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	<title>Wikippe - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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	<subtitle>利用者の投稿記録</subtitle>
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		<title>伏見城</title>
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		<updated>2014-07-16T09:05:09Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;125.14.2.191: 辞典に個人的見解は不要&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{日本の城郭概要表&lt;br /&gt;
|img = ファイル:FushimiCastle.JPG&lt;br /&gt;
|img_capt = 模擬大天守、小天守&lt;br /&gt;
|img_width = 300px&lt;br /&gt;
|tower_struct = 不明（指月山・1592年築）&amp;lt;br /&amp;gt;（木幡山・1596年築/1601年再）&amp;lt;br /&amp;gt;複合式望楼型5重6階（[[鉄筋コンクリート造|RC造]]模擬・1964年築）&lt;br /&gt;
|name = 伏見城&lt;br /&gt;
|pref = 京都府&lt;br /&gt;
|ar_called = 桃山城、指月城、木幡山城&lt;br /&gt;
|struct = 梯郭式[[平山城]]&lt;br /&gt;
|builders = [[豊臣秀吉]]&lt;br /&gt;
|build_y = [[1592年]]（文禄元年）&lt;br /&gt;
|revamp = [[徳川家康]]&lt;br /&gt;
|rulers = [[豊臣氏]]、[[徳川氏]]&lt;br /&gt;
|reject_y = [[1623年]]（元和9年）&lt;br /&gt;
|remains = 移築[[門]]、[[石垣]]、[[堀]]&lt;br /&gt;
|cultural asset = [[伏見桃山陵]]が宮内庁治定&lt;br /&gt;
|rebuilding things = 模擬天守&lt;br /&gt;
|location = {{ウィキ座標2段度分秒|34|56|13.32|N|135|46|52.06|E|scale:10000}}&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;伏見城&#039;&#039;&#039;（ふしみじょう）は、現在の[[京都市]][[伏見区]]桃山町周辺にあった[[城]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:Toyotomi hideyoshi2.jpg|thumb|left|豐臣秀吉画像]]&lt;br /&gt;
伏見は[[東山 (京都府)|東山]]から連なる丘陵の最南端に位置し、南には[[巨椋池]]が広がり水運により[[大坂]]と[[京都]]とを結ぶ要衝の地であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
伏見城は3度に渡って築城され、最初の城は朝鮮出兵（[[文禄の役]]）開始後の[[1592年]]（文禄元年）8月に[[豊臣秀吉]]が[[隠居]]後の住まいとするため伏見指月（現在の京都市伏見区桃山町泰長老あたり）に建設を始めた。このとき築かれたものを&#039;&#039;&#039;指月伏見城&#039;&#039;&#039;、後に近隣の木幡山に再築されたものを&#039;&#039;&#039;木幡山伏見城&#039;&#039;&#039;と呼んで区別され、さらに木幡山伏見城は豊臣期のものと、[[伏見城の戦い]]で焼失した跡に徳川家康によって再建された徳川期とに分けられる。豊臣期の伏見城は、豪華な様式が伝わる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
指月に築かれた伏見城は築城開始から2年後の[[1594年]]（文禄3年）に秀吉が入城し、更にその2年後の[[1596年]]（文禄5年）に完成をみるが、その直後に[[慶長伏見地震]]によって倒壊した。このため、指月から北東約1kmの木幡山に新たな城が築き直されることになり、翌[[1597年]]（慶長2年）に完成した。しかし、秀吉はその1年後の[[1598年]]（慶長3年）に城内で没した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
秀吉の死後、その遺言によって[[豊臣秀頼]]は伏見城から[[大坂城]]に移り、代わって[[五大老]]筆頭の[[徳川家康]]がこの城に入り政務をとった。[[関ヶ原の戦い]]の際には家康の家臣[[鳥居元忠]]らが伏見城を守っていたが、[[石田三成]]派の西軍に攻められて落城し建物の大半が焼失した。なお、立てこもっていた徳川家の家臣らが自刃した建物の床板は、供養も兼ねて京都市の[[養源院]]、[[正伝寺]]などで天井板として再利用されたとの言い伝えがあり、血天井として現在も生々しい痕を見ることができる。ただし、徳川家家臣らの自刃した建物が焼失を免れた記録や移築を裏付ける資料はなく、信憑性は定かではない（正伝寺の天井板はかつて科学的調査がされ、その際「人血であることは確認できなかった」が「血液型は数種検出された」とする（正伝寺掲出新聞記事）)。&lt;br /&gt;
焼失した伏見城は[[1602年]]（慶長7年）ごろ家康によって再建され、[[1619年]]（元和5年）に廃城とされた。このとき建物や部材は[[二条城]]、[[淀城]]、[[福山城 (備後国)|福山城]]などに移築された。伏見城の跡には元禄時代ごろまでに桃の木が植えられて桃山と呼ばれるようになり、現代に至り伏見城は&#039;&#039;&#039;桃山城&#039;&#039;&#039;あるいは&#039;&#039;&#039;伏見桃山城&#039;&#039;&#039;とも呼ばれるようになった。{{-}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 沿革 ==&lt;br /&gt;
=== 豊臣秀吉隠居屋敷 ===&lt;br /&gt;
伏見城の原形ともいえる施設は豊臣秀吉が[[1591年]]（天正19年）に[[関白]]の位と京都における政庁[[聚楽第]]を[[豊臣秀次]]に譲った際に、自らの隠居所として伏見の地に築いた屋敷である。この屋敷は文禄元年（1592年）8月11日に秀吉が[[平安時代]]より観月の名所と知られる指月周辺を散策して同月17日に場所を決定し&amp;lt;ref&amp;gt;鹿苑日録の文禄元年8月17日によると、「太閤相公御隠居所於伏見決定云々。」とある。&amp;lt;/ref&amp;gt;、20日には着工が決められた&amp;lt;ref&amp;gt;兼見卿記の文禄元年八月二十日条によると、「今日、太閤大坂より伏見に至り御上洛云々、伏見御屋敷普請縄打ち仰付らる」とある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。次いで8月24日に区画割りが開始され&amp;lt;ref&amp;gt;『多聞院日記』文禄元年八月二十四日条によると、「京都伏見ニ太閤隠居所立之 体篇之地取在之云々」とある。&amp;lt;/ref&amp;gt;、9月3日には建設が始まる&amp;lt;ref&amp;gt;『多聞院日記』文禄元年九月三日条によると、「於伏見太閤隠居城立トテ事々敷普請此頃在之云々」とある。&amp;lt;/ref&amp;gt;など、工事は急ピッチで進められた。また、同年12月に秀吉が[[文禄の役]]で[[名護屋城]]在陣中に利休好みの趣向で造らせるよう指示を出している&amp;lt;ref&amp;gt;文禄元年十二月十一日条に[[前田玄以]]に宛てた書状によると、「ふしみのふしんの事りきう(利休）にこのませ候てねんごろに申つけたく候」とある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。この際、聚楽城下から多くの町民が移住したと考えられ、現在も「聚楽町」「朱雀町」「神泉苑町」などの地名が伏見地区に遺る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『城と秀吉』によると「伏見城の築城は、はじめから秀吉が豪壮華麗な城として築こうとしていたと考えるのは早計である。当初の計画では、あくまでも隠居として、屋敷構にするつもりだったと思われている」とあるように、当初は城というより邸宅としての性格が強かったと考えられている。隠居屋敷は[[1593年]]（文禄2年）9月には伊達政宗との対面や徳川家康・前田利家との茶会に用いられるなど、概ね完成したと思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 指月伏見城時代 ===&lt;br /&gt;
[[1593年]]（文禄2年）に入り[[明]]との講和交渉が動きはじめ、明の使節を迎え[[日本]]の国威を見せつける目的と、同年8月3日に拾丸（豊臣秀頼）が産まれ、拾丸に大坂城を与えると想定したことで、隠居屋敷は大規模な改修が行われることになった。文禄3年（[[1594年]]）10月頃より宇治川の流路を巨椋池と分離して伏見に導き城の外濠とするとともに、城下に大坂に通ずる港を造り、巨椋池には小倉堤を築きその上に[[街道]]を通して新たな[[大和街道]]とするなど大規模な[[土木工事]]が行われた。また宇治橋を移して指月と向島の間に架け豊後橋としたとの伝えもあり、都から大和・伊勢及び西国への人の流れを全て城下に呼びこもうとした意図が伺える。『戦国の堅城』によると「交通の要衝を管制する政治・軍事施設として築城された。本拠である大坂と朝廷に影響力を行使する聚楽第（甥で関白の秀次が所在）の間に位置する城として、二元統制を行う秀吉に大変好都合な場所である」としており、隠居屋敷は大坂城に付随する隠居用の屋敷から秀吉の本城へと意図を変えたと考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
築城は[[1594年]]（文禄3年）から本格的に始まり、[[普請奉行]]に[[佐久間政家]]が任命され、[[石材]]は[[讃岐国]][[小豆島]]から、[[木材]]は[[土佐国]]、[[出羽国]]からも調達され、同年4月には[[淀古城]]から[[天守]]、[[櫓]]が移建された。同年10月には殿舎が完成し、翌[[1595年]]（文禄4年）に[[豊臣秀次#秀次事件|秀次事件]]が起きると、同年7月には破却された聚楽第からも建物が移築され、宇治川の対岸にある向島にも伏見城の[[支城]]、向島城が築城された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、[[1594年]]（文禄3年）末より[[城下町]]の整備も行われた。&lt;br /&gt;
{{Cquote3|&lt;br /&gt;
今日惣之屋敷割、浅弾、民法、増右、長大、山橘、我等躰に仰付けられ候|4=駒井日記 文禄二年閏九月二十六日条&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
とあり、[[浅野長政]]、前田玄以、[[増田長盛]]、[[山中長俊]]の[[家臣]]団屋敷、[[大名屋敷]]があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌文禄5年（[[1596年]]）7月12月深夜から13日にかけて地震が起こった。このころ[[近畿地方]]は大小の[[地震]]が頻発しており、豊臣秀吉も「なまつ大事」とし伏見城の地震対策に力を入れていたが、のちに「[[慶長伏見地震]]」と呼ばれることになるこの地震はそれを上回る大地震となり、天守の上二層が倒壊する大きなダメージを受けた&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite news|url=http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/140621/waf14062118000001-n1.htm|title=秀吉を震え上がらせた「1596年慶長伏見地震」の破壊力|work=産経ニュースWEST|newspaper=産経新聞|date=2014-06-21|accessdate=2014-06-21}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。『慶長記』によると明使節は7月18日、つまり慶長伏見地震から6日後に[[馬揃え]]を行う予定だったが中止となった。この時豊臣秀吉は伏見城におり、『[[当代記]]』によると女﨟73名、中居500名が死亡したが豊臣秀吉は無事で、建物としては[[台所]]施設が健在だったらしくそこで一晩をすごした。夜が明けて指月伏見城から北東の1kmにある高台、木幡山に仮の[[小屋]]を造り、豊臣秀吉もそこで避難生活を送っている。この地が木幡山伏見城となる。なおこの災害を契機としてこの年10月27日には「[[慶長]]」に改元された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 木幡山伏見城時代 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Fushimi momoyaja jyou 2.jpg|thumb|300px|山城国伏見城諸国古城之図/浅野文庫所蔵]]&lt;br /&gt;
伏見城は大きな地震に見舞われたが[[火災]]は起きなかったようで、櫓や殿舎の木材などが再利用可能で、『当代記』によれば、&lt;br /&gt;
{{Cquote3|&lt;br /&gt;
十四日、伏見山山頂に御縄張仰せ付けられ、奉行衆罷り超す|4=当代記&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
とあり地震が起きた2日後、同年7月15日には木幡山伏見城の作事が着手されている。本丸が完成したのは同年10月10日であった。『城と秀吉』によると、「こうしたスピードは、建設資材のかなりの部分が再利用されたからこそ可能だったものと思われる」とし[[リサイクル]]による築城の速さを指摘している。ただ作事に先立ち大規模な普請（土木工事）が必要だから、このスピードの裏にはそれ以前に木幡山移転計画があり、普請がすでに始まっていて作事も着手されていたとの推測も可能で、実際、文禄3年1月の日付を持つ木幡山城の縄張り図も残る。慶長2年（1597年）5月には天守閣と殿舎が、更に同年10月には茶亭が完成した。築城が終わった伏見城は、本丸の西北に天守閣があり、西方に二の丸、北東部に松の丸、南東部に名護屋丸、曲輪下には三の丸、山里丸等の曲輪を配し、出丸部分を加えると12の曲輪が存在した。『城と秀吉』では「名護屋城の縄張りに類似しており、これが秀吉好みの曲輪配置だったのではなかろうか」としており、伏見城と名護屋城の類似性について指摘している。この時期伏見城の築城と並行して、名護屋城の築城、[[方広寺]]の大仏殿建設、大坂城の三の丸と[[惣構え]]、そして聚楽第の破却等が行われていた。この事に対して『秀吉の城』によると「土木工事に費やした労力と財力は想像をはるかに超える莫大なものであったろう」とし、この時に豊臣秀吉が費やした普請について評価している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
慶長2年（1597年）5月に天守閣が建設された時に豊臣秀吉が移ってくる。『義演准后日記』によると、&lt;br /&gt;
{{Cquote3|&lt;br /&gt;
五日大雨、伏見御城殿守ノ丸へ昨日御移徒|4=義演准后日記&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
と登城の様子が伺える。豊臣秀吉は大坂城と伏見城を行き来していたが、晩年は伏見城で過ごすことが多かった。豊臣秀頼と五大老に後事を託し、翌慶長3年（1598年）8月18日伏見城で没した。在城期間はわずか4年であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 徳川家康時代 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Tokugawa Ieyasu2.JPG|thumb|left|徳川家康像/大阪城天守閣蔵]]&lt;br /&gt;
豊臣秀吉の[[遺言]]より豊臣秀頼は翌慶長4年（[[1599年]]）[[正月]]に大坂城へ移り、五大老の一人である[[前田利家]]が同年3月3日に病死、徳川家康は石田三成を同年3月10日に[[佐和山城]]へ追放すると、同年3月13日に留守居役として入城する。その徳川家康も同年9月には大坂城に移った。この時の様子を、&lt;br /&gt;
{{Cquote3|&lt;br /&gt;
諸大名悉く大坂へ家居以下引越され候、伏見の儀は荒野に罷り成る可き躰に候|4=島津義弘の書状&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
[[ファイル:Torii Mototada.jpg|thumb|鳥居元忠肖像/精忠神社蔵]]&lt;br /&gt;
と[[島津義弘]]は伝えている。徳川家康が大坂城に移ると伏見にあった[[大名屋敷]]のほとんどが大阪に移ってしまい、伏見城の城下町は荒廃していく様子が記されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
徳川家康は翌慶長5年（[[1600年]]）6月、[[会津征伐]]に動き出す。この間隙をぬって、[[小早川秀秋]]、島津義弘連合軍は[[鳥居元忠]]が城代となっている伏見城を4万の兵で[[攻城戦|攻城]]、同年8月1日炎上、落城した。&lt;br /&gt;
{{main|伏見城の戦い}}&lt;br /&gt;
このとき、石田三成は城内の建物をことごとく焼き払ったと書状に記している&amp;lt;ref&amp;gt;慶長5年8月5日に石田三成が真田房州、真田豆州、真田左衛門左に宛てた書状によると、「城内悉火をかけやけうちにいたし候」とある。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;慶長5年8月6日に石田三成が真田安房守に宛てた書状によると、「悉懸火不残一宇焼払候事」とある。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;慶長5年8月7日に石田三成が上杉義宣に宛てた書状によると、「一宇も不残焼捨候事」とある。&amp;lt;/ref&amp;gt;ことなどから、秀吉時代の主要建築はすべて焼亡したと考えられる&amp;lt;ref&amp;gt;日本建築学会論文報告集 （181）『伏見城 (I) 武家地の建築』内藤昌、大野耕嗣、高橋宏之、1971年3月&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、『城と秀吉』では、京都市内の複数の寺に、落城の際に自刃した徳川家家臣の血がついた床板を天井に転用したと伝わる「血天井」が存在することを根拠に、全建物が焼失したわけではなかったとしているが、これらの天井が伏見城の床板であった証拠や血痕とされるシミが血によるものである裏付けなどについては示されていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 徳川家康再建時代 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Fushimi momoyaja jyou 28.jpg|thumb|left|伏見城下町から出土した桐文金箔瓦/京都市埋蔵文化財研究所蔵]]&lt;br /&gt;
関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は翌慶長6年（[[1601年]]）3月に入城し、伏見城と[[二条城]]の再建を開始する。再建は木幡山伏見城を踏襲されているが、弾正丸、大蔵丸、得善丸、御花畑山荘と呼ばれている北西部の曲輪群とそれを取り巻く堀は放棄された。翌慶長7年（[[1602年]]）6月には[[藤堂高虎]]が普請奉行に起用され、同年末頃にはほぼ再建がなり、同年12月には伏見城に帰城した。再建された建物の[[瓦]]には[[豊臣家]]の家紋、[[桐紋]]が使われていた。このころより大坂城に移っていた大名屋敷が伏見城に戻ってきたが、関ヶ原の戦い直後に城下町は焼き払われており、跡地が東西両軍の[[大名]]に与えられたと考えられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌[[1603年]]（慶長8年）徳川家康は、伏見城で[[征夷大将軍]]の宣下を受ける。以後三代[[徳川家光]]まで伏見城で[[将軍宣下]]式を行っている。慶長10年（[[1605年]]）3月、徳川家康は伏見城で朝鮮使節と会見し、文禄・慶長の役で関係が悪化していた[[朝鮮]]と[[和議]]を成立する。同年御殿建設に伴い、徳川家康も本丸から西の丸に移り、更に二条城に移るが、本丸部分が完成する同年8月20日には伏見城に帰城する。新しくなった御殿で[[徳川秀忠]]の将軍宣下が執り行われた。その後も作事は続けられたが、[[駿府城]]の改築により、翌[[1606年]]（慶長11年）頃には伏見城の作事も停止され、器材や屋敷も駿府城へ運ばれていった。&lt;br /&gt;
[[ファイル:Iemitu.jpg|thumb|徳川家光像/金山寺蔵]]&lt;br /&gt;
[[大坂の役]]後、しばらくは二条城が将軍参内時の宿舎&amp;lt;ref&amp;gt;「儀典用」との説もあるが将軍宣下はいずれも伏見城で行われており必ずしも適切な定義とは言えない。&amp;lt;/ref&amp;gt;、伏見城が居館用として利用され続けていたが、[[一国一城令]]の主旨からも両城を維持するのは困難とし、[[1619年]]（元和5年）には伏見城の廃城が決まり、翌年から城割りが始まった。[[元和 (日本)|元和]]9年（[[1623年]]）7月16日、徳川家光の将軍宣下が実施されたが、&lt;br /&gt;
{{Cquote3|&lt;br /&gt;
先年破壊残りの殿閣にいささか修飾して御座となす|4=徳川実記&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
とあり、本丸部分に若干の修復をし将軍宣下が執り行われた。その後完全な廃城となった。伏見城の[[天守]]は二条城に、また多くの建物は[[福山城 (備後国)|福山城]]・[[淀城]]に吸収され、それ以外にも全国各地に移築された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
徳川家康は征夷大将軍就任後、[[江戸城]]と伏見城を行き来していたが、『城と秀吉』によると「在城期間を累計すると伏見城のほうが多いのではなかろうか」とし、また『近畿の城』では「江戸幕府も初期のころ「伏見幕府」といってよい」としており、初期段階の[[徳川幕府]]に於ける伏見城の重要性を指摘している。{{-}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;white-space:nowrap; text-align:center&amp;quot; style=&amp;quot;font-size:80%&amp;quot;&lt;br /&gt;
|+ 伏見城の時代区分&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;width:20%&amp;quot; | 第1期 !! style=&amp;quot;width:20%&amp;quot; | 第2期 !! style=&amp;quot;width:20%&amp;quot; | 第3期 !! style=&amp;quot;width:20%&amp;quot; | 第4期 !! style=&amp;quot;width:20%&amp;quot; | 第5期&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 豊臣秀吉の隠居屋敷の造営 || 豊臣秀吉の指月の岡と向島築城 || 豊臣秀吉の木幡山築城 || 徳川家康の木幡山築城再築 || 徳川秀忠、家光の改修・破却&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[1592年]]（文禄元年）-[[1593年]]（文禄2年） || [[1594年]]（文禄3年）-[[1595年]]（文禄4年） || [[1596年]]（慶長元年）-[[1600年]]（慶長5年） || [[1600年]]（慶長5年）-[[1606年]]（慶長11年） || [[1607年]]（慶長12年）-[[1623年]]（元和9年）&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 廃城後 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Fushimi momoyaja jyou 13.jpg|thumb|伏見桃山陵の拝礼]]&lt;br /&gt;
城跡一帯が開墾され桃の木が植えられて&#039;&#039;&#039;桃山&#039;&#039;&#039;と呼ばれたことから、後に伏見城の通称として&#039;&#039;&#039;桃山城&#039;&#039;&#039;と呼ばれる由来となった&amp;lt;ref group=&amp;quot;注釈&amp;quot;&amp;gt;織田・豊臣政権期の時代区分「[[安土桃山時代]]」や、その文化「[[桃山文化]]」などの呼称はこの通称から取られたものである。&amp;lt;/ref&amp;gt;。なお、開墾にたずさわった一族の末裔は、[[吉村酒造]][[蔵元]]の吉村家と伝えられている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.taihaku.biz/history/ 松葉屋グループ｜歴史・沿革]によると、伏見城跡に設けた堀内村の庄屋を代々務め、明治時代に同村の土地を皇室へ寄進したとの記述がある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
伏見城跡は伏見[[奉行所]]の管理とされ[[幕末]]まで立入禁止となっていたらしいが、[[本丸]]跡などの主郭部分はのちに[[明治天皇]]の[[天皇陵|陵墓]]（[[伏見桃山陵]]）とされたことから現在も無許可での立入りが禁じられている。[[2009年]]2月20日、宮内庁の許可を得た[[日本考古学協会]]によって伏見桃山陵の本格的な調査が行われ、敷地内に4–5メートルの盛り土がなされていることが判明したが、城郭を記した歴史的文献には存在しないものであることから、未発見の古墳ではないかともいわれている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090220/acd0902202318006-n1.htm 伏見城跡に謎の土盛り 陵墓立ち入り調査で確認] - MSN産経ニュース（[[産経新聞]]、2009年2月20日付、2010年1月28日閲覧）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、伏見城花畑跡は[[1964年]]（昭和39年）に[[遊園地]]「[[伏見桃山城キャッスルランド]]」が建設され、園内には[[洛中洛外図]]に描かれた伏見城を参考にして5重6階の大天守と3重4階の小天守、[[櫓門]]などを伴った模擬天守が6億円（当時の金額）をかけて[[鉄筋コンクリート構造]]で造られた&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.kyoto-np.co.jp/local/article/20121029000080 伏見桃山城、活用策決まらず１０年　城主の京都市、困惑]：京都新聞2012年10月290日&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[2003年]]1月、同遊園地は経営母体である[[近畿日本鉄道|近鉄]]による[[リストラ]]の一環で閉園したが、模擬天守は京都市民の運動によって伏見の[[シンボル]]として保存されることとなり無償で京都市に贈与&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.kyoto-fushimi.com/syomei/syomei.html 伏見桃山城を存続させる会] - 伏見夢工房&amp;lt;/ref&amp;gt;されたほか、敷地を含めて同市により[[伏見桃山城運動公園]]として整備された。ただし、模擬天守については耐震基準を満たしていないことから内部非公開となっており、[[バリアフリー]]対応などを含め改修に数億円かかるとされることから2012年10月時点でも具体的な活用予定は無い&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20121029000080 伏見桃山城、活用策決まらず10年 城主の京都市、困惑] - [[京都新聞]]（2012年10月29日付、同日閲覧）&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[2007年]]10月、映画『[[茶々 天涯の貴妃]]』撮影のため[[東映]]が約1億円を負担し&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.toei.co.jp/release/movie/1173900_979.html 茶々 -天涯の貴妃（おんな）-和央ようか、豪華絢爛打ち掛け姿初披露！] - 東映（2007年10月29日付、2010年1月28日閲覧）&amp;lt;/ref&amp;gt;、望楼の下に虎の装飾がなされたほか、[[鯱]]を金色に塗り替えるなど[[大坂城]]に見立てた改修がなされ、これらの装飾は撮影終了後も同年内はそのままとなっていた&amp;lt;ref&amp;gt;[http://castle1.exblog.jp/14745430/ 伏見桃山城その１]：黒塗り時の天守&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[http://seiryumark2.cocolog-nifty.com/sideb/2008/10/post-7ba8.html 城めぐり８伏見城]：黒塗り時の天守&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
ファイル:Fushimi momoyaja jyou 04.jpg|模擬天守と小天守&lt;br /&gt;
ファイル:Fushimi momoyaja jyou 05.jpg|模擬天守&lt;br /&gt;
ファイル:Fushimi momoyaja jyou 06.jpg|小天守&lt;br /&gt;
ファイル:Fushimi momoyaja jyou 02.jpg|模擬大手門&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 城郭 ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:Fushimi momoyaja jyou 19.jpg|thumb|300px|伏見城縄張図/内閣文庫蔵]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:Fushimi2.jpg|thumb|伏見の城 松の丸の図/絵本太閤記]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:Takase Bune 2.jpg|thumb|河川を航行する[[高瀬舟]]/復元船]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在の城跡は[[江戸時代]]初期に破却され、その後[[明治時代]]に[[宮内省]]の[[御料地]]とされ、明治天皇桃山陵、[[昭憲皇太后]]桃山東陵となったため、[[遺構]]調査も容易ではなく、年代によっては[[史料]]が不明な点も多いが、推定復元は試みられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『城と秀吉』によると「伏見指月城がどのような縄張りだったのかについてはくわしいことはわからない」とし、指月伏見城がどのような城だったかは不明としている。また『肥前名護屋城と「天下人」秀吉の城』によると、「伏見城築城工事に動員された人員の数が指月の面積に対して多すぎる事、発掘調査によっても堀等が検出されなかった丘陵北側の防備が弱い事、当時の文献で「指月」と呼ぶものが1例しかない事等から、伏見城は当初から木幡山一帯を主体部とした」としており、指月伏見城のみに城があったという説を最近の[[発掘調査]]などより否定し、木幡山に伏見城の主体があった可能性を指摘している。しかし最近になって従来指月城があったとされていた場所から秀吉時代のものと思われる石垣が発見されたためやはり指月城は現在の指月の地にあったものと考えられるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 縄張り ===&lt;br /&gt;
木幡山伏見城時代の縄張りは、[[標高]]約105mの木幡山丘陵一帯に比較的複雑な構造をしている。本丸部分は東西約200m、南北約300mの長方形を基調に、本丸西側には、[[側室]]「[[淀殿]]」の御殿があった二の丸（西の丸）、北東側には側室「[[京極竜子|松の丸殿]]」の御殿があった松の丸、東側には名護屋丸、南側には四丸（増田長政丸）を配して、北側には、本丸から松の丸そして出丸を介して、北側一帯曲輪群（4つの曲輪）と連絡する。更に二の丸の南西側には、側室「[[三の丸殿]]」の御殿があった三の丸、そこから北西側には治部少丸（石田三成丸）を配し、その南側に[[大手門|大手]]が推定されている。治部少丸の間際まで及んでいた内堀は今も部分的に「治部池」として残る。この城の特徴として、城南東部に山里丸、茶亭学問所の空間があり、その先に宇治川と繋がる舟入場が設けられていた。また、宇治川により守られる南方部に対し脆弱な北方については、堀と防塁を設けた。堀は現在も「濠川」として伏見の町並みを包むように北から南西に流れている。土塁はほとんどが破壊されたが、わずかに伏見区深草丹下の宗春寺境内に残る（高さ約6ｍ、幅20ｍ、長さ約80ｍ）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、指月伏見城時代の様子は、図面の類は皆無、文献も乏しく全く分からない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 天守 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Fushimi momoyaja jyou 40.jpg|thumb|left|『洛中洛外図』の徳川時代の伏見城]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:独立式天守.png|thumb|left|独立式天守の例]]&lt;br /&gt;
徳川期木幡山伏見城の天守は二条城へ移築されたため史料が比較的残っているが、それ以前の天守については不明な部分が多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『洛中洛外図屏風』池田本では、徳川期木幡山伏見城のものと見られる天守が白壁の望楼型5重に描かれている。伏見城に移築される以前は、[[豊臣秀保]]期[[郡山城 (大和国)|大和郡山城]]の7重天守であったが伏見城へ移築するにあたり5重に改められたといわれている&amp;lt;ref&amp;gt;西ヶ谷恭弘監修『復原 名城天守』学習研究社 1996年&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし、大和郡山城の天守については、伏見城へではなく徳川家康によって二条城へ移築されたという説があり、[[寛永]]6年（[[1624年]]）[[徳川家光]]の二条城改修によって二条城旧天守を[[淀城]]へ移築する代わりとして伏見城天守は二条城へ移築されたという&amp;lt;ref&amp;gt;宮上茂隆執筆『歴史群像 名城シリーズ7 江戸城』学習研究社 1995年&amp;lt;/ref&amp;gt;。この二条城の寛永期天守は[[寛延]]3年（[[1750年]]）に[[落雷]]のため焼失している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天守台は[[地形図]]より本丸の北西部に独立した天守台が残っており、これは徳川家康が再建した天守台である。現在見られている模擬天守は木幡山伏見城の花畑曲輪跡に建てられた。天守、小天守の連結式天守であるが史実との関係はない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 建物 ===&lt;br /&gt;
建物の具体的な構造は不明だが、文献史料から伏見城の存在が知られる。&lt;br /&gt;
; 第1期伏見城時代 : 不明&lt;br /&gt;
; 第2期伏見城時代 : 天守、大手2階櫓、舟入櫓、矢櫓、一の門、二の門、北之門、大広間、小広間、小座敷、風呂屋、湯殿、水屋、台所、長屋、四畳半数寄屋、二畳半数寄屋、滝之屋敷、二重古塔&lt;br /&gt;
; 第3期伏見城時代 : 天守、月見櫓、千畳敷櫓、大手城門、二階門、二の丸御門、表唐門、松丸の長屋、虎の間、千畳敷き、三間九間座、楊貴妃の間、台所、松丸御座敷、松丸数寄屋、松丸古社、松丸小座敷、四方之御座敷、塔、舟入御殿、学問所、三重塔（比蘇寺塔）&lt;br /&gt;
多くの建物があったことが伺える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
またこの城は非常に沢山の[[金]][[瓦]]が出土している。金瓦とは瓦の上に[[漆]]を塗り、その上に[[金箔]]を貼っている。金瓦の種類としては、飾瓦、鐙瓦、宇瓦、鬼鯱瓦、小菊瓦、熨斗瓦がある。城の殿舎だけではなく、城下町にあった大名屋敷にも葺かれていた。京都市埋蔵文化財研究所には出土した金瓦が陳列されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;Gallery style=&amp;quot;font-size:80%&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
ファイル:Fushimi momoyaja jyou 24.jpg|金箔瓦/京都市埋蔵文化財研究所蔵&lt;br /&gt;
ファイル:Fushimi momoyaja jyou 25.jpg|金箔瓦/京都市埋蔵文化財研究所蔵&lt;br /&gt;
ファイル:Fushimi momoyaja jyou 23.jpg|伏見城下町から出土した志野水指/京都市埋蔵文化財研究所蔵&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 城下町 ===&lt;br /&gt;
また伏見城の城下町には「桃山町毛利長門西」など人名の屋敷跡と[[町名]]表示が同じであった場所が散見できる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;white-space:nowrap; text-align:center&amp;quot;&lt;br /&gt;
|+ 町名からわかる伏見武家（屋敷）名&lt;br /&gt;
| [[遠山民部]] || [[板部岡江雪斎]] || [[藤堂高虎]] || [[根来愛染]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[山口直友]] || [[板倉重宗]] || [[本多正純]] || [[泰長老]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[石田三成]] || [[徳川家康]] || [[伊達政宗]] || [[細川忠興]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[福島正則]] || [[毛利輝元]] || [[鍋島直茂]] || [[金森可重]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[羽柴長吉]] || [[筒井定次]] || [[井伊直孝]] || [[水野忠鼎]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[最上家親]] || [[長束正家]] || [[山岡景友]] || [[生駒親正]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[大友義統]] || [[蜂須賀至鎮]] || [[浅野長政]] || [[村上義明]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[宮城豊盛]] || [[杉原長房]] || [[平野長泰]] || [[加藤清正]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[佐野房綱]] || [[大島光義]] || [[前田利家]] || [[仙石秀久]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[谷衛友]] || [[前野長康]] || [[山中長俊]] || [[池田輝政]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[島津氏]] || [[松平氏]] || [[南部氏]] || [[関氏]]&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
[[File:Keicho-chogin.jpg|thumb|120px|慶長丁銀]]&lt;br /&gt;
これら[[地名]]から推察されている屋敷名は、豊臣秀吉時代の家臣団だけでなく、徳川家康の家臣団も含まれているが、大半は豊臣秀吉時代の大名達である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
城下町にはもともと伏見九郷という[[村落]]があったが、住民は築城にさいして強制移住させられたと伝わっている。大きさは東西に約4km、南北に約6kmという広範囲のもので、[[尾張国]][[中村 (愛知県)|中村]]の住人や、京、大坂、[[堺]]、[[尼崎]]の[[職人]]や[[商人]]を居住させた結果、人口は約6万人の[[大都市]]が誕生し、一部[[土塁]]と堀で囲まれた惣構えとなっていた。『京の城』によると、「後に全国で誕生する城下町の原型になったと考えられます」として、伏見城の城下町が近世城下町の先駆であったと示唆している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
城跡に関しては、発掘調査が容易ではないが、城下町に関しては数次の発掘調査が実施されている。[[1991年]]（平成3年）に行われた発掘調査では惣構えの[[濠]]が発見され、濠は幅34mとなっていた。また北濠でも、幅70mを超える濠跡があり、石垣も検出できた。桃山町伊賀でもV字をした素掘りの濠が見つかっている。『京の城』では「用途と場所に応じて石垣の使用と濠の形を分けていた可能性があります」と指摘している。また他の場所でも、徳川時代の遺構や大名屋敷の門跡や階段跡などが発見されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また伏見城下町には、日本はじめての[[銀座]]（[[造幣局]]）があった（現「銀座町一丁目付近）。徳川家康が直轄としていた[[鉱山]]の主要なものとして、[[石見大森銀山]]、但馬[[生野銀山]]、[[佐渡金山]]、[[伊豆金銀山]]、[[常陸金山]]があげられる。これら主要鉱山を直轄地とするとともに、[[1601年]]（慶長6年）、大坂より[[大黒常是]]を招きここ伏見の銀座において「[[慶長豆板銀]]」「[[慶長丁銀]]」の鋳造を開始し、全国統一[[貨幣]]として流通させた。この銀座は後に京都（現「[[京都国際マンガミュージアム]]」付近）に遷された。&lt;br /&gt;
{{See also|銀座 (歴史)#伏見・銀座町}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;Gallery style=&amp;quot;font-size:80%&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
ファイル:Fushimi1.jpg|伏見御城槨井屋敷取之絵図&lt;br /&gt;
ファイル:Fushimi momoyaja jyou 20.jpg|指月城と木幡山伏見城関係位置図/{{国土航空写真}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 遺構 ==&lt;br /&gt;
伏見城の遺構とされる建築は近畿地方の社寺を中心に多く存在しており、そのほとんどが秀吉時代の遺構とされている。しかし、指月山伏見城は地震で倒壊し、木幡山伏見城は兵火で焼失しているため、移築の伝承が事実である建物はわずかだと思われる。実際、指月山の遺構であることが裏付けられている[[西教寺]]客殿も地震で破壊された残材で構成されており、少なくとも秀吉時代の建築が完存する可能性は低いと考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
徳川期の木幡山伏見城については廃城に際して[[天守]]を始め多くの建物が他の場所に移築され、[[二条城]]天守のほか、特に[[福山城 (備後国)|福山城]]（[[広島県]][[福山市]]）には徳川幕府の西国鎮衛の目的もあり、櫓、城門、殿舎、湯殿、多聞櫓、土塀など多くの施設が移されている。なお、伏見城の建物ではないが「伏見」の名称を用いた建物として江戸城と大坂城の伏見櫓がある（ただし、その名称から伏見城の遺構との言い伝えが生まれている）&amp;lt;ref&amp;gt;建築學會論文集 （27）『大阪城伏見櫓建築考』城戸久、1942年&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
移築の伝承を持ち現存する主な施設を以下に挙げる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 城門 ===&lt;br /&gt;
*[[御香宮神社]]（伏見区）表門（[[大手門]]を移築）&lt;br /&gt;
*[[西本願寺]]（[[下京区]]）唐門&lt;br /&gt;
*[[二尊院]]（[[右京区]]）総門&lt;br /&gt;
*観音寺（[[上京区]]）山門&lt;br /&gt;
*[[瑞宝寺公園|瑞宝寺旧山門]]（[[兵庫県]][[神戸市]]）&lt;br /&gt;
*浄照寺(奈良県磯城郡田原本町)表門（伏見城高麗門を移築)&lt;br /&gt;
*[[本山寺 (高槻市)|本山寺]]（[[大阪府]][[高槻市]]）中の門&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Gallery&lt;br /&gt;
|ファイル:Toyokuni jinja01s1024.jpg|伝伏見城唐門/[[豊国神社 (京都市)|豊国神社]]唐門&lt;br /&gt;
|ファイル:Gokogu-jinja06nt3200.jpg|伝伏見城大手門/[[御香宮神社|御香宮神社]]表門&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 櫓 ===&lt;br /&gt;
*福山城（広島県福山市）伏見櫓（[[重要文化財|重文]]・解体修理時に発見された墨書きにより伏見城よりの移築が確定された）&lt;br /&gt;
*[[膳所城]]&lt;br /&gt;
*[[岸和田城]]&lt;br /&gt;
*[[尼崎城]]（非現存）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Gallery&lt;br /&gt;
|ファイル:Fushimi yagura of Fukuyama Castle in 1934.jpg|福山城伏見櫓/[[1934年]]（昭和9年）撮影&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 殿舎 ===&lt;br /&gt;
*[[金地院]]（[[左京区]]）[[方丈]]（重文）&lt;br /&gt;
*日暮御殿 - [[都久夫須麻神社]]（滋賀県長浜市・[[竹生島]]）本殿（[[国宝]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Gallery&lt;br /&gt;
|ファイル:高台寺 傘亭・時雨亭.jpg|伏見城里山にあった傘亭・時雨亭/[[高台寺]]&lt;br /&gt;
|ファイル:Daitsuji (Nagahama) hondo.jpg|伝伏見城の遺構/[[大通寺]]の本堂&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他の建造物 ===&lt;br /&gt;
*[[諸侯]]控え室 - [[三渓園]]（[[横浜市]][[中区 (横浜市)|中区]]）&lt;br /&gt;
*移動式[[能]][[舞台]] - 福山城（広島県福山市）、現在は[[沼名前神社]]（広島県福山市・[[鞆町]]）（重文）&lt;br /&gt;
*茶室 - [[高台寺]]（[[東山区]]）時雨亭、傘亭（ともに重文）&lt;br /&gt;
*軍議評定所 - 渡辺山[[守綱寺]]（[[愛知県]][[豊田市]]）本堂&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 石垣 ===&lt;br /&gt;
*[[淀城]]（伏見区）&lt;br /&gt;
*大阪城（[[大阪府]][[大阪市]]）&lt;br /&gt;
[[京都市立桃山東小学校]]には復元石垣列がある。これは[[1977年]]（昭和52年）6月、学校付近の土地区画整理事業中に出土したものである。この石垣は絵図などには記載されていない地点で、[[1592年]]（文禄元年）の築城の可能性が指摘されている。石材は[[花崗岩]][[笠置山 (京都府)|笠置山]]系の石が多い。またこれとは別に300個近い残石は、伏見城ちかくにある[[御香宮神社]]の境内に保管されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Gallery&lt;br /&gt;
|ファイル:Fushimi momoyaja jyou 11.jpg|伏見城復元石垣/京都市登録史跡&lt;br /&gt;
|ファイル:Fushimi momoyaja jyou 16.jpg|伏見桃山陵の参道にある伏見城の石垣跡&lt;br /&gt;
|ファイル:Gokogu-jinja27.jpg|[[御香宮神社]]にある伏見城の残石&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 交通アクセス ==&lt;br /&gt;
*電車でのアクセス&lt;br /&gt;
**[[西日本旅客鉄道|JR西日本]] [[奈良線]] [[桃山駅]] → 徒歩約15分&lt;br /&gt;
** [[近鉄京都線]][[近鉄丹波橋駅]]もしくは[[京阪本線]][[丹波橋駅]]から徒歩20分&lt;br /&gt;
*車でのアクセス&lt;br /&gt;
**[[阪神高速8号京都線]]・[[伏見出入口]]を出て[[滋賀県道・京都府道35号大津淀線|京都府道35号線]]を東に進む。&lt;br /&gt;
**伏見桃山城運動公園に有料駐車場有り&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 注釈 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist|group=&amp;quot;注釈&amp;quot;}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*『戦国の堅城』築城から読み解く戦略と戦術、学研、2004年7月、148-153頁。&lt;br /&gt;
*森島康雄「秀吉晩年の京の拠点」『信長・秀吉・家康の城』新人物往来社、2007年3月、68-73頁。&lt;br /&gt;
*小和田哲男『城と秀吉』角川書店、1996年8月、180-202頁。&lt;br /&gt;
*『日本城郭大系』第11巻 京都・滋賀・福井、新人物往来社、1980年9月、58-59頁。&lt;br /&gt;
*佐賀県立名護屋城博物館『肥前名護屋城と「天下人」秀吉の城』佐賀県立名護屋城博物館、2009年10月、42-49頁。&lt;br /&gt;
*日本城郭協会『日本城郭全集』第六巻 近畿編、日本城郭協会、1960年5月、56-57頁。&lt;br /&gt;
*相加徹夫編著『近畿の城』城5、小学館、1981年3月、119-130頁。&lt;br /&gt;
*西ケ谷恭弘『秀吉の城』戦国を制した太閤の城郭その築城と戦略、世界文化社、1996年7月、68-75頁。&lt;br /&gt;
*伏見城研究会『伏見城』伏見城研究会編、日本古城友の会、1978年1月、2-47頁。&lt;br /&gt;
*京都市文化市民局文化部文化財保護課『京の城』-洛中洛外の城郭-、京都市文化市民局文化部文化財保護課、2006年3月、18-23頁。&lt;br /&gt;
*井上宗和編著『日本城郭全集』第六巻 近畿編、日本城郭協会、1960年5月、56-57頁。&lt;br /&gt;
*二木謙一『徳川家康』精興社、1998年1月、113頁。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[伏見桃山城キャッスルランド]]&lt;br /&gt;
* [[日本の城一覧#京都府]]&lt;br /&gt;
* [[伏見藩]]&lt;br /&gt;
* [[地震の年表]]&lt;br /&gt;
* [[安土城]]&lt;br /&gt;
* [[安土桃山時代]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
{{Commonscat|Fushimi Castle}}&lt;br /&gt;
*[http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi20.html#a 伏見城/フィールド・ミュージアム京都公式ホームページ]&lt;br /&gt;
*[http://www.city.kyoto.lg.jp/fushimi/page/0000013318.html 秀吉が開いた城下町/京都市伏見区公式ホームページ]&lt;br /&gt;
*[http://kanko.city.kyoto.lg.jp/travelroute.php?InforKindCode=7&amp;amp;ManageCode=1000036&amp;amp;category=9&amp;amp;search_word=伏見城&amp;amp;page_no=2&amp;amp;group_code=&amp;amp;area_code=&amp;amp;x=&amp;amp;y= 太閤の史跡を訪ねて/京都観光オフィシャルサイト]&lt;br /&gt;
*[http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&amp;amp;ManageCode=5000070&amp;amp;category=9&amp;amp;search_word=伏見城&amp;amp;page_no=4&amp;amp;group_code=&amp;amp;area_code=&amp;amp;x=&amp;amp;y= 伏見城跡出土遺物展示室/京都観光オフィシャルサイト]&lt;br /&gt;
*[http://www.hosenin.net/midokoro/m4/index.html 血天井/宝泉院公式ホームページ]&lt;br /&gt;
*[http://www.kyoto-arc.or.jp/ 財団法人京都市埋蔵文化財研究所公式ホームページ]&lt;br /&gt;
*[http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&amp;amp;lat=34.93365806&amp;amp;lon=135.78406306&amp;amp;sc=3&amp;amp;mode=map&amp;amp;pointer=on&amp;amp;home=on 伏見城跡周辺地図/YAHOO!地図情報]&lt;br /&gt;
*[http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&amp;amp;lat=34.929952619815&amp;amp;lon=135.77110634519&amp;amp;z=18&amp;amp;mode=map&amp;amp;pointer=on&amp;amp;datum=wgs&amp;amp;fa=ks&amp;amp;home=on&amp;amp;hlat=34.929952619815&amp;amp;hlon=135.77110634519&amp;amp;layout=&amp;amp;ei=utf-8&amp;amp;p=%E6%A1%83%E5%B1%B1%E7%94%BA%E6%B3%B0%E9%95%B7%E8%80%81 指月の岡周辺地図/YAHOO!地図情報]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{豊臣政権}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ふしみしよう}}&lt;br /&gt;
[[Category:京都府の城]]&lt;br /&gt;
[[Category:山城国|城ふしみしよう]]&lt;br /&gt;
[[Category:京都市の建築物]]&lt;br /&gt;
[[Category:伏見区の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:安土桃山時代の京都]]&lt;br /&gt;
[[Category:江戸時代の京都]]&lt;br /&gt;
[[Category:豊臣氏|城ふしみ]]&lt;br /&gt;
[[Category:徳川氏|城ふしみ]]&lt;br /&gt;
[[Category:豊臣秀吉|城]]&lt;br /&gt;
[[Category:徳川家康|城]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>125.14.2.191</name></author>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E7%8E%8B_(%E7%9A%87%E6%97%8F)&amp;diff=108862</id>
		<title>王 (皇族)</title>
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		<updated>2014-06-09T04:48:32Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;125.14.2.191: /* 王氏としての王 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{混同|王|x1=君主としての}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;王&#039;&#039;&#039;（おう、みこ、古くはおおきみ）は、[[皇族]]の[[身位]]または[[称号]]の一つ。または、王の身位を授けられた皇族のこと。現行の[[皇室典範]]では[[天皇]]からみて直系で三[[親等]]以遠の者に与えられる。皇室典範で定められた敬称は[[殿下]]&amp;lt;ref&amp;gt;[[新村出]][[編集|編]]『[[広辞苑|広辞苑 第六版]]』（[[岩波書店]]、[[2011年]]）342頁および[[松村明]]編『[[大辞林|大辞林 第三版]]』（[[三省堂]]、[[2006年]]）304頁参照。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 日本の皇室における王 ==&lt;br /&gt;
=== 古代～近世の王 ===&lt;br /&gt;
==== 皇親としての王 ====&lt;br /&gt;
[[明治時代]]以前の律令制下では皇族のことを皇親と称し、天皇の四世孫(あくまで天皇を父系とする子孫)までをその範囲とした。皇親としての王とは[[親王宣下]]を受けていない皇子や皇孫(皇胤)のうち、皇籍にある男子を指し、それらを総称して諸王と称して臣下同様、正一位から従五位下までの[[位階]]を授けられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、[[幕末]]以後日本が[[西洋]]と国交を開いた直後には、西洋の[[皇帝]]と[[国王]]の関係を日本や中国と同様の非対等な関係（[[清]]の皇帝と朝鮮の王のような）と誤解をして、[[帝国]]の国家と[[王国]]の国家宛ての[[国書]]に格差を付けてしまった為に、紛糾したと言われている。これは「王」という漢語には[[皇帝]]の国（[[帝国]]）の属国の国の[[首長]]の意味を含んでいたためである。（[[皇帝]]を参照）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 王氏としての王 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、皇親の範囲外にある天皇の五世孫については臣籍にありながら王号の使用のみを許された。後に皇親の範囲は天皇の五世孫まで拡大されたが、臣籍に移行しながら姓を持たず、なおも王号の使用が認められた者を総称して[[王氏]]といった。通常、臣下には[[賜姓]]されるべきところ、王氏たる王は[[源氏]]や[[平氏]]など賜姓の伴う臣籍降下を経ず、代が下ったことで自動的に皇親の範囲から外れた者であり、また、王号の使用が許されたこともあって特定の氏を有さなかった。このため、皇親から外れた王の集団を氏族に擬して王氏と呼び、他氏同様に氏爵を通じて叙位任官を受けた。つまり、皇親たる王が皇位継承権を有する皇族だとすれば、王氏たる王は皇位継承権を喪失した旧皇族だといえる。但し、皇室や皇族・旧皇族とはあくまで明治時代以降に皇室典範で規定された近代以降の概念であり、また、旧皇族とは王号を返上した存在であることから、厳密には王氏としての王と旧皇族は完全に比等する関係にないことも留意を要する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、平安時代には天皇の庶出の皇子や傍系の皇孫が臣籍降下する例または出家し仏門に入る例が増えたことで、王氏たる王の数は自然に減少していったとされる。ところが、[[伊勢神宮]]の[[奉幣使]]は王氏の中から選ばなければならないなど朝廷の祭祀には王号を有する者の存在が必要であった。そのため、[[花山天皇]]の皇胤たる[[花山源氏]]の当主について[[神祇伯]]の[[官職]]にある間、王氏に復し、王号の使用を認めるなどの特例が定着し、同氏が鎌倉時代以降、白川姓を名乗ったことから、白川家または神祇伯を世襲したことに因んで白川伯王家、伯家などと称した。この[[白川伯王家]]は基本的に[[源氏]]に連なる[[公卿]]いわば[[貴族]]として存続したが、神祇伯に任官している間は王氏であり続けた&amp;lt;ref&amp;gt;国史大辞典編集委員会編『国史大辞典第11巻』（[[吉川弘文館]]、[[1983年]]）617頁参照。&amp;lt;/ref&amp;gt;。同家の地位は基本的に花山源氏の血筋で世襲されたが、後に[[村上天皇]]の皇胤である[[村上源氏]]たる公家の[[中院家]]や[[梅渓家]]から養子を招くようになり、後に皇胤でない[[藤原氏]]の流れを汲む公家 [[高倉家]]や[[冷泉家]]からも養子を招いて王号を名乗らせるなど、天皇を父系の祖先としない[[藤原氏]]出身の王も登場することもあった&amp;lt;ref&amp;gt;[[野島寿三郎]]編『公卿人名大事典』([[日外アソシエーツ]]、[[1994年]]) 386頁～388頁参照。&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし、明治時代以降、白川伯王家は王号を返上し、華族に編入、[[子爵]]の[[爵位]]を授かったことで、王氏たる王の地位を失った。後に旧皇族の[[上野正雄]]の子が[[白川資長]]の養子となったものの後に[[養子縁組]]を解消し、白川家は断絶。制度としてのみならず血脈としても王氏たる王の存在は消滅した&amp;lt;ref&amp;gt;[[霞会館|霞会館華族家系大成編輯委員会]]編『平成新修旧華族家系大成 上巻』(霞会館、[[1996年]]) 763頁参照。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 近現代の王 ===&lt;br /&gt;
==== 皇族としての王 ====&lt;br /&gt;
現行の[[皇室典範]]では、[[天皇]]から直系で三[[親等]]以上離れた皇族男子を指す（傍系でなく直系尊属の天皇から数える）。これに対して同様の皇族女子の場合には、[[女王 (皇族)|女王]]と称する。ちなみに、王の妃を[[王妃 (皇族)|王妃]]という。&lt;br /&gt;
現在、[[日本]]には女王は存在するものの、王は現行皇室典範以降一人も出生していない。[[旧皇室典範]]時代には多数存在したが（昭和史の重要人物である[[伏見宮博恭王]]や[[東久邇宮稔彦王]]など）、みな[[第二次世界大戦]]終戦直後の[[1947年]]（[[昭和]]22年）[[10月14日]]に[[臣籍降下|皇籍を離脱]]した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
王は[[皇族身位令]]に準じ、[[成年]]となったときに[[桐花大綬章]]を授与される（[[2003年]]（[[平成]]15年）[[11月2日]]までに成年に達した場合は[[勲一等旭日桐花大綬章]]であった）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 王公族としての王 ====&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、[[韓国併合ニ関スル条約]]及び関連する[[詔書]]により、「韓国皇帝陛下太皇帝陛下皇太子殿下並其ノ后妃及後裔」に該当する者を[[王公族]]とし、[[李王家]]の当主も&#039;&#039;&#039;王&#039;&#039;&#039;というが、皇族の&#039;&#039;&#039;王&#039;&#039;&#039;と王族の&#039;&#039;&#039;王&#039;&#039;&#039;は全く違うものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他の王 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その他、[[推古天皇]]の[[摂政]]であった[[聖徳太子]]を後世、[[法王]]と称することがあったが、そもそも太子の正式な名は厩戸皇子であり王ではなく正式な身位でない。また、[[766年]]([[天平神護]]2年)には[[孝謙天皇|称徳天皇]]が[[太政大臣|太政大臣禅師]]だった[[道鏡]]に法王の称号を授け百官に拝礼されたが、皇族の身位ではない上、道鏡の失脚後は称号自体が廃止されている。さらに、[[1872年]]([[明治]]5年)、[[政府]]が[[琉球王国]]の日本への編入にあたり、[[琉球国王]]たる[[尚泰|尚泰王]]に対し[[琉球藩王]]の称号を授けたが、[[華族令]]の制定とともに[[侯爵]]の[[爵位]]が授けられ、[[藩王]]の称号は廃止されている。法王であった道鏡は[[物部氏]]の傍系 [[弓削氏]]の出身であり、皇室どころか皇室から分かれた[[皇別氏族]]ですらない。また、琉球藩王の尚泰は[[第二尚氏]]という他国の[[王室]]であった。一時的であれ、王の字を含む称号が国から非皇族に贈られた例は、王氏や朝鮮王公族を除けばこの2例だけである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
== 参照文献 ==&lt;br /&gt;
* 霞会館華族家系大成編輯委員会編『平成新修旧華族家系大成 上巻』(霞会館、1996年) ISBN 4642036709&lt;br /&gt;
* 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典第11巻』（吉川弘文館、1983年）ISBN 4642005110&lt;br /&gt;
* 新村出編『広辞苑 第六版』（岩波書店、2011年）ISBN 400080121X&lt;br /&gt;
* 野島寿三郎編『公卿人名大事典』(日外アソシエーツ、1994年) ISBN 4816912444&lt;br /&gt;
* 松村明編『大辞林 第三版』（三省堂、2006年）ISBN 4385139059&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[皇室典範]]&lt;br /&gt;
* [[皇族身位令]]&lt;br /&gt;
* [[白川伯王家]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{天皇項目}}&lt;br /&gt;
{{japan-culture-stub}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:おう}}&lt;br /&gt;
[[Category:身位]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の王 (皇族)|*]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>125.14.2.191</name></author>
	</entry>
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		<title>松平直矩</title>
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		<updated>2014-05-30T22:11:44Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;125.14.2.191: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{基礎情報 武士&lt;br /&gt;
|氏名=松平 直矩&lt;br /&gt;
|画像=&lt;br /&gt;
|画像サイズ=&lt;br /&gt;
|画像説明=&lt;br /&gt;
|時代=[[江戸時代]]前期&lt;br /&gt;
|生誕=[[寛永]]19年[[10月28日 (旧暦)|10月28日]]（[[1642年]][[12月19日]]）&lt;br /&gt;
|死没=[[元禄]]8年[[4月15日 (旧暦)|4月25日]]（[[1695年]][[6月6日]]）&lt;br /&gt;
|改名=藤松丸（幼名）→直規（初名）→直矩&lt;br /&gt;
|別名=&lt;br /&gt;
|戒名=天祐院殿鐵船道駕大居士&lt;br /&gt;
|墓所=[[福島県]][[白河市]]円明寺の白河藩大名家墓所&lt;br /&gt;
|官位=[[従四位]]下、[[侍従]]、[[大和国|大和]]守&lt;br /&gt;
|幕府=[[江戸幕府]]&lt;br /&gt;
|主君=&lt;br /&gt;
|藩=[[播磨国|播磨]][[姫路藩]]主→[[越後国|越後]][[村上藩]]主→[[豊後国|豊後]][[日田藩]]主→[[出羽国|出羽]][[山形藩]]主→[[陸奥国|陸奥]][[白河藩]]主&lt;br /&gt;
|氏族=[[越前松平家]]（前橋松平家）&lt;br /&gt;
|父母=父：[[松平直基]]、母：堀氏（側室）&lt;br /&gt;
|兄弟=&lt;br /&gt;
|妻=正室：&#039;&#039;&#039;駒姫&#039;&#039;&#039;（[[松平直政]]の長女）&amp;lt;br&amp;gt;継室：&#039;&#039;&#039;丁&#039;&#039;&#039;（[[東園其賢]]の娘）&amp;lt;br&amp;gt;側室：村上氏&lt;br /&gt;
|子=&#039;&#039;&#039;[[松平基知|基知]]&#039;&#039;&#039;（次男）、[[松平宣富|宣富]]（三男）、[[松平知清|知清]]（四男）、[[本多忠貞]]（七男）、娘（[[堀田正親]]正室）&lt;br /&gt;
|特記事項=&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;松平 直矩&#039;&#039;&#039;（まつだいら なおのり）は、[[江戸時代]]前期の[[大名]]。直基系[[越前松平家]]2代。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
[[播磨国|播磨]][[姫路藩]]主[[松平直基]]の長男として生まれる。[[慶安]]元年（[[1648年]]）[[8月17日 (旧暦)|8月17日]]、父の死去により5歳で家督を相続したが、姫路は西国の抑えとなる要地であったため、幼少の直矩には不適当と判断され、翌慶安2年（[[1649年]]）[[6月9日 (旧暦)|6月9日]]に[[越後国|越後]][[村上藩]]に国替となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
成人後の[[寛文]]7年（[[1667年]]）[[8月19日 (旧暦)|8月19日]]、再び姫路に復帰した。親族の越後[[高田藩]]（藩主[[松平光長]]とは従兄弟の関係）の御家騒動（[[越後騒動]]）に際し、[[出雲国|出雲]][[松江藩#広瀬藩|広瀬藩]]主[[松平近栄]]と共に一族を代表して騒動の調整を行うが、両名共に不手際を指摘され、直矩は領地を半分以下の7万石に減らされ、閉門の上で[[天和 (日本)|天和]]2年（[[1682年]]）[[2月7日 (旧暦)|2月7日]]に[[豊後国|豊後]][[日田藩|日田]]に国替を命じられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4年後の[[貞享]]3年（[[1686年]]）7月、3万石加増の上で[[出羽国|出羽]][[山形藩]]、さらに6年後の元禄5年（[[1692年]]）[[7月27日 (旧暦)|7月27日]]には5万石加増の上で[[陸奥国|陸奥]][[白河藩]]へ移され、格式の上では従前の15万石に復帰したが、生涯で幾度も国替を重ねた結果、家中は多大な借財を負うことになり、「&#039;&#039;&#039;引越し大名&#039;&#039;&#039;」なるあだ名をつけられた。17歳（[[万治]]元年（[[1658年]]））から54歳（[[元禄]]8年（[[1695年]]））で死去するまで自身が書き残した『[[大和守日記]]』には、藩主の仕事の他、[[お家騒動]]、[[鷹狩り]]や観劇などの記録が書き記されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元禄8年（1695年）死去、享年54。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 官歴 ==&lt;br /&gt;
*[[承応]]3年（[[1654年]]） ：従四位下大和守&lt;br /&gt;
*寛文8年（[[1668年]]） ：侍従 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連書籍 ==&lt;br /&gt;
*[[杉本苑子]]『引越し大名の笑い』[[講談社文庫]]、1991年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
*[http://www.arc.ritsumei.ac.jp/artwiki/index.php/大和守日記 大和守日記]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{下総結城氏当主|第2代|1648年 - 1695年|直基系越前松平家}}&lt;br /&gt;
{{姫路藩主|越前松平氏|2代|1648年 - 1649年、1667年 - 1682年}}&lt;br /&gt;
{{村上藩主|越前松平氏||1649年 - 1667年}}&lt;br /&gt;
{{日田藩主|越前松平氏||1682年 - 1686年}}&lt;br /&gt;
{{山形藩主|越前松平氏||1686年 - 1692年}}&lt;br /&gt;
{{白河藩主|越前松平氏|初代|1692年 - 1695年}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:まつたいら なおのり}}&lt;br /&gt;
[[Category:越前松平氏|なおのり]]&lt;br /&gt;
[[Category:親藩]]&lt;br /&gt;
[[Category:姫路藩主]]&lt;br /&gt;
[[Category:村上藩主]]&lt;br /&gt;
[[Category:山形藩主]]&lt;br /&gt;
[[Category:白河藩主]]&lt;br /&gt;
[[Category:豊後国の藩主]]&lt;br /&gt;
[[Category:1642年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1695年没]]&lt;br /&gt;
{{Japanese-history-stub}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>125.14.2.191</name></author>
	</entry>
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