山駅]]・[[熊毛インターチェンジ|熊毛インター]]・[[玖珂インターチェンジ|玖珂インター]] - 岩国錦帯橋空港の系統も2往復運行されていた（後述の乗合タクシーに変更）。&lt;br /&gt;
:** 2013年5月31日までは[[田布施町|田布施]]・[[平生町|平生営業所]]・[[柳井港]]・[[大畠駅]] - 岩国錦帯橋空港が運行されていた。（路線廃止）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 空港乗合タクシー&lt;br /&gt;
:* [[周南市|周南市内]]・[[下松市|下松市内]]・[[光市|光市内]] - 岩国錦帯橋空港（[[防長交通#関連会社|周南近鉄タクシー]] 2013年3月31日からの予定）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 道路&lt;br /&gt;
:* [[山口県道110号岩国錦帯橋空港線]]&lt;br /&gt;
:*: 民間利用開始に併せて市道から昇格。&lt;br /&gt;
:*: [[国道189号]]は米軍基地エリアへのアクセス道路であり、民間空港エリアへのアクセスとしては案内されない。軍民共用化後、民間航空利用者が誤って米軍基地側に行くケースが発生し、海兵隊が注意を呼び掛けている&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web |author=[[アメリカ海兵隊]] |date=2012-12-13 |url=http://www.mcasiwakuni.marines.mil/News/PressReleaseView/tabid/6914/Article/135583/confusion-about-airport-entrance.aspx |title=Confusion about airport entrance／岩国錦帯橋空港入り口について |accessdate=2013-01-10 }}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 基地一般公開 ==&lt;br /&gt;
=== アメリカ ===&lt;br /&gt;
毎年[[5月5日]]にはアメリカ海兵隊の主催する航空祭「フレンドシップデー」が催され、海兵隊地区が一般市民へ開放されていた。多数の航空機が地上展示されるほか米軍機や[[ブルーインパルス]]の展示飛行が実施された。動員観客数は催しの内容や連休の並びに影響されるため年によって変化が大きいが、概ね14万～24万人であった。2012年の「フレンドシップデー」は過去最高の観客動員であったが、その後基地司令官が「フレンドシップデー」の効果に疑問を持っていることと、民間空港として開港することより、次年度以降については中止ないし地上展示のみとする方針が明らかにされていた。2013年は米国政府の財政難のあおりを受け「フレンドシップデー」は中止。2014年は例年通り5月5日に開催されたが航空機による展示飛行は一切なく、米海兵隊機、海軍機、自衛隊機の地上展示のみに留まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本 ===&lt;br /&gt;
毎年9月の第2もしくは第3土曜日には、海上自衛隊地区が一般開放されて海上自衛隊第31航空群の記念行事が行われる。記念式典、海上自衛官によるファンシードリル、航空機体験搭乗、機材（航空機）の地上展示などが行われる。当日は岩国駅前～基地内間の臨時バス（有料）が運行される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 飛行艇博物館構想 ===&lt;br /&gt;
なお、上述の空港ターミナル計画の中に従来海上自衛隊基地内に設置していた基地資料館を移設し、飛行艇資料館を建設して[[大和ミュージアム]]、[[潜水艦資料館]]等と共に中国地方の観光スポットとする構想がある。現状の基地資料館は米軍基地の敷地を横切って移動する必要があるため、自衛官の付き添いが必要で不便さが残っていたが、移設によりその問題も解消すると言う&amp;lt;ref&amp;gt;塩村忠勝「米軍再編と岩国市の現状」『[[航空ファン (雑誌)|航空ファン]]』2008年12月&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 基地内施設 ===&lt;br /&gt;
イベントや展示施設とは異なるが、基地内には他の幾つかの米軍基地同様にアメリカの大学の分校（[[セントラルテキサス大学]]、[[メリーランド大学]]）が開校しており、日本人も就学している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
入学の受付は岩国市が担当している。授業は全て英語で、2000年代に入ってからは日本人の入学者数は減少しているという。メリットは、留学に比較して米国内で米国人が払う額と同じ額で授業が受けられることや、渡米した場合の渡航費や現地での生活費の負担が無いことである&amp;lt;ref&amp;gt;「基地内大学日本人新入生が減」『中国新聞』2009年4月12日&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
[http://www.unipro-note.net/archives/51299447.html 岩国基地の「基地内大学」 日本人新入生が減少し続けている理由は？] 大学プロデューサーズ・ノート 2009年4月17日&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist|2}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 「岩国飛行場－その運用と周辺対策－」（『調和 基地と住民』1989年12月15日）&lt;br /&gt;
* 「岩国飛行場－その運用と周辺対策－」（『調和 基地と住民』1999年12月）&lt;br /&gt;
* [http://www.usmc.mil/unit/mcasiwakuni/Pages/japanese/history.aspx 基地の歴史:米海兵隊岩国航空基地]&lt;br /&gt;
* [http://www.mod.go.jp/j/profile/choushi/choushi_pdf/01_07_06.pdf 第6節 岩国飛行場滑走路沖合移設工事の開始] 『防衛施設庁史 第1部第6章』2007年3月&lt;br /&gt;
* [http://www.mod.go.jp/j/approach/hyouka/seisaku/results/13/chukan/honbun/28.pdf 平成13年度政策評価書（中間段階の事業評価）] （担当部局：防衛施設庁施設部施設計画課、評価実施時期：2001年6月～8月）&lt;br /&gt;
* [http://www.env.go.jp/press/press.php?serial=3742 岩国飛行場藻場・干潟回復検討報告書に対する環境省の見解について] 環境省 2002年11月15日&lt;br /&gt;
* [http://www.mod.go.jp/rdb/chushi/iwakuni-oki-home.htm 岩国飛行場滑走路沖合移設事業] 防衛省中国四国防衛局&lt;br /&gt;
* [http://www.pref.yamaguchi.lg.jp/cms/a109002/iwakunikichi/20110331okiai.html 総務部 岩国基地対策室] 山口県&lt;br /&gt;
* [http://www.pref.yamaguchi.lg.jp/cms/a123002/keikaku/gaiyouban/apd1_1_2007021026171649.pdf 空港整備基本計画（中間報告）－ 概要版－] 岩国基地民間空港再開事業推進協議会 2006年2月&lt;br /&gt;
* [http://www.mod.go.jp/j/profile/choushi/choushi_pdf/01_09_06.pdf 第6節 岩国飛行場の民間空港再開に係る日米間の基本的合意] 『防衛施設庁史 第1部第9章』2007年3月&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[アメリカ軍]] - [[在日米軍]]（[[アメリカ海兵隊]][[第3海兵遠征軍]]）&lt;br /&gt;
* [[在日米軍再編]]&lt;br /&gt;
* [[英国海外航空]]&lt;br /&gt;
* [[軍用機]]&lt;br /&gt;
* [[国道189号]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
{{Commonscat|Marine Corps Air Station Iwakuni}}&lt;br /&gt;
* [http://www.marines.mil/unit/mcasiwakuni/Pages/default.aspx 米海兵隊岩国航空基地] / [http://www.marines.mil/unit/mcasiwakuni/Pages/japanese/japanese.aspx 日本語版]&lt;br /&gt;
* [http://www.mod.go.jp/msdf/iwakuni/ 海上自衛隊岩国航空基地]&lt;br /&gt;
* [http://iwakuni-airport.jp/ 岩国錦帯橋空港]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [http://www.pref.yamaguchi.lg.jp/cms/a123002/index/ 山口県-民間空港再開推進室]&lt;br /&gt;
* [http://www.city.iwakuni.yamaguchi.jp/www/genre/0000000000000/1000000000095/ 岩国市-民間空港]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Airport-info|RJOI}}&lt;br /&gt;
{{日本の空港}}&lt;br /&gt;
{{海上自衛隊2}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:いわくにひこうしよう}}&lt;br /&gt;
[[Category:在日米軍基地]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の軍用飛行場]]&lt;br /&gt;
[[Category:海上自衛隊の陸上施設]]&lt;br /&gt;
[[Category:中国地方の空港]]&lt;br /&gt;
[[Category:山口県の建築物]]&lt;br /&gt;
[[Category:岩国市の交通]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>125.197.11.28</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E9%9B%BB%E5%AD%90%E6%88%A6%E6%A9%9F&amp;diff=32181</id>
		<title>電子戦機</title>
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		<updated>2014-08-04T15:06:18Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;125.197.11.28: /* 主要各国の電子戦機 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&#039;&#039;&#039;電子戦機&#039;&#039;&#039;（でんしせんき、{{Lang-en|electronic warfare aircraft}}）とは、[[電子戦]]を重視して設計・装備された[[航空機]]のこと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その開発には高度な電子情報技術の集積が必要なため、[[先進国]]の一部しか保有しておらず、その中でも[[アメリカ合衆国]]が充実している。その理由は、軍事用電子機器の大半がアメリカ製であるからであり、自国の軍事的政治的優位を維持するためである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
航空機の発展は電子技術の発展がその背景にある。これは航空機に限らず、航空機を防御する側でもそうで、電子技術への依存度は大きい。[[軍用機]]による作戦遂行能力は、電子機器の能力によるところが大きく、一方で敵の航空機搭載用、あるいは地上配備用等の電子機器は、ミッションの遂行に大きな脅威となる。それらの電子機器に対する作戦が[[電子戦]]（EW）である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在、電子戦は、[[電子攻撃]]（EA / ECM）、[[電子防護]]（EP / ECCM）、[[電子戦支援]]（ES / ESM）の3領域に大別される。これら3領域のうち、電子防護については[[ソフトウェア]]的な施策が主となる&amp;lt;ref name=&amp;quot;電子戦の技術&amp;quot;&amp;gt;{{Cite book|和書|author=デビッド・アダミー|year=2013|title=電子戦の技術 基礎編|publisher=[[東京電機大学]]出版局|isbn=978-4501329402}}&amp;lt;/ref&amp;gt;ことから、[[ハードウェア]]としての電子戦機は、電子攻撃ないし電子戦支援を重視して装備されることが多い。電子攻撃を重視する機体については、[[電子攻撃#電子対抗手段 (ECM)|電子対抗手段（ECM）]]を主とする&#039;&#039;&#039;電子妨害機&#039;&#039;&#039;と、[[電子攻撃#対電波放射源兵器 (ARW)|対電波放射源兵器（ARW）]]を主とする&#039;&#039;&#039;[[航空作戦#敵防空網制圧|SEAD]]機&#039;&#039;&#039;がある。一方、電子戦支援を重視する機体については&#039;&#039;&#039;電子偵察機&#039;&#039;&#039;と通称されるが、作戦指揮官のための電子戦支援だけでなく、[[諜報活動]]の分野に属する[[シギント|SIGINT]]（COMINT、ELINTなど）にも用いられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、このように電子戦が重視されている状況から、専任の電子戦機以外の航空機にも、ある程度の電子戦用の機材が搭載されていることが多い。特に[[早期警戒管制機]]（AWACS）は概して強力な電子戦能力を備え、また[[対潜戦]]の必要上から[[対潜哨戒機]]は電子戦支援に注力している。それ以外の作戦機も、自衛用のES装備である[[レーダー警報受信機|レーダー警報受信機（RWR）]]は搭載していることが多く、自衛用のECM装備である[[電波妨害装置]]についても、内蔵型ないし外装型の様々な機種が開発されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主要各国の電子戦機 ==&lt;br /&gt;
[[アメリカ軍]]保有のうち狭義の電子戦機としては[[アメリカ海軍|海軍]]機のEA-6、[[アメリカ空軍|空軍]]機のEF-111Aなどがあり、電子偵察機としては空軍機のRC-135Wなどが挙げられる。なお、[[アメリカ陸軍|陸軍]]も通信傍受機を独自に運用している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらの電子戦機は電子技術の発達に追従していくため搭載電子装備を常に[[アップデート]]しており、同型機でも配備時期により性能に大きな違いがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Col|&lt;br /&gt;
{{USA}}&lt;br /&gt;
* [[アメリカ空軍]]&lt;br /&gt;
** [[EF-111 (航空機)|EF-111Aレイヴン]]（電子妨害機、退役）&lt;br /&gt;
** [[RC-135 (航空機)|RC-135V/Wリベットジョイント]]（[[シギント|SIGINT]]機、C/U型は退役）&lt;br /&gt;
** [[C-130 (航空機)|EC-130Hコンパスコール]]（通信妨害機）&lt;br /&gt;
** [[C-130 (航空機)|EC-130E/Jコマンドソロ]]（電子[[心理戦]]機）&lt;br /&gt;
** [[RC-135 (航空機)|RC-135Sコブラボール]]（ミサイル監視機）&lt;br /&gt;
** [[F-16 (戦闘機)|F-16CJ]]（[[ワイルド・ウィーゼル|SEAD機]]）&lt;br /&gt;
** [[F-4 (戦闘機)|F-4G]]（SEAD機、退役）&lt;br /&gt;
** [[B-52 (航空機)|EB-52SOJ]]（電子妨害機、開発中止）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[アメリカ海軍]]&lt;br /&gt;
** [[P-3 (航空機)|EP-3E Aries II]]（SIGINT機）&lt;br /&gt;
** [[EA-6 (航空機)|EA-6A/B]]（電子妨害・SEAD機）&lt;br /&gt;
** [[P-3 (航空機)|EP-3Eアリーズ]]（電子戦訓練機）&lt;br /&gt;
** [[EA-18G (航空機)|EA-18Gグロウラー]]（電子妨害・SEAD機）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[アメリカ陸軍]]&lt;br /&gt;
** [[C-12|RC-12DガードレールV]]（[[固定翼機]]）&lt;br /&gt;
** [[UH-60 ブラックホーク|EH-60AクイックフィックスII]]（[[回転翼機]]）&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
{{UK}}&lt;br /&gt;
* [[イギリス空軍]]&lt;br /&gt;
** [[イングリッシュ・エレクトリック キャンベラ|キャンベラ T Mk17]]&lt;br /&gt;
** [[BAE ニムロッド|ニムロッド R-1]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{ITA}}&lt;br /&gt;
* [[イタリア空軍]]&lt;br /&gt;
** [[G.222 (航空機)|G.222VS]]&lt;br /&gt;
** [[トーネード IDS|トーネードECR]]（SEAD機）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{ISR}}&lt;br /&gt;
* [[イスラエル航空宇宙軍|イスラエル空軍]]&lt;br /&gt;
** [[C-130 (航空機)|EC-130H]]&lt;br /&gt;
** [[C-12 (航空機)|RC-12D]]&lt;br /&gt;
** EV-1E&lt;br /&gt;
** EC-707&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{CHN}}&lt;br /&gt;
* [[中国人民解放軍空軍|中国空軍]]&lt;br /&gt;
** [[Il-28 (航空機)|HD-5]]&lt;br /&gt;
** [[H-6 (航空機)|HD-6]]&lt;br /&gt;
** [[Y-8 (航空機)|Y-8]] [[SIGINT]] PORCUPINE&lt;br /&gt;
** [[Tu-154 (航空機)|Tu-154MD]] ELINT CARELESS&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{TWN}}&lt;br /&gt;
* [[中華民国空軍|台湾空軍]]&lt;br /&gt;
** [[C-130 (航空機)|C-130HE]]（SIGINT機）&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
{{DEU}}&lt;br /&gt;
* [[ドイツ空軍 (ドイツ連邦軍)|ドイツ空軍]]&lt;br /&gt;
** [[トーネード IDS|トーネードECR]]（SEAD機）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{JPN}}&lt;br /&gt;
* [[海上自衛隊]]&lt;br /&gt;
** [[P-3 (航空機)|EP-3]]（ELINT機）&lt;br /&gt;
** [[P-3 (航空機)|UP-3D]]（電子戦訓練機）&lt;br /&gt;
** [[リアジェット35|U-36A]]（電子戦訓練支援機）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[航空自衛隊]]&lt;br /&gt;
** [[YS-11|YS-11EA]]（電子戦訓練機）&lt;br /&gt;
** [[YS-11|YS-11EB]]（ELINT機）&lt;br /&gt;
** [[C-1 (輸送機)|EC-1]]（電子戦訓練機）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{RUS}}&lt;br /&gt;
* [[ロシア空軍]]&lt;br /&gt;
** [[Tu-16 (航空機)|Tu-16]]&lt;br /&gt;
** [[Tu-22 (航空機)|Tu-22MR BACKFIRE D]]&lt;br /&gt;
** [[MiG-25 (航空機)|MiG-25BM]]（防空制圧型）&lt;br /&gt;
** [[Il-20 (航空機)|Il-20M COOT-A]]&lt;br /&gt;
** [[Yak-28PP (航空機)|Yak-28PP]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{FRA}}&lt;br /&gt;
* [[フランス空軍]]&lt;br /&gt;
** [[DC-8|DC-8 Sarigue]]&lt;br /&gt;
** [[C-160|EC-160]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[情報収集艦]]&lt;br /&gt;
* [[偵察衛星]]&lt;br /&gt;
* [[レーダーサイト]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Mil-aviation-stub}}&lt;br /&gt;
[[Category:軍用機|てんしせんき]]&lt;br /&gt;
[[Category:電子戦機|*]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>125.197.11.28</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%B4%9B%E4%BA%89&amp;diff=3900</id>
		<title>フォークランド紛争</title>
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		<updated>2014-08-04T14:53:10Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;125.197.11.28: /* アルゼンチン軍 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Battlebox&lt;br /&gt;
| battle_name = フォークランド（マルビナス）紛争&lt;br /&gt;
| campaign = フォークランド紛争&lt;br /&gt;
| colour_scheme=background:#ffccaa&lt;br /&gt;
| image = [[File:Falklands, Campaign, (Distances to bases) 1982.jpg|250px]]&lt;br /&gt;
| caption =&lt;br /&gt;
| conflict = [[フォークランド紛争]]（マルビナス戦争）&lt;br /&gt;
| date = [[1982年]][[3月19日]]から[[1982年]][[6月14日]]&lt;br /&gt;
| place = フォークランド（マルビナス）諸島&lt;br /&gt;
| result = イギリスの勝利。ガルチェリ・アルゼンチン大統領の失脚。&lt;br /&gt;
| combatant1 = {{ARG}}&lt;br /&gt;
| combatant2 = {{GBR}}&amp;lt;br /&amp;gt;{{FLK}}&lt;br /&gt;
| commander1 = [[レオポルド・ガルチェリ]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[エルネスト・オラシオ・クレスポ]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[マリオ・メネンデス]]&lt;br /&gt;
| commander2 = [[エリザベス2世]]&amp;lt;br/&amp;gt;[[マーガレット・サッチャー]]&amp;lt;br/&amp;gt;ジョン・フィールドハウス&amp;lt;br/&amp;gt;サンディー・ウッドワード&amp;lt;br/&amp;gt;ジェレミー・ムーア&lt;br /&gt;
| strength1 = 陸軍 10,001&amp;lt;br/&amp;gt;海軍 3,119&amp;lt;br/&amp;gt;空軍 1,069&amp;lt;br/&amp;gt;艦艇 38隻&amp;lt;br/&amp;gt;航空機 216機&lt;br /&gt;
| strength2 = 陸軍 10,700&amp;lt;br/&amp;gt;海軍 13,000&amp;lt;br/&amp;gt;空軍 6,000&amp;lt;br/&amp;gt;艦艇 111隻&amp;lt;br/&amp;gt;航空機 117機&lt;br /&gt;
| casualties1 = 死者 645&amp;lt;br/&amp;gt;負傷者 1048&amp;lt;br/&amp;gt;捕虜 11313&amp;lt;br/&amp;gt;&amp;lt;br/&amp;gt;被撃沈 軽巡洋艦1隻&amp;lt;br/&amp;gt;潜水艦1隻（擱座）&amp;lt;br/&amp;gt;哨戒艇2隻&amp;lt;br/&amp;gt;航空機100機&lt;br /&gt;
| casualties2 = 死者 256&amp;lt;br/&amp;gt;負傷者 777&amp;lt;br/&amp;gt;捕虜 115&amp;lt;br/&amp;gt;&amp;lt;br/&amp;gt;被撃沈 駆逐艦2隻&amp;lt;br/&amp;gt;フリゲート2隻&amp;lt;br/&amp;gt;揚陸艦1隻&amp;lt;br/&amp;gt;コンテナ船1隻&amp;lt;br/&amp;gt;航空機34機&lt;br /&gt;
|}}&lt;br /&gt;
[[ファイル:LocationFalklandIslands.png|right|thumb|450px|[[フォークランド諸島]]の位置。[[アルゼンチン]]沖、[[南米大陸]]南端から500km沖に位置する]][[ファイル:Falklandsmap san carlos landings.png|thumb|[[フォークランド諸島]]は、東西の主要2島と多数の小島からなる]]&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;フォークランド紛争&#039;&#039;&#039;（フォークランドふんそう、{{lang-en|&#039;&#039;&#039;Falklands War&#039;&#039;&#039;,&#039;&#039;&#039;Falklands Conflict/Crisis&#039;&#039;&#039;}}）は、[[フォークランド諸島]]（[[スペイン語]]名/アルゼンチン名：マルビナス諸島)&amp;lt;ref&amp;gt;以下はフォークランド諸島で記載を統一&amp;lt;/ref&amp;gt;の領有を巡り、[[1982年]]3月から[[イギリス]]と[[アルゼンチン]]間で3ヶ月にわたって行われた[[紛争]]である。スペイン語や[[ポルトガル語]]では「&#039;&#039;&#039;マルビナス戦争&#039;&#039;&#039;」（{{lang|es|&#039;&#039;&#039;Guerra de las Malvinas&#039;&#039;&#039;}}）と表記されることが多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本語]]では「フォークランド紛争」と表記されることが多い&amp;lt;ref&amp;gt;世界的には「紛争」よりも「戦争」に該当する呼び名が用いられることが多い。&amp;lt;/ref&amp;gt;。英語圏では「Falklands War (&#039;&#039;&#039;フォークランド戦争&#039;&#039;&#039;)」とも呼ばれる&amp;lt;ref&amp;gt;[[:en:Falklands War]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ただし、イギリス陸軍のウェブサイトでは「Falklands Conflict」の語を用いている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.army.mod.uk/operations-deployments/overseas-deployments/928.aspx South Atlantic/Falkland Islands - British Army Website]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[1982年]][[3月19日]]に[[アルゼンチン海軍]]艦艇がフォークランド諸島の英領[[サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島|サウス・ジョージア島]]に2度にわたって寄航し、イギリスに無断で民間人を上陸させた([[サウスジョージア侵攻]])。イギリスはサウス・ジョージア島からのアルゼンチン民間人の強制退去命令を出すとともに[[3月28日]]に米国の支援を要請し、[[原子力潜水艦]]の派遣を決定した。4月2日にはアルゼンチン正規陸軍が同島に侵攻。4月25日にサウス・ジョージア島にイギリス軍が逆上陸、即日奪還した。[[アルゼンチン軍]]は航空攻撃でイギリス艦船を撃沈するなど当初は優位に戦いを進めたものの、イギリス軍は経験豊富な陸軍特殊部隊による陸戦や長距離爆撃機による空爆、また同盟国アメリカや[[欧州共同体|EC]]及び[[北大西洋条約機構|NATO]]諸国の支援を受けた[[情報戦]]を有利に進め、アルゼンチンの戦力を徐々に削り、6月7日にはフォークランド諸島に地上部隊が上陸、6月14日にはアルゼンチン軍が正式に降伏。戦闘は終結した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フォークランド紛争は、[[近代化]]された[[西側諸国]]の軍隊同士による初めての紛争であり、その後の軍事技術に様々な影響を及ぼした。両軍で使用された兵器のほとんどは実戦を経験していなかったが、この紛争で定量的に評価された。また、アルゼンチンはイギリスから兵器を一部輸入していた上、両軍とも[[アメリカ]]や[[フランス]]、[[ベルギー]]などの兵器体系を多数使用しており、同一の兵器を使用した軍同士の戦闘という特徴もあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
両国の国交が再開され戦争状態が正式に終結したのは[[1990年]][[2月5日]]だった。しかし、国交再開交渉でもフォークランド諸島の領有権問題は棚上げされ、現在もアルゼンチンは領有権を主張している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史的経緯 ==&lt;br /&gt;
=== 島の発見 ===&lt;br /&gt;
{{See also|フォークランド諸島}}&lt;br /&gt;
最初に島を発見したのは[[フエゴ島]]の[[先住民]][[ヤーガン族]]ともいわれるが、[[ヨーロッパ]]人による発見は[[1520年]]の[[ポルトガル]]の[[フェルディナンド・マゼラン|マゼラン]]船団の[[エステバン・ゴメス]]船によるとされる。[[1592年]]にイギリスの[[探検家]][[ジョン・デイヴィス (イギリスの探検家)|ジョン・デイヴィス]] が島を記録しており、これがイギリスの[[領有権]]の根拠である&amp;lt;ref&amp;gt;このほか、[[1598年]]には[[オランダ人]]のSebald de Weertがこの島を訪れ、当時[[オランダ]]ではこの島をSebald島となづけた。&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[1690年]]にはイギリスの船長[[ジョン・ストロン]]が英国海軍の[[アンソニー・フォークランド]]子爵にちなんで&#039;&#039;&#039;フォークランド諸島&#039;&#039;&#039;と命名した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== フランスからボルボン朝スペインへの売却 ===&lt;br /&gt;
その後、[[18世紀]]になると[[フランス]]とイギリスは[[七年戦争]]などで対立し、[[植民地]]獲得競争を行った。フランスは[[1764年]]に東フォークランドの港に入植し&#039;&#039;&#039;サン・ルイ港&#039;&#039;&#039;と名づけた(現・バークレー湾)。他方イギリスは翌[[1765年]]にジョン・バイロン艦長が西フォークランドにある[[ソーンダース島]]の港に&#039;&#039;&#039;エグモント港&#039;&#039;&#039;と名づけた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1767年]]、フランスは[[ボルボン朝]][[スペイン]]にフォークランド諸島を売却し、サン・ルイ港は&#039;&#039;&#039;ソレダード港&#039;&#039;&#039;と改名された。[[1770年]]には[[スペイン・ブルボン朝]]海軍は[[ブエノスアイレス]]からエグモント港に侵攻し、現地イギリス軍は降伏した。当時、[[アメリカ独立戦争]]に備えていた本国イギリスは全面戦争を避け、[[1774年]]には西フォークランド島の居住を認められる代償として、スペインの領有権を認め、エグモントのイギリス軍は[[1776年]]に解散した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同1776年には[[ペルー副王領]]から[[リオ・デ・ラ・プラタ副王領]]が創設され、[[ブエノスアイレス]]はその首府となった。1806年と1807年にイギリス軍はブエノスアイレスに侵攻するが、副王領軍は撃退する&amp;lt;ref&amp;gt;[[五月革命 (アルゼンチン)]]参照&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1810年にブエノスアイレスは自治を求め[[五月革命 (アルゼンチン)|五月革命]]を起こし、内戦（[[独立戦争|アルゼンチン独立戦争]]）がはじまる。翌年の[[1811年]]には南米での内戦とイギリスの圧力を受け、スペイン系住民はフォークランド諸島から撤退した。スペイン撤退後は英米の[[軍艦]]や[[捕鯨船]]が避難港として利用した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アルゼンチンによる領有宣言 ===&lt;br /&gt;
[[1820年]]にリオ・デ・ラ・プラタ連合州の[[フリゲート]]がソレダード港の領有を宣言し、英米の[[アシカ]][[漁船]]に警告するが無視される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1823年]]にはラ・プラタ連合州がホルヘ・パチェコと[[ルイス・ベルネト]]に[[漁業権]]を与え、さらに[[1828年]]に植民地の樹立を条件に東フォークランドとその資源がベルネトへ与えられた。[[恐怖政治]]を敷いたブエノスアイレス州知事[[フアン・マヌエル・デ・ロサス]]は[[1829年]]に島の知事にベルネトを任命し、アザラシの狩猟権も与えた。駐ブエノスアイレス英国領事は抗議した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; アメリカ・アルゼンチン紛争&lt;br /&gt;
さらにロサス知事は同[[1829年]]、諸島周辺で操業していた[[捕鯨]]業者に、船籍を問わず課税することを決定し、支払いを拒否したアメリカ船三隻を拿捕した。これに対してアメリカ[[領事]]は「島の主権はイギリスにある」と訴えて、アメリカ合衆国の[[アンドリュー・ジャクソン]][[大統領]]は[[スループ]]型軍艦レキシントン号で[[アメリカ海兵隊|海兵隊]]をフォークランド諸島に派遣し、ソレダート港に侵攻し、諸島の中立を宣言した。ロサス知事は米国領事を追放するが、ジャクソン合衆国大統領は深入りせず、報復はしなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イギリスの再領有とアルゼンチンの従属化 ===&lt;br /&gt;
[[1833年]]1月3日、イギリスは[[スループ|ブリッグ・スループ艦]]クレイオー号をフォークランド諸島に派遣し、無血占領に成功した&amp;lt;ref&amp;gt;[[:en:Reassertion of British sovereignty over the Falkland Islands (1833)]]&lt;br /&gt;
&amp;lt;/ref&amp;gt;。アルゼンチンは抗議したが、当時、[[ラプラタ川]]通行権をめぐり英仏と対立し、また[[ウルグアイ]]情勢のため諸島奪還は出来なかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 大戦争とアルゼンチンの近代化&lt;br /&gt;
当時、1828年の[[アルゼンチン・ブラジル戦争]]で英仏調停により[[ウルグアイ東方国]]が成立したが、ウルグアイでは[[コロラド党 (ウルグアイ)|コロラド党 ]]と[[国民党 (ウルグアイ)|ブランコ党(白党)]]とが対立。さらにウルグアイ再併合を求める[[ブラジル帝国]]と英仏がコロラド党を支援、他方ロサスら[[アルゼンチン連合]]は白党を支援して[[1839年]]に[[大戦争]] (Guerra Grande) が勃発する。大戦争中の1843年に英国は島に[[スタンリー (フォークランド諸島)|スタンリー]]港を開設し、1845年に行政府所在地となる。1845年に英仏海軍はブエノスアイレス港を封鎖するが、[[ジュゼッペ・ガリバルディ]]らのゲリラ軍に抵抗され英仏軍は撤退した。しかし、1851年に腹心ウルキーサによる離反でロサスは失脚しイギリスへ亡命した。その後ウルキーサ、続くミトレら[[自由主義]]政権は[[近代化]]政策のためイギリスから借款を得るなど友好関係を築いたため、フォークランド諸島領有権も発生しなかった。以降、イギリスによる実効支配が続き、1860年代には、[[スコットランド]]人入植者により牧畜のための[[羊]]と[[牛]]が島に持ち込まれ、やがて羊毛産業が主産業になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1880年代から20世紀にかけて英国資本がさらにアルゼンチンに流入し、アルゼンチンは[[大英帝国]]の[[非公式帝国]]として経済的な[[従属国]]となるが繁栄し、ブエノスアイレスは大都市になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; イギリス軍補給基地として&lt;br /&gt;
[[蒸気船|蒸気艦船]]が[[イギリス海軍]]に普及すると、スタンリー港は重要な給炭港となった。[[第一次世界大戦]]では[[ドイツ帝国]]海軍がフォークランド諸島の襲撃を試みた（[[フォークランド沖海戦]]）。アルゼンチンは第一次世界大戦の際は中立国であった。また[[第二次世界大戦]]時には[[ナチス・ドイツ]]の[[装甲艦]]&amp;lt;ref&amp;gt;[[アドミラル・グラーフ・シュペー (装甲艦)|アドミラル・グラーフ・シュペー]]&amp;lt;/ref&amp;gt;が南大西洋に進出し、イギリス海軍は[[巡洋艦]]&amp;lt;ref&amp;gt;「カンバーランド」&amp;lt;/ref&amp;gt;をフォークランド諸島から[[ラ・プラタ川]]河口へ急行させた（[[ラ・プラタ沖海戦]]）。フォークランド諸島は2度の大戦を通じて英軍の補給基地としての戦略的な重要性が確認された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[第二次世界大戦]]にイギリスは戦勝国であったが、アメリカ合衆国に[[ヘゲモニー]]を奪われ、さらに戦後あいついだイギリス[[植民地]]の[[独立]]によって、イギリスはほとんどの[[植民地]]や[[イギリスの海外領土|海外領土]]を失い、[[イギリス連邦]]がその役割を引き継いだものの、かつて7つの海をもち、「日が落ちることはない」といわれた[[大英帝国]]の威信は衰えた。&lt;br /&gt;
[[ファイル:Richard and Pat Nixon with Queen Elizabeth II.jpg|250px|thumb|right|[[エドワード・ヒース]]首相（左）と[[エリザベス2世]][[女王]]。右はアメリカの[[リチャード・ニクソン]]大統領夫妻]]&lt;br /&gt;
フォークランド諸島は大戦後に手放さずに済んだ海外領土の一つで、さらに[[冷戦]]下において南大西洋における戦略的拠点として重要な位置を占めた。[[パナマ運河]]閉鎖に備えて[[ホーン岬]]周りの航路を維持するのに補給基地として必要であった上、[[南極]]における資源開発の可能性が指摘され始めてから前哨基地としても価値もあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 開戦までの経緯 ==&lt;br /&gt;
; アルゼンチンの情勢&lt;br /&gt;
1929年の[[世界恐慌]]以降、1930年代にはアルゼンチンで[[ナショナリズム]]が台頭し、ロサスが再評価されると共に諸島（マルビナス諸島)奪還はアルゼンチン国粋主義者の悲願となっていった。[[第二次世界大戦]]後の[[1946年]]、[[左翼ナショナリズム|左翼民族主義者]]の[[フアン・ペロン]]がアルゼンチン大統領に就任。ペロンは反対派を[[強制収容所]]に送還するなど[[左翼ナショナリズム|左翼ファシスト]]と呼ばれたが、[[ポピュリズム#ラテン・アメリカのポプリスモ|ポプリスモ]]政策によって一時的に経済は安定した。しかし[[モノカルチャー]]政策であったため、アメリカやカナダ農業の生産性向上により、1949年には競争力を失った。国民から人気のあった妻が死亡し、またカトリック教会との関係も悪化し、1955年に軍のクーデターでペロンは追放された。その後[[ペロニスタ|ペロン派]]の[[都市ゲリラ]]と軍部の間で内乱が続いた。[[1976年]]に誕生した[[ホルヘ・ラファエル・ビデラ|ビデラ]]軍事政権がペロン派や左翼を弾圧し([[汚い戦争]])、「行方不明者」のなかにはゲリラと関係のない市民もいた。ビデラ政権は治安回復には一定の成果をみせたが、外資導入による経済政策で失敗し、天文学的な[[インフレ]]に陥いり失脚。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1981年]]12月に、軍事政権を引き継いでアルゼンチン陸軍司令官の[[レオポルド・ガルチェリ]]大統領が就任。ビデラ軍事政権は任期中フォークランド諸島に対する軍事行動に言及していたものの、実際に行動を起こすまでには至らなかった。しかしガルチェリ大統領は国民の不満をそらし内政批判をかわすためにフォークランド諸島の領有権問題を訴え、[[ナショナリズム|領土ナショナリズム]]を刺激した。またアルゼンチン活動家が島に上陸して主権を宣言するなどの事件が起きていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; イギリスの情勢&lt;br /&gt;
1960年代から1970年代にかけてイギリスが[[英国病]]にかかると、イギリスの維持能力を超えていた諸島に行政医療サービスを行うようになり、それにともない、イギリスに対してフォークランド諸島の返還を求めるようになった。イギリスの英国病とは、[[社会保障]]制度を充実させ、基幹産業を[[国有化]]するなどの「イギリス[[社会主義]]」の政策を行った結果、国際競争力を失い、行政は硬直化し国民は勤労意欲を低下させて長期不況や深刻な財政難に悩まされたことを指し、当時フォークランド諸島はイギリス本国への[[ウール|羊毛]]の輸出のみで成り立っており、&amp;lt;!---出典なし。---フォークランド諸島民は二等市民として扱われて---&amp;gt;不況に苦しむ本国以上の過酷な状況で、本土との定期航空便もなく、アルゼンチンからの行政医療サービスで維持されていたような状態だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 交渉&lt;br /&gt;
[[保守党 (イギリス)|保守党]][[エドワード・ヒース|ヒース]]政権は[[1961年]]にフォークランド諸島と南米各国との空路と海路を開く通信交通協定の締結に成功したが、アルゼンチン側が主権問題を取り上げたためそれ以上の進展はなかった&amp;lt;ref&amp;gt;『サッチャー回顧録』 221項 ISBN 4-532-16116-9&amp;lt;/ref&amp;gt;。当時、[[ニック・ヒドリー|ヒドリー]]国務大臣は「引き続いてイギリスが統治するものの主権はアルゼンチンに移譲する」というリースバック案を出したが、イギリス人入植者が多数を占める諸島住民が反対し[[下院]]で不採用となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これまでイギリスも条件付で諸島返還を認めるとしてきたが、[[1979年]]に就任した[[マーガレット・サッチャー]]首相は[[国際連合憲章]]第1条第2項[[人民の自決の原則]]にもとづき、フォークランド諸島住民の帰属選択を絶対条件にしていた&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|url=http://www.unic.or.jp/know/kensyo.htm|title=国連広報センター 国際憲章|publisher=国連広報センター|accessdate=2008年10月27日}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。他方、アルゼンチン軍事政権は無条件返還を求めたため交渉は平行線をたどった&amp;lt;ref name=&amp;quot;sa&amp;quot;&amp;gt;『サッチャー回顧録』 222項 ISBN 4-532-16116-9&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 両国の衝突&lt;br /&gt;
1982年に、民衆の不満をそらすためにガルチェリ政権が問題をクローズアップさせたことで、アルゼンチンではフォークランド諸島問題が過熱し、民間義勇軍を組織してフォークランド諸島を奪還しようという動きにまで発展した。&lt;br /&gt;
[[ファイル:Thatcher Reagan Camp David sofa 1984.jpg|right|250px|thumb|マーガレット・サッチャー首相とロナルド・レーガン大統領（1984年）]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アルゼンチン政府は沈静化は図るものの、[[1982年]][[3月19日]]にはアルゼンチン海軍艦艇がフォークランド諸島の東にある英領[[サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島|サウス・ジョージア島]]に2度にわたって寄航し、イギリスに無断で民間人を上陸させた([[サウスジョージア侵攻]])。当初はガルチェリの思惑通りに大統領官邸前には大統領の決定を支持する国民で埋め尽くされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イギリスのサッチャー首相はサウス・ジョージア島からのアルゼンチン民間人の強制退去命令を出すとともに[[1982年]][[3月28日]]に米国の[[アレクサンダー・ヘイグ|ヘイグ]][[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]に圧力をかけるよう依頼し、フォークランド諸島へ[[原子力潜水艦]]の派遣を決定した。[[3月31日]]、アルゼンチンが正規軍を動かし始めたとの報せを受けて、4月1日にサッチャー英首相はアメリカ[[ロナルド・レーガン|レーガン]]大統領に事態収拾の仲介を要請し、閣議を招集して[[機動部隊]]の編成が命じられた。翌4月2日にはアルゼンチン陸軍約4000名がフォークランド諸島に上陸、同島を制圧したことで武力紛争化した。同4月2日に英下院で機動部隊派遣は承諾され、4月5日に[[航空母艦]]2隻を中核とする英海軍第一陣が出撃した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
到着までの間、アメリカや英外相[[フランシス・ピム]]のシャトル外交により事態の打開が模索されたが、イギリス側は諸島統治は島民の意思を尊重する立場であったのに対し、アルゼンチン側の言い分は同諸島での現地統治および参政権をアルゼンチン島民にも与えるとした&amp;lt;ref&amp;gt;『サッチャー回顧録』245項 ISBN 4-532-16116-9&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、排他海域の設定やイギリス軍の進軍停止・撤退なども協定案としてやり取りがあったものの、4月24日のアルゼンチン案ではイギリスの軍事力がフォークランドへ及ばないようにした文章が含まれていたことから、イギリス側はアルゼンチンの撤退が絶望的であることや外交を時間稼ぎに使われているのではないかという懸念を持った&amp;lt;ref&amp;gt;『サッチャー回顧録』260-261項 ISBN 4-532-16116-9&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月25日にはフォークランド諸島に続いて占領されていたサウス・ジョージア島にイギリス軍の[[特殊部隊]]が逆上陸、同島における[[アルゼンチン陸軍]]の軍備が手薄だったこともあり即日奪還した。その後も国連で和平案の議論が行われたが、態度を硬化させたアルゼンチンにサッチャーは「我々は武力解決の道を選択する」と決断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦闘経過 ==&lt;br /&gt;
=== アルゼンチン軍の侵攻 ===&lt;br /&gt;
==== サウスジョージア島上陸 ====&lt;br /&gt;
{{Main|サウスジョージア侵攻}}&lt;br /&gt;
[[1982年]][[3月19日]]、フォークランド諸島沖合東約1000km東に位置する[[サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島|サウス・ジョージア島]]にアルゼンチン海軍の輸送艦バイア・ブエン・スセソが突如来航。20年以上前から放棄されていた捕鯨工場の解体と称してアルゼンチンのクズ鉄業者を名乗る60名近いアルゼンチン人を入国手続きを一切無視して上陸させた。上陸したアルゼンチン人たちはアルゼンチン国旗の掲揚や国歌斉唱を行うなど同島に居座るような行動を取る。イギリス政府はアルゼンチン政府に厳重に抗議するとともに氷海巡視船「エンデュアランス」に武装した海兵隊22名と軍用ヘリ[[ウェストランド ワスプ|ワスプ]]2機を積載して同島海域に派遣&amp;lt;ref name=&amp;quot;sunday_times&amp;quot;&amp;gt;サンデー・タイムズ特報部編、宮崎正雄訳『フォークランド戦争 - &amp;quot;鉄の女&amp;quot;の誤算 - 』 原書房、1983年 ISBN 4-562-01374-5&amp;lt;/ref&amp;gt;。するとアルゼンチン側は輸送艦「バイア・ブエン・スセソ」を引き揚げさせたものの、数十人のアルゼンチン人を残していった。さらに[[3月26日]]にそのアルゼンチン人同胞の警護と称し、アルゼンチン海軍砕氷艦「バイア・パライソ」にて武装した海兵隊員約500名と物資をサウス・ジョージア島に送り込み、同島のリースハーバーに陣取る。この直後からアルゼンチン海軍の動きが活発化し、軍事演習と称して[[空母]]、[[駆逐艦]]、[[フリゲート艦]]、[[潜水艦]]、[[輸送艦]]などの移動を開始。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[3月28日]]、イギリス側は海兵隊44名を増援して「エンデュアランス」に送り込むと同時に機動艦隊の派遣準備を始める&amp;lt;ref name=&amp;quot;sunday_times&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== フォークランド諸島侵攻 ====&lt;br /&gt;
[[ファイル:Operation Azul.jpg|thumb|250px|ロザリオ作戦の経過]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Main|フォークランド諸島進攻}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== スタンレー制圧まで =====&lt;br /&gt;
[[3月30日]]、アルゼンチン海軍はフォークランド諸島への本格的な侵攻上陸作戦を開始。空母[[ベインティシンコ・デ・マヨ (空母)|ベインティシンコ・デ・マジョ]]を旗艦とし、駆逐艦7、フリゲート艦3、輸送艦3、揚陸艦1で編成された第79機動艦隊を陸軍4000名の将兵と共にフォークランド諸島へ出撃させる。3月30日から4月3日にかけて行われたアルゼンチン軍のフォークランド島上陸作戦は&#039;&#039;&#039;ロザリオ作戦&#039;&#039;&#039;と名付けられた&amp;lt;ref&amp;gt;当初の作戦計画では同国の[[国旗]]の色をとって「青作戦」（Azul）と呼ばれていたが最終的に改名された。&amp;lt;/ref&amp;gt;。上陸活動は大きく2つに分けられる。ゴムボートに分乗した少数の[[コマンド部隊]]による深夜の隠密上陸と、4月2日早朝に実行された[[水陸両用車]]両を使った比較的大掛かりな上陸である。アルゼンチン軍側も総員900名という、歴史的にみれば小規模な上陸作戦であるが、イギリス軍戦力も79名の[[海兵隊]]員に過ぎなかった。アルゼンチン軍は、圧倒的な戦力差によって早期にイギリス軍を降伏させ、また[[国際世論]]を考慮してできる限り無血で作戦を完遂させることが目標とされた。この作戦は直前にアメリカの偵察衛星により発見されており、アメリカは作戦の中止を求めたが、アルゼンチン軍部は引き返すことはしなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 隠密上陸&lt;br /&gt;
[[4月1日]]夜、[[42型駆逐艦]]「サンティシマ・トリニダード」が東フォークランド島沖合1[[海里]]に到着して21隻のゴムボートを降ろし、1時間半ほどかけて92名の上陸コマンド部隊の隊員を移乗させた。ゴムボートは夜11頃、砂浜に到着し、コマンド部隊は2隊に分かれて目的地のイギリス海兵隊員兵舎と総督邸を目指した。兵舎制圧部隊は午前5時半に兵舎に到着したが、無人であった。一方、総督邸に向かった16人の分遣隊は、そこで予想外に多い42名（31名の海兵隊員と11名の水兵）のイギリス武装兵と射撃戦闘を行うことになった。まもなく、無謀な突撃を行ったアルゼンチン軍コマンド隊員の1名が致命傷を負った。分遣隊は、遮蔽物に隠れ援軍を待った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 水陸両用車両による上陸&lt;br /&gt;
水陸両用車両（アメリカ製の[[LVT|アムトラック]]や[[AAV7|LVTP7水陸両用装甲兵員輸送車]]）を使った上陸部隊本隊による攻略目標は、スタンレー空港と島都[[スタンリー (フォークランド諸島)|スタンレー]]であった。4月2日未明、まず潜水艦「[[サンタフェ (S-21)|サンタフェ]]」から潜水具を装備した少数の偵察隊が空港の北部沿岸に上陸し、岬の灯台を占拠。次いで、揚陸艦カボ・サン・アントニオ&amp;lt;ref&amp;gt;ARA Cabo San Antonio&amp;lt;/ref&amp;gt;が、空港沖合から水陸両用車両20両を発進させ、偵察隊の灯台からの誘導を受けながら最初の目標であるスタンレー空港へ向かった。空港の滑走路には古い[[乗用車]]や[[コンクリート]]の塊がアルゼンチン軍機の着陸阻止の目的で置かれていたものの、空港は無人であったため、上陸部隊は容易に空港を占領した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; アルゼンチン軍によるスタンレー占領&lt;br /&gt;
その後もスタンレー空港から島都に向かう途中に遭遇した若干の抵抗を除けば、[[イギリス海兵隊]]からの反撃は無く、北部海域に展開していたアルゼンチン艦隊旗艦の空母「[[ベインティシンコ・デ・マヨ (空母)|ベインティシンコ・デ・マジョ]]」から発艦した輸送ヘリコプターによるアルゼンチン海兵隊の増援も到着し、島都スタンレーはアルゼンチン軍が占領した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月2日午前9時半、イギリス軍のレックス・ハント総督は、圧倒的な兵力を擁するアルゼンチン軍からの降伏勧告を受け入れ、抵抗するイギリス海兵隊へ武器の放棄を命じイギリス軍は降伏した。アルゼンチン軍はフォークランド諸島全域を手中に置いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この作戦でアルゼンチン軍は戦死者1名、負傷者数名を出したが、アルゼンチン軍の当初の狙い通りイギリス軍に死傷者は出さなかった。後日、ハント総督とその家族および全イギリス海兵隊員は、中立国の[[ウルグアイ]]経由でイギリス本土へ送還された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== サウス・ジョージア島制圧 =====&lt;br /&gt;
スタンレー占領の報を受けたサウス・ジョージア島のアルゼンチン海兵隊は同日4月2日に同島の占拠を開始。リースハーバーに留まっていた約500名のアルゼンチン海兵隊員の内、40名が砕氷艦「バイア・パライソ」に移乗してピューマヘリコプター2機による制圧作戦を開始。増援として派遣されたアルゼンチン海軍A69型フリゲート「[[ゲリコ (コルベット)|ゲリコ]]」の支援を受けながら翌日4月3日正午より島都の[[グリトビケン]]に上陸を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
サウス・ジョージア島守備隊のイギリス海兵隊はわずか23名と圧倒的不利に立たされていたが、アルゼンチン側の降伏勧告を拒否。地の利を生かして激しく応戦し、上空援護を行っていたアルゼンチン海軍のピューマヘリを機関銃で撃墜。さらにキングエドワードポイント埠頭近海に接近し、機関砲による援護射撃を行っていた「ゲリコ」へ84mm[[カールグスタフ (無反動砲)|カールグスタフ無反動砲]]と[[M72 LAW]]による攻撃を加えて主砲や対艦ミサイル発射機を使用不能に追い込むなどした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
約2時間に渡る戦闘の後、弾薬の尽きたイギリス海兵隊は全員アルゼンチン軍に降伏。イギリス側の軽傷者1名に対し、アルゼンチン側は死者4名重傷者1名という結果に終わった。スタンレーのイギリス海兵隊と同じく捕虜となった守備隊のイギリス海兵隊員は、中立国の[[ウルグアイ]]経由でイギリス本土へ送還された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 国際社会の反応 ===&lt;br /&gt;
; アメリカ合衆国の対応&lt;br /&gt;
アメリカ合衆国は全面的に、NATO加盟国で長年の同盟国であるイギリスを支援し、空中給油機の貸与を申し出た他、アルゼンチンが使用する自国製の戦闘機や各種武器の情報、自国衛星情報を提供した。&amp;lt;!---戦時中のアルゼンチン軍の行動は全て筒抜けだったという{{要出典|date=2012年2月}}。また、アルゼンチンの[[電話]]・通信設備を敷設したのがイギリス系企業だったこともあり、アメリカの偵察衛星の情報と合わせるとアルゼンチンの軍や政府の情報はイギリスへ筒抜けであったと言われている{{要出典|date=2012年2月}}。----&amp;gt;また、海路長旅を行うイギリス軍のために[[アセンション島]]にイギリス軍を集め、兵員を休憩させるために便宜を図った。&amp;lt;!---こうした行為は、友好国アメリカは[[米州]]共同防衛協定と[[米州機構|OAS]]を優先して、ヨーロッパの帝国主義の残滓よりはアメリカ大陸の一員として、米州に残る[[植民地]]を奪回しようとするアルゼンチンを立てるだろうと考えたアルゼンチン軍部に大きな衝撃を与えた{{要出典|date=2012年2月}}。---&amp;gt;アメリカは冷戦下で[[中米紛争]]、特に[[第二次ニカラグア内戦]]における[[死の部隊]](Death squad)、アルゼンチン軍はアルゼンチン国内で「汚い戦争」を通して培った対[[ゲリラ]]戦の戦訓を、[[イスラエル国防軍]]などと共に[[ホンジュラス軍]]や[[ニカラグア]]の[[コントラ]]などへ訓練していた（アルゼンチン・コネクション）。このような「アメリカが表立って行えなかったようなことをアルゼンチンが行う」という関係を通して両国は友好関係にあったが{{要出典|date=2013年2月}}、正式な同盟関係になかったアルゼンチンへの配慮は全くなかった。その一方で、ヒスパニック系米国人の[[傭兵]]多数がアルゼンチンの占領軍にいたのは確実と考えられ、グースグリーンでは、米国人傭兵と思しきアメリカ訛りの英語を話すがスペイン語が話せない者2名が英軍に捕えられている(この2名の身元もその後も不明であるが、処刑された可能性が高い)&amp;lt;ref&amp;gt;&amp;quot;Sniping: an illustrated history&amp;quot; Pat Farey, Mark Spicer, Compendium Publishing&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; ラテンアメリカ諸国の対応&lt;br /&gt;
[[ラテン・アメリカ]]諸国のほぼ全てがアルゼンチン支持を表明したが、各国は軍隊を送るわけでもなかった上、情報組織などによる具体的な支援があったわけでもないことから戦況にはほとんど影響しなかった。ただし、[[ペルー]]などの[[南アメリカ|南米]]諸国からは20世紀後半まで持ち越された[[帝国主義]]との戦いのためと称して少数ながら[[義勇兵]]が参戦を希望した。また実戦には間に合わなかったが、ペルー空軍のミラージュIII戦闘機10機程度がアルゼンチン空軍に売却された。このことは今まで白人国家であることを誇り、「南米のヨーロッパ」と自称して[[メスティーソ]]が主体の他のラテン・アメリカ諸国を見下していたアルゼンチンにラテン・アメリカの一員としての意識を芽生えさせた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; チリの対応&lt;br /&gt;
アルゼンチンの隣国の[[チリ]]だけは、[[アウグスト・ピノチェト]]政権以前から[[パタゴニア]]の[[ビーグル海峡]]地域において隣国アルゼンチンと国境問題を抱え、小規模な武力衝突をたびたび起こしており、1981年末には戦争寸前となるなど、危機的状況が続いていた。そのため、チリ[[チリ大統領の一覧|大統領]][[アウグスト・ピノチェト]]はアルゼンチンを「侵略者」として非難してイギリスへの支援を表明し、自国内の基地を提供するなど積極的にイギリスに協力した。さらにチリが戦争のどさくさにまぎれて参戦してくることを恐れたアルゼンチンが、イギリスとの戦争中にもかかわらず対チリ戦に備えて多くの戦力を本土に温存せざるを得ない状況に追い込むなど、実質的にイギリスの同盟国として機能した。&lt;br /&gt;
[[ファイル:Augusto Pinochet y Eugenia Garrido.jpg|thumb|250px|チリのアウグスト・ピノチェト将軍（左）]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 国連決議・経済制裁 ====&lt;br /&gt;
4月3日には、アルゼンチンとイギリスの間の開戦を受けて開かれていた[[国際連合安全保障理事会|国連安全保障理事会]]において決議第502号が出され、アルゼンチンのフォークランド諸島一帯からの撤退を求めた。翌[[4月4日]]には、アルゼンチン政府が国内にある全てのイギリス資産を凍結した。これに対して[[4月10日]]にはイギリスが加盟する[[欧州共同体|EC]]が対アルゼンチン経済封鎖を承認し、[[西ドイツ]]や[[フランス]]などの加盟国が対アルゼンチン経済制裁を行った。なお[[4月29日]]にはアルゼンチン政府はアメリカによる調停案を拒否した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 日本の対応&lt;br /&gt;
日本はアメリカ、イギリス、ECの再三の要請にもかかわらず、アルゼンチンへの禁輸措置は最後まで実施しなかった。しかし、国連でのアルゼンチン撤退勧告には賛成票を投じた。{{要出典範囲|アルゼンチンは日本の[[北方領土問題]]にあたるマルビナス問題では日本が積極的に支持をしてくれるものと期待していた。|date=2013年2月}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; ソ連・東側諸国の対応&lt;br /&gt;
[[冷戦]]下、米英と敵対していた[[ソビエト連邦]]や[[東側諸国]]はイギリスを非難するという形でアルゼンチンを支持したが、国連安保理では棄権にとどめた。[[非同盟諸国]] の多くがアルゼンチン支持を表明したが、各国は軍隊を送るわけでもなかった上、ソ連が衛星写真を提供したことを除いて、情報組織などによる具体的な支援はなかった。&amp;lt;!---出典。---反共国家であるアルゼンチンを本気で支援する気があったかどうかも疑問であり、ソ連がアルゼンチン支持に及び腰になったのは、日本との間に[[北方領土問題]]を抱えていたのが原因のひとつと言われる。----&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほか、メディアとしては世界最大の[[通信社]][[ロイター]]社がイギリスの軍事行動を詳細に世界へ発信した。両軍とも相手の出方をある程度承知していたため実害はなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イギリス軍の反撃 ===&lt;br /&gt;
==== イギリス軍の反撃体制 ====&lt;br /&gt;
[[File:HMS Invincible (R05).jpg|left|thumb|300px|[[軽空母]]・[[インヴィンシブル (空母)|インヴィンシブル]](2005年退役)]]&lt;br /&gt;
[[4月3日]]にイギリス政府から機動艦隊編成の命を受けたイギリス軍では派遣部隊と機動艦隊の編成が急ピッチで進められた。艦隊旗艦とされた空母は[[ハーミーズ (空母・2代)|ハーミーズ]]と[[インヴィンシブル (空母)|インヴィンシブル]]([[軽空母]])の2隻だった。各空母には[[イギリス海軍]][[艦隊航空隊]]第800飛行隊12機、第801飛行隊8機の[[BAe シーハリアー|シーハリアー FRS.1]]が配備された。このシーハリアーは当時の新型空対空ミサイルであった[[サイドワインダー (ミサイル)|AIM-9Lサイドワインダー]]を搭載していた。また、空軍の[[ホーカー・シドレー ハリアー|ハリアー GR.3]]に空母で運用するための改造&amp;lt;ref&amp;gt;防水措置やレーダートランスポンダーの増設等&amp;lt;/ref&amp;gt;が施された他、空対空戦用のミサイルランチャーの増設も行われたが、結局このランチャーはハリアー GR.3の運用が対地攻撃のみに限定されることになったため、後に増援として空母に配備された際に取り外された。&lt;br /&gt;
[[ファイル:XH558 Planform.JPG|left|サムネイル|航空ショーでの[[アブロ バルカン]]XH558。[[核弾頭]]を装備していたが、フォークランド紛争では通常爆撃を行った。]]&lt;br /&gt;
さらに本来[[核攻撃]]用に配備されていたイギリス空軍の第44、第55、第101飛行隊の[[戦略爆撃機]][[アブロ バルカン]]([[アブロ]]社製)が長距離爆撃のために慣性航法装置の改良や通常爆弾21発の投下が可能なように改造され、パイロットらは空中給油の再訓練を行った。イギリス海軍は[[4月5日]]に艦隊旗艦の空母[[ハーミーズ (空母・2代)|ハーミーズ]]を中核とした空母2、[[駆逐艦]]10、[[フリゲート艦]]13、[[揚陸艦]]8隻、輸送艦他支援艦16の計49隻から成る機動艦隊である第317任務部隊をポーツマス港より出撃させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イギリス軍はフォークランド諸島奪還の中継基地としてフォークランド諸島北西約6000kmに位置する英領[[アセンション島]]のワイドアウェーク基地を利用した。4月5日から18日にかけ、イギリス空軍の第42、第120、第201、第206飛行隊の[[BAE ニムロッド|ニムロッド]]偵察機、第55、第57飛行隊の[[ハンドレページ ヴィクター|ヴィクター]]給油機の部隊の他、艦隊の支援のための補給物資が次々と到着した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[4月12日]]には先行してフォークランド諸島に向かっていたイギリス海軍の潜水艦隊が同海域に展開。イギリス政府はフォークランド諸島の半径200海里(370km)を封鎖海域とし、以後この海域に他国籍の艦船の侵入を禁じた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== アルゼンチン軍の迎撃体制 ====&lt;br /&gt;
[[ファイル:SUEreabasteciendo1.jpg|left|サムネイル|300px|[[空中給油]]中の[[シュペルエタンダール]]。[[フランス]]の[[ダッソー]]社製。]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:Exocet AM39 P1220892-detoured.jpg|left|200px|サムネイル|AM39[[エグゾセ]]。フランス[[MBDA]]社製。]]&lt;br /&gt;
一方、フォークランド諸島ではアルゼンチン軍による防衛準備が進められ、歩兵部隊、装甲車両、レーダー設備、野砲や対空機関砲、対空ミサイル発射機などの兵力が輸送艦、輸送機により運び込まれた。4月12日以降のイギリス海軍の海上封鎖から大規模な揚陸はできなくなったものの、輸送機による空輸や小規模な海上輸送は続けられ、同島のアルゼンチン軍守備隊の総兵力は9000名を超えた。さらに制圧したスタンレー、グース・グリーン、ペブル島の各飛行場にアルゼンチン空軍第1、第3グループと海軍の第1・第4航空隊の軍用機約30機や陸軍の輸送ヘリ部隊が配備され、戦力の増強が図られた。軍用機は[[FMA IA 58 プカラ|プカラ攻撃機]]、[[イタリア]]の[[アレーニア・アエルマッキ]]社製の軽攻撃機[[アエルマッキ MB-339|MB-339]]・[[アエルマッキ MB-326|MB-326]]、アメリカの[[ビーチクラフト|ビーチエアクラフト]]社製の[[T-34 (航空機)|T-34Cターボメンター]]軽攻撃機等で編成された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、アルゼンチン本国では空海軍の航空隊がフォークランド諸島に近いリオ・グランデ、リオ・ガジェゴス、サン・フリアン、トレリューなどの南部の基地に展開し、イギリス海軍への要撃準備が進められた。更に当時アルゼンチン海軍が[[フランス]]の[[ダッソー]]社から購入したばかりの[[シュペルエタンダール]]攻撃機に、同じくフランスの[[MBDA]]社から購入した[[空対艦ミサイル]][[エグゾセ]]AM39が5発搭載された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イギリス軍の反撃開始 ====&lt;br /&gt;
[[ファイル:Vulcan bomber 18 May 1982.JPG|right|250px|thumb|[[アセンション島]]の基地に帰還する[[アブロ バルカン]]]]&lt;br /&gt;
{{Main|パラケット作戦}}&lt;br /&gt;
[[4月18日]]、イギリス海軍の[[機動部隊]]が[[アセンション島]]を出港。駆逐艦「アントリム」、フリゲート艦「プリマス」の2隻がサウス・ジョージア島奪回の任務を帯び、イギリス陸軍特殊部隊[[SAS (イギリス陸軍)|SAS]]とイギリス海兵隊を積載して機動艦隊から離れ[[タスクフォース]]を編成。サウス・ジョージア島近海に先行していた氷海巡視船「エンデュアランス」と合流し同島の奪還作戦を開始する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[4月21日]]にSASによるサウス・ジョージア島上陸偵察が行われたが、悪天候で中止せざるをえなくなった。撤退時にイギリス海軍の[[シコルスキー S-58|ウェセックス HU.5]]ヘリコプターが2機が墜落する事故を起こし、[[4月22日]]深夜には[[イギリス海兵隊]]特殊舟艇隊 ([[SBS (イギリス海兵隊)|SBS]])がゴムボートによる偵察上陸を行うも一部が悪天候のために遭難するという事態となる(どちらもイギリス軍により救助された)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[4月23日]]にはアルゼンチン海軍の潜水艦が接近しているとの情報を受けたタスクフォースは一旦、同海域から退避。機動艦隊から増援に駆けつけたイギリス海軍フリゲート艦「ブリリアント」が合流し、[[4月24日]]より艦載ヘリコプターによる掃海作戦を実施する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[4月25日]]に、サウス・ジョージア島のアルゼンチン軍守備隊へ物資輸送任務を行っていたアルゼンチン海軍[[潜水艦]]「[[サンタフェ (S-21)|サンタフェ]]」が掃海中のイギリス海軍艦載ヘリコプターに発見され、攻撃を受け損傷。同日サウス・ジョージア島に擱座、放棄された。同日中に駆逐艦「アントリム」の艦砲射撃による援護を受けながらイギリス海兵隊がサウス・ジョージア島に上陸。アルゼンチン陸軍はサウス・ジョージア島を重要視していなかったことから守備隊は即降伏したため、同島の陸上での戦闘はほとんどなく、イギリス軍はサウス・ジョージア島の奪回に成功する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以後、タスクフォースは同島に駐在部隊を残して再び機動艦隊に合流し、本格的なフォークランド諸島奪還を始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ブラックバック作戦による空爆 ====&lt;br /&gt;
{{Main|ブラック・バック作戦}}&lt;br /&gt;
イギリス軍は、[[アセンション島]]を基地とする[[アブロ バルカン|バルカン]]爆撃機、空母から発進した[[BAe シーハリアー|シーハリアー]]による空爆、戦闘艦艇による[[艦砲射撃]]の三段階の攻撃により、東フォークランド島のスタンレー空港および、同島の中央に位置するグース・グリーン飛行場を使用不能とする計画をたてた。&lt;br /&gt;
[[File:Refuelling.plan.black.buck.svg|thumb|left|260px|バルカン爆撃機は攻撃に際し、外地で往路7回、帰路1回の給油を行った。&amp;lt;br/&amp;gt;Vulcan = バルカン爆撃機&amp;lt;br/&amp;gt;Victor = ヴィクター給油機&amp;lt;br/&amp;gt;Reserve flight = 予備機&amp;lt;br/&amp;gt;Victor refuels Vulcan = バルカンへの給油&amp;lt;br/&amp;gt;Victor refuels Victor = ヴィクター同士の給油&amp;lt;br/&amp;gt;R = 引き返し地点]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:Handley Page Victor in Jubail naval airport.jpg|サムネイル|left|給油機[[ハンドレページ ヴィクター]](もとは爆撃機)]]&lt;br /&gt;
その第一段階が[[5月1日]]から[[アブロ バルカン]]爆撃機によるスタンレー空港の爆撃計画で[[ブラック・バック作戦|ブラックバック作戦]]とよばれた。1000ポンド爆弾を21発搭載して長大な距離を往復するという当時としては最長距離の長距離爆撃作戦であった。この作戦に参加した航空機は、バルカン爆撃機2機（内、同行予備機1機&amp;lt;ref&amp;gt;万一の場合に任務を代行するための予備機が同行した。&amp;lt;/ref&amp;gt;）と[[ハンドレページ ヴィクター|ヴィクター K.2]][[空中給油機]]15機（内、同行予備機4機&amp;lt;ref&amp;gt;給油機への給油も必要であったため多数の給油機を必要とした。&amp;lt;/ref&amp;gt;）である。爆撃機と給油機の各1機が離陸後しばらくして機械関係のトラブルに見舞われ、実際の爆撃は予備機にて行われることとなった。この予備のバルカン爆撃機はポート・スタンレー飛行場へ21発の爆弾を投下。内4発の爆弾がスタンレー空港施設に着弾し、4発の内1発が滑走路を直撃した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
バルカン攻撃機の空爆直後、イギリス海軍機動部隊がスタンレーの東180kmまで接近し、軽空母[[ハーミーズ (空母・2代)|ハーミーズ]]から飛び立った第800飛行隊のシーハリアー FRS.1のうち9機がスタンレー飛行場へ、3機がグース・グリーン飛行場へ空爆を行った。スタンレー飛行場へ向かった9機は1000ポンド爆弾と[[クラスター爆弾]]で滑走路や対空陣地を攻撃。アルゼンチン側は陸上に設置したタイガーキャット対空ミサイルや高射砲で迎撃するも失敗し、空港施設などを破壊される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:DN-SC-87-05770.JPEG|left|サムネイル|[[BAe シーハリアー|シーハリアー FRS.1]]]]&lt;br /&gt;
また、グース・グリーン飛行場では、3機のシーハリアーが1000ポンド爆弾、クラスター爆弾で滑走路を空爆。離陸直前だった[[FMA IA 58 プカラ|プカラ]]攻撃機の1機ごと滑走路を破壊して使用不能に追い込み、駐機していた他の4機のプカラ攻撃機を大なり小なり損傷させた(後にアルゼンチン政府はこの離陸直前に乗機を撃破されて死亡したプカラ攻撃機パイロットの空軍中尉を『単独で空母を攻撃して撃墜された英雄』と脚色して報道し、真相を知っていたアルゼンチン空軍のパイロットらから顰蹙を買った)。ハリアーの空爆後、作戦の総仕上げとして駆逐艦グラモーガンとフリゲート艦アラクリティとアローの3隻が日中と夜間の2回に分けてスタンレー空港と周囲の砲兵陣地に向けて艦砲射撃を加えたが、ヘリコプターの砲撃観測がなかったため不正確なものとなり、被害は軽微なものにとどまった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この一連の攻撃で以後スタンレー空港は滑走路の損傷から戦闘機や爆撃機などの大型機の発着が不可能となったが、STOL性能を持つC-130やエレクトラ、フォッカーF28フェローシップ等の輸送機や長い滑走路が不要なマッキ攻撃機などは運用が可能であり、アルゼンチン軍は終戦間際までこの空港を活用しつづけた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この日はアルゼンチン空軍第6グループのダガー攻撃機によるイギリス海軍艦艇への最初の航空攻撃が行われ、上空警戒の任を受けていたイギリス海軍第801飛行隊のシーハリアーとダガー攻撃機の援護で追従してきたアルゼンチン空軍第8グループの[[ミラージュIII (戦闘機)|ミラージュ戦闘機]]との間で空中戦が発生した。爆装した第6グループのダガー攻撃機3機は、ポート・スタンレー飛行場を艦砲射撃していた駆逐艦群に攻撃を行ったものの一部の艦艇に軽い損傷を与えただけに留まり、空対空ミサイルを装備して空中戦に参加した他のダガー攻撃機2機と前述のミラージュ戦闘機2機がシーハリアーによって撃墜されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
バルカン爆撃機を用いたブラックバック作戦はこれ以降も5月4日、5月31日、6月3日、6月12日など数回続けられたが、通常爆弾による滑走路破壊はほとんど失敗に終わる。ただし、[[AGM-45 (ミサイル)|シュライク対レーダーミサイル]]を用いたレーダー施設の破壊で一定の戦果を挙げている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 海上戦 ===&lt;br /&gt;
==== アルゼンチン海軍艦の撃沈 ====&lt;br /&gt;
&amp;lt;!---画像なし。---[[ファイル:ARA Belgrano sinking.jpg|thumb|250px|撃沈されるヘネラル・ベルグラーノ]]---&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[ファイル:ARA25mayo 1979 DN-SN-82-09623.jpg|サムネイル|left|[[空母]][[ベインティシンコ・デ・マヨ (空母)|ベインティシンコ・デ・マヨ]]。1942年にイギリス軍が建造した[[ヴェネラブル (空母)|ヴェネラブル]]がオランダ経由で売却されたもの。]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:Belgrano Ushuaia.jpg|left|サムネイル|巡洋艦[[ヘネラル・ベルグラノ (巡洋艦)|ヘネラル・ベルグラノ]]。]]&lt;br /&gt;
4月末日、アルゼンチン海軍は接近するイギリス機動艦隊に対し、艦隊を三方向から向かわせていた。&lt;br /&gt;
* 北方より空母[[ベインティシンコ・デ・マヨ (空母)|ベインティシンコ・デ・マジョ]]を[[旗艦]]として、駆逐艦サンティシマ・トリニダード、ヘルクレス他数隻で構成される機動艦隊。空母ベインティシンコ・デ・マジョは1942年にイギリス軍が建造した[[ヴェネラブル (空母)|ヴェネラブル]]が改名されたもので、オランダ経由でアルゼンチンに売却されたものだった。&lt;br /&gt;
* 中央(西方)より艦対艦ミサイル[[エグゾセ]]MM38搭載のA69型[[フリゲート艦]]ドゥルモンド、ゲリコ、グランビルの3隻からなるミサイル打撃艦隊。&lt;br /&gt;
* フォークランド諸島南方から周り込むような形で巡洋艦[[ヘネラル・ベルグラノ (巡洋艦)|ヘネラル・ベルグラーノ]](艦長エクトール・E・ボンソ。乗員1092名)、駆逐艦イポリット・ボチャルド、ピエドラ・ブエナの3隻の艦隊がイギリス側の封鎖海域の外から突入の準備を行っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アルゼンチン海軍はベインティシンコ・デ・マジョの艦載機[[A-4 (航空機)|A-4スカイホーク]]による空爆とA69フリゲート群による対艦ミサイル、およびヘネラル・ベルグラーノの艦砲による挟撃を行い、イギリス機動艦隊へ大打撃を与える算段だった。ところがベインティシンコ・デ・マジョ空母の艦載機の発艦が不能となり&amp;lt;ref&amp;gt;この理由には諸説あり。一番有力とされているのは当時その海域に風が全く出ていなかったこと、かねてより不調だった機関部のせいで同艦の速度が上がらなかったこと等が重なり、発艦のための対気速度が足りなかったというもの。他にも天候不良などが原因とも報道されている&amp;lt;/ref&amp;gt;、同空母機動艦隊とフリゲート群は攻撃を取りやめ、アルゼンチン本国側に撤収した。ヘネラル・ベルグラーノの艦隊は単独で南方の海域、封鎖海域の外に留まり続けていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 英軍原子力潜水艦による攻撃&lt;br /&gt;
{{See|コンカラー (原子力潜水艦)}}&lt;br /&gt;
[[4月30日]]に同海域を哨戒中だったイギリス海軍の[[原子力潜水艦]][[コンカラー (原子力潜水艦)|HMSコンカラー(S48)]]がヘネラル・ベルグラーノ艦隊を発見し、追尾。封鎖海域の外にベルグラーノはいたものの、全速で航行すればイギリス機動艦隊を6時間近くで射程に入れる距離にいたこと、同海域の水深からこれ以上北進されると追尾が難しくなる可能性があったことから、コンカラー艦長[[クリストファー・リーフォード＝ブラウン]]中佐は衛星通信によりイギリス本国のイギリス艦隊作戦本部と機動艦隊司令部に通報し、指示を仰いだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[5月2日]]、イギリス艦隊作戦本部よりコンカラーに封鎖海域外での攻撃命令が下り、16時頃にコンカラーはヘネラル・ベルグラーノに4発のMk8魚雷を発射。内2発が命中し、艦首を喪失したベルグラーノはわずかな時間で撃沈された。多くの乗組員は救命ボートで脱出したものの、383人の乗員と共にベルグラーノは海に沈んでいった。残った駆逐艦イポリット・ボチャルド、ピエドラ・ブエナはコンカラーを追撃し[[爆雷]]で攻撃したが、効果的な攻撃は出来ずに取り逃がした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この後、アルゼンチン海軍水上艦部隊の主力艦艇は損失を恐れ、原潜が活動しにくい大陸棚から離れることはなかった。[[5月2日]]夜には撃墜された[[イングリッシュ・エレクトリック キャンベラ|キャンベラ爆撃機]]のパイロット捜索に派遣されたアルゼンチン軍哨戒艇2隻がイギリス海軍の[[アグスタウェストランド リンクス|リンクスAH.7ヘリコプター]]と会敵し、シースクア対艦ミサイル攻撃を受けて1隻が撃沈され、もう1隻も大破し、撤退した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 英海軍艦の撃沈 ====&lt;br /&gt;
[[5月4日]]、アルゼンチン海軍第2航空隊の[[シュペルエタンダール]][[攻撃機]]2機が[[空対艦ミサイル]]・[[エグゾセ]]AM39&amp;lt;ref&amp;gt;[[フランス]][[MBDA]]製&amp;lt;/ref&amp;gt;でスタンリー南西75海里にいたイギリス機動部隊に攻撃を行った。リオ・グランデ基地より離陸した2機の[[シュペルエタンダール]]は[[空中給油]]を受けた後、友軍の[[S-2 (航空機)|トラッカー哨戒機]]の誘導を受けながらレーダーを切った状態で海上15mという低高度で接近。この超低空で接近する攻撃機隊をイギリス艦隊はレーダーで捉えることができず、シュペルエタンダールはイギリス艦隊近海でわずかに上昇してレーダーで艦船の1隻をロックオンし、エグゾセを発射して即退避した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
発射された2発のエグゾセの内、1発が当時[[レーダーピケット]]任務中だったイギリス海軍[[42型駆逐艦]][[シェフィールド (駆逐艦)|シェフィールド]]に命中した。この1発は不発だった&amp;lt;ref&amp;gt;しかし艦長のソールトは「弾頭が爆発した事は確かだ」と証言&amp;lt;/ref&amp;gt;が、残っていた燃料の燃焼と命中による配電盤の損傷でダメージコントロールがほとんど不可能になり、同艦は炎上、乗組員は総員退艦した。その後上部構造物がほとんど焼き尽くされた状態で鎮火したシェフィールドは[[12型フリゲート]]ヤーマスに曳航されるも、浸水が激しくなり5月10日に沈没した。なお、残る1発のエグゾセは射程外から発射されたため途中で墜落した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このシェフィールド撃沈の他、イギリス機動艦隊は5月1日から10日の間にアルゼンチン海軍の[[209型潜水艦]]サン・ルイスから、たびたび雷撃を受け、対潜行動を強いられ、艦艇の損失を避けるべく大幅にその活動範囲を狭めた。この為、イギリス、アルゼンチン両海軍艦艇同士による大規模な海戦は戦争の全期間を通じて一切行われず、その後艦艇への攻撃は航空機によるものが中心となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イギリス軍の逆上陸 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[5月4日]]には爆撃中のイギリス海軍のシーハリアー1機が対空砲火で撃墜され、シーハリアー初の損失となった。また5月6日には同2機が悪天候の中、おそらく空中衝突で失われた。&lt;br /&gt;
* [[5月9日]]には情報収集に当たっていたアルゼンチンのトロール漁船「ナルワル号」がシーハリアーによって攻撃された上、SBSの強襲によって拿捕、後に沈没。更に[[SA 330 (航空機)|ピューマヘリコプター]]1機が42型駆逐艦「コヴェントリー」のシーダート対空ミサイルで撃墜された。イギリス海軍は上陸地点の偵察活動を活発化させ、フォークランド海峡内に艦艇を送り込むようになった。&lt;br /&gt;
* 5月10日に海峡内に侵入した[[21型フリゲート]]「アラクリティ」は、アルゼンチン軍の輸送艦「イスラ・デ・ロス・エスタドス」を砲撃し、撃沈した。これがこの紛争で唯一の水上艦同士の海戦だった。&lt;br /&gt;
* [[5月12日]]には、アルゼンチン軍のスカイホーク8機により、イギリス海軍の42型駆逐艦「グラスゴー」と[[22型フリゲート]]「ブリリアント」に対する攻撃が行われ、「グラスゴー」に爆弾を命中させたが不発だった。またこの攻撃の際「ブリリアント」の[[シーウルフ (ミサイル)|シーウルフ]]対空ミサイルにより3機のスカイホークが撃墜され、さらに1機がアルゼンチン軍の対空砲火の誤射で撃墜された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ペブル島襲撃 ====&lt;br /&gt;
{{Main|ペブル島襲撃}}&lt;br /&gt;
5月14日から16日にかけてイギリスのSBSならびにSASの上陸作戦が行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月14日にペブル島の飛行場をSASの中隊が襲撃し、駐機していたプカラ攻撃機などのアルゼンチン軍の航空機11機すべてを爆薬で破壊して撤退した。これによりアルゼンチン軍はフォークランド諸島の航空機の三分の一近くを一度に喪失するという大損害を受ける（[[ペブル島襲撃]]）。またSBSによる陸上への観測ポストの設置が行われた。この間、イギリス艦艇はポート・スタンリー周辺を陽動のため艦砲射撃している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[5月16日]]にはフォークランド海峡にてアルゼンチン軍輸送艦「バイア・ブエン・スセソ」、「リオ・カルカナーラ」がシーハリアーの攻撃を受け「バイア・ブエン・スセソ」が沈没、「リオ・カルカナーラ」が座礁している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月17日には増援としてイギリス海軍徴用[[コンテナ船]]「[[アトランティック・コンベアー|アトランティック・コンベイヤー]]」によって輸送されてきたイギリス空軍、第1飛行隊のハリアー GR.3の6機が空母「ハーミーズ」に配備され、対地攻撃への参加を始めた。また、エグゾセミサイル対策として欺瞞装置を搭載したリンクスヘリコプターも届けられ、空母二隻に配備。以後戦争終結まで何時でも[[スクランブル]]発進が可能なように甲板に待機していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; サン・カルロス上陸&lt;br /&gt;
5月21日未明から午前中にかけて、SASがグースグリーン周辺に降下して陽動を行うと同時にイギリス陸軍空挺大隊を中核とする部隊が東フォークランド島西側のサン・カルロスに上陸を開始し、橋頭堡を築いた。イギリス軍は抵抗をほとんど受けずに上陸し、この作戦でのイギリス軍の損害はガゼル2機など軽微だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アルゼンチン軍によるイギリス海軍艦艇攻撃 ===&lt;br /&gt;
イギリス軍の逆上陸を許したものの、5月21日午後からアルゼンチン空海軍機による海峡内のイギリス海軍艦艇攻撃が開始され、アルゼンチン軍機の爆撃により21型フリゲート「[[アーデント (フリゲート)|アーデント]]」が撃沈された。これ以外にも多くの艦艇が損害を受けた。しかし揚陸艦を含む上陸部隊に損害はなく、当日までに3000名の兵員と1000トンの物資が上陸した。イギリス側はこの日アルゼンチン軍機を13機撃墜した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[5月23日]]には、アルゼンチン軍の[[A-4 (航空機)|A-4]][[攻撃機]]が「アーデント」と交代した21型フリゲート「[[アンテロープ (フリゲート)|アンテロープ]]」を攻撃し、500kg爆弾2発を命中させた。これは不発弾であったが[[信管]]除去作業中に爆発し、「アンテロープ」は翌24日に沈没する。このようなアルゼンチン軍機による攻撃に対し、早期警戒機を欠き、十分な哨戒時間が取れないシーハリアーによる防衛体制はほとんど機能しないままであった。さらに[[5月25日]]には、[[アルゼンチン空軍]]第5グループのA-4Bが42型駆逐艦「[[コヴェントリー (駆逐艦)|コヴェントリー]]」と22型フリゲート「ブロードソード」を攻撃し、「コヴェントリー」に爆弾3発を命中させ撃沈に成功した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その直後、アルゼンチン海軍第2航空隊のシュペルエタンダール攻撃機がイギリス空母機動部隊を攻撃し、空対艦ミサイル[[エグゾセ]]AM39の2発を発射した。イギリス海軍艦艇はエグゾセの探知には成功し、各艦艇のチャフロケットとデコイを搭載したリンクスヘリコプターによりエグゾセに対抗した。しかしチャフにより目標を逸れたエグゾセ1発がイギリス海軍徴用[[コンテナ船]]「アトランティック・コンベイヤー」に命中し、「アトランティック・コンベイヤー」は大破炎上、5月30日に沈没した。「アトランティック・コンベイヤー」により輸送されてきたシーハリアー、ハリアーGR.3はすでに「ハーミーズ」と「インヴィンシブル」に移動していたため、損害はなかったが、まだ積まれていたチヌーク3機、ウェセックス6機、リンクス1機の計10機のヘリコプターが失われた他、軍用トラック、航空機整備部品、爆弾などの装備、臨時滑走路構築用の資材など大量の物資が失われ、その後のイギリス軍の作戦行動に大きな制約を与えた。特にイギリス陸軍はヘリコプターを多数失ったことで陸上における歩兵、物資の輸送に多大な影響を受け、臨時滑走路構築用の資材を失ったイギリス空軍はサン・カルロスに建設予定だったハリアー用臨時飛行場の規模大幅縮小を強いられ、航空作戦の計画を変更せざるを得なくなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この日の攻撃ではアルゼンチン側も3機が撃墜されたが、この一連の攻撃を受けてイギリス海軍は4日間で2隻のフリゲート艦、1隻の駆逐艦、1隻の徴用艦の計4隻の大型艦船を失った。これは英国内で「第二次世界大戦時の（対日戦における）[[マレー沖海戦]]以来の失態」と呼ばれ、英国マスコミは海軍上層部を批判した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; ブラボー・ノーベンバー&lt;br /&gt;
イギリス空軍第18飛行隊は4機の[[CH-47 (航空機)|CH-47チヌーク]]ヘリコプターで構成される輸送部隊としてフォークランド諸島に増援として派遣された。ところが同部隊を輸送していた「アトランティック・コンベイヤー」がミサイル攻撃で撃沈され、第18飛行隊は撃沈直前に離陸して一足先にフォークランド諸島に向かっていた1機を除いて全機を失ってしまう。生き残った1機はフォークランド諸島に到着するも、コンベイヤーに積載されていた予備部品や工具なども失われていたため、ろくな整備ができない状況になり、大きな活躍はできないとされていた。しかしながら整備兵らの尽力により、同機は4月26日から戦争終結まで弾薬や野砲の輸送、イギリス軍兵士やアルゼンチン捕虜の輸送に活躍することができた。その奮迅ぶりから同機は無線のコールサイン『ブラボー・ノーベンバー』の愛称で兵士らから親しまれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== グース・グリーンの戦い ===&lt;br /&gt;
サン・カルロスから逆上陸を果たしたイギリス陸軍部隊は[[5月26日]]より[[東フォークランド島]]各所に進出を開始した。陸軍空挺連隊第2、第3大隊はそれぞれ南部のグース・グリーン、ポート・ダーウィン方面と西のティール入江方面へ、海兵隊第42コマンド大隊は北東のポート・スタンレー方面ケント山周辺へ進軍を開始。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
グース・グリーンへ進出したイギリス陸軍空挺連隊第2大隊約450名の軍勢は5月28日ごろにカミラ水路近辺にてアルゼンチン陸軍第2、第12歩兵連隊を中核とする約1600名の部隊と接触し交戦を開始、「&#039;&#039;&#039;グース・グリーンの戦い&#039;&#039;&#039;」が起きる。イギリス軍空挺連隊第2大隊は、第8砲兵隊の砲撃と空軍の第1飛行隊のハリアーの上空援護を受けながらアルゼンチン軍の陣地に進撃。一方のアルゼンチン側も、空軍第3グループのプカラ攻撃機等、航空兵力による阻止攻撃を幾度となく行い、守備隊の陸軍歩兵部隊も対空機関砲の水平射撃を行うなどして激しく応戦した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イギリス側はこの戦闘で空挺連隊第2大隊の大隊長である陸軍中佐が戦死するなど損害を受けるも、経験と装備に勝るイギリス陸軍はこの激戦を制して陣地を突破、飛行場を制圧するとアルゼンチン軍守備隊が立てこもるグース・グリーンの町を包囲。守備隊は降伏勧告を受け入れ、グース・グリーンは5月29日早朝にイギリス軍に確保された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この28日から29日にかけての戦いは陸上における最大の激戦となり、アルゼンチン側は250名以上が戦死。イギリス側は死者17名とアルゼンチン側と比べ少数ながらその内11名は大隊長を含んだ将校、下士官とその損失は小さくはなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ポート・スタンレー方面に進出したイギリス海兵隊第42コマンド大隊とSASは5月30日にポート・スタンレーを見下ろすケント山をほとんど大きな戦闘もなく確保するが、その夜にケント山奪還に差し向けられたアルゼンチン軍コマンド中隊との間で激しい戦闘が行われた。アルゼンチン軍コマンド部隊を退けたイギリス側はケント山に陣地構築を開始し、ポート・スタンレーの包囲体制に入った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; アルゼンチン軍による英艦艇攻撃と英海軍による迎撃&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
グース・グリーンを確保されるなど、地上戦では徐々にイギリス軍に押されていたアルゼンチン軍であったが、空海軍機によるイギリス海軍艦艇への航空攻撃は続いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月30日午後にはアルゼンチン軍は最後の空対艦エグゾセAM39の1発を使ってイギリス機動艦隊への攻撃を敢行した。海軍第2航空隊の[[シュペルエタンダール攻撃機]]2機&amp;lt;ref&amp;gt;1機にエグゾセを搭載し、もう1機はレーダー故障時の誘導を担当するための補助機&amp;lt;/ref&amp;gt;と空軍第4グループのA-4スカイホーク攻撃機4機で編成された攻撃隊はイギリス艦隊へ接近し、イギリス艦隊側はこれをレーダーに捕らえた。レーダーに捉えられたシュペルエタンダール攻撃機は全速で艦隊に接近するとレーダーで[[ロックオン]]してミサイルを発射後、2機とも退避。ミサイルに続く形で4機のスカイホーク攻撃機が突撃をかけた。このとき攻撃対象とされたのは実際には空母「ハーミーズ」と「インヴィンシブル」ではなく、艦砲射撃と特殊部隊上陸のために主力艦隊から離れて航行していた42型駆逐艦「エグゼター」と21型フリゲート「アヴェンジャー」だった。両艦は攻撃隊のレーダー探知後、チャフロケットを即座に発射し、対空砲火による防空を行った。飛来したエグゾセはこの際に空中で撃破された&amp;lt;ref&amp;gt;イギリス側はエグゾセの撃破を「アヴェンジャー」の114mm単装砲による撃墜と主張しているがチャフによる誤作動だった可能性もあるなど詳細は不明である。&amp;lt;/ref&amp;gt;。さらに「エグゼター」は突撃してくるスカイホーク部隊に対してシーダート対空ミサイルによる迎撃を行い、2機を撃墜した。残った2機のスカイホークは両艦を爆弾で攻撃したが命中させることは出来なかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結局、この攻撃による英国側の損害はなかったが、攻撃に参加したアルゼンチン側パイロットは空母にミサイルを命中させたと主張し&amp;lt;ref&amp;gt;チャフロケットなどの発射煙を誤認したと見られている&amp;lt;/ref&amp;gt;、シュペルエタンダール攻撃機には「インヴィンシブル」のキルマークが描かれた。アルゼンチン政府は新聞に煙を上げる空母の写真すら掲載して損害を与えたと主張したものの、明らかな合成写真であったため、イギリス政府から失笑を買ったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== フィッツロイ上陸 ===&lt;br /&gt;
[[6月8日]]にイギリス海軍は徴用船「[[キャンベラ (客船)|キャンベラ]]」や「[[クイーン・エリザベス2|クイーン・エリザベス2]]」によって輸送されてきた増援兵力を強襲揚陸艦「フィアレス」を中核とした揚陸艦隊に移乗させ、フィッツロイにて揚陸作戦を行っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この動きをアルゼンチン軍はポート・スタンレーのレーダーで察知し、空軍機による攻撃をかけた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
海岸の形状から陸上部隊の上陸に手間取っていた揚陸艦「サー・ガラハド」はスカイホーク3機の爆撃を受け、艦内にいた兵員46名が戦死するなど大きな人的損害を出して沈没した。同じく「サー・トリストラム」もスカイホーク2機の爆撃で大破し、その直後に海上を航行中だった「フィアレス」の揚陸艇F4号が爆撃で撃沈された。また、アルゼンチン空軍のダガー攻撃機部隊の投下した500kg爆弾4発がフォークランド海峡にいたフリゲート「プリマス」を直撃した。しかしいずれも不発で「プリマス」は対潜爆雷が炎上し火災が発生したが沈没は免れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なおこの際にアルゼンチン軍機3機がシーハリアーに撃墜され、イギリス軍機1機もエンジン故障により不時着大破した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== スタンレー陥落 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Argentine prisoners of war - Port Stanley.JPG|right|250px|thumb|投降するアルゼンチン兵]]&lt;br /&gt;
イギリスは、アルゼンチン空海軍機による猛攻により多くの海軍艦艇を失ったものの、陸軍の侵攻は続けられた。イギリス側はアルゼンチン軍守備隊に対して幾度となく降伏勧告を行うが、守備隊はそれを黙殺。6月12日にはスタンレーに設置されていたトレーラー改造のミサイル発射台から輸送機で空輸していた艦対艦ミサイル・エグゾセMM38を発射し、駆逐艦「グラモーガン」の後部甲板に命中させ、不発ながら中破に追い込む。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[6月13日]]よりイギリス軍はスタンレーへの全面攻撃を開始。陸軍第2、第3空挺大隊は北側のロングドン山とワイヤレスリッジ方面を、スコットランド近衛大隊、イギリス海兵隊第45大隊、グルカライフル部隊は「姉妹の尾根」を越え、ダンブルダウン山を越えるルートを侵攻、ウェールズ近衛大隊はハリエット山方面から侵攻した。イギリス軍は野砲や海軍艦艇からの艦砲射撃、ハリアーによる空爆などで援護しつつ、新たに揚陸した[[スコーピオン (戦車)|スコーピオン軽戦車]]などを投入して進軍。対するアルゼンチン側は暗視装置を装着したライフルによる夜間戦闘やM2重機関銃による狙撃で対抗した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時点でアルゼンチン側は敗戦ムードが漂っていたため、全体の士気が大幅に下がっており、各所でイギリス軍は容易にアルゼンチン軍陣地を突破することに成功していたが、一部の場所ではコマンド部隊など士気、錬度の高いアルゼンチン兵が残っており、特にロングドン山やダンブルダウン山での戦闘は熾烈を極め、塹壕を挟んでの手榴弾の投げ合いや銃剣を用いた[[白兵戦]]すら発生した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌6月14日にイギリス軍は守備隊陣地を突破して首都ポート・スタンレー（プエルト・アルヘンティーノ）へ肉薄。これを受けてアルゼンチン側は14日正午についに降伏。司令官[[マリオ・メネンデス]]准将は指揮下の9,800人の兵士と共に投降した。この12日から14日までの戦いで200人近いアルゼンチン兵が戦死し、イギリス兵も多数の死傷者を出した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 終結 ===&lt;br /&gt;
スタンレーの陥落を受けて、翌15日にはガルチェリが「戦闘終結宣言」を出したが、すでに求心力を失っており2日後に失脚する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[6月20日]]にはイギリス軍が[[サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島|サウス・サンドイッチ島]]を再占領し、イギリス政府は停戦宣言を出した。こうして72日にも及び、両国に多大な犠牲を出した戦争は終わった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 両国の参加兵力 ==&lt;br /&gt;
=== アルゼンチン軍 ===&lt;br /&gt;
; 参加艦艇&lt;br /&gt;
* [[空母]] - [[ベインティシンコ・デ・マヨ (空母)|ベインティシンコ・デ・マジョ]]&lt;br /&gt;
* [[巡洋艦]] - [[ヘネラル・ベルグラノ (巡洋艦)|ヘネラル・ベルグラーノ]]&lt;br /&gt;
* [[駆逐艦]]&lt;br /&gt;
** （[[42型駆逐艦|42型]]）サンティシマ・トリニダード、ヘルクレス&lt;br /&gt;
** （[[アレン・M・サムナー級駆逐艦|大戦型]]）セグイ、イポリット・ボチャルド、ピエドラ・ブエナ、コモドロ・パイ&lt;br /&gt;
* フリゲート -（[[デチエンヌ・ドルヴ級通報艦|A69型]]）ドゥルモンド、ゲリコ、グランビル&lt;br /&gt;
* [[潜水艦]]（全て通常型）&lt;br /&gt;
** （[[209型潜水艦|209型]]）サルタ、サン・ルイス、[[サンタフェ (S-21)|サンタフェ]]、サンチャゴ・デル・エステロ&lt;br /&gt;
* [[輸送艦]] - バイア・ブエン・スセソ 他&lt;br /&gt;
* [[揚陸艦]] - カボ・サン・アントニオ&lt;br /&gt;
* [[コルベット]]・[[哨戒艇]]・[[巡視船]]等&lt;br /&gt;
** バイア・パライソ 他&lt;br /&gt;
* 他支援艦艇、徴用船舶&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 航空機&lt;br /&gt;
* [[戦闘機]]・[[攻撃機]]&lt;br /&gt;
** [[A-4 (航空機)|ダグラス A-4B/C/Q]]（空軍、海軍）&lt;br /&gt;
** [[ネシェル (航空機)|IAI ダガー]]（空軍）&lt;br /&gt;
** [[シュペルエタンダール|ダッソー・ブレゲー シュペルエタンダール]]（海軍）&lt;br /&gt;
** [[ミラージュIII (戦闘機)|ダッソー・ブレゲー ミラージュIIIEA]]（空軍）&lt;br /&gt;
** [[FMA IA 58 プカラ]]（空軍）&lt;br /&gt;
** [[アエルマッキ MB-339|マッキ MB-339AA]]（海軍）&lt;br /&gt;
** [[T-34 (航空機)|ビーチ T-34C-1 ターボメンター]]（海軍）&lt;br /&gt;
* 爆撃機・輸送機など&lt;br /&gt;
** [[イングリッシュ・エレクトリック キャンベラ|BAe キャンベラ B Mk 62]]（空軍）&lt;br /&gt;
** [[ボーイング707]]（空軍）&lt;br /&gt;
** [[C-130 (航空機)|ロッキード C-130E/H]]（空軍、爆撃機としても使用）&lt;br /&gt;
** ロッキード KC-130H（空軍）&lt;br /&gt;
** [[リアジェット35|ゲイツ・リアジェット 35]]（空軍、民間）&lt;br /&gt;
** [[ホーカー・シドレー HS.125]]（空軍）&lt;br /&gt;
** [[フォッカー F28|フォッカー F28-3000 フェローシップ]]（海軍）&lt;br /&gt;
** [[ロッキード L-188|ロッキード L-188 エレクトラ]]（海軍）&lt;br /&gt;
** [[P-2 (航空機)|ロッキード SP-2H ネプチューン]]（海軍）&lt;br /&gt;
** [[S-2 (航空機)|グラマン S-2E トラッカー]]（海軍）&lt;br /&gt;
** [[ブリテン・ノーマン アイランダー]]（捕獲）&lt;br /&gt;
** [[ショート スカイバン]]（沿岸警備隊）&lt;br /&gt;
** 他&lt;br /&gt;
* 回転翼機&lt;br /&gt;
** [[ベル 212]]（空軍）&lt;br /&gt;
** [[UH-1 (航空機)|ベル UH-1H]]（陸軍）&lt;br /&gt;
** [[アグスタ A109]]（陸軍、後に英軍が捕獲運用）&lt;br /&gt;
** [[CH-47 (航空機)|ボーイング CH-47C チヌーク]]（陸軍、空軍）&lt;br /&gt;
** [[SA 330 (航空機)|アエロスパシアル ピューマ]]（陸軍、沿岸警備隊）&lt;br /&gt;
** [[アグスタウェストランド リンクス|ウェストランド リンクスMk23]]（海軍）&lt;br /&gt;
** [[SA 316 (航空機)|アエロスパシアル アルエットIII]]（海軍）&lt;br /&gt;
** [[SH-3 シーキング|シコルスキー SH-3D シーキング]]（海軍）他&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
LADE (Lineas Aereas Del Estado、「国営航空」）の各機も空軍の下で輸送任務についた。フェニックス・エスカドロン（徴用ビジネス機部隊）は主に後方支援にあたったが、リアジェットのような高性能機は通信中継や偽装攻撃も行った。[[アルゼンチン航空]]等のエアラインも支援体制にあった。長距離洋上哨戒飛行のため（イギリス海軍艦隊の偵察）、武装を施していないアルゼンチン航空の[[ボーイング707]]旅客機による偵察飛行がたびたび実施されたが、それに対抗するために、イギリス空軍がニムロッド哨戒機に[[サイドワインダー]]ミサイルを4発搭載して偵察行動をとった結果、ボーイング707による偵察飛行は中止された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イギリス軍 ===&lt;br /&gt;
; 参加艦艇&lt;br /&gt;
* 第317任務部隊（指揮：ウッドワード少将） - 機動部隊&lt;br /&gt;
* 第324.3任務群（指揮：ハーバート少将） - 潜水艦隊&lt;br /&gt;
* 補給部隊（指揮：ダンロップ准将）&lt;br /&gt;
[[ファイル:Invincible 1982.JPG|thumb|250px|right|HMSインヴィンシブル]]&lt;br /&gt;
* [[空母]] - [[ハーミーズ (空母・2代)|ハーミーズ]]（艦隊旗艦）、[[インヴィンシブル (空母)|インヴィンシブル]]&lt;br /&gt;
* [[潜水艦]] - [[スウィフトシュア級原子力潜水艦]] [[スプレンディッド (原子力潜水艦)|スプレンディッド]]&amp;lt;!--、セプター--&amp;gt;、[[スパルタン (原子力潜水艦)|スパルタン]]&lt;br /&gt;
** [[チャーチル級原子力潜水艦]] [[コンカラー (S48)|コンカラー]]、カレイジャス&lt;br /&gt;
** ヴァリアント級原子力潜水艦 [[ヴァリアント (原子力潜水艦)|ヴァリアント]]&lt;br /&gt;
** オベロン級潜水艦 オニクス&lt;br /&gt;
* [[駆逐艦]]&lt;br /&gt;
** [[ブリストル (82型駆逐艦)|82型駆逐艦]] ブリストル&lt;br /&gt;
** [[42型駆逐艦]] シェフィールド（沈没）、グラスゴー、[[コヴェントリー (駆逐艦)|コヴェントリー]]（沈没）、エクゼター、カーディフ&lt;br /&gt;
** [[カウンティ級駆逐艦]] アントリム、グラモーガン&lt;br /&gt;
[[ファイル:SS Canberra &amp;amp; HMS Andromeda Falklands 1982.jpg|thumb|250px|right|HMSアンドロメダとキャンベラ]]&lt;br /&gt;
* [[フリゲート]]&lt;br /&gt;
** [[22型フリゲート]] ブロードスウォード&amp;lt;!--、バトルアクス--&amp;gt;、ブリリアント&lt;br /&gt;
** [[21型フリゲート]] [[アンテロープ (フリゲート)|アンテロープ]]（沈没）、[[アクティブ (フリゲート)|アクティブ]]、[[アロー (フリゲート)|アロー]]、[[アラクリティ (フリゲート)|アラクリティ]]、[[アーデント (フリゲート)|アーデント]]（沈没）、[[アヴェンジャー (フリゲート)|アベンジャー]]、[[アンバスケイド (フリゲート)|アンバスケイド]]&lt;br /&gt;
** [[リアンダー級フリゲート]]（12M型フリゲート） &amp;lt;!--オーロラ、ユーラテス、ディド、--&amp;gt;アーゴノート&amp;lt;!--、アリディン--&amp;gt;、アンドロメダ、ミナーヴァ、ペネロープ&lt;br /&gt;
** [[ロスシー級フリゲート]] ヤーマス、プリマス&amp;lt;!--、ライル--&amp;gt;&lt;br /&gt;
* [[揚陸艦]]&lt;br /&gt;
** [[フィアレス級揚陸艦]] フィアレス（両用艦群旗艦）、イントレピッド&lt;br /&gt;
** [[サー級揚陸艦]] サー・ランスロツト、サー・ガラハド（沈没）、サー・ベディベア、サー・ゲレイント、サー・パーシバル、サー・トリストラム&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:QE2colour.jpg|thumb|250px|right|徴用され輸送船として使用されていたクイーン・エリザベス2号]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:VC10 Royal Air Force.jpg|thumb|250px|right|ビッカース VC10 C.1]]&lt;br /&gt;
* [[補給艦]]&lt;br /&gt;
** フォートグランジ、フォートオースチン、リゾース、ストロムネス、アップルリーフ、ベイリーフ、ブラウンリーフ、プラムリーフ、パールリーフ、ブルーローバー、リージェント、オルメダ、オルナ、タイドプール、タイドスプリング、エンガダイン&lt;br /&gt;
* [[氷海巡視船]] - エンデュアランス&lt;br /&gt;
* [[掃海艇]] - ハント級掃海艇 ブレコン、レッドベリー&lt;br /&gt;
* [[測量艦]] - ヘクラ級測量艦 ヘクラ、ヘカテ、ヘラルド、ハイドラ&lt;br /&gt;
* [[通報艦]] - キャッスル級哨戒艇 リーズキャッスル、ダンバードンキャッスル&lt;br /&gt;
その他支援艦艇若干。[[クイーン・エリザベス2号]]、[[キャンベラ号]]、アトランティック・コンベアー（沈没）など徴用艦艇多数&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 航空機&lt;br /&gt;
* [[戦闘機]]・[[攻撃機]]&lt;br /&gt;
** [[BAe シーハリアー|シーハリアー FRS.1]](海軍)&lt;br /&gt;
** [[ホーカー・シドレー ハリアー|ハリアー GR.3]](空軍)&lt;br /&gt;
** [[F-4 (戦闘機)|ファントム FGR.2]]（空軍、アセンション島の防衛）&lt;br /&gt;
* [[爆撃機]] - [[アブロ バルカン]] B.2(空軍)&lt;br /&gt;
* [[対潜哨戒機]] - [[BAE ニムロッド|BAE ニムロッド MR.2]](空軍)&lt;br /&gt;
* [[空中給油機]] - [[ハンドレページ ヴィクター|ハンドレページ ヴィクター K.2]](空軍)&lt;br /&gt;
* 輸送機&lt;br /&gt;
** ビッカース・[[ビッカース VC-10|VC10 C.1]]（空軍）&lt;br /&gt;
** ロッキード・ハーキュリーズ C.1（空軍）&lt;br /&gt;
* 偵察機&lt;br /&gt;
** ニムロッド R.1（空軍）&lt;br /&gt;
** イングリッシュ・エレクトリック・[[イングリッシュ・エレクトリック キャンベラ|キャンベラ PR.2]]（空軍）&lt;br /&gt;
* ヘリコプター&lt;br /&gt;
** [[シコルスキー S-61|ウエストランド シーキング HAS.2/2A/5/HC.4/HAR.3]](海軍、空軍)&lt;br /&gt;
** [[アグスタウェストランド リンクス|ウエストランド リンクス HAS.2]](海軍)&lt;br /&gt;
** [[ウェストランド ワスプ|ウェストランド ワスプ HAS.1]]（海軍）&lt;br /&gt;
** [[シコルスキー S-58|ウェストランド ウェセックス HAS.3/HU.5]]（海軍）&lt;br /&gt;
** [[SA 341 (航空機)|ウェストランド ガゼル AH.1]]（陸軍、海兵隊）&lt;br /&gt;
** [[ウェストランド スカウト|ウェストランド スカウト AH.1]]（陸軍、海兵隊）&lt;br /&gt;
** [[CH-47 (航空機)|ボーイング チヌーク HC.1]]（空軍）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 年表 ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:HMS Hermes (R-12) DN-SN-82-04758.JPEG|thumb|250px|イギリス海軍艦隊旗艦となった空母[[ハーミーズ (空母・2代)|ハーミーズ]] (HMS Hermes)(現・[[インド海軍]]の[[ヴィラート (空母)|ヴィラート]])]]&lt;br /&gt;
[[1982年]]&lt;br /&gt;
* [[3月19日]]：アルゼンチンの「解体業者」がアルゼンチン海軍輸送艦「バイア・ブエン・スセソ」で入国手続き一切を無視して、[[サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島|サウス・ジョージア島]]に上陸。アルゼンチン国旗の掲揚などを行う。&lt;br /&gt;
* [[3月22日]]：アルゼンチン海軍輸送艦「バイア・ブエン・スセソ」、イギリス側からの抗議によりサウス・ジョージア島より撤収。イギリス、氷況巡視船「エンデュアランス」に海兵隊員と軍用ヘリを積載し同島海域へ派遣。&lt;br /&gt;
* [[3月26日]]：アルゼンチン海軍砕氷艦「バイア・パライソ」がサウス・ジョージア島にアルゼンチン軍海兵隊と補給物資を輸送。&lt;br /&gt;
* [[3月30日]]：アルゼンチン軍、「[[ベインティシンコ・デ・マヨ (空母)|ベインティシンコ・デ・マジョ]]」を旗艦とする艦隊をフォークランド諸島海域に派遣。&lt;br /&gt;
* [[3月31日]]：イギリス首相が、極秘情報により、アルゼンチンのフォークランド侵攻が本気であることを知る。「（侵攻を）計画するだけでもばかばかしく、そんなばかげたことをするはずがない」と思い込んでいた。イギリス首相（当時）の人生で最悪の日であり、取り返せるかもわからなかったと証言（イギリス非公開委員会議事録）。&lt;br /&gt;
* [[4月2日]]：アルゼンチン軍がフォークランド諸島に上陸し、これを占領。イギリスの[[レックス・ハント]]総督以下イギリス軍を捕虜とする。イギリス、アルゼンチンに国交断絶通告。&lt;br /&gt;
* [[4月3日]]：アルゼンチン軍、[[サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島|サウス・ジョージア島]]を占領。アルゼンチン海軍A69型コルベット「[[ゲリコ (コルベット)|ゲリコ]]」が同島に接近時にイギリス軍守備隊の対戦車ロケット砲の攻撃を受け中破。&lt;br /&gt;
** [[国際連合安全保障理事会|国連安全保障理事会]]決議第502号、アルゼンチンの撤退を求める。&lt;br /&gt;
* [[4月4日]]：アルゼンチン政府が全ての国内にあるイギリス資産を凍結。&lt;br /&gt;
* [[4月5日]]：イギリス艦隊、[[ポーツマス (イングランド)|ポーツマス]]港を出港。イギリスの[[エリザベス2世 (イギリス女王)|エリザベス2世]]が民船徴用権付与。&lt;br /&gt;
* [[4月10日]]：[[欧州共同体|EC]]が対アルゼンチン経済封鎖を承認。[[西ドイツ]]や[[フランス]]などの加盟国が対アルゼンチン経済制裁を行う。&lt;br /&gt;
* [[4月12日]]：イギリス軍、フォークランド諸島周辺の洋上封鎖発効。&lt;br /&gt;
* [[4月18日]]：イギリス海軍の[[機動部隊]]がイギリス領[[アセンション島]]を出港。&lt;br /&gt;
* [[4月20日]]：イギリス空軍、アセンション島より発進した第55飛行隊の[[ハンドレページ ヴィクター|ヴィクター]]がサウス・ジョージア島を偵察。&lt;br /&gt;
** 駆逐艦「アントリム」を筆頭とした[[タスクフォース]]、同海域に先に派遣されていた氷況巡視船「エンデュアランス」と合流しサウス・ジョージア島に接近。&lt;br /&gt;
* [[4月21日]]早朝：イギリス軍[[SAS (イギリス陸軍)|SAS]] の偵察隊がサウス・ジョージア島にヘリによる上陸を敢行するも悪天候で作戦行動がとれず、撤収。その際、輸送に使用されたイギリス海軍の[[シコルスキー S-58|ウェセックス HU.5]]ヘリコプターが2機が悪天候により墜落。搭乗員は他のヘリにより救助される。&lt;br /&gt;
** 哨戒任務で出撃していたイギリス海軍第800飛行隊のシーハリアーと偵察任務で飛来したアルゼンチン空軍第1グループのボーイング707が会敵。海空封鎖発効前だったためハリアー側は発砲許可がおりず、写真撮影のみで両機撤収。&lt;br /&gt;
* [[4月22日]]深夜：[[イギリス海兵隊]]特殊舟艇隊 ([[SBS (イギリス海兵隊)|SBS]])、サウス・ジョージア島にゴムボートによる偵察上陸を敢行するも一部が悪天候により上陸に失敗し、遭難。後にヘリにより救助。&lt;br /&gt;
* [[4月25日]]早朝：イギリス海軍タスクフォース艦載の[[シコルスキー S-58|ウェセックス HU.5]]らヘリコプター部隊がサウス・ジョージア島沖合でアルゼンチン海軍[[潜水艦]]「[[サンタフェ (S-21)|サンタフェ]]」を発見し攻撃。サンタフェは同日サウス・ジョージア島に擱座。乗組員は艦を放棄し上陸後、イギリス軍に降伏。&lt;br /&gt;
* [[4月25日]]午後: イギリス海兵隊がサウス・ジョージア島に上陸。これを奪回。同島のアルゼンチン軍守備隊は全員降伏。&lt;br /&gt;
* [[4月29日]]：アルゼンチン政府がアメリカによる調停案を拒否。&lt;br /&gt;
* [[4月30日]]：イギリス、フォークランド諸島周辺の海空封鎖発効。&lt;br /&gt;
* [[5月1日]]早朝：イギリス空軍、アセンション島より発進した第101飛行隊の[[アブロ バルカン|バルカン]][[爆撃機]]が長途飛来、諸島内のポート・スタンレーの飛行場への長距離爆撃を初実施し滑走路を破壊。&lt;br /&gt;
* [[5月1日]]午前:イギリス海軍、空母「[[ハーミーズ (空母・2代)|ハーミーズ]]」、「[[インヴィンシブル (空母)|インヴィンシブル]]」艦載の第800,801飛行隊[[BAe シーハリアー|シーハリアー FRS.1]]が出撃。第800飛行隊のシーハリヤー12機がポート・スタンレーとグース・グリーンの飛行場を空爆。&lt;br /&gt;
* [[5月1日]]午後:イギリス海軍、駆逐艦「グラモーガン」、フリゲート艦「アラクリティ」、「アロー」がポート・スタンレー飛行場周辺へ艦砲射撃を敢行。ペブル島のアルゼンチン海軍第4航空隊の[[T-34 (航空機)|ビーチ T-34C-1 ターボメンター]]攻撃機3機が迎撃に出るも第801飛行隊所属のシーハリアー2機の迎撃により遁走。&lt;br /&gt;
** イギリス海軍、第801飛行隊のシーハリアー部隊とアルゼンチン空軍、第8グループの[[ミラージュIII (戦闘機)|ミラージュIII]]、第6グループの[[ネシェル|ダガー攻撃機]]部隊が交戦。ミラージュIII、ダガーそれぞれ2機が撃墜される(うち1機はアルゼンチン軍守備隊の対空砲の誤射にて)。&lt;br /&gt;
*** アルゼンチン空軍、第6グループのダガー攻撃機部隊3機がポート・スタンレーへ艦砲射撃を実施していた艦隊を爆弾と機関砲で攻撃。イギリス海軍、駆逐艦「グラモーガン」、フリゲート艦「アラクリティ」、「アロー」、それぞれ小規模の損害を受ける。&lt;br /&gt;
* [[5月1日]]夜:アルゼンチン空軍、第2グループ所属の[[イングリッシュ・エレクトリック キャンベラ|キャンベラ爆撃機]]6機がイギリス海軍艦隊へ空爆をかけようと接近するもイギリス海軍、第801飛行隊所属のシーハリアー2機の迎撃を受け、2機が撃墜、残った機は攻撃を断念し撤収。&lt;br /&gt;
** アルゼンチン海軍、[[209型潜水艦]]「サン・ルイス」、フォークランド諸島北部海域に接近していたイギリス海軍艦隊のフリゲート艦「ブリリアント」、「ヤーマス」に雷撃を行うも失敗。&lt;br /&gt;
[[ファイル:Super Etendard ARA 204.jpg|thumb|250px|アルゼンチン海軍のシュペルエタンダール攻撃機]]&lt;br /&gt;
* [[5月2日]]午後：フォークランド諸島南部近海にてイギリス海軍、[[原子力潜水艦|原潜]]「[[コンカラー (S48)|コンカラー]]」がアルゼンチン海軍[[巡洋艦]]「[[ヘネラル・ベルグラノ (巡洋艦)|ヘネラル・ベルグラーノ]]」を魚雷攻撃により撃沈。&lt;br /&gt;
* [[5月2日]]深夜：フォークランド諸島北部近海にてイギリス海軍の[[シコルスキー S-61|シーキング]]ヘリコプターがポート・スタンレーよりパイロット捜索に派遣されていたアルゼンチン海軍の哨戒艇「コモドーレ・ソメレーラ」、「アルフェレツ・ソブラル」の二隻と会敵。直後に要撃に出たイギリス海軍の[[アグスタウェストランド リンクス|リンクス]]が二隻をシースクア対艦ミサイルで攻撃。「コモドロ・ソメレーナ」は撃沈。「アルフェレツ・ソブラル」は大破、アルゼンチン本国へ自力で帰還。&lt;br /&gt;
* [[5月3日]]深夜：イギリス空軍、アセンション島より発進した第55飛行隊の[[アブロ バルカン|バルカン]][[爆撃機]]が長途飛来、諸島内のポート・スタンレーの飛行場への長距離爆撃を再度実施するも飛行場への損害は与えられず。&lt;br /&gt;
* [[5月4日]]：アルゼンチン海軍、第2航空隊の[[シュペルエタンダール]][[攻撃機]]2機が[[空対艦ミサイル]]・[[エグゾセ]]AM39の2発でイギリス海軍42型駆逐艦「[[シェフィールド (駆逐艦)|シェフィールド]]」を攻撃、1発が命中。同艦は炎上し総員退艦、[[12型フリゲート]]「ヤーマス」に曳航されるも5月10日に沈没。&lt;br /&gt;
** 対地攻撃を行っていたイギリス海軍の第800飛行隊所属のシーハリヤー1機がアルゼンチン軍守備隊の対空機関砲により撃墜。&lt;br /&gt;
* [[5月5日]]：アルゼンチン政府が[[ハビエル・ペレス・デ・クエヤル|ペレス・デ・クエヤル]][[国際連合事務総長|国連事務総長]]による調停案を受諾。&lt;br /&gt;
** アルゼンチン海軍、「[[ベインティシンコ・デ・マヨ (空母)|ベインティシンコ・デ・マジョ]]」艦載の[[S-2 (航空機)|トラッカー哨戒機]]が潜航中の潜水艦らしき艦影(正体不明)を捉える。デ・マジョの対潜ヘリ部隊が対潜行動を取るも捕捉できず。以後「ベインティシンコ・デ・マジョ」はアルゼンチン、バイア・ブランカに帰港し紛争終結まで出撃せず。&lt;br /&gt;
* [[5月6日]]：イギリス海軍、「[[インヴィンシブル (空母)|インヴィンシブル]]」艦載の第801飛行隊所属のシーハリヤー2機が哨戒任務中に行方不明に(空中衝突による損失と見られているが詳細不明)。&lt;br /&gt;
* [[5月9日]]：イギリス海軍、第800飛行隊所属のシーハリヤーが情報収集船として派遣されていたアルゼンチン籍の大型トロール漁船「ナルワル号」を攻撃。同船はイギリス海軍に拿捕されるも曳航中に沈没。乗組員は全員捕虜に。&lt;br /&gt;
** アルゼンチン空軍、第4グループの[[A-4]]スカイホーク攻撃機2機が天候不良で墜落。&lt;br /&gt;
** イギリス海軍、駆逐艦「[[コヴェントリー(駆逐艦)|コヴェントリー]]」がポート・スタンレー近郊を飛行していたアルゼンチン陸軍の[[SA 330 (航空機)|ピューマ]]ヘリコプターをシーダードミサイルで撃墜。&lt;br /&gt;
* [[5月10日]]：イギリス海軍、フリゲート艦「アラクリティ」がフォークランド海峡にてアルゼンチン海軍の補給艦「イスラ・デ・ロス・エスタドス」を砲撃で撃沈。&lt;br /&gt;
* [[5月12日]]：アルゼンチン空軍、第5グループの[[A-4]]スカイホーク攻撃機部隊がイギリス海軍艦隊へ攻撃。[[42型駆逐艦]]「グラスゴー」に爆弾が命中するも不発。[[A-4]]スカイホーク4機が撃墜。&lt;br /&gt;
* [[5月14日]]：イギリス[[SAS (イギリス陸軍)|SAS]] D中隊45名がペプル島に[[シコルスキー S-61|シーキング]]ヘリコプター2機で上陸し同島の飛行場を襲撃。飛行場に駐機してあったアルゼンチン機のすべてを爆破工作により破壊し滑走路を使用不能に。この攻撃でアルゼンチン側は海軍第4航空隊所属の[[FMA IA 58 プカラ|プカラ攻撃機]]6機、[[T-34 (航空機)|ターボメンター軽攻撃機]]4機、沿岸警備隊のスカイバン輸送機1機を損失。&lt;br /&gt;
* [[5月15日]]：イギリス空軍の[[BAE ニムロッド|ニムロッド偵察機]]がアセンション島よりフォークランド諸島上空に飛来。アルゼンチン海軍の動向を偵察。&lt;br /&gt;
* [[5月16日]]：フォークランド諸島近海に侵入したアルゼンチン海軍輸送艦「バイア・ブエン・スセソ」、「リオ・カルカナーラ」。イギリス海軍第800飛行隊所属のシーハリヤーに発見され攻撃を受ける。両艦の乗員は共に艦を放棄して脱出。&lt;br /&gt;
* [[5月17日]]：イギリス海軍徴用[[コンテナ]]船「アトランティック・コンベイヤー」を含む補給艦隊が補給物資を機動艦隊に運搬。イギリス空軍、第1飛行隊所属の[[ホーカー・シドレー ハリアー|ハリアー GR.3]]の6機が空母「ハーミーズ」に合流。イギリス海軍第800,801飛行隊、補給のシーハリアーを4機ずつ受領。&lt;br /&gt;
* [[5月19日]]：イギリス[[SAS (イギリス陸軍)|SAS]]のチームを運搬中だった [[シコルスキー S-61|シーキング]]が海鳥との接触事故で墜落。乗員22名が死亡。&lt;br /&gt;
** 空母「ハーミーズ」より発艦した [[シコルスキー S-61|シーキング]]がチリのプンタ・アレナスに着陸。乗組員は全員チリ当局に出頭後、後にイギリスに帰国(SASのアルゼンチンに対する極秘作戦だったなど諸説あるが詳細不明)&lt;br /&gt;
* [[5月20日]]：アメリカ政府が[[KC-135 (航空機)|KC-135]][[空中給油機]]のイギリスへの貸与を決定。&lt;br /&gt;
** イギリス空軍、第1飛行隊所属のハリアー GR.3が西フォークランド島のアルゼンチン軍燃料集積所を空爆。&lt;br /&gt;
* [[5月21日]]早朝：揚陸艦「フィアレス」を中核とした揚陸艦隊による上陸作戦開始。イギリス陸軍空挺連隊、海兵隊コマンド大隊が東フォークランド島、サン・カルロスより上陸を開始。&lt;br /&gt;
** イギリス[[SAS (イギリス陸軍)|SAS]]部隊40名が上陸部隊支援のためにグース・グリーンへヘリにより降下し、陽動作戦を開始。偵察飛行中だったアルゼンチン空軍第3グループのプカラ攻撃機1機を[[スティンガーミサイル]]で撃墜。&lt;br /&gt;
** イギリス空軍第1飛行隊のハリアー GR.3がケント山近郊に駐機していたアルゼンチン陸軍のヘリコプター部隊を攻撃。[[CH-47 (航空機)|シヌーク]]1機、[[SA 330 (航空機)|ピューマ]]2機を破壊。&lt;br /&gt;
** イギリス海軍、レイピアミサイルの空輸中だったシーキングヘリコプター1機と護衛のガゼルヘリコプター1機からなる編隊がアルゼンチン守備隊から銃撃を受け、ガゼルヘリコプター1機が撃墜。直後に飛来したガゼルヘリコプター1機も同じく銃撃を受け、撃墜される。&lt;br /&gt;
** イギリス空軍第1飛行隊のハリアー GR.3の1機がアルゼンチン陸軍の対空機関砲にて撃墜。パイロットの空軍大尉は脱出後、アルゼンチン軍の捕虜に(アルゼンチン本国に移送後、紛争終結後に無事帰国)。&lt;br /&gt;
* [[5月21日]]午前:アルゼンチン海軍、第一航空隊所属の[[アエルマッキ MB-339|マッキ]]攻撃機がイギリス海軍フリゲート艦「[[リアンダー級フリゲート|アーゴノート]]」をロケット弾と機関砲で攻撃。「アーゴノート」は損傷軽微。&lt;br /&gt;
** アルゼンチン空軍、第6グループ所属[[ネシェル|ダガー攻撃機]]部隊が揚陸部隊を護衛する艦隊を攻撃。駆逐艦「アントリム」に爆弾が命中するも不発。ダガー数機が撃墜される。&lt;br /&gt;
* [[5月21日]]正午:アルゼンチン空軍、第3グループのプカラ攻撃隊2機がイギリス陸軍橋頭保へ攻撃をかけるも艦隊の対空砲火と海軍第801飛行隊の攻撃で阻止。プカラ1機を撃墜。&lt;br /&gt;
** アルゼンチン空軍、第5グループ所属[[A-4]]スカイホーク攻撃機隊の一部がアルゼンチン海軍が放棄していた輸送艦「リオ・カルカナーラ」を誤爆。イギリス海軍[[21型フリゲート]]「[[アーデント (フリゲート)|アーデント]]」を空爆するも失敗。フリゲート艦「[[リアンダー級フリゲート|アーゴノート]]」に爆弾二発が命中(二発とも不発)、中破。&lt;br /&gt;
* [[5月21日]]午後:アルゼンチン空軍、第6グループ所属[[ネシェル|ダガー攻撃機]]部隊が「[[アーデント (フリゲート)|アーデント]]」を攻撃し、爆弾2発を命中。「アーデント」は対空ミサイル発射機、主砲が損傷し使用不能に。直後にアルゼンチン空軍5グループとアルゼンチン海軍第3航空隊所属[[A-4]]スカイホーク攻撃機隊がさらに「アーデント」を反復攻撃。「アーデント」は爆弾計3発が艦尾で炸裂し大破。総員退艦の6時間後に沈没。&lt;br /&gt;
* [[5月22日]]: フォークランド諸島、チョイゼウル海峡を飛行中のイギリス海軍第801飛行隊のシーハリアー2機が補給物資輸送中だったアルゼンチン沿岸警備隊のパトロール艇「リオ・イグアス」を発見し機関砲で攻撃。「リオ・イグアス」は大破、炎上し放棄。&lt;br /&gt;
** イギリス空軍、第1飛行隊ハリアー GR.3の4機がグース・グリーンのアルゼンチン軍陣地を空爆。&lt;br /&gt;
** アルゼンチン空軍、第1グループの[[ボーイング707]]がフォークランド諸島北のイギリス海軍艦隊を偵察。駆逐艦「[[ブリストル (82型駆逐艦)|ブリストル]]」と「[[42型駆逐艦|カーディフ]]」から[[シーダート (ミサイル)|シーダート対空ミサイル]]による迎撃を受けるが回避、撤収。&lt;br /&gt;
* [[5月23日]]：フォークランド海峡上空を哨戒中だったイギリス海軍、第801飛行隊所属のシーハリヤーがシャグ・コーブ入江近くを低空飛行中のアルゼンチン軍ヘリ部隊4機([[SA 330 (航空機)|ピューマ]]ヘリ3機、[[アグスタ A109]]ヘリ1機で構成)を発見。接近時にピューマ1機が墜落。残りの3機は強行着陸を行い、搭乗員は逃走。残った3機はすべてシーハリアーの機関砲により撃破。&lt;br /&gt;
* [[5月23日]]午後：アルゼンチン空軍、第5グループとアルゼンチン海軍第3飛行隊所属の[[A-4 (航空機)|A-4]]攻撃機がイギリス海軍艦隊を攻撃。イギリス海軍、21型フリゲート「[[アンテロープ (フリゲート)|アンテロープ]]」(HMS Antelope) が爆弾2発を被弾。2発とも不発弾で炸裂せず。A-4数機が艦隊の対空砲火と陸上からの対空ミサイルの迎撃で撃墜。&lt;br /&gt;
** イギリス空軍、第1飛行隊ハリアー GR.3の3機がペブル島のアルゼンチン軍残存勢力に攻撃。&lt;br /&gt;
** アルゼンチン海軍第2航空隊の[[シュペルエタンダール]][[攻撃機]]2機がフォークランド諸島東側に展開するイギリス艦隊へ対艦ミサイル[[空対艦ミサイル]]・[[エグゾセ]]AM39による空襲をかけようとするも標的を捉えられず、帰還。&lt;br /&gt;
* [[5月23日]]深夜：イギリス海軍、21型フリゲート「[[アンテロープ (フリゲート)|アンテロープ]]」、船体に埋まった不発弾の信管除去作業中に爆発し、大破、沈没。&lt;br /&gt;
** イギリス海軍第800飛行隊のシーハリアー4機がポート・スタンレー飛行場周辺のアルゼンチン軍陣地を空爆のために空母「ハーミーズ」から出撃。その際、シーハリアー1機が海上に墜落し喪失。&lt;br /&gt;
* [[5月24日]]早朝: イギリス海軍、第800飛行隊のシーハリアー2機とイギリス空軍、第1飛行隊ハリアー GR.3の4機がポート・スタンレー飛行場のアルゼンチン軍陣地を空爆。&lt;br /&gt;
** アルゼンチン空軍、第4、第5、第6グループ所属の[[A-4]]スカイホーク攻撃機と[[ネシェル|ダガー攻撃機]]の編隊がイギリス海軍艦隊を空襲。イギリス海軍揚陸艦「サー・ランスロット」、「サー・ガラハド」に爆弾が1発ずつ命中（不発）。「サー・ベディベア」が小規模な損害を受ける。ダガー、スカイホーク数機が対空砲火で撃墜。&lt;br /&gt;
** イギリス海軍、第800飛行隊の[[BAe シーハリアー|シーハリアー]]2機とアルゼンチン空軍、第6グループ[[ネシェル|ダガー攻撃機]]4機が交戦。ダガー2機が撃墜される。&lt;br /&gt;
* [[5月24日]]夜：アルゼンチン空軍、第2グループ所属の[[イングリッシュ・エレクトリック キャンベラ|キャンベラ爆撃機]]編隊が東フォークランド島のサン・カルロス近郊に展開するイギリス陸軍に対して空爆。損害は与えられず。&lt;br /&gt;
* [[5月25日]]早朝：アルゼンチン空軍、第2グループのリアジェット捜索機がサン・カルロスを高高度偵察。入江に展開する艦隊の位置を把握。&lt;br /&gt;
* [[5月25日]]午前：アルゼンチン空軍、第4、第5グループ所属の[[A-4]]スカイホーク攻撃機編隊がサン・カルロス入江近辺に展開するイギリス海軍の揚陸艦隊を攻撃。激しい迎撃で損害は与えられず、数機が対空砲火で撃墜。内、パイロットのアルゼンチン空軍中尉が脱出後、イギリス海軍揚陸艦「フィアレス」に収容され、捕虜に。&lt;br /&gt;
* [[5月25日]]午後：アルゼンチン空軍、第5グループ所属の[[A-4]]スカイホーク攻撃機編隊がペブル島沿岸に展開していたイギリス海軍艦隊を発見し、攻撃。イギリス海軍、駆逐艦「[[コヴェントリー (駆逐艦)|コヴェントリー]]」、爆弾3発が命中、炸裂し撃沈。フリゲート艦「ブロードソード」、不発の爆弾1発が海面を反跳し飛行甲板を下方向から斜めに貫通。艦載ヘリコプターのリンクスを破壊。&lt;br /&gt;
** アルゼンチン海軍、第2航空隊、シュペルエタンダール攻撃機2機がフォークランド諸島北東海域に展開中の艦隊を空襲。空対艦ミサイル・エグゾセAM39の2発を発射。イギリス海軍徴用[[コンテナ]]船「アトランティック・コンベイヤー」に1発が命中し大破炎上。積載していたチヌーク、ウェセックス、リンクスなどのヘリコプター計10機とトラック等の車両十数台、爆弾や航空機部品など大量の補給物資が失われる。「アトランティック・コンベイヤー」は曳航されるも30日に沈没。&lt;br /&gt;
** ガルチェリ大統領はそれまで反共の理念で敵対していた[[キューバ]]の[[フィデル・カストロ]]首相に、キューバがアルゼンチンの立場を支持したことに対して感謝の書簡を送る。&lt;br /&gt;
[[ファイル:IAI Finger.jpg|thumb|250px|アルゼンチン軍のミラージュ戦闘攻撃機]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:Aerial photo Port Stanley.jpg|right|250px|thumb|ポート・スタンレー（プエルト・アルヘンティーノ）]]&lt;br /&gt;
* [[5月26日]]早朝：サン・カルロスに上陸していたイギリス陸軍がフォークランド諸島各所に進出を開始。陸軍空挺連隊第2、第3大隊はそれぞれグースグリーン方面と西のティール入江方面へ、海兵隊第42コマンド大隊はポート・スタンレー方面に進撃。&lt;br /&gt;
* [[5月27日]]午前：アルゼンチン空軍、第2グループのリアジェット捜索機が陸上に展開するイギリス軍を偵察。&lt;br /&gt;
** イギリス陸軍、第2空挺大隊の航空支援を行っていたイギリス空軍、第1飛行隊ハリアー GR.3の1機がアルゼンチン陸軍の対空機関砲により撃墜。パイロットは脱出後、数日民家に身を潜めた後、イギリス軍ヘリコプターにより救助。&lt;br /&gt;
* [[5月27日]]午後：アルゼンチン空軍、第5グループ所属の[[A-4]]スカイホーク攻撃機2機がサン・カルロス近郊のエイジャックス・ベイに展開していたイギリス陸軍の資材集積所、および戦時病院として利用していた冷凍食品工場周辺を空爆。損害を与える。スカイホークの1機が迎撃により撃墜。パイロットは脱出後、民家で食糧を調達しながら徒歩で移動。数日後にアルゼンチン軍に救助。&lt;br /&gt;
* [[5月28日]]：アルゼンチン空軍、第3グループのプカラ攻撃機部隊がグースグリーンに進撃中のイギリス陸軍空挺部隊へ通常爆弾やナパーム弾による反復攻撃を行い、途中イギリス陸軍の[[ウェストランド スカウト|スカウトヘリ]]を機銃で撃墜。イギリス軍空隊部隊のブローパイプ対空ミサイルや機関銃、小銃の対空砲火でプカラ攻撃機数機が喪失。&lt;br /&gt;
** アルゼンチン海軍、第一航空隊所属の[[アエルマッキ MB-339|マッキ]]攻撃機1機がポート・スタンレーより出撃し、グースグリーンに進撃中のイギリス陸軍空挺部隊への阻止攻撃を行うもイギリス軍空隊部隊のブローパイプ対空ミサイルで撃墜される。&lt;br /&gt;
* [[5月29日]]早朝：グース・グリーンのアルゼンチン陸軍守備隊が降伏。イギリス陸軍空挺連隊第2大隊がポート・ダーウィンとグース・グリーンを占領。&lt;br /&gt;
* [[5月29日]]: イギリス海軍、空母「インヴィンシブル」艦上にて発艦準備中だった第801飛行隊のシーハリアーが甲板から落下し喪失。パイロットは脱出。&lt;br /&gt;
** フォークランド諸島北部で補給物資輸送中のイギリス海軍徴用の貨物船「ブリティッシュ・ウェイ」がアルゼンチン空軍第1グループ所属の[[C-130 (航空機)|C-130]]改造爆撃機から空爆を受ける。爆弾8発中1発が命中するも不発で船体で弾き飛ばされ、損傷軽微。&lt;br /&gt;
* [[5月30日]]：アルゼンチン陸軍記念日の演説に際し、ガルチェリが「必要なら世界の他の地域（[[東側諸国]]を意味）からの支援を要請する」旨を言明。&lt;br /&gt;
* [[5月30日]]午後：イギリス空軍、第1飛行隊ハリアー GR.3の1機が攻撃から帰還中に戦闘による被弾による損傷が元で墜落。パイロットは救助される。&lt;br /&gt;
** アルゼンチン海軍、第2航空隊所属のシュペルエタンダール攻撃機2機と[[A-4]]スカイホーク攻撃機4機がフォークランド諸島北東海域に展開しているイギリス海軍旗艦「ハーミーズ」の艦隊を空襲。空対艦ミサイル・エグゾセAM39の1発を発射するも命中せず(イギリス側はフリゲート艦「[[アヴェンジャー (フリゲート)|アヴェンジャー]]」の艦砲による撃墜を主張しているが詳細不明)。駆逐艦[[42型駆逐艦|エグゼター]]の[[シーダート (ミサイル)|シーダート]]対空ミサイルによる迎撃でスカイホーク攻撃機2機が撃墜。&lt;br /&gt;
** イギリス海兵隊第42コマンド大隊K中隊がケント山を占拠。&lt;br /&gt;
* [[5月30日]]深夜:ケント山に展開していたイギリス陸軍[[SAS (イギリス陸軍)|SAS]]チームとケント山奪還のために派遣されたアルゼンチン陸軍のコマンド中隊がケント山北東部で衝突。翌日早朝にアルゼンチン軍コマンド部隊奪還を諦め撤収。&lt;br /&gt;
* [[5月31日]]:イギリス空軍、アセンション島より発進した[[アブロ バルカン|バルカン]][[爆撃機]]が長途飛来。ポート・スタンレーのアルゼンチン軍射撃統制レーダー施設へシュライク対レーダーミサイルにて攻撃。損害はほとんど与えられず。&lt;br /&gt;
* [[6月1日]]早朝：アルゼンチン空軍、第2グループ所属の[[イングリッシュ・エレクトリック キャンベラ|キャンベラ爆撃機]]4機がイギリス軍のサン・カルロス陣地へ攻撃をかけるもイギリス海軍、第800飛行隊のシーハリアーの迎撃を受けて攻撃を断念し、撤収。&lt;br /&gt;
** アルゼンチン空軍、第1グループ所属の[[C-130 (航空機)|C-130]]輸送機1機がポート・スタンレーへの輸送任務を終えて帰還中に独断でサン・カルロス周辺をレーダーで偵察。イギリス海軍、第800飛行隊のシーハリアー2機が迎撃。C-130は対空ミサイルと機関砲により撃墜される。&lt;br /&gt;
** イギリス空軍、ハリアー GR.3の2機がアセンション島より空中給油で長距離飛行を敢行し空母「ハーミーズ」に飛来。第1飛行隊に合流。&lt;br /&gt;
* [[6月1日]]午後：イギリス海軍、第801飛行隊のシーハリアー1機がポート・スタンレー上空の哨戒任務中にアルゼンチン軍の[[ローランド (ミサイル)|ローランド対空ミサイル]]により撃墜。パイロットは海上でイギリス軍により救助。&lt;br /&gt;
* [[6月2日]]：ガルチェリがソ連および[[ワルシャワ条約機構]]諸国の援助を受け入れることを示唆する。&lt;br /&gt;
** サン・カルロスにイギリス軍の工兵隊が建築したハリアー用の臨時飛行場が完成。&lt;br /&gt;
** イギリス陸軍、空挺部隊2個中隊がフィッツロイ周辺の占拠のため、フィッツロイ8km西にシヌークヘリコプターで降下。&lt;br /&gt;
* [[6月3日]]:イギリス空軍、アセンション島より発進した[[アブロ バルカン|バルカン]][[爆撃機]]が長途飛来。ポート・スタンレーのアルゼンチン軍射撃統制レーダー施設へシュライク対レーダーミサイルにて再攻撃。射撃統制レーダーに大きな損傷を与える。攻撃を行ったバルカン爆撃機は帰還中に空中給油機のトラブルからアセンション島への帰還が不可能になり、急遽[[ブラジル]]、[[リオデジャネイロ州|リオデジャネイロ]]の飛行場に緊急着陸。イギリス、ブラジル間の交渉により、このバルカン爆撃機は搭乗員と共に6月11日にアセンション島に帰還。&lt;br /&gt;
* [[6月5日]]:サン・カルロスのハリアー用の臨時飛行場が稼働を開始。イギリス海軍、第800飛行隊のシーハリアー2機とイギリス空軍、第1飛行隊のハリアー GR.3の2機が飛行場に到着。&lt;br /&gt;
* [[6月7日]]：アルゼンチン政府が国連の撤退提案を拒否。&lt;br /&gt;
** イギリス海軍、揚陸艦「フィアレス」、「イントレピッド」を中核とした揚陸艦隊がフィッツロイ上陸のために同海域に進出を開始。&lt;br /&gt;
* [[6月7日]]朝：アルゼンチン空軍、第2グループのリアジェット捜索機4機がサン・カルロス上空を高高度偵察。イギリス海軍、駆逐艦[[42型駆逐艦|エグゼター]]の[[シーダート (ミサイル)|シーダート]]対空ミサイルによる迎撃により、リアジェット捜索機1機が撃墜。&lt;br /&gt;
* [[6月8日]]早朝：サン・カルロスの臨時飛行場にてイギリス空軍、第1飛行隊のハリアー GR.3の1機が偵察より帰還した際にエンジンの不調で着陸に失敗、墜落。一時的に滑走路が使用不能に。&lt;br /&gt;
** イギリス陸軍フィッツロイ上陸を開始。アルゼンチン陸軍、イギリス軍のフィッツロイ上陸を察知し、空軍による攻撃を伝達。&lt;br /&gt;
* [[6月8日]]午前：アルゼンチン空軍、第5グループ所属[[ネシェル|ダガー攻撃機]]5機がフィッツロイに展開するイギリス海軍揚陸艦隊を攻撃。イギリス海軍フリゲート艦「[[ロスシー級フリゲート|プリマス]]」に爆弾4発が命中(すべて不発)し、さらに搭載していたヘリコプター積載の爆雷が爆発、大破炎上するも沈没は免れる。&lt;br /&gt;
** アルゼンチン空軍、第5グループ所属の[[A-4]]スカイホーク攻撃機5機がフィッツロイに展開するイギリス海軍揚陸艦隊を攻撃。イギリス海軍補給揚陸艦「サー・ガラハド」、爆弾が直撃し大破炎上、撃沈。補給揚陸艦「サー・トリストラム」、爆弾が直撃し大破。両艦合わせてイギリス軍兵士51名が戦死、46名が負傷。&lt;br /&gt;
* [[6月8日]]午後：アルゼンチン空軍、第4グループ所属の[[A-4]]スカイホーク攻撃機4機がフィッツロイへ空爆に来襲するも陸上にイギリス軍が設置していた[[レイピアミサイルシステム|レイピア対空ミサイル]]と機関銃による迎撃を受け、損傷し撤収。&lt;br /&gt;
** アルゼンチン空軍、第5グループ所属の[[A-4]]スカイホーク攻撃機4機がグースグリーンからフィッツロイに兵士を輸送していたイギリス海軍の揚陸艦「フィアレス」のF4号揚陸艇を攻撃、爆弾を直撃させ撃沈。6名のイギリス兵が死亡。イギリス海軍、第800飛行隊のシーハリアーが迎撃し、3機のスカイホークが撃墜される。&lt;br /&gt;
** アルゼンチン空軍、第1グループ所属の[[C-130 (航空機)|C-130]]改造爆撃機が[[アメリカ]]籍のチャーター船であるタンカー「ハーキュリーズ」を爆撃。爆弾1発が命中するも不発。&lt;br /&gt;
** イギリス空軍、ハリアー GR.3の2機が増援としてアセンション島より空中給油で長距離飛行を敢行し空母「ハーミーズ」に飛来。第1飛行隊に合流。&lt;br /&gt;
* [[6月9日]]：[[アメリカ合衆国大統領]][[ロナルド・レーガン]]がイギリス支持を再度表明。&lt;br /&gt;
* [[6月10日]]：イギリス空軍、第1飛行隊のハリアー GR.3数機がフォークランド諸島各所のアルゼンチン軍陣を偵察。&lt;br /&gt;
* [[6月11日]]：イギリス空軍、第1飛行隊のハリアー GR.3とイギリス海軍、第800、第801飛行隊のシーハリアーらがポート・スタンレーのアルゼンチン陣地を重点爆撃。&lt;br /&gt;
** イギリス陸軍、ポート・スタンレー周辺をほぼ包囲。&lt;br /&gt;
* [[6月12日]]：ポート・スタンレーのアルゼンチン軍守備隊が補給物資として受領していた艦対艦ミサイル・エグゾセMM38をトレーラーを改造した発射機にて陸上から発射。イギリス海軍、[[カウンティ級駆逐艦]]「グラモーガン」の後部甲板に命中(不発)、中破。甲板上のウェセックス・ヘリを破壊。死者13名、負傷者17名を出す。&lt;br /&gt;
* [[6月13日]]午後：アルゼンチン空軍、第5グループ所属の[[A-4]]スカイホーク攻撃機7機がケント山に展開するイギリス陸軍第3コマンド旅団の司令部陣地を空襲。駐機していたイギリス陸軍のヘリコプター数機が損傷。&lt;br /&gt;
** イギリス陸軍、イギリス空軍、第1飛行隊のハリアー GR.3と連携しレーザー誘導爆弾によるアルゼンチン軍陣地の空爆を実施。&lt;br /&gt;
* [[6月13日]]夜：アルゼンチン空軍、第2グループ所属の[[イングリッシュ・エレクトリック キャンベラ|キャンベラ爆撃機]]編隊が爆撃に来襲するもイギリス海軍、駆逐艦[[42型駆逐艦|エグゼター]]の[[シーダート (ミサイル)|シーダート]]対空ミサイルによる迎撃により、1機が撃墜され、撤収。&lt;br /&gt;
** イギリス陸軍と海兵隊、ポート・スタンレーへ北部、中央部、南部の三方からの全面攻撃を開始。ポート・スタンレー周辺各所にてアルゼンチン陸軍守備隊と激しく交戦。&lt;br /&gt;
** イギリス陸軍[[SAS (イギリス陸軍)|SAS]]のD中隊、G中隊系60名とSBS6名が高速ボート4隻でポート・スタンレー港を急襲。銃撃で燃料タンクを爆破するもアルゼンチン軍駐在部隊の銃撃に上陸を阻止され、撤収。&lt;br /&gt;
* [[6月14日]]早朝：イギリス陸軍第二、第三空挺大隊がポート・スタンレー北部のワイアレス・リッジを制圧。&lt;br /&gt;
* [[6月14日]]午前：イギリス陸軍スコットランド近衛大隊、イギリス海兵隊第45大隊、グルカライフル部隊の混成部隊がダンブルダウン山のアルゼンチン軍陣地を突破。イギリス陸軍ウェールズ近衛大隊がハリエット山のアルゼンチン軍陣地を突破し、サッパー高地を制圧。&lt;br /&gt;
* [[6月14日]]正午：イギリス陸軍がポート・スタンレー(プエルト・アルヘンティーノ)から1kmの地点まで接近。アルゼンチン軍守備隊、総司令官マリオ・メネンデス准将が降伏宣言。これによりフォークランド諸島のアルゼンチン軍守備隊すべてが降伏。&lt;br /&gt;
* [[6月15日]]：ガルチェリは戦闘終結を正式に宣言したが、「主権はあくまでもアルゼンチンにある」と述べて「イギリスが再び植民地化の動きをみせるなら戦いをやめない」と主張した。&lt;br /&gt;
* [[6月16日]]：アルゼンチンの外相と内相がガルチェリに抗議し辞表提出。ガルチェリは辞表受け取りを拒否。&lt;br /&gt;
* [[6月17日]]：ガルチェリが敗北の責任を問われ、大統領及び陸軍総司令官を辞任。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦後・影響 ==&lt;br /&gt;
=== アルゼンチン ===&lt;br /&gt;
アルゼンチンでは、ガルチェリが建国以来はじめての敗戦の責任を問われて大統領及び陸軍総司令官を辞任し、失脚した。退役陸軍中将の[[レイナルド・ビニョーネ]]が大統領に就任したが、戦争初期は軍とペロニスタも挙国一致の下に和解し、「海賊英国」、「ガルチェリ万歳」を連呼していたアルゼンチン国民も、この敗戦にかつてないほどの反軍感情を高まらせ、すぐに急進党（旧急進党人民派の流れを汲む）の[[ラウル・アルフォンシン]]に政権交代が行われて民政移管が完了した。ガルチェリは「[[銃殺刑]]に値する」と言われたが、結果的には懲役12年で済み、ビデラなどの他の軍人と共に[[1990年]]に軍と取り引きした大統領[[カルロス・メネム]]の特別恩赦によって釈放された。アルゼンチン軍の司令官で「汚い戦争」を指導して多くの市民を秘密裏に殺害したマリオ・メネンデスは「敬虔なカトリック教徒なので[[自殺]]は出来ない」と述べ、多くの少年兵が死んだのとは対照的に責任を逃れた。なお、降伏した1万人以上のアルゼンチン軍兵士は[[ウルグアイ]]経由でアルゼンチンに送還された。この戦争の間にアルゼンチンは国際的な評価を大きく落とし、この回復は文民政権の課題となったが、文民政権の下で20世紀の初めから続いていたチリや[[ブラジル]]との軍事対立も急速に収まっていった。一方で敗北した軍は政治力を弱めて大幅に削減され、開戦前には三軍で15万5000人程だったアルゼンチン軍は2000年には三軍で7万1000人程になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、イギリスが[[北大西洋条約機構|NATO]]や[[欧州共同体|EC]]の一員として他の加盟国へ協力を依頼し、これを受けて白人国家アルゼンチンの多くの市民の先祖が住む[[イタリア]]や[[西ドイツ]]、[[スペイン]]などのEC加盟国はアルゼンチンへの経済制裁を発動した。{{要出典範囲|アルゼンチン人の精神的な故郷であるヨーロッパのこの行為にアルゼンチン人は大きな衝撃を受け、深刻な[[アイデンティティ]]喪失の危機に陥った。しかし、この措置が新たなアイデンティティとしてのラテン・アメリカの一員としての自覚を芽生えさせた。|date=2013年2月}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イギリス ===&lt;br /&gt;
多くの艦艇を失い、255人の戦死者を出したものの勝利したイギリスでは、戦前不人気をかこっていたサッチャーの人気が急上昇した。それまで不人気だったサッチャーは続投し、戦勝によって勢い付いた[[新自由主義]]的な改革はイギリス経済を復活させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:Placamalvinas.jpg|250px|thumb|自国の領有権を主張するアルゼンチン、[[エントレ・リオス州]]の看板]]&lt;br /&gt;
また、それまで「二等市民」扱いされていたフォークランド島民もイギリス本土政府から丁寧に扱われるようになり、イギリスとチリからの投資で島の経済やインフラストラクチャーは発展した。紛争前には少数の部隊しか駐留していなかったが、紛争後には最小限の防空部隊を配備しなければならず、[[F-4 (戦闘機)|F-4]]M装備の第23飛行隊を派遣した穴埋めの為、[[アメリカ空軍]]で余剰になったF-4Jの中古機を購入している（後に[[トーネード ADV|トーネードF.3]]に交代）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 戦後の両国関係 ===&lt;br /&gt;
その後、両国の国交断絶状態が続いたが、[[1986年]][[6月22日]]に行われた[[1986 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ・メキシコ大会]]の準々決勝で[[サッカーアルゼンチン代表]]が[[ディエゴ・マラドーナ]]らの活躍により[[サッカーイングランド代表|イングランドチーム]]に2対1で勝利し、敗戦の屈辱が残るアルゼンチン国民を熱狂させた&amp;lt;ref&amp;gt;[[1986 FIFAワールドカップ準々決勝 アルゼンチン対イングランド]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1989年]]10月に、アルゼンチンとイギリスは開戦以来の敵対関係の終結を宣言し、翌[[1990年]][[2月5日]]、両国は外交関係を正式に回復した。しかし、現在も互いに自国の領有権を主張し続けている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 評価と戦訓 ==&lt;br /&gt;
=== 海戦 ===&lt;br /&gt;
==== アルゼンチン軍 ====&lt;br /&gt;
[[ファイル:ARA25mayo 1979 DN-SN-82-09623.jpg|thumb|right|ベインティシンコ・デ・マジョ]]&lt;br /&gt;
開戦当初、アルゼンチン海軍は空母、駆逐艦、揚陸艦、潜水艦など、主力艦艇を活用して揚陸作戦を展開し、フォークランド諸島を掌握することに成功した。しかしイギリスの海上封鎖発効後は、到着したイギリス海軍の機動艦隊に対する空母、巡洋艦、フリゲートによる波状攻撃の計画は、空母「ベインティシンコ・デ・マジョ」の不調による作戦の破綻と巡洋艦「ヘネラル・ベルグラーノ」の撃沈により頓挫した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主力艦艇が大陸棚にくぎ付けになっている間も、フォークランド諸島への海上輸送や撃墜されたパイロットの救助等のために輸送艦や哨戒艇、沿岸警備隊のパトロール艇が活動していたが、イギリス海軍のシーハリアーやヘリコプター、フリゲート艦の攻撃に晒された結果、最終的に3隻の輸送艦、2隻の哨戒艇、1隻のパトロール艇が失われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように、水上艦艇はイギリス海軍に対して大きな活躍はできなかったものの、アルゼンチン海軍の潜水艦の顕著な活動を複数挙げることができる&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.dtic.mil/cgi-bin/GetTRDoc?AD=ADA279554&amp;amp;Location=U2&amp;amp;doc=GetTRDoc.pdf Submarine Operations during the Falklands War. Naval War College]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「サンタフェ」(A.R.A. Santa Fe) は4月2日にコマンド上陸支援を行い成功裏に帰還したが、4月25日にサウスジョージア島付近を水上航行中にイギリス海軍ヘリコプターに発見されロケット弾攻撃などで損傷、座礁し、乗組員は上陸後降伏した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ドイツ製[[209型潜水艦]]である「サンルイス」(A.R.A. San Luis) はフォークランド諸島北方海域で哨戒活動を行い、何回かの魚雷による攻撃を行ったとされる。このうち5月1日には「ブリリアント」、「ヤーマス」を魚雷攻撃したが命中せず、逆に20時間にわたって追跡と攻撃を受けたが無事逃げることに成功した。5月8日には潜水艦目標に対し、また5月10日には「アロー」、「アラクリティ」に対し魚雷攻撃を行ったが失敗した。これらの失敗は、魚雷の調整失敗などによるとされる。その後も「サンルイス」は終戦まで海域にとどまったため、イギリス海軍は「サンルイス」の存在に多くの注意を払い続けねばらず、その行動を大きく制限されることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
艦艇に膨大な損害を受けたイギリス海軍と対照的に、アルゼンチン海軍の最終的な大型水上艦損失は、巡洋艦「[[ヘネラル・ベルグラノ (巡洋艦)|ヘネラル・ベルグラーノ]]」がイギリスの[[チャーチル級原子力潜水艦]]「[[コンカラー (原子力潜水艦)|コンカラー]]」に[[魚雷]]で撃沈された（これは[[原子力潜水艦]]が史上初めて実戦で戦果をあげたものとなった）だけで、他には小型の哨戒艇や輸送艦などが撃沈破されたのみであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イギリス軍 ====&lt;br /&gt;
[[ファイル:HMS Bristol storing at Ascension Island 1982.JPG|thumb|right|HMS ブリストル]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:Exocet-mil.jpg|thumb|right|エグゾセ・ミサイル]]&lt;br /&gt;
イギリス海軍はアルゼンチン軍の航空機によるエグゾセ・ミサイルと通常爆弾による度重なる攻撃で多くの艦艇を撃沈され、これらの攻撃に対する決定的な対策を打てないままに損失を重ねることとなった。さらに、アルゼンチン軍のスカイホーク、ダガー部隊による低空艦船攻撃を受けた際には、早期警戒機がないことにより防空システムが十分に機能せず、21型フリゲート「アンテロープ」と「アーデント」、揚陸艦「サー・ガラハド」などを撃沈され、多数の艦船に損害をうけた。結果として、アルゼンチン軍による果敢な攻撃に翻弄されたイギリス海軍は駆逐艦2隻、フリゲート2隻、揚陸艦1隻、運搬空母として使用されていたコンテナ船1隻の計6隻を失った。ちなみに、敗北したアルゼンチン海軍の大型艦艇の損失をみると、イギリスのチャーチル級原子力潜水艦「コンカラー」に魚雷で撃沈された「ヘネラル・ベルグラーノ」1隻だけに終わった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
他方、この戦争の勝敗に大きな影響を与えた5月21日の揚陸作戦においては、イギリス海軍は膨大な損害を出しつつも、その作戦目的を十分に果たしたと言える。その際、多数の護衛艦船に被害が生じたが、揚陸部隊にはほとんど損害を出さないまま揚陸作戦を成功させているためである。ただし、その成功もアルゼンチン軍側の戦略ミスによるものであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 損失の原因&lt;br /&gt;
イギリス海軍に生じた損失の原因は、派遣した艦隊の防空能力のミスマッチ、特に対空火器と、艦載機性能が、アルゼンチン軍の攻撃に対しマッチしなかったことである。その結果、本土より空母(「[[ハーミーズ (空母・2代)|ハーミーズ]]」と「[[インヴィンシブル (空母)|インヴィンシブル]]」)を派遣したが、アルゼンチン軍の航空機や潜水艦の攻撃による損害を考慮し、フォークランド諸島の東のかなり離れた海域にとどまらざるを得なくなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
具体的には、対空火器については、実際、揚陸艦隊の護衛や艦砲射撃にフォークランド諸島に接近することとなった駆逐艦、フリゲート艦には対空ミサイルなどの誘導兵器は装備されていた。しかし、その多くは、旧式で対応力が低いシースラグ・ミサイルや、手動で誘導を行うシーキャット・ミサイルであり、これらは命中率が低かった。高高度に対する防空火器としては非常に有効となるシーダート・ミサイルも装備されていたものの、超低空で接近するアルゼンチン軍機に対しては有効な対抗策とはならなかった。なお、当時新型であった近接防空兵器のシーウルフ・ミサイルを装備している艦は22型フリゲート「ブロードソード」、「ブリリアント」のたった2隻であり、絶対数が不足していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このような状況下でイギリス海軍各艦は、デッキの手すりなどに軽機関銃を装着できるように現地で改造を行うなどして急場の対空火器の増強を行うこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
艦載機による防空は、シーハリアーが担当したものの、開戦時はわずか20機に過ぎず絶対数が不足していた。しかもシーハリアーは戦域での[[戦闘空中哨戒|CAP]]時間も短くなる不利を抱えていた。もともと[[航空機の離着陸方法#短距離離陸垂直着陸機|STOVL]]機であり滞空時間も短く、さらにフォークランド諸島から空母が離れていたためである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
特に5月21日から25日、6月8日のアルゼンチン軍の攻撃機による通常爆弾による攻撃では、西側に島影があり、また十分な回避行動がとれない海峡内あるいは湾内にいたこともあって、損害を大きくした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお当時の報道では、イギリス艦艇の艦橋の構造物は[[アルミニウム合金]]製が主流であり、炎上し易いという弱点を露呈したとされたが事実とは異なる。[[エグゾセ]]により沈没した42型駆逐艦「シェフィールド」はアルミニウム製上構ではなかった。「シェフィールド」に命中したエグゾセは不発だったが、残っていた燃料による火災が塗料および電線被覆に延焼し、被害を拡大、消火作業を阻害したとされる。また、アルミニウム製上構だった21型フリゲートでも、アルミニウム製上構の脆弱性が大きな原因で沈没した艦船はない。21型フリゲートで沈没した「アーデント」、「アンテロープ」とも船体への爆撃浸水被害および不発弾処理失敗が沈没原因であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 航空戦 ===&lt;br /&gt;
==== アルゼンチン軍 ====&lt;br /&gt;
[[ファイル:IAI Dagger.jpg|thumb|250px|アルゼンチン空軍のIAIダガー]]&lt;br /&gt;
アルゼンチン空軍の航空戦力は質の面で不十分であった。アルゼンチン軍のダガーは、空中戦となると最新式の電子装備を持ち機動性に優れイギリス軍の空母から飛来するハリアーに対抗できなかった。なお、シュペルエタンダールに搭載したエグゾセ空対艦ミサイルは有効ではあったものの、5発しか保有していなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、アルゼンチン空軍にとって、主戦場となったフォークランド諸島とアルゼンチン本土の距離が問題となった。その距離は、低空飛行での作戦行動半径の限界に近く、大きな制約となったのである。また、アルゼンチン空軍の通常時の主な任務は、隣国のチリ（それ以前および紛争時に緊張状態にあった）などに対する本土防衛であった。そのため、アルゼンチン軍には空中給油機が2機しかなかった。上記空中給油機が稼働したとしても、ダガーやミラージュはもそもそも空中給油受油装置を持っていなかった。さらに、本戦争当時、アルゼンチン海軍は空母「ベインティシンコ・デ・マジョ」を保有していたものの、機関部の不調から搭載機の発艦ができず、さらに潜水艦の攻撃による損害を恐れて母港に帰還してしまった。しかも、フォークランド諸島の空港は長距離の滑走路が必要なミラージュなど戦闘機の利用には向いておらず、フォークランド諸島に配備できた航空機はプカラなどの軽攻撃機に限定されてしまっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらの状況から、ダガーやミラージュは、フォークランド諸島上空で積極的な空中戦闘を行うには航続距離が十分でなく、増槽を装着してもフォークランド諸島上空に留まれるのはわずか十数分程度だった。その結果、アルゼンチン側からの航空攻撃は少数機による五月雨式の攻撃となり、イギリス側が恐れたような多数機による同時攻撃は行われなかった。アルゼンチン側は、イギリス海軍艦船を目標とする攻撃においても、探知を避ける為に超低空で艦隊に接近することを繰り返したが、超低空飛行により更に燃費を悪化させてしまい、運用面からも戦闘行動半径を短くしてしまう結果となった。その上、本戦争の直前に国境付近で緊張状態にあった上述のチリに対してもイギリスとの戦争のどさくさにまぎれて攻撃してくる懸念から、ある程度の兵力を本土防衛に控置しておく必要もあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
他にも艦船攻撃に用いたエグゾセ対艦ミサイルや500ポンド爆弾の不発率が異常に高かった。これは、エグゾセを当時導入したてであったアルゼンチン海軍では、フランス側の技術者による説明が十分でない段階での使用を強いられていたためであった。実際、マニュアルがすべてフランス語だったため、パイロットと整備員らの負担は激増し、シュペルエタンダール攻撃機のサポート要員として派遣されていた[[ダッソー]]社の技術者の協力によって搭載、運用することができたという。爆弾の不発は、対地用の調整のままで使用したものが多かったため、対空砲火を潜り抜けようと超低空で投下したことにより、安全装置が外れなかったことが主な原因であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アルゼンチン本土から爆撃任務を受けたキャンベラ爆撃機や、フォークランド諸島に配備されていたプカラ攻撃機やターボメンター軽攻撃機も有効な打撃を与えられなかった。これらの航空機は、ミラージュやダガーと比べて機動性が遥かに低く、イギリス海軍艦艇のシーダードミサイルやシーハリアーの要撃、陸軍のブローパイプ対空ミサイルによって撃墜されるか、爆撃前に遁走を強いられるケースがほとんどであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
全体としてアルゼンチン軍は、航空戦力を攻撃目標に対して対応させる準備が不足したまま開戦に踏み切ったことが明らかになっており、そのことによる装備不足や運用のまずさが露呈した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらの点がありつつも各局面において、アルゼンチン空海軍は、航空機による攻撃を活かし、多数のイギリス海軍艦艇を撃沈した。特に5発のフランス製の空対艦ミサイル・&#039;&#039;&#039;[[エグゾセ]]&#039;&#039;&#039;を[[シュペルエタンダール]]攻撃機から発射し、そのうち2発を命中させることにより、イギリスの[[42型駆逐艦]]「シェフィールド」と臨時空母として使用されていた徴用コンテナ船「アトランティック・コンベイヤー」とを沈没させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらにアルゼンチン軍のスカイホーク、ダガー部隊は、対空砲火と早期発見を避けるために低空飛行で爆弾を投下し、前述のように信管調整の失敗から不発弾もきわめて多い中、[[21型フリゲート]]「アンテロープ」と「アーデント」、揚陸艦「サー・ガラハド」などを撃沈するなど、多数の艦船に損害を与えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
空軍第1グループのC-130などの輸送機部隊は、視界の悪い夜間や悪天候時に出撃し、低空飛行でイギリス側の防空網をかい潜ってフォークランド諸島のアルゼンチン部隊への輸送を60回以上も成功させ、補給物資、野砲、対艦ミサイルの搬入や負傷者、捕虜の本国への輸送を行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように、アルゼンチン空海軍は、個人個人の技量は非常に高かったにもかかわらず、部隊として統制がとれた攻撃はできていなかった。イギリス軍に多くの損害を与え、機動部隊の行動に一定の制約を与えたとは言えるものの、イギリス海軍艦船の対空砲火やソフト面で優れたシーハリアーを相手に、多くの被撃墜機も出し、攻撃も護衛艦船に集中し揚陸部隊への攻撃がほとんど行われなかった。これらの結果、最も重要なイギリス軍による逆上陸の阻止に失敗した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、アルゼンチン軍が使用したエグゾセやそれを搭載したシュペルエタンダールなどの本戦争における戦果は、戦後フランスによる自国製兵器の販売促進に大いに利用された。また、[[ミラージュ5 (航空機)|ミラージュ5]]の[[イスラエル]]製無断コピー品である[[ネシェル (航空機)|ダガー]]は、[[中東戦争]]以外で初めてアルゼンチン軍により実戦投入された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イギリス軍 ====&lt;br /&gt;
[[ファイル:FRS.1 ski-jump take-off HMS Invincible.JPEG|thumb|空母から飛び立つ[[BAe シーハリアー|シーハリアーV/STOL戦闘攻撃機]]]]&lt;br /&gt;
艦船への攻撃が主目的であるアルゼンチン軍とは異なり、もう一方の当事者であるイギリス空海軍では、航空機の本戦争における主な運用目的が、アルゼンチン軍機からの自国艦船の防御と地上目標の破壊であった。しかし、イギリスは本国からの大遠征をしなければならなかったため、電子装備では勝っていたものの数の上では圧倒的に不利な状況であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
具体的に自国艦船の防御をみると、当初ハリアーは空母「ハーミーズ」に12機と「インヴィンシブル」に8機の合計20機しか搭載していなかったので、攻撃任務に使われると防空に回す機体がなかった。このため、後に徴用したコンテナ船で8機が増派された。また、滞空時間の短いシーハリアーでは有効な迎撃態勢が整わなかった。さらに早期警戒機を展開できなかったため、超低空で艦隊に接近するアルゼンチン軍の攻撃機を見つけられなかった。この状況から、[[艦載機]]による即応態勢を整えることができず、アルゼンチン軍機による攻撃の阻止は不十分となり、艦隊の外周に配置していた[[レーダーピケット艦]]が被害を受けることが多かった。またこのことは、シーハリアーを搭載していた「ハーミーズ」と「インヴィンシブル」は攻撃を恐れて後方への展開に終始せざるを得ず、地上目標の破壊にも影響を与えた。なお[[イギリス空軍]]の[[ホーカー・シドレー ハリアー|ハリアー GR.3]]は、増援部隊としてコンテナ船や空輸により運ばれたもののレーダーを装備しておらず、対地攻撃など[[近接航空支援]]に専念し空対空戦闘は行っていない。結果的にはイギリス艦艇は膨大な被害を出すこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
航空機同士の戦闘をみた場合、両軍が同じ西側の航空機と装備、兵器を使用してはいたとはいえ、イギリス軍の方がより最新のものを使用しており、近代戦においては、速度や旋廻性能といった機体そのものの性能より、電子装備がものをいうことが明らかとなった。具体的には、アルゼンチン軍機の作戦行動半径が狭く本格的な空戦を行う余裕がなかったこと、そして空対空戦闘よりも対艦攻撃に専念していたことを考慮したとしても、ハリアーの23対0（イギリス軍発表）という一方的な撃墜スコアが如実に現していた。特に[[空対空ミサイル]]の性能は歴然としており、旧式のミサイルのため、敵機後方に占位しなければ[[ロックオン]]が出来なかったアルゼンチン軍機に対し、イギリス軍機の使用したアメリカから購入した最新式の[[サイドワインダー (ミサイル)|サイドワインダーAIM-9L]]は限定的ながら正面からのロックオンが可能であった&amp;lt;ref&amp;gt;実際に正面射撃に使用されたとは伝えられていないが、26～27発の発射で17機撃墜という高い命中率を示した。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 地上戦 ===&lt;br /&gt;
当初アルゼンチン軍はほぼ無傷でフォークランド諸島を制圧した上、イギリス海軍艦艇に膨大な損害を与えたにもかかわらず、パタゴニアなどに展開していたアルゼンチン陸軍の精鋭部隊が、当時国境紛争を繰り返していたチリとの戦争に備えて待機していたため、その後のイギリス陸軍や[[イギリス海兵隊]]の上陸に備えて陸上部隊を増強することができなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フォークランド諸島に展開したアルゼンチン陸軍は新兵を主体としていた上、数の上でも勝っていたわけではなかった。しかしアルゼンチン兵士の創意工夫によって、イギリス軍は著しい損害を被った。とりわけ、サウス・ジョージア島での攻防では、イギリス海兵隊は敵陣にたどり着くまでに多くの犠牲者を出した。これは、本来は陣地戦での攻防や対車両用に用いられる[[ブローニングM2重機関銃]]に[[照準器|スコープ]]を載せ、遠距離から[[狙撃]]したもので、本格的な大口径対人狙撃の始まりとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これに対しイギリス軍兵士の手持ちの[[L1A1]]ライフルなど、自動小銃や軽機関銃はまったく射程が足りず、対抗するために[[ミラン (ミサイル)|ミラン対戦車ミサイル]]をもって更なる遠距離から機関銃陣地への攻撃を行った。この戦訓は戦後秘匿されたが、一時は存在意義を失っていた[[対戦車ライフル]]が『[[対物ライフル]]』として見直される等、各国では、陣地攻撃用の携帯兵器の開発を促すきっかけとなった&amp;lt;ref&amp;gt;床井雅美 『アンダーグラウンド・ウェポン―非公然兵器のすべて』、日本出版社、1993年、ISBN 4-890-48320-9&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===統合作戦===&lt;br /&gt;
[[冷戦]]終結までのイギリス軍において、複数の軍種による協同のための恒常的な組織は設置されておらず、必要が生じるつどその場限りで3軍いずれかの司令官が協同作戦の司令官を務める体制であった&amp;lt;ref&amp;gt;中村[2009: 81]&amp;lt;/ref&amp;gt;。フォークランド紛争もその例外ではなく、さらに当時のイギリスにはフォークランド諸島での不測事態への備えが存在していなかった。3軍協同作戦の司令官に任命された海軍艦隊司令官は、急遽、地中海で実施される演習への派遣部隊を指揮していた海軍少将を急遽、戦域における全兵力の前線指揮官に充てた。しかし、海軍少将は過大な兵力を指揮する負荷を担わされることになった&amp;lt;ref&amp;gt;中村[2009: 81-82]&amp;lt;/ref&amp;gt;。戦場から1万[[キロメートル]]以上はなれたイギリス本国は、前線に対し広範な政治統制と作戦指導を企てた。この過程で前線指揮官は本国との調整に多くの労力を割くことを強いられ、かたや本国の政府や国防省も議会およびメディアに状況を知らせるために詳細な状況報告を求めたことで、前線と本国の間に大容量かつ長時間の通信が必要とされ、意思決定に遅延を招いた&amp;lt;ref&amp;gt;中村[2009: 82-83]&amp;lt;/ref&amp;gt;。多くの協同作戦が紛争中に実施されたが、その際、協同作戦能力の不足に起因する誤射事件さえ発生した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうしたフォークランド紛争の教訓が生かされるようになったのは、ようやく冷戦終結後に至ってのことであった。冷戦終結後、平和への配当への要求と財政難を踏まえて、イギリス軍に対しても経費を削減する一方でいっそうの効率性が求められるようになった。その過程で示されるようになった方向性は、政策と運用の分離による作戦の効率性の追求であり、[[国防省 (イギリス)|国防省]]本部の役割は前者に限定されるようになった。この方向性のもと、政策および軍事戦略と軍事作戦との間の明確な責任範囲と関係形成が求められた。また、3軍の恒常的な統合作戦への備えとして、計画・準備段階から、危機に際しての作戦遂行、戦力回復、事後の戦訓の蓄積までを一貫して担わせる組織の設立が支持された&amp;lt;ref&amp;gt;中村[2009: 83-84]&amp;lt;/ref&amp;gt;。こうした協同から統合への方向性は、情報通信技術の革新、統合化による効率性の追求、3軍の固定的な区分に由来する国防能力発揮への障害が認識されたことといった、社会の変革によって促進され&amp;lt;ref&amp;gt;中村[2009: 83]&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[常設統合司令部]]の設置による恒久的な統合作戦のための体制がとられるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 現在 ==&lt;br /&gt;
2001年にアルゼンチンは[[デフォルト]]（[[債務不履行]]）に陥った&amp;lt;ref name=&amp;quot;tyu&amp;quot;/&amp;gt;。アルゼンチン政府は保護主義政策をとり輸入制限を行うが、米国・[[EU]]・日本は[[WTO]]に提訴し、摩擦が起こった&amp;lt;ref name=&amp;quot;tyu&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 尖閣諸島問題との関係 ===&lt;br /&gt;
近年、[[中華人民共和国]]との間で発生している[[尖閣諸島問題]]において、日本・中国ともにこのフォークランド紛争を先行事例として研究している&amp;lt;ref name=&amp;quot;tyu&amp;quot;&amp;gt;[http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/130203/waf13020318000023-n1.htm][http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/130203/waf13020318000023-n2.htm][http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/130203/waf13020318000023-n3.htm][http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/130203/waf13020318000023-n4.htm]「「フォークランド」に学ぶ中国 尖閣略奪へアルゼンチンに急接近の“奇手”」産経新聞2013年2月3日。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中華人民共和国とアルゼンチンの軍事的接近 ===&lt;br /&gt;
中国は2011年12月にアルゼンチンを訪問し、「中国のアルゼンチン支持は不変だ」と表明した&amp;lt;ref name=&amp;quot;tyu&amp;quot;/&amp;gt;。[[2012年]]6月にも中国はアルゼンチンを訪問し、マルビナス（フォークランド）諸島の領有権についてアルゼンチン側の主張を支持すると主張し、アルゼンチンの[[クリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネル|フェルナンデス]]大統領は感謝の意を表明した&amp;lt;ref name=&amp;quot;tyu&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2012年7月、アルゼンチンのブリチェリ国防相が中国を訪問、中国軍が開発中の第五世代[[ステルス戦闘機]]「[[J-20 (戦闘機)|殲-20]]」購入にも言及した&amp;lt;ref name=&amp;quot;tyu&amp;quot;/&amp;gt;。また、アルゼンチンは、中国と[[ベトナム]]や[[フィリピン]]の間で問題になっている[[南シナ海]]における領有権についても中国を支持すると表明した&amp;lt;ref name=&amp;quot;tyu&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このような中国とアルゼンチンの協力関係を背景にしたイギリス側の報告書では、英国の軍事予算削減によってフォークランド防衛は弱体化し、中国の支援を受けたアルゼンチン軍に奪われた場合、奪還は極めて難しいと発表している&amp;lt;ref name=&amp;quot;tyu&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist|2}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
{{参照方法|date=2013年2月|section=1}}&lt;br /&gt;
* M・サッチャー 『サッチャー回顧録 - ダウニング街の日々』 石塚雅彦訳、[[日本経済新聞社]]、1993年、ISBN 4-532-16116-9&lt;br /&gt;
* [[サンデー・タイムズ]]特報部編 『フォークランド戦争-”鉄の女”の誤算-』 宮崎正雄訳、[[原書房]]、1983年、ISBN 4-562-01374-5&lt;br /&gt;
* A・プライス, J・エセル 『空戦 フォークランド-ハリアー英国を救う-』 [[江畑謙介]]訳、原書房、1984年、ISBN 4-562-01462-8&lt;br /&gt;
*{{Cite journal ja-jp|author=中村 暁|year=2009|title=英国の常設統合司令部の設立について|url=http://www.drc-jpn.org/annual_report/AR13J2009.pdf|format=PDF|journal=DRC 年報|serial=2009|pages=81-86|publisher=[http://www.drc-jpn.org/ ディフェンス リサーチ センター]}}&lt;br /&gt;
* 堀元美 『海戦 フォークランド-現代の海洋戦-』 原書房、1983年、ISBN 4-562-01426-1&lt;br /&gt;
* 三野正洋・深川孝行・仁川正貴 『湾岸戦争 兵器ハンドブック』 [[朝日ソノラマ]]、1996年、ISBN 4-257-17313-0 - 後半をフォークランド紛争にあてている。&lt;br /&gt;
* [[山崎雅弘]] 『現代紛争史』 [[学習研究社]]&amp;lt;学研M文庫&amp;gt;、2001年、ISBN 4-05-901105-3&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[戦争一覧]]&lt;br /&gt;
* [[フォークランド諸島]]&lt;br /&gt;
* [[アンドルー王子]]（ヨーク公）- この紛争に従軍した。&lt;br /&gt;
* [[ノブレス・オブリージュ]] - イギリス貴族階級の兵士も多く参戦し、命を落とした兵士も多い。&lt;br /&gt;
* [[グルカ兵]]&lt;br /&gt;
* [[ステイト・オブ・ウォー]] - フォークランド紛争を題材にした[[映画]]。&lt;br /&gt;
* [[フォークランド沖海戦]] - [[第一次世界大戦]]でイギリス海軍とドイツ海軍がフォークランド諸島沖で行った海戦。&lt;br /&gt;
* [[尖閣諸島問題]]&lt;br /&gt;
* [[北方領土問題]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
{{Commons|Falklands War}}&lt;br /&gt;
* [http://www.falklands.gov.fk/ Falkland Islands Government]&lt;br /&gt;
* [http://www10.plala.or.jp/shosuzki/chronology/laplata/argent1.htm アルゼンチン年表1]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ふおくらんとふんそう}}&lt;br /&gt;
[[Category:フォークランド紛争|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:20世紀の戦争]]&lt;br /&gt;
[[Category:ラテンアメリカの戦争]]&lt;br /&gt;
[[Category:アルゼンチンの歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:第二次世界大戦後のイギリス]]&lt;br /&gt;
[[Category:イギリスの戦争]]&lt;br /&gt;
[[Category:領有権問題]]&lt;br /&gt;
[[Category:フォークランド諸島]]&lt;br /&gt;
[[Category:1982年]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Link FA|sl}}&lt;br /&gt;
{{Link GA|de}}&lt;br /&gt;
{{Link GA|da}}&lt;br /&gt;
{{Link GA|is}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>125.197.11.28</name></author>
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		<title>ペイン・スチュワート</title>
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		<updated>2014-08-04T14:45:55Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;125.197.11.28: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{ゴルファー&lt;br /&gt;
|名前=ペイン・スチュワート&lt;br /&gt;
|ラテン文字=Payne Stewart&lt;br /&gt;
|画像=&lt;br /&gt;
|国籍={{USA}}&lt;br /&gt;
|生年月日={{生年月日と年齢|1957|1|30|死去}}&lt;br /&gt;
|没年月日={{死亡年月日と没年齢|1957|1|30|1999|10|25}}&lt;br /&gt;
|出身地=アメリカ・ミズーリ州&amp;lt;br /&amp;gt;スプリングフィールド&lt;br /&gt;
|利き手=右&lt;br /&gt;
|経歴=&lt;br /&gt;
|優勝歴=米国11・国際7&amp;lt;br /&amp;gt;メジャー：3勝&lt;br /&gt;
|初優勝=&lt;br /&gt;
|賞金王=&lt;br /&gt;
|ベストスコア=&lt;br /&gt;
|世界ランキング最高位=5位（1991年）&lt;br /&gt;
|賞金ランキング最高位=&lt;br /&gt;
|作成日時=&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;ペイン・スチュワート&#039;&#039;&#039;（&#039;&#039;&#039;Payne Stewart&#039;&#039;&#039;, [[1957年]][[1月30日]] - [[1999年]][[10月25日]]）は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ミズーリ州]][[スプリングフィールド (ミズーリ州)|スプリングフィールド]]出身の[[プロゴルファー]]である。[[グランドスラム (ゴルフ)|メジャー大会]]に3勝を挙げた実力者だったが、[[1999年]]の[[全米オープン (ゴルフ)|全米オープン]]優勝からわずか4ヶ月後に、飛行機事故のため42歳で急逝した。[[PGAツアー]]で通算11勝、国際試合で合計7勝を挙げる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
スチュワートはいつもタモ・シャンターの帽子とニッカーズの半ズボンをまとい、誰からも見分けがつく風貌とスタイルの持ち主だった。母国アメリカに対する愛国心が強かったことでも知られ、ゴルフウェアに[[アメリカ合衆国の国旗|米国国旗]]をあしらうことも多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4歳から[[ゴルフ]]を始め、「ミズーリ州アマチュア選手権」で優勝経験のある父親から手ほどきを受ける。[[1979年]]にプロ入りしたが、この時はアメリカ[[PGAツアー]]の「クオリファイイング・スクール」（シード権獲得への出場資格試験のこと、通称 Q-School）を通過できなかった。そのため2年間「アジアン・ツアー」を回り、そこで2勝を挙げる。その期間中にトレーシー夫人と結婚。[[1982年]]からPGAツアーに参戦を開始し、同年の「クワッド・シティ・クラシック」でツアー初優勝。7年後の[[1989年]]に、[[全米プロゴルフ選手権]]で[[グランドスラム (ゴルフ)|メジャー大会]]初優勝を達成。[[1991年]]に[[全米オープン (ゴルフ)|全米オープン]]でも初優勝を果たし、メジャー大会2冠王となった。この時は[[スコット・シンプソン]]（[[アメリカ合衆国|アメリカ]]）との[[プレーオフ]]を制している。その後数年間の低迷期が訪れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1998年]]の[[全米オープン (ゴルフ)|全米オープン]]で、スチュワートは優勝まであと1歩に迫りながらも、最後の土壇場で[[リー・ジャンセン]]（[[アメリカ合衆国|アメリカ]]）に逆転負けを喫してしまう。この時の敗北を、当時の新聞は“painful”（苦痛、つらいの意）とスチュワートの名前「ペイン」を引っ掛けて“Payne-ful finish”と報道した。&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|date=2009-10-08|url=http://sportsillustrated.cnn.com/golf/1998/usopen/|title=&#039;98 U.S. Open: Payne-ful finish|publisher=Sports Illustrated|accessdate=2009-10-08}}&amp;lt;/ref&amp;gt; その1年後、「[[パインハースト・リゾート]]」（コースNo.2、パー設定70）で開かれた[[1999年]]の[[全米オープン (ゴルフ)|全米オープン]]にて、スチュワートは最終日の18番ホールで難しいパーパットを沈め、同じ最終組で回った[[フィル・ミケルソン]]を1打差で振り切り、1 アンダーパー（-1, 計279ストローク）で8年ぶり2度目の優勝を飾った。ミケルソンと1打差の3位タイには[[タイガー・ウッズ]]と[[ビジェイ・シン]]が入る、全米オープン史上稀に見る激戦を制しての優勝だった。9月には[[1993年]]以来3回ぶりの[[ライダーカップ]]米国代表で出場し、米国チームの盛り上げ役をつとめる。賞金ランキング5位の位置につけ、当年度のPGAツアー賞金ランキング上位30名のみが出場資格を得られる最終戦「[[ザ・ツアーチャンピオンシップ|PGAツアー選手権]]」の会場に向かう途中で、スチュワートは飛行機事故に遭う。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1999年]][[10月25日]]、スチュワートは[[フロリダ州]][[オーランド]]から2時間の予定で[[ザ・ツアーチャンピオンシップ|PGAツアー選手権]]の会場がある[[テキサス州]][[ダラス]]に、チャーターしたプライベートジェット機「[[リアジェット35]]型」で向かった。しかし彼を乗せた飛行機は飛行中、[[管制官]]の無線に応答しなくなってしまった。緊急連絡を受けて発進したアメリカ空軍機は、彼の乗る飛行機のコクピットの窓が氷で覆われていると報告した。[[与圧]]系統に不具合が発生し急減圧を起こし、運航乗務員が低酸素症に陥り意識を喪失または死亡したと考えられている。空軍機は彼の飛行機を追跡した。監視と、万が一都心部に接近した場合は撃墜することも視野に入れているためである。飛行機は自動操縦のまま北西へ飛行し、乗務員はついに目を覚ますことなく、[[サウスダコタ州]][[アバディーン (サウスダコタ州)|アバディーン]]にて燃料切れのため上空45,000[[フィート]]（約13,700[[メートル]]）から墜落した。この事故でスチュワートを含む4人の乗客と、2人のパイロットの合計6名全員が落命した&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite web|date=2005-8-21|url=http://www.airsafe.com/stewart.htm|title=Payne Stewart Plane Crash Information|publisher=AirSafe.com|accessdate=2009-10-8}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
スチュワート事故死の報道を聞いて、PGAツアー選手権の会場も悲しみに包まれた。競技の第2日目が中断され、出場選手たちのほとんどがスチュワートの追悼式に列席した。第3日目と第4日目を27ホールずつ消化する競技日程に変更され、世界ランキング1位の[[タイガー・ウッズ]]が大会初優勝を果たした。[[2000年]]の[[全米オープン (ゴルフ)|全米オープン]]の会場となった「[[ペブルビーチ・ゴルフリンクス]]」でも、大会開幕に先立ち、前年優勝者のスチュワートを偲ぶ式典が行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
スチュワートは悲運の事故死から2年後、[[2001年]]に[[世界ゴルフ殿堂]]入りを果たしている。また2014年には[[全米ゴルフ協会]]が選定する[[ボブ・ジョーンズ賞]]を受賞している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ツアー優勝 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===PGAツアー (11)===&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;font-size:95%;&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;Legend&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|- style=&amp;quot;background:#e5d1cb;&amp;quot;&lt;br /&gt;
|Major championships (3)&lt;br /&gt;
|- bgcolor=&lt;br /&gt;
|Regular PGA Tour (8)&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;font-size:95%;&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!No.&lt;br /&gt;
!Date&lt;br /&gt;
!大会&lt;br /&gt;
!優勝スコア&lt;br /&gt;
!2位との差&lt;br /&gt;
!2位（タイ）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=center|1&lt;br /&gt;
|1982年7月&lt;br /&gt;
|Miller High Life QCO&lt;br /&gt;
|−12 (68-66-65-69=268)&lt;br /&gt;
|2打差&lt;br /&gt;
|{{flagicon|USA}} [[ブラッド・ブライアント]], {{flagicon|USA}} [[パット・マッゴーワン]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=center|2&lt;br /&gt;
|1983年10月&lt;br /&gt;
|ウォルト・ディズニー・ワールド・ゴルフクラシック&lt;br /&gt;
|−19 (69-64-69-67=269)&lt;br /&gt;
|2打差&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ENG}} [[ニック・ファルド]], {{flagicon|USA}} [[マーク・マッカンバー]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=center|3&lt;br /&gt;
|1987年3月&lt;br /&gt;
|[[アーノルド・パーマー・インビテーショナル|ハインツ・ベイヒルクラシック]]&lt;br /&gt;
|−20 (69-67-63-65=264)&lt;br /&gt;
|3打差&lt;br /&gt;
|{{flagicon|ZAF|1928}} [[デビッド・フロスト]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=center|4&lt;br /&gt;
|1989年4月&lt;br /&gt;
|[[RBCヘリテージ|MCIヘリテージ・ゴルフクラシック]]&lt;br /&gt;
|−16 (65-67-67-69=268)&lt;br /&gt;
|5 strokes&lt;br /&gt;
|{{flagicon|USA}} [[ケニー・ペリー]]&lt;br /&gt;
|- style=&amp;quot;background:#e5d1cb;&amp;quot;&lt;br /&gt;
|align=center|5&lt;br /&gt;
|1989年8月&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;[[全米プロゴルフ選手権]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|−12 (74-66-69-67=276)&lt;br /&gt;
|1打差&lt;br /&gt;
|{{flagicon|USA}} [[アンディ・ビーン (ゴルファー)|アンディ・ビーン]], {{flagicon|USA}} [[マイク・リード (ゴルファー)|マイク・リード]],&amp;lt;br&amp;gt;{{flagicon|USA}} [[カーティス・ストレンジ]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=center|6&lt;br /&gt;
|1990年4月&lt;br /&gt;
|MCIヘリテージ・ゴルフクラシック&lt;br /&gt;
|−8 (70-69-66-71=276)&lt;br /&gt;
|Playoff&lt;br /&gt;
|{{flagicon|USA}} [[スティーブ・ジョーンズ (ゴルファー)|スティーブ・ジョーンズ]], {{flagicon|USA}} [[ラリー・マイズ]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=center|7&lt;br /&gt;
|1990年5月&lt;br /&gt;
|[[バイロン・ネルソン選手権|GTEバイロン・ネルソン・ゴルフクラシック]]&lt;br /&gt;
|−8 (67-68-67=202)^&lt;br /&gt;
|2打差&lt;br /&gt;
|{{flagicon|USA}} [[ラニー・ワドキンス]]&lt;br /&gt;
|- style=&amp;quot;background:#e5d1cb;&amp;quot;&lt;br /&gt;
|align=center|8&lt;br /&gt;
|1991年6月17日&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;[[全米オープン (ゴルフ)|全米オープン]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|−6 (67-70-73-72=282)&lt;br /&gt;
|Playoff&lt;br /&gt;
|{{flagicon|USA}} [[スコット・シンプソン]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=center|9&lt;br /&gt;
|1995年4月&lt;br /&gt;
|[[ヒューストン・オープン]]&lt;br /&gt;
|−12 (73-65-70-68=276)&lt;br /&gt;
|Playoff&lt;br /&gt;
|{{flagicon|USA}} [[スコット・ホーク]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|align=center|10&lt;br /&gt;
|1999年2月&lt;br /&gt;
|[[AT&amp;amp;Tペブルビーチナショナルプロアマ]]&lt;br /&gt;
|−10 (69-64-73=206)^&lt;br /&gt;
|1打差&lt;br /&gt;
|{{flagicon|USA}} [[フランク・リックライター2世]]&lt;br /&gt;
|- style=&amp;quot;background:#e5d1cb;&amp;quot;&lt;br /&gt;
|align=center|11&lt;br /&gt;
|1999年6月20日&lt;br /&gt;
|&#039;&#039;&#039;[[全米オープン (ゴルフ)|全米オープン]]&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
|−1 (68-69-72-70=279)&lt;br /&gt;
|1打差&lt;br /&gt;
|{{flagicon|USA}} [[フィル・ミケルソン]]&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
^ 天候の影響で54ホールに短縮&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===ヨーロピアンツアー (1)===&lt;br /&gt;
*1991 [[KLMオープン|ハイネケン・ダッチ・オープン]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===日本ツアー (1)===&lt;br /&gt;
*1985 [[ジーン・サラゼンジュンクラシック]] (tie with [[河野和重]] and [[倉本昌弘]])&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===その他 (11)===&lt;br /&gt;
&#039;&#039;this list is probably incomplete&#039;&#039;&lt;br /&gt;
*1981 インディアン・オープン、インドネシアン・オープン&lt;br /&gt;
*1982 [[サンダーソンファーム選手権|Magnolia State Classic]]&lt;br /&gt;
*1982 Coolangatta-Tweed Heads Classic (オーストラリア)&lt;br /&gt;
*1987 [[フレッド・マイヤー・チャレンジ]] (with [[青木功]])&lt;br /&gt;
*1991 スキンズ・ゲーム&lt;br /&gt;
*1992 スキンズ・ゲーム、[[ハッサン2世ゴルフ・トロフィー|ハッサン2世トロフィー]]&lt;br /&gt;
*1993 スキンズ・ゲーム、ハッサン2世トロフィー&lt;br /&gt;
*1996 [[ウェンディーズ3ツアーチャレンジ]] (PGAチームとして)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*{{PGATour player|02146}}&lt;br /&gt;
*{{EuroTour player|740}}&lt;br /&gt;
{{JGTO|10110}}&lt;br /&gt;
*{{Find a Grave|19147}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Navboxes&lt;br /&gt;
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