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	<title>Wikippe - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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	<updated>2026-10-22T02:26:31Z</updated>
	<subtitle>利用者の投稿記録</subtitle>
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		<id>https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=%E9%9A%86%E3%81%AE%E9%87%8C%E4%BF%8A%E8%8B%B1&amp;diff=83426</id>
		<title>隆の里俊英</title>
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		<updated>2014-08-23T14:33:05Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;124.45.14.114: /* 外部リンク */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{otheruses|元横綱|本名が同姓同名の元[[競輪選手]]|高谷俊英}}&lt;br /&gt;
{{Infobox 力士|&lt;br /&gt;
|名前=隆の里俊英&lt;br /&gt;
|画像=[[Image:Takanosato handprint.JPG|center|150px|国技館辺に展示されている隆の里の手形]]&lt;br /&gt;
|説明=&lt;br /&gt;
|四股名=隆の里 俊英&lt;br /&gt;
|本名=高谷 俊英&lt;br /&gt;
|愛称=おしん横綱、ポパイ、漢方薬博士、ヌケヌケ星人&lt;br /&gt;
|生年月日={{生年月日と年齢|1952|9|29|死去}}&lt;br /&gt;
|没年月日={{死亡年月日と没年齢|1952|9|29|2011|11|7}}&lt;br /&gt;
|出身=[[青森県]][[南津軽郡]][[浪岡町]]&amp;lt;br&amp;gt;（現在の[[青森市]]）&lt;br /&gt;
|身長=183cm&lt;br /&gt;
|体重=159kg&lt;br /&gt;
|BMI=47.4&lt;br /&gt;
|所属部屋=[[二子山部屋]]&lt;br /&gt;
|得意技=右四つ、寄り、吊り、[[上手投げ]]&lt;br /&gt;
|現在の番付=引退&lt;br /&gt;
|最高の番付=第59代[[横綱]]&lt;br /&gt;
|生涯戦歴=693勝493敗80休（106場所）&lt;br /&gt;
|幕内戦歴=464勝313敗80休（58場所）&lt;br /&gt;
|優勝=幕内最高優勝4回&amp;lt;br&amp;gt;十両優勝1回&lt;br /&gt;
|賞=[[殊勲賞]]2回&amp;lt;br&amp;gt;[[敢闘賞]]5回 &lt;br /&gt;
|初土俵=[[1968年]]7月場所&lt;br /&gt;
|入幕=[[1975年]]5月場所&lt;br /&gt;
|引退=[[1986年]]1月場所&lt;br /&gt;
|引退後=[[鳴戸部屋]]師匠&lt;br /&gt;
|他の活動=&lt;br /&gt;
|趣味=&lt;br /&gt;
|備考=[[金星 (相撲)|金星]]2個（[[輪島大士|輪島]]1個、[[北の湖敏満|北の湖]]1個）&lt;br /&gt;
|作成日時=[[2013年]][[8月25日]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;隆の里 俊英&#039;&#039;&#039;（たかのさと としひで、[[1952年]]（昭和27年）[[9月29日]] - [[2011年]]（平成23年）[[11月7日]]）は、[[青森県]][[南津軽郡]][[浪岡町]]（現在の[[青森市]]）出身で[[二子山部屋]]所属の元[[大相撲]][[力士]]、第59代[[横綱]]。本名は高谷俊英（たかや としひで）。現役時代は[[身長]]183cm、[[体重]]159kg。得意手は、右四つ&amp;lt;ref&amp;gt;『相撲』2013年11月号34頁の記述によって、元は左四つだったが怪我を理由に仕方なく右四つに変えたことが明らかにされている。&amp;lt;/ref&amp;gt;、寄り、吊り、[[上手投げ]]。引退後は[[年寄]]・[[鳴戸]]を襲名。[[鳴戸部屋]]師匠として[[稀勢の里寛|稀勢の里]]、[[若の里忍|若の里]]、[[尾崎勇気|隆乃若]]ら7人の関取を育成した。血液型はO型。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 現役時代 ==&lt;br /&gt;
=== 入門 ===&lt;br /&gt;
[[若乃花幹士 (初代)|二子山親方]]が、故郷の青森県に来て[[大鰐町|大鰐]]で下山勝則（後の若三杉、[[若乃花幹士 (2代)|2代若乃花]]）をスカウトした後タクシーに乗ると、運転手が「親方、[[浪岡町|浪岡]]にも大きいのがいますよ」と言うので紹介を頼んだ。これが高谷俊英、後の隆の里だった。当初は高校入学直後で足を怪我していたため固辞したが東京見物を口実に連れ出されその間に身辺に[[根回し]]をされてしまい観念した。偶然のことから二子山親方に勧誘された高谷は、[[青森県立浪岡高等学校|浪岡高校]]（柔道に励んでいた）を中退して二子山部屋に入門することを決める。後に横綱に昇進する下山少年と高谷少年が、二子山親方に連れられ、[[夜行列車]]に乗って一緒に上京したことになる。諸説あるが親方らは二人が途中駅で下車し引き返さないように一晩中消灯せずに見張っていたという。&amp;lt;ref&amp;gt;『相撲』2012年1月号96頁&amp;lt;/ref&amp;gt;[[1968年]]（昭和43年）7月場所で[[初土俵]]を踏む。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 糖尿病との闘い ===&lt;br /&gt;
未成年の[[力士養成員|取的]]時代から酒好きであり、しばしば[[稽古]]を抜け出して[[酒]]を一気飲みする、稽古の後に[[ビール]]を3本飲み、[[ちゃんこ]]と一緒に[[ウイスキー]]を飲むという半ば酒に溺れた食生活を行っていた。これら暴飲暴食が祟り、[[幕下]]だった[[1972年]]（昭和47年）に、[[糖尿病]]を患った。食事に厳しい制限が課せられ「いっぱい食っていっぱい稽古して」という力士が強くなるための条件を半分失ってしまった。幸いにも稽古するなとは言われておらず、むしろ稽古を増やすことで病状が快方に向かうので人一倍稽古をした。糖尿病を隠す力士も多い中、病気を周囲にきちんと公表し、後援者などとの酒の席でも「病気のためにあまり飲めません」と説明していたらしい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本人はインタビューで「相撲でつとまらなくて中途半端な状態で田舎に帰ったら、周囲から何を言われるか分からない。だから頑張った」と当時を説明している。また二子山親方夫妻も幕下力士としては異例の糖尿病治療用メニューを認めるなど治療に全面的に協力していた事も大きかった&amp;lt;ref&amp;gt;当時関取未経験だったにも拘らず師匠からここまでの協力が得られた理由は隆ノ里が人一倍稽古熱心だったためであるとされる。また二子山親方は現役時代から持病として糖尿病を抱える力士(例えばよくかわいがっていた弟弟子の[[若秩父高明|若秩父]]等)を何人も見ていたために病を理解できていたことが影響したとする資料もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。持病を公表し、さらに親方が治療に協力していることが周知されたために、後援者にも協力的な者が多かったとも伝わる。糖尿病に効くと言われれば[[薬]]や[[民間療法]]も試すなど治療のためなら正に何でもしたが、失敗も少なくはなかった。ある時野菜ジュースを作っていた際、同部屋の兄弟子である[[貴ノ花利彰|貴ノ花]]に「みんなで酒飲んでる時に君だけ野菜ジュースか」と言われた事があり、「漢方薬博士」というあだ名も贈られていた。もちろんこれは弟弟子に対する愛情表現である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
糖尿病を患ってからは成績が振るわず、同期生の若三杉（下山）に水をあけられたが、若三杉は「同部屋のライバルは誰ですか?」と聞かれれば、たとえ失笑されても常に「隆ノ里です（「の」の字は当時は片仮名）」と答えていたことも励みになった。若三杉が横綱・若乃花になって以降も、インタビューなどでは「隆の里は俺より強いですよ」とたびたび答えている。当時の隆の里は「稽古場[[大関]]（横綱）」と呼ばれ、関係者の間では実力者であることが認識されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
十両東3枚目だった[[1975年]]（昭和50年）1月場所には珍しい[[ヌケヌケ]]を記録している。初日に勝ってのヌケヌケであったため8勝7敗の[[勝ち越し]]だった（後述）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1975年5月場所新入幕。当時から怪力による吊り寄りの強さがあったが、突き押し相撲には弱く、相手を捕まえられないまま土俵を割ってしまう場面も多かった。糖尿病の影響で血糖値が不安定なのも影響していたようだ。また身体が柔軟性に欠け、柔道時代の癖もあって、どちらかというと取り口は不器用な方だった。この点、身体の柔らかさからくる懐の深さを武器にしていた若三杉とは対照的である。実力は十分ながら精神面で弱いと評されたこともあり、大舞台でなかなか実力を発揮できない部分もあったと言われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大関候補として期待がかかっていた[[1981年]]（昭和56年）7月には『糖尿病に勝った!』（立風書房。のち[[学研ホールディングス|学習研究社]]に合併）という本を出している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 幕内から横綱まで ===&lt;br /&gt;
入幕してすぐには[[幕内]]に定着できず、十両との往復を繰り返した。その間に、同部屋の若三杉や怪童と呼ばれた[[北の湖敏満|北の湖]]など、いわゆる[[花のニッパチ組]]（昭和28年・1953年生まれ）に先を越されてしまう（隆の里は昭和27年生まれ）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1979年]]（昭和54年）5月場所に4度目の入幕。翌7月場所で[[四股名]]を「隆ノ里」から「隆の里」に改名し、以後は幕内に定着する。[[1980年]]（昭和55年）頃から糖尿病が快方に向かい成績が向上。師匠・二子山親方がよき理解者となり治療に協力したのが大きかったという。隆の里は、1970年代の相撲界では異端視されていた[[筋力トレーニング]]などの科学的トレーニングを、早くから積極的に行っていた。一部で「頑迷」と語られる二子山も、隆の里が科学的トレーニングばかり行うのではなく相撲本来の稽古も熱心だったことから、独自のトレーニング方法を認めていたと言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[千代の富士貢|千代の富士]]や[[琴風豪規|琴風]]、[[朝潮太郎 (4代)|朝汐]]、同部屋の[[太寿山忠明|太寿山]]などと並んで大関候補と呼ばれるようになった。とはいえ精神面の弱さからか成績が安定せず、優勝争いにも顔を出す程の大勝ちもあるが大事な場所で2桁勝利に届かず大関昇進に幾度か失敗し、千代の富士や琴風に先を越される結果になった。その後、苦労のかいあって三役で三場所合計33勝を挙げ、[[1982年]]（昭和57年）1月場所後に当時最スローの82場所で大関に昇進した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年9月場所には15戦全勝で初優勝を果たした。最初の綱とりは10勝5敗で失敗するが、翌場所から成績が上昇し[[1983年]]（昭和58年）7月場所で14勝1敗で2度目の優勝を果たし、場所後に第59代横綱に昇進する。横綱昇進伝達式では「節制に努め努力精進致します」と、糖尿病を抱える身であり治療のために様々な工夫を重ねていることを公言する隆の里ならではの口上を述べた。なお[[横綱土俵入り]]の型は、当時後継者が少なかった[[横綱土俵入り#不知火型の土俵入り|不知火型]]を選んだ。糖尿病の苦しみに耐えながら時間をかけて横綱に上り詰めた姿から、新聞は当時の人気ドラマ『[[おしん]]』（[[日本放送協会|NHK]][[連続テレビ小説]]）になぞらえ「&#039;&#039;&#039;おしん横綱&#039;&#039;&#039;誕生」とその昇進を伝えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 千代の富士の天敵 ===&lt;br /&gt;
隆の里は身体が硬いせいか[[立合い]]がやや腰高なため、突き押し相撲や差したらいっぺんに出てくる速攻相撲（琴風など：後述）はやや苦手にしていた。しかし持ち前の怪力を生かし、右四つがっぷりに組み止めてしまえば、どんな強敵もほぼ確実に仕留めるだけの力を持っていた。右四つ両[[廻し]]を引き付けて吊り寄りで攻めるというのが得意な取り口だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
千代の富士（隆の里とは同時に十両に昇進している）は隆の里を大の苦手にしていた。千代の富士いわく「右の相四つだけどがっぷりになると力負けする、何をやっても全部読まれて裏目に出る」という程のものだったといい、場所中に支度部屋や廊下で隆の里とすれ違う際、顔も見たくない気分だったという。隆の里は「千代の富士に1回勝てば白星3個分の価値がある」として攻略のため、千代の富士の相撲を[[ビデオテープ]]に録画、何度も繰り返し再生し、千代の富士の弱点を徹底研究していたと言われる。その結果ビデオテープが擦り切れたり、[[ビデオデッキ]]が壊れ修理に出すと擦り減ったヘッドを見た店員に「どうやったらこんな壊れ方するの?」と言われたり、隆の里がビデオばかり見ているので遊びに来た友人が呆れ果てて帰ってしまう、というほどだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
千代の富士には対戦成績で16勝12敗（[[十両]]でも3度の対戦がありこれを含むなら18勝13敗）。さらに、千代の富士の横綱昇進後に限れば11勝6敗と圧倒した。千代の富士が平幕の頃から横綱だった[[北の湖敏満|北の湖]]を除けば、隆の里がただ1人歴然とした差で勝ち越しており、1981年7月場所から1982年9月場所まで8連勝した。この頃の両者の相撲は立ち合いは千代の富士が前ミツを取り攻勢に出るのだが、隆の里が持ち前の怪力と後にウルフスペシャルと言われた投げに対しては外掛けで我慢し、長い相撲に持ち込んで徐々に千代の富士の体を起こしてがっぷり右四つに持ち込んで寄る、吊る、投げるという言わば必勝パターンを確立していた。さらに、1983年7月場所から[[1984年]]（昭和59年）1月場所まで、4場所続けて千代の富士と優勝をかけて千秋楽[[相星]]決戦を行ない、3勝1敗という成績を残し、この間に隆の里は横綱昇進を果たしている。隆の里は[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]を1度も経験していないが、もし千代の富士対隆の里という決定戦があれば、千代の富士の決定戦無敗はなかったかもしれない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
対千代の富士戦では多くの熱戦があったが、1981年9月場所では、横綱に昇進したばかりの新横綱千代の富士と2日目に対戦が組まれた。たまたま隆の里は体調不良で、病院から直接国技館に場所入りして対戦。互いにがっぷり四つになり、しばらく土俵中央で胸が合っていたところ、突然隆の里が強烈な[[上手投げ]]で一瞬で千代の富士を横転させるという展開になった。千代の富士は場所前から痛めていた足首を負傷し、翌日から休場を余儀なくされる。病院から場所入りした隆の里が、千代の富士を病院送りにするという皮肉な結果となった。千代の富士は翌場所やっと復活したものの、隆の里は対千代の富士戦で更に6連勝を重ね、横綱を全く寄せ付けぬ強さを発揮した。横綱昇進前には「史上最強の大関」という呼び方をされることもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお1982年前後、隆の里、千代の富士、琴風の横綱・大関陣は三すくみの関係にあった。隆の里は千代の富士に強く、千代の富士は琴風に強く、琴風は隆の里に強いのである。千代の富士戦に8連勝したのと同時期の1981年9月場所から1982年7月場所にかけて琴風戦では6連敗を喫するなど、隆の里は長く琴風を苦手にしていた。しかし、横綱昇進の時期には琴風を圧倒するようになっていた（1983年1月場所までの琴風戦は4勝17敗、1983年3月場所以後の同対戦は9勝1敗）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 横綱時代 ===&lt;br /&gt;
1983年9月場所は、千秋楽結びの一番において14戦全勝の横綱同士の[[相星]]決戦で千代の富士を倒して、新横綱で15戦全勝優勝を果たした。新横綱の全勝優勝は[[1938年]]（昭和13年）1月場所の[[双葉山定次|双葉山]]以来実に45年ぶり、15日制定着後は史上初の快挙である。横綱同士の楽日全勝対決は[[1960年]]（昭和35年）3月場所の[[若乃花幹士 (初代) |初代若乃花]]-[[栃錦清隆|栃錦]]、[[1963年]]（昭和38年）9月場所の[[柏戸剛|柏戸]]-[[大鵬幸喜|大鵬]]、[[1964年]]（昭和39年）3月場所の大鵬-柏戸、そしてこの一番まで4度を数えるがこれを最後に25年以上も出ていない（大関が参加した楽日全勝対決は2012年7月場所の白鵬-日馬富士で実現）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1983年11月場所は千代の富士との13勝1敗同士の相星決戦となり、惜しくも敗れて3連覇（結果から言えば4連覇）は逃したが、同1983年において自身唯一の[[年間最多勝]]を受賞した。翌1984年1月場所でも4場所連続で千代の富士との相星決戦となり、13勝2敗で4度目の優勝を果たしたが、これが隆の里の最後の幕内優勝となった。昇進時の「おしん横綱」のほか、[[僧帽筋]]が大きく盛り上がった筋骨隆々の体型から「[[ポパイ]]」というあだ名もあった。腕力には絶対の自信を持ち、「江戸の[[雷電爲右エ門|雷電]]と戦ってみたかった」とも話している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1984年3月場所以降は体力の衰えや故障が重なり、成績が徐々に下降する。1984年9月場所11日目、入幕2場所目ながら最後まで優勝を争い「[[黒船]]来襲」と恐れられた、前頭6枚目の[[小錦八十吉 (6代)|小錦]]との初対戦では、強烈な小錦の[[押し出し (相撲)|押し出し]]に土俵外まで吹っ飛んでしまった。その後肘の手術を受けるなどで、1984年11月場所からは休場が長く続きがちとなった。[[1985年]]（昭和60年）7月場所で10勝をあげ一度は復活するが、これが千秋楽まで最後の皆勤出場場所となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌9月場所は初日から2連敗で途中休場。11月場所は4日目、関脇[[北尾光司|北尾]]（のち双羽黒）を攻めきることが出来ず逆転負け、1勝3敗となったこの時点で新聞各社は引退を疑わなかったが、現役続投でやはり休場。再起をかけた[[1986年]]（昭和61年）1月場所でも本来の力は回復せず、同場所初日に[[北勝海信芳|保志]]（のち北勝海）戦で敗れたのを最後に、同場所限りで現役引退を表明。横綱在位は15場所（約2年半）だった。このように引退時期が遅れたのは本人の引退する意思にもかかわらず、師匠・二子山の許しが出なかったからと言われる。その師匠も最後に了解したときは、涙を流していたらしい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
優勝4回は横綱としてはあまり多くはないが、うち2回が全勝であった。最盛期の1983年3月場所～1984年1月場所の6場所では優勝3回＋次点3回で80勝10敗、短期間ながらライバルを圧し最強と見られた点、決まったら必勝の得意な型（右四つがっぷり）をもっていた点、時間をかけて出世した点などは、横綱・[[三重ノ海剛司|三重ノ海]]と共通する。ただし、大関時代前半には[[角番]]を繰り返し大関陥落も経験、2桁勝利がなかなか挙げられず「大関失格」と言われた時期もあった三重ノ海に対し、大関時代の隆の里は1場所を除いて全て10勝以上と終始安定していた点が異なる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
期間の長短はともかく、ライバルが不在がちの千代の富士に対抗した唯一の横綱、という評価も多く、また[[九重 (相撲)|九重]]親方(元横綱・[[北の富士勝昭|北の富士]])も隆の里の引退時、「千代の富士が今日あるのは、ライバルとしてここまでした、という隆の里の功績も大きい」という賛辞を贈った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 親方時代 ==&lt;br /&gt;
=== 鳴戸部屋創設 ===&lt;br /&gt;
引退後は年寄・[[鳴戸]]を襲名して、二子山部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたっていたが、[[1989年]]（平成元年）2月1日付で[[力皇猛|力櫻]]ら6人の[[付き人#大相撲|内弟子]]を連れて二子山部屋から分家独立して[[鳴戸部屋]]を創設した。若くして糖尿病にかかった影響で出世が遅れ、衰えが早かったが、親方としての手腕は闘病経験が存分に活かされていた。大相撲解説では分析力は角界随一と呼ばれるほど相撲知識が豊富であり、弟子を指導する時も他の親方のように頭ごなしに叱り飛ばすような指導方法は取らず、全員に分かるまで諭すというやり方をとった。本場所中のここぞという勝負どころでは長時間にわたって作戦を細かく授ける周到さも見られた。&amp;lt;ref name=&amp;quot;ref1&amp;quot;&amp;gt;&amp;lt;/ref&amp;gt;弟子を勧誘する際も一部の親方のように好条件やはったりで釣らず誠実に勧誘するのが方針であったという。一方では弟子に対する管理が厳しかった一面もあり、「独身者の預金通帳を女将に預けさせ、通帳の使用は許可制」、「弟子が5年間に20人以上引退した時期もある」などという一面も報道されたことがある&amp;lt;ref name=&amp;quot;ref2&amp;quot;&amp;gt;[http://www.asagei.com/2391 鳴戸親方の指導はコワモテ暴力の嵐] アサ芸+ 2011年11月10日&amp;lt;/ref&amp;gt;。自身の現役時代の経験から弟子の指導に[[食育]]を積極的に取り入れており、[[食品]]や[[料理]]への造詣も深かった。[[日本放送協会|NHK]]の料理番組「[[きょうの料理]]」の講師（[[魚]]料理）を務めたほか、[[2003年]]（平成15年）12月には著書『親方はちゃんこ番』（[[ポプラ社]] ISBN 978-4591078167）を上梓している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
引退後は[[勝負審判|審判委員]]を長く続けていたが、当時の現役[[年寄]]で千代の富士以前の横綱経験者が全て理事もしくは役員待遇委員なのに対し、隆の里は北の湖や千代の富士より年上にもかかわらず、役員待遇ではなかった。[[一門 (相撲)#二所ノ関一門|二所ノ関一門]]に横綱・大関経験者が多過ぎることや、横綱時代の実績の差も原因と見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
学生相撲出身者を一切採用せず、いわゆる&amp;quot;中卒叩き上げ&amp;quot;力士を数多く入門させ、[[若の里忍|若の里]]、[[尾崎勇気|隆乃若]]、[[稀勢の里寛|稀勢の里]]の3力士を[[関脇]]へ昇進させる等、合計7人の関取を育てた手腕が評価されている。その一方で、近年では珍しく出稽古を禁じていることに関しては他の親方から疑問を呈されていた。[[2009年]]（平成21年）3月23日の理事長懇談会の席で、[[武蔵川]]理事長（横綱・三重ノ海）は「稀勢の里は出稽古に行かないと成長しない」という旨の発言をし、[[九重 (相撲)|九重]]広報部長（横綱・千代の富士）もこれに同調した。これに対し鳴戸は&lt;br /&gt;
* 巡業やVTRで相手の研究はできる&amp;lt;ref&amp;gt;「武蔵川理事長　稀勢の里に「出げいこしろ」」 [[スポーツ報知]] 2009年3月24日紙面&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 自分の考えは師匠の教えを継承している。&lt;br /&gt;
* 自分が現役のときも出稽古にはほとんど行かなかった。&lt;br /&gt;
* 関取は部屋の者を鍛える役目がある。&lt;br /&gt;
* 数日出稽古に参加することで効果があるかは疑問&amp;lt;ref&amp;gt;「理事長が稀勢に「出げいこしろ」/春場所」 [[日刊スポーツ]] 2009年3月24日紙面&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 他の力士との馴れ合いを生む。&amp;lt;ref name=&amp;quot;ref1&amp;quot;&amp;gt;『相撲』2014年2月号118頁&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
という主張で反論している。&lt;br /&gt;
双方の意見に対し、元横綱・[[大鵬幸喜|大鵬]]の納谷幸喜（当時既に協会を停年退職）は自身の連載&amp;lt;ref&amp;gt;「土評 横綱に勝つため把瑠都も出稽古だ」日刊スポーツ 2009年3月25日紙面&amp;lt;/ref&amp;gt;で、大鵬が関脇の頃[[若羽黒朋明|若羽黒]]のもとへ出稽古したことや初代若乃花に巡業で稽古してもらったこと、横綱になってからは[[清國勝雄|清國]]・[[玉の海正洋|玉の海]]・[[北の富士勝昭|北の富士]]が稽古にきたことを引き合いに出し、武蔵川理事長らを支持した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2009年3月場所後、若の里の負傷により稀勢の里は同部屋の関取との稽古が不可能になった。このため鳴戸は特例として同年4月24日に[[伊勢ヶ濱部屋]]への出稽古を認めた。稀勢の里によれば「23日に[[日馬富士公平|日馬富士]]が来てくれたから、今度はこちらから行け」と命じられたという。&amp;lt;ref&amp;gt;「稀勢の里特別に出げいこ「解禁」」日刊スポーツ 2009年4月29日紙面&amp;lt;/ref&amp;gt;この稽古以降は、2010年5月1日の[[一門 (相撲)#二所ノ関一門|二所ノ関一門]]の連合稽古まで出稽古は行われなかった。&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.sanspo.com/sports/news/100502/spf1005020503000-n1.htm 稀勢の里“肩すかし”35番/大相撲] サンケイスポーツ 2010年5月2日5時01分配信&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2010年]]（平成22年）1月場所後に行われる日本相撲協会理事選に立候補する意思を示していたが、一門の緊急会合で対立候補となる[[貴乃花光司|貴乃花親方]]を支持する多くの親方（その中には同期入門の間垣親方（元2代若乃花）が含まれていた）が事実上破門させられたことを受け、立候補を断念した。大相撲八百長問題を受けて自由競争方式で新弟子を獲得することに対して「派閥や癒着が生まれ、それが八百長を生む温床になりかねない」「環境の良さなどを口説き文句にスカウトするため入門後に厳しく指導できないケースがある」と指摘し、大学や高校で実績を挙げた入門希望者の所属部屋を獲得希望する部屋による抽選で決める「新弟子ドラフト」制度を提言したが、同年11月に急死したこともありこれは実現されなかった&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.nikkansports.com/sports/sumo/news/p-sp-tp3-20110228-742230.html 新弟子ドラフト　角界再生へ鳴戸親方提言] nikkansports.com 2011年2月28日8時1分　紙面から&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 59歳で急死 ===&lt;br /&gt;
[[2011年]]（平成23年）11月6日、朝は稽古場に姿を現していたが&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.yomiuri.co.jp/sports/sumo/news/20111107-OYT1T00740.htm?from=top 元横綱隆の里・鳴戸親方が急死] YOMIURI ONLINE 2011年11月7日閲覧&amp;lt;/ref&amp;gt;、夜になり体調不良を訴え、39度の高熱があったため、夫人と鳴戸部屋付きの西岩親方（元幕内・[[隆の鶴伸一|隆の鶴]]）、幕内・若の里に付き添われ、杖をつきながら自力で歩き、[[福岡市]]の福岡輝栄会病院に車で向かうとそのまま緊急入院。[[喘息]]などの治療をしていたが、午後9時ごろに容態が急変し集中治療室に移された&amp;lt;ref&amp;gt;[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]『[[情報ライブ ミヤネ屋]]』 2011年11月8日放送&amp;lt;/ref&amp;gt;。関脇・稀勢の里が病院に駆けつけた際には意識不明の状態であった。翌11月7日午前9時51分、入院先の病院で家族に看取られながら&amp;lt;ref name=&amp;quot;houchi&amp;quot;&amp;gt;[http://hochi.yomiuri.co.jp/sports/sumo/news/20111107-OHT1T00301.htm 「おしん横綱」鳴戸親方、急性呼吸不全のため急死]&amp;lt;/ref&amp;gt;急性[[呼吸不全]]のため死去した&amp;lt;ref name=&amp;quot;takanotsuru&amp;quot;&amp;gt;[http://www.sanspo.com/sports/news/111107/spf1111072236004-n1.htm 鳴戸親方、前日朝まで稽古で指導] サンケイスポーツ 2011年11月7日閲覧&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;zensoku&amp;quot;&amp;gt;[http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2011/11/07/kiji/K20111107001981140.html 疑惑の渦中で…鳴戸親方が急死　ぜんそくで入院中] スポーツニッポン 2011年11月7日閲覧&amp;lt;/ref&amp;gt;。九州場所後の稀勢の里の大関昇進を見ないままの無念の死だった。没後すぐの部屋関係者の証言によれば鳴戸は稀勢の里大関昇進の使者を迎えるために[[紋付羽織袴]]を新調したばかりで、まだ1度しか袖を通していなかったそうである。鳴戸の死によりそのままでは鳴戸部屋所属者全員が11月場所に出場不能となるため、西岩が急遽名跡を鳴戸に変更して部屋を継承することが11月8日の緊急理事会にて承認された。直後の11月場所で稀勢の里は10勝5敗と際どい成績だった（直前3場所の合計成績は32勝13敗、大関昇進の目安となる合計33勝に1勝足りなかった）が場所後大関昇進が決定、鳴戸の[[遺影]]の前で伝達式が行なわれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
晩年の鳴戸は現役時代より体重が30kg以上も増え、少々歩くと呼吸が荒くなることもあり、又本場所中に入院し、場所中の監察委員の業務を休んだこともあった。2000年ごろから心臓疾患があり、心臓発作時に服用する薬を常備するほどであった。[[睡眠時無呼吸症候群]]も併発したほか喘息に苦しんでおり、[[魁傑將晃|放駒理事長]]（当時）によると、最後は[[肺炎]]も起こしていたという&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2011/11/07/kiji/K20111107001982740.html?feature=related 鳴戸親方　心臓患い、ぜんそくも…健康不安に心労重なる？] スポーツニッポン 2011年11月7日閲覧&amp;lt;/ref&amp;gt;。鳴戸の主治医によると両脚に[[蜂窩織炎]]もあり、40度の高熱を出すこともあった&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.nikkansports.com/sports/sumo/news/p-sp-tp3-20111108-860568.html 鳴戸親方急死　心臓病に肺炎…ストレスも] スポーツニッポン 2011年11月8日閲覧&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
部屋の力士たちは朝稽古中に師匠の訃報を知らされた。16時25分、病院にて部屋の若い弟子が白い布で師匠の姿を隠し、目を涙でにじませた稀勢の里、若の里、高安が180kgほどある師匠の亡骸を2分ほどかけて搬送車に乗せた&amp;lt;ref name=&amp;quot;houchi&amp;quot;/&amp;gt;。当日夕方から福岡市の香椎典礼会館で急遽部屋主催のお別れの会が行われ&amp;lt;ref name=&amp;quot;zensoku&amp;quot;/&amp;gt;、鳴戸部屋所属力士や相撲協会関係者が列席した&amp;lt;ref&amp;gt;[[TBSテレビ]] 『[[Nスタ]]』 2011年11月7日放送&amp;lt;/ref&amp;gt;。その後遺体は19時間かけ、翌8日夕方に[[千葉県]][[松戸市]]の鳴戸部屋に無言の帰宅をした&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2011/11/08/kiji/K20111108001987510.html 故鳴戸親方が“無言の帰宅” 19時間かけ松戸市の部屋に] スポーツニッポン 2011年11月8日閲覧&amp;lt;/ref&amp;gt;。葬儀及び告別式は11日午前9時30分より松戸市の斎場にて行われ、夫人が喪主を務めた&amp;lt;ref&amp;gt;[http://sankei.jp.msn.com/sports/news/111108/mrt11110820260008-n1.htm 【鳴戸親方死去】故鳴戸親方の告別式は11日] MSN産経ニュース 2011年11月8日閲覧&amp;lt;/ref&amp;gt;。尚、戒名は隆昌院忍岳俊道居士。横綱経験者だが理事経験がないため、[[両国国技館]]での協会葬は行われず、12月14日、二所ノ関一門による一門葬が千葉県松戸市内の鳴戸部屋で行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月8日には『[[週刊新潮]]』2011年11月3日号及び11月10日号の報道による鳴戸部屋での弟子暴行疑惑と十両・[[隆の山俊太郎|隆の山]]への[[インスリン]]注射疑惑に関する緊急理事会を開催、鳴戸への処分が検討される予定であった&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.nikkansports.com/sports/sumo/news/f-sp-tp3-20111107-860341.html 緊急理事会へ　鳴戸親方の週刊誌報道] 日刊スポーツ 2011年11月7日閲覧&amp;lt;/ref&amp;gt;。当日の臨時理事会では、西岩の年寄・鳴戸襲名、鳴戸部屋の継承が承認された&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2011/11/08/kiji/K20111108001987410.html 西岩親方が鳴戸部屋継承　インスリン、暴行疑惑は調査打ち切り] スポーツニッポン 2011年11月8日閲覧&amp;lt;/ref&amp;gt;。隆の山へインスリンを投与問題では、隆の山が鳴戸の糖尿病治療のため処方されたインスリンを自ら注射したことを認めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
インスリンは[[世界アンチ・ドーピング機関]]の禁止薬物に指定されているが、日本相撲協会の規定では禁止されておらず&amp;lt;ref&amp;gt;[http://mainichi.jp/enta/sports/news/20111109k0000m050085000c.html インスリン注射：鳴戸部屋の隆の山が認める　協会聴取に] 毎日jp 2011年11月8日閲覧&amp;lt;/ref&amp;gt;、本人が体重増量目的で師匠の了解を得ていたと説明。稀勢の里による師匠の暴行幇助疑惑は、親方の方を向かせるために力士をつかんだためと報告された。二人は聞き取り調査の際に放駒理事長から注意を受けた。鳴戸の弟子暴行疑惑に関しては、鳴戸が2006年に弟子を角材などで殴打したと認めていたが、鳴戸本人の急死により調査は打ち切りとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
相撲協会は鳴戸部屋に再発防止を命じ、各部屋にも通達を出すとした。しかし、監督官庁である[[文部科学省]]の[[中川正春]]文科相は、閣議後に「調査に影響が出ると思うが、相撲界全体で暴力沙汰の話が出てこないように正常化することが大事だ」述べた。相撲協会は後日、文科省に調査報告書を提出するが、中川文科相は「相撲協会には調査と報告を求めていた。引き続き調査をしてもらう」と真相究明を求めている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2011/11/09/kiji/K20111109001989110.html?feature=related 鳴戸親方急死であっさり幕引き…暴行疑惑調査打ち切り] スポーツニッポン 2011年11月9日閲覧&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、九州場所の際の恒例である、歴代横綱が参集して会食する『横綱会』はこの一連の事態を受けて中止された&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2011/11/08/kiji/K20111108001987520.html 横綱白鵬も故鳴戸親方悼む「話聞きたかった」] スポーツニッポン 2011年11月8日閲覧&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ところが2012年9月10日、2011年10月下旬に問題となった鳴戸や他の力士からの暴行や行司からのセクハラを受けた問題に際し、鳴戸部屋に所属していた18歳と22歳の元力士が、行司と鳴戸遺族に対し2200万円の損害賠償要求を[[千葉地方裁判所|千葉地裁松戸支部]]に提訴した。第1回口頭弁論は10月29日&amp;lt;ref&amp;gt;[http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120929/trl12092901300000-n1.htm 鳴戸部屋でセクハラ・暴行「関取の夢断たれた」　元力士ら2200万円賠償求め提訴　2012年9月29日閲覧&amp;lt;/ref&amp;gt;。裁判は2013年12月に部屋の名称が田子ノ浦部屋へと改称されて以降も続いていたが、2014年5月16日に千葉地裁松戸支部は原告の請求を棄却している&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.jiji.com/jc/c?g=spo_date1&amp;amp;k=2014051600816 元力士の訴え認めず＝千葉地裁松戸支部] [[時事通信]] 2014年5月16日記事&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== エピソード ==&lt;br /&gt;
* 十両時代には勝った翌日には負け、その翌日には勝つ（ヌケヌケと呼ばれる）というパターン「○●○●○●○●○●○●○●○」で8勝7敗とした場所（1975年1月場所）があり、これは相撲歴を辿っても珍しい星取りである。隆の里は星の取り方を見ても全体的にバラツキが目立つ方であり、特に1970年代後半（昭和50年代前半）は、幕内でもそれに近く、1つ2つ星が違えばヌケヌケとなるような成績を幾度も出していたほどである。&lt;br /&gt;
* また、大関から横綱に昇進したときの成績を見ると、15戦全勝（大関、初優勝）の後、10勝5敗と綱取りを逃しているものの、翌場所は11勝4敗→12勝3敗→13勝2敗→14勝1敗（優勝）→15戦全勝（新横綱、優勝）と1勝ずつ増やしながら全勝に辿り着いていて、これもまた珍しいものである。しかしその後は13勝2敗→13勝2敗（優勝）→11勝4敗→11勝4敗→10勝5敗→10勝5敗とだんだん降下している。その後、[[1984年]]11月場所からは殆ど途中休場と全休の繰り返しとなり、最後の皆勤場所となった[[1985年]]7月場所も10勝5敗だった。それでも新横綱で15戦全勝という偉業を成したことは、大力士と呼ばれた過去の横綱にもないことで、このときの隆の里が最強とも言われた。なお、新横綱全勝優勝は前場所に続く優勝で連覇達成の他に前年からの9月場所連覇という2つの連覇も同時に達成している。特に9月場所連覇はどちらも全勝優勝である。&lt;br /&gt;
* 現役時代からマスコミ嫌いで知られ、地方場所では支度部屋を使わず、隣にあった警備室に閉じこもり、一切取材を受け付けなかったこともあった&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.sanspo.com/sports/news/111108/spf1111080503001-n1.htm 鳴戸親方を悼む、今村忠編集委員] サンケイスポーツ 2011年11月8日閲覧&amp;lt;/ref&amp;gt;。旧鳴戸部屋晩年期は後援会関係者や報道陣以外は稽古を見学することが難しく&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.nikkansports.com/sports/sumo/news/p-sp-tp3-20131231-1238142.html 稀勢の里も期待　大物小学生] nikkansports.com 2013年12月31日9時23分　紙面から&amp;lt;/ref&amp;gt;、隆の鶴が名跡変更と部屋移転により田子ノ浦部屋として新体制に転換（詳しくは本人の項へ）するまで少なからず報道規制の措置を取ることがあった。部屋の稽古方法を「非合理的である」と指摘した地方紙に激怒して猛抗議し、それが通信社の配信と知ると今度は猛然と通信社に抗議して、結果として相手方に「このような記事は掲載しない」と謝罪させてしまうような頑迷さも伝えられている。&lt;br /&gt;
* 闘病や料理・食育の他に部屋の旅行にも勉強家である面が反映されており、部屋の旅行には「その場限りの享楽だけ、後に何も残らないのはもったいない。」という理由であちこちの名所旧跡、博物館などを巡り歩くものを催したという。部屋の衆と出かけた西安旅行のエピソードについて、事前に行った勉強会や現地での苦労が語られた。&amp;lt;ref&amp;gt;『相撲』2012年3月号91頁&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 「商売敵である」として野球を頑なに嫌った師匠の初代若乃花の影響からか、高安や稀勢の里など中学野球を行っていた少年に対して「高校野球と違って大相撲はすぐに公式戦に出られるよ。」と口説くことがしばしばあったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主な成績 ==&lt;br /&gt;
=== 通算成績 ===&lt;br /&gt;
* 通算成績：693勝493敗80休 勝率.584&lt;br /&gt;
* 幕内成績：464勝313敗80休 勝率.597&lt;br /&gt;
* 大関成績：106勝29敗 勝率.785&lt;br /&gt;
* 横綱成績：95勝42敗75休 勝率.693&lt;br /&gt;
* 現役在位：106場所&lt;br /&gt;
* 幕内在位：58場所&lt;br /&gt;
* 横綱在位：15場所&lt;br /&gt;
* 大関在位：9場所&lt;br /&gt;
* 三役在位：10場所（関脇8場所、小結2場所）&lt;br /&gt;
* 連勝記録：21（1983年7月場所13日目 - 1983年11月場所3日目）&lt;br /&gt;
* [[年間最多勝]]：1983年（78勝12敗）&lt;br /&gt;
* 連続6場所勝利：80勝（1983年3月場所 - 1984年1月場所）&lt;br /&gt;
* 通算（幕内）連続勝ち越し記録：20場所（1981年7月場所 - 1984年9月場所）&lt;br /&gt;
* 幕内連続2桁勝利記録：13場所（歴代10位タイ、1982年9月場所 - 1984年9月場所）&lt;br /&gt;
* 幕内連続12勝以上勝利：6場所（1983年3月場所 - 1984年1月場所）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 各段優勝 ===&lt;br /&gt;
* 幕内最高優勝：4回（全勝2回）(1982年9月場所,1983年7月場所,1983年9月場所,1984年1月場所)&lt;br /&gt;
* 十両優勝：1回（1979年3月場所）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 三賞・金星 ===&lt;br /&gt;
* 三賞：7回&lt;br /&gt;
** 殊勲賞：2回 (1980年9月場所,1980年11月場所)&lt;br /&gt;
** 敢闘賞：5回 (1977年11月場所,1980年7月場所,1980年9月場所,1981年11月場所,1982年1月場所)&lt;br /&gt;
* 金星：2個（[[輪島大士|輪島]]1個、[[北の湖敏満|北の湖]]1個）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 場所別成績 ===&lt;br /&gt;
{{Sumo record box start|隆の里俊英&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
  {{Sumo record year start|1968}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|MAEZUMOU}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|jk|10|w|5|2}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|jo|43|e|1|6}}&lt;br /&gt;
  {{Sumo record year end}}&lt;br /&gt;
  {{Sumo record year start|1969}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|jo|66|e|4|3}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|jo|43|w|4|3}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|jo|23|w|3|4}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|jo|28|w|2|5}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|jo|45|w|6|1}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|sa|97|w|4|3}}&lt;br /&gt;
  {{Sumo record year end}}&lt;br /&gt;
  {{Sumo record year start|1970}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|sa|81|w|2|5}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|jo|6|w|4|3}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|sa|75|e|3|4}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|jo|2|w|6|1}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|sa|50|w|5|2}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|sa|22|w|4|3}}&lt;br /&gt;
  {{Sumo record year end}}&lt;br /&gt;
  {{Sumo record year start|1971}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|sa|11|w|3|4}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|sa|20|e|4|3}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|sa|5|e|6|1}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|ma|34|e|3|4}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|ma|41|e|4|3}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|ma|36|w|5|2}}&lt;br /&gt;
  {{Sumo record year end}}&lt;br /&gt;
  {{Sumo record year start|1972}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|ma|23|e|5|2}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|ma|11|e|2|5}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|ma|26|e|3|4}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|ma|30|e|3|4}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|ma|38|w|5|2}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|ma|24|e|4|3}}&lt;br /&gt;
  {{Sumo record year end}}&lt;br /&gt;
  {{Sumo record year start|1973}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|ma|19|e|6|1}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|ma|3|w|3|4}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|ma|6|w|4|3}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|ma|5|e|3|4}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|ma|7|w|3|4}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|ma|12|w|3|4}}&lt;br /&gt;
  {{Sumo record year end}}&lt;br /&gt;
  {{Sumo record year start|1974}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|ma|19|w|5|2}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|ma|11|e|4|3}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|ma|7|w|5|2}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|ma|3|e|4|3}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|ma|1|w|4|3}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|j|13|e|10|5}}&lt;br /&gt;
  {{Sumo record year end}}&lt;br /&gt;
  {{Sumo record year start|1975}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|j|3|e|8|7}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|j|2|e|10|5}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|m|13|w|7|8}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|m|14|w|6|9}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|j|2|e|3|12}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|j|12|e|8|7}}&lt;br /&gt;
  {{Sumo record year end}}&lt;br /&gt;
  {{Sumo record year start|1976}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|j|8|w|8|7}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|j|6|w|9|6}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|j|2|e|9|6}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|m|12|w|4|6|5&amp;lt;ref&amp;gt;右肩関節挫傷により10日目から途中休場&amp;lt;/ref&amp;gt;}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|j|5|e|9|6}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|m|12|w|10|5}}&lt;br /&gt;
  {{Sumo record year end}}&lt;br /&gt;
  {{Sumo record year start|1977}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|m|4|w|8|7}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|k||w|4|11}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|m|7|w|7|8}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|m|8|e|8|7}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|m|6|e|5|10}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|m|11|w|11|4|||f}}&lt;br /&gt;
  {{Sumo record year end}}&lt;br /&gt;
  {{Sumo record year start|1978}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|m|4|e|4|11}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|m|10|e|9|6}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|m|4|w|8|7}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|m|1|e|4|11}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|m|8|e|9|6}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|m|3|w|2|13}}&lt;br /&gt;
  {{Sumo record year end}}&lt;br /&gt;
  {{Sumo record year start|1979}}&lt;br /&gt;
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    {{Basho|y||w|0|3|12&amp;lt;ref&amp;gt;右膝関節内障に伴う水腫により3日目から途中休場&amp;lt;/ref&amp;gt;}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|y||w|1|4|10&amp;lt;ref&amp;gt;右変形性膝関節症に伴う水腫により5日目から途中休場&amp;lt;/ref&amp;gt;}}&lt;br /&gt;
  {{Sumo record year end}}&lt;br /&gt;
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    {{Basho|INTAI|rank=y|tozai=w|win=0|loss=2}}&lt;br /&gt;
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    {{Basho|}}&lt;br /&gt;
    {{Basho|}}&lt;br /&gt;
  {{Sumo record year end}}&lt;br /&gt;
{{Sumo record box end}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 改名歴 ==&lt;br /&gt;
* 高谷 俊英（たかや としひで）1968年7月場所 - 1971年1月場所&lt;br /&gt;
* 隆ノ里 俊英（たかのさと -）1971年3月場所 - 1979年5月場所&amp;lt;ref&amp;gt;兄弟子・貴ノ花の四股名候補であった「隆ノ花」をベースにして命名。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 隆の里 俊英（たかのさと -）1979年7月場所 - 1986年1月場所&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[横綱一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{年間最優秀力士賞}}&lt;br /&gt;
{{歴代横綱|第59代|1983年7月-1986年1月}}&lt;br /&gt;
{{歴代大関|第215代|1982年3月-1983年5月}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たかのさと としひて}}&lt;br /&gt;
[[Category:青森県出身の大相撲力士]]&lt;br /&gt;
[[Category:1952年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:2011年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:料理研究家]]&lt;br /&gt;
[[Category:2011年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:二子山部屋]]&lt;br /&gt;
[[Category:鳴戸部屋]]&lt;br /&gt;
[[Category:横綱]]&lt;/div&gt;</summary>
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